レスラー

シャンテシネ1 ★★★★

■ランディ・ロビンソンというミッキー・ローク

ミッキー・ローク渾身の一作。

プロレスなんて好きじゃないし(半世紀前のならよく見ていたが)、全盛期を過ぎたレスラーの話って、誰しもロッキーもどきを予想してしまうと思うのだが、見事に裏切られた。

極端に言ってしまうと、俳優というのは、映画の中では与えられた役割の一つくらいにしか思っていない私だが、この映画のミッキー・ロークは、そのままランディ・ロビンソンその人で、それは観終わった今も変わっていない。『フランチェスコ』(1989)のロークも熱演ではあったが、ロークはフランチェスコではなかった。けれど、ランディ・ロビンソンをロークと言われたら、うん、そうだね、と答えてしまいそうなのだ。

八十年代にはスタープロレス選手だったランディ「ザ・ラム」ロビンソンだが、今ではトレーラー暮らしの身で、その家賃の支払いもままならない。週末にある小規模インディー団体の興行ではとても足りず、スーパーでバイトまでしている有様だ。それでもステロイドを欠かさず、日焼けサロンにまでいく姿は哀れでしかないのだが、興行でのランディは仲間から一目置かれる存在で、このあたりの書き込みが素晴らしく、ランディが最も生き生きする場としてのリングをうまくイメージさせている。

このレスリング場面が、試合風景はもちろんだが、控え室を含めてひどく生々しい。ショーとはいえ試合だから、お互いの肉体を痛めつけ合うのは当然で、いくら口裏を合わせているにしても私のように暴力慣れしていない人間(映画は別物だけど、これはそう見えないのだ)には目を塞ぎたくなる場面が続く。

ただ一方で、老眼鏡に補聴器となると(これは職業病なのかもしれないが)、さすがにどうにかしなくちゃ駄目だろ、と言いたくなってくる。そして、ある日、試合後にロッカーで急に気分が悪くなってもどした彼は、そのまま意識を失い、医師からは試合は死を意味すると宣告されてしまう。

レスラーのように鍛え抜かれた肉体がなくては成り立たない職業にとっての老いは、一層悲しいものがある。そんな時、よりどころになるのは、過去の名声でもプロレス仲間でもなく、やはり家族なのだろうか。ランディが娘と連絡を取り、やっとのことで二人で出かけるようになるまでの場面はいじらしくなってしまうが(これには馴染みのストリッパー
キャシディの手助けもある)、それだけ今までのランディは、娘にとっては受け入れがたい存在だったのだ。

ランディが娘に電話をする時に手にしていたのは、娘が七歳くらいの時の小さな写真で、その裏にある電話番号は五つほど書き換えられていた。古い写真しか手元にないのは、ランディがどう娘と接してきたを示しているし、いくつもの電話番号は、住まいが一定することなく生きてきた娘の状況を物語っている。

せっかくたぐり寄せた娘の気持ちを、ランディはちょっとした誘惑に負けてフイにしてしまう。約束をしたレストランで待ちぼうけをさせてしまうことなど、むろん悪いことには違いないが、こんなことだけで娘に一切のことを拒絶させてしまうのは、今までのことがあるからに他ならない。

そのこともあって、真面目に勤めていたスーパーで、怒りが爆発してしまうのだが、この場面がすごい。行く先のことも考えていたのだろう、仕事の欲しいランディは時間延長を申し出て、接客係をやらされるようになっていた。自分の指をスライサーに突っ込んで血まみれにしてしまう描写のすごさもあるが、それまで客の言いなりになっているところをドキュメンタリー風(この映画は他の場面もそうだ)に追っていたことが、この場面を効果的に見せているのだ。

一度決めた引退を撤回し、ボロボロの身体で記念試合に臨むランディは、痛々しいとしか言いようがないのだが、もうここまでくると、こちらも死が目の前にあるのに引き留める術も知らず、そうそれでいいんだよ、ランディ、と言ってしまっていたのだった。ストリッパーのキャシディが観客の代わりになって試合会場に駆けつけてくれたのだから、それでもう十分じゃないかと、私はランディではないのに、自分に言い聞かせていたのである。

ところで(これは断じて付け足しではない)、マリサ・トメイの熱演ぶりにも頭が下がった。考えてみれば、ストリッパーも身体が資本だから、キャシディも年齢のことを考えずにはいられなかっただろう。そしてなにより、自分の子供が母親についていろいろ知ってしまう年頃になっていて、そう長くはこの仕事を続けているわけにはいかない状況なのだ。キャシディについて、多く語られることはなかったが、キャシディがランディを放っておけなくなるのは、二人が似た者同士だからなのである。

原題:The Wrestler

2008年 109分 アメリカ シネスコサイズ 配給:日活 R-15 日本語字幕:太田直子

監督:ダーレン・アロノフスキー 製作:スコット・フランクリン、ダーレン・アロノフスキー 製作総指揮:ヴァンサン・マルヴァル、アニエス・メントレ、ジェニファー・ロス 脚本:ロバート・シーゲル 撮影:マリス・アルベルチ プロダクションデザイン:ティム・グライムス 衣装デザイン:エイミー・ウェストコット 編集:アンドリュー・ワイスブラム 音楽:クリント・マンセル 音楽監修:ジム・ブラック、ゲイブ・ヒルファー 主題歌:ブルース・スプリングスティーン

出演:ミッキー・ローク(ランディ・ロビンソン)、マリサ・トメイ(キャシディ)、エヴァン・レイチェル・ウッド(ステファニー)、マーク・マーゴリス、トッド・バリー、ワス・スティーヴンス、ジュダ・フリードランダー、アーネスト・ミラー、ディラン・サマーズ

ラスト・ブラッド

TOHOシネマズ錦糸町スクリーン6 ★★★

■オニを吸血鬼とする日本観

またしても新趣向の吸血鬼映画がやって来た!? って、オニ(=鬼?)が吸血鬼なのか。で、日本が舞台なのに主演はチョン・ジヒョン(って、誰の、どういう発想なのさ。エンドロールでは名前が、欧文表記でGiannaになっていた)。おー、久しぶり『デイジー』以来か。セリフは三カ国語を流暢?に喋っていたが、吹き替えでないのなら立派。

でもいくらなんでも十六歳は無理だろうと思ったが(セーラー服まで着せられちゃってさ)、映画の質感を変えていることもあって(実際のことは知らないが)そう違和感はなかった。ま、どーせ設定では何百歳なんだから、誤差の内みたいなものなんだろうが。

出てくる風景も、看板は日本語でも見たこともない家並みで(けど『魍魎の匣』のようにはモロ中国ではなく、どこか違う国というイメージなので救われている)、浅草なのに古い丸ノ内線の車両だったりするのだ(七十年代だから形としては合ってるが、銀座線じゃないのね)。まるで嘘臭いのだが、イヤな絵になっていないので、全部許しちゃってた。

舞台も話もいい加減で、簡単なこともほとんど説明する気がないようだ。父をオニゲンに殺されたサヤは、CIAをかたるオニゲン退治の組織(このくらいもう少しは説明しろってんだ!)に、日本にある米軍基地内のアメリカンスクールに送りこまれ、教師に化けたオニゲンの手下から基地の司令官の娘アリスを救い出す。

日本人だからセーラー服って、アメリカンスクールなのにぃ、というのは野暮な話で、そうしたいからそうしちゃったんでしょう。イメージやアクションシーン優先で、後は何でもござれ状態なのだ。

そのアクションだが、今更のワイヤー使いまくりで、これもきっとうるさ方には嫌われそうなのだが、私はこの映画には合っていたように思う。

サヤの武術の先生で、育ての親でもあるカトウと、オニゲンの手下たち(オニというより忍者だし、これだとアメリカンスクールにいたオニとは別物になってしまう気がするのだが)との死闘もよくできていた。でもカトウはサヤを突き放したりはせず、最初から一緒に戦ってもよかったと思うのだが。結局サヤは戻ってきてしまうし、自分は無駄死にではね。なんかこういう話の繋ぎがすこぶる悪いのだな。

サヤとオニゲンの対決も迫力という意味ではおとなし目ながら(ちょいあっけない)、ビジュアル的にはいい感じだ。

オニゲンはサヤが現れるのを心待ちにしていたようでもあり、それはサヤが自分の娘だからなのだが、そこらへんは曖昧なままで、よくわからないうちに話が終わってしまった。オニゲンが殺してしまったというサヤの父との関係だって、解き明かしていったら面白かろうと思うのだが、そういうことには興味がないらしい。

サヤは組織が欲しいもの(血)をくれるので、彼らの命令に従うと言っていたが、この説明もわかったようでわからない。第一これだと、彼女が子供の頃はどうしていたのか、って話になってしまう。

とにかく全部がいい加減なのだが、こういうムチャクチャ映画は結構好きなのだな。雰囲気的にもこの間観た『トワイライト』よりは私向きだった。甘いの承知で★★★。

 

原題:Blood:The Last Vampire

2008年 91分 香港、フランス シネスコサイズ 配給:アスミック・エース R-15 日本語字幕:松浦美奈

監督:クリス・ナオン アクション監督:コリー・ユン 製作:ビル・コン、アベル・ナミアス 原作:Production I.G 脚本:クリス・チョウ 撮影:プーン・ハンサン 美術:ネイサン・アマンドソン 衣装デザイン:コンスタンサ・バルドゥッシ、シャンディ・ルイフンシャン 編集:マルコ・キャヴェ 音楽:クリント・マンセル

出演:チョン・ジヒョン(サヤ)、アリソン・ミラー(アリス)、小雪(オニゲン)、リーアム・カニンガム(マイケル)、JJ・フェイルド(ルーク)、倉田保昭(カトウ)、コリン・サーモン(ミスター・パウエル)、マイケル・バーン、マシエラ・ルーシャ、ラリー・ラム

60歳のラブレター

楽天地シネマズ錦糸町シネマ3 ★★

■映画的飾り付けが逆効果

三十代後半ですら探すのが難しい、ほぼ全員五十歳以上という(何のことはない、自分もこの現象の一部を担ってるのな)、その割には客の入った客席で画面を見つめながら、あー、やだな、こういう映画に泣かされて(くだらない映画にも泣かされてしまう口なのでそれはいいんだが)、しかも高評価を与えなきゃならなくなったら(ってそれはいいことなのに)、恥ずかしいものなーと、しょうもないことを考えていたら、やってくれました。映画の方で勝手にこけちゃってくれました。

熟年の恋三つがそれぞれ多少交差する形で描かれるのだが、粗筋を書くほどのものではないので、いきなり問題場面について書くことにする。

自分のことは棚に上げてちひろ(旧妻)の恋を邪魔するのに、あの大きな布に書いたラベンダーの絵はないだろう。運良く花はみんな刈り取られていて、って、そういう問題じゃなくて、わざわざ北海道まで行って、しかも夜っぴいて描き上げた絵を丘に飾ったってねぇ(橘孝平本人も言っていたが、「(絵が)見えたかな」なんだもの)。

孝平は若い時には画家志望だったらしいので、絵を買くのはいいにしても、でもそんなことより一番は、ちひろが北海道に麻生圭一郎と出かける前にそれを阻止することではないか。で、最悪なことに、二人(というのは幸平となのだけど)でやり直してみるか、となった時に、刈り取られたはずのラベンダーが咲き乱れている中に二人がいる場面になるのだ。なるほど、これがやりたかったのね。けど外してるよなぁ。

それにしても、ちひろは何で元旦那を選んだのだろう。どう考えても、ちひろを無視し続けてきた孝平よりは、若くておしゃれな麻生(それに売れっ子作家だし、って関係ないか)にするのが自然ではないか。いや、すべきではないかとさえ思うのだ。「すべてを捨ててきた」という幸平に、「もう遅い」とちひろもいったんは言っていたのにね。映画的に見栄えのする場面を演出することより、こういうちひろの心境こそきちっと描いてもらいたいのだが。

二つ目は、娘からの英語の手紙を医師の佐伯静夫が読み上げて、翻訳家の長谷部麗子が訳していく場面。この演出もひどくて、恥ずかしくなった。「娘がどうしても訳してほしいからって」と手紙を渡すくらいが関の山で、読んでも黙読のはず。こんな場面がどうやったら成立するっていうのだろう、ってやっちゃってたけど。映画的だからという理由でやられてもなぁ。

結局、病室で、妻の光江に買ってもらったマーチンをかき鳴らし、ミッシェルを歌い続ける魚屋の松山正彦が一番カッコよかった、かな(でもこれもわずかだけど長めだ)。

あと、ちひろが大昔に新婚旅行先で書いた手紙を30年後に届ける話も、もう少しうまい説明が考えられなかったものか。ストーカーのような青年はずっと不気味だったもの。で、何だよそんなことか、じゃあね(一応この手紙が幸平の気持ちを切り替える一つのきっかけにはなっているのだが)。

2009年 129分 ビスタサイズ 配給:松竹

監督:深川栄洋 エグゼクティブプロデューサー:葉梨忠男、秋元一孝 プロデューサー:鈴木一巳、三木和史 共同プロデューサー:松本整、上田有史 脚本:古沢良太 原案:『60歳のラブレター』(NHK出版) 撮影:芦澤明子 美術:黒瀧きみえ 編集:坂東直哉 照明:長田達也 録音:南徳昭 監督補:武正晴 助監督:菅原丈雄 音楽:平井真美子 主題歌:森山良子『candy』 協力:住友信託銀行 制作プロダクション:ビデオプランニング 製作:テレビ東京、松竹、博報堂DYメディアパートナーズ、大広、ビデオプランニング、テレビ大阪

出演:中村雅俊(橘孝平)、原田美枝子(橘〈小山〉ちひろ)、井上順(佐伯静夫)、戸田恵子(長谷部麗子)、イッセー尾形(松山正彦)、綾戸智恵(松山光江)、星野真里(橘マキ/孝平の娘)、内田朝陽(八木沼等)、石田卓也(北島進)、金澤美穂(佐伯理花/静夫の娘)、佐藤慶(京亜建設・会長)、原沙知絵(根本夏美/孝平の愛人)、石黒賢(麻生圭一郎/作家)

レッドクリフ Part II 未来への最終決戦

上野東急 ★★☆

■決戦の運命は女二人に託される

CGがどこでもドアになって以来、スペクタクル物には不感症気味になっているので、そのことについてはあえて書かない(つまらないと言っているのではないよ。そりゃ大したものなのだ。それにCGを否定するつもりはないし、どころか使い方によっては歓迎さえしているのだが)。

前篇で赤壁の戦いを前にして、次のおたのしみはこの後篇で、とはちゃっかりしたものだが、とはいえ、大方の人が知っている話を二部作にしたわけだから工夫は必要で、Part IIでは大決戦を女二人に託すこととなった。これには孔明の風読みの知恵もかすれ気味だ(まあね。だって気象学の知識はすごくても、偶然待ちには違いないんで)。

まず、孫権の妹尚香は、大胆にも敵地に乗り込んでいってスパイ活動をする。これが、男装もだけど体型まで誤魔化してだから(体に敵の戦力配置をしたためた紙を巻いて太っちょになっている)もうマンガでしかない。けれど尚香と蹴鞠(といってもサッカーに近いものになっていた)がうまくて千人部隊の隊長に抜擢された孫叔材との恋は微笑ましかった。もっとも孫叔材の方は尚香をデブ助と呼んでいるくらいで、女とは思っていないから彼にとっては友情なのだが。

もう一人は、周瑜の妻の小喬。そもそも曹操は彼女を狙ってこの戦いを挑んできたという噂があるくらいだった。この時代にそんな噂が遠くまで飛び交うとは思えないが、けれど、噂というのはあなどれないからねぇ。で、小喬はこれまた単身で(お腹の子は勘定に入れなければね)、こちらは正面から曹操の元へと出向いて行く。

曹操の機嫌を取りにね。そして、それは夫を想うが故ながら、しかし考えようによっては思い上がりもはなはだしい。じゃないか、ちゃんと「夫の為でなく民の為に来た」と曹操に向かって正義を説いてはいたが、でもそれだって、私には思い上がりにみえてしまったのだった。小喬が曹操を評して「お茶を解さない方」と言ったのが、引っかかっているからなんだけど。映画だと口に出さないといけないからにしても、こういうのは言ってしまうとなぁ。

結局、小喬がお茶の相手をしたことが、風向きが変わるまでの時間稼ぎとなる。これが呉蜀連合軍が、数で圧倒する魏軍を火攻めで打ち負かす要因になるのだが、小喬はそこまで知っていたのだろうか。ま、それはともかく、結果、小喬大活躍の巻なのだった。尚香のスパイ活動共々、どこまで三国志に書かれているのかはよく知らないのだが、もう少し控え目でよかったのではないか。

