愛を読むひと

109シネマズ木場シアター4 ★★★★☆

■娘に聞かせる自分の物語

原作を読んだのは五年くらい前だったと思うが、例によって細部はすっかり忘れていて(恨めしい記憶力! しかもその文庫本もどこへ行ったのやら)、でもそれだからマイケルがハンナに出会うところから全部を、まるで自分の回想のように、ああそうだった、と確かめるような感じで観ることができた(すべてが原作と一緒というのではないのだろうが、曖昧な記憶力がちょうどいい作用をしてくれたようだ)。

これはちょっとうれしい経験だった。なにしろ前半は甘美で、舞い上がりながらも年上のハンナに身を任せていればいいのだから……。そうして、その先に起きることも知っているのに、映画にひき込まれていたのだった。

それにしてもハンナは何故自殺してしまったのか。無期懲役の判決で希望はなくても生きていたというのに。坊やからのカセットで、罪と引き換えにしてまでも隠そうとした文盲であることの恥からも解放されていたというのに。坊やの態度があまりにも他人行儀だったからか。生まれた希望が消えそうになった時、人は死を選ぶのだろう。

映画はマイケルの回想でもあるから現代ともリンクしていて、だからそこにはマイケルの主観が強く反映されているはずなのに、心理的な説明には意外と無頓着でさえある。けれど、そのことによって、マイケルの、そしてハンナの気持ちも探らずにはいられなくなるのである。

十五歳の時に二十一歳年上の女を愛せたマイケルは、七十三歳のハンナには惹かれることのない五十二歳になっていたのか。皮肉なことにケイト・ウィンスレットは私の目には三十六歳の時よりも七十三歳のメイクの時の方が美しく見えたのだが……(まあ、これは本当の年齢を知ってるからかもしれないが)。

それはともかく、マイケルのハンナに対する感情はそんな簡単なものではなかったのだろう。マイケルは、ハンナが着せられた罪が真っ当でないことは知っていたが、しかし、彼の学友がハンナを糾弾したように(注1)、程度の差こそあれナチスに加担したハンナを、いくら時間が経過したとしても、喜んで受け入れられはしなかったのではないか(注2)。

話がそれたが、問題はハンナがマイケルの心象についてどこまで考えていたかだが、もしかしたら、そんなにも問題視していなかったような気もする。

罪は法的な意味合いしかないにしても償ったわけだし、少なくともハンナはハンナに罪をなすりつけた元同僚たちのような、相手を貶めるような嘘はついていない(文盲についての嘘はついたが)。また、例えばマイケルの前から姿を消してしまったのも、市電の勤務状態がよく、昇進してしまっては文盲などすぐバレてしまうからなのだが、経歴詐称をしていたことなどは考えられないだろうか。これは考えすぎにしても、ドイツが戦争に対する反省を繰り返して来たことからも、ハンナが普通の人間であれば、罪の意識は十分あったはずである(だからといって、過去の行為を深く反省していたかどうかはまた別の問題ではあるが)。

けれど、ハンナの自殺は、そんなことではなくて、マイケルの手に重ねた自分の老いた手を引っこめなければならなかったことにあったような気がする。女性看守が「昔はきちんとしていたのに、最近はすっかりかまわなくなってしまって」とマイケルに言っていたが、ハンナの部屋はすべてが整然としていた。ここでの映画の説明は、荷物を片付けなかったのはハンナがここを出て行くつもりがなかったこととしていたが、身辺にかまわなくなったハンナにしては、マイケルによってもたらされた文字という世界を知った喜びを表現したような部屋になっていた(注3)。

私としては、身の回りのことをかまわなくなったハンナが、マイケルの来訪を知って、出来る限りのことをしたのではないかと思いたいのだが……。でもだからこの部屋はハンナにとって、もう悲しみ以外の何物でもなくなっていたのではないか。

もうひとつ。これは本がそうだったかどうかの記憶がないのだが、つまりすっかり忘れてしまったのだが、この物語が、マイケルが娘に語る自分に関する話になっていることで、これだけの話を娘に語れるのであれば、マイケルと娘との関係はそうは心配しなくてもいいのではないだろうか。妻とは別れてしまっていて、その影すらほとんど出てこないのは気がかりではあるが(作品としてはこれでいいにしても)。

しかし作品の中でケイト・ウィンスレットがいかに好演したにしても(デヴィッド・クロスもよかったが、十五歳はきついか)、これはやはりドイツ語によって演じて欲しかった。その弊害がいろいろなところで出てしまっているのだ(注4)。語学に疎い私ではあるが、マイケル・バーグという名のドイツ人といわれてもしっくりこない。やはりミヒャエル・ベルグでなくては(ハンナ・シュミッツは同じなのかしら)。

注1:この裁判は目くらましで、たまたま生き残った囚人が本を書いたからスケープゴートにされたに過ぎないと言っていた。また、この学生は君が見ていたあの女(ハンナ)を撃ち殺したい。出来れば全員を撃ち殺したいとも発言している。

この作品ではナチス狩りの正義が、まるで魔女狩りの如くだったことも描かれていて、これも重要なテーマの一つとなっている。ロール教授の法的見解(問題は悪いことかどうかではなく法に合っているかどうか)もそれを踏まえたものになっている。

注2:だから最初の面会も手続きをすませながら、マイケルは姿を消してしまったのだろう。ただ、これについてはあまり自信がない。単純にかつて愛したハンナの老いに、やはり戸惑ったととるべきか。ただし、ハンナの秘密を守ったのはハンナの意志を尊重したマイケルの愛で、だからこそハンナにカセットテープを送り続けたのだろう。

注3:ハンナが文字を覚えていく過程は、涙が出るくらい素晴らしい感動に溢れていた。

注4:注3で触れた場面だが、ハンナが本の「the」の部分に印を付けていったり、もっと前ではマイケルに朗読をせがむ場面では、ハンナはラテン語やギリシャ語を美しいとまで言うのだ。こんな言葉にこだわったセリフがあるのに、ドイツ語を英語にしてしまう神経がわからない。

 

原題:The Reader

2008年 124分 アメリカ、ドイツ 配給:ショウゲート 日本語字幕:戸田奈津子

監督:スティーヴン・ダルドリー 製作:アンソニー・ミンゲラ、シドニー・ポラック、ドナ・ジグリオッティ、レッドモンド・モリス 製作総指揮:ボブ・ワインスタイン、ハーヴェイ・ワインスタイン 原作:ベルンハルト・シュリンク『朗読者』 脚本:デヴィッド・ヘア 撮影:クリス・メンゲス、ロジャー・ディーキンスプロダクションデザイン:ブリジット・ブロシュ 衣装デザイン:アン・ロス 編集:クレア・シンプソン 音楽:ニコ・ムーリー

出演:ケイト・ウィンスレット(ハンナ・シュミッツ)、レイフ・ファインズ(マイケル・バーグ)、デヴィッド・クロス(青年時代のマイケル・バーグ)、レナ・オリン(ローズ・メイザー/イラナの母親、イラナ・メイザー)、アレクサンドラ・マリア・ララ(若き日のイラナ・メイザー)、ブルーノ・ガンツ(ロール教授)、ハンナー・ヘルツシュプルング(ユリア/マイケルの娘)、ズザンネ・ロータ(カーラ/マイケルの母)

アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン

新宿武蔵野館1 ★★☆

■シタオ=イエス?

私立探偵のクラインは、大企業を裸一貫で育てたという男から息子の捜索依頼を受ける。息子の名はシタオ(木村拓哉が演じていることもあり、日本人と思ってしまうが、シタオというのがねぇ? 妙な名前を考えたものである)。シタオはミンダナオにいると言われたクラインはロサンゼルスから現地へ向かうが、すでにシタオは殺されたという。

どうやらシタオは貧しい人たちを救済しようとしていて、寄付を頼んでまわっていたらしい。寄付を断ると何時間も説得し続け、うるさく感じた者によって殺されてしまったようだ。で、このあとは香港へ舞台が移るのだが、この説明はあやふやだ。「状況は死亡を示しているが、俺の勘は、生きている」って言われてもなぁ(香港の母の墓に花があったという情報はあった)。まあ、捜索費用をふんだんにもらっているんで、香港にまで足を伸ばすくらいは屁でもなかったのだろうが。

このクラインは元刑事で、実は二年前に連続猟奇殺人犯を殺してしまい、そのことが深い傷となっていた。この場面は繰り返されるだけでなく、香港で再会した刑事時代の仲間であるメン・ジーにも、クライン自身が退職理由として語っている(精神科に入院していたとも言っていた)。犯人は二十四人も殺した彫刻家(目がなく口が異様に大きく開いた彫刻のおぞましさを見よ!)で、被害者が生きているうちに切断したのだという。そして、二十七ヵ月犯人を追っていたクラインは「ヤツに同化」してしまう。そのことを「汚染」と形容していたが、しかしこれはあくまでクラインの告白であって、内容に比べるとあっさりしすぎている嫌いがある。

クラインが犯人にどう同化したのかがわかりにくいのだ。そこを明確にし、この話だけに絞った作品にしたら面白いものになったと思うのだが、映画は場面こそ執拗に繰り返すものの、これを挿話のひとつにしてしまっている。実は冒頭の衝撃的な場面がまさにクラインが犯人を追い詰めたところなのだが、ここでの眼目も「イエスの苦悶は終末まで続く」と言わせることにあるようなのだ(つまりそういう物語なのだ、と)。

映画は更にもう一人の人物を登場させる。香港マフィアのボス、ス・ドンポで、彼は姿を消した愛人のリリが、シタオと一緒にいるらしいことを知る。ドンポは卑劣で冷酷極まりない男だ。残忍さも連続猟奇殺人犯に負けていない。それでいてリリには異常な執着をみせるが、このことがリリを薬物中毒から救ったシタオへの憎悪となり、彼を殺してしまう。いや、それはリリがシタオを介抱したからか(むろん、これはリリが快復したあとのこと。シタオもリリによって癒されるのだ)。あるいは、シタオを「世界一美しい」と言ったことへの嫉妬か。または、シタオに「あなたのような人が僕を恐れる」と言われたからだろうか。

シタオについては、ミンダナオではそう明らかにされなかったが、香港に場面が移った直後に、血だらけの子供を、シタオは特殊な力で救っている。他人の痛み(傷)を、自分で引き受けるかのようにして。なるほど彼にはそんな力があったのだ。ドンポに手を打ち付けられるのはまるでイエス・キリストで、これはドンポの悪趣味がそうさせたのかも知れないが、さすがに「あなたを赦す。愚かさの故に」とシタオに言われてしまっては、「地獄を見てきた」ドンポも涙を流さずにはいられない。

この場面の直前には、またクラインと連続猟奇殺人犯の場面があって、「至高の肉体の完成には人類の苦痛が必要」だとか「キリストの受難の完成」「ついに苦悶が成就する」などという言葉がばらまかれているから、どうしてもイエスに関連付けたいのだろう。だが、シタオはイエスなのだろうか(イエスのようだがイエスではない男を語りたいがためにしていることともいえるが、本当のことは私にはわからない)。

シタオは確かに他人の痛みを取り除く奇蹟は見せるが、他の力は明らかにはされていない。いや、復活はしているか。しかも何度も。そしてもしかしたら、香港に来たのはミンダナオからの移動復活だった可能性もある。だが、シタオは、寄付を要求したが、説教はしていないようだ。積極的に神の国を説こうとはしていないのだ。すでにイエスによって行われたことを、神がまたするとは思えないので、この比較は意味がないのだが。

最期は、クラインがシタオのところにやってきて、連れ帰るよう父親に依頼されたことを告げ、シタオの手から釘を外し、お終いとなる。この時シタオは金粉で飾られているのだが、これはシタオの信者らしき青年がしたもので、彼に言わせると主(シタオのことか?)ならば、どこにでも行ける(つまり自由に動けるということなのか?)かららしい。

ここから先は、無神論者の妄想なので、読まない方がいいかもしれない。

シタオ(シタオは下男、つまり神に遣わされた下界の人間なのだ)が何度も復活するのは、愚かな人間が過ちを繰り返すからで、案外イエスが復活を繰り返した結果が、今のシタオなのかもしれない。だから彼はイエスと呼ばれなくても、イエスと同じなのだ。神の国を説かず、幾重にも小ぶりになってしまったイエスだが、神はもう人間には、そんな人物(というか神の子だが)を遣わすしかなく、そして、シタオの父=神は、結局はシタオを回収することにしたのだ。クラインという連続猟奇殺人犯に同化した人間を使者に仕立てて……。

クラインを使者にしたのがグロテスク過ぎるような気もするが、人間はもう神に見放されてしまったのだ。I Come with the Lain なら、いつでも彼はやって来そうだが、回収されてしまった今となっては、彼はもう来ないのである。まあ、私には神はいないので、この妄想は根本的に間違ったものなのだが……。

原題:I Come with the Lain

2009年 114分 フランス シネスコサイズ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ 日本語字幕:太田直子

監督・脚本:トラン・アン・ユン 製作:フェルナンド・サリシン、ジャン・カゼ、ジョン・キリク 製作総指揮:サイモン・フォーセット、アルバロ・ロンゴリア、ジュリー・ルブロキー 撮影:ファン・ルイス・アンチア プロダクションデザイン:ブノワ・バルー 衣装デザイン:ジュディ・シュルーズベリー 編集:マリオ・バティステル 音楽:レディオヘッド、グスターボ・サンタオラヤ

