スキャナー・ダークリー

シネセゾン渋谷 ★★★

■ロトスコープアニメ=ドラッグの世界?

まず驚くのが実写映像を加工してアニメにしていることで、キアヌ・リーヴスがちゃんとキアヌ・リーヴスに見えることだ(すでに予告篇で圧倒させられていたが)。珍しくも買ったプログラムを読むと、この技術はロトスコープと呼ばれるもので、これには相当手間暇をかけているらしい。

よくわからないのだが、このアニメを作るには実写が必要で、ってことは実写版が存在する!? 確かに巻頭のチャールズ・フレック(ロリー・コクレイン)の体を虫が這い回る場面などはアニメ向きといえなくもないが、でも他の部分でかかる作業をここに振り向ければCGでもかなりのものができたのではないか。あとはスクランブル・スーツの表現だが、これも同じことが言えそうだ。

そして、このロトスコープによって出来た映像はアメリカン・コミックスの質感を思わせる。私にとってアメコミは、たまに見ると総体としては新鮮なものだが、個々のキャラクターとなるとすべてが似た質感で無個性にしか見えない。ロトスコープも同じで、最初のうちこそその効果は絶大だが、次第に疲れてしまっていた。単独に1枚1枚の絵として見ているぶんにはいいんだけどね。

はじめから焦点が合ったり合っていない部分のある普通の映像の方が(もちろん全体に合っているものもあるが)、目線の移動に合わせて焦点も自然に合わせてしまう人間の目よりは不自然なのに、感覚的には自然なのは面白い。焦点が映画の意思であるということを体験的に覚えてしまっているのだろうし、単純に慣れてしまっているからだろうか。これは普通のアニメとの比較でもいえることだが、ロトスコープだとそれがより顕著になるようなのだ。

映画の舞台は、麻薬の蔓延した「現在から7年後」のカリフォルニア州アナハイム。なかでも猛威をふるっているのが、依存性が強く、常用が進むと右脳が左脳を補おうとして認知障害を起こす「物質D」で、政府はこの撲滅に躍起となっていた。

ボブ・アークター(キアヌ・リーヴス)は、覆面麻薬捜査官として自ら物質Dを服用、彼の自宅は今やジャンキーたちの巣と化すまでになっていた。覆面捜査官は署内や上司にも正体を知られてはならず、刻々と顔や声のパターンが変化するスクランブル・スーツなるものを身につけ、アークターはフレッドというコード名で呼ばれていた。つまり彼にとっても上司が誰なのかがわからないというのがミソとなっている。

アークターは、巻頭に登場したフレック(すでに物質Dにかなり犯されていて、しばしば虫の幻覚に襲われる)、ジム・バリス(ロバート・ダウニー・Jr.)、アーニー・ラックマン(ウディ・ハレルソン)のジャンキー共同生活者を監視。さらに恋人関係になった売人のドナ(ウィノナ・ライダー)に大量に物質Dを注文し、密売ルートを探ろうとするが、アークターを疑ったバリスのたれ込みもあって、アークターは自分を監視するように上司から命令されてしまう。

究極の監視社会を象徴するような光景だが、アークターは結局物質Dにやられ、果てはニュー・パスと呼ばれる更生施設に送られることになる。その過程で、アークターの上司がなんとドナであり、ニュー・パスが更生施設どころか物質Dの栽培農場だということが判明する。

これは一体どういうことなのだろう。ホロスキャナーといわれる常時監視盗聴システムで24時間休むことなく監視された映像を分析しているにもかかわらず、覆面捜査官まで送り込む異常さに、この設定はちょっとあんまりだと思ったものだが、ドナの正体がわかってみると、5人の監視対象のうち2人までもが覆面捜査官ということになってしまうではないか。

アークターが物質Dによる症状がどこまで出ているかというテストを受けさせられることや、ニュー・パスの正体も含めて、登場人物は、結局政府の自作自演物語に踊らされているだけというオチなのだろうか。そして、数人で相互監視をする社会がすでに成立しているのかもしれない。が、その目的などが明示されることはない。情報を知っているのは食物連鎖の上の者だけ、などというセリフはあるが、それ以上のことは何もわからない。

この構図は確かに怖いのだが、ロトスコープアニメの映像が現実に似て現実でないのと同様に、現実離れしすぎていて実感をともなわない。アークターではないが、監視が幻想かもしれないと思い出すと、映画全体がドラッグの世界ということもなってくる。そうか、そのためのロトスコープアニメとか。いや、まさかね。

映画の最後には「これは行いを過度に罰せられた者たちの物語。以下のものに愛をささげる」という字幕のあとに何名もの名前が続く。そして「彼らは最高の仲間だった。ただ遊び方を間違えただけ。……フィリップ・K・ディック」。原作はディックの実体験が生んだ作品とのことだ。しかしそれにしては、ここに出てくるジャンキーたちは簡単に仲間を売ったりするし、自分勝手な御託を並べているだけで、愛すべき存在には見えないた。紅一点のドナにしても、恋人のアークターが肌に触れるのも拒否していた(コカイン中毒によるものらしいのだが)し、「あなたはいい人よ。貧乏くじをひいただけ」というセリフにしても、冷たい感じがしてならなかったのだが。

  

原題:A Scanner Darkly

2006年 100分 ビスタサイズ アメリカ R-15 日本語字幕:野口尊子

監督・脚本:リチャード・リンクレイター 製作:アン・ウォーカー=マクベイ、トミー・パロッタ、パーマー・ウェスト、ジョナ・スミス、アーウィン・ストフ 製作総指揮:ジョージ・クルーニー、ジョン・スロス、スティーヴン・ソダーバーグ、ベン・コスグローヴ、ジェニファー・フォックス 原作:フィリップ・K・ディック『暗闇のスキャナー』 撮影:シェーン・F・ケリー プロダクションデザイン:ブルース・カーティス 衣装デザイン:カリ・パーキンス 編集:サンドラ・エイデアー アニメーション:ボブ・サビストン 音楽:グレアム・レイノルズ
 
出演:キアヌ・リーヴス(ボブ・アークター/フレッド)、ロバート・ダウニー・Jr(ジム・バリス)、ウディ・ハレルソン(アーニー・ラックマン)、ウィノナ・ライダー(ドナ・ホーソーン)、ロリー・コクレイン(チャールズ・フレック)

