叫
2007年04月01日 日曜日
シネセゾン渋谷 ★☆
■共有できない「意味」
去年公開の『LOFT ロフト』に続く黒沢清監督作品。『LOFT ロフト』もだが、この映画も私の理解を超えていた。
東京湾の埋立地で身元不明の女の他殺死体が発見される。担当刑事の吉岡(役所広司)は、捜査現場で赤い服を着た謎の女(葉月里緒菜)を見る。そして、同様の手口(わざわざ埋め立て地に運び海水を飲ませる)と思われる殺人事件が次々と起きるのだが、手口以外の共通点が見つけられぬうち、思わぬ容疑者が浮上する。
映画は初めのうち、吉岡がいかにも犯人かのような証拠(コートの釦や指紋など)を提示し、同僚の宮地(伊原剛志)に疑わせ、そして吉岡自身もその証拠に困惑するという手の込んだことをしてみせるのだが、これは観客をわざと混乱させるだけのものだったらしい。
本人が知らないうちに犯行を重ねていたというのは、この手の話にはありがちにしても、きちんと向き合うのであれば、それは何度作られてもいいテーマだろう。なのに、ここではそれが、ただの飾りか混乱の道具にしかなっていないのである。
もっとも事件が吉岡とまったく無関係かというと、さすがにそんなことはなく、連続殺人の調べが進んで、吉岡の過去とも繋がりのあることがわかってくる。が、それは15年も前のことで、何故今頃という気もするのだが、一応説明すると次のようになる。
吉岡は湾岸航路を使って通勤していたことがあり、その途中にある、戦前には療養所だった黒い建物(アパート)の中にいた女(赤い服の女)と目が合っていたというのだ。療養所は元の収容者たちが住み着いていて、そこでは規律を守らないと洗面器に海水を入れ窒息するまで体罰をしていたという噂があったとも。しかしその噂を吉岡が知ったのは最近のことなのだ(風景と同じように忘れてしまっていただけなのかもしれないが)。
赤い服の女(といったって幽霊なんだが)の言い分はこうだ。「ずーっと前、あなたは私を見つけて、私もあなたを見つけた……それなのに、みんな私を見捨てた」と。目が合っただけなのに。言いがかりもいいとこで、女の勝手な思い込みなのに。しかも1対1の関係を強調しているようで、何故か「みんな」になってしまっているのだ。で、その「みんな」というのが、他の被害者(同じ航路を利用していた)なのだろう。
この女の指摘は一方的で怖いが、確かに人間関係のある側面を捉えてはいる。個別の人間が行為や言葉を、本当に同じ意味で共有できるかどうかは、考え出すと途方もなく大きな問題だからだ。
しかし、後になって吉岡がその建物に行ったことで、女は吉岡に「やっと来てくれたのね。あなただけ許します」と言うのである。他の被害者たちとの差はここ(元療養所)へ来てくれたことだけなのか。「できることがあった」と言っていたのは、そんなことだったのか。女にとっては、それだけで許せてしまうのか。それとも許されることで背負うことになる罪を描いているのか。死ならば「すべてなしに」もできるが、許されてしまうとそうはならなくなるというのか。
ところで映画は吉岡のプライベートな部分の描写で、春江(小西真奈美)という存在を最初から登場させている。彼女と吉岡は恋人以上の関係で、吉岡は春江を信頼しきっているようなのだが、春江はいつも吉岡には距離おいているのか、時間がないとか言ったりで、どこかよそよそしい。しかしそれなのに、ふたりだけになれるからと海外へ誘った吉岡は、逆に搭乗口で春江ひとりを行かせてしまうのだ。
平行して語られていたこの春江が実はやはり幽霊で、吉岡は半年前に恨まれるような何かしたらしいのだが、それは明らかにされない。ここでも同じように見て見ぬ振りをすることはできない、というような関係性が問われているようなのだが、でも、また春江も吉岡を許すのである(吉岡もどうして俺だけが、と言う)。いや、春江は最初から許していたのではなかったか。が、赤い服の女とは対極にいるような春江も、最後には叫んでいた。何を叫んでいたのかはわからないのだが。
で、さらにわからないのは洗面器に宮地が引っ張り込まれてしまうことだ。この場面は確かにすごいのだけど、でも何にもわからない。なんで宮地なんだ。「私は死んだ。だからみんなも死んでください」って何なのだ。
また、何の役にも立たない精神科医(オダギリジョー)や、反対に吉岡の案内役になる作業船の男(加瀬亮)も、すべてが思わせぶりなだけとしか思えない。赤い服の女の描写も好きになれなかったし、彼女が登場する時に起きていた地震も何だったのだろう。
すべては私の勘違いなのかもしれないのだが、だからってもう1度観直す気分にもなれない。それに、ここまでわかりにくくすることもないと思うのだが。何だかどっと疲れてしまったのだな。
2006年 104分 ビスタサイズ
監督・脚本:黒沢清 プロデューサー:一瀬隆重 エグゼクティブプロデューサー:濱名一哉、小谷靖、千葉龍平 撮影:芦澤明子 特殊効果:岸浦秀一 美術:安宅紀史 編集: 高橋信之 音楽:配島邦明 音楽プロデューサー:慶田次徳 主題歌:中村中『風になる』 VFXスーパーバイザー:浅野秀二 照明:市川徳充 特殊造型:松井祐一 録音:小松将人 助監督:片島章三
出演:役所広司(吉岡登)、小西真奈美(仁村春江)、葉月里緒菜(赤い服の女)、伊原剛志 (宮地徹)、オダギリジョー(精神科医・高木)、加瀬亮(作業船の船員)、平山広行(若い刑事・桜井)、奥貫薫(矢部美由紀)、中村育二(佐久間昇一)、野村宏伸(小野田誠二)
善き人のためのソナタ
2007年04月01日 日曜日
シネマライズ(地下) ★★★★
■監視しているだけではすまなくなった男の物語
東独崩壊の5年前(1984年)から始まる国家保安省(シュタージ)という秘密警察・諜報機関にまつわる映画だが、監視という低俗かつスリリングな部分の興味だけでなく(これだけでも十分面白いのに)、物語としての工夫もちゃんとあって、堪能させられた。
国家保安省のヴィースラー大尉(ウルリッヒ・ミューエ)は上司のグルビッツ部長(ウルリッヒ・トゥクール)に劇作家で演出家のゲオルク・ドライマン(セバスチャン・コッホ)の盗聴による監視を命じられる。そもそもドライマンの監視に対しては、彼はシロだから墓穴を掘ることになると乗り気でなかったグルビッツだが、ヘムプフ大臣の人気女優でドライマンの同棲相手でもあるクリスタ=マリア・ジーラント(マルティナ・ゲデック)狙いという思惑で、急遽実行に移されることになる。
この屋根裏での盗聴を通して、体制派だったヴィースラーが、何故か次第にドライマンとクリスタの2人を擁護する行動に出る、というのが映画の見所になっている。盗聴者のできることなど、限られているはずなのだが……。
ここで効果を上げているのがヴィースラーの無表情だ。彼がどうして、あるいはいつ、そういう気持ちになったのかはもうひとつよくわからないのだが、彼の内面が見えにくいことが薄っぺらな理解を排除しているし、ついでに心変わりを推理する楽しさまで提供してくれているのである。