出演:ジョシュ・ハートネット(クライン/私立探偵)、イライアス・コティーズ(ハスフォード/連続殺人犯)、イ・ビョンホン(ス・ドンポ/香港マフィアのボス)、木村拓哉(シタオ/失踪者)、トラン・ヌー・イェン・ケー(リリ/ドンポの愛人)、ショーン・ユー[余文樂](メン・ジー/クラインの刑事時代の仲間)、ユウセビオ・ポンセラ

ある公爵夫人の生涯

テアトルタイムズスクエア ★★☆

■世継ぎが出来りゃいいのか

いやはや、途中で何度もため息をついてしまったがな。だって、世継ぎを産む道具だった女の半生、でしょう。こういうのだって一種のトンデモ映画だよね。まあ、映画じゃなくて時代(十八世紀後半の英国)がそうだったのだろうけど。

多分スペンサー家に更なる名声が欲しかった母親の引導のもと、デヴォンジャー公爵に嫁がされたジョージアナだが、男の子(世継ぎ)さえ産んでくれればいいと思っている公爵の願いは叶えられず、産まれてきたのは二人とも女の子だった(男の子は二度流産してしまう)。

ジョージアナが嫁いだときにはすでに公爵には隠し子のシャーロット(家政婦の子のようだ)がいて、お腹の大きい時に「練習にもなるから」(うはは)と、その子の世話も押しつけられてしまう。けれど、シャーロットを我が子として可愛がっても、彼女や産まれてきた子供たち、そしてジョージアナに公爵が関心を寄せることはなかった。

「犬以外には無関心」とジョージアナは言っていたが、むろんそんなことはなく、あろうことか(じゃなくて家政婦に手当たり次第手をつけていたのと同じ感覚で)親友になったエリザベス・フォスターとも寝てしまう。映画だと公爵は政治にも興味がなさそうにしていたから、犬と女、だけらしい。

そして、ことが発覚しても三人の同居生活を崩そうとはしないのだ。ジョージアナとは性的に合わなかったのだろう。だから世継ぎが産まれても結局二人の関係は修復しない(注)。それならば(かどうか)と、自分もかつて心をときめかせたことのあるチャールズ・グレイ(ケンブリッジを出て議員になっていた)と密会し、こちらもエスカレートしていくのだから世話はない(物語としては、彼との間に娘ができたり、子供を取るか愛人を取るかのような話にもなる)。

よくわからないのは、私生児を世継ぎには出来ないと公爵が言っていることで、これは世間体とかではなく公爵自身がそう思っているようなのだ。妻の不倫も、もしや男の子でも宿ってしまったら、と思っての怒り爆発なのだろうか。好きとか嫌いではなく、血統がよければ、だから本当に女は子供を産む道具と考えていたのだろうが(ということはやはり当時の常識=世間体なのか)、映画がジョージアナ目線で描かれているため、公爵の真意は現代人には謎である(当時の人には、ジョージアナの考え方の方が謎だったかも)。

とにかく呆れるような話ばかりなのだが、私も人の子、スキャンダルには耳を欹ててしまうのだな(だからってジョージアナがダイアナ妃の直系の祖先みたいな売りは関心しないし、それには興味もないが。そして映画でもそんなことには触れていない)。で、まあ退屈することはなかったのだけど。

当時の公爵は、その夫人も含めて、庶民にとっては現在のスター並なのが興味深い。ジョージアナは社交的で、政治の場にも顔を出す(利用されたという面もありそうだ)し、ふるまいやファッションも取り沙汰される。たしかにあんな広大な邸宅に住んでいたら、情報や娯楽が少ない時代だから、それだけでスターになってしまうのだろう。母親がジョージアナより公爵の意見を優先するのもむべなるかな、なのだった。

ところでジョージアナの相手のグレイは彼女の幼なじみみたいなものなのだが、最後の説明で、後に首相になったそうな。うーむ。むろんスキャンダラスな部分と政治的手腕とは別物だし、とやかく言うようなことではないんだが……。

注:男の子は、公爵のレイプまがいの行為の末に授かる。産まれると小切手がジョージアナに渡されるのには驚くが、これを見ても本当に結婚は単に男子を産むという契約にすぎなかったんだ、と妙なところで感心してしまった。

原題:The Duchess

2008年 110分 イギリス、フランス、イタリア シネスコサイズ 配給:パラマウント・ ピクチャーズ・ジャパン 日本語字幕:古田由紀子

監督:ソウル・ディブ 製作:ガブリエル・ターナ、マイケル・クーン 製作総指揮:フランソワ・イヴェルネル、キャメロン・マクラッケン、クリスティーン・ランガン、デヴィッド・M・トンプソン、キャロリン・マークス=ブラックウッド、アマンダ・フォアマン 原作:アマンダ・フォアマン『Gergiana:Duchess of Devonshire』 脚本:ソウル・ディブ、ジェフリー・ハッチャー、アナス・トーマス・イェンセン 撮影:ギュラ・パドス プロダクションデザイン:マイケル・カーリン 衣装デザイン:マイケル・オコナー 編集:マサヒロ・ヒラクボ 音楽:レイチェル・ポートマン

出演:キーラ・ナイトレイ(ジョージアナ)、レイフ・ファインズ(デヴォンジャー公爵)、ドミニク・クーパー(チャールズ・グレイ/野党ホイッグ党政治家、ジョージアナの恋人)、ヘイリー・アトウェル(レディ・エリザベス・フォスター/ジョージアナの親友、公爵の愛人)、シャーロット・ランプリング(レディ・スペンサー/ジョージアナの母)、サイモン・マクバーニー(チャールズ・ジェームズ・フォックス/野党ホイッグ党党首)、エイダン・マクアードル(リチャード・シェリダン)、ジョン・シュラプネル、アリスター・ペトリ、パトリック・ゴッドフリー、マイケル・メドウィン、ジャスティン・エドワーズ、リチャード・マッケーブ

アンダーワールド ビギンズ

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★☆

■ぐちゃぐちゃ混血異人種戦争

今回監督がレン・ワイズマンからパトリック・タトポロスに変わっている。が、そもそもタトポロスは前二作の関係者であるし、ワイズマンも製作には名を連ねていて、だからかあの独特の雰囲気はちゃんと受け継がれているから、アンダーワールドファンなら十分楽しめるだろう。ただ、私のような中途半端なファンには、今更という感じがしなくもなかった。

時代が大幅に遡ったことで、当然使われる武器も、銃器から弓や剣などの世界に逆戻りすることになった。射抜く太い矢のすさまじさなど、映像の力は相変わらずなのだが、古めかしいヴァンパイアものがスタイリッシュにみえたのは、なんのことはないあの銃撃戦にあったような気がしてきた。

また、込み入ったヴァンパイアとライカンという部分の説明を外すと、単純な奴隷の反乱を扱った史劇のイメージとそう変わらなくなってしまうことにも気づく。まあ、こんなこと言い出したらほとんどのものが従来の物語と同じになってしまうのだろうが。

時間軸でいけばこれが最初の話になるわけで、三部作が順を追っての公開だったなら、もう少しは興味が持てただろうか。前二作を見直してちゃんと予習しておけばいいのだが(なにしろ忘れっぽいんで)、DVDを観る習慣も余裕もないので、巻頭のナレーションによる説明は、むろん理解を助けるために入れてくれているのだろうが、駆け足過ぎて私には少々きつかった。

ヴァンパイア(吸血鬼族)とライカン(狼男族)が同じ人間から生まれたというのはむろん覚えていたが、ルシアンがそれまでの狼男族の突然変異で、ライカンとしては彼が始祖。ありゃ、これはウィリアムじゃなかったのね。ウィリアムは狼男の始祖であって、狼男の進化形がライカン、か。やっぱり混乱しているなぁ。

ルシアンが人間族を咬むとライカンになる。それをビクターは奴隷としていた。奴隷製造器としてのルシアンは、ビクターにとって大いに利用価値があり優遇されていたが、他のヴァンパイアたちにとっては同胞ではなく、やっかみの対象にすぎない。そしてそんなルシアンは、ビクターの娘ソーニャと愛し合う仲になっていた。もちろんこのことはビクターたちにはあかせるはずもないことだ。だが、ビクター側近のタニスに勘付かれ(彼はこのことを議席を得る為の取引材料にする)、結局はビクターの知ることとなって、悲劇へと繋がっていく。

ルシアンはソーニャを守るためにライカンに変身する。力を得るためだが、それには首輪を外すという禁を犯す必要があり、ビクターに背いたルシアンは奴隷に戻らされてしまう。ソーニャを守るためには平気でライカンを殺してしまうが、抑圧されたものとしてのライカンには同情もする。ライカンたちもルシアンにつくられたからか、ライカンとなったルシアンの声は聞こうとする(ライカンを殺したことと矛盾するような気もするが)。

運命とはいえ、ルシアンという人間(じゃなくてライカンか)の置かれたこの微妙な立場には、思いを馳せずにはいられない。

しかし映画は、娯楽作であるためのスピード感を重視したせいか、複雑な立ち位置にいるルシアンというせっかくの題材を生かしきれずに、ライカンの反乱劇へと進んでしまう。ソーニャとの恋も、同じ理由で始まり部分を入れていないのだろうか。全部を描けばいいというものではないが、結局はライカンとして生きるしかないルシアンの苦悩が弱まってしまったような気がしてならない。

それにしてもこの物語は、吸血という血の混じりが新たな人種を生み、さらにそれが混じって複雑な関係となり、無間地獄のような状況を作り出している。それがヴァンパイアとライカンとのことなので(前作では人間マイケルがヴァンパイアとライカンの血を得て変身という展開もあったが)、鼻で笑って観ているわけだが、これはそのまま、我々のいる今の世界ではないか。

セリーンがビクターの娘に似ていることが反映されて、ソーニャはケイト・ベッキンセイル似(そうか?)のローナ・ミトラになったらしいが、魅力はもうひとつ。マイケル・シーンにもそんなには感心できなかった。セリーン似と禁断の恋とで「過去に、もう一人の私がいた」というのがコピーになっているが、「いま明かされる女処刑人の謎」にはなっていない。というか謎はすでに解けちゃってるんでは?

原題:Underworld:Rise of the Lycans

2009年 90分 アメリカ シネスコサイズ 配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント R-15 日本語字幕:藤澤睦実

監督:パトリック・タトポロス 製作:トム・ローゼンバーグ、ゲイリー・ルチェッシ、レン・ワイズマン、リチャード・ライト 製作総指揮:スキップ・ウィリアムソン、ヘンリー・ウィンタースターン、ジェームズ・マクウェイド、エリック・リード、ベス・デパティー キャラクター創造:ケヴィン・グレイヴォー、レン・ワイズマン、ダニー・マクブライド 原案:レン・ワイズマン、ロバート・オー、ダニー・マクブライド 脚本:ダニー・マクブライド、ダーク・ブラックマン、ハワード・マケイン 撮影:ロス・エメリー プロダクションデザイン:ダン・ヘナ 衣装デザイン:ジェーン・ホランド 編集:ピーター・アムンドソン 音楽:ポール・ハスリンジャー

出演:マイケル・シーン(ルシアン/ライカンの始祖)、ビル・ナイ(ビクター/ヴァンパイア族領主)、ローナ・ミトラ(ソーニャ/ビクターの娘)、スティーヴン・マッキントッシュ(タニス/ビクターの副官)、ケヴィン・グレイヴォー(レイズ/奴隷、ルシアンの右腕)、シェーン・ブローリー(クレイヴン/ビクターの後継者)、デヴィッド・アシュトン(コロマン/議員)、エリザベス・ホーソン(オルソヴァ/議員)、ケイト・ベッキンセイル(セリーン)

旭山動物園物語 ペンギンが空を飛ぶ

楽天地シネマズ錦糸町-1 ★★★

■形にすると見えてくる

今だったら日本一有名かもしれない旭山動物園も、存続の危機が論議されたことがあったらしい。ありふれた地方動物園のひとつだったことは想像が付くが(といったら関係者は怒るだろうが)、毎年赤字を垂れ流す旭川市のお荷物で、エキノコックス症による閉園騒ぎや、ジェットコースターに頼ろうとした時期まであったという(最後の方で、動物園衰退の象徴だったジェットコースターは解体されてしまったと短く紹介されていた。賑わっている場面が入っていたから「衰退の象徴」というのはあんまりな気がするが)。

限られた予算でできることはあまりなく、冬期開園や夜間開園に、飼育係が解説者になるなどの地道な努力を続けるしかなかったようだ。新市長の誕生をチャンスと捉えた園長が新市長の説得に成功し、億という予算を回してもらったことで旭山動物園は変貌を遂げるのだが、予算獲得に比べたら見過ごしてしまいそうな、園長と飼育係たちが夜を徹して夢を語り合った日エピソードは、それに優るものがある。

たまたま飼育係の中に絵を描くのがうまい男(のちに絵本作家となる)がいたこともあって、みんなの語る夢をそれぞれ絵にし、それが職場に貼られるのだが、こんなふうに夢を、むろん絵に限らないが、具体的な形にしていくのは、とても大切なことだと気づかされるのである。形にしてみると、見えてくることって沢山あるものね。夢を夢のままにしておいても、なかなか実を結んでくれないんじゃないか。

