小雨なので自転車で銀座テアトルシネマへ。
『雪に願うこと』。
東京で事業に失敗し、捨てたはずの故郷に帰ってきた男が、兄の経営する厩舎にいた馬刺寸前の輓馬に自分の姿を見、その世話を通して自分を取り戻していく。よくあるパターンの再生物語だ。
話も古くさい(予告で内容がわかってしまったものなー)が、主人公の矢崎学(伊勢谷友介)があまりに子供っぽいのにはあきれてしまう。
13年も絶縁状態にあったのは、結婚相手とのつり合いを考えて母親を死んだことにしてくれと兄の威夫(佐藤浩市)に言った経緯があった。この身勝手さもひどいが、事業の破綻は輸入したサプリメントが薬事法違反で、しかも死人まで出してしまったというのだ。
破産手続きのために学を追ってきた(学は彼にまで居場所を隠そうとしていた)共同経営者の須藤(小澤征悦)に、「昔はよかった話」をして詰め寄られ、あげくに「生命保険に入っている」という馬鹿な発言までして、完全に見放されてしまう。
彼の馬鹿さ加減は、少しずつ心の傷が癒えていっても変わらない。兄に悩みがなくていいなと言うのもどうかと思うが、賄いの晴子(小泉今日子)にまで、兄と一緒になってくれなどとおせっかいなところもみせる。この無神経さには驚くばかりで、これでよく会社が経営できていたものだと思わずにいられない。
幼なじみのテツヲ(山本浩司)をはじめとした厩舎の仲間たちや女性騎手の牧恵(吹石一恵)との交流、老人ホームでの母との再会(認知症の母に学は認めてもらえない)、そして彼自身も輓馬のウンリュウの世話にやりがいを感じていくシーンが丁寧に綴られていくものの、ここまで主人公をつまらない人間として描いてしまっていては、映画に入っていくことができない。
ウンリュウのレースを見ずに屋根に雪玉を置き、厩舎を去る決心をした学。須藤にとにかく謝ると言っていた。他にも謝らなければならない人が沢山いるはずだ。それしかないでしょう。そこが出発点。私が観たいのはここから先の彼の姿で、なのに映画はこれでおしまいだってさ。
輓曳競馬の宣伝映画としてならよくできてたけどね。普通の競馬にない迫力が胸を打つ。だけど馬が可哀想で。早朝の調教シーンで、馬の息や体から湯気が立ちのぼっている映像は美しかった。湖に沈んでいることが多いという昔の鉄道の橋(牧恵のお気に入りの場所)もこの目で確かめたくなったな。
次の席をとってから食事。ゆっくりしたつもりはないのに、かつ定食を食べ終わったら、もうあまり時間がなくなっていた。
シャンテシネ3で『ココシリ』(可可西里)。
「ココシリ」というのは、この映画の舞台になったチベット高原の地名(手元にある地図では可可西里[ホフシル]山脈という文字しか確認できなかった)。海抜4700メートルという神々しいほど美しい場所が、人間にとっていかに過酷なところなのか、映画は容赦なく映しだす。密猟者と民間山岳警備隊の闘いであるだけでなく、自然との闘いでもあるところがこの映画を特異なものにしている。彼らの行動は、常に死と隣り合わせなのだ。
毛皮目当ての密猟からチベットカモシカを守るために結成された民間山岳警備隊の隊員が数ヶ月前に殺され、その取材でココシリにやって来た北京の記者ガイ(チャン・レイ)は、チベット族の退役軍人で警備隊のリーダーであるリータイ(デュオ・ブジエ)に頼み、行動を共にすることになる。
密猟者が残した、皮を剥ぎ取られたチベットカモシカの残骸。密猟の協力者を捕まえ、隠してあった毛皮は500以上。銃弾で穴のあいた毛皮が一面に並べられたシーンなど、ドキュメンタリーと錯覚しそうな場面が続く。
氷河から流れ出した川を、下着姿になって素足で渡る。逃走者を走って追いかければ、薄い酸素で、たちまち呼吸困難になってしまう。食料が足らないことがわかり、捕まえた密猟協力者が放り出される。ガス欠のトラックは、隊員共々置き去りにされる。雪が降らないことを祈るだけというのは、降れば死しかないということなのだ。町で食料と燃料を補充した隊員は流砂に埋もれてしまうし、17日を費やして密猟の首謀者と遭遇した時にはリータイとガイの2人だけとなっていた。
リータイ(彼らといった方がいいだろうか)の使命感を支えるものは一体何なのか。隊員の治療費と買い出しのためには、没収した毛皮を売ることもいとわない。密漁協力者にも、草原の砂漠化で放牧ができなくなったという言い分がある。首謀者が悪なのは間違いないのだが、リータイには、まるで殺されるために首謀者にたどりついたかのようなあっけない死が待ち受ける。