上海の伯爵夫人

新宿武蔵野館2 ★★☆

■夢のバーが絵に描いた餅ではね

1936年の上海。アメリカ人のトッド・ジャクソン(レイフ・ファインズ)は元外交官。かつてヴェルサイユ条約で中国の危機を救った英雄と賞賛を受け、国際連盟最後の希望などともてはやされた過去を持つが、テロ爆破事件で愛する家族と視力を奪われ、今は商社で顧問のようなことをしている。人生に見切りを付けたかのような彼の楽しみは上海のバー巡りで、自分で店を持つのが夢となっていた。

ソフィア・ベリンスカヤ(ナターシャ・リチャードソン)は、ロシアから亡命してきた元伯爵夫人。娘のカーチャ(マデリーン・ダリー)だけでなく一族4人を養うため夜クラブで働いている。同じ服を着て店に出るなと注意されるような貧乏生活ぶりで、時には娼婦であることを要求されるのだろう。それ故彼女への視線は冷たいもので、義姉グルーシェンカに至っては、ソフィアが娘のカーチャに近づくことさえ好ましく思わないでいる。仕事を終えて家に帰ってきても寝る場所すらなく、みんなが起き出してやっと空いたベッドでゆっくり眠ることができるという毎日を生きている。

ソフィアはある日、初顔のジャクソンが店で危うく身ぐるみ剥がれそうになることを察すると、自分の客に見せかけて彼を救う。

競馬で思わぬ大金を手にしたジャクソンは、念願のバーをオープンするのだが、そこの顔にと知り合ったソフィアを迎え入れる。バーの名前は「白い伯爵夫人」、ジャクソンはソフィアに理想の女性像を見いだしたらしい。

雇用関係が結ばれたもの、プライベートなことにまでは踏み込むことなく、たまたまカーチャを連れたソフィアとジャクソンが出会ってと、ラブロマンスにしてはもどかしい展開。ふたりのこれまでの背景を考えればこれが自然とは思うが、といって背景がそう語られるわけではない。ジャクソンと死んでしまった娘との「結婚して子供が産まれてもずっと一緒」という約束は出てくるが、これがあまりうまい挿話になっていないし、ソフィアも生活の悲惨さは描かれていたが(むろんジャクソンの所で働きだしたことで少しは改善されるのだが)、ロシアのことはすでに過去でしかないということなのだろう。

もっともサラとピョートルなどはまだ昔のことが忘れられなくて、フランス大使館へ着飾って出かけるのであるが(悲しくも滑稽な場面だ)、これが思わぬ人との再開となり、香港へ抜け出す手がかりを掴んで帰ってくる。香港行きには大金が必要で、それを工面出来そうなのはソフィアしかいないのだが、脱出計画にはソフィアは含まれておらず、彼女もそれが娘のためと納得せざるをえない。

そしてこれがラストの日本軍の上海侵攻(第二次上海事変)の中での、ジャクソンとソフィアによる娘奪還場面という見せ場になるのだが、これがどうにも盛り上がらない。結局カーチャはソフィアと行動を共にすることになって、グルーシェンカが悲嘆にくれることになるのだが、ああグルーシェンカは本当にカーチャのことを彼女なりに愛していたのだとわかって、なぜかほっとしたことが収穫といえば収穫だったか。

せっかくの時代背景が添え物にすぎなくなってしまっていることもあるが、なによりジャクソンの作った夢のバーのイメージがしっかり伝わってこないのが残念だ。「世界を遮断しているような」重い扉の中に、彼は何を求めたのだろう。質のいい用心棒をやとい、緊張感のある世界を作りあげて、どうしたかったのか。日本人マツダ(真田広之)とはそのことで意気投合したようだが、結局は立場の違う人間でしかなく、最低限の儀礼を示すだけの間柄で終わってしまう。

視力を失うように活躍の場を失った(娘のことで気力がなくなったのだろうが)元外交官が、競馬で儲けてミニチュアの外交の場を得ようとしたのだとしたら、お粗末というしかないではないか。

原題:The White Countess

2005年 136分 ヴィスタサイズ イギリス/アメリカ/ドイツ/中国 日本語字幕:松浦奈美

監督:ジェームズ・アイヴォリー 脚本:カズオ・イシグロ 撮影:クリストファー・ドイル 衣装デザイン:ジョン・ブライト 編集:ジョン・デヴィッド・アレン 音楽:リチャード・ロビンズ
 
出演:レイフ・ファインズ(トッド・ジャクソン)、 ナターシャ・リチャードソン(ソフィア・ベリンスカヤ)、 ヴァネッサ・レッドグレーヴ(ソフィアの叔母サラ)、 真田広之(マツダ)、リン・レッドグレーヴ(義母オルガ)、アラン・コーデュナー(サミュエル)、マデリーン・ダリー(娘カーチャ)、マデリーン・ポッター(義姉グルーシェンカ)、ジョン・ウッド(叔父ピョートル・ベリンスカヤ公爵)、イン・ダ、リー・ペイス、リョン・ワン

幸福(しあわせ)のスイッチ

テアトル新宿 ★★★

■過剰なふてくされと怒鳴りがそれほど気にならなくなって……

東京に出て新米イラストレーターとして働きだした怜(上野樹里)だが、思い通りの仕事をやらせてもらえず、勢いで辞めてしまう。「やっちゃったと思いながらも振り向けない」性格なのだ。そこへ故郷から、姉の瞳(本上まなみ)が倒れたという切符入りの速達が届く。

田辺(和歌山県)の田舎に戻るとそれは、怜とソリの合わない頑固親父(沢田研二)の骨折では帰らないだろうしパンチが弱いとふんだ妹の香(中村静香)の嘘で、でもまあ身重の瞳とまだ学生の香では実際家業の電器屋「イナデン」の切り盛りは難しく、とりあえず失業中の怜が手伝うということになってしまう。

このあとはたいした事件が起きるわけでもなく、もうすべてが予告篇どおりの展開といっていい。雷で修理の依頼が多くなると病院を抜け出してきた父と夜仕事に出かけても、それ以上の問題になることはない。あの予告篇では観るのをためらっても仕方ないと思うが、といってどうすりゃいいんだというくらいの内容。平凡な材料ほど料理するのは大変なはずだが、それは端的な説明と間の取り方の確かさで、あっさりクリアしてのける。

巻頭の職場でのトラブルで、怜は同僚で彼氏の耕太(笠原秀幸)ともギクシャクしてしまうのだが、ここでは「彼氏には頼りたくない、ってか元カレ?」というセリフがあって耕太との距離感がすとんとわかる。助っ人として現れた裕也(林剛史)には、中学時代の文化祭キス事件という、これまたわかりやすい説明が用意されている。

