ハリー・ポッターと謎のプリンス

楽天地シネマズ錦糸町シネマ2 ★★☆

■最終篇の序章は、校長の死と惚れ薬騒動?

『ハリー・ポッター』も完結篇なのだから観ておこうか、って、全然違うじゃないの(原作が完結したのを取り違えてたようだ。ま、私がその程度の観客ってことなんだけど。そもそもファンタジーは苦手だし)。映画の最後で、次は二部作(えー)の最終篇が来るってお知らせが……ほへー。

簡単にいってしまうと(詳しく言えないだけなんだが)、この六作目の『ハリー・ポッターと謎のプリンス』は、その最終篇の序章のようなものらしく、だからいきなり現実部分で、三つの黒い渦巻きのようなものがロンドンのミレニアム橋を襲い、破壊する場面を見せるのに、それは、最近よく起きている怪奇現象の一つみたいに片付けられてしまい、そして話の方も、もう現実世界でのことには触れることなく、学校に戻って行ってしまう。

ただし今回は、ダンブルドア校長の死という痛ましい結果が待ち構えている。そして、その前の段階でダンブルドアとハリーの二人三脚場面が多くあり、ハリーにも選ばれし者という自覚が芽生えているので、それなりに盛り上がってはいくんだが、地味っちゃ地味(スペクタクル場面は予告篇で見せちゃってるし、それも橋破壊とクィディッチ場面くらいだから)。

そのハリーだが、早々に簡単な魔法にかかって学校に遅刻しそうになるんで、これで選ばれし者なの、と言いたくなるが、まあご愛敬ってことで。

ヴォルデモート卿に関しては、毎回のようにその影響がハリーたちに降りかかるという設定なので、私のようにいい加減にしか観ていないものには、全部が似たようなイメージになってしまっている。しかし今回は(たって前がどうだったかは、って、しつこいか)ヴォルデモート卿の過去に遡っての話(だからトム・リドルという実名で登場する)で、少しずつヴォルデモート卿の輪郭をはっきりさせてもいるのだろう。

題名の『謎のプリンス』は、ヴォルデモート卿の過去から弱点を探るために、ダンブルドアがハリーを出汁に連れてきたホラス・スラグホーンの授業で、ハリーがたまたま手に入れた(ずるいよなぁ)ノートに記されていた名前で、正確には原題のthe Half-Blood Princeである。

実は、これは昔スナイプが書いた署名なのだが、それはあっさりスナイプがそう言うからで、謎って言われても、なのだが、スナイプは今回特別な役回りを与えられているのだった。

怪しさ芬芬のアラン・リックマンならではのスナイプは、ダンブルドアからも信頼(ではないのかもしれないが、映画だとよくわからなかった)され、しかし、破らずの誓いによって、ドラコ・マルフォイの保護者のような立場になってしまう(それは前からなのだが、この誓いではドラコが失敗した場合、その代役にならざるを得なくなる)。

つまり今回は、the Half-Blood Princeによるダンブルドアの死というのが大筋なのだ。出てくる小道具や交わされる言葉が、魔法学校のため、とまどうことがしばしばなのであるが(今更何を言ってんだか)、話はほぼ一直線。来るべき戦いを前に(分霊箱探しに)決意を新たにするハリーに、ハーマイオニーが私たちも行くと力強く続き、次作への期待を高まらせて終わりとなる。

ところで、すべてが次ではあんまりと思ったのか、学園ラブコメディ的要素が多くなった。出演者たちが成長したからこそだし、観客も彼らをずっと観てきたわけだから、これも楽しみの一つには違いない。が、なにしろここには惚れ薬なんてものまであるので、ロンのキスしまくり状態などという、だらけた場面に付き合わされることになる。ついでにロンを好きになっているハーマイオニーの嫉妬ぶりとかもね。

ハリーに至っては前作のファーストキスのことは忘れてしまったようで、ロンの妹のジニーに熱を上げていた。ジニーは付き合っている人がいたみたいなのに、何で二人はくっついちゃったのかしら。恋愛感情がどうのこうのというよりは、くっつき合いゲームになってしまっているのだ。展開が雑といってしまえばそれまでだけど、せっかく彼らの成長ぶりを観客だって見守ってきたのだから、これはもったいないよね。時間だってそれなりに割いてあるっていうのに。

こういうところも、原作にはちゃんと書かれているのだろうか。このシリーズ、まさか原作を読んだ人専用ってことはないだろうが、いつもそんな気になってしまうのだ。

  

原題:Harry Potter and the Half-Blood Prince 

2008年 154分 イギリス、アメリカ シネスコサイズ 配給:ワーナー・ブラザース映画 日本語字幕:岸田恵子 監修:松岡佑子

監督:デヴィッド・イェーツ 製作:デヴィッド・ハイマン、デヴィッド・バロン 製作総指揮:ライオネル・ウィグラム 原作:J・K・ローリング 脚本:スティーヴ・クローヴス 撮影:ブリュノ・デルボネル クリーチャーデザイン:ニック・ダドマン 視覚効果監修:ティム・バーク 特殊メイク:ニック・ダドマン プロダクションデザイン:スチュアート・クレイグ 衣装デザイン:ジェイニー・ティーマイム 編集:マーク・デイ 音楽:ニコラス・フーパー

出演:ダニエル・ラドクリフ(ハリー・ポッター)、ルパート・グリント(ロン・ウィーズリー)、エマ・ワトソン(ハーマイオニー・グレンジャー)、ジム・ブロードベント(ホラス・スラグホーン)、ヘレナ・ボナム=カーター(べラトリックス・レストレンジ)、ロビー・コルトレーン(ルビウス・ハグリッド)、ワーウィック・デイヴィス(フィリウス・フリットウィック)、マイケル・ガンボン(アルバス・ダンブルドア)、アラン・リックマン(セブルス・スネイプ)、マギー・スミス(ミネルバ・マクゴナガル)、ティモシー・スポール(ピーター・ペティグリュー)、デヴィッド・シューリス(リーマス・ルーピン)、ジュリー・ウォルターズ(ウィーズリー夫人)、ボニー・ライト(ジニー・ウィーズリー)、マーク・ウィリアムズ(アーサー・ウィーズリー)、ジェシー・ケイヴ(ラベンダー・ブラウン)、フランク・ディレイン(十六歳のトム・リドル)、ヒーロー・ファインズ=ティフィン(十一歳のトム・リドル)、トム・フェルトン(ドラコ・マルフォイ)、イヴァナ・リンチ(ルーナ・ラブグッド)、ヘレン・マックロリー(ナルシッサ・マルフォイ)、フレディ・ストローマ(コーマック・マクラーゲンデヴィッド・ブラッドリー、マシュー・ルイス、ナタリア・テナ、ジェマ・ジョーンズ、ケイティ・ルング、デイヴ・レジーノ

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破

新宿ミラノ1 ★★☆


写真1~8:2009年6月28日(日)のミラノ座前。「第3新歌舞伎町宣言」のコスプレイベント。私はただの通りすがり。この日は『ターミネーター4』を観たので。あ、でもちゃっかり『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』のクリアファイルをもらっちゃいました。

写真9~12:こちらは映画を観た日に新宿ミラノ1内で撮った写真。関連商品が沢山。ロビーに展示されていたフィギュア。イベント時にあったものと同じ物だが、零号機ははじめて? だったらちゃんと写真を撮ればいいのに、と言われちゃいそうだけど、ま、そんな熱心なファンじゃないんで。

■未だ不明なり

「エヴァンゲリオン」のことは「ヱヴァンゲリヲン」でしか知らないので、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の時も混乱しているうちに終わってしまったくらいで(最初だったので今回よりさっぱりだった)、こんなだから私が何かを書いてもロクなものになりそうにない。なので、感想はパスするつもりでいたが、そうすると次作の時にまた混乱してしまいそうなので(一応次のも観るつもり。ここでやめたら馬鹿らしいので)、メモ程度になってしまいそうだが、それを残しておくことにした。エヴァンゲリオンに詳しい人からみたら噴飯ものになっていそうだが、こういう観客もいるっていうことで……。

使徒の正体が不明なのはともかく、それがぽつんぽつんとやってくるのが相変わらずわからない。一気に攻撃したらひとたまりもなさそうなのに、それが出来ない、もしくはそのことに気づいていない理由でもあるのだろうか。相手が人間とは違う思考形態ということも考えられるが、この設定はまるでテレビ放映に合わせているかのようで、でもそれじゃあさすがにおかしいと気づいたのか、今回は多少だが、矢継ぎ早の使徒登場という感じになっていた。

そもそも使徒ばかりでなく、どういう状況に世界がなっているのかということすらなかなか明かにならない。今回で言えば、セカンドインパクトによって海は赤くなってしまい、水族館のような所(海を元に戻すための研究所)で、セカンドインパクト前の生き物を見たりしているのだが、それにしては第三新東京市の日常は、ごくごく普通のもので、防災都市として造られている部分を見ていなければ、とてもセカンドインパクト(というかこれだって?)後とは思えない風景なのだ。

だからシンジたちが学園生活を送っていること自体がまったく現実感のないものなのだが、あまりにも当然のようにそこには日常があるので、どう解釈すればいいのかとまどってしまうのである。

それに、よくぞ第三新東京市を造る暇(余裕と言うべきか。たんなる再建じゃないんだから)があったなと。第三新東京市と称してはいるが、他にもこういうところがあるのか。世界的にはどうなのか。ネルフというのは何でも国連の直属の非公開組織らしいんだが(これはネット出調べたのな)、そんなこと言ってたっけ。で、何で本部が第三新東京市で、シンジの父親ゲンドウが総司令なんだ(ここまで言っちゃったら身も蓋もなくなるが)。

にしては、バチカン条約とやらを急に持ち出してきて、各国のヱヴァンゲリヲンは三体までに制限されているという。各国のエゴがからんでいるらしいのはセリフからもわかったが、でも軍縮で牽制し合っているわけじゃあるまいし、使徒という人類共通の敵に対抗するのに制限……って、そうか、これはヱヴァンゲリヲンが貴重品なため割り当てを決めているだけとか? ってことはネルフの本部があってもそこまでは自由にならないんだ?

これだけ説明が不十分でよく客がついてきているものだと、別のところに感心してしまうが、この不親切さはテレビ時代からのものらしい、って。はぁ。この作品の魅力って、もしかしたら謎だらけだから、とかねぇ。

父親との確執というか、ただ父親に認めてもらいたいだけのシンジがまたまた出てくるのだが、これもなぁ。巻頭の母親の墓参りで「父さんと話せて嬉しかった」ってシンジが言うのだけれど、十四歳の子供が父親にこんなこと言うかしら(たとえ思っても口には出さないんじゃ)。

ヱヴァンゲリヲンの搭乗員が、シンジ以外は女の子って、これもすごい設定なんだけど(職員も女性が多いんだから!)、それぞれが少しずつ信頼関係を築いていって、協力して使徒を倒していって、ついにはシンジとレイとで「初号機の覚醒がなった」のな。はは。裏コードがあったり、エネルギーが切れて活動限界にあるのに動いちゃって、ヱヴァにこんな力があったとは、って驚かれちゃってもですね。ま、覚醒に至る伏線は、巧妙に貼られてはいましたがね。

「世界がどうなっても綾波だけは絶対助ける」って、シンジってこんなだったんだ。けど、異常なまでの綾波レイ人気が私にはよくわからないんで(レイが孤独にしているような部分と「私も碇君にぽかぽかしてほしい」というセリフに違和感を感じてしまうからかなぁ)、シンジの快挙にも「やったぜ」とはならず。

あと、戦闘場面で、三百六十五歩のマーチ、今日の日はさようなら、翼をください、って、ちょっとない発想だよね。曲をリアルタイムで体験してきた身にとっては恥ずかしいだけなんだもの。って、もうこのへんでやめとくわ。あ、でも人類補完計画は? ヱヴァの仮設5号機って? パイロットなしのダミーシステム? ?が沢山過ぎで、未だ不明なり。

  

2009年 108分 ビスタサイズ 配給:クロックワークス、カラー

総監督・企画・原案・脚本:庵野秀明 監督:摩砂雪、鶴巻和哉 キャラクターデザイン:貞本義行 メカニックデザイン:山下いくと 作画監督:鈴木俊二、本田雄、松原秀典、奥田淳 原画:橋本敬史、西尾鉄也、小西賢一、山下明彦、平松禎史、林明美、平田智浩、向田隆、田中達也、高倉武史、朝来昭子、奥村幸子、押山清高、室井康雄、板垣敦、合田浩章、柿田英樹、飯田史雄、桑名郁朗、羽田浩二、松田宗一郎、コヤマシゲト、川良太、上村雅春、すしお、錦織敦史、吉成曜、高村和宏、今石洋之、前田明寿、寺岡巌、高田晃、田村篤、鈴木麻紀子、横田匡史、長谷川ひとみ、鎌田晋平、北田勝彦、黄瀬和哉、前田真宏、庵野秀明、鶴巻和哉、摩砂雪、小松田大全、中山勝一、増尾昭一、鈴木俊二、松原秀典、奥田淳、本田雄 第二原画:松尾祐輔、竹内奈津子、矢吹佳陽子、吉田芙美子、西垣庄子、益山亮司、関谷真実子、茶山隆介、矢口弘子、ジョニー・K、柏崎健太、小磯沙矢香、城紀史、阿部ルミ、平松岳史、岡穣次、井下信重、立口徳孝、松本恵、久保茉莉子、大原真琴、杉浦涼子、竹上充知子、大薮恭平、何愛明、斎藤梢、小野和美、大洞彰子、諏訪真弘、鶴窪久子 撮影監督:福士享 美術監督:加藤浩、串田達也 編集:奥田浩史 音楽:鷺巣詩郎 CGI監督:鬼塚大輔、小林浩康イメージボード:樋口真嗣、前田真宏 デザインワークス:高倉武史、渡部隆、佐藤道明、鬼頭莫宏、あさりよしとお、本田雄、増尾昭一、小松田大全、小林浩康、松原秀典、鈴木俊二、奥田淳、鶴巻和哉、コヤマシゲト、庵野秀明、吉浦康裕、きお誠児、浅井真紀、okama、前田真宏 作画監督補佐:錦織敦史、奥村幸子、貞本義行 色彩設計:菊地和子 動画検査:寺田久美子、犬塚政彦 特技監督:増尾昭一 副監督:中山勝一、小松田大全 デジタル演出:鈴木清祟 画コンテ:鶴巻和哉、樋口真嗣、橘正紀、佐藤順一、山本沙代、増井壮一、錦織敦史、合田浩章、小松田大全、中山勝一、摩砂雪、庵野秀明

声の出演:緒方恵美(碇シンジ)、林原めぐみ(綾波レイ)、宮村優子(式波・アスカ・ラングレー)、坂本真綾(真希波・マリ・イラストリアス)、三石琴乃(葛城ミサト)、山口由里子(赤木リツコ)、山寺宏一(加持リョウジ)、石田彰(渚カヲル)、立木文彦(碇ゲンドウ)、清川元夢(冬月コウゾウ)、長沢美樹(伊吹マヤ)、子安武人(青葉シゲル)、優希比呂(日向マコト)、関智一(鈴原トウジ)、岩永哲哉(相田ケンスケ)、岩男潤子(洞木ヒカリ)、麦人(キール・ローレンツ)

ノウイング

TOHOシネマズ錦糸町スクリーン5 ★★☆

東京限定ポスターなんて書いてあるので写しちゃったが、田名部生来(AKB48)のことを宣伝してるだけらしい。日本語版イメージソングと同じかしらね。何でも便乗すりゃいいってもんじゃないだろうに。あ、でも、こうやって反面教師的にでも取り上げてもらえば向こうはいいのかもね。あー、片棒かついじゃったよ。

■ヒーローでも何でもなかった

見せ物と割り切らないと腹が立つ映画だ(でもまあ、楽しめちゃうんだが)。

で、その見せ物は主に大惨事スペクタクルなのだが、これが意外にも少なくて、惨事に限ると三つしかないのである(三つしかないのに、かなりの部分を予告篇で見せちゃってるのな。たくぅ)。が、その場面の見せ方は、なかなか心憎いものになっていた。

まずは、旅客機事故。息子のケイレブの迎えに遅れ、気の急くジョンだが、車が渋滞して動かない。前方で事故があり、この場所で今日、八十一人が死ぬことをちょうど突き止めたばかりのジョンは、車を降り事故現場へ向かうが、これは単なる交通事故で、でもその時、ジョンを牽制していた警官の顔がひきつり逃げ出してしまう。ジョンが振り向くと今まさに、機体を大きく斜めにした旅客機が送電線に引っかけながら、ジョンの方へ突っ込んで来るところで、そのまま目の前で機体は爆発炎上し、何人かは外に出てきたものの炎に包まれて逃げまどう場面へと有無を言わせずなだれ込んでいく。この一瞬にして地獄と化してしまう映像がものすごい。

二つめは地下鉄事故で、いかにも爆破犯でもいるかのような思わせぶりな演出ではじまるのだが(この前にはジョン自身が妙な行動をして追いかけられる)、地下鉄が暴走し、ホームにまで突っ込んで人を跳ね飛ばしてしまう場面は、これまた目を覆いたくなる。ただし、これはやりすぎで、少なくとも時間だけでも気持ち削った方が、嘘っぽくなくなったのではないか。

三つ目はもう人類(生物)消滅(ポスターは「地球消滅」だけど、それだと言い過ぎような)だから、ものすごいことになる。スケールも大きいが、逆にあれよあれよという感じだろうか。自分の居場所がわかるくらいでないと(登場人物たちの居場所は示されるが)、恐怖心も出てこない。

そう、これは、人類消滅の物語なのだった。

で、映画は何でか五十年前からはじめている。ルシンダという少女がタイムカプセルに入れる絵(のはずだったが)に謎の数字の羅列(時間切れで最後まで書けずに)を残し、それが五十年後に宇宙物理学者のジョン・ケストラー教授の息子ケイレブの手に渡るという手の込んだ話にしているのである。ただ、どうしてそうしたのかが、ちっともわからないのだ。

ルシンダが残した数字の羅列は惨事の予告で、日付と死亡者数に場所(座標軸)なのだった。そして、タイムカプセルで眠っていた五十年間で、そのほとんどが完了し(実際に起こり)、残りがあと三つになっていたというわけだ。

その事実を知ったジョン(9.11や妻が死んだ事故が含まれていたことが、解読の手がかりになる)が、次の惨事を阻止しようとするのだが(これが地下鉄事故になる)、むろんそんな手立てもなく、まあ結果として、右往左往するばかり、で終わってしまう。座標軸が示す交差点を封鎖するように電話をするが信じてもらえず、ムキになっていたけれど、大学教授なのだからそのくらいはわかりそうなはずなんだけどねぇ。

ジョンをそんな行為に駆り立てたのは、あの数字を自分への警告と受け止めたからのようだ。これは妻の事故が大きく影響していて、妻の死に何も感じなかったジョンは、偶然の重なりである未来のことなどわかるはずがないと思い知るのだが、数字の存在を知ってからは、これがあれば妻を救えたはずだと思うようになっていく。

これがさらに、私に救えと言っている、になるのだが、ジョンがそう思うのも無理はない。スーパーフレアが太陽で起きる可能性についての論文も出していたらしいし(それともそういう論文について教授仲間のフィルと話し合ったのだったか)、目の前で連続して起きた事故に、ルシンダ探しで知り合ったその娘のダイアナ(+孫のアビー)とで、ルシンダが書き残した残りの数字の続き(死は全ての人類にやってくる)を突き止めたのだから、ケイレブ経由で数字を手に入れたことは、ジョンにとってもはや偶然であるはずがなかったのだ。

けれどジョンの勘違いは、少々悲しい結末となる。自分は地球を救うヒーローでも、選ばれし者でもなかったのである。選ばれたのは息子のケイレブとダイアナの娘アビーなのだった。

でもまあダイアナの突然の事故死(これもルシンダによって予言されていた)よりははるかにマシだろうか。人類が滅んでいく中、不仲だった父親とも和解した場面も入っていたから。しかしそういうことを考えていくと、ダイアナが九歳の時に自殺したというルシンダなど不幸としかいいようがない一生ではなかったか(娘を授かった喜びとかはあったのだろうが)。何かに憑かれたように数字の羅列を書き殴った時からそのあとも、ルシンダの頭の中からはそのことが消えてくれなかったようであるから。

