インスタント沼

テアトル新宿 ★★★☆

写真1:麻生久美子着用の「沈丁花ハナメの衣装」+「まねきねこ」。写真2:監督、出演者のサイン。写真3:監督からのメッセージ(いずれもテアトル新宿にて)。

■見えない物が見える!

目に見える物しか信じられない沈丁花ハナメだが、担当雑誌が危機になったことで、心霊スポット紹介など、意に染まぬ仕事をさせられることになり、どころか結局雑誌は廃刊(部長は休刊と言っていたが)が決まり、男にもフラれた彼女は出版社を辞めてしまう(編集長?だったのにね)。

そんなジリ貧人生、どころか底なし沼人生真っ只中のハナメが、昔の母の手紙で、聞いていなかった自分の父親の存在を知る。真相を確かめるべく母のところに行くが、彼女は河童を捕まえようとして池に落ち、意識不明のまま入院してしまっていた。現実主義者のハナメに対して母には河童や妖精が見えるのだった(そう言われてもなぁ。ここらへんではまだ全然映画にのれてなかったからね、いい加減にしろよ三木聡、などと言っていた)。

というわけで、父親は一体……という興味がハナメならずとも湧いてくるのだが、「沈丁花ノブロウ」は電球商会なる骨董品屋を営む、「電球」と呼ばれる怪しいオヤジで、そう簡単には正体がわかりそうもない、というかそれは買いかぶりにしても、ハナメに何かをもたらしたのは確かで、そこに出入りするパンクロッカー(姿だけ?)のガス(電気屋なのにね)たちとの奇妙な交流が始まる(電球には自分が娘であるということは隠したままになってしまい、あとで悔いていた)。

くだらない話なんだけど、これが楽しいのだ。「ツタンカーメンの占いマシーン」やテンションを上げるための「水道の蛇口」(をひねる。もったいないので私にはできないのだが、ここではとりあえず水を無駄にはしていなかった。ま、あとで、ホントかどうか大量の土砂に大量の水をまいてたから、やっぱりもったいないんだが)に、何でもない「曲がった釘」とか。

いつしかハナメは骨董品にはまって、骨董品屋の才能があるかも、とこれは電球におだてられて、なけなしの貯金百万円で骨董品屋を開いてしまう。が、そううまくいくはずもなく、でもここで電球の秘法?「水道の蛇口」に力づけられて、黒にこだわった骨董品屋に変えて久々の成功を手にすることが……。

ところが電球は急に店を辞めると言い出し、ハナメには沈丁花家に代々伝わる蔵の鍵を百万円で売りつけてとんずらしてしまう。蔵から出てきたのは大量の土砂で、けど、ハナメのどういう思考回路がそう結論づけたのか、あの土砂はインスタント沼で、水を注げば沼になるのだ、って。はぁ? いやもう、すっかり目に見えない物が見える思考回路になっちゃってるじゃないのよ。

まあこのあたりごり押しもいいところなんだけど、でもガスが最後までハナメに付き合ってくれて(ぶーたれてたが)、案外親切なヤツだってことがわかったり、で、びっくり仰天の龍まで出てきちゃってさぁ……。うん、見えない物が見えない私も見たよ、龍(当たり前か。映画館で寝なかった人は全員見られます!)。寝たっきりだった母親も「龍に助けてもらった」と、目を覚ます。なんだよ、やっぱり死んだフリだったのかよ(って、違うか)。

まあ、そんないい加減でそんなにうまくいくものか、とは思うのだが(龍の件は別にしても)、馬鹿馬鹿しい展開の先の、この幸福感は捨てがたいものがある。「しょうもない日常を洗い流すのだぁ」というハナメの宣言は、私のような変人向きへのエールにもなってくれているのだった。

フラれた男を違う角度(頭上)から見ると、彼の頭は禿げていて(「あっ、河童だ!」)、つまりハナメは、しっかり見えなかったものも見えるようになっていた(ってたまたま上から見下ろすところにいただけなんだが)というオチが愉快だ。

  

2009年 120分 ビスタサイズ 配給:アンプラグド、角川映画

監督・脚本:三木聡 撮影:木村信也 美術:磯見俊裕 編集:高橋信之 音楽:坂口修 主題歌:YUKI『ミス・イエスタデイ』 コスチュームデザイン:勝俣淳子、山瀬公子(ハナメ・コスチュームデザイン) 照明:金子康博 録音:小宮元 助監督:中里洋一

出演:麻生久美子(沈丁花ハナメ)、風間杜夫(電球、沈丁花ノブロウ/ハナメの父)、加瀬亮(ガス)、松坂慶子(沈丁花翠/ハナメの母)、相田翔子(飯山和歌子)、笹野高史(西大立目/出版社部長)、ふせえり(市ノ瀬千)、白石美帆(立花まどか)、松岡俊介(雨夜風太)、温水洋一(サラリーマン)、宮藤官九郎(椹木/刑事)、渡辺哲(隈部/刑事)、村松利史(東/リサイクル業者)、松重豊(川端/リサイクル業者)、森下能幸(大谷/リサイクル業者)、岩松了(亀坂/泰安貿易社長)

スラムドッグ$ミリオネア

新宿ミラノ2 ★★★☆

■運命は手に入れられる!

成る程、よくできた脚本だ。映画は主人公ジャマールがハイライトを浴びるクイズ番組が進行していく①と、実はその番組の途中、続きは明日というところで、理不尽なことに警察にしょっ引かれて拷問されたあと、警部に真相を語る②、さらに、ジャマールの幼少時代から今へと続いてくる③の三つの時間軸から構成されている。この①②③は、その配置が絶妙なだけでなく、最後には全部が同じ時間(現在)に重なるようになっている。

スラム育ちで教養のないジャマールがクイズ番組を勝ち進むのは、どう考えても不正をしているに違いないというのが警察の言い分(実は、逮捕はクイズ番組司会者の差し金で、こいつがまた何とも胡散臭い男なのだ)だが、ジャマールの語る今までの体験談(つまり③)の中にクイズに出題されたほとんど(正確には二問以外の全部)の答えがあったというわけだ(③は②の裏付けという意味合いもあるのだ)。

そして、そのジャマールの物語は、同じみなし児でスラム育ちのラティカという少女への想いの物語でもあって、ジャマールにとっては、クイズ番組に出たのもラティカが聞いていてくれるのではないかという願いからなのだった。

ミリオネアになる夢物語とクイズ正解の謎、それに純愛。映画としての要素はもう十分すぎるのだが、カメラは、スラムという、言葉では知っていても実体となるとどこまで把握しているかあやふやな場所へと乗り込んでいる。そしてここでの映像は、見事なほど躍動感に満ちたもので、生きる力をまざまざと感じさせてくれるのである(注1)。

宗教対立でジャマールの母親は殺されてしまうし(注2)、子供をダシに稼いでいる悪党(『クリスマス・キャロル』のスクルージといった役所)のやることも悪辣で残酷極まりない(注3)のに、彼らが生きようとする力の前では、そう大した障害とも思えない気分になってしまうのだ。で、多分そういうことも含めて、いや、それこそが、かな、「運命だった」と言いたいのだろう。

であれば、最後の問題を振られたラティカ(ジャマールは兄のケータイへかけたはずだったが、兄からラティカに渡されていた)には、何が何でも正解を言ってほしかったのだが、これをしてしまうと、また最後に答えの謎解き映像を挿入することになって、その分しまりのない映画になってしまう可能性もある。まあ、それは今までの構成に準じてやったらの話ではあるが。

私がうまい映画と思いながらもうひとつ乗れなかったのは、「運命だった」を「ついていた」に置き換えてしまいたくなるところもあるからで、だって、どうでもいいことだが、クイズは最後まで四択なんだもの。ま、これはこれは元の番組がそうなんだろうけど、ツキで勝ち抜いてしまうこともないとは言い切れないんでね。

最後になったが、小ずるい性格に育ってしまった兄のサリームには、ちょっぴり同情もしたくなる。ま、それは映画だからで、実例としてあったら許せないのだけど、最後は彼なりに、弟のために命を賭けて頑張ってくれるのだ。

注1:仰天場面もある。貸トイレ番で稼いでいた兄弟だが、映画スターがやって来た時に、ジャマールはサリームに意地悪をされてトイレに閉じ込められてしまう。映画スターに会いたいジャマールは意を決して肥だめに飛び込んで脱出する。糞まみれになってサインをもらいに行くのだが、思ったほどには周りは騒がないし、映画スターもちゃんとジャマールにサインをくれるのだった(えらい!)。

注2:ヒンズー教徒によるイスラム教徒への襲撃らしい。ここらへんの事情はさっぱりなのだが、これだとヒンズー教徒は悪者になってしまうけど、いいのかしら。

注3:同情がかいやすくなる(=稼ぎが増える)からと、歌のうまい子供の目を潰して路上で歌わせていたのだ。数年後に、このめくらの歌い手からジャマールが「偉くなったんだね」と声をかけられる、なんとも胸をつかれる場面がある。が、彼が目を潰されたその時にジャマールとサリームは逃げ出したので、ジャマールの声を彼が覚えていたというのは、多少苦しい気がしてしまう。

   

原題:Slumdog Millionaire

2008年 120分 イギリス、アメリカ シネスコサイズ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ PG-12 日本語字幕:松浦奈美

監督:ダニー・ボイル 共同監督:ラヴリーン・タンダン 製作:クリスチャン・コルソン 製作総指揮:ポール・スミス、テッサ・ロス 原作:ヴィカス・スワラップ『ぼくと1ルピーの神様』 脚本:サイモン・ボーフォイ 撮影:アンソニー・ドッド・マントル  プロダクションデザイン:マーク・ディグビー 衣装デザイン:スティラット・アン・ラーラーブ編集:クリス・ディケンズ 音楽:A・R・ラーマン

出演:デヴ・パテル(ジャマール・マリク)、マドゥル・ミッタル(サリーム・マリク/ジャマールの兄)、フリーダ・ピント(ラティカ)、アニル・カプール(プレーム・クマール/クイズ司会者)、イルファン・カーン(警部)、アーユッシュ・マヘーシュ・ケーデカール(幼少期のジャマール)、アズルディン・モハメド・イスマイル(幼少期のサリーム)、ルビーナ・アリ(幼少期のラティカ)

フロスト×ニクソン

新宿武蔵野館2 ★★★☆

■遠い映画

予告篇で「インタビューという名の決闘」と言っていただけのことはある。地味な題材をこんなに面白く見せてくれるんだから。大物といえどニクソンが登場するくらいじゃ、そのインタビューが娯楽映画(は言い過ぎか)になるとは思わないだろう。けれど、いつの間にか身を乗り出して、二人のやりとりを聞き逃すまいとしていた。それなのに、映画が終わってみると意外にも、そんなに感慨が残ることはなかった。

というわけで、映画に想いを巡らすまでにはなかなかならず、何故そんな気持ちになるのかという一歩手前を考えてしまうのだった。それでいてその考えに捕らわれるまでにもならなかったのは、要するに、面白くても私には遠い映画だったのだろう。

トークショーの司会者である英国人のフロストは、掛け持ちでオーストラリアの番組も持っている人気者だ。ニクソン辞任の中継を見ていたフロストは、その視聴率に興味を持ち、ニクソンとの単独テレビインタビューを企画する。が、ニクソン側は出演料をつり上げてくるし、三大ネットワークへの売り込みは失敗するしで、自主製作という身銭を切っての賭とならざるを得なくなる。

成功すれば名声と全米進出を手にすることができる(アメリカで成功することは意味が違うというようなことを言っていた)わけで、彼がそれにのめり込むのも無理はないのだが、負けず嫌いなのか、プレイボーイを気取っているのか、飛行機でものにした彼女には苦境にあることはそぶりも見せない。インタビュー対決はもちろんだが、こうしたそこに至る道筋がインタビュー以上にうまく描けている。

巨悪のイメージのあるニクソンだが、やはりすでに過去の人でしかないからか。フロストのインタビューやその前後の様子からは、老獪さよりは人間味が感じられてしまい、え、ということは、私もあっさり(映画の)ニクソンに籠絡されてしまったことになるのだろうか。だとしたらそのままでは終わらせなかったフロストは、やはり大した人物だったのかもしれない。

が、フロストとニクソンとの白熱(とは少し違う。三日目まではニクソンの完勝ペースだし)したやりとりも、結果としてニクソンの失言待ち(フロストが引き出したものだとしても)だった印象が強いのだ。うーん、これもあるよなぁ。

それにすでにニクソンは失脚しているわけで、このことで政界復帰の道は完全に閉ざされたにしても、日本にいる身としは、このインタビューがそれほどの意味があったとは思えなかったのだ(映画では政界復帰の野望を秘めていたことになっている。ついでながらこの話に乗ったのは金のこともあるが、フロストを与しやすい相手と判断したようだ)。それにしつこいけど、過去のことだし。

アメリカ人にとっては意味合いが全然違うのだろうな。そもそも大統領に対する人々の持つイメージや、メディアなどでの扱いが日本における首相とは比べものにならないと、これは常々感じていることだけど。だから、ま、仕方ないってことで。あ、でもフロストは英国人。いや、でも同じ英語圏だし、兄弟国みたいなもんだから、って映画からはずれちゃってますね。

書き漏らしてしまったが、ニクソンの失言は「大統領がやるのなら非合法ではない」というもの。フロストはこれを突破口にして「国民を失望させた」という謝罪に近い言葉をニクソンから引き出す。もっともこの展開は少し甘い。ニクソンならいくらでも弁解できたはずで、逆に言うとニクソンは告白したがっていたという映画(深夜の電話の場面を入れたのはそういうことなのだろう)なのが、私としては気に入らない

罪を認めたからって軽くはならないのだから、どうせならニクソンには沈黙したままの悪役でいてほしかった、のかなぁ私は。ニクソンのことよく知らないんで、どこまでもいい加減な感想なんだけど。

 

原題:Frost / Nixon

2008年 122分 アメリカ シネスコサイズ 配給:東宝東和 日本語字幕:松岡葉子

監督:ロン・ハワード 製作:ブライアン・グレイザー、ロン・ハワード、ティム・ビーヴァン、エリック・フェルナー 製作総指揮:ピーター・モーガン、マシュー・バイアム・ショウ、デブラ・ヘイワード、ライザ・チェイシン、カレン・ケーラ・シャーウッド、デヴィッド・ベルナルディ、トッド・ハロウェル 脚本・原作戯曲:ピーター・モーガン 撮影:サルヴァトーレ・トチノ プロダクションデザイン:マイケル・コレンブリス 衣装デザイン:ダニエル・オーランディ 編集:マイク・ヒル、ダン・ハンリー 音楽:ハンス・ジマー

出演:フランク・ランジェラ(リチャード・ニクソン)、マイケル・シーン(デビッド・フロスト)、ケヴィン・ベーコン(ジャック・ブレナン)、レベッカ・ホール(キャロライン・クッシング)、トビー・ジョーンズ(スイフティー・リザール)、マシュー・マクファディン(ジョン・バード)、オリヴァー・プラット(ボブ・ゼルニック)、サム・ロックウェル(ジェームズ・レストン)、ケイト・ジェニングス・グラント、アンディ・ミルダー、パティ・マコーマック

ヤッターマン

楽天地シネマズ錦糸町-3 ★★★☆

■隠し味は変態

元アニメ(注1)を知っている人はきっと得意顔で、この実写版映画のデキ(というよりも似てたり違っているところ)を延々と語るんだろうな。映画を観ていたら私もそうしたくなったのだけど、『ヤッターマン』については、それこそ題名を聞いても何の感慨も湧かないくらい完璧に知らないのだった。くやしー。

だってものすごくくだらないのに(くだらなくて、だな)面白かったんだもの。予告篇で、あれ、これ、もしかしたら私向きかもとは思っていたが、観て、やっぱり、楽しいじゃん、だったのだ。

玩具店(注2)の息子のガンちゃんはガールフレンドの愛ちゃんとヤッターマン1号、2号になって、ドロンジョ、ボヤッキー、トンズラーのドロンボー一味と日夜戦っている(注3)。ドロンボー一味はドロンジョが一応リーダーだが、自称「泥棒の神様」のドクロベエにいいように使われていて、失敗すると、というか必ず失敗して「お仕置き」になるらしい。

今回は、四つ揃うと願いが叶うというドクロストーンの争奪戦。話はありきたりでいたって単純。でもないか、愛憎劇という側面もあるから。単純に見えるのは話の繋ぎが乱暴で、面倒と思われるところは、ちゃっちゃっちゃと端折った説明ですましちゃっているからだ(いきなり「説明しよう」と言って、解説を始めちゃったりもする)。

まず先に愛憎劇について語ると、ドロンジョがヤッターマン1号に恋してしまうというもの。もっとお高くとまっているのかと思ってたので、ドロンジョの恋心が可愛いくみえた(ドクロベエに責められて初恋だと告白していた)。「物を盗むのが大事な女から一番大事なものを盗んだ。盗んだのは許さない。おまえ(ヤッターマン1号)の心を盗ませてもらうよ」はセリフ優先にしても、彼女の夢が好きな人の奥さんになって子供を産むことだとは。これは深田恭子をもってきたことによる変更なんだろうか(いや、別にどうでもいいんだけどさ)。

1号もまんざらではないから2号は面白くないし、ドロンジョは恋の成就のため2号をやっつけようとする。ここに至って1号は「ヤッターマンは二人で一人」(と言われてもよくわからないのだが、そういう決まりなんだろう)ということに気づき、二人のキスシーンとなる(偶然成り行きとはいえ1号はこの前にドロンジョとキスしているのだ)。ここいらも端折りなんで、あれまあ展開。だいたい1号は節操がないし(この件については後述)、この映画では全然魅力がなくて、これでいいのかと思ってしまうくらいなのだ。

で、ドロンジョはふられてしまうのだけど、ドロンジョに秘めた(?)想いを抱いていたボヤッキーはうれしいような悲しいような。ドロンジョには追い打ちをかけるように友達宣言までされてしまって泣きたい気分。これとは別に、ドクロベエまでがドロンジョを我が物と思っていて、端折りあっさり進行にしては複雑。ドロンジョが絶世の美女という設定にしても毎回こんなことを繰り返していたのかしらね。

ドクロストーンの争奪戦に話を戻すと、一つ目のドクロストーンを娘の翔子に預けた海江田博士は、二つ目を探しに行ったきりになっていて、翔子は父に会いたいと1号と2号に助けを求める。

海江田博士が消息を絶ったというオジプトでは、翔子がサソリに刺される注目の場面があって、1号の節操のなさが露呈する。翔子の腿から血を吸い出すのに、1号は「じゃまだ」と2号を突き飛ばしてしまう(順番としてはドロンジョとのキスの前)。今回あんまりパッとしない1号を庇うまでもなく、これは監督か脚本家の趣味なんだろう。

まあ、そんなふうな流れの中で、ドロンボー一味が「セレブなドレス」や「どくろ鮨」の阿漕な商売で金を儲けては(注4)新兵器を開発し、ヤッターマンの方も一週間のうちに次なる「今週のビックリドッキリメカ」をヤッターワンに仕込んで(たんに「メカの素」と投げるだけなのか?)の対戦をはさんで、映画はクライマックスに突入していく(私の説明もだけど、元が大雑把なのよ)。

ドクロベエは海江田博士の体に取り入ってすでに一体化していて、さらには集まりだしたドクロストーンの影響で時空がゆがみだしたものだから、それを利用して(未来にも過去にも行って)好きなものを盗めるようになろうとするが、そのことで神にもなれると失言し、つまり現状は神でもなんでもないことがバレてしまい、ドロンジョの反撃に合う。

1号はここでもドクロベエと戦えるのは翔子ちゃん一人とか言ってるだけで、どうにもたよりない。2号がドロンジョを助けてドクロベエの野望も潰える、って続篇(最後に予告していたが、どこまで本気なんだろ)ではもう出てこないのかしらね(キャラクターとしては特にどうってこともなかったのでいいんだけど)。

こうやって書いてしまうと何ていうこともないのだが、阿部サダヲ(海江田博士)の顔を振りながら二人芝居が秀逸で、おかしさがこみ上げてくる。が、どうしようもなくいいのはボヤッキーの生瀬勝久で、これには誰も異論がないだろう。が、他は役柄に馴染んでいたのかどうか。

岡本杏理の翔子も添え物で終わっていたが、監督のオモチャにされていた部分はすごすぎる。1号に腿を吸われてしまう場面もだが、ヤッターワンや岩場にしがみついている姿では必ずガニ股にされていた。ドロンジョのお色気路線に、おっぱいマシンガンやおっぱいミサイルなど、こういうのも『ヤッターマン』のお約束なんだろうけど、翔子に関しては変態路線っぽい。いやー、ごくろーさんでした。

あとところどころでしまりがなくなるが、まあドロンジョからして最初の戦いで勝利に酔って自爆装置を押してしまうお間抜けキャラなんで、そうなっちゃうのかなぁ。なにしろ、背景に出てくる歯車など、そもそも噛み合ってもいないのに動いているのだから。

最後になったが、メカの造型が素晴らしい。寺田克也の名前を見つけたのはエンドロールでだが、私の場合、こういう部分のデキで好き嫌いを決めてしまうんでね。

注1:『タイムボカンシリーズ ヤッターマン』は1977年(昭和52年)から1979年にわたってフジテレビ系列で放送されたタツノコプロ制作のテレビアニメ。2008年1月14日からはそのリメイクアニメ『ヤッターマン』が日本テレビ系列で放送されている。こちらは読売テレビとタツノコプロの制作。

注2:高田玩具店は駅前にあって、これが秘密基地。堂々とした秘密基地で、人がいるのもものともせずヤッターワンが出撃していく。駅前は、蒸気機関車のある新橋駅に似ていた。

注3:実は週一。アニメ放映に合わせてそう言ってたのね。こんなところも映画ではそのまま使っているようだ。「ヤッターマンがいる限り、この世に悪は栄えない!」と言うわりには、毎週ドロンボー一味(だけなの?)に手を焼いていたってことになる。

