ディア・ドクター

新宿武蔵野館3 ★★★★☆

写真1:西川美和、笑福亭鶴瓶、瑛太、八千草薫のサイン入りポスター。写真2、3:「実際の撮影で使われた神和田診療所の看板や、鶴瓶師匠が演じたDr.伊野愛用のドクターバッグや聴診器、その他の小道具を展示しております。」(写真3にある黒いプレートにあった説明文)

■人を判断するもの

『ゆれる』に続いてのこの『ディア・ドクター』(『蛇イチゴ』は未見だし『ユメ十夜』の[第九夜]は、短すぎてピンとこなかったが)、やはり西川美和は只者ではなかった。最後の方にちょっとした疑問はあるが、傑作なのは間違いない。溶け出したアイスという小道具にまで目が行き届いた演出に、『ゆれる』でのたくっていたホースを思い出した。

話は単純だ。伊野が無医村に来て三年、彼の評価は上々で、どころか上がるばかりだったのに、突然失踪してしまい、刑事が行方を調べはじめる。映画は、その聞き込み調査と、伊野のところに研修医の相馬がやってきて来てからの、つまり現在と少し前の過去を巧みに組み合わせた構造になっていて、この二つは、ところどころで、伊野(だけではない)の実像と虚像とを対比する。

虚像とはむろん伊野が偽医者だったことを指す(と書いてしまったが、これは周囲が勝手に作り上げたもののようでもあり、なかなかに難しい)。伊野の虚像部分に対する松重豊演じる刑事の歯に衣着せぬ物言いは的を射たものだが、反面、伊野に対する村人たちの見方や反応を限定してしまいそうで、心配になる。

伊野を連れてきて鼻高々だった村長の落胆は大きく、伊野様々だった村人たちでさえ、もう陰口をききはじめる始末だ。そういう光景を散々見ながらも、刑事は、いま伊野がここに戻ったら、案外袋だたきになるのは僕らの方かも、と漏らす。失踪調査で偽医者であることが判明して、すぐにこんな状況なのは、結局のところ、伊野への評価もすべて肩書きがあったからということになってしまう。それとも刑事の発言は、村人たちの反応が、刑事である自分へ向けた表向きの顔であることを見透かしてのものなのか(なら、自分の発言の及ぼす力のこともわかっているのだろう)。

もっとも映画の主眼は、そういうことの追求ではなさそうである(付随した効果という意味では大いに意識してやっているのだろうが)。また逆に、偽医者に対する関係者の反応を面白がっているというのでもなく、ただ、事例を並べていったという感じなのだ。まあ、それこそ巧妙に並べられているのではあるが。

他にも薬屋(問屋?)の営業マンとの怪しい関係など、なんとも興味深いものもあるが、結局、伊野が何を考えていたのかはわからない。推測するならば、高給(年二千万円もの大金を村は支払っていた)に見合ったことくらいは多少なりともしようと思ったのか(偽物としては本物以上の気配りが必要だったはずだ)。あるいは(またはその結果として)人に喜ばれることの楽しさを知ってしまったのだろう(これは大いにありうることだ)。

そして映画は、その喜ばれていることが一筋縄ではいかないことを描くのも忘れていない。

死にかけている老人を前に伊野は手を尽くそうとする。が、家族の方はもう大往生なのだからと、死んでくれることを願っている場面がある。臨終宣言のあと、伊野が老人を抱きかかえて「よう頑張った」と背中をさすってやると、つかえていた物がとれ息を吹き返す。集まっていた村人の万歳三唱の中、帰って行く伊野。万歳の中に家族の姿があったかどうか思いだせないのだが、たとえあったとしても、もうそれは伊野には知られてしまったことで、だからってそれすら家族は何とも思ってはいないのだろうが……。

伊野の命取りとなる鳥飼かづ子の場合にも、それぞれの事情が存在する。胃の調子の悪いかづ子は、娘たちの、とりわけ東京で女医になったりつ子には心配をかけまいと思っていて、伊野に一緒に嘘ついてくれと言う。りつ子の方は、父の死の時にも取り返しのつかないことをしてしまったという想いがあるらしく、知らないまま何かがあってはと、医者のはしくれとしての恐れもあるのだった。

伊野の必死の勉強(偽医者だからね)にもかかわらず、当然ながらかづ子の胃癌は進行し、盆休み?で帰ったりつ子と伊野の間で、偽(薬屋)の胃カメラの写真を前に、医学的見解が述べられ、りつ子も伊野の意見に納得する(勉強の成果なんだろう)。が、このあと、りつ子の次の帰省が早くて一年後ということを知ると、急に慌てたように、ここで待つようにりつ子言い残して伊野は姿を消してしまうのだった(この、ここで待ては、自分の代わりに村で診療し、母親を診ろと言っているようにもみえるが、これは考えすぎか)。

伊野は、経験豊かな看護婦の大竹主導で気胸の患者を救い(この場面は見物だった)、街の総合病院に運んで手術が行われている時にも姿を消そうとしているかのようだった。だから伊野は慌ててはいたが、逃げ出すタイミングを計っていたのかもしれず、でなければ相馬に僕は免許がない(これは車のだったが)とか、偽医者だ、とは冗談にでも言えなかったのではないか。

伊野の失踪で、診療所の看板は下ろさざるを得なくなる。なにしろ年収二千万でもなり手がいないのだ。ってことは、それ以上に医者は儲かるのか。または、やはり僻地生活などしたくないってことなのだろう。必要以上に多くを語らないのがこの映画だが、こういう誰もが抱く疑問や無医村の問題については、なるほどと思う。しかしそれにしても、大竹や相馬の失踪後の伊野評がはっきりしないのは何故か。一番の関係者たちなのに時間もそう長くとっていないから、これはわざとなのか。

大竹は地元での職を失うわけで、といって伊野を弁護しても何も得られないことくらいはわきまえていそうである。刑事も大竹には伊野との関係に話題を振っていた(大竹は否定)。相馬は伊野に入れ込んでいて、将来はここにこようと思っていたくらいだから、しどろもどろなのも無理はない。そしてやはり研修医という立場では自分を取り繕うしかなかったのだろう。こんなだから「伊野を本物に仕立てようとしたのはあんたらの方じゃないのか」と刑事に毒づかれてしまう。

意外なことに(かづ子の家族としてなら意外でも、医者としてなら必然なんだろう)最後になって伊野を信頼(そこまではいっていないのかも)しようとしたのはりつ子で、「あの先生なら、どんなふうに母を死なせたのかなぁ」と刑事に伊野を捕まえたら聞いてほしいと頼んでいた。

ここでどうにも気になるのがかづ子の応対で、刑事の事情徴収に、伊野を信用したことを怖いと言い、あなたに何かをしてくれたかという問いには、何も、と答えているのだ。何もしてくれないように頼んだのは他ならぬかづ子自身で、だからその答えは間違いではないにしても、伊野は彼の持てる力以上のことをしてくれたのではなかったか。だからかづ子の答えは、成り行きで言ってしまったにしても、そう簡単には受け入れられないものだ(これが最初に浮かんだ疑問である)。

このあと、伊野と刑事たちが駅のプラットホームで、気付くこともなくすれ違う場面がある。そして最後は、入院中のかづ子と伊野が鉢合わせして、二人が笑って、映画はお終いとなる。

この場面のためにホームでのすれ違い場面を用意したのだろう。これは気が利いた処理である。が、二人の笑顔で終わらせたいのであれば、かづ子の刑事に対する答えはもう少し違ったものでなければ、と思ってしまう。そうでないのなら、このラストは外してしまうべきではないか。

ただ、伊野が東京の、それもわざわざりつ子が勤務する病院の職員(それとも出入りの業者か何かなのか)になっているのが、大いに引っかかるところである。伊野はりつ子の勤務先までは知らなかったのだろうか。そうでなくても病院に出入りした場合の危険性は考慮するのが当然ではないか。それともこれはわかっていてのことなのか。職員でなく、単にかづ子に会いに行ったのだとしたら……。

考え出すと切りがなくなるのだが、笑顔の裏にある伊野という男のある部分がちらついて仕方がなくなってくる。そこまでを含めたラストということなら、これはこれで人間の業を考えさせる怖い結末だろう。

  

2009年 127分 ビスタサイズ 配給:エンジンフィルム、アスミック・エース

監督・原作・脚本:西川美和 プロデューサー:加藤悦弘 企画:安田匡裕 撮影:柳島克己 美術:三ツ松けいこ 編集:宮島竜治 音楽:モアリズム 音楽プロデューサー:佐々木次彦 衣裳デザイン:黒澤和子 照明:尾下栄治 録音:白取貢、加藤大和

出演:笑福亭鶴瓶(伊野治)、瑛太(相馬啓介/研修医)、余貴美子(大竹朱美/看護婦)、八千草薫(鳥飼かづ子)、井川遥(鳥飼りつ子/かづ子の娘、医師)、香川照之(斎門正芳/薬屋の営業)、松重豊(刑事)、岩松了(刑事)、笹野高史(村長)、中村勘三郎(総合病院の医師)

ターミネーター4

新宿ミラノ2 ★★★

写真:六月七日に先行上映された時のミラノ座の入口のタイムテーブル。六時十五分の回に来た強者は何人いたのかしら。

■未来の話なのに新鮮味に乏しい

シリーズものの映画感想文を書く度、記憶力のなさという弁解から始めなくてはならないのは気が引けるが、事実なのでどうしようもない。真面目な映画ファンならDVDで過去の作品をおさらいしておくのだろうが、そういうマメさを持ち合わせていないので、かなりアバウトな鑑賞になっていることをまず断っておく。

しかしながらこの作品、過去のしがらみから切り離してみると(記憶力の乏しさ故そういう観方しかできないのではあるが)なかなかよく出来ていることに気づく。

なんとも不気味なコロムビア映画のタイトルから、「審判の日」を迎えてしまった二千十八年の世界を覆い尽くしている暗さが、尋常でないことを物語る。次々と登場する人間狩りマシーンによってもたらされる殺伐とした世界の描写にはお手上げで、とてもこんなヤツらの目をかすめてなど生きていけそうもない気分になる。巨大ロボットやモトターミネーターに水中ターミネーターの出来映えが素晴らしく、つまり恐ろしいことこの上ないのだ。

が、圧倒的な機械軍(スカイネット)に対し、抵抗軍がかなりの戦力をもって組織されていることには、とりあえず安堵もできる。また対機械という戦いの、ぬぐいきれない暗澹たる気分の前で、ジョン・コナーの戦いぶりがかすかな希望となっているのもよくわかる導入部になっている。

いままでの作品が、未来から使命をおびてやってきたターミネーターといういささか荒唐無稽な設定であったのに比べ、その未来に飛んだこの作品ではそのあたりの無理矢理さがなくなり、すっきりとしたわかりやすい話になっている(むろんカイル・リースの確保が重要であったり、ジョンの母親が残した予言テープみたいなものが絡んきだりと、従来作から引き継がれたタイムスリップ的要素が出てくるのは言うまでもない)。

スカイネットのロボットを混乱させるシグナルを手に入れた総司令部が、結局は、まるで
原子力潜水艦で逃げ回ってばかりの頼りない連中だからという烙印を押されるかのように、そのシグナルは司令部の場所を探知するためのスカイネットが仕組んだ罠だったため、あっさり葬り去られてしまうのだが、総攻撃時にもジョンのような信頼感を得ているわけではないから、司令部連中の面子は丸潰れで、味方の人間がやられたというのに、あーそりゃ残念でしたと茶化し気分になってしまう。

実際、このあたりから失速しだしてしまうのだが、単純な私など、これは本当に大傑作かもと、巻頭からわくわくしながら観ていたのである。

抵抗軍の女性兵士ブレア・ウィリアムズがマーカスという男を連れて帰るのだが、実はマーカスがサイバーダイン社の謀略から生まれた機械人間で、本人も自分が人間であることを疑っていないというのが、この作品での鍵になっている。

マーカスの力を借りて捕虜になったカイル(殺しちゃえばすむのにね)を助けにスカイネットの基地に侵入するのだが、マーカスはスカイネットにとっては仲間で、だから簡単に入場許可されて(機械と認識されてしまったわけだ)、少なからず落胆したようなマーカスという図が面白い。

もっともこのマーカスの存在自体が、いくら人間の中に入り込むために作られたにしても、こうはっきり人間性を取り戻して?しまったのでは、スカイネットとしては手落ちもいいところで、ちょっと白けるところだ。マーカス自身も元はといえば死刑囚だったわけで、復活した途端善人になっていたというのでは書き込み不足だろう。

だからブレアとの恋のようなものが挟まれているのだろうが、これがブレアの一方的とも思われる積極さで、マーカスを逃がす伏線にはなってはいるが、マーカス自身の心のありようにまでは踏み込んでいないのが惜しまれる。『ターミネーター2』では、T-800のチップをいじって人間の味方としていたが、身体は機械ながら心はまだ人間のマーカスとの面白い対比となったはずである(けど、どう違うのかは難しい問題だ)。

マーカスをロボット化する医師のセレナ・コーガンが、スカイネットの反乱(これは別の技術者が絡んでいたはずだ)と重なってしまうようで気になるのだが(マーカスの前にセレナの映像を出したのはスカイネットの単なるサービスなのか)、そこらへんはもう一度観て確認したいところだ。

セレナの映像はサービスにしても、スカイネットの中枢と対峙した時の造型など、これまでにもよく出てきたものと大差がないから、まったく面白味がない。T-800の量産工場そのものがスカイネットなのだ、というような解釈でもできるような新しい発想があってもよかったのではないか。

繰り返しになるが、マーカスの苦悩が、そもそもの機械人間として誕生したところの部分がうまくないので、せっかくの設定がちっとも生きてこないのだ。マシーンの動きや世界観などがよくできているのに平凡な作品にしかみえないのは、こういうところの独創性のなさに尽きそうである。

そう思ってみると、T-800との戦いでもまた溶鉱炉が使われていて、その断末魔の動きなども、これはわざと前の作品をなぞっているのだろうが、新鮮味がないのだ。

次回作が、カイルが千九百八十四年に行く物語で(しかしこれだとまたタイムスリップものになっちゃうか)、これはその前置きというのならわからなくもないが、何だか惜しい結果となってしまった。

  

原題:Terminator Sslvation

2009年 114分 アメリカ シネスコサイズ 配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント 日本語字幕:菊池浩司

監督:マックG 製作:モリッツ・ボーマン、デレク・アンダーソン、ヴィクター・クビチェク、ジェフリー・シルヴァー 製作総指揮:ピーター・D・グレイヴス、ダン・リン、ジーン・オールグッド、ジョエル・B・マイケルズ、マリオ・F ・カサール、アンドリュー・G・ヴァイナ キャラクター創造:ジェームズ・キャメロン、ゲイル・アン・ハード 脚本:ジョン・ブランカトー、マイケル・フェリス 撮影:シェーン・ハールバット 視覚効果スーパーバイザー:チャールズ・ギブソン プロダクションデザイン:マーティン・ラング 衣装デザイン:マイケル・ウィルキンソン 編集:コンラッド・バフ 音楽:ダニー・エルフマン

出演:クリスチャン・ベイル(ジョン・コナー)、サム・ワーシントン(マーカス・ライト/元死刑囚の機械人間)、アントン・イェルチン(カイル・リース/ジョン・コナーの将来の?父)、ムーン・ブラッドグッド(ブレア・ウィリアムズ/抵抗軍の女性兵士)、コモン(バーンズ)、ブライス・ダラス・ハワード(ケイト・コナー/ジョン・コナーの妻)、ジェーン・アレクサンダー(ヴァージニア)、ジェイダグレイス(スター/不思議な力を持つ少女)、ヘレナ・ボナム=カーター(セレナ・コーガン/医師)、マイケル・アイアンサイド、イヴァン・グヴェラ、クリス・ブラウニング、ドリアン・ヌコノ、ベス・ベイリー、ヴィクター・ホー、バスター・リーヴス、ケヴィン・ウィギンズ、グレッグ・セラーノ、ブルース・マッキントッシュ、トレヴァ・エチエンヌ、ディラン・ケニン、マイケル・パパジョン、クリス・アシュワース、テリー・クルーズ、ローランド・キッキンジャー(T-800)

劔岳 点の記

楽天地シネマズ錦糸町シネマ1 ★★★

■「未踏峰」かどうかではなく……

明治四十年に、前人未到の地であった立山剱岳登頂を果たした、日本陸軍参謀本部陸地測量部測量手柴崎芳太郎を主人公に、当時の陸軍内部の事情、日本山岳会との駆け引き、案内人の宇治長次郎や家族との信頼関係などを描く、新田次郎の同名小説を原作としたドラマである。

この狭い日本で、明治も三十九年になって、まだ未踏峰があったという事実にはびっくりするが、この未踏峰制覇に一番やっきだったのが陸軍のお偉いさんたちというのが面白い。日本地図の最後の空白点を埋めるべく、そこに国防という大義名分を振りかざすのだが、何の事はない、実は日本山岳会会員である小島烏水らの剱岳登頂計画を知ったからというあたり、日本がこのあと戦争に突き進んでいった元凶をみる思いがするのだが、もちろんそんな暴論で映画が進むはずもなく、もっと足に地の付いた作品になっている。

初登頂に心が動いたのは当事者たちも同じであったはずだが、しかし柴崎の淡々とした地道な仕事ぶりが変わることがない。剱岳の登頂ルートを探りながらも測量という本来の仕事を黙々とこなしていく。若い生田が焦ること方が当然のような気がするのだが、柴崎の仕事優先の態度は、日本山岳会の小島たちにも競争相手という意識を次第に薄れさせ、最後には尊敬の念を抱かせるまでになっていく。

けれど、苦労の末、やっとこ登ってみれば、そこには先人の残した錫丈があり、すでに昔から入山していたことがわかるだけであった。

この結末は、やっぱりな、という思いをもたらすが、と同時に古田盛作(三年前に引退した柴崎と同じ元測量手で、剱岳に挑むが失敗した経験を持つ)からの手紙にあった「人がどう評価しようとも、何をしたかではなく、何のためにそれをしたかが大切」という言葉の意味を考えずにはいられなくなる(こんなことを言われてしまっては、この映画を評価するのも躊躇われるのであるが……というか、ここにだらだらと書いている映画の感想文、全てが、だもんなぁ。……とりあえず私のことに関しては、この言葉は忘れてしまおう)。

地道な人柄を描くために柴崎を淡泊な人物にしてしまったのだろうが、ドラマとしてはいささか大人しすぎた嫌いがある。陸軍の上層部とやり合えとは言わないが、生田や小島とはやはりもう少し何かがあってもいいはずで、多少の歯がゆさが残る。

しかし、そうするとまた別な映画になってしまうわけで、一々起承転結を用意したり大袈裟な事件を持ってこなくても、生田は、子供の誕生の喜びを素直に口に出来るようになっていたし、小島たちとは、互いの登頂を喜び合う山の仲間になれた(手旗信号で合図し合うのがラストシーンになっている)ことで十分、とする謙虚さがこの映画のスタンスなのだろう。これは、自然の前での小さな人間、という位置関係とも通じるものがありそうだ。

ただ、長次郎が案内人となったことで、立山信仰のある芦峅寺集落で働く息子とは険悪になってしまい、けれど、あとでそのことを詫びる息子から食べ物と手紙が届く場面には違和感を覚えた。手紙でのやり取りは、この他にもあって、当時は手紙の他には通信手段がないのだから、例えば柴崎の妻の葉津よがそうしているのはわかるのだが、長次郎親子にそれをさせてしまうと、何か違うような気がしてしまうのだ。

だいたい長次郎(と彼の妻もなのだが)は明治の山男にしては洗練されすぎていて、まあ、これは日本映画の場合、ほとんどすべての作品に及第点をあげられないのであるが(髪型だけでもそうであることが多い)、黒澤映画に師事し、とリアリズムを学んだことを宣伝などでは強調しているのだから、もっと徹底してほしかったところである。

長年撮影監督として腕をふるってきた木村大作が監督となったことで、CGを一切排除し、空撮までしていないことが話題になっていて、確かにその映像は堂々としていて立派なのだが、相手が自然なだけに一本調子になりがちなのは否めない。嵐の中、行者が修行を積んでいるような、自然と人間が張り合っているような(そんな修行をしていたわけではないのだろうが)場面では、単調であってもそういう懸念はなくなるのだが。

登頂や陸軍内での評価など、実際の経緯については多分原作にあたった方が多くの情報を仕入れられると思うのだが、そして、だから映画では撮影にこだわったのだろう。けれどこういう映画なのだから、それこそCGでも取り入れて解説部分を増やしてくれた方が観客としてはありがたい。そうしてしまうと映画の風格は損なわれてしまいそうだが、登頂ルートについて柴崎たちが、何をどう苦労していたのかはずっとはっきりしただろう。「雪を背負って登り、雪を背負って帰れ」という言い伝えを教えてくれた行者の言葉が、科学的にも裏打ちできたのなら、ドラマの平坦さをも補えたのではないか。

また、西洋登山術を取り入れた当時としては最新の日本山岳会の装備や岩壁登攀方法などの解説もあれば、映画ならではの(原作以上の)情報が得られたと思うのだが、木村大作はそんな映画を撮るつもりはなかったんだろうな。

 

2008年 139分 シネスコサイズ 配給:東映

監督・撮影:木村大作 製作:坂上順、亀山千広 プロデューサー:菊池淳夫、長坂勉、角田朝雄、松崎薫、稲葉直人 原作:新田次郎『劔岳 点の記』 脚本:木村大作、菊池淳夫、宮村敏正 美術:福澤勝広、若松孝市 衣装:宮本まさ江 編集:板垣恵一 音楽プロデューサー:津島玄一 音楽監督:池辺晋一郎 音響効果:佐々木英世 監督補佐:宮村敏正 企画協力:藤原正広、藤原正彦 照明:川辺隆之 装飾:佐原敦史 録音:斉藤禎一、石寺健一 助監督:濱龍也

出演:浅野忠信(柴崎芳太郎/陸軍参謀本部陸地測量部測量手)、香川照之(宇治長次郎/測量隊案内人)、松田龍平(生田信/陸軍参謀本部陸地測量部測夫)、モロ師岡(木山竹吉/陸軍参謀本部陸地測量部測夫)、螢雪次朗(宮本金作/測量隊案内人)、仁科貴(岩本鶴次郎)、蟹江一平(山口久右衛門)、仲村トオル(小鳥烏水/日本山岳会)、小市慢太郎(岡野金治郎/日本山岳会)、安藤彰則(林雄一/日本山岳会)、橋本一郎(吉田清三郎/日本山岳会)、本田大輔(木内光明/日本山岳会)、宮崎あおい(柴崎葉津よ/柴崎芳太郎の妻)、小澤征悦(玉井要人/日本陸軍大尉)、新井浩文(牛山明/富山日報記者)、鈴木砂羽(宇治佐和/宇治長次郎の妻)、笹野高史(大久保徳昭/日本陸軍少将)、石橋蓮司(岡田佐吉/立山温泉の宿の主人)、冨岡弘、田中要次、谷口高史、藤原美子、タモト清嵐、原寛太郎、藤原彦次郎、藤原謙三郎、前田優次、市山貴章、國村隼(矢口誠一郎/日本陸軍中佐)、井川比佐志(佐伯永丸/芦峅寺の総代)、夏八木勲(行者)、役所広司(古田盛作/元陸軍参謀本部陸地測量部測量手)

トランスフォーマー リベンジ

楽天地シネマズ錦糸町シネマ4 ★★☆

■何故変身するのか?