動物の生態を間近に見せる動物園や体験型の動物園の試みは、旭山動物園の前にもいくつかあって、園長は日本各地を回ってそれをビデオに収め新市長に提言するのだが、これも形にして見せるということにつながる。最初は低い金額で釣っておいて、新市長がその気になったのをみて本当のことを言ったり(「でないと話を聞いてくれないでしょ」と)、園長はちゃっかりしたところをみせるのだが、立派なプレゼン術と言い換えるべきか。ま、結局は予算を獲得できるかどうかだったという、いじましい話にもなりかねないのだけど、対象が動物園ともなればいたしかたのない話で……。

映画は、現在の旭山動物園の紹介は最小限にとどめ(これは来園してもらった方がいいしね)、成功物語に焦点を当てている。ただし、数々あるエピソードは、実話がもとでも時間軸などは大幅にいじって適当に都合よくまとめてしまっているようだ。まあ、そのくらいしないと映画にはならなかったのかもしれないのだが。

とはいえ、人以外みんな好きという新入りの、過去のいじめの場面まで入れておいて、でも途中ではほぼ忘れたかのようで、最後になって園長が母親の手紙に触れるという演出だけは、あまり好きになれなかった。

もっとも彼の話から始めてはいても、主人公は彼だけではなく、飼育係の面々に園長だから、一人の人間に関わってもいられなかったのだろうが。飼育係同士の意地の張り合いもあれば、ゴリラの衰弱死(これもある飼育係が担当をはずれたことが原因だったようだ)やチンパンジーの妊娠中毒など、動物園をとりまく外的な問題以外にも、目の前の問題は当然いくつもあって、その配置はいい案配になっていたように思う。

マキノ雅彦は『次郎長三国志』は×だったが、『寝ずの番』とこれはまずまず。監督業も板に付いてきたのでこんな作品にも手をだしたのかもしれないが、わざわざ監督になったのだから、もっと自分の嗜好や主張のはっきりした作品に挑んでもらいたい。それと何にでも長門裕之を引っ張り出すのはやめてほしい。今回の飼育係は年寄りすぎだよね。

  

2009年 112分 ビスタサイズ 配給:角川映画

監督:マキノ雅彦 製作:井上泰一 プロデューサー:坂本忠久 プロデュース:鍋島壽夫 エグゼクティブプロデューサー:土川勉 製作総指揮:角川歴彦 原案:小菅正夫 脚本:輿水泰弘 撮影監督:加藤雄大 撮影:今津秀邦(動物撮影) 美術:小澤秀高 編集:田中愼二 音楽:宇崎竜童、中西長谷雄 音楽プロデューサー:長崎行男 主題歌:谷村新司『夢になりたい』 照明:山川英明 製作統括:小畑良治、阿佐美弘恭 録音:阿部茂 監督補:石川久

出演:西田敏行(滝沢寛治/園長)、中村靖日(吉田強/獣医、飼育係)、前田愛(小川真琴/獣医、飼育係)、岸部一徳(柳原清之輔/飼育係)、柄本明(臼井逸郎/飼育係のち絵本作家)、長門裕之(韮崎啓介/飼育係)、六平直政(三谷照男/飼育係)、塩見三省(砥部源太/飼育係)、堀内敬子(池内早苗/動物園管理係)、平泉成(上杉甚兵衛/市長)、笹野高史(磯貝三郎/商工部長)、梶原善(三田村篤哉/市議会議員)、吹越満(動物愛護団体のリーダー)、萬田久子(平賀鳩子/新市長)、麿赤兒、春田純一、木下ほうか、でんでん、石田太郎、とよた真帆、天海祐希

アコークロー

シアターN渋谷-2 ★★☆

■許すということ

鈴木美咲(田丸麻紀)は、東京から沖縄で一緒に生活するために村松浩市(忍成修吾)の元へやってくる。浩市ももとは東京人。4年前から沖縄で働いていたが、遊びにきていた美咲を海岸でナンパして、願ってもない状況になったらしい。浩市の友達の渡嘉敷仁成(尚玄)とその子の仁太に喜屋武秀人(結城貴史)と彼のおばば(吉田妙子)という仲間に囲まれて、美咲の沖縄での新しい生活がはじまる。

まず重要なのは、美咲には東京から逃げ出したい事情があったということである。実はベビーシッター中の姉(清水美砂)の子を、事故で亡くしてしまったのだ。この事故は発端が姉からのケータイへの連絡であり、偶然が重なったものと「姉もわかっているがでも許せないでいる」と美咲が認識しているもので、この問題が一筋縄ではいかないことは想像に難くない。

が、この先に起きるキジムナー(沖縄の伝説の妖怪)奇譚との関わりが(もちろんそれは精神的なものであっていいのだが)いまひとつはっきりしないため、見せる部分での怪奇映画としてはある程度成功していながら、やはりそこまでの映画にしかなっていない。つまり、この理屈付けさえ明確にできたならば、十分傑作たり得たのではないか。

仁成の前妻松田早苗(菜葉菜)が急に現れ、仁太に接触したことで仁成は怒りをあらわにする。早苗を殴ってしまうのだから、根は深そうだ。「話してもわかる相手ではない」らしい。そして、いったんは早苗を追い返すのだが、その言葉通りに同じことが繰り返される。

ただ早苗は、この直前に猫の死骸が木に吊されたところ(沖縄では昔よくあった風習と説明されていた)で、キジムナーに取り憑かれているのだ。早苗が鎌を持っていた(キジムナーのせいか)ことで予想外の惨劇となる。もみ合っていて、まず浩市が早苗を刺し、それを抜いた早苗が仁成に襲いかかるのを制しようとして美咲がとどめを刺す形になってしまう。

事件が発覚したらこの村では生きていけないと、浩市と仁成は警察に届けることを拒み(男が3人も傷を負っているのだから正当防衛を主張するのは簡単そうなのだが)、浩市と美咲とで早苗の死体を森の中にある沼に運び、沈めることになる。

話が前後するが、仁成は早苗をビニール袋に包んでいるところを、家に帰ってきた仁太に見られてしまう。目があった仁太は驚いて逃げるが、早苗に鎌で足に傷を付けられている仁成が追いつけないでいるうちに、仁太はサトウキビ畑でハブに噛まれる。仁成は車で病院に向かうが、右側から合流してきた車と激しく接触する(単純ながらこの場面のデキはいい)。

秀人は早苗の死そのものを疑い、茫然としたまま家に帰っていくが、姿を消してしまう。浩市と美咲が秀人を捜してまたあの沼に行くと、「これをあげるから、でもとても痛くて取れないんだ」と言いながら自分の目玉をえぐり取ろうとしている秀人を見つける。

魚の目玉がキジムナーの好物だというのは、おばあが読み聞かせてくれた絵本に、また、仁成の同級生で元ユタだったことから紹介された作家の比屋定影美(エリカ)に、浩市と美咲がキジムナーの話を聞きに行き、比屋定からキジムナーは裏切った人間の目玉をくり抜くのだ、と言われていたことをなぞっているから非常に不気味だ。

仁成は仁太が入院したことすらわからなくなっていて(自分足の傷さえわかっていないようだ)首を吊って死んでしまう。早苗の幻影を見るようになった浩市は、仕事も手に付かない状態になっている。そして、美咲にも早苗の姿が見える時がやってきて、2人は比屋定の助けを求める。

美咲にも早苗が見えるようになる前にある、美咲カが外から浩市の所に帰ってくる3度同じ内容を別のパターンで繰り返す場面は、意味はわからないが怖い。

最後の早苗と比屋定の対決場面は、比屋定のお祓いによって早苗の口から出てきた異物(これがキジムナーなんだろう)を、比屋定がまた食べてしまうというグロな展開となる。ここは映画として面白いところである。ただ逆にここにこだわったことで、作品としてはよくわからないものになってしまった。というのも、キジムナーが何故早苗に取り憑いたのかが、まったく説明されていないからだ(説明不可という立場をとったのかもしれないが)。

かつて(仁太が2歳の時)お腹の子を自分の不注意で死なせてしまったという早苗に、気持ちのやり場のないことはわかるが、だからといって彼女の行動を肯定できるかといえばもちろんそんなことはなく、浩市が自分たちの正当性と早苗を非難したことの方が正論に決まっているのである。もちろんそこまでは、だが。これは比屋定も言っていることだ。

とにかく細かいことを気にしだすと何が何だかわからなくなってくる。ここはやはりキジムナーから離れて、美咲の問題に限定した方がよかったのではないか。そうすれば美咲がどうしてキジムナーに興味を持ったのかということだって曖昧にせずにすみ、早苗に自分の犯した罪(姉の子を殺してしまった)を重ね合わせる美咲の心境を中心にした映画が出来たのではないか。

もっともそうしたからといって、それですべてが解決するかというと全然そんなことはない。美咲のもう前しか見ないという決意(これは病院で仁太の経過を仁成に聞いたあとのこと)にしても、美咲に途中から早苗の亡霊が見えるようになる理由も、やはりすっきりしないままだろうから。

ただ付け加えるなら、早苗と美咲の心の交流がまったくないわけではない。浩市はやはり自分の目玉を刺すことになるが、美咲が自分を刺そうとしたときには、早苗はその包丁を自分に向け、自分を刺すのだ。これは美咲が自分のことをわかってくれたと思ったからだろう。

早苗の遺体が発見されたのは美咲たちの犯行から1ヶ月も経ってで、その日が死亡推定時刻になっているので、警察も困っているという比屋定の報告を、美咲は拘置所の面会室できく。ここでもその理由をキジムナーと結びつけているのだが……。

この刑務所に美咲を姉が訪ねて来ていることには、やはり胸をなで下ろす。姉との関係が戻ることはないにしても(もう至近距離では生活しない方がいいだろうから)、2人は了解だけは取り合っておくべきと思うから。

許されることのないものは存在する。というか、許すか許さないかという認識は他者との関係性で発生するが、その関係性は閉じてしまっても存在する。この場合許す(許さない)側と許される(許されない)側は同一となって、この部分で納得出来なければ、いくら他者から許されても救われないはずだ(もっとも自分の正当性のみしか主張しないまったく無反省な人間もいるようだが、この映画ではそういう人間は登場しない)。

少し映画とは離れた感想になってしまった。

実はこの映画については「決定稿」と印刷された台本が売られていて、それを読んだのだが、とても決定稿とは思えないほど完成した映画とは違っていた。もちろん、それは悪いことではないだろう。特に前半は、台本よりずっと整理されたいいものになっている。

が、後半になると手を入れたところが必ずしもよくなっているとは思えないのだ。映画は1度観ただけだし、この違う部分が多すぎる台本を読んでしまったことで、私が多少混乱していることもあるが、ここまで手をいれたのは監督も作りながらまだ迷っていたのではないか、と思ってしまうのだ。

たとえば、いままでに書きそびれたことでキジムナーについてもう1度だけ述べると、美咲は「森へ逃げて2度と現れないって、なんかすごく消極的。キジムナーがかわいそう」と絵本のキジムナーに同情しているのだが、映画に出てくるキジムナーは、とても人間の思慮の及ぶ存在ではなかった。また比屋定はキジムナーの存在より、キジムナーに対する人間の想いに興味があると発言していたのに、対決場面ではその存在が当然かのように振る舞っていて、ちょっと面食らってしまったのである。

さらに決定稿だと、最後のクライマックスでは美咲も早苗(キジムナー)に目玉を差し出している(これは比屋定が早苗が吐き出したものを飲み込んだあとなのだ)。そして早苗のはやく楽にしてという言葉に、美咲が早苗を刺すのだ。

ね。ちょっと混乱するでしょ。私も書いててますますわからなくなってきた。

最後は美咲の姉が美咲に面会に行く場面ではなく、片腕を失った仁太が友達にからかわれているところに比屋定が居合わせて、仁太に片腕を亡くしたのならもう片方の腕で生きろと言う。現実を見据えた阿ることのない決意のある場面だが、うーん、やっぱりキジムナーにこだわりすぎて、途中の説明を誤ったよね。飛行機雲がくっきりの、どこまでも明るい沖縄の空の下にある程度恐怖を提示できていたのに、ちょっともったいなかったような。

 

【メモ】

「アコークロー」は、昼と夜の間の黄昏時を意味する沖縄の方言だという。沖縄の言葉の多くは古い時代に本土方言から変化してできたものだと金田一春彦の『日本語』で教えられたが、とするとこれは「明るくて、暗い」なのか。キジムナーもキは木で、ジムナーの方は人を化かす狢がムジナーになって、ムジナーがジムナーと入れ替わることはよくあるから木の狢という意味ではないかと。ま、これはまったくの推論。「木のもの」が語源という説が多いようだ。

偶然の重なった事故は、姉からケータイに連絡が入ったことで、美咲はちょうどその時飛び出してきた自転車にハンドルをぶつけられてベビーカーの手を離してしまい、そこにトラックが突っ込んできて……と映像で説明されていた。

警察に届けない理由を浩市は美咲に次のように説明する。手遅れだし、母親が死んで父親はブタ箱行きでは仁太が救われない、というものだが、お前の姉さんはこの事件を聞いてどう思うというセリフは、そうすんなりとは入ってこなかった。

