フライ・ダディ

2007年04月21日 土曜日

銀座シネパトス1 ★☆

■父よ、あなたは弱かった

娘のダミ(キム・ソウン)をカラオケボックスで同じ高校生のカン・テウク(イ・ジュ)に暴行されたチャン・ガピル(イ・ムンシク)は、「深く反省している」相手のあまりに不遜な態度に復讐を誓い、包丁を手にチョンソル高校に乗り込むが、居合わせたコ・スンソク(イ・ジュンギ)に簡単に気絶させられてしまう。が、このことでスンソクと彼の同級生チェ・スビン(キム・ジフン)とオ・セジュン(ナム・ヒョンジュン)は、ガピルに力を貸すことになる。

テウクは3年連続優勝を目指す高校ボクシングのチャンピオンで、取り巻きもいれば、高校の教頭も彼の味方。息子が不祥事を起こしても姿を見せない「国の仕事」で忙しい両親(事件すら知らないのかも)と憎まれ役に相応しい陣容だ。

対する39歳のガピルは平凡なサラリーマン。二流大学出ながら仕事ではまあまあ活躍しているようで営業部長にもなれそうだ。マンションのローンはあと7年。堅実なのね。でも禁煙がなかなか成功しないのは意志薄弱なのか。命をかけて妻と娘を守るつもりでいたが、気が付けば体はぶよぶよで、テウクとまともに戦えるとはとても思えない。

師匠に対する礼儀を守り一切質問はしないという条件の上で、スンソクの与えた指示は特訓の繰り返し。体はなまっているし非力すぎのガピルだから、まずは正攻法でいくしかないのだろう。それはわかるが、だったら余計、方法や見せ方に工夫がほしいところだ。が、特別なアイディアなどはない。荒唐無稽路線を取りたくなかったのかもしれないが、映画としては少しさびしい。

食事療法を取り入れて体重と体脂肪を減らすところは、イ・ムンシクが身をもって体を引き締めたのがわかるので(実際には体重を15キロ増やし、映画の撮影に会わせてまた減らしていったという)、本当に応援したくなる。が、あとは反射神経を養うくらいだし、ボクシング(何も相手の得意とするもので戦わなくてもね)での対策はラグビーみたいにタックルしろ、では何とも心許ない。

しかもこの対決を、日にちの制限があるわけではないのに、なぜか25日後(いくらなんでもね無理でしょ)に設定してしまうし、「明日の作戦を訊いて俺はあきれかえった」とガピルは言うのだが、体育館を占拠して生徒たちだけの前で行うだけの、ま、ホントにあきれかえっちゃうもので、実際の戦いになってもガピルは一方的に殴られるばかりでいいところがない。あれ、なのにガピルが勝ってたけど。なんでや。見せ場が結果として誤魔化しのようになってしまっては、盛り上がるはずもない。

これだったら前日のバスとの競争の方がまだ見せてくれたものね。そのバスの運転手(ペク・ソンギ)がいつの間にかローラーブレードができるようになっているのは、ちょっとした映像だからいいのであって、ガピルの特訓には乗り気でなかったスンソクが、娘のために戦うという姿勢に、小学生のとき離婚して出ていってままの父親を重ね合わせていたのだとか、ガピルにも「お前みたいな息子がいたら」などと言わせて妙な味付けをしてしまうと、急につまらないものになってしまう。

韓国でならば『フライ,ダディ,フライ』(未見)のリメイクは、それなりの興行価値があるのかもしれないが、元の作品が2005年に公開されたばかりの日本にもってくる意味があったとはとても思えない。現に、まあ、銀座シネパトスということもあるのかもしれないが、イ・ジュンギだけではとても売れそうもないくらいガラガラの初日だったのだけどね。かわいそ。

 

原題:嵓誤攵・エ ・€・煤@英題:Fly,Daddy,Fly

2006年 117分 ビスタサイズ 韓国 日本語字幕:根本理恵

監督・脚本:チェ・ジョンテ 原作:金城一紀『フライ、ダディ、フライ』 脚本:チェ・ジョンテ 撮影:チェ・ジュヨン 音楽:ソン・ギワン
 
出演:イ・ムンシク(チャン・ガピル)、イ・ジュンギ(コ・スンソク)、イ・ジュ(カン・ウテク)、キム・ジフン(チェ・スビン)、ナム・ヒョンジュン(オ・セジュン)、イ・ヨンス(ガピルの妻)、キム・ソウン (チャン・ダミ/娘)、イ・ジェヨン(イ・ドックン/教頭)、ペク・ソンギ(バスの運転手)

オール・ザ・キングスメン

2007年04月22日 日曜日

武蔵野館3 ★★★★

■叩けば出る埃

考えさせられることの多い深遠な映画だが、その前にまずどうにも居心地の悪くなる映画でもあった。

映画の語り手であるジャック・バーデン(ジュード・ロウ)という人間は一体何を考えているのだろう。いつまでも初恋にしがみついているだけの男?「どこで何が起ころうと関知しない主義」だから「知らなければ傷つくことがない」などと言うのだろうけど、どうもうじうじしているだけのようで、それは自分のそういう部分を見せつけられている気分になるからでもあるのだが、どうにか出来ないのかと言いたくなってくるのだ。こんなヤツが語り手だからだろう、実際ジャックの性格によるところは大きく、彼の回想部分が交錯する構成は少しまわりくどいものとなっている。

ウィリー・スターク(ショーン・ペン)はもう1人の主人公というべき人物で、郡の出納官にすぎなかったが「たった1人で汚職に立ち向かった男」(これはジャックの記事)として注目され、州の役人タイニー・ダフィ(ジェームズ・ガンドルフィーニ)にそそのかされるように知事選に打って出る。が、その出馬は別候補の引き立て役にすぎなかったこと知る。スタークという男に魅せられた新聞記者のジャックは、彼の下で働きたいとその前から言っていたのだが、彼に演説の仕方を助言したことで彼に輝きが戻り、彼の熱狂的ともいえる原稿なしの演説が始まることになる。

いつもながらやり過ぎとも思えるショーン・ペンの演技が、このスタークに関してはぴったりで、選挙戦での昂揚ぶりは見事という他ない。ジャックは新聞社の方針に反した彼の提灯記事(本心だったろうが)を書いて辞職となり、スタークは地滑り的大勝利を収め知事に就任する。

権力を手にした人間の辿る道は結局同じなのか、富裕層や企業への対決姿勢を崩さないスタークだが、自身は酒に溺れ(ジャックが最初に会った時は妻に遠慮して酒は飲まないといって「オレンジソーダにストロー2本」だったのだが。選挙戦の時もこの禁は犯している)、女遊びもはじまり、不正への疑惑までが新聞を賑わせるようになる。

引退後も影響力があるアーウィン元判事(アンソニー・ホプキンス)の、疑惑の調査が望ましいという発言から弾劾になることを察したスタークは、アーウィン判事のことを調べるようジャックに命令する。

そもそもアーウィンはジャックのおじで「父が去った後、父以上に父らしい人間」であった。ジャックから見てもアーウィンは、まずなにより高潔な判事であり、いくら探り回っても何も出てこないのだが、スタークは執拗にアーウィンを調べろと言い続ける。叩けば埃の出ない人間などいないと言わんばかりに。

これはスタークの人間観そのもので、自分のことも埃の出る人間として見ているからだろう「私の部下の不正は、潤滑油で今までの知事とは比較にならないくらい小さい」と言って憚らない。それに、それなりに評価すべきこともやっていたようだ。