大っ嫌いな家業(でもイナデンマークを考えたのは怜なのだ)をいやいや手伝ううちに、修理マニアで外面の天才(怜評)の父親の、家族思いの面にも気付かされていくという寸法なのだが、うわーっ、予告篇もだけど、こうやって書いていても私にはちょっと勘弁という気分になる。怜ならずともこれではふてくされたくもなるというものだ。って怜のふてくされとは意味が違うか。

怜が父親に反発するのは、仕事優先で母の病気の発見が遅れて死んでしまったことと浮気疑惑による。画面に母が登場することはないが、多分怜は母親を慕っていたのだろう。病気発見の遅れについては、洗脳されている瞳と香(母もと言っていた)は思いすごしというが、浮気疑惑はふたりにも予想外で、酒場のママ(深浦加奈子)のところへ怜と香とで押しかけることになる。

が、店を始めた頃に母親とお客さんを回ったのが一番楽しくてしんどかったと父が話していた、とママにははぐらかされてしまう。香の結論は「あの人お父さんのこと好きやな、それにきっとお父さんも」だ。報告を受けた瞳は「だから浮気しても、もうええってこと」で、香は「もてん父親よりは」だが、怜は「ええのー、それで」と外面の天才に丸め込まれたとまだふてくされている。

この意地っ張りな性格は、実は父親譲りらしく、父親のお客様第一主義は、怜のイラストへのこだわりにも通じるところがありそうだ。再就職もままならず、売り物のビデオカメラを壊したことで怒鳴られるとすねて1日さぼり、父にそれは「わいの血か」と見透かされてしまう。

冷静にみても怜は可愛くないし、子供っぽすぎるのだが、いやまー、こういう気持ちはわからなくもない。瞳が大人なのはともかく、香にまで明るくふるまわれてはねー。そう思うと、やはり怒鳴り散らしてばかりの父親に近いのかも。ふてくされと怒鳴りがこんなに過剰なのに、意外に画面に溶け込んでいては、やられましたと言うしかない。

ああそうだ。怜は東京に戻り、彼氏の取りなしもあってか、ちゃんと頭を下げて復職させてもらったのでした。

ついでながら、野村のおばあちゃん(怜が最初に受けた依頼は修理ではなく、家具の移動だった)が嫁と折り合いが悪かったのは、耳が遠くて、とくに嫁の声が聞き取りにくかったらしい。これに気付いた怜は補聴器の販売に成功。あとで父からもいい仕事をしたな、と褒められる。

補聴器をはじめて付けた時の描写もなかなか。鳥の囀りを10年ぶりで聞いたというおばあちゃん。猫の鳴き声、農作業中にくしゃみする人がぽんぽんと挿入される。

 

2006年 105分 ビスタサイズ

監督・原案・脚本:安田真奈 撮影:中村夏葉 美術:古谷美樹 編集:藤沢和貴 音楽:原夕輝 主題歌:ベベチオ『幸福のスイッチ』 照明:平良昌才 録音:甲斐匡
 
出演:上野樹里(次女・稲田怜)、沢田研二(父・稲田誠一郎)、本上まなみ(長女・稲田瞳)、中村静香(三女・稲田香)、林剛史(怜の中学時代の同級生・鈴木裕也)、笠原秀幸(怜の彼氏・牧村耕太)、石坂ちなみ(涼子)、新屋英子(野村おばあちゃん)、深浦加奈子(橘優子)、田中要次(澄川)、芦屋小雁(木山)

サンキュー・スモーキング

シャンテシネ1 ★★★☆

■洒落た映画だが、映画自体が詭弁じみている

ニック・ネイラー(アーロン・エッカート)は、タバコ研究所の広報マン。すでに悪役の座が決定的なタバコを擁護する立場にあるから、嫌われ者を自覚している。TVの討論会では、15歳の癌患者を悲劇の主人公にしようとする論者を敵(味方などいるはずもない)に回して、タバコ業界は彼が少しでも長生きして喫煙してくれることを願っているが、保健厚生省は医療費が少なくてすむよう彼の死を願っているなどと言って論敵や視聴者を煙に巻く。

映画は、最後まですべてこんな調子。それを面白がれれば退屈することはない。といって喋りだけの平坦さとは無縁。テンポよく次々とメリハリのある場面が飛び出してくる。

ニックはタバコのイメージアップに、映画の中で大物スターにタバコを吸わせることを考えつく。上司のBR (J・K・シモンズ)はニックの案を自分の発案にしてしまうようなふざけた野郎だが、フィルター発案者でタバコ業界の最後の大物と言われるキャプテン(ロバート・デュヴァル)はちゃんとニックのことを買っていて、ロスに行って日本かぶれのスーパー・エージェントであるジェフ・マゴール(ロブ・ロウ)と交渉するように命じる。

キャプテンについての紹介は「1952年、朝鮮で中国人を撃っていた」というものだし、マゴールの仕事のめり込みぶりは度外れていて、ニックがいつ眠るのかと問うと日曜と答える。現代物は無理だがSF映画で吸わせるのならなんとかなると仕事の話も速い。

とにかく、登場人物は癖のあるヤツらばかりだし、それでいてほとんど実在の人物なのかと思わせる(だからこそ心配にもなってくる)あたり、大したデキという他ない。ニックが賄賂を持って出かけた初代マルボロマンだというローン・ラッチ(サム・エリオット)には「ベトコンを撃つのが好きだったが、職業にはしなかった」と言わせてしまうのだから。

ラッチとの駆け引きは見ものだ。相手はなにしろ銃を片時も手放さないし、クールが好きでマルボロは吸わなかったとぬけぬけと言うようなヤツ。癌と知って株主総会に出たという彼に、ニックはバッグ一杯の金を見せながら、告訴となければこの金は受け取れなくなり、寄付するしかなくなるとおどす。

タバコ悪者論者の急進派の一味に襲われ、ニコチンパッチを体中に貼られて解放される事件が起きて入院すれば、すかさず「ニコチンパッチは人を殺します。タバコが命を救ってくれた」(よくわからんが、タバコが免疫を作ってくれていたということなのか?)と切り返していたニックだが、親しくなっていた女性新聞記者のヘザー・ホロウェイ(ケイト・ホームズ)に仲間のことから映画界への働きかけから、口封じ、子供のことまですべてを記事で暴露され、会社をクビになる。誘拐で彼への同情はチャラになり、頼みのキャプテンは「今朝」死んだときかされる。