一作目の『トランスフォーマー』(2007)同様、映像はよくできているのだが、結局最後までノレなかったのも同じ。私など、なにしろトランスフォーム(変身)する意味がいまだによくわかっていないのだ。もっともこの映画が楽しめる人は、この変身場面だけで十分満足なんだろうが。

オートボットが単なるロボットではなく、金属生命体であり、地球に住むためには変身する必要があるというのは納得できても、戦闘のためにも変身しなくてはならないのは、何かと無理がある。確かにある種の攻撃に特化した最適の形状というのはありそうだ。が、変身するには、そのために余計な労力がいるわけで、さらに変身過程では弱点を晒すことにもなるはずなのだが、ひたすら変身することだけに夢中で、そういう部分には触れようとさえしていない。

こういう部分にこだわった方が戦闘場面だってずっと面白くなると思うのだが、ま、そういうところで映画を作ってはいないのだろう。とにかく派手指向なんで、そんな細かいところまでは気が回らないのかも。逆に、人間にまで変身できるロボットまで、少しとはいえ出してしまっては、マイケル・ベイの頭を疑いたくなる(マイケル・ベイに限らず、すぐこういう禁じ手を使いたがるのは何故なんだ)。

物語が前作からそのまま二年後なのはいいにしても、異星人ロボットたちの戦いに人間が巻き込まれるという話(主人公のサムはキューブのかけらを服に見つけたことで、意味不明の文字や幻覚を見るようになっていた)が、ディセプティコンの復活でまた繰り返されるだけだから芸がない(スケールアップはしているが)。というか、例によって一作目の細かな内容はほとんど忘れてしまっているので、よけいそう思えてしまったのだが。

違うのはすでにオートボットたちと米軍とで同盟のようなものができあがっていることか。それなのに舞台は、エジプトだったりして、ピラミッドという歴史的遺産群を背景に、というかリングに見立てて、度派手な戦いが展開されていく。手を触れてはいけない場所でやりたい放題やってみたいという観客の願望をうまく代弁している。オバマ大統領は早々にシェルターに避難してしまったし、補佐官が暴走してるだけだから、いいらしいよ。

その中をサムたちが、こちらはひたすら人力のみを頼りに目的地へ駆けつけるという対比がなかなかだ(オプティマス復活の鍵をサムが握っているのだ)。ただし、こんなところにまで家族愛を押し込んでくるマイケル・ベイの気持ちがよくわからない(ヨルダン軍まで押し込んでた!)。

家族愛については、最初の方でもサムとの別れを母親のジュディにやたら大袈裟に演じさせていたが、これを面白がれるようなセンスが私にはないのだな。サムのボディガードになっていたバンブルビーとの別れも似たようなもので、少々うるさく感じてしまう。

だから一番感心したのは、米軍空母がまるで隕石のように降ってきたディセプティコンたちに甲板を貫かれ、沈没していく場面で、これには『タイタニック』以来の興奮が蘇った。私としては目まぐるしいだけのぐちゃぐちゃ変身場面(実際、映像的にも何が何だかなんだもの)よりは、よほど血がたぎったのだが……。

  

原題:Transformers: Revenge of the Fallen

2009年 150分 アメリカ シネスコサイズ 配給:パラマウント・ピクチャーズ・ジャパン 日本語字幕:松崎広幸

監督:マイケル・ベイ 製作:ドン・マーフィ、トム・デサント、ロレンツォ・ディボナヴェンチュラ、イアン・ブライス 製作総指揮:スティーヴン・スピルバーグ、マイケル・ベイ、ブライアン・ゴールドナー、マーク・ヴァーラディアン 脚本:アーレン・クルーガー、ロベルト・オーチー、アレックス・カーツマン 撮影:ベン・セレシン プロダクションデザイン:ナイジェル・フェルプス 衣装デザイン:デボラ・L・スコット 音楽:スティーヴ・ジャブロンスキー

出演:シャイア・ラブーフ(サム・ウィトウィッキー)、ミーガン・フォックス(ミカエラ/サムの恋人)、ジョシュ・デュアメル(ウィリアム・レノックス/米国陸軍少佐)、タイリース・ギブソン(ロバート・エップス/米国空軍曹長)、ジョン・タートゥーロ(シーモア・シモンズ/元セクター7のエージェント)、ケヴィン・ダン(ロン・ウィトウィッキー/サムの父親)、ジュリー・ホワイト(ジュディ・ウィトウィッキー/サムの母親)、ジョン・ベンジャミン・ヒッキー(セオドア・ギャロウェイ/国家安全保障問題担当大統領補佐官)、ラモン・ロドリゲス(レオ・スピッツ/サムのルームメイト)、グレン・モーシャワー(モーシャワー将軍/NEST司令官)、マシュー・マースデン(グラハム/SAS“陸軍特殊空挺部隊”エージェント)、レイン・ウィルソン、イザベル・ルーカス、アメリカ・オリーヴォ、サマンサ・スミス、ジャレブ・ドープレイズ

チャンドニー・チョーク・トゥ・チャイナ

2009/5/31 シネマスクエアとうきゅう ★★

この写真だと見にくいが、「字幕位置 下」の表記があって親切だ。もっとも今の字幕は見にくいことはめったにないし、前の人の頭が気になる映画館も少なくなったからね。って、ミラノだとまだそういう席がいくつかあるのかも(私の場合はかなり前の方で観るのでほとんど大丈夫なのだが)。『从印度到中国』というのは、中国での公開題名なのかしら。最初から、中国のマーケットも考えて作っているわけか。

■勘違いと本気モードで為せば成る、わきゃない

『スラムドッグ$ミリオネア』で一躍脚光を浴びた感のあるボリウッド映画だが、そしてこれもハリウッド資本がかんではいる(ワーナー・ブラザースのインド支社が製作)が、よりインド映画らしさが出た一篇となっている(って憶測です)。

世界最多製作本数を誇るインド映画は、日本でも十一年前に『ムトゥ 踊るマハラジャ』が話題になったが、あの集団で歌って踊ってが何かというと入ってくるパターンは同じ(『スラムドッグ$ミリオネア』にも、最後だけだったがこれがオマケになっていた)、きっとかなりの映画がこうなのかも。

その中でもこれは、主人公が中国まで行って故宮や万里の長城で撮影もしてきた大作なのではないか。感覚的には、昔の日本の『クレイジーメキシコ大作戦』や『ハワイの若大将』的なノリで作ったような気がするのだが(当時は日本もシリーズ物の映画を量産してたからね)。

前半はモロお馬鹿映画。主人公の料理人、シドゥの勘違いに加え、運も目一杯味方してくれて劉勝の生まれ代わりに祭り上げられるが、結局それは簡単にメッキが剥げて、で、それから本気モードになるのはいいのだが、必死でカンフー修行をしたら勝てちゃった、ってそれはないでしょ(長年修練してきた野菜切りの動きを取り入れたからというもっともらしい説明はあったが)。

携帯翻訳機(これで中国人との会話もOK)や防弾+パラシュート傘といった安直な新兵器(じゃなくて新製品でした)まで出てきて楽しませてくれるが、面白さが馬鹿らしさに勝つには至らず。

育ててくれた恩人の死や、北条に殺されかけて記憶を失っていた中国の警官や敵味方に分かれてしまった双子の娘(彼の妻はインド人なのだ)の話など、盛り沢山だが中身は薄い。

途中Intermissionの文字があった。日本では休みなしの通し上映だからギャグと思ってしまったが、ここは普通に休憩になるんだろう。

まだまだインド映画は新鮮なので、ショーとして観るだけでも退屈することはないのだが(でも長いよ)、だけど次回はもっと違った種類の映画を観たいものだ。

原題:Chandni Chowk to China

2009年 155分 インド、アメリカ シネスコサイズ 配給:ワーナー・ブラザース映画 日本語字幕:松岡環

監督:ニキル・アドヴァーニー アクション指導:ディーディー・クー 製作:ラメーシュ・シッピー、ムケーシュ・タルレージャー、ローハン・シッピー 脚本:シュリーダル・ラーガヴァン、ラジャット・アローラ 撮影:ヒンマーン・ダミージャー 振付:ポニー・ヴェルマ 作詞:ラジャト・アローラー 音楽:シャンカル・マハデヴァン、イフサーン・ノーラニー、ロイ・メンドンサー

出演:アクシャイ・クマール(シドゥ)、ディーピカー・パードゥコーン(サキ、ミャオミャオ)、ミトゥン・チャクラバルティー(親方)、ランヴィール・ショウリー(ハシ道士/チョップスティック)、ゴードン・リュウ[劉家輝](北条)、ロジャー・ユアン(チャン刑事)

天使と悪魔

楽天地シネマズ錦糸町シネマ1 ★★★

■神を信じている悪魔

カトリック教会の法王の座を巡る陰謀に『ダ・ヴィンチ・コード』のラングドン教授が巻き込まれる。ラングドンは、「あの事件(『ダ・ヴィンチ・コード』)でヴァチカンから嫌われた」はずだったが、宗教象徴学者の協力が必要と感じた警察の要請で、捜査に加わることになり、ローマへと出向いて行く。

完成したばかりの反物質が盗まれて、それを爆弾代わり(五トンの爆弾に相当する強力なもの)にヴァチカンを消滅させると脅されてしまうのだが、まずその反物質が完成するタイミングとそれを盗み出す労力を考えると、かなり馬鹿げた話になってしまう。いや、完成が確実になった時点で、って少し苦しいが、暗殺に取りかかればいいのか。でもこれだと教皇選挙(コンクラーベ)にはリンクしなくなってしまうものなぁ。

教会と対立するイルミナティの存在を暗示して目をそらすために四教皇(次期法王候補者)を殺害する設定(この最後にヴァチカン消滅の反物質というのが犯人の予告シナリオ)もどうかと思うし、ラングドンと反物質の研究にかかわっていたヴィットリアが捜査の中心になる展開も強引だ。とくに最後の真犯人がわかる録画を二人が見ることになる場面は御都合主義もいいとこで、首をひねりたくなる。

が、観ている時は次から次へと殺人が予告されているので、余計なことを考える余裕などはない(なにしろ一時間刻みの殺人予告だから、のんびりなどしていられないのだ)。しかも現場到着が、いつも五分前だったりする(わけはないが、そんな感じ。で、手遅れになっちゃったりもするのだ)。

とにかく見せ場はふんだんすぎるくらいあって、カメルレンゴ(これは役職名なのね)が反物質を持ってヘリコプターに乗り込むという、思ってもみなかった人物のスーパーマンぶりまで見ることができる(ヘリコプターの操縦までできちゃうのだ! そうか、だからユアン・マクレガーだったのね。って、違うか)。また、ラングドンが推理を間違えるので(殺人の予告場所をひとつとカメルレンゴが危ないという二つ)、こちらもそれに振り回されるっていうこともあるが、息つく暇がないくらいだ。

しかしそれ以上に興味深かったのが、ヴァチカンの記録保管所に入るための交換条件のようにカメルレンゴから突きつけられた、神を信じるかという問いと、それに対するラングドンの答えだった。正確な言葉は忘れたが、私は学者だから信じていないが、心の部分では神に感謝しているというもの(いや、贈り物と思っている、だったか)。

これはなかなか頷ける答えだ(私の答えは、「神は信じないが、神という視点で考えることを人間は忘れてはならない」だから、これだと、神を信じないで神の視点がわかるのかと反論されてしまいそうで、だから閲覧はさせてもらえそうにない)。

反物質なんて物をわざわざ持ち出した設定も、要するに科学によって人間が神の領域に踏み込んでいく象徴的な意味を込めたかったのだろう。けれど神を信じる人がこんな物語を作るだろうか。

カメルレンゴの思考は間違ったものだが、科学に宗教が抹殺されると思ってのことと、少しは肩入れしてやってもいいのだろうか。でないと、彼の英雄的行為は説明できなくなってしまうが、これくらいの博打が打てないようでは法王にはなれないと踏んだのかもしれない。もちろんだからといって、暗殺者と繋がっていいわけがないし、自分も殺人という過ちを犯してしまっている(そうは感じないのだろうが)のだから何ともやっかいだ。正義(彼にとってのだが)のためなら手段を選ばずというわけか。

作者はここに悪魔をみているのだろうか。追い詰められて自殺する時も、神の手に委ねると言っていた者に。それとも天使と悪魔というのは単なる符合にすぎないのか。

宗教に欠点があるのは人間に欠点があるのと同じ、という最後に出てくるセリフも、私には、いかにも宗教を作ったのは人間と言っているようにしか思えないのだが、そのすぐあとで、恵深い神はあなた(ラングドン)をつかわしたとも言わせていて、これはずるいよね。というか、この曖昧さ(科学と宗教の共存)を結論にしてしまったようだ。

面白かったのは、それまで馬鹿丁寧にピンセットで扱っていた古文書を、解読している暇がないとみたヴィットリアが、いきなり該当ページを引きちぎってしまう場面だ。これにはラングドンも唖然とするばかりで(観客もびっくり!)、やったのは自分ではなくヴィットリアだと、後に二度も否定していた。宗教象徴学者としては正しい見解だろうか。強く否定したお陰かどうか、ラングドンは最後にヴァチカンから、研究にお使い下さいと、彼にとっては垂涎のそれを貸し出してもらっていた。

  

原題:Angels & Demons

2009年 138分 アメリカ シネスコサイズ 配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント 日本語字幕:戸田奈津子 翻訳監修:越前敏弥

監督:ロン・ハワード 製作:ブライアン・グレイザー、ロン・ハワード、ジョン・キャリー 製作総指揮:トッド・ハロウェル、ダン・ブラウン 原作:ダン・ブラウン『天使と悪魔』 脚本:デヴィッド・コープ、アキヴァ・ゴールズマン 撮影:サルヴァトーレ・トチノ プロダクションデザイン:アラン・キャメロン 衣装デザイン:ダニエル・オーランディ 編集:ダン・ハンリー、マイク・ヒル 音楽:ハンス・ジマー

出演:トム・ハンクス(ロバート・ラングドン)、アイェレット・ゾラー(ヴィットリア・ヴェトラ)、ユアン・マクレガー(カメルレンゴ)、ステラン・スカルスガルド(リヒター隊長)、ピエルフランチェスコ・ファヴィーノ(オリヴェッティ刑事)、ニコライ・リー・コス(暗殺者)、アーミン・ミューラー=スタール(シュトラウス枢機卿)、トゥーレ・リントハート、デヴィッド・パスクエジ、コジモ・ファスコ、マーク・フィオリーニ

鈍獣

新宿武蔵野館1 ★★

武蔵野館にあった監督、出演者のサイン入りポスター

■映画と演劇の差に鈍獣

期待した分、つまらなかった。だって、凸やんの死なない理由がちっともわからないんだもの。

原作は宮藤官九郎で、第49回岸田國士戯曲賞の同名戯曲だ。演劇のことをほとんど知らない私(だから原作も未読)が言ってしまうのは憚れるが、こういう作風のものは、演劇でなら面白くても、映画に持ってきたからといってすんなり楽しめるとは思えないのである。例えば安部公房の『友達』。これも演劇ならよくても、ってそもそも戯曲なんだけどさ、果たしてそのまま映画にして成功するとは到底思えないのだ。

映画というのは、改めて言うまでもなく虚構にすぎないのだが、しかし意外にもリアリティというものを補強剤としているもので、それが適度にないと居心地が悪いものになってしまうというやっかいな側面を持つ(と私は思っている)()。

演劇が映画以上に虚構なのは、最初から空間が舞台に限定されているからで、それは当然の前提であるから、演劇を鑑賞していてリアリティ補強剤のことを言い出す野暮はいないだろう。演劇空間では、物事の関係性や粗筋に神経を集中できるから、寓意も込めやすくなる。演劇において不条理劇は(って変な書き方だが)成立しやすいが、映画でそういう非論理的な展開に考察を巡らすのは不向きなのだ。

そこでそれを避けるため、演劇空間をそのまま映画に持ち込んだラース・フォン・トリアー監督の『ドッグヴィル』(03)のような作品もあって、これだとリアリティ補強剤が不足していても、観客は安心できるから不思議である(映画なので空間的には多少の広がりはあるが、抽象性は保たれている)。

くどくなるが、この『鈍獣』が何故面白くないかというと、映画に置き換えた時のリアリティが欠如しているからで、なるほど「鈍感な奴ほど恐ろしい者はいない」というこの作品の指摘は、ものすごい真実であるし、「その鈍感から逃げるべく、鈍感の象徴である凸やんを抹殺しようとするのだが、鈍感故に毒も効かず、車で轢いても生き返り」と、そこを突き詰めていった話が面白くないはずがない、と作り手は思ったのだろうが、そうはいかないのだった。

もっとも映画化に際しての脚本も宮藤官九郎自身が書いていて、だからそこらへんのことは相当意識したと思われるのだが、映画を観た限りでは、演劇からの移植がうまくいったかどうかは疑問だ。アニメを入れたり(これもちょっとねー)、エレベーターに乗ってやって来る凸やん登場場面などは緊張感をもって描かれてはいたのだが。

週刊大亜の連載小説『鈍獣』が文学賞候補になるが、作家の凸川は失踪。編集者の静は凸川の故郷に出向き、凸川の同級生たちから事情を聞き回る。そののらりくらりとした返事の中に、だんだんと真実が見えてくるというわけだ。

彼らは凸川(凸やん)が小説の中で、彼らの昔の私生活や秘密(触れられたくない最大のタブー)を次々に暴いていくことに恐怖を感じていたのだった。が、当の凸やんは、いじめられたことは覚えていないし、そもそも小説などは書いていないという……。

殺しても死なないのではなく、実は彼らは、凸やんをとっくに殺してしまったのだろう。つまり彼らにとっての凸ヤンは不死身で、すでに逃れられない恐怖と化しているわけだ。だから凸やんの幽霊を見てしまうという、至極真っ当な結論に、映画の場合は、というか私の見解は落ち着いてしまうのだけど、こんな結論じゃ(って、私に観る力がないんだろうね)、大げさに騒いだだけにかえって面白くないんだよね。

殺しても死なないのではなく、実は彼らは、凸やんをとっくに殺してしまったのだろう。つまり彼らにとっての凸ヤンはすでに意識レベルの存在になっていて、だから不死身なのは言うまでもなく、逃れられない恐怖と化しているわけだ。つまり凸やんの幽霊を見てしまうという、至極真っ当な結論に、映画の場合は、というか私の見解は落ち着いてしまうのだけど、こんな結論じゃ(って、私に観る力がないんだろうね)、大げさに騒いだだけにかえって面白くないんだよね。

:それではミュージカルはどうなんだと言われてしまいそうだが、ミュージカルの場合はショー的要素が加わるので、また全然違う次元の話になるし、セリフを歌でカバーする旧来のミュージカルであるならそれだけで、演劇空間と同程度の虚構、という前提を持つことになる。

 

2009年 106分 ビスタサイズ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ

監督:細野ひで晃 アニメーション制作:スタジオ4℃ 製作:宇野康秀、山崎浩一 プロデューサー:曽根祥子、菅原直太、高瀬巌 アソシエイトプロデューサー:山崎雅史 企画プロデューサー:松野恵美子 脚本:宮藤官九郎 撮影:阿藤正一 美術:富田麻友美 音楽プロデューサー:緑川徹 主題歌:ゆずグレン『two友』 VFXスーパーバイザー:川村大輔 スクリプター:長坂由起子 照明:高倉進 録音:山田幸治 助監督:甲斐聖太郎 劇中画:天明屋尚

出演:浅野忠信(凸やん、凸川/小説家)、北村一輝(江田っち)、ユースケ・サンタマリア(岡本/警官)、南野陽子(順子/江田の愛人、「スーパーヘビー」のママ)、真木よう子(静/編集者)、佐津川愛美(ノラ)、ジェロ(明)、本田博太郎(編集長)、芝田山康(理事長)

チェイサー

シネマスクエアとうきゅう ★★★★

■すり抜けた結果なのか

韓国映画の荒っぽさ(と言ったら悪いか)がいい方に出た問題作だ。力まかせに撮っていったのではないかと思われるところもあるのだが、そういう部分も含めて、人の執念を塗り込めたような濃密さが全篇から溢れている、息の詰まりそうな映画だった。

二十一人を殺害し(のちに三十一人と供述したらしい)三年前に死刑判決の出た連続殺人犯ユ・ヨンチョル事件を下敷きにしているというが、どこまで事実を取り入れているのだろうか。

デリヘルの元締めをしているジュンホは、店の女の子が相次いで行方をくらましたことに疑問を持つ。調べているうちに、4885という電話番号に行き当たり、そこからヨンミンという男を割り出す。

何ともあっけないことにこのヨンミンが犯人で、捕り物劇の末、ジュンホはヨンミンを警察に突き出すのだが、ジュンホの立場が微妙だ。二年前までは刑事だったが、今は風俗業を生業としているからか、頼みのギル先輩以外は冷たい視線しか寄越さない。言動が粗暴ということもあって、犯人を逮捕したというのに、逆に見られてしまうくらいで、言ってることをなかなか信じてもらえない。

ジュンホがどこまでもヨンミンに執着するのは、そのことに加え、体調が悪いとしぶるデリヘル嬢の一人ミジンを、無理矢理ヨンミンのところに行かせたことに責任を感じているからで(注1)、ミジンが生存している可能性があることを知って、余計躍起になざるを得ない。

捕まったヨンミンは殺害をほのめかし、どころか認め、殺害の手口さえ供述するのだが(ミジンの生存を口にしたのもヨンミンなのだ)、証拠不十分で釈放されることは経験から知っていたのだった。だからなんだろう、ヨンミンにはどこか余裕があって、女性警官との会話など、たまたまその時は二人きりになったのかもしれないが(たまたまだってありえそうもないが)、警察署内でのことなのに、何かとんでもないことが起きるのではないかとドキドキしてしまう。