ジャックのことを考えるとイライラするのは、あまりに我関せずでいるからなのだが、しかしスタークに対しては、何故職を辞してまで彼について行こうとしたのか。シニカルなジャックがスタークに魅せられたのは、一般大衆のように熱狂的な演説によってだとは思えない。単にスタークという男の一部始終を見届けたかった、というのにも同意しかねる。彼の人間観に惹かれたというのが、意外に当たっていそうな気がするのだが。

そうして、完璧と見えたアーウィンから、ついに埃が出る日がやってくる。

アーウィンはジャックに突きつけられたその疑惑(現在の地位は不正に手に入れたものと記した手紙)を、こんなものは証拠にもならないと否定した上で関係者もみんな故人と付け加えるが、しかし、自ら命を絶つことで疑惑が事実であることを認めてしまう。母から自殺を知らせる電話が入って、ジャックは母に責められ、意外な事実を知る。「あなたは実の父を殺した」と。

ジャックの父がどういう状況で「去った」のかは語られていないのではっきりとはいえないのだが、アーウィンは母の浮気相手ということになる(「私も君を苦しめることが出来る」とアーウィンが言っていたのはこのことだったか)。アーウィンが父としてジャックに接していたことは、ジャックの回想からも、またアーウィンが残していたジャックについてのスクラップブックからもわかるのだが、それはジャックにとって慰めになったのだろうか。

アーウィンがいなくなったからなのかはわからないが、スタークへの弾劾投票は否決される。新しい病院の院長にアーウィンが要請していた前知事の息子であるアダム・スタントン(マーク・ラファロ)が就くことも決まって、もう怖いものが何もなくなったかに見えたスタークだったが、そのアダムに暗殺されてしまい、ダフィ新知事が誕生する。

ジャックにとってはアダムは昔からの親友で、その妹のアン(ケイト・ウィンスレット)はジャックの初恋の相手だった。アーウィンの過去を暴くためにアンに再会したジャックだったが、映画では最初の方からジャックとアダムとアンの3人が夜の海にいる場面が何度か繰り返されている。

この回想場面は、ジャックの記憶が曖昧でなかなか思い出せないでいることなのかと思ってしまったのだが、そうではなく(こんな大切なことをそう簡単には忘れないよね。そんな年でもないし)、思い出したくなかっただけだったのか(もしそうならこの場面の挿入の仕方はずるくないだろうか)。

ジャックはアンと海の中で気持ちを伝え会い、部屋にまで行くが、「あまりに大切で壊したくなくて」何もしないままで終わる。このことをジャックはいつまでも気にしていて、アンの気持を今になってもはかりかねているようなのだ。

しかし、アンの気持ちはどうであれ、彼女は何故かスタークの女になっていた。いや、それはアダムを院長にするためにだったらしいのだが、スタークにとってもスタントンの名声が利用できる、願ってもないことだったというのに。事実ジャックは、アダムの説得にあたっていた。「知事は悪でも病院は善だ。善は悪からも生まれる」と言って。

アダムは世間知らずなのかもしれないが純粋で、ジャックとアンとのことも優しく見守ってくれるような男だった。アダムにとってもアンとスタークのことは寝耳に水で、アンに「妹の情夫のヒモにはならない」と言ったらしい(ここでジャックが「僕もそう思う」と言っていたのには笑いたくなったが)。

アダムによるスターク殺害の理由はこれ以上には語られていない。こんなことで、と思わなくもないが、とにかくあっけない幕切れだ。2人から流れた血が溝にそって広がり混じっていく画面が、ひどく陰惨なものに見えた。それはスタークとアダムという、水と油のような2人の人間を無理矢理引き合わせた結果であり、死によってしか混じりあえないとでもいっているようだった。

結局、ジャックのやってきたことはなんだったのか。機会があったらもう1度観て考えてみたい。

  

【メモ】

この映画は1949年版のリメイクで、原作はロバート・ペン・ウォーレンによる1946年のピューリッツァー賞受賞作(鈴木重吉訳の「白水社版では『すべて王の臣』という邦題がついている)。1928年から32年にルイジアナ州知事となったヒューイ・P・ロング(後に上院議員)について書かれた実話だそうだ。

原題のAll the King’s Menは『マザーグース』のハンプティ・ダンプティからの引用で、取り返しのつかない状況を表す。ついでながら、1974年の『大統領の陰謀』(原題:All the President’s Men)は、All the King’s Menのもじりがタイトルになっている。

Humpty Dumpty sat on a wall.
Humpty Dumpty had a great fall.
All the king’s horses and all the king’s men
Couldn’t put Humpty together again.

原題: All the King’s Men

2006年 128分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:松浦奈美

監督・脚本:スティーヴン・ザイリアン 製作:ケン・レンバーガー、マイク・メダヴォイ、アーノルド・メッサー、スティーヴン・ザイリアン 製作総指揮:アンドレアス・グロッシュ、マイケル・ハウスマン、ライアン・カヴァノー、トッド・フィリップス、アンドレアス・シュミット、ジェームズ・カーヴィル、デヴィッド・スウェイツ 原作:ロバート・ペン・ウォーレン 撮影:パヴェル・エデルマン プロダクションデザイン:パトリツィア・フォン・ブランデンスタイン 衣装デザイン:マリット・アレン 編集:ウェイン・ワーマン 音楽:ジェームズ・ホーナー
 
出演:ジュード・ロウ(ジャック・バーデン)、ショーン・ペン(ウィリー・スターク)、アンソニー・ホプキンス(アーウィン判事)、ケイト・ウィンスレット(アン・スタントン)、 マーク・ラファロ(アダム・スタントン)、パトリシア・クラークソン(セイディ・バーク)、ジェームズ・ガンドルフィーニ(タイニー・ダフィ)、ジャッキー・アール・ヘイリー、キャシー・ベイカー、タリア・バルサム、トラヴィス・M・シャンパーニュ、フレデリック・フォレスト、ケヴィン・ダン、トム・マッカーシー、グレン・モーシャワー、マイケル・キャヴァノー

恋しくて

2007年04月22日 日曜日

テアトル新宿 ★★

■どこが「恋しくて」なんだろう

幼なじみだった比嘉栄順(東里翔斗)と宮良加那子(山入端佳美)は高校に入って再会、加那子の兄清良(石田法嗣)の発言で、島袋マコト(宣保秀明)も一緒になってみんなでバンドを組むことになる。思いつきのように始まったバンドだが、同級生の浩も加わって自分たちの企画したバンド大会で優勝し、プロデビューの話が持ち上がる。

よくある話ながら、東京に行ってからのことはほとんど付け足しで、あくまでも主役は沖縄(石垣島)と言いたげな構成だ。「これが沖縄」という風景の中で、高校生たちがバンドに熱中していく様子がなんとも楽しい。沖縄だったら山羊も牛も喋りそうな気にもなるし(喋る演出が入るのだ)、恋も底抜けに明るくて、だから困ったことに恋という感じがしないのである。普通に生活しているうちに、自然に相手といることが多くなって、みたいな流れなのだ。

そのことは当人たちも感じたらしく、栄順は加那子に2人が付き合っているかどうかを確認する場面があるのだが、これがとてもいい。高校生にもなって清良と屁こき合戦までやってのけてしまう加那子のキャラが伸びやかで、でも堂々としているとまではいかなくて、仰天場面を見ても栄順にとっては恋の対象であり続けたのだと思わせるものを持っているのである。