車に誘い込み強引に関係を結んだクリスタを目撃させるために、ベルを誤作動させてドライマンをアパートの下に向かわせるとは、まったくいけすかない大臣の考えそうなことだが、ヴィースラーもこの時点では、単純にこれから起きる事件を面白がっていたようにみえる。
イェルスカという今では目を付けられて干されている演出家がドライマンに贈ったブレヒトの本をヴィースラーが持ち出して読んでいるのはそれから間もなくのことで、さらにこれもイェルスカが贈った楽譜「善き人のためのソナタ」を弾くシーンでは「この曲を本気で聴いた者は悪人になれない」という説明がつく。しかしその直前に、ヴィースラーは本の贈呈者イェルスカの死(自殺)を聴いている。音楽が変節の契機になるというのは話としては出来すぎで、だから私は本とイェルスカに影響を受けたのだと判断した(もちろん、それだけでなくドライマンを取り巻くいろいろな事柄からなのだろうが)。
事情を知ったドライマンと、大臣の所に行こうとするクリスタとで口論になるのだが、ヴィースラーの盗聴は部下のライエ軍曹との交代時間になってしまう。ヴィースラーはいても立ってもいられなくなり(観客も同じ気持ちにさせる)、近くのバーで飲み始めるのが、そこにクリスタがあらわれる。クリスタを翻意させるのに使った「あなたのファン」という言葉は、観ている時には方便なのだろうと思ったのだが、今となってみるとファンというのは本当だった可能性もある。
次の日、「いい報告書だ」と交代するライエを褒めるヴィースラー。そこには「クリスタが戻り、ドライマンは喜びに包まれ激しいセックスが続いた……新しい作品を生む創作意欲が……」と書かれていた。
イェルスカの自殺も大いに影響したのだろう、ドライマンは東ドイツで多発している自殺についての文章を書き、西側の雑誌に匿名で発表する。この時盗聴の有無を調べようとして、ドライマンたちがガセネタを流して当局の動きを知ろうとする場面があるのだが、ここでもヴィースラーは、今日だけは見逃してやるなどと言っているのだ。しかし、その一方でドライマンたちの行動に不審を感じたライエに、彼らは台本を書いているだけだと言いくるめ、余計な詮索をしないよう釘を刺す。
薬物を常用しているクリスタは、その入手にかかわって捕まり、脅かされ、雑誌の記事はドライマンが書いたことを認めたため、家宅捜査となるが、何も見つけられずに終わる。盗聴しながら見破れなかったヴィースラーの立場は悪くなるが、優秀な尋問者だった彼にはチャンスが与えられる。
尋問で対面したヴィースラーのことをクリスタが覚えているかどうかという興味もあるが、それには触れることなく、ヴィースラーは証拠のタイプライターの隠し場所をききだすことに成功する。が、なんとそれを持ち出してしまう。彼に先回りする時間があったのはおかしい気もするが、とにかくドライマンは罪を問われずにすむ。が、自責の念にかられたクリスタは、ふらふらとアパートから外に出たところで車に轢かれてしまう。
ヴィースラーにも疑惑は向けられ、地下室での郵便物の開封作業が彼の仕事となる。これから20年という脅しはあったが、彼への疑惑が曖昧なままですんでしまったのは、クリスタの死で大臣の興味が他に移ってしまったからだろうか。
このあとは5年後にベルリンの壁が崩れ、ドライマンがある舞台で大臣に会い、盗聴の事実を知るくだりへと進む。盗聴が本当なら彼が無事なはずはなく、そのことは当人が1番よくわかっていることなのだ。しかし、大臣は監視を認め、アパートの電灯スイッチを調べればわかることだと言う。そして、さらに情報公開されたファイルをめくるうちに、ドライマンは「彼の単独行動は信用するな……昇進はやめ、M室の勤務に……」という男の存在を知ることになる。
ドライマンは男を捜し出すが結局声をかけることなく、今度はさらに2年後に、郵便配達中のヴィースラーが、劇作家ドライマンの新作の広告を目にすることになる。彼が書店で『善き人のためのソナタ』という本を手にし、表紙をめくるとそこには……。
店員に贈答ですかときかれ、いや私のための本だ、と答えるヴィースラーがちょっと誇らしげになるのだけれども、それをうれしく感じてしまった私は、フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督(脚本も)にしてやられたことになる。
先にヴィースラーの変節はイェルスカの影響が大きいのではないかと書いたが、ドライマンの著作『善き人のためのソナタ』の中では、それはきっと曲の演奏になっているのではないか。まあ、どうでもいいことなんだけど。
繰り返しになるが、やはりこの映画ではヴィースラーの描き込みが素晴らしい。彼は巻頭では、尋問の教官として生徒に自分の尋問風景を撮影したものを見せている。生徒のひとりがそれをあまりに非人道的と発言すると、その生徒の名前にチェックをするような男なのだ。
また自宅に娼婦を呼んでいる場面もある。娼婦にもう少しいてくれとヴィースラーは言うのだが、彼女は時間厳守だと帰ってしまう。これだけの場面なのだが、表情を変えない彼の孤独感がよく出ていた。表情を変えないからかどうか、子供にはシュタージの人で、友達を刑務所に送る悪い人だとも言われていたが、彼は傷ついていたのだろうか。そういえば、これはソナタを聴いたあとのことだったが……。
【メモ】
第79回アカデミー賞 最優秀外国語映画賞受賞
原題:Das Leben der Anderen(他人の人生)
2006年 138分 シネスコサイズ ドイツ 日本語字幕:古田由紀子 監修:高橋秀寿
監督・脚本:フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク 製作:クイリン・ベルク、マックス・ヴィーデマン 撮影:ハーゲン・ボグダンスキー 衣装:ガブリエル・ビンダー 編集:パトリシア・ロンメル 音楽:ガブリエル・ヤレド、ステファン・ムーシャ
出演:ウルリッヒ・ミューエ(ヴィースラー大尉)、マルティナ・ゲデック(クリスタ=マリア・ジーラント)、セバスチャン・コッホ(ゲオルク・ドライマン)、ウルリッヒ・トゥクール(グルビッツ部長)、トマス・ティーマ、ハンス=ウーヴェ・バウアー、フォルカー・クライネル、マティアス・ブレンナー
バッテリー
2007年04月07日 土曜日
楽天地シネマズ錦糸町-4 ★☆
■勝手にふてくされてれば
ピッチャーとして天才的な素質を持つ原田巧(林遣都)が、引っ越し先の岡山県新田市(新見市か)で中学に進み、成長していく姿を描く。
病弱な弟の青波(鎗田晟裕)のことだけで精一杯の家族や、管理野球の中学野球部監督、先輩や同級生とのトラブル、ライバルの登場に、信頼していたキャッチャーの永倉豪(山田健太)との軋轢……。
こんな書き方では何もわからないのだが、手抜き粗筋にしてしまったのは、どうにも気が進まないからで、といってこの作品がそんなにひどいかといえばそんなことはないのだが、ようするに私が中学生の悩みに付き合えるほど人間ができていないということだろうか。