注4:阿漕商売はうまいのだから、ここでやめておけばいいのに。それに毎回資金稼ぎ部分では成功しているということは、ヤッターマンはちっとも庶民の味方になっていないわけで……。

 

2008年 111分 シネスコサイズ 配給:松竹、日活

監督:三池崇史 製作:堀越徹、馬場満 プロデューサー:千葉善紀、山本章、佐藤貴博 エグゼクティブプロデューサー:奥田誠治、由里敬三 製作総指揮:佐藤直樹、島田洋一 原作:竜の子プロダクション 脚本:十川誠志 撮影:山本英夫 美術:林田裕至 編集:山下健治 音楽:山本正之、神保正明、藤原いくろう CGIディレクター:太田垣香織 CGIプロデューサー:坂美佐子 スタイリスト:伊賀大介 メカ&キャラクターデザインリファイン:寺田克也 音響効果:柴崎憲治 整音:中村淳、柳屋文彦 装飾:坂本朗 録音:小野晃、藤森玄一郎 助監督:山口義高 キャラクタースーパーバイザー:柘植伊佐夫

出演:櫻井翔(ヤッターマン1号/高田ガン)、福田沙紀(ヤッターマン2号/上成愛)、深田恭子(ドロンジョ)、生瀬勝久(ボヤッキー)、ケンドーコバヤシ(トンズラー)、岡本杏理(海江田翔子)、阿部サダヲ(海江田博士)
声の出演:滝口順平(ドクロベエ)、山寺宏一(ヤッターワン、ヤッターキング)、たかはし智秋(オモッチャマ)

罪とか罰とか

テアトル新宿 ★★★☆

■さかさまなのは全部のページ

まず、どうでもいいことかもしれないが、『罪とか罰とか』って題名。これが『罪と罰』だったら、それはドストエフスキーということではなくて、って、こう書くまで気がつかなかったのだけど、無理矢理恩田春樹をラスコーリニコフにしてしまえば円城寺アヤメはソーニャ的とも言えなくはないが、って言えない。

書くことが整理できてないんで、いきなり脱線してしまった。(気を取り直して)『罪と罰』だと、『罪と罰』だ、『罪と罰』である、『罪と罰』でしょ、みたく断定になるが、『罪とか罰とか』だと、『罪とか罰とか』だったり、『罪とか罰とか』かもしれない、って曖昧になっちゃう。って、ならない? 私的にはそんな気がしちゃってるんで。

えー、のっけからぐだぐだになってますが、要するによくわからない映画だったのね。めちゃくちゃ面白かったけど……でも、終わってみたら?で。

(もいちど気を取り直して)だってこの映画を真面目に論じたら馬鹿をみそうなんだもん。ギャグ繋ぎで出来ているんで、あらすじを書いたら笑われちゃうかなぁ。でも実のところそうでもなくて、物語は時間軸こそいじってはいるが、ものの見事に全部がどこかで繋がっていて、練りに練った脚本だったのね、と最後にはわかるのだが、とはいえ、あらすじを書いて果たして意味があるかどうかは、なのだな。

ですが、それは面倒なだけ、と見透かされてしまうのは癪なので、ちょっとだけ書くと、まず冒頭で、加瀬という46歳の男が朝起きてからの行動を、やけに細かくナレーション入りで延々と語りだす。これは忘れてはならぬと、頭の中で復誦していると、女が空から降ってきて、加瀬はトラックにはねられて、「加瀬の人生は終わり、このドラマは始まる」って。で、本当に加瀬はほぼ忘れ去られてしまって、そりゃないでしょうなのさ。

女が降ってきた(突き落とされたのだ)そのアパートの隣部屋では3人組がスタンガンコントを、これまたけっこう時間を使ってやってみせる。コンビニ強盗を計画しているっていうんだが、結果は見え見え。

んで、このあとやっと崖っぷちアイドル(これは映画の宣伝文句にある言葉)の円城寺アヤメ主人公様がコンビニで雑誌をチェックしている場面になる(この前にも登場はしてたんだが)。アヤメとは同級生で、スカウトされたのも一緒だった耳川モモは表紙を飾っているというのに、掲載ページのアヤメは印刷がさかさま! 思わずその雑誌を万引きして(なんでや?)逮捕されてしまうアヤメ。

このあたりの撒き餌部分は多少もたもたかなぁ。だからか、こっちもどうやって映画に入り込んでいったらいいのかまだ迷っていて(最初の加瀬の部分でもやられていたので)、時間がかかってしまったが、いつの間にかそんなことは忘れてしまって、だからもうここから先は完全に乗せられてたかしらね。

アヤメは万引きの罪の帳消しに、見越婆(みこしば)警察署の一日署長にさせられてしまう。一日署長はきっかり日付が変わるまでで、長期署長も可。むしろ署員はそれを希望してるし、かつ一日署長の指示待ち状態。そこの強制捜査班の恩田春樹刑事はアヤメの元カレで殺人鬼(女を突き落としたのもこいつ)。春樹は自首しなきゃと思ってはいるが、副署長にはとっくに見抜かれていて、お前だけコレにしとくってわけにいかないから、と取り合ってもらえない。お前だけって見越婆警察署は全員が犯罪者なの? 春樹の正体というか殺人癖はアヤメも昔から知っていて(注1)、もう何がなんだか展開。で、そこに「殺したら(撃たれたら)射殺してやる」回路標準装着者のいる三人組によるコンビニ襲撃事件が発生する。

ここまですべてをありえない展開にしてしまうと、いくらブラックジョークといえど、いろいろ困るのではないかと余計なお世話危惧をしなくもなかったが、見越婆警察署の内部が自白室や測量室(別に高級測量室というのもあったが?)のある古びた病院だか魔窟のようになっていたことで、私はあっさり了解することにしましたよ。なーんだ、これは異世界なんだって。

ところがその異世界でアヤメは、いろいろなことに違和感を抱いていて、でも昔は殺人鬼の春樹と平気で付き合っていたわけだし、耳川モモとも対等だったはずなのに、なんでアヤメだけが、と考えてみると、これはですね、アヤメがグラビア雑誌に反対に印刷されてしまったことで、異世界の住人とは妙にズレた感覚が身についてしまったのではないかと?

異世界にあってそれは危機なのだが、一日署長を体験したことで、アヤメは自信を取り戻し、すっかり元に戻って、つまり全部がさかさまのページとなって(注2)、彼らの異世界の調和は保たれたのでありました。

と、勝手な屁理屈で謎解きしてみたが、これは全然当たってないかも。だって春樹に対するアヤメのことだけを取ってもそう簡単には説明がつかないもの。いや、そうでもないのかな。万引きという初歩的犯罪が認められての一日署長だし、迷宮のような見越婆警察署の署長室にたどり着いても、誰もがなりたがる権力者たる署長は本当に不在。「春樹も自首とか考えないで前向きに」と言っといての逮捕、は完全に「春樹の味方」に戻ったよな、アヤメ(当時は自首していい人になってはいけないということがアヤメにはわかっていたのだ)。ね、やっぱりすべてが逆転してるもの。

でもまぁ、単に面白かったってことでいいのかもね。私のは屁理屈にしても、理屈拒否の為の異世界設定は当たってるんじゃないかな。真面目に考えたり論じたりするべからず映画というのが正しそうだから。
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注1:昔のアヤメは、春樹が自首すると言っても見つからなければわからないと、副署長と同じ見解だった。当初の春樹はだからずっとマトモだった。が、すぐ殺人は「ボーリングより簡単」になってしまう。

注2:コンビニに居合わせたため、耳川モモと一緒に強盗の人質となっていた風間マネージャーが「他のページがさかさまなの!」と言っていたが、こういうことを言ってはいけない。私の『罪とか罰とか』における異世界理論が崩れてしまうではないの。

 

2008年 110分 ビスタサイズ 配給:東京テアトル

監督・脚本:ケラリーノ・サンドロヴィッチ 企画:榎本憲男 撮影:釘宮慎治 美術:五辻圭 音楽:安田芙充央 主題歌:Sowelu『MATERIAL WORLD』 照明:田辺浩 装飾:龍田哲児 録音:尾崎聡

出演:成海璃子(円城寺アヤメ)、永山絢斗(恩田春樹/見越婆署刑事)、段田安則(加瀬吾郎/コンビニの客)、犬山イヌコ(風間涼子/マネージャー)、山崎一(常住/コンビニ強盗)、奥菜恵(マリィ/コンビニ強盗)、大倉孝二(立木/コンビニ強盗)、安藤サクラ(耳川モモ)、市川由衣(コンビニバイト)、徳井優(コンビニ店長)、佐藤江梨子(春樹に殺される女)、六角精児(巡査部長)、みのすけ(警官)、緋田康人、入江雅人、田中要次(芸能プロ社長)、高橋ひとみ、大鷹明良(トラック運転手)、麻生久美子(助手席の女)、石田卓也、串田和美(海藤副署長)、広岡由里子

ディファイアンス

シネマスクエアとうきゅう ★★★☆

■生きるが勝ち

ナチスによる狂気のようなユダヤ人狩りから逃れた人々の実話。ユダヤ人レジスタンスとして有名なビエルスキ兄弟の活躍を描く。有名と書いたが、彼らのことがよく知られるようになったのは15年ほど前らしい。

予備知識なしで観たこともあるが、実は最初の10分は予告篇から寝ていて、その部分は次の回に、つまり最後になって観るという馬鹿げたことをやってしまったため、トゥヴィア、ズシュ、アザエルが兄弟(アーロンもか)だということが、しばらくわからずにいた。だってさ、似てないんだものトゥヴィアとズシュって(寝ちゃったのが悪いんだけどさ)。

映画は、娯楽作として割り切っても十分楽しめるが、歴史の知識があればさらに興味深く観ることが出来たと思われる。対ナチス(+その協力者)だけでなく、ズシュが入隊(?協力なのか)するソ連赤軍も何度か出てきて、ベラルーシの地理的背景が浮かび上がってくるのだが、自分の知識の無さがもどかしくなった。この地にはユダヤ人が多数住んでいたようだ。そのことはなんとなくわかる程度にしか描かれていないが、映画で説明するには複雑すぎるのだろう。

迫害される状況にあって協力して生きていかなければならないのに、とりあえずの平穏が得られると、情けないことにすぐさま別な形で不満を持つ者が現れるのは、どこでも同じだろうか。共同体における基本的な問題は、特に危機と隣り合わせというような状況にあっては指導者の力量にかかってくるが、トゥヴィアもズシュも、ただの農夫と商店主だったわけで、ごく普通の人間にすぎなかった。兄弟げんかは度々だし、トゥヴィアは激情にかられて両親の復讐に走る。相手は警察署長。彼の多分初めての人殺しは、相手の家族団欒の場に乗り込んでのことになる。

復讐を果たしたトゥヴィアだが、ズシュが結局はドイツ軍と闘う道を選ぶのとは対照的に、女や子供、老人たちを引き連れ、森の中で何とか生き抜く道をさぐることになる。はじめのうちこそ農家から食料を奪ったり、ドイツ軍への攻撃もズシュと共に繰り返していたが、犠牲者を出してしまったことで「生き残ることが復讐だ」「生きようとして死ぬのなら、それは人間らしい生き方だ」と思うようになっていく。

観たばかりのチェ2部作(『チェ 28歳の革命』『チェ 39歳 別れの手紙』)が攻めのゲリラなら、こちらは守りのゲリラか。見かけも映画の質もかけ離れているが、直面する問題は変わらない。この作品の方が、親切でわかりやすいのは娯楽作を創ることを念頭に置いているからだろう。

わかりやすいということは具体的ということでもある。なにしろ大人数だから、森の中に村が出来上がっていくことになるのだが、そのあたりも物語の進行の中で、人物紹介を兼ねるように手際よく見せていく。未開の地を開拓したのだろうが、よくそんなことが可能だったと驚く(最初の地は逃げ出すことになるのだが)。女や老人にも役割分担が与えられる。みんなが働く必要があるのだ。木を伐りだし小屋を作ることから始めなければならないのだから。

が、まだ1941年のことで(解放までにはまだ3年以上もあるのだが、でももしかしたら彼らの誰もが、そんなに早く自由の身を取り戻せるとは思っていなかったかもしれない)、最初に迎える凍りつく冬に食料は底をつき、食料調達班の造反やトゥヴィア自身が病気になるなど、最大の危機がやってくる……。愛馬を殺して食料にし、造反したリーダーは有無を言わせず射殺してしまう。あっけにとられるくらいの、このトゥヴィアの行動は、しかし、ではどうすればよかったのかと問われると、何も言えなくなる。

内容が盛り沢山すぎて書いているとキリがなくなるので、いくつかを覚え書き程度にメモしておく。ゲットーからの集団脱出の手助け。兄弟それぞれの恋。ドイツ軍の攻撃を知って、沼地のような大河(国土の20%を占めるという湿原か?)を全員で渡る場面。トゥヴィアもさすがに躊躇するが、アザエルが成長した姿をみせる(あの泣いていたアザエルがだよ。ま、奥さんもらっちゃったしね)。なんとか渡りきったところに戦車が登場するなど、派手さこそないが、次々と見せ場がやってくる。ドンピシャのタイミングでズシュが助けに現れては(帰って来たのだ)、真実の物語にしては脚色しすぎなんだけど、許しちゃおう。

教師ハレッツとイザックの知的?コンビの会話もいいアクセントになっていた。このハレッツは「信仰を失いかけた」というようなことを度々口にしていた。「もう選民という光栄はお返しします」とも。そういうことにはならないのだけど、とりあえずそれだけは返してしまった方がよかったと私は思うんだが。

 

原題:Defiance

2008年 136分 アメリカ ビスタサイズ 配給:東宝東和 日本語字幕:戸田奈津子

監督:エドワード・ズウィック 製作:エドワード・ズウィック、ピーター・ジャン・ブルージ 製作総指揮:マーシャル・ハースコヴィッツ 原作:ネハマ・テク 脚本:クレイトン・フローマン、エドワード・ズウィック 撮影:エドゥアルド・セラ プロダクションデザイン:ダン・ヴェイル 衣装デザイン:ジェニー・ビーヴァン 編集:スティーヴン・ローゼンブラム 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード

出演:ダニエル・クレイグ(トゥヴィア・ビエルスキ)、リーヴ・シュレイバー(ズシュ・ビエルスキ)、ジェイミー・ベル(アザエル・ビエルスキ)、アレクサ・ダヴァロス(リルカ)、アラン・コーデュナー(ハレッツ/老教師)、マーク・フォイアスタイン(イザック)、トマス・アラナ(ベン・ジオン)、ジョディ・メイ(タマラ)、ケイト・フェイ(ロヴァ)、イド・ゴールドバーグ(イザック・シュルマン)、イーベン・ヤイレ(ベラ)、マーティン・ハンコック(ペレツ)、ラヴィル・イシアノフ(ヴィクトル・パンチェンコ/ソ連赤軍指揮官)、ジャセック・コーマン(コスチュク)、ジョージ・マッケイ(アーロン・ビエルスキ)、ジョンジョ・オニール(ラザール)、サム・スプルエル(アルカディ)、ミア・ワシコウスカ(ハイア)

チェ 39歳 別れの手紙

新宿ミラノ2 ★★★☆

■革命から遠く離れて

画面サイズがシネスコからビスタに替わったからというのではないはずだが(しかし、何で替えたんだろ)、続編にしては先の『チェ 28歳の革命』とは印象がずいぶん異なる映画だった。

「今世界の他の国々が私のささやかな助力を求めている。君はキューバの責任者だから出来ないが、私にはできる。別れの時が来たのだ。もし私が異国の空の下で死を迎えても、最後の想いはキューバ人民に向かうだろう、とりわけ君に。勝利に向かって常に前進せよ。祖国か死か。革命的情熱をもって君を抱擁する」というゲバラの手紙を、冒頭でカストロが紹介する。

それを流すテレビを左側から映した画面からは、Part Oneとそう違ったものには見えず、いやむしろそれに続くゲバラのボリビア潜入の変装があんまりで、安物スパイ映画を連想してしまった私など、逆に弛緩してしまったくらいだった。むろんゲバラにはそんな気持はさらさらなく、彼は相変わらずPart Oneの時と変わらぬ信念と革命的情熱を持って、ボリビアに潜入する。理想主義者のゲバラにとって、キューバでの成功に甘んじていることなど許されないのだろうが、実際に行動するのはたやすいことではないはずだ。成功者としての地位も安定した生活も捨て、家族とも別れて、なのだから。

それほどの決意で臨んだボリビアの地だが、どうしたことか、キューバではうまくいったことがここでは実を結んでくれない。親身になって少年の目を治療し、誠実に農民たちと向き合う姿勢は、あの輝かしいキューバ革命を成し遂げた過程と何ら変わっていないというのに。

最初は豊富にあったらしい資金もすぐに枯渇し、食料も満足に確保できず、体調を崩して自分までがお荷物になってしまう状況にもなる。組織が育っていかないから、ゲリラとして戦うというよりは、ただ逃げているだけのように見えてしまう。

実際、鉱夫がストに入ったというくらいしか、いいニュースは入ってこない。政府軍の方は捜索も念が入っていて、シャツからキューバ製のタグを見つけ出すし、アメリカの軍人らしき人物が「ボリビア兵を特殊部隊に変えてやろう」などと言う場面もある。キューバ革命に対する危機感が相当あったのだろう。「バティスタの最大の過ちはカストロを殺せる時に殺さなかったこと」というセリフもあった。ゲバラの捕獲に先立っては、ゲバラの別働隊を浅瀬で待ち伏せ、至近距離で狙い撃ち全滅させてしまう。この情報は、ラジオでゲバラも得るのだが「全滅などありえない」と信じようとしない。

居場所を知られるのを恐れ、ゲバラは己の存在を隠そうとし、バリエントス側はゲバラの影響力を恐れて、やはりその存在を隠そうとする。思惑は違うのに同じことを願っていて妙な気分になる。とはいえ観客という気楽な身分であっても、すでにそんなことを面白がってなどいられなくなっている。

結末はわかっていることなのに、ゲバラが追い詰められていく後半は胸が苦しくなった。農夫の密告というのがつらい。山一面の兵士に包囲されて、逃げなきゃ!と叫び声を上げそうになる。Part Oneでゲバラの姿がしっかり焼き付けられていたからだろう。Part Oneの最後にあった、陽気で明るい雰囲気まで思い返されるものだから、よけい切なさがつのってくる。雰囲気が違うというより、2部作が呼応しているからこそのやるせなさだろうか。

それにしても何故、キューバでできたことがボリビアではできなかったのか。そのことに映画はきちんと答えているわけではない。親ソ的なボリビア共産党と組めなかったことも大きな要因らしいが、ボリビアでは1952年にすでに革命があり1959年には農地解放も行われていた。革命は1964年に軍によるクーデターで終焉してしまうのだが、共産党とは対立が進みながらも、大統領になったレネ・バリエントスは民衆や農民にも一定の支持を得ていたようだ。が、そんな説明は一切ない。

足を撃たれたゲバラは捕虜になるが、射殺されてしまう。カメラはその時、ゲバラの目線に切り替わる。ゲバラに入り込まずにはいられなかったのかどうかはわかりようがないが、そう思いたくなった。ボリビア潜入後1年にも満たないうちに死体となったゲバラ。カメラはヘリが死体を運び出すまでを追う。村人が顔をそむけたのはヘリの巻き上げた砂埃であって、それ以外の理由などなかったろう。

無音のエンドロールには重苦しさが増幅される。といってこれ以外の終わり方も思い浮かばないのだが。

  


原題:Che Part Two Guerrila

2008年 133分 フランス/スペイン/アメリカ ビスタサイズ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ、日活 日本語字幕:石田泰子 スペイン語監修:矢島千恵子

監督:スティーヴン・ソダーバーグ 製作:ローラ・ビックフォード、ベニチオ・デル・トロ  製作総指揮:フレデリック・W・ブロスト、アルバロ・アウグスティン、アルバロ・ロンゴリア、ベレン・アティエンサ、グレゴリー・ジェイコブズ 脚本:ピーター・バックマン 撮影:ピーター・アンドリュース プロダクションデザイン:アンチョン・ゴメス 衣装デザイン:サビーヌ・デグレ 編集:パブロ・スマラーガ 音楽:アルベルト・イグレシアス

出演:ベニチオ・デル・トロ(エルネスト・チェ・ゲバラ)、カルロス・バルデム(モイセス・ゲバラ)、デミアン・ビチル(フィデル・カストロ)、ヨアキム・デ・アルメイダ(バリエントス大統領)、エルビラ・ミンゲス(セリア・サンチェス)、フランカ・ポテンテ(タニア)、カタリーナ・サンディノ・モレノ(アレイダ・マルチ)、ロドリゴ・サントロ(ラウル・カストロ)、ルー・ダイアモンド・フィリップス(マリオ・モンヘ)、マット・デイモン、カリル・メンデス、ホルヘ・ペルゴリア、ルーベン・オチャンディアーノ、エドゥアルド・フェルナンデス、アントニオ・デ・ラ・トレ

2008年度カンヌ国際映画祭主演男優賞受賞

誰も守ってくれない

109シネマズ木場シアター4 ★★★☆

■「守ってくれない」と嘆くのではなく「守れ」というのだが

被害者やその家族でもなく、容疑者本人でもなく、無関係なはず(厳密にはそうは言えないが)の容疑者の家族が、容疑者の家族になってしまったことでどういう状況に追い込まれるのかという、あまり目が付けられていない分野に踏み込んだ意欲作である。同じ題材で『手紙』(2006)という作品があったが、『手紙』が長い期間を扱っているのに対し、こちらは事件直後という緊迫した時間に焦点を当てている。

18歳の長男が殺人事件の容疑者(小学生姉妹の殺害犯)として捕まったことで、船村家の生活は一変する。状況を把握する間もなく、両親と15歳の娘の沙織は、3人別々に保護すると警察に言いわたされる。