ただバンドが東京に出ていくことになってやってくる2人の別れになると、それが加那子からの一方的な手紙ということもあって、まったくの説明口調になってしまっている。普通の恋物語にある出会いのときめき度が薄かったからという理由がここにもあてはまるのかもしれないが、でもそれだと何のためにずーっと2人(とバンド活動)を描いてきたのかがわからなくなってしまう。別れても「恋しくて」しかたがないのは、はっきりそう言っているのだからそうなのだろうが、やはり言葉ではなく映画的なものでみせてほしいのだ。

結局、BEGINのデビュー曲の「恋しくて」をタイトルに使ってしまったのがよくなかったのではないか。どうしてもそういう目でみてしまうもの。最後に主人公たちのライブ場面は、BEGINの新曲「ミーファイユー」の演奏場面にとってかわる。ようするに、そういう映画なのだろう。しかし私としては、イベントに登場してきた80年代のヒット曲や山本リンダにピンキラを歌う個性溢れる高校生バンドの熱演(しかしなんで古い曲ばかりなんだ)の方が楽しかったのだ。

加那子の家族についての挿話がどれもバラバラなのも気になった。清良が父探しの旅で、父の残した楽譜を見つけて帰るのだが、加那子が4歳の時に父が家出して(清良によって旅先の山で崖から落ちたことがわかる)以来、歌が歌えなくなっていたということにはあまり繋がってこない。

また、母のやってきたバーの仕事(経営者で歌手でもある)や、祖母の美容院の実体のなさは何なのだろう。清良がピアニスト代わりったって、それは最近だろうし、その清良がいなくなったからってバーを閉じるというのもとってつけた話のようで、このバーは与世山澄子に歌を歌わせたかっただけの装置にしかなっていないのだ。石垣島の大らかさといってしまえばそれまでなのだろうが、客を無視した美容院というのもねー。母と祖母の接点がないことも印象をバラバラなものにしてしまったのではないか。

 

2007年 99分 ビスタサイズ

監督・脚本:中江裕司 製作:松本洋一、松崎澄夫、渡辺純一、廣瀬敏雄、松下晴彦 プロデューサー:姫田伸也、新井真理子、町田純 エグゼクティブプロデューサー:大村正一郎、相馬信之 原案:BEGIN 撮影:具志堅剛 美術:金田克美 衣装デザイン:小川久美子 編集:宮島竜治 音楽監督:磯田健一郎 主題歌:BEGIN『ミーファイユー』 ラインプロデューサー:増田悟司 照明:松村志郎 整音:白取貢 録音:白取貢 助監督:瀬戸慎吾
 
出演:東里翔斗(比嘉栄順)、山入端佳美(宮良加那子)、石田法嗣(宮良清良)、宜保秀明(島袋マコト)、大嶺健一(上地浩)、与世山澄子(宮良澄子)、吉田妙子、國吉源次、武下和平、平良とみ(おばぁ)、三宅裕司、BEGIN

ホリデイ

2007年04月27日 金曜日

109シネマズ木場シアター5 ★★☆

■何故かエピソードが噛み合わない

恋に行き詰まった女性が、憂さ晴らしにと、ネットで流行の家交換(ホーム・エクスチェンジ)をし、2週間のクリスマス休暇に「別世界」を手にする。日本では発想すら難しそうな家交換だが、家具付き賃貸物件が一般的という欧米ではそれほど違和感はないのかも(それにしてもね)。

ロンドンで新聞社の編集の仕事をしているアイリス(ケイト・ウィンスレット)は、3年も想い続けているジャスパー(ルーファス・シーウェル)の仕事場での婚約発表(つまり相手も職場の人間)に、目の前が真っ暗になって……。

ロサンジェルスで映画の予告篇製作会社を経営するアマンダ(キャメロン・ディアス)は、仕事中毒故か恋人のイーサン(エドワード・バーンズ)とはしばらくセックスレス状態。だからってイーサンの浮気を許せるはずもなく……。

アイリスはプール付きの大邸宅にびっくりで大喜びだが、アマンダはロンドンの田舎のお伽話に出てくるような1軒屋には6時間で飽きてしまい、帰国を考え出す始末(雑誌ではなく本が読みたいと言ってたのだから、うってつけなのにね)。が、アイリスの兄グラハム(ジュード・ロウ)の突然の出現で、たちまち恋に落ちてしまう。

2週間ながら新天地でのそれぞれの生活+多分新しい恋は、家交換のアイディアが示された時点で誰もが先を読める展開で、だからこちらのワクワク度が先に高まってしまうからなのか、そうは盛り上がってくれなし、アイリスとグラハムの熱愛ぶりに煽られて、かえって腰が引けてしまったりもする。

謎だらけでやきもきさせられたグラハムには、ソフィとオリビアという2人の娘(子役がいい)がいて、家に押しかけたアマンダは4人で楽しい時を過ごす。三銃士のイメージは重なるし、オリビアの「女の人が来たのは初めて、うれしいな」というグラハムへの応援にもなるセリフには本当にうれしくなるし、グラハム演じるナプキンマンの微笑ましいこと。

アマンダとアイリスの電話中にグラハムからもかかってきて、アイリスが中継役になるアイディアもいいし、2人は最初こそいきなりセックスになってしまったものの、途中からはキスそのものを楽しんでいるようで好感が持てる(あれ、腰が引けてたって書いたのに)。

そういう工夫は沢山あるのに、何でなんだろ。

一方のアイリスもただ豪邸を楽しんでいるだけでなく、アマンダの元カレの友達で作曲家のマイルズ(ジャック・ブラック)と知り合いになる。マイルズはやはり浮気されての失恋病男で、アイリスと同じように「便利でいい人」なのがミソ。だからこちらは2人共、元の恋人に決着を付けてからやっと恋が始まる。2人共恋人に復縁を迫られるあたりも似ているのだな(ジャスパーはわざわざロンドンからやってくるのだ)。

アイリスはまた、たまたま知り合った90歳の元脚本家アーサー(イーライ・ウォラック)にも、君が主演女優だと励まされる。実はこの老脚本家がらみの挿話は、アイリスが家にこもっていた彼に手を貸して、祝賀会に出かけていくようになる場面があるように、時間もそれなりに使っているのだが、何故か機能しているとはいえない。その証拠に、アーサーが祝賀会の壇上で話しているのに、アイリスとマイルズでお喋りしてしまう場面があるのだけど、これはないでしょう。

マイルズには、いつものジャック・ブラック調で映画ネタをふんだんに語らせたり(『卒業』ではビデオ屋で、ダスティン・ホフマンに「顔がバレたか」と言わせるわかりやすいカメオシーンまである)、アマンダには映画の予告篇のように自己分析してしまう場面が何度かあったりと、先にも書いたように細かな工夫が多い。

極めつけは、15歳で親が離婚したことから強くならねばと頑張って泣けなくなっていたアマンダが、泣き虫のグラハムと大泣きすることだろうか。でもね。

この噛み合わなさは何故なのか。結末が読めていたから。切実さが伝わらないから。ふむ。
よくわからんのだが、とにかくそういう印象のまま終わってしまったのだな。基本的には女性の目線での願望映画だから私には合わなかったのかも。

2週間が終わったらどうするのかって問題が残るとは思うのだけど、最後は4人共(子供たちも)ロンドンで楽しそうにしていました。ここから先は、考えてもしょーがないしょーがない。

