トランスフォーマー リベンジ

楽天地シネマズ錦糸町シネマ4 ★★☆

■何故変身するのか?

一作目の『トランスフォーマー』(2007)同様、映像はよくできているのだが、結局最後までノレなかったのも同じ。私など、なにしろトランスフォーム(変身)する意味がいまだによくわかっていないのだ。もっともこの映画が楽しめる人は、この変身場面だけで十分満足なんだろうが。

オートボットが単なるロボットではなく、金属生命体であり、地球に住むためには変身する必要があるというのは納得できても、戦闘のためにも変身しなくてはならないのは、何かと無理がある。確かにある種の攻撃に特化した最適の形状というのはありそうだ。が、変身するには、そのために余計な労力がいるわけで、さらに変身過程では弱点を晒すことにもなるはずなのだが、ひたすら変身することだけに夢中で、そういう部分には触れようとさえしていない。

こういう部分にこだわった方が戦闘場面だってずっと面白くなると思うのだが、ま、そういうところで映画を作ってはいないのだろう。とにかく派手指向なんで、そんな細かいところまでは気が回らないのかも。逆に、人間にまで変身できるロボットまで、少しとはいえ出してしまっては、マイケル・ベイの頭を疑いたくなる(マイケル・ベイに限らず、すぐこういう禁じ手を使いたがるのは何故なんだ)。

物語が前作からそのまま二年後なのはいいにしても、異星人ロボットたちの戦いに人間が巻き込まれるという話(主人公のサムはキューブのかけらを服に見つけたことで、意味不明の文字や幻覚を見るようになっていた)が、ディセプティコンの復活でまた繰り返されるだけだから芸がない(スケールアップはしているが)。というか、例によって一作目の細かな内容はほとんど忘れてしまっているので、よけいそう思えてしまったのだが。

違うのはすでにオートボットたちと米軍とで同盟のようなものができあがっていることか。それなのに舞台は、エジプトだったりして、ピラミッドという歴史的遺産群を背景に、というかリングに見立てて、度派手な戦いが展開されていく。手を触れてはいけない場所でやりたい放題やってみたいという観客の願望をうまく代弁している。オバマ大統領は早々にシェルターに避難してしまったし、補佐官が暴走してるだけだから、いいらしいよ。

その中をサムたちが、こちらはひたすら人力のみを頼りに目的地へ駆けつけるという対比がなかなかだ(オプティマス復活の鍵をサムが握っているのだ)。ただし、こんなところにまで家族愛を押し込んでくるマイケル・ベイの気持ちがよくわからない(ヨルダン軍まで押し込んでた!)。

家族愛については、最初の方でもサムとの別れを母親のジュディにやたら大袈裟に演じさせていたが、これを面白がれるようなセンスが私にはないのだな。サムのボディガードになっていたバンブルビーとの別れも似たようなもので、少々うるさく感じてしまう。

だから一番感心したのは、米軍空母がまるで隕石のように降ってきたディセプティコンたちに甲板を貫かれ、沈没していく場面で、これには『タイタニック』以来の興奮が蘇った。私としては目まぐるしいだけのぐちゃぐちゃ変身場面(実際、映像的にも何が何だかなんだもの)よりは、よほど血がたぎったのだが……。

  

原題:Transformers: Revenge of the Fallen

2009年 150分 アメリカ シネスコサイズ 配給:パラマウント・ピクチャーズ・ジャパン 日本語字幕:松崎広幸

監督:マイケル・ベイ 製作:ドン・マーフィ、トム・デサント、ロレンツォ・ディボナヴェンチュラ、イアン・ブライス 製作総指揮:スティーヴン・スピルバーグ、マイケル・ベイ、ブライアン・ゴールドナー、マーク・ヴァーラディアン 脚本:アーレン・クルーガー、ロベルト・オーチー、アレックス・カーツマン 撮影:ベン・セレシン プロダクションデザイン:ナイジェル・フェルプス 衣装デザイン:デボラ・L・スコット 音楽:スティーヴ・ジャブロンスキー

出演:シャイア・ラブーフ(サム・ウィトウィッキー)、ミーガン・フォックス(ミカエラ/サムの恋人)、ジョシュ・デュアメル(ウィリアム・レノックス/米国陸軍少佐)、タイリース・ギブソン(ロバート・エップス/米国空軍曹長)、ジョン・タートゥーロ(シーモア・シモンズ/元セクター7のエージェント)、ケヴィン・ダン(ロン・ウィトウィッキー/サムの父親)、ジュリー・ホワイト(ジュディ・ウィトウィッキー/サムの母親)、ジョン・ベンジャミン・ヒッキー(セオドア・ギャロウェイ/国家安全保障問題担当大統領補佐官)、ラモン・ロドリゲス(レオ・スピッツ/サムのルームメイト)、グレン・モーシャワー(モーシャワー将軍/NEST司令官)、マシュー・マースデン(グラハム/SAS“陸軍特殊空挺部隊”エージェント)、レイン・ウィルソン、イザベル・ルーカス、アメリカ・オリーヴォ、サマンサ・スミス、ジャレブ・ドープレイズ

鈍獣

新宿武蔵野館1 ★★

武蔵野館にあった監督、出演者のサイン入りポスター

■映画と演劇の差に鈍獣

期待した分、つまらなかった。だって、凸やんの死なない理由がちっともわからないんだもの。

原作は宮藤官九郎で、第49回岸田國士戯曲賞の同名戯曲だ。演劇のことをほとんど知らない私(だから原作も未読)が言ってしまうのは憚れるが、こういう作風のものは、演劇でなら面白くても、映画に持ってきたからといってすんなり楽しめるとは思えないのである。例えば安部公房の『友達』。これも演劇ならよくても、ってそもそも戯曲なんだけどさ、果たしてそのまま映画にして成功するとは到底思えないのだ。

映画というのは、改めて言うまでもなく虚構にすぎないのだが、しかし意外にもリアリティというものを補強剤としているもので、それが適度にないと居心地が悪いものになってしまうというやっかいな側面を持つ(と私は思っている)()。

演劇が映画以上に虚構なのは、最初から空間が舞台に限定されているからで、それは当然の前提であるから、演劇を鑑賞していてリアリティ補強剤のことを言い出す野暮はいないだろう。演劇空間では、物事の関係性や粗筋に神経を集中できるから、寓意も込めやすくなる。演劇において不条理劇は(って変な書き方だが)成立しやすいが、映画でそういう非論理的な展開に考察を巡らすのは不向きなのだ。

そこでそれを避けるため、演劇空間をそのまま映画に持ち込んだラース・フォン・トリアー監督の『ドッグヴィル』(03)のような作品もあって、これだとリアリティ補強剤が不足していても、観客は安心できるから不思議である(映画なので空間的には多少の広がりはあるが、抽象性は保たれている)。

くどくなるが、この『鈍獣』が何故面白くないかというと、映画に置き換えた時のリアリティが欠如しているからで、なるほど「鈍感な奴ほど恐ろしい者はいない」というこの作品の指摘は、ものすごい真実であるし、「その鈍感から逃げるべく、鈍感の象徴である凸やんを抹殺しようとするのだが、鈍感故に毒も効かず、車で轢いても生き返り」と、そこを突き詰めていった話が面白くないはずがない、と作り手は思ったのだろうが、そうはいかないのだった。

もっとも映画化に際しての脚本も宮藤官九郎自身が書いていて、だからそこらへんのことは相当意識したと思われるのだが、映画を観た限りでは、演劇からの移植がうまくいったかどうかは疑問だ。アニメを入れたり(これもちょっとねー)、エレベーターに乗ってやって来る凸やん登場場面などは緊張感をもって描かれてはいたのだが。

週刊大亜の連載小説『鈍獣』が文学賞候補になるが、作家の凸川は失踪。編集者の静は凸川の故郷に出向き、凸川の同級生たちから事情を聞き回る。そののらりくらりとした返事の中に、だんだんと真実が見えてくるというわけだ。

彼らは凸川(凸やん)が小説の中で、彼らの昔の私生活や秘密(触れられたくない最大のタブー)を次々に暴いていくことに恐怖を感じていたのだった。が、当の凸やんは、いじめられたことは覚えていないし、そもそも小説などは書いていないという……。

殺しても死なないのではなく、実は彼らは、凸やんをとっくに殺してしまったのだろう。つまり彼らにとっての凸ヤンは不死身で、すでに逃れられない恐怖と化しているわけだ。だから凸やんの幽霊を見てしまうという、至極真っ当な結論に、映画の場合は、というか私の見解は落ち着いてしまうのだけど、こんな結論じゃ(って、私に観る力がないんだろうね)、大げさに騒いだだけにかえって面白くないんだよね。

