インスタント沼

テアトル新宿 ★★★☆

写真1:麻生久美子着用の「沈丁花ハナメの衣装」+「まねきねこ」。写真2:監督、出演者のサイン。写真3:監督からのメッセージ(いずれもテアトル新宿にて)。

■見えない物が見える!

目に見える物しか信じられない沈丁花ハナメだが、担当雑誌が危機になったことで、心霊スポット紹介など、意に染まぬ仕事をさせられることになり、どころか結局雑誌は廃刊(部長は休刊と言っていたが)が決まり、男にもフラれた彼女は出版社を辞めてしまう(編集長?だったのにね)。

そんなジリ貧人生、どころか底なし沼人生真っ只中のハナメが、昔の母の手紙で、聞いていなかった自分の父親の存在を知る。真相を確かめるべく母のところに行くが、彼女は河童を捕まえようとして池に落ち、意識不明のまま入院してしまっていた。現実主義者のハナメに対して母には河童や妖精が見えるのだった(そう言われてもなぁ。ここらへんではまだ全然映画にのれてなかったからね、いい加減にしろよ三木聡、などと言っていた)。

というわけで、父親は一体……という興味がハナメならずとも湧いてくるのだが、「沈丁花ノブロウ」は電球商会なる骨董品屋を営む、「電球」と呼ばれる怪しいオヤジで、そう簡単には正体がわかりそうもない、というかそれは買いかぶりにしても、ハナメに何かをもたらしたのは確かで、そこに出入りするパンクロッカー(姿だけ?)のガス(電気屋なのにね)たちとの奇妙な交流が始まる(電球には自分が娘であるということは隠したままになってしまい、あとで悔いていた)。

くだらない話なんだけど、これが楽しいのだ。「ツタンカーメンの占いマシーン」やテンションを上げるための「水道の蛇口」(をひねる。もったいないので私にはできないのだが、ここではとりあえず水を無駄にはしていなかった。ま、あとで、ホントかどうか大量の土砂に大量の水をまいてたから、やっぱりもったいないんだが)に、何でもない「曲がった釘」とか。

いつしかハナメは骨董品にはまって、骨董品屋の才能があるかも、とこれは電球におだてられて、なけなしの貯金百万円で骨董品屋を開いてしまう。が、そううまくいくはずもなく、でもここで電球の秘法?「水道の蛇口」に力づけられて、黒にこだわった骨董品屋に変えて久々の成功を手にすることが……。

ところが電球は急に店を辞めると言い出し、ハナメには沈丁花家に代々伝わる蔵の鍵を百万円で売りつけてとんずらしてしまう。蔵から出てきたのは大量の土砂で、けど、ハナメのどういう思考回路がそう結論づけたのか、あの土砂はインスタント沼で、水を注げば沼になるのだ、って。はぁ? いやもう、すっかり目に見えない物が見える思考回路になっちゃってるじゃないのよ。

まあこのあたりごり押しもいいところなんだけど、でもガスが最後までハナメに付き合ってくれて(ぶーたれてたが)、案外親切なヤツだってことがわかったり、で、びっくり仰天の龍まで出てきちゃってさぁ……。うん、見えない物が見えない私も見たよ、龍(当たり前か。映画館で寝なかった人は全員見られます!)。寝たっきりだった母親も「龍に助けてもらった」と、目を覚ます。なんだよ、やっぱり死んだフリだったのかよ(って、違うか)。

まあ、そんないい加減でそんなにうまくいくものか、とは思うのだが(龍の件は別にしても)、馬鹿馬鹿しい展開の先の、この幸福感は捨てがたいものがある。「しょうもない日常を洗い流すのだぁ」というハナメの宣言は、私のような変人向きへのエールにもなってくれているのだった。

フラれた男を違う角度(頭上)から見ると、彼の頭は禿げていて(「あっ、河童だ!」)、つまりハナメは、しっかり見えなかったものも見えるようになっていた(ってたまたま上から見下ろすところにいただけなんだが)というオチが愉快だ。

  