【メモ】

グラハムは妻とは2年前に死別。謎だったのは、週末に子供を預けて独身男のように振る舞っていたからで、携帯に違う2人の女性の名前を見たアマンダは余計勘違いしてしまう。

三銃士のように暮らしていたというアマンダのセリフが、子供たちによってなぞられる。

映画ネタは『炎のランナー』『ミッション』など。他にリンジー・ローハンとジェームズ・フランコの映画の予告篇(これは架空か)も。それと元脚本家の机にはオスカー像が見えた。

原題:The Holiday

2006年 135分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:古田由紀子

監督・脚本:ナンシー・マイヤーズ 製作:ナンシー・マイヤーズ、ブルース・A・ブロック 製作総指揮:スザンヌ・ファーウェル 撮影:ディーン・カンディ 美術:ジョン・ハットマン 衣装デザイン:マーリーン・スチュワート 編集:ジョー・ハッシング 音楽:ハンス・ジマー
 
出演:キャメロン・ディアス(アマンダ)、ケイト・ウィンスレット(アイリス)、ジュード・ロウ(グラハム)、ジャック・ブラック(マイルズ)、イーライ・ウォラック(アーサー)、エドワード・バーンズ(イーサン)、ルーファス・シーウェル(ジャスパー)、ミフィ・イングルフィールド(ソフィ/グラハムの長女)、エマ・プリチャード(オリビア/グラハムの次女)、シャニン・ソサモン(マギー)、サラ・パリッシュ(ハンナ)、ビル・メイシー(アーニー)、シェリー・バーマン(ノーマン)、キャスリン・ハーン(ブリストル)

13/ザメッティ

2007年04月28日 土曜日

シネセゾン渋谷 ★★☆

■ランプが点灯したら引き金を引け!

青年が謎のチケットに導かれるように行った先は……というミステリー仕立ての物語だが、謎解きというほどのものはないし、展開も順を追った単純なものだ。大方の人間は観る前に、内容はともかく集団ロシアンルーレットがあるということは知っているから、それについての驚きがあるわけでもない。が、何も知らない青年が狂気の場に放り込まれ、しかし後戻りは出来ずにゲームが進んでいく中で、観客のほとんどは完全に青年と一体になり、青年と同じ恐怖を味わうことになる。

ただ、残念なのは、それだけの映画でしかないということだろうか。

青年はグルジア移民の22歳のセバスチャン(ギオルギ・バブルアニ)で、屋根修理の仕事中に依頼主のジャン=フランソワ・ゴドン(フィリップ・パッソン)が大金が手に入る話をしているのを耳にする。が、その金儲けの連絡の手紙をまっていたゴドンは薬物中毒で死んでしまう。ロシアンルーレットの恐怖に耐えられず、参加者の多くはモルヒネを打っていたという話があとで出てくるが、しかしゴドンの薬物中毒がそうかどうかはわからない。生き残りであるならすでに大金を手にしていそうなものだが、妻や友人との会話からはとてもそういう状況には見えない。

ゴドンの急死で、セバスチャンが内容もわからない手紙を盗み、その中にあったホテルの領収証とパリ行きの指定券(しか入っていない)に誘われるように列車に乗り込みホテルに向かったのは何故か。仕事は中止になるし、今までの賃金すらすんなりとは払ってもらえそうもなさそうなので、セバスチャンも金に困っていることは確かなのだが、1番はやはり単なる好奇心ではないか。この状況でこの行動にでる人間はいくらでもいそうだからだ。

映画はすべてセバスチャンの目線になっていることもあって、肝腎なことはわからず終いのことが多い。しかし矛盾することを言うようだが、この説明はもう少しだけなら削ぎ落とした方がよかったような気もする。どこと言われても困るし、淡々とした流れだって決して悪くないとは思うのだが、この内容なら1時間くらいに収めるべきだろう。

警察が追っていることは主催者も気付いているらしく、ひとつ前の駅で降ろさせたり、駅のロッカーに指示書をおいたり、車を乗り継がせて、セバスチャンを郊外にある館に連れていく。そこにはアラン(フレッド・ユリス)という男が待っていてゴドンでないことを不思議がる。異様な雰囲気にさすがに身の危険を感じたセバスチャンは帰ろうとするが、許されるはずもない。

ここからやたらリアルで緊張を強いられた集団ロシアンルーレット場面に入っていくのだが、後になって考えてみると意外に雑なゲームのような気もしてくる。

優勝者にも85万ユーロの金が出るのだから、単純にお金の問題だけではなく(中には切実そうな者もいたが)命を賭けたショーを見たいという気持ちがかなり強そうなのだ。金持ちの暇つぶしなのか。参加者が13人なのはたまたまで、トルコでは42人だったという。

最初は1発から始まりゲームが進むと弾数を増やしているが、ショーという意味だけなら、それでは進行が速すぎないか。そして、それなのに4人残った後はくじで、2人の対決にさせているのもわからない。最後の2人での勝負など、2人とも死んでしまうことだってありそうなのだが(だから予備として、2人を残したのか)。

ロシアンルーレットをやっている当人たちにとっては、最初のうちは自分が相手を殺すことよりも相手から殺されないことが重要になる。といったってこれもすべて運次第で、だからフライングもそうは意味がないし、恐怖でなかなか引き金を引けずにいたセバスチャンが撃たれずに残ることにもなる。が、ここで本当に恐怖を味わったのはセバスチャンの前にいた男なのだが。

セバスチャンは、いままでに3度このゲームを勝ち抜いてきた(理由が明かされないのであればこんな設定にしない方がいい)というジャッキー(オーレリアン・ルコワン)との戦いにも勝利(というよりただ運がよかっただけなのだが)し、賞金を手にする。

解放されたセバスチャンは賞金を家族に郵送し電話するが、ホームで警察に捕まり尋問を受ける。警察はゴドンの代わりに行ったが拒否されたというセバスチャンの言葉など信じてはいなかったが、金も持っていないし、彼がそこにあった車のナンバーを供述したことで放免となる。が、悪運もここまで。駅でジャッキーの弟に見つかり殺されてしまう。

このオチは安易だ。もうひとひねりがないと、集団ロシアンルーレットだけ、といつまでも言われてしまうだろう。

【メモ】

予告篇では、集団ロシアンルーレット場面で画面が暗くなるので、てっきりランプが消えるのが合図になって行われるのだと思い込んでいて、それだと別の方向に撃ったりしゃがんでしまったりしないかといらぬ心配をしていたが、まったくの思い違いだった。そりゃそうだよね。

監督自身の手によるハリウッドでのリメイクが決定している。

原題:13 Tzameti [グルジア語で数字の13]

2005年 93分 シネスコサイズ モノクロ フランス、グルジア R-15 日本語字幕:■

監督・脚本・制作:ゲラ・バブルアニ 撮影:タリエル・メリアヴァ 編集:ノエミー・モロー 音楽:イースト
 
出演:ギオルギ・バブルアニ(セバスチャン)、パスカル・ボンガール(闇のゲーム進行役)、 オーレリアン・ルコワン(ジャッキー)、フィリップ・パッソン(ジャン=フランソワ・ゴドン)、オルガ・ルグラン(クリスティーヌ・ゴドン/ゴドンの妻)、フレッド・ユリス(アラン)、ニコラス・ピグノン、ヴァニア・ヴィレール、クリストフ・ヴァンデヴェルデ、オーグスタン・ルグラン、ジョー・プレスティア、ジャック・ラフォリー、セルジュ・シャンボン、ディディエ・フェラーリ、ゲラ・バブルアニ