殺しても死なないのではなく、実は彼らは、凸やんをとっくに殺してしまったのだろう。つまり彼らにとっての凸ヤンはすでに意識レベルの存在になっていて、だから不死身なのは言うまでもなく、逃れられない恐怖と化しているわけだ。つまり凸やんの幽霊を見てしまうという、至極真っ当な結論に、映画の場合は、というか私の見解は落ち着いてしまうのだけど、こんな結論じゃ(って、私に観る力がないんだろうね)、大げさに騒いだだけにかえって面白くないんだよね。

:それではミュージカルはどうなんだと言われてしまいそうだが、ミュージカルの場合はショー的要素が加わるので、また全然違う次元の話になるし、セリフを歌でカバーする旧来のミュージカルであるならそれだけで、演劇空間と同程度の虚構、という前提を持つことになる。

 

2009年 106分 ビスタサイズ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ

監督:細野ひで晃 アニメーション制作:スタジオ4℃ 製作:宇野康秀、山崎浩一 プロデューサー:曽根祥子、菅原直太、高瀬巌 アソシエイトプロデューサー:山崎雅史 企画プロデューサー:松野恵美子 脚本:宮藤官九郎 撮影:阿藤正一 美術:富田麻友美 音楽プロデューサー:緑川徹 主題歌:ゆずグレン『two友』 VFXスーパーバイザー:川村大輔 スクリプター:長坂由起子 照明:高倉進 録音:山田幸治 助監督:甲斐聖太郎 劇中画:天明屋尚

出演:浅野忠信(凸やん、凸川/小説家)、北村一輝(江田っち)、ユースケ・サンタマリア(岡本/警官)、南野陽子(順子/江田の愛人、「スーパーヘビー」のママ)、真木よう子(静/編集者)、佐津川愛美(ノラ)、ジェロ(明)、本田博太郎(編集長)、芝田山康(理事長)

トワイライト 初恋

楽天地シネマズ錦糸町シネマ7 ★★★

■息づかいが聞こえてくる

新感覚映画とでも呼びたくなるような、今までにない雰囲気がある映画だった。が、何がそうなのかと言われると、どう表現していいのか見当がつかなくなってしまう。多分私が旧式人間だからなんだろう。

全体に青を基調とした画面で、と表面的なことなら書けても、後が続かない。もしかしたらこれは私が今の若者を、すでにかなりの部分で理解できなくなっていることとつながっている気がする。

主人公の二人も、私の感覚だと美形というのとはちょっと違うのだが、まあ、そんなことはどうでもいいか。

脱線気味で書き始めてしまったが、話は単純だ。ヴァンパイアと人間の恋という奇異さはあるが、そしてそのヴァンパイアの説明に少し時間を使っているが(少女にとっては謎なんだから当然なのだが)、それを削ってしまうとどこにでもあるような話だろうか。

ベラ・スワンはママの結婚で、雨の多い町フォークスで警察署長をしているパパのところに戻ってきた転校生だ。新しい学校にも慣れ、友達も出来、順調なスタートをきるが、学校では別行動を取りがちな「アタックするだけ無駄」らしいエドワード・カレンに興味を持つ。

というか露骨に避けられてしまうのだが、なるほどねー、かえってハートに火がついてしまったのね。そして、無視されているはずだったのに、車の暴走から身を守ってくれたことで、エドワードの飛び抜けた身体能力と彼の秘めた想いを知ることとなる。

別行動はエドワードがヴァンパイアだからで、なるべく一族でまとまっているからだし、避けるのは「君の心だけが読めない」からと説明されるけど、じゃあ何で人間界にいるんだってことになるし、「君の心だけが読めない」というのも、どう考えても詐欺のような説明である。

矛盾だらけなのは、ヴァンパイア物の宿命だが、エドワードの情熱と抑制を際立たせようとしているからだろうか。そして「君の心だけが読めない」からこそ(心が読めちゃったら恋はできないような気がする)、ベラはエドワードにとっての初恋(「初恋」は邦題だけにあるにしても)となったのだろう。

ベラの方はもうすっかりその気になっていて、血を吸われてもかまわないと思っているのに、エドワードはあくまでベラを禁忌の対象と位置づけようとする。吸血は動物だけで人間には手を出さないベジタリアン(はぁ?)っていうのだけれど、自分だってヴァンパイアにされたわけだし、ベラも望んでいることなのだ。本当に命取りになるならともかく、これはあまり説得力がない。

欠点はあるが、情熱と抑制が交差する展開はなかなかだ。このエドワードの自制心が、若い女性観客にはたまらないのかも(そういや観客の九割が若い女性だった)。二人の踊りが近くて(他の場面でも)、息づかいが聞こえそうで胸が苦しくなってくる。ベラも一族になってくれれば二人の恋は永遠になるのでは、と思うが、もしかしたらそれだと……って映画では何も言っていないのだけど、それは続編待ちなのだろうか。

人間の血を吸う正統派?吸血鬼のグループも登場させたことだし、だから単にそのうちの一人がベラに目をつけた程度では面白味がないのだが、これは伏線貼りすぎの上で登場させたにしては、案外あっさりかたがついてしまう(ヴァンパイア流草野球や忍者もどきの木登り場面の方が印象に残ってるくらいだから)。

それにしてもうまいことバンパイア物を、学園ドラマにアレンジしてしまったっものである。古臭い十字架や棺桶に古城、ニンニクや十字架も一掃。むろん誰も燕尾服などは着ていない。雨の多いフォークスを拠点にした設定にはしてあるが、太陽の光に当たったからといって灰になったりはせず、キラキラ耀いちゃうんだから。

★三つは甘めだが、次回作の期待料込みってことで。

  

原題:Twilight

2008年 122分 アメリカ シネスコサイズ 配給:アスミック・エース、角川エンタテインメント 日本語字幕:石田泰子

監督:キャサリン・ハードウィック 製作:マーク・モーガン、グレッグ・ムーラディアン、ウィック・ゴッドフレイ 製作総指揮:カレン・ローゼンフェルト、マーティ・ボーウェン、ガイ・オゼアリー、ミシェル・インペラート・スタービル 原作:ステファニー・メイヤー『トワイライト』 脚本:メリッサ・ローゼンバーグ 撮影:エリオット・デイヴィス 衣装デザイン:ウェンディ・チャック 編集:ナンシー・リチャードソン 音楽:カーター・バーウェル 音楽監修:アレクサンドラ・パットサヴァス

出演:クリステン・スチュワート(ベラ・スワン)、ロバート・パティンソン(エドワード・カレン)、ビリー・バーク(チャーリー・スワン/ベラの父、警察官)、ピーター・ファシネリ(ドクター・カーライル・カレン/エドワードの養父、医師)、エリザベス・リーサー(エズミ・カレン)、ニッキー・リード(ロザリー・ヘイル)、アシュリー・グリーン(アリス・カレン)、ジャクソン・ラスボーン(ジャスパー・ヘイル)、ケラン・ラッツ(エメット・カレン)、キャム・ギガンデット(ジェームズ)、エディ・ガテギ(ローラン)、レイチェル・レフィブレ(ヴィクトリア)、アナ・ケンドリック(ジェシカ・スタンリー)、テイラー・ロートナー(ジェイコブ・ブラック)、ジル・バーミンガム(ビリー・ブラック)、サラ・クラーク、クリスチャン・セラトス、ジャスティン・チョーン、マイケル・ウェルチ、ホセ・ズニーガ、ネッド・ベラミー

東京タワー オカンとボクと、時々、オトン

109シネマズ木場シアター6 ★★★☆

■オカンとボクと、時々、オトン、そしてミズエ

原作は未読。リリー・フランキーの自伝だろうか。そして振り返るとそこにはオカン(内田也哉子→樹木希林)がいた、というような。

小倉から筑豊の炭坑町、そして大分の美術高校時代の下宿生活を経て東京に上京し、美大時代のぐうたらな生活があって、でもなんとか稼げるようになってオカンを呼び寄せて一緒に暮らし……。料理好きで誰からも愛されたオカンのことを「ボク」(谷端奏人→冨浦智嗣→オダギリジョー)が綴っていく。

作者が最初に「小さな話」と言っているのは、特別な大それた事件というべきものなどないという謙遜と思われるが、長い年月のうちにはそれなりの事件は当然いくつもあって、それが丹念に描かれていく。むろんリリー・フランキーの子供時代は子供の目線でしかないので、上京するまでの場所は田舎なのだが、場所は違ってもこの時代の風景は私には懐かしいもので、共鳴する部分が多かった(車をハンドル操作で道を走らせるゲームってあんなにチャチだったかしらねー。かもねー、というように反応していたのね)。

そして挿話としてはどこにでもありそうな話の積み重ねながら、やはり母に対する、また母の子に対する気持ちが全編に溢れたものになっていて、でもそれは決して押しつけがましいものにはなっていなかった。