ヨンミンを不能と決めつけ、女性を殺したのはセックスができないからで、ノミの使用はそれを自分の性器に見立てたからだと取り調べで分析されて、ヨンミンは捜査官(彼は精神分析医なのか)に襲いかかる。ヨンミンが激昂したのはこの時くらいだから、分析は当たっていたのではないか。

が、そのことより、そこまで追求しておきながらのヨンミン釈放という流れは、少々理解に苦しむ(映画に都合よく作ってしまったのなら問題だが?)。それに、ジュンホでさえヨンミンの行動エリアを絞り込んでいくのに(注2)、警察のだらしなさといったらなく、釈放後の尾行もドジってしまうし、ミジンの生死よりも証拠(遺体)を探すことの方に必死だったりする。実際の事件だって、多分どこかでいろいろなものをすり抜けてきたから二十一人もの殺害になったのだろう。そう思うと、案外こんなことの連続だったのではないか。

そして、ヨンミンのところからやっとのことで逃げ出し、近くの商店に助けを求めほっとしていたミジンだが、何もそこまで、とこれは監督(脚本も担当)のナ・ホンジンに言いたくなってしまうのだが、再び商店の女性共々ヨンミンの餌食となってしまう(映画としては、これは正解なのだけどね)。

ミジンが意識を取り戻したのは偶然も味方してくれたようだが、彼女の執念の脱出劇は七歳の娘の存在が大きかったはずだ。ミジンの娘は途中からジュンホと行動を共にするようになって、だから当然その描写も出てきて、となるとどうしても子供に寄りかかってしまう部分がでてきてしまうのだが、しかしそれは許せる範囲になっていた。

あと、犯行現場のヨンミン宅の浴室が、ホラー映画顔負けの不気味さだったことは書いておきたい。シャワーを借りる口実で携帯からジュンホに連絡を取りに浴室へ行くのだが、送信はできず、その時の浴室の薄汚さには、それだけで背筋が凍り付いた。恐怖にかられたミジンは窓を破るのだが、窓の外はレンガで塞がれているし、排水口には髪の毛が貼り付いているのだ。

ミジンのことは、考えると気の毒としか言いようがない。浴室で意識を回復した彼女が最初に見たものは二つの死体だし(注3)、散々恐怖を味わった末に、最後は水槽の中に、まるでオブジェのように頭部を飾られてしまうのである。それを見てジュンホの怒りが爆発するのだが、しかし、ミジンだけをこんな形にしたのは、映画的効果というのなら、それはさすがに減点したい気持ちになる。

注1:最初は、店の女の子に逃げられてはかなわないという金銭的な理由だったが。

注2:ジュンホはヨンミンを暴行し、なんとかミジンの居場所を吐かせようとするのだが、やりたくてもできない警察(ギル先輩も)はそれを見て見ぬふりをしている場面がある。

注3:これは以前に殺害したものでなく、ミジンを殺そうとした時にたまたま訪ねてきた教会の中年男女のもの。この偶然によってミジンは致命傷を負わずにすんだのだったが。

原題:・緋イゥ・吹i追撃者) 英題:The Chaser

2008年 125分 韓国 製作:映画社ビダンギル シネスコサイズ 配給:クロックワークス、アスミック・エース R-15 日本語字幕:根本理恵

監督・脚本:ナ・ホンジン 撮影:イ・ソンジェ 編集:キム・ソンミン 照明:イ・チョロ 音楽:キム・ジュンソク、チェ・ヨンナク

出演:キム・ユンソク(オム・ジュンホ)、ハ・ジョンウ(ヨンミン)、ソ・ヨンヒ(ミジン)、チョン・インギ(イ刑事)、パク・ヒョジュ(オ刑事)、キム・ユジョン(ミジンの娘)

トワイライト 初恋

楽天地シネマズ錦糸町シネマ7 ★★★

■息づかいが聞こえてくる

新感覚映画とでも呼びたくなるような、今までにない雰囲気がある映画だった。が、何がそうなのかと言われると、どう表現していいのか見当がつかなくなってしまう。多分私が旧式人間だからなんだろう。

全体に青を基調とした画面で、と表面的なことなら書けても、後が続かない。もしかしたらこれは私が今の若者を、すでにかなりの部分で理解できなくなっていることとつながっている気がする。

主人公の二人も、私の感覚だと美形というのとはちょっと違うのだが、まあ、そんなことはどうでもいいか。

脱線気味で書き始めてしまったが、話は単純だ。ヴァンパイアと人間の恋という奇異さはあるが、そしてそのヴァンパイアの説明に少し時間を使っているが(少女にとっては謎なんだから当然なのだが)、それを削ってしまうとどこにでもあるような話だろうか。

ベラ・スワンはママの結婚で、雨の多い町フォークスで警察署長をしているパパのところに戻ってきた転校生だ。新しい学校にも慣れ、友達も出来、順調なスタートをきるが、学校では別行動を取りがちな「アタックするだけ無駄」らしいエドワード・カレンに興味を持つ。

というか露骨に避けられてしまうのだが、なるほどねー、かえってハートに火がついてしまったのね。そして、無視されているはずだったのに、車の暴走から身を守ってくれたことで、エドワードの飛び抜けた身体能力と彼の秘めた想いを知ることとなる。

別行動はエドワードがヴァンパイアだからで、なるべく一族でまとまっているからだし、避けるのは「君の心だけが読めない」からと説明されるけど、じゃあ何で人間界にいるんだってことになるし、「君の心だけが読めない」というのも、どう考えても詐欺のような説明である。

矛盾だらけなのは、ヴァンパイア物の宿命だが、エドワードの情熱と抑制を際立たせようとしているからだろうか。そして「君の心だけが読めない」からこそ(心が読めちゃったら恋はできないような気がする)、ベラはエドワードにとっての初恋(「初恋」は邦題だけにあるにしても)となったのだろう。

ベラの方はもうすっかりその気になっていて、血を吸われてもかまわないと思っているのに、エドワードはあくまでベラを禁忌の対象と位置づけようとする。吸血は動物だけで人間には手を出さないベジタリアン(はぁ?)っていうのだけれど、自分だってヴァンパイアにされたわけだし、ベラも望んでいることなのだ。本当に命取りになるならともかく、これはあまり説得力がない。

欠点はあるが、情熱と抑制が交差する展開はなかなかだ。このエドワードの自制心が、若い女性観客にはたまらないのかも(そういや観客の九割が若い女性だった)。二人の踊りが近くて(他の場面でも)、息づかいが聞こえそうで胸が苦しくなってくる。ベラも一族になってくれれば二人の恋は永遠になるのでは、と思うが、もしかしたらそれだと……って映画では何も言っていないのだけど、それは続編待ちなのだろうか。

人間の血を吸う正統派?吸血鬼のグループも登場させたことだし、だから単にそのうちの一人がベラに目をつけた程度では面白味がないのだが、これは伏線貼りすぎの上で登場させたにしては、案外あっさりかたがついてしまう(ヴァンパイア流草野球や忍者もどきの木登り場面の方が印象に残ってるくらいだから)。

それにしてもうまいことバンパイア物を、学園ドラマにアレンジしてしまったっものである。古臭い十字架や棺桶に古城、ニンニクや十字架も一掃。むろん誰も燕尾服などは着ていない。雨の多いフォークスを拠点にした設定にはしてあるが、太陽の光に当たったからといって灰になったりはせず、キラキラ耀いちゃうんだから。

★三つは甘めだが、次回作の期待料込みってことで。

  

原題:Twilight

2008年 122分 アメリカ シネスコサイズ 配給:アスミック・エース、角川エンタテインメント 日本語字幕:石田泰子

監督:キャサリン・ハードウィック 製作:マーク・モーガン、グレッグ・ムーラディアン、ウィック・ゴッドフレイ 製作総指揮:カレン・ローゼンフェルト、マーティ・ボーウェン、ガイ・オゼアリー、ミシェル・インペラート・スタービル 原作:ステファニー・メイヤー『トワイライト』 脚本:メリッサ・ローゼンバーグ 撮影:エリオット・デイヴィス 衣装デザイン:ウェンディ・チャック 編集:ナンシー・リチャードソン 音楽:カーター・バーウェル 音楽監修:アレクサンドラ・パットサヴァス

出演:クリステン・スチュワート(ベラ・スワン)、ロバート・パティンソン(エドワード・カレン)、ビリー・バーク(チャーリー・スワン/ベラの父、警察官)、ピーター・ファシネリ(ドクター・カーライル・カレン/エドワードの養父、医師)、エリザベス・リーサー(エズミ・カレン)、ニッキー・リード(ロザリー・ヘイル)、アシュリー・グリーン(アリス・カレン)、ジャクソン・ラスボーン(ジャスパー・ヘイル)、ケラン・ラッツ(エメット・カレン)、キャム・ギガンデット(ジェームズ)、エディ・ガテギ(ローラン)、レイチェル・レフィブレ(ヴィクトリア)、アナ・ケンドリック(ジェシカ・スタンリー)、テイラー・ロートナー(ジェイコブ・ブラック)、ジル・バーミンガム(ビリー・ブラック)、サラ・クラーク、クリスチャン・セラトス、ジャスティン・チョーン、マイケル・ウェルチ、ホセ・ズニーガ、ネッド・ベラミー

ダウト -あるカトリック学校で-

シャンテシネ2 ★★★★

■疑わしきは疑え!?

張り詰めたセリフの応酬には唸らされ(セリフに乗った言葉の面白さにも舌を巻き)、かつ人間が犯す罪の在処までずぶずぶと探られて、背筋が寒くならずにはいられなかった。戯曲の映画化と知ってなるほどと納得。何度も繰り返し演じられ、鍛えられてきたセリフには隙がない。

フリン神父は、教会に新しい風を入れようとしている意欲的な人物である。生徒からの人望が篤く、彼の説教は人気を集めていた。片や、シスター・アロイシアス校長のガチガチに固まった価値観には、息が詰まるばかりだ。校長自らが監視カメラのようになっては生徒一人一人に目を光らせていた。管理教育以上の恐怖政治(とまでは言っていなかったが)を敷いていると、新任のシスター・ジェイムズは思ったに違いない。

二人の違いは食事風景に歴然とあらわれる。フリン神父たちの賑やかで楽しげな食卓。校長の方は大人数の時でさえ静まりかえっている。生徒たちの歌はつまらなさそうに聞くし、目の仇の果てはボールペンにまで及んで、いったいどこまで憎たらしい人物に仕立て上げれば気が済むのかと思ってしまうが、目の悪い老シスターには気遣いを忘れない。彼女の素晴らしいところはもしかするとこれくらいだろうか。が、この気遣いが、彼女をギリギリのところで、信頼するに値する人間にしている(というか、そう思わせている、のか)。

ところで題名になっているダウト(疑惑)の部分であるが、それ自体は単純なものだった。フリン神父が個人的に生徒のドナルド・ミラーと「不適切な関係」をもったのではないかという疑惑を、ガチガチ校長が追求するという映画なのである(注1)。

二人のやり取りがすこぶるスリリングで、目が放せなくなるが、でもフリン神父がどこまでも鉄壁かというとそんなこともなく、いまにも落ちそうだったり、泣きまで入れてくるのだが、しかし肝心なことは認めようとはしないから、すべては計算ずくのことなのか(もしくはシロってことなのだが)。

校長が追求を止めないのは、彼女の確信による。そう、証拠ではなく確信があるだけなのだ。確信を後押ししたのは、授業時間にドナルドを呼びつけたとシスター・ジェイムズが言ったことでだが、その報告がなくても校長自身は、フリン神父がウィリアムという生徒の手首をつかみ、ウィリアムが手を引っ込めたところを見ていて、もうそれで確信していたらしいから、早晩追求を始めていたはずである。

この映画を観ていると、すべてのことを疑ってかかるよう強要されている気分になってくる。だものだから逆に、フリン神父の弁解(注2)を信じてしまうシスター・ジェイムズの単純さを純粋さと理解したくなる。

が、そのシスター・ジェイムズからして、フリン神父がドナルドの下着をロッカーに戻したことは校長に話さず、あとになって一人でフリン神父に問い質している。シスター・ジェイムズもやはり疑惑を捨てきれなかったのか。それとも、校長の確信があまりに強すぎたので、話すことを躊躇したのだろうか。もっとも彼女は最初の時と同様に、この時もフリン神父の言葉を素直に受け入れていた。エンドロールには「元シスター・ジェイムズに捧ぐ」という言葉があったから、彼女目線の物語と判断するのが一番無難なはずなのだが。

校長はドナルドの母親のミラー夫人にも連絡を取り、あれこれ聞き出そうとする。この時のやり取りがまたまたすごく、見応えのあるものになっている。校長は、神父がドナルドを誘惑していた可能性を告げるが、ミラー夫人は涙目になりながら、それを望んでいる子もいるのだと答える。それを知って夫が息子を殴るが、神が与えた性質で息子を責められない、とも。ミラー夫人には、息子を気にかけてくれる人が必要なのであって、校長の追求などは余計なおせっかいでしかないのだ。許さない、と校長が執拗に食い下がると、それなら神父を追放してくれという発言まで飛び出す。

校長の追求を、フリン神父は相手を攻撃することで躱そうとし、校長のことを「不寛容」と言い放つ(キリスト教の教義に沿うものかどうか、これだけでもいくらでも書けそうだが、私が問うことではないのでやめておく)。フリン神父はまた「罪を犯したことは」と逆に校長に詰め寄りもする(注3)。「自分もどんな罪であれ告白し罪を受けてきた」のだから「我々は同じ」ではないかと。不寛容発言以上にこの質問はいやらしい。校長もたじろぐが、結局はきっぱりと、同じではないし噛みつく犬の習性は直らないと答える。

校長は、フリン神父とのやり取りでは勝利を勝ち取るが、結末は、フリン神父の栄転という形で終わる。彼の辞任は告解と同じだと校長はシスター・ジェイムズに語り、彼を追い出したことに満足しているようにもみえる(それでいいの!)のだが、ここからが少し難解だった(もう一度観て確認したいくらいだ)。

このあと映画は、校長が自分の確信を証明するためについた嘘についても言及している(注4)。フリン神父が前にいた教会に電話して、そこの司祭と彼がしたことについて話したというのは嘘だったというのだ。が、これまたキリスト教の教義にからめて語る資格などないので(別にからめなくてもいいのかもしれないが)、深入りはしないでおく。

説明がふらついていて申し分けないが、結局映画の中でのフリン神父の疑惑は疑惑のままにしておき、それについての答えは、観客がそれぞれ出すよう仕向けているのだろう。

私の答えは、フリン神父はクロ。人間のやることなど信じられっこないんだもの。前歴がなければともかく、それこそ校長と同じく、噛みつく犬の習性は直らないと、とりあえずは言い切ってしまおう。というのも、フリン神父は問題が起きなくても、誤解を招くような行為だけは絶対してはいけなかったと思うからである。悪ふざけされたドナルドを廊下で抱きしめてやるのはいいが(この場面があることでフリン神父を信じたくもなるが)、少なくとも部屋に呼ぶべきではなかった。神父なのだからそこまで考える必要があるし、疑惑を持たれることをしてしまった時点で、すべてが言い訳にしかならないことを知るべきなのだ。

ただ彼の行いがたとえ「不適切な関係」であっても、それが責められることかどうかは、ドナルドが決めることである。だから、私の考えはミラー夫人に近いかもしれない。

となると、最後に校長がシスター・ジェイムズの前で泣き崩れる場面はなんなのだろうか(難解なのはここ)。校長は、フリン神父を追いやった嘘についての償いをするというのだが? もしかしたら校長にも同性愛的嗜好があるということなのか。そしてその対象がシスター・ジェイムズだったとしたら? 最初のは多分当たっているはずである。これなら大げさな涙を説明できるからだ。が二つ目のはどうか。話としては俄然面白くなるが、これはやはり深読みしすぎだろうか(やはりもう一度観て確認したいところだ)。

シスター・ジェイムズは校長に手を差し伸べ、身を寄せ、カメラは鳥瞰になってエンドロールとなる。ここだけを観ていると、シスター・ジェイムズが校長の告解だか告白を受け入れたようには思えないが、でもどうなのだろう(深読みと言っておきながら、まだこだわってら)。それとももっと単純に、やはり嘘をついて神から遠ざかったことを悔いているだけなのだろうか。罪は意識した人にだけにあるのだ。校長の涙が大げさに見えて、そこからとんでもない憶測をしてしまった私は、罪を意識する気持が薄いのだろう。

エイミー・アダムスって『魔法にかけられて』のお姫様なの? 同一人物とはねぇ。彼女には癒されたけど、この映画は観客をへとへとにさせるよね。感想書くのも疲れました。

そうだ。強風が校長を襲う?のと、羽根が舞う映像効果に、電球が二度切れるオカルト?場面があったが、どれもなくてもよかったような。嫌悪するようなものではなかったけれど。
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注1:舞台は1964年のニューヨーク市ブロンクスのニコラス・スクールというカトリック学校。フリン神父の説教に「去年、ケネディが暗殺された時」という言葉が出て来る。ドナルドは校内で唯一の黒人男子生徒。公立では殺されるのでこの学校へ来たのだとミラー夫人があとで校長に語っている。

注2:ドナルドから酒の臭いがしたのは彼がミサのワインを飲んだからで、フリン神父はそのことを庇おうとしたというのだ。この弁解は自己美化めいて見えるし、またドナルドの行為を知らしめることになるから、弁解が本当ならフリン神父がなかなか言おうとしなかったのも頷ける。

注3:厳密に言うと、ここからは二度目の対決場面で、シスター・ジェイムズは兄の見舞いで故郷に帰っていて同席していない。校長とフリン神父は真っ向からぶつかり合う。

注4:校長は、最初にシスター・ジェイムズがフリン神父のことを言い淀んでいた時にも、悪いことをなくすなら神から遠ざかってもいいのではないかと言って、シスター・ジェイムズに発言を促していた。

原題:Doubt

2008年 105分 アメリカ ビスタサイズ 配給:ウォルト・ディズニー・スタジオ 日本語字幕:松浦美奈

監督・脚本・原作戯曲(『ダウト 疑いをめぐる寓話』):ジョン・パトリック・シャンリー 製作:スコット・ルーディン、マーク・ロイバル 製作総指揮:セリア・コスタス 撮影:ロジャー・ディーキンス プロダクションデザイン:デヴィッド・グロップマン 衣装デザイン:アン・ロス 編集:ディラン・ティチェナー 音楽:ハワード・ショア

出演:メリル・ストリープ(シスター・アロイシアス)、フィリップ・シーモア・ホフマン(フリン神父)、エイミー・アダムス(シスター・ジェイムズ)、ヴィオラ・デイヴィス(ミラー夫人/ドナルドの母親)、アリス・ドラモンド、オードリー・ニーナン、スーザン・ブロンマート、キャリー・プレストン、ジョン・コステロー、ロイド・クレイ・ブラウン、ジョセフ・フォスター二世、ブリジット・ミーガン・クラーク

罪とか罰とか

テアトル新宿 ★★★☆

■さかさまなのは全部のページ

まず、どうでもいいことかもしれないが、『罪とか罰とか』って題名。これが『罪と罰』だったら、それはドストエフスキーということではなくて、って、こう書くまで気がつかなかったのだけど、無理矢理恩田春樹をラスコーリニコフにしてしまえば円城寺アヤメはソーニャ的とも言えなくはないが、って言えない。

書くことが整理できてないんで、いきなり脱線してしまった。(気を取り直して)『罪と罰』だと、『罪と罰』だ、『罪と罰』である、『罪と罰』でしょ、みたく断定になるが、『罪とか罰とか』だと、『罪とか罰とか』だったり、『罪とか罰とか』かもしれない、って曖昧になっちゃう。って、ならない? 私的にはそんな気がしちゃってるんで。

えー、のっけからぐだぐだになってますが、要するによくわからない映画だったのね。めちゃくちゃ面白かったけど……でも、終わってみたら?で。

(もいちど気を取り直して)だってこの映画を真面目に論じたら馬鹿をみそうなんだもん。ギャグ繋ぎで出来ているんで、あらすじを書いたら笑われちゃうかなぁ。でも実のところそうでもなくて、物語は時間軸こそいじってはいるが、ものの見事に全部がどこかで繋がっていて、練りに練った脚本だったのね、と最後にはわかるのだが、とはいえ、あらすじを書いて果たして意味があるかどうかは、なのだな。

ですが、それは面倒なだけ、と見透かされてしまうのは癪なので、ちょっとだけ書くと、まず冒頭で、加瀬という46歳の男が朝起きてからの行動を、やけに細かくナレーション入りで延々と語りだす。これは忘れてはならぬと、頭の中で復誦していると、女が空から降ってきて、加瀬はトラックにはねられて、「加瀬の人生は終わり、このドラマは始まる」って。で、本当に加瀬はほぼ忘れ去られてしまって、そりゃないでしょうなのさ。

女が降ってきた(突き落とされたのだ)そのアパートの隣部屋では3人組がスタンガンコントを、これまたけっこう時間を使ってやってみせる。コンビニ強盗を計画しているっていうんだが、結果は見え見え。

んで、このあとやっと崖っぷちアイドル(これは映画の宣伝文句にある言葉)の円城寺アヤメ主人公様がコンビニで雑誌をチェックしている場面になる(この前にも登場はしてたんだが)。アヤメとは同級生で、スカウトされたのも一緒だった耳川モモは表紙を飾っているというのに、掲載ページのアヤメは印刷がさかさま! 思わずその雑誌を万引きして(なんでや?)逮捕されてしまうアヤメ。

このあたりの撒き餌部分は多少もたもたかなぁ。だからか、こっちもどうやって映画に入り込んでいったらいいのかまだ迷っていて(最初の加瀬の部分でもやられていたので)、時間がかかってしまったが、いつの間にかそんなことは忘れてしまって、だからもうここから先は完全に乗せられてたかしらね。

アヤメは万引きの罪の帳消しに、見越婆(みこしば)警察署の一日署長にさせられてしまう。一日署長はきっかり日付が変わるまでで、長期署長も可。むしろ署員はそれを希望してるし、かつ一日署長の指示待ち状態。そこの強制捜査班の恩田春樹刑事はアヤメの元カレで殺人鬼(女を突き落としたのもこいつ)。春樹は自首しなきゃと思ってはいるが、副署長にはとっくに見抜かれていて、お前だけコレにしとくってわけにいかないから、と取り合ってもらえない。お前だけって見越婆警察署は全員が犯罪者なの? 春樹の正体というか殺人癖はアヤメも昔から知っていて(注1)、もう何がなんだか展開。で、そこに「殺したら(撃たれたら)射殺してやる」回路標準装着者のいる三人組によるコンビニ襲撃事件が発生する。

ここまですべてをありえない展開にしてしまうと、いくらブラックジョークといえど、いろいろ困るのではないかと余計なお世話危惧をしなくもなかったが、見越婆警察署の内部が自白室や測量室(別に高級測量室というのもあったが?)のある古びた病院だか魔窟のようになっていたことで、私はあっさり了解することにしましたよ。なーんだ、これは異世界なんだって。

ところがその異世界でアヤメは、いろいろなことに違和感を抱いていて、でも昔は殺人鬼の春樹と平気で付き合っていたわけだし、耳川モモとも対等だったはずなのに、なんでアヤメだけが、と考えてみると、これはですね、アヤメがグラビア雑誌に反対に印刷されてしまったことで、異世界の住人とは妙にズレた感覚が身についてしまったのではないかと?