となると、あの予言(数字)は、別段五十年も眠っている必要があったのかどうかということになってしまう。それとも予言はしてやったのだから、あとは人類が決めることと冷ややかに宇宙人は傍観していたのだろうか。

すべてのことは宇宙人たちのもたらしたことで、だからこれだと宇宙人というよりは神(映像として出てきたのは天使?)になってしまうと思うのだが(予言の部分をなくし、スーパーフレアが起きることだけにすれば高知能の宇宙人の予測ということにもなるのだが)、神のやることは人間にははかりしれないという、超解釈で逃げているようにもみえる。ルシンダには情け容赦がないし、ケイレブとの不可解な接触(黒い石を渡しただけで去ったりしている)も、ケイレブに囁く声が聞ける能力があるかどうかを試していただけなのかもしれないが、やたら回りくどいものだからだ。

映画が何も説明していないのはずるいとしか言いようがないのだが、それにしてはエゼキエル書をもちだしたり、人類の再スタートをアダムとイヴのようにしたり、ジョンの確執の相手が神父だった父だったことなど、過剰な宗教色(欧米の感覚だとこのくらいは普通なのか)がなんともうるさい。

また「世界規模の大惨事」と言っているにしては、映画がはじまってからは、すべてジョンの周りのことばかりと世界規模にはほど遠いもので、最後の場面もルシンダが住んでいた家の側で、選ばれし者まで白人の男の子と女の子(と何故かウサギ二匹)というのもずいぶんな話ではないか。光る水晶の塊のような宇宙船は、ジョンのところでも十機ほどいたから、そしてこれが全世界でも同じことをしていたと考えればいいのかもしれないが、映画にそこまでの言及はなかった。

原題:Knowing

2009年 122分 シネスコサイズ 配給:東宝東和 日本語字幕:林完治

監督:アレックス・プロヤス 製作:アレックス・プロヤス、トッド・ブラック、ジェイソン・ブルメンタル、スティーヴ・ティッシュ 製作総指揮:スティーヴン・ジョーンズ、トファー・ダウ、ノーマン・ゴライトリー、デヴィッド・ブルームフィールド 原案:ライン・ダグラス・ピアソン 脚本:ライン・ダグラス・ピアソン、ジュリエット・スノードン、スタイルズ・ホワイト 撮影:サイモン・ダガン プロダクションデザイン:スティーヴン・ジョーンズ=エヴァンズ 衣装デザイン:テリー・ライアン 編集:リチャード・リーロイド 音楽:マルコ・ベルトラミ

出演:ニコラス・ケイジ(ジョン・ケストラー)、ローズ・バーン(ダイアナ・ウェイランド/ルシンダの娘)、チャンドラー・カンタベリー(ケイレブ・ケストラー/ジョンの息子)、ララ・ロビンソン(ルシンダ・エンブリー/ダイアナの母、アビー・ウェイランド/ダイアナの娘)、ベン・メンデルソーン(フィル・ベックマン/ジョンの同僚)、ナディア・タウンゼンド(グレース・ケストラー)、D・G・マロニー、アラン・ホップグッド、エイドリアン・ピカリング、タマラ・ドネラン、トラヴィス・ウェイト

真夏のオリオン

109シネマズ木場シアター6 ★★☆

■生きるために戦う

すでに敗戦となってから六十四年。現代に結びつけるためには主人公の孫娘に登場願わないではいられないほど昔のことになってしまった(孫娘でもきついような?)。これほど時が経ってしまうと、すぐそこにあったはずの太平洋戦争(もちろん私だって知らないのだが、戦争はそんな私にとっても、そう古くない時期にあったのである)も、映画などには次第に現代風な装飾がほどこされていくのだろうか。

女教師の倉本いずみが古い楽譜を手に鈴木老人を訪ね、祖母有沢志津子の名(署名も欧文というのがねぇ)のある楽譜を、何故アメリカ兵が持っていたかを聞き出す。楽譜にはイタリア語で「オリオンよ、愛する人を導け。帰り道を見失わないように」と書いてあるのだが、まずこの構成(楽譜が悪いというのではない。お守りとして適切かどうかはともかく)が気に入らない。戦争映画のくせに何故か格好を付けているような気がしてしまうのだ。

格好の話でいけば、相変わらず戦争映画なのに長髪で、まあそれは目をつぶるにしても、とても出演者があの頃の戦争当事者には見えない。これは時代劇なのにお歯黒じゃなかったりするのと同じと、そろそろ観念しなくてはならないのかもしれないのだが。

というわけで、戦争映画にしては泥臭さのまったくない作品となった。舞台がイ-77潜水艦なので、その艦長である倉本に言わせると、潜水艦乗りは「いったん海に出てしまえば自由」な場所だからということもあって(倉本がそういう自由な雰囲気を作っていたこともあって)、日本軍につきもののしごきなどの場面もなく、目の前には戦争という個人ではぬぐいきれない困難こそあるものの、その他は善意でなんとかなってしまう世界にしてしまっているのだ。

もっとも同乗している回天の乗組員たちはそんな空気にはなじめずにいるのだが、倉本は特攻兵器の回天でさえ、端っから特攻させる気などなく(軍法会議ものなのじゃないかしら)、駆逐艦の攻撃を受けて動けなくなり酸欠になれば、回天にある高圧酸素を使ってしまうし、攻撃の際には、偽装のため二基の回天を(スクリュー音の数を潜水艦に合わせるため)、乗組員なしで発鑑させてしまう(二つともなかなかのアイデアだった)。

「俺たちは死ぬために戦っている」という彼らに対し、「たった一つの命なのにもったいない」「死ぬために戦っているのではない、生きるために戦っている」と倉本の言は明快なのだが、ここまで格好よくしていられただろうかと、逆に落ち着かなくなってしまうほどだ。

倉本は有沢志津子にも絶対帰ってくると言っていたし、これはやはり今の視点で太平洋戦争を解釈してみせたととった方がわかりやすそうだ。「始めた戦争を終わらせるのも軍人の仕事」とイ-81の艦長有沢(志津子の兄)と語り合うのもそういう視点でのことだったのだ、と思えばとりあえずは納得できる(もちろん、そう考えていた人もいただろうが)。

というわけで、マイク・スチュワートを艦長とする米海軍駆逐艦パーシバルとの戦いも陰湿なものではなく、お互いの存在を認め合ったゲーム的な感覚に終始したものとなっている。倉本とスチュワート艦長が互いに秘術?を尽くしたあとに、イ-77は回天の偽装で駆逐艦の船尾に最後の魚雷を命中させる。撃沈こそできなかったものの一矢を報いたのだ、とうまくまとめている。ただ、敵のソナーをかいくぐっている状況にしては音に無頓着だったり(昔のマンガや映画ではこれがもっと緊迫感ある場面として使われていたが?)、CGやミニチュア?がちゃちに見えてしまうのは残念だった。

攻撃兵器を使い果たしたイ-77はパーシバルの前に浮上するが、スチュワート艦長もいきなりの攻撃はせず、イ-77の総員退艦を待つよう命じる。そしてその時、駆逐艦上が歓声に包まれる。日本の降伏が知らされたのだ。回天搭乗員の遠山は先に行った仲間に顔向けできないと倉本に銃を向け徹底抗戦を迫るが、倉本のこれが終わりではなく始まりだという説得に銃を下ろす。結局倉本のイ-77は、事故で水雷員一人を失っただけで日本に帰ることが出来た、って、うーん、やっぱりなんか格好よすぎなんだけど……。

   

2009年 119分 シネスコサイズ 配給:東宝

監督:篠原哲雄 監修・脚色:福井晴敏 製作:上松道夫、吉川和良、平井文宏、亀井修、木下直哉、宮路敬久、水野文英、吉田鏡、後藤尚雄 プロデューサー:小久保聡、山田兼司、芳川透 エグゼクティブプロデューサー:梅澤道彦、市川南、佐倉寛二郎 企画:亀山慶二、小滝祥平 原作:池上司『雷撃深度一九・五』 脚本:長谷川康夫、飯田健三郎 撮影:山本英夫 視覚効果:松本肇 美術:金田克美 編集:阿部亙英 音楽:岩代太郎 主題歌:いつか『願い星 I wish upon a star』 照明:小野晃 製作統括:早河洋、島谷能成 装飾:尾関龍生 第2班監督:岡田俊二(ニューヨークユニット監督) 録音監督:橋本文雄

出演:玉木宏(倉本孝行/海軍少佐、イ-77潜水艦艦長)、堂珍嘉邦(有沢義彦/海軍少佐、イ-81潜水艦艦長)、平岡祐太(坪田誠/軍医中尉、イ-77軍医長)、黄川田将也(遠山肇/イ-77回天搭乗員)、太賀(鈴木勝海/イ-77回水雷員)、松尾光次(森勇平/イ-77水雷員)、古秦むつとし(早川伸太/イ-81水雷長)、奥村知史(小島晋吉/イ-77水測員)、戸谷公人(山下寛二/イ-81水測員)、三浦悠久(保憲明/イ-77回天搭乗員)、山田幸伸(岡山宏次/イ-77水雷員)、伊藤ふみお(有馬隆夫/イ-77機関科員)、鈴木拓(秋山吾朗/イ-77烹炊長)、北川景子(倉本いずみ、有沢志津子/有沢義彦の妹、いずみの祖母)、デヴィッド・ウィニング(マイク・スチュワート/米海軍駆逐艦パーシバル艦長)、ジョー・レヨーム(ジョセフ・フリン/パーシバル副長)吉田栄作(桑田伸作(特務機関大尉、イ-77機関長)、鈴木瑞穂(現在の鈴木勝海)、吹越満(中津弘/大尉、イ-77航海長)、益岡徹(田村俊雄/特務大尉、イ-77水雷長)

トランスフォーマー リベンジ

楽天地シネマズ錦糸町シネマ4 ★★☆

■何故変身するのか?

一作目の『トランスフォーマー』(2007)同様、映像はよくできているのだが、結局最後までノレなかったのも同じ。私など、なにしろトランスフォーム(変身)する意味がいまだによくわかっていないのだ。もっともこの映画が楽しめる人は、この変身場面だけで十分満足なんだろうが。

オートボットが単なるロボットではなく、金属生命体であり、地球に住むためには変身する必要があるというのは納得できても、戦闘のためにも変身しなくてはならないのは、何かと無理がある。確かにある種の攻撃に特化した最適の形状というのはありそうだ。が、変身するには、そのために余計な労力がいるわけで、さらに変身過程では弱点を晒すことにもなるはずなのだが、ひたすら変身することだけに夢中で、そういう部分には触れようとさえしていない。

こういう部分にこだわった方が戦闘場面だってずっと面白くなると思うのだが、ま、そういうところで映画を作ってはいないのだろう。とにかく派手指向なんで、そんな細かいところまでは気が回らないのかも。逆に、人間にまで変身できるロボットまで、少しとはいえ出してしまっては、マイケル・ベイの頭を疑いたくなる(マイケル・ベイに限らず、すぐこういう禁じ手を使いたがるのは何故なんだ)。

物語が前作からそのまま二年後なのはいいにしても、異星人ロボットたちの戦いに人間が巻き込まれるという話(主人公のサムはキューブのかけらを服に見つけたことで、意味不明の文字や幻覚を見るようになっていた)が、ディセプティコンの復活でまた繰り返されるだけだから芸がない(スケールアップはしているが)。というか、例によって一作目の細かな内容はほとんど忘れてしまっているので、よけいそう思えてしまったのだが。

違うのはすでにオートボットたちと米軍とで同盟のようなものができあがっていることか。それなのに舞台は、エジプトだったりして、ピラミッドという歴史的遺産群を背景に、というかリングに見立てて、度派手な戦いが展開されていく。手を触れてはいけない場所でやりたい放題やってみたいという観客の願望をうまく代弁している。オバマ大統領は早々にシェルターに避難してしまったし、補佐官が暴走してるだけだから、いいらしいよ。

その中をサムたちが、こちらはひたすら人力のみを頼りに目的地へ駆けつけるという対比がなかなかだ(オプティマス復活の鍵をサムが握っているのだ)。ただし、こんなところにまで家族愛を押し込んでくるマイケル・ベイの気持ちがよくわからない(ヨルダン軍まで押し込んでた!)。

家族愛については、最初の方でもサムとの別れを母親のジュディにやたら大袈裟に演じさせていたが、これを面白がれるようなセンスが私にはないのだな。サムのボディガードになっていたバンブルビーとの別れも似たようなもので、少々うるさく感じてしまう。

だから一番感心したのは、米軍空母がまるで隕石のように降ってきたディセプティコンたちに甲板を貫かれ、沈没していく場面で、これには『タイタニック』以来の興奮が蘇った。私としては目まぐるしいだけのぐちゃぐちゃ変身場面(実際、映像的にも何が何だかなんだもの)よりは、よほど血がたぎったのだが……。

  

原題:Transformers: Revenge of the Fallen

2009年 150分 アメリカ シネスコサイズ 配給:パラマウント・ピクチャーズ・ジャパン 日本語字幕:松崎広幸

監督:マイケル・ベイ 製作:ドン・マーフィ、トム・デサント、ロレンツォ・ディボナヴェンチュラ、イアン・ブライス 製作総指揮:スティーヴン・スピルバーグ、マイケル・ベイ、ブライアン・ゴールドナー、マーク・ヴァーラディアン 脚本:アーレン・クルーガー、ロベルト・オーチー、アレックス・カーツマン 撮影:ベン・セレシン プロダクションデザイン:ナイジェル・フェルプス 衣装デザイン:デボラ・L・スコット 音楽:スティーヴ・ジャブロンスキー

出演:シャイア・ラブーフ(サム・ウィトウィッキー)、ミーガン・フォックス(ミカエラ/サムの恋人)、ジョシュ・デュアメル(ウィリアム・レノックス/米国陸軍少佐)、タイリース・ギブソン(ロバート・エップス/米国空軍曹長)、ジョン・タートゥーロ(シーモア・シモンズ/元セクター7のエージェント)、ケヴィン・ダン(ロン・ウィトウィッキー/サムの父親)、ジュリー・ホワイト(ジュディ・ウィトウィッキー/サムの母親)、ジョン・ベンジャミン・ヒッキー(セオドア・ギャロウェイ/国家安全保障問題担当大統領補佐官)、ラモン・ロドリゲス(レオ・スピッツ/サムのルームメイト)、グレン・モーシャワー(モーシャワー将軍/NEST司令官)、マシュー・マースデン(グラハム/SAS“陸軍特殊空挺部隊”エージェント)、レイン・ウィルソン、イザベル・ルーカス、アメリカ・オリーヴォ、サマンサ・スミス、ジャレブ・ドープレイズ

アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン

新宿武蔵野館1 ★★☆

■シタオ=イエス?

私立探偵のクラインは、大企業を裸一貫で育てたという男から息子の捜索依頼を受ける。息子の名はシタオ(木村拓哉が演じていることもあり、日本人と思ってしまうが、シタオというのがねぇ? 妙な名前を考えたものである)。シタオはミンダナオにいると言われたクラインはロサンゼルスから現地へ向かうが、すでにシタオは殺されたという。

どうやらシタオは貧しい人たちを救済しようとしていて、寄付を頼んでまわっていたらしい。寄付を断ると何時間も説得し続け、うるさく感じた者によって殺されてしまったようだ。で、このあとは香港へ舞台が移るのだが、この説明はあやふやだ。「状況は死亡を示しているが、俺の勘は、生きている」って言われてもなぁ(香港の母の墓に花があったという情報はあった)。まあ、捜索費用をふんだんにもらっているんで、香港にまで足を伸ばすくらいは屁でもなかったのだろうが。

このクラインは元刑事で、実は二年前に連続猟奇殺人犯を殺してしまい、そのことが深い傷となっていた。この場面は繰り返されるだけでなく、香港で再会した刑事時代の仲間であるメン・ジーにも、クライン自身が退職理由として語っている(精神科に入院していたとも言っていた)。犯人は二十四人も殺した彫刻家(目がなく口が異様に大きく開いた彫刻のおぞましさを見よ!)で、被害者が生きているうちに切断したのだという。そして、二十七ヵ月犯人を追っていたクラインは「ヤツに同化」してしまう。そのことを「汚染」と形容していたが、しかしこれはあくまでクラインの告白であって、内容に比べるとあっさりしすぎている嫌いがある。

クラインが犯人にどう同化したのかがわかりにくいのだ。そこを明確にし、この話だけに絞った作品にしたら面白いものになったと思うのだが、映画は場面こそ執拗に繰り返すものの、これを挿話のひとつにしてしまっている。実は冒頭の衝撃的な場面がまさにクラインが犯人を追い詰めたところなのだが、ここでの眼目も「イエスの苦悶は終末まで続く」と言わせることにあるようなのだ(つまりそういう物語なのだ、と)。

映画は更にもう一人の人物を登場させる。香港マフィアのボス、ス・ドンポで、彼は姿を消した愛人のリリが、シタオと一緒にいるらしいことを知る。ドンポは卑劣で冷酷極まりない男だ。残忍さも連続猟奇殺人犯に負けていない。それでいてリリには異常な執着をみせるが、このことがリリを薬物中毒から救ったシタオへの憎悪となり、彼を殺してしまう。いや、それはリリがシタオを介抱したからか(むろん、これはリリが快復したあとのこと。シタオもリリによって癒されるのだ)。あるいは、シタオを「世界一美しい」と言ったことへの嫉妬か。または、シタオに「あなたのような人が僕を恐れる」と言われたからだろうか。

シタオについては、ミンダナオではそう明らかにされなかったが、香港に場面が移った直後に、血だらけの子供を、シタオは特殊な力で救っている。他人の痛み(傷)を、自分で引き受けるかのようにして。なるほど彼にはそんな力があったのだ。ドンポに手を打ち付けられるのはまるでイエス・キリストで、これはドンポの悪趣味がそうさせたのかも知れないが、さすがに「あなたを赦す。愚かさの故に」とシタオに言われてしまっては、「地獄を見てきた」ドンポも涙を流さずにはいられない。

この場面の直前には、またクラインと連続猟奇殺人犯の場面があって、「至高の肉体の完成には人類の苦痛が必要」だとか「キリストの受難の完成」「ついに苦悶が成就する」などという言葉がばらまかれているから、どうしてもイエスに関連付けたいのだろう。だが、シタオはイエスなのだろうか(イエスのようだがイエスではない男を語りたいがためにしていることともいえるが、本当のことは私にはわからない)。

シタオは確かに他人の痛みを取り除く奇蹟は見せるが、他の力は明らかにはされていない。いや、復活はしているか。しかも何度も。そしてもしかしたら、香港に来たのはミンダナオからの移動復活だった可能性もある。だが、シタオは、寄付を要求したが、説教はしていないようだ。積極的に神の国を説こうとはしていないのだ。すでにイエスによって行われたことを、神がまたするとは思えないので、この比較は意味がないのだが。

最期は、クラインがシタオのところにやってきて、連れ帰るよう父親に依頼されたことを告げ、シタオの手から釘を外し、お終いとなる。この時シタオは金粉で飾られているのだが、これはシタオの信者らしき青年がしたもので、彼に言わせると主(シタオのことか?)ならば、どこにでも行ける(つまり自由に動けるということなのか?)かららしい。

ここから先は、無神論者の妄想なので、読まない方がいいかもしれない。

シタオ(シタオは下男、つまり神に遣わされた下界の人間なのだ)が何度も復活するのは、愚かな人間が過ちを繰り返すからで、案外イエスが復活を繰り返した結果が、今のシタオなのかもしれない。だから彼はイエスと呼ばれなくても、イエスと同じなのだ。神の国を説かず、幾重にも小ぶりになってしまったイエスだが、神はもう人間には、そんな人物(というか神の子だが)を遣わすしかなく、そして、シタオの父=神は、結局はシタオを回収することにしたのだ。クラインという連続猟奇殺人犯に同化した人間を使者に仕立てて……。

クラインを使者にしたのがグロテスク過ぎるような気もするが、人間はもう神に見放されてしまったのだ。I Come with the Lain なら、いつでも彼はやって来そうだが、回収されてしまった今となっては、彼はもう来ないのである。まあ、私には神はいないので、この妄想は根本的に間違ったものなのだが……。

原題:I Come with the Lain

2009年 114分 フランス シネスコサイズ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ 日本語字幕:太田直子