だから、抗癌剤の副作用で苦しむ壮絶な場面になっても素直に受け止められたのだろう。また、オカンに手を引かれる側だったのが「ボク」が引く側になっているベタな映像すら、とても愛しく思えたのだった。

映画の題材としてなら「この人より自由な人をボクはいまもって見たことがない」オトン(小林薫)の方がずっと料理のしがいがありそうだが、しかしこの程度の人材ならあの時代にはいくらでもゴロゴロしていた記憶があるが(人付き合いの密度が高かっただけかも)、これは映画とは別の話。それに、オトンは、後半どんどん立派なオトンになっていくんだよね。

話としては誰にでも思い当たるような部分がいくつも出てきて、その普遍性が原作をベストセラーにしたのだろう。それをまた私が引っ張り出しては、同じことの繰り返しになってしまうので、1番気になったミズエ(松たか子)の存在についてだけ書いておく。

放蕩生活の借金完済も近づき、オカンの上京が決まった頃に「新しい彼女」として登場したミズエは、「いろんなことがうまく回りはじめている」その中にいて、でも、その楽しい時間が「足早に過ぎて」オカンの癌が再発したときにはミズエと「ボク」とは、もう「私たちが別れたこと……」「まだ言っていないんだ」という会話になっている。ミズエはオカンに指輪をもらっていて、そのことを気にするのだが、はめる時とはめない時があっていいからもらっといてよ、と「ボク」は答える。

オカンの闘病生活の時にも病室を訪れるミズエの姿があるし、約束を果たすために最後に「ボク」がオカンの位牌を持って東京タワーの展望台にのぼる時にも、待ち合わせには少し遅れながらミズエはやって来るのだ。

こんな時にも彼女が来ているのは、オカンと彼女とにあった絆が大きかったことがもちろんあるが、恋人ではなくなった「ボク」とは今でも信頼関係が残っているのだろう。ミズエについては多くは語られていないので、観客の想像に委ねられているのだが、そのことがかえって彼女の存在を際だたせていたし、映画にとってもいいアクセントになっていたと思うのだ。

    

2007年 142分 シネスコサイズ 配給:松竹

監督:松岡錠司 原作:リリー・フランキー『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』 脚本:松尾スズキ 撮影:笠松則通 美術:原田満生 衣装:宮本まさ江 編集:普嶋信一 音楽:上田禎 主題歌:福山雅治『東京にもあったんだ』 メイク:豊川京子 照明:水野研一 録音:柿澤潔
 
出演:オダギリジョー(中川雅也/ボク)、樹木希林(中川栄子/オカン)、内田也哉子(若い頃の栄子)、松たか子(ミズエ)、小林薫(オトン)、冨浦智嗣(中学、高校時代の雅也)、田中祥平(小学校時代の雅也)、谷端奏人(幼少時代の雅也)、渡辺美佐子(筑豊のばあちゃん)、佐々木すみ江(小倉のばあちゃん)、原知佐子(ノブエおばさん)、結城美栄子(みえ子おばさん)、猫背椿(ブーブおばさん)、伊藤歩(タマミ)、勝地涼(平栗)、平山広行(磯山)、荒川良々(えのもと)、辻修(ホセ)、寺島進(ハイカラな男)、小島聖(若い頃のノブエおばさん)、吉本菜穂子(若い頃のみえ子おばさん)、光石研(小料理屋の客)、千石規子(病院の借家の老婆)、仲村トオル(ラジオ局のディレクター)、土屋久美子(高校の女教師)、小泉今日子(不動産屋の事務員)、板尾創路(「かっぱ」の客)、六角精児(編集長)、宮﨑あおい(アイドルDJ)、田口トモロヲ(郵便配達)、松田美由紀(中目黒の大家)、柄本明(笹塚の診療所の医者)、田中哲司(東京の病院の医者)、塩見三省(葬儀屋)、岩松了(催促する編集者の声)、江本純子(風俗嬢C)、安藤玉恵(風俗嬢A)、栗原瞳(風俗嬢B)、麻里也(堕落した日々の彼女)、竹下玲奈(大学時代の彼女)、小林麻子(似顔絵教室の女子社員)、ぼくもとさきこ(東京の看護婦)

ドレスデン、運命の日

シャンテシネ3 ★★☆

ポスターに書かれた監督のサイン(シャンテシネ3)

■空爆と平行して描かれるドラマが稚拙

1945年2月の連合国によるドレスデン大空襲(映画に描かれる13日の2波の空爆は英空軍のもの)を背景に、ドイツの若い看護師のアンナ(フェリシタス・ヴォール)と、英空軍パイロット、ロバート(ジョン・ライト)との恋を描く。

が、この恋は少し強引か。父カール(ハイナー・ラウターバッハ)の病院で働くアンナには、外科部長のアレクサンダー(ベンヤミン・サドラー)という婚約者がいて、アンナがアレクサンダーを好きでたまらない、というシーンがいくつかあるし、アンナはアレクサンダーにプロポーズの儀式?までさせているのだ。

これはロバートとの間に芽生える恋を強調する意味があったのかもしれないが、あとの説明がうまくないから逆効果になっている。アンナと同様に逃亡兵をかくまった女性がゲシュタポによって銃殺される事件で、アレクサンダーへの見方が変わったり、上昇志向にならざるを得なかった彼の叫びもなくはないのだが。

出撃したロバートは墜落されてパラシュートで脱出するが、気付いた住民の銃弾で腹部に傷を負ってしまう。山中から出て病院に潜むが、アンナに発見され、彼女の手当を受けることになる。

ロバートの母はドイツ人で、アクセントはともかく言葉に不自由はないという設定。でないと話にならないわけだからそれはいいのだが、できれば流れの中で納得させてほしいものだ。また、空爆の後のアンナとロバートの再会をはじめとして、偶然の介在する部分が多すぎるのも話をちゃちなものにしている。

一方、ドレスデン大空襲の模様は、連合国(イギリスか)の作戦室の場面からソ連との駆け引きなどを織り込んで、かなりリアルなものになっている。単純に飛び立っていく爆撃機などの映像に、当時のニュースを被せるだけでなく、撮影班が映したものだと思わせるようにそれらしく編集した映像まで入れた凝りようなのだ。

市街地の映像も丹念だ。まだ被害を受けていない時期の市電が走っているような場面をさり気なく積み重ねておいて、クライマックスへともっていく。2波にわたる爆撃、そして瓦礫と化した街を、時間をふんだんに使って再現している。

そこで右往左往するしかない主人公や市井の人々が痛ましい。防空壕に入れてもらえないユダヤ人や、爆撃に絶えた防空壕の中で死を覚悟して祈り続ける人々。そして、一酸化炭素中毒で死んでいく人々などを克明に描いていて迫力のあるものにしている。

映画の最後は、空襲で廃墟のままになっていた聖母教会が2005年に再建されたセレモニーシーンである。フェリシタス・ヴォールがここに出てくることで、映画がこれに連動して企画されたのだとわかる(多分ね)。ドイツ人にとって聖母教会の再建は相当感慨深いものがあるのだろう。

無差別爆撃という連合国側の戦争犯罪(よくわからんが)も指摘される題材を選んだからではないだろうが、医療物資が不足する中、家族をスイスに逃がすためとはいえ父がモルヒネを隠し(この一部始終を潜んでいたロバートが見てしまいアンナにバレることになる)、ナチスの幹部と裏取引をしていることや、ナチスの高官の秘書をしているアンナの妹のふるまい、アンナの友人の夫をユダヤ人にして、ユダヤ人自身に仲間に収容所へ行く通知を配らせていることなどもあまさず描いて、ドイツとしての反省も忘れていない。

そういうのはあまりに自明のことで、描かないわけにはいかないのかもしれないが、でもだからよけい、アンナには英空軍パイロットを救わせて恋(くらいならまだしも子供まで)をさせるのではなく、普通のドイツ人女性として戦争に生きた苦悩こそを描くべきだったと思うのだが。

原題:Dresden2006年 150分 ビスタサイズ ドイツ 日本語字幕:■

監督:ローランド・ズゾ・リヒター 製作:ニコ・ホフマン、サーシャ・シュヴィンゲル、ニコラス・クラエマー 脚本:シュテファン・コルディッツ 撮影:ホリー・フィンク 音楽:ハラルド・クローサー、トーマス・ワンカー

出演:フェリシタス・ヴォール(アンナ)、ジョン・ライト(ロバート)、ベンヤミン・サドラー(アレクサンダー)、ハイナー・ラウターバッハ(カール)、カタリーナ・マイネッケ、マリー・ボイマー、カイ・ヴィージンガー、ユルゲン・ハインリッヒ、ズザーヌ・ボアマン、ヴォルフガング・シュトゥンフ

