不完全なふたり
2007年07月08日 日曜日
新宿武蔵野館2 ★★
■黒いカットはNGか
ニコラ(ブリュノ・トデスキーニ)とマリー(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)という結婚して15年になる金持ちの夫婦が、友達の結婚式に出席するためにリスボンからパリにやってくる。映画はホテルに向かうタクシーの映像で始まる。
交わされる会話はありきたりで他愛のないものだが、この映像は撮り方が印象的(進行方向は右。車全体ではなく顔がわかるところまで近づいたもの。一応会話を追っているのにわざわざ外側から撮っている)なだけでなく、このあとに展開される2人の気持ちのゆらぎや夾雑物を、タクシーのガラス窓に映し込んでいた。
次はホテルの1室。簡易ベッドを運び込ませている。これについては合意事項らしいのに、どちらがそれを使うかで、くだらない意地を張り合う。
夜のレストランに2人の友人夫婦ときている。2人は彼らにとって理想の夫婦だったようだ。新しい仕事の話が出たところだったが、ニコラの切り出した離婚という言葉でその場の雰囲気が変わってしまう。
ホテルでもレストランでもカメラは動こうとしない。長回しはいい意味で俳優に緊張感を強いる場面で使われることが多いが、ここでは言葉が途切れた、その時を際立たせるために使用しているように思えた。あるいは、大まかな流れの中で、セリフを俳優たちにまかせて撮っていったことの結果かもしれない。具体的な撮影方法について知っているわけではないので、憶測でしかないが、もしかしたらこの黒い画面はNG部分だったのかとも思えてしまう。全体で10カットもなかったと思われるが、でもこれだけあるとやはり気になる。監督の意図が知りたくなる。
この長回しは、最後のホームの場面まで続くから、カット数は相当少なそうである。だからといって、全篇それで押し通そうとしているというのではなく、顔のアップなどでは手持ちカメラも含めて、わりと自在にカメラをふっている。
ニコラとマリーの離婚話に戻るが、ニコラの言い出したそれは、マリーには唐突だったらしい(まさかとは思うが、友達に話したのが最初だったとか?)。部屋に鍵を置いたまま出かけてしまったニコラを責めるのは当然としても、結婚パーティーに出かけるのにドレスや靴のことであんなに情緒的になられては(私と行きたい?とマリーはニコラに何度か訊いていた。しかしこのセリフはものすごく理論的でもある)、ニコラとしてもやりきれなくなるだろう。
ふくれっ面で結婚式を通したらしいマリーに、今度はニコラがあたって、夜の街に飛び出していく。着信履歴があったからとカフェに女性を呼びだし、結局何もなかったのだが、ホテルに戻ったら夜明けになっていた。
眠れなかったというマリーと帰ったニコラの会話は、自由を感じたかったというニコラと何年も孤独だったというマリーの、もう刺々しくはない穏やかな、でも接点のないものだ。
マリーはその日、2日続けで来たロダン美術館で、古い友達のパトリック(アレックス・デスカス)に声をかけられる。娘を連れてきている彼に妻を亡くした話を聞き涙するマリー。流れがうまく読めないのだが、それにしてもこの涙には危うさを感じないではいられない。
なにしろ、場面の空気はわかっても映画は説明することをしないから、観客は自分に引きつけて考えるしかなくなるのだが、とはいえニコラは建築家でマリーは写真家だったらしいし、なにより裕福そうだから、私などそう簡単には映画に入っていけない。少なくともニコラが離婚を言い出した理由くらいは明らかにしてくれないと、もやもやするばかり(でもこれで十分という見方もできるのが人間関係のやっかいさかも)。また、説明は排除しても俳優の個性は残るから、普遍性を持たせた(かどうかは知らないが)ことにもならないと思うのだが。
マリーが別に部屋をとったからか、自分の知らない旧友に会ったからかどうか、ニコラがマリーにキスの雨を降らせる場面があるのだが、ベッドに移りながら何故かそれはそこで中断となって、ニコラはマリーに、明日はボルドーに行くから1人で帰ってと言われてしまう。
次の日駅にやって来た2人はホームで見つめ合う。荷物は乗せたのに、いつまでも見つめ合っているものだから、列車は行ってしまうのだ。で、ふふとか言って笑いだすのだけど、いやもう勝手にしてくれという感じ。
『不完全なふたり』は原題だと『完全なふたり』のようだけど、これはどっちでも大差ないということか。だったら「完全な」の方がよくないか。「私たち何をしたの? 何をしなかったの?」という問いかけを、あんな笑いにかえられるんだもの。これ以上の完全はないでしょ。
ところでびっくりしたことに、監督はフランス語がほとんどわからないのだそうだ。公式ページのインタビューでそう答えている(http://www.bitters.co.jp/fukanzen/interview.html
)。「もし全能の立場を望むのであればこの映画をフランスで撮りはしなかった」とも。なるほどね、やはりそういう映画なんか。しかし私としては、監督はあくまで全能であってほしいと思うのだけどね。
原題:Un Couple Parfait
2005年 108分 ビスタサイズ フランス 日本語字幕:寺尾次郎 製作:コム・デ・シネマ、ビターズ・エンド 配給:ビターズ・エンド
監督:諏訪敦彦 プロデューサー:澤田正道、吉武美知子 構成:諏訪敦彦 撮影:カロリーヌ・シャンプティエ 衣裳:エリザベス・メウ 編集:ドミニク・オーヴレ、諏訪久子 音楽:鈴木治行
出演:ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ(マリー)、ブリュノ・トデスキーニ(ニコラ)、アレックス・デスカス(パトリック)、ナタリー・ブトゥフー(エステール)、ジョアンナ・プレイス(ナターシャ)ジャック・ドワイヨン(ジャック)、レア・ヴィアゼムスキー(エヴァ)、マルク・シッティ(ローマン)、デルフィーヌ・シュイロット(アリス)
図鑑に載ってない虫
2007年07月08日 日曜日
新宿武蔵野館2 ★★★☆
■岡っていう字がアザラシに似ている
この映画について書くのは難しい。この面白さを伝えられる人は、すでに作家を生業としているか他人と尺度が違いすぎて(映画を楽しむのとは別)生活破綻者になっている気がするのだ。真っ当とはいわないが、作家からも生活破綻者からも遠い所にいる私が書くことなどないではないか。
で、このままペンを置けばいいのだけど、私はそういう部分では気が小さいというか律儀なのな。ということで、何の展望もないのだが、とりあえず粗筋から書くことにする。
フリーライターの俺(伊勢谷友介)は『月刊黒い本』の女編集長(水野美紀)から臨死体験ルポを書くよう指示されるのだが、そのためには「死にモドキ」という虫がうってつけなのだという(というより死にモドキによる臨死体験ルポなのか)。が、誰もそんな虫の存在など知らないから、俺はアル中のオルゴール職人で金欠のエンドー(松尾スズキ)と、まず死にモドキを探すことからはじめる。手がかりはカメラマンの真島(松重豊)がすでに死にモドキを追っていたというこどだけ……。