監督・脚本:トラン・アン・ユン 製作:フェルナンド・サリシン、ジャン・カゼ、ジョン・キリク 製作総指揮:サイモン・フォーセット、アルバロ・ロンゴリア、ジュリー・ルブロキー 撮影:ファン・ルイス・アンチア プロダクションデザイン:ブノワ・バルー 衣装デザイン:ジュディ・シュルーズベリー 編集:マリオ・バティステル 音楽:レディオヘッド、グスターボ・サンタオラヤ

出演:ジョシュ・ハートネット(クライン/私立探偵)、イライアス・コティーズ(ハスフォード/連続殺人犯)、イ・ビョンホン(ス・ドンポ/香港マフィアのボス)、木村拓哉(シタオ/失踪者)、トラン・ヌー・イェン・ケー(リリ/ドンポの愛人)、ショーン・ユー[余文樂](メン・ジー/クラインの刑事時代の仲間)、ユウセビオ・ポンセラ

スター・トレック

新宿ミラノ2 ★★☆

■最強物質電送機

(スタートレックに詳しい人は読まない方がいいかも)

CGの技術が日進月歩だから、というのも理由になるのではないかと思うが、エンタメ系SF人気作のリメイクや続編が装いも新たにといった形で登場(ビギンズやエボリューションとして)している。この作品は題名もシンプルに『スター・トレック』のみ。つまり今までの作品は清算して、ここからまたはじめるつもりなんだろう。

そういうわけで、ジェームズ・T・カークやその他の乗組員たちが、ロミュラン人のネロが引き起こした事件に平行して、揃っていくという物語になっている。ただ、特にファンでもない私など(映画も二、三本しか観ていないはす)、スポックの変わったイメージくらいしか頭に残っていないから、これはおいおいでもよかったのだが……。

カークとスポックに関しては少年時代から始めている。まずカークだが、これがなんとも危ない少年なのだ。度胸試しだけならまだ自己責任と見逃すこともできるが、自分のものでもないビンテージカーを谷底に落としてしまうのはやりすぎ。数年後もその性格はあんまり変わっていなくて、でもそんなカークに目を付けたのが、父の最期の場に居合わした新型艦U.S.S.エンタープライズの初代船長パイクで、12分間だけだったがU.S.S.ケルヴィンの船長で、それでも800人を救った父を超えてみろ(この経緯が巻頭の場面で、カークは父と入れ違うかのように生を受けたのだった)、とカークに言う。

パイクは、無鉄砲な性格が今の艦隊には欠けていると常々感じていたらしいのだが、でもこんなカークが士官になってさらに船を持ったらどうなるのさと思ってしまう(司官昇任試験で不正行為というのも見過ごせない)。まあ、だから直情的なカークと論理的なスポックというなかなか得難いコンビの誕生になるのだろうけど。でもねぇ。

このあとU.S.S.エンタープライズに乗り込むことになるのも緊急事態に乗じてだし(ボーンズの機転による)、何ともいい加減なものなのだ。で、最期には正式な船長になってしまうのだけど、なんだかえらく軽いノリなんだよね。さすがに見かねて(としか思えないのだ。自分は感情に負けて船長の座を降りたのに、こいつときたら……、だからね。って、この文章は感情的だが)、スポックがサブリーダーに立候補するのだけど、スポックの補佐がないのだったらカークには辞めてもらう他ないんだもの。ただの戦闘機乗りならともかく、U.S.S.エンタープライズの船長となるとねぇ。

スポックの生い立ちについては、直情的なカーク篇に比べるとよく出来た話になっている。論理的なスポックではあるが、これはそもそもバルカン人の特性で、彼の場合は母が地球人という特殊な状況があり、実は彼にも感情を抑制できない時期があった(実際にはまだ過去形にはなっていなかったのだが)というのが興味深い。逆にいうと、そういう部分を持ちながら常に冷静でいられるようになったのだとしたら……。そして、混血のスポックには、ウフーラとの恋まで用意されているのだ。

このことと関連して気になるのがスポックの父の発言で、地球人と結婚したのは観察のため、とせっかく言わせておきながら、結局は愛していたから、と前言を取り消してしまう。これは非情でも、というかそれがバルカン人なのだから(バルカン人には恋という概念もなさそうなんで)、母の愛情だけでもよかったのではないか。あくまで父親はバルカン人としてふるまってくれないと、スポックが混血でなくてはならない理由がなくなってしまう。ただでさえ流れとしては、論理を捨て正しいと思ったことをせよ、なんだから。で、これには大いに反論したいのだが、映画とは関係なくなりそうなのでやめておく。

ところで、今回の敵のネロだが、これは採掘船ごと未来からやってきたという設定。だからとんでもない科学力も持っていて、惑星を巨大ドリルで穴を開け、赤色物質で惑星ごと消してしまうてんだからイヤになる(これでバルカン星は六十億の民が犠牲になってしまう)。なんでこうまでして派手にするかねぇ(巨大ドリル、よくできてるんだけどね)。さらには老人スポックまで未来からきて、こう都合よく時間移動されちゃうと、緊張感も何もあったもんじゃないんだけれど。

で、さらに調子が狂ってしまったのが、エンジニアのモンゴメリィ・スコットによる物質電送で、これがワープしている船にも転送できちゃったり、最期には「二ヶ所から三人の転送ははじめて」と、もうはしゃぎまくりの使いまくりなんだもの。絶体絶命で転送、って、ある意味最強じゃん! 観客の中にこれが受けて大声で喜んでいた人がいたが、そのくらいの気持ちで観ないと楽しめないかなぁ、と反省。だって、そもそもそういう話なんだろうから。

じいさんにはめまぐるしい作品だったが、宇宙空間の美しさにはひきこまれた。いや、わかってますって、CGなのは。

 

原題:Star Trek

2009年 129分 アメリカ シネスコサイズ 配給:パラマウント 日本語字幕:松崎広幸

監督:J・J・エイブラムス 製作:レナード・ニモイ、J・J・エイブラムス、デイモン・リンデロフ 製作総指揮:ブライアン・バーク、ジェフリー・チャーノフ、ロベルト・オーチー、アレックス・カーツマン 原作:ジーン・ロッデンベリー 脚本:ロベルト・オーチー、アレックス・カーツマン 撮影:ダン・ミンデル 視覚効果スーパーバイザー:ロジャー・ガイエット プロダクションデザイン:スコット・チャンブリス 衣装デザイン:マイケル・カプラン 編集:メリアン・ブランドン、メアリー・ジョー・マーキー 音楽:マイケル・ジアッキノ

出演:クリス・パイン(ジェームズ・T・カーク)、ザカリー・クイント(スポック)、エリック・バナ(ネロ)、ウィノナ・ライダー(アマンダ・グレイソン/スポックの母)、ゾーイ・サルダナ(ウフーラ)、カール・アーバン(レナード・“ボーンズ”・マッコイ/医師)、ブルース・グリーンウッド(クリストファー・パイク)、ジョン・チョー(スールー)、サイモン・ペッグ(スコッティ)、アントン・イェルチン(パーヴェル・チェコフ)、ベン・クロス(サレク/スポックの父)、レナード・ニモイ(未来のスポック)、クリス・ヘムズワース(ジョージ・カーク)、ジェニファー・モリソン(ウィノナ・カーク)、ジミー・ベネット(少年期のジェームズ・T・カーク)、ヤコブ・コーガン(少年期のスポック)、ファラン・タヒール、レイチェル・ニコルズ、クリフトン・コリンズ・Jr、グレッグ・エリス、ケルヴィン・ユー、アマンダ・フォアマン

ウォーロード 男たちの誓い

新宿ミラノ3 ★★☆

■投名状の誓いの重さ

『レッドクリフ』二部作の物量攻勢の前では影が薄くなってしまうが、こちらもジェット・リー、アンディ・ラウ、金城武の共演する歴史アクション大作である。アクション映画としての醍醐味はもちろんだが(物量ではさすがにかなわないが、リアルさではこちらが上だ)、戦いの本質や指導者の力量といったことにまで踏み込んだ力作になっている。

時は十九世紀末、外圧によって大国清の威信は大いにぐらつき、足元からも太平天国の乱などが相次いで起きていた。

友軍の助けを得られず、千六百人の部下を失った清軍のパン将軍は、ある女に介抱され一夜を共にしたことで、再び生きていることを実感する。そしてウーヤンという盗賊に見いだされ、アルフ率いる盗賊団の仲間となり、三人は投名状という誓いの儀式(これも『三国志』の桃園の誓いと似たようなものだものね)を交わし義兄弟となる。また、アルフに会ったことでパンは、あの時の女リィエンがアルフの妻だったことも知るのだった。

アルフは盗賊団となった村人たちからの信望が厚く、統率力もあるのだが、所詮やっていることは盗賊行為のため、クイの軍隊(清)がやってきてそのことを咎められ、逆に食料を持ち去られてしまう。軍に入れば俸禄がもらえるのだから、盗賊行為はやめようというパンの助言で清軍に加わることになり(三人が投名状の誓いをするのはこの時)、手土産に太平軍を襲うことを決める。

結束した三人は次々と戦果をもたらし、パンを将軍とした彼らの力は清の三大臣も認めるところとなる。そして、ハイライトともいうべき蘇州城攻めになるのだが、ここには終戦を望まない三大臣や、どこまでも状況を見てからでないと動かないクイ軍らの思惑がからんだものになっていて、いってみればアルフのような盗賊の首領としてなら通用するような世界ではないところに、三人は来てしまっていたのだった(でありながら、開城はアルフの力によるという皮肉な流れとなっている)。

この戦いはお互いが共倒れになりそうな壮絶なものとなり、結果は投降兵の殺害という、アルフが蘇州城主を騙したようなことになってしまう(パンにとっては四千人の捕虜を養う食料がないという、当然の理由になるのだが)。このことがあって、信義を重んじるアルフと、大義のためなら手段を選ばないパン、という亀裂となっていく。ウーヤンはパンの野望の中にも希望を見ていて、だからパンの正しさを何度も口にするのだったが、パンとリィエンの密会現場を目の当たりにしたことで、リィエンを殺してしまう。

実はここにもクイたちの陰謀があって、アルフは闇討ちにあってしまうのだが、それをパンの仕業と思ったウーヤンは、南京攻略の功績により西太后から江南と江北両江の総督に任命されたパン(これはウーヤンも望んでいたことだったのに)までを殺してしまうことになる。

投名状の誓いをした三人の、それぞれの考え方の違いを鮮明にした図式的構成は申し分ないのだが、ウーヤンの行動がそれをぶち壊している。リィエン殺害も、アルフがパンに殺されないようにと思ってのことなのだが、そしてそれには投名状という絶対守られねばならないものがあるにしても、ウーヤンの行動はそうすんなりとは理解出来ない。ナレーションをウーヤン当人にしているにしては、手際の悪いものだ。

理解しづらいのはリィエンもで、冒頭のパン介護はすでにアルフの妻なのだから(パンは知らなかったこととこの時点では弁解もできようが)ずいぶんな感じがして、観ている間中、ずっと気になっていた。が、リィエンについては、ウーヤンに殺害されると知って、「来年は二十九」で「私を殺すと夫を救えるの」か、と彼に子供っぽい抗いの言葉を口にしている場面があり、これで、それこそ何となくではあるが、彼女の心情がわかるような気になってしまったのだった。

両江総督の馬新貽の暗殺事件(千八百七十年四月十八日)が基になっているとサイトにある。手元の『世界の歴史19 中華帝国の危機』(中央公論社)をあたってみたが、この程度の概略世界史では簡単な記述にもならないようだ。けれど、この時期の列強と清の関係、また太平天国の乱など、どれも驚くような興味深い話ばかりで、もちろん、この映画で敵になる太平天国側についてほとんど何も触れていないのは、時間的制約からも正しい選択なのだが、もっともっと映画にされていい題材(時代)だろう。

もう当たり前になってしまった日本語版エンディングテーマ曲だけど、いい加減やめてほしいよね。

原題:投名状 英題:The Warlords

2008年 113分 中国、香港 シネスコサイズ 配給:ブロードメディア・スタジオ PG-12 日本語字幕:税田呑介

監督:ピーター・チャン 共同監督:イップ・ワイマン アクション監督:チン・シウトン 製作:アンドレ・モーガン、ピーター・チャン 脚本:スー・ラン、チュン・ティンナム、オーブリー・ラム 撮影:アーサー・ウォン プロダクションデザイン:イー・チュンマン 衣装:イー・チュンマン 音楽:ピーター・カム、チャン・クォンウィン

出演:ジェット・リー(パン・チンユン)、アンディ・ラウ(ツァオ・アルフ)、金城武(チャン・ウーヤン)、シュー・ジンレイ(リィエン)、グオ・シャオドン(蘇州城主ホアン)

ある公爵夫人の生涯

テアトルタイムズスクエア ★★☆

■世継ぎが出来りゃいいのか

いやはや、途中で何度もため息をついてしまったがな。だって、世継ぎを産む道具だった女の半生、でしょう。こういうのだって一種のトンデモ映画だよね。まあ、映画じゃなくて時代(十八世紀後半の英国)がそうだったのだろうけど。

多分スペンサー家に更なる名声が欲しかった母親の引導のもと、デヴォンジャー公爵に嫁がされたジョージアナだが、男の子(世継ぎ)さえ産んでくれればいいと思っている公爵の願いは叶えられず、産まれてきたのは二人とも女の子だった(男の子は二度流産してしまう)。

ジョージアナが嫁いだときにはすでに公爵には隠し子のシャーロット(家政婦の子のようだ)がいて、お腹の大きい時に「練習にもなるから」(うはは)と、その子の世話も押しつけられてしまう。けれど、シャーロットを我が子として可愛がっても、彼女や産まれてきた子供たち、そしてジョージアナに公爵が関心を寄せることはなかった。

「犬以外には無関心」とジョージアナは言っていたが、むろんそんなことはなく、あろうことか(じゃなくて家政婦に手当たり次第手をつけていたのと同じ感覚で)親友になったエリザベス・フォスターとも寝てしまう。映画だと公爵は政治にも興味がなさそうにしていたから、犬と女、だけらしい。

そして、ことが発覚しても三人の同居生活を崩そうとはしないのだ。ジョージアナとは性的に合わなかったのだろう。だから世継ぎが産まれても結局二人の関係は修復しない(注)。それならば(かどうか)と、自分もかつて心をときめかせたことのあるチャールズ・グレイ(ケンブリッジを出て議員になっていた)と密会し、こちらもエスカレートしていくのだから世話はない(物語としては、彼との間に娘ができたり、子供を取るか愛人を取るかのような話にもなる)。

よくわからないのは、私生児を世継ぎには出来ないと公爵が言っていることで、これは世間体とかではなく公爵自身がそう思っているようなのだ。妻の不倫も、もしや男の子でも宿ってしまったら、と思っての怒り爆発なのだろうか。好きとか嫌いではなく、血統がよければ、だから本当に女は子供を産む道具と考えていたのだろうが(ということはやはり当時の常識=世間体なのか)、映画がジョージアナ目線で描かれているため、公爵の真意は現代人には謎である(当時の人には、ジョージアナの考え方の方が謎だったかも)。

とにかく呆れるような話ばかりなのだが、私も人の子、スキャンダルには耳を欹ててしまうのだな(だからってジョージアナがダイアナ妃の直系の祖先みたいな売りは関心しないし、それには興味もないが。そして映画でもそんなことには触れていない)。で、まあ退屈することはなかったのだけど。

当時の公爵は、その夫人も含めて、庶民にとっては現在のスター並なのが興味深い。ジョージアナは社交的で、政治の場にも顔を出す(利用されたという面もありそうだ)し、ふるまいやファッションも取り沙汰される。たしかにあんな広大な邸宅に住んでいたら、情報や娯楽が少ない時代だから、それだけでスターになってしまうのだろう。母親がジョージアナより公爵の意見を優先するのもむべなるかな、なのだった。

ところでジョージアナの相手のグレイは彼女の幼なじみみたいなものなのだが、最後の説明で、後に首相になったそうな。うーむ。むろんスキャンダラスな部分と政治的手腕とは別物だし、とやかく言うようなことではないんだが……。

注:男の子は、公爵のレイプまがいの行為の末に授かる。産まれると小切手がジョージアナに渡されるのには驚くが、これを見ても本当に結婚は単に男子を産むという契約にすぎなかったんだ、と妙なところで感心してしまった。

原題:The Duchess

2008年 110分 イギリス、フランス、イタリア シネスコサイズ 配給:パラマウント・ ピクチャーズ・ジャパン 日本語字幕:古田由紀子

監督:ソウル・ディブ 製作:ガブリエル・ターナ、マイケル・クーン 製作総指揮:フランソワ・イヴェルネル、キャメロン・マクラッケン、クリスティーン・ランガン、デヴィッド・M・トンプソン、キャロリン・マークス=ブラックウッド、アマンダ・フォアマン 原作:アマンダ・フォアマン『Gergiana:Duchess of Devonshire』 脚本:ソウル・ディブ、ジェフリー・ハッチャー、アナス・トーマス・イェンセン 撮影:ギュラ・パドス プロダクションデザイン:マイケル・カーリン 衣装デザイン:マイケル・オコナー 編集:マサヒロ・ヒラクボ 音楽:レイチェル・ポートマン

出演:キーラ・ナイトレイ(ジョージアナ)、レイフ・ファインズ(デヴォンジャー公爵)、ドミニク・クーパー(チャールズ・グレイ/野党ホイッグ党政治家、ジョージアナの恋人)、ヘイリー・アトウェル(レディ・エリザベス・フォスター/ジョージアナの親友、公爵の愛人)、シャーロット・ランプリング(レディ・スペンサー/ジョージアナの母)、サイモン・マクバーニー(チャールズ・ジェームズ・フォックス/野党ホイッグ党党首)、エイダン・マクアードル(リチャード・シェリダン)、ジョン・シュラプネル、アリスター・ペトリ、パトリック・ゴッドフリー、マイケル・メドウィン、ジャスティン・エドワーズ、リチャード・マッケーブ

おっぱいバレー

109シネマズ木場シアター4 ★★☆
109シネマズ木場ではこんなもん売ってました

■実は実話

頑張ってみたら何とかなるかもよ映画のひとつ。味付けは新任美人教師のおっぱい。って、えー!なんだけど、男子バレー部員たち(たって5人+あとから1人)のあまりのやる気のなさに、つい「本気で頑張るなら何でもする」と美香子先生が言ったことから、次の大会で一勝したら先生のおっぱいを見せると約束させられてしまったのだった。

ぬぁんと映画は、ほぼこの話だけで最後まで引っぱっている。なのでこの顛末は、さすがにうまくまとめてある(注1)。美香子がなんとか約束を反故にさせようとしたり、でも部員たちは「おっぱいあっての俺たち」だと取り合わないし、「おっぱいを見ることが美香子への恩返し」なんていう結論まで導き出して俄然やる気をおこし、メキメキ上達していく。で最後には美香子までが「私のおっぱいを見るために頑張りなさい」って。うへー。これは亡くなった恩師の家を訪問して、恩師の妻の昔話で気づかされたことや、おっぱいの件が問題になって学校を辞めざるをえなくなっての発言なのだけど。

でも結局、当然美香子のおっぱいは見られない。不戦勝という願ってもない事態には「すっきりした形で見たい」からと辞退してしまうし、美香子の応援で盛り返した試合も、本気になった強豪校が一軍にメンバーチェンジしてしまっては歯が立つはずもなく、なのだった。そりゃそうだ。そして、おっぱいは見られないからというのではないのだが、映画もそんなには面白くなかった。生徒の方はおっぱいは見られなくても、先生の胸に飛び込むことができて、別の満足を得たのだったが(胸に飛び込む練習もしていたというのが可笑しい)。

ひとつには映画の視点が生徒ではなく先生の方にあったことがある。もちろんそれでもかまわないのだが、でも美香子を中心にするなら、何の経験も関係もないバレー部に、いくら顧問にさせられたからといって、何故そこまでのめり込んだのかという前提部分はしっかり描いてほしいのだ。普通に考えれば顧問より授業に対する比率が多くなって当然なのに、そこらへんは割り切ってしまったのだろうが、だったらそれなりの説明はすべきだろう。

前の学校での美香子の嘘発言が生徒の信頼を裏切ってしまい、そのことがおっぱいを見せるという言質を取られることになるわけだが、これももう少し何か別の要因がないと、美香子は学校の先生としては未熟すぎるだけになってしまう。だいたい最初の新任挨拶で、高村光太郎の『道程』が好きと言って騒然となる朝礼場面からして、国語教師にしては言葉のセンスがなさすぎで(挨拶でなくとっさに出てしまったのならともかく)、頼りないったらありゃしないのだけど(注2)。