ドリームガールズ

TOHOシネマズ錦糸町-2 ★★★☆

■60~70年代の音楽ビジネス(モータウンレコード)の世界をミュージカルに凝縮

エフィー・ホワイト(ジェニファー・ハドソン)、ディーナ・ジョーンズ(ビヨンセ・ノウルズ)、ローレル・ロビンソン(アニカ・ノニ・ローズ)の仲良し3人組はドリーメッツを結成しデトロイトでタレントコンテストに出場するが、中古車販売会社のカーティス・テイラーJr.(ジェイミー・フォックス)の裏取引で優勝を逃してしまう。カーティスは彼女たちに人気歌手ジミー・アーリー(エディ・マーフィー)のバックコーラスにならないかと持ちかける。

ツアーにあけくれ、女癖の悪いジミーに夢中になってしまうローレルや、マンネリ気味のジミーの様子、エフィーの兄でドリーメッツをある部分でリードしていた作曲家のC.C.ホワイト(キース・ロビンソン)がジミーに曲を売り込んだり、白人に曲(「キャディラック」)をパクられる事件があったり、だからDJには金を掴まさなくては……と、映画は快調に飛ばしていく。ツアー中のバスの窓からの風景や、ラジオの曲が聞こえないからと雪の橋をUターンする場面なども効果的に収められていて印象深い。

路線変更でジミーのマネージャーだったマーティー・マディソン(ダニー・グローヴァー)が降りてしまったり、3人がついにドリームスとして売り出したり、駆け足ながらまとめ方がうまく、私のように当時の背景やスターについて詳しく知らない人間にも十分楽しめる。スタイルもいつのまにか歌い出しているという正真正銘のミュージカルなのだが、違和感がほとんどない。曲と歌詞が物語にぴったりだし、リハーサル場面がいつのまにか本番に変わっているちょっとした演出(2度ほどある)もいい感じだ。

結局、パワーではなく、軽いサウンドで大衆に受けるようにしたい(白人に媚びるということもあったようだ)というカーティスによって(C.C.ホワイトも同調する)、もともとリードボーカルだったエフィーに代わって、容姿端麗なディーナを前面に売り出すことになる。声が大きすぎると注意されたエフィーは、恋人でもあったカーティスがディーナにも手を出していることに嫉妬。ふてくされて遅刻をしたら代役が立てられていて、自分の場所がないことを知る。

一方、ディーナの人気は鰻登りで、ヒット曲を連発する。エフィーは、自分には歌しか歌えないから職を探しても無駄と言ってそう間をおかないで登場するのだが、この時はもう7歳くらいの娘(後ではもうじき9歳と言っていた)がいて、おいおい、あ、これはミュージカルだったのだ、と。つまりそれだけよく出来ているということなのだが。

ジミーの凋落。ヘロインによる死。マーティーとC.C.ホワイトの協力でエフィーは新曲を歌うが、今度はカーティスが汚いやり方でそれをディーナの曲として売り込み、大ヒットとなる。ディーナには主演映画の話までやってくるが、カーティスとはそのことでもめ、君の声には深みがないとまで言われてしまう。

ディーナのモデルはダイアナ・ロスらしいが、それよりも(疎いからでもあるのだが)この皮肉はビヨンセ・ノウルズにはね返るものでもあるから、そのことの方が気になってしまう。ま、そんなことは百も承知で演じているわけなのだが、ジェニファー・ハドソンの歌いっぷりがすさまじく、歌唱力だけではスターになれないという彼女の立場(実際2004年にアメリカの人気オーディション番組で決勝まで残りながら優勝出来なかったらしい)が、物語を飛び越えてきそうな迫力となって面白い状況を作り出している(もっとも、私などこの映画を観ている時はともかく、単純に音楽だけを聴くとなると、ここまで歌いこまれてはちょっと、の口だ)。

ラストは、ドリームスの(ディーナが真相を知った末の)解散コンサートで、最後の曲はドリームスの3人にエフィーが加わっての舞台となる。その歌の最中にカーティスは、座席にエフィーの娘を見つけ近づいて行く。

これはカーティスが自分の子供ということに気づいたということを描写したつもりなのだろうが、ひどい手抜きだ(これだったらない方がすっきりする)。最後の最後でこれは惜しい。途中エフィのごね方が少しくどく感じたのと合わせて、数少ないミスではないか。

 

【メモ】

第64回米ゴールデン・グローブ賞作品賞(ミュージカル/コメディ部門)、最優秀助演男優賞、最優秀助演女優賞
第79回米アカデミー賞 助演女優賞受賞(ジェニファー・ハドソン)、録音賞受賞

原題:Dreamgirls

2006年 130分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:戸田奈津子

監督・脚本:ビル・コンドン 製作:ローレンス・マーク 製作総指揮:パトリシア・ウィッチャー 原作:トム・アイン 撮影:トビアス・シュリッスラー プロダクションデザイン:ジョン・マイヤー 衣装デザイン:シャレン・デイヴィス 編集:ヴァージニア・カッツ 振付:ファティマ・ロビンソン 作詞:トム・アイン 音楽:ヘンリー・クリーガー 音楽スーパーバイザー:ランディ・スペンドラヴ、マット・サリヴァン
 
出演:ジェイミー・フォックス(カーティス・テイラーJr.)、ビヨンセ・ノウルズ(ディーナ・ジョーンズ)、エディ・マーフィ(ジェームス・“サンダー”・アーリー)、ジェニファー・ハドソン(エフィー・ホワイト)、アニカ・ノニ・ローズ(ローレル・ロビンソン)、ダニー・グローヴァー(マーティー・マディソン)、キース・ロビンソン(C.C.ホワイト)、シャロン・リール(ミシェル・モリス)、ヒントン・バトル(ウェイン)、ジョン・リスゴー(ジェリー・ハリス)、ロバート・チッチーニ(ニッキー・カッサーロ)

どろろ

楽天地シネマズ錦糸町-1 ★★☆

■醍醐景光にとっての天下取りとは

戦乱の世に野望を滾らせた醍醐景光(中井貴一)は、生まれてくる子供の48ヶ所の体と引き換えに魔物から権力を得る。ただの肉塊として生まれた赤ん坊は川に流されるが、呪師の寿海(原田芳雄)に拾われる。左手に妖刀を備えた作り物の体を与えられた赤ん坊は、百鬼丸(妻夫木聡)として成人する。

寿海が死、百鬼丸は魔物を倒せば自分の体を取り戻すことを知って旅に出るのだが、全部を取り戻すとなると48もの魔物を倒さねばならない。この魔物対決が映画の見所の1つになっている。百鬼丸に仕込まれた妖刀に目をつけた泥棒のどろろ(柴咲コウ)が、百鬼丸につけまっとってという流れだから、題名も『どろろ』よりは『百鬼丸』の方がふさわしい気がするが、手塚治虫の原作も読んだことがないので、そこらへんの事情はよくわからない。

色数を絞ったり彩度を上げたりした画面の上で、これでもかと繰り広げられるバトルの数々は、CGや着ぐるみが安っぽいながら、なにしろ相手は魔物だから造型も自由自在だし、意外にも楽しい仕上がりとなっている。

ただ、このことで百鬼丸とどろろが絆を深めていったり、体を取り戻すごとに百鬼丸が人間らしくなっていく部分は、描き込み不足の感が否めない。体は偽物(戦で死んだ子供たちの体で作られている)ながら、寿海から愛情をそそがれ、しっかりとした考えを持つ青年に育った百鬼丸は、人間の体を取り戻すことの意味をわかっているはずだ。事実、不死身だった体は、少しずつ痛みを感じるようになる。魔力を失うだけでなく、死さえ身近になってくるのである。しかし残念ながら、百鬼丸に当然生じているだろう心の葛藤は伝わってこない。父とは違う道を選んでいるこの過程こそが、後半のドラマを結実させるはずなのに。

どころか、映画は父だけでなく母の百合(原田美枝子)や弟の多宝丸(瑛太)を登場させて、焦点をどんどん曖昧にしてしまう。彼らに微妙な立場の違いや心境を吐露させて厚みを持たせたつもりなのかもしれないが、逆に家族だけの話のようになってしまって、スケール感までが失われてしまうのだ。

魔物に我が子の体を売り渡した父までが最後には改心して、結局家族はみんないい人でしたになってしまっては、腰砕けもいいところだ。しかも彼はちょっと前に、百合まで迷うことなく斬り捨てているのだ。それで改心したといわれてもねー。魔物対決の過程では庶民の生活の悲惨さにだって触れていたのに、全然納得できないよ。だいたい天下取りのための魔力を手に入れたはずなのに、20年経ってもそれは果たされず(天下統一は目と鼻の先とは言っていたが)って、よくわからんぞ。

私が理解できないのに、百鬼丸が納得してしまうのもどうかと思うが、どろろにとっても醍醐景光は親の敵だったはずで、そのどろろまでが敵討ちをあきらめてしまう。多宝丸は父が死んだあとは百鬼丸に継いでもらいたいなどと言うし、揃いも揃って物わかりがよくなってしまうのでは臍を曲げたくなる。