女二人に活躍の場を与えてしまったので、その皺寄せは呉蜀連合の男共にきてしまう。ヒーローたりうる頭数はいるのに、話が分散気味なのだ。周瑜が一応中心なのはわかるが、小喬のことで足を引っぱられているような気がしなくもない。もしや、小喬はすすんで曹操の元に行ったとか、って、そういう話にはなりっこないのだが、個人的に小喬があまり好ましく思えなかったものだから、ついそのことを気にしてしまっていたようだ。

曹操はやることが冷酷だし、なにしろ兵隊は沢山いるし(注)、判官贔屓で悪役になるしかないのだが、部下の志気を高める心遣いなど天性のものがあったのか、呉に勝ったら税は三年免除、などと太っ腹なことを言っていた。が、曹操自ら疫病が蔓延しているところに行って、病気の兵士に粥を食べさせたり家族の話を聞かせたりはやりすぎで、話が途端に嘘臭くなる。

判官贔屓で悪役と書いたが、最後になってくると一人で悪役を引き受けているようで、曹操が逆に気の毒に見えてくる。「たった一杯の茶で大義を失った。皇帝の命で来たのだぞ」と自嘲気味に言う場面では少なからず同情してしまう。彼なりの大義で天下を統一しようとしていただけなのに、と。

それにしても『未来への最終決戦』とは、ひどい副題を付けたもんだ。史実はともかく、映画だと「去れ! お前の地に戻るがよい」と曹操を解放してしまうんで(そりゃないよね)、未来への最終決戦だったのに、また争いの種を蒔いてるようなものなんだもの。

注:映画だと八十万対五万、二千隻対二百隻。どこまで本当かは知らないが、この数字が確かなら関ヶ原の戦いの五倍ほどの規模になる。以前なら眉唾に却下してしまったはずだが、故宮や万里の長城を実際に目にしてきた今は、あながちデッチ上げとは思えずにいる。

原題:RED CLIFF: PART II 赤壁

2009年 144分 アメリカ、中国、日本、台湾、韓国 シネスコサイズ 配給:東宝東和、エイベックス・エンタテインメント 翻訳:鈴木真理子 日本語字幕:戸田奈津子 日本語版監修:渡邉義浩

監督:ジョン・ウー[呉宇森] アクション監督:コリー・ユン 製作:テレンス・チャン[張家振]、ジョン・ウー 製作総指揮:ハン・サンピン[韓三平]、松浦勝人、ウー・ケボ[伍克波]、千葉龍平、デニス・ウー、ユ・ジョンフン、ジョン・ウー 脚本:ジョン・ウー、チャン・カン[陳汗]、コー・ジェン[郭筝]、シン・ハーユ[盛和煜] 撮影:リュイ・ユエ[呂楽]、チャン・リー[張黎] アクション監督:コリー・ユン[元奎]  編集:デビット・ウー、アンジー・ラム[林安児]、ヤン・ホンユー[楊紅雨] VFX監督:クレイグ・ヘイズ VFX:オーファネージ 美術・衣装デザイン:ティム・イップ[葉錦添] 音楽:岩代太郎 主題歌:アラン

出演:トニー・レオン[梁朝偉](周瑜)、金城武(孔明/諸葛亮)、チャン・フォンイー[張豊毅](曹操)、チャン・チェン[張震](孫権)、ヴィッキー・チャオ[趙薇](尚香/孫権の妹)、フー・ジュン[胡軍](趙雲)、中村獅童(甘興)、リン・チーリン[林志玲](小喬/周瑜の妻)、ユウ・ヨン[尤勇](劉備)、ホウ・ヨン[侯勇](魯粛)、トン・ダーウェイ[菴汨蛻ラ](孫叔材/曹操軍の兵士)、ソン・ジア[宋佳](驪姫/曹操の側室)、バーサンジャプ[巴森扎布](関羽)、ザン・ジンシェン[臧金生](張飛)、チャン・サン[張山](黄蓋)

リリィ、はちみつ色の秘密

シャンテシネ2 ★★★

■少女は安らぎの地を見つける

いくら四歳の時とはいえ、そしてそれが暴発(らしいのだが)であったにしても、大好きなママを銃で撃ち殺してしまったのだとしたら……。そんな拭いきれない悪夢を抱えてずっと生きていかなければならないとしたら……。考えただけでも気が遠くなりそうになる。しかも当のリリィはまだ十四歳なのだ。だから、ということはもう十年間もそうやって生きてきたことになるわけで、そんな少女時代を、私は想像することすらできない。

誕生日にも関心を示してくれないパパT・レイに、リリィはママデボラの話をせがむが、デボラはお前を捨てたとにべもない。その日、投票権の登録に町へ出かけた使用人のロザリンが、今からは考えられないような(とはいえまだ五十年も経っていないんだよね)(注1)黒人蔑視のリンチにあったこともあって、リリィはロザリンを病院から連れ出し、置き手紙を残して一緒に家を出る。

さらに待ち受ける困難、と早とちり予想をしていたら、それは杞憂で、母親の形見の木札にある絵に似たハチミツのラベルに導かれるように、そのハチミツを作っているオーガスト、ジューン、メイの黒人三姉妹の家にたどり着く。オーガストが受け入れてくれたことで(ジューンはそう快くは思っていなかった)、ロザリンとも別れることなく、ミツバチの世話をしながらの落ち着いた日々がはじまる。

リリィとロザリンが家を出てからの流れが安直すぎるきらいはあるし、三姉妹の意外な裕福さが(よほどハチミツ商売があたったのだろう)、当時の黒人の置かれた状況からは恵まれすぎているようで、切り口が甘くならないかと心配になったが、これまた杞憂だった。姉妹を裕福にすることで、甘くなるどころか、安易な同情の対象としての黒人に貶めることなく、より普遍的な人間のつながりを描きえているからだ。

三姉妹の生活は、黒人の聖母像を崇めるちょっと風変わりな信仰によっても満たされている。信仰のあるなしはともかく、今の我々にとっても羨ましいくらいの生活といえそうだ。

むろん、裕福であることと社会にある偏見は別問題である。公民権法案にジョンソン大統領が賛成した(リリィとロザリンがこのニュースをテレビで見ている場面が最初の方にある)とはいえ、なにしろ偏見色の強い南部のことである。養蜂場で友達になったザックと行った映画館で、一緒に座ってポップコーンを食べながら映画を観ているところを見つかり、ザックが拉致されてしまうという騒動となる(注2)。

翌朝になって、知人の弁護士と共にザックは戻ってくるのだが、このことが引き金になって(注3)、前日の夜、病的に繊細だったメイは「この世の重みに疲れた」と命を絶ってしまう。

また、独立心がありプライドの高いジューンは、恋人ニールのプロポーズを素直に受けられずにいる。彼女たちにもそれなりに悩みや問題があるのである。そんなことは当然で、でも少なくとも肌の色の違いなどというものさしで人を差別したりはしない。だから彼女たちは、リリィを家に受け入れたのだ。

もうひとつにはオーガストが、幼いデボラを家政婦として七年間も世話をしていたということがあった(注4)。オーガストがリリィをデボラの娘と認識したのがどの時点なのかは明かにされないが、リリィはデボラに瓜二つという設定になっている。初見でオーガストは何かを感じとっていたのかもしれない。

そしてこれは最後に近い場面になるが、T・レイがリリィを探し当てた時、リリィが付けていたブローチで、リリィのことをデボラと見間違え錯乱してしまうところがある(注5)。ただでさえ粗暴なT・レイのこの錯乱は悲しい。が、このことでT・レイは、あの日デボラはリリィを迎えに来たのだと、真実を語る。嘘をついたのは俺を見捨てたからだとも白状し、力ずくでも連れ帰るつもりでいたリリィを残して一人帰って行く。

母親を殺してしまった罪悪感とは別に、リリィの中には、母親に捨てられたという思いが棘のようにあったのだが、母はちゃんと自分を愛してくれていたのだ。

が、このことはすでにオーガストから聞いていたことではなかったか。その話を聞いたあと、部屋に戻ったリリィは「ママなんて嫌い」「何故愛してくれなかったの!」とハチミツの瓶をドアに投げつけていたが、私にはこの行為はよくわからなかったし、瓶が壊れてハチミツがドアを流れ落ちていく場面は不快ですらあった。父ならよくてオーガストからでは何故駄目だったのだろう。そもそも「お前を捨てた」発言は、父からのものではなかったか。

それとも私がうまくリリィの気持ちを汲み取れないだけなのか。私は愛するということがよくわかっていないし、だから実はこういう映画は苦手なのだ。が、この作品にある誠実さは心に止めておきたいと思ったのである。

リリィとザックの恋一歩手前のような関係も微笑ましい。リリィは作家でザックは弁護士になりたいのだと将来を語り合っていた。でも後の方では、キスのあと、十年か十五年後に君の本のサイン会で会おう、って。何だか老成しすぎじゃない? ま、弁護士志望だったら、このくらいのことは言うのかもね。

注1:映画の全米公開は2008年10月。11月にはバラク・オバマが大統領に選出されている。この映画がオバマ選出を祝う映画みたいになったとしたら、それも感慨深いものがある。
注2:別々に料金を支払い、ザックは「有色人種専用入口」から入っている。ザックと一緒にいたリリィは「黒人の愛人野郎」と罵られる。
注3:メイにはこの事実が自分には知らされていなかったことも、つまり特別扱いされていることもショックだったようだ。
注4:リリィがオーガストに「ママを愛していたか」と訊く場面がある。遺品を手渡される場面だ。オーガストの答えは「複雑だけど愛してた」というもの。「私は子守でママと住む世界が違っていた」し「偏見の時代だった」とも。考えてみると、デボラとオーガストの関係は、リリィとロザリンの関係でもある。オーガストは「偏見の時代だった」と過去形で言うが、でもこの時点では少しも変わったようには見えず、でもロザリンの方がより権利意識は芽生えた時代での関係に思えるから、リリィのことはさらに複雑に愛してくれているのだろうか。
注5: 鯨のブローチ。オーガストが渡してくれたデボラの少ない遺品の中にあったもの。T・レイが22歳のデボラにプレゼントしたものなのだった。

 

原題:The Secret Life of Bees

2008年 110分 アメリカ シネスコサイズ 配給:20世紀フォックス 日本語字幕:古田由紀子

監督・脚本:ジーナ・プリンス=バイスウッド 製作:ローレン・シュラー・ドナー、ジェームズ・ラシター、ウィル・スミス、ジョー・ピキラーロ 製作総指揮:ジェイダ・ピンケット・スミス 原作:スー・モンク・キッド『リリィ、はちみつ色の夏』 撮影:ロジェ・ストファーズ プロダクションデザイン:ウォーレン・アラン・ヤング 衣装デザイン:サンドラ・ハーネンデス 編集:テリリン・A・シュロプシャー 音楽:マーク・アイシャム 音楽監修:リンダ・コーエン

出演:ダコタ・ファニング(リリィ・オーウェンズ)、クイーン・ラティファ(オーガスト・ボートライト)、ジェニファー・ハドソン(ロザリン)、アリシア・キーズ(ジューン・ボートライト)、ソフィー・オコネドー(メイ・ボートライト)、ポール・ベタニー(T・レイ・オーウェンズ)、ヒラリー・バートン(デボラ・オーウェンズ)、ネイト・パーカー(ニール)、トリスタン・ワイルズ(ザック・テイラー)、ションドレラ・エイヴリー(グレタ)

ラ・ボエーム

テアトルタイムズスクエア ★☆

■なぜ映画化したのだろう

ジャコモ・プッチーニの作曲した同名四幕オペラの映画化だが、オペラファンというのは、こんな単調な物語であっても、歌や楽曲がよければ満足できてしまうのだろうか。歌詞で繋いでいくだけだから、こねくりまわした話というわけにはいかないのだろうが、それ以前の内容というか精神が、あまりに子供じみたものでびっくりしてしまったのだった(オペラ無知の私が勝手なことを書くのは憚れるので、一応オペラの方の筋書きを調べてみたが、どうやらこの映画、舞台をかなり忠実になぞって作っているようなのだ)。

時は十九世紀半ば、パリの屋根裏部屋に暮らす詩人のドロルフォと画家のマルチェロたちはあまりの寒さに、芝居の台本を燃やして暖をとる。この幕開きは、まあご愛敬で楽しめる。哲学者のコッリーネもうらぶれた体で帰って来るが、音楽家のショナールがたまたまお金を稼いで戻ってきたものだからみんなで大騒ぎとなる。

そこに、溜まった家賃を取り立てに家主がやって来るのだが、払う金が出来たというのに、おだて、酒で誤魔化し、酔った勢いで家主が漏らした浮気のことを聞くや、妻子持ちのくせしてけしからんと追い返し、クリスマス・イブの町へ繰り出す算段をはじめる。ロドルフォだけは原稿を仕上げてから行くことになって、蝋燭の火を借りにきたミミと知り合い、二人はたちまち恋に落ちる。これが第一幕(むろん、映画にはこういう仕切はないが)のハイライトで、鍵を落としたとか、見つけたのに二人でもう少しいたいからと隠してしまったりで、まあ、勝手にいちゃいちゃしてろ場面。ま、これは許せるんだけど。

カフェでは先のことも考えずに散財し、勘定書が高いなると、誰が払うのだとわめくし(歌ってるだけか)、結局はマルチェッロの元恋人だったムゼッタの連れ(パトロン)の老人に押しつけて得意顔。当時の富裕層と貧乏人(しかも夢も前途もある?若い芸術家たちなんで、大目に見ているとか)にあっただろう格差のことも勘案しなくてはいけないのかもしれないが、ユーモアと呼ぶような品はない。しかし、ともあれマルチェッロはムゼッタを取り戻す。浮かれ気分の第二幕。

舞台だと幕間の休憩でもありそうな。ならいいのだが、映画の第3幕は、幕間という感覚もないから話が急展開すぎで、少々戸惑う。ロドルフォは「愛らしい頬が月の光に包まれている」とおくめんもなくミミのことを歌い上げていたのに、もう根拠のない嫉妬でミミを罵ったりもしているらしい(ホントに急展開だったのな)。ロドルフォがミミを置いて家から出てしまったため、ミミは雪の中、ロドルフォがいるとは知らず、マルチェッロのところに助けを求めて訪ねて来たのだ。

ロドルフォはミミの病のことも知っているのに、だから貧乏人の自分といてはダメと思ったにしても、第三幕でのこの別れはあんまりではないか。助かる見込みがないとまでロドルフォは言っているのに(ミミはそれを物陰で聞いてしまいショックを受けていた)。二人が別々にマルチェッロを相手に心境を語る場面は、舞台なら凝った演出でも、それを奥行きがあって当然の映画で再現すると奇妙なものにしか見えない。「歌と笑いが愛の極意」だとか「俺たちを見習え」と言っていたマルチェッロだが、ムゼッタとはまたしても大喧嘩となって、愛憎半ばする第三幕が閉じていく(どうせなら、本当に幕を下ろす演出にすればよかったのに)。

第四幕はまた屋根裏である。ロドルフォとマルチェッロが別れた恋人のことを想っているところに、ショナールとコッリーネがパンと鰊を持って帰ってくる。みんなでふざけ合っていると、ムゼッタが、階段でミミが倒れたと駆け込んでくる。子爵の世話になっていたが、死ぬ前にロドルフォに一目会いたいとわざわざやって来たという。子爵の世話ってなんなのだ? そういう道があったからロドルフォは別れようとしたのか? 何がなんだかなのだけど、まあ、いいか。で、それぞれがミミのために手を尽くす(ここはみんながいいところを見せるのだな)が、ミミは息をひきとってしまう。

ところでこの部分、最後だけ歌でなく普通のセリフになっていた。特別意味のあるセリフとも思えないが、全体の構成を崩してまでやった意味がわからない。

死を前にしては力強いロドルフォとミミの抱擁、って別にそんなどうでもいいことにまで文句をつけるつもりはないが、せっかく映画にしたのだから、もう少しは舞台とは違った感覚で場面を切り取れなかったものか。四幕という構成にこだわるのはいいにしても、ほとんど舞台をそのまま持って来たようなセットと演出(推測です。そうとしか思えないのだな)というんじゃねぇ。

ミミが死んで、カメラが宙に引いていくとすごく広い部屋(というより床が広がっているだけだが)になって寂寥感を際立たせるが、映画の醍醐味であるカメラワークがこの場面くらいというのではもったいなさすぎる。ま、それは言い過ぎで、カメラが不動なわけではない。ロドルフォとミミの二重唱など、シネスコ画面を分割して二人のアップを並べたりしているが、映画的な面白にはなっていない。

それでも退屈はしないのは、歌の力か。アンナ・ネトレプコとローランド・ビリャソンは現代最高のドリーム・カップルなんだそうである。

そういえばエンドロールは無音だった。館内も全部ではないがかなり明るくなって、もしかしたらこんなところまで舞台を意識して同じようにしたのだろうか(舞台にはエンドロールなどないからね)。

原題:La Boheme

2008年 114分 オーストリア、ドイツ シネスコサイズ 配給:東京テアトル、スターサンズ 日本語字幕:戸田奈津子

監督・脚本:ロバート・ドーンヘルム 原作:アンリ・ミュルジェール 撮影:ウォルター・キンドラー 音楽:ジャコモ・プッチーニ 指揮:ベルトラン・ド・ビリー 合唱:バイエルン放送合唱団、ゲルトナープラッツ州立劇場児童合唱団 演奏:バイエルン放送交響楽団

出演:アンナ・ネトレプコ(ソプラノ:ミミ/お針子)、ローランド・ビリャソン(テノール:ロドルフォ/詩人)、ジョージ・フォン・ベルゲン(バリトン:マルチェッロ/画家)、ニコル・キャベル(ソプラノ:ムゼッタ/マルチェッロの恋人)、アドリアン・エレード(バリトン:ショナール/音楽家)、ヴィタリ・コワリョフ(バス:コッリーネ/哲学者)、イオアン・ホーランダー(アルチンドーロ/枢密顧問官、ムゼッタのパトロン)

雷神 RAIJIN

新宿ミラノ3 ★☆

■雷神パパって素敵!?