「野球に選ばれた人間」である巧。いくら速い球を投げても、それを受けとめてくれる者がいなくては自分の存在理由もなくなる。そんな自分を誰もわかっちゃくれないとばかりにふてくされてみせるのは、多感な中学生が、でも表現は追いつかないということなのだろう。が、祖父の井岡洋三(菅原文太)のようにはしっかり付き合えない私としては、いつまでもそうしてれば、と突き放すしかない。
話にしてもたとえば、丸刈りにしなければ退部なのに、監督の戸村(萩原聖人)をショートフライに打ち取ったことで、それをなしにしてしまうというのが、はなはだ面白くない。生徒にそそのかされて対決してしまう戸村もどうかしているのだが、中学の野球部の監督が野球を実力だけで評価してしまっていいのか。
巧を嫉む上級生の描き方もひどくて、部活に入っていれば内申書がよくなるから野球をやっていた、っていうのがね。巧への暴行も見捨てておけるものではないが、「言いてぇこと言って、やりたいことやって、我慢しないでいきなりレギュラーか」という彼の言い分はわかる。で、そのことにはちゃんと答えてやっていないのだ。
さらに問題なのは、最後のまとめ方だろうか。青波の病気が悪化したは巧のせいだという母の真紀子(天海祐希)に、頼りなさそうだった父の広(岸谷五朗)が、どうしてそんなに巧につらく当たるのかと問いただす。真紀子は「八つ当たり」を認め、「好きなものに打ち込める巧を見ているとイライラする」と答える。
ここまでならわかるのだが、広は調子に乗って「野球って自分の気持ちを伝えるスポーツなんだ。ぼくはこの発見を巧に伝えたいんだ。君だって伝えたいんだろ、お前だってお母さんの大切な子供だって」とまで言う。小中学生向けとしてなら、まあこれもアリだろう。でも大人の広が「発見」してもねー。
そう言われて球場に駆けつけてしまう真紀子、という演出もどうかと思うのだけど……。
いやなところばかりを書いてしまったが、『バッテリー』というタイトル部分の巧と豪の関係はよく描けていたように思う。「ボールの成長に追いつけない」豪の自分への叱責。それはわかっていてもやはり「手抜きのボールはキャッチャーへの裏切り」なのだ。でも、こんな豪の葛藤に比べると、巧のは単なる苛立ちのようにしかみえないのがねー。
映像としては、巧の剛速球はうまく表現出来ていたと思う。投球フォームをじっくり見せるのもいい。だけど、毎回これではあきてしまう。あれ、またけなしてしまったか。ここまでボロクソに言うつもりはなかったのだけどね。
2006年 118分 シネスコサイズ
監督:滝田洋二郎 製作:黒井和男 プロデューサー:岡田和則、岡田有正 エグゼクティブプロデューサー:井上文雄、濱名一哉 企画:信国一朗、島谷能成 原作:あさのあつこ『バッテリー』 脚本:森下直 撮影:北信康 美術:磯見俊裕 編集:冨田信子 音楽:吉俣良 主題歌:熊木杏里『春の風』 CGIプロデューサー:坂美佐子 スクリプター: 森直子 照明:渡部篤 録音:小野寺修 助監督:足立公良
出演:林遣都(原田巧)、山田健太(永倉豪)、鎗田晟裕(原田青波/弟)、蓮佛美沙子(矢島繭)、天海祐希(原田真紀子/母)、岸谷五朗(原田広/父)、萩原聖人(戸村真/監督)、菅原文太(井岡洋三/祖父)、上原美佐(小野薫子)、濱田マリ(永倉節子)、米谷真一(沢口文人)、太賀(東谷啓太)、山田辰夫(草薙)、塩見三省(阿藤監督)、岸部一徳(校長)
蒼き狼 地果て海尽きるまで
2007年04月08日 日曜日
新宿ミラノ3 ★★
■内容以前で、どうにも恥ずかしい
どこの国の話でも英語で処理してしまうアメリカ映画の臆面のなさには辟易していたが、まさか同じことを日本の映画界がしでかすとは(大映が制作した『釈迦』という映画が大昔にあったが観ていない)。しかもいくら同じモンゴロイドとはいえ、日本人が主要キャストを独占していては、比較するのは無理ながら『SAYURI』の方がずっとマシではないか。韓国人のAraはいるが、モンゴル人ではないしね。といって何人かをモンゴル人にしていたら、かえっておかしなものが出来てしまっていただろう。
チンギス・ハーンには高木彬光の『成吉思汗の秘密』以前から成吉思汗=義経説というのがあって、日本人には馴染みが深いということも選ばれた理由の1つと思われるが、そうはいっても21世紀にもなって日本人による日本人のチンギス・ハーンというのは恥ずかしすぎる。
角川春樹は1990年にも『天と地と』で、似たようなことをしているが、あれはロケ地はカナダながら、あくまで日本の話だからその点では問題はなかった。ただ人海戦術映画という点では同じだ。『天と地と』は大味な映画だったが、人間の趣向というのはあまり変わらないようで、昔も今も大作好みなのだろう。好みの差は差し引いても、30億の制作費をかけるべき映画になっていたとは思えない。
確かにスケール感はアップしそれなりの臨場感は出てはいるが、戦闘場面全部が似たような印象では同じものを引用しているようで、ありがたみが少なくなってしまう。それにこういうのは、敵との位置関係、戦力、戦術などがわからないと盛り上がらないと思うのだが。
多数のエキストラを背景にしたチンギス・ハーンとなるテムジンの即位式に至っては、退屈なこともあるが、エキストラがモンゴル人だということを意識してしまうと、これはただただ恥ずかしいとしか言いようがない。
それには目をつぶっても、物語が全体に説明口調なのはいただけない。テムジン(反町隆史)が部族を統一し、金に勝ち、大帝国を築きあげていく流れはヘタな説明でもわかる。が、そこに至る戦いにどんな意味があったのかという部分が、ナレーションに頼りすぎていることもあって、いかにもお座なりな感じがしてしまうのだ。
少年時代にテムジンとかわした、生涯にわたり裏切らないという按達(あんだ)の誓いを、信頼の証ではなく裏切りを恐れる不信の証で、子供の遊びにすぎないと言い放つジャムカ(平山祐介)との宿命の戦いや、2人を巻き込んだ、モンゴルの大部族の長でテムジンの父イェスゲイ(保阪尚希)とは按達のトオリル・カン(松方弘樹)との関係もしかり。
ただ、母のホエルン(若村麻由美)だけでなく妻のボルテ(菊川怜)までもが略奪され、共に父親のわからない子を出産し、それが母の場合はテムジンであり、妻の場合はテムジンがよそ者という意味の名を付けたジュチ(松山ケンイチ)という話は巧妙だ。悲劇の主人公となるジュチの悲しみがかつてのテムジンの悩みに重なるし、そこには女性の視点も入っているからだ。
もっともこれはクラン(Ara)という、やはりはじめは敵ながらテムジンに寵愛される女兵士が登場することで、ボルテは消えたようになってしまうから、女性の視点など忘れてしまったかのようだ。私もクランにはクラクラしてしまったから、テムジンと一緒で、女性の気持ちなどいい加減にしか考えていないのかも(クランにとってはそうではないにしても)。余談はともかく、そういう部分をこういう大作で描くのはやっぱり難しいんでしょうね。
