パッセンジャーズ

新宿武蔵野館3 ★★★

■死を受け入れるためには

観てびっくり、私の嫌いな手法を使ったひどいインチキ反則映画だった。なのに不思議なことに反発心が起きることもなく、静かな安心感に包まれて映画館をあとにすることができた。

100人以上が乗った航空機が着陸に失敗し、機体がバラバラになって炎上する大惨事となる。わずかに生き残った5人のカウンセリングをすることになった精神科医のクレアは、生存者の聞き取り調査を進める過程で、不審な人物を見かけるし、会社発表の事故原因とは違う発言をする生存者がいて、不信感を強めていく。グループカウンセリングの参加者は、回を追うごとに減ってしまうし、不審者にはどうやら尾行されているようなのだった。

また、生存者の中でカウンセリングは必要ないと言って憚らないエリックの言動もクレアを悩ます。事故が原因で躁状態にあるのか、エリックはクレアを口説きまくるのだ。当然のように無視を続けるクレアだが、エリックの高校生のようなふるまいに、次第に心を許し、あろうことか精神科医としてはあってはならない関係にまでなってしまう(あれれれ)。

航空会社追求にもっと矛先を向けるべきなのに、エリックとのことを描きすぎるから、妙に手ぬるい進行になっているんだよな、と思い始めた頃、もしやという疑問と共に、話の全体像が大きく歪んでくる。そうなのか。いや、でもさ……。

何のことはない。クレアも乗客の1人であって、実際には生存者などいなかった、という話なのだ。つまり、死にきれないクレアやエリックやパイロットなどが、生と死の境界のような場所で繰り広げていた、それぞれの妄想(がそのまま映画になっている)なのだった。

最初、私はこれをクレア1人が作り上げた世界と思ってしまったのだが、そうではないようだ。自分の死が納得できない人間の住む世界を複数の人間で共有しているらしい。そして、死を受け入れられるようになるとその人は消えて、つまり死んでいくわけだ。グループカウンセリングの参加者が減ったのは、陰謀による失踪などではなかったのである。

しかしとはいえ、クレアだけは事故の生存者でなく、カウンセラーになっているのはずるくないだろうか。クレアの場合、他の乗客とは違って死を受け入れる以前に、乗客であることすらも否定していたというのだろうか。そんなふうにはみえなかったし、説明もなかったと思うのだが。

結末がわかった時点で、謎だった人物の素性も判明する。すでに他界してしまった大切な人が、死を受け入れるための手助けに来てくれていたというのだ。うれしくなる心憎い設定なのだが、その人たち(エリックにとっては犬だった)のことを本人が忘れてしまっていては意味がないような気もしてしまう。まあ、気がついてしまうということは、すべてのことがわかってしまうことになるから、他にやりようがないのだろうが。そしてむろん、そのことよりも、何故自分のためにそうまでしてくれたかということを知ることが大切と言いたいのだろう(私としてはトリックの強力な補強剤になっているので、とりあえずは文句を言っておきたかったのだな)。

また、喧嘩をしたことをずっと悔やんでいて、いくら電話をしても連絡がとれないクレアの姉エマについても、ほとんど誤解をしていた(エマも航空機の同乗者だったのではないかと思ってしまったのだ)。電話に出てこないのは、エマが生きている人間だからで、だから最後の場面になるまで(これはもう実際の世界の映像である)、エマはクレアの手紙(「姉さんのいない人生は寂しすぎる」と書かれたもの)を読んでいなかっただけなのだ。

ありもしない世界(そういいきれるのかと言われると困るが)でのことだから、いくらでも話は作れてしまうわけで、それにイチャモンをつけてもキリがないのだが、それよりそんなトリッキーなことをされて腹が立たなかったのは、この作品が、不測の死を迎えることになっても、せめて納得して(仕方がないという納得であっても)死にたいという、大方の人間が多分持っているだろう願望を、具現化してくれたことにありそうだ。

人はすべてを納得して死にたいのではないだろうか。死が幸福であるわけがないが、少なくとも不幸というのとも違うのだよ、と言っているような希有な映画に思えたのである。

と書いてきて、急に気になったことがある。クレアとエリックは死の前の航空機内であれだけ心を通わせていたのに、何故別世界の中ではカウンセラーと生存者という対照的な存在として現れたのだろう。むろんまた2人の心は繋がっていくのだが、でも、ということは、やり直してみないことにはわからないくらいの危うい関係だったのだろうか(って、こんなことは思いつかない方がよかったかも……)。

それに(もうやめた方がいいんだが)、エリックは「事故の後は、まるで生まれ変わったみたいに感じる」と言っていたが、これではクレアとのことはすっかり清算してしまったみたいで、あんまりではないか。ま、それ以上にクレアのことを賞賛して埋め合わせはしていたけれど(クレアもわかっていないのだからどっちもどっちなのだけど)。

考えてみると、エリックは死ななくてはいけないのに「生を実感」しているなんともやっかいな患者なのだった。彼に死を受け入れさせることは、クレア以上に大変だったのかもしれない。そうか、だからクレアは精神科医として(ばかりではないが)現れ、エリックを診てあげる必要があったのだ。というのは、好意的すぎる解釈かしら。それにエリックは、クレアより先に自分たちの立場に気づくから、この解釈は違ってると言われてしまいそうだ。

いままで特別感心したことのなかったアン・ハサウェイだが(好みじゃないってことが一番だが)、この作品では精神科医という役柄のせいもあり、自己抑制のきいた、あるいはきかせようという気持が伝わってくる落ち着いた演技をしていて好感が持てた。

原題:Passengers

2008年 93分 シネスコサイズ アメリカ 配給:ショウゲート 日本語字幕:松浦美奈

監督:ロドリゴ・ガルシア 製作:ケリー・セリグ、マシュー・ローズ、ジャド・ペイン 製作総指揮:ジョー・ドレイク、ネイサン・カヘイン 脚本:ロニー・クリステンセン 撮影:イゴール・ジャデュー=リロ プロダクションデザイン:デヴィッド・ブリスビン 衣装デザイン:カチア・スタノ 編集:トム・ノーブル 音楽:エド・シェアマー

出演:アン・ハサウェイ(クレア・サマーズ)、パトリック・ウィルソン(エリック・クラーク/乗客)、デヴィッド・モース(アーキン/パイロット)、アンドレ・ブラウアー(ペリー/クレアの上司、先生)、クレア・デュヴァル(シャノン/乗客)、ダイアン・ウィースト(トニ/クレアの隣人、叔母)、ウィリアム・B・デイヴィス、ライアン・ロビンズ、ドン・トンプソン、アンドリュー・ホイーラー、カレン・オースティン、ステイシー・グラント、チェラー・ホースダル

ストリートファイターIV オリジナルアニメーション featuring さくら

新宿ミラノ3 ☆

■セーラー服で格闘!?

4分の短篇アニメだし、絵柄も好きではないし、人気女子高生キャラクター「さくら」といわれても何も知らないし……。なんで採点不能の☆。

卒業したらどうするとか友達と話したり、戦う意味を問われてもいたが(さくらの答えは、自分がどんなふうになるのか確かめること、だったかな?)、ファン以外が見ても何もわからないし、面白くもなんとないフィルム。

セーラー服着て、格闘されてもなぁ。

?年 4分 ?サイズ 制作:スタジオ4℃ 配給:?

総監修:森本晃司

ストリートファイター ザ・レジェンド・オブ・チュンリー

新宿ミラノ3 ★☆

新宿ミラノ3では字幕版と吹替版の交互上映だった。私が確認した時間帯だと字幕版の圧勝。私はそうこだわっていないが、日本人は字幕が好きらしい。

■怒りを消せ、と言うのだが

大ヒットしたカプコンの対戦型格闘ゲームを元にして作った映画。

ゲームのことは名前しか知らないので、チュンリー(春麗)のキャラクターや彼女がどんな位置づけをされていたのかはさっぱり。もちろんそんなことはわからなくてもいいように映画はできているのだが、話は荒っぽいし、何より見えない力に導かれて、的な要素が強すぎるので、師匠となるゲンを探す過程も、いろいろあったというモノローグで納得するしかなく、興味をそそられるには至らない。

裕福な家庭に育ち、自分もピアニストとして成功していたのに、ある日届いた謎の巻物に隠されていた情報でやってきたバンコクではもう金に困っているって言われてもですねぇ(実際こんなふうに一文で説明されたような気分なのだ)。ゲンを探すためには過去に決別しろ、みたいなことがあって財産を処分したらしいのだが(別れの場面はある)、要するに話の繋ぎが悪いからしっくりこないのだな。ま、そんなであっても手に蜘蛛の入れ墨のある人(スパイダー・ウェブの仲間)が食べ物をくれたりするんだけどね。

やっとゲン(スパイダー・ウェブの元締め?)を探し出すが「怒りが消えたら教える」って、呼び寄せた(?)くせして突き放されてしまう。いや、まあ、それはいいにしても、あとになっても怒りがチュンリーから本当に消えたかどうかはよくわからなかったのだ。というか、真相を知れば知るほど怒りが増して当然と思うし、ゲンにしても怒りの存在がなければ、ベガと闘う根本のところのものがなくなってしまうのではないか。怒りという感情に流されてはいけないという教えなのだろうが、説明がヘタというしかない。

ゲンには特殊な力があって、傷口は塞いでしまうし、ミサイル攻撃にあっても死なないし、そうじゃありませんでしたって、簡単にやり直してしまうところは、ゲーム感覚なんだろうか(映画にするなら、一番マネしてほしくないところだけどね)。

チュンリーに武術の手ほどきをした実業家の父は、彼女が幼い時にベガに拉致され、娘の安全を餌にいいように操られてきたらしいのだが、その父にそれほど長い間利用価値があったのだろうか。他にも曖昧なことが多く、説明はあっても中途半端だから、話は軽くなるばかりである。地元の女刑事にインターポールの刑事などは完璧な添え物で、まあ、本当にひどい脚本なのだ(書き出すのが億劫になってきた)。

が、一番わからないのは、ベガが生まれる前の娘に自分の良心を移してしまったという件。悪人として生きるためには必要なことだったらしい。妊娠している妻の腹を引き裂く儀式めいた場面がむごたらしい。で、その娘が、何でかはわからないのだが(このくらいはちゃんと説明してくれぃ)大きくなってベガの元に帰ってくるのである。いや、これはベガが呼び寄せたのだったか。

どうせなら、純粋培養した良心である実の娘を抹殺することで、さらなる巨悪になれるというような話にでもしてくれれば盛り上がるのだが(自分で書いていて、これいいアイデアじゃん、と自画自賛したくなった)、バンコクの臨海地域の治安を悪くして安値で買い占めたという話までもが、この娘(わざわざホワイト・ローズというコードネームで呼んでいた)が出てきたことでうやむやになってしまっては開いた口が塞がらなくなる。

チュンリーの前で父を殺したベガが、同じ目にあうことになるという結末(そのためだけのホワイト・ローズだったりして。まさかね)になっては、怒りが消えたらという話はどうなったのさ、と突っ込みを入れたくなった。だって純粋培養良心(これは私が勝手にそう呼んでるだけだが)の娘の前での殺害だよー。この娘につけた傷はどうすんだい! 続編に繋がりそうな終わり方をしていたから、今回は「怒りの鉄拳篇」にしておいて、次でそれはどうにかすればよかったのではないかと……。

まあとにかく、事件は解決しまして、チュンリーは怒りからではなく、戦う価値のあるものを見つけたようなんである。けどこのデキじゃ続編は無理かしらね。

アクションシーンはさすがに迫力のあるものだったが、ゲームファンから見たらどうなんだろ。ポスターにある「可憐にして最強」というキャッチコピーは、本当に再現できたら、それこそ黙っていてもヒットしそうなのだが……。アクションシーンもちゃんとこなしていたまあ可愛い(って、褒め言葉になってないか)クリスティン・クルックだけど、可憐となると微妙かなぁ。

原題:Streetfighter:The Legend of Chun-li

2009年 97分 アメリカ シネスコ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ、アミューズソフトエンタテインメント 日本語字幕:伊東武司

監督:アンジェイ・バートコウィアク アクション監督:ディオン・ラム 製作:パトリック・アイエロ、アショク・アムリトラジ 製作総指揮:辻本春弘、稲船敬二、徳丸敏弘 脚本:ジャスティン・マークス 撮影:ジェフ・ボイル プロダクションデザイン:マイケル・Z・ハナン 編集:デレク・G・ブレッシン、ニーヴン・ハウィー 音楽:スティーヴン・エンデルマン

出演:クリスティン・クルック(チュンリー)、ニール・マクドノー(ベガ)、ロビン・ショウ(ゲン/チュンリーの師匠)、マイケル・クラーク・ダンカン(バイソン/ベガの用心棒)、タブー(バルログ)、クリス・クライン(ナッシュ/インターポール刑事)、ジョジー・ホー、チェン・ペイペイ、エドマンド・チャン、ムーン・ブラッドグッド

いのちの戦場 ―アルジェリア1959―

新宿武蔵野館3 ★★★

武蔵野館に展示してあったブノワ・マジメルによる映画の写真展写真7枚とオリジナルポスターの一部(写真がヘタでごめんなさい)

■人殺しの戦場

ブノワ・マジメルが立案、主演したアルジェリア戦争映画。映画の最後に「フランスはアルジェリア戦争を1999年まで公式に認めなかった」という字幕が出る。だからこそ「アメリカがベトナムを描いたようにフランスもアルジェリアを描かねばならない」(これは予告篇にも出てきたブノワ・マジメルの言葉)という。アルジェリア戦争を知らない1974年生まれの彼の想いが伝わってくる、真面目な映画である(注1)。

作戦ミスだか無線連絡の食い違いだかで、同士討ちの末死んでしまった前任者(この夜間戦闘場面で映画の幕があく)の後釜として赴任してきたテニアン中尉は、日常的な戦争という不条理を前にして(そのために失敗も繰り返し)次第に理性を失っていく。

妻子持ちの設計技師が何故志願などしたのだろう。後半に、フランスに一時帰郷したテニアン中尉が、ニュース映画を見ている場面が出てくる。スクリーンには、アルジェリアを語って「平和を保証するのは心の交流」という文言が踊っていた。彼はそのスクリーンの文言に、戦場から離れた本国にいて、戦争の何たるかを知らずに、それこそ踊らされて、ゲリラ戦と化しているアルジェリアの山岳地帯(カビリア地方)まで行ってしまった自分を重ねていたはずである。

軍歴の長い下士官をさしおいて、こうやって赴任してくるのは、どこの国にもあることらしい。テニアンがどこまで中尉としての訓練を受けて来たのかはわからないが、着任早々、フランスとフェラガ=アルジェリア民族解放戦線(FLN)の二重支配下にあるタイダで、多分見せしめなのだろう、井戸に隠れていたアマール少年以外の村人全員が虐殺されるという惨事が起きる。あまりの惨状を前に、部下への言葉が出てこないでいるテニアン中尉に代わって、ドニャック軍曹は「タイダでみたことを忘れるな」と言う(注2)。

タイダのような「立入禁止区域」での戦闘は、毎日がこうした疑心暗鬼の連続で、テニアン中尉は民間人にカモフラージュしたフェラガを見抜けず醜態をさらしてしまうし、常態化している拷問にも耐えられない。そしてまったくいやらしい脚本というしかなのだが、この2つの出来事をあとになってテニアン中尉に同じようにやらせている。女性と少年が怪しいと、彼はもう最初の時のようには深く疑いもせず、間違った射殺命令を出すし(「立入禁止区域」には入った方が悪いので、咎められることはないのだが)止めさせていた拷問にも自ら手を染めてしまう。

ドニャック軍曹が落ち着いて見えるのは、場数を踏んできたことはもちろんだが、部下にもアルジェリア人がいるという複雑な状況下では、割り切るしかないと腹をくくっているからなのだろう。ドニャック軍曹がフェラガから寝返らせたという者もいれば、第二次世界大戦やインドシナで同じフランス兵として戦った者もいる。裏切りが発覚し、しかしその者を「戦友」として許しても、他の者が家族を殺されたから、と撃ち殺してしまう場面がある。植民地支配による長年のねじれた関係が、すべてを一層ややこしくしているのである。

もっともそのドニャック軍曹にしてからが、最後には、軍隊から脱走してしまうのだ。休暇から戻ったテニアン中尉に「何故戻って来たんです。あんたの居場所はない」と言っていたドニャック軍曹だが、すでにその時点でこれは、テニアン中尉にというよりは、自分に言い聞かせていた言葉だったのではないか。

テニアン中尉が軍隊に戻ったのは、自分の家に居場所がないことを知ったからだろう。民間人まで殺してしまった自分の姿を、彼が家族に見せられるはずがない(声をかければ届くところにいたというのに)。狂人の一歩手前にいて、しかし皮肉なことに家族との関係では、自分とのことを正確に把握していたことになる(注3)。拷問場面では、テニアン中尉は狂ってしまったかに見えたが、そうではなかったのだ。ニュース映画の「心の交流」が戦地のどこにあるのかと、正気の心が別のところから問いかけていたのである。

死んだ仲間が撮影したフィルムをクリスマスイブにみんなで観て、最初ははしゃいでいたもののだんだんみんなの声が小さくなって、しまいには泣き出してしまう、というしょうもない(他に何て言えばいいんだ)場面がある。悪趣味な演出に違いないのだが、戦争映画なんて真面目に撮ったら、すべてが悪趣味になってしまいそうだ。

次の日の朝、テニアン中尉はドニャック軍曹の居場所を尋ねていた(すぐ後の彼のモノローグで、彼はこの日脱走したのだという)。彼を探していてのことかどうか、テニアン中尉は山肌に猪の姿を目にする。そして、双眼鏡で何かを見て笑ったその時、撃たれて絶命してしまう。静かで清々しいくらいの景色と笑顔は、せめてもの餞か。けれど、やがて現れた敵兵の中には、あのアマール少年の姿があった。

拷問を止めさせたり、息子の絵を飾っていたテニアン中尉に親近感を持ったアマール少年だが、テニアン中尉が自分を見失ってからは失望し、軍から抜け出してしまったのだった。もっともこれには、アマール少年の兄がフェラガだったという事情もあるようなのだが。

何とも重苦しい映画である。戦っている当人たちが「インドシナとここはまともじゃない」「チュニジアとモロッコは独立を認めたのに。この戦争はFLNが正しい」などと言っているのだ。テニアン中尉は純粋で真面目な人間だったにしても(ドニャック軍曹に言わせると理想主義者で、だから「中尉が死んだのは幸運」ということになる)、どこまで自分の置かれている立場を理解していたのだろうか。

注1:アルジェリア戦争を扱った映画といえば『アルジェの戦い』(1966、日本公開1967)が有名だが、観ていない。あれはイタリア映画だったはずだが、キネ旬データベース(http://www.walkerplus.com/movie/kinejun/index.cgi?ctl=each&id=13792)では制作国がフランス、アルジェリアとなっている。これは完全な誤記だろう。

注2:しかしこれはどっちもどっちで、フランス空軍が禁止爆弾のナパーム弾(特殊爆弾と称していた)を使用し、一面黒こげの死体だらけにしてしまう場面がある。近代兵器に分があるのは当然で、アルジェリア戦争の死傷者数は、最後に出てくる数字でも15倍以上の差があった。

注3:沢山の手紙を未開封のままにしていたのは、家族を目の前にして声をかけられなかったのと同じ理由だろう。

原題:L’ennemi Intime

2007年 112分 シネスコサイズ フランス 配給:ツイン 日本語字幕:齋藤敦子

監督:フローラン・シリ 脚本:パトリック・ロットマン 撮影:ジョヴァンニ・フィオーレ・コルテラッチ 美術:ウィリアム・アベロ 音楽:アレクサンドル・デスプラ

出演:ブノワ・マジメル(テリアン中尉)、アルベール・デュポンテル(ドニャック軍曹)、オーレリアン・ルコワン(ヴェルス少佐)、モハメッド・フラッグ(捕虜)、マルク・バルベ(ベルトー大尉/フランス軍情報将校)、エリック・サヴァン(拷問官)、ヴァンサン・ロティエ(ルフラン)、ルネ・タザイール(サイード/フランス軍兵士、アルジェリア人)、アブデルハフィド・メタルシ(ラシード/ドニャックの部下、アルジェリア人)

雷神 RAIJIN

新宿ミラノ3 ★☆

■雷神パパって素敵!?