最後に「残り二十四体」と百鬼丸の体を持っている魔物の数が表示されるのは(まだ、そんなにあったのね)、続篇を予告しているわけで、だったら醍醐景光と百鬼丸との話は、一気にカタを付けるのではなく、じっくり後篇まで持ち越してもよかったのではないか。

「オレはまだ女にはなんないぞ」「ああ、望むところだ」というどろろと百鬼丸のやりとりが終わり近くにあったが、このふたりの関係がうまく描ければ、後篇は意外と魅力ある映画に仕上がる予感がするのだが。

  

【メモ】

制作費は20億円だから邦画としてはけっこうお金を使っている。

舞台は戦国時代から江戸時代の風俗をベースに多国籍的な要素を織り込んだもので、醍醐景光の城などは空中楼閣の工場とでもいった趣。またニュージーランドロケによる風景を背景にしていたりもするが、これは違和感がありすぎた。

2007年 138分 ビスタサイズ

監督:塩田明彦 アクション監督:チン・シウトン アクション指導:下村勇二 プロデューサー:平野隆 原作:手塚治虫 脚本:NAKA雅MURA、塩田明彦 撮影:柴主高秀 美術監督:丸尾知行 編集:深野俊英 音楽:安川午朗、福岡ユタカ 音楽プロデューサー:桑波田景信 VFXディレクター:鹿住朗生  VFXプロデューサー:浅野秀二 コンセプトデザイン:正子公也 スクリプター:杉山昌子 衣裳デザイン:黒澤和子 共同プロデューサー:下田淳行 照明:豊見山明長 特殊造型:百武朋 録音:井家眞紀夫 助監督:李相國
 
出演:妻夫木聡(百鬼丸)、柴咲コウ(どろろ)、中井貴一(醍醐景光)、瑛太(多宝丸)、中村嘉葎雄(琵琶法師)、原田芳雄(寿海)、原田美枝子(百合)、杉本哲太(鯖目)、土屋アンナ(鯖目の奥方)、麻生久美子(お自夜)、菅田俊(火袋)、劇団ひとり(チンピラ)、きたろう(占い師)、寺門ジモン(飯屋の親父)、山谷初男(和尚)、でんでん、春木みさよ、インスタントジョンソン

トゥモロー・ワールド

新宿武蔵野館2 ★★★★

■この未体験映像は映画の力を見せつけてくれる

人類に子供が生まれなくなってすでに18年もたっているという2027年が舞台。

手に届きそうな未来ながら、そこに描かれる世界は想像以上に殺伐としている。至るところでテロが起き、不法移民であふれている。だからか、イギリスは完全な警察国家となり果て、反政府組織や移民の弾圧にやっきとなっている。世界各地のニュースは飛び込んでくるものの(映画のはじまりはアイドルだった世界一若い青年が殺されたというニュース)、社会的秩序がかろうじて保たれているのは、ここイギリスだけらしい。

ただこの未来については、これ以上は詳しく語られない。2008年にインフルエンザが猛威をふるったというようなことはあとの会話に出てくるが、それが原因のすべてだったとは思えない。だからそういう意味ではものすごく不満。だいたい子供が生まれない世界で、難民があふれかえったりするのか。よく言われるのは、労働力不足であり活力の低下だが、少子化社会とはまた違う側面をみせるのだろうか。

政府が自殺剤と抗鬱剤を配給している(ハッパは禁止)というのもよくわからない。テロにしても、主人公セオ・ファロン(クライヴ・オーウェン)の古くからの友人で自由人の象徴のような形で登場するジャスパー・パルマー(マイケル・ケイン)によると、政府の自作自演と言うし。政府にとっては、自暴自棄になっている人間など生かしておいても仕方ないということか。

一方で、あとでたっぷり描かれる銃撃戦や暴動に走る人間たちの、これは狂気であって活気とは違うのかもしれないが、すさんだ行動エネルギーはどこからくるのだろう。子供の生まれない社会(つまり未来のない社会ということになるのだろうか)のことなど考えたこともないから、活力の低下にしても、社会という概念が崩壊していては、そんなに悠長ではいられないのかもしれない、と書いているそばからこちらの思考も定まらない。

エネルギー省の官僚であるセオは、元妻のジュリアン・テイラー(ジュリアン・ムーア)が率いるフィッシュ(FISH)という反政府組織に拉致される。妊娠した(こと自体がすでに驚異なのだ)黒人女性のキー(クレア=ホープ・アシティー)をヒューマンプロジェクトなる組織に引き渡すためには、どうしても通行証を持つ彼が必要なのだという。そのヒューマンプロジェクトなのだが、アゾレス諸島にコミュニティがある人権団体とはいうものの、その存在すら確証できていないようなのだ。

そして、その20年ぶりに会ったジュリアンは、フィッシュ内の内ゲバであっけなくも殺されてしまう。セオはキーとの逃亡を余儀なくされ、ジャスパーを巻き込み(彼も殺される)、不法移民の中に紛れ(通行証は役に立ったのか)、言葉も通じないイスラム系の女性に助けられ、キーの出産に立ち会い、政府軍と反政府組織の銃弾の飛び交う中を駆けめぐり、あやふやな情報をたよりにボートに乗り、海にこぎ出す。すると、霧深い海の向こうから約束どおりトゥモロー号は姿を現す。が、銃弾を浴びたセオの命は消えようとしていた。

筋としてはたったこれだけだから、まったくの説明不足としかいいようがないのだが、途中いくつかある長回しの映像が、とてつもない臨場感を生み、観客を翻弄する。まるでセオの隣にいて一緒に行動しているような錯覚を味わうことになる。冒頭のテロシーンもそうだが、ジュリアンの衝撃の死から「その場にいるという感覚」は一気に加速し、セオが逃げるためとはいえ石で追っ手を傷つけるところなど、すでにセオと同化していて、善悪の判断がどうこうとかいうことではなく、ただただ必死になっている自分をそこに見ることになる。

最後の市街戦における長回しはさらに圧巻で、これは文章で説明してもしかたないだろう。カメラに付いた血糊が途中で拭き取られていたから、少しは切られていたのかもしれないが、そんなくだらないことに神経を使ってさえ、緊張感が途絶えないのだから驚く。

銃撃をしていた兵士たちが、赤ん坊の泣き声を耳にして、しばらくの間戦闘態勢を解き、赤ん坊に見入る場面も忘れがたい。この前後の場面はあまりに濃密で、だからそれが奇跡のような効果を生んでいる(赤ん坊の存在自体がここでは奇跡なのだから、この説明はおかしいのだが)。

セオは死んでしまうし、トゥモロー号が本当にキーと赤ん坊を救ってくれるのかは心許ないし、最初に書いたように背景の説明不足は否めないし、と、どうにも中途半端な映画なのだが、でも例えば、自分は今生きている世界のことをどれほど知っているだろうか。この映画で描かれる収容所や市街戦は、まるで関係のない世界だろうか。そう自問し始めると、テレビのニュースで見ている風景に、この映画の風景が重なってくるのだ。これは近未来SFというよりは、限りなく今に近いのではないかと。ただその場所に自分がいないだけで。

この感覚は、セオと一緒になって市街戦の中をくぐり抜けたからだろう。そして、我々が今を把握できていないかのようにその世界観は語られることがないのだが、それを補ってあまりあるくらいに、市街戦や風景の細部(セオの乗る電車の窓にある防御用の格子、至るところにある隔離のための金網、廃液のようなものが流れ遠景の工場からは煙の出ている郊外、荒廃した学校に現れる鹿など)がものすごくリアルなのだ。

 

【メモ】

なぜ黒人女性のキーは妊娠できたのか?(この説明もない)

セオはジュリアンとの間に出来た子供を事故で失っている。

ジャスパーは、元フォト・ジャーナリスト。郊外の隠れ家でマリファナの栽培をし、ヒッピーのような生活をしている。

原題:Children of Men

2006年 114分 ビスタサイズ アメリカ、イギリス 日本語字幕:戸田奈津子

監督:アルフォンソ・キュアロン 原作:P・D・ジェイムズ『人類の子供たち』 脚本:アルフォンソ・キュアロン、ティモシー・J・セクストン 撮影:エマニュエル・ルベツキ 衣装デザイン:ジェイニー・ティーマイム 編集:アルフォンソ・キュアロン、アレックス・ロドリゲス 音楽:ジョン・タヴナー
 
出演:クライヴ・オーウェン(セオ・ファロン)、ジュリアン・ムーア(ジュリアン・テイラー)、マイケル・ケイン(ジャスパー・パルマー)、キウェテル・イジョフォー(ルーク)、チャーリー・ハナム(パトリック)、クレア=ホープ・アシティー(キー)、パム・フェリス(ミリアム)、ダニー・ヒューストン(ナイジェル)、ピーター・ミュラン(シド)、ワーナ・ペリーア、ポール・シャーマ、ジャセック・コーマン

トンマッコルへようこそ

シネマスクエアとうきゅう ★★★☆

■トンマッコルでさえ理想郷と思えぬ人がいた!?