あとはやはりバレーをやっている場面がもの足りない。練習風景も試合も、もっと沢山見せてくれなくっちゃ。それもヘタクソなやつでなくうまい方のもね。

中学生のおっぱい見たい発言というのも、どうなんだろ。頭の中はそうにしても、口に出せただろうか。これは世代や時代(舞台は一九七九年の北九州)の差かもしれないので何とも言えないのだが、私のようなじじいなりかけ世代にはとても考えられない状況だ。

綾瀬はるかは、サイボーグに座頭市と、人間離れした役はうまくこなしていたと思うのだが、『ハッピーフライト』とこれはちょっと評価が難しい。

ところで映画のチケットを買うのに「おっぱい」という言葉をいうのが恥ずかしい人にと、「OPV」という略称が用意されていたが、恥ずかしいと思っているのがわかっちゃう方が恥ずかしかったりはしないのかしら。私はちゃんと言いましたよ、もう昔の中学生じゃないんで。題名を言わなきゃいけないのはシネコンだからだよね。ピンク映画のシネコンがあったとして(ないか)、どうしても観たいのがあったら、そりゃ恥ずかしいでしょうね。

注1:アイデアがひらめいた後、無理矢理話を考えていったのだろうと思っていたが、原作の『おっぱいバレー』は、著者である水野宗徳が実話を基に書いた小説のようだ。

注2:この場面を嘘っぽく感じたものだから、デッチ上げ話と思ってしまったのだった(って、この場面が原作にあるかどうかは知らないのだが)。

  

2008年 102分 シネスコサイズ 配給:ワーナー=東映

監督:羽住英一郎 製作:堀越徹、千葉龍平、阿部秀司、上木則安、遠藤茂行、堀義貴、西垣慎一郎、平井文宏 プロデューサー:藤村直人、明石直弓 プロデュース:堀部徹 エグゼクティブプロデューサー:奥田誠治、堀健一郎 COエグゼクティブプロデューサー:菅沼直樹 原作:水野宗徳『おっぱいバレー』 脚本:岡田惠和 撮影:西村博光 美術:北谷岳之 音楽:佐藤直紀 主題歌:Caocao『個人授業』 照明:三善章誉 録音:柳屋文彦

出演:綾瀬はるか(寺嶋美香子)、青木崇高(堀内健次/教師)、仲村トオル(城和樹/良樹の父)、石田卓也(バレー部先輩)、大後寿々花(中学時代の美香子)、福士誠治(美香子の元カレ)、光石研(教頭)、田口浩正(竜王中男子バレー部コーチ)、市毛良枝(美香子の恩師の妻)、木村遼希(平田育夫)、高橋賢人(楠木靖男)、橘義尋(城良樹)、本庄正季(杉浦健吾)、恵隆一郎(江口拓)、吉原拓弥(岩崎耕平)

レッドクリフ Part II 未来への最終決戦

上野東急 ★★☆

■決戦の運命は女二人に託される

CGがどこでもドアになって以来、スペクタクル物には不感症気味になっているので、そのことについてはあえて書かない(つまらないと言っているのではないよ。そりゃ大したものなのだ。それにCGを否定するつもりはないし、どころか使い方によっては歓迎さえしているのだが)。

前篇で赤壁の戦いを前にして、次のおたのしみはこの後篇で、とはちゃっかりしたものだが、とはいえ、大方の人が知っている話を二部作にしたわけだから工夫は必要で、Part IIでは大決戦を女二人に託すこととなった。これには孔明の風読みの知恵もかすれ気味だ(まあね。だって気象学の知識はすごくても、偶然待ちには違いないんで)。

まず、孫権の妹尚香は、大胆にも敵地に乗り込んでいってスパイ活動をする。これが、男装もだけど体型まで誤魔化してだから(体に敵の戦力配置をしたためた紙を巻いて太っちょになっている)もうマンガでしかない。けれど尚香と蹴鞠(といってもサッカーに近いものになっていた)がうまくて千人部隊の隊長に抜擢された孫叔材との恋は微笑ましかった。もっとも孫叔材の方は尚香をデブ助と呼んでいるくらいで、女とは思っていないから彼にとっては友情なのだが。

もう一人は、周瑜の妻の小喬。そもそも曹操は彼女を狙ってこの戦いを挑んできたという噂があるくらいだった。この時代にそんな噂が遠くまで飛び交うとは思えないが、けれど、噂というのはあなどれないからねぇ。で、小喬はこれまた単身で(お腹の子は勘定に入れなければね)、こちらは正面から曹操の元へと出向いて行く。

曹操の機嫌を取りにね。そして、それは夫を想うが故ながら、しかし考えようによっては思い上がりもはなはだしい。じゃないか、ちゃんと「夫の為でなく民の為に来た」と曹操に向かって正義を説いてはいたが、でもそれだって、私には思い上がりにみえてしまったのだった。小喬が曹操を評して「お茶を解さない方」と言ったのが、引っかかっているからなんだけど。映画だと口に出さないといけないからにしても、こういうのは言ってしまうとなぁ。

結局、小喬がお茶の相手をしたことが、風向きが変わるまでの時間稼ぎとなる。これが呉蜀連合軍が、数で圧倒する魏軍を火攻めで打ち負かす要因になるのだが、小喬はそこまで知っていたのだろうか。ま、それはともかく、結果、小喬大活躍の巻なのだった。尚香のスパイ活動共々、どこまで三国志に書かれているのかはよく知らないのだが、もう少し控え目でよかったのではないか。

女二人に活躍の場を与えてしまったので、その皺寄せは呉蜀連合の男共にきてしまう。ヒーローたりうる頭数はいるのに、話が分散気味なのだ。周瑜が一応中心なのはわかるが、小喬のことで足を引っぱられているような気がしなくもない。もしや、小喬はすすんで曹操の元に行ったとか、って、そういう話にはなりっこないのだが、個人的に小喬があまり好ましく思えなかったものだから、ついそのことを気にしてしまっていたようだ。

曹操はやることが冷酷だし、なにしろ兵隊は沢山いるし(注)、判官贔屓で悪役になるしかないのだが、部下の志気を高める心遣いなど天性のものがあったのか、呉に勝ったら税は三年免除、などと太っ腹なことを言っていた。が、曹操自ら疫病が蔓延しているところに行って、病気の兵士に粥を食べさせたり家族の話を聞かせたりはやりすぎで、話が途端に嘘臭くなる。

判官贔屓で悪役と書いたが、最後になってくると一人で悪役を引き受けているようで、曹操が逆に気の毒に見えてくる。「たった一杯の茶で大義を失った。皇帝の命で来たのだぞ」と自嘲気味に言う場面では少なからず同情してしまう。彼なりの大義で天下を統一しようとしていただけなのに、と。

それにしても『未来への最終決戦』とは、ひどい副題を付けたもんだ。史実はともかく、映画だと「去れ! お前の地に戻るがよい」と曹操を解放してしまうんで(そりゃないよね)、未来への最終決戦だったのに、また争いの種を蒔いてるようなものなんだもの。

注:映画だと八十万対五万、二千隻対二百隻。どこまで本当かは知らないが、この数字が確かなら関ヶ原の戦いの五倍ほどの規模になる。以前なら眉唾に却下してしまったはずだが、故宮や万里の長城を実際に目にしてきた今は、あながちデッチ上げとは思えずにいる。

原題:RED CLIFF: PART II 赤壁

2009年 144分 アメリカ、中国、日本、台湾、韓国 シネスコサイズ 配給:東宝東和、エイベックス・エンタテインメント 翻訳:鈴木真理子 日本語字幕:戸田奈津子 日本語版監修:渡邉義浩

監督:ジョン・ウー[呉宇森] アクション監督:コリー・ユン 製作:テレンス・チャン[張家振]、ジョン・ウー 製作総指揮:ハン・サンピン[韓三平]、松浦勝人、ウー・ケボ[伍克波]、千葉龍平、デニス・ウー、ユ・ジョンフン、ジョン・ウー 脚本:ジョン・ウー、チャン・カン[陳汗]、コー・ジェン[郭筝]、シン・ハーユ[盛和煜] 撮影:リュイ・ユエ[呂楽]、チャン・リー[張黎] アクション監督:コリー・ユン[元奎]  編集:デビット・ウー、アンジー・ラム[林安児]、ヤン・ホンユー[楊紅雨] VFX監督:クレイグ・ヘイズ VFX:オーファネージ 美術・衣装デザイン:ティム・イップ[葉錦添] 音楽:岩代太郎 主題歌:アラン

出演:トニー・レオン[梁朝偉](周瑜)、金城武(孔明/諸葛亮)、チャン・フォンイー[張豊毅](曹操)、チャン・チェン[張震](孫権)、ヴィッキー・チャオ[趙薇](尚香/孫権の妹)、フー・ジュン[胡軍](趙雲)、中村獅童(甘興)、リン・チーリン[林志玲](小喬/周瑜の妻)、ユウ・ヨン[尤勇](劉備)、ホウ・ヨン[侯勇](魯粛)、トン・ダーウェイ[菴汨蛻ラ](孫叔材/曹操軍の兵士)、ソン・ジア[宋佳](驪姫/曹操の側室)、バーサンジャプ[巴森扎布](関羽)、ザン・ジンシェン[臧金生](張飛)、チャン・サン[張山](黄蓋)

マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと

新宿武蔵野館1 ★★☆

■犬と生きた幸せな時間

副題と予告篇とで観る気を失っていたのだが(なのに観たのね)、意外にもしっかりと作られた映画だった。お話しはありきたりながら、犬と暮らした年月に重ね合わせた人間の時間を丁寧に綴ったことで、ジョン・グローガンという男の壮年期を描くことに成功している。

幸せな結婚、記者に憧れながらコラムニストに甘んじるジョン、仕事をあきらめ子育てに専念するジェニー……。どこにでも転がっている話だ。誰もが想い描いた人生を生きられるわけではないのだ。が、志を曲げたからといって必ずしも不首尾な人生というわけではないのだよ、とほんわりと包んでくれる。

それはそうなのだろう。私だって異議を唱えることではないことくらいわかっているつもりなのだが、けれど、これをそのまま映画として提出されると、いくら丁寧に作られているとはいえ、多少の疑問を感じざるをえない。実際のところ、平凡の中に幸せを見つけることは、そんなに簡単なことではないし、それこそが素晴らしいことなのだとは思うのだが……。

子供を育てるには予行演習必要だという記者仲間のセバスチャンの助言で、ジョンはラブラドール・レトリバーの子犬をジェニーの誕生日にプレゼントする。けど、このマーリーが馬鹿犬で……。まあ確かにそうなんだが、それは躾ができているかどうかという人間の都合だからなぁ。それでも、溺愛しちゃうんだろうね、わかるよな、ジョンたちの気持ち。

子犬のマーリーが海岸を全力で走る姿がとても素敵に撮れていた。

原題:Marley & Me

2008年 118分 シネスコサイズ 配給:フォックス映画 日本語字幕:松浦奈美

監督:デヴィッド・フランケル 製作:カレン・ローゼンフェルト、ギル・ネッター 製作総指揮:アーノン・ミルチャン、ジョセフ・M・カラッシオロ・Jr 原作:ジョン・グローガン『マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと』 脚本:スコット・フランク、ドン・ルース 撮影:フロリアン・バルハウス プロダクションデザイン:スチュアート・ワーツェル 衣装デザイン:シンディ・エヴァンス 編集:マーク・リヴォルシー 音楽:セオドア・シャピロ

出演:オーウェン・ウィルソン(ジョン・グローガン)、ジェニファー・アニストン(ジェニー・グローガン)、エリック・デイン(セバスチャン・タンニー)、アラン・アーキン(アーニー・クライン)、キャスリーン・ターナー(ミス・コーンブラッド)、ネイサン・ギャンブル、ヘイリー・ベネット、クラーク・ピータース、ヘイリー・ハドソン、フィンリー・ジェイコブセン、ルーシー・メリアム、ブライス・ロビンソン、トム・アーウィン、アレック・マパ、サンディ・マーティン、ジョイス・ヴァン・パタン

アンダーワールド ビギンズ

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★☆

■ぐちゃぐちゃ混血異人種戦争

今回監督がレン・ワイズマンからパトリック・タトポロスに変わっている。が、そもそもタトポロスは前二作の関係者であるし、ワイズマンも製作には名を連ねていて、だからかあの独特の雰囲気はちゃんと受け継がれているから、アンダーワールドファンなら十分楽しめるだろう。ただ、私のような中途半端なファンには、今更という感じがしなくもなかった。

時代が大幅に遡ったことで、当然使われる武器も、銃器から弓や剣などの世界に逆戻りすることになった。射抜く太い矢のすさまじさなど、映像の力は相変わらずなのだが、古めかしいヴァンパイアものがスタイリッシュにみえたのは、なんのことはないあの銃撃戦にあったような気がしてきた。

また、込み入ったヴァンパイアとライカンという部分の説明を外すと、単純な奴隷の反乱を扱った史劇のイメージとそう変わらなくなってしまうことにも気づく。まあ、こんなこと言い出したらほとんどのものが従来の物語と同じになってしまうのだろうが。

時間軸でいけばこれが最初の話になるわけで、三部作が順を追っての公開だったなら、もう少しは興味が持てただろうか。前二作を見直してちゃんと予習しておけばいいのだが(なにしろ忘れっぽいんで)、DVDを観る習慣も余裕もないので、巻頭のナレーションによる説明は、むろん理解を助けるために入れてくれているのだろうが、駆け足過ぎて私には少々きつかった。

ヴァンパイア(吸血鬼族)とライカン(狼男族)が同じ人間から生まれたというのはむろん覚えていたが、ルシアンがそれまでの狼男族の突然変異で、ライカンとしては彼が始祖。ありゃ、これはウィリアムじゃなかったのね。ウィリアムは狼男の始祖であって、狼男の進化形がライカン、か。やっぱり混乱しているなぁ。

ルシアンが人間族を咬むとライカンになる。それをビクターは奴隷としていた。奴隷製造器としてのルシアンは、ビクターにとって大いに利用価値があり優遇されていたが、他のヴァンパイアたちにとっては同胞ではなく、やっかみの対象にすぎない。そしてそんなルシアンは、ビクターの娘ソーニャと愛し合う仲になっていた。もちろんこのことはビクターたちにはあかせるはずもないことだ。だが、ビクター側近のタニスに勘付かれ(彼はこのことを議席を得る為の取引材料にする)、結局はビクターの知ることとなって、悲劇へと繋がっていく。

ルシアンはソーニャを守るためにライカンに変身する。力を得るためだが、それには首輪を外すという禁を犯す必要があり、ビクターに背いたルシアンは奴隷に戻らされてしまう。ソーニャを守るためには平気でライカンを殺してしまうが、抑圧されたものとしてのライカンには同情もする。ライカンたちもルシアンにつくられたからか、ライカンとなったルシアンの声は聞こうとする(ライカンを殺したことと矛盾するような気もするが)。

運命とはいえ、ルシアンという人間(じゃなくてライカンか)の置かれたこの微妙な立場には、思いを馳せずにはいられない。

しかし映画は、娯楽作であるためのスピード感を重視したせいか、複雑な立ち位置にいるルシアンというせっかくの題材を生かしきれずに、ライカンの反乱劇へと進んでしまう。ソーニャとの恋も、同じ理由で始まり部分を入れていないのだろうか。全部を描けばいいというものではないが、結局はライカンとして生きるしかないルシアンの苦悩が弱まってしまったような気がしてならない。

それにしてもこの物語は、吸血という血の混じりが新たな人種を生み、さらにそれが混じって複雑な関係となり、無間地獄のような状況を作り出している。それがヴァンパイアとライカンとのことなので(前作では人間マイケルがヴァンパイアとライカンの血を得て変身という展開もあったが)、鼻で笑って観ているわけだが、これはそのまま、我々のいる今の世界ではないか。

セリーンがビクターの娘に似ていることが反映されて、ソーニャはケイト・ベッキンセイル似(そうか?)のローナ・ミトラになったらしいが、魅力はもうひとつ。マイケル・シーンにもそんなには感心できなかった。セリーン似と禁断の恋とで「過去に、もう一人の私がいた」というのがコピーになっているが、「いま明かされる女処刑人の謎」にはなっていない。というか謎はすでに解けちゃってるんでは?

原題:Underworld:Rise of the Lycans

2009年 90分 アメリカ シネスコサイズ 配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント R-15 日本語字幕:藤澤睦実

監督:パトリック・タトポロス 製作:トム・ローゼンバーグ、ゲイリー・ルチェッシ、レン・ワイズマン、リチャード・ライト 製作総指揮:スキップ・ウィリアムソン、ヘンリー・ウィンタースターン、ジェームズ・マクウェイド、エリック・リード、ベス・デパティー キャラクター創造:ケヴィン・グレイヴォー、レン・ワイズマン、ダニー・マクブライド 原案:レン・ワイズマン、ロバート・オー、ダニー・マクブライド 脚本:ダニー・マクブライド、ダーク・ブラックマン、ハワード・マケイン 撮影:ロス・エメリー プロダクションデザイン:ダン・ヘナ 衣装デザイン:ジェーン・ホランド 編集:ピーター・アムンドソン 音楽:ポール・ハスリンジャー

出演:マイケル・シーン(ルシアン/ライカンの始祖)、ビル・ナイ(ビクター/ヴァンパイア族領主)、ローナ・ミトラ(ソーニャ/ビクターの娘)、スティーヴン・マッキントッシュ(タニス/ビクターの副官)、ケヴィン・グレイヴォー(レイズ/奴隷、ルシアンの右腕)、シェーン・ブローリー(クレイヴン/ビクターの後継者)、デヴィッド・アシュトン(コロマン/議員)、エリザベス・ホーソン(オルソヴァ/議員)、ケイト・ベッキンセイル(セリーン)

フェイク シティ ある男のルール

新宿武蔵野館3 ★★☆

■真実より、それぞれの正義

キアヌ・リーヴス演じるラドローは、飲んだくれの少々危険な刑事(またかよって感じ)。飲んだくれに関しては、過去を引きずってのことが多少あるにしても(注1)、冒頭の単独捜査はやり過ぎもいいとこで、刑事というよりはまるで射殺魔だ。双子の姉妹の救助で、かろうじて釈明が成立する程度。それは本人もわかっているから、正当防衛の偽装にも躊躇することがない。

そんな彼に何かと目をかけてくれるのが上司のワンダーで、今回のこともラドローを警察苦情相談所に移動させ、お前の尻ぬぐいをしてやったと恩を着せてくるのだが、何のことはない、自分が上り詰めるためにラドローを道具として使っていただけのことだった。

こうしたワンダーのふるまいは内務調査官のビッグスがすでに目を付けていて、ラドローの元同僚ワシントンがビッグスに協力したことから、コンビニ強盗を装った2人組の警官に、ワシントンはあろうことか、ラドローの目前で殺されてしまう(注2)(ラドローはワシントンの真意をこの時点では知らず、彼の行動を疑ってさえいいて、で、後を付けていたのだが、そんなだから事件の直前のコンビニでは2人の間には険悪な空気が漂って、つかみ合いになっていた)。

要するに、警察内部にはすでにワンダーによるネットワークができていて、すべてのことがデッチ上げで進行し、ワンダーの思いのままとなっていたのだった。

真相を書いてしまったが(隠しておくようなものでもないってこともある)、何も知らないラドローは、疑念や後悔の残る犯人捜しをしないではいられない。というわけで、映画はワシントン殺しの謎解きを軸に進んでいくが、この過程は時間はかかるものの、謎解きというほどのものではないから、場面場面は派手に作ってあっても、盛り上がらない。入り組んでいるだけで行き着く先の見えている、つまり遠回りしているだけの迷路だろうか。ラドローの飲んだくれ頭でも解けてしまうのだ。だからかもしれない、ラドローの捜査に付き合ってくれたディスカントは、話の飾り付けで、あえなく殉職となる。