体に爆弾を埋め込まれた女性を助ける冒頭のアクション場面で、早くもこの映画の駄作ぶりが確信できた。

メンフィス市警の刑事ジェイコブ・キングは女性が苦しんでいるのを犯人が楽しんでいるはず、と現場前にあるアパートに乗り込んで行くのだが、タイムリミットはたった4分。沢山ある部屋からどう割り出したのかってこともだけど、そこに行くまでだって2、3分はかかってしまうだろうに。

犯人のビリー・ジョーと対峙しても、起爆装置の外し方は、彼をいたぶることで聞き出そうとするばかり。ビリーが白状したからいいようなものの(もう爆発してる時間じゃないの?)、けれどジェイコブは、ビリーの答えとは違う線を切らせる(おい、おい)。ビリーを女性のところに連れて行けば(そんな時間はなかったか)ビリーは起爆装置を止める他なくなるのに、頭が悪すぎでしょ。

そうしなかったのは、単にジェイコブの格闘場面を挿入したかっただけみたいなのだが、けれどこれが、殴る動作ごとにカメラの位置を切り替えるという極端なカット割りになっていて、まるでこうでもしないと、もはやなまってしまったスティーヴン・セガールの動きをカバーできないと白状してしまっているかのようなのだ。だってこのカット割り、最後まで全部これなんだもの。苦肉の策にしてもなぁ。

ジェイコブの次なる使命は、これまた女性を狙った狂信的な犯人で、被害者の女の体には必ず占星術の記号が残されていた。ジェイコブは図書館に行ったりして、その謎解きにも精を出す。ちゃんと頭を使っていることをひけらかしたいのだろうが、そして女っ気も断って努力しているみたいなのだが、それ以上にヒントが向こうからやってくるような展開だから、余裕なんである。図書館の女性司書が歌詞の出どこを教えてくれるし、犯人のラザラスは逃げるときに手がかりの財布を落としちゃう!し。

そのラザルスだが、神の領域にまで達している(勘違いにしても)っていうんだが、まるで怖くないのだ。ジェイコブのような相手を「待ってい」て、だから居場所を隠そうとしないのは納得なのだが、なのに結局は逃げまくっていてだから、だらしない。

だからか、最後に冒頭のビリー・ジョーが釈放となって、役者不足の敵役補強とばかりに復帰してくるのだが、最初と同じケリの付け方で終わってはあきれるばかりだ。芸のないことは作り手も自覚しているようで、ジェイコブはビリー・ジョーに「この前と同じだ、懲りないな」と言うのである(だから懲りろよ)。

プロファイリングが専門で現場に不慣れな女FBIのフランキー・ミラー捜査官や、ジェイコブの豪邸に同居しているセリーヌ巡査や図書館司書など、女性を装飾品のように配置しながら、でも添え物の女FBI以外は、犯人たちの餌食になってしまう。

女FBIによって連続猟奇殺人事件の嫌疑がジェイコブにかけられるが、その時はすでにジェイコブによって犯人が挙げられていて、それはピンチのピの字にもならず、でもジェイコブは姿を消してしまう。

姿を消す意味がまったくもって不明なのだが、このあとにあるオマケ映像で、はぁはぁーん、と納得。なんだけど、これがまたまた噴飯ものなのだ。なんとジェイコブには2人の子供と若い妻がいて、その家にプレゼントを抱えて帰ってきたらしいのだ。若妻も若妻で、子供をナニーにまかせると、自分は全裸になって体にリボンをかけジェイコブを手招きする……。

うわあ、どおりでセリーヌ巡査のキスを避けていたわけだ。というかあの豪邸は何だったのよ。セリーヌ巡査とは同棲してたんじゃ? 刑事の仕事は仮の姿? だから姿を消したのか? え、なに、脚本はスティーヴン・セガール本人? それで、全裸リボン若妻なんだ!

3人組の男が私の横の席で爆笑鑑賞していたが、なーるほど、こんなふうに友達と一緒になって馬鹿笑いしながら観たら楽しいのかも。1人で観た私(いつものことだけど)は大馬鹿野郎なんでした。

原題:Kill Switch

2008年 96分 ビスタサイズ アメリカ/カナダ 配給:ムービーアイ エンタテインメント 日本語字幕:岡田壮平 R-15

監督:ジェフ・F・キング 製作:カーク・ショウ 製作総指揮:スティーヴン・セガール、アヴィ・ラーナー、フィリップ・B・ゴールドファイン、キム・アーノット、リンジー・マカダム 脚本:スティーヴン・セガール 撮影:トーマス・M・ハーティング プロダクションデザイン:エリック・フレイザー 衣装デザイン:カトリーナ・マッカーシー 編集:ジェイミー・アラン 音楽:ジョン・セレダ

出演:スティーヴン・セガール(ジェイコブ・キング)、ホリー・エリッサ・ディグナード(フランキー・ミラー/FBI捜査官)、クリス・トーマス・キング(ストーム/ジェイコブの相棒)、マイケル・フィリポウィッチ(ラザルス/犯人)、アイザック・ヘイズ(コロナー/検死官)、フィリップ・グレンジャー(ジェンセン警部)、マーク・コリー(ビリー・ジョー/犯人)、カリン・ミシェル・バルツァー(セリーヌ/巡査)

フェイク シティ ある男のルール

新宿武蔵野館3 ★★☆

■真実より、それぞれの正義

キアヌ・リーヴス演じるラドローは、飲んだくれの少々危険な刑事(またかよって感じ)。飲んだくれに関しては、過去を引きずってのことが多少あるにしても(注1)、冒頭の単独捜査はやり過ぎもいいとこで、刑事というよりはまるで射殺魔だ。双子の姉妹の救助で、かろうじて釈明が成立する程度。それは本人もわかっているから、正当防衛の偽装にも躊躇することがない。

そんな彼に何かと目をかけてくれるのが上司のワンダーで、今回のこともラドローを警察苦情相談所に移動させ、お前の尻ぬぐいをしてやったと恩を着せてくるのだが、何のことはない、自分が上り詰めるためにラドローを道具として使っていただけのことだった。

こうしたワンダーのふるまいは内務調査官のビッグスがすでに目を付けていて、ラドローの元同僚ワシントンがビッグスに協力したことから、コンビニ強盗を装った2人組の警官に、ワシントンはあろうことか、ラドローの目前で殺されてしまう(注2)(ラドローはワシントンの真意をこの時点では知らず、彼の行動を疑ってさえいいて、で、後を付けていたのだが、そんなだから事件の直前のコンビニでは2人の間には険悪な空気が漂って、つかみ合いになっていた)。

要するに、警察内部にはすでにワンダーによるネットワークができていて、すべてのことがデッチ上げで進行し、ワンダーの思いのままとなっていたのだった。

真相を書いてしまったが(隠しておくようなものでもないってこともある)、何も知らないラドローは、疑念や後悔の残る犯人捜しをしないではいられない。というわけで、映画はワシントン殺しの謎解きを軸に進んでいくが、この過程は時間はかかるものの、謎解きというほどのものではないから、場面場面は派手に作ってあっても、盛り上がらない。入り組んでいるだけで行き着く先の見えている、つまり遠回りしているだけの迷路だろうか。ラドローの飲んだくれ頭でも解けてしまうのだ。だからかもしれない、ラドローの捜査に付き合ってくれたディスカントは、話の飾り付けで、あえなく殉職となる。

悪玉のワンダーに魅力がないのも痛い。最後にラドローに問い詰められて、話をそらすように金を埋め込んだ壁を壊せと言うのだが、秘密を明かして状況が変わるとは思えない。もっともこれ以前に、あのワシントン襲撃の一部始終が映っているディスクをラドローに手渡してしまったことの方が問題かも。後で必死になって取り戻そうとしてたからね。ラドローを信用させるために渡したのなら危険すぎるし、ラドローが疑問を抱いて入手しようとした二人組の逮捕歴のデータなどはシュレッダーにかけさせてしまうなど、一貫性もない。

逮捕するよりは殺し(邦題の「ある男のルール」だよね)のラドローによって、結局ワンダーは殺されてしまうのだが、そこへビッグスが駆けつけてくる。しかし、ラドローの罪を問いもせず、ワンダーの共犯者が金目当てで殺した、とビッグスまでがデッチ上げで締めくくろうとする。君だけが頼りだったと言うのだ(注3)。なんだかなー。さらにはワンダーに弱みをにぎられていた署長にも感謝されるかもしれない、というようなことも言っていた(これは皮肉だろう。でなきゃ、こわい)。

正義が貫かれるのなら真実などどうでもいい、とでもいいたいのだろうか。まあその前に本当に正義なのか、って問題もあるが。だって「それぞれの正義」にすぎないんだもの。ふうむ。こんな微妙な結末で締めくくるとはね。この部分は掘り下げがいがあるはずなんだけどな。

注1:不倫をしていた妻が脳血栓を起こしたのに放っておいて死んでしまった、というようなことをラドローは、ワシントンの妻に話したと思うのだが、この話が出てくるのはここだけなので、ちょっと不確か。

注2:まったくいい加減にしか観ていないことがわかってしまうが、何故目前で殺されるというような状況になってしまったのか。また、ラドローが襲われなかったのは偶然なのかどうか、思い返してみるのだが、これまたよくわからない。

注3:確かにラドローも途中で、「法を越えた仕事は誰がやる、俺が必要だろ?」とビッグスに言ってはいたが。

原題:Street King

2008年 109分 シネスコサイズ 配給:20世紀フォックス映画 PG-12 日本語字幕:戸田奈津子

監督:デヴィッド・エアー 製作:ルーカス・フォスター、アレクサンドラ・ミルチャン、アーウィン・ストフ 製作総指揮:アーノン・ミルチャン、ミシェル・ワイズラー 原案:ジェームズ・エルロイ 脚本:ジェームズ・エルロイ、カート・ウィマー、ジェイミー・モス 撮影:ガブリエル・ベリスタイン プロダクションデザイン:アレック・ハモンド 編集:ジェフリー・フォード 音楽:グレーム・レヴェル

出演:キアヌ・リーヴス(トム・ラドロー)、フォレスト・ウィッテカー(ジャック・ワンダー)、ヒュー・ローリー(ジェームズ・ビッグス)、クリス・エヴァンス(ポール・ディスカント)、コモン(コーツ)、ザ・ゲーム(グリル)、マルタ・イガレータ(グレイス・ガルシア)、ナオミ・ハリス(リンダ・ワシントン)、ジェイ・モーア(マイク・クレイディ)、ジョン・コーベット(ダンテ・デミル)、アマウリー・ノラスコ(コズモ・サントス)、テリー・クルーズ(テレンス・ワシントン)、セドリック・ジ・エンターテイナー(スクリブル)、ノエル・グーリーエミー、マイケル・モンクス、クリー・スローン

チェンジリング

109シネマズ木場シアター3 ★★★★

■母は強し

「真実の物語」ということわりがなければ、馬鹿らしいと憤慨しかねない内容の映画だ。

1928年3月にロサンゼルスで、クリスティン・コリンズの9歳の1人息子ウォルターが消えてしまうという事件が起きる。5ヵ月も経ったある日、遠く離れたイリノイ州でウォルターが見つかったという知らせが入り、クリスティンは駅に出迎えに行くが、警察の連れ帰った少年は別人だった。だが少年はウォルターだと言い張り(はあ?)、居合わせた(待ち構えていた)ジョーンズ警部に、とりあえずは息子と認めるよう言われ、新聞記者たちの注文とジョーンズ警部に促されたクリスティンは、ためらいながらも少年と2人で取材写真に収まってしまう。

別人なのにとりあえずって何なのだ、と激しく思ってしまうのだが、映画はこの不可解な状況を、まさにクリスティンの動揺をそのまま観客に押しつけるように物語を進めていく。こんなのは認めないよ、と心の中で叫んではみるのだが、何しろ「真実の物語」なのであるからして、認めるも認めないもないのだった。

クリスティンに話を戻せば、警察にはとにもかくにも息子を捜索してほしいわけで、苛立ちとは別にそういう遠慮も働いたのだろう。また1928年という時代状況もあったと思われる。米国のことはわからないが、日本だと戦前の警察には絶対的権威が存在していた認識があるし、映画の中でも遠慮のない発言があったように、女性蔑視という見えない力も介在していたことだろう。彼女がシングルマザーだったということもあったのではないか。

クリスティンの遭遇したこの不可解な、むろん彼女にとってはつらいだけの事件は、①当時の警察(市長、警察本部長からの構造的なもの)にあった恒常的な腐敗と、②嘘を突き通す身代わりの少年という存在(これがすごいよね)に、③さらには、というかもちろん一番の原因なのだが、親戚の子供を無理矢理手下にしたゴードン・ノースコットによる連続少年拉致殺人という、全く別の3つの要素(②は警察によって言いくるめられたという側面もあったのだろうが)が重なって起きたことが次第に判明してくる。

映画は事件解明という謎解きの面白さに加え、クリスティンが精神病院に送られてしまう理不尽さや、保身に走る警察、犯人ノースコットの素顔(これは裁判や死刑執行までもが描かれる)に、犯行を手伝わされたノースコットの従弟の少年、一方その少年の訴えに耳を傾けることになる刑事や、クリスティンに手を差しのべる長老教会のブリーグレブ牧師など、多岐にわたってその細部までを余すところなく伝えようとする(むろん収拾選択の結果の脚本だろうが)。

この誠実ともいえる姿勢が素晴らしい。あくまで正攻法で奇を衒うことなく、事件を丁寧に掘り下げていく。エピソードのどれもが驚きや示唆、あるいは教訓に満ちていて、その一々を書き連ねていきたい誘惑に駆られるが、それは映画に身を委ねて堪能すべきものだ。

息子の生存を信じて疑わないアンジェリーナ・ジョリーは熱演だが、モガ帽子(名前は知らない)にケバいメイクは、当時の流行にしても引いてしまいそうになった。クリスティンの勤める電話局は繁忙を極めていて(これが息子の誘拐に繋がってしまうのだが)、移動時間を節約するため、彼女はローラースケートを履いて仕事をしていた。ローラースケートはファーストフードのように見せる要素のある店だけと思っていたのだが。彼女は電話交換手なのだが、同僚を束ねる主任のような立場にあって、子育てだけでなく仕事にも熱心だったのだろう、昇進の話も出ていた。

こういうしっかりした背景描写の積み重ねが、映画の物語部分に厚みを出し、クリスティンが最後に見つける希望に、それがわずかなものであっても思いを重ねてたくなるのだろう。もっとも実際は、彼女は1935年には亡くなってしまったらしいし、彼女の夫のことなども「真実の物語」である映画は、隠蔽しているようである(事件の概要についてだけなら、それは文字情報や写真などにはかなわないし、虚構である映画の「真実の物語」にも触れなければならず、収拾がつかなくなること請け合いなので、今はやめておく)。

背景のロス市街の描写も凝ったものだ。市電にフォード、そして人々の行き交う街角からは生活臭すら漂ってきそうだった。エンドロールの固定カメラからのビル街のCGも実によく出来ていた。ここまで作り込んだら、誰だってこうやってしばらくは流して、眺めていたくなるだろう。

欠点らしきところが見つからないのだが、大恐慌の影がないのは気になった。事件のはじまりは1928年だからクリスティンの職場が大忙しだったのは頷けるが、不況の只中にあってもそうだったのか。西海岸は多少は影響も軽微だったとか(でも世界恐慌だからなー)。あるいは、電話という当時の最先端技術の現場では不況もそれほどは関係なかったとか。その頃のことをもっと知っていれば、さらに面白く観ることができそうである。