朝鮮戦争下の1950年に、南の兵士に北の兵士、それに連合軍の兵士が、トンマッコルという山奥の村で鉢合わせすることになる。村の名前が最初から「トン¬=子供のように、マッコル=純粋な村」というのが気に入らない(昔からそう呼ばれていたという説明がある)が、要するに、争うことを知らない心優しい村人たちの自給自足の豊かな生活の中で、戦争という対極からやってきた兵士たちが、何が本当に大切なのかを知るという寓話である。

南の兵士は脱走兵のピョ・ヒョンチョル(シン・ハギュン)に、彼と偶然出会った衛生兵のムン・サンサン(ソ・ジェギョン)。北の兵士は仲間割れのところを襲撃されて逃れてきたリ・スファ(チョン・ジェヨン)、チャン・ヨンヒ(イム・ハリョン)、ソ・テッキ(リュ・ドックァン)。連合軍の米兵は数日前に飛行機で不時着したというスミス(スティーヴ・テシュラー)。

敵対する彼らが一触即発状態なのに、村人にはそれが理解できず、頭の弱いヨイル(カン・ヘジョン)に至っては、手榴弾のピンを指輪(カラッチ)といって引き抜いてしまう。このあと手榴弾が村の貯蔵庫を爆破して、ポップコーンの雪が降る。

が、私の頭は固くて、すぐにはこの映画の寓話的処理が理解できずに、あれ、これってもしかしてポップコーン、などとすっとぼけていた。でかいイノシシの登場でやっとそのつくりに納得。導入の戦闘場面のリアルさに頭が切り換えられずにいたのだ。ヨイルという恰好の道案内がいて、蝶の舞う場面(これはあとでも出てくる)だってあったというのにね。

イノシシを協力して仕留めるし(村人が食べもしないし埋めない肉を、夜6人で食べる)、村の1年分の食料を台無しにしてしまったことのお詫びにと農作業にも精を出すうちに、6人は次第に打ち解けていくのだが、スミス大尉の捜索とこの地点が敵の補給ルートになっていると思っている連合軍は、手始めに落下傘部隊を送ってくる。

このことがヨイルの死を招き、彼らに村を守ることを決意させることになる。爆撃機の残骸の武器を使って対空砲台に見せかけ、村を爆撃の目標からそらそうというのだ。

架空の村トンマッコルには、朝鮮戦争という国を分断した戦いをしなければならなかった想いが詰まっているのだろうが、この命をかけた戦いにスミスまでを参加させようとしたのには少し無理がなかったか。キム先生の蔵書頼みの英語だってまったく通じなかったわけだから、スミスはかなりの間つんぼ桟敷状態に置かれていたのだし。ま、結果として彼は、連合軍に戻って爆撃をやめさせるという順当な役を割り当てられるのではあるが。

軍服を脱いだ彼らが、村を守るためにはまた武器を取るしかない、というのがやたら悲しくて、とてもこれを皮肉とは受け取れない。天真爛漫なヨイルの死で、すでに村も死んでしまったと解釈してしまったからなのだが。そして、連合軍の飛行機の落とす爆弾があまりにもきれいで(どうしてこれまで美しい映像にしたのだ!)、私にはこの映画をどう評価してよいのかさっぱりわからなくなっていた。「僕たちも連合軍なんですか」「南北連合軍じゃないんですか」という、爆撃機に立ち向かっていく彼らのセリフの複雑さにも、言うべき言葉が見つからない。

ところで、トンマッコルは誰にとっても理想郷かというと、これが意外にもそうではないようなのだ。リと親しくなるドング少年の母親が「ドングの父親が家を出て9年」と言っているのだな。ふうむ。どなることなく村をひとつにまとめている指導力を問われて、村長は「沢山食わせること」と悠然と答えていたが、たとえそうであっても人間というのは一筋縄ではいかないもののようだ。

  

【メモ】

ピョ・ヒョンチョルが脱走兵となったのは、避難民であふれている鉄橋を爆破しろと命令されたことで、これがいつまでも悪夢となって彼を悩ませる。

原題:・ー・エ 妤ャ ・呱ァ賀ウィ  英題:Welcome to Dongmakgol

2005年 132分 シネスコサイズ 韓国 日本語字幕:根本理恵

監督:パク・クァンヒョン 原作: チャン・ジン 脚本:チャン・ジン、パク・クァンヒョン、キム・ジュン 撮影:チェ・サンホ 音楽:久石譲
 
出演:シン・ハギュン(ピョ・ヒョンチョル)、チョン・ジェヨン(リ・スファ)、カン・ヘジョン(ヨイル)、イム・ハリョン(チャン・ヨンヒ)、ソ・ジェギョン(ムン・サンサン)、スティーヴ・テシュラー(スミス)、リュ・ドックァン(ソ・テッキ)、チョン・ジェジン(村長)、チョ・ドッキョン(キム先生)、クォン・オミン(ドング)

トリスタンとイゾルデ

新宿武蔵野館1 ★★★★☆

■丁寧なつくりの重厚なドラマが楽しめる(苦しめられる)

(↓ほとんど粗筋ばかりなので読まない方がいいかも)

ローマ軍が撤退したあと、強大なアイルランド王に対抗する連合を打ち立てられないイギリスは、暗黒時代が続いていた。トリスタン(ジェームズ・フランコ)は幼い時に両親をアイルランド軍に殺され、命の恩人であるコーンウォールの領主マーク(ルーファス・シーウェル)のもとで成長する。トリスタンは自分の立てた作戦で、アイルランド王の片腕であるモーホルトを仕留めるが、自身も傷つき、毒薬のため死んだと思われて船葬で海に流される。

アイルランドに流れ着いたトリスタンを見つけたのはアイルランド王の娘イゾルデ(ソフィア・マイルズ)で、解毒の方法に詳しい彼女によって彼は一命を救われる。彼女の献身的な看病のうち、ふたりは恋に落ち海岸の小屋で結ばれる。

トリスタンを最初に発見したのがイゾルデというあたりに多少無理はあるものの(イギリスと敵対しているのに海岸線の防備はどうなっているのだ)、よく練られた脚本で、導入部から無理なく物語に入っていくことができる。歴史的な背景もわかりやすく説明してある。

船葬が発見されてしまったため、イゾルデの正体を知ることもなく、一旦はイギリスに戻るトリスタン。死んだと思っていたマーク王は、我がことのように喜ぶ。一方アイルランド王はモーホルトを失った(実は王との間で、イゾルデを妻にする約束が出来ていたのだが)ことから体勢を立て直す意味もあって、イゾルデと領地を餌にイギリスの領主たちに最強戦士を決める試合を開催するという知らせを出す。

褒美に釣られて半数の領主が参加するなか、自分の愛した女性がイゾルデであることを知らないトリスタンは、マーク王に「自分が名代になって出場して勝ち、イギリスの盟主と目されているあなたがアイルランド王女を妻に迎えることになれば、血を流さずに平和がもたらされる」と説く。

筋ばかり追ってしまっているが、これが巧妙なのだ。イゾルデをモーホルトから守ったのがトリスタンならば、そのイゾルデを親代わりであるマーク王に嫁がせたのもトリスタンということになるからだ。

王女争奪戦でのトリスタンの活躍はなかなかだ。仕組まれたインチキ試合に勝ち上がっていくトリスタンをカメラは魅力的に追う。恋愛劇の側面が強調されているが、この試合だけでなく、森での戦いや、城攻めの場面などどれも正攻法ながら迫力がある。また、俯瞰で捉えた城の内部や夜の挙式など、静の部分の美しさにも魅せられる。

「ここが忠義のない世界だったら私と結婚してくれた?」「そんな世界などない」「初夜がつらいわ」人目を忍んで交わされるトリスタンとイゾルデの会話が切ない。というか、
マーク王と睦まじくしているイゾルデを、地獄にいるトリスタンは「妻を演じるのに少しは苦労するかと」となじってしまう。

そしてマーク王の立派さが、さらに悲劇を際だたせる。トリスタンにとってマーク王は忠義以上に尊敬の対象(王としての資質のみならず、トリスタンを救う時に右手まで失っている)だし、イゾルデもトリスタンと知り合っていなければマーク王の愛を受け入れていたはず(優しくて憎めない人)なのだ。なのに、初恋の情熱故か、イゾルデはトリスタンに「愛に生きる」ことを宣言させてしまう。