体に爆弾を埋め込まれた女性を助ける冒頭のアクション場面で、早くもこの映画の駄作ぶりが確信できた。

メンフィス市警の刑事ジェイコブ・キングは女性が苦しんでいるのを犯人が楽しんでいるはず、と現場前にあるアパートに乗り込んで行くのだが、タイムリミットはたった4分。沢山ある部屋からどう割り出したのかってこともだけど、そこに行くまでだって2、3分はかかってしまうだろうに。

犯人のビリー・ジョーと対峙しても、起爆装置の外し方は、彼をいたぶることで聞き出そうとするばかり。ビリーが白状したからいいようなものの(もう爆発してる時間じゃないの?)、けれどジェイコブは、ビリーの答えとは違う線を切らせる(おい、おい)。ビリーを女性のところに連れて行けば(そんな時間はなかったか)ビリーは起爆装置を止める他なくなるのに、頭が悪すぎでしょ。

そうしなかったのは、単にジェイコブの格闘場面を挿入したかっただけみたいなのだが、けれどこれが、殴る動作ごとにカメラの位置を切り替えるという極端なカット割りになっていて、まるでこうでもしないと、もはやなまってしまったスティーヴン・セガールの動きをカバーできないと白状してしまっているかのようなのだ。だってこのカット割り、最後まで全部これなんだもの。苦肉の策にしてもなぁ。

ジェイコブの次なる使命は、これまた女性を狙った狂信的な犯人で、被害者の女の体には必ず占星術の記号が残されていた。ジェイコブは図書館に行ったりして、その謎解きにも精を出す。ちゃんと頭を使っていることをひけらかしたいのだろうが、そして女っ気も断って努力しているみたいなのだが、それ以上にヒントが向こうからやってくるような展開だから、余裕なんである。図書館の女性司書が歌詞の出どこを教えてくれるし、犯人のラザラスは逃げるときに手がかりの財布を落としちゃう!し。

そのラザルスだが、神の領域にまで達している(勘違いにしても)っていうんだが、まるで怖くないのだ。ジェイコブのような相手を「待ってい」て、だから居場所を隠そうとしないのは納得なのだが、なのに結局は逃げまくっていてだから、だらしない。

だからか、最後に冒頭のビリー・ジョーが釈放となって、役者不足の敵役補強とばかりに復帰してくるのだが、最初と同じケリの付け方で終わってはあきれるばかりだ。芸のないことは作り手も自覚しているようで、ジェイコブはビリー・ジョーに「この前と同じだ、懲りないな」と言うのである(だから懲りろよ)。

プロファイリングが専門で現場に不慣れな女FBIのフランキー・ミラー捜査官や、ジェイコブの豪邸に同居しているセリーヌ巡査や図書館司書など、女性を装飾品のように配置しながら、でも添え物の女FBI以外は、犯人たちの餌食になってしまう。

女FBIによって連続猟奇殺人事件の嫌疑がジェイコブにかけられるが、その時はすでにジェイコブによって犯人が挙げられていて、それはピンチのピの字にもならず、でもジェイコブは姿を消してしまう。

姿を消す意味がまったくもって不明なのだが、このあとにあるオマケ映像で、はぁはぁーん、と納得。なんだけど、これがまたまた噴飯ものなのだ。なんとジェイコブには2人の子供と若い妻がいて、その家にプレゼントを抱えて帰ってきたらしいのだ。若妻も若妻で、子供をナニーにまかせると、自分は全裸になって体にリボンをかけジェイコブを手招きする……。

うわあ、どおりでセリーヌ巡査のキスを避けていたわけだ。というかあの豪邸は何だったのよ。セリーヌ巡査とは同棲してたんじゃ? 刑事の仕事は仮の姿? だから姿を消したのか? え、なに、脚本はスティーヴン・セガール本人? それで、全裸リボン若妻なんだ!

3人組の男が私の横の席で爆笑鑑賞していたが、なーるほど、こんなふうに友達と一緒になって馬鹿笑いしながら観たら楽しいのかも。1人で観た私(いつものことだけど)は大馬鹿野郎なんでした。

原題:Kill Switch

2008年 96分 ビスタサイズ アメリカ/カナダ 配給:ムービーアイ エンタテインメント 日本語字幕:岡田壮平 R-15

監督:ジェフ・F・キング 製作:カーク・ショウ 製作総指揮:スティーヴン・セガール、アヴィ・ラーナー、フィリップ・B・ゴールドファイン、キム・アーノット、リンジー・マカダム 脚本:スティーヴン・セガール 撮影:トーマス・M・ハーティング プロダクションデザイン:エリック・フレイザー 衣装デザイン:カトリーナ・マッカーシー 編集:ジェイミー・アラン 音楽:ジョン・セレダ

出演:スティーヴン・セガール(ジェイコブ・キング)、ホリー・エリッサ・ディグナード(フランキー・ミラー/FBI捜査官)、クリス・トーマス・キング(ストーム/ジェイコブの相棒)、マイケル・フィリポウィッチ(ラザルス/犯人)、アイザック・ヘイズ(コロナー/検死官)、フィリップ・グレンジャー(ジェンセン警部)、マーク・コリー(ビリー・ジョー/犯人)、カリン・ミシェル・バルツァー(セリーヌ/巡査)

ララピポ

新宿ミラノ2 ★★

■目指せ!下半身目線人間図鑑

一生地べたに這いつくばって生きる人間とそこから逃げだし高く高く登りつめる人間、セックスするヤツとそれを見るヤツ、平和をけがすゴミどもと平和を守る正義の使者、100万人に愛される人間と誰にも愛されない人間、と冒頭からくどいくらいに「この世界には2種類の人間しかいない」と繰り返すのだが、映画は、比較にこだわるのではなく、這い上がられずにいる方の人間たちに、下半身目線で焦点を当てた作品のようである。

スカウトマンの栗野健治は、デパート店員のトモコを言葉巧みにキャバクラの仕事に誘いヒモ生活に入る。

栗野の部屋の真下に住むフリーライターの杉山博は、長い間女性に縁がなく、自分の分身(ぬいぐるみ劇をされてもですねー)と不毛な対話を重ねる毎日だったが、ロリータファッションに身を包んだアニメ声優志望の玉木小百合と、「似たもの同士」のセックスをする。もっとも、「似たもの同士」は杉山の感想で、このセックスは隠し撮りを副業にしている小百合によって、デブ専の裏DVD屋に並ぶことになる。

カラオケボックス店員の青柳光一は、正義の味方となって悪(=エロ)と戦う妄想を膨らませるが、実体は近所の若妻の覗き見に励む、つまり悪とは到底戦えない情けないヤツで、カラオケボックスすらやくざに凄まれて、彼らのセックス拠点になってしまう。

普通に主婦業をこなしていたはずの佐藤良枝だが、気づいたらゴミ屋敷の主となっていた。キャバクラからソープ嬢と栗野の言うままに、でもそれほどの抵抗もなく転落?の道をたどってきたトモコがAV出演のため現場に出向くと、実の母の良枝が母親役で、2人は他人のふりを通したまま撮影にのぞむことにする。

青柳の放火現場を目撃した良枝は、ゴミ屋敷へも放火をしてくれと青柳を脅迫するが、夫が中で寝ていることを思い出し、火の中に飛び込んでいく。

映画の最後の方で、a lot of peopleが、ネイティブの発音だとララピポになるという種明かしがあってのこの内容で(栗野をはじめとした主な登場人物のそれぞれの年齢、名前、職業、年収が字幕で出てくる)、確かに出てくる人間が雑多なだけでなく、作りもポップでごちゃ混ぜ的だからa lot of peopleという感じはするのだが、でもどれもが中途半端で、誰にも感情移入できないとなると少々つらいものがある。

栗野とトモコの関係が恋になりそうな部分や、最後にはトモコがAV女優として大ブレークしたり、良枝が夫と共に病院のベッドにいる場面(助かったのね)などがあって、小さな幸せオチをつけてはいるのだが、それだけでは伝わってくるものがない。

『ララピポ』と題名で見得を切ったのだから、この調子で10本でも20本でも続編を作って、映画人間図鑑を目指してみたらどうだろう。そこまで撮り続けたら、もしかしたらとんでもない傑作が出来上がってしまいそうな気もするが、今のままだと『ララピポin歌舞伎町』(実際は渋谷のようだ)にすぎないでしょ。

それとも、この類型の中にあなたは絶対いるはず、とでも作者は言いたいのだろうか。そういえばトモコに入れあげていた区役所勤めの男とかもいたよな、ってあいつが私と認めたわけではないが、そこまで言われてしまうと、映画のどこかに自分がいたような気分にもならなくもないのだが……。

  

2008年 94分 ビスタサイズ 配給:日活 R-15

監督:宮野雅之 製作:佐藤直樹、水上晴司 プロデューサー:石田雄治、鈴木ゆたか、松本肇 原作:奥田英朗『ララピポ』 脚本:中島哲也 撮影:尾澤篤史 音楽:笹本安詞 音楽監修:近田春夫 主題歌:AI『people in the World』

出演:成宮寛貴(栗野健治)、村上知子(玉木小百合)、中村ゆり(佐藤トモコ)、吉村崇(青柳光一)、皆川猿時(杉山博)、濱田マリ(佐藤良枝)、松本さゆき、中村有志、大西ライオン、杉作J太郎、坂本あきら、インリン・オブ・ジョイトイ、林家ペー、林家パー子、佐田正樹、蛭子能収、山口香緒里、渡辺哲、森下能幸、勝谷誠彦、チャド・マレーン

レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで

上野東急 ★★★★

■エイプリルは何を追い求めていたのか

平凡とはいえそれなりの暮らしを手に入れ、2人の子供にも恵まれたウィーラー夫妻。が、彼らにとっては平凡こそがやりきれなさの原因だった。レボリューショナリー・ロードに住む自分たちには、その名にふさわしい耀く未来があるはずだったのに……。

確かにフランクは、蔑んでいたはずの父親が勤めていたのと同じ事務機会社に席を置くという代わり映えのしない毎日を送っていた(ホワイトカラー族が全員着帽し似た背広姿で出勤していく場面があって、1955年のアメリカがえらく画一的に見えてしまうのが面白い)し、フランク以上に夢を形にしたいという思いが強い妻のエイプリルは、今にも平凡な日常に押しつぶされそうになっていたのだろう。地元の市民劇団(女優の夢を捨てきれずにいたのだろうか)の公演が不評に終わるや、悲しみとも怒りともつかぬ感情を一方的にフランクにぶつけてしまう。

まだ映画が始まって間もないときに繰り広げられるこの夫婦喧嘩の激しさには驚くしかなかったが、それは当のフランクも同様だったのではないか。そしてフランクは、そんなエイプリルにかなり気をつかっているように見えたのだが、彼女の激情は収まらない。エイプリルのあまりの暴走ぶりに、観ているときは引いてしまうしかなかったのだが、終わってみると、これは最後の彼女の行動を予見させるものでもあったことがわかる。

このことがフランクを浮気に走らせたといえば、彼の肩を持ちすぎになるが、でもフランクはとりあえずはいい夫ではなかったか。けれど、フランクにはエイプリルのことが最後の最後までわからなかったのではないか(これは私がそう思うからなのかもしれないが)。夫婦の気持ちが離れていってしまう映画と最初は理解したのだが、フランクとエイプリルには接点があったのだろうか(こんなことまで言い出したら世間一般のほとんどの夫婦がそうなってしまいそうだが)。

30歳の誕生日にフランクは情事を楽しんで夜になって帰ったのだったが(フランクの肩を持ってしまったが、これは褒められない)、家ではエイプリルと2人の子供が彼を祝うために待っていた。この日、現状打破のために、エイプリルの持ち出したパリ行き話が突飛なのは、フランクの同僚たちや近所の住人の反応でもわかるが、フランクも一応その気になる。

パリではエイプリルが働き(政府機関で働く秘書は高給がもらえると言っていた。その気になれば仕事に就けるというのが驚きである。今だったら希望者が多そうではないか)、フランクには悠々自適の生活を送ってもらい、彼本来の姿を取り戻して欲しいのだという。自分を犠牲(エイプリルはそうは思っていないのか。それとも先進的で献身的な妻になろうとしているのか)にしてもフランクにはということなのだが、これはすでに自分の夢を諦めていることになるわけで、エイプリルにその自覚はあったのかどうか訊いてみたいところだ。

しかし結果としてパリ行き話は、一瞬とはいえ彼らに輝きを取り戻す。ウィーラー家に今の家を売り込んだ不動産屋のギヴィングス夫人と、その夫に連れられてきた精神病患者の息子ジョンが言い放つ遠慮のない本音の数々にも、ジョンだけが私たちの理解者、とはしゃぎ回ったりもする。そんな中、辞めるつもりで書いた提言が会社に認められ、フランクには昇進話が持ち上がる。そして思いもよらぬことに、エイプリルの妊娠がわかる。昇進と妊娠という嬉しい出来事が、2人のパリ行きには阻害要因となってしまう皮肉……。

今、つい「2人の」と書いてしまったが、何故かこの映画では子供たちはかやの外に置かれている。パリ行きの引っ越しの準備では乗り気ではなくてエイプリルに叱られていたし、夫婦喧嘩の場面ではうまい具合に(というより喧嘩など絶対見せられないという矜持があったからか――何しろ理想の夫婦であろうとしたのだから)、友達のところに預けられていたときだった。新しく授かったお腹の中の子供でさえ、望んでいる、いない、とまるで諍いの対象としてあるかのようである。

最近のアメリカ映画で、ここまで子供の存在がないがしろにされたものがあったろうか。うるさいくらいに子供との信頼関係の大切さを押しつけられて、うんざりすることが多いのだが、これはこれで気になる。むろんこの映画でも、最後の方にフランクが公園で子供たちの面倒をみている場面が、挿入されたりはしているのだが。

話がそれたが、パリ行きが怪しくなってしまうのは、まさに皮肉というしかなく、反御都合主義の最たるもで、つまり書き手にとっては御都合主義なのだが、話の積み重ね方がうまいので、2人とは距離を置いたところにいたはずの私も、いつの間にかどうしたらよいのかと、映画を観ながら考え初めずにはいられなくなっていた。

しかし、途中でも触れたが、私にはエイプリルがどうしても理解できなかった。フランクの浮気の告白に対する反応(私に嫉妬させたいの、と告白したことの方を責めていた)も、隣人シェップとの成り行き情事も(この時点で自分には何の価値もないと結論づけていた)、そして堕胎することで何を得ようとしたのかも。いくらエイプリルでも、堕胎すればパリ行きが復活するとは思っていないはずだ。それに少なくともフランクは、昇進話で生気をとりもどしかけていて、新しい展望だって生まれそうなのだから、エイプリルの選択には狂気という影がちらついてしまう。

愛していないどころかあなたが憎いとまで言い放った次の日の朝食の、穏やかさのなかに笑顔までたたえたエイプリルに、とまどいながらも会話を交わしいつものように出勤して行くフランクが、結末を知った今となっては哀れだ。もちろん堕胎という選択しか思いつかないエイプリルも哀れとしかいようがないのだが……。

最後の場面は、ウィーラー夫妻を絶賛していたギヴィングス夫人が、実はあれでいろいろ付き合いにくかったのだというようなことを夫に言っているところである。夫には夫人のお喋りがうるさいだけなのか、補聴器の音量を下げてしまうと、画面の音も小さくなってエンドロールとなる。相手の言うことをすべて聞かないのが夫婦が長続きする秘訣とでも言うかのように。

 

原題: Revolutionary Road

2008年 119分 アメリカ/イギリス シネスコサイズ 配給:パラマウント 日本語字幕:戸田奈津子

監督:監督:サム・メンデス 製作:ボビー・コーエン、ジョン・N・ハート、サム・メンデス、スコット・ルーディン 製作総指揮:ヘンリー・ファーネイン、マリオン・ローゼンバーグ、デヴィッド・M・トンプソン 原作:リチャード・イェーツ『家族の終わりに』 脚本:ジャスティン・ヘイス 撮影:ロジャー・ディーキンス プロダクションデザイン:クリスティ・ズィー 衣装デザイン:アルバート・ウォルスキー 編集:タリク・アンウォー 音楽:トーマス・ニューマン 音楽監修:ランドール・ポスター

出演:レオナルド・ディカプリオ(フランク・ウィーラー)、ケイト・ウィンスレット(エイプリル・ウィーラー)、キャシー・ベイツ(ヘレン・ギヴィングス夫人)、マイケル・シャノン(ジョン・ギヴィングス)、キャスリン・ハーン(ミリー・キャンベル)、デヴィッド・ハーバー(シェップ・キャンベル)、ゾーイ・カザン(モーリーン・グラブ)、ディラン・ベイカー(ジャック・オードウェイ)、ジェイ・O・サンダース(バート・ポラック)、リチャード・イーストン(ギヴィングス氏)、マックス・ベイカー(ヴィンス・ラスロップ)、マックス・カセラ(エド・スモール)、ライアン・シンプキンス(ジェニファー・ウィーラー)、タイ・シンプキンス(マイケル・ウィーラー)、キース・レディン(テッド・バンディ)

ラーメンガール

テアトル新宿 ★☆

■ラーメンの具はトマトなり!?