イーストウッド老人の近年の活躍には質量共に目を見張るものがある。そこに、またこんな正攻法の映画まで付け加えられては、ただただ脱帽するしかない。能がありすぎる鷹は爪の隠しようがないんでしょう。それにしても、かっこよすぎるよなぁ。

  

原題:Changeling

2008年 142分 アメリカ シネスコサイズ 配給:東宝東和 PG-12 日本語字幕:松浦美奈

監督・音楽:クリント・イーストウッド 製作:クリント・イーストウッド、ブライアン・グレイザー、ロン・ハワード、ロバート・ロレンツ 製作総指揮:ティム・ムーア、ジム・ウィテカー 脚本:J・マイケル・ストラジンスキー 撮影:トム・スターンプロダクションデザイン:ジェームズ・J・ムラカミ 衣装デザイン:デボラ・ホッパー 編集:ジョエル・コックス、ゲイリー・ローチ

出演:アンジェリーナ・ジョリー(クリスティン・コリンズ)、ジョン・マルコヴィッチ(グスタヴ・ブリーグレブ/牧師)、ジェフリー・ドノヴァン(J・J・ジョーンズ/警部)、コルム・フィオール(ジェームズ・E・デイヴィス/警察本部長)、ジェイソン・バトラー・ハーナー(ゴードン・ノースコット/牧場経営者)、エイミー・ライアン(キャロル・デクスター/精神病院入室者)、マイケル・ケリー(レスター・ヤバラ/刑事)、エディ・オルダーソン(犯人の従弟)

少年メリケンサック

楽天地シネマズ錦糸町-2 ★★★★

■『デトロイト・メタル・シティ 序章』(なわけないが)

メイプルレコード契約社員の栗田かんなは、ネットの動画で「少年メリケンサック」という生きのいいバンドを見つける。かんな自身はパンクなど嫌いだったが、彼らのまき散らす怪しい魅力に血が騒ぎ、何故だか成功を確信する。

83年生まれだから25歳、なんとかギリギリ新人セーフ、と勝手に判断して社長に掛け合い、契約交渉に乗り出すが、ネットにあった83年という文字は、誕生年などではなく、解散コンサートの年だった、つまりメンバーはもう50も過ぎたオヤジたちだったのだ。

筋はくだらなくかつ強引、メンバーがバラバラになっているだけでなく、腕は錆び付いているし(もともとうまくなさそうだ)、兄弟で反目し合っているアキオとハルオが何かにつけ意地の張り合いをするし(これには深ーいわけがあった)、とりあえず結束するだけでも大変な状況。が、ネットのアクセス数は鰻登り。パンクへの肩入れのある社長が全国ツアーまで組んでしまい、かんなは後に引けなくなってしまう、ってことでコメディのお膳立ては揃いまして……ちゅーか、結末で再結成の舞台が成功すればいいだけだから、あとはどうにでもなれ状態で、いいようにやってるだけのような気もしなくはないのだけど、まあ、それが楽しいというか……。

とはいえ、マトモに考えていくと無理なところはいっぱいあって、そもそも契約社員が新人発掘のような仕事を任せられるのかとも思うし、ボーカルのジミーのよれよれ度ぶりを見てしまったら、再結成など考えられっこないはずなのだ(いや、かんなもそう思ったんだったっけ)。ジミーのよれよれぶりは、どうやら昔の「少年メリケンサック」時代の大乱闘に起因しているらしく、でも、実は歩けなかったり呂律が回らないのは嘘だった(?)というような場面も入っていて、何が何だかわからなかったりする(障害者手当のちょろまかしか)。

作り手としては「農薬飲ませろ」が「ニューヨークマラソン」に聞こえてくれればしめたもので、この強引さが妙なテンションとなって映画を引っぱっていくのだが、その合間に昔のグループサウンズの映像(ちゃんとしたエピソードでもある)をぬけぬけと入れて、平気で水を差したりもする。かんな同様パンクなど特に好きじゃない私だが、こんなグループサウンズ映像を観せられると、グループサウンズのキモさが際立って(あーそうだった、って感じなんだもの)、パンクがマトモに、は見えないが、まだマシかも、とは思ってしまう。

さらに、かんなの恋人マー君(歌手志望なんである)の、グループサウンズに通じる綺麗なだけの虫酸の走る歌も、大いに水を差す。マー君の正体にかんなも気づいて(中年オヤジたちに気づかされて)、そいでマー君も浮気なんかしちゃうから、悪い人じゃないって書いてやろうと思っていたけど、やっぱりダメ人間だったのね。

で、最後にそのマー君は「少年メリケンサック」に引きずり込まれちゃう、って、えー何だぁ! もしかしてマー君って『デトロイト・メタル・シティ』の崇一(松山ケンイチ)だったとか。じゃあ何だ『少年メリケンサック』の実体は『デトロイト・メタル・シティ 序章』なのか、ってなわけはないのだけど。

馬鹿げた連想はともかく、マー君を引き込んでしまうのは、兄弟二人が腕を折っての代役ってこともあるのだけれど、だからアキオがのたまわっていた「嘘を上回る奇跡を起こ」したのかどうかはわからないのだが、でも無理矢理の二人羽織ギターまで飛び出して、「結末で再結成の舞台が成功すればいいだけだから」と安直な感動オチを予想をしてしまった私は、降参するしかないのだった。うん、降参(でも奇跡はないよ)。

それにしても宮崎あおいはすごかった。泣けるし、笑えるのは知ってたけど、啖呵も切れるのね。こんなハイテンションな芝居をして無理がないんだから。佐藤浩市もよかった。歳をとったらこうなるんだって卑猥なセリフをまき散らしては見事に居直ってた。前は苦手だったが、この人のことがだんだん好きになってきた気がする(ちょいやば)。

  

2008年 125分 ビスタサイズ 配給:東映

監督・脚本:宮藤官九郎 アニメーション監督:西見祥示郎 プロデューサー:岡田真、服部紹男 エグゼクティブプロデューサー:黒澤満 アソシエイトプロデューサー:長坂まき子 撮影:田中一成 美術:小泉博康 衣裳:伊賀大介 編集:掛須秀一 音楽:向井秀徳 音楽プロデューサー:津島玄一 スクリプター:長坂由起子 スタイリスト:伊賀大介 プロデューサー補:植竹良 メインテーマ:銀杏BOYZ『ニューヨーク・マラソン』 ラインプロデューサー:望月政雄 擬斗:二家本辰巳 照明:吉角荘介 装飾:肥沼和男 録音:林大輔 助監督:高橋正弥

出演:宮崎あおい(栗田かんな)、佐藤浩市(アキオ/少年メリケンサックBa.)、木村祐一(ハルオ/Gt.)、勝地涼(マサル/かんなの恋人)、ユースケ・サンタマリア
(時田/メイプルレコード社長)、田口トモロヲ(ジミー/Vo.)三宅弘城(ヤング/Dr.)、ピエール瀧(金子欣二)、峯田和伸[銀杏BOYZ](青春時代のジミー)、佐藤智仁(青春時代のアキオ)、波岡一喜(青春時代のハルオ)、石田法嗣(青春時代のヤング)、田辺誠一(TELYA)、哀川翔(かんなの父)、烏丸せつこ(美保)、犬塚弘(作並厳)、中村敦夫(TV局の司会者)、広岡由里子、池津祥子、児玉絹世、水崎綾女、細川徹、銀杏BOYZ[我孫子真哉、チン中村、村井守](少年アラモード)、SAKEROCK[星野源、田中馨、伊藤大地、浜野謙太]

旭山動物園物語 ペンギンが空を飛ぶ

楽天地シネマズ錦糸町-1 ★★★

■形にすると見えてくる

今だったら日本一有名かもしれない旭山動物園も、存続の危機が論議されたことがあったらしい。ありふれた地方動物園のひとつだったことは想像が付くが(といったら関係者は怒るだろうが)、毎年赤字を垂れ流す旭川市のお荷物で、エキノコックス症による閉園騒ぎや、ジェットコースターに頼ろうとした時期まであったという(最後の方で、動物園衰退の象徴だったジェットコースターは解体されてしまったと短く紹介されていた。賑わっている場面が入っていたから「衰退の象徴」というのはあんまりな気がするが)。

限られた予算でできることはあまりなく、冬期開園や夜間開園に、飼育係が解説者になるなどの地道な努力を続けるしかなかったようだ。新市長の誕生をチャンスと捉えた園長が新市長の説得に成功し、億という予算を回してもらったことで旭山動物園は変貌を遂げるのだが、予算獲得に比べたら見過ごしてしまいそうな、園長と飼育係たちが夜を徹して夢を語り合った日エピソードは、それに優るものがある。

たまたま飼育係の中に絵を描くのがうまい男(のちに絵本作家となる)がいたこともあって、みんなの語る夢をそれぞれ絵にし、それが職場に貼られるのだが、こんなふうに夢を、むろん絵に限らないが、具体的な形にしていくのは、とても大切なことだと気づかされるのである。形にしてみると、見えてくることって沢山あるものね。夢を夢のままにしておいても、なかなか実を結んでくれないんじゃないか。

動物の生態を間近に見せる動物園や体験型の動物園の試みは、旭山動物園の前にもいくつかあって、園長は日本各地を回ってそれをビデオに収め新市長に提言するのだが、これも形にして見せるということにつながる。最初は低い金額で釣っておいて、新市長がその気になったのをみて本当のことを言ったり(「でないと話を聞いてくれないでしょ」と)、園長はちゃっかりしたところをみせるのだが、立派なプレゼン術と言い換えるべきか。ま、結局は予算を獲得できるかどうかだったという、いじましい話にもなりかねないのだけど、対象が動物園ともなればいたしかたのない話で……。

映画は、現在の旭山動物園の紹介は最小限にとどめ(これは来園してもらった方がいいしね)、成功物語に焦点を当てている。ただし、数々あるエピソードは、実話がもとでも時間軸などは大幅にいじって適当に都合よくまとめてしまっているようだ。まあ、そのくらいしないと映画にはならなかったのかもしれないのだが。

とはいえ、人以外みんな好きという新入りの、過去のいじめの場面まで入れておいて、でも途中ではほぼ忘れたかのようで、最後になって園長が母親の手紙に触れるという演出だけは、あまり好きになれなかった。

もっとも彼の話から始めてはいても、主人公は彼だけではなく、飼育係の面々に園長だから、一人の人間に関わってもいられなかったのだろうが。飼育係同士の意地の張り合いもあれば、ゴリラの衰弱死(これもある飼育係が担当をはずれたことが原因だったようだ)やチンパンジーの妊娠中毒など、動物園をとりまく外的な問題以外にも、目の前の問題は当然いくつもあって、その配置はいい案配になっていたように思う。

マキノ雅彦は『次郎長三国志』は×だったが、『寝ずの番』とこれはまずまず。監督業も板に付いてきたのでこんな作品にも手をだしたのかもしれないが、わざわざ監督になったのだから、もっと自分の嗜好や主張のはっきりした作品に挑んでもらいたい。それと何にでも長門裕之を引っ張り出すのはやめてほしい。今回の飼育係は年寄りすぎだよね。

  

2009年 112分 ビスタサイズ 配給:角川映画

監督:マキノ雅彦 製作:井上泰一 プロデューサー:坂本忠久 プロデュース:鍋島壽夫 エグゼクティブプロデューサー:土川勉 製作総指揮:角川歴彦 原案:小菅正夫 脚本:輿水泰弘 撮影監督:加藤雄大 撮影:今津秀邦(動物撮影) 美術:小澤秀高 編集:田中愼二 音楽:宇崎竜童、中西長谷雄 音楽プロデューサー:長崎行男 主題歌:谷村新司『夢になりたい』 照明:山川英明 製作統括:小畑良治、阿佐美弘恭 録音:阿部茂 監督補:石川久

出演:西田敏行(滝沢寛治/園長)、中村靖日(吉田強/獣医、飼育係)、前田愛(小川真琴/獣医、飼育係)、岸部一徳(柳原清之輔/飼育係)、柄本明(臼井逸郎/飼育係のち絵本作家)、長門裕之(韮崎啓介/飼育係)、六平直政(三谷照男/飼育係)、塩見三省(砥部源太/飼育係)、堀内敬子(池内早苗/動物園管理係)、平泉成(上杉甚兵衛/市長)、笹野高史(磯貝三郎/商工部長)、梶原善(三田村篤哉/市議会議員)、吹越満(動物愛護団体のリーダー)、萬田久子(平賀鳩子/新市長)、麿赤兒、春田純一、木下ほうか、でんでん、石田太郎、とよた真帆、天海祐希

ディファイアンス

シネマスクエアとうきゅう ★★★☆

■生きるが勝ち

ナチスによる狂気のようなユダヤ人狩りから逃れた人々の実話。ユダヤ人レジスタンスとして有名なビエルスキ兄弟の活躍を描く。有名と書いたが、彼らのことがよく知られるようになったのは15年ほど前らしい。

予備知識なしで観たこともあるが、実は最初の10分は予告篇から寝ていて、その部分は次の回に、つまり最後になって観るという馬鹿げたことをやってしまったため、トゥヴィア、ズシュ、アザエルが兄弟(アーロンもか)だということが、しばらくわからずにいた。だってさ、似てないんだものトゥヴィアとズシュって(寝ちゃったのが悪いんだけどさ)。

映画は、娯楽作として割り切っても十分楽しめるが、歴史の知識があればさらに興味深く観ることが出来たと思われる。対ナチス(+その協力者)だけでなく、ズシュが入隊(?協力なのか)するソ連赤軍も何度か出てきて、ベラルーシの地理的背景が浮かび上がってくるのだが、自分の知識の無さがもどかしくなった。この地にはユダヤ人が多数住んでいたようだ。そのことはなんとなくわかる程度にしか描かれていないが、映画で説明するには複雑すぎるのだろう。

迫害される状況にあって協力して生きていかなければならないのに、とりあえずの平穏が得られると、情けないことにすぐさま別な形で不満を持つ者が現れるのは、どこでも同じだろうか。共同体における基本的な問題は、特に危機と隣り合わせというような状況にあっては指導者の力量にかかってくるが、トゥヴィアもズシュも、ただの農夫と商店主だったわけで、ごく普通の人間にすぎなかった。兄弟げんかは度々だし、トゥヴィアは激情にかられて両親の復讐に走る。相手は警察署長。彼の多分初めての人殺しは、相手の家族団欒の場に乗り込んでのことになる。

復讐を果たしたトゥヴィアだが、ズシュが結局はドイツ軍と闘う道を選ぶのとは対照的に、女や子供、老人たちを引き連れ、森の中で何とか生き抜く道をさぐることになる。はじめのうちこそ農家から食料を奪ったり、ドイツ軍への攻撃もズシュと共に繰り返していたが、犠牲者を出してしまったことで「生き残ることが復讐だ」「生きようとして死ぬのなら、それは人間らしい生き方だ」と思うようになっていく。

観たばかりのチェ2部作(『チェ 28歳の革命』『チェ 39歳 別れの手紙』)が攻めのゲリラなら、こちらは守りのゲリラか。見かけも映画の質もかけ離れているが、直面する問題は変わらない。この作品の方が、親切でわかりやすいのは娯楽作を創ることを念頭に置いているからだろう。

わかりやすいということは具体的ということでもある。なにしろ大人数だから、森の中に村が出来上がっていくことになるのだが、そのあたりも物語の進行の中で、人物紹介を兼ねるように手際よく見せていく。未開の地を開拓したのだろうが、よくそんなことが可能だったと驚く(最初の地は逃げ出すことになるのだが)。女や老人にも役割分担が与えられる。みんなが働く必要があるのだ。木を伐りだし小屋を作ることから始めなければならないのだから。

が、まだ1941年のことで(解放までにはまだ3年以上もあるのだが、でももしかしたら彼らの誰もが、そんなに早く自由の身を取り戻せるとは思っていなかったかもしれない)、最初に迎える凍りつく冬に食料は底をつき、食料調達班の造反やトゥヴィア自身が病気になるなど、最大の危機がやってくる……。愛馬を殺して食料にし、造反したリーダーは有無を言わせず射殺してしまう。あっけにとられるくらいの、このトゥヴィアの行動は、しかし、ではどうすればよかったのかと問われると、何も言えなくなる。

内容が盛り沢山すぎて書いているとキリがなくなるので、いくつかを覚え書き程度にメモしておく。ゲットーからの集団脱出の手助け。兄弟それぞれの恋。ドイツ軍の攻撃を知って、沼地のような大河(国土の20%を占めるという湿原か?)を全員で渡る場面。トゥヴィアもさすがに躊躇するが、アザエルが成長した姿をみせる(あの泣いていたアザエルがだよ。ま、奥さんもらっちゃったしね)。なんとか渡りきったところに戦車が登場するなど、派手さこそないが、次々と見せ場がやってくる。ドンピシャのタイミングでズシュが助けに現れては(帰って来たのだ)、真実の物語にしては脚色しすぎなんだけど、許しちゃおう。

教師ハレッツとイザックの知的?コンビの会話もいいアクセントになっていた。このハレッツは「信仰を失いかけた」というようなことを度々口にしていた。「もう選民という光栄はお返しします」とも。そういうことにはならないのだけど、とりあえずそれだけは返してしまった方がよかったと私は思うんだが。

 

原題:Defiance

2008年 136分 アメリカ ビスタサイズ 配給:東宝東和 日本語字幕:戸田奈津子

監督:エドワード・ズウィック 製作:エドワード・ズウィック、ピーター・ジャン・ブルージ 製作総指揮:マーシャル・ハースコヴィッツ 原作:ネハマ・テク 脚本:クレイトン・フローマン、エドワード・ズウィック 撮影:エドゥアルド・セラ プロダクションデザイン:ダン・ヴェイル 衣装デザイン:ジェニー・ビーヴァン 編集:スティーヴン・ローゼンブラム 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード

出演:ダニエル・クレイグ(トゥヴィア・ビエルスキ)、リーヴ・シュレイバー(ズシュ・ビエルスキ)、ジェイミー・ベル(アザエル・ビエルスキ)、アレクサ・ダヴァロス(リルカ)、アラン・コーデュナー(ハレッツ/老教師)、マーク・フォイアスタイン(イザック)、トマス・アラナ(ベン・ジオン)、ジョディ・メイ(タマラ)、ケイト・フェイ(ロヴァ)、イド・ゴールドバーグ(イザック・シュルマン)、イーベン・ヤイレ(ベラ)、マーティン・ハンコック(ペレツ)、ラヴィル・イシアノフ(ヴィクトル・パンチェンコ/ソ連赤軍指揮官)、ジャセック・コーマン(コスチュク)、ジョージ・マッケイ(アーロン・ビエルスキ)、ジョンジョ・オニール(ラザール)、サム・スプルエル(アルカディ)、ミア・ワシコウスカ(ハイア)

チェ 39歳 別れの手紙

新宿ミラノ2 ★★★☆

■革命から遠く離れて

画面サイズがシネスコからビスタに替わったからというのではないはずだが(しかし、何で替えたんだろ)、続編にしては先の『チェ 28歳の革命』とは印象がずいぶん異なる映画だった。

「今世界の他の国々が私のささやかな助力を求めている。君はキューバの責任者だから出来ないが、私にはできる。別れの時が来たのだ。もし私が異国の空の下で死を迎えても、最後の想いはキューバ人民に向かうだろう、とりわけ君に。勝利に向かって常に前進せよ。祖国か死か。革命的情熱をもって君を抱擁する」というゲバラの手紙を、冒頭でカストロが紹介する。

それを流すテレビを左側から映した画面からは、Part Oneとそう違ったものには見えず、いやむしろそれに続くゲバラのボリビア潜入の変装があんまりで、安物スパイ映画を連想してしまった私など、逆に弛緩してしまったくらいだった。むろんゲバラにはそんな気持はさらさらなく、彼は相変わらずPart Oneの時と変わらぬ信念と革命的情熱を持って、ボリビアに潜入する。理想主義者のゲバラにとって、キューバでの成功に甘んじていることなど許されないのだろうが、実際に行動するのはたやすいことではないはずだ。成功者としての地位も安定した生活も捨て、家族とも別れて、なのだから。

それほどの決意で臨んだボリビアの地だが、どうしたことか、キューバではうまくいったことがここでは実を結んでくれない。親身になって少年の目を治療し、誠実に農民たちと向き合う姿勢は、あの輝かしいキューバ革命を成し遂げた過程と何ら変わっていないというのに。

最初は豊富にあったらしい資金もすぐに枯渇し、食料も満足に確保できず、体調を崩して自分までがお荷物になってしまう状況にもなる。組織が育っていかないから、ゲリラとして戦うというよりは、ただ逃げているだけのように見えてしまう。

実際、鉱夫がストに入ったというくらいしか、いいニュースは入ってこない。政府軍の方は捜索も念が入っていて、シャツからキューバ製のタグを見つけ出すし、アメリカの軍人らしき人物が「ボリビア兵を特殊部隊に変えてやろう」などと言う場面もある。キューバ革命に対する危機感が相当あったのだろう。「バティスタの最大の過ちはカストロを殺せる時に殺さなかったこと」というセリフもあった。ゲバラの捕獲に先立っては、ゲバラの別働隊を浅瀬で待ち伏せ、至近距離で狙い撃ち全滅させてしまう。この情報は、ラジオでゲバラも得るのだが「全滅などありえない」と信じようとしない。

居場所を知られるのを恐れ、ゲバラは己の存在を隠そうとし、バリエントス側はゲバラの影響力を恐れて、やはりその存在を隠そうとする。思惑は違うのに同じことを願っていて妙な気分になる。とはいえ観客という気楽な身分であっても、すでにそんなことを面白がってなどいられなくなっている。

結末はわかっていることなのに、ゲバラが追い詰められていく後半は胸が苦しくなった。農夫の密告というのがつらい。山一面の兵士に包囲されて、逃げなきゃ!と叫び声を上げそうになる。Part Oneでゲバラの姿がしっかり焼き付けられていたからだろう。Part Oneの最後にあった、陽気で明るい雰囲気まで思い返されるものだから、よけい切なさがつのってくる。雰囲気が違うというより、2部作が呼応しているからこそのやるせなさだろうか。

それにしても何故、キューバでできたことがボリビアではできなかったのか。そのことに映画はきちんと答えているわけではない。親ソ的なボリビア共産党と組めなかったことも大きな要因らしいが、ボリビアでは1952年にすでに革命があり1959年には農地解放も行われていた。革命は1964年に軍によるクーデターで終焉してしまうのだが、共産党とは対立が進みながらも、大統領になったレネ・バリエントスは民衆や農民にも一定の支持を得ていたようだ。が、そんな説明は一切ない。

足を撃たれたゲバラは捕虜になるが、射殺されてしまう。カメラはその時、ゲバラの目線に切り替わる。ゲバラに入り込まずにはいられなかったのかどうかはわかりようがないが、そう思いたくなった。ボリビア潜入後1年にも満たないうちに死体となったゲバラ。カメラはヘリが死体を運び出すまでを追う。村人が顔をそむけたのはヘリの巻き上げた砂埃であって、それ以外の理由などなかったろう。

無音のエンドロールには重苦しさが増幅される。といってこれ以外の終わり方も思い浮かばないのだが。

  


原題:Che Part Two Guerrila

2008年 133分 フランス/スペイン/アメリカ ビスタサイズ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ、日活 日本語字幕:石田泰子 スペイン語監修:矢島千恵子

監督:スティーヴン・ソダーバーグ 製作:ローラ・ビックフォード、ベニチオ・デル・トロ  製作総指揮:フレデリック・W・ブロスト、アルバロ・アウグスティン、アルバロ・ロンゴリア、ベレン・アティエンサ、グレゴリー・ジェイコブズ 脚本:ピーター・バックマン 撮影:ピーター・アンドリュース プロダクションデザイン:アンチョン・ゴメス 衣装デザイン:サビーヌ・デグレ 編集:パブロ・スマラーガ 音楽:アルベルト・イグレシアス

出演:ベニチオ・デル・トロ(エルネスト・チェ・ゲバラ)、カルロス・バルデム(モイセス・ゲバラ)、デミアン・ビチル(フィデル・カストロ)、ヨアキム・デ・アルメイダ(バリエントス大統領)、エルビラ・ミンゲス(セリア・サンチェス)、フランカ・ポテンテ(タニア)、カタリーナ・サンディノ・モレノ(アレイダ・マルチ)、ロドリゴ・サントロ(ラウル・カストロ)、ルー・ダイアモンド・フィリップス(マリオ・モンヘ)、マット・デイモン、カリル・メンデス、ホルヘ・ペルゴリア、ルーベン・オチャンディアーノ、エドゥアルド・フェルナンデス、アントニオ・デ・ラ・トレ

2008年度カンヌ国際映画祭主演男優賞受賞

ララピポ

新宿ミラノ2 ★★

■目指せ!下半身目線人間図鑑

一生地べたに這いつくばって生きる人間とそこから逃げだし高く高く登りつめる人間、セックスするヤツとそれを見るヤツ、平和をけがすゴミどもと平和を守る正義の使者、100万人に愛される人間と誰にも愛されない人間、と冒頭からくどいくらいに「この世界には2種類の人間しかいない」と繰り返すのだが、映画は、比較にこだわるのではなく、這い上がられずにいる方の人間たちに、下半身目線で焦点を当てた作品のようである。

スカウトマンの栗野健治は、デパート店員のトモコを言葉巧みにキャバクラの仕事に誘いヒモ生活に入る。

栗野の部屋の真下に住むフリーライターの杉山博は、長い間女性に縁がなく、自分の分身(ぬいぐるみ劇をされてもですねー)と不毛な対話を重ねる毎日だったが、ロリータファッションに身を包んだアニメ声優志望の玉木小百合と、「似たもの同士」のセックスをする。もっとも、「似たもの同士」は杉山の感想で、このセックスは隠し撮りを副業にしている小百合によって、デブ専の裏DVD屋に並ぶことになる。

カラオケボックス店員の青柳光一は、正義の味方となって悪(=エロ)と戦う妄想を膨らませるが、実体は近所の若妻の覗き見に励む、つまり悪とは到底戦えない情けないヤツで、カラオケボックスすらやくざに凄まれて、彼らのセックス拠点になってしまう。

普通に主婦業をこなしていたはずの佐藤良枝だが、気づいたらゴミ屋敷の主となっていた。キャバクラからソープ嬢と栗野の言うままに、でもそれほどの抵抗もなく転落?の道をたどってきたトモコがAV出演のため現場に出向くと、実の母の良枝が母親役で、2人は他人のふりを通したまま撮影にのぞむことにする。

青柳の放火現場を目撃した良枝は、ゴミ屋敷へも放火をしてくれと青柳を脅迫するが、夫が中で寝ていることを思い出し、火の中に飛び込んでいく。

映画の最後の方で、a lot of peopleが、ネイティブの発音だとララピポになるという種明かしがあってのこの内容で(栗野をはじめとした主な登場人物のそれぞれの年齢、名前、職業、年収が字幕で出てくる)、確かに出てくる人間が雑多なだけでなく、作りもポップでごちゃ混ぜ的だからa lot of peopleという感じはするのだが、でもどれもが中途半端で、誰にも感情移入できないとなると少々つらいものがある。

栗野とトモコの関係が恋になりそうな部分や、最後にはトモコがAV女優として大ブレークしたり、良枝が夫と共に病院のベッドにいる場面(助かったのね)などがあって、小さな幸せオチをつけてはいるのだが、それだけでは伝わってくるものがない。

『ララピポ』と題名で見得を切ったのだから、この調子で10本でも20本でも続編を作って、映画人間図鑑を目指してみたらどうだろう。そこまで撮り続けたら、もしかしたらとんでもない傑作が出来上がってしまいそうな気もするが、今のままだと『ララピポin歌舞伎町』(実際は渋谷のようだ)にすぎないでしょ。

それとも、この類型の中にあなたは絶対いるはず、とでも作者は言いたいのだろうか。そういえばトモコに入れあげていた区役所勤めの男とかもいたよな、ってあいつが私と認めたわけではないが、そこまで言われてしまうと、映画のどこかに自分がいたような気分にもならなくもないのだが……。

  

2008年 94分 ビスタサイズ 配給:日活 R-15

監督:宮野雅之 製作:佐藤直樹、水上晴司 プロデューサー:石田雄治、鈴木ゆたか、松本肇 原作:奥田英朗『ララピポ』 脚本:中島哲也 撮影:尾澤篤史 音楽:笹本安詞 音楽監修:近田春夫 主題歌:AI『people in the World』

出演:成宮寛貴(栗野健治)、村上知子(玉木小百合)、中村ゆり(佐藤トモコ)、吉村崇(青柳光一)、皆川猿時(杉山博)、濱田マリ(佐藤良枝)、松本さゆき、中村有志、大西ライオン、杉作J太郎、坂本あきら、インリン・オブ・ジョイトイ、林家ペー、林家パー子、佐田正樹、蛭子能収、山口香緒里、渡辺哲、森下能幸、勝谷誠彦、チャド・マレーン

悲夢

2009/2/14 新宿武蔵野館3 ★★☆

キム・ギドク、オダギリージョー、イ・ヨナンのサイン(監督のサインはこれだと切れちゃってますが)『悲夢』ポスター

■パズルとしては面白そうだが

ジンという男の見る夢が、ランという見ず知らずの女を夢遊病という行動に走らせるという、まあくだらない話。

くだらないのは設定だけじゃない。自分が眠ってしまうことでランに犯罪を起こさせてしまうことを知ったジンが、何とか眠らないように努力をするのだけれど、努力したってもねー。ランが殺人事件を起こしたあとには「もう絶対眠りません」とまで言っていたジンだけど、そしてそれはランを好きになったからにしても、幼稚すぎて失笑するしかないではないか。目を見開いたり、テープを貼り付けたりはコメディレベルだけど、頭に針や彫刻刀を刺したり、足をカナヅチで叩いたりは異常者でしょうが。

ジンは印鑑屋(芸術家?)で、ランは洋裁(デザイナー?)で食っているらしいから、もともと無関係な2人が時間帯をずらすのは(どちらかが昼夜を逆にすれば)そう難しいことではないはずなのに、眠るのを我慢しようとしたり(交替で寝ようとはしていたが、同じ時間帯でやろうってたってさ)、手錠を嵌めてランの行動を制限しようとするのだけれど、手錠の鍵を隠そうともしないから(何これ)、取り返しのつかないことになってしまう。

そんな細かいことに一々目くじら立てなさんな、とキム・ギドクは言いたいのだろう。なにしろオダギリジョーは最初から最後まで日本語のセリフで通してしまうし、もちろん劇中でそんなことに驚くヤツなど誰もいない、韓国が舞台でも日本語の通じてしてしまう映画なのだ。

あんまりな話(くだらなさには目をつむってもこの評価はかえようがない)ということを別にすれば、ジンの夢とランの現実という構造はなかなか興味深いものがある。ジンは別れた恋人が忘れられない。それが夢となって結実すると、眠りに中にいるランを夢遊病者に仕立て、別れた恋人に引き合わせることになる。ランは別れた恋人をものすごく嫌っているというのに。

ジンの元恋人は男が出来てジンをふったらしいのだが、その男というのはランがふった男で、つまりジンとランの元恋人同士が恋人という(ああややこしい)、入れ子のような関係になっているわけだ。最初に無関係な2人と書いてしまったが、ジンの夢で繋がっているだけでなく、現実でも間に1人置くようにして2人は繋がっているのである。

この4人が葦原にいる場面では、奇妙さよりも胸苦しさを覚えてしまう。思いは伝わらずねじれたように4人を行き来する。はじめこそ第三者のようにしていたジンとランだが、それぞれ影のように存在する同性に自分の姿を見てしまうのか、互いにその同性を慰めたりする。が、考え出すとこの場面はわからなくなる(これも夢なのか)。

なるほど映画の早い段階で女精神科医が言っていたように、ジンの幸せはランの不幸で、「2人は1人」なのだから「2人が愛し合えば」解決することなのかもしれない(白黒同色という言葉が出てくる。ジンがこの言葉を刻印している場面もあったし、タイトルの「悲夢」も印影が使われていた。そういえば、ジンは印面に鏡文字を直接描いていたが?)。

結局、ジンはランに対する責任感もあって彼女のためにいろいろ手を尽くし、それが好意に変わっていったのだろう。ランの方も、最初こそ自分の置かれている状況が理解出来ないでいたが、自分に代わって罪まで負おうとするジンの姿勢に、最後は「どんな夢でも恨まない」と彼に言う。

結ばれる運命にあった2人という話の流れがあっての結末なのかも知れないが、ジンの夢は恋人が忘れられないくらい思い詰めているから見たものだし、これでは辻褄が合わなくないか。それに何故、恨まないと言われたのにジンは自殺しなければならなかったのか。それとも、これもやはりジンのランに対する愛(夢で人を操作することの嫌悪も含まれた)と解すればいいのか。

パズルとしての面白さはそこここにあって、蝶のペンダントの役割なども考えていけば、もう少しは何かが見えてきそうな気もするのだが(ただ胡蝶の夢を表しているだけなのかも)、これもそこここにあるくだらなさが邪魔をして、何が何でもパズルを解いてやろうという気分には至らない。ジンの仕事場、町の佇まいやお寺など、撮影場所は魅力的だったのだが……。

原題:悲夢 ・・ェス 英題:Dream

2008年 93分 韓国/日本 ビスタサイズ 配給:スタイルジャム PG-12 日本語字幕:●

監督・脚本:キム・ギドク 撮影:キム・ギテ 照明:カン・ヨンチャン 音楽:ジ・バーク

出演:オダギリジョー(ジン)、イ・ナヨン(イ・ラン)、パク・チア(ジンの元恋人)、キム・テヒョン(ランの元恋人)、チャン・ミヒ(医師)、イ・ジュソク(交通係調書警官)、ハン・ギジュン(強力係調書警官)、イ・ホヨン(現場警官1)、キム・ミンス(現場警官2)、ファン・ドヨン(警官1)、ヨム・チョロ(警官2)、ソ・ジウォン(タクシー運転手)

誰も守ってくれない

109シネマズ木場シアター4 ★★★☆

■「守ってくれない」と嘆くのではなく「守れ」というのだが

被害者やその家族でもなく、容疑者本人でもなく、無関係なはず(厳密にはそうは言えないが)の容疑者の家族が、容疑者の家族になってしまったことでどういう状況に追い込まれるのかという、あまり目が付けられていない分野に踏み込んだ意欲作である。同じ題材で『手紙』(2006)という作品があったが、『手紙』が長い期間を扱っているのに対し、こちらは事件直後という緊迫した時間に焦点を当てている。

18歳の長男が殺人事件の容疑者(小学生姉妹の殺害犯)として捕まったことで、船村家の生活は一変する。状況を把握する間もなく、両親と15歳の娘の沙織は、3人別々に保護すると警察に言いわたされる。

「犯罪者の家族の保護については、警察は公には認めていない」と映画の中でも言っていたし、この仕事を与えられた勝浦刑事も「それって一体何ですか」と上司に聞き返していたくらいで、でもちゃんと保護マニュアルのようなものは出来ていて、それに従って3人は名前を変えられ(両親を離婚させ、籍を母親の方に入れ直す)、沙織には就学義務免除の手続きが取られる。