ナイト ミュージアム

2007年04月28日 土曜日

シネセゾン渋谷 ★★☆

■オモチャのチャチャチャin博物館

ラリー・デリー(ベン・スティラー)は、離婚したエリカ(キム・レイヴァー)との間にもうけた10歳になるニッキー(ジェイク・チェリー)という息子がいる。エリカの再婚話はともかく、その相手(株のトレーダーなのな)にニッキーがなついているらしく、いや、そんなことより転職ばかりで現在も失業中の自分にあきれられてしまって、さすがに危機感をつのらせる。とにかく新しい仕事を探すしかないと職業訓練所を訪れた彼は、自然史博物館の警備の仕事に就くことになる……。

設定は違うものの『ジュマンジ』『ザスーラ』と似た作品。ゲームが博物館になっただけで、夜になると動き出す博物館の展示物が朝には戻っているというある種のお約束の上に成立しているのも、家族の絆を取り戻すというテーマが潜んでいるのも、まったく同じだ。

子供向け映画という方針がはっきりしているから、いきなり恐ろしいテラノサウルス(骨格標本なんだけどね)に襲われるもののそれは勘違いで、相手はまったく犬レベル。骨を投げて遊んでほしかっただけだったりする。

そもそもラリーと入れ替わりに退職するというセシル(ディック・ヴァン・ダイク)、ガス(ミッキー・ルーニー)、レジナルド(ビル・コッブス)の先輩老警備員たちから渡されたマニュアルを、いたずら好きのサルに鍵束と一緒に持ち去られたというのがのがいけなかったのだが……。

博物館だから展示物が所狭しと置いてあるわけで、つまり限られた空間に限られた人物で少し先は他の展示物の領域だったりするから、動きだしてもお互いに適当に調和をとっていたり我関せずというのがおっかしい。もっとも西部開拓史とローマ帝国のジオラマでは双方ともが領土の拡大をはかっていて、大乱闘になったりもする。このミニチュアのアイディアでは、ラリーがガリバーのように小人たちに磔にされ、鉄道に轢かれたり、ローマ軍の矢を沢山浴びせられてしまったするのが、なかなか愉快だ。

もちろんこれだけでは映画としては芸がないので、3人の先輩老警備員たちがアクメンラーの石板を持ち出そうとするのを、全員で阻止するというクライマックスが用意されている。この石板がなくなると、これによって毎晩息を吹き込まれていた展示物の、唯一の楽しみが奪われてしまうのだ。

ここで1番活躍するのがルーズベルト大統領(ロビン・ウィリアムズ)だろうと思っていると、彼は硝子の中に展示されているアメリカ先住民のサカジャウィア(ミズオ・ペック)に片想いをしていたという役回り。「私もただの蝋人形でルーズベルトじゃない。女に告白もできん」と言うのだ(蝋人形でよかったよ、というような傷を負う)。え、何。それにしちゃ他の展示物はかなり役に成りきっているんじゃないか。いや、でもこれが正しい解釈なんだろうけどねぇ(考え出すと複雑なことになりそうだから、やめておこう)。

ミニチュア(ジオラマ)のカーボーイとオクタヴィウスの大活躍もあって石板は無事戻ってくるし、ラリーは学芸員レベッカ(カーラ・グギーノ)の論文の手助けや、もちろんニッキーにもいいところを見せられて(ニッキーとその友達が見ている前でクビを言いわたされたラリーは汚名返上とニッキーを博物館に連れてきていた)、しかも博物館外での石板争奪戦の痕跡が博物館の宣伝にもなってラリーにはお咎めがないばかりか……と予定通りの結末を迎える。

老警備員たちもラリーの温情で床掃除だけの罰と、まあ、すべてが善意による大団円なのは、どこまでも健全な子供映画ってことなのだろう。

余談だが、アメリカ自然博物館だけあって日本人には馴染みの薄い人物が出てくる。サカジャウィアもだが、彼女を通訳として西部開拓史時代にアメリカを探検したメリウェザー・ルイスとウィリアム・クラーク。しかし調べてみるとサカジャウィアは人妻ではないの(http://sitting.hp.infoseek.co.jp/sakaja.htm)。ルーズベルト、まずいよ、それは。あ、だから違う人格の蝋人形って言ってたんだっけ。

  

【メモ】

ラリーに仕事を斡旋する職業紹介員を演じるアン・メアラはベン・スティラーの実母。

原題:Night at the Museum

2006年 108分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:戸田奈津子

監督:ショーン・レヴィ 製作:ショーン・レヴィ、クリス・コロンバス、マイケル・バーナサン 製作総指揮:マーク・A・ラドクリフ 原作:ミラン・トレンク 原案・脚本:ロバート・ベン・ガラント、トーマス・レノン 撮影:ギレルモ・ナヴァロ プロダクションデザイン:クロード・パレ 衣装デザイン:レネー・エイプリル 編集:ドン・ジマーマン 音楽:アラン・シルヴェストリ
 
出演:ベン・スティラー(ラリー・デリー)、カーラ・グギーノ(レベッカ)、ディック・ヴァン・ダイク(セシル)、ミッキー・ルーニー(ガス)、ビル・コッブス(レジナルド)、ジェイク・チェリー(ニック・デリー)、ロビン・ウィリアムズ(セオドア・ルーズベルト)、ミズオ・ペック(サカジャウィア)、ラミ・マレック(アクメンラ)、リッキー・ジャーヴェイス(マクフィー博士)、アン・メアラ(デビー)、キム・レイヴァー(エリカ・デリー)、スティーヴ・クーガン、ポール・ラッド、オーウェン・ウィルソン(クレジットなし)

東京タワー オカンとボクと、時々、オトン

2007年04月29日 日曜日

109シネマズ木場シアター6 ★★★☆

■オカンとボクと、時々、オトン、そしてミズエ

原作は未読。リリー・フランキーの自伝だろうか。そして振り返るとそこにはオカン(内田也哉子→樹木希林)がいた、というような。

小倉から筑豊の炭坑町、そして大分の美術高校時代の下宿生活を経て東京に上京し、美大時代のぐうたらな生活があって、でもなんとか稼げるようになってオカンを呼び寄せて一緒に暮らし……。料理好きで誰からも愛されたオカンのことを「ボク」(谷端奏人→冨浦智嗣→オダギリジョー)が綴っていく。

作者が最初に「小さな話」と言っているのは、特別な大それた事件というべきものなどないという謙遜と思われるが、長い年月のうちにはそれなりの事件は当然いくつもあって、それが丹念に描かれていく。むろんリリー・フランキーの子供時代は子供の目線でしかないので、上京するまでの場所は田舎なのだが、場所は違ってもこの時代の風景は私には懐かしいもので、共鳴する部分が多かった(車をハンドル操作で道を走らせるゲームってあんなにチャチだったかしらねー。かもねー、というように反応していたのね)。

そして挿話としてはどこにでもありそうな話の積み重ねながら、やはり母に対する、また母の子に対する気持ちが全編に溢れたものになっていて、でもそれは決して押しつけがましいものにはなっていなかった。

だから、抗癌剤の副作用で苦しむ壮絶な場面になっても素直に受け止められたのだろう。また、オカンに手を引かれる側だったのが「ボク」が引く側になっているベタな映像すら、とても愛しく思えたのだった。