落ち込むニックを救ったのは息子ジョーイ(キャメロン・ブライト)の「パパは情報操作の王」という言葉。でもこれはどうなんだろ。ジョーイは父親を尊敬しているという設定にはなっているが、とはいえ、子供に屁理屈王と言われてしまったのではねー。

ニックは離婚していて、ジョーイには週末にしか会えないのだが、でもまあ子供思いで、学校にも行って仕事の話をするし、仕事先にもジョーイを連れ回す(マルボロマンとの交渉ではジョーイが役に立つ)。詭弁家ではあるが、子供にはきちんと向き合おうとしている。題材と切り口は奇抜ながら、実は父子の信頼関係の物語なのである。

立ち直りの速さはさすが情報操作王で、暴露記事には反省の姿勢を見せつつ、記者と性交渉を持つと最悪だが、紳士として相手の名前は伏せると反撃も忘れない。その勢いでタバコ小委員会に出席し、タバコに髑髏マークを付けようとしている宿敵のフィニスター上院議員(ウィリアム・H・メイシー)を徹底的にやりこめる。

無職なのだからもはや「ローンの返済のため」というのではないわけで、これは情報操作王としての意地なのだろうか。タバコはパーキンソン病の発症を遅らせると軽くパンチを出し、タバコが無害だと思う人なんていないのに何故今さら髑髏マークなのかと言い放つ。死因の1位はコレステロールなんだから髑髏マークはチーズにだって必要だし、飛行機や自動車にも付いてないじゃないかと。

ただ、この屁理屈と論旨のすり替えはいただけないし、またかという気持ちにもなる。というわけで、このあとの子供にもタバコを吸わせるのかという質問には、18歳になって彼が吸いたければ買って吸わせると、子供の自主性を強調していた。最初の方でもニックはジョーイの宿題に、自分で考えろと言っていたし、これについては異論はないのだけどね。

この活躍でニックは復職を要請される。が、それは断わって、自分でネイラー戦略研究所を立ち上げる。父親の血を引いたジョーイはディペードチャンピオンになって目出度し目出度し、ってそうなのか。言い負かしさえすればいいってものでははずだし、そんなことは製作者もわかっているみたいなのだが、だからってディベート社会そのものまでは否定していないようだ。

この映画を製作するとなると、どうしてもタバコ擁護派のポーズを取らざるを得ないわけで、だからこそそのために周到に映画の中ではタバコを吸う場面を1度も登場させていない(劇中のフィルムにはあるが)のだろう。そうはいってもこの終わり方ではやきもきせざるを得ない。ニックは最後に、誰にでも才能があるのだからそれを活かせばいいのだとも言う。それはそうなんだが、この割り切りも私には疑問に思える。

書きそびれたが、ニックの広報マン仲間で、アルコール業界のポリー(マリア・ベロ)と銃業界のボビー(デヴィッド・コークナー)の3人が飲んでいる場面がちょくちょくと入る。これがまたいいアクセント代わりになっている。3人は「Marchant of Death(死の商人)」の頭文字をとって「モッズ(MOD)特捜隊」(昔のテレビ番組)と名乗り、日頃のうっぷん晴らしや互いを挑発し合ったりしているのだが、これがちょっとうらやましくなる関係なのだ。

【メモ】

タイトルはタバコのパッケージを模したもの。

「専門家みたいに言うヤツがいたら、誰が言ったのかと訊け」「自分で考えろ」

「君は息子の母親とやっている男だ」

ジョーイもかなり口が達者で、父親についてカリフォルニアに行くことを母親に反対されると「破れた結婚の不満を僕にぶつけるの?」と言い返していた。 

「あの子はあなたを神と思っているの」

「何故秘密を話したの? ママは、パパは女に弱いからって」

原題:Thank You for Smoking

2006年 93分 サイズ■ アメリカ 日本語字幕:松浦美奈

監督・脚本:ジェイソン・ライトマン 原作:クリストファー・バックリー『ニコチン・ウォーズ』 撮影:ジェームズ・ウィテカー 美術:スティーヴ・サクラド 衣装:ダニー・グリッカー 編集:デーナ・E・グローバーマン 音楽:ロルフ・ケント
 
出演:アーロン・エッカート(ニック・ネイラー)、マリア・ベロ(ポリー・ベイリー)、デヴィッド・コークナー(ボビー・ジェイ・ブリス)、キャメロン・ブライト(ジョーイ・ネイラー)、ロブ・ロウ(ジェフ・マゴール)、アダム・ブロディ(ジャック・バイン)、サム・エリオット(ローン・ラッチ)、ケイト・ホームズ(ヘザー・ホロウェイ)、ウィリアム・H・メイシー(フィニスター上院議員)、J・K・シモンズ(BR)、ロバート・デュヴァル(ザ・キャプテン)、キム・ディケンズ、コニー・レイ、トッド・ルイーソ

スーパーマン リターンズ

新宿ミラノ1 ★★★☆

■問題を複雑にしすぎた5年

びっくりなのは、この映画が昔の4作の続編だということで、厳密には『スーパーマン』(1978)と『スーパーマン II 冒険篇』(1981)の最初の2作品の続きという位置づけになるらしい。最初の作品しか観ていないので、何故3、4作を無視するのかはわからないが、そうまでして25年後に続篇にすることはないだろうというのが正直な気持ち。

ま、いいんだけどね。ただ『冒険篇』の5年後ということは、舞台は今から20年前ってことになってしまうんだけどなー。

何故5年もの間不在にしていたかというあたりの説明が手抜きでわかりにくい(居場所探しって?)のだが、とにかくスーパーマン(ブランドン・ラウス)は地球に戻ってくる。

が、スーパーマンはどうでも、クラーク・ケントの5年ぶりの職場復帰は難しそうだ。でも、これは不可欠の要素だし、ロイス・レイン(ケイト・ボスワース)との絡みもなくすわけにはいかず、で、同僚のジミー・オルセン(サム・ハンティントン)がうまい具合に取りはからってくれて、とここは主要人物紹介も兼ねているからスムーズなのな。

その肝心のロイスだが、旦那になる予定のリチャード・ホワイト(ジェームズ・マースデン)という相手(編集長の甥なのだと)がいるだけでなく、子供までが……。ロイス念願のピューリッツァ賞は、スーパーマン不要論で授賞というあてつけがましさ(内容はスーパーマンに頼ってないで自立せよってなものらしいが)。