2006年 136分 シネスコサイズ
監督:澤井信一郎 製作:千葉龍平 プロデューサー:岡田裕、徳留義明、大杉明彦、海老原実 製作総指揮:角川春樹 原作:森村誠一『地果て海尽きるまで 小説チンギス汗』 脚本:中島丈博、丸山昇一 撮影:前田米造 特撮監督:佛田洋 美術監督:中澤克己 編集:川島章正 音楽:岩代太郎 主題歌:mink『Innicent Blue~地果て海尽きるまで~』 照明:矢部一男 第2班監督:原田徹 録音:紅谷愃一
出演:反町隆史(テムジン/チンギス・ハーン)、菊川怜(ボルテ)、若村麻由美(ホエルン)、Ara(クラン)、袴田吉彦(ハサル)、松山ケンイチ(ジュチ)、野村祐人(ボオルチュ)、 平山祐介(ジャムカ)、池松壮亮(少年時代のテムジン)、保阪尚希(イェスゲイ・バートル)、苅谷俊介(チャラカ)、今井和子(コアクチン)、唐渡亮(イェケ・チレド)、神保悟志(タルグタイ)、永澤俊矢(ダヤン)、榎木孝明(デイ・セチェン)、津川雅彦(ケクチュ)、 松方弘樹(トオリル・カン)
マリー・アントワネット
2007年04月08日 日曜日
新宿武蔵野館2 ★★★
■わかりあえるはずがない
ルイ15世(リップ・トーン)の孫のルイ・オーギュスト(ジェイソン・シュワルツマン)に嫁ぐことになった14歳のマリア・アントーニア(キルステン・ダンスト)は、長旅のあと、フランス国境で「お引き渡しの行事」(いきなりこの面倒な儀式ではね)をすませ、はじめてのことに戸惑いながらも1770年にはベルサイユ宮殿で結婚式がとりおこなわれ、無事フランス王太子妃マリー・アントワネットとなる。
母のマリア・テレジア(マリアンヌ・フェイスフル)によって画策されたこの結婚は、オーストリアとフランスの同盟関係強化の意味があった。マリーに課せられたのは世継ぎの生産だったが、錠前作りが趣味のルイ16世(即位は1774年)は性的なことには関心がなく、マリーの努力の甲斐も虚しく、その機会はなかなかおとずれない。
マリーから逃げるかのように狩猟ばかりしているルイ16世とは接点も少ないだけでなく、宮廷では朝目覚めた後、服も自分で着ることができずに寒さに震えるばからしくも制約の多い毎日。おまけに不妊症で不感症と陰口をたたかれては、マリーの興味が、靴、扇子、服、お菓子、酒、カードゲーム(ギャンブル)に向かっても無理はない。このあたりの描写はカタログ的で、きれいでうっとりだし、次から次だし、だから浪費でしかないのだな、と思わせるものだ。
果ては、アメリカの戦勝会で知り合ったスウェーデン貴族のフェルセン伯爵(ジェイミー・ドーナン)との浮気まで。ただ、これもマリーの喜びの表情などはあるものの、そうは深入りした描写にはなってはいない。授かることのなかった子供も出来て、とどこまでもカタログ的な見せ方だ(音楽もやたらポップなもの)。
マリー・アントワネットについては今でも悪評の方が高いのだろうか。この映画のマリーは、ヒロインということもあるし、また少女時代からはじまったこともあってごく普通の素直な愛らしい女の子として描かれている(とはいえキルステン・ダンストひとりに13歳?から37歳までを演じさせるのはやはり無理。が、映画の眼目はそこにはないのでこれは仕方ないだろうか)。不自由で悪意が渦巻く中にあっては堂々としたものだ。
オーストリアからやってきたマリーという状況は、ソフィア・コッポラの前作『ロスト・イン・トランスレーション』(2003)に通じるものがある。宮殿に幽閉された彼女が外界を知る手だてなども、映画を観ている限りでは兄からの手紙くらいで、そういう意味でもマリーも「ロスト・イン・トランスレーション」状態にあったといいたいのだろう。
映画はほとんど彼女の視点に沿ったもので、アメリカの独立戦争のための援助がルイ16世と側近によって検討される場面もあるが、そこに切迫感などはない。「浪費でフランスを破滅に導く!」などという民衆の声もポスターとしては出てくるが、どこまで彼女に届いていたのだろうか。彼女にとって自分の評価が知り得たのは、オペラで拍手をした時の他の観衆の反応(最初にあった同じような場面では続いて拍手が起きたものが、最後では彼女ひとりだけである)くらいだったという映画の批判(ではなく同情か)があるが、そんなものだったのかもしれない。
フランス革命のざわめきが宮殿の外に聞こえて、はじめてことの異常さに気付いたのではないか。映画はそういっているようである。暴徒がやって来るという時まで狩をしていたルイ16世も似たようなものだったのだろうか。側近に逃亡をうながされても我々はここに残ると言い、マリーもそれに従うのだが、運命を知らないからこその言動ともとれる。映画は、だから破壊された宮殿の一室は映し出すが、飢餓に苦しんだ民衆や革命の様子は最後まで描こうとはしないのである。
宮殿に閉じこめられていたマリーに民衆の姿など見えるはずもなく、彼らのことがわかるはずもないのだといっているようなのだが、でもしかし、これって、ただただゴージャスなだけの映画を作ってしまったソフィア・コッポラ自身、ともいえるような。
【メモ】
第79回米アカデミー賞 衣装デザイン賞受賞
原題:Marie-Antoinette
2006年 123分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:松浦美奈
監督・脚本:ソフィア・コッポラ 製作:ソフィア・コッポラ、ロス・カッツ 共同製作: カラム・グリーン 製作総指揮:フランシス・フォード・コッポラ、ポール・ラッサム、フレッド・ルース、マシュー・トルマック 撮影:ランス・アコード プロダクションデザイン:K・K・バレット 衣装デザイン:ミレーナ・カノネロ 編集:サラ・フラック 音楽プロデューサー:ブライアン・レイツェル 音楽監修:ブライアン・レイツェル
出演:キルステン・ダンスト(マリー・アントワネット)、ジェイソン・シュワルツマン(ルイ16世)、リップ・トーン(ルイ15世)、ジュディ・デイヴィス(ノアイユ伯爵夫人)、アーシア・アルジェント(デュ・バリー夫人)、マリアンヌ・フェイスフル(マリア・テレジア女帝)、ローズ・バーン(ポリニャック公爵夫人)、モリー・シャノン(ヴィクトワール内親王)、シャーリー・ヘンダーソン(ソフィー内親王)、ダニー・ヒューストン(ヨーゼフ2世)、スティーヴ・クーガン(メルシー伯爵)、ジェイミー・ドーナン(フェルゼン伯爵)、クレメンティーヌ・ポワダッツ(プロヴァンス伯爵夫人)、オーロール・クレマン、メアリー・ナイ、アル・ウィーヴァー、ギョーム・ガリアンヌ
ブラックブック
2007年04月14日 土曜日
テアトルタイムズスクエア ★★★☆
■事実に着想を得た「出来すぎた」物語
ハリウッド監督になっていたポール・バーホーベンがオランダに戻って作った娯楽色たっぷりのレジスタンス戦争映画(「事実に着想を得た物語」という字幕が出る)。