悪玉のワンダーに魅力がないのも痛い。最後にラドローに問い詰められて、話をそらすように金を埋め込んだ壁を壊せと言うのだが、秘密を明かして状況が変わるとは思えない。もっともこれ以前に、あのワシントン襲撃の一部始終が映っているディスクをラドローに手渡してしまったことの方が問題かも。後で必死になって取り戻そうとしてたからね。ラドローを信用させるために渡したのなら危険すぎるし、ラドローが疑問を抱いて入手しようとした二人組の逮捕歴のデータなどはシュレッダーにかけさせてしまうなど、一貫性もない。

逮捕するよりは殺し(邦題の「ある男のルール」だよね)のラドローによって、結局ワンダーは殺されてしまうのだが、そこへビッグスが駆けつけてくる。しかし、ラドローの罪を問いもせず、ワンダーの共犯者が金目当てで殺した、とビッグスまでがデッチ上げで締めくくろうとする。君だけが頼りだったと言うのだ(注3)。なんだかなー。さらにはワンダーに弱みをにぎられていた署長にも感謝されるかもしれない、というようなことも言っていた(これは皮肉だろう。でなきゃ、こわい)。

正義が貫かれるのなら真実などどうでもいい、とでもいいたいのだろうか。まあその前に本当に正義なのか、って問題もあるが。だって「それぞれの正義」にすぎないんだもの。ふうむ。こんな微妙な結末で締めくくるとはね。この部分は掘り下げがいがあるはずなんだけどな。

注1:不倫をしていた妻が脳血栓を起こしたのに放っておいて死んでしまった、というようなことをラドローは、ワシントンの妻に話したと思うのだが、この話が出てくるのはここだけなので、ちょっと不確か。

注2:まったくいい加減にしか観ていないことがわかってしまうが、何故目前で殺されるというような状況になってしまったのか。また、ラドローが襲われなかったのは偶然なのかどうか、思い返してみるのだが、これまたよくわからない。

注3:確かにラドローも途中で、「法を越えた仕事は誰がやる、俺が必要だろ?」とビッグスに言ってはいたが。

原題:Street King

2008年 109分 シネスコサイズ 配給:20世紀フォックス映画 PG-12 日本語字幕:戸田奈津子

監督:デヴィッド・エアー 製作:ルーカス・フォスター、アレクサンドラ・ミルチャン、アーウィン・ストフ 製作総指揮:アーノン・ミルチャン、ミシェル・ワイズラー 原案:ジェームズ・エルロイ 脚本:ジェームズ・エルロイ、カート・ウィマー、ジェイミー・モス 撮影:ガブリエル・ベリスタイン プロダクションデザイン:アレック・ハモンド 編集:ジェフリー・フォード 音楽:グレーム・レヴェル

出演:キアヌ・リーヴス(トム・ラドロー)、フォレスト・ウィッテカー(ジャック・ワンダー)、ヒュー・ローリー(ジェームズ・ビッグス)、クリス・エヴァンス(ポール・ディスカント)、コモン(コーツ)、ザ・ゲーム(グリル)、マルタ・イガレータ(グレイス・ガルシア)、ナオミ・ハリス(リンダ・ワシントン)、ジェイ・モーア(マイク・クレイディ)、ジョン・コーベット(ダンテ・デミル)、アマウリー・ノラスコ(コズモ・サントス)、テリー・クルーズ(テレンス・ワシントン)、セドリック・ジ・エンターテイナー(スクリブル)、ノエル・グーリーエミー、マイケル・モンクス、クリー・スローン

悲夢

2009/2/14 新宿武蔵野館3 ★★☆

キム・ギドク、オダギリージョー、イ・ヨナンのサイン(監督のサインはこれだと切れちゃってますが)『悲夢』ポスター

■パズルとしては面白そうだが

ジンという男の見る夢が、ランという見ず知らずの女を夢遊病という行動に走らせるという、まあくだらない話。

くだらないのは設定だけじゃない。自分が眠ってしまうことでランに犯罪を起こさせてしまうことを知ったジンが、何とか眠らないように努力をするのだけれど、努力したってもねー。ランが殺人事件を起こしたあとには「もう絶対眠りません」とまで言っていたジンだけど、そしてそれはランを好きになったからにしても、幼稚すぎて失笑するしかないではないか。目を見開いたり、テープを貼り付けたりはコメディレベルだけど、頭に針や彫刻刀を刺したり、足をカナヅチで叩いたりは異常者でしょうが。

ジンは印鑑屋(芸術家?)で、ランは洋裁(デザイナー?)で食っているらしいから、もともと無関係な2人が時間帯をずらすのは(どちらかが昼夜を逆にすれば)そう難しいことではないはずなのに、眠るのを我慢しようとしたり(交替で寝ようとはしていたが、同じ時間帯でやろうってたってさ)、手錠を嵌めてランの行動を制限しようとするのだけれど、手錠の鍵を隠そうともしないから(何これ)、取り返しのつかないことになってしまう。

そんな細かいことに一々目くじら立てなさんな、とキム・ギドクは言いたいのだろう。なにしろオダギリジョーは最初から最後まで日本語のセリフで通してしまうし、もちろん劇中でそんなことに驚くヤツなど誰もいない、韓国が舞台でも日本語の通じてしてしまう映画なのだ。

あんまりな話(くだらなさには目をつむってもこの評価はかえようがない)ということを別にすれば、ジンの夢とランの現実という構造はなかなか興味深いものがある。ジンは別れた恋人が忘れられない。それが夢となって結実すると、眠りに中にいるランを夢遊病者に仕立て、別れた恋人に引き合わせることになる。ランは別れた恋人をものすごく嫌っているというのに。

ジンの元恋人は男が出来てジンをふったらしいのだが、その男というのはランがふった男で、つまりジンとランの元恋人同士が恋人という(ああややこしい)、入れ子のような関係になっているわけだ。最初に無関係な2人と書いてしまったが、ジンの夢で繋がっているだけでなく、現実でも間に1人置くようにして2人は繋がっているのである。

この4人が葦原にいる場面では、奇妙さよりも胸苦しさを覚えてしまう。思いは伝わらずねじれたように4人を行き来する。はじめこそ第三者のようにしていたジンとランだが、それぞれ影のように存在する同性に自分の姿を見てしまうのか、互いにその同性を慰めたりする。が、考え出すとこの場面はわからなくなる(これも夢なのか)。

なるほど映画の早い段階で女精神科医が言っていたように、ジンの幸せはランの不幸で、「2人は1人」なのだから「2人が愛し合えば」解決することなのかもしれない(白黒同色という言葉が出てくる。ジンがこの言葉を刻印している場面もあったし、タイトルの「悲夢」も印影が使われていた。そういえば、ジンは印面に鏡文字を直接描いていたが?)。

結局、ジンはランに対する責任感もあって彼女のためにいろいろ手を尽くし、それが好意に変わっていったのだろう。ランの方も、最初こそ自分の置かれている状況が理解出来ないでいたが、自分に代わって罪まで負おうとするジンの姿勢に、最後は「どんな夢でも恨まない」と彼に言う。

結ばれる運命にあった2人という話の流れがあっての結末なのかも知れないが、ジンの夢は恋人が忘れられないくらい思い詰めているから見たものだし、これでは辻褄が合わなくないか。それに何故、恨まないと言われたのにジンは自殺しなければならなかったのか。それとも、これもやはりジンのランに対する愛(夢で人を操作することの嫌悪も含まれた)と解すればいいのか。

パズルとしての面白さはそこここにあって、蝶のペンダントの役割なども考えていけば、もう少しは何かが見えてきそうな気もするのだが(ただ胡蝶の夢を表しているだけなのかも)、これもそこここにあるくだらなさが邪魔をして、何が何でもパズルを解いてやろうという気分には至らない。ジンの仕事場、町の佇まいやお寺など、撮影場所は魅力的だったのだが……。

原題:悲夢 ・・ェス 英題:Dream

2008年 93分 韓国/日本 ビスタサイズ 配給:スタイルジャム PG-12 日本語字幕:●

監督・脚本:キム・ギドク 撮影:キム・ギテ 照明:カン・ヨンチャン 音楽:ジ・バーク

出演:オダギリジョー(ジン)、イ・ナヨン(イ・ラン)、パク・チア(ジンの元恋人)、キム・テヒョン(ランの元恋人)、チャン・ミヒ(医師)、イ・ジュソク(交通係調書警官)、ハン・ギジュン(強力係調書警官)、イ・ホヨン(現場警官1)、キム・ミンス(現場警官2)、ファン・ドヨン(警官1)、ヨム・チョロ(警官2)、ソ・ジウォン(タクシー運転手)

感染列島

109シネマズ木場シアター4 ★★☆

■欲張りウイルス感染映画

正体不明のウイルスが日本を襲うという、タイムリーかついくらでも面白くなりそうな題材(そういえば篠田節子に『夏の災厄』というすごい小説があった)を、あれもこれもと都合優先でいじくりまわしてはダメにしてしまった、欲張り困ったちゃん映画だろうか。

まず冒頭のフィリピンで発症した鳥インフルエンザが、何故そこでは拡散せず(ウイルスが飛散する映像まで映しておいてだよ)、3ヵ月後の日本で大流行となったのかがわかりにくい(これとは関係ないようなことも言っていたし?)。新型ではないのに正体不明という言い方も素人にはさっぱりだ(映画なのだからもう少し丁寧に説明してほしいものだ)。

正体不明だからこそ、謎めいた鈴木という研究者によって、ようやくそのウイルスが解明されるわけで(新型ではないのね? しつこいけどよくわからないんだもの)、でも治療法は、結局栄子の死を賭けた血清療法が効を奏すのだが彼女は死んでしまう、って正体と治療法は別物とはいえ、映画としての歯切れは悪いし、すでに何万人にも死者を出している状態なのだから、この方法はもっと早い時期に試していてもよさそうで、これでは、悲壮感+栄子の見せ場作り、と言われても仕方ないだろう。

救命救急医の松岡が誤診?で患者(真鍋麻美の夫)を死なせてしまうことからWHOから松岡の旧知の小林栄子がメディカルオフィサー(って何だ)としてやってくるあたりは、映画としての許容範囲でも、あっという間に蔓延したウイルスが、病院を混乱に陥れ、都市機能まで麻痺させてしまうのに、松岡は治療を放り出して、仁志という学者と一緒にウイルス探しで海外に、ってあんまりではないか。

戦場と化したはずの病院が、いつまでたっても整然としていたりもする。ノイローゼになる医師は出てきても憔悴しているようにはみえないし、後半になっても朝礼のようなことをしている余裕さえあるのだ。発症源の医師(真鍋麻美の父)の行動はあまりにも無自覚で(発症後またアボンという架空の国連未加入国へ帰っている。一般人ならともかく医師なのに!?)、それはともかく彼がウイルスを持ち込んだのなら、そもそも日本にだけで病気が広まったことだっておかしなことになってしまう。医師の松岡たちも本気で感染対策をしているようには見えないし、書き出すときりがなくなるほどだ。

思いつくまま疑問点を羅列したため、話があっちこっちになっているが、私の話がそうなってしまうのも、この映画がいかに欲張っているかということの証だろう。『感染列島』と題名で大風呂敷を広げてしまったからかしらね。確かに荒廃した銀座通りなどのCGがいくつか出てくるし、1000万人が感染し300万人が死亡などという字幕に、何故日本だけが、みたいなことまで叫ばれるのだが、結局はそれだけなのである。だったら視点は松岡に限定し、場所も医療現場だけにとどめておけばよかったのだ(ついでに言うならウイルスの正体だって不明のままだってよかった)。

そうであったなら、松岡と栄子の昔の恋ももう少し素直に観ることができたかもしれない。この場面は、そうけなしたものではないしね。とはいえ、付けたしとはいえ松岡が最後は無医村で働いている場面まであっては、結局ただの美男美女映画が作れればそれでよかったのかと納得するしかないのだが。

 

2008年 138分 ビスタサイズ 配給:東宝

監督:瀬々敬久 プロデューサー:平野隆 企画:下田淳行 脚本:瀬々敬久 撮影:斉藤幸一 美術:中川理仁 美術監督:金勝浩一 編集:川瀬功 音楽:安川午朗 主題歌:レミオロメン『夢の蕾』 VFXスーパーバイザー:立石勝 スクリプター:江口由紀子 ラインプロデューサー:及川義幸 共同プロデューサー:青木真樹、辻本珠子、武田吉孝 照明:豊見山明長 録音:井家眞紀夫 助監督:李相國

出演:妻夫木聡(松岡剛)、檀れい(小林栄子)、国仲涼子(三田多佳子/看護師)、田中裕二(三田英輔)、池脇千鶴(真鍋麻美)、佐藤浩市(安藤一馬)、藤竜也(仁志稔)、カンニング竹山(鈴木浩介)、光石研(神倉章介)、キムラ緑子(池畑実和)、嶋田久作(立花修治/真鍋麻美の父)、金田明夫(高山良三)、正名僕蔵(田村道草)、ダンテ・カーヴァー(クラウス・デビッド)、小松彩夏(柏村杏子)、三浦アキフミ(小森幹夫)、夏緒(神倉茜)、太賀(本橋研一)、宮川一朗太、馬渕英俚可(鈴木蘭子)、田山涼成、三浦浩一、武野功雄、仁藤優子、久ヶ沢徹、佐藤恒治、松本春姫、山中敦史、山中聡、山本東、吉川美代子、山中秀樹、下元史朗、諏訪太朗、梅田宏、山梨ハナ

マルタのやさしい刺繍

シネセゾン渋谷 ★★☆

■年寄りにも生き甲斐を!(ほのぼの系ながら痛烈)

ネットで刺繍の下着を売り出して大評判に、というのは最近ありがちな話なのだけど、主役に80歳の老女を持ってきたのは新味(だから話は主にネット通販以前のことになる)。なにより老女たちの笑顔が素敵で、元気が出る。スイス(映画なのだ。他にどんなスイス映画があったのかなかったのか、何も出てこないぞ)で大ヒットとしたというのも頷ける。

マルタにランジェリーショップを開くことをすすめた、アメリカかぶれだけど底抜けに明るかったリージの死(自殺でなくてホッとした)という悲しい出来事や、無理解の妨害やら挫折もあるが、思い通りに生きなきゃ人生の意味がないという当たり前のことを、マルタ(たち)は次第に自覚(思い出したのだともいえる)していく。

ここらへんは予想通りの展開なのだが、夫の死で生きる意味を失いかけていたマルタが、夫の禁止した刺繍で生き生きしてしまうというのが、皮肉というよりは痛烈だ。映画はそのことにそんなにこだわってはいないのだが……。

牧師である息子ヴァルターとの対立も深刻で、ヴァルターはリージの娘と浮気進行中なのだが、浮気云々より、ヴァルターが自分の都合を優先してマルタの開業したばかりのランジェリーショップを勝手に片づけてしまうことの方が、私には気になった。もっとも、その店をしれっとまた元に戻してしてしまうマルタたち、という図は喝采ものなのだが。

ハンニの息子も、党活動には熱心だが病院の送り迎えに嫌気がさして父親を施設に入れようとするし、出てくる男どもはどうかと思うようなやつばかり。そもそもスイスの田舎(お伽噺に出てくるような美しい所なのだ)がこんなに保守的だとはね(脚色ならいいのだけど)。ま、保守的なのは男どもで、彼らには妙な救いの手がさし出されることもなく、容赦がないとしか言いようがないのだが、でもだからか、かえってよけいな後を引かずにすんだのかもしれない。

マルタ役のシュテファニー・グラーザーが、役の設定では80なのに実年齢88とあって(ロビーに展示してあった雑誌の切り抜きによる。映画撮影時はもう少し若いのかも)、歩き方が若すぎないかと懸念していたものだから、びっくりしてしまった。

原題:Die Herbstzeitlosen 英題:Late Bloomers

2006年 89分 ビスタサイズ スイス 配給、宣伝:アルシネテラン 日本語字幕:(株)フェルヴァント

監督:ベティナ・オベルリ 原案:ベティナ・オベルリ 脚本:ザビーヌ・ポッホハンマー 撮影:ステファン・クティ 美術:モニカ・ロットマイヤー 衣装:グレタ・ロデラー 音楽:リュク・ツィマーマン

出演:シュテファニー・グラーザー(マルタ・ヨースト)、ハイジ・マリア・グレスナー
(リージ・ビーグラー)、アンネマリー・デューリンガー(フリーダ・エッゲンシュワイラー)、モニカ・グブザー(ハンニ・ビエリ)、ハンスペーター・ミュラー=ドロサート(ヴァルター・ヨースト)

めがね

テアトルタイムズスクエア ★★☆

■「たそがれ教」にようこそ

主人公のタエコ(小林聡美)はとある南の島に降り立ちハマダという人気のない宿にたどり着くが、たそがれ教の一味であるユージ(光石研)とサクラ(もたいまさこ)に洗脳されそうになる。それに気付いたタエコは島にあるマリンハウスというもう1軒の宿へ逃げ出すが、そこは労働と学習というコンセプトのもとに取り仕切られた収容所で、しかも実体はたそがれ教に帰依させるための出先機関であった。

このカラクリにまんまとはまってしまったタエコは1日中島をさまよい歩いたあげく、夕方にはサクラの運転する三輪車に乗ってハマダへと回収されるしかなかった……。

というのは大嘘で、実は何も起こらない映画というのが1番正しいだろうか。とはいえ上記のような陰謀説が成立しないかというと、そう簡単でもない。

登場人物はそのほとんどが謎。春の閑散期に島へやって来たタエコは年下のヨモギ(加瀬亮)が彼女を追ってくるからワケありなのだろうか。けれど2人の仲はとてもベタついては見えない。ヨモギがタエコを「先生」と呼んでいるので、ふーんそうなのかと思うが、それ以上のことは何もわからない。というより明かしてくれないのだ。

宿の主人のユージや、常連客だというサクラ、地元の生物学教師で授業をさぼってばかりのハルナ(市川実日子)も似たようなもので、謎ではあっても余計な詮索はしないということか。といって他人に対して、まったく無関心かというとそんなことはないのだが、訊かれても曖昧に答えておいて、それでおしまいなのだから始末に悪い(俗人としては生計がどうやって成り立っているのかだって知りたいのだ)。ここらへんは『かもめ食堂』と同じスタンスなのだが、印象は微妙に違う。

んで、結論はというと、とてもここにはいられないと思っていたタエコが、次の年にはサクラよりも島に先に来ていて、すっかりたそがれ教の信者になってしまっているのであった。

しかし、こんな休暇を取る余裕があるということ自体が何とも腹立たしいのだな。「飽きるまで」いる、っていうんだから。もっとも教祖のサクラにしてもずっといるわけではないってことは、永住するには飽きてしまうのかもしれない。それともお金を取らないかき氷屋を開くためには、別な場所ではちゃーんと稼がなければならないことを仄めかしているのだろうか。

説明を極力排して、実時間にそったかのようなゆったり感は、確かに心地よいものがあるが、唐突なヨモギのドイツ語の詩の朗読や教祖様(或いは宇宙人か)サクラの言動は、映画でなく現実であったなら、薄気味悪いだけだろう。タエコが心変わりしてしまったのは、あのかき氷の小豆あたりに洗脳薬が仕込まれていたからではないか。

仕事とは無関係ののんびりとした自然の中で、その自然の恵みであるおいしいものを心ゆくまで食べるということだけでも都会人にはもてはやされるのか。休日のタイムズスクエアは見事に満席だったが、でもこれってただただ貧相なことの証みたいなものなんだけどねー。

ところでエンドロールを眺めていたら、マリンハウスのオーナー役の薬師丸ひろ子を「めがね」の友人とクレジットしていた。これはどういう意味なのだ。タエコ、ユージ、サクラ、ハルナ、ヨモギの5人全員がメガネをかけているから『めがね』というタイトルなのはあんまりだとは思っていたけれど、でもこう書かれたらもっとわからなくなる。こんなところまで気を引いておいて、答えを明かしてくれないんじゃ、私はたそがれ教には入信しないよ。

 

2007年 106分 ビスタサイズ 配給:日活監督・脚本:荻上直子 プロデューサー:小室秀一、前川えんま エグゼクティブプロデューサー:奥田誠治、木幡久美 アソシエイトプロデューサー:オオタメグミ 企画:霞澤花子 撮影:谷峰登 美術:富田麻友美 編集:普嶋信一 音楽:金子隆博 音楽プロデューサー:丹俊樹 エンディングテーマ:大貫妙子『めがね』 スクリプター:天池芳美 スタイリスト:堀越絹衣、澤いずみ フードスタイリスト:飯島奈美 ヘアメイク:宮崎智子 写真:高橋ヨーコ 照明:武藤要一 録音:林大輔 メルシー体操:伊藤千枝(珍しいキノコ舞踊団)