美咲はイチャリバチョーデー(出会えば兄弟)という方言をあまり好きになれずにいたが、拘置所で比屋定からこの言葉を聞くことになる。

2007年 97分 ビスタサイズ PG-12 配給:彩プロ

監督・脚本:岸本司 製作:高澤吉紀、小黒司 プロデューサー:津島研郎、有吉司 撮影:大城学 特殊メイク:藤平純 美術:濱田智行 編集:森田祥悟 主題歌:ji ma ma『アカリ』 イラスト:三留まゆみ 照明:金城基史 録音:岸本充 助監督:石田玲奈

出演:田丸麻紀(鈴木美咲)、忍成修吾(村松浩市)、エリカ(比屋定影美)、尚玄(渡嘉敷仁成)、菜葉菜(松田早苗)、手島優(亜子)、結城貴史(喜屋武秀人)、村田雄浩(藤木)、清水美砂(美咲の姉)、山城智二(山城)、吉田妙子(喜屋武シズ)

あかね空

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★☆

■本当に永吉と正吉は瓜二つだったのね

京都で修行を積んだ豆腐職人の永吉(内野聖陽)は江戸の深川で「京や」という店を開くが、京風の柔らかな豆腐が売れたのは開店の日だけだった。永吉がやって来たその日から彼のことが気になる同じ長屋のおふみ(中谷美紀)は、落ち込む永吉を励ます。そしてもう1人、永吉の豆腐を毎日買い続けてくれる女がいた。

女は永吉とは同業者である相州屋清兵衛(石橋蓮司)の女房おしの(岩下志麻)だった。相州屋夫婦は子供の正吉が20年前に永代橋で迷子になったきりで、おしのは永吉に成長した正吉の姿を重ねていたのだ。ちょっと苦しい説明ではあるが、ま、それだけおしのの正吉に対する思いが強かったということか。

毎日作った豆腐を無駄にしてしまうのはもったいないと永代寺に喜捨することを考え(もちろん宣伝の意味もそこにはあった)、永代寺に豆腐を納めている相州屋に永吉とおふみは許しを請いに出かける。勝手にしろと突き放す清兵衛だったが、後にこれはおしのの願いと弁解しながらも、永代寺に京やの豆腐を買ってくれるようたのみにいく。清兵衛は彼なりに正吉のことに責任を感じていて、死ぬ間際にはおしのにそのことを詫びていた。

こうして京やの基礎が出来、永吉とおふみの祝言となる(泉谷しげるがいい感じだ)。京やのことをと面白く思わない平田屋(中村梅雀)という同業者が「今のうちに始末しておきたい」と、担ぎ売りの嘉次郎(勝村政信)にもちかけるが、気持ちのいい彼は京やの豆腐の味を評価するし、悪意のある行動にはならない。また京やの実力もさっぱりだったので大事には至らずにすんだようだ。他に出てくる人も、みな人情に厚い人たちばかりといった感じで、前半は締めくくられる。

後半はそこから一気に18年後の、浅間山の噴火に江戸中が大騒ぎしている不穏な空気の漂う中に飛ぶ。永吉とおふみには長男栄太郎(武田航平)、次男悟郎(細田よしひこ)、長女おきみ(柳生みゆ)という3人の子がいるし、店は相州屋があった家作を引き継いで(永代寺から借りて)繁盛していたが、外回りを任されていた栄太郎が、寄合の集まりで顔見知りとなった平田屋の罠にはまって、一家の絆は崩れていく。

小説がどうなっているのかは知らないし、平田屋の動向については語り損ねた感じもするが、この時間のくくり方は場面転換としてはうまいものだ。

おふみが賭場に出入りするようになった栄太郎を庇うのは、彼に火傷をおわせてしまった過去も一因になっているようだが、このことで夫婦仲に亀裂が入るし(中谷美紀の怒りっぷりはすごかった)、運悪く永吉は侍の乗る馬に撥ねられて命を落としてしまう。

栄太郎の賭場の借金を肩代わりした平田屋は、栄太郎が清算したはずの証文を手に、賭場を仕切っている数珠持ちの傳蔵親分(内野聖陽)を伴って、ちょうど焼香に帰った栄太郎が弟妹とで揉めている京やに乗り込んでくる。

傳蔵の仕組んだ最後のオチで京やは救われるのだが、これが少々もの足らないのはともかく、傳蔵に平田屋を裏切らせるに至った部分が、描かれていないことはないがあまりに弱い。が、内野聖陽による2役は、おしのが永吉を正吉と思い込んだことを印象付けるなかなかのアイディアだ(傳蔵は正吉だったことを再三匂わせているわけだから)。

平野屋が悪者なのは間違いないが、浅間山の噴火の影響で江戸の豆腐屋が困っているのに京やだけが値上げしないというところでは、永吉の「値上げをしないのが信用」という言葉が単調なものにしか聞こえない。寄合の席で栄太郎が居心地が悪くなるわけだ。もっともその後の栄太郎の行動は、甘ったれた弁解の余地のないものでしかないのだが。

栄太郎が賭場で金を使い込み、その取り立てに傳蔵がきて、おふみが33両を返し(臍繰りか)、さらに金を持ち出そうとした栄太郎にそれを与えている(これで栄太郎は勘当となる)し、永代寺から借りていた家作を買わないかという話にも応じようとしていた。そんなに金を貯め込めるのだったら、値上げをしないことより、それ以前にもっと安く売るのが本筋ではないかと思ってしまう。

豆腐を作る過程をきちんと映像にしているのはいいが、CGは意識してなのかもしれないが全体に明るすぎだし、「明けない夜がないように、つらいことや悲しいことも、あかね色の朝が包んでくれる」という広告のコピーに結びつけた最後のあかね空も取って付けたみたいだった。

そしてそれ以上に落ち着かなかったのが人物描写におけるズーミングで、どれも少し急ぎすぎなのだ。カメラワークはそうは気にしていないが、時たま(今回のように)相性の悪いものに出くわすと、それだけで集中できなくなることがあって、重要さを認識させられる。

 

【メモ】

気丈なおふみの口癖は「平気、平気やで」。

「上方から来たのは下りもんといってありがたがられる」のだと、平田屋は京やの店開きを警戒する。

傳蔵の手首のあざ。

2006年 120分 ビスタサイズ 配給:角川ヘラルド映画
 
監督:浜本正機 エグゼクティブプロデューサー:稲葉正治 プロデューサー:永井正夫、石黒美和 企画:篠田正浩、長岡彰夫、堀田尚平 原作:山本一力『あかね空』 脚本:浜本正機、篠田正浩 撮影:鈴木達夫 美術:川口直次 編集:川島章正 音楽:岩代太郎 照明:水野研一 整音:瀬川徹夫 録音:藤丸和徳
 
出演:内野聖陽(永吉、傳蔵)、中谷美紀(おふみ)、石橋蓮司(清兵衛)、岩下志麻(おしの)、中村梅雀(平田屋)、勝村政信(嘉次郎)、泉谷しげる(源治/おふみの父)、角替和枝(おみつ/おふみの母)、武田航平(栄太郎)、細田よしひこ(悟郎)、 柳生みゆ(おきみ)、小池榮(西周/永代寺住職)、六平直政(卯之吉)、村杉蝉之介(役者)、吉満涼太(着流し)、伊藤高史(スリ)、鴻上尚史(常陸屋)、津村鷹志(上州屋)、石井愃一(武蔵屋)、東貴博〈Take2〉(瓦版屋)

蒼き狼 地果て海尽きるまで

新宿ミラノ3 ★★

■内容以前で、どうにも恥ずかしい

どこの国の話でも英語で処理してしまうアメリカ映画の臆面のなさには辟易していたが、まさか同じことを日本の映画界がしでかすとは(大映が制作した『釈迦』という映画が大昔にあったが観ていない)。しかもいくら同じモンゴロイドとはいえ、日本人が主要キャストを独占していては、比較するのは無理ながら『SAYURI』の方がずっとマシではないか。韓国人のAraはいるが、モンゴル人ではないしね。といって何人かをモンゴル人にしていたら、かえっておかしなものが出来てしまっていただろう。

チンギス・ハーンには高木彬光の『成吉思汗の秘密』以前から成吉思汗=義経説というのがあって、日本人には馴染みが深いということも選ばれた理由の1つと思われるが、そうはいっても21世紀にもなって日本人による日本人のチンギス・ハーンというのは恥ずかしすぎる。

角川春樹は1990年にも『天と地と』で、似たようなことをしているが、あれはロケ地はカナダながら、あくまで日本の話だからその点では問題はなかった。ただ人海戦術映画という点では同じだ。『天と地と』は大味な映画だったが、人間の趣向というのはあまり変わらないようで、昔も今も大作好みなのだろう。好みの差は差し引いても、30億の制作費をかけるべき映画になっていたとは思えない。

確かにスケール感はアップしそれなりの臨場感は出てはいるが、戦闘場面全部が似たような印象では同じものを引用しているようで、ありがたみが少なくなってしまう。それにこういうのは、敵との位置関係、戦力、戦術などがわからないと盛り上がらないと思うのだが。

多数のエキストラを背景にしたチンギス・ハーンとなるテムジンの即位式に至っては、退屈なこともあるが、エキストラがモンゴル人だということを意識してしまうと、これはただただ恥ずかしいとしか言いようがない。

それには目をつぶっても、物語が全体に説明口調なのはいただけない。テムジン(反町隆史)が部族を統一し、金に勝ち、大帝国を築きあげていく流れはヘタな説明でもわかる。が、そこに至る戦いにどんな意味があったのかという部分が、ナレーションに頼りすぎていることもあって、いかにもお座なりな感じがしてしまうのだ。

少年時代にテムジンとかわした、生涯にわたり裏切らないという按達(あんだ)の誓いを、信頼の証ではなく裏切りを恐れる不信の証で、子供の遊びにすぎないと言い放つジャムカ(平山祐介)との宿命の戦いや、2人を巻き込んだ、モンゴルの大部族の長でテムジンの父イェスゲイ(保阪尚希)とは按達のトオリル・カン(松方弘樹)との関係もしかり。

ただ、母のホエルン(若村麻由美)だけでなく妻のボルテ(菊川怜)までもが略奪され、共に父親のわからない子を出産し、それが母の場合はテムジンであり、妻の場合はテムジンがよそ者という意味の名を付けたジュチ(松山ケンイチ)という話は巧妙だ。悲劇の主人公となるジュチの悲しみがかつてのテムジンの悩みに重なるし、そこには女性の視点も入っているからだ。

もっともこれはクラン(Ara)という、やはりはじめは敵ながらテムジンに寵愛される女兵士が登場することで、ボルテは消えたようになってしまうから、女性の視点など忘れてしまったかのようだ。私もクランにはクラクラしてしまったから、テムジンと一緒で、女性の気持ちなどいい加減にしか考えていないのかも(クランにとってはそうではないにしても)。余談はともかく、そういう部分をこういう大作で描くのはやっぱり難しいんでしょうね。

  

2006年 136分 シネスコサイズ 

監督:澤井信一郎 製作:千葉龍平 プロデューサー:岡田裕、徳留義明、大杉明彦、海老原実 製作総指揮:角川春樹 原作:森村誠一『地果て海尽きるまで 小説チンギス汗』 脚本:中島丈博、丸山昇一 撮影:前田米造 特撮監督:佛田洋 美術監督:中澤克己 編集:川島章正 音楽:岩代太郎 主題歌:mink『Innicent Blue~地果て海尽きるまで~』  照明:矢部一男 第2班監督:原田徹 録音:紅谷愃一

出演:反町隆史(テムジン/チンギス・ハーン)、菊川怜(ボルテ)、若村麻由美(ホエルン)、Ara(クラン)、袴田吉彦(ハサル)、松山ケンイチ(ジュチ)、野村祐人(ボオルチュ)、 平山祐介(ジャムカ)、池松壮亮(少年時代のテムジン)、保阪尚希(イェスゲイ・バートル)、苅谷俊介(チャラカ)、今井和子(コアクチン)、唐渡亮(イェケ・チレド)、神保悟志(タルグタイ)、永澤俊矢(ダヤン)、榎木孝明(デイ・セチェン)、津川雅彦(ケクチュ)、 松方弘樹(トオリル・カン)

愛の流刑地

銀座シネパトス2 ★★

■裁判の結果をありがたがるとは

作家の村尾菊治(豊川悦司)は、人妻の入江冬香(寺島しのぶ)を情事の果てに扼殺したと警察に電話する。逮捕から裁判へと進むが、村尾は扼殺は冬香にたのまれた上でのことで、愛しているからこその行為だったという。

冬香には3人の子供がいるのだから無責任には違いないが、たとえそうだとしても非難するには当たらないだろう(それに、嘘の生活を続けても責任のあることとはいえないし)。2人のことは2人で決着をつけるしかないのだから。それでも子供の存在は、冬香を死にたくさせたかもしれないとは思う。幸せなままでいたいための死なのだから。

しかし問題なのは、村尾が冬香の真意を理解しないうちに、懇願されるまま首に手をかけ殺してしまったことだ。

村尾に会って生きている感じがすると言っていた冬香が死にたいと口に出すようになったのは、先に書いたことでほぼ言い尽くしているだろう。が、村尾は、冬香に会うまでが死んでいたのであって、冬香に会ってからは創作意欲も出てきて(昔は売れっ子だったが、最近は何も書けずにいる作家という設定)小説を書き上げたいし、君と一緒に生きたいと言っていたのにだ。

そういう意味では冬香は、子供(小説)が出来るまでは待っていたともいえるが、とにかく殺人を犯した当の村尾がやってしまった後で困惑しているのでは、観ている方はさっぱりである。