異世界にあってそれは危機なのだが、一日署長を体験したことで、アヤメは自信を取り戻し、すっかり元に戻って、つまり全部がさかさまのページとなって(注2)、彼らの異世界の調和は保たれたのでありました。

と、勝手な屁理屈で謎解きしてみたが、これは全然当たってないかも。だって春樹に対するアヤメのことだけを取ってもそう簡単には説明がつかないもの。いや、そうでもないのかな。万引きという初歩的犯罪が認められての一日署長だし、迷宮のような見越婆警察署の署長室にたどり着いても、誰もがなりたがる権力者たる署長は本当に不在。「春樹も自首とか考えないで前向きに」と言っといての逮捕、は完全に「春樹の味方」に戻ったよな、アヤメ(当時は自首していい人になってはいけないということがアヤメにはわかっていたのだ)。ね、やっぱりすべてが逆転してるもの。

でもまぁ、単に面白かったってことでいいのかもね。私のは屁理屈にしても、理屈拒否の為の異世界設定は当たってるんじゃないかな。真面目に考えたり論じたりするべからず映画というのが正しそうだから。
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注1:昔のアヤメは、春樹が自首すると言っても見つからなければわからないと、副署長と同じ見解だった。当初の春樹はだからずっとマトモだった。が、すぐ殺人は「ボーリングより簡単」になってしまう。

注2:コンビニに居合わせたため、耳川モモと一緒に強盗の人質となっていた風間マネージャーが「他のページがさかさまなの!」と言っていたが、こういうことを言ってはいけない。私の『罪とか罰とか』における異世界理論が崩れてしまうではないの。

 

2008年 110分 ビスタサイズ 配給:東京テアトル

監督・脚本:ケラリーノ・サンドロヴィッチ 企画:榎本憲男 撮影:釘宮慎治 美術:五辻圭 音楽:安田芙充央 主題歌:Sowelu『MATERIAL WORLD』 照明:田辺浩 装飾:龍田哲児 録音:尾崎聡

出演:成海璃子(円城寺アヤメ)、永山絢斗(恩田春樹/見越婆署刑事)、段田安則(加瀬吾郎/コンビニの客)、犬山イヌコ(風間涼子/マネージャー)、山崎一(常住/コンビニ強盗)、奥菜恵(マリィ/コンビニ強盗)、大倉孝二(立木/コンビニ強盗)、安藤サクラ(耳川モモ)、市川由衣(コンビニバイト)、徳井優(コンビニ店長)、佐藤江梨子(春樹に殺される女)、六角精児(巡査部長)、みのすけ(警官)、緋田康人、入江雅人、田中要次(芸能プロ社長)、高橋ひとみ、大鷹明良(トラック運転手)、麻生久美子(助手席の女)、石田卓也、串田和美(海藤副署長)、広岡由里子

チェンジリング

109シネマズ木場シアター3 ★★★★

■母は強し

「真実の物語」ということわりがなければ、馬鹿らしいと憤慨しかねない内容の映画だ。

1928年3月にロサンゼルスで、クリスティン・コリンズの9歳の1人息子ウォルターが消えてしまうという事件が起きる。5ヵ月も経ったある日、遠く離れたイリノイ州でウォルターが見つかったという知らせが入り、クリスティンは駅に出迎えに行くが、警察の連れ帰った少年は別人だった。だが少年はウォルターだと言い張り(はあ?)、居合わせた(待ち構えていた)ジョーンズ警部に、とりあえずは息子と認めるよう言われ、新聞記者たちの注文とジョーンズ警部に促されたクリスティンは、ためらいながらも少年と2人で取材写真に収まってしまう。

別人なのにとりあえずって何なのだ、と激しく思ってしまうのだが、映画はこの不可解な状況を、まさにクリスティンの動揺をそのまま観客に押しつけるように物語を進めていく。こんなのは認めないよ、と心の中で叫んではみるのだが、何しろ「真実の物語」なのであるからして、認めるも認めないもないのだった。

クリスティンに話を戻せば、警察にはとにもかくにも息子を捜索してほしいわけで、苛立ちとは別にそういう遠慮も働いたのだろう。また1928年という時代状況もあったと思われる。米国のことはわからないが、日本だと戦前の警察には絶対的権威が存在していた認識があるし、映画の中でも遠慮のない発言があったように、女性蔑視という見えない力も介在していたことだろう。彼女がシングルマザーだったということもあったのではないか。

クリスティンの遭遇したこの不可解な、むろん彼女にとってはつらいだけの事件は、①当時の警察(市長、警察本部長からの構造的なもの)にあった恒常的な腐敗と、②嘘を突き通す身代わりの少年という存在(これがすごいよね)に、③さらには、というかもちろん一番の原因なのだが、親戚の子供を無理矢理手下にしたゴードン・ノースコットによる連続少年拉致殺人という、全く別の3つの要素(②は警察によって言いくるめられたという側面もあったのだろうが)が重なって起きたことが次第に判明してくる。

映画は事件解明という謎解きの面白さに加え、クリスティンが精神病院に送られてしまう理不尽さや、保身に走る警察、犯人ノースコットの素顔(これは裁判や死刑執行までもが描かれる)に、犯行を手伝わされたノースコットの従弟の少年、一方その少年の訴えに耳を傾けることになる刑事や、クリスティンに手を差しのべる長老教会のブリーグレブ牧師など、多岐にわたってその細部までを余すところなく伝えようとする(むろん収拾選択の結果の脚本だろうが)。

この誠実ともいえる姿勢が素晴らしい。あくまで正攻法で奇を衒うことなく、事件を丁寧に掘り下げていく。エピソードのどれもが驚きや示唆、あるいは教訓に満ちていて、その一々を書き連ねていきたい誘惑に駆られるが、それは映画に身を委ねて堪能すべきものだ。

息子の生存を信じて疑わないアンジェリーナ・ジョリーは熱演だが、モガ帽子(名前は知らない)にケバいメイクは、当時の流行にしても引いてしまいそうになった。クリスティンの勤める電話局は繁忙を極めていて(これが息子の誘拐に繋がってしまうのだが)、移動時間を節約するため、彼女はローラースケートを履いて仕事をしていた。ローラースケートはファーストフードのように見せる要素のある店だけと思っていたのだが。彼女は電話交換手なのだが、同僚を束ねる主任のような立場にあって、子育てだけでなく仕事にも熱心だったのだろう、昇進の話も出ていた。

こういうしっかりした背景描写の積み重ねが、映画の物語部分に厚みを出し、クリスティンが最後に見つける希望に、それがわずかなものであっても思いを重ねてたくなるのだろう。もっとも実際は、彼女は1935年には亡くなってしまったらしいし、彼女の夫のことなども「真実の物語」である映画は、隠蔽しているようである(事件の概要についてだけなら、それは文字情報や写真などにはかなわないし、虚構である映画の「真実の物語」にも触れなければならず、収拾がつかなくなること請け合いなので、今はやめておく)。

背景のロス市街の描写も凝ったものだ。市電にフォード、そして人々の行き交う街角からは生活臭すら漂ってきそうだった。エンドロールの固定カメラからのビル街のCGも実によく出来ていた。ここまで作り込んだら、誰だってこうやってしばらくは流して、眺めていたくなるだろう。

欠点らしきところが見つからないのだが、大恐慌の影がないのは気になった。事件のはじまりは1928年だからクリスティンの職場が大忙しだったのは頷けるが、不況の只中にあってもそうだったのか。西海岸は多少は影響も軽微だったとか(でも世界恐慌だからなー)。あるいは、電話という当時の最先端技術の現場では不況もそれほどは関係なかったとか。その頃のことをもっと知っていれば、さらに面白く観ることができそうである。

イーストウッド老人の近年の活躍には質量共に目を見張るものがある。そこに、またこんな正攻法の映画まで付け加えられては、ただただ脱帽するしかない。能がありすぎる鷹は爪の隠しようがないんでしょう。それにしても、かっこよすぎるよなぁ。

  

原題:Changeling

2008年 142分 アメリカ シネスコサイズ 配給:東宝東和 PG-12 日本語字幕:松浦美奈

監督・音楽:クリント・イーストウッド 製作:クリント・イーストウッド、ブライアン・グレイザー、ロン・ハワード、ロバート・ロレンツ 製作総指揮:ティム・ムーア、ジム・ウィテカー 脚本:J・マイケル・ストラジンスキー 撮影:トム・スターンプロダクションデザイン:ジェームズ・J・ムラカミ 衣装デザイン:デボラ・ホッパー 編集:ジョエル・コックス、ゲイリー・ローチ

出演:アンジェリーナ・ジョリー(クリスティン・コリンズ)、ジョン・マルコヴィッチ(グスタヴ・ブリーグレブ/牧師)、ジェフリー・ドノヴァン(J・J・ジョーンズ/警部)、コルム・フィオール(ジェームズ・E・デイヴィス/警察本部長)、ジェイソン・バトラー・ハーナー(ゴードン・ノースコット/牧場経営者)、エイミー・ライアン(キャロル・デクスター/精神病院入室者)、マイケル・ケリー(レスター・ヤバラ/刑事)、エディ・オルダーソン(犯人の従弟)

ディファイアンス

シネマスクエアとうきゅう ★★★☆

■生きるが勝ち

ナチスによる狂気のようなユダヤ人狩りから逃れた人々の実話。ユダヤ人レジスタンスとして有名なビエルスキ兄弟の活躍を描く。有名と書いたが、彼らのことがよく知られるようになったのは15年ほど前らしい。

予備知識なしで観たこともあるが、実は最初の10分は予告篇から寝ていて、その部分は次の回に、つまり最後になって観るという馬鹿げたことをやってしまったため、トゥヴィア、ズシュ、アザエルが兄弟(アーロンもか)だということが、しばらくわからずにいた。だってさ、似てないんだものトゥヴィアとズシュって(寝ちゃったのが悪いんだけどさ)。

映画は、娯楽作として割り切っても十分楽しめるが、歴史の知識があればさらに興味深く観ることが出来たと思われる。対ナチス(+その協力者)だけでなく、ズシュが入隊(?協力なのか)するソ連赤軍も何度か出てきて、ベラルーシの地理的背景が浮かび上がってくるのだが、自分の知識の無さがもどかしくなった。この地にはユダヤ人が多数住んでいたようだ。そのことはなんとなくわかる程度にしか描かれていないが、映画で説明するには複雑すぎるのだろう。

迫害される状況にあって協力して生きていかなければならないのに、とりあえずの平穏が得られると、情けないことにすぐさま別な形で不満を持つ者が現れるのは、どこでも同じだろうか。共同体における基本的な問題は、特に危機と隣り合わせというような状況にあっては指導者の力量にかかってくるが、トゥヴィアもズシュも、ただの農夫と商店主だったわけで、ごく普通の人間にすぎなかった。兄弟げんかは度々だし、トゥヴィアは激情にかられて両親の復讐に走る。相手は警察署長。彼の多分初めての人殺しは、相手の家族団欒の場に乗り込んでのことになる。

復讐を果たしたトゥヴィアだが、ズシュが結局はドイツ軍と闘う道を選ぶのとは対照的に、女や子供、老人たちを引き連れ、森の中で何とか生き抜く道をさぐることになる。はじめのうちこそ農家から食料を奪ったり、ドイツ軍への攻撃もズシュと共に繰り返していたが、犠牲者を出してしまったことで「生き残ることが復讐だ」「生きようとして死ぬのなら、それは人間らしい生き方だ」と思うようになっていく。

観たばかりのチェ2部作(『チェ 28歳の革命』『チェ 39歳 別れの手紙』)が攻めのゲリラなら、こちらは守りのゲリラか。見かけも映画の質もかけ離れているが、直面する問題は変わらない。この作品の方が、親切でわかりやすいのは娯楽作を創ることを念頭に置いているからだろう。

わかりやすいということは具体的ということでもある。なにしろ大人数だから、森の中に村が出来上がっていくことになるのだが、そのあたりも物語の進行の中で、人物紹介を兼ねるように手際よく見せていく。未開の地を開拓したのだろうが、よくそんなことが可能だったと驚く(最初の地は逃げ出すことになるのだが)。女や老人にも役割分担が与えられる。みんなが働く必要があるのだ。木を伐りだし小屋を作ることから始めなければならないのだから。

が、まだ1941年のことで(解放までにはまだ3年以上もあるのだが、でももしかしたら彼らの誰もが、そんなに早く自由の身を取り戻せるとは思っていなかったかもしれない)、最初に迎える凍りつく冬に食料は底をつき、食料調達班の造反やトゥヴィア自身が病気になるなど、最大の危機がやってくる……。愛馬を殺して食料にし、造反したリーダーは有無を言わせず射殺してしまう。あっけにとられるくらいの、このトゥヴィアの行動は、しかし、ではどうすればよかったのかと問われると、何も言えなくなる。

内容が盛り沢山すぎて書いているとキリがなくなるので、いくつかを覚え書き程度にメモしておく。ゲットーからの集団脱出の手助け。兄弟それぞれの恋。ドイツ軍の攻撃を知って、沼地のような大河(国土の20%を占めるという湿原か?)を全員で渡る場面。トゥヴィアもさすがに躊躇するが、アザエルが成長した姿をみせる(あの泣いていたアザエルがだよ。ま、奥さんもらっちゃったしね)。なんとか渡りきったところに戦車が登場するなど、派手さこそないが、次々と見せ場がやってくる。ドンピシャのタイミングでズシュが助けに現れては(帰って来たのだ)、真実の物語にしては脚色しすぎなんだけど、許しちゃおう。

教師ハレッツとイザックの知的?コンビの会話もいいアクセントになっていた。このハレッツは「信仰を失いかけた」というようなことを度々口にしていた。「もう選民という光栄はお返しします」とも。そういうことにはならないのだけど、とりあえずそれだけは返してしまった方がよかったと私は思うんだが。

 

原題:Defiance

2008年 136分 アメリカ ビスタサイズ 配給:東宝東和 日本語字幕:戸田奈津子

監督:エドワード・ズウィック 製作:エドワード・ズウィック、ピーター・ジャン・ブルージ 製作総指揮:マーシャル・ハースコヴィッツ 原作:ネハマ・テク 脚本:クレイトン・フローマン、エドワード・ズウィック 撮影:エドゥアルド・セラ プロダクションデザイン:ダン・ヴェイル 衣装デザイン:ジェニー・ビーヴァン 編集:スティーヴン・ローゼンブラム 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード

出演:ダニエル・クレイグ(トゥヴィア・ビエルスキ)、リーヴ・シュレイバー(ズシュ・ビエルスキ)、ジェイミー・ベル(アザエル・ビエルスキ)、アレクサ・ダヴァロス(リルカ)、アラン・コーデュナー(ハレッツ/老教師)、マーク・フォイアスタイン(イザック)、トマス・アラナ(ベン・ジオン)、ジョディ・メイ(タマラ)、ケイト・フェイ(ロヴァ)、イド・ゴールドバーグ(イザック・シュルマン)、イーベン・ヤイレ(ベラ)、マーティン・ハンコック(ペレツ)、ラヴィル・イシアノフ(ヴィクトル・パンチェンコ/ソ連赤軍指揮官)、ジャセック・コーマン(コスチュク)、ジョージ・マッケイ(アーロン・ビエルスキ)、ジョンジョ・オニール(ラザール)、サム・スプルエル(アルカディ)、ミア・ワシコウスカ(ハイア)

チェ 39歳 別れの手紙

新宿ミラノ2 ★★★☆

■革命から遠く離れて

画面サイズがシネスコからビスタに替わったからというのではないはずだが(しかし、何で替えたんだろ)、続編にしては先の『チェ 28歳の革命』とは印象がずいぶん異なる映画だった。

「今世界の他の国々が私のささやかな助力を求めている。君はキューバの責任者だから出来ないが、私にはできる。別れの時が来たのだ。もし私が異国の空の下で死を迎えても、最後の想いはキューバ人民に向かうだろう、とりわけ君に。勝利に向かって常に前進せよ。祖国か死か。革命的情熱をもって君を抱擁する」というゲバラの手紙を、冒頭でカストロが紹介する。

それを流すテレビを左側から映した画面からは、Part Oneとそう違ったものには見えず、いやむしろそれに続くゲバラのボリビア潜入の変装があんまりで、安物スパイ映画を連想してしまった私など、逆に弛緩してしまったくらいだった。むろんゲバラにはそんな気持はさらさらなく、彼は相変わらずPart Oneの時と変わらぬ信念と革命的情熱を持って、ボリビアに潜入する。理想主義者のゲバラにとって、キューバでの成功に甘んじていることなど許されないのだろうが、実際に行動するのはたやすいことではないはずだ。成功者としての地位も安定した生活も捨て、家族とも別れて、なのだから。

それほどの決意で臨んだボリビアの地だが、どうしたことか、キューバではうまくいったことがここでは実を結んでくれない。親身になって少年の目を治療し、誠実に農民たちと向き合う姿勢は、あの輝かしいキューバ革命を成し遂げた過程と何ら変わっていないというのに。

最初は豊富にあったらしい資金もすぐに枯渇し、食料も満足に確保できず、体調を崩して自分までがお荷物になってしまう状況にもなる。組織が育っていかないから、ゲリラとして戦うというよりは、ただ逃げているだけのように見えてしまう。

実際、鉱夫がストに入ったというくらいしか、いいニュースは入ってこない。政府軍の方は捜索も念が入っていて、シャツからキューバ製のタグを見つけ出すし、アメリカの軍人らしき人物が「ボリビア兵を特殊部隊に変えてやろう」などと言う場面もある。キューバ革命に対する危機感が相当あったのだろう。「バティスタの最大の過ちはカストロを殺せる時に殺さなかったこと」というセリフもあった。ゲバラの捕獲に先立っては、ゲバラの別働隊を浅瀬で待ち伏せ、至近距離で狙い撃ち全滅させてしまう。この情報は、ラジオでゲバラも得るのだが「全滅などありえない」と信じようとしない。

居場所を知られるのを恐れ、ゲバラは己の存在を隠そうとし、バリエントス側はゲバラの影響力を恐れて、やはりその存在を隠そうとする。思惑は違うのに同じことを願っていて妙な気分になる。とはいえ観客という気楽な身分であっても、すでにそんなことを面白がってなどいられなくなっている。

結末はわかっていることなのに、ゲバラが追い詰められていく後半は胸が苦しくなった。農夫の密告というのがつらい。山一面の兵士に包囲されて、逃げなきゃ!と叫び声を上げそうになる。Part Oneでゲバラの姿がしっかり焼き付けられていたからだろう。Part Oneの最後にあった、陽気で明るい雰囲気まで思い返されるものだから、よけい切なさがつのってくる。雰囲気が違うというより、2部作が呼応しているからこそのやるせなさだろうか。

それにしても何故、キューバでできたことがボリビアではできなかったのか。そのことに映画はきちんと答えているわけではない。親ソ的なボリビア共産党と組めなかったことも大きな要因らしいが、ボリビアでは1952年にすでに革命があり1959年には農地解放も行われていた。革命は1964年に軍によるクーデターで終焉してしまうのだが、共産党とは対立が進みながらも、大統領になったレネ・バリエントスは民衆や農民にも一定の支持を得ていたようだ。が、そんな説明は一切ない。

足を撃たれたゲバラは捕虜になるが、射殺されてしまう。カメラはその時、ゲバラの目線に切り替わる。ゲバラに入り込まずにはいられなかったのかどうかはわかりようがないが、そう思いたくなった。ボリビア潜入後1年にも満たないうちに死体となったゲバラ。カメラはヘリが死体を運び出すまでを追う。村人が顔をそむけたのはヘリの巻き上げた砂埃であって、それ以外の理由などなかったろう。

無音のエンドロールには重苦しさが増幅される。といってこれ以外の終わり方も思い浮かばないのだが。

  


原題:Che Part Two Guerrila

2008年 133分 フランス/スペイン/アメリカ ビスタサイズ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ、日活 日本語字幕:石田泰子 スペイン語監修:矢島千恵子

監督:スティーヴン・ソダーバーグ 製作:ローラ・ビックフォード、ベニチオ・デル・トロ  製作総指揮:フレデリック・W・ブロスト、アルバロ・アウグスティン、アルバロ・ロンゴリア、ベレン・アティエンサ、グレゴリー・ジェイコブズ 脚本:ピーター・バックマン 撮影:ピーター・アンドリュース プロダクションデザイン:アンチョン・ゴメス 衣装デザイン:サビーヌ・デグレ 編集:パブロ・スマラーガ 音楽:アルベルト・イグレシアス

出演:ベニチオ・デル・トロ(エルネスト・チェ・ゲバラ)、カルロス・バルデム(モイセス・ゲバラ)、デミアン・ビチル(フィデル・カストロ)、ヨアキム・デ・アルメイダ(バリエントス大統領)、エルビラ・ミンゲス(セリア・サンチェス)、フランカ・ポテンテ(タニア)、カタリーナ・サンディノ・モレノ(アレイダ・マルチ)、ロドリゴ・サントロ(ラウル・カストロ)、ルー・ダイアモンド・フィリップス(マリオ・モンヘ)、マット・デイモン、カリル・メンデス、ホルヘ・ペルゴリア、ルーベン・オチャンディアーノ、エドゥアルド・フェルナンデス、アントニオ・デ・ラ・トレ

2008年度カンヌ国際映画祭主演男優賞受賞

誰も守ってくれない

109シネマズ木場シアター4 ★★★☆

■「守ってくれない」と嘆くのではなく「守れ」というのだが

被害者やその家族でもなく、容疑者本人でもなく、無関係なはず(厳密にはそうは言えないが)の容疑者の家族が、容疑者の家族になってしまったことでどういう状況に追い込まれるのかという、あまり目が付けられていない分野に踏み込んだ意欲作である。同じ題材で『手紙』(2006)という作品があったが、『手紙』が長い期間を扱っているのに対し、こちらは事件直後という緊迫した時間に焦点を当てている。