出演:小林聡美(タエコ)、光石研(ユージ)、もたいまさこ(サクラ)、市川実日子(ハルナ)、加瀬亮(ヨモギ)、薬師丸ひろ子(森下/「めがね」の友だち)

ストレンヂア -無皇刃譚-

テアトル新宿 ★★☆

■殺陣、殺陣、殺陣

アニメで殺陣を描くことを追求した作品といってしまっていいくらい斬り合いの場面が詰め込まれている。見せ方にも工夫があって、そうとう殺陣にこだわりがあるのだなと思わせるが、背景部分は大風呂敷を広げた割には雑。

不老不死の仙薬を抽出するために是が非でも必要だという少年(ここがやはり説得力に欠けるのだな)仔太郎とかかわりをもつことになる浪人の名無しが、戦国時代のとある国を滅ぼすことになる戦いに巻き込まれていく。

日本にまで仔太郎を追ってきたのは明国の王命を受けた者たちで、その中には青い目の羅狼という者までがいて、クライマックスではこの名うての剣の使い手と抜刀を封じていた(抜刀できないようにしている)名無しとの対決がある。

彼らが赤池ノ国の領主にどうやって取り入ったかは不明ながら、領主の庇護の元、大掛かりな装置(薬の抽出のためらしいが、大げさなだけでさ)をある時期に合わせて作りあげる(これまた薬に関係があるらしい)。もっとも、領主の方もただ明の人間たちにいいようにやられているような人間ではないから、最後には両者の熾烈な争いになる。

明からの武装集団は不老不死の仙薬を抽出しようとするだけあって、自分たちにも薬を使った強化をしている。ドーピングは拷問にも耐えられるすごいものなのだが、領主側もそんなことに少しもひるまない。

なにしろ戦いにからんだ人間(名無しと仔太郎の他)は、すべて死んでしまうことになるのだから凄まじい。姫を我が物にしたい若者を出してきて、普通なら美談めいた扱いにするところだが、若者は明の捕虜となった城主を自らすすんで殺してみせる。そしてこの若者も適当なところで画面から抹殺されてしまうのだ。

描写もPG-12ですんでいるのはアニメだからであって、このままそっくり実写にしたら目をそむけずにはいられないほどの残酷さなのである。

救いは名無しと仔太郎とが一緒に行動することになって、何とか生き延び、馬に乗りながら将来を語るところだ。この流れや名無しの過去の扱いなどは使い古されたものなのだが、全体が殺伐とした雰囲気にある中で、生きることの楽しさがうまく演出されていた。

  

2006年 102分 ビスタサイズ PG-12 配給:松竹

監督:安藤真裕 アニメーション制作:ボンズ プロデューサー:南雅彦 原作:BONES 脚本:高山文彦 撮影監督:宮原洋平 美術監督:森川篤 美術設計:竹内志保 音楽:佐藤直紀 音響監督:若林和弘 作画監督:伊藤嘉之 色彩設計:中山しほ子 人物設計:斎藤恒徳

声の出演:長瀬智也(名無し)、知念侑李(仔太郎)、竹中直人(祥庵)、山寺宏一(羅狼)、石塚運昇(領主)、宮野真守(戌重太郎)、坂本真綾(萩姫)、大塚明夫(虎杖将監)、筈見純(絶界)、野島裕史(風午)、伊井篤史(白鸞)

幸せのレシピ

新宿ミラノ1 ★★☆

■子供や恋はレシピ通りというわけには……

腕に自信アリの、マンハッタンの高級レストランの女料理長ケイト(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)は、交通事故で姉を失い、生き延びた九歳の姪のゾーイ(アビゲイル・ブレスリン)をひきとることになる。この状況とどう向き合うか、というのが一つ目の問題。

子供に一流料理を作ってどうすんだと言いたくなるような女だから、ゾーイとの関係もそんなには簡単にいかないし、そのためにちょいと職場を離れていたら経営者のポーラ(パトリシア・クラークソン)がイタリアかぶれの陽気なニック(アーロン・エッカート)という男を副料理長として雇ってしまって、二つ目の問題も。

ドイツ映画『マーサの幸せレシピ』(2001)のリメイクだということは観てから知ったが、もともと毒っ気とはまったく縁のない映画なのだろう。だから難題であっても安心してハッピーエンドを待てばいいだけで、それも悪くはないのだが、もの足りなさは否めない。

ポーラがちょっと欲を出す程度で、他はもう全部いい人で固めていて、そのことも幸福感を演出しているのだが、自信過剰のケイトが一番問題のような気がしてしまう。早起きして市場にまで出向く完璧主義者だから手強いのだな。ということは、原題の『No Reservations』は、ケイトに「素直に」とでも言っているのかしら。

客がまずいと言ったらまずいのに、それがわからないとなると怖い。味覚の趣向についてあれこれ言うことがそもそもおかしいと、私が思っているからなのだが、料理ではなく他のことに置き換えて考えることにした(これなら納得できる)。

ニックがどこまでもいい人というのがなかなか信じられないケイトなのだが、それ以前に調理場でオペラを流してパヴァロッティ気取りでいられたら、やっぱりいらついてしまうかも。ニック自身がケイトのファンを自認しているのだから恋もすぐその先なのだが、なによりゾーイが彼の料理ならちゃんと食べてくれるという、ケイトにとっては泣きたくなる展開。

キャサリン・ゼタ=ジョーンズの抑えた演技は好感が持てるし、アーロン・エッカートも終始楽しそうで、しかもそれほど押しつけがましくないのがいい。ボブ・バラバンは『レディ・イン・ザ・ウォーター』では映画評論家だったが、ここでは精神科医。蘊蓄たれ男が適役と思われているのか。ポーラが欲を出したと書いてしまったけど、ケイトに精神科医行きをすすめたのは彼女でした。

そういえばケイトはその精神科医に「何故セラピーを受けろと言われたかわかるかね」と問われて「いいえ」と答えていたっけ。

 

原題:No Reservations

2007年 104分 シネスコサイズ 配給:ワーナー 日本語字幕:古田由紀子

監督:スコット・ヒックス 製作:ケリー・ヘイセン、セルヒオ・アゲーロ 製作総指揮:スーザン・カートソニス、ブルース・バーマン 脚本:キャロル・フックス オリジナル脚本:サンドラ・ネットルベック 撮影:スチュアート・ドライバーグ プロダクションデザイン:バーバラ・リング 衣装デザイン:メリッサ・トス 編集:ピップ・カーメル 音楽:フィリップ・グラス

出演:キャサリン・ゼタ=ジョーンズ(ケイト・アームストロング)、アーロン・エッカート(ニック・パーマー)、アビゲイル・ブレスリン(ゾーイ)、パトリシア・クラークソン(ポーラ)、ボブ・バラバン(精神科医)、ブライアン・F・オバーン、ジェニー・ウェイド、セリア・ウェストン、ジョン・マクマーティン

HERO

楽天地シネマズ錦糸町-1 ★★☆

■ちんちくりんのゆで卵との掛け合いは楽しいんだが

テレビドラマの映画化ということで、ある程度ドラマを観ていた観客を想定して作られているようだ。だから門外漢が口を出すとおかしなことになりそうだが、しかしそのテレビも放送されていたのは6年前らしく、この6年の空白が映画にも引き継がれている内容になっているのは面白い。

でもということは、久利生公平(木村拓哉)は、テレビではチョンボを犯して飛ばされていたってことになってしまいそうなのだけど。あれ、違うのかな。どうもこういうちょっとしたことがわからず、困るところがいくつもあった(だからってつまらなくはないんだけどね)。

例えば滝田明彦(中井貴一)の扱いなど違和感が残るばかりで(久利生の性格を語る重要な場面でもあるのだが、やっぱり必要ないよね)、さらに雨宮舞子(松たか子)とも連絡すらしていなかったって、そんな。

「6年も」とやたら言葉にはこだわっていたが、言葉以外では空白を埋めようとしていないけど、これで納得なんだろうか。6年も離れていて、違いが雨宮の香水くらいというのは、それほど信頼関係があるということなのかもしれないのだけど、手抜きではないよね。東京地検の城西支部には久利生の席が当然のようにあり、同じように?雨宮が久利生の事務官となるというのもねー。

こういうたぐいの演出は他にもずいぶんあって、裁判所から傍聴人がほとんど退席していなくなったり、そこに久利生の同僚たちが新たな証拠を持って現れたりするのだが、この羽目の外し方はドラマを踏襲しているのかもしれないが、作品としては軽いものになってしまう。久利生に検事としてはラフな恰好をさせた時点で、そんな細かいことには文句を言うなってことなのかもね。

被告も犯行を認めていた単純な傷害致死事件が、花岡代議士(森田一義)の贈収賄事件に利用されたことで予想外の展開となっていく。花岡側がうかつにもアリバイ工作に久利生が担当していた事件の被告を使ってしまったことから、その場所にいてはいけない被告が犯行を否認。そしてやっかいなことに蒲生一臣(松本幸四郎)というやり手の弁護士がつくことになる。

窮地に立たされる久利生だったが、雨宮が「どんな小さな事件にも真剣に取り組み」「決して諦めない」彼を、そして一見バラバラな城西支部の連中が、意外なチームワークを発揮して地道な協力を厭わず、というのはもうドラマでも繰り返されてきた筋書きなんだろうが、この一体感は現実にはそう味わえそうもない心地よいものだ。サラリーマンの夢の代弁である。

ただ、犯行の車を追って韓国でも聞き込み調査を繰り広げるあたりは、さすがにだれる。最後に証拠のためケータイの写真を探す場面でも足で稼ぐ聞き込みがあるから、本当にこれはこのドラマの持ち味にしても、こんなに効率が悪いことをしていたんじゃ、見つかっても見つからなくて話が嘘っぽくなってしまう。第一、韓国語もわからない2人を送り込んだりするのだろうか。「彼女を絶対離すな」と言うイ・ビョンホンの使い方はいいのに残念だ。

でもそんなことより1番残念なのは蒲生を話のわかる弁護士にしてしまったことだ。久利生の姿に昔の自分をみて方針を変えたと思わせるような場面もあるのだが、そこまでの深みはない。裁判が真実を明らかにする場所から裁判というゲームになりかけている風潮を考えるなら、ここは蒲生を悪徳弁護士にしておいてもよかったのではないか。蒲生に負けて廃人になってしまった検事もいると言わせているんだから、そのくらいの凄味はほしい。

裁判という敷居の高いものを、ドラマの気安さでわかりやすくみせてくれるのはいいのだが、「人の命の重さを知るための裁判」などと言い出すと少し荷が重くなってしまうようだ。雨宮を「ちんちくりんのゆで卵みたいなヤツ」と久利生に評させている時は快調なんだけどね。うん、2人は名コンビかな。

  

2007年 130分 シネスコサイズ 配給:東宝

監督:鈴木雅之 製作:亀山千広 プロデューサー:現王園佳正、牧野正、宮澤徹、和田倉和利 エグゼクティブプロデューサー:清水賢治、島谷能成、飯島三智 統括プロデュース:石原隆 企画:大多亮 脚本:福田靖 撮影:蔦井孝洋 美術:荒川淳彦 編集:田口拓也 音楽:服部隆之 VFXスーパーバイザー:西村了 スクリプター:戸国歩 ラインプロデューサー:森賢正 照明:疋田ヨシタケ 録音:柿澤潔 助監督:片島章三、足立公良 監督補:長瀬国博
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出演:木村拓哉(久利生公平)、松たか子(雨宮舞子)、松本幸四郎(蒲生一臣)、香川照之(黛雄作)、大塚寧々(中村美鈴)、阿部寛(芝山貢)、勝村政信(江上達夫)、小日向文世(末次隆之)、八嶋智人(遠藤賢司)、角野卓造(牛丸豊)、児玉清(鍋島利光)、森田一義(花岡練三郎/代議士)、中井貴一(滝田明彦)、綾瀬はるか(泉谷りり子)、国仲涼子(松本めぐみ)、岸部一徳(桂山薫/裁判長)、山中聡(里山裕一郎)、石橋蓮司(大藪正博)、ペク・ドビン(キム・ヒョンウ)、眞島秀和(東山克彦)、波岡一喜(梅林圭介)、長野里美(柏木節子)、イ・ビョンホン(カン・ミンウ)、伊藤正之(川島雄三)、正名僕蔵(井戸秀二)、田中要次(マスター)、古田新太(郷田秀次/放火犯)、MEGUMI(河野桜子)、奥貫薫(芝山良子)、鈴木砂羽(黒川ミサ)

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序

2007/09/02 新宿ミラノ1 ★★☆

■ヱヴァンゲリヲンて何なのさ

ヱヴァンゲリヲンが何なのかをまったく知らずに観たものだから、狐につままれたような状態のまま幕となった。何しろ「しと」が「使徒」だということがうまく頭に入らずにいたくらいなのだ(わかっても理解できていないのだが)。

セカンドインパクトとか第3新東京市って言われてもねー。昔のテレビ版の観客を対象にしていると言われてしまえばそれまでだけど、「新劇場版」と銘打って4部作として作り直したそうだから(これも見終わってから知ったのだ)、新しい観客のためにもう少しは説明してくれてもいいのではないか。それとも4部作を通せばすべてがわかるのだろうか。

ただ、内容的には嫌いではないので、わからないながらも楽しんで観てしまったのだけど。物語の流れは単純だから理解しやすいのだが、こういう作品は細部がどうしても知りたくなるのだな。

だから地下から超高層ビルのあらわれる第3新東京市というのがあまりに非現実的で、ちょっと引いてしまう。怪獣?(使徒)対怪物?(ヱヴァンゲリヲン)が東宝怪獣映画やウルトラマン路線の、巨大でかつ同スケール対決なのにも笑ってしまって、どういうわけか対戦場面では『大日本人』を思い出してしまったものだから困ってしまったのだ。シンジが何者かということを同級生までが知っているという部分も同じなんだもん。あと個人的には第3新東京市の上に陣取って地下攻撃を仕掛けるキューブのような物体に、手も足も出ないという設定もどうもね。

ヱヴァンゲリヲンを操縦できるのは特殊な能力が必要らしく(これもちゃんと説明してくれー)、でもそれが碇シンジというまだ14歳の少年で、実はヱヴァンゲリヲンの開発者が彼の父ゲンドウで、なんでもパイロットとして引っ張り出された時、その父とは3年ぶりの対面だったという、ずいぶんな話。

ヱヴァンゲリヲン初号機のパイロットがシンジと同級生の綾波レイという少女で、シンジのまわりには他にも女性ばかりが目に付くのは目をつぶるけど、こういうのもテレビ版と同じなのか。なのにシンジは「なんでぼくなんだ」「乗ればいいんでしょ」「怖い」ってずーっと言いまくっていた。彼が綾波の言動や同級生の励ましなどで変わっていくという成長物語なのはわかるが、この作品だけでは、ちょっとはしっかりしてくれよ、という気分になってしまう。

敵が不意に襲ってくる状況下なのに、普通に学校生活を送っているというのも妙だし(第3新東京市はそのために防災都市になっているようだが)、綾波に渡しそこねたIDカードをシンジが届けるというのもヘタクソすぎる挿話だ。

何にしても、人類補完計画、ヤシマ作戦、すべてはゼーレのシナリオ通りに、あと8体(そんなことがわかるのか)の使徒を倒さねば、などの言葉全部がわからないのだから、これ以上書いても笑われるだけのような気がしてきたので、ヤメ(でも次も観るぞ)。

  

2007年 98分 ビスタサイズ 配給:クロックワークス、カラー

監督:摩砂雪、鶴巻和哉 総監督・原作・脚本:庵野秀明 演出:原口浩 撮影監督:福士享 美術監督:加藤浩、串田達也 編集:奥田浩史 音楽:鷺巣詩郎 CGI監督:鬼塚大輔、小林浩康 キャラクターデザイン:貞本義行 テーマソング:宇多田ヒカル『Beautiful World』 メカニックデザイン:山下いくと メカニック作画監督:本田雄 効果:野口透 作画監督:松原秀典、黄瀬和哉、奥田淳、もりやまゆうじ 色彩設定:菊地和子 制作:スタジオカラー 総作画監督:鈴木俊二 特技監督:増尾昭一 新作画コンテ:樋口真嗣、京田知己

声の出演:緒方恵美(碇シンジ)、三石琴乃(葛城ミサト)、山口由里子(赤木リツコ)、林原めぐみ(綾波レイ)、立木文彦(碇ゲンドウ)、清川元夢(冬月コウゾウ)、結城比呂(日向マコト)、長沢美樹(伊吹マヤ)、子安武人(青葉シゲル)、麦人(キール・ローレンツ)、関智一(鈴原トウジ)、岩永哲哉(相田ケンスケ)、岩男潤子(洞木ヒカリ)、石田彰(渚カヲル)

オーシャンズ13

新宿ミラノ1 ★★☆

■友情のため、悪者はとことんとっちめるのだ

シリーズものだから余計な説明はいらないとはいえ、今回は映画のほとんどを、だましの仕掛けの手口の解説とそれがいかに実行されたかの検証にあてるという徹底ぶりで、ここまでやられてしまっては、もう立派としかいいようがないではないか(と書いてしまったが、11や12はどうだったかは? 相変わらず心許ない記憶力だ)。

今まさに金庫を破ろうという時にケータイが鳴ると(映画館で鳴らせるヤツと同じかよ)、ラスティー・ライアン(ブラッド・ピット)はその仕事を放り出して(病院へ俺は行くとは言ってたけどね)、ダニー・オーシャン(ジョージ・クルーニー)が待つ飛行機に乗り込む。オーシャンズの大切な仲間ルーベン・ティシュコフ(エリオット・グールド)が心筋梗塞で倒れ24時間が勝負とあっては、ラスティーの行動は当然ではあるが、ふざけた導入だ。

ルーベンの病気は、そもそも強欲なホテル王ウィリー・バンク(アル・パチーノ)によって新しくオープンするホテルの共同経営者から、まったくの他人に格下げさせられてしまったことによる。もっともこれはバンクのただの脅しにルーベンが屈して出資金を巻き上げられてしまうという面白くもなんともない話だ。

ルーベンは巻頭では危篤だったのに、すぐよく持ちこたえたになり、病気の克服は見込みがないわけではなく、第1に家族(これは無理のようだ)、次に友人の協力が欠かせないになっていて、オーシャンズたちもみんなで励ましの手紙を書くなどという殊勝なところをみせる。廃人のようにみえたルーベンだが、映画の途中ではもう平気のへーちゃらの助になって、ホテルのオープン日にはカジノの客としてバンクの前に顔を出すという調子のよさ。最後の方でルーベンがバシャー・ター(ドン・チードル)に手紙で生き返ったとお礼を言う場面がある。

アル・パチーノはとにかく悪役ぶりが潔い。どこからみてもいい役ではないのだが、それを演じきってしまうのだから、アル・パチーノだ、と言っておこう。バンク側はあと、女性の右腕アビゲイル・スポンダー(エレン・バーキン)がいるのだが、2人じゃあね。多勢に無勢だ。

ホテルでは5つのダイヤモンド評価という最高格付けを狙い(保有ホテルすべてがすでにそうなのだという)、さらにカジノ収入でもとびきりの目標を立てているバンクの用意したセキュリティというのがすごくて、カジノにいるすべての客の瞳孔(脈拍もだったか?)のデータを入手し、行動パターンを読みとって不穏な動きがないかどうかまでも管理するという。

で、その対応策は、英仏海峡を掘削したドリルを近くに持ち込んで(どうやってさ)、人口地震を起こして瞬間的な隙間(リセットに3分)に、一気にトリックを駆使したインチキで大金をせしめてしてしまおうというものだ。ホテルは悪評判にし、カジノではバンクを破産に追い込み、おまけに最上階のプライベートルームにある本物のダイヤモンドまでっせしめてしまおうという、これでもか作戦。ま、このくらいしないと掘削ドリルの持ち込みでは華にならないということもあるのだけどね。

事実そのドリルの出番たるやほんのわずか(本物の地震が起きてしまうんだものね)。でも平坦な物語にとってはこのドリルが、面白い展開を生むことになる。オーシャンズが力を合わせてもドリルを借り受ける財力がなく、いままで散々やり合ってきた宿敵(『オーシャンズ12』)テリー・ベネディクト(アンディ・ガルシア)に頭を下げて協力を申し出るのである。

他には、メキシコにある工場へ潜入してダイスの原材料にマグネトロンを入れてダイスの目を操るというもの(説明されても仕組みがよくわからん)や、嘘発見器からいかにして逃れるかとか、偽格付け員を仕立てあげたり、本当の格付け審査男の泊まる部屋に匂いや害虫の細工をしたり、高速でエレベーターが行き交う中をアクロバチックに潜入していったり、従業員の弱みにつけ込んで懐柔するといった程度のものなのだが(人数分見せ場を用意するだけでも大変そうだ)、それをスマートにさらりと見せていく手腕はなかなかではある。

1晩で5億ドルが消えたバンクだが、ゴルフならまだハンデ2だと負けを認めようとしないところはさすが。でもうろたえてたけどね。ちょっと気の毒なのはエレン・バーキンで、「スポンダーはホスト好き」ということになっていて、ライナス・コールドウェル(マット・デイモン)の付け鼻男に媚薬でめろめろにさせられてしまう。ま、これもアル・パチーノ共々余裕でやられ役を楽しんでいたということにしておくか。

とことん痛めつけてしまった格付け審査男にはちゃんとそれなりのご褒美を用意するし(途中でも1100万ドルという数字を出していたから、最初から報いるつもりだったようだ。でもあのスロットマシンは、どこの、誰の?)、ただでは引っ込むはずのないベネディクトのダイヤの横取り(ヴァンサン・カッセルまで出て来ちゃったよ)も防いで、かつそんな企みまでしていたのだからと、分け前分はお灸の意味も込めてベネディクト名義で寄付。

今回は正義も貫いて、最後のオチまでよくできてます。でもそれだけなんだけどね。

 

【メモ】

ウエイトレスが2キロ太っただけでクビになる話が出てくる。ウエイトレスを容姿だけではクビに出来ないのだが、採用時に「給仕兼モデル」にしてあるので、可能らしいとも。

人工知能セキュリティの説明でエクサバイト(テラバイトの100万倍)という言葉がでてきた。これを破るのには天災でもないと、ということで掘削ドリルが登場するというわけだ。

ダニーとラスティーが「オプラの番組」(?だったか)というテレビを見て涙を流していたが? 