死にモドキを追う過程で、自殺願望(リストカットマニア)のあるSM嬢のサエコ(菊地凛子)が加わって乞食の巣になっている島に上陸したり、目玉のおっちゃんにその弟分のチョロリ(ふせえり)などがからんで、話は脱線するばかり。これじゃあ話にならないよと思った頃に、「死にモドキのいるところが見つかったよ」とサヨコからメール。えー。
締め切りまであと2日というところで、死にモドキを手に入れて臨死体験にも成功するのだが、俺は「結局死んでるのか生きてるかわからない」という結論になる。こんなだからか原稿もボツ。編集長には取材の経費も返せと言われてしまう。でもよくわからん。だって、一緒に臨死体験をしたエンドーが死んで1週間と言っていたのに、これはまだ2日後なんだもの。
よーするに、この映画にとって話はほとんど関係なくて、ただ三木聡が面白いと感じたことを話の間に散りばめていったにすぎないようだ。つまり、そこに出てくる面白さは、話とは無関係の面白さであって、話は面白さを適当にばらまくための装置でしかないのである。
面白さの定義はいろいろあるだろう。それこそ知的な笑いから低俗なものまで。で、ここにあるのはそういうのとは無関係の(低俗には引っかかるものはあるか)、笑いの1つ1つが響き合うこともなく、だから筋道のある笑いではなくて、独立しているのである。でもそれでもおかしいのだけど。
1つだけにしておくが、たとえば「岡っていう字がアザラシに似ている」と唐突に言われてしまうのである。で、それをおかしいでしょ、と押し売りされたら臍を曲げたくなるかもしれないのだけど、やっぱりおかしいのだ。だってアザラシなんだもの(もっともつまらなかったり、よくわからないものもあるのだが、とにかくそういうのがものすごい量詰まっているのである)。
三木聡は『イン・ザ・プール』『亀は意外と速く泳ぐ』で「脱力系」映画作家ということになっているらしいが、これもそんなところか。脱力系という言葉もよくわからないが、脱力とはいえそこに力がないかというとそんなことはなくて、でも大勢には影響しない力というか。そうか。笑いの質もこれかな。
ね。だからこういうのっていくら書いてもしかたのないことになってしまう。ただちょっと付け加えておきたいのは、この映画を見ていると俺とエンドーの、あんなにいい加減であっても、そこにはある信頼関係のようなものがあって、それがじんわりと伝わってくるということだ。あとはサヨコが母の死を思い違いしていたような映像もあるのだけど、全体のくだらない雰囲気に飲まれて、よくわからにままに終わってしまったのだった。
以下、おまけ。
図という字は、泳いでいるエイで、
鑑という字は、大金を前にガハハと大笑いしている顔で、
載という字は、車に寄っかかってタバコを吸っている人で、
映という字は、昔ウチにもよく来ていた野菜を担いで売りに来ていたおばさんで、
画という字は、リニアモーターカー(玉電にしかみえない)が正面から突っ込んでくるところ……。
真似してみたけど、やっぱ、才能ないみたいなので、ヤメ。
2007年 103分 ビスタサイズ
製作:葵プロモーション、ビクターエンタテインメント、日活、IMAGICA、ザックプロモーション 配給:日活
監督・脚本:三木聡 製作:相原裕美、大村正一郎、高野力、木幡久美、宮崎恭一 プロデューサー:原田典久、渋谷保幸、佐藤央 協力プロデューサー:林哲次 撮影:小松高志 美術:丸尾知行 編集:高橋信之 音楽:坂口修 コスチュームデザイン:勝俣淳子 ラインプロデューサー:鈴木剛、姫田伸也 照明:松岡泰彦 録音:永口靖
出演:伊勢谷友介(俺)、松尾スズキ(エンドー)、菊地凛子(サヨコ)、岩松了(目玉のおっちゃん)、ふせえり(チョロリ)、水野美紀(美人編集長)、松重豊(真島)、笹野高史(モツ煮込み屋の親父)、三谷昇(種田師匠)、渡辺裕之(船長)、高橋恵子(サヨコの母親)、村松利史(半分男)、片桐はいり(SMの女王様)、森下能幸、志賀勝、嶋田久作、つぐみ、園子温、山崎一、田中哲司、マメ山田、佐々木すみ江、新屋英子
12
2007年07月09日 月曜日
GyaO ★★★
■ゲームの世界で生きていたティ!?
『レベル・サーティーン』の公開に合わせて、その前作にあたるというこの『12』も、パソコンテレビGyaOで配信されていたらしい。が、私が知ったのは昨日のことで、でも34分の短篇だというので、そのまますぐ観てしまったのだった(ずっと行っていなかったせいか、GyaOではまた登録するようにいわれた)。
34分の短篇ながら、キー様(ちゃんと同一人物が演じているみたい。ま、こっちでも回想場面とDVDに残っている映像だけで、ほとんど顔は見せないのだが)誕生秘話という側面も少しだけあって、なかなか興味深いものに仕上がっている。
半年前に学校から消えたキーと、今朝チャットをしてきたというチャイタワット(彼は直接はキーのことを知らない)の話を聞いたティは、バエとミクの4人でキーの家を訪ねるが、母親はキーは半年前に死んだと言う。
その晩、単なる懐かしさからか、それとも気になることでもあったのか、家でPCをしていて、課外授業の映像が入っているDVDを見始める。するとその時、キーがティのPCにアクセスしてくる。
ティが課外授業の映像を見ていることをPCの向こうにいるキーが知っているのは、すでに『レベル・サーティーン』と同等の世界を作ってしまったということなのか(ティはまわりを見渡すが、もちろん自宅に監視カメラらしいものは見あたらない)。ただ、このあと父親にPCの電源を切られてしまうことまで予言してしまうあたりの不気味さは、『レベル・サーティーン』以上だろうか(予言でないとすると父親もからんでいてのことで、それだとさらに恐ろしい話になる)。
キーはゲームにはまって、理想の空想世界の話ばかりをしていたという。そこでの彼は時間すら自由にできる全能の支配者で、そこを13と名付けていたようだ。彼が選んだ人間しか住めないその世界は、非常に遠くにあって常人は来れない(これはキーによる説明)のだが、彼は一緒に行こうと友達を誘っていたのだ。
このあとティにケータイがかかってきたところで、上から窓枠が落ちてくる事故があるのだが、これがキーの仕業なのかどうかははっきりしない(ケータイの声も違うようにも聞こえるし、そのことについてはごまかしていた)。
生物の授業中にバエが、今夜ハッキングしてキーに連絡をとろうと言い出す。するとティのケータイにキーから「僕を追跡したらバエにつきまとう」と、脅かしともとれる連絡が入る(授業中のケータイは当然教師の怒りを買うことになるが、これはミクがティの身代わりになってくれる)。
この晩、ティはまたキーとチャットをするのだが、ティのPCにバエが割り込んできて、キーのIPアドレスから場所を特定したと報告が入る。そして、それは学校だという。が、そこに昨日と同じようにいつまでもPCをやめないことを怒った父親がやってきて、ティはPCをやめざるをえなくなる。
翌日学校へ行くとバエが来ていない。そのうち学校へ警察とバエの両親がやってくる(ティの父親は警官だったのだな)。バエの行方がわからないらしい。
そしてその夜、ミクから誘われたティは彼と一緒に学校へ乗り込んで行く……。