18歳の長男が殺人事件の容疑者(小学生姉妹の殺害犯)として捕まったことで、船村家の生活は一変する。状況を把握する間もなく、両親と15歳の娘の沙織は、3人別々に保護すると警察に言いわたされる。

「犯罪者の家族の保護については、警察は公には認めていない」と映画の中でも言っていたし、この仕事を与えられた勝浦刑事も「それって一体何ですか」と上司に聞き返していたくらいで、でもちゃんと保護マニュアルのようなものは出来ていて、それに従って3人は名前を変えられ(両親を離婚させ、籍を母親の方に入れ直す)、沙織には就学義務免除の手続きが取られる。

学校に行けなくなる理由さえ理解出来ずにいる沙織を、報道陣に取り囲まれ騒然とした家から連れ出す勝浦だが、用意してあったホテルも彼らにすぐ嗅ぎつかれてしまう。保護マニュアルの強引さには頭をひねりたくなるし、何故当日から3人を別々にしなければならないのかがよくわからないのだが(容疑者の兄を庇われたら困るという警察の都合もありそうだ。当然とはいえ沙織からも供述は取ろうとしていたから、保護だけが目的ではないのかも)、たたみかけるような展開は、観客をもただならぬ臨場感の中に引き込んでいく。

このあと女精神科医の登場といういささか謎めいた設定が息抜きとなっているが(ただでさえ不安がっている沙織になかなか正体を告げない精神科医ってーのもなぁ)、これは勝浦の相棒を松田龍平にし「背筋が凍る」関係にしたあたりでもわかるように、君塚良一の趣味またはサービス精神なのだろう。

このサービス精神が、精神科医のもとからさらに勝浦とはワケありのペンションへと舞台を移させたのだろうか(もちろん逃げ出さずにいられなかったというようにはなっている)。ペンションの経営者本庄夫妻は、3年前に勝浦の捜査ミスで、子供を失っている。別の事件ながら、被害者の家族という沙織とは対極にある人物を登場させることによって、沙織の置かれた立場を、簡単に同情するだけでいいのかと、もう一度観客に最初から考えることを促そうとする。

「ウチの子は守ってくれなかったのに、犯人の子は守るんですか」(注1)「あんたには被害者の家族も加害者の家族も同じ。本当はあんたの顔も見たくないんだ!」という本庄圭介の勝浦への怒りはわからなくもないが、だったら最初から受け入れるなと言いたくなるし(言い過ぎたと次の日頭をさげていたが)、勝浦が、この事件が起こらなくても妻と娘とでこのペンションに来ようとしていたという件には首をかしげたくなった。贖罪のつもりなのだろうか。それとも「まだギリギリ繋がっている」家族に、本城夫妻を対面させて自分の立場をわかってもらおうとでも思ったのか(だったらちょっとなぁ)。

勝浦はその事件で、上司の命令に従っただけなのに停職処分になったというし、もちろん彼が悔やんでも悔やみきれずにいるのはわかるのだが、そのことで梅本記者に問い詰められたり、個人的な新聞ネタにまでなっていたとしては、大げさになる。

今回の事件については、発覚当初からネットでの格好の餌食になっていたが、それはますますエスカレートし、言葉だけにしても容赦のない憎悪をつのらせていた。そして何故か書き込みは、容疑者の身元から沙織や勝浦のことにまで及び、誰も知らないはずの居場所(ペンション)まで公開されてしまう。情報が沙織のケータイから漏れていたというのは、盲点だし伏線(注2)のしっかりしたいいアイデアなのだが、彼女の情報をばらまくことでネットのカリスマになろうとした達郎が、のこのことペンションまでやって来ては台無しではないか。

情報が漏れてしまったのは偶然の連鎖とでもし、生映像実況中継も別なグループ脅かされて、くらいの救い(これは沙織にとっての救いにもなるし、って甘いか)はあってもいいような気がする(ないようにしたいのだろうが)。表だった行動のできない匿名性を隠れ蓑にしたネットの住人にしてはやりすぎな気がするが、役割分担であればこういう状況もないとはいえまい。ペンションのまわりに亡霊のように何人も立っている場面も同様で、この野次馬は、まるで亡霊のようにケータイやビデオカメラを向けたネット族的なイメージにするのではなく、どこにでもいる一般人にした方がかえって説得力が出たのではないか。

ついどうでもいいことを書きすぎたが、海岸で勝浦が沙織に、「お兄さんを守ろうとした」ように「これからも君が家族を守るんだ」と言い聞かせる重要な場面も、実はあまり頷くことが出来なかった。「お兄さんを守ろうとした」というのは、兄(容疑者)が父に勉強ばかりやらされて苦しんでいたと沙織が語ったことを、つまり兄の心境を察していることを踏まえて勝浦が言うのだが、「家族を守る」という言葉に対しては、沙織は「お父さんに会いたくない」と反応していて(父は成績の落ちた兄をぶったのだという)、それはそれで仕方のないことではないかと思ってしまう。

「罪を犯しても家族」と言われても、家族意識の希薄な私には受け入れがたいところがある。「誰かを守るということは、その人の痛みを感じること」で、「人の痛みを感じることはつらいが、生きていくということはそういうこと」なのだから目をそらしてはいけないと言っているのだろうか(勝浦は「生きるんだ」と言って母親が自殺した時に手にしていた家族の集合写真を渡し、沙織を引き寄せて頭を抱く)。

そうするのがきっと正しいのだろう。そういう確信(解決方法とは思っていないにしても)が持てる勝浦だからこそ、本庄夫妻のペンションに家族で行く予約を入れていたのだろう。本庄夫妻とも自分の妻と娘とも、きちんと向き合おうとして。理屈はそうなのだけれど、そして勝浦が自分の家族のことは、結果はどうあれそうしなければならないにしても、本庄夫妻のことからは離れてしまった方が(忘れることはできなくても)いいように思うのだが……。

なじめないところは多々あるのだが、力作、なのは間違いない。

注1:母親の自殺を、勝浦からではなく同級生の達郎からきいた沙織にしてみれば、勝浦が自分を守ってくれているという認識などこの時はなかったと思われる(もちろん本庄圭介にはそんなことは関係のないことである)。

注2:女精神科医のところにいた時「見られたら恥ずかしくて死ぬ」という沙織の言葉で、勝浦はわざわざ家宅捜索中の家に戻り、彼女の(充電中にしてあった)ケータイを取ってきてやっていた。

 

2008年 118分 ビスタサイズ 配給:東宝

第32回モントリオール世界映画祭最優秀脚本賞受賞

監督:君塚良一 製作:亀山千広 プロデューサー:臼井裕詞、種田義彦 アソシエイトプロデューサー:宮川朋之 脚本:君塚良一、鈴木智 撮影:栢野直樹 美術:山口修 編集:穂垣順之助 音楽:村松崇継 主題歌:リベラ『あなたがいるから』 VFXディレクター:山本雅之 ラインプロデューサー:古郡真也 音響効果:柴崎憲治 照明:磯野雅宏 製作統括:杉田成道、島谷能成 装飾:平井浩一 録音:柿澤潔 監督補:杉山泰一

出演:佐藤浩市(勝浦卓美)、志田未来(船村沙織)、松田龍平(三島省吾/勝浦の同僚)、木村佳乃(尾上令子)、柳葉敏郎(本庄圭介/ペンション経営者)、石田ゆり子(本庄久美子)、佐々木蔵之介(梅本孝治/記者)、佐野史郎(坂本一郎)、津田寛治(稲垣浩一)、東貴博(佐山惇)、冨浦智嗣(園部達郎/沙織の同級生)、須永慶、掛田誠、水谷あつし、伊藤高史、浅見小四郎、井筒太一、渡辺航、佐藤裕、大河内浩、佐藤恒治、長野里美、野元学二、菅原大吉、西牟田恵、平野早香、平手舞、須永祐介、山根和馬、浮田久重、柄本時生、ムロツヨシ、青木忠宏、渡仲裕蔵、阿部六郎、積圭祐

チェ 28歳の革命

テアトルダイヤ ★★★☆

■革命が身近だった時代

貧しい人たちのために革命に目覚めたゲバラが、メキシコで出会ったカストロに共感し、共にキューバへ渡り(1956)、親米政権でもあったバティスタ独裁政権と戦うことになる。大筋だけ書くと1958年のサンタ・クララ攻略(解放か)までを描いた「戦争映画」になってしまうが、エンターテイメント的要素は、最後の方にある列車転覆場面くらいしかない。全体の印象がおそろしく地味なのは、舞台のほとんどが山間部や農村でのゲリラ戦で、余計な説明を排したドキュメンタリータッチということもある。

これではあまりに単調と思ったのか、革命成就後にゲバラが国連でおこなった演説(1964)や彼へのインタビュー風景が、進行形の画面に何度も挟まれる。この映像は結果として、ゲバラの演説内容と、彼がしているゲリラ戦の間には何の齟齬もないし、ゲリラ戦の結果故の演説なのだ、とでも言っているかのようである。もっとも、この演説部分の言葉を取り出そうとすると、映画という特性もあって意外と頭に残っていないことに気づく(私の頭が悪いだけか)。

けれど、農民に直接語りかけていたゲバラの姿は、しっかり焼き付けられていく。英雄としてのゲバラではなく、彼の誠実さや弱者への視点を、つぎはぎ編集ながら、着実に積み上げているからだろう。これがゲバラの姿に重なる。こんなだからゲバラの腕の負傷も、映画は事件にはしない。まるで、事実が確認出来ていないことは映像にしない、というような制作姿勢であるかのようだ(実際のことは知らない)。

戦いは都市部に展開し(当時の状況や地理的な説明もないから、この流れ自体はやはりわかりずらい)、いろいろな勢力と共闘することも増えていく。当初から裏切り(処刑で対処する非情さもみせる)や脱落もあるのだが、常にそれ以上に人が集まってきていたのだろう。ゲバラが主導者であり続けたのは先に書いたことで十分頷けるのだが、キューバにはそれを受け入れる大きな流れがあったのだ。

革命は、それを望んでいる人々がいて、初めて成就するのだ、ということがこの映画でも実感できる(金融危機によって格差社会がさらに推し進められ、『蟹工船』がもてはやされている日本だが、今革命が起きる状況など、やはり考えられない。比較するような話ではないが)。

映画としての華やかなお楽しみは(ささやかだけど)、ゲバラの後の妻となるアレイダとのやりとり(ゲバラがはしゃいでいるように見える)と、ハバナ進軍中に「たとえ敵兵のものでも返してこい」と、オープンカーに乗った同士をゲバラが諫める場面か。ゲバラのどこまでも正しい発言には逆らえず、しぶしぶ車をUターンさせることになる。この最後の場面、勝利を手中にして、画面の雰囲気や色調までがやけに明るいのである。

PS 今日は何故か『レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで』に続いて革命映画?2本立てとなった。向こうは1955年のアメリカで、「レボリューショナリー・ロード」という名前の通りがあったという設定(実際にも?)だ。この年はゲバラがメキシコでカストロと出会った年でもある。Revolutionという言葉は、米国ではどんなイメージなのか、ちょっと気になる。

原題:Che Part One The Argentine

2008年 132分 アメリカ/フランス/スペイン シネスコサイズ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ、日活 日本語字幕:石田泰子 スペイン語監修:矢島千恵子

監督:スティーヴン・ソダーバーグ 製作:ローラ・ビックフォード、ベニチオ・デル・トロ  製作総指揮:フレデリック・W・ブロスト、アルバロ・アウグスティン、アルバロ・ロンゴリア、ベレン・アティエンサ、グレゴリー・ジェイコブズ脚本:ピーター・バックマン 撮影:ピーター・アンドリュース衣装デザイン:サビーヌ・デグレ 編集:パブロ・スマラーガ 音楽:アルベルト・イグレシアス プロダクションエグゼクティブ:アンチョン・ゴメス

出演:ベニチオ・デル・トロ(エルネスト・チェ・ゲバラ)、デミアン・ビチル(フィデル・カストロ)、サンティアゴ・カブレラ(カミロ・シエンフエゴス)、エルビラ・ミンゲス(セリア・サンチェス)、ジュリア・オーモンド(リサ・ハワード)、カタリーナ・サンディノ・モレノ(アレイダ・マルチ)、ロドリゴ・サントロ(ラウル・カストロ)、ウラジミール・クルス、ウナクス・ウガルデ、ユル・ヴァスケス、ホルヘ・ペルゴリア、エドガー・ラミレス

ティンカー・ベル 日本語吹替版

TOHOシネマズ錦糸町シアター8 ★★★☆

■わがまま娘が物作りという才能を開花させるとき

妖精ティンカー・ベルとして誕生した彼女に教えることで、同時に観客にもネバーランドにあるピクシー・ホロウという妖精の谷が紹介されていく。細部まで神経の行き届いた色鮮やかな景色や物に妖精たち……。いかにもディズニーといった世界なのだが、ファンタジーにはなじめない私も、このアニメの出来にはうっとりさせられた。

妖精たちの仲間入りを果たし、才能審査の末、物作り担当となったティンカー・ベルだが、物作りはメインランド(人間界)に行けないと知ると、自分の仕事がつまらなく思えてしまい、メインランドへの憧ればかりが膨らんでいく。

こんな場所で暮らせるだけでも素敵なのに、それにメインランドが何たるかも知らないっていうのに、と思わなくもないが、これは子供のあれが欲しいこれも欲しい的発想に近いかもしれない。

だから屁理屈は並べず、ティンカー・ベルのわがままが思わぬ騒動を起こして、春(を作り出すの)が間に合いそうになくなる、という流れは、大人にはもの足りなくても、子供たちには受け入れやすいのではないか。

実際、私の観た映画館は日本語吹替版ということもあって、かなりの人数を子供(5歳くらいの子も多かった)が占めていたのだが、驚くほど静かな鑑賞態度だった(上映時間が短いっていうのもある)。

そうやって不平不満分子のティンカー・ベルが色々なことに気づいていく教訓話であり、自分という個性の発見物語(無い物ねだりはやめようという話でもある)には違いないのだが、ティンカー・ベルに物作りという役割をふったことで(Tinker Bellは鋳掛け屋ベルとでも訳せばいいのだろうか。だから物作りなのね)、結果として子供向けの映画でありながら、物作りが基本の実体経済を顧みずに、マネーゲームに走って金融危機を招いたアメリカ合衆国の姿を反映することになったのは面白い。

もっともティンカー・ベルのやったことは、大量生産的手法で生産効率を上げることでしかないし(人類はそのことで生じた負の部分をどうするかについてはまだ明確な答えが出せずにいるものなぁ)、手間暇かける手作りのよさをないがしろにしているようにもみえてしまうから心配になる。それに、妖精のくせしてメインランドからの漂着物利用で難を逃れるというのも、解せない話ではある。

まあ、大量生産で間に合わせたからといって、予定通り春が用意出来れば次の夏をすぐさま作り始める必要などまるでないわけで、そもそもネバーランドでの生産活動は地球温暖化に繋がるものではないし、時間が余ったからといってその分余計に働かされるという心配もなさそうなんだけどね。

  

原題:Tinker Bell

2008年 79分 ■サイズ アメリカ 配給:ディズニー

監督:ブラッドリー・レイモンド 製作:ジャニーン・ルーセル キャラクター創造:J・M・バリー 原案:ジェフリー・M・ハワード、ブラッドリー・レイモンド 脚本:ジェフリー・M・ハワード 音楽:ジョエル・マクニーリイ 日本語吹替版エンディングテーマ:湯川潮音「妖精のうた」

声の出演:深町彩里(ティンカー・ベル)、豊口めぐみ(ロゼッタ)、高橋理恵子(シルバーミスト)、坂本真綾(フォーン)、山像かおり(フェアリーメアリー)、石田彰(ボブル)、朴路美(ヴィディア)、高島雅羅(クラリオン女王)

地球が静止する日

楽天地シネマズ錦糸町-1 ★★★

■地球に優しく!?(何様のつもり)

どうかなと思う部分だらけなのだが、この手のSFものには目がないため、点数が大甘になっていることをまず断っておく。

なにしろ、胎盤のような宇宙服から複製された人間の体で異星人が現れるところや、たとえ造形が不満(というのとも違うのだが)であっても巨大ロボットが登場すると聞いてしまったら(むろん観るまで知らなかったことだが)もうそれだけでワクワクしてしまう体質なのである。

セントラルパークにやってきた球体宇宙船?には関心できない(こんなのごまかしだい!)が、スタニラフ・レムの『砂漠の惑星』を想わせる増殖型の小型昆虫ロボットにはアドレナリンが吹き出した(ただし予告扁にも使われていた、大増殖したこの昆虫ロボットが競技場を飲み込んでしまうシーンなどにも、細かい注文はつけたい気分ではある)。

とはいえ、話はとんでもなくお粗末。文明で数段優った異星人が、地球を守るために人類を抹殺するしかないというのは納得(反論出来ないもの)だけど、そのための調査に何年も前に先発隊を送り込んでおきながら、間際に異星人クラトゥ(DNAを採取して人間型となっている。でなくても表情の乏しいキアヌは宇宙人ぽいが)の判断でどうにでもなるというのだから。

地球人側(米国の対応に限られているのは映画の事情だがろうが、各国が連携してこの事態にあたれるかというと、現状では難しそうだものね)も大統領(何で最後まで出てこない!)の代理である国防長官が、あわよくば異星人をやっつけられるかも程度の認識で、交戦してしまうのだから恐ろしい。こういう行動に出そうなヤツっていそうだものね。

国防長官は異星人の圧倒的な力の前に、あっさり考えを改めるのだけれど、いくら仕方ないとはいえ、これはこれでなんだかな、なのである。

繰り返しになるが、地球を守るためには人類は不要というのはまさに正論だから、笑ってしまうしかないのだが、異星人の破壊行動だって、それが地域限定(かどうかは?)だとしても、生態系根こそぎの抹殺でしかなく、そのためにノアの箱船もどきの種の捕獲にいそしんでいたのだとしたら、異星人たちの脳味噌もお里が知れていて、技術=知性にあらず、になってしまう(って、これは映画人という人類が考えたのだった)。

そういや、すでに人類と何年も暮らしてきたという先発隊の調査員が、クラトゥに「俺は人間が好きなんだ」みたいなことを言っていたが、そんな発言を聞いてしまっては、この異星人たちの生きていく規範のようなものを訊ねてみたくなってしまうではないか(どう定義して映画を作ったのだろうか)。

異星人の目的が、旧作では核兵器の放棄(冷戦時代の終結)だったものを、地球温暖化問題に置き換えてしまうのだから、まったくもってハリウッドも商魂たくましい。最近このテーマのものが急増しているものね。まあ、それはいいことなんだけどさ。

大作B級映画だよね。私は十分楽しませてもらいました。

 

 

原題:The Day the Earth Stood Still

2008年 106分 ■サイズ アメリカ 配給:20世紀フォックス映画 日本語字幕:■

監督:スコット・デリクソン 製作:ポール・ハリス・ボードマン、グレゴリー・グッドマンアーウィン・ストフ 脚本:デヴィッド・スカルパ 撮影:デヴィッド・タッターサル 視覚効果スーパーバイザー:ジェフリー・A・オークン プロダクションデザイン:デヴィッド・ブリスビン 衣装デザイン:ティッシュ・モナハン 編集:ウェイン・ワーマン 音楽:タイラー・ベイツ

出演:キアヌ・リーヴス(クラトゥ)、ジェニファー・コネリー(ヘレン)、ジェイデン・スミス(ジェイコブ)、キャシー・ベイツ(国防長官)、ジョン・ハム、ジョン・クリーズ、カイル・チャンドラー、ロバート・ネッパー、ジェームズ・ホン、ジョン・ロスマン

転々

テアトル新宿 ★★★☆

■疑似家族に涙する大学8年生

サラ金の取り立てを稼業としている福原愛一郎(三浦友和)は、はずみで殴った妻が死んでしまい、吉祥寺(調布?の飛行場も映っていたが)からわざわざ桜田門まで、しかも歩いて自首するのだという。それに付き合えば100万円がもらえるからと、話に乗ってしまったのが取り立てを食らって福原の靴下を口に詰め込まれてしまった竹村文哉(オダギリジョー)で、2人で東京を「転々」としながら何となく目的地へ向かうという奇妙な旅?がはじまる。

大学8年生で、借金苦のどん底生活とナレーションも担当している文哉が、淡々と自分を説明するのだが、そりゃ十分悲惨だと思う。

片や、年上だし口調も偉そうな福原だけど、妻(宮田早苗)との関係では、こちらも言い尽くしがたい闇を抱えていたようである。夜、2人でバス散歩と洒落てみるが、声もかけずに自分だけ下車してしまう妻に、残された福原は茫然とするばかりで、この回想映像に深い意味はなさそうだが、闇の深さは十分わかる。

もっともそんな福原ながら、ある事情で仮の夫婦となった麻紀子(小泉今日子)と、まんざらではない間柄にあるのだから、いい加減なものなのだ。

さらに麻紀子の姉の子のふふみ(吉高由里子)が加わって、そして文哉も成り行きとはいえ福原と麻紀子の息子役をけっこう嬉々として演じ、1組の家族らしきものが出来上がることになる。

親に捨てられた文哉にとっては、疑似家族といえども涙の出てきてしまう存在で、福原が自首することをおしとどめたくなっている自分に気付くのだが、そんな文哉を残して福原は桜田門に向かっていく。

しかしそれにしても疑似家族に涙するような結末で締めくくらなければならないのが現代のある形であるのなら、なんとも痛々しい地点に我々はいるのだろう(でもまあ、そうなのかもね)。

三木ワールドで味付けした東京散歩は、随所に隠し味があって楽しめるが、少々地理的な不都合を感じなくもなかった(転々なのだから、これでいいのかもしれないが)。

 

2007年 101分 ビスタサイズ 配給:スタイルジャム

監督:三木聡 製作:辻畑秀生、宮崎恭一、大村正一郎 プロデューサー:代情明彦、下橋伸明 エグゼクティブプロデューサー:甲斐真樹、國實瑞惠 企画:林哲次、菊池美由貴 原作:藤田宜永『転々』 脚本:三木聡 撮影:谷川創平 美術:磯見俊裕 編集:高橋信之 音楽:坂口修 エンディングテーマ:ムーンライダーズ『髭と口紅とバルコニー』 コスチュームデザイン:勝俣淳子 照明:金子康博 録音:瀬谷満 助監督:高野敏幸