茫然としているクラークに、ロイスが取材で乗り込んでいる飛行機で、取り付けられたスペースシャトルが切り離せないまま着火(飛行機から発射されるようになっている)してしまうというニュースが飛び込んでくる。

この空中シーンは圧巻だ。事故機内部の描写(ロイスは痛い役)もふくめて、演出、編集ともに冴えわたったもので、スーパーマンの復活を十分すぎるほど印象付けてくれる。満員の観客が試合観戦中の野球場に、事故機を無事着陸させるという華々しいおまけまであって、野球場の観客ならずともこれには拍手せずにはいられない。

ただ全体としてみると、この場面が素晴らしすぎることが、皮肉にも後半の見せ場を霞ませてしまったことは否めない。ジョー=エル(昔の映像を編集したマーロン・ブランド)が息子に残したクリスタルの遺産を、レックス・ルーサー(ケヴィン・スペイシー)が利用して大西洋に新大陸をつくる(アメリカ大陸は沈没する)という、奇想天外で、だから現実味のないこけおどし的イメージが、恐怖感を生まないまま見せ物観戦的感覚で終わってしまうことになる。

第1作ではスーパーマンが地球を回転させて時間を戻すという禁じ手を使ってしまっていて、これは続篇を拒否しているようなもので、だから続篇でなく新シリーズにしてほしかったのだが、まあ、それは置いておくにしても、スーパーマンがスーパーすぎるからといって対抗策をエスカレートさせると、話が子供じみてしまうという見本だろうか。でもそうではなくって、最初の飛行機事故のような単純なものでも、見せ方次第では十分面白くなるはずなのだ。

もっとも今回は、ケヴィン・スペイシーには悪いが(存在感もあってよかったけどね)、1番の興味はロイスとの関係だ。5年も不在では(一言もなしに去ったというではないか)、新しい恋人ができてもロイスに罪はない(アメリカ社会ではよけい普通だろうから)。そうはいってもそれをそのままにスーパーマンと空を散歩するシーンをもってこられても、あまりに複雑な気分で、1作目の時のような空を飛ぶ楽しさは味わえないままだった。

リチャード・ホワイトがいいヤツだけに、これはロイスというよりはスーパーマンにもっとしっかりしてほしいところだ。なのに透視力や聴力を使ったストーカーまがいのことまでしているのではね。ロイスがこれを知って、まだ好きでいられるかしら。

私の妻は、ロイスは男を見る目があるという。なるほどリチャードの立派さは際だってるものな。が、ロイスはクラークを見ても何も感じないのだから、そうともいえない(私としては、できれば1作目で、ロイスにはスーパーマンではなくクラークに恋してほしかったのだが)。子供まで作っておいてそれはないような。これについてはスーパーマンにも一言いっておきたい。そんな関係になっていながら、まだクラークの正体を明かしていないなんて。ストーカー行為とともにこれは重大な裏切りだ、と。

ロイスの子供がスーパーマンとの間に出来た子だということがあとで判明して、なんだ、それを教えてくれていたら空の散歩ももっと楽しめたのに、とやっと胸をなでおろす。が、観客には説明できたかもしれないが、ロイスやリチャードに対しては?

それにしても5年の不在は問題を複雑にしすぎたとしかいいようがない。ルーサーの仮釈放もスーパーマンが証言に立たなかったからだっていうし。

子供にもスーパーマン的能力があることがわかって(ピアノを動かして悪人をやっつけたのは正当防衛だが、殺人をおかしたとなると)、しかしクリプトンナイトには平気……。こりゃ、スーパーマンの敵は、数作後は自分の子かぁ。むろん妄想。映画は父親から子供に静かに語りかけるという終わり方だったものね。あ、問題は山積みのままですよ。

今回、スーパーマンはクリプトンナイトをルーサーにいいように使われて、かなり痛めつけられる。リンチ状態。この演出はブライアン・シンガー好み? で、無敵なはずのスーパーマンが人間(ロイスとリチャード)に助けられるというわけだ。ロイスの「あなたを必要としている人がいる」(あれ、自分の著書を否定しちゃったぞ)という言葉にも勇気づけられて……。

でも途中でもふれたが、何しろ最後のスーパーマンの活躍は、岩盤を持ち上げて宇宙に持って行ってしまうというとんでもないものなのだが、もうハラハラもドキドキもないのよね。

  

【メモ】

クラークが投げたボールがあまりに遠くへ飛んでいってしまったため、犬が悲しそうな声を出すといういい場面がある。

ジョー=エルはすでに死んでいるとはいえ、息子以外の者に秘密を教えるのか。というか、あのクリスタルはそんなぼろいシステムなんだ。

ロイスは電力事故の調査にこだわってルーサーの船(老女を騙して遺産相続したもの)にたどり着くのだが、子供と一緒に軟禁されてしまう。

ロイスの子供の能力についてはピアノを動かしただけで、まだ謎。普段は気弱そうな男の子に見えるし。クリプトンナイトに平気なのは人間とのハーフだから?

注射針を受け付けないスーパーマンには医師団も困惑。入院にかけつけた人々の中にはマーサ・ケントの姿も。

エンドロールに「クリストファー・リーヴ夫妻に捧ぐ」と出る。

おまけ映像は、燃料切れで無人島に着陸したルーサーと愛人。「何も食べ物がない」というセリフのあとの視線は、愛人が抱きかかえている犬にむけられる。

原題:Superman Returns

2006年 154分 アメリカ サイズ:■ 日本語字幕:■

監督:ブライアン・シンガー 原案:ブライアン・シンガー、マイケル・ドハティ、ダン・ハリス 脚本:マイケル・ドハティ、ダン・ハリス 撮影:ニュートン・トーマス・サイジェル キャラクター原案:ジェリー・シーゲル、ジョー・シャスター 音楽:ジョン・オットマン テーマ音楽:ジョン・ウィリアムズ

出演:ブランドン・ラウス(スーパーマン/クラーク・ケント/カル=エル)、ケイト・ボスワース(ロイス・レイン)、ケヴィン・スペイシー(レックス・ルーサー)、ジェームズ・マースデン(リチャード・ホワイト/ロイスの婚約者)、フランク・ランジェラ(ペリー・ホワイト/「デイリー・プラネット」編集長)、サム・ハンティントン(ジミー・オルセン/ケントの同僚)、エヴァ・マリー・セイント(マーサ・ケント)、パーカー・ポージー(キティ・コワルスキー/ルーサーの愛人)、カル・ペン(スタン・フォード)、ステファン・ベンダー、マーロン・ブランド(ジョー、エル:アーカイヴ映像)