映画の題材としてなら「この人より自由な人をボクはいまもって見たことがない」オトン(小林薫)の方がずっと料理のしがいがありそうだが、しかしこの程度の人材ならあの時代にはいくらでもゴロゴロしていた記憶があるが(人付き合いの密度が高かっただけかも)、これは映画とは別の話。それに、オトンは、後半どんどん立派なオトンになっていくんだよね。

話としては誰にでも思い当たるような部分がいくつも出てきて、その普遍性が原作をベストセラーにしたのだろう。それをまた私が引っ張り出しては、同じことの繰り返しになってしまうので、1番気になったミズエ(松たか子)の存在についてだけ書いておく。

放蕩生活の借金完済も近づき、オカンの上京が決まった頃に「新しい彼女」として登場したミズエは、「いろんなことがうまく回りはじめている」その中にいて、でも、その楽しい時間が「足早に過ぎて」オカンの癌が再発したときにはミズエと「ボク」とは、もう「私たちが別れたこと……」「まだ言っていないんだ」という会話になっている。ミズエはオカンに指輪をもらっていて、そのことを気にするのだが、はめる時とはめない時があっていいからもらっといてよ、と「ボク」は答える。

オカンの闘病生活の時にも病室を訪れるミズエの姿があるし、約束を果たすために最後に「ボク」がオカンの位牌を持って東京タワーの展望台にのぼる時にも、待ち合わせには少し遅れながらミズエはやって来るのだ。

こんな時にも彼女が来ているのは、オカンと彼女とにあった絆が大きかったことがもちろんあるが、恋人ではなくなった「ボク」とは今でも信頼関係が残っているのだろう。ミズエについては多くは語られていないので、観客の想像に委ねられているのだが、そのことがかえって彼女の存在を際だたせていたし、映画にとってもいいアクセントになっていたと思うのだ。

    

2007年 142分 シネスコサイズ 配給:松竹

監督:松岡錠司 原作:リリー・フランキー『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』 脚本:松尾スズキ 撮影:笠松則通 美術:原田満生 衣装:宮本まさ江 編集:普嶋信一 音楽:上田禎 主題歌:福山雅治『東京にもあったんだ』 メイク:豊川京子 照明:水野研一 録音:柿澤潔
 
出演:オダギリジョー(中川雅也/ボク)、樹木希林(中川栄子/オカン)、内田也哉子(若い頃の栄子)、松たか子(ミズエ)、小林薫(オトン)、冨浦智嗣(中学、高校時代の雅也)、田中祥平(小学校時代の雅也)、谷端奏人(幼少時代の雅也)、渡辺美佐子(筑豊のばあちゃん)、佐々木すみ江(小倉のばあちゃん)、原知佐子(ノブエおばさん)、結城美栄子(みえ子おばさん)、猫背椿(ブーブおばさん)、伊藤歩(タマミ)、勝地涼(平栗)、平山広行(磯山)、荒川良々(えのもと)、辻修(ホセ)、寺島進(ハイカラな男)、小島聖(若い頃のノブエおばさん)、吉本菜穂子(若い頃のみえ子おばさん)、光石研(小料理屋の客)、千石規子(病院の借家の老婆)、仲村トオル(ラジオ局のディレクター)、土屋久美子(高校の女教師)、小泉今日子(不動産屋の事務員)、板尾創路(「かっぱ」の客)、六角精児(編集長)、宮﨑あおい(アイドルDJ)、田口トモロヲ(郵便配達)、松田美由紀(中目黒の大家)、柄本明(笹塚の診療所の医者)、田中哲司(東京の病院の医者)、塩見三省(葬儀屋)、岩松了(催促する編集者の声)、江本純子(風俗嬢C)、安藤玉恵(風俗嬢A)、栗原瞳(風俗嬢B)、麻里也(堕落した日々の彼女)、竹下玲奈(大学時代の彼女)、小林麻子(似顔絵教室の女子社員)、ぼくもとさきこ(東京の看護婦)

ハンニバル・ライジング

2007年04月29日 日曜日

109シネマズ木場シアター6 ★★★☆

■常識人の創った怪物

あの「人食い(カニバル)ハンニバル」の異名を持つ殺人鬼レクター博士の誕生話。

トマス・ハリスなら最初の『レッド・ドラゴン』を書いた時点で、当然レクター像もかなり煮詰めていたはずである。といってこの作品までの構想があったかというと、むろん私にはわからないのだが、全体の輪郭が当初からあったと聞けばなるほどと思うし、後付けであるならそれもさすがと思ってしまうくらいよく出来ている(文句を書くつもりなのにほめてしまったぞ)。

そして、結論は意外と単純なものであった。あれだけの反社会的精神病質者を生みだしたのは、そのレクターの存在以上に狂気が至るところにあった戦争だったというのだから。

第二次大戦中の1944年、6歳のハンニバル・レクターは、リトアニアの我が家レクター城(名門貴族なのね)にいた。戦争は彼の恵まれた環境をいとも簡単に壊してしまう。ドイツ空軍の爆撃で父母を奪ばわれたハンニバルは、幼い妹のミーシャと山小屋に隠れ住むが、そこに逃亡兵がやってきたことで悲劇が起きる……。

戦後ソ連軍に解放された家は孤児院となり、ハンニバル(ギャスパー・ウリエル)はあれから8年間をそこで過ごしていたが、他の孤児のいやがらせに脱走し、手紙の住所をたよりにフランスにいる叔父を訪ねる。

ただ、この逃避行で、彼はすでにかなりの非凡さを披露してしまう。なにしろ孤児院を抜けるだけでなく、冷戦時代の国境まで越えてしまうし、いやがらせをした相手への復讐も忘れないなど、後年のレクター博士がすでにここにいるのである。

これでは興味が半減してしまう。もちろんまだカニバルの部分での謎は残っているし、映画としての娯楽性を損ねることなく進行させねばならない、という理由もあってしたことだろうから、それには目をつぶっておく。

さて、フランスに無事たどり着いたレクターだが、叔父はすでに死んでいて、しかし日本人の未亡人レディ・ムラサキ(コン・リー)の好意で、そこに落ち着くことになる。が、肉屋の店主がムラサキに性的侮辱の言葉を浴びせたことで、彼の中の獣性が目を覚ます……。

ムラサキの下でハンニバルは日本文化の影響を受けることになる。ムラサキによる鎧と刀を使った儀式めいたものが演じられるし、ハンニバルが肉屋の首を斬りとったのもこの日本刀を使ってだった。ただ、この部分は日本人には首を傾げたくなるものでしかない。

ポピール警視の追求を受けるものの、ハンニバルは最年少で医学部に入学する。なるほど、後年、精神科医にはなるが、人間を解剖したりする知識は早くから学問として学んでいたというわけか。

このあと、度々悪夢に襲われるハンニバルは、ミーシャの復讐を次々と果たしていく。この復讐劇が予定通りに成し遂げられていくのは、青年ハンニバルがもうレクター博士になっている証拠のようなもので(フランスへの逃避行からだった)、特別な見せ場にもならないほど粛々と進行していく。

が、このことで復讐相手のグルータス(リス・エヴァンス)の口から、飢えをしのぐためにミーシャを食べたのはお前もだと逆襲されることになる。これはかなり衝撃的な事実であるし、ここを映画のクライマックスにもしているので、これをもってカニバルの説明としたいところだが、妹の人肉を食べたことがハンニバルの中で嫌悪にはならず、人肉食を追求するようになった理由にまではなっていないように思われる。