出演:オダギリジョー(竹村文哉)、三浦友和(福原愛一郎)、小泉今日子(麻紀子)、吉高由里子(ふふみ)、岩松了(国松)、ふせえり(仙台)、松重豊(友部)、広田レオナ(鏑木)、津村鷹志(時計屋の主人)、宮田早苗(福原の妻)、石井苗子(多賀子)、横山あきお(石膏仮面)、平岩紙(尚美)、ブラボー小松(ギターマン)、末広ゆい(募金を呼びかける女子高生)、渡辺かな子(募金を呼びかける女子高生)、並木幹雄(助監督)、明日香まゆ美(植物園のおばさん)、福島一樹(少年文哉)、村崎真彩(少女尚美)、麻生久美子(三日月しずか)、笹野高史(畳屋のオヤジ)、鷲尾真知子(愛玉子店のおばさん)、石原良純(愛玉子店の息子)、才藤了介(駅員)、風見章子(お婆さん)、岸部一徳(岸部一徳)

憑神

2007/07/30 109シネマズ木場シアター7 ★☆

■のらりくらりと生き延びてきたカスが人類(映画とは関係のない結論)

よく知りもしないでこんなことを書くのもどうかと思うのだが、私は浅田次郎にあまりいいイメージを持っていない。たしかに『ラブ・レター』には泣かされたが、あの作品が入っている短篇集の『鉄道員(ぽっぽや)』には同じような設定の話が同居していて、読者である私の方が、居心地が悪くなってしまったのである(こういうのは書き手にこそ感じてほしい、つまりやってほしくないことなのだが)。

で、そのあとは小説も読むことなく、でも映画の『地下鉄(メトロ)に乗って』で、やっぱりなという印象を持ってしまったので(映画で原作を判断してはいけないよね)、この作品も多分に色眼鏡で見てしまっている可能性がある。だって、今度は神様が取り憑く話っていうんではねー。

下級武士(御徒士)の別所彦四郎(妻夫木聡)は、配下の者が城中で喧嘩をしたことから婿養子先の井上家を追い出され、無役となって兄の左兵衛(佐々木蔵之介)のところに居候をしている。妻の八重(笛木優子)や息子の市太郎にも会えないばかりか、左兵衛はいい加減な性格だからまだしも兄嫁の千代(鈴木砂羽)には気をつかいと、人のよい彦四郎は身の置き場のない生活をしていた。

母のイト(夏木マリ)が見かねて、わずかな金を持たせてくれたので町に出ると、昌平坂学問所で一緒だった榎本武揚と再会する。屋台の蕎麦屋の甚平(香川照之)に、榎本が出世したのは向島の三囲(みめぐり)稲荷にお参りしたからだと言われるが、彦四郎はとりあわない。帰り道、酒に酔った彦四郎が川岸の葦原の中に迷い込むと、そこに三囲(みめぐり)稲荷ならぬ三巡(みめぐり)稲荷があるではないか。つい「なにとぞよろしゅう」とお願いしてしまう彦四郎だったが、こともあろうにこれが災いの神だったという話(やっぱり腰が引けるよな)。

で、最初にやってきたのが、伊勢屋という呉服屋とは名ばかりの貧乏神(西田敏行)。これ以上貧乏にはなりようがないと安心していた彦四郎だが、左兵衛が家名を金で売ると言い出すのをきいて、貧乏神の実力を知ることになる(眉唾話に左兵衛が騙されていたのだ)。この災難は宿替えという秘法で、貧乏神が彦四郎から彼を陥れた井上家の当主軍兵衛に乗り移って一件落着となる(井上家の没落で、彦四郎は妻子を心配しなければならなくなってしまうのだが)。

次に現れたのは、九頭龍為五郎という相撲取りの疫病神(赤井英和)。長年の手抜き癖が問題となって左兵衛がお役変えとなり、彦四郎に出番が回ってくるのだが、疫病神に祟られて全身から力が抜け、榎本と勝に新しい世のために力を貸してほしいと言われてもうなずくのが精一杯という有様。だが、これも結局は疫病神が左兵衛に宿替えしてくれることになる。

神様たちが彦四郎に惚れて考えを少しだけだが変えてしまうのも見所にしているらしい。でもそうかなー、なんかこういうのにわざとらしさを感じてしまうのだが。井上家の使用人で彦四郎の味方である小文吾(佐藤隆太)が、幼い頃から修験者の修行を積んでいて、呪文で貧乏神を苦しめるあたりの都合のよさ。宿替えは10年だか100年に1度の秘法だったはずなのに2神ともそれを使ってしまうんだから、何とも安っぽい展開ではないか。

死神(森迫永依)をおつやという可愛い女の子にしたのにも作為を感じてしまう。おつやは子供の姿でありながら、彦四郎の命を市太郎に狙わせるという冷酷な演出に出る。自分で手をくだしちゃいけないからと言い訳をさせていたが、それにしても、こんなことをされたというのに、このおつやにも彦四郎はあくまで優しく接する。彦四郎が本当にいいヤツだということをいいたいのだろうし、だからこそ3神もらしからぬ行動を取ることになるのだが。

結局、彦四郎は死を受け入れる心境になるのだが、これがあまり説得力がないのだ。というより宿替え(おつやは1度しか使えないと言ってた気がするが、使っていないよね?)のことも含めて、誤魔化されてしまったような。終わった時点でもうよくわからなくなっていたから。彦四郎は最低の上様である徳川慶喜(妻夫木聡)に会い、彼と瓜二つであることを確認し(これもねー。影武者が別所家の仕事ではあったことはいってたが)、当人から「しばらく代わりをやってくれ」と言われて、その気になるような場面はあるのだが、どうにもさっぱりなのだ。

彦四郎は、犬死にだけはしたくないと言っていたのに、上野の山に立て籠もった人たちの心の拠り所になれればと考えたのか。やはり上野の山に馳せ参じようとした市太郎と左兵衛の息子の世之介に、そこに行っても何の意味もなく、新しい世の中を作るために残らなくてはならないと諭す。この矛盾は対子供においては納得できるが、彦四郎自身への説明にはなっていただろうか。

また彦四郎に、死神に会って生きる意味を知り、神にはできぬが人は志のために死ぬことができる、とおつやに語らせていることも話をややこしくしている。そーか、彦四郎にとってはやはり影武者としての家業をまっとうすることが、武士の本懐なのか、と。なんだかね。死ぬことによって輝きを増すとかさ、もう語りすぎなんだよね。

おつやも神様稼業がいやになり、相対死をするつもりで彦四郎の心の中に入り込む。とはいえ、彦四郎は官軍の砲弾で命を散らすが、神様は死なないのだった。で、急に画面は現代に。何故かここに原作者の浅田次郎がいて、おつやの「おじちゃん(彦四郎)はすごく輝いていたんだよ」というセリフが被さって終わりとなる。これはもちろん憶測だが、降旗康男もあまりの臆面のなさにまとめきれず、全部を浅田次郎に振ってしまったのではないか(ま、ここにのこのこ出てくる浅田次郎も浅田次郎なんだけど)。でないとこの最後はちょっと説明がつかない。

こんな結論では、疫病神に取り憑かれてものらりくらりと生き延びてしまう左兵衛に、決して輝いてなどいないけれど、そうして肩入れだって別にしたくもないけれど、人間というのはもしかしたら、こういういい加減な人種だけが生き延びてきてしまったのかもしれないと、と思ってしまったのだった(うん、そうに違いない)。

  

2007年 107分 ビスタサイズ 配給:東映

監督:降旗康男 プロデューサー:妹尾啓太、鈴木俊明、長坂勉、平野隆 協力プロデューサー:古川一博 企画:坂上順、堀義貴、信国一朗 原作:浅田次郎『憑神』 脚本:降旗康男、小久保利己、土屋保文 撮影監督:木村大作 美術:松宮敏之 編集:園井弘一 音楽:めいなCo. 主題歌:米米CLUB『御利益』 照明:杉本崇 録音:松陰信彦 助監督:宮村敏正

出演:妻夫木聡(別所彦四郎/徳川慶喜)、夏木マリ(別所イト)、佐々木蔵之介(別所左兵衛)、鈴木砂羽(別所千代)、香川照之(甚平)、西田敏行(伊勢屋/貧乏神)、赤井英和(九頭龍/疫病神)森迫永依(おつや/死神)、笛木優子(井上八重)、佐藤隆太(小文吾)、上田耕一、鈴木ヒロミツ、本田大輔、徳井優、大石吾朗、石橋蓮司、江口洋介(勝海舟)

ダイ・ハード4.0

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★★☆

■ぼやきから悟りへ

悪党は最初から悪党。小賢しいドンデン返しなどないから、いたって明快。よけいなことは考えずに、次々と展開するアクション場面に身をまかせていればいいという方針は大いに評価できる。

ジョン・マクレーン(ブルース・ウィリス)は音信不通気味の娘ルーシー(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)のことが気になってニュージャージー州の大学までやってくるのだが、女子大生のルーシーは、ボーイフレンドと一緒のところだった。ルーシーがそんなに心を許した相手ではなかったのだが、間の悪い訪問ということもあって、マクレーンは冷たくあしらわれてしまう。今回は奥さん(離婚したのね)は登場しないが、相変わらず家の方は問題が山積みのようだ。

そこへ本来は管轄外なのだが、マクレーン警部補がそこにいるならと、近くに住むハッカーのマット・ファレル(ジャスティン・ロング)をFBIまで連れていく護送任務を言いわたされてしまう。ワシントンDCのFBI本部に設置されたサイバー保安局のボウマン(クリフ・カーティス)が異変を感じたことで、ブラックリストに載っていたハッカーたちが一斉に捜査対象となったのだ。

マクレーンがファレルのところに乗り込むと、そこでいきなり銃撃戦となる。ファレルはシステムへの侵入をセキュリティチェックと言いくるめられて、テロリストたちに利用されていたが、用済みになったところで足が着くからと、抹殺される寸前だったというわけだ。

全米のインフラを監視するシステムを掌握した(単純ながら妙に現実味を帯びたアイディアだ)トーマス・ガブリエル(ティモシー・オリファント)とただの刑事の戦いなど、本来なら成立するはずもないのだが、そこはぬかりなく、ここから一気にアクション場面が連続する。ガブリエルがマットにこだわるのがちょっと不思議だったが、途中からはマクレーンもファレルの手を借りてガブリエルに対抗していくわけだから、これだって納得だ(邪魔をされたら手強いと思って先手を打ったという説明もアリだろう)。

トンネル内での車の正面衝突、宙に舞う車。ヘリコプターには消火栓(を破壊して水を吹き上げる)だけでなく、料金所を利用して車を空に飛ばして、ヘリにぶつけてしまうなんて荒技まで。トレーラーと最新鋭戦闘機のF-35の対決(『トゥルーライズ』にもジェット戦闘機が出てきてびっくりしたが、これはそれを凌駕している。94年作と比較しても仕方ないが)だって無茶なのに、さらには崩れていく高架道路から戦闘機の尾翼に飛び移ってしまう……。

この他にもエレベーター・シャフト内部という狭くて危ない(エレベーターが通り過ぎて行くからね)場所で、ガブリエルの恋人で右腕のマイ・リン(マギー・Q)とファイト・シーンを見せるなど見所満載。あり得ないと言い出したら何も残らなくなってしまうような場面ばかりが続く。

もっともこのサービスぶりは、さすがにいままでにあったマクレーンの人間味を薄めることになった。『ダイ・ハート』シリーズはこれが魅力だったのだが。

偶然の力も大いに借り、さらに満身創痍にはなっても、とにかく不死身。だけじゃなくて、今回は非情ですらある。敵を容赦なく殺してしまうのだから。例によって運が悪いとかぼやかせてみても、だいぶニュアンスが違ってくる。ファレルに語る英雄の定義も「撃たれるだけ」で家族にはかえりみられないとぼやいていたはずが、誰もやらないから俺がやるだけと、いつしか悟りの境地に近いものになっているのである。

マクレーンの悟りなど聞きたくはないが、ファレルとの凸凹(デジアナ)コンビの会話はアクション場面の繋ぎとしてはいい感じだ。傍観していただけのファレルが成長して(未来のルーシーの旦那か?)いくというのも観客にはわかりやすい。

ガブリエルはFBIにいたのだが、セキュリティに関する提言が受け入られないことで逆恨みの犯行に走ったという設定(もっとも最終的には金狙いなんだが)。歴代の大統領の繋ぎ合わせ画像でテロ宣言を出したり、偽映像でホワイトハウスを爆破させるのも朝飯前(部下にやらせてたけどね)だから、マクレーンなど「デジタル時代のハト時計野郎」で、実際その分部ではマクレーンは手も足も出ない。それをファレルがうまくカバーしてくれるというわけだ。

ただファレルがPCや携帯を魔法のように扱ってしまうのは、これも見所ではあるが、誤魔化されているような気にもなる(いや実際誤魔化されてるんだけどさ)。PCオタクの手にかかったら何でも可というんじゃね。それに私の母のようなデジタル時代という言葉すら理解できない人間には、すべてがちんぷんかんぷんだろうか(観客という対象に入ってないか)。

すべての情報を手にしたガブリエルが、ルーシーに手を伸ばすのはこれまた簡単なことだから、『ダイ・ハート』にある家族愛のテーマは継承されている。マクレーンの姓を嫌い「話がある時は私から電話する」といっていたルーシーが、ちゃんとマクレーンに期待しているだけでなく、敵は5人(だったかな?)と言ってマクレーンに情報を伝える、ニヤリとしてしまう場面もある。

ま、所詮アクション娯楽作ですからね。あ、でも「ハリケーンの防災対策にもたついた」とか言ってたっけ。『アンダーワールド』好きな私としては、レン・ワイズマンということで、点が甘くなったかも。

【メモ】

おなじみの20世紀フォックスのマークがぶれて黒い画面になる。

  

原題:Live Free or Die Hard

2007年 129分 シネスコサイズ アメリカ 日本字幕:戸田奈津子 配給:20世紀フォックス映画

監督:レン・ワイズマン 製作総指揮:マイケル・フォトレル、ウィリアム・ウィッシャー 原案:マーク・ボンバック、デヴィッド・マルコーニ 脚本:マーク・ボンバック 撮影:サイモン・ダガン プロダクションデザイン:パトリック・タトポロス 衣装デザイン:デニス・ウィンゲイト 編集:ニコラス・デ・トス 音楽:マルコ・ベルトラミ
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出演:ブルース・ウィリス(ジョン・マクレーン)、ジャスティン・ロング(マット・ファレル)、ティモシー・オリファント(トーマス・ガブリエル)、クリフ・カーティス(ボウマン)、マギー・Q(マイ・リン)、シリル・ラファエリ(ランド)、メアリー・エリザベス・ウィンステッド(ルーシー・マクレーン)、ケヴィン・スミス(ワーロック/ファレルのハッカー仲間)、ジョナサン・サドウスキー

大日本人

シネマスクエアとうきゅう ★★★★

■ある落ち目ヒーローの日常

長髪の中年男(松本人志)をカメラは追い、誰かが質問する。男はいやがっているのかいないのか、照れているのかいないのか、しぶしぶなのか、でもまあ律儀に1つ1つ答えていく。

インタビューされていた男は大佐藤大という元ヒーロー。いや、現役なのだが、人気は落ち目だから元かな、と。雇い主は防衛省だから国家公務員!? だが、変身時の体に広告を入れ、稼ぎにもしている(ということは公務員じゃないか)。月給は体を張った仕事にしては安く(20万)、副業の30万がないと厳しそうだと言っていたが、女マネージャーの小堀(UA)にいいように誤魔化されていた。

妻には逃げられ、娘にもなかなか会えず、でも恩ある祖父の4代目大佐藤(矢崎太一)の面倒は見たいと思っていてと、ヒーローというイメージからは遠いのだが、しかしヒーローの日常生活など案外こんなものかと思わせる。細部にこだわってるからね、そうかなーって。それにしても大佐藤は人気がない。インタビュー中にも家に投石されるような、つまり非難されている状態にあるのである。

インタビュー形式なので、とにかくいろんなことがわかる。折り畳み傘とわかめちゃんが好き(どちらも大きくなる)。猫と同居。自炊することが多いが、商店街の蕎麦屋へは月に2、3回出かけ力うどんを食べる。本当は男の子が欲しかったが、女の子でもこの仕事はできるだろう、と考えている。仕事以外の旅行は無理。反米感情というのではないが、アメリカはあまり好きではない。大佐藤家は戦時中は羽振りがよかった。4代目は今軽い認知症になっている。父は「粋な人」で、もっと大きくなろうとして急逝したらしい。名古屋に行きつけの店があり、そこの50歳くらいのママと懇意にしている。少年時代は肥満児。まだ体ができていないのに父に電気をかけられそうになり祖父に助けられる(でも電気にはかかってしまったらしい)。などなど(後半に答えていたこともまとめて書いてしまったが)。

公園でレポーターの質問に答えていると、大佐藤のケータイに出動要請がかかってくる。山の中にある防衛省の施設(変電所?)へとバイクで出かけていくのだが、ある場所からは取材班は入れてもらえない(遠くからは神主とかも見えたが? 一応は軍事機密なんだろうか)。

んで、電気をかけられて巨大化した大佐藤は、秋葉原に出現した締ルノ獣(海原はるか)と戦うのである(何なのだ、この映画は)。締ルノ獣についてはすでにカルテのようなものができていて、しかしそれは戦前に作られたものらしく、古めかしい能書きが読み上げられるのがおかしい。

いや、もう何から何までおかしいのだ。インタビューがそうだし、まず大佐藤という名前がおかしい。変身すれば髪はツンツンになってるし、パンツ1丁の全体は5頭身(?のイメージ)。どうみても強そうではないが、といって頑強な首回りなど弱そうでもない。対する怪獣も、カッコ悪く(不細工といった方がいいかも)どれもがいやらしくてえげつないとしかいいようのないものなのだが、素行調査済みらしく(もしかしたらすでに対戦済みということもあるのかも)、何とか勝ってしまうようなのだ。

名古屋に出張し、頭の広告を隠さないようにしながらも跳ルノ獣(竹内力)をやっつけ、また戻ってからは、睨ムノ獣を撃退するのだが(けっこう活躍しているのにね)、日本のものではないらしい赤い怪獣の出現には、勝手が違ったのか隠れて逃げてしまう。意外にもこれが好評で、数字(視聴率)がすごくよかったと小堀もうれしそうだ。ちょっと前に4代目が勝手に電気を流して大きくなり、いたずらをしまくった非難が大佐藤に向けられてスポンサーもカンカンだったのだ。

赤い怪獣は、週刊誌の吊り広告によると、どうやら「将軍様の怒りに触れた」ことで登場したらしく、つまり北朝鮮産のようだ。

このあとも匂ウノ獣の雌(板尾創路)と雄(原西孝幸)が現れたり、理屈っぽいくせにその体形と要求することだけは赤ん坊なので童ノ獣(神木隆之介)と名付けられた怪獣(映画ではただ「獣」と言っていた)が登場。大日本人は童ノ獣に乳首を噛まれたことで、抱いていた手を離して殺してしまうという事件まで起きる。

この事件が契機となったのかどうか、防衛症は大佐藤の家に突入し電気をかけ変身させてしまう。あの赤い怪獣がまたやってきたのだが、それにしても強引だ。4代目が助っ人にくるがやられて、万事休すというところで、何でか「ここからは実写でご覧ください」となる。

実写版と言われてもちょっとぴんとこなかったのだが、要するにCGではないということで、だから全員が着ぐるみでセット(ミニチュアのビルなど)の中に立って演じるので、実写という言葉とは裏腹に、セットは全部偽物だからいかにも安っぽいものとなる。

ここにスーパージャスティスというアメリカ産?のヒーロー一家がやってきて、大日本人の代わりに赤い怪獣をやっつけてくれるのだ。光線も出せず、飛べない大日本人は添え物になってしまうのだが、しかしスーパージャスティスたちは大日本人が欠けることを許してはくれない。防衛省の裏切り?と重なってこれは意味深だ。

ではあるのだが、この実写版への切替は松本人志の行き詰まりではないか。せっかくの話を何故ここでぶち壊してしまったのか、と(だから行き詰まりなんでは)。だけどエンドロールでは大阪弁のスーパージャスティス一家に反省会(段取りが悪いとか、パンツを1発で破ってほしかったとか)をやらせて笑いを取っていて、そこはさすがなんだけど。でもこれも誤魔化しの延長線に思えなくもない。それにしても反省会(にまで付き合わされて、「ぜひ」と言われて酒を飲ませられちゃってる大日本人ってさ。

普段テレビを見る時間がほとんどないので、松本人志の笑いがどんな質のものなのかまるでわからないのだが、これは楽しめた。続篇でも別のものでもぜひ観てみたい。ぜひ。

  

【メモ】

第60回カンヌ国際映画祭“監督週間”部門正式招待

変身した大日本人は、2、3日経つと元の戻るという。ただしばらくは鬱と言っていた。

大佐藤家は代々の変身家系らしいが、とはいえ電気が必要らしく、ちゃんと祖父が4代目と辻褄は合っているようだ。ということは戦争ではどんな活躍をしたのだろう。やっぱり
スーパージャスティス一家にやられちゃったんだろか。

変身に神主を付けるのは防衛省の方針なのか(突入時にもいたからね)。

2007年 113分 ビスタサイズ 配給:松竹

企画・監督:松本人志 プロデューサー:岡本昭彦 製作代表:吉野伊佐男、大崎洋 製作総指揮:白岩久弥 アソシエイトプロデューサー:長澤佳也 脚本:松本人志、高須光聖 撮影:山本英夫 美術:林田裕至、愛甲悦子 デザイン:天明屋尚(大日本人刺青デザイン) 編集:上野聡一 音楽:テイ・トウワ、川井憲次(スーパージャスティス音楽) VFX監督:瀬下寛之 音響効果:柴崎憲治 企画協力:高須光聖、長谷川朝二、倉本美津留 照明:小野晃 装飾:茂木豊 造型デザイン:百武朋 録音:白取貢 助監督:谷口正行

出演:松本人志(大佐藤大/大日本人)、インタビュアー(長谷川朝二:声のみ)、矢崎太一(4代目大日本人)竹内力(跳ルノ獣)、UA(小堀/マネージャー)、神木隆之介(童ノ獣)、海原はるか(締ルノ獣)、板尾創路(匂ウノ獣♀)、原西孝幸(匂ウノ獣♂)、ステイウイズミー(宮迫博之/スーパージャスティスの母)、スーパージャスティス(宮川大輔)、街田しおん

ツォツィ

銀座シネパトス3 ★★★☆

■品位について考えたこと、ある?