『レベル・サーティーン』の最後にある際立ったアイディアこそないが、ゲームとして進行して行く構成にはなっていないので、もちろん単純に比較などできないのだが、こちらの方が怖い。少なくともティは自分からゲームに参加したわけではないのだ。ティの父親が絡んでいるのなら別だが、そうでないとするとオカルト色も強い。でありながら、こちらの方がまだ入りやすいのは、『レベル・サーティーン』のように引いてしまいたくなる要素がうまく隠されているからだ。
生物学教師によるキーに対する性的いたずらという事件(学校で見たPCには課外授業映像の続編があった)もうまく織り込んで、しかしここではミクがキーによってゲームに参加させられていて、ティは焼却炉でバエの二の舞になる(焼却炉の中でティが見つけるバエの持ち物がよくわからなかった)という結末となる。
『レベル・サーティーン』を観てしまっているので、結末自体の衝撃度はそう高くないのだが、ミクがこれでレベル12を終えたとなると、その先の13には何が待っているのかはやはり知りたくなる。ミクに13の課題をすぐに与えるというキーのセリフがあって、TO BE CONTINUEDという文字があらわれる。で、それが『レベル・サーティーン』ということになるのだろうが、この映画の続きも観たいではないか。
ミクがゲームをしていたとなると、それはいつからで、どんなことをしてきたのか。考え出すときりがなくなってくる。
ティの父の関与もだけど、もしかしたら教師だってゲームをやっていた可能性がありだからだ。とはいえこれは「先生はバエとティが脅迫メールを送ったので彼らを殺しに来たが、自分の行動に反省し自殺した」と、完璧な筋書きができたとことをキーが喜んでいたから違いそうだ。でもこれだって、全部キーの演出とこじつけることはできるだろう。
原題:12
2006年 33分48秒 ビスタサイズ タイ
監督:マシュー・チューキアット・サックヴィーラクル
出演:(資料がないので、役名のみ書いておく)ティ、ミク、バエ、チャイタワット、キー、ティーの父/警察官、サク先生
大日本人
2007年07月14日 土曜日
シネマスクエアとうきゅう ★★★★
■ある落ち目ヒーローの日常
長髪の中年男(松本人志)をカメラは追い、誰かが質問する。男はいやがっているのかいないのか、照れているのかいないのか、しぶしぶなのか、でもまあ律儀に1つ1つ答えていく。
インタビューされていた男は大佐藤大という元ヒーロー。いや、現役なのだが、人気は落ち目だから元かな、と。雇い主は防衛省だから国家公務員!? だが、変身時の体に広告を入れ、稼ぎにもしている(ということは公務員じゃないか)。月給は体を張った仕事にしては安く(20万)、副業の30万がないと厳しそうだと言っていたが、女マネージャーの小堀(UA)にいいように誤魔化されていた。
妻には逃げられ、娘にもなかなか会えず、でも恩ある祖父の4代目大佐藤(矢崎太一)の面倒は見たいと思っていてと、ヒーローというイメージからは遠いのだが、しかしヒーローの日常生活など案外こんなものかと思わせる。細部にこだわってるからね、そうかなーって。それにしても大佐藤は人気がない。インタビュー中にも家に投石されるような、つまり非難されている状態にあるのである。
インタビュー形式なので、とにかくいろんなことがわかる。折り畳み傘とわかめちゃんが好き(どちらも大きくなる)。猫と同居。自炊することが多いが、商店街の蕎麦屋へは月に2、3回出かけ力うどんを食べる。本当は男の子が欲しかったが、女の子でもこの仕事はできるだろう、と考えている。仕事以外の旅行は無理。反米感情というのではないが、アメリカはあまり好きではない。大佐藤家は戦時中は羽振りがよかった。4代目は今軽い認知症になっている。父は「粋な人」で、もっと大きくなろうとして急逝したらしい。名古屋に行きつけの店があり、そこの50歳くらいのママと懇意にしている。少年時代は肥満児。まだ体ができていないのに父に電気をかけられそうになり祖父に助けられる(でも電気にはかかってしまったらしい)。などなど(後半に答えていたこともまとめて書いてしまったが)。
公園でレポーターの質問に答えていると、大佐藤のケータイに出動要請がかかってくる。山の中にある防衛省の施設(変電所?)へとバイクで出かけていくのだが、ある場所からは取材班は入れてもらえない(遠くからは神主とかも見えたが? 一応は軍事機密なんだろうか)。
んで、電気をかけられて巨大化した大佐藤は、秋葉原に出現した締ルノ獣(海原はるか)と戦うのである(何なのだ、この映画は)。締ルノ獣についてはすでにカルテのようなものができていて、しかしそれは戦前に作られたものらしく、古めかしい能書きが読み上げられるのがおかしい。
いや、もう何から何までおかしいのだ。インタビューがそうだし、まず大佐藤という名前がおかしい。変身すれば髪はツンツンになってるし、パンツ1丁の全体は5頭身(?のイメージ)。どうみても強そうではないが、といって頑強な首回りなど弱そうでもない。対する怪獣も、カッコ悪く(不細工といった方がいいかも)どれもがいやらしくてえげつないとしかいいようのないものなのだが、素行調査済みらしく(もしかしたらすでに対戦済みということもあるのかも)、何とか勝ってしまうようなのだ。
名古屋に出張し、頭の広告を隠さないようにしながらも跳ルノ獣(竹内力)をやっつけ、また戻ってからは、睨ムノ獣を撃退するのだが(けっこう活躍しているのにね)、日本のものではないらしい赤い怪獣の出現には、勝手が違ったのか隠れて逃げてしまう。意外にもこれが好評で、数字(視聴率)がすごくよかったと小堀もうれしそうだ。ちょっと前に4代目が勝手に電気を流して大きくなり、いたずらをしまくった非難が大佐藤に向けられてスポンサーもカンカンだったのだ。
赤い怪獣は、週刊誌の吊り広告によると、どうやら「将軍様の怒りに触れた」ことで登場したらしく、つまり北朝鮮産のようだ。
このあとも匂ウノ獣の雌(板尾創路)と雄(原西孝幸)が現れたり、理屈っぽいくせにその体形と要求することだけは赤ん坊なので童ノ獣(神木隆之介)と名付けられた怪獣(映画ではただ「獣」と言っていた)が登場。大日本人は童ノ獣に乳首を噛まれたことで、抱いていた手を離して殺してしまうという事件まで起きる。
この事件が契機となったのかどうか、防衛症は大佐藤の家に突入し電気をかけ変身させてしまう。あの赤い怪獣がまたやってきたのだが、それにしても強引だ。4代目が助っ人にくるがやられて、万事休すというところで、何でか「ここからは実写でご覧ください」となる。
実写版と言われてもちょっとぴんとこなかったのだが、要するにCGではないということで、だから全員が着ぐるみでセット(ミニチュアのビルなど)の中に立って演じるので、実写という言葉とは裏腹に、セットは全部偽物だからいかにも安っぽいものとなる。
ここにスーパージャスティスというアメリカ産?のヒーロー一家がやってきて、大日本人の代わりに赤い怪獣をやっつけてくれるのだ。光線も出せず、飛べない大日本人は添え物になってしまうのだが、しかしスーパージャスティスたちは大日本人が欠けることを許してはくれない。防衛省の裏切り?と重なってこれは意味深だ。