佐賀のがばいばあちゃん

楽天地シネマズ錦糸町-3 ★

■辛い話は昼にせよ(収穫はこれのみ)

漫才コンビ“B&B”の島田洋七による同名の自伝的小説の映画化。「がばい」は佐賀弁ですごいの意。

明広(池田壮磨→池田晃信→鈴木祐真)は原爆症で父を亡くし、兄と共に居酒屋で働く母(工藤夕貴)に育てられていたが、泣き虫で母の足手まといになることが多かった。伯母の真佐子(浅田美代子)が見かねてのことか母が頼んだのか、新しい服を着せられ新しい靴を履かされたうれしい日に、騙されるように真佐子に連れられて佐賀の祖母のもとにやってくる。

着いたとたん挨拶もそこそこに、しかも夜だというのに次の日からの飯炊き係を言い渡される明広。こうして2人の生活がはじまることになるのだが、ようするに昭和30年代の佐賀を舞台にしたばあちゃんと少年の話で、映画は昔流行った『おばあちゃんの知恵袋』の貧乏生活篇的様相を帯びる。

夫の死後7人の子を育てたというがばいばあちゃん語録を列記すると、「川はうちのスーパーマーケット」(上流にある市場で捨てられたくず野菜や盆流しの供物が流れずに引っかかるように工夫してある)、「この世の中、拾うものはあっても捨てるものはない」(外出時には道に磁石をたらすことを忘れない)、「悲しい話は夜するな、どんない辛い話でも昼したら大したことない」、「今のうち貧乏をしとけ、金持ちになったら大変よ、よかもん食べたり、旅行へ行ったり、忙しか」などとなる。

貧乏についても「暗い貧乏と明るい貧乏」があって「うちは明るい貧乏」なのだと説く。まあ、たしかに。もっともばあちゃんの家は門構えも立派なら垣根も堂々たるもので、台所は敷地内の「スーパーマーケット」小川を渡った先にあるのだ。こんな広い家に住んでいて貧乏とはね。今とは違う価値観の中に放り込まれて、それは頭ではわかるのだが貧乏を実感できない恨みは残る。

明広が剣道をやりたいと言えば、竹刀や防具にお金がかかるといい、明広が柔道に格下げ?しても柔道着がいるからだめで、ばあちゃんから許しが出るのは走ることだった。それも靴が磨り減るから素足にしろ、全力疾走は腹が減るからダメ、とこんな調子の話が続く。

ただ明広が中学の野球部でキャプテンになったことを知って、スパイクを買いに行く話はどうか。夜、閉店しているスポーツ用品店をたたき起こし、店の親父に1番高いのが2500円と言われて1万円にならんかと詰め寄る。必要なものにはお金を惜しまないところを見せたかったのだろうが、この演出は白ける。

他にも先生たちとの弁当交換話や、マラソン大会での母との再会などがあるが、ばあちゃん語録からそういう話に格上げされたものはどれも出来が悪い。この積み重ねが、最後の中学を卒業し母の所へ帰ることになる明広とばあちゃんの別れの場面を、薄めてしまったのではないか。

母との再会(何と長い年月! それも1度も会っていないのだ)では、明広の兄が何故来ないのか(単純に金がなかったのかもしれないが)、そして明広を兄と差別したことの後ろめたさを、母に語らせてもよかったのではないかと思うのだが。

しかし、この映画の1番の難点は、吉行和子ががばいばあちゃんのイメージにそぐわないことではないだろうか。そして大人の明広も、本人の島田洋七ではなく、何で三宅裕司なんだろう。本人でないのなら、この大人の視線部分は不要だろう。とんでもない事件が起きるわけではないので、演出が平坦になることを避けたのかもしれないが、意味があるとは思えない。

【メモ】

明広の弁当が貧弱なのは有名らしく、先生が今日は腹具合が悪いからと明広に腹に負担のかからない弁当と交換してくれと言うのだが、これが何人も……。不思議がる明広に、ばあちゃんは「人に気付かれないのが、本当の優しさ、親切」と解説する。

「明広、行くな」最後に残されたばあちゃんは、号泣しながら叫ぶ。

2006年 104分 サイズ:■

監督:倉内均 脚本:山元清多、島田洋七 原作:島田洋七『佐賀のがばいばあちん』 撮影:三好保彦 美術:内藤政市 編集:阿部亙英 音楽:坂田晃一
 
出演:吉行和子(ばあちゃん)、工藤夕貴(岩永明広の母)、浅田美代子(真佐子)、鈴木祐真(中学生の明広)、池田晃信(小学校高学年の明広)、池田壮磨(小学校低学年の明広)、穂積ぺぺ(小2担任教師)、吉守京太(警官)、石川あずみ(看護婦)、緒形拳(豆腐屋)、三宅裕司(大人の明広)、島田紳助(スポーツ店主)、島田洋八、山本太郎(中野先生)

深海 Blue Cha-Cha

新宿武蔵野館2 ★★

■頭の中のスイッチを切れない女の物語

刑期を終え刑務所から出たアユー(ターシー・スー)だが、行くあてもなく、入所時に慕っていたアン姉さん(ルー・イーチン)を訪ねるほかない。アンはアユーを自分の家に住まわせ、自分の経営するクラブで働かせることにする。

「頭の中のスイッチを切れない」という心の病を持つアユーは、アンに「会うのはいいけど、好きになってはいけない」と釘をさされるが、羽振りのいい常連客のチェン(レオン・ダイ)に誘われるとすぐ夢中になり、度を超した愛情で相手を縛ろうとしてトラブルを起こしてしまう。

アンは上客を失うが、アユーには新しい仕事(電子基板の検査)を世話し、就職祝いだといってケータイまでプレゼントする。

次のアユーの恋人は仕事場の上司のシャオハオ(リー・ウェイ)だ。はじめのうちこそアユーは誘われてもシャオハオを無視していたが、彼の積極的な行動と甘いメールで、ひとたび関係を持ち一緒に住んでもいいという言葉を引き出すと、次の日にはアンと喧嘩するように彼のアパートに引っ越してきてしまう。