「犯罪者の家族の保護については、警察は公には認めていない」と映画の中でも言っていたし、この仕事を与えられた勝浦刑事も「それって一体何ですか」と上司に聞き返していたくらいで、でもちゃんと保護マニュアルのようなものは出来ていて、それに従って3人は名前を変えられ(両親を離婚させ、籍を母親の方に入れ直す)、沙織には就学義務免除の手続きが取られる。

学校に行けなくなる理由さえ理解出来ずにいる沙織を、報道陣に取り囲まれ騒然とした家から連れ出す勝浦だが、用意してあったホテルも彼らにすぐ嗅ぎつかれてしまう。保護マニュアルの強引さには頭をひねりたくなるし、何故当日から3人を別々にしなければならないのかがよくわからないのだが(容疑者の兄を庇われたら困るという警察の都合もありそうだ。当然とはいえ沙織からも供述は取ろうとしていたから、保護だけが目的ではないのかも)、たたみかけるような展開は、観客をもただならぬ臨場感の中に引き込んでいく。

このあと女精神科医の登場といういささか謎めいた設定が息抜きとなっているが(ただでさえ不安がっている沙織になかなか正体を告げない精神科医ってーのもなぁ)、これは勝浦の相棒を松田龍平にし「背筋が凍る」関係にしたあたりでもわかるように、君塚良一の趣味またはサービス精神なのだろう。

このサービス精神が、精神科医のもとからさらに勝浦とはワケありのペンションへと舞台を移させたのだろうか(もちろん逃げ出さずにいられなかったというようにはなっている)。ペンションの経営者本庄夫妻は、3年前に勝浦の捜査ミスで、子供を失っている。別の事件ながら、被害者の家族という沙織とは対極にある人物を登場させることによって、沙織の置かれた立場を、簡単に同情するだけでいいのかと、もう一度観客に最初から考えることを促そうとする。

「ウチの子は守ってくれなかったのに、犯人の子は守るんですか」(注1)「あんたには被害者の家族も加害者の家族も同じ。本当はあんたの顔も見たくないんだ!」という本庄圭介の勝浦への怒りはわからなくもないが、だったら最初から受け入れるなと言いたくなるし(言い過ぎたと次の日頭をさげていたが)、勝浦が、この事件が起こらなくても妻と娘とでこのペンションに来ようとしていたという件には首をかしげたくなった。贖罪のつもりなのだろうか。それとも「まだギリギリ繋がっている」家族に、本城夫妻を対面させて自分の立場をわかってもらおうとでも思ったのか(だったらちょっとなぁ)。

勝浦はその事件で、上司の命令に従っただけなのに停職処分になったというし、もちろん彼が悔やんでも悔やみきれずにいるのはわかるのだが、そのことで梅本記者に問い詰められたり、個人的な新聞ネタにまでなっていたとしては、大げさになる。

今回の事件については、発覚当初からネットでの格好の餌食になっていたが、それはますますエスカレートし、言葉だけにしても容赦のない憎悪をつのらせていた。そして何故か書き込みは、容疑者の身元から沙織や勝浦のことにまで及び、誰も知らないはずの居場所(ペンション)まで公開されてしまう。情報が沙織のケータイから漏れていたというのは、盲点だし伏線(注2)のしっかりしたいいアイデアなのだが、彼女の情報をばらまくことでネットのカリスマになろうとした達郎が、のこのことペンションまでやって来ては台無しではないか。

情報が漏れてしまったのは偶然の連鎖とでもし、生映像実況中継も別なグループ脅かされて、くらいの救い(これは沙織にとっての救いにもなるし、って甘いか)はあってもいいような気がする(ないようにしたいのだろうが)。表だった行動のできない匿名性を隠れ蓑にしたネットの住人にしてはやりすぎな気がするが、役割分担であればこういう状況もないとはいえまい。ペンションのまわりに亡霊のように何人も立っている場面も同様で、この野次馬は、まるで亡霊のようにケータイやビデオカメラを向けたネット族的なイメージにするのではなく、どこにでもいる一般人にした方がかえって説得力が出たのではないか。

ついどうでもいいことを書きすぎたが、海岸で勝浦が沙織に、「お兄さんを守ろうとした」ように「これからも君が家族を守るんだ」と言い聞かせる重要な場面も、実はあまり頷くことが出来なかった。「お兄さんを守ろうとした」というのは、兄(容疑者)が父に勉強ばかりやらされて苦しんでいたと沙織が語ったことを、つまり兄の心境を察していることを踏まえて勝浦が言うのだが、「家族を守る」という言葉に対しては、沙織は「お父さんに会いたくない」と反応していて(父は成績の落ちた兄をぶったのだという)、それはそれで仕方のないことではないかと思ってしまう。

「罪を犯しても家族」と言われても、家族意識の希薄な私には受け入れがたいところがある。「誰かを守るということは、その人の痛みを感じること」で、「人の痛みを感じることはつらいが、生きていくということはそういうこと」なのだから目をそらしてはいけないと言っているのだろうか(勝浦は「生きるんだ」と言って母親が自殺した時に手にしていた家族の集合写真を渡し、沙織を引き寄せて頭を抱く)。

そうするのがきっと正しいのだろう。そういう確信(解決方法とは思っていないにしても)が持てる勝浦だからこそ、本庄夫妻のペンションに家族で行く予約を入れていたのだろう。本庄夫妻とも自分の妻と娘とも、きちんと向き合おうとして。理屈はそうなのだけれど、そして勝浦が自分の家族のことは、結果はどうあれそうしなければならないにしても、本庄夫妻のことからは離れてしまった方が(忘れることはできなくても)いいように思うのだが……。

なじめないところは多々あるのだが、力作、なのは間違いない。

注1:母親の自殺を、勝浦からではなく同級生の達郎からきいた沙織にしてみれば、勝浦が自分を守ってくれているという認識などこの時はなかったと思われる(もちろん本庄圭介にはそんなことは関係のないことである)。

注2:女精神科医のところにいた時「見られたら恥ずかしくて死ぬ」という沙織の言葉で、勝浦はわざわざ家宅捜索中の家に戻り、彼女の(充電中にしてあった)ケータイを取ってきてやっていた。

 

2008年 118分 ビスタサイズ 配給:東宝

第32回モントリオール世界映画祭最優秀脚本賞受賞

監督:君塚良一 製作:亀山千広 プロデューサー:臼井裕詞、種田義彦 アソシエイトプロデューサー:宮川朋之 脚本:君塚良一、鈴木智 撮影:栢野直樹 美術:山口修 編集:穂垣順之助 音楽:村松崇継 主題歌:リベラ『あなたがいるから』 VFXディレクター:山本雅之 ラインプロデューサー:古郡真也 音響効果:柴崎憲治 照明:磯野雅宏 製作統括:杉田成道、島谷能成 装飾:平井浩一 録音:柿澤潔 監督補:杉山泰一

出演:佐藤浩市(勝浦卓美)、志田未来(船村沙織)、松田龍平(三島省吾/勝浦の同僚)、木村佳乃(尾上令子)、柳葉敏郎(本庄圭介/ペンション経営者)、石田ゆり子(本庄久美子)、佐々木蔵之介(梅本孝治/記者)、佐野史郎(坂本一郎)、津田寛治(稲垣浩一)、東貴博(佐山惇)、冨浦智嗣(園部達郎/沙織の同級生)、須永慶、掛田誠、水谷あつし、伊藤高史、浅見小四郎、井筒太一、渡辺航、佐藤裕、大河内浩、佐藤恒治、長野里美、野元学二、菅原大吉、西牟田恵、平野早香、平手舞、須永祐介、山根和馬、浮田久重、柄本時生、ムロツヨシ、青木忠宏、渡仲裕蔵、阿部六郎、積圭祐

チェ 28歳の革命

テアトルダイヤ ★★★☆

■革命が身近だった時代

貧しい人たちのために革命に目覚めたゲバラが、メキシコで出会ったカストロに共感し、共にキューバへ渡り(1956)、親米政権でもあったバティスタ独裁政権と戦うことになる。大筋だけ書くと1958年のサンタ・クララ攻略(解放か)までを描いた「戦争映画」になってしまうが、エンターテイメント的要素は、最後の方にある列車転覆場面くらいしかない。全体の印象がおそろしく地味なのは、舞台のほとんどが山間部や農村でのゲリラ戦で、余計な説明を排したドキュメンタリータッチということもある。

これではあまりに単調と思ったのか、革命成就後にゲバラが国連でおこなった演説(1964)や彼へのインタビュー風景が、進行形の画面に何度も挟まれる。この映像は結果として、ゲバラの演説内容と、彼がしているゲリラ戦の間には何の齟齬もないし、ゲリラ戦の結果故の演説なのだ、とでも言っているかのようである。もっとも、この演説部分の言葉を取り出そうとすると、映画という特性もあって意外と頭に残っていないことに気づく(私の頭が悪いだけか)。

けれど、農民に直接語りかけていたゲバラの姿は、しっかり焼き付けられていく。英雄としてのゲバラではなく、彼の誠実さや弱者への視点を、つぎはぎ編集ながら、着実に積み上げているからだろう。これがゲバラの姿に重なる。こんなだからゲバラの腕の負傷も、映画は事件にはしない。まるで、事実が確認出来ていないことは映像にしない、というような制作姿勢であるかのようだ(実際のことは知らない)。

戦いは都市部に展開し(当時の状況や地理的な説明もないから、この流れ自体はやはりわかりずらい)、いろいろな勢力と共闘することも増えていく。当初から裏切り(処刑で対処する非情さもみせる)や脱落もあるのだが、常にそれ以上に人が集まってきていたのだろう。ゲバラが主導者であり続けたのは先に書いたことで十分頷けるのだが、キューバにはそれを受け入れる大きな流れがあったのだ。

革命は、それを望んでいる人々がいて、初めて成就するのだ、ということがこの映画でも実感できる(金融危機によって格差社会がさらに推し進められ、『蟹工船』がもてはやされている日本だが、今革命が起きる状況など、やはり考えられない。比較するような話ではないが)。

映画としての華やかなお楽しみは(ささやかだけど)、ゲバラの後の妻となるアレイダとのやりとり(ゲバラがはしゃいでいるように見える)と、ハバナ進軍中に「たとえ敵兵のものでも返してこい」と、オープンカーに乗った同士をゲバラが諫める場面か。ゲバラのどこまでも正しい発言には逆らえず、しぶしぶ車をUターンさせることになる。この最後の場面、勝利を手中にして、画面の雰囲気や色調までがやけに明るいのである。

PS 今日は何故か『レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで』に続いて革命映画?2本立てとなった。向こうは1955年のアメリカで、「レボリューショナリー・ロード」という名前の通りがあったという設定(実際にも?)だ。この年はゲバラがメキシコでカストロと出会った年でもある。Revolutionという言葉は、米国ではどんなイメージなのか、ちょっと気になる。

原題:Che Part One The Argentine

2008年 132分 アメリカ/フランス/スペイン シネスコサイズ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ、日活 日本語字幕:石田泰子 スペイン語監修:矢島千恵子

監督:スティーヴン・ソダーバーグ 製作:ローラ・ビックフォード、ベニチオ・デル・トロ  製作総指揮:フレデリック・W・ブロスト、アルバロ・アウグスティン、アルバロ・ロンゴリア、ベレン・アティエンサ、グレゴリー・ジェイコブズ脚本:ピーター・バックマン 撮影:ピーター・アンドリュース衣装デザイン:サビーヌ・デグレ 編集:パブロ・スマラーガ 音楽:アルベルト・イグレシアス プロダクションエグゼクティブ:アンチョン・ゴメス

出演:ベニチオ・デル・トロ(エルネスト・チェ・ゲバラ)、デミアン・ビチル(フィデル・カストロ)、サンティアゴ・カブレラ(カミロ・シエンフエゴス)、エルビラ・ミンゲス(セリア・サンチェス)、ジュリア・オーモンド(リサ・ハワード)、カタリーナ・サンディノ・モレノ(アレイダ・マルチ)、ロドリゴ・サントロ(ラウル・カストロ)、ウラジミール・クルス、ウナクス・ウガルデ、ユル・ヴァスケス、ホルヘ・ペルゴリア、エドガー・ラミレス

ティンカー・ベル 日本語吹替版

TOHOシネマズ錦糸町シアター8 ★★★☆

■わがまま娘が物作りという才能を開花させるとき

妖精ティンカー・ベルとして誕生した彼女に教えることで、同時に観客にもネバーランドにあるピクシー・ホロウという妖精の谷が紹介されていく。細部まで神経の行き届いた色鮮やかな景色や物に妖精たち……。いかにもディズニーといった世界なのだが、ファンタジーにはなじめない私も、このアニメの出来にはうっとりさせられた。

妖精たちの仲間入りを果たし、才能審査の末、物作り担当となったティンカー・ベルだが、物作りはメインランド(人間界)に行けないと知ると、自分の仕事がつまらなく思えてしまい、メインランドへの憧ればかりが膨らんでいく。

こんな場所で暮らせるだけでも素敵なのに、それにメインランドが何たるかも知らないっていうのに、と思わなくもないが、これは子供のあれが欲しいこれも欲しい的発想に近いかもしれない。

だから屁理屈は並べず、ティンカー・ベルのわがままが思わぬ騒動を起こして、春(を作り出すの)が間に合いそうになくなる、という流れは、大人にはもの足りなくても、子供たちには受け入れやすいのではないか。

実際、私の観た映画館は日本語吹替版ということもあって、かなりの人数を子供(5歳くらいの子も多かった)が占めていたのだが、驚くほど静かな鑑賞態度だった(上映時間が短いっていうのもある)。

そうやって不平不満分子のティンカー・ベルが色々なことに気づいていく教訓話であり、自分という個性の発見物語(無い物ねだりはやめようという話でもある)には違いないのだが、ティンカー・ベルに物作りという役割をふったことで(Tinker Bellは鋳掛け屋ベルとでも訳せばいいのだろうか。だから物作りなのね)、結果として子供向けの映画でありながら、物作りが基本の実体経済を顧みずに、マネーゲームに走って金融危機を招いたアメリカ合衆国の姿を反映することになったのは面白い。

もっともティンカー・ベルのやったことは、大量生産的手法で生産効率を上げることでしかないし(人類はそのことで生じた負の部分をどうするかについてはまだ明確な答えが出せずにいるものなぁ)、手間暇かける手作りのよさをないがしろにしているようにもみえてしまうから心配になる。それに、妖精のくせしてメインランドからの漂着物利用で難を逃れるというのも、解せない話ではある。

まあ、大量生産で間に合わせたからといって、予定通り春が用意出来れば次の夏をすぐさま作り始める必要などまるでないわけで、そもそもネバーランドでの生産活動は地球温暖化に繋がるものではないし、時間が余ったからといってその分余計に働かされるという心配もなさそうなんだけどね。

  

原題:Tinker Bell

2008年 79分 ■サイズ アメリカ 配給:ディズニー

監督:ブラッドリー・レイモンド 製作:ジャニーン・ルーセル キャラクター創造:J・M・バリー 原案:ジェフリー・M・ハワード、ブラッドリー・レイモンド 脚本:ジェフリー・M・ハワード 音楽:ジョエル・マクニーリイ 日本語吹替版エンディングテーマ:湯川潮音「妖精のうた」

声の出演:深町彩里(ティンカー・ベル)、豊口めぐみ(ロゼッタ)、高橋理恵子(シルバーミスト)、坂本真綾(フォーン)、山像かおり(フェアリーメアリー)、石田彰(ボブル)、朴路美(ヴィディア)、高島雅羅(クラリオン女王)

禅 ZEN

楽天地シネマズ錦糸町-3 ★★★☆

■月がでかすぎる

気が進まなかったし(なら観なければいいのにね)、冒頭にある道元の母の死の場面では少し引いてしまったし、続いて日本人俳優が中国語で演じ出しては仰天するしかなかったが(ひどいと思ったわけではない)、観終わってみると立派な映画だった。

道元の教えをきちんと知ろうとしたら、それは大変なのかもしれないが(現に『正法眼蔵』など、途中で投げ出しちゃったもの)、映画の中で繰り返し述べている程度のことであれば、案外すとんと入ってくる(むろん実践するとなると話は大いに違ってくるが)。というか、そういうことを念頭に置いて作ったのだろう。実にわかりやすく噛み砕かれたものになっていた。

「悟りを開こうと思うな」
「悟りが無限である以上、修行も無限」
「只管打坐そのものが悟り」
「生きてこそ浄土」

とはいえ、「あるがままでよい」のであれば、おりんに恋心(=欲)を抱いた俊了を追放(ではなく俊了が逃げ出すのだが)してすむことなのか。また、鎌倉というまだまだ生きていくことすら厳しい時代にあって、ただ座禅していればいいってもんじゃないだろう、というような話になってしまう。米が底をつき「ならば白湯で座禅をさせてもらう」って、それはないような(現代の富裕層には少しでも只管打坐をしてもらって、何をすべきかを考えて欲しいものだが)。

只管打坐なのだからと、映画でただひたすら座禅ばかりしているわけにはいかないわけで、だからこそのおりんの存在なのだが、彼女を準主人公にした設定は評価できる。道元だけを描いたら単調にすぎるし、それこそ観念論的なものになってしまっただろうから。

それでも何故か頻繁に画面に出てくる月が、あるがままどころか、馬鹿にでかくて、観念論で頭でっかちになっている象徴のように見えてしまうときがあった。

道元と北条時頼の対決場面も、時頼が何故道元の言葉に最終的にはうなずくことになるのかと言われればちとつらい(でもこれは誰がやっても描けないのではないか)のだが、ふたりのやり取りは真剣で、芯のあるものだった。

最後は、中国に渡ったおりんの姿が画面に映し出される。道元の教えが脈々と引き継がれていることを強調したのだろうが、入滅前の道元が懐奘におりんの得度をたのんでいるし、おりんが教えを実践している場面も入れたのだから、これはやり過ぎのような気がする。道元の意志が受け継がれていくという意味では、この少し前にすでに山門から続々と僧が出てくる素晴らしい場面があり、これで十分ではなかったか。

中村勘太郎は適役。道元入門映画として観るに値する。

2008年 127分 ビスタサイズ 配給:角川映画

監督・脚本:高橋伴明 製作総指揮:大谷哲夫 原作:大谷哲夫 撮影:水口智之 美術:丸尾知行 編集:菊池純一 音楽:宇崎竜童、中西長谷雄 音響効果:福島行朗 照明:奥村誠 録音:福田伸

出演:中村勘太郎(道元)、内田有紀(おりん)、テイ龍進(寂円、源公暁)、高良健吾(俊了)、藤原竜也(北条時頼)、安居剣一郎(義介)、村上淳(懐奘)、勝村政信(波多野義重)、鄭天庸(如浄)、西村雅彦(浙翁)、菅田俊(公仁)、哀川翔(松蔵/おりんの夫)、笹野高史(中国の老僧)高橋惠子(伊子/道元の母)

英国王給仕人に乾杯!

シャンテシネ1 ★★★☆

■人生はどんでん返し=元給仕人の語る昔話

かつてドイツ人の村があったというズデーデン地方の廃墟に、15年の刑期を終えたヤン・ジーチェがやってくる。この男の語る昔話が滅法面白く、加えて演出も、無声映画風であったり、画面を札束や切手で飾ったり、裸の美女を適度?に配したりの、あの手この手を使ったサービス精神旺盛なもので、ウイットに富んだ作品となった。

駅のソーセージ売りだったヤンは、ホテル王を夢見て給仕人になり、プラハの高級ホテルの給仕長に上り詰めていく。ヤンは言うなれば世渡り上手。スクシーヴァネク給仕長のように、客の欲しがるものを見抜く才能こそないが、要領はいいし、運も味方してくれる。とはいえヤンが言うように「人生はどんでん返し」の連続なのだが。

もっとも、裸女を札束や料理で飾り付ける変な性癖はあるし、小銭をばらまいてはそれを拾おうとする金持ちたちを見て人間観察の目を養う(たんに優越感に浸りたかっただけとか)っていうのだから、ヤンに感情移入とまではいかない。

欲望にとらわれた人間の生態を面白可笑しく語る流れのまま、話はいつのまにかヒトラーの魔の手が伸びたチェコという複雑な歴史の側面に及ぶ。が、深刻な話であっても語り口はあくまで軽妙で、息苦しさとは無縁だ。

ドイツ人娘リーザとの困難な結婚から、優生学研究所に勤めたことで仕入れた話など、どこまでが本当なのだろうと思うくらい興趣にあふれたもので、あきさせることがない。この優生学研究所は、富豪用のお忍び別荘だったチホタ荘が接収されて出来たのだが、戦争末期は傷病兵の療養所に変身している。裸女たちがプールで優雅に侍っていたのに、それが手足のない傷病兵に置き換わってしまう描写がやたらリアルなものに見える。

リーザが集めていた切手で手に入れた戦争後のホテル王の地位は、チェコスロバキアの共産化で、束の間の夢どころか牢獄行きとなってしまい(顔なじみの金持ちたちと一緒になれて、それもヤンには楽しかったようだが)、その刑期あけが、廃村で暮らすヤンというわけだ。

ただ、その割には昔を語る現在のヤンの立ち位置が曖昧というか、まあそこらへんは本人も自覚していないから、鏡を部屋にいくつも並べた自問自答場面となるのだろうか。

その現在の部分に割り込んできた、大学教授と一緒にやってきたという若い女の存在も、何かが起きそうな予感をいだかせただけで去って行ってしまうのは、昔のことならいくらでも面白可笑しく語れるが、さすがに進行形のものとなるとそうもいかないということか。あるいはこれも、全篇に共通するこだわりのなさのようなものか。

英国王給仕人だったのはスクシーヴァネク給仕長で、本人はそうではないから題名の『英国王給仕人に乾杯!』は違和感があるが、昔話なんて所詮脚色されたもの(英国王給仕人だったとは言っていないが)、という意味にとれば合点がいく。

 

原題:Obsluhoval Jsem Angkickeho Krale 英題:I served the King of England.