2009年 120分 ビスタサイズ 配給:アンプラグド、角川映画

監督・脚本:三木聡 撮影:木村信也 美術:磯見俊裕 編集:高橋信之 音楽:坂口修 主題歌:YUKI『ミス・イエスタデイ』 コスチュームデザイン:勝俣淳子、山瀬公子(ハナメ・コスチュームデザイン) 照明:金子康博 録音:小宮元 助監督:中里洋一

出演:麻生久美子(沈丁花ハナメ)、風間杜夫(電球、沈丁花ノブロウ/ハナメの父)、加瀬亮(ガス)、松坂慶子(沈丁花翠/ハナメの母)、相田翔子(飯山和歌子)、笹野高史(西大立目/出版社部長)、ふせえり(市ノ瀬千)、白石美帆(立花まどか)、松岡俊介(雨夜風太)、温水洋一(サラリーマン)、宮藤官九郎(椹木/刑事)、渡辺哲(隈部/刑事)、村松利史(東/リサイクル業者)、松重豊(川端/リサイクル業者)、森下能幸(大谷/リサイクル業者)、岩松了(亀坂/泰安貿易社長)

アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン

新宿武蔵野館1 ★★☆

■シタオ=イエス?

私立探偵のクラインは、大企業を裸一貫で育てたという男から息子の捜索依頼を受ける。息子の名はシタオ(木村拓哉が演じていることもあり、日本人と思ってしまうが、シタオというのがねぇ? 妙な名前を考えたものである)。シタオはミンダナオにいると言われたクラインはロサンゼルスから現地へ向かうが、すでにシタオは殺されたという。

どうやらシタオは貧しい人たちを救済しようとしていて、寄付を頼んでまわっていたらしい。寄付を断ると何時間も説得し続け、うるさく感じた者によって殺されてしまったようだ。で、このあとは香港へ舞台が移るのだが、この説明はあやふやだ。「状況は死亡を示しているが、俺の勘は、生きている」って言われてもなぁ(香港の母の墓に花があったという情報はあった)。まあ、捜索費用をふんだんにもらっているんで、香港にまで足を伸ばすくらいは屁でもなかったのだろうが。

このクラインは元刑事で、実は二年前に連続猟奇殺人犯を殺してしまい、そのことが深い傷となっていた。この場面は繰り返されるだけでなく、香港で再会した刑事時代の仲間であるメン・ジーにも、クライン自身が退職理由として語っている(精神科に入院していたとも言っていた)。犯人は二十四人も殺した彫刻家(目がなく口が異様に大きく開いた彫刻のおぞましさを見よ!)で、被害者が生きているうちに切断したのだという。そして、二十七ヵ月犯人を追っていたクラインは「ヤツに同化」してしまう。そのことを「汚染」と形容していたが、しかしこれはあくまでクラインの告白であって、内容に比べるとあっさりしすぎている嫌いがある。

クラインが犯人にどう同化したのかがわかりにくいのだ。そこを明確にし、この話だけに絞った作品にしたら面白いものになったと思うのだが、映画は場面こそ執拗に繰り返すものの、これを挿話のひとつにしてしまっている。実は冒頭の衝撃的な場面がまさにクラインが犯人を追い詰めたところなのだが、ここでの眼目も「イエスの苦悶は終末まで続く」と言わせることにあるようなのだ(つまりそういう物語なのだ、と)。

映画は更にもう一人の人物を登場させる。香港マフィアのボス、ス・ドンポで、彼は姿を消した愛人のリリが、シタオと一緒にいるらしいことを知る。ドンポは卑劣で冷酷極まりない男だ。残忍さも連続猟奇殺人犯に負けていない。それでいてリリには異常な執着をみせるが、このことがリリを薬物中毒から救ったシタオへの憎悪となり、彼を殺してしまう。いや、それはリリがシタオを介抱したからか(むろん、これはリリが快復したあとのこと。シタオもリリによって癒されるのだ)。あるいは、シタオを「世界一美しい」と言ったことへの嫉妬か。または、シタオに「あなたのような人が僕を恐れる」と言われたからだろうか。

