真夏のオリオン

109シネマズ木場シアター6 ★★☆

■生きるために戦う

すでに敗戦となってから六十四年。現代に結びつけるためには主人公の孫娘に登場願わないではいられないほど昔のことになってしまった(孫娘でもきついような?)。これほど時が経ってしまうと、すぐそこにあったはずの太平洋戦争(もちろん私だって知らないのだが、戦争はそんな私にとっても、そう古くない時期にあったのである)も、映画などには次第に現代風な装飾がほどこされていくのだろうか。

女教師の倉本いずみが古い楽譜を手に鈴木老人を訪ね、祖母有沢志津子の名(署名も欧文というのがねぇ)のある楽譜を、何故アメリカ兵が持っていたかを聞き出す。楽譜にはイタリア語で「オリオンよ、愛する人を導け。帰り道を見失わないように」と書いてあるのだが、まずこの構成(楽譜が悪いというのではない。お守りとして適切かどうかはともかく)が気に入らない。戦争映画のくせに何故か格好を付けているような気がしてしまうのだ。

格好の話でいけば、相変わらず戦争映画なのに長髪で、まあそれは目をつぶるにしても、とても出演者があの頃の戦争当事者には見えない。これは時代劇なのにお歯黒じゃなかったりするのと同じと、そろそろ観念しなくてはならないのかもしれないのだが。

というわけで、戦争映画にしては泥臭さのまったくない作品となった。舞台がイ-77潜水艦なので、その艦長である倉本に言わせると、潜水艦乗りは「いったん海に出てしまえば自由」な場所だからということもあって(倉本がそういう自由な雰囲気を作っていたこともあって)、日本軍につきもののしごきなどの場面もなく、目の前には戦争という個人ではぬぐいきれない困難こそあるものの、その他は善意でなんとかなってしまう世界にしてしまっているのだ。

もっとも同乗している回天の乗組員たちはそんな空気にはなじめずにいるのだが、倉本は特攻兵器の回天でさえ、端っから特攻させる気などなく(軍法会議ものなのじゃないかしら)、駆逐艦の攻撃を受けて動けなくなり酸欠になれば、回天にある高圧酸素を使ってしまうし、攻撃の際には、偽装のため二基の回天を(スクリュー音の数を潜水艦に合わせるため)、乗組員なしで発鑑させてしまう(二つともなかなかのアイデアだった)。

「俺たちは死ぬために戦っている」という彼らに対し、「たった一つの命なのにもったいない」「死ぬために戦っているのではない、生きるために戦っている」と倉本の言は明快なのだが、ここまで格好よくしていられただろうかと、逆に落ち着かなくなってしまうほどだ。

倉本は有沢志津子にも絶対帰ってくると言っていたし、これはやはり今の視点で太平洋戦争を解釈してみせたととった方がわかりやすそうだ。「始めた戦争を終わらせるのも軍人の仕事」とイ-81の艦長有沢(志津子の兄)と語り合うのもそういう視点でのことだったのだ、と思えばとりあえずは納得できる(もちろん、そう考えていた人もいただろうが)。

というわけで、マイク・スチュワートを艦長とする米海軍駆逐艦パーシバルとの戦いも陰湿なものではなく、お互いの存在を認め合ったゲーム的な感覚に終始したものとなっている。倉本とスチュワート艦長が互いに秘術?を尽くしたあとに、イ-77は回天の偽装で駆逐艦の船尾に最後の魚雷を命中させる。撃沈こそできなかったものの一矢を報いたのだ、とうまくまとめている。ただ、敵のソナーをかいくぐっている状況にしては音に無頓着だったり(昔のマンガや映画ではこれがもっと緊迫感ある場面として使われていたが?)、CGやミニチュア?がちゃちに見えてしまうのは残念だった。

攻撃兵器を使い果たしたイ-77はパーシバルの前に浮上するが、スチュワート艦長もいきなりの攻撃はせず、イ-77の総員退艦を待つよう命じる。そしてその時、駆逐艦上が歓声に包まれる。日本の降伏が知らされたのだ。回天搭乗員の遠山は先に行った仲間に顔向けできないと倉本に銃を向け徹底抗戦を迫るが、倉本のこれが終わりではなく始まりだという説得に銃を下ろす。結局倉本のイ-77は、事故で水雷員一人を失っただけで日本に帰ることが出来た、って、うーん、やっぱりなんか格好よすぎなんだけど……。

   