ではあるのだが、この実写版への切替は松本人志の行き詰まりではないか。せっかくの話を何故ここでぶち壊してしまったのか、と(だから行き詰まりなんでは)。だけどエンドロールでは大阪弁のスーパージャスティス一家に反省会(段取りが悪いとか、パンツを1発で破ってほしかったとか)をやらせて笑いを取っていて、そこはさすがなんだけど。でもこれも誤魔化しの延長線に思えなくもない。それにしても反省会(にまで付き合わされて、「ぜひ」と言われて酒を飲ませられちゃってる大日本人ってさ。
普段テレビを見る時間がほとんどないので、松本人志の笑いがどんな質のものなのかまるでわからないのだが、これは楽しめた。続篇でも別のものでもぜひ観てみたい。ぜひ。
【メモ】
第60回カンヌ国際映画祭“監督週間”部門正式招待
変身した大日本人は、2、3日経つと元の戻るという。ただしばらくは鬱と言っていた。
大佐藤家は代々の変身家系らしいが、とはいえ電気が必要らしく、ちゃんと祖父が4代目と辻褄は合っているようだ。ということは戦争ではどんな活躍をしたのだろう。やっぱり
スーパージャスティス一家にやられちゃったんだろか。
変身に神主を付けるのは防衛省の方針なのか(突入時にもいたからね)。
2007年 113分 ビスタサイズ 配給:松竹
企画・監督:松本人志 プロデューサー:岡本昭彦 製作代表:吉野伊佐男、大崎洋 製作総指揮:白岩久弥 アソシエイトプロデューサー:長澤佳也 脚本:松本人志、高須光聖 撮影:山本英夫 美術:林田裕至、愛甲悦子 デザイン:天明屋尚(大日本人刺青デザイン) 編集:上野聡一 音楽:テイ・トウワ、川井憲次(スーパージャスティス音楽) VFX監督:瀬下寛之 音響効果:柴崎憲治 企画協力:高須光聖、長谷川朝二、倉本美津留 照明:小野晃 装飾:茂木豊 造型デザイン:百武朋 録音:白取貢 助監督:谷口正行
出演:松本人志(大佐藤大/大日本人)、インタビュアー(長谷川朝二:声のみ)、矢崎太一(4代目大日本人)竹内力(跳ルノ獣)、UA(小堀/マネージャー)、神木隆之介(童ノ獣)、海原はるか(締ルノ獣)、板尾創路(匂ウノ獣♀)、原西孝幸(匂ウノ獣♂)、ステイウイズミー(宮迫博之/スーパージャスティスの母)、スーパージャスティス(宮川大輔)、街田しおん
キサラギ
2007年07月14日 土曜日
新宿武蔵野館3 ★★★★
■5人が集まったのにはそれなりのわけがあった
自殺した2流アイドル如月ミキの1周忌に、ネットで知り合った家元(小栗旬)、オダ・ユージ(ユースケ・サンタマリア)、いちご娘(香川照之)、スネーク(小出恵介)、安男(塚地武雅)という5人のオタクがオフ会で集まるというぞっとしない内容に、あまり気が乗らずにいたのだが(この映画の面白さは予告篇では伝えにくいかも)、観てびっくり。完全に作者の術中にはまっていた。
ビルの1室だけでの展開が見事。それを支えているのは5人の性格の書き分けと役割分担で、途中退席を繰り返す安男も、進行上邪魔になったからとりあえず消えてもらうというのではなく、大いに必然性があってのことだから唸らせられる。逆に言うと、無駄な人物がいないということが嘘くさいのだが、これは難癖。映画というよりは演劇を意識した作りだから当然の帰結だろう。
込み入った話ながら(だからか?)1度観ただけでは齟齬は発見できなかった。脚本がよく練られていることの証だ。肥満の激痩などというトリッキーな展開もあるのだが、これにも笑わせられた。
そして1番のいい点は、ミキの死の真相が自殺から犯罪、そして事故死と推理される過程で、5人それぞれにミキの死がある希望のようなものをもたらすだけでなく、現実としての連帯感まで生んでしまうことだ(ネット上には虚構ながらそれがあったから集まったのだろうから)。
もっともこのミキの死の推理は、意地悪な見方をすると、ミキ信者故の願望があったから導かれたのだということもできるのだが、それは当人たちも自覚していることだし、こちらも自然に、それもよし、という気持ちになっていたのだった。
これだけ楽しめたのだから大満足なのだけど、最後の宍戸錠の出てくる場面と、もう死んでしまって今は存在しない如月ミキの扱い(挿入される映像)がしょぼいのはやはり減点対象かな。
2007年 108分 ビスタサイズ 配給:東芝エンタテインメント
監督:佐藤祐市 原作・脚本:古沢良太 企画・プロデューサー:野間清恵 製作:三宅澄二、水野勝博、橋荘一郎、小池武久、出雲幸治、古玉國彦、石井徹、喜多埜裕明、山崎浩一 プロデューサー:望月泰江、井口喜一 エグゼクティブプロデューサー:三宅澄二 撮影:川村明弘 編集:田口拓也 音楽:佐藤直紀 主題歌:ライムライト『キサラギ』 VFXスーパーバイザー:野崎宏二 映像:高梨剣 共同プロデューサー:宮下史之 照明:阿部慶治 録音:島田隆雄 助監督:本間利幸
出演:小栗旬(家元)、ユースケ・サンタマリア(オダ・ユージ)、香川照之(いちご娘)、小出恵介(スネーク)、塚地武雅〈ドランクドラゴン〉(安男)、末永優衣、米本来輝、平野勝美、宍戸錠、酒井香奈子(如月ミキ)
ダイ・ハード4.0
2007年07月16日 月曜日
楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★★☆
■ぼやきから悟りへ
悪党は最初から悪党。小賢しいドンデン返しなどないから、いたって明快。よけいなことは考えずに、次々と展開するアクション場面に身をまかせていればいいという方針は大いに評価できる。
ジョン・マクレーン(ブルース・ウィリス)は音信不通気味の娘ルーシー(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)のことが気になってニュージャージー州の大学までやってくるのだが、女子大生のルーシーは、ボーイフレンドと一緒のところだった。ルーシーがそんなに心を許した相手ではなかったのだが、間の悪い訪問ということもあって、マクレーンは冷たくあしらわれてしまう。今回は奥さん(離婚したのね)は登場しないが、相変わらず家の方は問題が山積みのようだ。
そこへ本来は管轄外なのだが、マクレーン警部補がそこにいるならと、近くに住むハッカーのマット・ファレル(ジャスティン・ロング)をFBIまで連れていく護送任務を言いわたされてしまう。ワシントンDCのFBI本部に設置されたサイバー保安局のボウマン(クリフ・カーティス)が異変を感じたことで、ブラックリストに載っていたハッカーたちが一斉に捜査対象となったのだ。
マクレーンがファレルのところに乗り込むと、そこでいきなり銃撃戦となる。ファレルはシステムへの侵入をセキュリティチェックと言いくるめられて、テロリストたちに利用されていたが、用済みになったところで足が着くからと、抹殺される寸前だったというわけだ。
全米のインフラを監視するシステムを掌握した(単純ながら妙に現実味を帯びたアイディアだ)トーマス・ガブリエル(ティモシー・オリファント)とただの刑事の戦いなど、本来なら成立するはずもないのだが、そこはぬかりなく、ここから一気にアクション場面が連続する。ガブリエルがマットにこだわるのがちょっと不思議だったが、途中からはマクレーンもファレルの手を借りてガブリエルに対抗していくわけだから、これだって納得だ(邪魔をされたら手強いと思って先手を打ったという説明もアリだろう)。