ツォツィ(=不良)と呼ばれる青年(プレスリー・チュエニヤハエ)が、盗んだ車の中に赤ん坊を発見したことで、自分の生い立ちを思い出し、生まれ変わるきっかけを得るという話。

この雑な粗筋(自分で書いておいてね)で判断すると、引いてしまいそうな内容なのだが、主人公を含めた対象との距離のとりかたに節度があって、観るものを惹きつける。

それと何より、この映画が南アフリカから発信されたということに意味がある。このところアフリカを題材にした映画が、ブームとはいかないまでもずいぶん入ってくるようになったが、その多くはハリウッドや他国の制作であり(日本に入ってこないだけかもしれないが、輸入するにたる作品が少ないという見方もできそうだ)、むろんそのことが内容の真摯さを左右するものとはいわないが、話題性やもの珍しさからであるのは否めまい。

しかしこれは、私が書いても説得力に欠けるが、同じ南アフリカを撮っても、やはり地に足の着いたものとなっている。ツォツィが暮らすのは、ヨハネスブルクの旧黒人居住区ソウェトのスラム街という。ここから見える高層ビルが、もうこれだけで、アパルトヘイトが撤廃されても変わらなかったことがあると、雄弁に物語っているではないか。ツォツィが仲間のボストン(モツスィ・マッハーノ)、ブッチャー(ゼンゾ・ンゴーベ)、アープ(ケネス・ンコースィ)とで「仕事」をしている地下鉄の駅も、彼らの目線になってみると、ずいぶん違った風景に見えるはずである。

財布を奪った相手にブッチャーがアイスピックを突き刺したことに、先生と呼ばれるボストンは吐くほどのショックを受けていた。品位がないと当たり散らしていた矛先は、やがてリーダー格のツォツィに向けられる。ボストンがそこで「おまえは捨て犬か」と言った言葉に、ツォツィは何故か反応して、急にボストンを滅茶苦茶に殴りつける。

ここに出てくる品位という言葉は、あとにある別の場面でも繰り返される。ツォツィは無学だから品位を知らない。品位というのは自分への敬意なのだと。そこまで考えたら確かにかつあげなどできなくなるだろう。であれば何故、ボストンはツォツィたちと連んでかつあげの場にいたのか。そんなことをしているからボストンは本当の先生になりそこねたのか。そうかもしれないが、品位が自分への敬意だということを忘れていたからこそ吐き、当たり散らし、自分を傷つけていたのだろう。ここは映画を観ている時には気付きにくいところだが、品位ついて語られた言葉を思い出しさえすれば、すんなり納得することができる。

あと、ツォツィが反応した「犬」だが、これも地下鉄のパーク駅で物乞いをしているモーリス(ジェリー・モフケン)とのやり取りに出てくる。ツォツィは車椅子生活の彼(すごい存在感なのだ)からも金を巻き上げようとする。若く、力を誇示できる立場にいるツォツィの問いかけは単純で、鉱山の事故で犬みたいになったのに何故生き続けるのか、だが、モーリスの答えも太陽の暖かさを感じていたいという単純なもの。そして、ツォツィはこのモーリスの生への執着に、金を拾えと言って立ち去ってしまう。

のちに映像として入るツォツィの昔の記憶の断片で、彼の母がエイズだったらしいこと、母の近くにいて父にしかられたこと、可愛がっていた犬が父に虐待されたことがわかる。

そういった経緯をたどって(多分母と犬は死に、父からは逃げだし)、土管を住処にして生活してきたツォツィに、品位について考えろというのも酷な話ではないか。私のまわりを見渡してもそんな人はいそうもないしねー(いや、もちろん私もだけど)。

しかしそうであっても、ツォツィは赤ん坊を残したままにはしておけなかったのだ。赤ん坊を紙袋に入れ、コンデンスミルクを与える雑さ加減は、ツォツィがまともな家庭生活の中で育たなかった証拠ではないか。

コンデンスミルクでは赤ん坊の口のまわりに蟻がたかってしまったからか、ツォツィはミリアム(テリー・フェト)という寡婦に狙いを定め、彼女の家に押し入る。彼女が赤ん坊に乳を含ませる映像ももちろんだが、赤ん坊がツォツィの子ではないことを察したのか「この子を私にちょうだい」という時の、彼女のただただ真っ直ぐな視線にはこちらまでがたじろいでしまう。名前を訊かれたツォツィが、デイビッドと本名で答えてしまうくらいなのだ。

ミリアムの夫が仕事に出たまま帰らなかったということにも、南アフリカの日常の過酷さをみることが出来るが、ツォツィもミリアムの言葉には何かを感じたのだろう。むろん、いままでは何も感じなかったはずの、もしかしたら自分が傷つけてきた相手にもあったであろう家族や生活のことを……。

ツォツィは、ミリアム(とボストン)にお金を払う必要を感じるのだが、しかし彼が思いついたのは、盗んだBMW(ここに赤ん坊がいた)の持ち主の家にブッチャーとアープとで強盗に入ることだった。

豪邸でツォツィが見たのは、赤ん坊が愛されていることを物語る部屋だった。わざわざこの場面を入れたのは多分そう言いたいのだと思うのだが、でもどうだろう。綺麗な部屋よりミリアムが作っていた飾りにツォツィは心を動かされていたはずだから。それにこれだけの格差を見せつけられたら、憎悪をつのらせても不思議はない気もするが、綺麗な部屋にツォツィはこの家の持ち主である富裕黒人の良心を見たのだろうか。映画は品位を持って終わっていた。

品位とは自分への敬意、ずいぶん大切なことを教わってしまったものである。

もっとも、細かくみていくと、ツォツィは最初にBMWを女性から奪った時にその女性に銃弾を浴びせ彼女を歩けなくさせてしまっているし、ブッチャーを結果的に殺害してしまっているから、彼の負うべき罪は相当重いものになるはずだ。また富裕黒人を良心の人にしたことについても甘さを感じなくもない。けど、赤ん坊を返してツォツィが投降したことに希望をみるのが品位、なんだろう(むにゃむにゃ)。

 

【メモ】

2006年アカデミー賞外国語映画賞

原題:Tsotsi

2005年 95分 シネスコサイズ 南アフリカ、イギリス R-15 日本語字幕:田中武人 配給:日活、インターフィルム

監督・脚本:ギャヴィン・フッド 製作:ピーター・フダコウスキ 製作総指揮:サム・ベンベ、ロビー・リトル、ダグ・マンコフ、バジル・フォード、ジョセフ・ドゥ・モレー、アラン・ホーデン、ルパート・ライウッド プロダクション・デザイン:エミリア・ウィーバインド 原作:アソル・フガード『ツォツィ』 撮影:ランス・ギューワー 編集:メーガン・ギル 音楽:マーク・キリアン、ポール・ヘプカー

出演:プレスリー・チュエニヤハエ(ツォツィ/デヴィッド)、テリー・フェト(ミリアム)、ケネス・ンコースィ(アープ)、モツスィ・マッハーノ(ボストン/先生)、ゼンゾ・ンゴーベ(ブッチャー)、ZOLA(フェラ)、ジェリー・モフケン(モーリス/物乞い)

机のなかみ

テアトル新宿 ★★★

■映画に見透かされた気分になる

家庭教師をしてぐーたら暮らしている馬場元(あべこうじ)は、新しく教え子になった女子高生の望月望(鈴木美生)の可愛らしさに舞い上がってしまう。勉強そっちのけで、望に彼氏の有無や好きな男のタイプを訊いたりも。気持ちが暴走してしまって、次の家庭教師先で教え子の藤巻凛(坂本爽)に「俺、恋に落ちるかも」などと言う始末。藤巻の部屋にギターがあるのを見つけると、それを借りて俄練習に励み、望の好きな「ギターの弾ける人」になろうとする。

望への質問に、好きな戦国大名は?と訊いてしまうのは、お笑い芸人あべこうじをそのまま持ってきたのだろうが、演技という目で見るとなんとももの足りない(ちなみに望の答えは長宗我部で、馬場は俺もなんて言う)。ただ彼のこの空気の読めない感じが、後半になってなるほどとうなずかせることになるのだから面白い。

望の志望は、何故か彼女の学力では高望みの向陽大だが、秘かに期するところがあるのか成績も上がってくる。ところが馬場の方には別の興味しかないから、図書館に行く口実でバッティングセンターに連れて行っていいところを見せようとしたりと、いい加減なものだ。望も「私、魅力ないですか」とか「彼女がいる人を好きになるのっていけないことですかね」と馬場の気を引くようなことを時たま言ってはどきまぎさせる。そうはいっても望の父親の栄一郎(内藤トモヤ)は目を光らせているし、イミシン発言の割には望が馬場の話には乗ってこないから、思ってるようには進展しないのだが。

馬場には棚橋美沙(踊子あり)という同棲相手がいて、一緒に買い物をしているところを望に見られてしまう(彼女がいる人という発言はこの場面のあとなのだ)。「古くからお付き合いのある棚橋さん」などと望に紹介してしまったものだから、棚橋は大むくれとなる。

この棚橋のキャラクターが傑出している。トイレのドアを開けっぱなしで紙をとってくれと言うのにはじまって、女性であることをやめてしまったかの言動には馬場もたじたじである(というかそもそも彼はちょっと優柔不断なのだな)。ところが、馬場が本当に望に恋していることを知ると、ふざけるなといいながら泣き出してしまうのだ。この、踊子あり(扱いにくい名前だなー)にはびっくりで、他の役もみてみたくなった。違うキャラでも光ってみえるのなら賞賛ものだ。

合格を確信していた馬場と望だが、望は大学に落ちてしまう。馬場は1人で喋って慰めていたが、泣き出した望に何を勘違いしたのか肩を抱き、服を脱がせ始める。何故かされるままになっている望。帰ってきた父親がドアを開けて入ってきたのは、馬場がちょうど望の下着を剥ぎ取ったところだった。

ここでフィルムがぶれ、テストパターンのようになって、「机のなかみ」というタイトルがまたあらわれる。今までのは馬場の目線だったが、ここからは望の目線で、同じ物語がまったく違った意味合いで、はじめからなぞられていくことになる。

で、後半のを観ると、何のことはない、望が好きなのは馬場などではなく(って、そんなことはもちろんわかってたが)、やはり馬場の教え子(このことは望は知らない)の藤巻なのだった。そして、彼は親友多恵(清浦夏実)の恋人でもあったのだ。

多恵のあけすけで下品(本人がそう言っていた)な話や、望の自慰場面(最初の方でボールペンを気にしていたのはこのせいだったのね)もあって、1幕目以上に本音丸出しの挿話が続くことになる(馬場の下心だったら想像が付くが、女子高生の方はねー)。

そうはいっても、映像的にはあくまでPG-12。言葉ほどにはそんなにいやらしいわけじゃない。でもとにかく、あの1幕目の問題場面に向かって進んでいくのだが、そこに至るまでに、その場面を補足する、藤巻を巡る女の駆け引きと父親の溺愛ぶりが描かれる。

父については、一緒にお風呂に入るのを楽しみにしていて、それを望が断れないでいるといったものだが、駆け引きの方は少し複雑だ。望の本心を知っている多恵は、いちゃいちゃ場面を訊かせたり、藤巻との仲が壊れそうなことを仄めかしたり、あげちゃおうか発言をしたり、そのくせ藤巻のライブには嘘を付いて望を行けなくさせたりしていたのだ。

そうして合格発表日(合格した藤巻と多恵が抱き合って喜んでいるのを望は茫然として見ていた)の夜のあの場面を迎えるのだ。しかも父と藤巻と多恵が揃って、馬場と望のいる部屋に入ってきて……というわけだったのだ。で、この修羅場が何とも恥ずかしい。それは多分私にも下心があるからなんだろうけど(しかしなんだって、こーやって弁解しなきゃいけないんだ)。

ただこのあとにある、望と大学に入った藤巻との対話はよくわからなかった。だいたいあのあとにこういう場が成り立つというのが、不自然と思うのだが、とにかく望は藤巻の態度を問い質していた。藤巻のはっきりしない、ようするに多恵と望の両方から好かれているのだからそのままでいたいという何ともずるい考えを、望は本人の口から確認するのだが、しかしこのあと「藤巻君はそのままでいいの、私が勝手に頑張るだけだから」になってしまっては、何もわからなくなる。いや、こういうことはありそうではあるが。

これだったら、別れることになった棚橋と、洗濯機をどちらが持っていくかという話しているうちに「ごめんね、俺、ミーちゃんのこと大好きなのに浮気して……」と言って棚橋とよりを戻してしまう馬場の方がまだマシのような。ま、だからって馬場がもうよそ見をしないかというと、それはまったくあてにならないのであって、そもそももう望のことは諦めるしかない現実があるからだし、あー、やだ、この映画、もう感想文書きたくないよ。

【メモ】

馬場は望の父から再三「くれぐれも間違いのないように」と釘を刺されるのだが、これってすごいことだよね。

馬場の趣味?はバッティングセンター通い。そこで1番ホームランを打っているというのが自慢のようだ。

棚橋は見かけはあんなだが、うまいカレーを作る。そのカレーを馬場は無断で、自作のものとして望月家に持っいってしまう(この日は望月家もカレーだった)。

修羅場で望にひっぱたかれた多恵は、その理由がわからない。

本当の最後は、1人でバッティングセンターに来た望がホームランを打ち、景品のタオルをもらう場面。

2006年 104分 ビスタサイズ PG-12 配給:アムモ 配給協力:トライネット・エンタテインメント

監督:吉田恵輔 製作:古屋文明、小田泰之 プロデューサー:片山武志、木村俊樹 脚本:吉田恵輔、仁志原了 撮影:山田真也 助監督:立岡直人 音楽:神尾憲一 エンディング曲:クラムボン「THE NEW SONG」
 
出演:あべこうじ(馬場元)、鈴木美生(望月望)、坂本爽(藤巻凛)、清浦夏実(多恵)、踊子あり(棚橋美沙/馬場の同棲相手)、内藤トモヤ(望月栄一郎/望の父)、峯山健治、野木太郎、比嘉愛、三島ゆたか

東京タワー オカンとボクと、時々、オトン

109シネマズ木場シアター6 ★★★☆

■オカンとボクと、時々、オトン、そしてミズエ

原作は未読。リリー・フランキーの自伝だろうか。そして振り返るとそこにはオカン(内田也哉子→樹木希林)がいた、というような。

小倉から筑豊の炭坑町、そして大分の美術高校時代の下宿生活を経て東京に上京し、美大時代のぐうたらな生活があって、でもなんとか稼げるようになってオカンを呼び寄せて一緒に暮らし……。料理好きで誰からも愛されたオカンのことを「ボク」(谷端奏人→冨浦智嗣→オダギリジョー)が綴っていく。

作者が最初に「小さな話」と言っているのは、特別な大それた事件というべきものなどないという謙遜と思われるが、長い年月のうちにはそれなりの事件は当然いくつもあって、それが丹念に描かれていく。むろんリリー・フランキーの子供時代は子供の目線でしかないので、上京するまでの場所は田舎なのだが、場所は違ってもこの時代の風景は私には懐かしいもので、共鳴する部分が多かった(車をハンドル操作で道を走らせるゲームってあんなにチャチだったかしらねー。かもねー、というように反応していたのね)。

そして挿話としてはどこにでもありそうな話の積み重ねながら、やはり母に対する、また母の子に対する気持ちが全編に溢れたものになっていて、でもそれは決して押しつけがましいものにはなっていなかった。

だから、抗癌剤の副作用で苦しむ壮絶な場面になっても素直に受け止められたのだろう。また、オカンに手を引かれる側だったのが「ボク」が引く側になっているベタな映像すら、とても愛しく思えたのだった。

映画の題材としてなら「この人より自由な人をボクはいまもって見たことがない」オトン(小林薫)の方がずっと料理のしがいがありそうだが、しかしこの程度の人材ならあの時代にはいくらでもゴロゴロしていた記憶があるが(人付き合いの密度が高かっただけかも)、これは映画とは別の話。それに、オトンは、後半どんどん立派なオトンになっていくんだよね。

話としては誰にでも思い当たるような部分がいくつも出てきて、その普遍性が原作をベストセラーにしたのだろう。それをまた私が引っ張り出しては、同じことの繰り返しになってしまうので、1番気になったミズエ(松たか子)の存在についてだけ書いておく。

放蕩生活の借金完済も近づき、オカンの上京が決まった頃に「新しい彼女」として登場したミズエは、「いろんなことがうまく回りはじめている」その中にいて、でも、その楽しい時間が「足早に過ぎて」オカンの癌が再発したときにはミズエと「ボク」とは、もう「私たちが別れたこと……」「まだ言っていないんだ」という会話になっている。ミズエはオカンに指輪をもらっていて、そのことを気にするのだが、はめる時とはめない時があっていいからもらっといてよ、と「ボク」は答える。

オカンの闘病生活の時にも病室を訪れるミズエの姿があるし、約束を果たすために最後に「ボク」がオカンの位牌を持って東京タワーの展望台にのぼる時にも、待ち合わせには少し遅れながらミズエはやって来るのだ。

こんな時にも彼女が来ているのは、オカンと彼女とにあった絆が大きかったことがもちろんあるが、恋人ではなくなった「ボク」とは今でも信頼関係が残っているのだろう。ミズエについては多くは語られていないので、観客の想像に委ねられているのだが、そのことがかえって彼女の存在を際だたせていたし、映画にとってもいいアクセントになっていたと思うのだ。

    

2007年 142分 シネスコサイズ 配給:松竹

監督:松岡錠司 原作:リリー・フランキー『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』 脚本:松尾スズキ 撮影:笠松則通 美術:原田満生 衣装:宮本まさ江 編集:普嶋信一 音楽:上田禎 主題歌:福山雅治『東京にもあったんだ』 メイク:豊川京子 照明:水野研一 録音:柿澤潔
 
出演:オダギリジョー(中川雅也/ボク)、樹木希林(中川栄子/オカン)、内田也哉子(若い頃の栄子)、松たか子(ミズエ)、小林薫(オトン)、冨浦智嗣(中学、高校時代の雅也)、田中祥平(小学校時代の雅也)、谷端奏人(幼少時代の雅也)、渡辺美佐子(筑豊のばあちゃん)、佐々木すみ江(小倉のばあちゃん)、原知佐子(ノブエおばさん)、結城美栄子(みえ子おばさん)、猫背椿(ブーブおばさん)、伊藤歩(タマミ)、勝地涼(平栗)、平山広行(磯山)、荒川良々(えのもと)、辻修(ホセ)、寺島進(ハイカラな男)、小島聖(若い頃のノブエおばさん)、吉本菜穂子(若い頃のみえ子おばさん)、光石研(小料理屋の客)、千石規子(病院の借家の老婆)、仲村トオル(ラジオ局のディレクター)、土屋久美子(高校の女教師)、小泉今日子(不動産屋の事務員)、板尾創路(「かっぱ」の客)、六角精児(編集長)、宮﨑あおい(アイドルDJ)、田口トモロヲ(郵便配達)、松田美由紀(中目黒の大家)、柄本明(笹塚の診療所の医者)、田中哲司(東京の病院の医者)、塩見三省(葬儀屋)、岩松了(催促する編集者の声)、江本純子(風俗嬢C)、安藤玉恵(風俗嬢A)、栗原瞳(風俗嬢B)、麻里也(堕落した日々の彼女)、竹下玲奈(大学時代の彼女)、小林麻子(似顔絵教室の女子社員)、ぼくもとさきこ(東京の看護婦)

ドレスデン、運命の日

シャンテシネ3 ★★☆

ポスターに書かれた監督のサイン(シャンテシネ3)

■空爆と平行して描かれるドラマが稚拙

1945年2月の連合国によるドレスデン大空襲(映画に描かれる13日の2波の空爆は英空軍のもの)を背景に、ドイツの若い看護師のアンナ(フェリシタス・ヴォール)と、英空軍パイロット、ロバート(ジョン・ライト)との恋を描く。

が、この恋は少し強引か。父カール(ハイナー・ラウターバッハ)の病院で働くアンナには、外科部長のアレクサンダー(ベンヤミン・サドラー)という婚約者がいて、アンナがアレクサンダーを好きでたまらない、というシーンがいくつかあるし、アンナはアレクサンダーにプロポーズの儀式?までさせているのだ。

これはロバートとの間に芽生える恋を強調する意味があったのかもしれないが、あとの説明がうまくないから逆効果になっている。アンナと同様に逃亡兵をかくまった女性がゲシュタポによって銃殺される事件で、アレクサンダーへの見方が変わったり、上昇志向にならざるを得なかった彼の叫びもなくはないのだが。

出撃したロバートは墜落されてパラシュートで脱出するが、気付いた住民の銃弾で腹部に傷を負ってしまう。山中から出て病院に潜むが、アンナに発見され、彼女の手当を受けることになる。

ロバートの母はドイツ人で、アクセントはともかく言葉に不自由はないという設定。でないと話にならないわけだからそれはいいのだが、できれば流れの中で納得させてほしいものだ。また、空爆の後のアンナとロバートの再会をはじめとして、偶然の介在する部分が多すぎるのも話をちゃちなものにしている。

一方、ドレスデン大空襲の模様は、連合国(イギリスか)の作戦室の場面からソ連との駆け引きなどを織り込んで、かなりリアルなものになっている。単純に飛び立っていく爆撃機などの映像に、当時のニュースを被せるだけでなく、撮影班が映したものだと思わせるようにそれらしく編集した映像まで入れた凝りようなのだ。

市街地の映像も丹念だ。まだ被害を受けていない時期の市電が走っているような場面をさり気なく積み重ねておいて、クライマックスへともっていく。2波にわたる爆撃、そして瓦礫と化した街を、時間をふんだんに使って再現している。

そこで右往左往するしかない主人公や市井の人々が痛ましい。防空壕に入れてもらえないユダヤ人や、爆撃に絶えた防空壕の中で死を覚悟して祈り続ける人々。そして、一酸化炭素中毒で死んでいく人々などを克明に描いていて迫力のあるものにしている。

映画の最後は、空襲で廃墟のままになっていた聖母教会が2005年に再建されたセレモニーシーンである。フェリシタス・ヴォールがここに出てくることで、映画がこれに連動して企画されたのだとわかる(多分ね)。ドイツ人にとって聖母教会の再建は相当感慨深いものがあるのだろう。

無差別爆撃という連合国側の戦争犯罪(よくわからんが)も指摘される題材を選んだからではないだろうが、医療物資が不足する中、家族をスイスに逃がすためとはいえ父がモルヒネを隠し(この一部始終を潜んでいたロバートが見てしまいアンナにバレることになる)、ナチスの幹部と裏取引をしていることや、ナチスの高官の秘書をしているアンナの妹のふるまい、アンナの友人の夫をユダヤ人にして、ユダヤ人自身に仲間に収容所へ行く通知を配らせていることなどもあまさず描いて、ドイツとしての反省も忘れていない。