シタオについては、ミンダナオではそう明らかにされなかったが、香港に場面が移った直後に、血だらけの子供を、シタオは特殊な力で救っている。他人の痛み(傷)を、自分で引き受けるかのようにして。なるほど彼にはそんな力があったのだ。ドンポに手を打ち付けられるのはまるでイエス・キリストで、これはドンポの悪趣味がそうさせたのかも知れないが、さすがに「あなたを赦す。愚かさの故に」とシタオに言われてしまっては、「地獄を見てきた」ドンポも涙を流さずにはいられない。

この場面の直前には、またクラインと連続猟奇殺人犯の場面があって、「至高の肉体の完成には人類の苦痛が必要」だとか「キリストの受難の完成」「ついに苦悶が成就する」などという言葉がばらまかれているから、どうしてもイエスに関連付けたいのだろう。だが、シタオはイエスなのだろうか(イエスのようだがイエスではない男を語りたいがためにしていることともいえるが、本当のことは私にはわからない)。

シタオは確かに他人の痛みを取り除く奇蹟は見せるが、他の力は明らかにはされていない。いや、復活はしているか。しかも何度も。そしてもしかしたら、香港に来たのはミンダナオからの移動復活だった可能性もある。だが、シタオは、寄付を要求したが、説教はしていないようだ。積極的に神の国を説こうとはしていないのだ。すでにイエスによって行われたことを、神がまたするとは思えないので、この比較は意味がないのだが。

最期は、クラインがシタオのところにやってきて、連れ帰るよう父親に依頼されたことを告げ、シタオの手から釘を外し、お終いとなる。この時シタオは金粉で飾られているのだが、これはシタオの信者らしき青年がしたもので、彼に言わせると主(シタオのことか?)ならば、どこにでも行ける(つまり自由に動けるということなのか?)かららしい。

ここから先は、無神論者の妄想なので、読まない方がいいかもしれない。

シタオ(シタオは下男、つまり神に遣わされた下界の人間なのだ)が何度も復活するのは、愚かな人間が過ちを繰り返すからで、案外イエスが復活を繰り返した結果が、今のシタオなのかもしれない。だから彼はイエスと呼ばれなくても、イエスと同じなのだ。神の国を説かず、幾重にも小ぶりになってしまったイエスだが、神はもう人間には、そんな人物(というか神の子だが)を遣わすしかなく、そして、シタオの父=神は、結局はシタオを回収することにしたのだ。クラインという連続猟奇殺人犯に同化した人間を使者に仕立てて……。

クラインを使者にしたのがグロテスク過ぎるような気もするが、人間はもう神に見放されてしまったのだ。I Come with the Lain なら、いつでも彼はやって来そうだが、回収されてしまった今となっては、彼はもう来ないのである。まあ、私には神はいないので、この妄想は根本的に間違ったものなのだが……。

原題:I Come with the Lain

2009年 114分 フランス シネスコサイズ 配給:ギャガ・コミュニケーションズ 日本語字幕:太田直子

監督・脚本:トラン・アン・ユン 製作:フェルナンド・サリシン、ジャン・カゼ、ジョン・キリク 製作総指揮:サイモン・フォーセット、アルバロ・ロンゴリア、ジュリー・ルブロキー 撮影:ファン・ルイス・アンチア プロダクションデザイン:ブノワ・バルー 衣装デザイン:ジュディ・シュルーズベリー 編集:マリオ・バティステル 音楽:レディオヘッド、グスターボ・サンタオラヤ

出演:ジョシュ・ハートネット(クライン/私立探偵)、イライアス・コティーズ(ハスフォード/連続殺人犯)、イ・ビョンホン(ス・ドンポ/香港マフィアのボス)、木村拓哉(シタオ/失踪者)、トラン・ヌー・イェン・ケー(リリ/ドンポの愛人)、ショーン・ユー[余文樂](メン・ジー/クラインの刑事時代の仲間)、ユウセビオ・ポンセラ