2009年 119分 シネスコサイズ 配給:東宝

監督:篠原哲雄 監修・脚色:福井晴敏 製作:上松道夫、吉川和良、平井文宏、亀井修、木下直哉、宮路敬久、水野文英、吉田鏡、後藤尚雄 プロデューサー:小久保聡、山田兼司、芳川透 エグゼクティブプロデューサー:梅澤道彦、市川南、佐倉寛二郎 企画:亀山慶二、小滝祥平 原作:池上司『雷撃深度一九・五』 脚本:長谷川康夫、飯田健三郎 撮影:山本英夫 視覚効果:松本肇 美術:金田克美 編集:阿部亙英 音楽:岩代太郎 主題歌:いつか『願い星 I wish upon a star』 照明:小野晃 製作統括:早河洋、島谷能成 装飾:尾関龍生 第2班監督:岡田俊二(ニューヨークユニット監督) 録音監督:橋本文雄

出演:玉木宏(倉本孝行/海軍少佐、イ-77潜水艦艦長)、堂珍嘉邦(有沢義彦/海軍少佐、イ-81潜水艦艦長)、平岡祐太(坪田誠/軍医中尉、イ-77軍医長)、黄川田将也(遠山肇/イ-77回天搭乗員)、太賀(鈴木勝海/イ-77回水雷員)、松尾光次(森勇平/イ-77水雷員)、古秦むつとし(早川伸太/イ-81水雷長)、奥村知史(小島晋吉/イ-77水測員)、戸谷公人(山下寛二/イ-81水測員)、三浦悠久(保憲明/イ-77回天搭乗員)、山田幸伸(岡山宏次/イ-77水雷員)、伊藤ふみお(有馬隆夫/イ-77機関科員)、鈴木拓(秋山吾朗/イ-77烹炊長)、北川景子(倉本いずみ、有沢志津子/有沢義彦の妹、いずみの祖母)、デヴィッド・ウィニング(マイク・スチュワート/米海軍駆逐艦パーシバル艦長)、ジョー・レヨーム(ジョセフ・フリン/パーシバル副長)吉田栄作(桑田伸作(特務機関大尉、イ-77機関長)、鈴木瑞穂(現在の鈴木勝海)、吹越満(中津弘/大尉、イ-77航海長)、益岡徹(田村俊雄/特務大尉、イ-77水雷長)

愛を読むひと

109シネマズ木場シアター4 ★★★★☆

■娘に聞かせる自分の物語

原作を読んだのは五年くらい前だったと思うが、例によって細部はすっかり忘れていて(恨めしい記憶力! しかもその文庫本もどこへ行ったのやら)、でもそれだからマイケルがハンナに出会うところから全部を、まるで自分の回想のように、ああそうだった、と確かめるような感じで観ることができた(すべてが原作と一緒というのではないのだろうが、曖昧な記憶力がちょうどいい作用をしてくれたようだ)。

これはちょっとうれしい経験だった。なにしろ前半は甘美で、舞い上がりながらも年上のハンナに身を任せていればいいのだから……。そうして、その先に起きることも知っているのに、映画にひき込まれていたのだった。

それにしてもハンナは何故自殺してしまったのか。無期懲役の判決で希望はなくても生きていたというのに。坊やからのカセットで、罪と引き換えにしてまでも隠そうとした文盲であることの恥からも解放されていたというのに。坊やの態度があまりにも他人行儀だったからか。生まれた希望が消えそうになった時、人は死を選ぶのだろう。

映画はマイケルの回想でもあるから現代ともリンクしていて、だからそこにはマイケルの主観が強く反映されているはずなのに、心理的な説明には意外と無頓着でさえある。けれど、そのことによって、マイケルの、そしてハンナの気持ちも探らずにはいられなくなるのである。

十五歳の時に二十一歳年上の女を愛せたマイケルは、七十三歳のハンナには惹かれることのない五十二歳になっていたのか。皮肉なことにケイト・ウィンスレットは私の目には三十六歳の時よりも七十三歳のメイクの時の方が美しく見えたのだが……(まあ、これは本当の年齢を知ってるからかもしれないが)。

それはともかく、マイケルのハンナに対する感情はそんな簡単なものではなかったのだろう。マイケルは、ハンナが着せられた罪が真っ当でないことは知っていたが、しかし、彼の学友がハンナを糾弾したように(注1)、程度の差こそあれナチスに加担したハンナを、いくら時間が経過したとしても、喜んで受け入れられはしなかったのではないか(注2)。

話がそれたが、問題はハンナがマイケルの心象についてどこまで考えていたかだが、もしかしたら、そんなにも問題視していなかったような気もする。

罪は法的な意味合いしかないにしても償ったわけだし、少なくともハンナはハンナに罪をなすりつけた元同僚たちのような、相手を貶めるような嘘はついていない(文盲についての嘘はついたが)。また、例えばマイケルの前から姿を消してしまったのも、市電の勤務状態がよく、昇進してしまっては文盲などすぐバレてしまうからなのだが、経歴詐称をしていたことなどは考えられないだろうか。これは考えすぎにしても、ドイツが戦争に対する反省を繰り返して来たことからも、ハンナが普通の人間であれば、罪の意識は十分あったはずである(だからといって、過去の行為を深く反省していたかどうかはまた別の問題ではあるが)。