密会を重ねる当のトリスタンに、マーク王はイゾルデの素行調査を依頼する。いや、詳しく書くのはもうやめるが(書くだけでもつらい話だ)、とにかく、この隙をつくようにアイルランド王と裏切り者が動きだし、マーク王は事実に直面する。が、イゾルデからトリスタンが瀕死の時に知り合ったことを訊いて、何も言わずふたりを解放しようとする。

しかし、トリスタンは「愛が国を滅ぼしたと伝えられる」と言ってマーク王のために戦うことを選ぶ。マーク王の寛容さに応えずにはいられなかったのだろうが、結局は彼には死が待っていた。「生は死より尊い。だが愛はもっと尊い」「ふたりの愛は国を滅ぼさなかった」という、ここだけ聞いたらおちゃらかしたくなるような結末なのだが、素直にしんみりできる。

アイルランド王の、娘を将棋の駒の1つとしか考えていない酷薄さや、トリスタンと同い年で、彼の存在故に常に2番手に甘んずるしかなかったマーク王の甥の悲しさなども、きちんと描かれていた。これでイギリスの部族間の抗争がもう少し深く捉えられていたら言うことがないのだが。

私の書いた文章からだと重たくるしい映画というイメージしか残りそうもないが、例えばトリスタンを人肌で温めようとするイゾルデが乳母にも裸になるように言うと、乳母は嬉々として「男と抱き合うのは15年ぶりよ」と言う。このあとトリスタンの正体を知って乳母が「イギリス人ですよ」と窘めると、イゾルデは「捕虜にしたの」と答えるのだ。まだ恋のはじめのはじめ、楽しい予感に満ちたひととき……。

 

原題:Tristan + Isolde

2006年 125分 サイズ■ アメリカ 日本語字幕:古田由紀子

監督:ケヴィン・レイノルズ 脚本:ディーン・ジョーガリス 撮影:アルトゥール・ラインハルト 編集:ピーター・ボイル 音楽:アン・ダッドリー
 
出演:ジェームズ・フランコ(トリスタン)、ソフィア・マイルズ(イゾルデ)、ルーファス・シーウェル(マーク)、 デヴィッド・パトリック・オハラ、マーク・ストロング、ヘンリー・カヴィル、ブロナー・ギャラガー、ロナン・ヴィバート、ルーシー・ラッセル

東京フレンズ The Movie

TOHOシネマズ錦糸町-7 ★★

■1番最初に描いた夢などとっくに忘れてしまった身としては

題名にThe Movieとあるのは先行してDVD作品があるかららしいのだが、もちろんそれは未見。最初の方で、それまでのバンドの経緯などが少し駆け足気味だったり涼子(真木よう子)の場合結婚が決まっていたりするのは、映画用にダイジェストにしたのだろう。ほかの部分でも続編扱いのようなところがあった。

高知から上京してきた玲(大塚愛)が、東京でバイトをしながら自分の夢をかなえていくという話。他の女の子3人も同じ居酒屋のバイト仲間(1人はアメリカにいたから違うのかも)で、玲が音楽なら、芝居に結婚に絵と、結婚(これも雰囲気からすると玉の輿願望だったような)はともかく、じいさん視線で見るとどれもハードルが高く少々浮ついたもの。

もっともそれを言ってしまったらおしまいか。何度も繰り返される「1番最初に描いた夢をあなたは覚えてる?」というセリフがこの映画の言いたいことらしいから。そう言われてしまうと、夢を具象化することすら出来なかった身としてはぐうの音も出ないのだが。

4人の中で話のメインになっている玲だが、彼女にとっては夢が描けなかったのは田舎にいた過去のことであり、バンドが成功の道を駆け上がりつつある今、あの頃よりはずっと幸せなのだと言う。そんな玲だが、「お前の声が好き」と自分のことを認めてくれた隆司(瑛太)のことがいつまでも忘れられない。彼は自分の詩で歌いたいとバンドを去り、そのあともトラブルを起こして姿を消したままだったのだ。

隆司が消えたのは、移籍したメジャーデビュー目前だった「フラワーチャイルズ」というバンドで、メンバーが暴行事件を起こしたことによる。が、これはあとでわかることなのだが、そもそもは「サバイバルカンパニー」が玲のバンドになってしまうことを恐れていたからのようだ。

このあと真希(小林麻央)の情報で、ニューヨークに渡った玲は隆司を見つけ、彼に自分の気持ちをやっと伝える。思いっ切り予定通りの展開だよ。しかも街で見かけただけという曖昧な情報(旅行だったらどうするんや)だけで土地勘もない(真希も手伝ってはくれたが)イーストビレッジを歩き回って探し出してしまうんだからねぇ。そして東京からはライブの予定が迫っているというファクスが。どうする!

というわけで、甘ーい時間を楽しんだあと、ひと通りの悶着があって(隆司の生き方はそう簡単には決められないものね)、でも結末はとりあえずは玲1人で日本に帰るという、これはいい意味で裏切ってくれたわけだけど、言っていないことがあったからと空港で「アイ、ラブ、ユーッ!」と大声で叫けばれては、じいさんとしてはついていけないのだな。しかも「日本語で言ってよ」と返してたけど、あれは私にもわかるくらいの正真正銘の日本語ではなかったかと。

最後はライブシーン。これはさすがに様になっていて、挽回しようとしてか3曲フルで流していた。

他の子たちにも簡単にふれておくと、ひろの(松本莉緒)は先輩にふられて新しい劇団に移る。ここで詐欺事件に巻き込まれ、先輩を見返してやろうとした公演はあえなくオジャンとなってしまう。が、その過程で人に頼らず自分自身で生きていく足がかりを見つける。涼子は結婚生活の現実に直面し、真希は実はニューヨークでは絵は1枚も売れてはおらず、同居の彼、小橋亨(佐々木蔵之介)がハードゲイだったという新事実も……。

こうやってながめてみると、そうは甘い話にはなっていないのだけど、何か違和感が。たぶん夢について必要以上に言葉で語りすぎているからではないだろうか。最後のライブシーンになっても、まだ「あなたのために」とか「隆司が見つけてくれた夢だから」とか言ってたもんなー。

  

【メモ】

バイトの居酒屋は「夢の蔵」。

「結婚式も新婚旅行もなし……じゃあ何のための結婚?」(涼子)。

ニューヨーク行きは、涼子が新婚旅行(1人で行く?)のチケットを玲に譲ってくれて実現する。HISのチケット。宣伝はもう少しさらっと見せんか!

再会した隆司は記憶喪失になったとか馬鹿なことを言う。言うだけでなく、行動も。

2006年 115分 サイズ:■

監督:永山耕三 脚本:衛藤凛 撮影:猪本雅三 美術:磯見俊裕 音楽:佐藤準
 
出演:大塚愛(岩槻玲)、松本莉緒(羽山ひろの)、真木よう子(藤木涼子)、小林麻央(我孫子真希)、瑛太(新谷隆司)、平岡祐太(田中秀俊)、伊藤高史(奥田孝之)、中村俊太(永瀬充男)、佐藤隆太(里見健一)、佐々木蔵之介(小橋亨)、北村一輝(笹川敬太郎)、勝村政信(笹川和夫)、古田新太(和田岳志)

時をかける少女

テアトル新宿 ★★★☆

■リセットで大切なものがなくなって

3度目の映画化らしいが、この作品は原作を踏まえたオリジナルストーリーで『時をかける少女2』という位置づけのようだ。というのもそもそものヒロイン芳山和子が、この映画のヒロインである紺野真琴の叔母という設定だからだ。

真琴は東京の下町に住むごくごく普通の高校2年生。クラスメートの間宮千昭と津田功介とめちゃ仲がよくて、3人で野球の真似事をする毎日。って普通じゃないような。男友達が1番の親友なのは真琴のさっぱりした性格と、友達から恋に発展する過程に絶好の設定と思ったのだろうが、今時の高校生という感じが私にはしないんだけど。

ま、それはともかく、真琴は夏休み前の踏切事故で自分にタイムリープの能力があることを知る(能力を手に入れたのは学校の理科室なのだが、まだこの時にはそのことはわかっていない)。そしてその力を真琴はおもちゃで遊ぶように使ってしまう。自分の都合の悪いことが起きると、その少し前に戻ってリセットしてしまうわけだ。

真琴の安易な発想が『サマータイムマシン・ブルース』(05)的なのには笑ってしまうが、この小さなタイムリープの繰り返しは、私たちが何気なく過ごしてしまう日常に、多くの反省点が潜んでいるということを教えてくれる。反省点と言うと大げさだが、見落としていることが多いのは確かで、真面目くさってやり直しを続ける真琴に馬鹿笑いしながらも、そんなことを感じていたのだ。

であるからして、見落としたことが沢山あるにしても、くれぐれもプリンを取り戻すようなことには使わないように。そう、真琴も「いい目をみている自分」がいることで「悪い目をみている人」が出来てしまうことに気が付くのだ。