彼氏を追いかけてアメリカから東京にやって来たものの、何となくそっけなくされて、というところで何故か『ロスト・イン・トランスレーション』(こっちは若妻だったし夫婦で来日した設定だった)を思い出してしまったのだが、似ても似つかぬがさつな映画だった。

ふられ気分でいた時に食べた近所のラーメン屋の味に感動してアビーのラーメン修行が始まるのだが、アビーにこんな大胆な行動をさせておきながら、言葉の行き違いや異文化の問題に踏み込むこともなく、どころか、ラーメン屋の店主とアビーが、相手を無視して(言葉が通じないというのに)互いに一方的に自分のことを喋る場面まで何度かあって、さすがにそれはないでしょう、と言いたくなった。

驚くべきことに、このふたりの意思疎通の悪さは、1年経ってもあまり改善されていないようなのだ。ラーメン修行の極意を、魂だかの精神論にしてしまったので、言葉が通じるかどうかは大した問題ではないにしても、そしてそれなりの信頼関係は生まれたのだろうけど、アビーにはラーメンだけでなく、日本語ももう少しは習得してほしかった。

修行がいじめみたいなのも気になった。アビーは飲んだくれの店主(ラーメンを作りながらタバコっていうのもね)に掃除ばかりさせられ、それが徹底していないことを指摘されるのだが、鍋はいざ知らず、それ以外のところにこの店が気を使ってきたとはとても見えないのだ。

それと、映像で表現するのは難しいとは思うのだが、悲しいことにラーメンがうまそうに見えないのである。それでいて、気分が楽しくなるラーメン、なんて言われてもですねぇ(ちなみにアビーが悲しい気持ちで作ったラーメンは、食べた者を悲しくさせてしまうのだ。はは。コメディ、コメディ)。

もちろん店主は頑固オヤジだが、腕はいいし、ちゃんとアビーのことも評価しているという流れ。だから自分と同じことをしているのに味に何かが足りないことに疑問を抱いて、わざわざ自分の母親のところまで連れて行き、助言を求めたりもするのだが……。

同業者との因縁ラーメンバトルに、ラーメンの達人を登場させたり、パリに逃げた店主の息子の話や、アビーの在日朝鮮人との恋愛まで押し込んだのは、単調になるのを避けようとしたのだろう。が、はじめっからミスマッチが楽しめればいい程度の発想しかないから、そのどれもが、どうでもいい具どまり。スープの作り方から修行しなおさないと及第点はあげられない。

ところで、アビーが辛い修行の末作りあげたラーメンは、具にコーンやトマトを使ったものだった。このこだわりは、自分らしさを失わないためと強調していたが、どうでもいい具どころか……いや、まあそもそも味なんて人それぞれだものね。

原題:The Ramen Girl

2008年 102分 ビスタサイズ アメリカ 配給:ワーナー

監督:ロバート・アラン・アッカーマン 製作:ロバート・アラン・アッカーマン、ブリタニー・マーフィ、スチュワート・ホール、奈良橋陽子 製作総指揮:小田原雅文、マイケル・イライアスバーグ、クリーヴ・ランズバーグ 脚本:ベッカ・トポル 撮影:阪本善尚 美術:今村力 衣装:ドナ・グラナータ 編集:リック・シェイン 音楽:カルロ・シリオット 照明:大久保武志 録音:安藤邦男

出演:ブリタニー・マーフィ(アビー)、西田敏行(マエズミ)、余貴美子(レイコ)、パク・ソヒ(トシ・イワモト)、タミー・ブランチャード(グレッチェン)、ガブリエル・マン(イーサン)、ダニエル・エヴァンス(チャーリー)、岡本麗(ミドリ)、前田健(ハルミ)、石井トミコ(メグミ)、石橋蓮司(ウダガワ)、山崎努(ラーメンの達人)

リトル・チルドレン

シャンテシネ2 ★★★

■情熱が消えてしまったのは何故か

ナレーターがいて、ご丁寧に登場人物それぞれの心理描写までしてくれる。ベストセラーの映画化ではあるが、まるで小説をそのまま映像化しようとしたようにもみえる。

ただこの心理描写は映画に適したものかどうか。本と違って言葉での説明は、映画の場合立ち止まっている余裕がないので、ちょっとでも状況が飲み込めずにいると大変なことになる。今回もどこでどうまごついたか、話がよく理解出来ずに終わってしまった感じがするのだ。

サラ・ピアース(ケイト・ウィンスレット)は夫のリチャード・ピアース(グレッグ・エデルマン)との間にルーシー(セイディー・ゴールドスタイン)という娘がいる専業主婦だ。ビジネスに成功したリチャードと裕福で満ち足りた生活を送っていたはずだったが、ある日、リチャードのちょっと変わった性癖を目の当たりにしてしまう。

ブラッド・アダムソン(パトリック・ウィルソン)は司法試験に2年連続で失敗中。有名なドキュメンタリー映像作家の妻キャシー(ジェニファー・コネリー)と息子のアーロン(タイ・シンプキンス)がいて、だから逆に肩身が狭い。サラが妻に代わってアーロンの世話をするブラッドと出会ったのは、不思議なことでも何でもなかったが、より親密になったのは、リチャードの知られざる側面を知って通販で衝動買いをした赤い水着のせいだったかもしれない。

このあたりまでの語り口は、的確で迷いがない。夏のプールで親しくなっていく2組の親子をワンカットで追いながら、状況が少し変わった様子(違う日なのだ)を何度か繰り返すという印象深いショットもある。

サラを語るのにリチャードからはじめていたくらいだから、語り手の対象となるのは2人だけに限らない。映画はこの静かなボストン郊外の町ウッドワード・コートに48歳の性犯罪者が釈放されて、母親のもとに帰るという報道に及び、そのロニー・マゴーヴィー(ジャッキー・アール・ヘイリー)という男についてまで述べはじめるのだ。

またロニーを異常に敵視する元警官のラリー・ヘッジス(ノア・エメリッヒ)にも言及する。もっともブラッドはラリーのことは少しだけだが知っていて、ロニーの見張りをしていたラリーに、アメフトのチームに入るよう誘われるという繋がりにはなっているのだが……。

ロニーを常に庇う母親は、ロニーの相手にシーラ(ジェーン・アダムス)という女性をさがし息子のためにデートを演出するのだが、そのせっかくのデートで理解しがたいロニーの性癖が、シーラを傷つける場面がある。直前でシーラはロニーに彼女の最後のデートで置き去りにされた辛い思い出を語っていただけに、ロニーの行為は罪が重い。

話をサラとブラッドに戻すと、2人が不倫に走ったのはいわば必然と言いたいのだろう。そして、それは回を重ね、ついにはブラッドの司法試験当日にそれを放棄させ、1泊の不倫旅行に出かけるいう大胆な行動を2人にまでなる。

このあとアーロンの口から新しい友達の名前が出て、キャシーもサラの存在を知ることになり、ピアース一家を夕食に招くのだが、その席でキャシーはサラと夫との関係に気付いてしまう。ただ、ここから先は、話がなんだかちっともわからなくなる。

確証を得たのにキャシーのしたことといえば、自分の母親にブラッドの監視を頼むという馬鹿げたもので、その母親も流石に夜のアメフトの練習までは付き合いきれない。そしてその日、警官チームはブラッドの活躍で初勝利を収めるのだが、ブラッドがトライを決めた時、誰よりも喜んだのは試合を観に来ていたサラで、抱き合った2人は駆け落ちを決意する。

が、この決意は予期せぬ出来事で簡単に、しかも2人共覆ってしまうのである。サラは待ち合わせ場所の公園にロニーが現れたことで。ブラッドは公園に急ぐ途中で、いつもは声をかけられもしなかった若者たちにスケボーを勧められ、怪我をしてしまうからなのだが……。

ちょっと待ってくれ。この結末は一体何なのだ。ナレーターの関心も最後は2人から離れて、ロニーもラリーも悪い人ではなかったが……というあきれるような陳腐さで終わってしまうのである。

『リトル・チルドレン』は、ついぐだぐだ書いてしまったくらい人物造型のスケッチ集として観ているぶんには面白いのだが、2人の情熱がどうして消えてしまったのかはさっぱりわからない。いや現実なんてそんなものかもしれず、こんな展開もありそうな気がしてしまうのだが、映画としてはどうか。ま、2人同時というところが十分映画的ともいえるのだけど。

【メモ】

サラが公園で「主夫」として仲間の注目を集めていたブラッドにキスをしたのは、いたずら心からだったが……。

サラが感想を述べる読書会では『ボヴァリー夫人』が取り上げられていた。

原題:Little Children

2006年 137分 スコープサイズ R-15 提供・配給:ムービーアイ

監督:トッド・フィールド 製作:アルバート・バーガー、トッド・フィールド、ロン・イェルザ 製作総指揮:ケント・オルターマン、トビー・エメリッヒ、パトリック・パーマー 原作:トム・ペロッタ 脚本:トッド・フィールド、トム・ペロッタ 撮影:アントニオ・カルヴァッシュ プロダクションデザイン:デヴィッド・グロップマン 衣装デザイン:メリッサ・エコノミー 編集:レオ・トロンベッタ 音楽:トーマス・ニューマン

出演:ケイト・ウィンスレット(サラ・ピアース)、パトリック・ウィルソン(ブラッド・アダムソン)、ジェニファー・コネリー(キャシー・アダムソン)、ジャッキー・アール・ヘイリー(ロニー・マゴーヴィー)、ノア・エメリッヒ(ラリー・ヘッジス)、グレッグ・エデルマン(リチャード・ピアース)、フィリス・サマーヴィル(メイ・マゴーヴィー)、ジェーン・アダムス(シーラ)、セイディー・ゴールドスタイン(ルーシー・ピアース)、タイ・シンプキンス(アーロン・アダムソン)、レイモンド・J・バリー、メアリー・B・マッキャン、トリニ・アルヴァラード、サラ・バクストン、トム・ペロッタ

ルネッサンス

シネセゾン渋谷 ★★☆

■絵は見事ながら結論が陳腐

『ルネッサンス』におけるモノクロ映像の鮮烈さは脅威だ。モノクロ2値(グレー画像の入る場面もけっこうあって、これもなかなかいい)で描かれたコントラストのはっきりしたアニメは、極度の緊張感を強いられるが、しかし『スキャナー・ダークリー』にあった色の洪水に比べれば、意識の拡散は少ない。

そして2054年のパリの変貌度。これもすごい。色は抑えられていても、未来のパリが、古い部分を残しながら、しかし重層的な街(しかも水路がかなり上の方にあったりして、こんなところにもわくわくさせられてしまう)として提出されると、やはり意識はどうしようもなく拡散し、物語を追うのは後回しにしたくなる。

未来都市は一面ガラス張りの道路があって、これは物語の展開に少しはからんでくるし、カーアクションや企業の建物、街中のホログラムの娼婦にステルススーツを着た暗殺者などもそれなりには見せるのだが、とはいえ単なる背景程度だから別にこの映画でなきゃというものではない。せっかくの重層的な街がたいして機能していないのにはがっかりする。

モーション・キャプチャー技術による映像というが、技術的なことはよくわからない。絵的には面白くても、人物造型となると陰翳だけではのっぺりしてしまって深みがなくなるから、ここはやはり都市の造型の意味に言及(そのことでアヴァロン社の存在を説明するとかね)しなければ、何故こういう形のアニメにしたのかがわからなくなる。鑑賞中そんなことばかり考えていた。

だから物語を掌握できたかどうかの自信はないのだが、これだけ凝った映像を用意しておきながら、それはまったく薄っぺらなものであった。

パリすべてを支配しているようなアヴァロンという企業(パリ中にここの広告があふれかえっているのだ)で働く、22歳の女性研究員イローナ・タジエフが誘拐されるという事件が起きる。アヴァロンの診療所(こういうのもすべてアヴァロンが運営しているのだろうか)のムラー博士の通報で、高名(とアヴァロンの副社長?のダレンバックが言っていた)なカラス警部が捜査に乗り出す。

イローナの5歳年上の姉ビスレーン(とカラス警部の恋もある)や、カラス警部とは因縁のあるらしい裏社会の実力者ファーフェラーをかいして、サスペンスじみた進行でイローナの行方に迫っていくのだが、しかしその過程にはほとんど意味がなく、だからただでさえ単調な結末がよけい惨めなものにみえてしまう。

手を抜いてしまうが、結局イローナは早老病の研究にかかわっていて不老不死の方法を手に入れたらしいのだが、これには当然アヴァロン(ダレンバック)の影があって、でも最後にはイローナが暴走。人類は私の発見を待っているのよ、私が世界を変えるのよ、みたいな調子になるのだが、こういうのってあまり恐ろしくないのだな。

ムラー博士の弟クラウスは早老病になったが、ムラー博士が不死を発見したことで子供のまま40年生きていたという部分など、別物ながら『アキラ』を連想してしまったし、不老不死を死がなければ生は無意味と位置づけている凡庸さにも同情したくなった。「アヴァロン、よりよい世界のため」という広告が出て終わるのは、巻頭のタイトル(カラス警部の夢のあとの)後と同じ構成にして「よりよい世界」の陳腐さを強調したのだろうが、それ以前に映画の方がこけてしまった感じがする。

そういえばクラウスの描いた絵だけがカラーで表現されていた。あれにはどういう意味があるのか。真実はそこにしかない、だとしたらそれもちょっとなんである。

 

原題:Renaissance

2006年 106分 シネスコサイズ フランス、イギリス、ルクセンブルク 配給:ハピネット・ピクチャーズ、トルネード・フィルム 日本語字幕:松岡葉子

監督:クリスチャン・ヴォルクマン 脚本:アレクサンドル・ド・ラ・パトリエール、マチュー・デラポルト 音楽:ニコラス・ドッド キャラクターデザイン:ジュリアン・ルノー デザイン原案:クリスチャン・ヴォルクマン

声の出演:ダニエル・クレイグ(バーテレミー・カラス)、ロモーラ・ガライ(イローナ・タジエフ)、キャサリン・マコーマック(ビスレーン・タジエフ)、イアン・ホルム(ジョナス・ムラー)、ジョナサン・プライス(ポール・ダレンバック)、ケヴォルク・マリキャン(ヌスラット・ファーフェラ)

レベル・サーティーン

シネセゾン渋谷 ★★★★

■もう引き返せない。「レベル最低」ゲームは、最後に融合する!