ユダヤ人歌手のラヘル・シュタイン(カリス・ファン・ハウテン)は、湖に出ていた時に隠れ家にしていたオランダ人の農家が爆撃機に攻撃され、知り合ったロブ(ミヒル・ホイスマン)という青年のところに身を寄せるが、夜にはオランダ警察のファン・ハイン(ピーター・ブロック)に知られてしまう。「オランダの警察には善人が多い」というハインの手引きで脱出することを決めたラヘルは、父に頼れと言われていた公証人のW・B・スマール(ドルフ・デ・ヴリーズ)を訪ねる。
スマールから父の金の一部を手にしたラヘルはロブと一緒に船着き場へ向かい、そこで合流した別のユダヤ人グループの中に両親や弟を発見する。が、乗り込んだ船は夜更けにドイツ軍の襲撃を受け、皆殺しのうえ金品を略奪されてしまう。川に飛び込んで難を逃れたラヘルは、農民に助けられ、チフスにかかった遺体に化けて検問を抜けハーグに着く。そこで彼女は髪をブルネットからブロンドに、名前をユダヤ人名からエリス・デ・フリースに代え、レジスタンスの青年ティム・カイパース(ロナルド・アームブラスト)と彼の父親でリーダーでもあるヘルベン・カイパース(デレク・デ・リント)の無料食堂で働くことになる。
5か月後にレジスタンスの仲間の女性が脱落したことで、エリスに白羽の矢が当たる。連合国からの投下物資の移送に女性を同伴して注意をそらすのだという。元医師のハンス・アッカーマンス(トム・ホフマン)と恋人を装って列車に同乗するが、機転をきかすうち、エリスはナチス諜報部長のムンツェ大尉(セバスチャン・コッホ)の個室に入り込んでしまう。が、そのことで2人は検閲の目をそらすことに成功する。ほどなく武器輸送が発覚してティムたちが捕まってしまう。ヘルベンは彼らの救出のため、エリスにムンツェに近づいてほしいと申し出る。
かなりすっ飛ばしたつもりだが、この調子で粗筋を書いていたら少なくてもあと3倍は書かなくてはならないだろう。とにかく密度の濃い物語で、次々に事件が待っているのだ。しかもそれが巧みに絡まって、思わぬ登場人物が思わぬところで活躍するというサービス満点の脚本になっていて、144分という長さをまったく感じさせない。
が、その盛り沢山さが、逆に観客に立ち止まる余裕を与えず、余韻にひたらせてくれないうらみにもなっている。エリスの隠れ家生活の描写で、隠れ家を提供している農家の主人が、エリスに「イエスに従えばユダヤ人は苦しまなかった」と言ったり、聖書を暗記させエリスにお祈りをさせる場面があって、私などそのあたりの事情をもっと知りたくなったものだが、映画はどんどん先に行ってしまうというわけだ。それはエリスが家族を失うところでも同じで、場面としての残虐さは叩き込まれても、感情の永続性という配慮はない。
ムンツェに取り入ったエリスはそのままパーティに行くことに成功し、そこにピアノを弾く家族を殺したフランケン(ワルデマー・コブス)を見つけるのだが、歌手のエリスは一緒に歌を歌わなければならなくなる。この場面はかなり衝撃的で演出として心憎いものだが、ここでも物語はとどまらずに進行する。
フランケンの愛人ロニー(ハリナ・ライン)と親しくなり、諜報部で働きだし、スマールによるムンツェとのティムたちの助命交渉があり、盗聴器を設置するが、ムンツェにはユダヤ人であることを見破られ、でも恋に落ち、盗聴からはファン・ハインとフランケンの陰謀が判明する。ロニーから仕入れたフランケンのユダヤ人殺害による金品の着服をカウトナー将軍(クリスチャン・ベルケル)の前で暴こうとするムンツェだが、証拠は見つけられず、逆にレジスタンス側と連絡をとっていたことで逮捕されてしまう。
さらに端折ってみたが、まだ物語を終わらすことができない。細かく書かないと公証人のスマール(彼の持っていた黒い手帳がタイトルになっている)やハンスの悪巧みを、印象的に暴くことが出来なくなってしまうのだが、それは映画を観て楽しめばいいことなのでもうやめることにする。ようするに、レジスタンス側にもドイツ軍側にも、自分さえよければと、敵と裏取引していた人間が多数いたということをいいたいのだろうが、ここまで人間関係を複雑にしてしまうと、どんでん返しや謎解きの娯楽性の方ばかりに目がいってしまわないだろうか。
物語をいじくりまわしたせいで、終戦後にナチに通じていたとみなされ虐待を受けていた(汚物まで浴びせられていた)エリスを、レジスタンスの英雄になっていたハンスが助けた意味がわからなかったりもする。多分自分で確実に始末しておかないと安心できなかったのだろう(さらに言うなら戦争中のハンス自身は危険を犯し過ぎだし、裕福なユダヤ人狙いということでは、スマールならばもっと簡単かつ安全に財産を横取り出来たのではないか)。ここでも鎮痛剤と偽られてエリスがインシュリンを打たれてしまうのだが、大量のチョコレートで難を逃れるといった見せ場がある。
英国は降伏後もドイツ軍の刑の執行を認めているという説明があって(カウトナー将軍の協力の下に)、終戦に希望を見出していたムンツェは処刑されてしまう。エリスはハンスから財宝を取り戻すが、私のものではなく死者のものだと言う。
この戦後風景の中で面白いのがロニーで、街中では髪を切られてナチの売女と晒し者になっている女性がいるというのに、彼女は戦勝パレードをしている新しい彼にちゃっかり乗り換えてしまっているのだ。それも「笑顔を振りまいていたらこうなった」というのだから彼女らしい。彼女はエリスがスパイだと知った時も、マタハリのガルボは捕まっちゃうのよ、とは言うが、エリス自身のことについてはとやかく言わなかったっけ。
ローリーは1956年10月にはイスラエルに夫とバス旅行にやってきていたから、幸せにやっているのだろう。そこでエリスと再会するというのが映画のはじまりだった。エリスも夫に2人の子供と仲良くやっているらしい。そして、このイスラエルのキブツの建設に、エリスが取り戻したユダヤ人犠牲者の資金があてられたことが述べられて終わりとなる。
1956年10月という設定は、興味深いものだ。29日にはイスラエルがシナイ半島へ侵攻を開始して第2次中東戦争がきって落とされるからだ。何事もいろいろなところで繋がっているということなのだろうが、それはまた別の話……。
【メモ】
ムンツェの趣味は切手蒐集(「占領した国の切手を集めている」)で、だから地理学者になったと言っていた。
エリスは陰毛まで染めて敵地に乗り込むが、ムンツェにはすぐ見破られてしまう。「ブロンドが流行ですもの」と言い逃れるが、ムンツェは「金髪か、完璧主義者だな」と余裕綽々だ。ムンツェにはあとにも「私を甘く見るな」というセリフがある。そりゃそうだろう。でなきゃナチス諜報部長にまでなれなかっただろうから。
ムンツェは、妻子を英国軍の爆撃で失っていた(「ゲーリングは英国の爆弾はドイツには落ちないと言っていたがハンブルグに……」)。
フランクは盗聴を知っていたから、ムンツェの行動を予測したのか?