映画は裁判を通しながら、村尾と冬香の出会い、密会場面をはさんで進行していく。裁判の争点を、2人の愛の軌跡と重なり合わせるように明かしていこうというのだろう。構成はわかりやすくとも、そもそも裁判には馴染まない内面の問題を扱っているのだから、おかしなことになる。

村尾もそのことは自覚していて、「刑はどんなに重くなってもいいから彼女をもうこれ以上人前に晒したくない」「愛は法律なんかでは裁けない」「あなたは死にたくなるほど人を愛したことがあるんですか。この裁判は何もかも違っている」というようなことを何度も発言しているのだが、だったら何故そんな裁判に彼は付き合うのか。裁判という手続きからは逃れられないというのがテーマならともかく、村尾は、最後には裁判結果の懲役8年を、冬香から与えられた刑としてありがたがっているのだから、わけがわからない。

私の理解を超えているのでうまく説明できないのだが、村尾は自分が、冬香から「選ばれた殺人者」だったことに気づく。そして、だから冬香のためにどんな処罰も受けたいのだとも言う。また、冬香からも、自分が死んだ後に村尾が読むことを想定した手紙(村尾を悪い人と言いながら、舞い上がった自分には罪があるのであなたに殺してもらうというような内容)が届いて、村尾は自分の認識が間違っていないことを確証して終わるのだが、この結論に至るまでのぐだぐださにはうんざりするばかりだ。

村尾と冬香の愛の形を補足するために、女検事の織部美雪(長谷川京子)も重要な役を与えられている。彼女は自分の検事副部長(佐々木蔵之介)との恋愛関係が、愛より野心が優先されたものであることから(これについては自分でも納得していたようだ)、冬香の生き方に次第に共感するようになるのだが、長谷川京子の演技がひどく、対比する以前にぶち壊してしまっていた。

もっともこれは演技だけの責任ではなく、ことさら女を強調したような服装で登場させた監督の責任も大きいだろう。村尾が愛の行為を録音していたボイスレコーダーを証拠に、嘱託殺人として争うことを持ちかける弁護人役の陣内孝則や、冬香の夫の仲村トオルも浮いていては、裁判場面は嘘臭くなるばかりで、映画が成立するはずもない。

村尾の無実を疑わない高校生の娘高子(貫地谷しほり)や、村尾を怨みながら「後悔していないから」と言い残して出ていった冬香の本当の気持ちが知りたい母(富司純子)も登場するが、これは村尾に配慮しすぎで、しかしこれは原作者である渡辺淳一の都合のいい妄想に思えなくもない。

なにしろ村尾の昔のベストセラーは、18歳の女性が年上の男たちを手玉に取る話で、これを高子だけでなく、冬香も18の時に読んで心酔したというのだから。そういえば村尾の新作は、文体が重くて若者に受けないとどこの出版社からも断られてしまうのだが、これについても冬香に「この子(小説)はいつか日の目を見る」と言わせていた。ま、とやかく言うことでもないのだけどね。

【メモ】

原作の『愛の流刑地』は、2004年11月から2006年1月まで日本経済新聞で連載され、内容の過激さからか「愛ルケ」という言葉が生まれるほどの話題となった。

映画の村尾は45、冬香は32歳という設定。

冬香という熱心なファンを紹介することで、村尾に少しでも書く気が起きてくれたらと思ったと言う魚住祥子に、織部は「生け贄を差し出した」と皮肉っぽく評していたのだが。

寺島しのぶに敬意を払ったと思えるきれいな映像もあるが、街並みにオーバーラップさせたり、太陽を持ってきたりする場面は大げさでダサイだけだ。

2006年 125分 ビスタサイズ R-15

監督・脚本:鶴橋康夫 製作: 富山省吾 プロデューサー:市川南、大浦俊将、秦祐子 協力プロデューサー:倉田貴也 企画:見城徹 原作:渡辺淳一『愛の流刑地』 撮影:村瀬清、鈴木富夫 美術:部谷京子 編集:山田宏司 音楽:仲西匡、長谷部徹、福島祐子 主題歌:平井堅『哀歌(エレジー)』 照明:藤原武夫 製作統括:島谷能成、三浦姫、西垣慎一郎、石原正康、島本雄二、二宮清隆 録音:甲斐匡 助監督:酒井直人 プロダクション統括:金澤清美

出演:豊川悦司(村尾菊治)、寺島しのぶ(入江冬香)、長谷川京子(織部美雪/検事)、仲村トオル(入江徹/冬香の夫)、佐藤浩市(脇田俊正/刑事)、陣内孝則(北岡文弥/弁護士)、浅田美代子(魚住祥子/元編集者、冬香の友人)、佐々木蔵之介(稲葉喜重/検事副部長)、貫地谷しほり(村尾高子/娘)、松重豊(関口重和/刑事)、本田博太郎(久世泰西/裁判長)、余貴美子(菊池麻子/バーのママ)、富司純子(木村文江/冬香の母)、津川雅彦(中瀬宏/出版社重役)、高島礼子(別れた妻)

あなたを忘れない

新宿ミラノ3 ★★

■本気で日韓友好を描きたいのなら……

2001年1月26日、JR新大久保駅で酒に酔った男性がホームに転落。助けようとして線路に飛び降りた韓国人留学生イ・スヒョン(26歳)さんと日本人のカメラマン関根史郎(47歳)さんが、ちょうど進入してきた電車にひかれ3人とも死亡するという事件があった。その亡くなった韓国人留学生を主人公にして製作されたのが、この日韓合作映画だ。

兵役を終え留学生として日本にやって来たイ・スヒョン(イ・テソン)は日課のようにマウンテンバイクで東京めぐりをしていた。ある日、路上ライブをしていた星野ユリ(マーキー)の歌声に惹かれていると、トラブルに巻き込まれてマウンテンバイクを壊されてしまい、ユリのバンド仲間でリーダーの風間(金子貴俊)たちにユリの父親の平田(竹中直人)が経営するライブハウスに連れて行かれる……。

スヒョンとユリとに芽生える恋物語を中心とした挿話の数々は決して悪くはないが、といって日韓友好というテーマをはずしてしまうと、そうほめられた内容でもない。

スヒョンは家族思いで、日本に対する偏見もない、とにかく立派な好青年。スヒョンは5歳まで祖父と父と一緒に大阪に住んでいたという設定だから(なのに)、親たちからも嫌な話は聞かされることなく育てられたのだろう(スヒョンに彼の父が「色眼鏡で見ないことだ」と諭す場面もある)。

それに比べると初対面時の平田は偏見の塊。ユリとは喧嘩ばかりというのも、家族が大切なのは韓国では当たり前というスヒョンには理解できないようだ。平田はすでにユリの母親の星野史恵(原日出子)とは離婚していて、商売もうまくいかなくなっている。ユリをなんとか売り込もうとする(形としては風間のバンドとしてだが)が、その点ではユリを利用することでしか自分たちを売り出せない風間も似たようなものだ。果てはスヒョンのマウンテンバイクに車をぶつけながら逃げてしまうタクシー運転手などもでてきて、日本人はどうにもだらしのないヤツらばかりである。

日本のマンガに熱中して日本にやってきたということもあって、スヒョンの親友のヤン・ミンス(ソ・ジェギョン)も悪気のない人物に描かれている。日韓友好を全面に押し出そうとすると、かえってこの日韓の落差が槍玉に上がりそうである。

そんなことは気にしすぎなのかもしれないが、検証はしておくべきだろう。「初対面のベトナム人にベトナム戦争で敵だったと言われた」ことや韓国の兵役が自由のない場所(「日本は何も考えなくていいほど平和で自由」というセリフも。これは皮肉なのだろうけど)であることも語られていたし、すくなくとも映画は公平であることに気を配っていたといってよい。平田にも最後になって見せ場が用意されているし。

なのにいつまでもこだわってしまうのは、「事実に基づいて作られたフィクション」という映画のはじめにある言葉の解釈に惑わされてしまうせいだ。新大久保駅で起きた事件との事実の差についてはいろいろ言われているが、ここまでフィクションに重きを置くのならば、やはりあの事件とは関係なく描いた方がよかったのではないだろうか。

フィクションが取り入れられるのはこの手の映画では当然のことながら、事件から6年しか経っていない生々しさの中で、主人公が実名で出てきては、映画の内容よりそちらの方に興味が向くのはいたしかたないところだ。

例えばスヒョンには韓国に恋人がいたという。それでこんな物語では、恋人は悲しむだろう。韓国に配慮したつもりでいても、こんな大事な部分を改変して韓国で公開出来るはずがないと思うのだが(公開も出来ずに、日韓合作というのもねー)。

ラストシーンもやはり疑問だ。たとえスヒョンが手を広げて電車に立ち向かっていったのが事実(違うと言っている人もいる)だとしても、これについてはどんな形でもいいから捕捉しておかないと、とんでもなくウソ臭いものにしかみえない。

最後の字幕は「この映画を李秀賢さんと関根史郎さんに捧ぐ」で、こうやって締めくくられると、やはり事実の部分が重くのしかかってくる。であれば、なぜ関根史郎さんをあんな扱いにしたのかとか、ホームに人が大勢いたように描いたのかという疑問に行き着くと思うのだが、製作者は何も考えなかったのか。日韓友好を描こうとして、日韓非友好に油を注いでしまっては何にもならないではないか。残念だ。

  

【メモ】

映画のタイトルは、スピッツのチェリーの歌詞から。

2006年 130分 ビスタサイズ 日本、韓国 

監督:花堂純次 プロデューサー:三村順一、山川敦子、杉原晃史 エグゼクティブプロデューサー:吉田尚剛、藤井健、山中三津絵、成澤章 原作:康煕奉『あなたを忘れない』、辛潤賛『息子よ!韓日に架ける命のかけ橋』、佐桑徹『李秀賢さんあなたの勇気を忘れない』(日新報道刊) 脚本:花堂純次、J・J・三村 撮影:瀬川龍 美術:山崎輝 編集:坂東直哉、阿部亙英 主題歌:槇原敬之『光~あなたを忘れない~』、HIGH and MIGHTY COLOR 『辿り着いた場所』 記録:田中小鈴 照明:岩崎豊 録音:西岡正己
 
出演:イ・テソン[李太成](イ・スヒョン[李秀賢])、マーキー(星野ユリ)、竹中直人(平田一真/ユリの父)、金子貴俊(風間龍次)、浜口順子(岡本留美子)、原日出子(星野史恵/ユリの母)、大谷直子(高木五月)、ルー大柴(佐藤)、吉岡美穂(小島朝子)、高田宏太郎(ケンジ)、二月末(テツ)、矢吹蓮(タカシ)、岩戸秀年(ゴロー)、ジョン・ドンファン[鄭棟煥](イ・ソンデ/スヒョンの父)、イ・ギョンジン[李鏡珍](シン・ユンチャン)、ソ・ジェギョン[徐宰京](ヤン・ミンス)、 イ・ソルア[李雪雅](イ・スジン/スヒョンの妹)、ジョン・ヨンジョ[鄭玲朝](ヨンソク)、ホン・ギョンミン(ユ・チジン)

悪夢探偵

2007/01/20 シネセゾン渋谷 ★★☆

■現代は死にたい病なのか。悪夢探偵、がどーもねー

密室のベッドで自分自身を切り刻んで死んだと思われる事件が続いて起き、そしてどちらも死の直前に、ケータイから「0」(ゼロ)と表示される相手に発信していたことがわかる。キャリア組から現場志願で担当になったばかりの霧島慶子(hitomi)は、関谷刑事(大杉漣)に嫌味を言われながらも、パートナーとなった若宮刑事(安藤政信)と捜査を開始する。ゼロによる暗示が自殺を招いた可能性があるため、ゼロとのコンタクトは危険かもしれず、また被害者が悪夢を見ていたようだという証言から、「悪夢探偵」である影沼京一(松田龍平)にも協力を求めることになる(非科学的とか弁解してたけど、こりゃないよね)。

それ以前に、この悪夢探偵という言葉には苦笑(いや、いい意味でだったのだけど)。勝手に、達観した人物が超能力で夢に入り込んで、この間観たばかりの『パプリカ』と同じようなことでもするのかと思っていた(アニメと実写という違いはあるが、それにしてもまったく正反対の色調だ)。

が影沼は、他人の夢を共有する特殊能力こそ持っているが、そのことには怯えている。他人の夢に入るということは、人間の隠された本性や嫌な部分と対峙しなければならず、依頼者と自分に傷が残るかららしいのだが、だから悪夢探偵という言葉がまったく似つかわしくない人物。どころか自殺願望まで。だけど「人の夢の中で死ぬのだけはごめんだ」と(これはなんだ?)。だから霧島の依頼にも「いやだ、いやだ」とだだっ子のように耳を貸そうとしない。

捜査が進展しないことで若宮刑事はゼロに発信してしまう。このときケータイの向こうから「今、タッチしました」という声が入ってすぐ切れてしまうのだが、これは怖い。若宮刑事が危険にさらされることを知った悪夢探偵はしかたなく、若宮刑事の夢の中に入りゼロとの接触を試みる。

あとになって、霧島の問いに心(夢)の中に入っていけるのは共感ではないかとゼロが答える場面があり、なるほどと思う(とはいえこの説明だけではな)のだが、これで前向きで明るいキャラの若宮(破壊願望故の自殺願望?)もエリートの霧島も自殺願望があることになってはうんざりする。それだけ現代人の心の闇が深いということなのだろう。そして、自分でもそのことを簡単には否定できないにせよ、だ。