すごい映画を観てしまったものだ。グロで下品で、性的な場面こそないが、それ以外での傍若無人さは目に余るものがあって書くのもためらわれるのだが、観てしまったのだから、もう引き返せない。映画館を出なかった私もゲームをやめなかった主人公のプチット(クリサダ・スコソル・クラップ)と同じようなものだ。って、そんなわけはないのだが、人間が暴走していく要因など案外にたようなもので、単なる怖いもの見たさだったりするのではないかと、ふと、思ってしまったのだった。

プチットは輸入楽器のセールスマンだが、要領のいい同僚には出し抜かれるし、営業成績がちっとも上がらない。なのに、故郷の母親との電話では課長への昇進を匂わせて、いいところ見せてしまうような男で、だから逆に金を無心されて、それにもいい返事をしていた。車のローンすら滞納しているっていうのにね。車を取り上げられてバスで出社すれば、机には請求書の束が届いているし、おまけにクビを言い渡されてしまう。

にっちもさっちも行かなくなって非常階段で苦悩していると、突然ケータイが鳴る。ケータイの見知らぬ声は、幸運にもゲームの参加者に選ばれたことと、ゲームをクリアしていくと超高額の賞金を手にすることができることを語り、プチットはゲームに参加するかどうかを促される。

プチットがゲームに心を動かされる状況にあることはすでに述べた通り。その説明がちゃんとあるのはこのあとの展開を考えると意外な感じもする。そんなに追い詰められていない人間でもこのゲームを始めてしまいそうだからなのだが、プチットの性格付けという意味もそこに込めた上での流れと考えれば無難なとこか。

そして、最低のゲームが始まっていく、レベル1は手元にある新聞で壁の蠅を叩き落とすというもの。これで1万バーツ。レベル2は叩き落とした蠅を飲み込むことで5万バーツ。

ゲーム(というより課題である)がエスカレートしていくことは容易に想像が付くが、プチットはもう引き返せない(ゲームは、1.ゲームの終了を申し出たら、2.誰かにゲームのことを教えたら、3.ゲームの正体を探ろうとしても中止になると前置きされるが、できれば中途退場の場合のルールについてももう少し詳しく触れておいてもらいたいところだ)。

というのもレベル5で、大便を食材にした料理を食すというとんでもない課題が出てくるからだ(それも繁盛しているレストラン内でのことなのだ)。この難問(映画作品とする時の難問にはならなかったのだろうか)は、この後に出てくるいくつかのゲームよりかなりハードルが高い(これについては時間制限はなかったが)こともあって、この段階で登場するのは少々疑問なのだが、プチットはそれも決行するに至る。

プチットにしても、この時点でこのゲームがどのくらい巧妙に仕組まれたものなのかは推理したはずだ。というか、そもそも最初のゲームからして並大抵の設備と準備がなければ、ゲームを成立させる状況にはならないし、進行中の不確定要素も入れると、このゲームがどれほどの規模で行われているのか、いくら「とろい」プチットといえども考えただろう。

この謎については、プチットに好意を持つ同僚のトン(アチタ・シカマナ)が、プチットの行動に疑問を抱き、テレビでプチットがバスで大喧嘩(レベル6)をして警察に追われているニュースも見て、ネットで事件を調べていくうちに、怪しげな会員制のサイト(http://www.13beloved.com/ このアドレスはこの映画のタイ語の公式サイトになっていた)に行き着き、少しずつ判明していく。が、これすらもある程度予想(もしくは途中から組み込んだのか。会員制のサイトなのに、「侵入者を信用」してしまうのだ)されていたフシがあるのだ(トンも最後の方でゲームの一部として登場する)。

プチットのゲームは、途中、数の推理(これこそゲームらしいが、これは13のうちには含まれないようだ)や井戸に落ちた老人の救出などをこなしながら(昔の恋人の現在の彼を叩きのめすというのもあった。レベル8)、痴呆の老婆を病院から連れ出した(レベル9)ことから起きる惨劇(レベル10)へ一気に突っ走る(老婆の行動はどこまでが演出なのだ!)。ここではワイヤで首を落とされた暴走族の1人がのたうち回るかなり気味の悪い場面も用意されている。ここまで、多少のモタモタ感がないわけではないが、課題も内容に富んだよく考えられたものだ。

トンの犬を殺すのがレベル11で、このあと牛を殺してその肉を食べることを経て(やはりこの順番は難ありだ。もっともそれもちゃんとわかっていて、この賞金は5000バーツである)、いよいよ最後のレベル13に到達する(実はトンも拉致されてその場、別室だが、に連れてこられている)。

プチットに課せられたのは父親殺しで、その当人が目の前に顔に袋を被せられて現れる。プチットにとって父親は飲んだくれで、オモチャを壊し、愛犬をころし、虐待されてきた憎むべき相手だったから、この決断は意外と簡単と思われたが、何故かプチットに父を肯定する思い出が過ぎって(愛犬殺しも狂犬病故のことだった)、父殺しなど出来ないと自覚する。が、プチットがそこに至ったとき、プチットは自分が殺すべき相手に、反対に殺されてしまうのである。

つまり父親の方も、多分プチットと同じようにゲームを経て、この最後のレベル13に到達していたのだろう。ゲームの主催者(サイト管理者)にとっては、ここまでは細心の注意を払いながら課題を設定し進めてきたが、ここに至ってはどちらかがレベル13をクリヤーすればそれで十分なのは改めて言うまでもないことだ。

このアイディアの非情さには舌を巻くしかないのだが、ゲームの主催者を中学生くらいに設定しているのも憎いばかりだ。その少年「キース様」はトンに「今まで何人が犠牲になったか知ってるか」と詰め寄られるのだが、「ゲームだ。僕は知らない、プレーヤーがやった。心配ない。法は僕側だ」と言って憚らない。人殺しという言葉にも「僕じゃない、みんなだよ」と同じことを繰り返すだけだ。

もっともトンは解放されたようだ。内情をあそこまで知っている(教えたという方が正しい)トンを解放したのは、キー様に絶対の自信があるということなのだろう。そう、最後の場面で彼女に近づいていったのは、未確認ながら多分「過去に同様の事件があった」と言ってこの事件を捜査していた警官のようだったから。

ところでここまできて、巻頭に、横断歩道で老婆の手助けをしてケータイを落としてしまう場面があったことを思い出したのだが、あれにはどういう意味があったのだろう。誰か教えて欲しいのだが。

 

【メモ】

本文で書き漏らしたゲームは次の通り。レベル3は、3人以上の子供を泣かす。レベル4は乞食の小銭を奪う。

このゲームが成立するには相当数の隠しカメラが市内(いや郊外にもだった)に張り巡らされている必要がある。また、ゲームのプレイヤーへの連絡はケータイだから充電を心配して、プチットにも途中でケータイを替えるような指示が出ていた。

トンの通報で警察もサイトを調べるが、ページすら見つからない。もっともその警察のファイルに13という数字と怪しげなマークがあるので、ここもゲームの主催者のもとにあることがわかる。

不思議だが、トンに対しては「手荒な真似をしてすまない」などと言っていた。「気付いたのは君がはじめて。ウィークポイントを教えてくれた」とも言っていたから、キー様はトンに敬意を払っていたのだろうか。

プチットは昔の彼女に会って「お袋が会いたがっているし、やり直そう」と言うのだが、彼女からは「その話、前にも聞いたけど嘘だったわ。それにその話が本当だとしても、私を有名歌手にはできないでしょ」と言い返されてしまう(すごいよね、これ)。そして、彼女の彼がろくでもない男なのに、彼女が男を好きなことを知ってショックを受けることになる。

原題:13 BELOVED

2006年 114分 ビスタサイズ タイ R-15 配給:ファインフィルムズ、熱帯美術館 宣伝協力:スローラーナー 日本語版字幕:風間綾平

監督:マシュー・チューキアット・サックヴィーラクル 製作総指揮:ソムサック・デーチャラタナプラスート 原作:エカシット・タイラット 脚本:マシュー・チューキアット・サックヴィーラクル、エカシット・タイラット 音楽:キティ・クレマニー

出演:クリサダ・スコソル・クラップ(プチット)、アチタ・シカマナ(トン)、サルンヨー・ウォングックラチャン(スラチャイ警部)、ナターポン・アルンネトラ(ミク)、フィリップ・ウィルソン(ジョン・アダムス/プチットの父)、スクルヤ・コンカーウォン(プチットの母)

ロッキー・ザ・ファイナル

★★ 銀座シネパトス

■よくやるよ。でも、すごい

ロッキーシリーズは1、2作は観たはずだが、1作目の記憶しか残っていないからどうなんだろ。だいたいすでに5まであったと聞いて驚いているくらいなのだ(あれ、もしかしたら4は観たかも)。もっとも5ですら1990年作品だからすでに17年も前になる。

で、邦題で「ザ・ファイナル」となった本作だが、薄れてしまった記憶だと1作目とほとんど変わらなくみえた。これを驚きととるか呆れととるかが評価の分かれ目になりそうだが、私といえば相変わらずどっちつかずの煮え切らない状態で、呆れながらも驚いていたというわけだ。

60にもなって30年前と同じように戦う状況を作れるはずもないとスタローンを半分馬鹿にしていたのだが、それを案外簡単にやってのけているのにはびっくりした。

まず、現在のヘビー級王者ディクソン(アントニオ・ターヴァー)を無敵にすることで、逆にロクな対戦相手がいなくてチャンピオンでいる可能性を匂わす。これはうまい手だ。ただ「ヘビー級の凋落はディクソンの責任といわんばかり」というのはどうか。だいたい試合が面白いかどうかより、むちゃくちゃ強いヒーローこそを庶民は望んでいるから、本当にディクソンのようなチャンピオンがいたら相当な人気が出るに違いないのだ。

ロッキーはすでに引退して久しく、愛するエイドリアンには先立たれたものの、彼女の名を付けたレストランは成功し、彼は今でも街の人気者なのだ。有名人の息子には苦労があっても、だからロバート(マイロ・ヴィンティミリア)は寄りつこうとしないのだが、ロッキーに戦わなければならないという理由があるだろうか。ま、そう思ってしまうのが私のような平々凡々たる人間で、戦う必要があると考える人間こそが、ロッキーのような栄冠を勝ち取ることができるのだろう。

そんな時、テレビでボクシング王者の新旧対決が話題になったことから、ディクソンとの対戦企画が現実のものとなっていく。

ここからの流れは、トレーニングの映像から1作目のイメージを踏襲したものにしか見えないが、同じ人物が30年後も同じことをやろうとするだけで、人生を重ねた者にはそれだけで十分、思わず頭を下げたくなるのである。傍目には成功しているように見えても、ロッキー自身が納得できないといわれればそれまでなのだが、しかしなにしろボクシングは肉体の戦いなのだ。いくらロッキーが常日頃鍛錬を怠らずにいたという場面がばらまかれてはいてもね(ありゃ、また同じこと書いてるぞ)。

試合内容は相変わらず泥臭いものだ。イタリアの種馬は60になっても打たれ強くあきらめない。「あんたの名誉は守ってやる」と言っていたディクソンや「希望はないが、観客は大喜び」と放送したアナウンサーも、ロッキーの根性を認めたことだろう。

結果は2対1の僅差の判定負けながら、ロッキーの達成感は観客にも伝わってくるものだった。

ロバートの悩みについては、さらっとしたものながら、手際よくまとめてあって、エイドリアンの墓の前では「久しぶりに試合が見たい」となり、試合の途中では「父さんは十分やった」と言わせている。もっとも仕事を簡単に辞めてしまうあたりは、やはり有名人の息子なのかと思わなくもないのだが。

1番気になる新しい恋の予感も、もの足りないくらいの描き方にしたことで、少し後押ししてやりたくなるのだから、心得たものだ。その相手になるマリー(ジェラルディン・ヒューズ)は、ロッキーが「リトル・マリー」と呼んでいるように、30年前にちょっとした交流があったらしいのだが、何も思い出せない。現在はシングルマザーで、息子はもう立派な青年になっている。

ロッキーには最初から「下心はない」というセリフを吐かせてしまっているが、うーん、これはどうなんだろ。エイドリアンに最後まで仁義を通すのはマリーも同じで、試合にエイドリアンの写真を持って観戦に来る。その時、「心は年をとらないと証明してみせて」とロッキーにキスしてたけど、映画での描写はこれっきりというのがいい。ロッキーにはお墓に行かせて、君(エイドリアン)がいてくれたお陰だと言わせている。

最後のエンドロールでは、ロッキーがフィラデルフィア美術館の階段を駆け上がっていく有名な場面を、いろんな人たちがやる映像だ。これが楽しい。なるほど、これを見てもロッキーはやっぱりヒーローなのだと実感できるではないか。

ちょっと褒めすぎてしまったが、ま、そうんなだけど、奇をてらった作品がすきな私の評価は低いのだな。ごめん。

 

【メモ】

ディクソン役のアントニオ・ターヴァーは実際のライトヘビー級のチャンピオンとか。それでよくこの役をやったよね。

原題:Rocky Balboa

2006年 103分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:林完治 配給:20世紀フォックス

監督・脚本:シルヴェスター・スタローン 製作:チャールズ・ウィンクラー、ビリー・チャートフ、ケヴィン・キング、デヴィッド・ウィンクラー 共同製作:ガイ・リーデル 製作総指揮:ロバート・チャートフ、アーウィン・ウィンクラー 撮影:J・クラーク・マシス プロダクションデザイン:フランコ=ジャコモ・カルボーネ 衣装デザイン:グレッチェン・パッチ 編集:ショーン・アルバートソン 音楽:ビル・コンティ

出演:シルヴェスター・スタローン(ロッキー・バルボア)、バート・ヤング(ポーリー)、 アントニオ・ターヴァー(ディクソン)、ジェラルディン・ヒューズ(マリー)、マイロ・ヴィンティミリア(ロバート/ロッキーの息子)、トニー・バートン(デューク)、ジェームズ・フランシス・ケリー三世(ステップス)、マイク・タイソン

アーカイブフッテージ:タリア・シャイア(エイドリアン)

リーピング

新宿ミラノ1 ★☆

■映画でなくチラシに脱帽

映画でなく、映画のチラシの話をしたら笑われちゃいそうなんだが、「イナゴ少女、現る。」のコピーはともかく、「虫とか出しちゃうよ」というのにはまいりました。うはぁ、これはすごい。作った人を褒めたくなっちゃうな。

って、どうでもいい話から入ったのは、そう、特に新鮮味のない映画だったってことなんだけど。でもまあ、今は映像的なチャチさがそうは目立たないから(よくできているのだ)、画面を見ている分には退屈はしないのだな。

ルイジアナ州立大学教授のキャサリン(ヒラリー・スワンク)は、かつてはキリスト教の宣教師としてスーダンで布教活動をしていたこともあるが、布教中に夫と娘を亡くしたことから信仰から遠ざかり、今では無神論者として世界中で起きている「奇跡」を科学的な調査で解き明かすことで有名になっていた。

そんな彼女に、ヘイブンというルイジアナの小さな町で起きている不可解な事件の調査依頼が、ダグ(デヴィッド・モリッシー)という地元の数学と物理の教師から舞い込む。キャサリンはベン(イドリス・エルバ)とまず流れが血に変わってしまったという川を調べはじめるのだが、そこに大量の蛙が降ってくる……。

このあとも出エジプト記にある10の災厄が次々に起こる。ぶよ、あぶ、疫病、腫れ物、雹、イナゴ、闇、初子の死、というのは聖書の写しだが、映画でもほとんど同じような展開となる。映像的には、血の川というのが、何ということはないのだが意外なインパクトがある。逆に1000,000,000匹(これもチラシだけど、よく勘定したもんだ)のイナゴや最後の火の玉が落ちてくる天変地異はどうでもよくって、でもBSEで刷り込まれてしまっているのかもしれないが、へたれこむ牛や、牛の死体を燃やしている場面などは単純に怖い。

出エジプト記では10の災厄はエジプト王に神の存在を知らしめ、イスラエルの民をエジプトから去らせるためのものだったと思うが、ここではキャサリンに信仰心を取り戻させようとしているのか。一定の条件で有毒になる微生物などで超常現象を証明しようとしたり、聖書を持ち出すのはやめて、と言っていたキャサリンだが、分析の結果、川の血は本物で、20~30万人分の血が必要だという事実の前にはあっさりそれを認めるしかなかったのか。兄のブロディ(マーク・リンチ)を殺害した(このことがあって川の水が血になったらしい)というローレン(アンナソフィア・ロブ)に触れたとたん、いろいろなイメージをキャサリンが感じとったからなのか。また、ブロディのミイラ化がどうしても証明できなかったからか。

超常現象の原因と町の人々から決めつけられたローレンは、母親のマディ(アンドレア・フランクル)からも見放されているのだが(キャサリンは娘を殺してと言われるのだ。でもこの母親は何故か自殺してしまう)、娘を救えなかったことがトラウマとなっていたキャサリンは、ローレンに死んだ娘のイメージを重ね、結局このことがローレンを救う契機になるのだが、ってつまりローレンは災いの元ではなくて、町の人たちの方が悪魔崇拝者だったのね。

だとすれば超常現象はやはり神が起こしたものとなる。では何故? 悪魔崇拝者たちの目を覚まさせるためなのか。イナゴはローラを守るためとも思えなくはないが、火の玉は、ベンを殺した悪魔のダグの仕業のようでもあって何が何だかわからない(聖書には火の玉などないからこれは悪魔の反撃なのか)。

そして、キャサリンとローレンは生き残り、家族として生きる決意をするのだが、キャサリンのお腹には男の子が宿っていて、第2子はサタンになるという……。何だ、これだと『ローズマリーの赤ちゃん』ではないか(それとも続篇でも作る気か)。ダグが悪魔とすると、事件の究明のためにキャサリンを呼び寄せた意味がよくわからないのだが、このためもあったとか(もしくはスーダンのコスティガン牧師の死に繋がる因縁でもあるのだろうか)。