トンネル内での車の正面衝突、宙に舞う車。ヘリコプターには消火栓(を破壊して水を吹き上げる)だけでなく、料金所を利用して車を空に飛ばして、ヘリにぶつけてしまうなんて荒技まで。トレーラーと最新鋭戦闘機のF-35の対決(『トゥルーライズ』にもジェット戦闘機が出てきてびっくりしたが、これはそれを凌駕している。94年作と比較しても仕方ないが)だって無茶なのに、さらには崩れていく高架道路から戦闘機の尾翼に飛び移ってしまう……。
この他にもエレベーター・シャフト内部という狭くて危ない(エレベーターが通り過ぎて行くからね)場所で、ガブリエルの恋人で右腕のマイ・リン(マギー・Q)とファイト・シーンを見せるなど見所満載。あり得ないと言い出したら何も残らなくなってしまうような場面ばかりが続く。
もっともこのサービスぶりは、さすがにいままでにあったマクレーンの人間味を薄めることになった。『ダイ・ハート』シリーズはこれが魅力だったのだが。
偶然の力も大いに借り、さらに満身創痍にはなっても、とにかく不死身。だけじゃなくて、今回は非情ですらある。敵を容赦なく殺してしまうのだから。例によって運が悪いとかぼやかせてみても、だいぶニュアンスが違ってくる。ファレルに語る英雄の定義も「撃たれるだけ」で家族にはかえりみられないとぼやいていたはずが、誰もやらないから俺がやるだけと、いつしか悟りの境地に近いものになっているのである。
マクレーンの悟りなど聞きたくはないが、ファレルとの凸凹(デジアナ)コンビの会話はアクション場面の繋ぎとしてはいい感じだ。傍観していただけのファレルが成長して(未来のルーシーの旦那か?)いくというのも観客にはわかりやすい。
ガブリエルはFBIにいたのだが、セキュリティに関する提言が受け入られないことで逆恨みの犯行に走ったという設定(もっとも最終的には金狙いなんだが)。歴代の大統領の繋ぎ合わせ画像でテロ宣言を出したり、偽映像でホワイトハウスを爆破させるのも朝飯前(部下にやらせてたけどね)だから、マクレーンなど「デジタル時代のハト時計野郎」で、実際その分部ではマクレーンは手も足も出ない。それをファレルがうまくカバーしてくれるというわけだ。
ただファレルがPCや携帯を魔法のように扱ってしまうのは、これも見所ではあるが、誤魔化されているような気にもなる(いや実際誤魔化されてるんだけどさ)。PCオタクの手にかかったら何でも可というんじゃね。それに私の母のようなデジタル時代という言葉すら理解できない人間には、すべてがちんぷんかんぷんだろうか(観客という対象に入ってないか)。
すべての情報を手にしたガブリエルが、ルーシーに手を伸ばすのはこれまた簡単なことだから、『ダイ・ハート』にある家族愛のテーマは継承されている。マクレーンの姓を嫌い「話がある時は私から電話する」といっていたルーシーが、ちゃんとマクレーンに期待しているだけでなく、敵は5人(だったかな?)と言ってマクレーンに情報を伝える、ニヤリとしてしまう場面もある。
ま、所詮アクション娯楽作ですからね。あ、でも「ハリケーンの防災対策にもたついた」とか言ってたっけ。『アンダーワールド』好きな私としては、レン・ワイズマンということで、点が甘くなったかも。
【メモ】
おなじみの20世紀フォックスのマークがぶれて黒い画面になる。
原題:Live Free or Die Hard
2007年 129分 シネスコサイズ アメリカ 日本字幕:戸田奈津子 配給:20世紀フォックス映画
監督:レン・ワイズマン 製作総指揮:マイケル・フォトレル、ウィリアム・ウィッシャー 原案:マーク・ボンバック、デヴィッド・マルコーニ 脚本:マーク・ボンバック 撮影:サイモン・ダガン プロダクションデザイン:パトリック・タトポロス 衣装デザイン:デニス・ウィンゲイト 編集:ニコラス・デ・トス 音楽:マルコ・ベルトラミ
窶ソr
出演:ブルース・ウィリス(ジョン・マクレーン)、ジャスティン・ロング(マット・ファレル)、ティモシー・オリファント(トーマス・ガブリエル)、クリフ・カーティス(ボウマン)、マギー・Q(マイ・リン)、シリル・ラファエリ(ランド)、メアリー・エリザベス・ウィンステッド(ルーシー・マクレーン)、ケヴィン・スミス(ワーロック/ファレルのハッカー仲間)、ジョナサン・サドウスキー
ボルベール〈帰郷〉
2007年07月21日 土曜日
シネフロント ★★★
■男なんていらない
映画のはじまりにある墓地の場面で、大勢の女たちがそれぞれの墓を洗い、花を飾っていた。墓石の形も花も違うのだが、スペインの風習も日本のそれとそうは変わらないようだ。強い日差しと風のせいもあるのかもしれないが、女たちの表情が、死者を想って悲しみいたむというより、自分たちの中から湧き出る生を抑えきれずにいるという印象。男たちの姿がほとんど見えないのは本篇と同じで、生と死をめぐる女たちの話にふさわしい幕開けとなっている。
15歳の娘パウラ(ヨアンナ・コボ)からの連絡で家に戻ったライムンダ(ペネロペ・クルス)は、パウラが夫のパコを殺害した事実に驚くが、パコに本当の父親ではないのだからと関係を迫られ、包丁で刺してしまったと聞くと、パウラにはパパを殺したのはママだと記憶に刻めと言って、警察には届けず遺体を始末する決意をする。
それはないだろうと思ってしまうから、居心地の悪いまま映画を観ることになるのだが、これにはちゃんとした理由があるのだった。もちろん、理由がわかるのは映画も後半になってからである。ライムンダもやはり酔った父親に強姦されて、身籠もった子がパウラだったというのだ。つまりパコの自分は父親でないという発言は本当だったわけだ。
パコは失業したというのに飲んだくれて(これは失業したから、なのかも)、自慰だけでは性欲を発散できずに娘に手を出してしまうのだから、とんでも男でしかないのだが、ライムンダはパコの死体を彼が好きだった場所に運んで埋め、そこにある木を墓に見立てて生年などを刻んでいたから、パコを全否定しているわけでもなさそうだ。
もっともいくら娘のためとはいえ、死体を隠してしまうのだからあまり褒められたものではない。たまたま休業になって鍵を預かっていた隣のレストランの冷蔵庫に、死体をとりあえず入れてしまうのはわからなくもないが、それを冷蔵庫のまま運び出すのはどうか(調べられたらすぐばれてしまうだろう)。女たちの連係プレーを演出したかったのかもしれないが、埋める時点では協力者は娼婦だけだから、穴を掘るのだって無理そうなのだ(あまりくだらないところにケチを付けたくないんだが、これはちょっとね)。
パウラが事件を起こした時に入ってきたのが、故郷のラ・マンチャに住む伯母の死の知らせ。巻頭の墓掃除は、姉のソーレ(ロラ・ドゥエニャス)とパウラの3人でボケだした伯母を見舞った折りのことだったが、事件を抱えたライムンダは、今度は帰るに帰れず、ソーレと伯母の家のそばに住むアグスティナ(ブランカ・ポルティージョ)に葬儀のことを任せるしかない。
ライムンダは葬式から戻ったソーレの自宅兼美容室を訪ねるが、何故かそこに4年前に死んだはずの母イレーネ(カルメン・マウラ)の匂いと影を感じる……。
