グラン・トリノ

上野東急2 ★★★★

■じじいの奥の手

『チェンジリング』はえらく重厚な作品だったが、こちらはクリント・イーストウッドの一発芸だろうか。むろんその一発芸(最後の見せ場)に至る描写は念の入ったもので、しかし冗長に過ぎることはなく、相変わらず映画作りの才能を遺憾なく発揮した作品となっている。

無法者には銃で決着をつけるのがイーストウッドの流儀、とこれまでの彼の映画から私が勝手に決めつけていたからなのだが、最後にウォルト・コワルスキーがとった行動はまったく予想できなかった。

むしろ、銃による裁きをしたあと、どうやってそのことを正当化するのだろうかと、先走ったことを考えていて、だからこの解決策には唸らされたし、イーストウッドには、こんな映画まで作ってしまって、と妬ましい気分さえ持ってしまったのだった。

で、だからというのではないが、難癖をつけてみると、やはりこれはウォルトが先行き短い老人だったから出来たことで、誰もがとれる方法ではないということがある。ま、これはホントに難癖なんだけどね。先行き短くったって、しかもウォルトの場合は深刻な病気も抱えていたにしても、いざやるとなったら、そう簡単には出来るこっちゃないんで。しかも彼のとった行動は、タオとスーの行く末を考えた上の周到なものであって(ウォルト自身も彼なりの区切りの付け方をしている)、決して突飛でもやけっぱちなものでもないのだ。

ついでに書くと、ウォルトは妻に先立たれたばかりで(映画は葬式の場面から始まっている)ウォルトは息子や孫たちには見放された(彼は見放したんだと言うだろうが)存在だった。だから自分の死は皮肉なことに、タオとスー以外にはそれほど大きな負担にはならない場所にいたことになる。もちろんタオとスーには負担(この言葉は適切じゃないが)以上の贈り物が与えられるのだが。

実際のところこれでは、結局息子や孫たちには、ウォルトは死後も理解されないままで終わってしまいそうである。孫娘は何故ヴィンテージカーのグラン・トリノが自分にでなくタオの物になってしまったのかを、ちゃんと考えるだろうか(注1)。映画としては、考えるだろうという立ち位置にいるのかもしれないが、私は難しいとみる。ウォルトも苦虫を噛みつぶしているばかりでは駄目で、聞く耳をもたないにしても、というかそうなる前にもう少し付き合い方を考えておくべきだったはずなのだ(注2)。

難癖のもうひとつは、ウォルトの行為があくまでも法の力が整備された下で成立することで、つまり戦争やテロとの戦いでは無力だろうということである。また、囮捜査的な性格があったことも否めないだろう。ま、そこまで言ったらウォルトに銃を持たせるしかなくなってしまうのだが(注3)。また、銃弾まみれになったのも(苦しむ間もない即死と十分な証拠が得られたのは)、運がずいぶん味方してくれたような気もしてしまう。それだけ、相手がどうしようもないヤツらだった、ということでもあるのだが。

以上、あくまで難癖なので、そのつもりで。

ところでウォルトの隣人たちはアジア系(タオの一家はモン族)になっているし、最初の方でタオをからかっていたのは「メキシコ野郎」で、スーは白人男とデートしていて黒人三人にからまれる。ウォルトは、白人男のだらしなさに憤慨し、隣人や街が異人種ばかりと嘆き(でもタオの祖母は、逆にウォルトが越していかないことを不思議に思っているのだ)、罵りの言葉をまき散らす。ため息だって怪獣並なのだ(まさか。でもすごいのだな、これ)。

ウォルトはトヨタランドクルーザーを「異人種のジャップの車」といまいましそうに言うが(注4)、けれど自分はというと「石頭のポーランドじじい」で、そう言うウォルト行きつけの床屋の主人は「イカレイタ公」なんだから、そもそも異人種の中にいたんじゃないのと笑ってしまうのだが、でもまあ、旧式頭のアメリカ人には白人なら同類なんだろうな。

汚い言葉ばかり吐いているウォルトはどう見ても人種差別主義者なのだが、NFLの招待券や家を狙ってる長男夫婦やヘソピアスの孫は拒否してしまうのに、タオやスーの真面目さには心を開く。そういう部分を見てこなかった彼の家族は、ウォルトの頑固さが大きな壁だったにせよ、ちょっと情けない。

もうひとつ忘れてならないのは若い神父の存在で、彼は亡き妻にウォルトを懺悔させることを約束させられたため、何度も足を運んでくるのだが、ウォルトは「あんたは27歳の童貞で、婆様の手を握り、永遠の命を誓う男だ」と相手にしようともしない。この神父、なかなかの人物なんだけどね。