もう1つこの共感には、被害者の「一緒に死んでほしい」という気持ちがあることも見逃せない。被害者が本当に(繋がりを確認できる)死を望んでいたのだとしたら、これは犯罪なのだろうか、ということもあるのだが、映画はそこにとどまって考える余裕などは与えてくれない。

ゼロが具現化されてからは、もうとんでもないことになって、映像の洪水状態の中で、悪夢探偵の過去のトラウマが語られ、ゼロからは「平和ボケしたヤツらに真実を教えられるのはオレとお前だけ」とかなんとか。真実って? 「一緒に遊ぼうぜ」とも言っていたが、これは自殺騒動を一緒になってやろうということなのか。このあたりで完全に付いていけなくなっていた私にはわけがわからない。

悪夢探偵を救ったのは霧島の「私と生きて」という声。ここからはあっさり解決にむかい、ケータイを離さず何人かと話をしていた危篤状態にいた患者がゼロだった、と。で、最後は霧島と悪夢探偵の、恥ずかしくない程度に抑えた交流というか、霧島が掴み取った希望のようなものが語られる。

ふうむ。設定はマンガにしても、心の闇の部分はありふれた自殺願望というわかりやすさで提示していたし、「タッチした」と忍び込まれてしまう場面や、街にいる人間が激しく首を振ったり、ケータイがぐちゃりと曲がる映像など、恐怖感もちりばめられているというのに、この感想を書いているほどには、観ている時には感心できなかったのだ。

巻頭に悪魔探偵が、彼の父の恩師だという大石(原田芳雄)の夢から帰ってきた場面が悪夢探偵の紹介フィルムのようにあって、腕が布団の中に引っ込む映像など、ここまではゾクゾクしていたんだが。とはいえ、大石の「恩にきるぞ、悪夢探偵」というセリフには苦笑するしかなかったのだけどね。

 

2006年 106分 ビスタサイズ PG-12

監督・脚本・美術・編集:塚本晋也 プロデューサー:塚本晋也、川原伸一、武部由実子 エグゼクティブプロデューサー:牛山拓二 撮影:塚本晋也、志田貴之 音楽:石川忠 VFX:GONZO REVOLUTION エンディングテーマ:フジファブリック『蒼い鳥』 音響効果:北田雅也 特殊造形:織田尚 助監督:川原伸一、黒木久勝
 
出演:松田龍平(影沼京一/悪夢探偵)、hitomi(霧島慶子)、安藤政信(若宮刑事)、大杉漣(関谷刑事)、原田芳雄(大石恵三)、塚本晋也(ゼロ)

あるいは裏切りという名の犬

銀座テアトルシネマ ★★☆

■実話が元にしては話が強引

パリ警視庁(原題はここの住所:オルフェーヴル河岸36番地)で次期長官と目されるレオ・ヴリンクス(ダニエル・オートゥイユ)とドニ・クラン(ジェラール・ドパルデュー)の2人の警視。昇進の決まったロベール・マンシーニ長官(アンドレ・デュソリエ)の気持ちは、上昇志向の強いクランではなく、仲間からの信頼が厚いヴリンクスにより傾いていた。

折しも多発していた現金輸送車強奪事件の指揮官に長官はヴリンクスを任命するが、ヴリンクスとは別にこの事件を追っていたクランは、ヴリンクスの下で動くしかないことを承知で、長官に捜査に加えてもらうよう直訴する。

シリアン(ロシュディ・ゼム)からヴリンクスが得た情報により犯人のアジトを取り囲んだ警官隊だったが、手柄を立てようとしたのかクランが突然単独行動に出(これは?だし彼自身が標的になりかねない危険なもの)、そのため激しい銃撃戦となる。定年間近だったヴリンクスの相棒エディ・ヴァランス(ダニエル・デュヴァル)が殉職し、犯人は部下のエヴ(カトリーヌ・マルシャル)を盾にして逃亡してしまう。

クランの行動は糾弾され、調査委員会にかけられる。一方ヴリンクスは犯人逮捕にこぎつけるが、シリアンの情報提供の際に彼の殺人を見逃した(これがシリアンの交換条件だった)ことをクランから調査部に密告され、共犯容疑で逮捕されてしまう。特別外泊中のシリアン(獄中の身)の、刑務所に送った相手への報復殺人があざやかすぎるのはともかく、そのそばにいたヴリンクスを目撃していた娼婦が出てきて(かなり?)、クランに情報提供(これも?かな)となると、都合がよすぎないだろうか。

クランは調査委員会で無罪になり2人の立場は逆転する。ヴリンクスとの面会も許されない妻のカミーユ(ヴァレリア・ゴリノ)はシリアンに呼び出されるが、家を盗聴していたクランらに追跡される。カミーユの密告を疑ったシリアンは無謀な逃走をし、車は横転してしまう。クランはかつて彼も愛していたはずのカミーユに銃弾を撃ち込む。

このクランの行動は謎ではないが、承認できない。少し前にカミーユから拒絶される場面はあるが、といってここまでするだろうか。状況からいっても必然性がないし自分が危なくなるだけだから、単純にクランの愛情が怨みに転化したと解釈していいのだろうが、話をつまらなくしてしまった(それにカミューユはすでに息絶えていたようにも見えた)。それともクランの人間性をより貶めるためのものだろうか。手錠のままカミーユの葬儀の場にいるヴリンクスに、クランはシリアンが彼女を撃ったとわざわざ告げているから、そうなのかもしれない。このセリフはヴリンクスにかえって疑念を抱かせるだろうから。

ヴリンクスは7年後に出所し、カミーユの死の真相を探り始め、パリ警視庁長官となっているクランに行き着く。

物語としてはこんなところだが、あらすじを書きながら?マークを付けていったように展開が少々強引(付け加えるなら、クランは調査委員会で無罪にはなったが、しかし長官にはなれないのでは)なのと、やはりクランのカミーユ殺害が納得できなかったことで、最後まで映画に入り込めなかった。肩入れしやすいヴリンクスにそって観ればいいのかもしれないが、ラストの決着の付け方もよくわからなかったから、それもできず。ま、私の趣味ではない作品ということになるのかも。

細かいことだが、最初にある警官による警視庁の看板強奪も何故挿入したのかが不明。まさかお茶目な警官像ということはないだろう。とすると、警官といったってやっているのはこんなものさ、とでも? あと、音楽が少しうるさすぎたのだけど。

 

【メモ】

ヴリンクス警視はBRI(探索出動班)所属、クラン警視はBRB(強盗鎮圧班)所属。

原題:36 Quai des Orfevres

2006年 110分 シネスコサイズ フランス 日本語字幕:■

監督:オリヴィエ・マルシャル 製作:フランク・ショロ、シリル・コルボー=ジュスタン、ジャン=バティスト・デュポン 製作総指揮:ユグー・ダルモワ 脚本:オリヴィエ・マルシャル、フランク・マンクーゾ、ジュリアン・ラプノー 共同脚本:ドミニク・ロワゾー 撮影:ドゥニ・ルーダン 編集:ユグー・ダルモワ 音楽:アクセル・ルノワール、エルワン・クルモルヴァン
 
出演:ダニエル・オートゥイユ(レオ・ヴリンクス)、ジェラール・ドパルデュー(ドニ・クラン)、アンドレ・デュソリエ(ロベール・マンシーニ)、ヴァレリア・ゴリノ(カミーユ・ヴリンクス)、ロシュディ・ゼム(ユゴー・シリアン)、ダニエル・デュヴァル(エディ・ヴァランス)、ミレーヌ・ドモンジョ(マヌー・ベルリネール)、フランシス・ルノー(ティティ)、カトリーヌ・マルシャル(エヴ)、ソレーヌ・ビアシュ(11歳のローラ)、オーロル・オートゥイユ(17歳のローラ)、オリヴィエ・マルシャル(クリスト)、アラン・フィグラルツ(フランシス・オルン)

雨音にきみを想う

新宿武蔵野館3 ★☆

■チョッカンはそんなにいいヤツだろうか

ウィンイン(フィオナ・シッ)は、同居の兄フェン(チャン・コッキョン)が全身麻痺で、彼の介護だけでなく姪のシウヤウ(チャン・チンユー)の世話をしながら縫製の仕事をしている。その仕事もミスを咎められ(美人なんだから外で働けばと嫌味まで言われ)賃金を下げられてしまう。そして自身も兄と同じ遺伝性の病気(動脈炎。体温低下で血管が収縮してしまう)にいつならないとも限らないという、まさに悲劇のヒロイン。眉間の皺が痛々しい。

チョッカン(ディラン・クォ)は路地で迷子になったシウヤウと出会い、少女を家に送り届けたことで、そんなウィンインと知り合うことになる。フェンはチョッカンに何かを感じたのか、彼が帰ったあとウィンインに「明日お茶を買ってこい」と言う。そしてチョッカンは数日後、フェンに職場にあったからと電動車椅子を持ってやってくる。

実はチョッカンの家は金持ちなのだが、家族の愛情を知らずに育ち、今では絶縁状態らしい。ウィンインたちの家族愛、もっといえばシウヤウに対するウィンインに、母親の愛をみて惹かれたのかも知れない。

そんなチョッカンだが、一匹狼と言えば聞こえはいいが、ヤクザのフー兄貴(サミュエル・パン)から目を付けられるほど腕のいい泥棒でしかない。当然ウィンインに身を明かすことなどできるわけもなく(表向きはバイクショップを経営)、しかしあっけなくバレてしまうと、こうやって生きてきたのだから今さら無理と、平然としたものなのだ。

しかもそのバレ方からして、ウィンインがちょっと見ていたクマのぬいぐるみを盗んできてしまうような、罪悪感のかけらもない程度の低いものなのだ。このあと少しして、ふたりのキスシーンになるのだが、ウィンインの「頼っていいのか迷う」理由が、チョッカンが真っ当でないことではなくて、「もしあなたに何かあったら」と、すでにチョッカンを好きになってしまっているのでは、恋の当事者にとっては障害でも何でもないのかもしれないが、観ている方としてはついていけなくなる。

チョッカンは盗みが生業ながら優しい男という位置づけなのだろうが、それにしては夜中に物音を立てる(ウィンインの家の2階を借りて倉庫にする)し、電気はつけっぱなしで、ウィンインの評価だってそう高くはなかったはずなのだ……。いや、これは違うか。もうこの時点ではウィンインはチョッカンのことが気になって仕方がなかったのだろう。

物語は、逃げた妻にもどる気持ちがないことを知ったフェンの自殺(これはちょっとあんまりだ)という、さらに悲劇的な状況をはさんだあと、チョッカンとヤクザの対決へと進む。ウィンインもそれに巻き込まれ、冷たい雨にも打たれてしまう。が、彼女には最後になってある贈り物が……。でもこれだってね、最初のクマのぬいぐるみと本質的には何も変わっていないではないかと。ま、彼女の涙はそのことを含めてなのかもしれないのだけどさ。

【メモ】

動脈炎という言葉もあったが、体温低下で血管が収縮してしまうという設定だ。

舞台は香港だが、ウィンインたちは広州出で、チョッカンは台湾出身という設定。ウィンインはフェン(発病前はバイオリニストだった)に広州に帰ろうと言うが、逃げた女房から金を取り戻してからでないと帰れないとフェンは答えていた。

原題:摯愛
英題:Embrace Your Shadow

2005年 102分 ビスタサイズ 香港 日本語字幕:鈴木真理子

監督・脚本:ジョー・マ
 
出演:ディラン・クォ(チョッカン)、フィオナ・シッ(ウィンイン)、チャン・コッキョン[張國強](フェン)、チャン・チンユー[張清宇](シウヤウ)、サミュエル・パン(フー)

アタゴオルは猫の森

新宿武蔵野館3 ★★

■「秩序」対「紅鮪」? 