2006年 120分 ビスタサイズ チェコ/スロバキア 配給:フランス映画社 日本語字幕:松岡葉子 字幕協力:阿部賢一

監督・脚本:イジー・メンツェル 製作:ルドルフ・ビエルマン 原作:ボフミル・フラバル 撮影:ヤロミール・ショフル 音楽:アレシュ・ブジェジナ

出演:イヴァン・バルネフ(青年期のヤン・ジーチェ)、オルドジフ・カイゼル(老年期のヤン・ジーチェ)、ユリア・イェンチ(リーザ)、マルチン・フバ(スクシーヴァネク給仕長)、マリアン・ラブダ(ユダヤ人行商人ヴァルデン)、ヨゼフ・アブルハム(ブランデイス)、ルドルフ・フルシンスキー(チホタ荘所有者チホタ)、イシュトヴァン・サボー、トニア・グレーブス(エチオピア皇帝)

転々

テアトル新宿 ★★★☆

■疑似家族に涙する大学8年生

サラ金の取り立てを稼業としている福原愛一郎(三浦友和)は、はずみで殴った妻が死んでしまい、吉祥寺(調布?の飛行場も映っていたが)からわざわざ桜田門まで、しかも歩いて自首するのだという。それに付き合えば100万円がもらえるからと、話に乗ってしまったのが取り立てを食らって福原の靴下を口に詰め込まれてしまった竹村文哉(オダギリジョー)で、2人で東京を「転々」としながら何となく目的地へ向かうという奇妙な旅?がはじまる。

大学8年生で、借金苦のどん底生活とナレーションも担当している文哉が、淡々と自分を説明するのだが、そりゃ十分悲惨だと思う。

片や、年上だし口調も偉そうな福原だけど、妻(宮田早苗)との関係では、こちらも言い尽くしがたい闇を抱えていたようである。夜、2人でバス散歩と洒落てみるが、声もかけずに自分だけ下車してしまう妻に、残された福原は茫然とするばかりで、この回想映像に深い意味はなさそうだが、闇の深さは十分わかる。

もっともそんな福原ながら、ある事情で仮の夫婦となった麻紀子(小泉今日子)と、まんざらではない間柄にあるのだから、いい加減なものなのだ。

さらに麻紀子の姉の子のふふみ(吉高由里子)が加わって、そして文哉も成り行きとはいえ福原と麻紀子の息子役をけっこう嬉々として演じ、1組の家族らしきものが出来上がることになる。

親に捨てられた文哉にとっては、疑似家族といえども涙の出てきてしまう存在で、福原が自首することをおしとどめたくなっている自分に気付くのだが、そんな文哉を残して福原は桜田門に向かっていく。

しかしそれにしても疑似家族に涙するような結末で締めくくらなければならないのが現代のある形であるのなら、なんとも痛々しい地点に我々はいるのだろう(でもまあ、そうなのかもね)。

三木ワールドで味付けした東京散歩は、随所に隠し味があって楽しめるが、少々地理的な不都合を感じなくもなかった(転々なのだから、これでいいのかもしれないが)。

 

2007年 101分 ビスタサイズ 配給:スタイルジャム

監督:三木聡 製作:辻畑秀生、宮崎恭一、大村正一郎 プロデューサー:代情明彦、下橋伸明 エグゼクティブプロデューサー:甲斐真樹、國實瑞惠 企画:林哲次、菊池美由貴 原作:藤田宜永『転々』 脚本:三木聡 撮影:谷川創平 美術:磯見俊裕 編集:高橋信之 音楽:坂口修 エンディングテーマ:ムーンライダーズ『髭と口紅とバルコニー』 コスチュームデザイン:勝俣淳子 照明:金子康博 録音:瀬谷満 助監督:高野敏幸

出演:オダギリジョー(竹村文哉)、三浦友和(福原愛一郎)、小泉今日子(麻紀子)、吉高由里子(ふふみ)、岩松了(国松)、ふせえり(仙台)、松重豊(友部)、広田レオナ(鏑木)、津村鷹志(時計屋の主人)、宮田早苗(福原の妻)、石井苗子(多賀子)、横山あきお(石膏仮面)、平岩紙(尚美)、ブラボー小松(ギターマン)、末広ゆい(募金を呼びかける女子高生)、渡辺かな子(募金を呼びかける女子高生)、並木幹雄(助監督)、明日香まゆ美(植物園のおばさん)、福島一樹(少年文哉)、村崎真彩(少女尚美)、麻生久美子(三日月しずか)、笹野高史(畳屋のオヤジ)、鷲尾真知子(愛玉子店のおばさん)、石原良純(愛玉子店の息子)、才藤了介(駅員)、風見章子(お婆さん)、岸部一徳(岸部一徳)

ダイ・ハード4.0

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★★☆

■ぼやきから悟りへ

悪党は最初から悪党。小賢しいドンデン返しなどないから、いたって明快。よけいなことは考えずに、次々と展開するアクション場面に身をまかせていればいいという方針は大いに評価できる。

ジョン・マクレーン(ブルース・ウィリス)は音信不通気味の娘ルーシー(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)のことが気になってニュージャージー州の大学までやってくるのだが、女子大生のルーシーは、ボーイフレンドと一緒のところだった。ルーシーがそんなに心を許した相手ではなかったのだが、間の悪い訪問ということもあって、マクレーンは冷たくあしらわれてしまう。今回は奥さん(離婚したのね)は登場しないが、相変わらず家の方は問題が山積みのようだ。

そこへ本来は管轄外なのだが、マクレーン警部補がそこにいるならと、近くに住むハッカーのマット・ファレル(ジャスティン・ロング)をFBIまで連れていく護送任務を言いわたされてしまう。ワシントンDCのFBI本部に設置されたサイバー保安局のボウマン(クリフ・カーティス)が異変を感じたことで、ブラックリストに載っていたハッカーたちが一斉に捜査対象となったのだ。

マクレーンがファレルのところに乗り込むと、そこでいきなり銃撃戦となる。ファレルはシステムへの侵入をセキュリティチェックと言いくるめられて、テロリストたちに利用されていたが、用済みになったところで足が着くからと、抹殺される寸前だったというわけだ。

全米のインフラを監視するシステムを掌握した(単純ながら妙に現実味を帯びたアイディアだ)トーマス・ガブリエル(ティモシー・オリファント)とただの刑事の戦いなど、本来なら成立するはずもないのだが、そこはぬかりなく、ここから一気にアクション場面が連続する。ガブリエルがマットにこだわるのがちょっと不思議だったが、途中からはマクレーンもファレルの手を借りてガブリエルに対抗していくわけだから、これだって納得だ(邪魔をされたら手強いと思って先手を打ったという説明もアリだろう)。

トンネル内での車の正面衝突、宙に舞う車。ヘリコプターには消火栓(を破壊して水を吹き上げる)だけでなく、料金所を利用して車を空に飛ばして、ヘリにぶつけてしまうなんて荒技まで。トレーラーと最新鋭戦闘機のF-35の対決(『トゥルーライズ』にもジェット戦闘機が出てきてびっくりしたが、これはそれを凌駕している。94年作と比較しても仕方ないが)だって無茶なのに、さらには崩れていく高架道路から戦闘機の尾翼に飛び移ってしまう……。

この他にもエレベーター・シャフト内部という狭くて危ない(エレベーターが通り過ぎて行くからね)場所で、ガブリエルの恋人で右腕のマイ・リン(マギー・Q)とファイト・シーンを見せるなど見所満載。あり得ないと言い出したら何も残らなくなってしまうような場面ばかりが続く。

もっともこのサービスぶりは、さすがにいままでにあったマクレーンの人間味を薄めることになった。『ダイ・ハート』シリーズはこれが魅力だったのだが。

偶然の力も大いに借り、さらに満身創痍にはなっても、とにかく不死身。だけじゃなくて、今回は非情ですらある。敵を容赦なく殺してしまうのだから。例によって運が悪いとかぼやかせてみても、だいぶニュアンスが違ってくる。ファレルに語る英雄の定義も「撃たれるだけ」で家族にはかえりみられないとぼやいていたはずが、誰もやらないから俺がやるだけと、いつしか悟りの境地に近いものになっているのである。

マクレーンの悟りなど聞きたくはないが、ファレルとの凸凹(デジアナ)コンビの会話はアクション場面の繋ぎとしてはいい感じだ。傍観していただけのファレルが成長して(未来のルーシーの旦那か?)いくというのも観客にはわかりやすい。

ガブリエルはFBIにいたのだが、セキュリティに関する提言が受け入られないことで逆恨みの犯行に走ったという設定(もっとも最終的には金狙いなんだが)。歴代の大統領の繋ぎ合わせ画像でテロ宣言を出したり、偽映像でホワイトハウスを爆破させるのも朝飯前(部下にやらせてたけどね)だから、マクレーンなど「デジタル時代のハト時計野郎」で、実際その分部ではマクレーンは手も足も出ない。それをファレルがうまくカバーしてくれるというわけだ。

ただファレルがPCや携帯を魔法のように扱ってしまうのは、これも見所ではあるが、誤魔化されているような気にもなる(いや実際誤魔化されてるんだけどさ)。PCオタクの手にかかったら何でも可というんじゃね。それに私の母のようなデジタル時代という言葉すら理解できない人間には、すべてがちんぷんかんぷんだろうか(観客という対象に入ってないか)。

すべての情報を手にしたガブリエルが、ルーシーに手を伸ばすのはこれまた簡単なことだから、『ダイ・ハート』にある家族愛のテーマは継承されている。マクレーンの姓を嫌い「話がある時は私から電話する」といっていたルーシーが、ちゃんとマクレーンに期待しているだけでなく、敵は5人(だったかな?)と言ってマクレーンに情報を伝える、ニヤリとしてしまう場面もある。

ま、所詮アクション娯楽作ですからね。あ、でも「ハリケーンの防災対策にもたついた」とか言ってたっけ。『アンダーワールド』好きな私としては、レン・ワイズマンということで、点が甘くなったかも。

【メモ】

おなじみの20世紀フォックスのマークがぶれて黒い画面になる。

  

原題:Live Free or Die Hard

2007年 129分 シネスコサイズ アメリカ 日本字幕:戸田奈津子 配給:20世紀フォックス映画

監督:レン・ワイズマン 製作総指揮:マイケル・フォトレル、ウィリアム・ウィッシャー 原案:マーク・ボンバック、デヴィッド・マルコーニ 脚本:マーク・ボンバック 撮影:サイモン・ダガン プロダクションデザイン:パトリック・タトポロス 衣装デザイン:デニス・ウィンゲイト 編集:ニコラス・デ・トス 音楽:マルコ・ベルトラミ
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出演:ブルース・ウィリス(ジョン・マクレーン)、ジャスティン・ロング(マット・ファレル)、ティモシー・オリファント(トーマス・ガブリエル)、クリフ・カーティス(ボウマン)、マギー・Q(マイ・リン)、シリル・ラファエリ(ランド)、メアリー・エリザベス・ウィンステッド(ルーシー・マクレーン)、ケヴィン・スミス(ワーロック/ファレルのハッカー仲間)、ジョナサン・サドウスキー

図鑑に載ってない虫

新宿武蔵野館2 ★★★☆

■岡っていう字がアザラシに似ている

この映画について書くのは難しい。この面白さを伝えられる人は、すでに作家を生業としているか他人と尺度が違いすぎて(映画を楽しむのとは別)生活破綻者になっている気がするのだ。真っ当とはいわないが、作家からも生活破綻者からも遠い所にいる私が書くことなどないではないか。

で、このままペンを置けばいいのだけど、私はそういう部分では気が小さいというか律儀なのな。ということで、何の展望もないのだが、とりあえず粗筋から書くことにする。

フリーライターの俺(伊勢谷友介)は『月刊黒い本』の女編集長(水野美紀)から臨死体験ルポを書くよう指示されるのだが、そのためには「死にモドキ」という虫がうってつけなのだという(というより死にモドキによる臨死体験ルポなのか)。が、誰もそんな虫の存在など知らないから、俺はアル中のオルゴール職人で金欠のエンドー(松尾スズキ)と、まず死にモドキを探すことからはじめる。手がかりはカメラマンの真島(松重豊)がすでに死にモドキを追っていたというこどだけ……。

死にモドキを追う過程で、自殺願望(リストカットマニア)のあるSM嬢のサエコ(菊地凛子)が加わって乞食の巣になっている島に上陸したり、目玉のおっちゃんにその弟分のチョロリ(ふせえり)などがからんで、話は脱線するばかり。これじゃあ話にならないよと思った頃に、「死にモドキのいるところが見つかったよ」とサヨコからメール。えー。

締め切りまであと2日というところで、死にモドキを手に入れて臨死体験にも成功するのだが、俺は「結局死んでるのか生きてるかわからない」という結論になる。こんなだからか原稿もボツ。編集長には取材の経費も返せと言われてしまう。でもよくわからん。だって、一緒に臨死体験をしたエンドーが死んで1週間と言っていたのに、これはまだ2日後なんだもの。

よーするに、この映画にとって話はほとんど関係なくて、ただ三木聡が面白いと感じたことを話の間に散りばめていったにすぎないようだ。つまり、そこに出てくる面白さは、話とは無関係の面白さであって、話は面白さを適当にばらまくための装置でしかないのである。

面白さの定義はいろいろあるだろう。それこそ知的な笑いから低俗なものまで。で、ここにあるのはそういうのとは無関係の(低俗には引っかかるものはあるか)、笑いの1つ1つが響き合うこともなく、だから筋道のある笑いではなくて、独立しているのである。でもそれでもおかしいのだけど。

1つだけにしておくが、たとえば「岡っていう字がアザラシに似ている」と唐突に言われてしまうのである。で、それをおかしいでしょ、と押し売りされたら臍を曲げたくなるかもしれないのだけど、やっぱりおかしいのだ。だってアザラシなんだもの(もっともつまらなかったり、よくわからないものもあるのだが、とにかくそういうのがものすごい量詰まっているのである)。

三木聡は『イン・ザ・プール』『亀は意外と速く泳ぐ』で「脱力系」映画作家ということになっているらしいが、これもそんなところか。脱力系という言葉もよくわからないが、脱力とはいえそこに力がないかというとそんなことはなくて、でも大勢には影響しない力というか。そうか。笑いの質もこれかな。

ね。だからこういうのっていくら書いてもしかたのないことになってしまう。ただちょっと付け加えておきたいのは、この映画を見ていると俺とエンドーの、あんなにいい加減であっても、そこにはある信頼関係のようなものがあって、それがじんわりと伝わってくるということだ。あとはサヨコが母の死を思い違いしていたような映像もあるのだけど、全体のくだらない雰囲気に飲まれて、よくわからにままに終わってしまったのだった。

以下、おまけ。

図という字は、泳いでいるエイで、
鑑という字は、大金を前にガハハと大笑いしている顔で、
載という字は、車に寄っかかってタバコを吸っている人で、
映という字は、昔ウチにもよく来ていた野菜を担いで売りに来ていたおばさんで、
画という字は、リニアモーターカー(玉電にしかみえない)が正面から突っ込んでくるところ……。

真似してみたけど、やっぱ、才能ないみたいなので、ヤメ。

 

2007年 103分 ビスタサイズ 

製作:葵プロモーション、ビクターエンタテインメント、日活、IMAGICA、ザックプロモーション 配給:日活

監督・脚本:三木聡 製作:相原裕美、大村正一郎、高野力、木幡久美、宮崎恭一 プロデューサー:原田典久、渋谷保幸、佐藤央 協力プロデューサー:林哲次 撮影:小松高志 美術:丸尾知行 編集:高橋信之 音楽:坂口修 コスチュームデザイン:勝俣淳子 ラインプロデューサー:鈴木剛、姫田伸也 照明:松岡泰彦 録音:永口靖

出演:伊勢谷友介(俺)、松尾スズキ(エンドー)、菊地凛子(サヨコ)、岩松了(目玉のおっちゃん)、ふせえり(チョロリ)、水野美紀(美人編集長)、松重豊(真島)、笹野高史(モツ煮込み屋の親父)、三谷昇(種田師匠)、渡辺裕之(船長)、高橋恵子(サヨコの母親)、村松利史(半分男)、片桐はいり(SMの女王様)、森下能幸、志賀勝、嶋田久作、つぐみ、園子温、山崎一、田中哲司、マメ山田、佐々木すみ江、新屋英子

ツォツィ

銀座シネパトス3 ★★★☆

■品位について考えたこと、ある?

ツォツィ(=不良)と呼ばれる青年(プレスリー・チュエニヤハエ)が、盗んだ車の中に赤ん坊を発見したことで、自分の生い立ちを思い出し、生まれ変わるきっかけを得るという話。

この雑な粗筋(自分で書いておいてね)で判断すると、引いてしまいそうな内容なのだが、主人公を含めた対象との距離のとりかたに節度があって、観るものを惹きつける。

それと何より、この映画が南アフリカから発信されたということに意味がある。このところアフリカを題材にした映画が、ブームとはいかないまでもずいぶん入ってくるようになったが、その多くはハリウッドや他国の制作であり(日本に入ってこないだけかもしれないが、輸入するにたる作品が少ないという見方もできそうだ)、むろんそのことが内容の真摯さを左右するものとはいわないが、話題性やもの珍しさからであるのは否めまい。

しかしこれは、私が書いても説得力に欠けるが、同じ南アフリカを撮っても、やはり地に足の着いたものとなっている。ツォツィが暮らすのは、ヨハネスブルクの旧黒人居住区ソウェトのスラム街という。ここから見える高層ビルが、もうこれだけで、アパルトヘイトが撤廃されても変わらなかったことがあると、雄弁に物語っているではないか。ツォツィが仲間のボストン(モツスィ・マッハーノ)、ブッチャー(ゼンゾ・ンゴーベ)、アープ(ケネス・ンコースィ)とで「仕事」をしている地下鉄の駅も、彼らの目線になってみると、ずいぶん違った風景に見えるはずである。

財布を奪った相手にブッチャーがアイスピックを突き刺したことに、先生と呼ばれるボストンは吐くほどのショックを受けていた。品位がないと当たり散らしていた矛先は、やがてリーダー格のツォツィに向けられる。ボストンがそこで「おまえは捨て犬か」と言った言葉に、ツォツィは何故か反応して、急にボストンを滅茶苦茶に殴りつける。

ここに出てくる品位という言葉は、あとにある別の場面でも繰り返される。ツォツィは無学だから品位を知らない。品位というのは自分への敬意なのだと。そこまで考えたら確かにかつあげなどできなくなるだろう。であれば何故、ボストンはツォツィたちと連んでかつあげの場にいたのか。そんなことをしているからボストンは本当の先生になりそこねたのか。そうかもしれないが、品位が自分への敬意だということを忘れていたからこそ吐き、当たり散らし、自分を傷つけていたのだろう。ここは映画を観ている時には気付きにくいところだが、品位ついて語られた言葉を思い出しさえすれば、すんなり納得することができる。

あと、ツォツィが反応した「犬」だが、これも地下鉄のパーク駅で物乞いをしているモーリス(ジェリー・モフケン)とのやり取りに出てくる。ツォツィは車椅子生活の彼(すごい存在感なのだ)からも金を巻き上げようとする。若く、力を誇示できる立場にいるツォツィの問いかけは単純で、鉱山の事故で犬みたいになったのに何故生き続けるのか、だが、モーリスの答えも太陽の暖かさを感じていたいという単純なもの。そして、ツォツィはこのモーリスの生への執着に、金を拾えと言って立ち去ってしまう。

のちに映像として入るツォツィの昔の記憶の断片で、彼の母がエイズだったらしいこと、母の近くにいて父にしかられたこと、可愛がっていた犬が父に虐待されたことがわかる。

そういった経緯をたどって(多分母と犬は死に、父からは逃げだし)、土管を住処にして生活してきたツォツィに、品位について考えろというのも酷な話ではないか。私のまわりを見渡してもそんな人はいそうもないしねー(いや、もちろん私もだけど)。

しかしそうであっても、ツォツィは赤ん坊を残したままにはしておけなかったのだ。赤ん坊を紙袋に入れ、コンデンスミルクを与える雑さ加減は、ツォツィがまともな家庭生活の中で育たなかった証拠ではないか。

コンデンスミルクでは赤ん坊の口のまわりに蟻がたかってしまったからか、ツォツィはミリアム(テリー・フェト)という寡婦に狙いを定め、彼女の家に押し入る。彼女が赤ん坊に乳を含ませる映像ももちろんだが、赤ん坊がツォツィの子ではないことを察したのか「この子を私にちょうだい」という時の、彼女のただただ真っ直ぐな視線にはこちらまでがたじろいでしまう。名前を訊かれたツォツィが、デイビッドと本名で答えてしまうくらいなのだ。

ミリアムの夫が仕事に出たまま帰らなかったということにも、南アフリカの日常の過酷さをみることが出来るが、ツォツィもミリアムの言葉には何かを感じたのだろう。むろん、いままでは何も感じなかったはずの、もしかしたら自分が傷つけてきた相手にもあったであろう家族や生活のことを……。

ツォツィは、ミリアム(とボストン)にお金を払う必要を感じるのだが、しかし彼が思いついたのは、盗んだBMW(ここに赤ん坊がいた)の持ち主の家にブッチャーとアープとで強盗に入ることだった。

豪邸でツォツィが見たのは、赤ん坊が愛されていることを物語る部屋だった。わざわざこの場面を入れたのは多分そう言いたいのだと思うのだが、でもどうだろう。綺麗な部屋よりミリアムが作っていた飾りにツォツィは心を動かされていたはずだから。それにこれだけの格差を見せつけられたら、憎悪をつのらせても不思議はない気もするが、綺麗な部屋にツォツィはこの家の持ち主である富裕黒人の良心を見たのだろうか。映画は品位を持って終わっていた。

品位とは自分への敬意、ずいぶん大切なことを教わってしまったものである。

もっとも、細かくみていくと、ツォツィは最初にBMWを女性から奪った時にその女性に銃弾を浴びせ彼女を歩けなくさせてしまっているし、ブッチャーを結果的に殺害してしまっているから、彼の負うべき罪は相当重いものになるはずだ。また富裕黒人を良心の人にしたことについても甘さを感じなくもない。けど、赤ん坊を返してツォツィが投降したことに希望をみるのが品位、なんだろう(むにゃむにゃ)。