「戦争は終わったよ。僕たちにははじまりだ」というのはエリスへの慰めか。ムンツェにしては甘い予測だ。
父にもらったライターをハンスのところで見つけるラヘル(エリス)。
1942年からハンスはユダヤ人を助けていた。ラヘルの弟はハンスの手術を受けたようだ。この時すでにフランケンと取引していたことになる。
原題:Zwartboek / Black Book
2006年 144分 スコープサイズ オランダ、ドイツ、イギリス、ベルギー 日本語字幕:松浦美奈 オランダ語監修:池田みゆき
監督:ポール・バーホーベン 製作:テューン・ヒルテ、サン・フー・マルサ、ジョス・ヴァン・ダー・リンデン、イエルーン・ベーカー、イェンス・モイラー、フランス・ヴァン・ヘステル 製作総指揮:グレアム・ベッグ、ジェイミー・カーマイケル、アンドレアス・グロッシュ、ヘニング・モルフェンター、アンドレアス・シュミット、マーカス・ショファー、チャーリー・ウォーケン、サラ・ギルズ 原案: ジェラルド・ソエトマン 脚本:ジェラルド・ソエトマン、ポール・バーホーベン 撮影:カール・ウォルター・リンデンローブ プロダクションデザイン:ウィルバート・ファン・ドープ 衣装デザイン:ヤン・タックス 音楽:アン・ダッドリー
出演:カリス・ファン・ハウテン(ラヘル・シュタイン/エリス・デ・フリース)、トム・ホフマン(ハンス・アッカーマン)、セバスチャン・コッホ(ルドウィグ・ムンツェ)、デレク・デ・リント(ヘルベン・カイパース)、ハリナ・ライン(ロニー)、ワルデマー・コブス(ギュンター・フランケン)、ミヒル・ホイスマン(ロブ)、ドルフ・デ・ヴリーズ(W・B・スマール/公証人)、ピーター・ブロック(ファン・ハイン)、ディアーナ・ドーベルマン(スマール夫人)、クリスチャン・ベルケル(カウトナー将軍)、ロナルド・アームブラスト(ティム・カイパース)、スキップ・ゴーリー(ジョージ/ロニーの夫)
ブラッド・ダイヤモンド
2007年04月14日 土曜日
新宿ミラノ1 ★★★
■ディカプリオが主演なのにキスシーンがない
最近アフリカを舞台にした映画が多いが、これもアフリカのダイヤモンドをめぐる利権を描いた作品。ダイヤの争奪戦が悪玉と善玉という切り口で描かれるのはこの作品も同じだが、善玉側に立場の違う3人を配して、ダイヤを通して見えてくる欲望を、ダイヤに翻弄される姿を、そしてダイヤを仲介してできた絆を、角度を変えて映しだす。
1999年のシエラレオネ。反政府軍RUFに拉致されたソロモン・バンディー(ジャイモン・フンスー)はダイヤモンドの採掘場で強制労働をさせられる。そこで偶然100カラットほどの大粒のダイヤを見つけて隠すが、政府軍の襲撃にあって捕まってしまう。
メンデ人の漁師にすぎないソロモンにとって何より大切なのは家族。愚直な彼は見つけたダイヤを、拉致で引き離された家族を取り戻す駆け引きの道具にする、というのが映画の設定だが、彼にももう少し欲をまぶしておいた方が、流れとしては自然になったのではないか(と考えるのは私が俗なだけか)。
ダニー・アーチャー(レオナルド・ディカプリオ)はローデシア出身の元傭兵。アフガニスタンやボスニアにもいたという。今はシエラレオネの反政府組織から武器と交換で手に入れたダイヤを密売業者に流している。彼の立場は複雑だ。足を洗いたいと思っているが、南アフリカにある秘密の武装組織の大佐(アーノルド・ヴォスルー)にも借りがあるようで、そう簡単には今までのしがらみから抜け出せそうもない。
密輸に失敗したダニーは刑務所に投獄されるが、そこでRUFのポイズン大尉とソロモンのやりとりを聞いて巨大なピンク・ダイヤの存在を知る。ダニーにとってはピンク・ダイヤはこの世界から抜け出すチャンス。とはいえ、状況によっては長年身に染みついた悪が、どう作用するかは彼自身にもわからなさそうだ。
釈放されたダニーは、バーでアメリカ人ジャーナリストのマディー・ボウエン(ジェニファー・コネリー)と出会う。彼女はRUFの資金源となっているダイヤ密輸ルートを探っていて、ダニーの正体を知ったことで、匿名でいいからと情報提供を求めてくる。
マディーが追っているのは密輸の証拠か、ジャーナリストとしての名声か。自分の書いた記事を読んだからといって誰かが助けにくるわけではないし、また自分が悲しみを利用して記事を書いていることも自覚している。とはいえ「確かにひどい世だが、善意もある」と思っていて、ダニーにはそれがないと言い放つ。
ダニーは裏から手を回してソロモンを釈放させ、彼にはダイヤと引き換えに家族探しを手伝うことを、マディーにはジャーナリストの持つ情報でソロモンの家族を探してくれれば密売の情報を提供することを持ちかける。
それぞれの思惑を持った3人が目指すのは、ギニアにあるアフリカで2番目に大きい難民キャンプであり、ソロモンの息子ディア(カギソ・クイパーズ)がRUFによって少年兵に仕立て上げられたところであり、ピンク・ダイヤの隠し場所である。
キャンプでソロモンは妻と娘に再会するが、ディアの行方はわからない。難民が100万人もいるのに簡単に見つかってしまうのは映画だから仕方がないのか。それとも難民リストで行き先が判明したくらいだから、意外とそういう情報は整理されているのか。難民に反乱兵が紛れ込んでいる可能性があるので停戦までは解放しないというようなことも言っていたが、だとすると難民キャンプというのは収容所でもあるのか。
そんなことは考えたこともなかったが、むろん、映画はそこにとどまってなどいない。あくまで娯楽作だから、市街戦にはじまって、内戦も激化するし、少年兵の襲撃があったり、ダニーの要請した大佐の軍隊がやってきたりと、アクションシーンでも大忙しだ。が、殺伐とした風景を続けて見せられたせいか、感覚が麻痺してしまって、単調にさえ感じていたのだから困ったものだ。
ディアを見つけたソロモンが、その息子から銃を突きつけられる場面は衝撃的だが、ソロモンの説得でおさまるのを当然と思って観ていては、あきれられてしまうかも。しかし前半にあった少年兵に育てあげていく場面はすごみがあった。そうしてこれは、形こそ違え9歳で両親を殺され(母親はレイプも)、傭兵になっていたダニーの生い立ちではなかったか。
映画はRUFから子供たちを取り戻して助けている元教師のベンジャミン(ベイジル・ウォレス)を登場させて希望を語らせ、ソロモンにも「あの子が大人になって平和になればここは楽園になる」と言わせているのだが、さすがに素直にはうなずけない。
