太陽

銀座シネパトス1 ★★★☆

■神にさせられてしまった人間

ロシア人監督ソクーロフによる終戦前後の昭和天皇像。上映が危惧されたらしい(天皇問題のタブー視は度がすぎている。上映側の過剰反応もあったのではないか)が、シネパトスは連日盛況で、公開してほぼ1ヶ月後の9月2日の時点でも2スクリーンでの上映にもかかわらず順番待ちの列が長く伸びていた(もっとも入館してみると6、7割の入り。それでもシネパトスにしては大ヒットだろう)。

敗戦濃厚な事態を前にしての御前会議で、天皇(イッセー尾形)は明治天皇の歌(「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」を引き合いにだして平和を説くのだが、これは日米開戦を前にしての話だったはず。こういう部分をみてもこの映画が事実にこだわるよりは、別の部分に焦点を合わせていることがわかる。

実際、その場面を取り上げたことでもわかるように、外国人の手による天皇論としては思いやりのある好意的なもの(排日移民法にまでふれている)で、ハーバート・ビックスの『昭和天皇』(この本の監修者吉田裕が映画の監修者にもなっている)のような容赦のなさ(と書くとヘンか)はない。これほどよく描いてくれている作品なのに上映をためらう空気があることがそもそもおかしいのだ。が、それが今の日本なのだが。

事実関係ならビックスに限らないが、こんな映画を観るよりはいくつも出ている研究書を読めばいいに決まっている。もっともだからといって、本当のことはなかなか見えてこないだろうが。

ソクーロフが描きたかったのは、神にさせられてしまった人間は一体どうふるまっていたのか、ということではないか。だから歴史的意味が大きいと思われる事柄であってもそれは大胆に省略し、神という名の人間の日常(むろん想像なんだが)を追うことに主眼を置いているのだろう。

映画は天皇の食事(フォークとナイフを使った洋食である)の場面からはじまるのだが、このあと沖縄戦の英語のニュースを聞いた天皇が、侍従長(佐野史郎)に「日本人は、私以外の人間はみんな死んでしまうのではないか」と話しかける。肯定も否定も畏れ多いことになってしまうことをさすがに侍従長はこころえているから「お上は天照大神の天孫であり、人間であるとは存じませぬ」と話をそらしてしまう。天皇は「私の体は君と同じ」と言うが、これ以上侍従長を困らせてもいけないと思ったのか、「冗談だ」と矛をおさめる。

続いて老僕(つじしんめい)により軍服に着替える場面。年老いた彼にとっても当然天皇は畏れ多い存在で、軍服の釦の多さに手こずり、禿頭に汗が噴き出ることになる。その汗を見ながら、汗の意味を計りかねている(楽しんでいる?)天皇。

まわりの人間がこうでは、天皇が「誰も私を愛してはいない。皇后と皇太子以外は」と嘆くのも無理はない。もっともこのセリフは当時としては日本的ではないような気がするし、西洋の神と違って戦前の天皇が愛の対象だったかどうかもまた別の問題ではある。

最初にふれた御前会議の次は、生物学研究所での天皇の様子だ。ヘイケガニの標本を前にして饒舌な天皇。そして、午睡で見る東京大空襲の悪夢。が、このあとはもうマッカーサー(ロバート・ドーソン)との会見を前にした場面へと飛んでしまう。

最初の会見こそぎこちないものだったが、カメラマンたちによる天皇撮影風景(これは有名なマッカーサーと一緒の写真でなく、庭で天皇ひとりを撮影するもの)などもあって、2度目の会見では、人間として話し行動することを「許されて」、それを楽しんでいるかのような天皇が描かれる。マッカーサーとの話はさすがに息の抜けないものになっているが、マッカーサーが席を外した時にテーブルのローソクを消したり、マッカーサーに葉巻を所望し、多分1度も経験したことのない方法(お互いに口にした葉巻でキスしあうだけのものだが)で火を付けてもらう……。

神でないことを自覚していた天皇だが、自ら宣言しなければ人間になれないことはわかっていたようで、疎開先から戻った皇后(桃井かおり)に「私はやりとげたよ。これで私たちは自由だ」とうれしそうに「人間宣言」の報告をする。ここでのやりとりは、互いに「あ、そう」を連発した楽しく微笑ましいものだ。

「あ、そう」は自分の意見を挟むことが許されず、とりあえず相手を認める手段(仕方のない時も含めて)として天皇が編み出した言葉なのだと思っていたので、こんな使われ方もあるのかとちょっとうれしくなってしまったくらいだ。