ますむらひろしの原作を知らない者にはタイトルからしてよくわからない。猫の森といいながら人間もいて、でも猫だって擬人化されたもので、その関係や違いがわからないのだ。まあ単純に、アタゴオルという所は動物も人間も対等でいられる楽園とでも解釈しておけばいいのだろうか。

で、そこの年に1度の祭りの日に、ヒデヨシというおさがわせデブ猫が、好き勝手に暴れ回る幕開きとなる。ここはそれなりのインパクトがある。がヒデヨシが、欲望(食欲)に忠実であるという部分を強調するあまり、自分だけ楽しければいいただのわがまま猫にしか見えず、次第に乗れなくなってくる(少し長いこともある)。

祭りを荒らし回ったヒデヨシは棺桶のようなものを見つけ、開けるなと言われるのもかまわずその蓋を開けてしまう(なにしろ言うことを聞かないヤツなのだ)。封印を解かれて現れた植物の女王というピレアが言うには、何でもかつては知性ある植物が世界を支配していたのだと。そして、やおら「あなたがたへ贈り物があります」と言うのだが……。

ピレアは、アタゴオルを秩序ある安らぎの世界に変えるのだと説く。ピレアのもとにいると、世界は歌に満ちて、気持ちよくなって、歌わずにはいられなくなる。生き物たちは片っ端から花(植物)に変えられていくのだが、抗う理由が見つからない。ふうむ、アタゴオルは楽園ではなかったか(人間+猫は欲が深いからねー。それともヒデヨシのような迷惑なヤツがいるからとか)。

しかし、これには当然裏があって、植物に変えることでピレアは自分の言いなりにしたいわけだ。つまりは自分のすることを邪魔されたくないらしい(あれ、ヒデヨシじゃん)。若さを得るために生き玉?を食べる目的もあるらしいのだ。そして、「この星が私そのものになって、私の種子がこの星を被い、無数の私が芽吹く」ようにするというのだ。ただ描写としては手抜きで「根っこがからみついてジャングルが息苦しそう」と言われるくらいでは、何が悪いのかが判然としない。蝉男やギルバルス(何なんだ、こいつらは)がテキトーに解釈してるだけで。

とにかくピレアは悪いヤツなのだ。そして彼女を封印できるのは、植物の王であるヒデコだけなのだと。そのヒデコだが、ピレアが封印を解かれたとき同時に現れていて、何故かヒデコは父親にヒデヨシを選んでいたのだった。しかしこの説明はくだならい。植物女王ピレアは最初から魔力を使い放題なのに、植物王ヒデコは力強く成長するためには父親が必要って、もっとうまいでっち上げを考えてくれないと。紅鮪一筋で好き勝手し放題のヒデヨシだが、何故かヒデコには愛を感じて、ちゃーんと父親たらんとする。これも何だかなー。

ということで対決です(ムリヤリだ)。

「父親ってうまいのか」と馬鹿なことを言っていたヒデヨシなのに、急に人格が変わったように「俺たちはとことん生きるために生まれてきたのよ」とか「この父上にまかせなさい」と、ピレアに立ち向かっていく。大地と直結したヒデヨシの途方もない生命力は、負けはしないがやっつけることもかなわず、ピレアを封印すると自身も消えてしまうヒデコに頼るしかなかった(つまりどこまでもピレアとヒデコは一体なわけだ)。

最後はまた蝉男の解説があるし、「完全じゃないから面白い。完全じゃないから素敵」とかやたら説教じみているのが気になる。完全……の部分は、秩序ある安らぎの世界への当てつけなんだろうけど、でもだったら最後のダンスは全員同じではなく、バラバラにしないとまずいんじゃ。はずしてる爺さん猫はいたけどね。って、そうか、ちゃんと異質な(完全でない)部分にも焦点を当てているってか。

構図や色使いは素晴らしいのだが表情はいまひとつ。これは全員に言えることだが、ヒデヨシに至っては最初から最後まで細目で通してしまっている。猫の擬人化は、マンガならごまかせることがアニメだとむずかしいわけで(バイオリンの弦に指がかかっていなかったりする)、しかもこれは3DCG。ま、これについては何も知らないに等しいからうかつには語れないのだが、でもとにかく猫である必然性はないよね。

筋もひどいが、やっぱり基本からきちんと考えるべきだろう。キャラクターだけの魅力で作っちゃいかんのだな。

 

【メモ】

びしょびしょ君(ヒデヨシはピレアをこう呼ぶ)

音楽で最高の幸せ。満腹の幸せ。みんなの幸せを壊すヒデヨシ

「オッサン、あんたが父上か」「その父親ってのはうまいのか」

すべての生命力はこの星と繋がっている

カガヤキヒコノミヤ(ヒデコ)

「こんなに心がやすらぐのなら花になるのも」「花になったら腹一杯食べられない」

2006年 81分 スコープサイズ アニメ

監督:西久保瑞穂 原作:ますむらひろし『アタゴオル外伝 ギルドマ』 脚本:小林弘利 音楽:高橋哲也 音楽プロデューサー:安井輝 音楽監督:石井竜也 CGディレクター:毛利陽一 CGプロデューサー:豊嶋勇作 キャラクターデザイン原案:福島敦子 音響監督:鶴岡陽太 色彩設計:遊佐久美子 制作:デジタル・フロンティア 美術デザイン:黒田聡
 
声の出演:山寺宏一(ヒデヨシ)、夏木マリ(ピレア)、小桜エツ子(ヒデコ/輝彦宮)、平山あや(ツミキ姫)、内田朝陽(テンプラ)、田辺誠一(ギルバルス)、谷啓(蝉男)、石井竜也(MCタツヤ)、谷山浩子(テマリ)、佐野史郎(竜駒)、牟田悌三

蟻の兵隊

イメージフォーラム シアター1 ★★★★

■「殺人現場」への旅

敗戦後も中国に残り軍閥に合流して国共内戦を戦い、捕虜になっていた奥村和一が帰国できたのは1954(昭和29)年の30歳の時。軍命によって戦ったのに、軍籍を抹消された彼に軍人恩給が支給されることはなかった。残留兵の生き残り仲間と裁判を起こすが、敗訴を重ねる。自分たちは勝手に中国に残ったのではなく、そこには保身に走った澄田軍司令官と軍閥との間に密約があったというのが奥村たちの主張だ。

奥村は宮崎元中佐を訪ねる。宮崎は将兵の残留という不穏な動きを察知して澄田軍司令官にその中止を迫ったことがあるのだが(平成4年にテレビ放送されたらしく、それが少しだけ映る)、10年以上も前に脳梗塞で倒れ、現在は寝たきり状態が続いている。宮崎を前に「悔しくて眠れない」ので中国に行き「密約の文書を探しだします」と奥村が言うと、宮崎は絞り出すような声を上げ何度も激しく反応する。何もわからないはずと言っていた宮崎の家族もびっくりした様子だ。

中国に渡る奥村。「天皇に忠誠を誓ったのであって、(軍閥の)閻錫山の雇い兵として戦ったんじゃない」という彼は、太原山西省公文書館に出向き、職員が持ち出してきた資料を開いて、これが何よりの証拠だと指差す。そして「この資料を出したのに、(裁判で)一切無視された」と言う。宮崎に「密約の文書を探しだ」すと言った場面のあとなので、これはまずいだろう。私など早くも、何だ、新資料の発見ではなく映画用の再確認の旅なのか、とがっかりしてしまったくらいだから。がこのあとすぐに、この中国への旅が奥村に別の問題を突きつけていたことを知ることになる。

軍司令官の保身の犠牲になった奥村だが、自身も上官の命令とはいえ、初年兵の教育のため民間人を殺害(肝試しと称していた)した過去があったのだ。奥さんにも話すことがなかったその事実に向き合うことを、自分に科していたようだ。旅の目的地の1つとして指定した「殺人現場」の寧武の街を見下ろす斜面に立ち、当時の模様を詳しく(彼の決意のほどがわかる)語る彼の姿。観客という別世界から眺めていたからいいようなものの、そうでなければ視線を落としていただろう。

ついで処刑の前日に留置場から脱走したという中国人の家族を訪ねる場面。故人の息子が、処刑されたのは日本軍が守る炭坑の警備員で、共産党軍の攻撃に抵抗せずに逃げ出して捕まったのだと話すと、急に奥村の顔色が変わり、彼らの行動は理解できないし処刑されて当然ではないかと「日本兵となって追求」(本人の言葉)してしまう。「自分の中に軍隊教育として受けていたものが残っている」と恥じる奥村。

輪姦された当時16歳という中国人老女の話にもいたたまれなくなるが、日本兵の鬼畜の限りを綴った、自分たちが書いた文章がそこ(中国)には残っているのだからたまらない。この文章のコピーは持ち帰られ、奥村の仲間たちにも突きつけられる。「もう平気でやったんですよ。人を殺したのに記憶がない。日常茶飯事だったんだね」とは仲間の金子の言葉だが、奥村は恨まれたのではないか。

自分たちの犯した罪を暴いてまでも、悔しい気持ちをどうにかしたい。それが奥村たちの気持ちなのだろう。だが、高齢な彼らの仲間は裁判中にも死んで数が少なくなり、この映画に登場する村山も映画の公開を待たずに死んだという。彼らには時間がないのだ。最後の時間との競争だという言葉はあまりに重い。

巻頭では靖国神社がどういうところなのかも知らない女の子と奥村の、さもありなんという対話が収録されていたが、最後の方では、やはり靖国神社で熱弁をふるう小野田元少尉に「小野田さんは戦争美化ですか」と詰め寄る場面も。奥村が電話をしても、また訪ねて行っても、昔のことだからと口を閉ざして何も語ろうとしない老人。簡単に対比されてはこれらの人の立場がないかもしれないが、彼らと大差のない自分を考えないではいられなくなる。

途中、判決文に署名捺印しない裁判官の話があり、これにもびっくりした。理由が「差し支えのため」という訳のわからないものだからだ。奥村が電話で確かめると、転勤で物理的に書けないという返事。だったらそう書けばいいのに。書けないんだろうね。署名捺印のない判決文がそもそも有効なのかどうなのか、そんなことは私にはわからないが、こんなんでちゃんとした裁判ができているのかと心配だ。

  

【メモ】

日本軍山西省残留問題:

終戦時に中国の山西省にいた陸軍第1軍の将兵59,000人のうちの約2,600人は、武装解除を受けることなく(ポツダム宣言に違反)国民党系の閻錫山の軍閥に合流し、3年半の間、共産党軍相手に戦いを続け、約550人が戦死、700人以上が捕虜となったという。

元残留兵たちから、軍命で戦ったのだから当然復員までの軍籍は認められるべきで、軍人恩給や戦死者遺族への扶助料も支払われるべきだという声があがるが、この運動が具体的な形になったのは90年代になってからのことだった。さらに実際の裁判にまで進んだのは2001年5月。原告は元日本兵13名。この時点で最小年の奥村和一は77歳、ほとんどが80歳以上だった。

双方の見解ははっきり別れていて、元残留兵たちは、当時国民政府から戦犯指名を受けていた北支派遣軍第1軍司令官・澄田●四郎(すみたらいしろう[●は貝へん+來])が責任追及を恐れて閻錫山と密約を交わし「祖国復興」を名目に残留を画策したと主張する。

一方、政府の見解は勝手に志願し傭兵になったのだから、その間の軍籍は認められず、政府に責任はないというもの。

裁判で原告は負け続けるが、2005年、元残留兵らは軍人恩給の支給を求めて最高裁に上告。が、9月に棄却される。

(2006.10.6追記)澄田軍司令官は、第25代日本銀行総裁(1984-1989)澄田智の父親にあたる。

2005年 101分 ヴィスタサイズ

監督:池谷薫 撮影:福居正治、外山泰三 録音:高津祐介 編集:田山晃一 音楽:内池秀和

出演:奥村和一(わいち)、金子傳、村山隼人、劉面煥、宮崎舜市

愛と死の間(はざま)で

シャンテシネ1 ★

■ファン御用達映画なので、あら探しはほどほどに

交通事故現場でユンサム(チャーリー・ヤン)という女性の救急活動にあたった救急隊員のコウ(アンディ・ラウ)は、彼女に何か特別なものを感じる。彼女が心臓移植を受けていることを聞いた彼は、彼女の主治医であるホー医師(アンソニー・ウォン)を問いつめ、彼女の心臓が彼の妻チーチン(シャーリーン・チョイ)のものだったことを知る。

コウには、最愛の妻チーチンを交通事故でなくすという過去があった。映画は普通に順序立てた流れだから、優秀な外科医だったはずの彼が救急隊として現れて面くらうことになるのだが、ここはちゃんとした説明がほしいところだ。チーチンのイメージショットの過剰さに比べると、あまりに手抜きではないか。もちろんその映像の中には彼の妻への想いという部分もあるし、医師を辞めたのも、失意と妻が望むような時間を共有出来なかったことへの後悔、いや罪の意識すらあったことは想像に難くない。

妻の心がユンサムの中で生きていることを感じたコウは、彼女を追い求めずにはいられない。が、夫とは別居中(ユンサムの夫に対する思いやりの別居)のユンサムは、重い病をかかえていた。

ここまでの展開は許せる。偶然は多いにしても、まあ普通だろう。だが、ユンサムの夫のデレクがコウと瓜二つ(アンディ・ラウの二役)という設定は、あまりに受け入れがたい。コウがユンサムの夫になりすまし、ユンサムも自分の元から去った夫が戻ってきたと思い込む。って、いくら瓜二つでも夫婦なんだからすぐばれるでしょうに。

映画の後半で、映写ミスでピントが合わない状態(字幕は読める)になったこともあって、この先は上の空状態。ちゅーか、こんな映画の内容に、集中しろっていう方が無理だよね。

話の作り方はとにかくくだらなすぎで、例えば妻の死後、コウが時間と規則に忠実になったことを表現するのに、目の前の交通事故を、指示された仕事ではないからと無視して帰還しようとする場面まであるのだ。さすがに思い直して引っ返し、これがユンサムとの出会いになるのだが、いくらなんでもこんな発想はないだろう。

臓器移植についてはなかなか興味深い報告があって、ユンサムのなかにチーチンの心が生きているというのは、似た事例もいくつか報告されているようだし、それを支持している学者もいるが、話が杜撰だからそこまで踏み込むまでには至っていない。