そういえばキャサリンがダグと打ちとけてお互いの家族のことを話す場面で、キャサリンは夫と娘がスーダンで生贄になり、神を恨んだらはじめて眠れたと語っていた。そして、そのあとキャサリンはダグとセックスするのだが、なるほど、あのセックスはあの時、キャサリンは神を捨て悪魔と結託したという意味があったのだろうか。

ローレンは第2子(だから初子のブロディは死んだのだ。ってそれもひどいが)で、無事に思春期を過ぎた子はサタンに生まれ変わるというような説明もあったのはそういうことだったのね。そして、キャサリンによって悪魔でなくなった、と(とはいえ、これだと町の人から嫌われるのがわからなくなる)。あと、ダグはもちろん悪魔だったのだろうが、初子としても死ぬ運命だったということなのか。もう1度観たら少しはすっきりしそうなんだが、そんな気にはならないんでした。はは。

【メモ】

チラシでは、Reapingを1.刈り取り 2.善悪の報いをうけること 3.世界の終末における最後の審判、と説明されている。

原題:The Reaping

2007年 100分 シネスコサイズ アメリカ 配給:ワーナーブラザース 日本語字幕:瀧の瀬ルナ

監督:スティーヴン・ホプキンス 製作:ジョエル・シルヴァー、ロバート・ゼメキス、スーザン・ダウニー、ハーバート・W・ゲインズ 製作総指揮:ブルース・バーマン、エリック・オルセン、スティーヴ・リチャーズ 原案:ブライアン・ルーソ 脚本:ケイリー・W・ヘイズ、チャド・ヘイズ 撮影:ピーター・レヴィ プロダクションデザイン:グレアム・“グレイス”・ウォーカー 編集:コルビー・パーカー・Jr. 音楽:ジョン・フリッゼル
 
出演:ヒラリー・スワンク(キャサリン・ウィンター)、デヴィッド・モリッシー(ダグ)、 イドリス・エルバ(ベン)、アンナソフィア・ロブ(ローレン・マッコネル)、ウィリアム・ラグズデール(シェリフ・ケイド)、スティーヴン・レイ(コスティガン神父)、アンドレア・フランクル(マディ・マッコネル)、マーク・リンチ(ブロディ・マッコネル)、ジョン・マコネル(ブルックス/町長)

リトル・ミス・サンシャイン

新宿武蔵野館3 ★★★☆

■たまたま家族というバスに乗り合わせた人たち(って家族なんだけど)

父のリチャード・フーヴァー(グレッグ・キニア)は大学か何かの講師なのだろうか。小さな教室で、人数もまばらながら、怪しげな成功理論(負け犬にならないためのプログラム)を説いていた。もっともそれを出版しようという奇特?な話も進んでいるようだ。

母のシェリル(トニ・コレット)は手抜き料理主婦ながら、一応は家族のまとめ役になっている。夫とは意見の合わないことが多いようだが、でも出版話にはその気になっている。病院からフランクを自分の家に連れてくる兄思い。

祖父(アラン・アーキン)はヘロイン常用者で、老人ホームを追放されてしまうような不良老人だ。15歳の童貞の孫ドウェーンに「1人じゃなく大勢と寝ろ」と大真面目に助言する。言いたい放題に生きているが、オリーヴとは仲良しだし、後には父を励ます場面もある。

叔父(母の兄)のフランク(スティーヴ・カレル)はゲイで、これは本人の弁だが、アメリカ有数のプルースト学者らしい。もっとも失恋、自殺未遂、入院、失職と不幸続き。あまりにまとまりのないフーヴァー一家を目の当たりにしたのは怪我の功名で、抗鬱剤よりそれが効いたのではないか。自殺どころではなくなったようだ。

兄のドウェーン(ポール・ダノ)は、日課のトレーニングを欠かさない。空軍士官学校に入学するまではと無言の誓いを立てていて、もう9ヶ月もだんまりを続けているが、真相は家族を嫌っていることにあるようだ。ニーチェに心酔している。

妹のオリーヴ(アビゲイル・ブレスリン)は7歳。なによりミスコンで優勝するのが夢。ビデオでの研究に余念がない。アイスクリームには脂肪がたっぷりと言われて食べるのを悩むのは、ちょっと肉付きがいいことを本人も気にしているのだろう。

この6人がレンタルしたフォルクス・ワーゲンのミニバスで、アリゾナからカリフォルニアを目指すことになる。地方予選優勝者の失格があってオリーヴが繰り上げ優勝し、レドンド・ビーチで行われる美少女コンテスト(リトル・ミス・サンシャイン)の決勝出場資格を得たのだ。

何故全員で、といういきさつの説明が少しばかりうまくないが、まあ日常というのは何事もすべてが理路整然としているわけではないので、よしとしよう。つまり全員がオリーヴの応援という熱い思いがあるわけではなく、あくまで成り行きという流れである。

で、旅の過程で各人は、それぞれ人生の岐路に直面することになる。出版話が消えたリチャードは、それに期待していたシェリルとモーテルで大喧嘩。フランクは元恋人に普通の趣味のエロ雑誌(祖父のリクエストだった)を見とがめられるし、ライバルの本がベストセラーになるという屈辱を味わう。祖父はヤク中があっけない死をもたらし、ドウェーンは2.0の視力ながら色弱だということが判明し、パイロットになる夢を断念せざるをえない。

成り行きが少しずつ変わってはくるものの、ここにあるのは家族の絆というような確固たるものではなく、てんでバラバラの個がかろうじて家族という名のバスに乗り合わせている姿である。自分を主張して叫んではいるが、なんのことはない、個としても全員が落ちこぼれの烙印を押されてしまうというわけである。

最後に待ち受けるオリーヴが出場する美少女コンテストは、普通なら奇跡の優勝とでもしそうなところだが、はじまってすぐリチャードに他の出場者とレベルが違いすぎると言わせてるくらいで(ドウェーンは大会そのものが恥ずかしいとやはり反対するが、シェリルは本人が頑張っているのだからやらせたいと言う)、実際その通りの展開となる。何しろオリーヴの踊りは祖父の教えたストリップダンスときているから、コンテストの主催者からは顰蹙を買い中断を迫られる。が、やけくそになった家族が舞台にあがって、収拾のつかないものになる。

余談だが、この美少女コンテストでの他の挑戦者たちの気色の悪さには驚く。厚化粧で媚びを売る姿は大人の縮図なだけで、子供らしさなどまるでない。少ないながらオリーヴの下手くそなダンスに拍手が湧いたのもうなずける(けど、ストリップダンスだとこれも媚びを売っていることになるのだが、この場合はオリーヴにそんな気などないのだと、好意的に解釈しておこう)。

誰に共感できるというのでもなく、どころかその落ちこぼれ加減さにはため息をつくしかないのだが、そんな人間の寄せ集めであっても、そうたとえクラッチが故障したバスであっても(クラクションが断続的に鳴るのはうるさくてかなわないが)、工夫してみんなで押せば発進できるということを映画は教えてくれるのである。「さあ、帰るとするか」と帰っていく姿もそのままだから、みじめなんだけどね。

バスのアイディアは少々図式的ながら素晴らしいもので、そこにまぶされた挿話には無駄がない。ただ最後のコンテストがやや長いのと、オリーヴのダンスが下手くそすぎて、これでどうして繰り上げとはいえ決勝の出場権がえられたのかと思ってしまうのが難点だ。ビデオで研究しているにしては情報収集不足だし(ごめん、7歳でしたね)。

【メモ】

人間には2種類いて、勝ち馬と負け犬というのがリチャードの持論。こんなのを毎日きかされていたらドウェーンでなくてもたまらない。

ドウェーンの愛読書?は『ツァラトゥストラはかく語りき』で壁には大きなニーチェの絵が描かれていた。

祖父のリチャードへの励ましは「お前はよくやった。本当の負け犬は、負けることを恐れて何も挑戦しないヤツ」というもの。

荒れるドウェーンをなだめたのはオリーヴ。そばに行き、だまって抱きしめるだけなのだが。ドウェーンはそれまでの筆談をあっさり放棄。普通に喋るようになる。

オリーヴのダンスに好意的だったのは、ミスのお姉さん、ミキシングの人。あと、美少女コンテストは常連らしい無愛想な男の観客が大声でいいぞーと言っていた。

バスは早々にクラッチが故障。部品も休日で取り寄せることができず、下りの坂道か押せば走らせられるとアドバイスされて……。さらにドアは取れるし、クラクションは鳴りやまず、警官にも目をつけられてしまう。この時バスには移動許可の下りていない祖父の死体があったのだが、これは祖父のエロ雑誌で難をまぬがれる。

原題:Little Miss Sunshine

2006年 100分 サイズ■ アメリカ PG-12 日本語字幕:古田由紀子

監督:ジョナサン・デイトン、ヴァレリー・ファリス 製作:アルバート・バーガー、デヴィッド・T・フレンドリー、ピーター・サラフ、マーク・タートルトーブ、ロン・イェルザ 脚本:マイケル・アーント 撮影:ティム・サーステッド 衣装デザイン:ナンシー・スタイナー 編集:パメラ・マーティン 音楽:マイケル・ダナ
 
出演:グレッグ・キニア(リチャード・フーヴァー)、トニ・コレット(シェリル・フーヴァー)、スティーヴ・カレル(フランク)、アラン・アーキン(祖父)、ポール・ダノ(ドウェーン・フーヴァー)、アビゲイル・ブレスリン(オリーヴ・フーヴァー)、ブライアン・クランストン、マーク・タートルトーブ、ベス・グラント、ゴードン・トムソン、メアリー・リン・ライスカブ、マット・ウィンストン、ジェフ・ミード、ジュリオ・オスカー・メチョソ

ラッキーナンバー7

シネパトス3 ★★☆

■見事に騙されるが、後味は悪い

豪華キャストながらヒットした感じがないままシネパトスで上映されていては、ハズシ映画と誰もが思うだろう。が、映画は意外にも練り込まれた脚本で、娯楽作として十分楽しめるデキだ(R-15はちょっともったいなかったのではないか)。とはいえ全貌がわかってしまうと、手放しで喝采を送るわけにはいかなくなってしまう。

失業、家にシロアリ、彼女の浮気、と不運続きのスレヴン(ジョシュ・ハートネット)は、友達のニックを訪ねてニューヨークにやってくる。隣に住むリンジー(ルーシー・リュー)と知り合って互いに惹かれあうものの、失踪中のニックと間違われてギャングの親玉ボス(モーガン・フリーマン)に拉致されてしまう。

話の展開は不穏(そういえば巻頭に殺人もあったっけ)なのに、リンジーとのやりとりなどはコメディタッチだから気楽なものだ。ボスの前に連れて来られるまでずっとタオル1枚のままのスレヴンだから間抜けもいいところで、これは観客を油断させる企みか。巻き込まれ型は『北北西に進路を取れ』(中に出てくる)そのものだし、会話に『007』を絡めたりと、映画ファンへの配慮も忘れない。けど、こうやって洒落たつくりを装っているのは、ほいほいと人が殺されていくからなのかしらん。

ボスからは借金が返せないなら敵対するギャングの親玉ラビ(ベン・キングズレー)の息子を殺せ(息子が殺されたことの復讐)と脅かされ、スレヴンは承諾せざるを得ない。ところがニックはラビにも借金があったらしく、スレヴンは、今度はラビに拉致されてしまうのである。

不幸が不幸を呼ぶような展開は、実はスレヴンと、狂言回しのようにここに至るまでちらちら登場していた殺し屋グッドキャット(ブルース・ウィリス)とで仕組んだものだった。20年前にスレヴンの両親を殺したボスとラビに対する復讐だったのである(しかしここまで手の込んだことをするかしらね)。

この流れはもしかしたら大筋では読めてしまう人もいるだろう。が、それがわかっても楽しめるだけの工夫が随所にある。語り口もスマートだし、いったんは謎解きを兼ねてもう1度観たい気分になる。が、席を立つ頃には、この結末の後味の悪さにげんなりしてしまうのだからややこしい。

グッドキャットは何故殺すはずだったヘンリーを助け、育てたのだろうか。それも復讐をするための殺し屋として。これもかなりの疑問ではあるが、それはおいておくとしても、復讐のために20年を生きてきたヘンリーのことを考えずにこの映画を観ろといわれてもそれは無理だろう。何故20年待つ必要があったかということもあるし、どんでん返しの説明より、映画はこのことの方を説明すべきだったのだ。

それにこれはもう蛇足のようなものだが、ヘンリーの父親が八百長競馬の情報に踊らされたのだって、ただ欲をかいただけだったわけで……。

いつもつかみどころのないジョシュ・ハートネットが、今回はいい感じだったし、ルーシー・リューもイメチェンで可愛い女になっていて、だから2人のことは偶然とはいえ必然のようでもあって、最後は恋愛映画のような終わり方になる。なにしろこれは想定外なわけだから。グッドキャットもヘンリーに父親の時計を渡していたから、これで父親役はお終いにするつもりなのだろう。このラストで少しは救われるといいたいところだが、なにしろ無神経に人を殺しすぎてしまってるのよね(リンジーのような死なないからくりがあるわけでなし)。

原題:Lucky Number slevin

2006年 111分 シネスコサイズ R-15 日本語版字幕:岡田壮平

監督:ポール・マクギガン 製作:クリストファー・エバーツ、アンディ・グロッシュ、キア・ジャム、ロバート・S・クラヴィス、タイラー・ミッチェル、アンソニー・ルーレン、クリス・ロバーツ 製作総指揮:ジェーンバークレイ、ドン・カーモディ、A・J・ディックス、シャロン・ハレル、エリ・クライン、アンドレアス・シュミット、ビル・シヴリー 脚本:ジェイソン・スマイロヴィック 撮影:ピーター・ソーヴァ 編集:アンドリュー・ヒューム 音楽:J・ラルフ

出演:ジョシュ・ハートネット(スレヴン、ヘンリー)、ブルース・ウィリス(グッドキャット)、ルーシー・リュー(リンジー)、モーガン・フリーマン(ボス)、ベン・キングズレー(ラビ)、スタンリー・トゥッチ(ブリコウスキー)、ピーター・アウターブリッジ、マイケル・ルーベンフェルド、ケヴィン・チャンバーリン、ドリアン・ミシック、ミケルティ・ウィリアムソン、サム・ジェーガー、ダニー・アイエロ、ロバート・フォスター

レディ・イン・ザ・ウォーター

新宿ミラノ1 ★★★

■アパートは世界なんだ。シャマランでなく、あの映画評論家に作ってもらいたかった

物語だけをたどってみると、そのくだらなさにうんざりしてしまうのだが、真剣に見てしまったのは何故か。でっちあげおとぎ話なのにね。

アパートの管理人をしているクリーブランド・ヒープ(ポール・ジアマッティ)の前にストーリー(ブライス・ダラス・ハワード)と名乗る女性が現れる。彼女は水の精で、素晴らしき未来をもたらす能力を秘めた若者に、その直感を与える使命を持って人間の世界にやってきたのだが、いまだ目的を果たせず、恐ろしい緑の狼に追われて、自分の世界にも戻れずにアパートの中庭のプールに身を潜めていたのだという。

いきなり、何だこりゃというような話になる。突飛だからか、巻頭に子供の絵みたいなもので、水の精の解説をしてくれてはいたが。そればかりか、韓国人系住人に伝わるおとぎ話までもってきて、しかもその通りに物語が展開していくんだから開いた口がふさがらない。

ヒープは、ストーリーの話が韓国人老婆の語るおとぎ話に符合することや、彼女と一緒だと吃音にならないこと、そして緑の狼を見るに及んで、ストーリーの話を信じ、アパートの住人と協力して彼女が無事元の世界に戻れるようにしようとする。

当然、ファンタジーらしい鍵がいくつもちりばめられていて、記号論者、守護者、職人、治癒者という、いわば世界を救う勇者探しがまずは急務となる。勇者たちが勇者であることを自覚していないのはお約束で、ヒープもストーリーを救ったことから自分を守護者と勘違いするくだりがある。もっとも記号論者がクロスワードパズル好きの親子だったように、この役割分担に特別の意味があるわけではなく、それは実際パズルのようなもので、その謎解き(よくわからんのだ)よりは、アパートの住人たちの中に勇者がいるということが大切なようだ。

ヒープは管理人という特技?を活かして協力者を捜し出す。選ばれし者たちの中には、彼にとっては厄介者だった若者のグループがいたりする。アパートには様々な人種がいるし、このアパートは小さいながら世界そのものを表しているのだろう。と考えると、これだけ壮大なテーマに、怪物まで引っ張り出しながら、アパートから1歩も出ないで映画が成立しているわけがわかろうというものだ。

それぞれはバラバラで孤独なようだけど、みんな繋がっているし、困っている人を差しのべることが、世界を救うことになる。きっと、こういうことが言いたいのではないだろうか。それに、これって当たってるよね。