 

【メモ】

2006年アカデミー賞外国語映画賞

原題:Tsotsi

2005年 95分 シネスコサイズ 南アフリカ、イギリス R-15 日本語字幕:田中武人 配給:日活、インターフィルム

監督・脚本:ギャヴィン・フッド 製作:ピーター・フダコウスキ 製作総指揮:サム・ベンベ、ロビー・リトル、ダグ・マンコフ、バジル・フォード、ジョセフ・ドゥ・モレー、アラン・ホーデン、ルパート・ライウッド プロダクション・デザイン:エミリア・ウィーバインド 原作:アソル・フガード『ツォツィ』 撮影:ランス・ギューワー 編集:メーガン・ギル 音楽:マーク・キリアン、ポール・ヘプカー

出演:プレスリー・チュエニヤハエ(ツォツィ/デヴィッド)、テリー・フェト(ミリアム)、ケネス・ンコースィ(アープ)、モツスィ・マッハーノ(ボストン/先生)、ゼンゾ・ンゴーベ(ブッチャー)、ZOLA(フェラ)、ジェリー・モフケン(モーリス/物乞い)

ハンニバル・ライジング

109シネマズ木場シアター6 ★★★☆

■常識人の創った怪物

あの「人食い(カニバル)ハンニバル」の異名を持つ殺人鬼レクター博士の誕生話。

トマス・ハリスなら最初の『レッド・ドラゴン』を書いた時点で、当然レクター像もかなり煮詰めていたはずである。といってこの作品までの構想があったかというと、むろん私にはわからないのだが、全体の輪郭が当初からあったと聞けばなるほどと思うし、後付けであるならそれもさすがと思ってしまうくらいよく出来ている(文句を書くつもりなのにほめてしまったぞ)。

そして、結論は意外と単純なものであった。あれだけの反社会的精神病質者を生みだしたのは、そのレクターの存在以上に狂気が至るところにあった戦争だったというのだから。

第二次大戦中の1944年、6歳のハンニバル・レクターは、リトアニアの我が家レクター城(名門貴族なのね)にいた。戦争は彼の恵まれた環境をいとも簡単に壊してしまう。ドイツ空軍の爆撃で父母を奪ばわれたハンニバルは、幼い妹のミーシャと山小屋に隠れ住むが、そこに逃亡兵がやってきたことで悲劇が起きる……。

戦後ソ連軍に解放された家は孤児院となり、ハンニバル(ギャスパー・ウリエル)はあれから8年間をそこで過ごしていたが、他の孤児のいやがらせに脱走し、手紙の住所をたよりにフランスにいる叔父を訪ねる。

ただ、この逃避行で、彼はすでにかなりの非凡さを披露してしまう。なにしろ孤児院を抜けるだけでなく、冷戦時代の国境まで越えてしまうし、いやがらせをした相手への復讐も忘れないなど、後年のレクター博士がすでにここにいるのである。

これでは興味が半減してしまう。もちろんまだカニバルの部分での謎は残っているし、映画としての娯楽性を損ねることなく進行させねばならない、という理由もあってしたことだろうから、それには目をつぶっておく。

さて、フランスに無事たどり着いたレクターだが、叔父はすでに死んでいて、しかし日本人の未亡人レディ・ムラサキ(コン・リー)の好意で、そこに落ち着くことになる。が、肉屋の店主がムラサキに性的侮辱の言葉を浴びせたことで、彼の中の獣性が目を覚ます……。

ムラサキの下でハンニバルは日本文化の影響を受けることになる。ムラサキによる鎧と刀を使った儀式めいたものが演じられるし、ハンニバルが肉屋の首を斬りとったのもこの日本刀を使ってだった。ただ、この部分は日本人には首を傾げたくなるものでしかない。

ポピール警視の追求を受けるものの、ハンニバルは最年少で医学部に入学する。なるほど、後年、精神科医にはなるが、人間を解剖したりする知識は早くから学問として学んでいたというわけか。

このあと、度々悪夢に襲われるハンニバルは、ミーシャの復讐を次々と果たしていく。この復讐劇が予定通りに成し遂げられていくのは、青年ハンニバルがもうレクター博士になっている証拠のようなもので(フランスへの逃避行からだった)、特別な見せ場にもならないほど粛々と進行していく。

が、このことで復讐相手のグルータス(リス・エヴァンス)の口から、飢えをしのぐためにミーシャを食べたのはお前もだと逆襲されることになる。これはかなり衝撃的な事実であるし、ここを映画のクライマックスにもしているので、これをもってカニバルの説明としたいところだが、妹の人肉を食べたことがハンニバルの中で嫌悪にはならず、人肉食を追求するようになった理由にまではなっていないように思われる。

それにこれは本当に説明可能なことなのだろうか。青年ハンニバルを描くことになれば、当然それが明かされるはずと思い込んでいたが、それが簡単なものでないことは誰しも気付くことだ。

ムラサキはハンニバルの最初の殺人を容認するばかりか擁護してしまうのだが、最後は彼に復讐を断念し脱走兵を許すことを求める。が、もう耳を貸すようなハンニバルではなくなっている。けれど、それなのに、ハンニバルはムラサキに「愛している」と言うのだ。

ハンニバルもここまでは夢にうなされるし、愛という言葉を口にする人間だったのである。だから彼の犯罪もこの作品では、非礼に対する仕返しであり、妹への復讐であって、彼の側にも正当性がかろうじてあったのだ。しかしムラサキに「あなたには愛に値するものがない」と言われてしまったことで、ハンニバルにあった人間は消えてしまう。

説明つきかねるものをやっとしたという感じがなくもないが、しかしそうさせたのは、レクター博士を想像したのが常識人のトマス・ハリスだったからではなかったか。いや、これはまったくの推論だが。

なお蛇足ながら、ギャスパー・ウリエルのハンニバル像は、アンソニー・ホプキンスにひけを取らぬ素晴らしいもので、彼にだったら続編を演じてもらってもいいと思わせるものがあった。そうして、今回定義出来なかった悪をもっと語ってもらいたいと思うのだ。さらに的外れになることを恐れずにいうと、善から悪への道は『スターウオーズ エピソード3 シスの復讐』の方がよほど上で、ハンニバルは最初から悪そのものを楽しんでいたという設定にすべきではなかったか。

ところでチラシには「天才精神科医にして殺人鬼、ハンニバル・レクター。彼はいかにして「誕生(ライジング)」したのか?――その謎を解く鍵は“日本”にある」となっているのだけど、ないよ、そんなの。

原題:Hannibal Raising

2007年 121分 シネスコサイズ アメリカ、イギリス、フランス R-15 日本語字幕:戸田奈津子

監督:ピーター・ウェーバー 製作:ディノ・デ・ラウレンティス、マーサ・デ・ラウレンティス、タラク・ベン・アマール 製作総指揮:ジェームズ・クレイトン、ダンカン・リード 原作:トマス・ハリス『ハンニバル・ライジング』  脚本:トマス・ハリス 撮影:ベン・デイヴィス プロダクションデザイン:アラン・スタルスキ 衣装デザイン:アンナ・シェパード 編集:ピエトロ・スカリア、ヴァレリオ・ボネッリ 音楽:アイラン・エシュケリ、梅林茂
 
出演:ギャスパー・ウリエル(ハンニバル・レクター)、コン・リー(レディ・ムラサキ)、リス・エヴァンス(グルータス)、ケヴィン・マクキッド(コルナス)、スティーヴン・ウォーターズ(ミルコ)、リチャード・ブレイク(ドートリッヒ)、ドミニク・ウェスト(ポピール警視)、チャールズ・マックイグノン(ポール/肉屋)、アーロン・トーマス(子供時代のハンニバル)、ヘレナ・リア・タコヴシュカ(ミーシャ)、イヴァン・マレヴィッチ、ゴラン・コスティッチ、インゲボルガ・ダクネイト

東京タワー オカンとボクと、時々、オトン

109シネマズ木場シアター6 ★★★☆

■オカンとボクと、時々、オトン、そしてミズエ

原作は未読。リリー・フランキーの自伝だろうか。そして振り返るとそこにはオカン(内田也哉子→樹木希林)がいた、というような。

小倉から筑豊の炭坑町、そして大分の美術高校時代の下宿生活を経て東京に上京し、美大時代のぐうたらな生活があって、でもなんとか稼げるようになってオカンを呼び寄せて一緒に暮らし……。料理好きで誰からも愛されたオカンのことを「ボク」(谷端奏人→冨浦智嗣→オダギリジョー)が綴っていく。

作者が最初に「小さな話」と言っているのは、特別な大それた事件というべきものなどないという謙遜と思われるが、長い年月のうちにはそれなりの事件は当然いくつもあって、それが丹念に描かれていく。むろんリリー・フランキーの子供時代は子供の目線でしかないので、上京するまでの場所は田舎なのだが、場所は違ってもこの時代の風景は私には懐かしいもので、共鳴する部分が多かった(車をハンドル操作で道を走らせるゲームってあんなにチャチだったかしらねー。かもねー、というように反応していたのね)。

そして挿話としてはどこにでもありそうな話の積み重ねながら、やはり母に対する、また母の子に対する気持ちが全編に溢れたものになっていて、でもそれは決して押しつけがましいものにはなっていなかった。

だから、抗癌剤の副作用で苦しむ壮絶な場面になっても素直に受け止められたのだろう。また、オカンに手を引かれる側だったのが「ボク」が引く側になっているベタな映像すら、とても愛しく思えたのだった。

映画の題材としてなら「この人より自由な人をボクはいまもって見たことがない」オトン(小林薫)の方がずっと料理のしがいがありそうだが、しかしこの程度の人材ならあの時代にはいくらでもゴロゴロしていた記憶があるが(人付き合いの密度が高かっただけかも)、これは映画とは別の話。それに、オトンは、後半どんどん立派なオトンになっていくんだよね。

話としては誰にでも思い当たるような部分がいくつも出てきて、その普遍性が原作をベストセラーにしたのだろう。それをまた私が引っ張り出しては、同じことの繰り返しになってしまうので、1番気になったミズエ(松たか子)の存在についてだけ書いておく。

放蕩生活の借金完済も近づき、オカンの上京が決まった頃に「新しい彼女」として登場したミズエは、「いろんなことがうまく回りはじめている」その中にいて、でも、その楽しい時間が「足早に過ぎて」オカンの癌が再発したときにはミズエと「ボク」とは、もう「私たちが別れたこと……」「まだ言っていないんだ」という会話になっている。ミズエはオカンに指輪をもらっていて、そのことを気にするのだが、はめる時とはめない時があっていいからもらっといてよ、と「ボク」は答える。

オカンの闘病生活の時にも病室を訪れるミズエの姿があるし、約束を果たすために最後に「ボク」がオカンの位牌を持って東京タワーの展望台にのぼる時にも、待ち合わせには少し遅れながらミズエはやって来るのだ。

こんな時にも彼女が来ているのは、オカンと彼女とにあった絆が大きかったことがもちろんあるが、恋人ではなくなった「ボク」とは今でも信頼関係が残っているのだろう。ミズエについては多くは語られていないので、観客の想像に委ねられているのだが、そのことがかえって彼女の存在を際だたせていたし、映画にとってもいいアクセントになっていたと思うのだ。

    

2007年 142分 シネスコサイズ 配給:松竹

監督:松岡錠司 原作:リリー・フランキー『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』 脚本:松尾スズキ 撮影:笠松則通 美術:原田満生 衣装:宮本まさ江 編集:普嶋信一 音楽:上田禎 主題歌:福山雅治『東京にもあったんだ』 メイク:豊川京子 照明:水野研一 録音:柿澤潔
 
出演:オダギリジョー(中川雅也/ボク)、樹木希林(中川栄子/オカン)、内田也哉子(若い頃の栄子)、松たか子(ミズエ)、小林薫(オトン)、冨浦智嗣(中学、高校時代の雅也)、田中祥平(小学校時代の雅也)、谷端奏人(幼少時代の雅也)、渡辺美佐子(筑豊のばあちゃん)、佐々木すみ江(小倉のばあちゃん)、原知佐子(ノブエおばさん)、結城美栄子(みえ子おばさん)、猫背椿(ブーブおばさん)、伊藤歩(タマミ)、勝地涼(平栗)、平山広行(磯山)、荒川良々(えのもと)、辻修(ホセ)、寺島進(ハイカラな男)、小島聖(若い頃のノブエおばさん)、吉本菜穂子(若い頃のみえ子おばさん)、光石研(小料理屋の客)、千石規子(病院の借家の老婆)、仲村トオル(ラジオ局のディレクター)、土屋久美子(高校の女教師)、小泉今日子(不動産屋の事務員)、板尾創路(「かっぱ」の客)、六角精児(編集長)、宮﨑あおい(アイドルDJ)、田口トモロヲ(郵便配達)、松田美由紀(中目黒の大家)、柄本明(笹塚の診療所の医者)、田中哲司(東京の病院の医者)、塩見三省(葬儀屋)、岩松了(催促する編集者の声)、江本純子(風俗嬢C)、安藤玉恵(風俗嬢A)、栗原瞳(風俗嬢B)、麻里也(堕落した日々の彼女)、竹下玲奈(大学時代の彼女)、小林麻子(似顔絵教室の女子社員)、ぼくもとさきこ(東京の看護婦)

ブラックブック

テアトルタイムズスクエア ★★★☆

■事実に着想を得た「出来すぎた」物語

ハリウッド監督になっていたポール・バーホーベンがオランダに戻って作った娯楽色たっぷりのレジスタンス戦争映画(「事実に着想を得た物語」という字幕が出る)。

ユダヤ人歌手のラヘル・シュタイン(カリス・ファン・ハウテン)は、湖に出ていた時に隠れ家にしていたオランダ人の農家が爆撃機に攻撃され、知り合ったロブ(ミヒル・ホイスマン)という青年のところに身を寄せるが、夜にはオランダ警察のファン・ハイン(ピーター・ブロック)に知られてしまう。「オランダの警察には善人が多い」というハインの手引きで脱出することを決めたラヘルは、父に頼れと言われていた公証人のW・B・スマール(ドルフ・デ・ヴリーズ)を訪ねる。

スマールから父の金の一部を手にしたラヘルはロブと一緒に船着き場へ向かい、そこで合流した別のユダヤ人グループの中に両親や弟を発見する。が、乗り込んだ船は夜更けにドイツ軍の襲撃を受け、皆殺しのうえ金品を略奪されてしまう。川に飛び込んで難を逃れたラヘルは、農民に助けられ、チフスにかかった遺体に化けて検問を抜けハーグに着く。そこで彼女は髪をブルネットからブロンドに、名前をユダヤ人名からエリス・デ・フリースに代え、レジスタンスの青年ティム・カイパース(ロナルド・アームブラスト)と彼の父親でリーダーでもあるヘルベン・カイパース(デレク・デ・リント)の無料食堂で働くことになる。

5か月後にレジスタンスの仲間の女性が脱落したことで、エリスに白羽の矢が当たる。連合国からの投下物資の移送に女性を同伴して注意をそらすのだという。元医師のハンス・アッカーマンス(トム・ホフマン)と恋人を装って列車に同乗するが、機転をきかすうち、エリスはナチス諜報部長のムンツェ大尉(セバスチャン・コッホ)の個室に入り込んでしまう。が、そのことで2人は検閲の目をそらすことに成功する。ほどなく武器輸送が発覚してティムたちが捕まってしまう。ヘルベンは彼らの救出のため、エリスにムンツェに近づいてほしいと申し出る。

かなりすっ飛ばしたつもりだが、この調子で粗筋を書いていたら少なくてもあと3倍は書かなくてはならないだろう。とにかく密度の濃い物語で、次々に事件が待っているのだ。しかもそれが巧みに絡まって、思わぬ登場人物が思わぬところで活躍するというサービス満点の脚本になっていて、144分という長さをまったく感じさせない。

が、その盛り沢山さが、逆に観客に立ち止まる余裕を与えず、余韻にひたらせてくれないうらみにもなっている。エリスの隠れ家生活の描写で、隠れ家を提供している農家の主人が、エリスに「イエスに従えばユダヤ人は苦しまなかった」と言ったり、聖書を暗記させエリスにお祈りをさせる場面があって、私などそのあたりの事情をもっと知りたくなったものだが、映画はどんどん先に行ってしまうというわけだ。それはエリスが家族を失うところでも同じで、場面としての残虐さは叩き込まれても、感情の永続性という配慮はない。

ムンツェに取り入ったエリスはそのままパーティに行くことに成功し、そこにピアノを弾く家族を殺したフランケン(ワルデマー・コブス)を見つけるのだが、歌手のエリスは一緒に歌を歌わなければならなくなる。この場面はかなり衝撃的で演出として心憎いものだが、ここでも物語はとどまらずに進行する。

フランケンの愛人ロニー(ハリナ・ライン)と親しくなり、諜報部で働きだし、スマールによるムンツェとのティムたちの助命交渉があり、盗聴器を設置するが、ムンツェにはユダヤ人であることを見破られ、でも恋に落ち、盗聴からはファン・ハインとフランケンの陰謀が判明する。ロニーから仕入れたフランケンのユダヤ人殺害による金品の着服をカウトナー将軍(クリスチャン・ベルケル)の前で暴こうとするムンツェだが、証拠は見つけられず、逆にレジスタンス側と連絡をとっていたことで逮捕されてしまう。

さらに端折ってみたが、まだ物語を終わらすことができない。細かく書かないと公証人のスマール(彼の持っていた黒い手帳がタイトルになっている)やハンスの悪巧みを、印象的に暴くことが出来なくなってしまうのだが、それは映画を観て楽しめばいいことなのでもうやめることにする。ようするに、レジスタンス側にもドイツ軍側にも、自分さえよければと、敵と裏取引していた人間が多数いたということをいいたいのだろうが、ここまで人間関係を複雑にしてしまうと、どんでん返しや謎解きの娯楽性の方ばかりに目がいってしまわないだろうか。

物語をいじくりまわしたせいで、終戦後にナチに通じていたとみなされ虐待を受けていた(汚物まで浴びせられていた)エリスを、レジスタンスの英雄になっていたハンスが助けた意味がわからなかったりもする。多分自分で確実に始末しておかないと安心できなかったのだろう(さらに言うなら戦争中のハンス自身は危険を犯し過ぎだし、裕福なユダヤ人狙いということでは、スマールならばもっと簡単かつ安全に財産を横取り出来たのではないか)。ここでも鎮痛剤と偽られてエリスがインシュリンを打たれてしまうのだが、大量のチョコレートで難を逃れるといった見せ場がある。

英国は降伏後もドイツ軍の刑の執行を認めているという説明があって(カウトナー将軍の協力の下に)、終戦に希望を見出していたムンツェは処刑されてしまう。エリスはハンスから財宝を取り戻すが、私のものではなく死者のものだと言う。

この戦後風景の中で面白いのがロニーで、街中では髪を切られてナチの売女と晒し者になっている女性がいるというのに、彼女は戦勝パレードをしている新しい彼にちゃっかり乗り換えてしまっているのだ。それも「笑顔を振りまいていたらこうなった」というのだから彼女らしい。彼女はエリスがスパイだと知った時も、マタハリのガルボは捕まっちゃうのよ、とは言うが、エリス自身のことについてはとやかく言わなかったっけ。

ローリーは1956年10月にはイスラエルに夫とバス旅行にやってきていたから、幸せにやっているのだろう。そこでエリスと再会するというのが映画のはじまりだった。エリスも夫に2人の子供と仲良くやっているらしい。そして、このイスラエルのキブツの建設に、エリスが取り戻したユダヤ人犠牲者の資金があてられたことが述べられて終わりとなる。

1956年10月という設定は、興味深いものだ。29日にはイスラエルがシナイ半島へ侵攻を開始して第2次中東戦争がきって落とされるからだ。何事もいろいろなところで繋がっているということなのだろうが、それはまた別の話……。

【メモ】

ムンツェの趣味は切手蒐集(「占領した国の切手を集めている」)で、だから地理学者になったと言っていた。

エリスは陰毛まで染めて敵地に乗り込むが、ムンツェにはすぐ見破られてしまう。「ブロンドが流行ですもの」と言い逃れるが、ムンツェは「金髪か、完璧主義者だな」と余裕綽々だ。ムンツェにはあとにも「私を甘く見るな」というセリフがある。そりゃそうだろう。でなきゃナチス諜報部長にまでなれなかっただろうから。

ムンツェは、妻子を英国軍の爆撃で失っていた(「ゲーリングは英国の爆弾はドイツには落ちないと言っていたがハンブルグに……」)。

フランクは盗聴を知っていたから、ムンツェの行動を予測したのか?