しかし、このあと天皇は、自分のした質問で「私の人間宣言を録音した若者」が自決したことを知ることになる。「でも止めたんだろ」と侍従長に訊くのだが、「いえ」という返事がかえってくるだけである。天皇は返す言葉が見つからないのか、皇后の手を引いて皇太子の待つ大広間へと向かう。

大東亜戦争終結ノ詔書の玉音放送の他に、人間宣言の録音があったとは。が、そのことより(最初に書いたように、映画は必ずしも事実に忠実であろうとはしていないから)ここで大切なのは、天皇が自分の人間宣言によって起こりうる事態を予想していたということではないだろうか。

これは、自分の下した決断がまた別の悲劇を起こさざるをえない、つまりはっきり神でない(これはわかってたのでした)ことを悟らざるをえない男の、しかし普通の人間にもなれず自由を手に入れることが出来なかった男の話なのだよ、と駄目押しで言っているのではないか。人間宣言をしても普通の人間になれなかったことは日本人なら誰でも知っていることだが、外国人にとってはこのくらい言い聞かせないとわかりにくいのかもしれない(でないとこの場面はよくわからない)。

しかし私としては、事実からは少し離れた人間としての天皇を考えるにしても、彼自身の運命のことよりも、天皇の目に大東亜戦争がどのように映っていたかが知りたいのだが。この映画の東京大空襲の悪夢が、悪夢ではあっても美しい悪夢であったように、天皇には本当の東京大空襲の姿は見えていなかったのではないか。会見に行く前に空襲の跡が生々しい街の様子が出てくるが、彼がそれを見たのは、もしかしたらその時がはじめてだったのではないか。

そのことで天皇の非をあげつらうつもりはない。でもそうであるのなら、やはり彼は孤独で悲しい人だったのだ。天皇制(象徴天皇制はさらに悪い)は、何より天皇の人間性を抹殺するものだからだ。

最後は雲におおわれた東京(という感じはしないが)を上空から捉えたもので、薄日の中に廃墟の街並が見え、右下には鳩が飛んでいる画面がエンドロールとなる。太陽はまだはっきりとは見えないということだろうか。

ロシア人の脚本に沿って、日本人が日本語で演じるというシステムがどう機能したのかは、あるいは構築していったのか(セリフも特殊用語だし)という興味もあって、語るにこと欠かない映画だが、何より、イッセー尾形の奇跡のような昭和天皇は、やはり感嘆せずにはいられない。

そして、出来ることなら日本人の手でもっと多くの天皇を扱った映画ができることを。

  

【メモ】

私が観た映画は英題表示(The Sun)のもの。

シネパトスのある三原橋は、銀座にしては昭和30年代の雰囲気がまだ残っている所。地球座や名画座時代であれば、防空壕の中というイメージで鑑賞できたはずだが、3年前の改装でずいぶん明るくなってしまった。もっとも地下鉄の騒音は消せるはずもなく、しっかり効果音の一部となっていた。そして、この映画にはそれがぴったりだったようだ。

「皆々を思うが故にこの戦争を止めることができない」

「ローマ法王は何故返事をくれないのかな」「手紙は止まっておりますよ」「ま、よかろう」

「神はこの堕落した世界では、日本語だけでお話しできるのです」

マッカーサーから送られたチョコレート。

極光についての問答。光そのものが疑わしいのです。

「闇に包まれた国民の前に太陽はやってくるだろうか」

原題:The Sun(Solnise/le Soleil)

2005年 115分 ロシア/イタリア/フランス/スイス 配給:スローラーナー サイズ:■ 日本語字幕:田中武人

監督・撮影監督:アレクサンドル・ソクーロフ 脚本:ユーリー・アラボフ 衣装デザイン:リディア・クルコワ 編集:セルゲイ・イワノフ 音楽:アンドレイ・シグレ
 
出演:イッセー尾形(昭和天皇)、佐野史郎(侍従長)、桃井かおり(香淳皇后)、つじしんめい(老僕)、ロバート・ドーソン(マッカーサー将軍)、田村泰二郎(研究所所長)、ゲオルギイ・ピツケラウリ(マッカーサー将軍の副官)、守田比呂也(鈴木貫太郎総理大臣)、西沢利明(米内光政海軍大臣)、六平直政(阿南惟幾陸軍大臣)、戸沢佑介(木戸幸一内大臣)、草薙幸二郎(東郷茂徳外務大臣)、津野哲郎(梅津美治郎陸軍大将)、阿部六郎(豊田貞次郎海軍大将)、灰地順(安倍源基内務大臣)、伊藤幸純(平沼騏一郎枢密院議長)、品川徹(迫水久常書記官長)

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