ホテル(カジノの方か?)のオープニングイベントに相撲が登場する。

原題:Odean’s Thirteen

2007年 122分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:菊地浩司 アドバイザー:アズビー・ブラウン 配給:ワーナーブラザース映画 

監督:スティーヴン・ソダーバーグ 製作:ジェリー・ワイントローブ 製作総指揮:ジョージ・クルーニー、スティーヴン・ソダーバーグ、スーザン・イーキンス、グレゴリー・ジェイコブズ、ブルース・バーマン、フレデリック・W・ブロスト 脚本:ブライアン・コッペルマン、デヴィッド・レヴィーン 撮影:ピーター・アンドリュース プロダクションデザイン:フィリップ・メッシーナ 衣装デザイン:ルイーズ・フログリー 編集:スティーヴン・ミリオン 音楽:デヴィッド・ホームズ

出演:ジョージ・クルーニー(ダニー・オーシャン)、ブラッド・ピット(ラスティー・ライアン)、マット・デイモン(ライナス・コールドウェル)、アンディ・ガルシア(テリー・ベネディクト)、ドン・チードル(バシャー・ター)、バーニー・マック(フランク・カットン)、エレン・バーキン(アビゲイル・スポンダー)、アル・パチーノ(ウィリー・バンク)、ケイシー・アフレック(バージル・マロイ)、スコット・カーン(ターク・マロイ)、エディ・ジェイミソン(リビングストン・デル)、シャオボー・クィン(イエン)、カール・ライナー(ソール・ブルーム)、エリオット・グールド(ルーベン・ティシュコフ)、ヴァンサン・カッセル(フランソワ・トゥルアー)、エディ・イザード(ローマン)、ジュリアン・サンズ(グレコ)、デヴィッド・ペイマー、ドン・マクマナス、ボブ・エインスタイン、オプラ・ウィンフリー(本人) 

シュレック3 日本語吹替版

新宿ミラノ3 ★★☆

■昔々、誰かが僕たちをこんなにした

1、2作目を観ていないので、比較も出来なければ話の流れもわかっていないのだが、シュレックはどうやら2作目の活躍(?)で王様代行の地位を、このおとぎの国で得ていたらしい。もっともシュレックが王様代行としてふさわしいかどうかは本人が1番よく知っていることで、何しろシュレックは怪物らしいんだが、そしてこれは多分3作目だからなのだろうが、せいぜい見た目が緑でごっつくて息が臭いくらいでしかなくって、そう、すでに人気者なのだった。

とにかくシュレックが何者なのかも、ドンキーと長靴をはいた猫が何で彼の部下となっているのかもわかってなく、怪物なのにヒーローで、結婚したフィオナ姫(シュレックと同じ怪物なのに蛙国王が父!?)までいるんだ?と、一々ひっかかっていてはどうしようもない。

だから楽しめなかったかというとそんなことはないのだが、残念なことにシュレックにそれほど親近感が持てぬまま終わってしまったのは事実。

蛙国王ハロルドの死(死の場面で笑いをとってしまうんだからねー)で、いよいよ王位に就くしかなくなったシュレックは、フィオナ姫の従弟のアーサーという王位継承者の存在をハロルド王から聞いたことで、アーサー探しの船旅に出、ある町の高校でアーサーを見つけだす。

このアーサー、円卓の騎士(アーサー王伝説)からの命名らしく、ライバル(恋敵でなくいじめっ子)はランスロットで、かつて魔法を教えてくれていたのがマーリンというヘンな元教師(魔術師という設定は正しいが、彼には別の場所で会う)。ただ、円卓の騎士の話は名前だけの借用で、話が関連してくるでもなく、アーサーはまぬけな臆病ものでしかない。

一方、シュレックが王になっては面白くないチャーミング王子は、おとぎ話で悪役や嫌われ者になっている白雪姫の魔女やシンデレラの継母にフック船長などにくすぶっている不当な扱いや不満をすくい取り、シュレックがいないのを狙いすましたように反旗をひるがえす。

チャーミング王子が自分勝手で狡賢いヤツでなければ、彼らの想い(昔々、誰かが僕たちをこんなにした)に応えるこの発想は捨てたものではないのだが、自分が注目されたいがために、所詮はおだてて利用しようとしているだけというのがねー。てっきり子供向けだから単純な設定にしておいたのだろうと思ったのだが、白雪姫やシンデレラたちをちょっと鼻持ちならないキャラクターにしたりと、手のこんだところもみせる。で、髪長姫にはチャーミング王子に協力するという裏切りまでさせているのだ。

ただそのチャーミング王子は、巨大劇場での自己満足演目に浸りきってしまう幼稚さだから、シュレックが旅から戻ると一気にその企ても崩れ去るのみ。おとぎの国の悪役たちも、アーサーが王らしい訓示を垂れれば(シュレックの受け売りなんだけどね)、武器を捨ててしまうのだから、あっけないったらありゃしないのである。

映画全体にあるこの生温さは、怪物として機能する必要がなくなってしまったシュレックにありそうなのだが、なにしろ1、2作を観ていないのでいい加減な感想しか書けないのは最初に断った通り。CGは見事だし、ほとんどお馴染み顔ぶれが繰り出すギャグも1作目から観ていたらもっと楽しめたと思うのだが、とにかくシュレックのヒーローとしての際立った魅力がこの3には感じられないのだ。王様になることを恐れたり、生まれてくる赤ん坊の悪夢を見ていたというような印象ばかりではね。

 

【メモ】

最近の日本語吹替版ではあたりまえのようだが、タイトルやエンドロールも日本語表記のもの。アニメなんだから私なぞ日本語吹替版で十分(むしろこの方が楽しめるかも)。

原題:Shrek the Third

2007年 93分 シネスコサイズ アメリカ 配給:アスミック・エースエンタテインメント、角川エンタテインメント

監督:クリス・ミラー 共同監督:ロマン・ヒュイ 製作:アーロン・ワーナー 製作総指揮:アンドリュー・アダムソン、ジョン・H・ウィリアムズ 原作:ウィリアム・スタイグ 原案:アンドリュー・アダムソン 脚本:ピーター・S・シーマン、ジェフリー・プライス、クリス・ミラー、アーロン・ワーナー 音楽:ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ

声の出演(日本語吹替版):濱田雅功(シュレック)、藤原紀香(フィオナ姫)、山寺宏一(ドンキー)、竹中直人(長ぐつをはいた猫)、橘慶太(アーサー)、大沢あかね(白雪姫)、星野亜希(シンデレラ)、光浦靖子(髪長姫〈オアシズ〉)、大久保佳代子(眠れる森の美女〈オアシズ〉)

ルネッサンス

シネセゾン渋谷 ★★☆

■絵は見事ながら結論が陳腐

『ルネッサンス』におけるモノクロ映像の鮮烈さは脅威だ。モノクロ2値(グレー画像の入る場面もけっこうあって、これもなかなかいい)で描かれたコントラストのはっきりしたアニメは、極度の緊張感を強いられるが、しかし『スキャナー・ダークリー』にあった色の洪水に比べれば、意識の拡散は少ない。

そして2054年のパリの変貌度。これもすごい。色は抑えられていても、未来のパリが、古い部分を残しながら、しかし重層的な街(しかも水路がかなり上の方にあったりして、こんなところにもわくわくさせられてしまう)として提出されると、やはり意識はどうしようもなく拡散し、物語を追うのは後回しにしたくなる。

未来都市は一面ガラス張りの道路があって、これは物語の展開に少しはからんでくるし、カーアクションや企業の建物、街中のホログラムの娼婦にステルススーツを着た暗殺者などもそれなりには見せるのだが、とはいえ単なる背景程度だから別にこの映画でなきゃというものではない。せっかくの重層的な街がたいして機能していないのにはがっかりする。

モーション・キャプチャー技術による映像というが、技術的なことはよくわからない。絵的には面白くても、人物造型となると陰翳だけではのっぺりしてしまって深みがなくなるから、ここはやはり都市の造型の意味に言及(そのことでアヴァロン社の存在を説明するとかね)しなければ、何故こういう形のアニメにしたのかがわからなくなる。鑑賞中そんなことばかり考えていた。

だから物語を掌握できたかどうかの自信はないのだが、これだけ凝った映像を用意しておきながら、それはまったく薄っぺらなものであった。

パリすべてを支配しているようなアヴァロンという企業(パリ中にここの広告があふれかえっているのだ)で働く、22歳の女性研究員イローナ・タジエフが誘拐されるという事件が起きる。アヴァロンの診療所(こういうのもすべてアヴァロンが運営しているのだろうか)のムラー博士の通報で、高名(とアヴァロンの副社長?のダレンバックが言っていた)なカラス警部が捜査に乗り出す。

イローナの5歳年上の姉ビスレーン(とカラス警部の恋もある)や、カラス警部とは因縁のあるらしい裏社会の実力者ファーフェラーをかいして、サスペンスじみた進行でイローナの行方に迫っていくのだが、しかしその過程にはほとんど意味がなく、だからただでさえ単調な結末がよけい惨めなものにみえてしまう。

手を抜いてしまうが、結局イローナは早老病の研究にかかわっていて不老不死の方法を手に入れたらしいのだが、これには当然アヴァロン(ダレンバック)の影があって、でも最後にはイローナが暴走。人類は私の発見を待っているのよ、私が世界を変えるのよ、みたいな調子になるのだが、こういうのってあまり恐ろしくないのだな。

ムラー博士の弟クラウスは早老病になったが、ムラー博士が不死を発見したことで子供のまま40年生きていたという部分など、別物ながら『アキラ』を連想してしまったし、不老不死を死がなければ生は無意味と位置づけている凡庸さにも同情したくなった。「アヴァロン、よりよい世界のため」という広告が出て終わるのは、巻頭のタイトル(カラス警部の夢のあとの)後と同じ構成にして「よりよい世界」の陳腐さを強調したのだろうが、それ以前に映画の方がこけてしまった感じがする。

そういえばクラウスの描いた絵だけがカラーで表現されていた。あれにはどういう意味があるのか。真実はそこにしかない、だとしたらそれもちょっとなんである。

 

原題:Renaissance

2006年 106分 シネスコサイズ フランス、イギリス、ルクセンブルク 配給:ハピネット・ピクチャーズ、トルネード・フィルム 日本語字幕:松岡葉子

監督:クリスチャン・ヴォルクマン 脚本:アレクサンドル・ド・ラ・パトリエール、マチュー・デラポルト 音楽:ニコラス・ドッド キャラクターデザイン:ジュリアン・ルノー デザイン原案:クリスチャン・ヴォルクマン

声の出演:ダニエル・クレイグ(バーテレミー・カラス)、ロモーラ・ガライ(イローナ・タジエフ)、キャサリン・マコーマック(ビスレーン・タジエフ)、イアン・ホルム(ジョナス・ムラー)、ジョナサン・プライス(ポール・ダレンバック)、ケヴォルク・マリキャン(ヌスラット・ファーフェラ)

アコークロー

シアターN渋谷-2 ★★☆

■許すということ

鈴木美咲(田丸麻紀)は、東京から沖縄で一緒に生活するために村松浩市(忍成修吾)の元へやってくる。浩市ももとは東京人。4年前から沖縄で働いていたが、遊びにきていた美咲を海岸でナンパして、願ってもない状況になったらしい。浩市の友達の渡嘉敷仁成(尚玄)とその子の仁太に喜屋武秀人(結城貴史)と彼のおばば(吉田妙子)という仲間に囲まれて、美咲の沖縄での新しい生活がはじまる。

まず重要なのは、美咲には東京から逃げ出したい事情があったということである。実はベビーシッター中の姉(清水美砂)の子を、事故で亡くしてしまったのだ。この事故は発端が姉からのケータイへの連絡であり、偶然が重なったものと「姉もわかっているがでも許せないでいる」と美咲が認識しているもので、この問題が一筋縄ではいかないことは想像に難くない。

が、この先に起きるキジムナー(沖縄の伝説の妖怪)奇譚との関わりが(もちろんそれは精神的なものであっていいのだが)いまひとつはっきりしないため、見せる部分での怪奇映画としてはある程度成功していながら、やはりそこまでの映画にしかなっていない。つまり、この理屈付けさえ明確にできたならば、十分傑作たり得たのではないか。

仁成の前妻松田早苗(菜葉菜)が急に現れ、仁太に接触したことで仁成は怒りをあらわにする。早苗を殴ってしまうのだから、根は深そうだ。「話してもわかる相手ではない」らしい。そして、いったんは早苗を追い返すのだが、その言葉通りに同じことが繰り返される。

ただ早苗は、この直前に猫の死骸が木に吊されたところ(沖縄では昔よくあった風習と説明されていた)で、キジムナーに取り憑かれているのだ。早苗が鎌を持っていた(キジムナーのせいか)ことで予想外の惨劇となる。もみ合っていて、まず浩市が早苗を刺し、それを抜いた早苗が仁成に襲いかかるのを制しようとして美咲がとどめを刺す形になってしまう。

事件が発覚したらこの村では生きていけないと、浩市と仁成は警察に届けることを拒み(男が3人も傷を負っているのだから正当防衛を主張するのは簡単そうなのだが)、浩市と美咲とで早苗の死体を森の中にある沼に運び、沈めることになる。

話が前後するが、仁成は早苗をビニール袋に包んでいるところを、家に帰ってきた仁太に見られてしまう。目があった仁太は驚いて逃げるが、早苗に鎌で足に傷を付けられている仁成が追いつけないでいるうちに、仁太はサトウキビ畑でハブに噛まれる。仁成は車で病院に向かうが、右側から合流してきた車と激しく接触する(単純ながらこの場面のデキはいい)。

秀人は早苗の死そのものを疑い、茫然としたまま家に帰っていくが、姿を消してしまう。浩市と美咲が秀人を捜してまたあの沼に行くと、「これをあげるから、でもとても痛くて取れないんだ」と言いながら自分の目玉をえぐり取ろうとしている秀人を見つける。

魚の目玉がキジムナーの好物だというのは、おばあが読み聞かせてくれた絵本に、また、仁成の同級生で元ユタだったことから紹介された作家の比屋定影美(エリカ)に、浩市と美咲がキジムナーの話を聞きに行き、比屋定からキジムナーは裏切った人間の目玉をくり抜くのだ、と言われていたことをなぞっているから非常に不気味だ。

仁成は仁太が入院したことすらわからなくなっていて(自分足の傷さえわかっていないようだ)首を吊って死んでしまう。早苗の幻影を見るようになった浩市は、仕事も手に付かない状態になっている。そして、美咲にも早苗の姿が見える時がやってきて、2人は比屋定の助けを求める。

美咲にも早苗が見えるようになる前にある、美咲カが外から浩市の所に帰ってくる3度同じ内容を別のパターンで繰り返す場面は、意味はわからないが怖い。

最後の早苗と比屋定の対決場面は、比屋定のお祓いによって早苗の口から出てきた異物(これがキジムナーなんだろう)を、比屋定がまた食べてしまうというグロな展開となる。ここは映画として面白いところである。ただ逆にここにこだわったことで、作品としてはよくわからないものになってしまった。というのも、キジムナーが何故早苗に取り憑いたのかが、まったく説明されていないからだ(説明不可という立場をとったのかもしれないが)。

かつて(仁太が2歳の時)お腹の子を自分の不注意で死なせてしまったという早苗に、気持ちのやり場のないことはわかるが、だからといって彼女の行動を肯定できるかといえばもちろんそんなことはなく、浩市が自分たちの正当性と早苗を非難したことの方が正論に決まっているのである。もちろんそこまでは、だが。これは比屋定も言っていることだ。

とにかく細かいことを気にしだすと何が何だかわからなくなってくる。ここはやはりキジムナーから離れて、美咲の問題に限定した方がよかったのではないか。そうすれば美咲がどうしてキジムナーに興味を持ったのかということだって曖昧にせずにすみ、早苗に自分の犯した罪(姉の子を殺してしまった)を重ね合わせる美咲の心境を中心にした映画が出来たのではないか。

もっともそうしたからといって、それですべてが解決するかというと全然そんなことはない。美咲のもう前しか見ないという決意(これは病院で仁太の経過を仁成に聞いたあとのこと)にしても、美咲に途中から早苗の亡霊が見えるようになる理由も、やはりすっきりしないままだろうから。

ただ付け加えるなら、早苗と美咲の心の交流がまったくないわけではない。浩市はやはり自分の目玉を刺すことになるが、美咲が自分を刺そうとしたときには、早苗はその包丁を自分に向け、自分を刺すのだ。これは美咲が自分のことをわかってくれたと思ったからだろう。

早苗の遺体が発見されたのは美咲たちの犯行から1ヶ月も経ってで、その日が死亡推定時刻になっているので、警察も困っているという比屋定の報告を、美咲は拘置所の面会室できく。ここでもその理由をキジムナーと結びつけているのだが……。

この刑務所に美咲を姉が訪ねて来ていることには、やはり胸をなで下ろす。姉との関係が戻ることはないにしても(もう至近距離では生活しない方がいいだろうから)、2人は了解だけは取り合っておくべきと思うから。

許されることのないものは存在する。というか、許すか許さないかという認識は他者との関係性で発生するが、その関係性は閉じてしまっても存在する。この場合許す(許さない)側と許される(許されない)側は同一となって、この部分で納得出来なければ、いくら他者から許されても救われないはずだ(もっとも自分の正当性のみしか主張しないまったく無反省な人間もいるようだが、この映画ではそういう人間は登場しない)。

少し映画とは離れた感想になってしまった。

実はこの映画については「決定稿」と印刷された台本が売られていて、それを読んだのだが、とても決定稿とは思えないほど完成した映画とは違っていた。もちろん、それは悪いことではないだろう。特に前半は、台本よりずっと整理されたいいものになっている。

が、後半になると手を入れたところが必ずしもよくなっているとは思えないのだ。映画は1度観ただけだし、この違う部分が多すぎる台本を読んでしまったことで、私が多少混乱していることもあるが、ここまで手をいれたのは監督も作りながらまだ迷っていたのではないか、と思ってしまうのだ。