この凄絶な世界を前に、口を挟むのはさすがにはばかれる。そして、冷静に観ていられなかったからか、記憶に残っていう場面の印象は強烈なのに、細かいところが抜け落ちてしまっているのだ。中国政府がココシリを自然保護区にし、チベットカモシカも増えだしたというようなことが最後の字幕に出たと思うのだが、そんなことまでもう曖昧になっているとは。
1時間45分の空き時間はビックカメラで。
シャンテシネ1で『親密すぎるうちあけ話』(Confidences Trop Intimes)。
精神科医と間違えて税理士の事務所のドアをノックし、夫との性生活の悩みを語る女……ってそんなぁ。さすがに設定が苦しいものだから、当のアンヌ(サンドリーヌ・ボネール)に、よく左右を間違えると言わせたり、はじめの2度の訪問はかなり短いものにしてある。最初の訪問が先客と入れ違いだったりとなかなか芸が細かい。ウィリアム(ファブリス・ルキーニ)の事務所にベッドがあるのは精神科医らしくもあって、実は仮眠用と説明があるのだが、彼はこの事務所が住居だから、それもなぁ。
けど、まあそこはそれほど問題にするにあたらない。逆にそれがアンヌの行動を疑うウィリアムという展開にもなっているしね。そして、それを言い出したのが、間違えの元になったモニエ医師(ミシェル・デュショソーワ)というのがおもしろい。ウィリアムはアンヌのことでモニエ医師に相談し、120ユーロを支払うはめになるし、あとでは食事までおごらされてしまうんだよね。
このルコント監督の話術には引き込まれる。惑わされるのはウィリアムばかりでなく観客もだからだ。心が波立つような音楽が、よけい落ち着かなくさせる。
アンヌが少しずつ語って判明した悩みというのは、結婚して4年になる夫のマルク(ジルベール・メルキ)が、半年間セックスはおろか一度も彼女に触れてくれないというもので、原因は自分が起こした車の事故で不能になったというものだった。
ウィリアムの正体を知って、レイプされたのと同じと言いながら、次には「私が愛人を作れば、夫の欲望もよみがえる」(これはマルクの希望だと言っていた)と、ウィリアムを挑発しだす。
希望通りのことを妻がしていると思い込んだマルクが、嫉妬心もあらわにウィリアムのところに現れる。そればかりか、向かいのホテルでのアンヌとの行為を見るように電話までしてくる。
セックス話に重点を置きすぎた感じがするし、過激な展開はサスペンスにでもなりそうな気配もあったが、アンヌはマルクと別れ遠くに行くと言って、姿を消してしまう。マルクを取り戻すことが私の自由、とまで言っていたのだから、不可解さは否めない。
しかし、このあとのラストはいい。パリから南仏のバレエ教室ヘ、画面の色調までがらっと変わる。ウィリアムが事務所を移転し、アンヌを探し出せたのは、彼女の話を最初から全部忘れずにいたからだった。
エンドロールがしゃれている。新しいウィリアムの事務所で彼とアンヌが話す様子をカメラは真上から捉える。ウィリアムがアンヌに近づいてできた左側にキャストやスタッフの字幕が流れていく。途中でカメラはそのままに、2人のいない画面が続く。もうお終いのこんな些細な場面にさえ、心にさざ波が立つ……。
ウィリアムについてほとんど書かなかったが、彼にしても単なる料理好きの堅物というのではない。相手を見つけたという元妻(アンヌ・ブロシェ)とセックスの関係があり、事務所の裏窓からホテルの部屋を眺める愉しみも捨てがたいようだ。アンヌをつけて自宅まで行ったりもしていた。
彼は父の仕事を継ぎ、ここで生まれどこにも行ったことがなく、女や世界を征服する冒険家になるのが夢だったが、世界は縮んでこの部屋になった、と語っていた。
そんな彼に、アンヌが最後にお礼と言って贈ったのが、彼女の勤め先の商品とはいえ旅行鞄だったのは暗示的だ。なくしたライターだって彼女の演出かもしれないではないか。いずれにせよ恋は一方通行では成立しないのだから、とやかく言うべきことではないのだが。
それに自分をさらけだして話をする関係が成立というのも、商売ではないのならやはりもう恋でしかないよね。逆にそこまでは言えないということもあるか。
雨はやっと上がっていた。
ソニーの前を通りかかると2Fにα100の現物がすでに展示されているというので、のぞいてしまう。何度も握って感触を確かめる。ネットで見たよりはずっといいが、ファインダーはやはり少し小さめか。並べて比較したわけじゃないのでわからないが、情報表示が今使っているPENTAXの方がはっきりしているので、そう感じてしまう。
入った店は手が足りないのか、つけうどんなのになかなか出来上がってこない。別に急いではいないけどさ。帰ったら21時。あれ、トロ何してる。ちょうど真ちゃんもトロを入れようと下りてきたところだった。 |