そんなタイムリープ乱用中の真琴に、千昭から告白されるという思わぬ展開がやってくる。狼狽のあまりタイムリープで告白自体をなかったことにしてしまうのだが、そこ(新たに現れた過去)では今度、千昭に同級生の早川友梨が告白し、千昭もまんざらではない様子なのだ。好きだと言われたばかりの真琴は複雑な気分だ。ボランティア部の下級生藤谷果穂からは功介に対する相談まで受けて……。

リセットで大切なものをなくしてしまったことに思い至る真琴だが、実はタイムリープも限界に近づいていて(体にチャージして使用する)、どうやら腕に出てくるサインが本当なら、あと1度しか使えないらしいのだ。

このあと千昭が未来人で、和子叔母さんが修復している絵を見にここ(現在)にやってきたことなど、いろいろな謎が解き明かされていく。千昭にも残されたタイムリープはあと1度で、でもそれは自分の帰還にではなく、功介と果穂を助けるために使われることになる。そして真琴に残された1度のタイムリープは……。

千昭との別れは必然であるようだが、でも自分勝手な私はそう潔くはなれない。「未来で待ってる」「うん、すぐに行く。走って行く」でいいのかよ、って。いいラストなんだけどね。

で、やっぱり気になってしまうのは、「魔女おばさん」(真琴がそう呼んでいる)の和子だろう。博物館で絵画の修復の仕事をしている30代後半の未婚の女性という設定だと、まだ何かを待っているということになるが(ということは真琴も?)。

それにしては、真琴から相談を受けても落ち着いたものだ。タイムリープを「年頃の女の子にはよくあること」にしてしまうし、「よかった。たいしたことには使っていないみたいだから」と野放しにしていても平然としている。真琴を信頼しているにしても、この達観はどこから来ているのだろう。落ち着いてる場合じゃないよ。だって自分のことにも使えるかもしれないし、とにかくもっといろいろ聞き出したくなるが、ほじくり出してしまっては収拾がつかなくなってしまって、やはりまずいのかも。ここは単なる原作や前作へのリスペクトとわきまえておくべきなのだろう。

タイムマシンものはどうしても謎がつきまとって、これをやりだすとキリがないが、この映画で描かれるタイムリープは、過去に戻っても自分と遭遇することはない。つまりそこにいるのは未来の記憶を持った(その分だけ余計に生きた)自分のようだ。うーむ。これは考え出すと困ったことになるのだが、ということは真琴も千昭も互いにタイムリープしていると、どんどん違う世界を作り出していって、結局は自分の概念の中にしか住めない狭量な世界観の持ち主ってことになってしまうんでは。ま、いっか。

   

【メモ】

学校の黒板にあった文字。Time waits from no one.

津田功介は幼なじみで、医学部志望の秀才。千昭は春からの転校生。

「真琴、俺と付き合えば。俺、そんなに顔も悪くないだろ」(千昭)。

「世界が終わろうとした時に、どうしてこんな絵が描けたのかしらね」(修復した絵を前にして和子が言う)。

絵は千昭によると、この時代だけにあるという。絵が失われてしまうような希望のない未来。

「お前、タイムリープしていない?」千昭は、真琴のタイムリープに気付く。何故? これは不可能なのでは。千昭の説明だとタイムリープの存在を明かしてはいけないことになっているが?

腕に表れるサイン。90。50。01。

「人が大事なことをはなしているのに、なかったことにしちゃったの」と千昭の告白をリセットしてしまったことを後悔する真琴。

「(絵が)千昭の時代に残っているように、なんとかしてみる」(真琴)。

2006年 100分 配給:角川ヘラルド映画 製作会社:角川書店、マッドハウス

監督:細田守 脚本:奥寺佐渡子 原作:筒井康隆『時をかける少女』 美術監督:山本二三 音楽:吉田潔 キャラクターデザイン:貞本義行 制作:マッドハウス

声の出演:仲里依紗(紺野真琴)、 石田卓也(間宮千昭)、板倉光隆(津田功介)、 原沙知絵(芳山和子)、谷村美月(藤谷果穂)、 垣内彩未(早川友梨)、 関戸優希(紺野美雪)

トリック 劇場版2

2006/8/6 銀座テアトルシネマ ★★★

■自虐陶酔片平なぎさショー

仲間由紀恵と阿部寛主演の人気テレビドラマを映画化(しかも2作目)したものなので、テレビも観なければ1作目の映画も知らない私には取っ付きにくいかと心配したが、そこらへんのサービスは心得ていて、まったく問題なく観ることができた(見落としもあるだろうし、劇中に散りばめられた山ほどの小ネタも相当見逃していると思われるが)。

というか、その程度の作品。いかにもテレビ的というか、どこから参加しても一応は楽しめてしまうという造りになっている。そして、くだらない話になるが、タダのテレビだったらともかく、1800円の正規料金で観たら腹が立ってしまうということも。

いや、しかし私はこういうハチャメチャな作品は好きだなー、ふざけすぎと思う人も多いだろうけどね、って、え、はい、私? うん、タダ観。はは。

自称「売れっ子」奇術師の山田奈緒子(仲間由紀恵)だが、花やしきでの興行もクビになって家賃滞納をどうするかが目下の悩み。そこに物理学者の上田次郎(阿部寛)が、おいしい話(とも思えないのだが)を持ってくる。肩書きこそすごいが、上田が山田に頼り切りなのは、どうやらお約束のようだ。

勘違いで、上田に事件解決を依頼してきたのは富毛村の青沼(平岡祐太)という青年で、10年前に神隠しにあった幼なじみの美沙子(堀北真希)を筐神佐和子(片平なぎさ)から取り戻してほしいというもの。で、「よろしくね」教団じゃなかった「ゆーとぴあ」教団のある筺神島に乗り込んで行く。

筋はあってなきがごとし、というかどうでもいい感じ。連れ去られたというが、美佐子は筐神佐和子の実子だし(それより何故捨てたんだ?)、確かに筺神島の島民を騙す形でそこに居座ってしまったのだが、特別この教団が悪いことをしている様子もない。

奥行きのない部屋に閉じ込めて生活させていたというよくわからない話も出てくるが、佐和子は美佐子に自分の跡を継がせたくて、霊能力の素質がないものかと悩んでいたわけだし(ということは全部がインチキというのでもないのかや)、美佐子の方も昔のことを思い出し母親を受け入れる気になったというのに、佐和子は「私は汚れた人間です」と、最後は自虐陶酔路線を突っ走る。片平なぎさショーだな、こりゃ。

一応トリックとその種明かしも見せ場になっているようだが、すべて予想の範囲内のもの(それにこれは明かされた時点で陳腐化してしまうしね)。だから苦しいのはわかるのだけどね。山田の立場もなくなるわけで。それに、別のシリーズになってしまうか。

でも私としては、そんなことより、自著がブックオフに出回っていることを喜ぶ上田や、北平山市を北ヒマラヤ市と思い込んでいた山田里見(野際陽子)というお馬鹿映画であってくれることの方が喜ばしい。ただし、貧乳と巨根(両方とも変換しない。ATOKは品性があるのね)はやめた方がいいような(『トリック』は下ネタもウリらしいが)。

最後は河川敷で、ふたりの不器用なロマンス(以前?)が繰り広げられるが、あれ、山田と上田の乗っていない車が動いている!? と思ったらその横に大きく「完」の字が……。

  

【メモ】

巻頭ではヒトラーを悩ましたというイギリスの手品師ジャスパー・マスケリンを簡潔に紹介。でもそれだけ、なんだが。

筐神島は九十九里浜のかなり沖合にある(ってここは何もないところだが)。「リゾート開発に失敗し捨てられたホテルを我々(教団)が接収」したという。

山の頂上にある巨大な岩(張りぼてっぽく見える)は佐和子ひとりが1晩で海岸から持ち上げたもの。これで島民の支持を得る。トリックはこんなものにしても、その時使った袋はすぐ回収するでしょ、普通。

美佐子の「素敵な殿方」は上田なの。このシーンの他、頭が大きくなったり、腕が伸びたりするCGも。

美佐子が捨てられてから長野の富毛村(不毛村)で起きるようになった災いというは?

長野県での平成の大合併による選挙。これに山田里見が出馬。落選。対抗馬は島田洋七や志茂田景樹らだったが、誰が当選したのだったか?

2006年 111分

監督:堤幸彦 脚本:蒔田光治 撮影:斑目重友 美術:稲垣尚夫 編集:伊藤伸行 音楽:辻陽

出演:仲間由紀恵 (山田奈緒子)、阿部寛 (上田次郎)、片平なぎさ (筐神佐和子)、堀北真希 (西田美沙子)、野際陽子 (山田里見)、平岡祐太 (青沼和彦)、綿引勝彦 (赤松丑寅)、上田耕一 (佐伯周平)、生瀬勝久 (矢部謙三)