学校に行けなくなる理由さえ理解出来ずにいる沙織を、報道陣に取り囲まれ騒然とした家から連れ出す勝浦だが、用意してあったホテルも彼らにすぐ嗅ぎつかれてしまう。保護マニュアルの強引さには頭をひねりたくなるし、何故当日から3人を別々にしなければならないのかがよくわからないのだが(容疑者の兄を庇われたら困るという警察の都合もありそうだ。当然とはいえ沙織からも供述は取ろうとしていたから、保護だけが目的ではないのかも)、たたみかけるような展開は、観客をもただならぬ臨場感の中に引き込んでいく。

このあと女精神科医の登場といういささか謎めいた設定が息抜きとなっているが(ただでさえ不安がっている沙織になかなか正体を告げない精神科医ってーのもなぁ)、これは勝浦の相棒を松田龍平にし「背筋が凍る」関係にしたあたりでもわかるように、君塚良一の趣味またはサービス精神なのだろう。

このサービス精神が、精神科医のもとからさらに勝浦とはワケありのペンションへと舞台を移させたのだろうか(もちろん逃げ出さずにいられなかったというようにはなっている)。ペンションの経営者本庄夫妻は、3年前に勝浦の捜査ミスで、子供を失っている。別の事件ながら、被害者の家族という沙織とは対極にある人物を登場させることによって、沙織の置かれた立場を、簡単に同情するだけでいいのかと、もう一度観客に最初から考えることを促そうとする。

「ウチの子は守ってくれなかったのに、犯人の子は守るんですか」(注1)「あんたには被害者の家族も加害者の家族も同じ。本当はあんたの顔も見たくないんだ!」という本庄圭介の勝浦への怒りはわからなくもないが、だったら最初から受け入れるなと言いたくなるし(言い過ぎたと次の日頭をさげていたが)、勝浦が、この事件が起こらなくても妻と娘とでこのペンションに来ようとしていたという件には首をかしげたくなった。贖罪のつもりなのだろうか。それとも「まだギリギリ繋がっている」家族に、本城夫妻を対面させて自分の立場をわかってもらおうとでも思ったのか(だったらちょっとなぁ)。

勝浦はその事件で、上司の命令に従っただけなのに停職処分になったというし、もちろん彼が悔やんでも悔やみきれずにいるのはわかるのだが、そのことで梅本記者に問い詰められたり、個人的な新聞ネタにまでなっていたとしては、大げさになる。

今回の事件については、発覚当初からネットでの格好の餌食になっていたが、それはますますエスカレートし、言葉だけにしても容赦のない憎悪をつのらせていた。そして何故か書き込みは、容疑者の身元から沙織や勝浦のことにまで及び、誰も知らないはずの居場所(ペンション)まで公開されてしまう。情報が沙織のケータイから漏れていたというのは、盲点だし伏線(注2)のしっかりしたいいアイデアなのだが、彼女の情報をばらまくことでネットのカリスマになろうとした達郎が、のこのことペンションまでやって来ては台無しではないか。

情報が漏れてしまったのは偶然の連鎖とでもし、生映像実況中継も別なグループ脅かされて、くらいの救い(これは沙織にとっての救いにもなるし、って甘いか)はあってもいいような気がする(ないようにしたいのだろうが)。表だった行動のできない匿名性を隠れ蓑にしたネットの住人にしてはやりすぎな気がするが、役割分担であればこういう状況もないとはいえまい。ペンションのまわりに亡霊のように何人も立っている場面も同様で、この野次馬は、まるで亡霊のようにケータイやビデオカメラを向けたネット族的なイメージにするのではなく、どこにでもいる一般人にした方がかえって説得力が出たのではないか。

ついどうでもいいことを書きすぎたが、海岸で勝浦が沙織に、「お兄さんを守ろうとした」ように「これからも君が家族を守るんだ」と言い聞かせる重要な場面も、実はあまり頷くことが出来なかった。「お兄さんを守ろうとした」というのは、兄(容疑者)が父に勉強ばかりやらされて苦しんでいたと沙織が語ったことを、つまり兄の心境を察していることを踏まえて勝浦が言うのだが、「家族を守る」という言葉に対しては、沙織は「お父さんに会いたくない」と反応していて(父は成績の落ちた兄をぶったのだという)、それはそれで仕方のないことではないかと思ってしまう。

「罪を犯しても家族」と言われても、家族意識の希薄な私には受け入れがたいところがある。「誰かを守るということは、その人の痛みを感じること」で、「人の痛みを感じることはつらいが、生きていくということはそういうこと」なのだから目をそらしてはいけないと言っているのだろうか(勝浦は「生きるんだ」と言って母親が自殺した時に手にしていた家族の集合写真を渡し、沙織を引き寄せて頭を抱く)。

そうするのがきっと正しいのだろう。そういう確信(解決方法とは思っていないにしても)が持てる勝浦だからこそ、本庄夫妻のペンションに家族で行く予約を入れていたのだろう。本庄夫妻とも自分の妻と娘とも、きちんと向き合おうとして。理屈はそうなのだけれど、そして勝浦が自分の家族のことは、結果はどうあれそうしなければならないにしても、本庄夫妻のことからは離れてしまった方が(忘れることはできなくても)いいように思うのだが……。

なじめないところは多々あるのだが、力作、なのは間違いない。

注1:母親の自殺を、勝浦からではなく同級生の達郎からきいた沙織にしてみれば、勝浦が自分を守ってくれているという認識などこの時はなかったと思われる(もちろん本庄圭介にはそんなことは関係のないことである)。

注2:女精神科医のところにいた時「見られたら恥ずかしくて死ぬ」という沙織の言葉で、勝浦はわざわざ家宅捜索中の家に戻り、彼女の(充電中にしてあった)ケータイを取ってきてやっていた。

 

2008年 118分 ビスタサイズ 配給:東宝

第32回モントリオール世界映画祭最優秀脚本賞受賞

監督:君塚良一 製作:亀山千広 プロデューサー:臼井裕詞、種田義彦 アソシエイトプロデューサー:宮川朋之 脚本:君塚良一、鈴木智 撮影:栢野直樹 美術:山口修 編集:穂垣順之助 音楽:村松崇継 主題歌:リベラ『あなたがいるから』 VFXディレクター:山本雅之 ラインプロデューサー:古郡真也 音響効果:柴崎憲治 照明:磯野雅宏 製作統括:杉田成道、島谷能成 装飾:平井浩一 録音:柿澤潔 監督補:杉山泰一

出演:佐藤浩市(勝浦卓美)、志田未来(船村沙織)、松田龍平(三島省吾/勝浦の同僚)、木村佳乃(尾上令子)、柳葉敏郎(本庄圭介/ペンション経営者)、石田ゆり子(本庄久美子)、佐々木蔵之介(梅本孝治/記者)、佐野史郎(坂本一郎)、津田寛治(稲垣浩一)、東貴博(佐山惇)、冨浦智嗣(園部達郎/沙織の同級生)、須永慶、掛田誠、水谷あつし、伊藤高史、浅見小四郎、井筒太一、渡辺航、佐藤裕、大河内浩、佐藤恒治、長野里美、野元学二、菅原大吉、西牟田恵、平野早香、平手舞、須永祐介、山根和馬、浮田久重、柄本時生、ムロツヨシ、青木忠宏、渡仲裕蔵、阿部六郎、積圭祐

感染列島

109シネマズ木場シアター4 ★★☆

■欲張りウイルス感染映画

正体不明のウイルスが日本を襲うという、タイムリーかついくらでも面白くなりそうな題材(そういえば篠田節子に『夏の災厄』というすごい小説があった)を、あれもこれもと都合優先でいじくりまわしてはダメにしてしまった、欲張り困ったちゃん映画だろうか。

まず冒頭のフィリピンで発症した鳥インフルエンザが、何故そこでは拡散せず(ウイルスが飛散する映像まで映しておいてだよ)、3ヵ月後の日本で大流行となったのかがわかりにくい(これとは関係ないようなことも言っていたし?)。新型ではないのに正体不明という言い方も素人にはさっぱりだ(映画なのだからもう少し丁寧に説明してほしいものだ)。

正体不明だからこそ、謎めいた鈴木という研究者によって、ようやくそのウイルスが解明されるわけで(新型ではないのね? しつこいけどよくわからないんだもの)、でも治療法は、結局栄子の死を賭けた血清療法が効を奏すのだが彼女は死んでしまう、って正体と治療法は別物とはいえ、映画としての歯切れは悪いし、すでに何万人にも死者を出している状態なのだから、この方法はもっと早い時期に試していてもよさそうで、これでは、悲壮感+栄子の見せ場作り、と言われても仕方ないだろう。

救命救急医の松岡が誤診?で患者(真鍋麻美の夫)を死なせてしまうことからWHOから松岡の旧知の小林栄子がメディカルオフィサー(って何だ)としてやってくるあたりは、映画としての許容範囲でも、あっという間に蔓延したウイルスが、病院を混乱に陥れ、都市機能まで麻痺させてしまうのに、松岡は治療を放り出して、仁志という学者と一緒にウイルス探しで海外に、ってあんまりではないか。

戦場と化したはずの病院が、いつまでたっても整然としていたりもする。ノイローゼになる医師は出てきても憔悴しているようにはみえないし、後半になっても朝礼のようなことをしている余裕さえあるのだ。発症源の医師(真鍋麻美の父)の行動はあまりにも無自覚で(発症後またアボンという架空の国連未加入国へ帰っている。一般人ならともかく医師なのに!?)、それはともかく彼がウイルスを持ち込んだのなら、そもそも日本にだけで病気が広まったことだっておかしなことになってしまう。医師の松岡たちも本気で感染対策をしているようには見えないし、書き出すときりがなくなるほどだ。

思いつくまま疑問点を羅列したため、話があっちこっちになっているが、私の話がそうなってしまうのも、この映画がいかに欲張っているかということの証だろう。『感染列島』と題名で大風呂敷を広げてしまったからかしらね。確かに荒廃した銀座通りなどのCGがいくつか出てくるし、1000万人が感染し300万人が死亡などという字幕に、何故日本だけが、みたいなことまで叫ばれるのだが、結局はそれだけなのである。だったら視点は松岡に限定し、場所も医療現場だけにとどめておけばよかったのだ(ついでに言うならウイルスの正体だって不明のままだってよかった)。

そうであったなら、松岡と栄子の昔の恋ももう少し素直に観ることができたかもしれない。この場面は、そうけなしたものではないしね。とはいえ、付けたしとはいえ松岡が最後は無医村で働いている場面まであっては、結局ただの美男美女映画が作れればそれでよかったのかと納得するしかないのだが。

 

2008年 138分 ビスタサイズ 配給:東宝

監督:瀬々敬久 プロデューサー:平野隆 企画:下田淳行 脚本:瀬々敬久 撮影:斉藤幸一 美術:中川理仁 美術監督:金勝浩一 編集:川瀬功 音楽:安川午朗 主題歌:レミオロメン『夢の蕾』 VFXスーパーバイザー:立石勝 スクリプター:江口由紀子 ラインプロデューサー:及川義幸 共同プロデューサー:青木真樹、辻本珠子、武田吉孝 照明:豊見山明長 録音:井家眞紀夫 助監督:李相國

出演:妻夫木聡(松岡剛)、檀れい(小林栄子)、国仲涼子(三田多佳子/看護師)、田中裕二(三田英輔)、池脇千鶴(真鍋麻美)、佐藤浩市(安藤一馬)、藤竜也(仁志稔)、カンニング竹山(鈴木浩介)、光石研(神倉章介)、キムラ緑子(池畑実和)、嶋田久作(立花修治/真鍋麻美の父)、金田明夫(高山良三)、正名僕蔵(田村道草)、ダンテ・カーヴァー(クラウス・デビッド)、小松彩夏(柏村杏子)、三浦アキフミ(小森幹夫)、夏緒(神倉茜)、太賀(本橋研一)、宮川一朗太、馬渕英俚可(鈴木蘭子)、田山涼成、三浦浩一、武野功雄、仁藤優子、久ヶ沢徹、佐藤恒治、松本春姫、山中敦史、山中聡、山本東、吉川美代子、山中秀樹、下元史朗、諏訪太朗、梅田宏、山梨ハナ

チェ 28歳の革命

テアトルダイヤ ★★★☆

■革命が身近だった時代

貧しい人たちのために革命に目覚めたゲバラが、メキシコで出会ったカストロに共感し、共にキューバへ渡り(1956)、親米政権でもあったバティスタ独裁政権と戦うことになる。大筋だけ書くと1958年のサンタ・クララ攻略(解放か)までを描いた「戦争映画」になってしまうが、エンターテイメント的要素は、最後の方にある列車転覆場面くらいしかない。全体の印象がおそろしく地味なのは、舞台のほとんどが山間部や農村でのゲリラ戦で、余計な説明を排したドキュメンタリータッチということもある。

これではあまりに単調と思ったのか、革命成就後にゲバラが国連でおこなった演説(1964)や彼へのインタビュー風景が、進行形の画面に何度も挟まれる。この映像は結果として、ゲバラの演説内容と、彼がしているゲリラ戦の間には何の齟齬もないし、ゲリラ戦の結果故の演説なのだ、とでも言っているかのようである。もっとも、この演説部分の言葉を取り出そうとすると、映画という特性もあって意外と頭に残っていないことに気づく(私の頭が悪いだけか)。

けれど、農民に直接語りかけていたゲバラの姿は、しっかり焼き付けられていく。英雄としてのゲバラではなく、彼の誠実さや弱者への視点を、つぎはぎ編集ながら、着実に積み上げているからだろう。これがゲバラの姿に重なる。こんなだからゲバラの腕の負傷も、映画は事件にはしない。まるで、事実が確認出来ていないことは映像にしない、というような制作姿勢であるかのようだ(実際のことは知らない)。

戦いは都市部に展開し(当時の状況や地理的な説明もないから、この流れ自体はやはりわかりずらい)、いろいろな勢力と共闘することも増えていく。当初から裏切り(処刑で対処する非情さもみせる)や脱落もあるのだが、常にそれ以上に人が集まってきていたのだろう。ゲバラが主導者であり続けたのは先に書いたことで十分頷けるのだが、キューバにはそれを受け入れる大きな流れがあったのだ。

革命は、それを望んでいる人々がいて、初めて成就するのだ、ということがこの映画でも実感できる(金融危機によって格差社会がさらに推し進められ、『蟹工船』がもてはやされている日本だが、今革命が起きる状況など、やはり考えられない。比較するような話ではないが)。

映画としての華やかなお楽しみは(ささやかだけど)、ゲバラの後の妻となるアレイダとのやりとり(ゲバラがはしゃいでいるように見える)と、ハバナ進軍中に「たとえ敵兵のものでも返してこい」と、オープンカーに乗った同士をゲバラが諫める場面か。ゲバラのどこまでも正しい発言には逆らえず、しぶしぶ車をUターンさせることになる。この最後の場面、勝利を手中にして、画面の雰囲気や色調までがやけに明るいのである。

PS 今日は何故か『レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで』に続いて革命映画?2本立てとなった。向こうは1955年のアメリカで、「レボリューショナリー・ロード」という名前の通りがあったという設定(実際にも?)だ。この年はゲバラがメキシコでカストロと出会った年でもある。Revolutionという言葉は、米国ではどんなイメージなのか、ちょっと気になる。

原題:Che Part One The Argentine

2008年 132分 アメリカ/フランス/スペイン シネスコサイズ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ、日活 日本語字幕:石田泰子 スペイン語監修:矢島千恵子

監督:スティーヴン・ソダーバーグ 製作:ローラ・ビックフォード、ベニチオ・デル・トロ  製作総指揮:フレデリック・W・ブロスト、アルバロ・アウグスティン、アルバロ・ロンゴリア、ベレン・アティエンサ、グレゴリー・ジェイコブズ脚本:ピーター・バックマン 撮影:ピーター・アンドリュース衣装デザイン:サビーヌ・デグレ 編集:パブロ・スマラーガ 音楽:アルベルト・イグレシアス プロダクションエグゼクティブ:アンチョン・ゴメス

出演:ベニチオ・デル・トロ(エルネスト・チェ・ゲバラ)、デミアン・ビチル(フィデル・カストロ)、サンティアゴ・カブレラ(カミロ・シエンフエゴス)、エルビラ・ミンゲス(セリア・サンチェス)、ジュリア・オーモンド(リサ・ハワード)、カタリーナ・サンディノ・モレノ(アレイダ・マルチ)、ロドリゴ・サントロ(ラウル・カストロ)、ウラジミール・クルス、ウナクス・ウガルデ、ユル・ヴァスケス、ホルヘ・ペルゴリア、エドガー・ラミレス

レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで

上野東急 ★★★★

■エイプリルは何を追い求めていたのか

平凡とはいえそれなりの暮らしを手に入れ、2人の子供にも恵まれたウィーラー夫妻。が、彼らにとっては平凡こそがやりきれなさの原因だった。レボリューショナリー・ロードに住む自分たちには、その名にふさわしい耀く未来があるはずだったのに……。

確かにフランクは、蔑んでいたはずの父親が勤めていたのと同じ事務機会社に席を置くという代わり映えのしない毎日を送っていた(ホワイトカラー族が全員着帽し似た背広姿で出勤していく場面があって、1955年のアメリカがえらく画一的に見えてしまうのが面白い)し、フランク以上に夢を形にしたいという思いが強い妻のエイプリルは、今にも平凡な日常に押しつぶされそうになっていたのだろう。地元の市民劇団(女優の夢を捨てきれずにいたのだろうか)の公演が不評に終わるや、悲しみとも怒りともつかぬ感情を一方的にフランクにぶつけてしまう。

まだ映画が始まって間もないときに繰り広げられるこの夫婦喧嘩の激しさには驚くしかなかったが、それは当のフランクも同様だったのではないか。そしてフランクは、そんなエイプリルにかなり気をつかっているように見えたのだが、彼女の激情は収まらない。エイプリルのあまりの暴走ぶりに、観ているときは引いてしまうしかなかったのだが、終わってみると、これは最後の彼女の行動を予見させるものでもあったことがわかる。