ただ、その仕上げに重なるようにヒープの過去の重石まで解放されるあたりは、もうこれは好みの問題なのだが、まるで集団治癒の1場面みたいで感心できないし、緑の狼が猿のようなものに退治されるのも(もう少しマシなのを用意しろよな)、巨大な鷲につかまってストーリーが去る場面(あれっ、水の世界に戻るんじゃ)も、つまらなくて拍子抜けするばかりである。

要するに、立ち上がる、そのことが重要な訳だから、あとは韓国人老婆の語るおとぎ話通りでも問題ないのだろう(というかストーリーが物語をたずさえてやってきたと解釈すればいいわけだ)。でも、このおとぎ話にすでに結末があったということは、世界はすでに救われていることにならないだろうか。そうでないのなら、若者の著作によってみんなが目覚め、世界が救済されるのだという結末は避けるべきだった。

それにしても、あの映画評論家(ボブ・バラバン)は気の毒でした。読みが外れて、緑の狼の餌食とは(唯一の犠牲者じゃん)。シャマランにとっては、高慢な自説で好き勝手に映画を切り捨てるようなヤツは許し難いのかもしれないが、私は憧れちゃうな。あの映画評論家のような確固たる自説が持てるのであれば、世間に裏切られようとも、怪物の餌食になろうとも、さ。

  

【メモ】

体の右側だけを鍛えている若者(何だーコイツは)が守護者だった。

原題:Lady in the Water

2006年 110分 サイズ:■ アメリカ 日本語字幕:古田由紀子

監督・脚本:M・ナイト・シャマラン 撮影:クリストファー・ドイル 編集:バーバラ・タリヴァー 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
 
出演:ポール・ジアマッティ(クリーブランド・ヒープ)、ブライス・ダラス・ハワード(ストーリー)、フレディ・ロドリゲス(ジェフリー・ライト)、ボブ・バラバン(映画評論家)、サリタ・チョウドリー、ビル・アーウィン、ジャレッド・ハリス、M・ナイト・シャマラン、シンディ・チャン、メアリー・ベス・ハート、ノア・グレイ=ケイビー、ジョセフ・D・ライトマン

ルイーズに訪れた恋は…

銀座テアトルシネマ ★★

■露悪的すぎて恋愛気分になれない

39歳のルイーズ(ローラ・リニー)は、コロンビア大学芸術学部の入学選考部の部長。同じ大学の教授であるピーター(ガブリエル・バーン)とは離婚したばかりだが、友人関係は続いていた。そんな彼女が1通の願書を目にしたことから……。

いきなりのこの進展は承服しかねる。願書のF・スコット・ファインスタウトという名前が20年前に車の事故で死んだ恋人と同じというだけで、個人面接の場までつくってしまうのはともかく、現れた青年(トファー・グレイス)は容姿まで似ているというのだから(名前の件はあとで本名ではなく、家ではフランだと言っていたが、これって?)。

ルイーズの気持ちはわからなくはない。こんなことが起きたら、誰だって若い頃まで時間を巻き戻してしまいそうだ。ましてやスコットの描く絵は素晴らしく(静かな日常を描いた暖かみのある作品)、そのことでも驚嘆せずにいられないとしたら。そして彼もルイーズを15歳も年上などというものさしで計るような人間ではないから、ふたりは簡単に恋に落ちてしまったのだろう。

でも、だからっていきなりルイーズ主導のセックス(「アレ持ってる? つけて」)になるのはどうか。いや、このくらいは今だと普通なのかもしれないのだが、性急にしか思えない私には、出だしから居心地の悪いものになった。

ルイーズの学生時代からの友達ミッシー(マーシャ・ゲイ・ハーデン)からは「あなたは男と寝ると声が変わる」といきなり見透かされてしまうのだが、実は彼女とは昔の恋人を争奪しあった仲だということがあとになってわかる。ミッシーがかけた電話に、ルイーズの不在でスコットが代わりに出たことから、彼の存在がバレてこれでひと騒動。

もう1つの騒動は、ピーターの自分はセックス中毒だったという告白。結婚中に数え切れないほどの相手がいただけでなく、10人ほどの男たちとも寝たというのだ。ルイーズとはセックスレスだったというのに。そしてこの告白が、ルイーズの弟サミー(ポール・ラッド)による矯正プログラムであることもルイーズの癇に障ったようだ。

ルイーズはなじめない弟とすぐ衝突してしまうのだが、母エリー(ロイス・スミス)は彼を当然のように受け入れている。その母にピーターのセックス中毒のことをこぼすルイーズだが、スコットとのことがあったあとだから、そうは共感できない。

39歳に思春期のような恋をさせろとは言わないが、こう露悪的な話ばかりが続いては、年下男性との恋を応援する気持ちにはなれない。最後には、元夫、友人、家族との間にあった棘が消えるというハッピーエンドが待っているのだが。

ルイーズは、スコットに中年になった自分を想像させるゲームをさせたり(残酷だとスコットも言ってはいたが、想像は出来ても決して実感できないのが若さというものではないだろうか)、結局彼にも昔の恋人の話を聞かせることになるのだが、そういう話がうまく噛み合ってこないから説得力がないまま終わってしまう。

ローラ・リニーは『愛についてのキンゼイ・レポート』もそうだったが、こういう際どい役が好きなんだろうか?

 

【メモ】

ルイーズのスコットに課したゲームは、彼を裸にして鏡の前に立たせ、40歳になっても芽のでない絵描きを想像させるもの。評価されないから叔父の中古車販売を手伝うほかなく、太って髪も薄くなってきている男。そしてジョギングでもしたらと妻に言われてしまうのだ。

原題:P.S.

2004年 100分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:栗原とみ子

監督・脚本:ディラン・キッド 原作:ヘレン・シュルマン 撮影:ホアキン・バカ=アセイ 編集:ケイト・サンフォード 音楽:クレイグ・ウェドレン
 
出演:ローラ・リニー(ルイーズ・ハリントン)、トファー・グレイス(スコット・ファインスタウト)、ガブリエル・バーン(ピーター)、 マーシャ・ゲイ・ハーデン(ミッシー)、 ポール・ラッド(サミー)、ロイス・スミス(エリー)

LOFT ロフト

テアトル新宿 ★

■全部が妄想って、そりゃないよね

春名礼子(中谷美紀)は芥川賞作家だが、編集者の木島(西島秀俊)からは通俗的な恋愛小説を要求されている。が、スランプ中だし体調も思わしくない。泥のようなものを吐くが医者はなんともないと言うし、自分でも幻覚かなどと達観している。引っ越しでもして気分転換を図ろうかと思っていると木島に相談すると、彼はぴったりの場所を探してきた。

使われることがあるのかと思われる不思議な建物がそばにあるだけの、緑の中の静かな屋敷。すっかり気分がよくなった礼子だが、前の住人が残していった荷物の中に小説らしい原稿を見つけ、建物に不審な人物が出入りしているのを見る。

調べてみると、建物は相模大学の研修所で、男は吉岡誠(豊川悦司)という大学教授だった。彼は沼から引き上げた1000年前のミイラを、何故か研修所に持ち込んでいて、研究生が研修所を使う2、3日の間、礼子にそのミイラを預かってほしいと言ってくる。

木島の礼子に対するストーカーまがいの行動から、水上亜矢(安達祐実)という、やはり作家志望の女性がここに住んでいたことが判明(木島に弄ばれたらしい)するのだが、このあたりから少しずつ混乱が始まって、何がなんだかわからなくなってくる。礼子と吉岡の恋もえらく唐突な感じで、吉岡は亜矢を殺したと言っているのに、そのあとあっさり礼子と吉岡が絶対的関係になっているのでは(この芝居は大げさだ)、感情移入以前の段階でついていけなくなってしまう。

亜矢を殺した原因も「ちょっとした混乱が……彼女はよくわからないやり方ですっと僕の中に入ってきた」そして「僕の科学者としての立場を突き崩した」ので、口を塞ごうとして……というもの。こういうことはあるだろう。でもここでの説明にはなっていないと思うのだ。

だいたい礼子が最初に泥を吐くことからしてずるい。ミイラを預かってからそういう現象が起きるのならまだわかるのだが。私がずるいと思うのが間違いというのなら、礼子とミイラの関係だけでも説明してほしいものだ。そう思うと、どこもごまかしで満ちているような気がしてならない。ミイラと亜矢の幽霊という2本立てがそうだし。夢の映像は2ヶ所だったと思うが、それだってはっきり断っていないのが他にもあるのだとしたら……。

わかりにくい映画だからと切って捨てるつもりはないが、少なくともわかりたくなるように仕向けるのが監督の仕事のはずだ。もう1度観れば少しは氷解するのかもしれないが、その気が起きないのでは話にならない。

編集者と女流作家に絞って、出てきた原稿から秘密が解き明かされていくというような、ありがちではあるけれど、そんな単純な話の方がずっと怖かったと思うのだ。画面に集中出来ないこともあって、嘘くさいミイラにメスを突き刺す豊川悦司が気の毒になってくる。最後もしかり。「全部妄想だったのか」と大げさに言わせておいて『太陽がいっぱい』と同じどんでん返し……これはコメディだったのか、と突っ込みたくなってしまうのだな。

でもくどいのだが、亜矢のことでミイラに取り憑かれた吉岡というのならまだわかる。でも礼子の方はねー(実は最初は吉岡のことの方がわからなかったのだが)。あと、これはそのこととは関係ないが、礼子と吉岡の救う立場が最初と最後では逆転しているというのが面白い。

【メモ】

袋に入っていた原稿の題名は『愛しい人』。これは原稿用紙に書かれたものだが、礼子はワープロで書く。礼子はこの『愛しい人』を流用していたが? そういえば完成した原稿を、木島は傑作に決まっているからまだ読んでいないとか言っていた。

大学のものなのか、大きな消却施設がある。

建物と男に興味を持った礼子は、昭和初期のミイラの記録映画の存在を知り、教育映画社の村上(加藤晴彦)を友人の野々村めぐみ(鈴木砂羽)と共に訪ねる。

映っていたのはミドリ沼のミイラをコマ落としで撮った短い(実際は3日?)もの。「何を監視していたんだろう」。結局この件はこれっきり。

腐敗を止めるために泥を飲む?

亜矢の件は捜索願が出ていて、めぐみは殺人事件だと思うと礼子に報告する。

エンドロールは部分的に字がずれるもの(FLASH的に)。

2005年 115分 サイズ:■

監督・脚本:黒沢清 撮影:芦澤明子 美術:松本知恵 編集:大永昌弘 音楽:ゲイリー芦屋 VFXスーパーバイザー:浅野秀二

出演:中谷美紀(春名礼子)、豊川悦司(吉岡誠)、西島秀俊(木島幸一)、安達祐実 (水上亜矢)、鈴木砂羽(野々村めぐみ)、加藤晴彦(村上)、大杉漣(日野)

ラフ ROUGH

テアトルダイヤ ★☆

■原作と比べたくはないが、ラフすぎる

家の和菓子屋が祖父の代からの商売敵という、大和圭介(速水もこみち)と二ノ宮亜美(長澤まさみ)の因縁の2人が、スポーツ特待生として栄泉高校の上鷺寮で出会うことになる。圭介は競泳、亜美は高飛び込みの選手。同じ寮とプールで毎日のように顔を合わせる中、反目から気になる存在へ。が、圭介には家の問題よりもずっと手強い仲西弘樹(阿部力)という相手が立ちふさがっていた。日本記録保持者で、昔から圭介のあこがれだった仲西は、亜美がおにいちゃんと慕う婚約者でもあったのだ。

『タッチ』に続くあだち充原作の映画化。話は単純だが、単行本で12巻となると、エピソードも多く、まとめるのはやはり大変だったのだろう。2人が実は幼なじみだった、という鍵を握るじいさんを脚本は抹殺している。それはともかく、2人の過去をペンダントにまつわる話だけで説明しているのは唐突で、映画だけという人にはわかりにくそうだ。

という感じでかたっぱしから原作と比較してしまうが、まあ仕方ない。でも『タッチ』もそうだったが、切り詰めながら寮長(渡辺えり子)の話などは増やしているし、伝統ある上鷺寮のデートも、原作にはあっても、ふくらませたもの。「歌謡喫茶チロルでまったり」(今時ないだろ)や次の映画館も閉館で、これはエンドロールの映像だから本編には関係ないにしてもその映画館には『海の若大将』のポスターが貼ってあったりするのだ。

一体この映画の時代設定は? ケータイも出てこないし、圭介はカセット(これは祖父の思い出とか言っていた)の愛用者。原作はもう20年以上も前になるのだから、これで正解なのだが、水泳大会は水着も含めて現代だし、伝統デート行事場面はおふざけにしてもねー。

それにここは亜美が圭介のよさを知る場面でもあるのに、それがないのでは惹かれ合っていくという過程がうやむやになってしまうではないか。

でも時代設定よりまずいのは、年月の移り変わりで、中3から高3までがまったく印象付けられずに進んでいってしまうことだ。映画でこの時期の移り変わりを描写するのは、俳優のことを考えただけでも大変なのはわかる。が、3度の日本選手権だけで年を意識させるしかないのは、あまりに芸がないだろうと用意した雪の場面などが、かえって浮いてしまっているのだ。青いプールが舞台だから、どうしても夏のイメージになってしまうのは仕方がないのだけどね。が、そのプールの描写は悪くない。清涼感を出すことにも一役かっている。

とはいえ、やはり圭介の成長物語なのだから、そこはどうにかしないと。海での人工呼吸事件のショックに続いて、仲西の交通事故。亜美は事故を自分のせいにしてその介護にかかりっきり。ライバルが不在の日本選手権では優勝するものの、目標を失った圭介は同級の緒方(石田卓也)から弱点を指摘されてしまう。この流れがうまく表現できていない気がするのだ。まあ、筋を知っている私に緊張感が欠けているということもあるかも。

そして、残念なのが仲西で、彼は亜美が尊敬してきたお兄ちゃんのようには描かれていない。選手生命が危ういほどの事故から快復したのはすごいことででも、リハビリ中の亜美への八つ当たりはフォローしておかないと。「事故はお前のせいじゃないと言うために、だから負けられない」だけじゃ弱くないかしらん。あだち充のマンガは、なによりフォローのマンガだからね。

速水もこみちの背が高すぎて、仲西が見劣りするのもマイナスだ。亜美の救助に向かう海の場面で、圭介が完全に飛び込んでから仲西がスタートするというのもダメ。ここは少し遅れくらいにしておきたかった。でないと仲西だけでなく、負けてしまった圭介にも気の毒というものだ。

最後の日本選手権のラストもマンガでは含みを持たせた終わり方だったのに、ここでははっきり圭介の勝利にしている。結果のでる前に亜美は思いを伝えたのだから、やはり蛇足かなー。出番の少なかった小柳かおり(市川由衣)にきっかけをつくらせていた(「ふたりはもう迷ってなんかいないのに」)のはよかったけどね。

あー、やっぱり原作との比較感想になっちゃったぃ!