きっと、アンディの(制作者でもある)アンディによる(主演)アンディのための(自己満足かや)の映画なんでしょう。

【メモ】

コウは自身が元医師で、妻の心臓移植にも同意したはずなのに、移植相手の身元を明かさないというルールを破る。

妻が死んだあともコウは妻の両親と同居している。

宣伝コピー「妻は生きている彼女の中で。一人で逝かせてしまったから、せめて残された時間は彼女の“心”のそばにいてあげたい」

原題:再説一次我愛●(●は人偏+尓) 英題:All About Love

2005年 102分 香港 ビスタサイズ 日本語字幕:■

監督・脚本:ダニエル・ユー[余國偉]、リー・コンロッ[李公樂] 撮影:ジェイソン・クワン 音楽:ジャッキー・チャン、マルコ・ワン

出演:アンディ・ラウ[劉徳華](コウ、デレク)、チャーリー・ヤン[楊采](ユンサム)、シャーリーン・チョイ[蔡卓妍](チーチン)、アンソニー・ウォン[黄秋生](ホー医師)、ラム・シュー[林雪](救急隊の同僚)、ホイ・シウホン[許紹雄](救急隊上司/チーチンの父)、ジジ・ウォン[黄淑儀](チーチンの母)

ある子供

早稲田松竹 ★★★☆

■子供が親になりまして……

20歳のブリュノはいい加減なヤツだ。まだ小学生か中学生くらいのスティーヴたちを使って盗みを働いてのその日暮らし。18歳のソニアが妊娠して入院すれば、同居していた彼女のアパートは貸してしまうし(映画は出産してアパートにソニアが帰ってくる場面から始まる。この導入部はよく考えられている)、生まれてきた子供にも関心がなさそうだ(わかるけどね)。彼女にも「(入院中に)見舞いにも来てくれないし」となじられていた。

一体ソニアはブリュノのどこを好きになったのだろう。ふたりが子犬のようにじゃれあう姿はあまりに無邪気すぎて、うらやましく思う反面、やはり子供の親としては心もとなくて心配になるばかりだ。

それでもソニアには子供を産んだ母親としての自覚がはっきりと芽生えているから救われる。ブリュノにはちゃんとした職に就いて欲しいのだが、ブリュノは「クズ共とは働けない」とどこまでもお気楽で、職安の列にも並びたがらない。

ソニアが代わりに列に並び、子供の乳母車をブリュノがひくことになるのだが、ひとりになった途端、盗品の売りさばき先(闇ルート)で子供が高く売れる話を思い出し、それこそ思いつきのように話をまとめ、売ってしまう。ここはあれよあれよという間に話が進み、すぐにお膳立てされた場所で子供とお金が交換されていく。

映画は、前編ドキュメンタリーのような作りで、だからこの場面は怖い。『息子のまなざし』と手法は似ているがカメラの位置は多少引き気味で、多少は余裕をもって画面を追えるからあそこまでの息苦しさはないのだが、淡々と取引が進行することが緊迫感を生み出すのは同じだ。

悪びれた様子もなくお金を見せるブリュノにソニアは卒倒し、病院に運び込まれる騒ぎとなる。

ブリュノにソニアの反応が予想できなかったのにはあきれるが、なるほど「ある子供」とはやはり彼のことだったのだ。靴の泥で壁を汚し、その印がどのくらい高くまでつけられるかというひとり遊びに興じていたが、あれはまぎれもなく彼の、そのままの姿だったわけだ。20歳にしてはあまりに幼くて、後になって警官に「俺の子じゃない」とか「浮気したいからムショに送る気だ」とソニアを非難する嘘の言い逃れをしたり、一転ソニアに泣きつき金をせびるあたりでは、観ているのがつらくなるほどだ。

話が前後するが、ソニアに訴えられるかもしれないと思ったブリュノは売ったばかりの子供を引き取ることにする。売った時と同じような手順がここでまた繰り返されるのだが、普通の劇映画のような省略や緩急をつけた演出ではないから、ある部分ではいらつくような流れになるのだが、それがまた心理的な効果を増幅し静かな怖さを呼び戻す。

子供の買い戻しはあっさりできたものの、ブリュノは儲け損なった闇ルートの一味に身ぐるみはがれ、多額の借金を負うことになる。そして、スティーヴを使ってのひったくり。そして、金は奪ったもののこれが失敗してブリュノはムショ送りとなる。

ブリュノはやることは子供で何の考えもないのだが、ある部分では憎めないところがあるのも確かだ。言われれば子供の認知もするし、仲間うちでのルール(盗みの配分)もきっちり守っている。自分のせいで冷たい川に入ったスティーヴを必死で介抱するし、スティーヴが捕まれば自分が首謀者であると名乗り出る(もっともこれには闇ルートからの追求には逃れられそうもないということもあるだろう)。

ソニアはブリュノのそういった部分を好きになったのだろう。だから最後は彼女が服務中のブリュノに面会するという感動的な場面になる。ここではじめてブリュノは息子のジミーの名を自分から口にする。

だけどねー、意地悪な見方をすればここでもブリュノはまだまだ子供なのではないか。若年層の失業率が20%というベルギーの状況をふまえての映画ということでは意味があるのかもしれないが、ブリュノがまだ善悪を知らない子供として描かれている、つまりは最初から救いはあったという観点からいうと、すごく甘い映画にしかみえないのだ。

【メモ】

育児センターの職員が、子供の様子を見にくる。

先のことなど何も考えず、余ったお金でソニアに自分とお揃いの皮ジャンを買う。

じゃれ合うのはソニアからも。飲みかけの飲料をブリュノにふりかけて、追い駆けっこを始めるふたり。

「子供は売った。またできるさ」。このセリフのあとにソニアが卒倒するのだが、卒倒場面は『息子のまなざし』でも出てきた。卒倒好きなのね。でもこちらの方が自然だ。

ブリュノが子供を取り戻して病院に戻るとソニアは警察を呼んでいた。ここで浮気発言になるのだが、子供は(自分の)母親に預けていた、という嘘もつく。このあと母親に口裏を合わせてもらいに母のアパートを訪ねるのだが、母は見知らぬ男と一緒にいる。

往来の激しい車道を主人公たちは何度か横断する。単純だがこれが不安感を煽る。子供を抱いて渡る場面では実際はらはらしてしまった。

最後はまた無音のエンドロール。

原題:L’Enfant2005年 95分 ビスタサイズ ベルギー、フランス PG-12 日本語字幕:寺尾次郎

監督・脚本:リュック&ジャン=ピエール・ダルデンヌ 撮影監督:アラン・マルコァン、カメラマン:ブノワ・デルヴォー カメラ・アシスタント:イシャム・アラウィエ 録音:ジャン=ピエール・デュレ 編集:マリー=エレーヌ・ドゾ 美術:イゴール・ガブリエル

出演:ジェレミー・レニエ(ブリュノ)、デボラ・フランソワ(ソニア)、ジェレミー・スガール(スティーヴ)、ファブリツィオ・ロンジョーネ(若いチンピラ)、オリヴィエ・グルメ(私服の刑事)、ステファーヌ・ビソ(盗品を買う女)、ミレーユ・バイ(ブリュノの母)

アンダーワールド エボリューション

TOHOシネマズ錦糸町-8 ★★★☆

■続篇の進化は予算以上

物語は前作のすぐあとを引き継いだ展開になっているから、この間観たばかりの私には非常に好都合。公開時期でいうと2年半ほど空いたことになるが、監督も同じだから作品の感触は変わらない。なにより前作同様の迫力の画面には圧倒される。

前作はセリーン(ケイト・ベッキンセール)の自分探し話だったが、ここでもそれは同じで、ヴァンパイア族とライカン族の誕生までが明らかにされるのだが、その鍵を握っているのも彼女だったのだ。

前提だけでも特殊なのに相変わらず凝った話で、咀嚼している余裕がないのが難点だ。この2作で3作分はゆうにある。詰め込みすぎなんだが、血を飲むことで記憶まで取り込んでしまうというアイデアもあって、画面上でのテンポは申し分ない。

もっとも元祖不死者のコルヴィナス卿(デレク・ジャコビ)の扱いなどは、唐突な感じがしなくもない。彼が重要な役回りを担ったことで、異端者の親子愛や兄弟愛という側面まで出てくるのだが、個人的には人間にはありえないような異端者としての価値観でもみせてもらいたいところだ。

アクションシーンで大活躍のマイケル(スコット・スピードマン)だが、それにしては存在感が薄い。それじゃああんまりだからってセリーンとの恋もあるのかもしれないが、この作品にベッドシーンはいらないよねー。監督はケイトと結婚したら見せびらかしたくなっちゃったとか? 変身した者同士のベッドシーンを用意するくらいのこだわりがあればまた別なんだけどね。

ヴァンパイア族の始祖マーカス(トニー・カラン)は前作の敵ビクター以上の肉体を持つ。さらにマーカスの兄弟で、凶暴さ故に牢獄に監禁されていた最初のライカンであるウィリアムまでが甦る。セリーンもマイケルもさらなる混血を経て、力を得る(ここらへん適当に納得するしかないのな)ので、戦いは壮絶なものになる。

銃弾を浴びても致命傷にならない馬鹿馬鹿しさが、逆に意外なほど面白いアクションシーンになっている。残酷なシーンが次から次ぎに出てくるのだが、ヘンな暗さがないのは救いだ。

墜落したヘリコプターがらみのアクション(これはアイデアもいい)など、予算面でもスケールアップもされているみたいなのに、とっておき?のウィリアムスまで殺してしまったら次回作はどうなるんだ!って、今度は予告していないから、お終い? だったら、ちょっと残念だ。

原題:Underworld Evolution

2006年 106分 アメリカ ●サイズ 配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント R-15 日本語字幕:●

監督:レン・ワイズマン 製作:ゲイリー・ルチェッシ、トム・ローゼンバーグ、リチャード・ライト 製作総指揮:デヴィッド・コートスワース、ダニー・マクブライド、ジェームズ・マクウェイド、スキップ・ウィリアムソン 原案:レン・ワイズマン、ダニー・マクブライド 脚本:ダニー・マクブライド 撮影:サイモン・ダガン プロダクションデザイン:パトリック・タトポロス 衣装デザイン:ウェンディ・パートリッジ 編集:ニコラス・デ・トス 音楽:マルコ・ベルトラミ

出演:ケイト・ベッキンセイル(セリーン)、スコット・スピードマン(マイケル)、トニー・カラン(マーカス)、ビル・ナイ(ビクター)、シェーン・ブローリー(クレイヴン)、デレク・ジャコビ、スティーヴン・マッキントッシュ、マイケル・シーン、ソフィア・マイルズ(エリカ)、ジータ・ゴロッグ、リック・セトロン

アンダーワールド

TOHOシネマズ錦糸町-7 ★★★

■スタイリッシュバンパイア誕生

ヴァンパイアとライカン(狼男)が数百年に渡る死闘を繰り広げてきたというヘンテコリンかつどうでもいいような設定で、はじまったとたんの説明で不安になる。

ライカンの首領ルシアンを倒してからヴァンパイア族の勝利は目前に迫っていたが、女戦士のセリーン(ケイト・ベッキンセイル)はライカン族を追っていて、彼らがマイケル(スコット・スピードマン)という医師(彼は普通の人間)を狙っていることに疑問を抱く。

設定が奇抜だし人間との接点はマイケルだけなんだが、話(込み入っているので省略)は予想以上にしっかりしたものだった。ヴァンパイアものは、SFというよりファンタジーになってしまうのだが、その懸念もいつのまにか忘れていた。

映像に力があることが大きい。主体は銃撃戦だから、凡庸なもので終わってもおかしくないのに、それを含めてけっこう緊張させられるシーンが多いからだろう。

細部にも凝っていて、銃撃戦とはいっても対ヴァンパイアには紫外線弾(吸血鬼は日光に弱いからね)で、狼男には硝酸銀(が体内で溶け出して復活できなくなる)弾なんだって。うはは。

でもそれにしては、種族間の戦争というよりはやくざの抗争程度にしか見えない(人間社会に隠れて存在する同士だから仕方ないのだけど)のと、狼男のように激しく変身するのならともかく、ヴァンパイアの方は、眠りを妨げられた指導者ビクター(ビル・ナイ)にしてもヴァンパイアらしからぬというか、映画の中では特別な意味付けがされていないというのはマイナスだ。

まあそれは、ラストですでに次回作を激しく予告しているので、それを待てということか。

私の中では評価の低かったケイト・ベッキンセイルだが、このセリーン役はぴったりだ。

原題:Underworld

2003年 121分 アメリカ ●サイズ 配給:ギャガ=ヒューマックス PG-12 日本語字幕:●

監督:レン・ワイズマン 製作:ゲイリー・ルチェッシ、トム・ローゼンバーグ、リチャード・S・ライト 製作総指揮:ロバート・ベルナッキ、ジェームズ・マクウェイド、スキップ・ウィリアムソン、テリー・A・マッケイ、ヘンリー・ウィンタースターン 原案:レン・ワイズマン、ケヴィン・グレイヴォー、ダニー・マクブライド 脚本:ダニー・マクブライド 撮影:トニー・ピアース=ロバーツ 美術:ブルトン・ジョーンズ 編集:マーティン・ハンター 音楽:ポール・ハスリンジャー 衣裳デザイン:ウェンディ・パートリッジ

出演:ケイト・ベッキンセイル(セリーン)、スコット・スピードマン(マイケル・コーヴィン)、シェーン・ブローリー(クレイヴン)、マイケル・シーン(ルシアン)、ビル・ナイ(ビクター)、アーウィン・レダー(シング)、ソフィア・マイルズ(エリカ)、ロビー・ギー(カーン)、ウェントワース・ミラー(Dr.アダム)、ケヴィン・グレイヴォー(レイズ)、リック・セトロン