このことがフランクを浮気に走らせたといえば、彼の肩を持ちすぎになるが、でもフランクはとりあえずはいい夫ではなかったか。けれど、フランクにはエイプリルのことが最後の最後までわからなかったのではないか(これは私がそう思うからなのかもしれないが)。夫婦の気持ちが離れていってしまう映画と最初は理解したのだが、フランクとエイプリルには接点があったのだろうか(こんなことまで言い出したら世間一般のほとんどの夫婦がそうなってしまいそうだが)。

30歳の誕生日にフランクは情事を楽しんで夜になって帰ったのだったが(フランクの肩を持ってしまったが、これは褒められない)、家ではエイプリルと2人の子供が彼を祝うために待っていた。この日、現状打破のために、エイプリルの持ち出したパリ行き話が突飛なのは、フランクの同僚たちや近所の住人の反応でもわかるが、フランクも一応その気になる。

パリではエイプリルが働き(政府機関で働く秘書は高給がもらえると言っていた。その気になれば仕事に就けるというのが驚きである。今だったら希望者が多そうではないか)、フランクには悠々自適の生活を送ってもらい、彼本来の姿を取り戻して欲しいのだという。自分を犠牲(エイプリルはそうは思っていないのか。それとも先進的で献身的な妻になろうとしているのか)にしてもフランクにはということなのだが、これはすでに自分の夢を諦めていることになるわけで、エイプリルにその自覚はあったのかどうか訊いてみたいところだ。

しかし結果としてパリ行き話は、一瞬とはいえ彼らに輝きを取り戻す。ウィーラー家に今の家を売り込んだ不動産屋のギヴィングス夫人と、その夫に連れられてきた精神病患者の息子ジョンが言い放つ遠慮のない本音の数々にも、ジョンだけが私たちの理解者、とはしゃぎ回ったりもする。そんな中、辞めるつもりで書いた提言が会社に認められ、フランクには昇進話が持ち上がる。そして思いもよらぬことに、エイプリルの妊娠がわかる。昇進と妊娠という嬉しい出来事が、2人のパリ行きには阻害要因となってしまう皮肉……。

今、つい「2人の」と書いてしまったが、何故かこの映画では子供たちはかやの外に置かれている。パリ行きの引っ越しの準備では乗り気ではなくてエイプリルに叱られていたし、夫婦喧嘩の場面ではうまい具合に(というより喧嘩など絶対見せられないという矜持があったからか――何しろ理想の夫婦であろうとしたのだから)、友達のところに預けられていたときだった。新しく授かったお腹の中の子供でさえ、望んでいる、いない、とまるで諍いの対象としてあるかのようである。

最近のアメリカ映画で、ここまで子供の存在がないがしろにされたものがあったろうか。うるさいくらいに子供との信頼関係の大切さを押しつけられて、うんざりすることが多いのだが、これはこれで気になる。むろんこの映画でも、最後の方にフランクが公園で子供たちの面倒をみている場面が、挿入されたりはしているのだが。

話がそれたが、パリ行きが怪しくなってしまうのは、まさに皮肉というしかなく、反御都合主義の最たるもで、つまり書き手にとっては御都合主義なのだが、話の積み重ね方がうまいので、2人とは距離を置いたところにいたはずの私も、いつの間にかどうしたらよいのかと、映画を観ながら考え初めずにはいられなくなっていた。

しかし、途中でも触れたが、私にはエイプリルがどうしても理解できなかった。フランクの浮気の告白に対する反応(私に嫉妬させたいの、と告白したことの方を責めていた)も、隣人シェップとの成り行き情事も(この時点で自分には何の価値もないと結論づけていた)、そして堕胎することで何を得ようとしたのかも。いくらエイプリルでも、堕胎すればパリ行きが復活するとは思っていないはずだ。それに少なくともフランクは、昇進話で生気をとりもどしかけていて、新しい展望だって生まれそうなのだから、エイプリルの選択には狂気という影がちらついてしまう。

愛していないどころかあなたが憎いとまで言い放った次の日の朝食の、穏やかさのなかに笑顔までたたえたエイプリルに、とまどいながらも会話を交わしいつものように出勤して行くフランクが、結末を知った今となっては哀れだ。もちろん堕胎という選択しか思いつかないエイプリルも哀れとしかいようがないのだが……。

最後の場面は、ウィーラー夫妻を絶賛していたギヴィングス夫人が、実はあれでいろいろ付き合いにくかったのだというようなことを夫に言っているところである。夫には夫人のお喋りがうるさいだけなのか、補聴器の音量を下げてしまうと、画面の音も小さくなってエンドロールとなる。相手の言うことをすべて聞かないのが夫婦が長続きする秘訣とでも言うかのように。

 

原題: Revolutionary Road

2008年 119分 アメリカ/イギリス シネスコサイズ 配給:パラマウント 日本語字幕:戸田奈津子

監督:監督:サム・メンデス 製作:ボビー・コーエン、ジョン・N・ハート、サム・メンデス、スコット・ルーディン 製作総指揮:ヘンリー・ファーネイン、マリオン・ローゼンバーグ、デヴィッド・M・トンプソン 原作:リチャード・イェーツ『家族の終わりに』 脚本:ジャスティン・ヘイス 撮影:ロジャー・ディーキンス プロダクションデザイン:クリスティ・ズィー 衣装デザイン:アルバート・ウォルスキー 編集:タリク・アンウォー 音楽:トーマス・ニューマン 音楽監修:ランドール・ポスター

出演:レオナルド・ディカプリオ(フランク・ウィーラー)、ケイト・ウィンスレット(エイプリル・ウィーラー)、キャシー・ベイツ(ヘレン・ギヴィングス夫人)、マイケル・シャノン(ジョン・ギヴィングス)、キャスリン・ハーン(ミリー・キャンベル)、デヴィッド・ハーバー(シェップ・キャンベル)、ゾーイ・カザン(モーリーン・グラブ)、ディラン・ベイカー(ジャック・オードウェイ)、ジェイ・O・サンダース(バート・ポラック)、リチャード・イーストン(ギヴィングス氏)、マックス・ベイカー(ヴィンス・ラスロップ)、マックス・カセラ(エド・スモール)、ライアン・シンプキンス(ジェニファー・ウィーラー)、タイ・シンプキンス(マイケル・ウィーラー)、キース・レディン(テッド・バンディ)

劇場版 カンナさん大成功です!

新宿ミラノ2 ★☆

■全身整形で美醜問題にケリ、とまではいかず

化粧嫌いで整形などもっての外と思っていたので、初対面の人に、プチ整形など当然という話をやけに明るい口調で直接聞かされたときは、開いた口をどう閉じたものか思案に窮したことがあった(一家でそうなのだと。もう5年以上も前の話だ)。化粧をすることで自分が楽になったとは、ある女性がテレビで話していたことだが、ことほど左様に美醜問題というのは、改めて言うまでもなく、理不尽で罪の重い難しいものなのである。

人は見かけではないのは正論でも、別の基準が存在するのは周知のことで、だからって私のように、化粧は嫌いといいつつ、可愛い人(基準にかなりの振幅があるのでまだ救われるのだが)がやっぱり好きなんて、たとえ悪意なく言ったにしても、いや、悪意がないのだとしたら余計奥の深い、許されがたい問題発言なんだろう。

容姿という、今のところは個性の一部と認識されているものから解放されるためには(お互いその方がいいに決まってるもの)、日々衣服をまとうのと同じように、それが自由に選択でき、TPOに合わせた顔で出かけるようになってもいいのではないか。

前置きが長くなったが、この映画の主人公の神無月カンナは、いきなり「全身整形美人」として画面に登場する。容姿による過去の長いいじめられっ子人生が、カンナにそんなには暗い影を落としていないのは、過去については回想形式で人形アニメ処理(デジタルハリウッドだから)になっていることもあるが、でも一番は、やはり整形美人化効果が、カンナをして明るい過去形で語らせてしまうからではないか。

むろんもともとカンナには行動力があって、一目惚れした男に好意をもたれたい程度ではとどまっていられないからこそ、整形に踏み切って(500万近い金を注ぎ込んで)までその男をゲットしようと考えたのだろう。男の勤めるアパレル会社の受付嬢としてちゃっかり入社してしまうあたりの、カンナのどこまでも前向きな、でもお馬鹿としかえいない性格は、原作のマンガ(未読)を踏襲しているにしても、結果として、整形をどう考えるかという問題を置き去りにしてしまう。

こんなだから物語の流れだって、いい加減なものだ。ただ、お気楽な中にもハウツー本のような教えや美人の条件とやらが挿入されていて、これもマンガからの拝借としたら、マンガがヒットした理由も多少は頷けるというものだ。

天然美人集団の隅田川菜々子がライバル出現を思わせるが、彼女はあっさりいい人で、これは肩すかしだし、カリスマ女社長橘れい子がカンナの全身整形(カンナの出世を妬んだ社員によってカンナの過去が明かされてしまう)まで商品にしようとするしたたかさも、どうってことのない幕切れで終わってしまう。大いにもの足らないのだが、全体の薄っぺら感が逆に、マンガのページをめくるのに似た軽快さとなっていて、文句を付ける気にならない。

ではあるのだけれど、自然体のまま(カンナと同じ境遇だったのに)カンナと一緒にデザインを認められ成功してしまう(これまた安直な筋立て)カバコの方が受け入れやすいのはどうしたことか。これではせっかくカンナを主人公にした意味が……ここは何が何でもカンナに優位性を!って、ま、どうでもいいのだけれど。

ところで、カンナの目を通した画面が、昔の8ミリ映像なのは何故か。整形したら、世界はあんなふうに薄暗い色褪せたものになってしまうとでもいいたいのか。それとも、お気楽なお馬鹿キャラに見えたカンナだが、まだ過去にいじめられていた時の抑圧されて屈折したものの見方が消えずにいたということなのだろうか。明快な説明がつけられないのであれば、下手な細工はやめた方がいいのだが。

蛇足になるが、全身整形による「完全美人」として選ばれた山田優に、私はまるで心が動かされなかったのである。美醜問題は、ことほど左様に難しい……。

 

2008年 110分 ビスタサイズ 配給:ゴーシネマ

監督:井上晃一 プロデューサー:木村元子 原作:鈴木由美子 脚本:松田裕子 撮影:百束尚浩 美術:木村文洋 編集:井上晃一 音楽監督:田中茂昭 主題歌:Honey L Days『君のフレーズ』 エンディングテーマ:山田優『My All』

出演:山田優(神無月カンナ)、山崎静代(伊集院ありさ=カバコ)、中別府葵(隅田川菜々子)、永田彬(蓮台寺浩介)、佐藤仁美(森泉彩花)、柏原崇(綾小路篤)、浅野ゆう子(橘れい子)

ラーメンガール

テアトル新宿 ★☆

■ラーメンの具はトマトなり!?

彼氏を追いかけてアメリカから東京にやって来たものの、何となくそっけなくされて、というところで何故か『ロスト・イン・トランスレーション』(こっちは若妻だったし夫婦で来日した設定だった)を思い出してしまったのだが、似ても似つかぬがさつな映画だった。

ふられ気分でいた時に食べた近所のラーメン屋の味に感動してアビーのラーメン修行が始まるのだが、アビーにこんな大胆な行動をさせておきながら、言葉の行き違いや異文化の問題に踏み込むこともなく、どころか、ラーメン屋の店主とアビーが、相手を無視して(言葉が通じないというのに)互いに一方的に自分のことを喋る場面まで何度かあって、さすがにそれはないでしょう、と言いたくなった。

驚くべきことに、このふたりの意思疎通の悪さは、1年経ってもあまり改善されていないようなのだ。ラーメン修行の極意を、魂だかの精神論にしてしまったので、言葉が通じるかどうかは大した問題ではないにしても、そしてそれなりの信頼関係は生まれたのだろうけど、アビーにはラーメンだけでなく、日本語ももう少しは習得してほしかった。

修行がいじめみたいなのも気になった。アビーは飲んだくれの店主(ラーメンを作りながらタバコっていうのもね)に掃除ばかりさせられ、それが徹底していないことを指摘されるのだが、鍋はいざ知らず、それ以外のところにこの店が気を使ってきたとはとても見えないのだ。

それと、映像で表現するのは難しいとは思うのだが、悲しいことにラーメンがうまそうに見えないのである。それでいて、気分が楽しくなるラーメン、なんて言われてもですねぇ(ちなみにアビーが悲しい気持ちで作ったラーメンは、食べた者を悲しくさせてしまうのだ。はは。コメディ、コメディ)。

もちろん店主は頑固オヤジだが、腕はいいし、ちゃんとアビーのことも評価しているという流れ。だから自分と同じことをしているのに味に何かが足りないことに疑問を抱いて、わざわざ自分の母親のところまで連れて行き、助言を求めたりもするのだが……。

同業者との因縁ラーメンバトルに、ラーメンの達人を登場させたり、パリに逃げた店主の息子の話や、アビーの在日朝鮮人との恋愛まで押し込んだのは、単調になるのを避けようとしたのだろう。が、はじめっからミスマッチが楽しめればいい程度の発想しかないから、そのどれもが、どうでもいい具どまり。スープの作り方から修行しなおさないと及第点はあげられない。

ところで、アビーが辛い修行の末作りあげたラーメンは、具にコーンやトマトを使ったものだった。このこだわりは、自分らしさを失わないためと強調していたが、どうでもいい具どころか……いや、まあそもそも味なんて人それぞれだものね。

原題:The Ramen Girl

2008年 102分 ビスタサイズ アメリカ 配給:ワーナー

監督:ロバート・アラン・アッカーマン 製作:ロバート・アラン・アッカーマン、ブリタニー・マーフィ、スチュワート・ホール、奈良橋陽子 製作総指揮:小田原雅文、マイケル・イライアスバーグ、クリーヴ・ランズバーグ 脚本:ベッカ・トポル 撮影:阪本善尚 美術:今村力 衣装:ドナ・グラナータ 編集:リック・シェイン 音楽:カルロ・シリオット 照明:大久保武志 録音:安藤邦男

出演:ブリタニー・マーフィ(アビー)、西田敏行(マエズミ)、余貴美子(レイコ)、パク・ソヒ(トシ・イワモト)、タミー・ブランチャード(グレッチェン)、ガブリエル・マン(イーサン)、ダニエル・エヴァンス(チャーリー)、岡本麗(ミドリ)、前田健(ハルミ)、石井トミコ(メグミ)、石橋蓮司(ウダガワ)、山崎努(ラーメンの達人)

ティンカー・ベル 日本語吹替版

TOHOシネマズ錦糸町シアター8 ★★★☆

■わがまま娘が物作りという才能を開花させるとき

妖精ティンカー・ベルとして誕生した彼女に教えることで、同時に観客にもネバーランドにあるピクシー・ホロウという妖精の谷が紹介されていく。細部まで神経の行き届いた色鮮やかな景色や物に妖精たち……。いかにもディズニーといった世界なのだが、ファンタジーにはなじめない私も、このアニメの出来にはうっとりさせられた。

妖精たちの仲間入りを果たし、才能審査の末、物作り担当となったティンカー・ベルだが、物作りはメインランド(人間界)に行けないと知ると、自分の仕事がつまらなく思えてしまい、メインランドへの憧ればかりが膨らんでいく。

こんな場所で暮らせるだけでも素敵なのに、それにメインランドが何たるかも知らないっていうのに、と思わなくもないが、これは子供のあれが欲しいこれも欲しい的発想に近いかもしれない。

だから屁理屈は並べず、ティンカー・ベルのわがままが思わぬ騒動を起こして、春(を作り出すの)が間に合いそうになくなる、という流れは、大人にはもの足りなくても、子供たちには受け入れやすいのではないか。

実際、私の観た映画館は日本語吹替版ということもあって、かなりの人数を子供(5歳くらいの子も多かった)が占めていたのだが、驚くほど静かな鑑賞態度だった(上映時間が短いっていうのもある)。

そうやって不平不満分子のティンカー・ベルが色々なことに気づいていく教訓話であり、自分という個性の発見物語(無い物ねだりはやめようという話でもある)には違いないのだが、ティンカー・ベルに物作りという役割をふったことで(Tinker Bellは鋳掛け屋ベルとでも訳せばいいのだろうか。だから物作りなのね)、結果として子供向けの映画でありながら、物作りが基本の実体経済を顧みずに、マネーゲームに走って金融危機を招いたアメリカ合衆国の姿を反映することになったのは面白い。

もっともティンカー・ベルのやったことは、大量生産的手法で生産効率を上げることでしかないし(人類はそのことで生じた負の部分をどうするかについてはまだ明確な答えが出せずにいるものなぁ)、手間暇かける手作りのよさをないがしろにしているようにもみえてしまうから心配になる。それに、妖精のくせしてメインランドからの漂着物利用で難を逃れるというのも、解せない話ではある。

まあ、大量生産で間に合わせたからといって、予定通り春が用意出来れば次の夏をすぐさま作り始める必要などまるでないわけで、そもそもネバーランドでの生産活動は地球温暖化に繋がるものではないし、時間が余ったからといってその分余計に働かされるという心配もなさそうなんだけどね。

  

原題:Tinker Bell

2008年 79分 ■サイズ アメリカ 配給:ディズニー

監督:ブラッドリー・レイモンド 製作:ジャニーン・ルーセル キャラクター創造:J・M・バリー 原案:ジェフリー・M・ハワード、ブラッドリー・レイモンド 脚本:ジェフリー・M・ハワード 音楽:ジョエル・マクニーリイ 日本語吹替版エンディングテーマ:湯川潮音「妖精のうた」

声の出演:深町彩里(ティンカー・ベル)、豊口めぐみ(ロゼッタ)、高橋理恵子(シルバーミスト)、坂本真綾(フォーン)、山像かおり(フェアリーメアリー)、石田彰(ボブル)、朴路美(ヴィディア)、高島雅羅(クラリオン女王)