けれど、ハンナの自殺は、そんなことではなくて、マイケルの手に重ねた自分の老いた手を引っこめなければならなかったことにあったような気がする。女性看守が「昔はきちんとしていたのに、最近はすっかりかまわなくなってしまって」とマイケルに言っていたが、ハンナの部屋はすべてが整然としていた。ここでの映画の説明は、荷物を片付けなかったのはハンナがここを出て行くつもりがなかったこととしていたが、身辺にかまわなくなったハンナにしては、マイケルによってもたらされた文字という世界を知った喜びを表現したような部屋になっていた(注3)。

私としては、身の回りのことをかまわなくなったハンナが、マイケルの来訪を知って、出来る限りのことをしたのではないかと思いたいのだが……。でもだからこの部屋はハンナにとって、もう悲しみ以外の何物でもなくなっていたのではないか。

もうひとつ。これは本がそうだったかどうかの記憶がないのだが、つまりすっかり忘れてしまったのだが、この物語が、マイケルが娘に語る自分に関する話になっていることで、これだけの話を娘に語れるのであれば、マイケルと娘との関係はそうは心配しなくてもいいのではないだろうか。妻とは別れてしまっていて、その影すらほとんど出てこないのは気がかりではあるが(作品としてはこれでいいにしても)。

しかし作品の中でケイト・ウィンスレットがいかに好演したにしても(デヴィッド・クロスもよかったが、十五歳はきついか)、これはやはりドイツ語によって演じて欲しかった。その弊害がいろいろなところで出てしまっているのだ(注4)。語学に疎い私ではあるが、マイケル・バーグという名のドイツ人といわれてもしっくりこない。やはりミヒャエル・ベルグでなくては(ハンナ・シュミッツは同じなのかしら)。

注1:この裁判は目くらましで、たまたま生き残った囚人が本を書いたからスケープゴートにされたに過ぎないと言っていた。また、この学生は君が見ていたあの女(ハンナ)を撃ち殺したい。出来れば全員を撃ち殺したいとも発言している。

この作品ではナチス狩りの正義が、まるで魔女狩りの如くだったことも描かれていて、これも重要なテーマの一つとなっている。ロール教授の法的見解(問題は悪いことかどうかではなく法に合っているかどうか)もそれを踏まえたものになっている。

注2:だから最初の面会も手続きをすませながら、マイケルは姿を消してしまったのだろう。ただ、これについてはあまり自信がない。単純にかつて愛したハンナの老いに、やはり戸惑ったととるべきか。ただし、ハンナの秘密を守ったのはハンナの意志を尊重したマイケルの愛で、だからこそハンナにカセットテープを送り続けたのだろう。

注3:ハンナが文字を覚えていく過程は、涙が出るくらい素晴らしい感動に溢れていた。

注4:注3で触れた場面だが、ハンナが本の「the」の部分に印を付けていったり、もっと前ではマイケルに朗読をせがむ場面では、ハンナはラテン語やギリシャ語を美しいとまで言うのだ。こんな言葉にこだわったセリフがあるのに、ドイツ語を英語にしてしまう神経がわからない。

 

原題:The Reader

2008年 124分 アメリカ、ドイツ 配給:ショウゲート 日本語字幕:戸田奈津子

監督:スティーヴン・ダルドリー 製作:アンソニー・ミンゲラ、シドニー・ポラック、ドナ・ジグリオッティ、レッドモンド・モリス 製作総指揮:ボブ・ワインスタイン、ハーヴェイ・ワインスタイン 原作:ベルンハルト・シュリンク『朗読者』 脚本:デヴィッド・ヘア 撮影:クリス・メンゲス、ロジャー・ディーキンスプロダクションデザイン:ブリジット・ブロシュ 衣装デザイン:アン・ロス 編集:クレア・シンプソン 音楽:ニコ・ムーリー

出演:ケイト・ウィンスレット(ハンナ・シュミッツ)、レイフ・ファインズ(マイケル・バーグ)、デヴィッド・クロス(青年時代のマイケル・バーグ)、レナ・オリン(ローズ・メイザー/イラナの母親、イラナ・メイザー)、アレクサンドラ・マリア・ララ(若き日のイラナ・メイザー)、ブルーノ・ガンツ(ロール教授)、ハンナー・ヘルツシュプルング(ユリア/マイケルの娘)、ズザンネ・ロータ(カーラ/マイケルの母)