イレーネについてはソーレも死んだと思っていたのだが、本人が噂通りに現れてびっくりという展開(どうせ姿を現すのだから車のトランクに隠れることはないと思うが)。仲の悪かったライムンダには会わせられないと、映画はちょっとコメディタッチとなる。イレーネをロシア人だと客まで騙したり、というようなのもあるのだけど、そういうのではなく、たとえば、まだ死体のあるレストランにライムンダがいる時、ちょうど近所に来ていた映画の撮影隊が食事のできる場所を探していて、ライムンダはオーナーの不在をいいことに、近所の女たちの手や食料品を借りて、勝手にレストランを開いてしまったりするというような。
ペドロ・アルモドバルの作品を観るといつも感じることなのだが、この人にはやはり独特の感覚があるということだ。肯定できる時もできない時にもそれはあって、うまく表現できないのだが、自分とは違う人種だと感じざるを得ない。この作品の場合だと、死体を作っておいてのこの悠長さ、だろうか。それを恐れているのでも楽しんでいるのでもない、というのがどうもわからないのだ。
それはともかく、レストランは評判で、次の予約までもらってしまい、打ち上げパーティの席では、ライムンダはイレーネに教わったという『Volver』を歌う。歌も聴かせるが(ペネロペ・クルスが歌っているかどうかはエンドロールで確認できなかった)これを隠れていたイレーネが聞いていて、2人の和解へと繋がっていく。
ただ、ここからの展開はどうしてもイレーネによる説明となるので少々飲み込みにくい。イレーネの夫は彼女を死ぬまで裏切り続けていて、アグスティナの母親と浮気をしていたというのだ。4年前の火事で死んだのは夫と浮気相手で、イレーネはそのこと(火を付けたのも彼女)で身を隠していた。
ライムンダがイレーネと確執を持つに至ったのは、父の強姦をイレーネがどう対処したかによるだろう。ライムンダにしてみれば、自分がパウラにしたように自分を守って欲しかったはずだが、そこらへんははっきりしたことがわからない。イレーネは「許して欲しくて戻った」と言っているのだから、そしてライムンダがそのことを納得したのならそれで十分だろうか。
しかし、ライムンダの事件は彼女が10代の頃で、父とアグスティナの母親の死は4年前だから、それまでに10年という月日が経っていることになる。これはずいぶん長いから、4年前の真相をライムンダが知ったとしても気が晴れはしないだろう。イレーネもそのことはわかっているのだろう。それに2人を始末したのは、娘のためというよりはやはり自分のためだったはずだ。ライムンダと暮らすのではなく、アグスティナの最期に付き合おうとするのはそのこともあるのではないか。
複雑になるので触れなかったが、アグスティナは不治の病になってしまい、彼女にとってもヒッピーの母の失踪は気になるのだろう、ライムンダにイレーネが本当に現れたら(最初は幽霊の噂が立っていた)母のことを訊いてくれと何度も言われていたのだ。
ライムンダはイレーネにパコのことを話そうとする。イレーネの答えは「あとでゆっくり聞きましょう」というもの。この感覚はいい。
それにしても男達をここまで愚かに描く意図がわからない。アドモバルの女性讃歌。物語を作った結果。ま、どうでもいいか。それにパコなんて姿を消しても誰も気にもしないし、彼の捜索で警察が動いたという形跡もないのだ。まるで男なんていらない、といってるような映画なのである。でもさー、だったら胸を強調するような服をペネロペ・クルスに着せて、胸元を真上から撮る必要はないよね。
原題:Volver
2006年 120分 シネスコサイズ スペイン 日本語字幕:松浦美奈 配給:ギャガ・コミュニケーションズ
監督・脚本:ペドロ・アルモドバル 製作:エステル・ガルシア 製作総指揮:アグスティン・アルモドバル 撮影:ホセ・ルイス・アルカイネ 編集:ホセ・サルセド 音楽:アルベルト・イグレシアス
出演:ペネロペ・クルス(ライムンダ)、カルメン・マウラ(イレーネ/母)、ロラ・ドゥエニャス(ソーレ/姉)、ブランカ・ポルティージョ(アグスティナ)、ヨアンナ・コボ(パウラ/娘)、チュス・ランプレアベ(パウラ伯母さん)、アントニオ・デ・ラ・トレ(パコ/夫)
ルネッサンス
2007年07月21日 土曜日
シネセゾン渋谷 ★★☆
■絵は見事ながら結論が陳腐
『ルネッサンス』におけるモノクロ映像の鮮烈さは脅威だ。モノクロ2値(グレー画像の入る場面もけっこうあって、これもなかなかいい)で描かれたコントラストのはっきりしたアニメは、極度の緊張感を強いられるが、しかし『スキャナー・ダークリー』にあった色の洪水に比べれば、意識の拡散は少ない。
そして2054年のパリの変貌度。これもすごい。色は抑えられていても、未来のパリが、古い部分を残しながら、しかし重層的な街(しかも水路がかなり上の方にあったりして、こんなところにもわくわくさせられてしまう)として提出されると、やはり意識はどうしようもなく拡散し、物語を追うのは後回しにしたくなる。
未来都市は一面ガラス張りの道路があって、これは物語の展開に少しはからんでくるし、カーアクションや企業の建物、街中のホログラムの娼婦にステルススーツを着た暗殺者などもそれなりには見せるのだが、とはいえ単なる背景程度だから別にこの映画でなきゃというものではない。せっかくの重層的な街がたいして機能していないのにはがっかりする。
モーション・キャプチャー技術による映像というが、技術的なことはよくわからない。絵的には面白くても、人物造型となると陰翳だけではのっぺりしてしまって深みがなくなるから、ここはやはり都市の造型の意味に言及(そのことでアヴァロン社の存在を説明するとかね)しなければ、何故こういう形のアニメにしたのかがわからなくなる。鑑賞中そんなことばかり考えていた。
だから物語を掌握できたかどうかの自信はないのだが、これだけ凝った映像を用意しておきながら、それはまったく薄っぺらなものであった。
パリすべてを支配しているようなアヴァロンという企業(パリ中にここの広告があふれかえっているのだ)で働く、22歳の女性研究員イローナ・タジエフが誘拐されるという事件が起きる。アヴァロンの診療所(こういうのもすべてアヴァロンが運営しているのだろうか)のムラー博士の通報で、高名(とアヴァロンの副社長?のダレンバックが言っていた)なカラス警部が捜査に乗り出す。
イローナの5歳年上の姉ビスレーン(とカラス警部の恋もある)や、カラス警部とは因縁のあるらしい裏社会の実力者ファーフェラーをかいして、サスペンスじみた進行でイローナの行方に迫っていくのだが、しかしその過程にはほとんど意味がなく、だからただでさえ単調な結末がよけい惨めなものにみえてしまう。
手を抜いてしまうが、結局イローナは早老病の研究にかかわっていて不老不死の方法を手に入れたらしいのだが、これには当然アヴァロン(ダレンバック)の影があって、でも最後にはイローナが暴走。人類は私の発見を待っているのよ、私が世界を変えるのよ、みたいな調子になるのだが、こういうのってあまり恐ろしくないのだな。