が、アユーは無意識のうちに相手を過剰な関係に引きずり込み、破局はあっけなく訪れる。シャオハオはチェンのような暴力男でもないし真面目な青年なのだが、世界には2人しかいないと思い込んでしまうようなアユーの気持ちは到底理解できない。アンからアユーの思いもよらぬ過去(夫を殺して服役)を明かされたこともあるが、それ以前にシャオハオにはアンとやっていけないことがわかっていたはずだ。

アユーという女の悲しさが出せればこの映画は成功したはずだ。が、残念なことにいやな女とまでは言わないが、私にはやっぱりうっとおしい女にしか見えない。アユーの心の病は薬が必要なほどだからと説明されても、それは変わらない。

変わらないのはアユーの陰の部分を見てしまっているからで、それを知らなければアユーに惹かれ、彼女を振り向かせようとしてしまうのかもしれない。そして振り向かせてしまったら、興味が半減してしまういやな男になってしまうのだろうか。

といって、映画にどう手を入れればよいのか、それは見当もつかないのだが。愛することで自制心を失い壊れてしいく女を魅力的に描くことは難しいのかもしれない。が、せっかくの題材を生かせなかったことは惜しまれる。

再びアンの元で生活をはじめるアユー。2人はある朝、旅回りの人形劇団の爆竹に起こされる。人形つかいに興味を示すアユー。そばで見守るアンに、弟も病気で自分の殻にこもるのだとそこにいる兄が話しかける。

もっとも、この出会いが再生につながるという安易な終わり方にはさすがにしていない。旅回り故の別れがすぐにやってきて、あとには「海は広大ですべてを癒す」という取って付けたような言葉が残るだけである。

こういう終わり方はとんでもなくずるいのだが、この映画の場合は、海というイメージの先にほのかにアンの存在が見えるので、ただごまかしているというわけでもなさそうだ。自分の美貌は去って久しい中年女で、クラブを経営しているとはいっても景気がよくないのか家賃を心配し、タバコと宝くじを楽しみにしているアン。掃除もしないで遊んでばかりのアユーに文句を言い、家出にも本気で怒ったくせに、でも何事もなかったかのようにまたアユーを受け入れているアン。

アユーとアンが抱き合いながら人形劇団の船を見送るシーンに、だからもっと素直に女性たちの深い愛情を感じればいいのかもしれないのだが、でもやっぱりそういう気分にはなれなかった。

これは些細なことなのだが、エンドロールの前半は、岸壁に残された人形劇の舞台で、でもいくら何でも舞台を忘れて去っていくことはあり得ないだろう。映像としては恰好がついても、これはいただけない。映画に入っていけなかったのは、こういう映像優先の姿勢が全体に見え隠れしていたせいもありそうだ。

 

【メモ】

鼓山フェリー乗り場

「僕を信じてくれ、すべてうまくいくから。シャオハオ」(アユーに送られてきたメール)。

「人生が思い通りに行かない時には、チャチャを踊ろう」(アン)。

英題:Blue Cha Cha

2005年 108分 ヴィスタ(1:1.85) 台湾 日本語字幕:■

監督:チェン・ウェンタン/鄭文堂 脚本:チェン・ウェンタン/鄭文堂、チェン・チンフォン/鄭瀞芬 撮影:リン・チェンイン/林正英 編集:レイ・チェンチン/雷震卿 音楽:シンシン・リー/李欣芸
 
出演:ターシー・スー[蘇慧倫](アユー[阿玉])、ルー・イーチン[陸奕静](アン[安姐])、リー・ウェイ[李威](シャオハオ[小豪])、レオン・ダイ[戴立忍](チェン[陳桑])

ジョルジュ・バタイユ ママン

銀座テアトルシネマ ☆

■私のふしだらなさまでを愛しなさい

理解できないだけでなく、気分の悪くなった映画。なのであまり書く気がしない。

背景からしてよく飲み込めなかったのだが、適当に判断すると、次のようなことだろうか。母親を独り占めにしたいと思っていたピエール(17歳?)は、その母のいるカナリア諸島へ。そこは彼には退屈な島で、母親にもかまってもらえない(世話をしてくれる住み込み夫婦がいる)。

が、フランスに戻った父親が事故死したことが契機になったのか、母親は自分についてピエールに語り出す。「私はふしだらな女」で「雌犬」。そして「本当に私を愛しているのなら、私のふしだらなさまでを愛しなさい」と。

このあと彼女は、父親の書斎の鍵をピエールに渡したり(父親の性のコレクションを見せることが狙い? 事実ピエールはここで自慰をする)、自分の愛人でもある女性をピエールの性の相手として斡旋したりする。

というようなことが、エスカレートしながら(SMやら倒錯やらも)繰り返されるのだが、彼女が一体何をしたいのかが皆目わからないのだ。欲望の怖さを知れば、パパや私を許せるというようなセリフもあったが、それだと、ただ自分を許して欲しいだけということになってしまう。

性の形は多種多様で、自分の趣味ではないからといって切って捨てる気はないが、私にはすべてが、金持ちの時間を持て余したたわごとでしにしかみえなかった。それに息子だからといって自分の趣味(それも性愛の)を押しつけることはないだろう。

父親にしてもはじめの方で自分の「流されてしまった」生き方を後悔しながら、ピエールには「お前が生まれて私の若さは消えた、ママも同じだ」と言う。親にこんなことを言われてもねー。

最悪なのは、最後に母親の死体の横でするピエールの自慰だ。ここで、タートルズの「ハッピー・トゥギャザー」をバックに流す感覚もよくわからない。

この映画は「死」と「エロス」を根源的なテーマとするバタイユの思想を知らなければ何も理解できないのかも知れない。が、そもそも映画という素材を選んだのだから、きどった言葉をあちこちに散りばめるような、つまり言葉によりかかることは最小限にすべきだったのだ。

そして、愛と性を赤裸々に描きだすことが、その意味を問い直すことになるかといえば、それもそんな単純なものでもないだろう。扇情的なだけのアダルトビデオの方がよっぽど好ましく思えてきた。

【メモ】

巻頭は、母親の浮気からの帰りを父親が待っている場面。

アンシーは母に頼まれて自分に近づいたのではないかと、ピエールは彼女を問いつめる。

息子の前から姿を消す母。欲望が枯れると息子に会いたいと言う。

原題:Ma mere

2004年 110分 フランス ヨーロピアンビスタサイズ R18 日本語字幕:■

監督・脚本:クリストフ・オノレ 原作:ジョルジュ・バタイユ(『わが母』) 撮影:エレーヌ・ルバール

出演:イザベル・ユペール(母ヘレン)、 ルイ・ガレル(息子ピエール)、フィリップ・デュクロ(父)、エマ・ドゥ・コーヌ(恋人)、ジョアンナ・プレイス(母の愛人?)、ジャン=バティスト・モンタギュ、ドミニク・レイモン、オリヴィエ・ラブルダン