「戦争は終わったよ。僕たちにははじまりだ」というのはエリスへの慰めか。ムンツェにしては甘い予測だ。

父にもらったライターをハンスのところで見つけるラヘル(エリス)。

1942年からハンスはユダヤ人を助けていた。ラヘルの弟はハンスの手術を受けたようだ。この時すでにフランケンと取引していたことになる。

原題:Zwartboek / Black Book

2006年 144分 スコープサイズ オランダ、ドイツ、イギリス、ベルギー 日本語字幕:松浦美奈 オランダ語監修:池田みゆき

監督:ポール・バーホーベン 製作:テューン・ヒルテ、サン・フー・マルサ、ジョス・ヴァン・ダー・リンデン、イエルーン・ベーカー、イェンス・モイラー、フランス・ヴァン・ヘステル 製作総指揮:グレアム・ベッグ、ジェイミー・カーマイケル、アンドレアス・グロッシュ、ヘニング・モルフェンター、アンドレアス・シュミット、マーカス・ショファー、チャーリー・ウォーケン、サラ・ギルズ 原案: ジェラルド・ソエトマン 脚本:ジェラルド・ソエトマン、ポール・バーホーベン 撮影:カール・ウォルター・リンデンローブ プロダクションデザイン:ウィルバート・ファン・ドープ 衣装デザイン:ヤン・タックス 音楽:アン・ダッドリー
 
出演:カリス・ファン・ハウテン(ラヘル・シュタイン/エリス・デ・フリース)、トム・ホフマン(ハンス・アッカーマン)、セバスチャン・コッホ(ルドウィグ・ムンツェ)、デレク・デ・リント(ヘルベン・カイパース)、ハリナ・ライン(ロニー)、ワルデマー・コブス(ギュンター・フランケン)、ミヒル・ホイスマン(ロブ)、ドルフ・デ・ヴリーズ(W・B・スマール/公証人)、ピーター・ブロック(ファン・ハイン)、ディアーナ・ドーベルマン(スマール夫人)、クリスチャン・ベルケル(カウトナー将軍)、ロナルド・アームブラスト(ティム・カイパース)、スキップ・ゴーリー(ジョージ/ロニーの夫)

デジャヴ

109シネマズ木場シアター7 ★★★☆

■トンデモ装置で覗き見した女性に恋をする

冒頭のフェリー爆破テロ事件にまず度肝を抜かれる。海兵隊員たちにその家族が乗り込んでマルディグラ(ニューオーリンズのカーニバル)のお祭り気分の中、少女が人形を海に落としてしまう場面がある。ナンバープレートのはずされた車と繋がっては、事件を予感せずにはいられないが、このあと突然起きる爆破で、丸焦げになった人々が次々に海に落下していく描写が凄まじい。細切れの、しかし生々しい救助や事後処理の場面に続いて、男が1人、現場のあちこちで証拠集めをしている場面へと次第にかわっていく。

この流れは、カット割りは映画術を駆使しながら、イメージとしては手を加えていないドキュメンタリーに近いものを感じさせる。すでに爆音は遠いものになっているのに、気持ちの収まりがついてくれない感じがよく表現されていた。

男はATF(アルコールタバコ火器局)のダグ・カーリン(デンゼル・ワシントン)で、この捜査の手際のよさがFBIの目に止まり、彼らに力を貸すように頼まれる。

ここからの展開は、内容があまりに奇抜で、そのSF的仕掛けにはついていけない人も多そうだが、そこさえ割り切れれば実によくできた話になっている。SF大好き人間ではあるが、タイムマシンものには抵抗がある私としては微妙なのだが、でも楽しんじゃったのね。このアイディアと力業を簡単にけなしてしまうのは、あまりにもったいないんだもの。

543名の犠牲者を出したフェリー爆破事件はテロと断定され、カーリンは「タイム・ウィンドウ」と呼ばれる極秘装置を使って、その捜査に当たるように言われるのだが、この装置というのがトンデモものなのだ。

仕様を書くと、センサと4つの偵察衛星から送られたデータで、場所の制限はあるものの、好きな場所のかなり鮮明な映像を映し出すことができ、建物の中の映像もOKという(えー!)。ただ、復元のための情報処理に膨大な時間がかかるため、常に処理時間後の、つまり映像としては4日と6時間前のものしか見ることが出来ない。しかも1つの映像を見るチャンスは1度で巻き戻しもできない。

しかしこの説明は少しおかしくて、一旦モニタに映し出されたものを別の装置で録画するのはたやすいはずで、何度も見ることくらいわけないだろう。それに4日と6時間前なら瞬時に見えるのではなく、場所を特定してから4日と6時間後のはずだと思うのだが、まあこの際野暮なことは言うまい。

トンデモ装置はあっても、4日前の何を探ればよいのかがわからなければ意味がないわけで、そのために土地勘もあり的確な判断のできるカーリンが選ばれたのだった(ハイテク装置も使う人次第ってことね)。彼は捜査の段階で発見した若い女性の遺体が事件の鍵を握っていると考え、彼女の家を監視装置で追うよう指示を出す。そして、モニタにはクレア・クチヴァー(ポーラ・パットン)の、「まだ生きている」映像が映し出される。

覗き見という悪趣味に晒された上、クレアには死が待っている。何ともたまらなく厭な場面なのだが、モニタに映る彼女は美しいだけでなく、食事に祈りを欠かさないたたずまいの美しい人でもあった。映画だからといってはそれまでなのだが、そういうクレアを覗き見して、カーリンは彼女を好きなってしまったのだろう。とはいえやっぱり悪趣味なのだが。

監視をつづけるうち、クレアがこちらの装置が出す光に反応するのをカーリンは見る(その前にクレア自身も誰かに見られているようで気持ちが悪いと言っていた)。ここからもう1つトンデモ話が加わることになる。

要するにこの現象は時空を折り曲げているのであって、まだ実験段階ながら映像の向こうに物質を送ることも可能なのだという。これを知ったカーリンが、まだこのあとに現在と4日前の映像を左右の目で見分けながらのカーチェイスというびっくり仰天場面なども入ってくるのだが、クレアをみすみす死なせることなどできないと、4日前に自分自身を送り込むのだ。

よくやるよ、とチャチを入れたくなるが、この2つのトンデモ前提さえ目をつぶれば、話の巧妙さには喝采を送りたくなること請け合いだ。全部を書いている余裕などないが、ここから試行錯誤しながらも、カーリンの相棒の死や、自分の残した「U CAN SAVE her」というメッセージなどが、パズルのように解明されていくのである。

カーリンは犯人を倒し、つまりフェリーの爆破を防ぎ、残虐な死からクレアを救うのだが、彼は死んでしまう。しかし彼の死は、タイムマシンものについてまわる大きな矛盾を回避してしまうことになる。なにしろカーリンが消えてくれないと、もともと4日前にいたカーリンとで2人のカーリンが存在することになってしまうから。

ラストではクレアのことを知らないカーリンが彼女と会って、タイトルのデジャヴを口にする。なるほどね。馬鹿馬鹿しいのに感心してしまった私。

【メモ】

カーリンが4日前に自分自身を送り込んだ先は病院。胸に蘇生処置をしてくれと書いたメモを貼って、タイムトラベルをする。

原題:Deja Vu

2006年 127分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:戸田奈津子

監督:トニー・スコット 製作:ジェリー・ブラッカイマー 製作総指揮:テッド・エリオット、チャド・オマン、テリー・ロッシオ、マイク・ステンソン、バリー・ウォルドマン 脚本:テリー・ロッシオ、ビル・マーシリイ 撮影:ポール・キャメロン プロダクションデザイン:クリス・シーガーズ 衣装デザイン:エレン・マイロニック 編集:クリス・レベンゾン 音楽:ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ
 
出演:デンゼル・ワシントン(ダグ・カーリン)、ポーラ・パットン(クレア・クチヴァー)、 ヴァル・キルマー(プライズワーラ)、ジム・カヴィーゼル(オースタッド)、アダム・ゴールドバーグ、エルデン・ヘンソン、エリカ・アレクサンダー、ブルース・グリーンウッド、エル・ファニング、マット・クレイヴン、ションドレラ・エイヴリー

今宵、フィッツジェラルド劇場で

銀座テアトルシネマ ★★★☆

■名人芸を楽しめばそれでよい?

実在の人気ラジオ番組「プレイリー・ホーム・コンパニオン」(原題はこちらから)の名司会者ギャリソン・キーラー本人(出演も)が、洒落っ気たっぷりに番組の最終回という架空話をデッチ上げて脚本を書いたという。

そのあたりの事情は当然知らないのだが、映画の方の「プレイリー・ホーム・コンパニオン」は、ミネソタ州のセントポールにあるフィッツジェラルド劇場で、長年にわたって公開生中継が行われてきたのだという設定だ。が、テキサスの大企業によるラジオ局の買収で、今夜がその最終日になるという。

その舞台を、楽屋裏を含めほぼ実時間で追ったつくりにしているところなどいかにもアルトマンの遺作に相応しい(群像劇でもあるしね)。『ザ・プレイヤー』ではこれ見よがしの長まわしを見せられて気分を害したものだが(実験精神は買うが)、ここにはそういうわざとらしさはない。

リリー・トムリンやウディ・ハレルソンたちが次々と繰り出す歌や喋りを、それこそラジオの観客にでもなったつもりで楽しめばそれでいいのだと思う。なにしろみんな芸達者でびっくりだからだ(そういう人が集められただけのことにしてもさ)。メリル・ストリープが相変わらず何でもやってしまうのにも感心する(ファンでもないし他の人でもいいのだが、このメンバーでは彼女が1番わかりやすいかなというだけの話)。今回も歌手になりきっていた。

舞台の構成も興味深い。度々入る架空のCMが面白く、ギャリソン・キーラーの仕切ぶりや歌はさすが長年司会をやってきたと思わせるものがある。公開生番組といってもラジオだからいたって安手で、そもそも劇場も小ぶりだし、同じ芸人が何度も登場する。手作り感の残る親しみやすさが、最終日という特殊事情で増幅されて、登場人物の気持ちを推しはかざるを得なくなるという効果を生んでいるというわけだ。

むろんそんな感傷はこちらが勝手に作り上げたもので、ことさらそれは強調されてないし、実際湿っぽくなってもいない。陽気すぎるウディ・ハレルソンとジョン・C・ライリーのめちゃくちゃ下品な掛け合いは別にしても、それぞれ最後の舞台を、プロとしてそれなりにつとめていくるからだ。

例外は、チャック・エイカーズ(L・Q・ジョーンズ)の死だろうか。もっともこれとて白いトレンチコートの女(ヴァージニア・マドセン)を登場させるための布石という側面が強い。謎の女は、劇場の探偵気取りの警備係、ガイ・ノワール(ケヴィン・クライン)に、自分は天使のアスフォデルだと語る。

自分から正体を明かす天使もどうかと思うが、ノワールは、劇場に乗り込んできた首切り人のアックスマン(トミー・リー・ジョーンズ)を天使に追い払ってもらえないかと考える。で、よくわからないのだが、天使もその気になったらしく、すでにアックスマンの車に乗り込んでいて(神出鬼没なのだ)、一緒に帰って行く。

女はやはり天使だったらしい。アックスマンの車は事故を起こして炎上してしまうのだ。しかし、そのあとは「さらば首切り人、でも事態は好転しなかった」(ノワールのナレーション)だと。なるほどね。

先にわざとらしさはないと書いたが、こんな仕掛けの1つくらいは用意せずにはいられないのがアルトマンなのだろう。で、その結論も、すでに何事も諦念の域にあるかのようだ。そうはいっても、この天使の扱いはこれでいいのだろうか。ちょっと心配になる。エイカーズの死の際に「老人が死ぬのは悲劇でない」と言わせて、すでに点は稼いでいるのだけどね。

生放送の最後の余った時間に、ヨランダ(メリル・ストリープ)の娘ローラ(リンジー・ローハン)のデビュー場所を提供しているのも粋だ。老人の諦念だけでなく、ちゃんと次の世代の登場も印象付けている。

おしまいは、解体の進む劇場で(あれ、劇場もなくなってしまうんだ)ノワールがフィッツジェラルドの胸像(貴賓席に置いてあったもの)が置かれたピアノにむかっている。追い払われてしまうんだけどね。そして隣の食堂には、いつもの顔ぶれが集まっていた……。え、天使もかよ。

【メモ】

ロバート・アルトマンは2006年11月20日、がんによる合併症のためロサンゼルスの病院で死去(81歳)。

原題:A Prairie Home Companion

2006年 105分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:岡田壮平

監督:ロバート・アルトマン 製作:デヴィッド・レヴィ、トニー・ジャッジ、ジョシュア・アストラカン、レン・アーサー 原案:ギャリソン・キーラー、ケン・ラズブニク 脚本:ギャリソン・キーラー 撮影:エド・ラックマン プロダクションデザイン:ディナ・ゴールドマン 衣装デザイン:キャサリン・マリー・トーマス 編集:ジェイコブ・クレイクロフト 音楽監督:リチャード・ドウォースキー
 
出演:ケヴィン・クライン(ガイ・ノワール)、ギャリソン・キーラー(ギャリソン・キーラー)、メリル・ストリープ(ヨランダ・ジョンソン)、リリー・トムリン(ロンダ・ジョンソン)、ウディ・ハレルソン(ダスティ)、リンジー・ローハン(ローラ・ジョンソン)、ヴァージニア・マドセン(デンジャラス・ウーマン)、ジョン・C・ライリー(レフティ)、マーヤ・ルドルフ(モリー)、メアリールイーズ・バーク(ランチレディ)、L・Q・ジョーンズ(チャック・エイカーズ)、トミー・リー・ジョーンズ(アックスマン)、ロビン・ウィリアムズ

リトル・ミス・サンシャイン

新宿武蔵野館3 ★★★☆

■たまたま家族というバスに乗り合わせた人たち(って家族なんだけど)

父のリチャード・フーヴァー(グレッグ・キニア)は大学か何かの講師なのだろうか。小さな教室で、人数もまばらながら、怪しげな成功理論(負け犬にならないためのプログラム)を説いていた。もっともそれを出版しようという奇特?な話も進んでいるようだ。

母のシェリル(トニ・コレット)は手抜き料理主婦ながら、一応は家族のまとめ役になっている。夫とは意見の合わないことが多いようだが、でも出版話にはその気になっている。病院からフランクを自分の家に連れてくる兄思い。

祖父(アラン・アーキン)はヘロイン常用者で、老人ホームを追放されてしまうような不良老人だ。15歳の童貞の孫ドウェーンに「1人じゃなく大勢と寝ろ」と大真面目に助言する。言いたい放題に生きているが、オリーヴとは仲良しだし、後には父を励ます場面もある。

叔父(母の兄)のフランク(スティーヴ・カレル)はゲイで、これは本人の弁だが、アメリカ有数のプルースト学者らしい。もっとも失恋、自殺未遂、入院、失職と不幸続き。あまりにまとまりのないフーヴァー一家を目の当たりにしたのは怪我の功名で、抗鬱剤よりそれが効いたのではないか。自殺どころではなくなったようだ。

兄のドウェーン(ポール・ダノ)は、日課のトレーニングを欠かさない。空軍士官学校に入学するまではと無言の誓いを立てていて、もう9ヶ月もだんまりを続けているが、真相は家族を嫌っていることにあるようだ。ニーチェに心酔している。

妹のオリーヴ(アビゲイル・ブレスリン)は7歳。なによりミスコンで優勝するのが夢。ビデオでの研究に余念がない。アイスクリームには脂肪がたっぷりと言われて食べるのを悩むのは、ちょっと肉付きがいいことを本人も気にしているのだろう。

この6人がレンタルしたフォルクス・ワーゲンのミニバスで、アリゾナからカリフォルニアを目指すことになる。地方予選優勝者の失格があってオリーヴが繰り上げ優勝し、レドンド・ビーチで行われる美少女コンテスト(リトル・ミス・サンシャイン)の決勝出場資格を得たのだ。

何故全員で、といういきさつの説明が少しばかりうまくないが、まあ日常というのは何事もすべてが理路整然としているわけではないので、よしとしよう。つまり全員がオリーヴの応援という熱い思いがあるわけではなく、あくまで成り行きという流れである。

で、旅の過程で各人は、それぞれ人生の岐路に直面することになる。出版話が消えたリチャードは、それに期待していたシェリルとモーテルで大喧嘩。フランクは元恋人に普通の趣味のエロ雑誌(祖父のリクエストだった)を見とがめられるし、ライバルの本がベストセラーになるという屈辱を味わう。祖父はヤク中があっけない死をもたらし、ドウェーンは2.0の視力ながら色弱だということが判明し、パイロットになる夢を断念せざるをえない。

成り行きが少しずつ変わってはくるものの、ここにあるのは家族の絆というような確固たるものではなく、てんでバラバラの個がかろうじて家族という名のバスに乗り合わせている姿である。自分を主張して叫んではいるが、なんのことはない、個としても全員が落ちこぼれの烙印を押されてしまうというわけである。

最後に待ち受けるオリーヴが出場する美少女コンテストは、普通なら奇跡の優勝とでもしそうなところだが、はじまってすぐリチャードに他の出場者とレベルが違いすぎると言わせてるくらいで(ドウェーンは大会そのものが恥ずかしいとやはり反対するが、シェリルは本人が頑張っているのだからやらせたいと言う)、実際その通りの展開となる。何しろオリーヴの踊りは祖父の教えたストリップダンスときているから、コンテストの主催者からは顰蹙を買い中断を迫られる。が、やけくそになった家族が舞台にあがって、収拾のつかないものになる。

余談だが、この美少女コンテストでの他の挑戦者たちの気色の悪さには驚く。厚化粧で媚びを売る姿は大人の縮図なだけで、子供らしさなどまるでない。少ないながらオリーヴの下手くそなダンスに拍手が湧いたのもうなずける(けど、ストリップダンスだとこれも媚びを売っていることになるのだが、この場合はオリーヴにそんな気などないのだと、好意的に解釈しておこう)。

誰に共感できるというのでもなく、どころかその落ちこぼれ加減さにはため息をつくしかないのだが、そんな人間の寄せ集めであっても、そうたとえクラッチが故障したバスであっても(クラクションが断続的に鳴るのはうるさくてかなわないが)、工夫してみんなで押せば発進できるということを映画は教えてくれるのである。「さあ、帰るとするか」と帰っていく姿もそのままだから、みじめなんだけどね。

バスのアイディアは少々図式的ながら素晴らしいもので、そこにまぶされた挿話には無駄がない。ただ最後のコンテストがやや長いのと、オリーヴのダンスが下手くそすぎて、これでどうして繰り上げとはいえ決勝の出場権がえられたのかと思ってしまうのが難点だ。ビデオで研究しているにしては情報収集不足だし(ごめん、7歳でしたね)。

【メモ】

人間には2種類いて、勝ち馬と負け犬というのがリチャードの持論。こんなのを毎日きかされていたらドウェーンでなくてもたまらない。

ドウェーンの愛読書?は『ツァラトゥストラはかく語りき』で壁には大きなニーチェの絵が描かれていた。

祖父のリチャードへの励ましは「お前はよくやった。本当の負け犬は、負けることを恐れて何も挑戦しないヤツ」というもの。

荒れるドウェーンをなだめたのはオリーヴ。そばに行き、だまって抱きしめるだけなのだが。ドウェーンはそれまでの筆談をあっさり放棄。普通に喋るようになる。

オリーヴのダンスに好意的だったのは、ミスのお姉さん、ミキシングの人。あと、美少女コンテストは常連らしい無愛想な男の観客が大声でいいぞーと言っていた。

バスは早々にクラッチが故障。部品も休日で取り寄せることができず、下りの坂道か押せば走らせられるとアドバイスされて……。さらにドアは取れるし、クラクションは鳴りやまず、警官にも目をつけられてしまう。この時バスには移動許可の下りていない祖父の死体があったのだが、これは祖父のエロ雑誌で難をまぬがれる。

原題:Little Miss Sunshine

2006年 100分 サイズ■ アメリカ PG-12 日本語字幕:古田由紀子

監督:ジョナサン・デイトン、ヴァレリー・ファリス 製作:アルバート・バーガー、デヴィッド・T・フレンドリー、ピーター・サラフ、マーク・タートルトーブ、ロン・イェルザ 脚本:マイケル・アーント 撮影:ティム・サーステッド 衣装デザイン:ナンシー・スタイナー 編集:パメラ・マーティン 音楽:マイケル・ダナ
 
出演:グレッグ・キニア(リチャード・フーヴァー)、トニ・コレット(シェリル・フーヴァー)、スティーヴ・カレル(フランク)、アラン・アーキン(祖父)、ポール・ダノ(ドウェーン・フーヴァー)、アビゲイル・ブレスリン(オリーヴ・フーヴァー)、ブライアン・クランストン、マーク・タートルトーブ、ベス・グラント、ゴードン・トムソン、メアリー・リン・ライスカブ、マット・ウィンストン、ジェフ・ミード、ジュリオ・オスカー・メチョソ

ドリームガールズ

TOHOシネマズ錦糸町-2 ★★★☆

■60~70年代の音楽ビジネス(モータウンレコード)の世界をミュージカルに凝縮

エフィー・ホワイト(ジェニファー・ハドソン)、ディーナ・ジョーンズ(ビヨンセ・ノウルズ)、ローレル・ロビンソン(アニカ・ノニ・ローズ)の仲良し3人組はドリーメッツを結成しデトロイトでタレントコンテストに出場するが、中古車販売会社のカーティス・テイラーJr.(ジェイミー・フォックス)の裏取引で優勝を逃してしまう。カーティスは彼女たちに人気歌手ジミー・アーリー(エディ・マーフィー)のバックコーラスにならないかと持ちかける。

ツアーにあけくれ、女癖の悪いジミーに夢中になってしまうローレルや、マンネリ気味のジミーの様子、エフィーの兄でドリーメッツをある部分でリードしていた作曲家のC.C.ホワイト(キース・ロビンソン)がジミーに曲を売り込んだり、白人に曲(「キャディラック」)をパクられる事件があったり、だからDJには金を掴まさなくては……と、映画は快調に飛ばしていく。ツアー中のバスの窓からの風景や、ラジオの曲が聞こえないからと雪の橋をUターンする場面なども効果的に収められていて印象深い。

路線変更でジミーのマネージャーだったマーティー・マディソン(ダニー・グローヴァー)が降りてしまったり、3人がついにドリームスとして売り出したり、駆け足ながらまとめ方がうまく、私のように当時の背景やスターについて詳しく知らない人間にも十分楽しめる。スタイルもいつのまにか歌い出しているという正真正銘のミュージカルなのだが、違和感がほとんどない。曲と歌詞が物語にぴったりだし、リハーサル場面がいつのまにか本番に変わっているちょっとした演出(2度ほどある)もいい感じだ。

結局、パワーではなく、軽いサウンドで大衆に受けるようにしたい(白人に媚びるということもあったようだ)というカーティスによって(C.C.ホワイトも同調する)、もともとリードボーカルだったエフィーに代わって、容姿端麗なディーナを前面に売り出すことになる。声が大きすぎると注意されたエフィーは、恋人でもあったカーティスがディーナにも手を出していることに嫉妬。ふてくされて遅刻をしたら代役が立てられていて、自分の場所がないことを知る。