ムラー博士の弟クラウスは早老病になったが、ムラー博士が不死を発見したことで子供のまま40年生きていたという部分など、別物ながら『アキラ』を連想してしまったし、不老不死を死がなければ生は無意味と位置づけている凡庸さにも同情したくなった。「アヴァロン、よりよい世界のため」という広告が出て終わるのは、巻頭のタイトル(カラス警部の夢のあとの)後と同じ構成にして「よりよい世界」の陳腐さを強調したのだろうが、それ以前に映画の方がこけてしまった感じがする。
そういえばクラウスの描いた絵だけがカラーで表現されていた。あれにはどういう意味があるのか。真実はそこにしかない、だとしたらそれもちょっとなんである。
原題:Renaissance
2006年 106分 シネスコサイズ フランス、イギリス、ルクセンブルク 配給:ハピネット・ピクチャーズ、トルネード・フィルム 日本語字幕:松岡葉子
監督:クリスチャン・ヴォルクマン 脚本:アレクサンドル・ド・ラ・パトリエール、マチュー・デラポルト 音楽:ニコラス・ドッド キャラクターデザイン:ジュリアン・ルノー デザイン原案:クリスチャン・ヴォルクマン
声の出演:ダニエル・クレイグ(バーテレミー・カラス)、ロモーラ・ガライ(イローナ・タジエフ)、キャサリン・マコーマック(ビスレーン・タジエフ)、イアン・ホルム(ジョナス・ムラー)、ジョナサン・プライス(ポール・ダレンバック)、ケヴォルク・マリキャン(ヌスラット・ファーフェラ)
ファウンテン 永遠に続く愛
2007年07月22日 日曜日
銀座テアトルシネマ ★☆
■永遠の勘違い男
そうわかりにくい話ではないのに、現実と物語を交錯させ、さらにもう1つ主人公の精神世界のような映像も散りばめ、そしてそれらの境目までも曖昧にしてしまう。しかもそこにある概念といえば仏教の輪廻もどきのもの。これではダーレン・アロノフスキーとの相性が多少はいい人でも観るのは相当キツイのではないか。とにかく初見(かどうかは関係ないか)の私にはとてもついていけなかったのである。だから粗筋すら書く気が失せているのだが……。
医師のトム・クレオ(ヒュー・ジャックマン)は、妻のイジー(レイチェル・ワイズ)が脳腫瘍の末期にあることを知って、死は病気の1つという信念で研究に冒頭していく。が、イジーの方は、残された短い時間を夫と一緒に過ごせれば、もう死を受け入れる覚悟ができていた。
イジーが書き進めていた物語は、そのことをトミーにわからせたいが故のものだろう。そして未完成部分の第12章をトミーに完成して欲しいと願うのだ。映画の中で何度もイジーの「完成して」という言葉が繰り返されるが、それはきっとそういう単純なことだったのではないか。観ている時は何かあるのかもれないと思っていたのだが、そもそもこの映画は、構成こそ入り組んでいるが、伏線らしきものは見あたらないのである。
トミーといえば、行き過ぎた猿への実験で上司のリリアン・グゼッティ博士(エレン・バースティン)に休日を言いわたされる始末。が、そのことで手がかりを掴めそうになると、さらに狂気のごとくその研究にのめり込んでいく。しかしこんな実験で、余命幾ばくもない人間の命を救えることになるなどと実際に医療にたずさわっている者が本気で考えるだろうか。新薬が日の目をみるには、動物実験を経た後も、治験を繰り返す必要があることくらい常識だろうに。
かくの如く、まったく奇妙なことにこの現実部分は、イジーの書いた物語より現実離れしているのだ(これには何か意味でもあるのだろうか)。それもと体裁としては現実ながら、イジーの物語と同列扱いにしたかったのかもしれない。
イジーの書いた『ファウンテン』と題された物語は、16世紀のスペインのイザベル女王が、騎士トマスに永遠に生きられる秘薬を探せと命じるというもの。11章まで書いたというのに、映画では最初の命令部分と任務途中でのアクション場面があ少しあるだけのものでしかない。これをイジーとトミーがそれぞれ演じていて(ここはヒュー・ジャックマンとレイチェル・ワイズがと書かなくてはいけないのかもしれないが)、イジーの顔のアップとイザベル女王のアップを交互に見せたりしている。
そしてトミーはマヤに古くから言い伝えのある生命の木にたどり着き、花を蘇生させるその樹液でもって、永遠の命を得ようとする。現実部分のトミーが新しい治療法の手がかりを見つける(やはりある樹皮を猿に投与する)のもこのことと重なっている。またこれとは別にトミーの精神世界のような場所でも、同じような行為が繰り返される。
球体に囲まれた小さな世界の中に、イジーが横たわっていて(すでに死んでいるのか?)、そこには剃髪したトミーがいて、その球体の中に聳えている生命の木の樹液を飲むのだ。樹液を飲んだトミー(いや、これは騎士のトマスだったか)は歓喜の表情となるのだが、直後、トミーの全身からは花が芽吹き、トミーは花に包まれてしまう。この場面は単純なものだが、この映画唯一の見所となっている。
繰り返しになるが、イジーが「完成して」と言った意図は11章まで物語を丹念に読むこと、つまりイジーが何を考え、生き、トミーと生活してきたかを自分がしたように辿ってほしかっただけなのだ。そうすれば12章は自動的に完成したはずなのだ。まあ、勘違い男のトミーが、不死の秘薬探しを即自分の職業に結びつけてしまったのは無理からぬところではある。しかしイジーからペンとインクまでプレゼントされて「完成して」と言われたら、さすがにわかりそうなものなんだけどね。
実は私の中ですでに混乱してしまっていているので断言できないのだが、トミーが花にとって変わってしまう場面が騎士トマスにもあったとしたら、物語を書いたイジーもそのことを予言していたことになる。永遠の命はその樹にとってのもので、トマスはただ養分になったにすぎないことを。
映画はトミーの暴走によって不死というテーマへと脱線していくのだが、そこで語られる不死観に具体的なものは何もない。生命が渦巻いているような光の洪水の中に漂う球体は美しいけれど、ただそれだけなのである。輪廻の映像化というよりは、小さな閉じた世界にとどまっているようにしかみえないのだ。
剃髪したトミーが座禅し黙想する姿は仏教そのもののようだが、生命の木についてはマヤの言い伝えとしているし、スペインによる南米搾取はキリスト教の布教絡みでもあったわけだから、何がなんだかわからなくなる。
とにもかくにも、最後になって一応はトミーも死を受け入れても精神は死なないという世界観を会得したらしいのだが、イメージだけでみせているからそれだって大いに疑問。それにすでにそこに至る前に、イジーのメッセージを読みとれずにいるトミーには、永遠に勘違いしていろ、と何度も言ってしまっていた私なのだった。
(070801 追記)公式サイトに次のような文章があった。
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「舞台を現代だけにして、不死の探求についての物語を伝えるのは難しかった。そこで、トミーの物語を16世紀、21世紀、そして26世紀と、3つの時代を舞台にすることにした」とアロノフスキー監督は語る。「しかしこの映画は、伝統的な意味での時空を超えた物語ではない。むしろ、1人の人間の3つの側面を体現する各キャラクターを異なる時代に描いて、3つの物語を結合させている」
私が精神世界と思っていたのは26世紀なのか! それはまったくわかりませんでした。もう少しヒントをくれてもいいと思うのだが。