それにこれは本当に説明可能なことなのだろうか。青年ハンニバルを描くことになれば、当然それが明かされるはずと思い込んでいたが、それが簡単なものでないことは誰しも気付くことだ。

ムラサキはハンニバルの最初の殺人を容認するばかりか擁護してしまうのだが、最後は彼に復讐を断念し脱走兵を許すことを求める。が、もう耳を貸すようなハンニバルではなくなっている。けれど、それなのに、ハンニバルはムラサキに「愛している」と言うのだ。

ハンニバルもここまでは夢にうなされるし、愛という言葉を口にする人間だったのである。だから彼の犯罪もこの作品では、非礼に対する仕返しであり、妹への復讐であって、彼の側にも正当性がかろうじてあったのだ。しかしムラサキに「あなたには愛に値するものがない」と言われてしまったことで、ハンニバルにあった人間は消えてしまう。

説明つきかねるものをやっとしたという感じがなくもないが、しかしそうさせたのは、レクター博士を想像したのが常識人のトマス・ハリスだったからではなかったか。いや、これはまったくの推論だが。

なお蛇足ながら、ギャスパー・ウリエルのハンニバル像は、アンソニー・ホプキンスにひけを取らぬ素晴らしいもので、彼にだったら続編を演じてもらってもいいと思わせるものがあった。そうして、今回定義出来なかった悪をもっと語ってもらいたいと思うのだ。さらに的外れになることを恐れずにいうと、善から悪への道は『スターウオーズ エピソード3 シスの復讐』の方がよほど上で、ハンニバルは最初から悪そのものを楽しんでいたという設定にすべきではなかったか。

ところでチラシには「天才精神科医にして殺人鬼、ハンニバル・レクター。彼はいかにして「誕生(ライジング)」したのか?――その謎を解く鍵は“日本”にある」となっているのだけど、ないよ、そんなの。

原題:Hannibal Raising

2007年 121分 シネスコサイズ アメリカ、イギリス、フランス R-15 日本語字幕:戸田奈津子

監督:ピーター・ウェーバー 製作:ディノ・デ・ラウレンティス、マーサ・デ・ラウレンティス、タラク・ベン・アマール 製作総指揮:ジェームズ・クレイトン、ダンカン・リード 原作:トマス・ハリス『ハンニバル・ライジング』  脚本:トマス・ハリス 撮影:ベン・デイヴィス プロダクションデザイン:アラン・スタルスキ 衣装デザイン:アンナ・シェパード 編集:ピエトロ・スカリア、ヴァレリオ・ボネッリ 音楽:アイラン・エシュケリ、梅林茂
 
出演:ギャスパー・ウリエル(ハンニバル・レクター)、コン・リー(レディ・ムラサキ)、リス・エヴァンス(グルータス)、ケヴィン・マクキッド(コルナス)、スティーヴン・ウォーターズ(ミルコ)、リチャード・ブレイク(ドートリッヒ)、ドミニク・ウェスト(ポピール警視)、チャールズ・マックイグノン(ポール/肉屋)、アーロン・トーマス(子供時代のハンニバル)、ヘレナ・リア・タコヴシュカ(ミーシャ)、イヴァン・マレヴィッチ、ゴラン・コスティッチ、インゲボルガ・ダクネイト

バベル

2007年04月30日 月曜日

TOHOシネマズ錦糸町のスクリーン2 ★★★★

■言葉が対話を不能にしているのではない

この映画を規定しているのは、何よりこの「バベル」という題名だろう。

旧約聖書の創世記にある、民は1つでみな同じ言葉だったが、神によって言葉は乱され通じないようになった、というバベルの塔の話は短いからそこだけなら何度か読んでいる。ついでながら、聖書のことをよく知らない私の感想は、神は意地悪だというもので、でも塔を壊してまではいないのだ(「彼らは町を建てるのをやめた」と書いてある)というあきれるようなものだ。

聖書は難しい書物なので、私にはどういう意図でこの題を持ってきたのかはわからないのだが、単純に言葉の壁について考察した題名と解釈して映画を観た。内容も言葉の違う4種の人間のドラマを、モロッコ、アメリカとメキシコ、日本を舞台にして描き出していてのこの題名だから、私の思慮は浅いにしても大きくははずれてはいないはずだ。

ただ、映画では、4つの言語が彼らの対話を不可能にしているのではなく、むしろ関係性としては細々としたものながら、辿るべき道が存在しているからこその4(3)つの物語という配置であり、言語が同じであっても対話が十分に行われているとはとても思えないという、つまり題名から思い浮かぶこととは正反対のことを言っているようである。

アフメッド(サイード・タルカーニ)とユセフ(ブブケ・アイト・エル・カイド)の兄弟は、父のアブドゥラ(ムスタファ・ラシディ)から山羊に近づくジャッカルを追い払うようにと、買ったばかりの1挺のライフルを預けられる。少年たちは射撃の腕を争っていたが、ユセフははるか下の道にちょうどやって来たバスに狙いを定める。

リチャード(ブラッド・ピット)は生まれてまもなく死んでしまったサムのことで壊れてしまった夫婦関係を修復するために、気乗りのしない妻のスーザン(ケイト・ブランシェット)を連れてアメリカからモロッコにやって来ていた(子供をおいてこんな所まで来ているのね)。その溝が埋まらないまま、観光バスに乗っていて、スーザンは肩を撃たれてしまう。

リチャードとスーザンの子供のマイクとデビーは、アメリアというメキシコ人の乳母が面倒を見ていたが、彼女の息子の結婚式が迫っていた。そこにリチャードから電話があり(映画だとモロッコの場面と同じ時間帯で切り取られているので混乱するが、この電話はスーザンが救急ヘリで運び出されて病院へ搬送されてからのものなのだ)、どうしても戻れないと言われてしまう。アメリアは心当たりを探すがどうにもならず、仕方なく彼女の甥サンチャゴ(ガエル・ガルシア・ベルナル)が迎えに来た車にマイクとデビーを乗せて一緒にメキシコに向かう。

この光景内で、言語の壁による対話不能は、そうは見あたらない。確かにリチャードは異国での悲劇に右往左往するが、モロッコのガイドは親身だし、スーザンを手当してくれた獣医も老婆もごくあたりまえのように彼女に接していた。

バスに同乗していた同じアメリカ人観光客の方がよほど自分勝手で、リチャードとスーザンを残してバスを発車させてしまう。当然大騒ぎになって警察が動き、ニュースでも取り上げられるが、国対国での対話には複雑な問題が存在するらしくなかなか進展しない。意思の疎通ははかれてもそれだけでは解決しないことはいくらでもあるのだ。なにより夫婦であるリチャードとスーザンの心が離ればなれなままなのだ。事件を経験することによって死を意識して、はじめて和解へと至るのだが。

アフメッドとユセフも兄弟なのに反目ばかりしていることが、あんな軽はずみな行動となってしまったのだろう。アブドゥラは真相を知ってあわてるばかりだ。2人を叱りつけるが、意味もなく逃げて、警察にアフメッドが撃たれ、ユセフも発砲し警官にあたってしまう。泣き叫ぶアブドゥラ。やっと目が覚めたようにユセフは銃を叩き壊し、僕がやったと名乗り出る。

メキシコでの結婚式に連れてこられたマイクとデビーは、ママにメキシコは危険と言われていたが、現地に着いたらさっそく鶏を捕まえる遊びに熱中し楽しそうだ。言葉が違うことなど何でもないではないか。