【メモ】

幕開きは「君といつまでも」。

「あなたたちはラフ。これから何本も下書きを繰り返していくの。未完成こそあなたたちの武器」というセリフは教師から寮長のものになった。

「人殺し」のセリフは生身の人間が言うと、どっきりだ。

閉館の映画館名は「かもめ座」か。「うちわもめ座」だったりして。

「覚えているのは私だけ」「昔よく泣かされた。でもその子に急に会いたくなって、やっぱりまた泣いた」2人が昔を回想する場面でのセリフ。

エンドロール後の映像は第6回東宝シンデレラ用のもので、寮長の娘が入学する場面。「お母さん、見てこの制服」「あんたが1番似合うね。若い頃の私にそっくり!」。

2006年 106分 サイズ:■

監督:大谷健太郎 原作:あだち充 脚本:金子ありさ 撮影:北信康 美術:都築雄二 編集:今井剛 音楽:服部隆之
 
出演:長澤まさみ(二ノ宮亜美)、速水もこみち(大和圭介)、阿部力(仲西弘樹)、石田卓也(緒方剛)、高橋真唯(木下理恵子)、黒瀬真奈美(東海林緑)、市川由衣(小柳かおり)、八嶋智人、田丸麻紀、徳井優、松重豊、渡辺えり子

ローズ・イン・タイドランド

新宿武蔵野館2 ★★☆

■R-15指定の子供映画

10歳の少女ジェライザ=ローズ(ジョデル・フェルランド)が見て感じた世界をそのまま映像化したような作品。

もっともそのままかどうかはすこぶる怪しい。彼女が生きている世界がそもそも現実味に乏しいのだ。それに彼女が画面に映し出されるということは、厳密には位置関係なども違うことになる。だから、その時は現実と解釈した方がわかりやすいのだが、そこらへんは曖昧だ。

両親共ヤク中で、母親(ジェニファー・ティリー)がクスリの過剰摂取で死んでしまうと、父(ジェフ・ブリッジス)はテキサスにあるすでに亡くなった祖母の家へローズを連れて行く。そこは草原の中の廃屋寸前の一軒家で、父もクスリの力で「バケーション」に行くと言ってそれっきりになってしまう。なんとこのあとのジェフ・ブリッジスは、死体役を続けることになる。

ローズは父の死を認識するでもなく、家の中や黄金色に輝く草原で独り遊びを続ける。焼け焦げてひっくり返ったスクールバスを見つけ、たまに通る列車に狂喜する。学校にも行っていないローズの友達はバービー人形の頭4つだけで、別段それを苦とも思っていないようなのだが(リスとも話が出来ちゃうから?)、やがて近所に住むデル(ジャネット・マクティア)とディケンズ(ブレンダン・フレッチャー)の姉弟に出会う。

デルは黒ずくめで蜂に片目さされたという薄気味悪い女性で、ローズは最初幽霊女と思い込む。弟のディケンズは知的障害者で、この隣人たちとの交流もかなりきわどいものだ(子供が主役なのにR15指定だものね)。デルは性的行為と引き換えに食料品を男から手に入れているし、ローズはディケンズとキス遊びに興じ「結婚」する。

悪意としか思えない設定、そしてそこは死と腐臭に満ちているというのに、ローズには本当にそれらが見えていないのだろうか。だとしたらあまりに幼い。いくら社会性の乏しい環境で育ったにしても、これでは精神年齢からしたら5歳程度ではないか。いくら彼女の想像力が、大好きな『不思議の国のアリス』の影響を受けているにしてもだ。

最後は、死の集大成のような列車の脱線事故が起きる。列車はディケンズのモンスターシャーク退治(あのスクールバスはモンスターシャークにやられたらしい)にあえなく脱線してしまったのだ。この炎に包まれた光景は大がかりなもので、これがまた不思議な雰囲気を醸し出している。ローズはその事故現場を歩いていて1人の女性に乗客と間違えられ、拾われるような形となる。

この列車事故が本当であれば、ローズにとっては不幸中の幸いか。この大惨事すらも幻想というのなら、彼女の願望でもあるだろうから、いくら幻想の世界に遊んでいてもローズはやはりちっとも救われてなどいなかったということになる。

少女の想像世界の映像化は、草原に海を出現させるなど、たしかに良く出来てはいるが、それにしても長い。半分程度で十分と思ったのは私の趣味に合わなかったこともある。きっちり解読したなら何か見えてくるのかもしれないが、くたびれてしまったというのが正直なところだ。

【メモ】

tideland 【名】 干潟、低い海岸地帯  この干潟という言葉に、陸地と海(現実と夢)の境界線というような意味をもたせているのだろうか。

父親は元ロックスター。彼は昔を懐かしんで、母親のことを「グンヒルド王妃」と呼んでいるが、美貌は過去のもので下腹もたるんでいる。ローズは足をもんであげている。母親はメタドンによるショック死。

当然のように父親にクスリを持ってきて注射の手伝いをするローズ。死んだ父親の膝の上でローズが目覚めるシーンも。父親にお祖母ちゃんのかつらをつける。次の日?には死体は悪臭を放ち、ローズはおならをしたと言う。

うさぎの穴に落ちるローズは、ほぼアリスのイメージ)。草原の海の中を行くローズ。ウェットスーツ姿のディケンズ。

水平線の傾いた絵(映像)。これは何度も出てくる。

原題:Tideland

2005年 117分 スコープサイズ イギリス/カナダ R15 日本語字幕:■

監督:テリー・ギリアム、脚本:テリー・ギリアム、トニー・グリゾーニ、原作:ミッチ・カリン、撮影:ニコラ・ペッコリーニ、音楽:マイケル・ダナ、ジェフ・ダナ

出演:ジョデル・フェルランド(ジェライザ=ローズ)、ジェフ・ブリッジス(父親ノア)、ジェニファー・ティリー(母親グンヒルド王妃)、ジャネット・マクティア(デル)、ブレンダン・フレッチャー(ディケンズ)

リトル・ランナー

早稲田松竹 ★★☆

■悪ガキが奇跡を信じるとき

父が戦死していない14歳のラルフ(アダム・プッシャー)は、母親のエマ・ウォーカー(ショーナ・マクドナルド)と2人暮らしだ。母の入院で施設送りの危機となるが、祖母の手紙を親友のチェスターに偽造してもらってしのぐ。そんなこともへいちゃらな彼はいたって脳天気。性への興味は人一倍だし、校則破りの常習犯として校長のフィッツバトリック神父(ゴードン・ピンセント)に目をつけられている有様だ。

はじめのうちは、少年の性の目覚めが主題かと思われるような内容が続く。が、母が昏睡状態に陥ってからはラルフも、性的好奇心はなくならないようだが、少しは心変わりしたかのようだ。だからって状況は変わらない。看護婦のアリス(ジェニファー・ティリー)からは「医師によれば、奇跡でも起きない限り目覚めることはない」のだと言われてしまう。

ところが、罰で校長に入部させられたクロスカントリー部で、コーチのヒバート神父(キャンベル・スコット)が「君たちがボストンマラソンで優勝したら奇跡だ」と語るのを聞き、ラルフは自分が奇跡を起こせば母を助けられると思い込み、猛練習をはじめる。

奇跡の連鎖反応とは辻褄の合わない話だか、こういう考え方をしてしまう気持ちはわからなくはない。ただ映画は、この奇跡問題をあくまで宗教の奇跡と対比する。そして50年代のカトリック学校という設定だから、フィッツバトリック神父のように厳格で融通のきかない校長がいてもおかしくなさそうなのだ。

校長にとっては「神の僕が奇跡を追い求めるのは神への冒涜」でしかないのだが、宗教のわからない人間にとっては、この映画こそが(校長が考えるような)神への冒涜と揶揄に満ちているようにみえる。でも、だったら映画の章分けに聖人歴を使っているのにはどういう意味があるのだろう(この時点で私などお手上げと思ったものね)。

はじめはチェスターとクレア(タマラ・ホープ)だけがたよりのめちゃくちゃな訓練だったが、アリスはウェイト・トレーニングを取り入れるよう助言してくれるし、ヒバート神父もコーチを買って出てくれることになった。ペース配分ができず散々だった地元(カナダ)のレースにも優勝し、ついにボストンマラソンを走る日がやってくる(途中でラルフが過失から出火し家を失ってしまうエピソードもあった)。

チェスターは実況放送のために放送室を占拠。友達は応援し、クレアは祈る。アリスは母にラジオを聞かせる。偽造手紙を見破ったこともありボストンで走ったら退学と脅かしていた校長までが、ラルフの走りに夢中になる。

ラルフは沿道の人の中に神の姿を見、声援をはっきり聞き、必死に走る(しかし何で神がサンタの姿なんだ。その人にとって一番わかりやすい形で現れてくれたのかしらね。そういえば、彼が走ることを決めたのもサンタによる啓示だった)。まわりのみんなを巻き込み、奇跡を起こそうとするそのことが奇跡に値するということなのだろう。原題がSaint Ralphなのはそれでなのか(だからって納得はしていないが)。優勝できなくても、優勝が奇跡というのなら奇跡は起こらなくても、母は目覚めるのだし。

話はそれるが、次のは最近の私の説。奇跡は、猫が眠るようにありふれて起きる。ただそれに気付くことは少ない。そして、気付くことこそに意味がある。以上。

ところで、この映画ではヒバート神父がカナダ代表の元オリンピック選手だったり、ラルフが準優勝するのは53回ボストンマラソンということだが、どこまでが本当なんだろうか?

 

【メモ】

1953年、カナダ・ハミルトンのカトリック学校。

プールの更衣室事件。ロープ登り事件。

最初の10マイルレースは完走がやっと。

チェスター「ボストンマラソンに出場すれば、校長を最高に怒らせることができる。それに、君なら優勝できるよ」

校長は、ラルフだけでなくヒバートにも修道会からの追放を匂わせる。

ヒバート神父(ニーチェが愛読書?)「どんな選手も、32キロを過ぎると祈り出す」

原題:Saint Ralph

2004年 98分 ビスタサイズ カナダ 日本語字幕:■

監督、脚本:マイケル・マッゴーワン、撮影:ルネ・オーハシ、美術:マシュー・デイヴィス、音楽:アンドリュー・ロッキングトン

出演:アダム・プッシャー(ラルフ・ウォーカー)、キャンベル・スコット(ヒバート神父)、ジェニファー・ティリー(アリス看護婦)、ゴードン・ピンセント(フィッツパトリック神父)、タマラ・ホープ(クレア・コリンズ)、ショーナ・マクドナルド(エマ・ウォーカー)

リトル・ダンサー

早稲田松竹 ★★★★

■ビリーはとにかく踊ることが好き

女の子のものと思われがちなバレエに夢中になってしまう11歳の男の子に、それとは不似合いな炭坑不況下(1984年)のイングランドのダーハムという町を背景にした、でも話は、定番ともいえる夢の成功物語。

ボクシング教室には気乗りしないが、同じフロアに引っ越してきたバレエ教室なら見ているうちに踊りだしてしまうビリー(ジェイミー・ベル)。ウィルキンソン先生(ジュリー・ウォルターズ)も彼の素質に、バレエへの情熱を取り戻したかのようだ。

話は単純だが、場面や会話の積み重ね方には唸らされる。初レッスン後にウィルキンソン先生に「楽しかった?」と声をかけられるのだが、ビリーが答えないでいると「どうぞお好きに」と言ってさっさと車で帰ってしまう。先生のビリーに対する距離感はなかなかで、この2人の関係が最後までいい感じなのだ。

ビリーのバレエ教室通いが始まるが、男はボクシングかサッカーと思っている父親(ゲイリー・ルイス)には内緒だ。それがばれてしまった時の問答。「何故いけない」「わかっているはずだ」「ききたい」父親は答えずビリーを殴る。当然すぎて説明できない父親を、さもありなんという感じで簡潔にみせる。

ビリーの父と兄トニー(ジェイミー・ドレイヴン)は炭坑夫で、肉体労働という環境もあるのかもしれない。兄は労組の中心的人物で、炭坑はストの真っ最中。労働者と警官隊が睨み合う風景が日常となっている。収入が途絶えた状況で、わずかとはいえボクシング教室のお金がバレエ教室に使われていたのではねー(クリスマスには父が母のピアノを薪にしてしまうシーンも出てくる)。

父にばれたあとのビリーの怒りのダンスシーンは圧巻だ。感情のおもむくままにステップを踏み、町中に飛び出していく。背後の左手に白い船がゆく坂道で踊るビリーや、ストと対比した画面がきいている。

ビリーは女の子趣味でバレエが好きなのではなく、純粋に踊りが好きなのだ。彼の親友にゲイのマイケル(スチュアート・ウェルズ=なんとも可愛らしい)を配することで、この説明もあっさりやってのける。18歳のビリー宛に手紙を残していた、死んだ母親の説明もこうだ。「素晴らしい人だったのね」「普通の母親だよ」

クリスマスの夜に再び父と対峙したビリーのダンス(このダンスシーンも見ものだ)に、父はスト破りを決意する。ロイヤル・バレエ学校のオーディション費用を工面する方法が他にみつけられないのだ。仲間がピケを張る中、のろのろ進むバスの中にいる父親。まるで晒し者を連行するかのようだ。

これは仲間の募金と祖母(ジーン・ヘイウッド)の力でなんとか切り抜け、オーディションへ。緊張。歓喜。続いて家族や先生、マイケルとの別れ、そしてラストの大人になって成功したビリー(アダム・クーパー)の公演シーンまでと続くのだが、実はこのまとめて書いた部分にはあまり感心できなかった。

オーディションで踊っている時の気分を尋ねられたビリーの答えが、なんだか長ったらしくて弁解じみて聞こえてしまったのだ。ありったけの感情を込めて踊りまくっていたビリーが、あがって力を出し切れなかったにしても、バレエに無関心で何もわからない父にスト破りを決心させた力を「踊り出すと何もかも忘れて、自分が消えます。まるで自分が鳥になったみたいに……」というようなありきたりの言葉で置き換えてしまうなんて。バレエ学校の先生たちはどこを見ているんだろう。

祖母との別れのシーンはよいけれど、兄とのそれはやはりやや長い。家のそばにいつもいた小さな女の子とのあっさりした別れ程度で十分なのに。オーディションシーンにがっかりしたものだから、そのあとからは点が辛くなってしまったようだ。

  

【メモ】

祖母はボケだして物忘れはひどいし、迷子になってしまったり。でも最初からビリーの味方。自身もダンサーになれたのに、というのが口癖。母がアステアのファンで、映画を観た晩は一緒に踊ったというような話もしていた。

最初のオーディションは兄の逮捕で、ウィルキンソン先生との待ち合わせ場所に行けなくなる。

原題:Billy Elliot

2000年 111分 ヴィスタ イギリス 日本語字幕:戸田奈津子

監督:スティーヴン・ダルドリー、脚本:リー・ホール、撮影:ブライアン・テュファーノ、音楽:スティーヴン・ウォーベック

出演:ジェイミー・ベル、ジュリー・ウォルターズ、ゲイリー・ルイス、ジェイミー・ドレイヴン、ジーン・ヘイウッド、スチュアート・ウェルズ、アダム・クーパー

RENT レント

銀座テアトルシネマ ★★

■歌詞レベルの深みのないミュージカル

場面を限った力強い予告篇(「Seasons of Love」が歌われるシーン)に訴えるものを感じたのだが、楽曲を単純に楽しむという点に絞ればともかく、本篇の中身はさっぱりだった。

「Seasons of Love」で52万5,600分-1年を何で数えるか?(Five hundred twenty-five thousand Six hundred minutes. How do you measure, measure a year?)という問いかけに、歌詞と同じように曖昧にしか答えていないのだ。昼、夕焼け、深夜、飲んだコーヒー、インチ、マイル、笑い、喧嘩(In daylights, in sunsets, in midnights In cups of coffee In inches, in miles, in laughter, in strife.)……なんじゃそりゃ。だいたい欧米の曲の歌詞は単純なものが多い(?)し、そんなことを言ってもはじまらないのだけど、映画にするのであれば、そこはもう少し掘り下げてくれなきゃ。

家賃(Rent)が払えないのに芸術家きどりでいるロジャー(アダム・パスカル)とマーク(アンソニー・ラップ)をはじめてとして、その恋人や仲間が何とも子供っぽい。マークはドキュメンタリー映像作家を目指しているから8ミリ撮影なのだろうが、家賃に優先させている神経がね。もっともこれは後に、フィルムがテレビ局に売れることになるのだが……。

店の迷惑などおかまいなしに騒ぎまくるなんていうのは、はじめにミュージカルシーンありきと考えれば些細なことと見逃せるが、ロジャーとミミ(ロザリオ・ドーソン)の恋の行く末などはなんとも危なっかしい。エイズであることが屈折した心境になっているにしてもね。昔の男ベニー(テイ・ディグス)とよりを戻したり、ドラッグに走ったり……。マークの元を去ってレズ同士で結婚したモーリーン(イディナ・メンゼル)とジョアンヌ(トレイシー・トムス)のカップルもしかり。結婚式でもう喧嘩ではね。

いろいろなことが起こるのだけど、すべてが歌詞レベル。好きになって、別れて、でも忘れられなくて……。場面と楽曲が替わるように上っ面な言葉だけで切り替えられても困るのだ。

少ししゃんとしているのはドラッグクイーンエンジェル(ウィルソン・ジェレマイン・ヘレディア)とコリンズ(ジェシー・L.マーティン)くらいのものか。が、これもエンジェルに金銭的余裕があるからという、うがった見方もできるのだけどね。

物語の設定が89.12.24から90.12.24だから、今から観ると若者の悩みというにはなんとなく古めかしいものがある。またキャストの多くがトニー賞受賞(96年)のオリジナルメンバーということもあるだろうか。舞台ならともかく映画では年齢詐称はちょっときついから、ついやっていることが子供っぽいという感想になってしまうのだ。

でもそういうことではなく、そもそもミュージカルに深刻な話はやはり似合わない気がするのだ。空腹なのに声を張り上げるのはまだしも、生死の場面ではその歌唱力が邪魔くさいものに思えてしまうから。モーリーンのベニーが進める立ち退き計画に対する抗議ライブなどは、よかったものね。

原題:Rent

2005年 135分 アメリカ 日本語版字幕:■

監督:クリス・コロンバス/脚本:スティーヴン・チョボスキー/台本・作詞・作曲:ジョナサン・ラーソン/振付:キース・ヤング

出演:ロザリオ・ドーソン、テイ・ディグス、ジェシー・L・マーティン、イディナ・メンゼル、アダム・パスカル、アンソニー・ラップ、ウィルソン・ジェレマイン・ヘレディア、トレイシー・トムズ、サラ・シルヴァーマン