禅 ZEN

楽天地シネマズ錦糸町-3 ★★★☆

■月がでかすぎる

気が進まなかったし(なら観なければいいのにね)、冒頭にある道元の母の死の場面では少し引いてしまったし、続いて日本人俳優が中国語で演じ出しては仰天するしかなかったが(ひどいと思ったわけではない)、観終わってみると立派な映画だった。

道元の教えをきちんと知ろうとしたら、それは大変なのかもしれないが(現に『正法眼蔵』など、途中で投げ出しちゃったもの)、映画の中で繰り返し述べている程度のことであれば、案外すとんと入ってくる(むろん実践するとなると話は大いに違ってくるが)。というか、そういうことを念頭に置いて作ったのだろう。実にわかりやすく噛み砕かれたものになっていた。

「悟りを開こうと思うな」
「悟りが無限である以上、修行も無限」
「只管打坐そのものが悟り」
「生きてこそ浄土」

とはいえ、「あるがままでよい」のであれば、おりんに恋心(=欲)を抱いた俊了を追放(ではなく俊了が逃げ出すのだが)してすむことなのか。また、鎌倉というまだまだ生きていくことすら厳しい時代にあって、ただ座禅していればいいってもんじゃないだろう、というような話になってしまう。米が底をつき「ならば白湯で座禅をさせてもらう」って、それはないような(現代の富裕層には少しでも只管打坐をしてもらって、何をすべきかを考えて欲しいものだが)。

只管打坐なのだからと、映画でただひたすら座禅ばかりしているわけにはいかないわけで、だからこそのおりんの存在なのだが、彼女を準主人公にした設定は評価できる。道元だけを描いたら単調にすぎるし、それこそ観念論的なものになってしまっただろうから。

それでも何故か頻繁に画面に出てくる月が、あるがままどころか、馬鹿にでかくて、観念論で頭でっかちになっている象徴のように見えてしまうときがあった。

道元と北条時頼の対決場面も、時頼が何故道元の言葉に最終的にはうなずくことになるのかと言われればちとつらい(でもこれは誰がやっても描けないのではないか)のだが、ふたりのやり取りは真剣で、芯のあるものだった。

最後は、中国に渡ったおりんの姿が画面に映し出される。道元の教えが脈々と引き継がれていることを強調したのだろうが、入滅前の道元が懐奘におりんの得度をたのんでいるし、おりんが教えを実践している場面も入れたのだから、これはやり過ぎのような気がする。道元の意志が受け継がれていくという意味では、この少し前にすでに山門から続々と僧が出てくる素晴らしい場面があり、これで十分ではなかったか。

中村勘太郎は適役。道元入門映画として観るに値する。

2008年 127分 ビスタサイズ 配給:角川映画

監督・脚本:高橋伴明 製作総指揮:大谷哲夫 原作:大谷哲夫 撮影:水口智之 美術:丸尾知行 編集:菊池純一 音楽:宇崎竜童、中西長谷雄 音響効果:福島行朗 照明:奥村誠 録音:福田伸

出演:中村勘太郎(道元)、内田有紀(おりん)、テイ龍進(寂円、源公暁)、高良健吾(俊了)、藤原竜也(北条時頼)、安居剣一郎(義介)、村上淳(懐奘)、勝村政信(波多野義重)、鄭天庸(如浄)、西村雅彦(浙翁)、菅田俊(公仁)、哀川翔(松蔵/おりんの夫)、笹野高史(中国の老僧)高橋惠子(伊子/道元の母)

我が至上の愛 アストレとセラドン

銀座テアトルシネマ ★☆
銀座テアトルシネマにあった主役2人のサイン入りポスター

■古臭くて退屈で陳腐

エリック・ロメールが巨匠であることを知らない私には、えらく退屈で陳腐な作品だった。

まずわざわざ17世紀の大河ロマン小説を原作に持ってきた意味がわからない。古典に題材を求めたのは、ロメールがそこに「愚かなほど絶対的なフィデリテ(貞節や忠誠を意味する)」を見い出したからと、朝日新聞の記事(2009年1月15日夕刊)にあったが、映画から私が感じたのは、古典によくある、言葉を弄ぶ大仰さであって(こういうのが面白い場合ももちろんあるが)、現実感に乏しいものでしかなかった。

浮気と誤解され「姿を見せるな」と言われたのでアストレには会えない、とセラドンに言わせておきながら、もちろんそのことでセラドンは川に身を投げるし、助け出されても村には戻らずに隠遁生活のような暮らしを送ったりはするのだが、結局は、僧侶の差し金があったとはいえ、女装までしてアストレに近づくという笑ってしまうような行動に出る。

アストレもセラドンが死んだと思い込んでいたのに、僧侶の娘(セラドンが化けた)にはセラドンに似ているからにしてもぞっこんで、ふたりでキスをしまくってのじゃれようを見ていると、セラドンよ、喜んでいていい場合なのかと言いたくなってしまうのだが、当人は自分に気づかぬアストレの振る舞いを見て楽しんでいるふしさえあって、これではさすがにげんなりしてくる。

髭を薄くする薬があったというのはご愛敬としても、5世紀という時代設定なのにペンダントの中は写真だし、この時代の物とは思えない金管楽器に、印刷物としか思えない石版の文字……。

細かいことに文句を付けたくはないが、原作に忠実にガリア地方で撮影したかったが、手つかずの自然がなかったのでそれは断念した、などと言わずもがなのことをわざわざ映画の巻頭で述べていての、この時代考証の無視には頭をひねるしかない。

映画の虚構性についての、これがロメールの言及というのなら、少々幼稚と言わねばなるまい。テーマが古臭くとも今の時代に十分価値があると思っての「引退作」は、しかしそれなりの現代的な解釈や味付けが必要だったはずである。

原題:Les Amours D’astree et de Celadon

2007年 109分 35ミリスタンダード フランス/イタリア/スペイン 配給:アルシネテラン 日本語字幕:寺尾次郎

監督・脚本:エリック・ロメール 製作:エリック・ロメール、ジャン=ミシェル・レイ、フィリップ・リエジュワ、フランソワーズ・エチュガレー 原作:オノレ・デュルフェ 撮影:ディアーヌ・バラティエ 衣装:ピエール=ジャン・ラローク 編集:マリー・ステファン 音楽:ジャン=ルイ・ヴァレロ

出演:アンディ・ジレ(セラドン)、ステファニー・クレイヤンクール(アストレ)、セシル・カッセル(レオニード)、ジョスラン・キヴラン、ヴェロニク・レモン、ロセット、ロドルフ・ポリー、マティルド・モスニエ、セルジュ・レンコ

エレジー

シャンテシネ2 ★★★

■都合がよすぎてつけ加えた負荷

60を超えたじじいが30も歳下の美女に好かれてしまうという、男には夢としかいいようのない内容の映画である。原作はフィリップ・ロス。知性も名声もあるロスの実体験か。そんな話を聞かされても面白くはないが、でも、覗き見+なりたい願望には勝てない私なんであった。

自分は50人以上もの女性と付き合ってきたというのに、女の、50人以上からしたらたった5人の、それも「過去の」男であっても気になってしかたない。これは笑える(って、ただ私自身のことではないのと、そして自分でも同じようなことをやりかねない気分だからなのだが)。

男の失われた若さがそうさせている面もあるだろう。女のちょっとした言動にもやきもきしてしまうのだが、女は自分の家族に男を紹介しようとする。つまり本気。けれど、この恵まれた状況を、過去の人間関係にうんざりしている男は、見え透いた嘘で壊してしまうことになる。

話が少しそれるが、別れた妻との息子が、男の元に不倫の相談に来たりする。男は面倒そうにしている。この息子はファザコンなんだろうか。父親に不倫の相談というのも笑止千万なのだけれど、要するに、こういうやっかいな関係を昔作って今に至っていることを、男は後悔しているというわけだ。

また、別の女性(これまた自分の生徒だった時にものにしている。ただ相手も歳をそれなりに重ねているので老いを負い目に感じるようなことはない)と、長年にわたるある種の性的信頼関係が出来ていて(もっともこの女性も、女の存在に感づいて男を責めていた)、この理想的と思ってきた関係と、もしかしたら単なる若い女への欲望とを、比較しての選択だったか。

仲間の教授から注意されても、女との関係は断ち切れずにいたくらいで、だから男のこの感情は私にはわからなかった。もしかしたらこんな都合のよすぎる話では厚かましすぎると思ったのかもしれない(まさか)。

で、2年という時を経て女が再び男の前に現れる際に、男の老いに相当するような、乳癌という負荷を、女にもかけたのだろうか。

どちらも負い目を持った末に、純粋な愛という形を手にするというのがラストの海岸のシーンに要約されているのだけど(多分)、こじつけのような気がしてならなかった。

どうでもいいことだけど、ペネロペ・クルスは、ゴヤの「着衣のマハ」には似てないよねぇ。

原題:Elegy

2008年 112分 ビスタサイズ アメリカ 配給:ムービーアイ 日本語字幕:松浦美奈

監督:イザベル・コイシェ 製作:、トム・ローゼンバーグ、ゲイリー・ルチェッシ、アンドレ・ラマル 製作総指揮:エリック・リード 原作:フィリップ・ロス『ダイング・アニマル』 脚本:ニコラス・メイヤー 撮影:ジャン=クロード・ラリュー プロダクションデザイン:クロード・パレ 衣装デザイン:カチア・スタノ 編集:エイミー・ダドルストン

出演:ペネロペ・クルス(コンスエラ・カスティーリョ)、ベン・キングズレー(デヴィッド・ケペシュ)、パトリシア・クラークソン(キャロライン)、デニス・ホッパー(ジョージ・オハーン)、ピーター・サースガード(ドクター・ケニー・ケペシュ)、デボラ・ハリー(エイミー・オハーン)

2008年 映画ベスト10

181本(日本映画63本、外国映画118本)の08年鑑賞数(内短篇3、試写1、DVD等は0)からの選出(明かな旧作は除外した)。

本数は観ているものの、ブログに1本の感想も書いていない(書けなかった)ことでもわかるように、08年は07年以上に映画とはちゃんと向き合っていなかったため、ベスト10選びなどできるはずもなく、けど、それはそれ、といい加減に選んだのがこれ。

おまけの作品に至ってはさらに記憶が曖昧で(つまりベスト10も作品の良し悪ではなく、記憶により残ったという意味合いが強い。ま、もともとそんなものだけど)、何をどんなふうに感激したのか、気に入らなかったのかすっかりあやふやになっているが、それでもいいか、と記録しておくことにした(これでも数はかなり減らしたのだけどね)。

日本映画

1 人のセックスを笑うな(井口奈己) 
2 歩いても 歩いても(是枝裕和)
3 クライマーズ・ハイ(原田眞人)
4 スカイ・クロラ(押井守)
5 おくりびと(滝田洋二郎)
6 ぐるりのこと。(橋口亮輔)
7 青い鳥(中西健二)
8 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(若松孝二)
9 アフタースクール(内田けんじ)
10 落語娘(中原俊)

おまけ(観た順)。『うた魂♪』(田中誠)「タカダワタル的ゼロ』(白石晃司)『西の魔女が死んだ』(長崎俊一)『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊2.0』(押井守)『純喫茶磯辺』(吉田恵輔)『崖の上のポニョ』(宮崎駿)『きみの友だち』(廣木隆一)『デトロイト・メタル・シティ(李闘士男)『アキレスと亀』(北野武)『コドモのコドモ(萩生田宏治)『容疑者xの献身』(西谷弘)『ブタがいた教室』(前田哲)

外国映画

1 つぐない(ジョー・ライト)
2 ヒトラーの贋札(ステファン・ルツォヴィッキー)
3 ダークナイト(クリストファー・ノーラン)
4 ノーカントリー(ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン)
5 ラスト・コーション(アン・リー)
6 BOY A(ジョン・クローリー)
7 クローバーフィールド HAKAISHA(マット・リーヴス)
8 イースタン・プロミス(デヴィッド・クローネンバーグ)
9 宮廷画家ゴヤは見た(ミロス・フォアマン)
10 ベティの小さな秘密(ジャン=ピエール・アメリス)

おまけ(観た順)。『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』(ティム・バートン)『シルク』(フランソワ・ジラール)『やわらかい手』(サム・ガルバルスキ)『アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生』(バーバラ・リーボヴィッツ)『エリザベス:ゴールデン・エイジ』(シェカール・カプール)『4ヶ月、3週と2日』(クリスティアン・ムンジウ)『王妃の紋章』(張藝謀)『ハンティング・パーティ』(リチャード・シェパード )『ナルニア国物語 第2章:カスピアン王子の角笛』(アンドリュー・アダムソン)『幻影師 アイゼンハイム』(ニール・バーガー)『アウェイ・フロム・ハー 君を想う』(サラ・ポーリー)『ハンコック』(ピーター・バーグ)『イントゥ・ザ・ワイルド』(ショーン・ペン)『LOOK』(アダム・リフキン )『アイアンマン』(ジョン・ファヴロー)『ブーリン家の姉妹』(ジャスティン・チャドウィック)『イーグル・アイ』(D・J・カルーソー)『かけひきは、恋のはじまり』(ジョージ・クルーニー)『ブロークン』(ショーン・エリス)『ワールド・オブ・ライズ』(リドリー・スコット)『ウォーリー』(アンドリュー・スタントン)

マルタのやさしい刺繍

シネセゾン渋谷 ★★☆

■年寄りにも生き甲斐を!(ほのぼの系ながら痛烈)

ネットで刺繍の下着を売り出して大評判に、というのは最近ありがちな話なのだけど、主役に80歳の老女を持ってきたのは新味(だから話は主にネット通販以前のことになる)。なにより老女たちの笑顔が素敵で、元気が出る。スイス(映画なのだ。他にどんなスイス映画があったのかなかったのか、何も出てこないぞ)で大ヒットとしたというのも頷ける。

マルタにランジェリーショップを開くことをすすめた、アメリカかぶれだけど底抜けに明るかったリージの死(自殺でなくてホッとした)という悲しい出来事や、無理解の妨害やら挫折もあるが、思い通りに生きなきゃ人生の意味がないという当たり前のことを、マルタ(たち)は次第に自覚(思い出したのだともいえる)していく。

ここらへんは予想通りの展開なのだが、夫の死で生きる意味を失いかけていたマルタが、夫の禁止した刺繍で生き生きしてしまうというのが、皮肉というよりは痛烈だ。映画はそのことにそんなにこだわってはいないのだが……。

牧師である息子ヴァルターとの対立も深刻で、ヴァルターはリージの娘と浮気進行中なのだが、浮気云々より、ヴァルターが自分の都合を優先してマルタの開業したばかりのランジェリーショップを勝手に片づけてしまうことの方が、私には気になった。もっとも、その店をしれっとまた元に戻してしてしまうマルタたち、という図は喝采ものなのだが。

ハンニの息子も、党活動には熱心だが病院の送り迎えに嫌気がさして父親を施設に入れようとするし、出てくる男どもはどうかと思うようなやつばかり。そもそもスイスの田舎(お伽噺に出てくるような美しい所なのだ)がこんなに保守的だとはね(脚色ならいいのだけど)。ま、保守的なのは男どもで、彼らには妙な救いの手がさし出されることもなく、容赦がないとしか言いようがないのだが、でもだからか、かえってよけいな後を引かずにすんだのかもしれない。

マルタ役のシュテファニー・グラーザーが、役の設定では80なのに実年齢88とあって(ロビーに展示してあった雑誌の切り抜きによる。映画撮影時はもう少し若いのかも)、歩き方が若すぎないかと懸念していたものだから、びっくりしてしまった。

原題:Die Herbstzeitlosen 英題:Late Bloomers

2006年 89分 ビスタサイズ スイス 配給、宣伝:アルシネテラン 日本語字幕:(株)フェルヴァント

監督:ベティナ・オベルリ 原案:ベティナ・オベルリ 脚本:ザビーヌ・ポッホハンマー 撮影:ステファン・クティ 美術:モニカ・ロットマイヤー 衣装:グレタ・ロデラー 音楽:リュク・ツィマーマン

出演:シュテファニー・グラーザー(マルタ・ヨースト)、ハイジ・マリア・グレスナー
(リージ・ビーグラー)、アンネマリー・デューリンガー(フリーダ・エッゲンシュワイラー)、モニカ・グブザー(ハンニ・ビエリ)、ハンスペーター・ミュラー=ドロサート(ヴァルター・ヨースト)

007 慰めの報酬

新宿ミラノ1 ★★★

■続篇であって、続篇にあらず

話が前作からほとんど時間をおくことのない展開ということもあって、前作で確立した生身のボンド像を継承している。今回は拷問があるわけはないので、生身ではあっても多少スーパー度は戻ってきている。が、基本は前作と変わっていない、つまり『007 カジノ・ロワイヤル』で書いた感想と同じになるので、これについては繰り返さない。

ボンドは使命を遂行しながらもヴェスパーの復讐を胸に秘めていたというのが、今回のキモ。Mたちにはそれがボンドの暴走に見えてしまう(最後に本当のことがわかる)。

にしてはヴェスパーの映像が出ることもなく、それはギャラや肖像権の問題なのかどうかはわからないが、映画としては説明不足ではないか。作品の一部であるMはともかくとして、CIA役のジェフリー・ライトだって続き出だっていうのにさ。

まあ、前作は観ていなくても(忘れていても、つまり私のことだ)そんなには違和感はないのだけどね。ヴェスパーとミスター・ホワイトのことはそうなんだと思ってしまえば、悪役は表舞台にも立つドミニク・グリーンという人物で、全くの別な(というのではないが悪の世界も入り組んではびこっているのだな)わけだし。

怪物用心棒も出てこなければ、メドラーノ将軍にしても使い捨てにすぎないので、悪役たちが手薄な感じもしなくはない。利権話も、石油や鉱物資源などではなく水。金になれば対象が何であれかまわないわけで、これは1999年にボリビアで実際にあった事件を元にしているのだが、利権も含めてごくごく普通のもので駒を並べた印象だ(手詰まり故の逆転の発想なのかも)。