が、スーの暴行に対してウォルトの考えに理解を示したことで(あくまでウォルトとタオだったらどうするかという話ではあったが)、ウォルトは最後に神父に懺悔をする。妻にキスをしたこと。ボートを売ったのに税金を払わなかったこと。二人の息子の間に出来てしまった溝について。

ところがウォルトはこのあと、一緒にスモーキーの家に乗り込んで行くつもりでいたタオを地下室に閉じ込め、その時タオには、朝鮮戦争で人を殺したことを告白するのだ(注5)。「お前みたいな子供も殺した」とも。神父にはもっと前に、朝鮮戦争でのおぞましい記憶についてはあっさりながら語っているのだが、懺悔の時にはそのことには触れていなかった。これこそ懺悔をすべきことだったはずなのに。

懺悔をしてしまったら、いくら自分が手をくだすのではないにしても、復讐はできなくなってしまうのだろうか。ここらへんは無神論者の私などには皆目わからないのだが、ウォルトは神父を無視しているようでいて、そういうとことも意識していたのかも、と思ってしまったのだった。

注1:孫娘がウォルトのグラン・トリノに目を付けたのは、ウォルトがまだタオのことなど知らない妻の葬式のあとの集まりでだった。彼女が「ヴィンテージカー」と言った言葉はウォルトを喜ばせたはずだが、いきなり「おじいちゃんが死んだらどうなるの?」はさすがにいただけなかった。「グラントリノは我が友タオに譲る」という遺言状を聞いて憮然としていたが、あんなこと言っちゃったんじゃ、まあ、しょうがないさ。

注2:と書いたが、実は私はといえばウォルトに近いだろうか。別に血が繋がっているからといって、他の人間関係以上に大切にすることなどないわけだし。ただ私の場合それが極端になることがあるので、一応自戒の意味も含めて上のように書いてみたのである。が、この映画で私が評価したいのは、血縁関係によらない人間関係なのだけどね。

注3:もっともタオのいとこのスパイダーやリーダー格のスモーキーたちは、ウォルトの相手をねじふせないではいられない態度に(ウォルトが挑発したようなものだから)暴走しだしたという側面も否定出来ない。そうはいっても、スーに対する行為は許し難いものがあるが。そして、ウォルトがその責任を痛感していたのは言うまでもないだろう。

注4:この車で葬式に来ていた長男のミッチはトヨタ車のセールスマンで、ウォルトは長年フォードの工場に勤めていたという、なんともすごい設定になっていた。

注5:これはタオに、朝鮮で何人殺し、どんな気持ちがしたかと問われたからではあるが。ウォルトの答えは十三人かそれ以上で、気持ちについては知らなくていいと答えて、タオを地下室に閉じ込めてしまうのだ。

原題:Gran Torino

2008年 117分 シネスコサイズ アメリカ 配給:ワーナー 日本語字幕:戸田奈津子

監督:クリント・イーストウッド 製作:クリント・イーストウッド、ロバート・ロレンツ、ビル・ガーバー 製作総指揮:ジェネット・カーン、ティム・ムーア、ブルース・バーマン 原案:デヴィッド・ジョハンソン、ニック・シェンク 脚本:ニック・シェンク 撮影:トム・スターン プロダクションデザイン:ジェームズ・J・ムラカミ 衣装デザイン:デボラ・ホッパー 編集:ジョエル・コックス、ゲイリー・D・ローチ 音楽:カイル・イーストウッド、マイケル・スティーヴンス

出演:クリント・イーストウッド(ウォルト・コワルスキー)、ビー・ヴァン(タオ・ロー)、アーニー・ハー(スー・ロー/タオの姉)、クリストファー・カーリー(ヤノビッチ神父)、コリー・ハードリクト(デューク)、ブライアン・ヘイリー(ミッチ・コワルスキー/ウォルトの長男)、ブライアン・ホウ(スティーブ・コワルスキー/ウォルトの次男)、ジェラルディン・ヒューズ(カレン・コワルスキー/ミッチの妻)、ドリーマ・ウォーカー(アシュリー・コワルスキー)、ジョン・キャロル・リンチ(マーティン/床屋)、ドゥーア・ムーア(スパイダー/本名フォン、タオの従兄弟)、ソニー・ビュー(スモーキー/スパイダーの仲間)、ティム・ケネディ(ウィリアム・ヒル/建設現場監督)、スコット・リーヴス、ブルック・チア・タオ

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