ダニーはソロモンの願いを叶え、ピンク・ダイヤも手に入れるのだが、深手を負い、自分の運命を知ることになる。追っ手をひとりで迎えるちょっとかっこつけの場面ではあるが、ディカプリオいいかも。ソロモンに「息子と家に帰れ」と言うセリフは、自分のような人間を作るなと言っているようだ。
最後のマディー(はすでにダニーに密輸について書かれた手帳を託されて立ち去っていた)との電話は、ソロモンのことをたのんだ他は会えてよかったといった簡単なものだが、これも泣かせる。そういえば最初の方とはいえ、マディーには「あなたが証言を拒み、私と寝る必要がないなら去ってよ」とまで言わせていたくせに、あのまま2人はキスもしていなかったのな。
最後は、ロンドンでマディーが取引の写真を撮り、真相が書かれ、ソロモンの証言も得てダイヤ密輸のからくりが暴かれる。これが付け足しのように思えてしまうのは、ダニーによってリベリアに空輸したあとリベリア産の偽造書類で輸出というのがすでに観客(マディーに言ったのだが)には周知ということもあるが、ディカプリオを山で殺してしまったからとかね。
2003年にはキンバリープロセス(ダイヤモンド原石の国際認証制度)の導入で紛争ダイヤが阻止されるようになり、シエラレオネは平和になったが、まだ20万の少年兵がいるというような内容の字幕がでる。あまりにも簡単に平和という言葉がでてきたので、疑ってしまったが、内戦が終結したという意味でなら本当のようだ。ただこの少年兵というのは、どこにどうやっているのだろうか。
どうでもいい話だが、デビアス社の給料3ヶ月分のダイヤモンドのCMは流れなかった。ってあれが映画館であきるほどかかっていたのはもう10年?くらい前でしたね。
【メモ】
1999年を印象付けるのに、アフリカのテレビでもクリントンの不倫が流れていた、という演出。いつまで経ってもこうやって使われちゃいますねー。
元教師のベンジャミンがRUFから子供を助けることなど不可能そうだが、彼によると地元の司令官は昔の教え子なのだそうだ。
〈070517追記〉ウィキペディア(Wikipedia)の「ブラッド・ダイヤモンド」の項目に「この映画では、反政府勢力のRUF側にのみ少年兵が登場するが、実際にはシエラレオネ政府軍も少年たちを兵士にしていた」という記事があった。
原題:Blood Diamond
2006年 143分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:今泉恒子
監督:エドワード・ズウィック 製作:ジリアン・ゴーフィル、マーシャル・ハースコヴィッツ、グレアム・キング、ダレル・ジェームズ・ルート、ポーラ・ワインスタイン、エドワード・ズウィック 製作総指揮:レン・アマト、ベンジャミン・ウェイスブレン、ケヴィン・デラノイ 原案:チャールズ・リーヴィット、C・ギャビー・ミッチェル 脚本: チャールズ・リーヴィット 撮影:エドゥアルド・セラ プロダクションデザイン:ダン・ヴェイル 衣装デザイン:ナイラ・ディクソン 編集:スティーヴン・ローゼンブラム 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
出演:レオナルド・ディカプリオ(ダニー・アーチャー)、ジャイモン・フンスー(ソロモン・バンディー)、ジェニファー・コネリー(マディー・ボウエン)、マイケル・シーン(シモンズ)、アーノルド・ヴォスルー(大佐)、カギソ・クイパーズ(ディア・バンディー)、 デヴィッド・ヘアウッド(ポイズン大尉)、ベイジル・ウォレス(ベンジャミン・マガイ)、 ンタレ・ムワイン(メド)、スティーヴン・コリンズ(ウォーカー)、マリウス・ウェイヤーズ(ヴァン・デ・カープ)
クィーン
2007年04月15日 日曜日
シャンテシネ1 ★★★
■興味などないが、しかし驚きの英王室映画
1997年8月31日に起きたダイアナ元皇太子妃の事故死がもたらした英王室の騒動を、女王エリザベス2世(ヘレン・ミレン)を主人公にして描いた作品。
まず何よりエリザベス女王を映画に登場させてしまったことにびっくりする。なにしろ事件からはまだ10年しか経っていないわけで、第三者にとってさえこれほど記憶の新しい事件となると、対象が王室であろうがなかろうが至るところに差し障りが出るのは当然で、しかしうがった見方をするなら、すでにその時点で第1級の話題作になっているのだから、興行成績の約束された企画が日の目を見ただけということになる。
それにしても日本ではとても考えられないことで、大衆紙では王室スキャンダルや批判が常態化しているイギリスならではか(むろんよくは知らない)。しかも王室ばかりでなく、最近では求心力が低下したとはいえ現役の首相を(070511追記:ブレア首相は6月27日に退陣することを表明)を俎上に乗せているのだから、驚くしかない。
そして映画は、時間軸としては1997年の5月に英国首相にトニー・ブレア(マイケル・シーン)が勝利する時期から始めているし、最後もエリザベス女王とブレアが事件の2ヶ月後に散歩する場面となっている。題名は『クィーン』ながら、主役はこの2人だろうか。
国が総選挙に湧く中、エリザベス女王に投票権のないことに触れ「1度でいいから自分の意見を表明してみたい」と彼女につぶやかさせ、女王の特殊な地位と不自由さを強調する。ダイアナはすでに民間人、と声明を出さずにいると王室に非難が集中する。このあと、エリザベス女王がひとりで運転していた車が川で立ち往生してしまい、涙を流す場面がある。その時、彼女は立派で美しい鹿を見る。他愛のない演出だが、これが意外にぴったり決まっていた。
人気絶頂で首相になったブレアは、ダイアナの事故に対してはエリザベス女王とは対照的な行動を取り(「国民のプリンセス」とダイアナを称す)、ブレア人気をうかがわせるのだが、エリザベス女王には敬意を払い続け、助言を惜しまない。すでに「国民を理解することが出来なくなったら、政権交代の時期かも」と自問していたエリザベス女王はブレアの意見を入れて、世論も好転するのだが、新聞の見出しは「女王、ブレアに跪く」と容赦がない。しかし当のブレアは「彼女は神によって女王になったと信じている」とそれ以前からエリザベス女王を弁護しているように描かれている。
当人たちは否定しそうだが、2人にはかなり好意的な内容ではないか。立場がないのは、「ダイアナは生きていても死んでもやっかいだ」と悪態をつき鹿狩りばかりしているフィリップ殿下(ジェームズ・クロムウェル)や、意見はあってもエリザベス女王には頭の上がらないチャールズ皇太子(アレックス・ジェニングス)であり、エリザベス女王に夫がそこまで気をつかわなくてもいいと思っていそうなブレア夫人(ヘレン・マックロリー)で、この3人はあのままだと少し可哀想だ。