一方、ディーナの人気は鰻登りで、ヒット曲を連発する。エフィーは、自分には歌しか歌えないから職を探しても無駄と言ってそう間をおかないで登場するのだが、この時はもう7歳くらいの娘(後ではもうじき9歳と言っていた)がいて、おいおい、あ、これはミュージカルだったのだ、と。つまりそれだけよく出来ているということなのだが。

ジミーの凋落。ヘロインによる死。マーティーとC.C.ホワイトの協力でエフィーは新曲を歌うが、今度はカーティスが汚いやり方でそれをディーナの曲として売り込み、大ヒットとなる。ディーナには主演映画の話までやってくるが、カーティスとはそのことでもめ、君の声には深みがないとまで言われてしまう。

ディーナのモデルはダイアナ・ロスらしいが、それよりも(疎いからでもあるのだが)この皮肉はビヨンセ・ノウルズにはね返るものでもあるから、そのことの方が気になってしまう。ま、そんなことは百も承知で演じているわけなのだが、ジェニファー・ハドソンの歌いっぷりがすさまじく、歌唱力だけではスターになれないという彼女の立場(実際2004年にアメリカの人気オーディション番組で決勝まで残りながら優勝出来なかったらしい)が、物語を飛び越えてきそうな迫力となって面白い状況を作り出している(もっとも、私などこの映画を観ている時はともかく、単純に音楽だけを聴くとなると、ここまで歌いこまれてはちょっと、の口だ)。

ラストは、ドリームスの(ディーナが真相を知った末の)解散コンサートで、最後の曲はドリームスの3人にエフィーが加わっての舞台となる。その歌の最中にカーティスは、座席にエフィーの娘を見つけ近づいて行く。

これはカーティスが自分の子供ということに気づいたということを描写したつもりなのだろうが、ひどい手抜きだ(これだったらない方がすっきりする)。最後の最後でこれは惜しい。途中エフィのごね方が少しくどく感じたのと合わせて、数少ないミスではないか。

 

【メモ】

第64回米ゴールデン・グローブ賞作品賞(ミュージカル/コメディ部門)、最優秀助演男優賞、最優秀助演女優賞
第79回米アカデミー賞 助演女優賞受賞(ジェニファー・ハドソン)、録音賞受賞

原題:Dreamgirls

2006年 130分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:戸田奈津子

監督・脚本:ビル・コンドン 製作:ローレンス・マーク 製作総指揮:パトリシア・ウィッチャー 原作:トム・アイン 撮影:トビアス・シュリッスラー プロダクションデザイン:ジョン・マイヤー 衣装デザイン:シャレン・デイヴィス 編集:ヴァージニア・カッツ 振付:ファティマ・ロビンソン 作詞:トム・アイン 音楽:ヘンリー・クリーガー 音楽スーパーバイザー:ランディ・スペンドラヴ、マット・サリヴァン
 
出演:ジェイミー・フォックス(カーティス・テイラーJr.)、ビヨンセ・ノウルズ(ディーナ・ジョーンズ)、エディ・マーフィ(ジェームス・“サンダー”・アーリー)、ジェニファー・ハドソン(エフィー・ホワイト)、アニカ・ノニ・ローズ(ローレル・ロビンソン)、ダニー・グローヴァー(マーティー・マディソン)、キース・ロビンソン(C.C.ホワイト)、シャロン・リール(ミシェル・モリス)、ヒントン・バトル(ウェイン)、ジョン・リスゴー(ジェリー・ハリス)、ロバート・チッチーニ(ニッキー・カッサーロ)

世界最速のインディアン

テアトルタイムズスクエア ★★★☆

テアトルタイムズスクエアに展示されていた、実際の撮影に使用された「インディアン」この展示は大人気で、写真を撮っている人が大勢いた

■世界最速を目指す男が誰からも愛されるのは何故だろう

ニュージーランドの片田舎インバカーギルに住むバート・マンロー(アンソニー・ホプキンス)はオートバイで速く走ることに憑かれた男だ。朝早くから騒音をふりまき、庭は放ったらかしだから近所の評判もよろしくない。しかし隣の家の少年トム(アーロン・マーフィ)には好かれていて、2人でバイクの改造に余念がない。

バートはすでに63歳、愛車の1920年型インディアン・スカウトは40年以上も前の代物だが、彼独自の改造(無造作にタイヤを削ったり、昔のエンジンを溶かしてピストンを作ったり、パーツに日用品を使ったりだから心配になってしまうのだが、すべて緻密に考えてのことなのだ)で ニュージーランドでは敵なし。バートは、自分が一体どのくらいのスピードが出せているのか知りたくてしかたがない。そんな彼が友人たちの援助(家を抵当に入れ金も借りて)で、夢だった米国ユタ州ボンヌヴィルの塩平原で開かれるスピード記録会に出場することになる。

破天荒な物語だが実話という。しかも、彼がこの時作った記録は今も破られていないというから驚くばかりだ。

映画は、夢の実現に踏み出すまでと、貨物船に乗り込み(船賃を浮かすためコックとしてなのだ)アメリカに上陸してからはボンヌヴィルまでの長い行程、そして記録会での活躍と順を追って、さながらバートの歩調に合わせたかのようなゆったりとしたペースで進んでいく。

インディアンの船荷が崩れていたり、入管事務所で尋問されたり、牽引トレーラーのタイヤがはずれる事故、あげくは記録会の登録はとっくに締め切られているし、自身は心臓と前立腺の調子が悪いときていて、つまり問題はいろいろ起きるのだが、その都度自力で、それがダメな時は助けがあらわれて、となんとかなってしまう。困難を前にバートは悲嘆にくれるでもなく、まあ出来るところまでやってみようと鷹揚に構えていて、でも決して諦めてはいない。そしてそれを観ている側は、失礼なことながら、何だか愉快な気分になっているというわけだ。

最初に「評判がよくない」と書いたが、しかしトムの両親などあんなに文句を言っていたのに、バートが記録会に出ることを知るとコレクトコールでいいから電話しろとトムに言わせている。誕生会を開きカンパを募ってくれる仲間もいれば、本気で彼のことを考えてくれる女友達もいるし、旅の行程で次々と助け船があらわれるのもバートの人柄だろうか。

変人だし、自説は曲げないし、どころかタバコは体に悪いと見ず知らずの人間に説教までする。そんなバートなのに、何故愛されるのだろう。

バートの持っている自分がやりたいことへの強烈な情熱。多分これが周囲の人間の心を動かすのだ。誰しも夢はあっても、羞恥心や自尊心や世間体や経済力や、とにかくいくらでも転がっている理屈をつけては、そんなものはとうに何処かにしまいこんでしまっているから、バートのような情熱を見せつけられると、応援せざるを得なくなるのだろう。

バートがアメリカに渡って記録を出したのは事実にしても、他の挿話の大部分は映画用に用意されたものに違いない。ロジャー・ドナルドソン描くバート像は愛らしさに満ちているが、それが出来るということは本当に素敵なことだ。

もっともバートがバートらしくしていられるのは、これが60年代だからだろうか。今だと、私のように速度記録など環境破壊でしかない、とイチャモンをつける人間もいそうだ。気分のいい映画を観ることが逆に、世知辛くて住みにくい世の中になっていることを実感することになるのだから、なんともめんどーではある。

書きそびれてしまったが、記録会でバートがインディアンにのって爆走する場面は見物だ(こういう場面がよくできているかどうかはかなり肝腎なのだ)。ただひたすら真っ直ぐ突っ走るだけなのに、知らないうちに身体に力が入っていた。これも多分ここまでの挿話の積み重ねが効いていると思われる。

 

原題:The World’s Fastest Indian

2005年 127分 シネスコサイズ 製作国:アメリカ、ニュージーランド 日本語字幕:戸田奈津子 翻訳協力:モリワキエンジニアリング

監督・脚本:ロジャー・ドナルドソン 製作:ロジャー・ドナルドソン、ゲイリー・ハナム 撮影:デヴィッド・グリブル プロダクションデザイン:J・デニス・ワシントン (アメリカ)、ロブ・ギリーズ(ニュージーランド) 編集:ジョン・ギルバート 音楽:J・ピーター・ロビンソン
 
出演:アンソニー・ホプキンス(バート・マンロー)、クリス・ローフォード(ジム・モファット/記録会出場カーレーサー)、アーロン・マーフィ(トム)、クリス・ウィリアムズ(ティナ・ワシントン/モーテルの受付嬢?)、ダイアン・ラッド(エイダ/未亡人)、パトリック・フリューガー(ラスティ/ベトナム休暇兵)、ポール・ロドリゲス(フェルナンド/中古車販売店店主)、アニー・ホイットル(フラン/郵便局員の女友達)、グレッグ・ジョンソン、アントニー・スター、ブルース・グリーンウッド、ウィリアム・ラッキング、ウォルト・ゴギンズ、エリック・ピアポイント、ジェシカ・コーフィール、クリス・ブルーノ

幸福な食卓

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★★☆

■崩壊家族とは対極にある家族の崩壊+恋物語

今日から中学3年生という始業式の朝、中原佐和子は、兄の直と一緒に「今日で父さんを辞めようと思う」という父(弘=羽場裕一)の言葉をきく。こんなことを言い出す父親が、いないとは言わないが、相当生真面目というか甘ったれというか……。

家族揃って朝食をとるのだから、きちんとしているのかと思いきや、これはかつての名残で、母親の由里子(石田ゆり子)は近所のアパートでひとり暮らしをしているし(なのに食事の支度はしにくるのだ。これは母さんを辞めていないからなんだと)、優秀だった兄は大学に行かず農業をはじめたというし、とりあえずは真っ当にみえる佐和子も、梅雨になると調子が悪くなるらしく、薬の世話になっていたようなセリフがある。

ただ崩壊家族にしては家族間の会話は濃密で、親子だけでなく兄妹の風通しだってすこぶるいい。そこだけを見れば理想の家族といっていいだろう。別居はしているものの、父が母のバイト先の和菓子屋に顔を見せる場面だってある。

それなのにどうしてそんな生活をしているのかは、3年前の父の自殺未遂にあるのだと、これはすぐ教えてもらえるのだが、その原因についての説明はほとんどない。直が父の自殺未遂を見てオレもこの人みたいになると感じ(父の遺書を持っているのは予防薬のつもりか)、子供の頃から何でも完璧にやってきたのが少しずつズレていったのだと佐和子に告白することが、間接的だが唯一の説明だろうか。いや、もうひとつ、母が父より頭がよかったらしく、そのことで気をつかっていたらしいのだが、何も気付かなかったことをやはり悔いていた。そうだ、まだあった(けっこう説明してるか)。やってみたかったという猫飯(みそ汁かけご飯)もね。でもこれは父さんを辞めてからだから、ということは父親はやってはいけないんだ(私はやるんだなー、これ。何でいけないんだろ)。

で、その父親は、教師の仕事を辞め、父親であることを辞め、もう一度大学(今度は医大のようだ)に行くと勉強を始め、夜は予備校でバイト。でも1年後には受験に失敗し浪人生に……。勉強の仕方をみて「父さんになっちゃってる」という佐和子だが、私には父を辞めるという意味がさっぱりわからない。直も「人間には役割があるのに、我が家ではみんなそれを放棄している」と言っていた。どうやら中原家の住人は、私と違って役割というものを全員が理解しているらしい。

どうにも七面倒臭い設定だが、それが鬱陶しくならないのは、もう1つの柱である佐和子の恋物語が、いかにも中高生らしい清々しいものだったからだ。

相手は始業式の日に転校してきた大浦勉学(勝地涼)で、空いていた佐和子の隣の席に。彼の家も崩壊しているというが、父は仕事、母は勉強、そして弟はクワガタのことばかり、とこちらはわかりやすい。もっともそれは大浦が明るく言っただけのことだが。とにかくこの大浦の快活さと決断力がなかなかだ(ハイテンションで強引という見方もできるが)。不器用でカッコ悪いのだけど、佐和子への愛情がいたるところににじみ出ているのだ(でも、勝地涼に中学生をやらすなよな)。

そんな大浦を佐和子も真っ直ぐに受け止める。一緒に希望の高校を目指し、合格。別のクラスながら学級委員になって活躍。合唱にのってこない級友たちを大浦の秘策で乗り切ったり、キスシーンも含めてふたりの挿話がどれも可愛いらしい。そしてクリスマスが近づいてくる。大浦の家は金持ちなのだが、彼は佐和子へのプレゼントは自分で稼いだ金でしたいと新聞配達をはじめ、佐和子も母と一緒にマフラーを編み始める……。

突然の勉学の事故死はよくある展開だが、映画はこのあともきっちり描く。

父と力を合わせて料理し、この家に帰ってこようかなと言う母のセリフを全部否定するかのように、佐和子は「死にたい人が死ななくて、死にたくない人が死んじゃうなんて。そんなの不公平、おかしいよ」と言うのだ。当の父を前にして。兄からの慰めの言葉もそうなのだが、私にはこういう会話が成り立つこと自体がちょっと驚きでもある。

このあと、大浦の母や兄の恋人である小林ヨシコとのやり取りを通して、佐和子もやっと父の自殺が未遂に終わってよかったと思えるようになる。大浦のクリスマスプレゼントの中に彼の書いていた手紙があって、というあたりはありきたりだが、内容が彼らしく好感が持てる。怪しいだけでいまいち存在理由のはっきりしなかった小林ヨシコ(さくら)も、最後になって本領発揮という慰め方をする(でもまたしても卵の殻入りシュークリームはやりすぎかな)。

佐和子がお返しのように大浦の家をたずね編んだマフラーを渡すと、大浦の母はもったいないから弟にあげちゃダメかしらと言う。コイツが全面クワガタセーターで現れるのがおかしい。弟には大きいのだが、その彼が息せき切って坂道を帰る佐和子を追いかけてくる。「大丈夫だから、僕、大きくなるから」と言う場面は、しかし私にはよくわからなかった。もっと短いカットなら納得できるのだが。

そして佐和子の歩いていく場面。最初のうち彼女は何度が後ろを振り返る(うーん)のだが、だんだんとしっかり前を見てずんずん歩いていく。最後はアップになっているので、正確にはどんな歩き方をしているのかはわからないのだが、4人の食卓が用意されつつある場所(のカットが入る)へ向かって。

ここにミスチルの歌がかぶる。「出会いの数だけ別れは増える それでも希望に胸は震える 引き返しちゃいけないよね 進もう 君のいない道の上へ」と。でも歌はいらなかったような。その方が「気付かないけど、人は誰かに守られている」(大浦は本当は鯖が嫌いなのに、佐和子のために無理して給食を食べてくれていて、これはその時のセリフ)という感じがでたのではないかと思うのだ。

 

【メモ】

瀬尾まいこの原作は第26回吉川英治新人文学賞受賞作。

食卓シーンは多い。葱を炒め、醤油と生クリームで食べるおそばも登場するが、どれも大仰でなく家庭料理という感じのもの。

大浦に携帯の番号を聞かれるが、佐和子は持っていない。言いたいことがあれば直接会って話せばいい、と。

2006年 108分 シネスコ

監督:小松隆志 原作:瀬尾まいこ『幸福な食卓』 脚本:長谷川康夫 音楽:小林武史 主題歌:Mr.Children『くるみ -for the Film- 幸福な食卓』
 
出演:北乃きい(中原佐和子)、勝地涼(大浦勉学)、平岡祐太(中原直)、さくら(小林ヨシコ)、羽場裕一(中原弘)、石田ゆり子(中原由里子)

不都合な真実

TOHOシネマズ六本木ヒルズ ★★★☆

■これだけの事例を取り上げながら、意外と楽観的!?

民主党クリントン政権下の副大統領で、2000年の大統領選挙では共和党のジョージ・W・ブッシュと激戦を展開し、「一瞬だけ大統領になったアル・ゴア」(これは彼の自己紹介)。彼は、自ら「打撃だった」と語る大統領選敗北のあと、「人々の意識が変わると信じて」地球温暖化問題のスライド講座を始め、米国のみならずヨーロッパやアジアなどにも足をのばし、すでに1000回以上の講演を行ったという。

それを記録したのが本作品だが、ゴアが出版物や放送などのメディアではなく、直接聴衆に語りかけるスタイルをとっているのが興味深い。選挙運動で培ったものなのかどうかはわからないが、人々の意識を変える方法としてこれが1番と思ったようだ。ゴアはもう大領党選には出馬しないようだが、このまま選挙用としても使えそうなデキである。

講座は、この14年間に暑さが集中していること、ほとんど消えてしまったキリマンジャロの雪、海水面の上昇、ハリケーンの大型化、多発する竜巻、モンバイで起きた24時間に940ミリという記録的大雨、溺死したホッキョクグマ、南極の棚氷の縮小……などの事例や予測が、ユーモアを交えた力強い、いかにも政治家らしい口調で語られている。格別目新しい情報というのではないが、スライドを効果的に使ったわかりやすいものになっている(ただし、字幕でゴアの解説とスライドの画面を追うのは大変で、日本人がより内容を知りたいと思うのなら、同時に発売された本を見た方がずっといいだろう)。

温暖化かどうかは、地球規模で考えると誤差の範囲内でしかないという見方もあるが、とはいえ近年の異常現象は人為的なものが大いに影響しているとみるべきで、だからやはり手は打たなければなるまい。

この映画が立派なのは(というか米国があまりにもだらしなさすぎるからなのだが)、米国の責任に言及していることだ。米国人の意識の低さは度を超しているからね(だからってこれを観て、日本は米国よりマシなんて思う人がでませんように)。そしてその矛先は当然ブッシュにも向けられる。ブッシュの側近が気象報告を改竄したのは、彼らがそこに「不都合な真実」を発見したからだ、とはっきり言っていた。巻頭では「政治の問題ではなくモラルの問題」のはずだったのだけど、ここだけは譲れなかったのだろう。

そしてゴアらしいというか、やはり元政治家であり米国人だなと思うのは、正しい温暖化対策を講じさえすれば、それは防げるし経済も発展すると思っているようなのだ(私自身は悲観的。努力はしているつもりだが)。オゾンホール対策の時のようなことができる(フロン削減は実現できたが、だからって間に合ったかどうかはまだわかっていないのだ)はずだとも言っていた。そして、それを米国の民主的プロセスを使って変えよう。危機回避を提案している議員に投票を。ダメなら自ら立候補しよう、と繰り返す。

ゴア自身について語られていた部分も多い。そもそもゴアがどうして環境問題に本気で取り組むようになったかというと(政治家としての関わりは相当古いらしいが)、それは1989年に起きた6歳の息子の交通事故がきっかけという。その時、当たり前の存在(地球)を子供たちに残せなくなることの危機感を強く感じたらしい。

また、豊かな少年時代を送ったゴアであったが、10歳年上の姉がタバコによる肺ガンで亡くなったこと。そのことで父親は家業のタバコ栽培をやめたという話もあった。

この映画を観た誰しもが「あの選挙でゴア氏が当選して大統領になっていたら」と思いそうだが、あ、でもゴアも昔はブッシュのイラク戦争を認めていなかったっけ(記憶が曖昧)。ま、それでもブッシュよりはずっとマシだったろうけどね。

(070228追記) アカデミー賞の「最優秀長編ドキュメンタリー賞」に輝いたのは何はともあれ喜ばしい。新聞によると、授賞式でゴアは「政治の問題ではなくモラルの問題」と映画にあったメッセージを繰り返していたようだが、これは政治を信じている映画としか思えないのだけど。大統領選の立候補もきっぱり否定とあるが、自ら立候補しろって言っていてこれではな。

(070401追記) 2001年11月12日付の朝日新聞夕刊に「ゴア氏、今ごろ大統領だった 激戦のフロリダ 報道機関が州票再点検」という記事があった(今頃こんな古い新聞を見ているというのがねー)。そこには「調査結果について、ゴア氏は、『昨年の大統領選は終わっている。現在、わが国はテロとの戦いに直面しており、私はブッシュ大統領を全力で支える』と語った。」と書かれている。

 

【メモ】

「エコサンデーキャンペーン」:日本テトラパック株式会社のサポートで500円で鑑賞できた。「地球温暖化」へのメッセージを一人でも多くの方にご覧頂きたく実現した画期的な企画です!-とのことだ。TOHOシネマズ六本木ヒルズ、TOHOシネマズ川崎、TOHOシネマズ名古屋ベイシティ、ナビオTOHOプレックス、TOHOシネマズ二条の5館だけだが、1月21日から2月11日までの4回の日曜日に実施された。

第79回アカデミー賞2部門受賞。「最優秀長編ドキュメンタリー賞」「最優秀歌曲賞
“I Need to Wake Up” byメリッサ・エスリッジ(Melissa Etheridge)」

原題:An Inconvenient Truth

2006年 96分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:岡田壮平+(世良田のり子)

監督:デイヴィス・グッゲンハイム 製作:ローレンス・ベンダー、スコット・Z・バーンズ、ローリー・デヴィッド 製作総指揮:デイヴィス・グッゲンハイム、ジェフ・スコール 編集:ジェイ・キャシディ、ダン・スウィエトリク 音楽:マイケル・ブルック
 
出演:アル・ゴア

プラダを着た悪魔

新宿武蔵野館3 ★★★☆

■ファッションセンスはあるのかもしれないが

ジャーナリスト志望のアンディ(アン・ハサウェイ)は、何故か一流ファッション誌「ランウエイ」のカリスマ編集長ミランダ(メリル・ストリープ)のセカンドアシスタントに採用される。大学では学生ジャーナリズム大賞もとった優秀なアンディだが、ファッションには興味がないし(どころか見下してもいた)、「ランウエイ」など読んだことがなく、世間では憧れの人であるミランダのことも知らないという有様。話を面白くしているのだろうが、ここまでやるとアンディがお粗末な人になってしまっている。

腰掛け仕事のつもりでいたアンディだが、ミランダの容赦のない要求に振り回され、ジャーナリストとはほど遠い雑用の毎日を送ることになる。が、次第にプロとしての自覚が出て、という話はありがちながら、わかりやすくて面白い。