幸せのポートレート

シャンテシネ3 ★★☆

■あー大変、疲れちゃうよ

ニューヨークのキャリア・ウーマン、メレディス(サラ・ジェシカ・パーカー)が、恋人のエヴェレット(ダーモット・マローニー)に連れられて、クリスマス休暇を過ごすためにストーン家にやってくる。

結婚相手の家族とうまくやっていけるかどうかは、現代のアメリカ女性にとっても大問題のようだ。仕事のようにはいかないとわかってか、家に入る前からメレディスは緊張気味。で、これがえらく難問だったとさ。

メレディスに対するストーン家の反応は過剰で、あまりにも意地悪すぎ。1度会ったことのある次女のエイミー(レイチェル・マクアダムス)が吹き込んだメレディス評のせいかもしれないし、母親のシビル(ダイアン・キートン)などは癌が再発したという事情があるのだけど、それを差し引いたにしてもいただけない。すべてがオープンで、エイミーの初体験相手の名前が飛び出すような気取らないストーン家と、スーツで身を固め、妹のジュリー(クレア・デインズ)との電話にもプライバシーだからと人払いをせずにはいられないメレディスは、火と油にしてもだ。

異色なのはエヴェレットもで、だからメレディスを相手に選んだのだろうか(もっともこの点については違う展開になるのだが)。シビルによれば、彼は理想家で完璧を目指しすぎるらしい。で、本当に求めているものに気付いていないと最後までメレディスとの結婚に反対するのだが、この理屈はよくわからない。

メレディスは応援のつもりで呼び寄せたジュリーが人気をさらって裏目になるし、さらに3男のサッド(タイロン・ジョルダーノ)に話題が及んで、とんだ侮辱発言を開陳してしまう。サッドは聾者でゲイ。彼の相手で黒人のパトリック(ブライアン・ホワイト)も家族の一員になりきっている。「親なら誰も子が障害を持つことを望まない」と言うメレディスに「自分の子がみんなゲイであればと願ったわ。女の子に取られないから」とサッドたちに気遣いをみせるシビルだが、そのことには気付かないメレディスは、自分の発言を取り繕うとして失言を重ね、父親のケリー(クレイグ・T・ネルソン)に「もう沢山だ」とまで言われてしまうのだ。

これでメレディスの評価が下がるというのなら仕方ないのだけどねー。もっとも次男のベン(ルーク・ウィルソン)はメレディスにはじめから好意的だったから一方的に怒ることなく、慰め役にまわることになる。

で、結局メレディスとベン、エヴェレットとジュリー、さらにはメレディスのおかげエイミーに初体験の相手という組み合わせが誕生するのだが、さすがに少しやりすぎだし理屈(じゃないけどね)からいっても飲み込みにくい。脚本は、人物の交通整理はよくできているのに肉付けがまずいのではないか。

メレディスは意外にもストーン家に近い面があり、で、それはなるほどと思えるのだが、ジュリーについてはもう少し何かがほしいところだ。最初からストーン家に受け入れられるのは、メレディスの逆バージョンと受け取ればいいのかもしれないのだけどね。

それに比べるとメレディスはエヴェレットに「プロポーズはしていない」とみんなの前で言われてしまうし、本当に散々な役。さすがに可哀想になってくるが、でもだからって共感するまでには至らない。出演者は多いんだけど、つまるところ彼らと違って、寄り添うべき人物が見つからなかったのだ。

末期癌の話も途中ですっ飛んでしまったけど、でもまあそれは最後に次の年のクリスマスシーンがあって、シビルの姿がそこにはなく、という終わり方になっていた。

邦題はメレディスがクリスマスプレゼントにストーン家の人たちに贈った額入りの写真からつけている。エヴェレットの机にあったものだと言っていた。シビルのお腹にエイミー(メレディスはエヴェレットと思っていた)がいた時のもので、この写真は最後にまた出てくる。

 

【メモ】

タイトルデザインは、書体もデザインもそれぞれ違うクリスマスカードで綴られる(雪や船の部分は動きがついている)。

メレディスが「結婚前なのにエヴェレットの部屋には泊まれない」と、エイミーの部屋を借りることになるのだが、エイミーはこれも気に入らない。ここでシビルは、メレディスに「あなたと寝たくないのね」とまで。

辛辣な言葉の数々。「礼儀がどうだろうとあんな女は願い下げ」「エヴェレットは自分のことがわかっていない」さすがにエヴェレットも反論する。「僕へのいやがらせか」「父さんにも失望した」これはだいぶ経ってからのセリフだが「母さんはみんなの人生をやっかいにした」とも(このあと指輪を渡されて「指輪はあなた次第」と)。

エヴェレットは、昔シビルから結婚相手をみつけて来たら祖母の指輪をあげると言われていた。このクリスマス休暇はその目的もあった。

ベンはメレディスに会ってその晩すぐ夢に見る。「君は小さな女の子で雪かきをしている。俺は雪なんだ。君がすくう」というもの。

この指輪をエヴェレットがジュリーにはめて取れなくなる騒動も。

原題:The Family Stone

2005年 103分 アメリカ 日本語字幕:松浦美奈

監督・脚本:トーマス・ベズーチャ 撮影:ジョナサン・ブラウン 編集:ジェフリー・フォード 音楽:マイケル・ジアッキノ

出演:サラ・ジェシカ・パーカー(メレディス・モートン)、ダーモット・マローニー(エヴェレット・ストーン)、ルーク・ウィルソン(ベン・ストーン)、ダイアン・キートン(シビル・ストーン)、クレア・デインズ(ジュリー・モートン)、レイチェル・マクアダムス(エイミー・ストーン)、クレイグ・T・ネルソン(ケリー・ストーン)、タイロン・ジョルダーノ(サッド・ストーン)、ブライアン・ホワイト(パトリック・トーマス)、エリザベス・リーサー(スザンナ・ストーン・トゥルースデイル)、ポール・シュナイダー(ブラッド・スティーヴンソン)、ジェイミー・ケイラー(ジョン・トゥルースデイル)、サヴァンナ・ステーリン(エリザベス・トゥルースデイル)