でありながらMI6にはスパイまで忍ばせているしたたかさ。ってほらね、やはりこういうのには不感症になっているから、そんなには驚けないでしょ。

その分アクションをエスカレートさせたのかもしれないが、私のように歳をとってきたものにはめまぐるしすぎた。しかも同時進行しているものにかぶせるような演出が2つも入っているのはどうしたことか。カーアクションなど多少ゆるくなっても、引いたカメラで位置関係をはっきりさせてくれた方が、緊張感は生きてくるはずなのだが。

ボンドガール(イメージとしては違うが)は、魅力的なオルガ・キュリレンコ(エヴァ・グリーンよりずっといい)だが、ボンドはヴェスパーの影を引きずった設定だからベッドを共にするわけにはいかなかったのか、キスまで。カミーユは復讐という目的のためには悪役の相手も辞さずにやってきたというのにね。もっともボンドも、フィールズ嬢とは豪勢なホテルで楽しんでるので、そういう部分ではヴェスパーの影を引きずってなどいない。

小道具は高機能携帯電話やMI6のコンピュータくらいだが、でもこのおかげでMとの連係(でなかったりの)プレーや、世界をそれこそ股に掛けての活躍が可能になっている。股に掛けた部分はカーアクションに似て目まぐるしくて、そこまですることもないと思うが、娯楽作としては十分なデキだ。

が、この作品最大の見所はラストのボンドとMのやり取りだろうか。ボンドは今回の行動とこれからの自分についてMに簡潔に答える。弁明なんだけどグッとくる。

 

原題:Quantum of Solace

2008年 106分 シネスコサイズ イギリス/アメリカ 配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント 日本語字幕:戸田奈津子

監督:マーク・フォースター 製作:マイケル・G・ウィルソン、バーバラ・ブロッコリ 製作総指揮:カラム・マクドゥガル、アンソニー・ウェイ 原作:イアン・フレミング 脚本:ニール・パーヴィス、ロバート・ウェイド、ポール・ハギス 撮影:ロベルト・シェイファー プロダクションデザイン:デニス・ガスナー 衣装デザイン:ルイーズ・フログリー 編集:マット・チェシー、リチャード・ピアソン 音楽:デヴィッド・アーノルド テーマ曲:モンティ・ノーマン(ジェームズ・ボンドのテーマ) 主題歌:アリシア・キーズ、ジャック・ホワイト

出演:ダニエル・クレイグ(ジェームズ・ボンド)、オルガ・キュリレンコ(カミーユ)、マチュー・アマルリック(ドミニク・グリーン)、ジュディ・デンチ(M)、ジェフリー・ライト(フィリックス・レイター)、ジェマ・アータートン(フィールズ)、イェスパー・クリステンセン(ミスター・ホワイト)、デヴィッド・ハーバー(ビーム)、アナトール・トーブマン(エルヴィス)、ロシー・キニア(タナー)、ジャンカルロ・ジャンニーニ(マティス)、ホアキン・コシオ(メドラーノ将軍)、グレン・フォスター(ミッチェル)、フェルナンド・ギーエン・クエルボ(カルロス大佐)、スタナ・カティック、ニール・ジャクソン

ミーアキャット 日本語版

新宿武蔵野館1 ★★

■貧血か居眠りか?

ミーアキャットのことはほとんど知らなかったし、動物ものなら見ていてあきないのだけれど、そしてコンパクトにまとまった予告篇はよくできていたのだけれど、そうはいっても物語映画にするようなフィルムだったか、という疑問は残る。テレビのドキュメンタリー番組として、解説もふんだんに入れてくれた方がタメになったように思うからだ(この内容なら時間も半分以下ですむだろう)。

家族愛(大家族)があって、ワシやコブラという天敵もいれば、同じミーアキャット同士の縄張り争いもあり、これを物語にしない手はないと踏んだのだろうが(後述の見せ場が撮れてしまったからかも)、でも生まれたばかりの1匹をコロと名付けて擬人化したことで、結局はありきたりの成長物語にするしかなくなってしまったともいえる。

教育係の兄(親ではないのね)からサソリの捕獲を教わったり、その兄の死(見分けがつかないのだな)や、コロが群れから離れてしまい、なんとか帰還する話も挿入してはいるが、ちょっと苦しい。

もちろん見せ場がないわけではない。巣にまでもぐり込んできて画面に大写しになるコブラは迫力で、しかも巣の道が二股に分かれた前で、コブラがどちらに行ったらよいか迷う(!?)というコブラの視点に切り替わる場面もある。コブラが尻尾を攻撃され、体を折り返すようにして狭い巣穴を戻っていくまでの編集は、アクション映画顔負けである。しかもこの場面は、後で起こるゴマバラワシの襲撃の伏線になっていて、結局悪役コブラは、ミーアキャットの代わりに、もう一方の悪役ゴマバラワシの餌食になってしまうというオチまでつく。

この話を可能にしたのは、巣穴でも写る赤外線カメラや至近距離での映像なのは言うまでもないだろう。体長30センチというミーアキャットの視線から見ると、世界も一変する。カラハリの、過酷な地だという説明がつく割には、意外と狭い範囲に多くの生き物がいる事実にも驚かされる。

その撮影だが、オフィシャル・サイトに行ったら、本当に手の届くような至近距離で撮影している写真があってびっくりした。ミーアキャットに、人間は安全な生き物と認識させてしまったのだろうか。30センチの視線は、単純に穴を掘ってカメラの位置を下げたようだ。

ミーアキャットが日光浴のために後ろ足と尾で直立する姿が可愛らしいため、これが盛んに宣伝に使われている。利用しない手はないと私も思うが、予告篇は「日光浴を時々やりすぎて貧血をおこす」なのに、オフィシャル・サイトの説明文だと「陽だまりの心地よさに立ったまま居眠りを始める」なの?

原題:The Meerkats

2008年 83分 シネスコサイズ イギリス 配給:ギャガ・コミュニケーションズ

監督:ジェームズ・ハニーボーン 製作:トレヴァー・イングマン、ジョー・オッペンハイマー 構成:ジェームズ・ハニーボーン ナレーション脚本:アレキサンダー・マッコール・スミス 撮影:バリー・ブリットン 編集:ジャスティン・クリシュ 音楽:サラ・クラス ナレーション:ポール・ニューマン 日本語版ナレーション:三谷幸喜

ブロークン・イングリッシュ

銀座テアトルシネマ ★☆

■運命の人をたずねて三千里(行きました!パリへ)

仕事にも友達にもめぐまれているのに運命の人にはめぐり会えなくって(男運が悪い)、とノラは言うのだけれど、あれだけ片っ端から恋していっては、切実感などなくなろうというものだ(いや、切実だからこそそうしてるのか)。というか、気持はわかるのだけれど、なんか恋愛をはき違えているような。

俳優との一夜のアバンチュール(でないことをノラはもちろん願ってはいたけれど)や、失恋から抜け出せない男とのデートを経て、でもなんとかこれぞと思うような相手に行きつくが、でもそのジュリアンはフランス人で、仕事が終われば帰国という現実が当然(知り合って2日目だからノラにとっては突然)やってくる。実を言うとジュリアンが何故、ノラにそんなに執心になるのかがわからないのだけど、それはまた別の話になってしまうのでやめておく。

恋に臆するような伏線があるから情熱的なジュリアンには引いてしまう(ノラ自身がニューヨークで築いてきたことを諦めなければならないということも大きいとは思うが)、という流れにしたのだろうけど、でもここにくるまでに観ている方はちょっとどうでもよくなってきてしまったのだ。筋がどうのこうのじゃなく、恋探しゲームでくたびれてしまったのかどうか、それが三十路だかアラフォーだかしらないけれど、そういった年代の恋なのか。ようするに私にはよくわからないだけなのだが。

親友は結婚してしまうし、母親からは「その歳でいいものは残っていない」なんて言われてしまうし。じゃないでしょ。で、まあ、そういう、じゃなくなる映画を監督は撮ったつもりなのかもしれないのだけれど。

どこにでもあるような話でしかないとなると、あとは結末で勝負するしかなく、実際そう思って観ていたのだが(というか、こんな覚めた目で恋愛映画を観てしまったらもうダメだよね)、結局は「偶然」でまとめてしまうのだから芸がない。もちろん、ノラがパリへ行ったからこその偶然と強弁できなくもないが、それを裏づけたり生かすような演出は残念ながら私には見つけられなかった。例えば、バーで紳士から「自分の中に愛と幸せを見つけろ」みたいな忠告はもらって、それはそうにしても、ここまできてこれかよ、なんである。

この「偶然」に照れてしまったのは案外監督自身だったか。だからか、パリへ行ってからの演出は生彩を欠いていて(好き嫌いでいったらニューヨーク篇の方がいやだけど)、ノラに対しては表面的な優しさばかりの、それこそ異国人に対するお出迎えになってしまったのだろうし、地下鉄の偶然の場面でも、ノラの内面ほどにはカメラは動揺しなかったのだろう。

原題:Broken English

2007年 98分 ビスタサイズ アメリカ/フランス/日本 配給:ファントム・フィルム 日本語字幕:■

監督・脚本:ゾーイ・カサヴェテス 製作:アンドリュー・ファイアーバーグジェイソン・クリオット、ジョアナ・ヴィセンテ 製作総指揮:トッド・ワグナー、マーク・キューバン 撮影:ジョン・ピロッツィ プロダクションデザイン:ハッピー・マッシー 衣装デザイン:ステイシー・バタット 編集:アンドリュー・ワイスブラム 音楽:スクラッチ・マッシヴ

出演:パーカー・ポージー(ノラ・ワイルダー)、メルヴィル・プポー(ジュリアン)、ドレア・ド・マッテオ(オードリー・アンドリュース)、ジャスティン・セロー(ニック・ゲーブル)、ピーター・ボグダノヴィッチ(アーヴィング・マン)、ティム・ギニー(マーク・アンドリュース)、ジェームズ・マキャフリー、ジョシュ・ハミルトン、ベルナデット・ラフォン、マイケル・ペインズ、ジーナ・ローランズ(ヴィヴィアン・ワイルダー・マン)

英国王給仕人に乾杯!

シャンテシネ1 ★★★☆

■人生はどんでん返し=元給仕人の語る昔話

かつてドイツ人の村があったというズデーデン地方の廃墟に、15年の刑期を終えたヤン・ジーチェがやってくる。この男の語る昔話が滅法面白く、加えて演出も、無声映画風であったり、画面を札束や切手で飾ったり、裸の美女を適度?に配したりの、あの手この手を使ったサービス精神旺盛なもので、ウイットに富んだ作品となった。

駅のソーセージ売りだったヤンは、ホテル王を夢見て給仕人になり、プラハの高級ホテルの給仕長に上り詰めていく。ヤンは言うなれば世渡り上手。スクシーヴァネク給仕長のように、客の欲しがるものを見抜く才能こそないが、要領はいいし、運も味方してくれる。とはいえヤンが言うように「人生はどんでん返し」の連続なのだが。

もっとも、裸女を札束や料理で飾り付ける変な性癖はあるし、小銭をばらまいてはそれを拾おうとする金持ちたちを見て人間観察の目を養う(たんに優越感に浸りたかっただけとか)っていうのだから、ヤンに感情移入とまではいかない。

欲望にとらわれた人間の生態を面白可笑しく語る流れのまま、話はいつのまにかヒトラーの魔の手が伸びたチェコという複雑な歴史の側面に及ぶ。が、深刻な話であっても語り口はあくまで軽妙で、息苦しさとは無縁だ。

ドイツ人娘リーザとの困難な結婚から、優生学研究所に勤めたことで仕入れた話など、どこまでが本当なのだろうと思うくらい興趣にあふれたもので、あきさせることがない。この優生学研究所は、富豪用のお忍び別荘だったチホタ荘が接収されて出来たのだが、戦争末期は傷病兵の療養所に変身している。裸女たちがプールで優雅に侍っていたのに、それが手足のない傷病兵に置き換わってしまう描写がやたらリアルなものに見える。

リーザが集めていた切手で手に入れた戦争後のホテル王の地位は、チェコスロバキアの共産化で、束の間の夢どころか牢獄行きとなってしまい(顔なじみの金持ちたちと一緒になれて、それもヤンには楽しかったようだが)、その刑期あけが、廃村で暮らすヤンというわけだ。

ただ、その割には昔を語る現在のヤンの立ち位置が曖昧というか、まあそこらへんは本人も自覚していないから、鏡を部屋にいくつも並べた自問自答場面となるのだろうか。

その現在の部分に割り込んできた、大学教授と一緒にやってきたという若い女の存在も、何かが起きそうな予感をいだかせただけで去って行ってしまうのは、昔のことならいくらでも面白可笑しく語れるが、さすがに進行形のものとなるとそうもいかないということか。あるいはこれも、全篇に共通するこだわりのなさのようなものか。

英国王給仕人だったのはスクシーヴァネク給仕長で、本人はそうではないから題名の『英国王給仕人に乾杯!』は違和感があるが、昔話なんて所詮脚色されたもの(英国王給仕人だったとは言っていないが)、という意味にとれば合点がいく。

 

原題:Obsluhoval Jsem Angkickeho Krale 英題:I served the King of England.

2006年 120分 ビスタサイズ チェコ/スロバキア 配給:フランス映画社 日本語字幕:松岡葉子 字幕協力:阿部賢一

監督・脚本:イジー・メンツェル 製作:ルドルフ・ビエルマン 原作:ボフミル・フラバル 撮影:ヤロミール・ショフル 音楽:アレシュ・ブジェジナ

出演:イヴァン・バルネフ(青年期のヤン・ジーチェ)、オルドジフ・カイゼル(老年期のヤン・ジーチェ)、ユリア・イェンチ(リーザ)、マルチン・フバ(スクシーヴァネク給仕長)、マリアン・ラブダ(ユダヤ人行商人ヴァルデン)、ヨゼフ・アブルハム(ブランデイス)、ルドルフ・フルシンスキー(チホタ荘所有者チホタ)、イシュトヴァン・サボー、トニア・グレーブス(エチオピア皇帝)

地球が静止する日

楽天地シネマズ錦糸町-1 ★★★

■地球に優しく!?(何様のつもり)

どうかなと思う部分だらけなのだが、この手のSFものには目がないため、点数が大甘になっていることをまず断っておく。

なにしろ、胎盤のような宇宙服から複製された人間の体で異星人が現れるところや、たとえ造形が不満(というのとも違うのだが)であっても巨大ロボットが登場すると聞いてしまったら(むろん観るまで知らなかったことだが)もうそれだけでワクワクしてしまう体質なのである。

セントラルパークにやってきた球体宇宙船?には関心できない(こんなのごまかしだい!)が、スタニラフ・レムの『砂漠の惑星』を想わせる増殖型の小型昆虫ロボットにはアドレナリンが吹き出した(ただし予告扁にも使われていた、大増殖したこの昆虫ロボットが競技場を飲み込んでしまうシーンなどにも、細かい注文はつけたい気分ではある)。

とはいえ、話はとんでもなくお粗末。文明で数段優った異星人が、地球を守るために人類を抹殺するしかないというのは納得(反論出来ないもの)だけど、そのための調査に何年も前に先発隊を送り込んでおきながら、間際に異星人クラトゥ(DNAを採取して人間型となっている。でなくても表情の乏しいキアヌは宇宙人ぽいが)の判断でどうにでもなるというのだから。

地球人側(米国の対応に限られているのは映画の事情だがろうが、各国が連携してこの事態にあたれるかというと、現状では難しそうだものね)も大統領(何で最後まで出てこない!)の代理である国防長官が、あわよくば異星人をやっつけられるかも程度の認識で、交戦してしまうのだから恐ろしい。こういう行動に出そうなヤツっていそうだものね。

国防長官は異星人の圧倒的な力の前に、あっさり考えを改めるのだけれど、いくら仕方ないとはいえ、これはこれでなんだかな、なのである。

繰り返しになるが、地球を守るためには人類は不要というのはまさに正論だから、笑ってしまうしかないのだが、異星人の破壊行動だって、それが地域限定(かどうかは?)だとしても、生態系根こそぎの抹殺でしかなく、そのためにノアの箱船もどきの種の捕獲にいそしんでいたのだとしたら、異星人たちの脳味噌もお里が知れていて、技術=知性にあらず、になってしまう(って、これは映画人という人類が考えたのだった)。

そういや、すでに人類と何年も暮らしてきたという先発隊の調査員が、クラトゥに「俺は人間が好きなんだ」みたいなことを言っていたが、そんな発言を聞いてしまっては、この異星人たちの生きていく規範のようなものを訊ねてみたくなってしまうではないか(どう定義して映画を作ったのだろうか)。

異星人の目的が、旧作では核兵器の放棄(冷戦時代の終結)だったものを、地球温暖化問題に置き換えてしまうのだから、まったくもってハリウッドも商魂たくましい。最近このテーマのものが急増しているものね。まあ、それはいいことなんだけどさ。

大作B級映画だよね。私は十分楽しませてもらいました。

 

 

原題:The Day the Earth Stood Still

2008年 106分 ■サイズ アメリカ 配給:20世紀フォックス映画 日本語字幕:■

監督:スコット・デリクソン 製作:ポール・ハリス・ボードマン、グレゴリー・グッドマンアーウィン・ストフ 脚本:デヴィッド・スカルパ 撮影:デヴィッド・タッターサル 視覚効果スーパーバイザー:ジェフリー・A・オークン プロダクションデザイン:デヴィッド・ブリスビン 衣装デザイン:ティッシュ・モナハン 編集:ウェイン・ワーマン 音楽:タイラー・ベイツ

出演:キアヌ・リーヴス(クラトゥ)、ジェニファー・コネリー(ヘレン)、ジェイデン・スミス(ジェイコブ)、キャシー・ベイツ(国防長官)、ジョン・ハム、ジョン・クリーズ、カイル・チャンドラー、ロバート・ネッパー、ジェームズ・ホン、ジョン・ロスマン