ミランダの悪魔ぶりとアンディの対応。冷ややかな目の周囲と思いきや、案外心遣いのある先輩たち。アンディの負けん気は、当然仕事か私生活かという問題にもなるし、仕事絡みで一夜のアバンチュールまで。ミランダの意外な素顔に、思いがけない内紛劇。1つ1つに目新しさはないものの、次から次にやってくる難題が、観ている者には心地よいテンポになっている。

だからアンディと同じような、ファッションに興味のない人間も十分楽しめる。が、サンプル品(でもブランド品)で着飾ったアンディより、おばあちゃんのお古を着ているアンディの方が可愛く見えてしまう私などには、車が横切ったり建物に隠れたりする度に、違う服で現れるアンディという演出は効果がない(それに着飾っただけで変わってしまうのだったら安直だ)。

そんな街角ファッションショーはどうでもいいが、ミランダが毛皮などをアンディの机に毎度のように乱暴に置いていくのは気になってしかたがない。ミランダがただの悪魔ではなく、部下の資質ややる気などを試し、そして育てようとしていることを伝えたいのだろう。それはわかるのだが、細かい部分で文句付けたいところがあっては、悪魔の本領を発揮する前に品格を問われてしまうことになる。

自分の(双子の)子供にハリーポッターの新作を誰よりも先に(出版前に)読ませたい、という難題をアンディに課すのは公私混同でしかないし、なによりミランダには食べ物に対するセンスが欠けている。職場にステーキやスタバのコーヒーを持ち込ませて、果たしておいしいだろうか。予定が変わって、あの冷めたステーキは食べずにすんだようだが、頭に来たアンディがそれをごみ箱行きにしてしまうのは、食べ物を粗末にするアメリカ人をいやというほど見せつけられているからもう驚きはしないが、やはりがっかりだ。

アンディの私生活部分がありきたりなのもどうか。ネイト(エイドリアン・グレニアー)との関係がもう少しばかり愛おしいものに描けていればと思うのだが、それをしてしまうとクリスチャン(サイモン・ベイカー)とパリで寝てしまうのが難しくなってしまうとかね。クリスチャンに誘われて、「あなたのことはよく知らないし……異国だし……言い訳が品切れよ」と言っていたが、こういうセリフはネイトと一緒の場面にこそ使ってほしい。それにしてもこういう女性のふるまいを、ごんな普通の映画でもさらっと描く時代になったのか、とこれはじいさんのつまらぬ感想。

また、アンディにミランダとの決別を選ばせたのは、サクセスストーリーとしてはどうなのだろう(仕事を投げ出すことは負けになってしまうという意味で)。ま、これがないとミランダがアンディのことをミラー紙にファクスで推薦していてくれていたという、悪魔らしからぬ「美談」が付けられないのだけどね。

文句が先行してしまったが、離婚話でアンディにミランダの弱気な部分を見せておいて(仕事に取り憑かれた猛女と書かれるのはいいが、娘のことは……と気にしていた)、最後に危機をしたたかに乗り切る展開は鮮やかだ。アンディの心配をよそにちゃんと手を打っていたとは、さすが悪魔。一枚上手だ。ただ、とまた文句になってしまうが、ナイジェル(スタンリー・トゥッチ)の昇進話とこの最後のからくりの繋がりは少々わかりづらかった。

先輩アシスタントのエミリー(エミリー・ブラント)の挿話もよく考えられたもので納得がいく。ミランダがナイジェルにした仕打ちをアンディがなじると、あなたもエミリーにもうやったじゃない、と切り返される場面では、仕事の奥深さ、厳しさというものまで教えてくれるのである。

  

【メモ】

見間違いかもしれないが、久々にスクリーンプロセス処理を観たような。

原題:The Devil Wears Prada

2006年 110分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:松浦美奈

監督:デヴィッド・フランケル 製作:ウェンディ・フィネルマン 製作総指揮:ジョセフ・M・カラッシオロ・Jr、カーラ・ハッケン、カレン・ローゼンフェルト 原作: ローレン・ワイズバーガー『プラダを着た悪魔』 脚本:アライン・ブロッシュ・マッケンナ 撮影:フロリアン・バルハウス プロダクションデザイン:ジェス・ゴンコール 衣装デザイン:パトリシア・フィールド 編集:マーク・リヴォルシー 音楽:セオドア・シャピロ
 
出演:アン・ハサウェイ(アンドレア・サックス)、メリル・ストリープ(ミランダ・プリーストリー)、エミリー・ブラント(エミリー)、スタンリー・トゥッチ(ナイジェル)、エイドリアン・グレニアー(ネイト)、トレイシー・トムズ(リリー)、サイモン・ベイカー(クリスチャン・トンプソン)、リッチ・ソマー(ダグ)、ダニエル・サンジャタ(ジェームズ・ホルト)、レベッカ・メイダー、デヴィッド・マーシャル・グラント、ジェームズ・ノートン、ジゼル・ブンチェン、ハイジ・クラム

パプリカ

テアトル新宿 ★★★☆

■現実を浸食する夢、と言われてもねぇ

DCミニは、精神医療研究所の巨漢天才科学者の時田浩作が開発した、他人の夢に入り込んで精神治療を行う器具だ。頭部に装着したもの同士が夢を共有できるというもので、完成すれば覚醒したまま夢に入っていけるようになるらしいが、うかつにもこれが悪用されることまでは考えていなかったようだ。

時田の同僚でサイコ・セラピストの千葉敦子は、そのDCミニを使って「パプリカ」という仮の姿になり、刑事の粉川利美を治療していた。粉川は所長の島寅太郎とは学生時代からの友人で、まだDCミニが極秘段階ながら、その治験者となっていたのだ。

そして、まだアクセス権も設定していないDCミニ3機が盗まれるという事件が起きる。実はここの理事長乾精次郎は、DCミニは夢を支配する思い上がりと、開発には反対の立場。理事長に知られないうちになんとかしなければと、島、時田、千葉の3人が協議をはじめるが、それをあざ笑うかのように何者かが島に入り込み、島は思いもよらぬ行動を取り始める。

島はもちろん覚醒しているしDCミニは装着していない。いきなり前提を覆す展開だが、これについては少しあとに千葉が氷室の夢に侵入されたことで、DCミニにあるアナフィラキシー効果がそういうことも可能にするかもしれない、と時田に言わせて一件落着。ようするに何でもありにしてしまっているのだが、そう思う間もなく、夢と現実が入り交じった世界が次々と現れる。開発者すら予測がつかない、ということもサスペンス的要素としてあるのだろうが、これはちとズルイではないか。

島の夢の分析から、時田の助手の氷室を割り出したり、千葉がパプリカになって島を救うのは流れからして当然にしても、アナフィラキシー効果は何故パプリカには出ないのだろう。それも含め、ここからの展開は急だし、現実が夢に浸食されだすこともあって、話に振り回されるばかりだ。氷室の自殺未遂で警察が動きだし、粉川刑事が担当になって、彼の夢だか過去にまで話が及ぶからややこしいことこの上ない。

そのくせ話はえらくこぢんまりしていて、犯人探しは理事長に行き着く。しかし、理事長はDCミニを毛嫌いしていたのでは。いや、だから「生まれ変わった」と言ってたのか。自分が夢や死の世界も自在にできるようになり、新しい秩序が私の足下からはじまると思い込んでしまったって。でも、だったら、この部分はもっときっちり描いてくれないと。

もっともそうはいっても夢を具現化したイメージはすごい。わけのわからないパレードの映像だけでも一見の価値がある。これは、アニメでなくては表現できないものだ。ただ私の場合、夢の映像って対象以外はほとんど見えていないことが多い。すべてが鮮明な夢というのを見たことがないので、そういう意味では違和感があった。

それと、ここには恐怖感がないのだ。だから大きな穴を前に「繋がっちゃったんですよ、あっちの世界とね」と言われても、そうですか、と他人事な感じ。言葉として理解しただけで。確かに夢が去って、イメージの残骸は消えてしまうものの廃墟は残る場面では、なるほどとは思うのだが。

だから結局何が言いたかったのかな、と。映画への偏愛(犯人を検挙できないことと並んで粉川刑事のトラウマとなっていたもの)と、科学オタクへの応援歌だったり? だって最後に千葉が時田に恋していたっていうのがわかるのがねー。「機械に囲まれてマスターベーションに耽っていなさい」なんて言っていたっていうのにさ。それが急に「時田君を放っておけない」なんて。母性愛みたいなもの? まあ、どっちにしろ、時田もだけど現実の方の千葉も、私にはあまり魅力的ではなかったのだな。

ただ夢の中のパプリカが、冷たい印象(才色兼備と言わないといけないのかなぁ)のする現実の千葉とは違って、孫悟空やティンカーベルのイメージになって楽しげに振る舞っているのは面白かった。治療している当の千葉が、夢の中では自分自身が解放されていたのだろうか。

「抑圧されない意識が表出するという意味ではネットも夢も似てる」という指摘があったが、本当に夢に現れるのは抑圧されない意識なのだろうか。それに、だとしても夢にそれほどの重要性があるのか、とも。

  

2006年 90分 アニメ ビスタサイズ 

監督:今敏 アニメーション制作:マッドハウス 原作:筒井康隆『パプリカ』 脚本:水上清資、今敏 キャラクターデザイン・作画監督:安藤雅司 撮影監督:加藤道哉 美術監督:池信孝 編集:瀬山武司 音楽:平沢進 音響監督:三間雅文 色彩設計:橋本賢 制作プロデューサー:豊田智紀
 
声の出演:林原めぐみ(パプリカ/千葉敦子)、古谷徹(時田浩作)、江守徹(乾精次郎)、 堀勝之祐(島寅太郎)、大塚明夫(粉川利美)、山寺宏一(小山内守雄)、田中秀幸(あいつ)、こおろぎさとみ(日本人形)、阪口大助(氷室啓)、岩田光央(津村保志)、愛河里花子(柿本信枝)、太田真一郎(レポーター)、ふくまつ進紗(奇術師)、川瀬晶子(ウェイトレス)、泉久実子(アナウンス)、勝杏里(研究員)、宮下栄治(所員)、三戸耕三(ピエロ)、筒井康隆(玖珂)、今敏(陣内)

007 カジノ・ロワイヤル

新宿ミラノ1 ★★★☆

■生身だから、恋もすれば、死にかけたりもする

ダニエル・クレイグのイメージが、今までのボンドとあまりにかけ離れているので、どうしてもそこに目がいってしまうが、映画自体も、まさに一新という内容になっている。好都合なことに、フレミングの原作がパロディ映画にはなったものの1つだけ残っていて、どこまでが原作に忠実かは別として(意味ないものね)、宣伝も「ジェームズ・ボンドが007になるまでの物語」(正確にはそれは少しで、最初の任務が軸。00要員になる最後の昇格条件は2つの殺害)と、新シリーズ誕生を鮮やかに印象づけている。

手始めはマダガスカルの工事現場での爆弾犯追跡劇。この追いかけっこがなかなかで、しかも相手(セバスチャン・フォーカン)の逃げ方のほうが格好いいときてる。ボンドはなんとか頭を使ってカバーするのだが、物は壊すし、自分の体は思いっ切りぶつけるし、と何とも荒削りだ。今までのボンドだと、スーツを着たままそれこそ汗ひとつかかずにやり遂げてしまうイメージが定着しているが、こちらは生身が売り物(筋肉見せまくり)のようだ。でありながら、もちろん超人的なんだけど。

悪役は、ル・シッフル(マッツ・ミケルセン)という投資家で、世界中のテロリストの活動資金を支えている張本人が彼という設定だ。マネーロンダリングはもちろん、テロで空売りを仕掛けた株価を暴落させようとする。ボンドのマイアミ空港での活躍で、その目論見(航空機の爆破)が阻止されると、損失を取り戻すべくモンテネグロのカジノ・ロワイヤルで大勝負に出ようとする。

ちょっと安直な筋立てだが、ル・シッフルもさすがに追いつめられたってことか。ここでアクションは休憩となって、情報を掴んだボンドもそこに乗り込み、カジノ対決となる。安直なのは英国諜報機関(MI6)もだよね。ギャンブルでテロ資金を巻き上げてしまおうって? しかもその席にはCIA(ジェフリー・ライト)もいて、こいつはポーカーが下手だってんだから笑ってしまう。でもまあ、この場面は時間をきっちりとっているだけの駆け引きが楽しめる。

ボンドは、つまり国家予算を賭金にしているわけで(おいおい)、英国財務省からはお目付役としてヴェスパー・リンド(エヴァ・グリーン)が同行する。彼女がボンドの恋の相手で、ボンドは愛に生きる決心をし、なんとMI6に辞表まで提出する。彼女との絡みでは、初めて殺しの場面を目にし、ショックで着衣のままシャワー室に座り込んでしまっている彼女に、ボンドが寄り添うようにして慰める場面も用意されていて、007映画らしからぬ繊細な配慮も見せる。もっとも、私的には恋の部分でのときめきには至らず、逆に減点対象にしてしまったのだけど。

カジノでもル・シッフルに勝つボンドだが(取られちゃったらどうするつもりだったのだ)、ヴェスパーを誘拐され、自身もル・シッフルの手に落ちてしまい、ここで全裸拷問場面となる。が、そのル・シッフルもテロ組織に消されて、と話は急展開。さらにはヴェスパーへの疑惑に、彼女の死、組織内の裏切り、と続くのだが、涙腺異常で目から血を流すル・シッフルがいなくなってしまってからは、アクションも含めて意外と盛り上がらない。頑張ってヴェネチアで古い建物を倒壊させているが、これも外している。

ということで、恋とはおさらばし、めでたくボンド誕生となる。で、最後になっていつもの決めゼリフの「My name is Bond, James Bond.」がやっと飛び出すという趣向だ。

クレイグボンドは新鮮だが、感情むき出し路線だと『M:i:III』があった。そういえば、トム・クルーズが蘇生したように、毒を盛られたボンドがAED(自動体外式除細動器)を使って危機を脱するあたりも似ていなくもない。もっともアイディア兵器の使用はぐっと少なく、アストン・マーチンから出てきたのはこのAEDくらいで、だからQも登場しない。子供だましという感じはないが、これはこれでさみしかったりする。

M(ジュディ・デンチ)との信頼が次第に築かれていくところなどもあるが、今回観るかぎりでは、逆にボンドである必要があったのか、とも。まあ、そう言いつつこんなことをだらだらと書けるのも、007のブランド力があってこそなのだが。

 

【メモ】

ニューボンドは6代目。シリーズとしては21作目。

冒頭の追いかけっこで得たケータイ情報から、ボンドは大胆にもMの自宅に侵入し、Mのパソコンを使って単独捜査までやらかす。

原題:Casino Royale

2006年 144分 スコープサイズ アメリカ、イギリス 日本語字幕:■

監督:マーティン・キャンベル 原作:イアン・フレミング『007 カジノ・ロワイヤル』  脚本:ニール・パーヴィス、ロバート・ウェイド、ポール・ハギス 撮影:フィル・メヒュー プロダクションデザイン:ピーター・ラモント 衣装デザイン:リンディ・ヘミング 編集:スチュアート・ベアード 音楽:デヴィッド・アーノルド テーマ曲:モンティ・ノーマン(ジェームズ・ボンドのテーマ)  主題歌:クリス・コーネル
 
出演:ダニエル・クレイグ(ジェームズ・ボンド)、エヴァ・グリーン(ヴェスパー・リンド)、マッツ・ミケルセン(ル・シッフル)、ジュディ・デンチ(M)、ジェフリー・ライト (フェリックス・レイター)、ジャンカルロ・ジャンニーニ(マティス)、サイモン・アブカリアン(アレックス・ディミトリオス)、カテリーナ・ムリーノ(ソランジュ)、イワナ・ミルセヴィッチ(ヴァレンカ)、セバスチャン・フォーカン(モロカ)、イェスパー・クリステンセン(ミスター・ホワイト )、クラウディオ・サンタマリア、イザック・ド・バンコレ

父親たちの星条旗

新宿ミラノ1 ★★★☆

■英雄はやはり必要だったらしい

問題となる硫黄島の摺鉢山頂上にアメリカ兵たちが星条旗を掲げている写真だが、何故この写真が英雄を演出することになったのだろう。当時はまだ多くの人が写真=真実と思い込んでいたにしても、旗を掲揚したということだけで英雄とするには、誰しも問題と思うだろうから。いや、むろん彼らはただの象徴にすぎず、だから彼らにとってそのことがよけい悲劇になったのだが。

写真には6人が写っているが、生き残ったのは3人である。硫黄島の戦いが、アメリカにとってもいかに大変なものだったかがわかるというものだ。生き残りの3人がアメリカに帰り、英雄という名の戦時国債募集の宣伝要員となって国から利用されるというのが映画のあらましである。

アメリカにとっては第二次世界大戦など海の向こうの戦争でもあるし、厭戦気分でも広がっていたのだろうか。国債の目標が140億ドルで、「達成できなければ戦争は今月で終わり」などといった人ごとのようなセリフまで出てくる。またはじまりの方でもこの写真について「1枚の写真が勝敗を決定することも」と言っていたから、戦意高揚効果の絶大さは本当だったようだ。

英雄であることを受け入れるのには戸惑いを感じつつも優越感に浸れるのはレイニー・ギャグノン(ジェシー・ブラッドフォード)。臆面もなく駆けつけてきた彼の恋人はこの点では彼以上だから、このふたりはお似合いなのだろうが、アイラ・ヘイズ(アダム・ビーチ)や衛生兵だったジョン・ブラッドリー(ライアン・フィリップ)にとって、この戦時国債の売り出しキャンペーン巡礼は、重要性は認識していても戦争の悲惨な体験を呼び起こすものでしかない。この時点ではそれはまだほんの少し前のことなのだ。

派手なイベントや、戦場を知らない人間とのどうしようもない温度差も彼らを苦しめる。ヘイズにはインディアンという立場もついてまわるから一層複雑だ。「まさかりで戦った方が受けるぞ」と言われる一方で「戦争のおかげで白人も我々を見直すでしょう」と講演する悲しさ。ブラッドリーのようには割り切れないヘイズは、酒に溺れ次第に崩壊していく。

このお祭り騒ぎの行程に、これでもかというくらいに戦闘場面が挿入される。だから実を言うと映画の最初の方は、その関係が読みとれず少し苦痛でもあったのだが、これが彼らのその時の心象風景なのだと、次第に、納得できるようになる。

小さな硫黄島に、その面積以上になるのではないかと思うほどの大船団が押し寄せる。凄まじい艦砲射撃と空爆(それでも10日の予定が3日に短縮されたという)に、アメリカが硫黄島に賭けた意気込みのすごさを感じるのだが、映画でもこの場面には圧倒される。中でも船団の横を駆け抜けていく戦闘機の場面は臨場感たっぷりである。艦隊の動きを遠景でとらえた時、あまりにも規則正しすぎることがCGを思わせてしまうのだが、これは本当だったのだろうか。

上陸後しばらくなりを潜めていた日本の守備隊が反撃に転じると、そこは一瞬にして地獄と化す。死体を轢いて進む上陸用舟艇や、これはもっとあとの場面だが、味方を誤射していく戦闘機の描写もあった。次作では日本側の硫黄島を描くからか、山にある砲台とアメリカ兵が近づくのを待ち受ける塹壕からの視点以外はすべてアメリカ側からという徹底ぶりだが、ならばその2つもいらなかった気がする。

もっとも、戦いの進展具合には興味がないようで、そのあたりは曖昧なのだが、摺鉢山頂上での星条旗の掲揚が実は2度あり、写真も2度目のものだったことはきちんと描かれる。ある大尉が最初の旗を欲しがり別の物と替えるよう命令するのだが、これが後々やらせ疑惑となる。他にも新聞でその写真を見て、自分の息子と確信した母親の話などもあるが、しかし最初にも書いたように、これがそれほど意味のあることとは思えないので、どうにもしっくりこないところがある(そうはいっても、ハーバート・ビックスの『昭和天皇』にもこれについての記述があるから、この写真の持つ意味は相当大きかったのだろう)。

彩度を落とした映像による冷静な視線は評価できるが、戦いの現場と帰国後の場面が激しく交差するところに、現在の時間軸まで入れたのは疑問だ。映画というメディアを考えると、そのことが、かえって現在の部分を弱めてしまった気がするからだ。原作者であるジェームズ・ブラッドリーは、戦争のことも旗のことも一切話さなかったというジョン・ブラッドリーの息子で、父親の死後取材していく過程で、父親との対話を重ねたに違いないが、しかしそれは本にまかせてしまっておいてもよかったのではないだろうか。

『硫黄島からの手紙』の予告篇が映画のあとにあるという知らせが最初にあるが、これはアメリカで上映された時にもついているのだろうか? アメリカ人は『硫黄島からの手紙』をちゃんと観てくれるのだろうか? そうなんだけど、この、映画の後の予告篇は、邪魔くさいだけだった。

 

【メモ】

この写真を撮ったのはAP通信のジョー・ローゼンソール(1945.2.23)でピューリツァー賞を授賞。

原題:Flags of Our Fathers

2006年 132分 シネスコ アメリカ 日本語字幕:戸田奈津子

監督:クリント・イーストウッド 原作:ジェームズ・ブラッドリー、ロン・パワーズ 脚本:ポール・ハギス、ウィリアム・ブロイルズ・Jr 撮影:トム・スターン 美術:ヘンリー・バムステッド 衣装:デボラ・ホッパー 編集:ジョエル・コックス 音楽:クリント・イーストウッド
 
出演:ライアン・フィリップ(ジョン・“ドク”・ブラッドリー)、ジェシー・ブラッドフォード(レイニー・ギャグノン)、アダム・ビーチ(アイラ・ヘイズ)、ジェイミー・ベル(ラルフ・“イギー”・イグナトウスキー)、 バリー・ペッパー(マイク・ストランク)、ポール・ウォーカー(ハンク・ハンセン)、ジョン・ベンジャミン・ヒッキー(キース・ビーチ)、ジョン・スラッテリー(バド・ガーバー)