結婚式で楽しい時を過ごすが、帰りに国境で取り調べを受けているうちに、飲酒運転を問われたサンチャゴが国境を強行突破してしまう。いつまでも追いかけてくる警備隊の車に、サンチャゴは「ヤツらをまいてくる」と言って3人を降ろし、ライトだけを残して何処かへ消えてしまう。真っ暗闇を車で疾走するのも恐ろしいが、置き去りにされるのもものすごい恐怖である。

次の日、子供を連れて砂漠を彷徨うアメリアが痛ましい。故郷での甘い記憶(息子の幸せもだが、彼女も昔の馴染みに言い寄られていた)が今や灼熱の太陽の下で朦朧としていく。子供を残して(最善の方法と信じて)1人で助けを求めて無事保護されるが、彼女を待っていたのは「父親(リチャード)は怒っているがあなたを訴えないと言っている」という言葉と、16年もの不法就労が発覚し、送還に応じるしかないという現実だった。

いままで書いてきたのとは少し関連性が薄くなるのが日本篇で、アブドゥラが手に入れ思わぬ事件に発展したライフルの、そもそもの持ち主が東京の会社員ワタヤヤスジロー(役所広司)だったというのだ。が、これについては彼がモロッコでハッサンという男にお礼にあげたというだけで、日本の警察もライフルについての一応の経路を確認しただけで終わる(時間軸としてはメキシコ篇と同じかその後になる。この時間の切り取り形が新鮮だ)。

だから日本篇は無理矢理という印象から逃れられない。こういう関連付けは目に見えないだけで事例は無数に存在するから、ほとんど意味がないのだが、日本篇は話としては非常に考えさせられるものとなっている。

ワタヤにはチエコ(菊地凛子)という高校生の聾唖の娘がいて、部活でも活躍しているし友達とも普通に付き合っているが、どうやら彼女は母親の自殺のショックを引きずっているらしい。

でもそれ以前に彼女には聾唖という問題が付きまとっていて、ナンパされても口がきけないとわかった段階でまるで化け物のように見られてしまうのだ。そういうことが蓄積していて被害妄想気味なのか、バレーボールの試合のジャッジにも不平たらたらで、怒りを充満させていた。ちょうど性的な興味にも支配されやすい年齢でもあるのだろう、行きつけの歯医者や化け物扱いした相手に対して大胆な行動にも出る。

チエコの聾唖が言葉の壁の問題を再度提示しているようにもみえるが、これは見当違いだろう。当然のことを書くが、チエコの対話を阻止しているのは、チエコが言葉を知らないからではなく、身体的な理由でしかない。そして、それは相手に理解力がないだけのことにすぎない。ただ、理由はともあれ、チエコにはやり場のない怒りと孤独が鬱積するばかりである。

チエコが友達に誘われるように渋谷のディスコに行き、それまでじゃれ合って楽しそうにしていたのに、急に相手をにらみつける場面になる。光が明滅する中、ディスコの大音響が次の瞬間消え、無音になる。これが3度ほど繰り返されるのだが、そうか、彼女のいる世界というのはこういうものなのかもしれないと、一瞬思えるのだ。とはいえ、これが、私には関係ないといった目になって1人街中へ出て行ってしまうチエコの説明になっているとは思えないし、音のない世界(耳は聞こえなくても音は感じるのではないかという気もするのだが)では光の明滅が逆に作用するかどうかも私にはわからないのだが、この場面はかなり衝撃的なものとなっていた。

チエコがライフルのことを調べにきたマミヤ刑事(二階堂智)に連絡をとったのは、母の自殺の捜査と勘違いしたようだが、母の自殺を銃から飛び降りに変えてしまったのは、父を庇うつもりだったのか。それとも単にマミヤの気を引こうとしたのか。しかしそんなことはとうに調べられていることだから、何の意味もないだろう。もっともマミヤはその事件の担当ではないから、びっくりしたみたいだったが。

しかし本当にびっくりしたのは、帰ろうとして待たされたマミヤの前に、チエコが全裸で出てきたことにだろう。相当焦りながらもマミヤは、まだ君は子供だからダメだと言ってきかせる。マミヤの拒絶はチエコにとってはもう何度も経験してきたことであるはずなのに、今度ばかりは泣き出してしまう。謝る必要などないと言ってくれたマミヤに、チエコは何かをメモに書いてマミヤに手渡す。すぐ読もうとするマミヤをチエコは押しとどめる。

マミヤはマンションを出た所でワタヤに会い、彼の妻の自殺のことにも触れるが、この話は何度もしているので勘弁して欲しいとワタヤに言われてしまう。ワタヤが家に帰ると、チエコはまだ全裸のままベランダにいて泣きながら外を眺めていた。ワタヤが近づき、手を握り、そのまま抱き合う2人をとらえたままカメラはどんどん引いていき、画面には夜景が広がる。

この日本篇の終わりが映画の締めくくりになっている。場面だけを取り出してみると異様な風景になってしまうが、このラストは心が落ち着く。結局単純なことだが、チエコはただ抱きしめてもらいたかったのだ。チエコはマミヤの指を舐めたりもしていたから、とにかく身体的な繋がりにこだわっていたのかもしれない。では繋がれれば言葉は必要ないかというと、そうは言っていない。チエコはマミヤに何やらびっしり書き付けたものを手渡していたから。マミヤはそれを安食堂で読んでいたけれど、何が書いてあるのかは映画は教えてくれない。言葉は必要ではあるけれど、言葉として読まないでもいいでしょう、と(そう映画が言っているかどうかは?)。

日本篇は、日本人がライフルを所有していたり、妻が銃で自殺していることなど、設定がそもそも日本的でないし、チエコの行動もどうかと思う。日本人にとっては舞台が日本でなかった方が、違和感は減ったような気がしたが、この題材と演出は興味深いものだった。

ところで、オムニバス構成故出番は少ないもののブラッド・ピットにケイト・ブランシェットという豪華な配役は、ブラッド・ピットはわめき散らしているばかりだし、ケイト・ブランシェットも痛みと死ぬという恐怖の中で失禁してしまうような役で、どちらもちっとも格好良くないのだけど、でも、だからよかったよね。

  

原題:Babel

2006年 143分 ビスタサイズ アメリカ PG-12 日本語字幕:松浦美奈 配給:ギャガ・コミュニケーションズ

監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 製作:スティーヴ・ゴリン、ジョン・キリク、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 脚本:ギジェルモ・アリアガ 撮影: ロドリゴ・プリエト 編集:ダグラス・クライズ、スティーヴン・ミリオン 音楽:グスターボ・サンタオラヤ

出演:ブラッド・ピット(リチャード)、ケイト・ブランシェット(スーザン)、アドリアナ・バラーザ(アメリア)、ガエル・ガルシア・ベルナル(サンチャゴ)、菊地凛子(ワタヤチエコ)、役所広司(ワタヤヤスジロー)、二階堂智(マミヤケンジ/刑事)、エル・ファニング(デビー)、ネイサン・ギャンブル(マイク)、ブブケ・アイト・エル・カイド(ユセフ)、サイード・タルカーニ(アフメッド)、ムスタファ・ラシディ(アブドゥラ)、アブデルカデール・バラ(ハッサン)、小木茂光、マイケル・ペーニャ、クリフトン・コリンズ・Jr、村田裕子(ミツ)、末松暢茂

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