原題:The Fountain
2006年 97分 ビスタサイズ アメリカ 配給:20世紀フォックス映画 日本字幕:戸田奈津子
監督・脚本:ダーレン・アロノフスキー 製作:エリック・ワトソン、アーノン・ミルチャン、イアイン・スミス 製作総指揮:ニック・ウェクスラー 原案:ダーレン・アロノフスキー、アリ・ハンデル 撮影:マシュー・リバティーク プロダクションデザイン:ジェームズ・チンランド 衣装デザイン:レネー・エイプリル 編集:ジェイ・ラビノウィッツ 音楽:クリント・マンセル
出演:ヒュー・ジャックマン(トマス/トミー/トム・クレオ)、レイチェル・ワイズ(イザベル/イジー・クレオ)、エレン・バースティン(リリアン・グゼッティ博士)、マーク・マーゴリス、スティーヴン・マクハティ、フェルナンド・エルナンデス、クリフ・カーティス、ショーン・パトリック・トーマス、ドナ・マーフィ、イーサン・サプリー、リチャード・マクミラン、ローン・ブラス
魔笛
2007年07月29日 日曜日
テアトルタイムズスクエア ★★
■オペラはわからん
私がオペラに出かけることなど今まで同様これからもまずないと思われるが、映画でとなると、そういう状況も可能になってしまうのだから面白い。
しかもこの映画は、舞台俳優出ながら映画のことも知り尽くしたケネス・ブラナーによるモーツァルトのオペラ『魔笛』の映画化だから、私のようなオペラ知らずが観るのにもちょうどよさそうである。
ブラナーもオペラの映画化については相当意識しているのだろう、巻頭の序曲をバックに出現する映画絵巻ともいうべき光景は一見に値する。鳥をとらえていたカメラはパンダウンし、花を摘む男に移ったかと思うとそのまま塹壕の上に出、伝令を追う。上にパンし、次には左へと自在に跳び回る。幾重にも広がる塹壕を俯瞰するが、ちょっと別なところでは蝶が舞うのどかな戦場で、でも軍楽隊が現れ銃砲が上を向くと、雲の中からは複葉機が現れカメラも空に飛ぶ。演奏の下で戦争が繰り広げられ、そこを拳銃1挺のタミーノ(ジョセフ・カイザー)がうろつく様は滑稽でもある。
これをワンカットで見せられては期待が高まざるを得ないのだが、残念なことにこの凝ったカメラが機能しているのもここまでだった。もちろんこの後も、何度か似たような試みはなされている(やはり戦場や、城に侵入した人物の位置関係や状況をカメラの移動で説明している)し、上部からのカメラを多用するなどの工夫もあるが、オペラ部分になるとアップが主体となって、空間も結局は舞台のような狭いところに押し込められたような印象になってしまうのである。
それと、これはもともとの『魔笛』というオペラの問題らしいのだが、話がずいぶんとヘンテコリンだ(これもあくまで映画を観た限りでの感想なのだが)。
前線で毒ガスに倒れていたところを夜の女王(リューボフ・ペトロヴァ)の侍女3人に助けられたタミーノは、さらわれた娘パミーナの救出を女王に依頼される。これは当然タミーノがもともと女王側の兵士ということなのだろうが、これが意外と曖昧なのだ(第一次世界大戦への移植はブラナーの責任だけどね)。それはともかく、やはり女王のために鳥を捕っていたパパゲーノ(ベンジャミン・ジェイ・デイヴィス)と一緒にパミーナの救出に向かう。
ところが悪役のはずのザラストロ(ルネ・パーペ)は、実は善政を行い国民からは慕われており、夜の女王こそが悪なのだという。ザラストロの部下に邪悪な心を持ったモノスタトス(トム・ランドル)がいて、そいつがパミーナに悪さを働こうとしてはいたが、これでは何が何だかわからない。しかもそのザラストロは最初、タミーノの前で自分の身を偽ってみせるのだ。胡散臭いだけでなくこんな大人げのないところを見せられてしまったし、善政が布かれているにしては国民の行動もどこか画一的に見えたから、私などしばらくはザラストロを独裁者と決めつけてしまっていた。
そもそも題名の魔笛をタミーノは夜の女王から贈り物として受け取っている(パパゲーノのチャイムも同じ)。そして、この魔笛(チャイムも)は、音楽によってこの地に平和と協調をもたらすのだ。だったら、夜の女王がそれをわざわざタミーノやパパゲーノに授けたりするだろうか。また2人を導く3人の少年も、この流れだと女王に遣わされたように見えるのだが(実はよくわからない)。
音楽がすべてを解決してくれるのであるから(そんな単純なことを言われてもねー)、些細なことなどどうでもいいと考えたのだろうか。
パパゲーノとパパゲーナ(シルヴィア・モイ)の恋の話もまったく意味不明。もともとパパゲーノの役割は道化とは思うのだが、話もずいぶんとおちゃらけている。パパゲーナが最初は老婆として登場し、でも18なのだと言って私と一緒にならないと地獄に堕ちると迫り、パパゲーノがしかたなく同意すると若い娘に変身する。
こんな馬鹿馬鹿しい話を延々と見せられては、肝腎の音楽がちっとも楽しめないのだが、オペラ通の人たちには、そういうことはすでに了解事項なのだろうか。沈黙の誓いにしても、タミーノとパミーナの恋にしても、どれも稚気溢れたもので、途中でうんざりしてしまったのだ。
第一次世界大戦という背景をもってきて、戦場を前に広がる墓標(戦死者の名前は若者ばかりなのだが、そこに日本人の名前も刻まれている)を見せることで、反戦というテーマを前面に押し出したかったようだが、『魔笛』の持つ本来の内容とは落差がありすぎたのではないか。
最後は、夜の女王がモノスタトスや3人の侍女とで奇襲をかけてくるが、魔笛がそれを守ってくれ(やっぱりこれはないだろ)、女王たちは城壁から真っ逆様に落ちていく。英知が世を治めたことで、緑が地をおおっていくのだった。でも実際には第二次大戦が起きてしまうわけだから、この設定はほとんど意味がなかったとしか思えないのだ。
原題:The Magic Flute
2006年 139分 シネスコサイズ イギリス、フランス 日本語字幕:松浦奈美 オペラ監修:増田恵子 配給:ショウゲート
監督:ケネス・ブラナー 製作:ピエール=オリヴィエ・バルデ 製作総指揮:スティーヴン・ライト 脚本:ケネス・ブラナー、スティーヴン・フライ 撮影:ロジャー・ランサー プロダクションデザイン:ティム・ハーヴェイ 衣装デザイン:クリストファー・オラム 編集:マイケル・パーカー 音楽:ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト 音楽監督・指揮:ジェームズ・コンロン 演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団 英語脚色:スティーヴン・フライ 音楽プロデューサー:ダニエル・ザレイ
出演:ジョセフ・カイザー(タミーノ)、エイミー・カーソン(パミーナ)、ベンジャミン・ジェイ・デイヴィス(パパゲーノ)、ルネ・パーペ(ザラストロ)、リューボフ・ペトロヴァ(夜の女王)、シルヴィア・モイ(パパゲーナ)、トム・ランドル(モノスタトス)、テゥタ・コッコ(侍女1)、ルイーズ・カリナン(侍女2)、キム=マリー・ウッドハウス(侍女3)
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