そういうのはあまりに自明のことで、描かないわけにはいかないのかもしれないが、でもだからよけい、アンナには英空軍パイロットを救わせて恋(くらいならまだしも子供まで)をさせるのではなく、普通のドイツ人女性として戦争に生きた苦悩こそを描くべきだったと思うのだが。

原題:Dresden2006年 150分 ビスタサイズ ドイツ 日本語字幕:■

監督:ローランド・ズゾ・リヒター 製作:ニコ・ホフマン、サーシャ・シュヴィンゲル、ニコラス・クラエマー 脚本:シュテファン・コルディッツ 撮影:ホリー・フィンク 音楽:ハラルド・クローサー、トーマス・ワンカー

出演:フェリシタス・ヴォール(アンナ)、ジョン・ライト(ロバート)、ベンヤミン・サドラー(アレクサンダー)、ハイナー・ラウターバッハ(カール)、カタリーナ・マイネッケ、マリー・ボイマー、カイ・ヴィージンガー、ユルゲン・ハインリッヒ、ズザーヌ・ボアマン、ヴォルフガング・シュトゥンフ

デジャヴ

109シネマズ木場シアター7 ★★★☆

■トンデモ装置で覗き見した女性に恋をする

冒頭のフェリー爆破テロ事件にまず度肝を抜かれる。海兵隊員たちにその家族が乗り込んでマルディグラ(ニューオーリンズのカーニバル)のお祭り気分の中、少女が人形を海に落としてしまう場面がある。ナンバープレートのはずされた車と繋がっては、事件を予感せずにはいられないが、このあと突然起きる爆破で、丸焦げになった人々が次々に海に落下していく描写が凄まじい。細切れの、しかし生々しい救助や事後処理の場面に続いて、男が1人、現場のあちこちで証拠集めをしている場面へと次第にかわっていく。

この流れは、カット割りは映画術を駆使しながら、イメージとしては手を加えていないドキュメンタリーに近いものを感じさせる。すでに爆音は遠いものになっているのに、気持ちの収まりがついてくれない感じがよく表現されていた。

男はATF(アルコールタバコ火器局)のダグ・カーリン(デンゼル・ワシントン)で、この捜査の手際のよさがFBIの目に止まり、彼らに力を貸すように頼まれる。

ここからの展開は、内容があまりに奇抜で、そのSF的仕掛けにはついていけない人も多そうだが、そこさえ割り切れれば実によくできた話になっている。SF大好き人間ではあるが、タイムマシンものには抵抗がある私としては微妙なのだが、でも楽しんじゃったのね。このアイディアと力業を簡単にけなしてしまうのは、あまりにもったいないんだもの。

543名の犠牲者を出したフェリー爆破事件はテロと断定され、カーリンは「タイム・ウィンドウ」と呼ばれる極秘装置を使って、その捜査に当たるように言われるのだが、この装置というのがトンデモものなのだ。

仕様を書くと、センサと4つの偵察衛星から送られたデータで、場所の制限はあるものの、好きな場所のかなり鮮明な映像を映し出すことができ、建物の中の映像もOKという(えー!)。ただ、復元のための情報処理に膨大な時間がかかるため、常に処理時間後の、つまり映像としては4日と6時間前のものしか見ることが出来ない。しかも1つの映像を見るチャンスは1度で巻き戻しもできない。

しかしこの説明は少しおかしくて、一旦モニタに映し出されたものを別の装置で録画するのはたやすいはずで、何度も見ることくらいわけないだろう。それに4日と6時間前なら瞬時に見えるのではなく、場所を特定してから4日と6時間後のはずだと思うのだが、まあこの際野暮なことは言うまい。

トンデモ装置はあっても、4日前の何を探ればよいのかがわからなければ意味がないわけで、そのために土地勘もあり的確な判断のできるカーリンが選ばれたのだった(ハイテク装置も使う人次第ってことね)。彼は捜査の段階で発見した若い女性の遺体が事件の鍵を握っていると考え、彼女の家を監視装置で追うよう指示を出す。そして、モニタにはクレア・クチヴァー(ポーラ・パットン)の、「まだ生きている」映像が映し出される。

覗き見という悪趣味に晒された上、クレアには死が待っている。何ともたまらなく厭な場面なのだが、モニタに映る彼女は美しいだけでなく、食事に祈りを欠かさないたたずまいの美しい人でもあった。映画だからといってはそれまでなのだが、そういうクレアを覗き見して、カーリンは彼女を好きなってしまったのだろう。とはいえやっぱり悪趣味なのだが。

監視をつづけるうち、クレアがこちらの装置が出す光に反応するのをカーリンは見る(その前にクレア自身も誰かに見られているようで気持ちが悪いと言っていた)。ここからもう1つトンデモ話が加わることになる。

要するにこの現象は時空を折り曲げているのであって、まだ実験段階ながら映像の向こうに物質を送ることも可能なのだという。これを知ったカーリンが、まだこのあとに現在と4日前の映像を左右の目で見分けながらのカーチェイスというびっくり仰天場面なども入ってくるのだが、クレアをみすみす死なせることなどできないと、4日前に自分自身を送り込むのだ。

よくやるよ、とチャチを入れたくなるが、この2つのトンデモ前提さえ目をつぶれば、話の巧妙さには喝采を送りたくなること請け合いだ。全部を書いている余裕などないが、ここから試行錯誤しながらも、カーリンの相棒の死や、自分の残した「U CAN SAVE her」というメッセージなどが、パズルのように解明されていくのである。

カーリンは犯人を倒し、つまりフェリーの爆破を防ぎ、残虐な死からクレアを救うのだが、彼は死んでしまう。しかし彼の死は、タイムマシンものについてまわる大きな矛盾を回避してしまうことになる。なにしろカーリンが消えてくれないと、もともと4日前にいたカーリンとで2人のカーリンが存在することになってしまうから。

ラストではクレアのことを知らないカーリンが彼女と会って、タイトルのデジャヴを口にする。なるほどね。馬鹿馬鹿しいのに感心してしまった私。

【メモ】

カーリンが4日前に自分自身を送り込んだ先は病院。胸に蘇生処置をしてくれと書いたメモを貼って、タイムトラベルをする。

原題:Deja Vu

2006年 127分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:戸田奈津子

監督:トニー・スコット 製作:ジェリー・ブラッカイマー 製作総指揮:テッド・エリオット、チャド・オマン、テリー・ロッシオ、マイク・ステンソン、バリー・ウォルドマン 脚本:テリー・ロッシオ、ビル・マーシリイ 撮影:ポール・キャメロン プロダクションデザイン:クリス・シーガーズ 衣装デザイン:エレン・マイロニック 編集:クリス・レベンゾン 音楽:ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ
 
出演:デンゼル・ワシントン(ダグ・カーリン)、ポーラ・パットン(クレア・クチヴァー)、 ヴァル・キルマー(プライズワーラ)、ジム・カヴィーゼル(オースタッド)、アダム・ゴールドバーグ、エルデン・ヘンソン、エリカ・アレクサンダー、ブルース・グリーンウッド、エル・ファニング、マット・クレイヴン、ションドレラ・エイヴリー

ドリームガールズ

TOHOシネマズ錦糸町-2 ★★★☆

■60~70年代の音楽ビジネス(モータウンレコード)の世界をミュージカルに凝縮

エフィー・ホワイト(ジェニファー・ハドソン)、ディーナ・ジョーンズ(ビヨンセ・ノウルズ)、ローレル・ロビンソン(アニカ・ノニ・ローズ)の仲良し3人組はドリーメッツを結成しデトロイトでタレントコンテストに出場するが、中古車販売会社のカーティス・テイラーJr.(ジェイミー・フォックス)の裏取引で優勝を逃してしまう。カーティスは彼女たちに人気歌手ジミー・アーリー(エディ・マーフィー)のバックコーラスにならないかと持ちかける。

ツアーにあけくれ、女癖の悪いジミーに夢中になってしまうローレルや、マンネリ気味のジミーの様子、エフィーの兄でドリーメッツをある部分でリードしていた作曲家のC.C.ホワイト(キース・ロビンソン)がジミーに曲を売り込んだり、白人に曲(「キャディラック」)をパクられる事件があったり、だからDJには金を掴まさなくては……と、映画は快調に飛ばしていく。ツアー中のバスの窓からの風景や、ラジオの曲が聞こえないからと雪の橋をUターンする場面なども効果的に収められていて印象深い。

路線変更でジミーのマネージャーだったマーティー・マディソン(ダニー・グローヴァー)が降りてしまったり、3人がついにドリームスとして売り出したり、駆け足ながらまとめ方がうまく、私のように当時の背景やスターについて詳しく知らない人間にも十分楽しめる。スタイルもいつのまにか歌い出しているという正真正銘のミュージカルなのだが、違和感がほとんどない。曲と歌詞が物語にぴったりだし、リハーサル場面がいつのまにか本番に変わっているちょっとした演出(2度ほどある)もいい感じだ。

結局、パワーではなく、軽いサウンドで大衆に受けるようにしたい(白人に媚びるということもあったようだ)というカーティスによって(C.C.ホワイトも同調する)、もともとリードボーカルだったエフィーに代わって、容姿端麗なディーナを前面に売り出すことになる。声が大きすぎると注意されたエフィーは、恋人でもあったカーティスがディーナにも手を出していることに嫉妬。ふてくされて遅刻をしたら代役が立てられていて、自分の場所がないことを知る。

一方、ディーナの人気は鰻登りで、ヒット曲を連発する。エフィーは、自分には歌しか歌えないから職を探しても無駄と言ってそう間をおかないで登場するのだが、この時はもう7歳くらいの娘(後ではもうじき9歳と言っていた)がいて、おいおい、あ、これはミュージカルだったのだ、と。つまりそれだけよく出来ているということなのだが。

ジミーの凋落。ヘロインによる死。マーティーとC.C.ホワイトの協力でエフィーは新曲を歌うが、今度はカーティスが汚いやり方でそれをディーナの曲として売り込み、大ヒットとなる。ディーナには主演映画の話までやってくるが、カーティスとはそのことでもめ、君の声には深みがないとまで言われてしまう。

ディーナのモデルはダイアナ・ロスらしいが、それよりも(疎いからでもあるのだが)この皮肉はビヨンセ・ノウルズにはね返るものでもあるから、そのことの方が気になってしまう。ま、そんなことは百も承知で演じているわけなのだが、ジェニファー・ハドソンの歌いっぷりがすさまじく、歌唱力だけではスターになれないという彼女の立場(実際2004年にアメリカの人気オーディション番組で決勝まで残りながら優勝出来なかったらしい)が、物語を飛び越えてきそうな迫力となって面白い状況を作り出している(もっとも、私などこの映画を観ている時はともかく、単純に音楽だけを聴くとなると、ここまで歌いこまれてはちょっと、の口だ)。

ラストは、ドリームスの(ディーナが真相を知った末の)解散コンサートで、最後の曲はドリームスの3人にエフィーが加わっての舞台となる。その歌の最中にカーティスは、座席にエフィーの娘を見つけ近づいて行く。

これはカーティスが自分の子供ということに気づいたということを描写したつもりなのだろうが、ひどい手抜きだ(これだったらない方がすっきりする)。最後の最後でこれは惜しい。途中エフィのごね方が少しくどく感じたのと合わせて、数少ないミスではないか。

 

【メモ】

第64回米ゴールデン・グローブ賞作品賞(ミュージカル/コメディ部門)、最優秀助演男優賞、最優秀助演女優賞
第79回米アカデミー賞 助演女優賞受賞(ジェニファー・ハドソン)、録音賞受賞

原題:Dreamgirls

2006年 130分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:戸田奈津子

監督・脚本:ビル・コンドン 製作:ローレンス・マーク 製作総指揮:パトリシア・ウィッチャー 原作:トム・アイン 撮影:トビアス・シュリッスラー プロダクションデザイン:ジョン・マイヤー 衣装デザイン:シャレン・デイヴィス 編集:ヴァージニア・カッツ 振付:ファティマ・ロビンソン 作詞:トム・アイン 音楽:ヘンリー・クリーガー 音楽スーパーバイザー:ランディ・スペンドラヴ、マット・サリヴァン
 
出演:ジェイミー・フォックス(カーティス・テイラーJr.)、ビヨンセ・ノウルズ(ディーナ・ジョーンズ)、エディ・マーフィ(ジェームス・“サンダー”・アーリー)、ジェニファー・ハドソン(エフィー・ホワイト)、アニカ・ノニ・ローズ(ローレル・ロビンソン)、ダニー・グローヴァー(マーティー・マディソン)、キース・ロビンソン(C.C.ホワイト)、シャロン・リール(ミシェル・モリス)、ヒントン・バトル(ウェイン)、ジョン・リスゴー(ジェリー・ハリス)、ロバート・チッチーニ(ニッキー・カッサーロ)

ダーウィンの悪夢

新宿武蔵野館3 ★★★

■「悪夢」として片付けられればいいのだが……

『ダーウィンの悪夢』というタイトルは、映画の舞台となったヴィクトリア湖が「ダーウィンの箱庭」と呼ばれていることからとられたようだ(これについては、ティス・ゴールドシュミット著、丸武志訳『ダーウィンの箱庭 ヴィクトリア湖』という恰好の本があるので詳しくはそれを参照されたい。読んだのは紹介文だけだが、なかなか興味深かそうな本である)。ここのナイルパーチは、日本のブラックバスと同じく、外来種の導入が既存の生態系を破壊した例として有名だが、そのナイルパーチを肴にタンザニアの現状を切り取って見せたドキュメンタリーである。

肉食のナイルパーチの放流(漁獲高をあげる目的で導入されたらしいが、正確なことはもはや不明という)で、在来種のシクリッド・フィッシュ(熱帯魚)は絶滅の危機に直面する一方、ナイルパーチによってその捕獲から加工、輸出までの一大産業が成立するに至る。

映画はムワンザ市のその周辺をくまなく描写していく。加工業者と工場、輸出に不向きな部分の行き先、EUに魚を空輸する旧ソ連地域のパイロットたち、その相手をする娼婦たち、蔓延するエイズ、ストリートチルドレンなど。目眩のするような内容なので、詳しく書く気分ではないのだが、そのうち印象的なものをいくつかあげておく。

一番の衝撃はナイルパーチのアラがトラックで運び込まれる集積場だ。アラを天日干しにしているのだが、蛆だらけだし、煙があちこちで充満している。残骸からはアンモニアガスも出るという。加工場の清潔さに比べるとなんともはなはだしい差である。

子供たちが食べ物を奪い合う場面がある。ただでさえ少ない量なのに、一部では取っ組み合いになって、それは地べたにまかれ、口にはほとんど入らない。

前任者が殺されたため職にありつけたという漁業研究所の夜警の男は、戦争を待ち望んでいる。夜警よりずっと稼げるからだと言う。

パイロットたちと酒場で興じる娼婦たち。その中のひとりは客に殺されてしまい、後では画面に姿を見せることがない。

飛行場のそばにいくつも散らばる飛行機の残骸。まるで飛行機の墓場のようだ。なるほどと思うほど頻繁に飛行機が飛び立っていく。事故は荷の積み過ぎが原因らしい(管制塔の描写もあって、それを見ているとそればかりとは思えないのだが)。

飛行機は空でやってきてナイルパーチを目一杯積み込んでいく。往路では武器が満載されていて途中のアンゴラなどで降ろされているのではないか。製作者はそれを証明したかったようで、ジャーナリストやパイロットの証言も出てくるが、限りなく怪しいというだけで決定打にまではなっていない。

映画ではこれらがまるでナイルパーチによってもたらされたかのような印象を与えるが(宣伝方法のせいもあるかも)、これだけで判断してしまうのはやはり一面的で手落ちだろう。タンザニアのことをあまりに知らなさすぎる私に言えることは何もない。ただたとえ一面的ではあっても、切り取られていた風景はどれも寒々しいものばかりで、当分脳裏から離れてくれそうにない。短絡的と言われてしまうかもしれないが、人類は滅亡するしかないという気持ちになってしまう映画だった。

【メモ】

2004年 ヴェネツィア国際映画祭 ヨーロッパ・シネマ・レーベル賞
2005年 山形国際映画祭 審査員特別賞 コミュニティシネマ賞
2006年 セザール賞 最優秀初監督作品賞、アカデミー賞 長編ドキュメンタリー賞ノミネート

原題:Darwin’s Nightmare

2004年 112分 ビスタサイズ オーストリア、ベルギー、フランス

監督・脚本:フーベルト・ザウバー

天国は待ってくれる

楽天地シネマズ錦糸町-2 ★☆

■聖なる三角形は正三角形にあらず

宏樹が築地北小学校に転校してきた日から、薫と武志の3人は大の仲良しになった。それは成人しても変わらず、今では宏樹(井ノ原快彦)は父親の夢だった新聞記者になって朝日新聞社に勤め、武志(清木場俊介)は親(蟹江敬三)と一緒に築地市場で働く。そして薫(岡本綾)は「聖なる三角形」になるようにと「銀座のお姉さん」として和文具の老舗鳩居堂の店員になっていた。

「聖なる三角形」というのは、自分たちのことをいつまでも変わらない関係を指して彼らが小学生の時から言っていた言葉だ。だけど、といきなり脱線してしまうのだが、朝日新聞社と築地市場と鳩居堂では三角形には違いない(3点を結べばたいていは三角形になるものね)が、これだと薫の位置は2人からは遠くなり、そして薫からだと武志より宏樹の方が近い位置になってしまうのである(築地市場は広いのでブレはあるが、それにしても本願寺あたりでないとまずいだろう)。

映画はこの三角形のゆがみそのままに展開する。至近距離で働く3人だが、といって子供時代のようにそうは会えるわけではない。特に武志は働く時間帯が2人とはあまりに違いすぎて、久しぶりに3人で出かけても居眠りしてしまう始末。それでかどうか、ある日宏樹と薫を呼び出しておいて、3人の時に言いたかったと前置きし、薫にプロポーズをする。この場面は「宏樹、俺、今から薫にプロポーズする、いいか」というようになっている。つまり、武志は宏樹に向かって薫にプロポーズするというわけだ。

武志より宏樹がより好きな(より近くにいるからね)薫はあわてて「ちょっと武志なに言ってんの」とごまかそうとするが、優しい宏樹は「いいじゃん、それがいいよ、おまえらお似合いだし、な薫」と答えてしまい、つられたように薫までが「そ、そうだね」と言ってしまうのだ。いや、ちょちょっと待ってくれと当事者でなくとも口を挟みたく場面なのだが、武志は1人で舞い上がって冬の海(まだ川か)に飛び込んでしまう。え、これでごまかそうってか。

結局このまま結婚へと進んでいくのだが、なんと式の当日に武志は車の事故で植物人間となってしまう。武志の入院先は聖路加なのだろう(多分)、つまり武志が築地市場から移動することで、三角形は以前に比べより正三角形に修正されるのである。武志に意識は戻らないながら、2人は毎日のように病室に顔を出し、3人の親密な時間が帰ってくる。これには宏樹が記者から内勤の仕事に代わって、武志との時間を作るようにした(しつこいが、眠ってるだけなんだよな)ということもあるのだが、私にはすっきりしない展開だ。しかも「武志は絶対目を覚ますから」と何度も言う。気持ちはわからなくはないが、このセリフは全てを台無しにしている。

昏睡状態は3年経っても変わらず、実は周囲も宏樹と薫が相思相愛だということに気付いていたことから、宏樹も薫と一緒になることを決意する。でもこれもヘンなセリフなのだな。「俺に薫を幸せにさせてくれないか。武志の目覚めるまででいいから」って、こんなのありかよ。で、そんな馬鹿なことを言うものだから、武志は本当に目覚めてしまうのだ。おいおい。

記憶は完全ではないものの元気そうに見えた武志だが、病気が再発し……。そしてまた宏樹と薫を呼び、今度はこんなことを言う。「宏樹、薫を不幸にしたら承知しねえぞ。薫、おまえはずっと宏樹に惚れてたんだ。好きな女のことはわかるんだ」と。だったら何故プロポーズなんかしたんでしょうかねー。自分がもう永くはないということを知ってだとしたら、それもちょっとね。

こうして2人の結婚式が見たいという武志の要望で、式がとりおこなわれ、武志は天国に帰って?いく。俺と薫のために天国から戻ってきてくれたというようなことを宏樹が言っていたからそうなのだろうけど、なんだかな。『天国は待ってくれる』ってそういうことなのかよ。でも、そう言われてもよくわからんぞ。

丁寧すぎるくらいのショットの積み重ねで、ゆっくりと時間がすぎていく感じが、最初のうちは好感がもてたのだが、話があまりにもいい加減だから、途中からは退屈してしまう(築地市場の映像がそれこそ何度も繰り返されるが、これは市場の移転が決まっているからなのだろう)。

3人を囲む家族たちが、薫の母親(いしだあゆみ)や武志の妹の美奈子(戸田恵梨香)など、みな温かくていい人というのも気持ちが悪い。そのくせ病室をサロンと化してしまうような勘違い精神は持ち合わせていて、酒宴まで開いて医師(石黒賢)に酒まですすめる始末。この医師も武志が「戻って来たのは自分の意志ではないか」などと、言うことは(自覚しているのだが)まるで呪術師並ときている。

やだね、悪口ばっか書いて。でもそもそも、三角形の位置関係についてこじつけてあれこれ書いたのも、この作品がひどいからなんでした(私が多少あの近辺には詳しいということもあるのだけれど)。

  

2007年 105分 サイズ■ 

監督:土岐善將 製作:宇野康秀、松本輝起、気賀純夫 プロデューサー:森谷晁育、杉浦敬、熊谷浩二、五郎丸弘二 エグゼクティブプロデューサー:高野力、鈴木尚、緒方基男 企画:小滝祥平、遠谷信幸 製作エグゼクティブ:依田巽 原作:岡田惠和『天国は待ってくれる』 脚本:岡田惠和 撮影:上野彰吾 視覚効果:松本肇 美術:金田克美 編集:奥原好幸 音楽:野澤孝智 主題歌:井ノ原快彦『春を待とう』、清木場俊介『天国は待ってくれる』 照明:赤津淳一 録音:小野寺修 助監督:田村浩太朗

出演:井ノ原快彦(宏樹)、岡本綾(薫)、清木場俊介(武志)、石黒賢(医師)、戸田恵梨香(美奈子/武志の妹)、蟹江敬三(武志の父)、いしだあゆみ(薫の母)、中村育ニ、佐々木勝彦