たとえば、いままでに書きそびれたことでキジムナーについてもう1度だけ述べると、美咲は「森へ逃げて2度と現れないって、なんかすごく消極的。キジムナーがかわいそう」と絵本のキジムナーに同情しているのだが、映画に出てくるキジムナーは、とても人間の思慮の及ぶ存在ではなかった。また比屋定はキジムナーの存在より、キジムナーに対する人間の想いに興味があると発言していたのに、対決場面ではその存在が当然かのように振る舞っていて、ちょっと面食らってしまったのである。

さらに決定稿だと、最後のクライマックスでは美咲も早苗(キジムナー)に目玉を差し出している(これは比屋定が早苗が吐き出したものを飲み込んだあとなのだ)。そして早苗のはやく楽にしてという言葉に、美咲が早苗を刺すのだ。

ね。ちょっと混乱するでしょ。私も書いててますますわからなくなってきた。

最後は美咲の姉が美咲に面会に行く場面ではなく、片腕を失った仁太が友達にからかわれているところに比屋定が居合わせて、仁太に片腕を亡くしたのならもう片方の腕で生きろと言う。現実を見据えた阿ることのない決意のある場面だが、うーん、やっぱりキジムナーにこだわりすぎて、途中の説明を誤ったよね。飛行機雲がくっきりの、どこまでも明るい沖縄の空の下にある程度恐怖を提示できていたのに、ちょっともったいなかったような。

 

【メモ】

「アコークロー」は、昼と夜の間の黄昏時を意味する沖縄の方言だという。沖縄の言葉の多くは古い時代に本土方言から変化してできたものだと金田一春彦の『日本語』で教えられたが、とするとこれは「明るくて、暗い」なのか。キジムナーもキは木で、ジムナーの方は人を化かす狢がムジナーになって、ムジナーがジムナーと入れ替わることはよくあるから木の狢という意味ではないかと。ま、これはまったくの推論。「木のもの」が語源という説が多いようだ。

偶然の重なった事故は、姉からケータイに連絡が入ったことで、美咲はちょうどその時飛び出してきた自転車にハンドルをぶつけられてベビーカーの手を離してしまい、そこにトラックが突っ込んできて……と映像で説明されていた。

警察に届けない理由を浩市は美咲に次のように説明する。手遅れだし、母親が死んで父親はブタ箱行きでは仁太が救われない、というものだが、お前の姉さんはこの事件を聞いてどう思うというセリフは、そうすんなりとは入ってこなかった。

美咲はイチャリバチョーデー(出会えば兄弟)という方言をあまり好きになれずにいたが、拘置所で比屋定からこの言葉を聞くことになる。

2007年 97分 ビスタサイズ PG-12 配給:彩プロ

監督・脚本:岸本司 製作:高澤吉紀、小黒司 プロデューサー:津島研郎、有吉司 撮影:大城学 特殊メイク:藤平純 美術:濱田智行 編集:森田祥悟 主題歌:ji ma ma『アカリ』 イラスト:三留まゆみ 照明:金城基史 録音:岸本充 助監督:石田玲奈

出演:田丸麻紀(鈴木美咲)、忍成修吾(村松浩市)、エリカ(比屋定影美)、尚玄(渡嘉敷仁成)、菜葉菜(松田早苗)、手島優(亜子)、結城貴史(喜屋武秀人)、村田雄浩(藤木)、清水美砂(美咲の姉)、山城智二(山城)、吉田妙子(喜屋武シズ)

パイレーツ・オブ・カリビアン ワールド・エンド

新宿ミラノ1 ★★☆

■もう勝手にしてくれぃ

なんでこのシリーズがヒットするんだろ。私にはけっこうな謎だ。海賊映画の伝統があるアメリカならいざ知らず、日本人に食指が動くのかなーと。近年は『ONE PIECE』のようなマンガもあるし(内容は知らん)、ディズニーランドのアトラクションでもお馴染みだから(いや映画はこれが元でしたっけ)、それほど違和感はないのかも。内容重視というのではなく、アトラクションムービーとして楽しめればそれで十分なのだろうか。

そうはいっても170分間全部をその調子でやられてはたまらない。たしかに流れに身をまかせているだけで、退屈することもなく最後まで観せてはくれるが、でも何も残らないんだよな。

デイヴィ・ジョーンズの心臓を手に入れた東インド会社のベケット卿によって窮地に立たされた海賊たちは、死の世界にいるジャック・スパロウを救い出すことにし、ってそうだった、2作目の最後でジャック・スパロウを当然どうにかしなければならないことはわかってはいたんだけど、あらためてこれはないよなー、と思う。早々にもうどうでも良い気分になってしまったもの。

何でもありのいい加減な映画の筋など書く気分じゃないのでもうお終いにしちゃえ。それにしても3作まで作り、ヒットし(金もつぎ込んでるか)、キャラクターも育ったというのに、結局は話に振り回されているだけの印象って、あーもったいない。

 

原題:Pirates of the Caribbean: At Worlds End

2007年 170分 シネスコサイズ アメリカ 配給:ブエナビスタ・インターナショナル(ジャパン) 日本語字幕:戸田奈津子

監督:ゴア・ヴァービンスキー 製作:ジェリー・ブラッカイマー 製作総指揮:マイク・ステンソン、チャド・オマン、ブルース・ヘンドリックス、エリック・マクレオド 脚本: テッド・エリオット、テリー・ロッシオ 撮影:ダリウス・ウォルスキー キャラクター原案:テッド・エリオット、テリー・ロッシオ、スチュアート・ビーティー、ジェイ・ウォルパート 視覚効果:IKM プロダクションデザイン:リック・ハインリクス 衣装デザイン:ペニー・ローズ 編集:クレイグ・ウッド、スティーヴン・リフキン 音楽:ハンス・ジマー

出演:ジョニー・デップ(キャプテン・ジャック・スパロウ)、オーランド・ブルーム(ウィル・ターナー)、キーラ・ナイトレイ(エリザベス・スワン)、ジェフリー・ラッシュ(キャプテン・バルボッサ)、ジョナサン・プライス(スワン総督)、ビル・ナイ(デイヴィ・ジョーンズ)、チョウ・ユンファ(キャプテン・サオ・フェン)、ステラン・スカルスガルド(ビル・ターナー)、ジャック・ダヴェンポート(ジェームズ・ノリントン)、トム・ホランダー(ベケット卿)、ナオミ・ハリス(ティア・ダルマ)、デヴィッド・スコフィールド(マーサー)、ケヴィン・R・マクナリー(ギブス航海士)、リー・アレンバーグ(ピンテル)、マッケンジー・クルック(ラゲッティ)、デヴィッド・ベイリー(コットン)、キース・リチャーズ

300

新宿ミラノ2 ★★☆

■スパルタ教育って優性思想なのか!?

戦闘シーンの迫力に目を奪われていたら、117分はあっけなく過ぎていて、つまりこの映画の映像にはそれだけの迫力があったということなのだが、しかし物語の方は心もとないものだった。

まずスパルタではどのように子供を育てるかという話が出てくる(スパルタ教育を復習)。発育不全や障害は排除され、7歳で母親から離され暴力の世界で生きることを学ばされる。そして、今のスパルタ王レオニダス(ジェラルド・バトラー)は、そういう意味でも完璧だったというのだ。

そのレオニダスのもとにペルシャ王クセルクセス(ロドリゴ・サントロ)からの使者が訪れる。西アジアやエジプトなどを手中にしたペルシャは100万という大軍をもってギリシャに迫り、属国になることを要求するのだが、レオニダスはためらうことなく使者を殺してしまう。彼にとって戦うことは当然だったが、好色な司祭たちはクセルクセスの餌(スパルタが滅んだ時は生娘を毎日届けるというすごいもの)に、託宣者(オラクル)のお告げと称してレオニダスにスパルタ軍の出兵を禁じてしまう。

スパルタの滅亡が目に見えているレオニダスは苦悩するが、「戦争はしない。散歩だ」と言って、でも王妃には別れを告げ、親衛隊と北に向かう。それをきいたアルカディア軍も駆けつけてくるが、レオニダスが動かせる兵はわずか300。が、敵の進路にあたる海岸線が狭くなる地点で敵と対峙すれば単純な数の比較は成立しない……たってねー。

で、このあとあらかた戦闘場面についやされるのだが、腑に落ちないのが王妃ゴルゴ(レナ・ヘディ)の行動だ。自分が議会で派兵の要請をしても説得できる可能性が少ないとみてセロン(ドミニク・ウェスト)に接近し、我が身と引き換えに協力を得ようとするのだが、セロンからは逆に王妃に誘惑されたと発言されてしまう。首飾りを渡し「骸となっても戻ってきて」とレオニダスに言っていたのにあまりではないか。

ま、これは男性観客へのサービスみたいなものか。密会場面で王妃は「いい夜ですね」と切り出すがセロンは「話相手に呼んだのではない」とばっさり。王妃は「わかってます」と強気に答えるが、「法を破り議会を無視して進軍したのだから」とすぐ主導権を奪われて、「現実主義者の見返りはおわかりのはず」「すぐにはすまない。苦痛だぞ」だもんね。東映のチャンバラ時代劇にもあるいたぶって喜ぶ悪代官みたいな感じ。

セロンの発言のひどさに、怒りに燃えた王妃が、剣で彼を刺し殺してしまうのだが、セロンの懐からペルシア金貨がこぼれ落ちたことから、セロンが裏切り者だったことがわかる。いや、もう、なんともわかりやすい説明(こんな時に持ってるなよ、ペルシャ金貨)。

物語は他の部分ではもっと単純。とにかく戦闘場面に集中しろということか。確かにその映像は一見に値する。茶を基調に色数を抑えたざらついた質感の画面に、スパルタ兵のまとうケープや血しぶきの赤を強調するところなど『シン・シティ』(この原作もフランク・ミラーだ)にもあった手法だが、戦闘場面にこだわった映画だけに、これがものすごく効いている。スローモーションと速送りを自在に組み合わせることで、獲物を仕留める正確さと速度の尋常ならざることの両方をきっちりと描く。

無茶なアップや雑なカメラ移動もないから安心して観ていられるのだ。すべてが計算された動きの中にある感じで、いかに敵を仕留めたかを観客にわからせようとしているようでもある。そしてこれを徹底させることが、画面から現実味をなくし、よりゲームに近い世界を作り上げることになった。首が、腕が、飛び、血しぶきが舞いながら、残虐性より美しさが演出されていたと言ったら褒めすぎか。実写をデジタル処理したマンガと思えば(そこまではいってないが)いいのかも。

このことに関係しているはずだが、ペルシャ軍の秘密兵器の飾り立てられたサイや象なども、もはや常識の大きさではなく、まるでゲイのようなクセルクセスの高い背、戦場とは思えない御輿なども、すべてがゲームやマンガに近い。1人が100人を殺しても(疲れちゃうものね)3万人の犠牲ですみそうなのに、ペルシャ軍はありえない巨大動物だけでなく、怪力男、忍者?部隊なども繰り出してくる。それを次々と撃破してしまうんだからねー。

とはいえ、敵に山羊の道を知られたことで退却者も出、スパルタの勇士たちにも力の尽きる時がくる。レオニダスは無数の矢に射られて命を落とし、王妃の元には使者によって首飾りが届けられる。

ただ、このあとの「神秘主義と専政政治から世界を救う」というメッセージには同調しかねる。最初の方でも「世界の手本である民主主義」などという言葉が出てきたが、そこまで言っては思い上がりというものだ。

一般のペルシア兵が仮面軍隊というのは、面白さとわかりやすさから採用されたのだとは思うが、見方を変えると個性剥奪というずいぶんな扱いであるし、それに巻頭にあった、スパルタでは弱者は生かしてもらえないという部分は、ナチスなどの優性思想に通じるものだもね。2500年前にはそうでもなきゃ生きていけなかったのかもしれないけど、こうあからさまに言われてしまうと聞き捨てならなくなる。

  

原題:300

2006年 117分 シネスコサイズ アメリカ R-15 配給:ワーナー・ブラザーズ映画 日本語字幕:林完治

監督:ザック・スナイダー 製作:ジャンニ・ヌナリ、マーク・キャントン、バーニー・ゴールドマン、ジェフリー・シルヴァー 製作総指揮:フランク・ミラー、デボラ・スナイダー、クレイグ・J・フローレス、トーマス・タル、ウィリアム・フェイ、スコット・メドニック、ベンジャミン・ウェイスブレン 原作:フランク・ミラー、リン・ヴァーリー 脚本:ザック・スナイダー、マイケル・B・ゴードン、カート・ジョンスタッド 撮影:ラリー・フォン プロダクションデザイン:ジェームズ・ビゼル 編集:ウィリアム・ホイ 音楽:タイラー・ベイツ

出演:ジェラルド・バトラー(レオニダス)、レナ・ヘディ(ゴルゴ/王妃)、デヴィッド・ウェンハム(ディリオス)、ドミニク・ウェスト(セロン)、ミヒャエル・ファスベンダー(ステリオス)、ヴィンセント・リーガン(隊長)、トム・ウィズダム(アスティノス)、アンドリュー・プレヴィン(ダクソス)、アンドリュー・ティアナン(エフィアルテス)、ロドリゴ・サントロ(クセルクセス)、マリー=ジュリー・リヴェス、スティーヴン・マクハティ、タイロン・ベンスキン、ピーター・メンサー

素晴らしき休日

銀座テアトルシネマ ★★☆

■畑の中の映画館

『監督・ばんざい!』の上映前にかかった短篇。カンヌ映画祭60周年を記念して、35人の映画監督に映画館をテーマに持ち時間3分で短篇の依頼があって作られたものらしい。

田舎の畑の三叉路にあるヒカリ座という映画館に1人の男(モロ師岡)がやってくる。ちょっとうっかりしていて定かではないのだが、男は「農業1枚」(こんなこと言うかな)と言って切符を買う。ちなみに映画は『Kids Return キッズ・リターン』で料金は大人500円、学生400円、子供200円。農業はいくらなんだ。

上映となるが、すぐにトラブルがあって、映写技師(北野武)がちょっと待ってくださいと言う。が、タバコ数本分は待たされてしまう。しかしどうでもいいのだが、この映画館のボロさはただ者ではないのだな。朽ちかけた椅子もあるし。で、再開されるのだが、今度はフィルムが焼けてしまう(いまだに可燃フィルム?)。男も怒るでもなく、犬にパンなどをやっているのだ。

「はい、いきまーす」のかけ声で映画がまた始まる。

私は観ていないからわからないのだが、多分『Kids Return キッズ・リターン』がそのままかかっていて、「俺たち終わっちゃったのかな」「まだ始まっちゃいねえよ」という場面が映る。

外はもう夕方になっていて、男が1本道を画面の奥に向かって帰って行く。

これだけの映画(3分だからね)だが、タイトルが『素晴らしき休日』ということは、男は十分満足して帰ったということなのか。映画がよっぽど素晴らしかったのか。ってそれだと自画自賛だけど、客1人のために映画を上映するというのがなんだかいい。客の方も映画を観にとぼとぼとやってきたわけで。

むふふ映画館もこんな畑の中に作ればよかったかなー、と思ってしまったのだな(まったく気が多い)。んで、私も短篇を作って客に強制的に観せてしまうというのはどうかな、と。こういう短篇は妄想がふくらむから、幸せな気分になれる。

2007年 3分 ビスタサイズ

監督:北野武

出演:モロ師岡、北野武

女帝[エンペラー]

有楽座 ★★☆

■様式美が恨めしい

『ハムレット』を基に、唐王朝崩壊後の五代十国時代の中国に移し替えた作品ということだが、話自体にかなり手を入れていることもあって、印象はまったく違うものとなった。

皇太子ウールアン(ダニエル・ウー)の妻だったのに、どうしてか彼の父の王妃となっていたワン(チャン・ツィイー)は、王の謎の死で、今度は新帝となった王の弟リー(グォ・ヨウ)のものとなる。ウールアンからすると、父と叔父に妻を取られるという図である。

「そちを手に入れたから国も霞んで見える」とリーに言わせるほどのワンではあるが(傾国の美女ってやつね)、この設定はいただけない。チャン・ツィイーを主役にするための『ハムレット』の改変だが、恋人だったウールアンを救うためにワンがリーの妻になるというのがはじまりでは、観客はもう最初からどうにでもなれという心境になる。話をいたずらに込み入らせるばかりで、気持ちの整理がつかなくなると思うのだが。

ワンが妻から義理の母になったことで、ウールアンは呉越で隠棲し、ただ歌と舞踏の修行に打ち込んでいたらしいのだが、兄を殺害(死の真相)したリーは、魔の手をウールアンにも差し向ける。

ウールアンの修行の地で繰り広げられる、舞踏集団とリーの送り込んだ暗殺団とのアクション場面は、舞踏集団の白面に白装束の舞が戦闘場面とは思えぬ優美さを演出するのだが、しかしやはりそれは舞踏にすぎないのか、暗殺団の手によって次々と命を落としていく様は、その美しさが恨めしくなるほどだ。彼らが積んできた修行の結果のその舞は、ほとんど何の役にも立たないのである。そして、それは皮肉なことにこの映画を象徴しているかのようである。

衣装や宮殿の豪華さを背景に、ワイヤーを多用した様式化された映像は、最近では多少鼻についてはきたものの息を呑むような仕上がりになっている。が、肝腎のドラマが最後まで機能していないのだ。

都に戻ったウールアンはワンに再会したのに「父上のお悔やみを言うべきか、母上にはお祝いを言うべきか」などと皮肉をいう始末。ウールアンにしてみればワンの行動が自分の安全と引き換えになっているなどとはとても思えない(現に暗殺されそうになった)から当然なのだが、でもここまで言ってしまうとちょっとという気になる(ここで演じられるワンとウールアンの舞踏?も物語と切り離して見る分には素晴らしいのだけどね)。

王妃の即位式でのウールアンの当てつけがましい先帝暗殺劇に、拍手を贈る裏でまたもウールアンの暗殺をもくろむリー(しかしここはそのまま人質交換要員として送り出してしまった方がよかったのではないか)。ワンはウールアンの許嫁チンニー(ジョウ・シュン。これがオフィーリアになるんだろうか)の兄イン・シュン将軍(ホァン・シャオミン)に、暗殺の阻止とリーへの偽りの報告をさせ、自らは毒薬を手に入れ、夜宴の席でリーの盃に注ぐ。

これがチンニーの死を招くことになってしまうのだが、真相を知ったリーは「そちが注いでくれた酒だ。飲まぬわけにはいくまい」と自ら毒杯を仰ぐ。ここもワンへのリーの想いがここまでになっていたことを表す場面なのだが、そういう気持ちに入り込むことより、ここに至るお膳立ての方ばかりに目が行ってしまうのだ。リーがワンの復讐心に気付かなかったのは不思議でもあるが、しかしそう思いなおしてみるとワンの復讐心がきちっと描かれていなかった気もしてくる。

といってワンに復讐心ではなく権力欲があったとも思えないのだが、チンニー、リー、ウールアン、イン将軍と、あれよあれよという間に登場人物がどんどん死んでいって、女帝陛下ワンが誕生することになる。これはワンが望んでいたものではなかったはずだが、欲望の色である茜色が好きで「私だけがこの色に燃えて輝く」などと言わしているところをみると、案外そうでもなかったのか。

しかしそのワンも、その言葉を口にしたとたん、やはり誰かに殺されてしまうのである。映画は額に血管の浮き出たワンの表情を捉えるが、殺した者を明かすことなく終映となる。しかし、ここのカットだけ長くして彼女の気持ちを汲み取れと言われてもなー。それに、チャン・ツィイーは今回ちょっと見慣れぬ化粧(時代考証の結果?)ということもあって、この最後の場面はともかく、表情とかよくわからなかったのね。

 

原題:夜宴 英題:The Banquet

2006年 131分 シネスコサイズ 中国、香港 PG-12 日本語字幕:水野衛子 字幕監修:中島丈博 配給:ギャガ・コミュニケーションズ

監督・脚本:フォン・シャオガン[馮小剛] アクション監督:ユエン・ウーピン[袁和平] 撮影:レイモンド・ラム 美術・衣装デザイン:ティミー・イップ[葉錦添] 音楽:タン・ドゥン[譚盾]

出演:チャン・ツィイー[章子怡](ワン)、ダニエル・ウー[呉彦祖](ウールアン)、グォ・ヨウ[葛優](リー)、ジョウ・シュン[周迅](チンニー)、ホァン・シャオミン(イン・シュン将軍)、リー・ビンビン、マー・チンウー、チン・ハイルー