とはいえ、実際どこまでが本当でどこまでが創作なのだろう。ニュース場面をまぶしてダイアナの事故死から1週間を切り取った脚本は、正攻法の素晴らしいものである。が、そう言ってしまっていいものかどうか。イギリスのことなどさっぱりの私には何もわからないし、映画には感心したものの興味はほとんどないし。
ところで、エリザベス女王の見た鹿はロンドンの投資銀行家に撃たれてしまうのだが、彼女はあの鹿に蹂躙されている自分の姿を見たのだろうか。でも事実は、多分ブレアが去っても、まだ彼女は死ぬまで女王として君臨するのだろう(ブレアは「私が迎える10人目の首相」なのだそうな)。それとダイアナ人気だって、ある意味では王室人気が根強いということになると思うのだが。
原題:The Queen
2006年 104分 ビスタサイズ イギリス、フランス、イタリア 日本語字幕:戸田奈津子
監督:スティーヴン・フリアーズ 製作:アンディ・ハリース、クリスティーン・ランガン、トレイシー・シーウォード 製作総指揮:フランソワ・イヴェルネル、キャメロン・マクラッケン、スコット・ルーディン 脚本:ピーター・モーガン 撮影:アフォンソ・ビアト プロダクションデザイン:アラン・マクドナルド 衣装デザイン:コンソラータ・ボイル 編集:ルチア・ズケッティ 音楽:アレクサンドル・デプラ
出演:ヘレン・ミレン(エリザベス女王)、マイケル・シーン(トニー・ブレア)、ジェームズ・クロムウェル(フィリップ殿下)、シルヴィア・シムズ(皇太后)、アレックス・ジェニングス(チャールズ皇太子)、ヘレン・マックロリー(シェリー・ブレア)、ロジャー・アラム(サー・ロビン・ジャンヴリン)、ティム・マクマラン(スティーヴン・ランポート)
さくらん
2007年04月15日 日曜日
銀座テアトルシネマ ★★
■鮒に戻ってしまいそうだ
8歳で吉原の玉菊屋に売られ、きよ葉(小池彩夢→土屋アンナ)と名付けられた遊女の物語。
脱走を繰り返すきよ葉は、店番の清次(安藤政信)になだめられ、花魁の粧ひ(菅野美穂)には花魁としての生き方を教えられる。初めての客は高尾花魁(木村佳乃)の馴染みのご隠居(市川左團次)で、きよ葉はすぐ玉菊屋の人気者になるが、惣次郎(成宮寛貴)と恋に落ちる。
客の浮世絵師、光信(永瀬正敏)の気持ちまできよ葉に向いていることことを知った高尾は、きよ葉と惣次郎の仲を裂く策略に出る。騒動となって、きよ葉はまた清次になだめられるが、高尾は悲惨な運命を選ぶ。
日暮という玉菊屋を背負って立つ花魁になったきよ葉は、大名の倉之助(椎名桔平)に見初められる。日暮のためどこまでも尽くす倉之助だったが、日暮が選んだのは、気が付くといつも自分を励ましてくれていた清次だった……。
椎名林檎の曲が舞う極彩色の映像の中にヤンキーを放り込んだ吉原を再現してみせた演出に、そう違和感がないのは褒めていいが、でもそのことで、例えば何で大門の上に金魚がいるんだとか、え、なにこの言葉、でも目くじら立てるほどではないかとか、そっちの方ばかりに気が向いてしまって(悪くはないんだけどさ)、緊張感のない話がよけい間延びしてしまったようだ。
きよ葉は最初、花魁になることを恐れていた。そんなきよ葉に粧ひは「金魚は3代で鮒にかえってしまう。美しくいられるのはビードロの中だけ」で遊女も同じと諭す。そして自らは金持ちに身請けされ、真っ当な方法で吉原から出ていく。が、粧ひは自分が羨望の目で見られる別の意味も当然知っていた。だからきよ葉に「人より多くもらう者は、より多く憎まれる」と言って簪を与えたのだ(後にきよ葉も同じことをするのだが、これはあまり意味のある場面になっていない)。
きよ葉にとっては、大切なのはてめえの足で吉原を出ることだから、身請けにはそんなに大きな意味はない。もっとも初恋の惣次郎にはそう言ってほしかったのだろうが。自分の初恋と高尾の純愛の末路を見て吹っ切れたのか、自力での足抜けが宙に浮いたようになってしまう。
「やなもんはやなだけ」と言い切れる実力をもって、楼主(石橋蓮司)や女将(夏木マリ)とやりあえるのを見せつけられては、切実さも生まれない。倉之助のあれだけの思いをかわしていくのだって、あんまりいい気分じゃない。とはいえ、誰の子かわからぬ子を妊娠してしまうのがこの商売なのだろうし、楼主や女将に楯突けるのも口先だけなのだろう。
妊娠の身でもかまわぬと言う倉之助には同情しかけるが、しかし、まず前提として遊郭などに出入りして散財しているようなやつなのだ。ご隠居のことを通人として持ち上げるのもねぇ。ま、それは別の問題にしても、ともかく肩入れ出来る人間がいないのでは仕方がない。消去法というのもつまらないが、清次が日暮の相手になるのが妥当なところか。
となると最初に清次がきよ葉に、「この桜の木に花が咲いたらここから出してやる。あの桜は咲かないんだよ」と言っていたことをちゃんと説明してほしくなる。単純に考えれば、清次は足抜けなどできっこないと言っていただけではないか。だから最後に2輪咲かせてしまったのは、2人の気持ちの表明したのかもしれないが、私にはこれがいい加減に思えてしまったのだ。
いや、ご隠居にも「咲かない花はない」と言わせているし、倉之助も金の力で玉菊屋の庭を桜で一杯にして、そのことは説明しているか。しかし、それでも納得出来ないのは2人の気持ちが伝わってこないからだろう。
吉原を後にしたきよ葉と清次が楽しそうに菜の花畑を走り、桜の下を歩いていく。なのに鮒に戻ってしまいそうだと思ってしまった私は意地が悪いのかも。
「さくらん」というのは単純に「おいらん」+「さくら」と考えればいいのか。錯乱という要素はあまりなかったと思うが。
【メモ】
清次は玉菊屋の跡取りとなる手筈になっていて、楼主の姪との祝言が決まっていた。
きよ葉の妊娠に最初に気付いたのも清次。きよ葉は流産してしまう。
2007年 111分 ビスタサイズ PG-12
監督:蜷川実花 チーフプロデューサー:豊島雅郎 製作:寺嶋博礼、堤静夫、亀山慶二、工富保、山本良生、庄司明弘、那須野哲弥、中村邦彦、渡辺正純 プロデューサー:宇田充 、藤田義則 エグゼクティブプロデューサー:椎名保、山崎浩一、早河洋、五十嵐隆夫、水野文英、伏谷博之、廣瀬敏雄、石川治、石井晃 原作:安野モヨコ『さくらん』 脚本: タナダユキ 撮影:石坂拓郎 視覚効果:橋本満明 美術:岩城南海子 編集:森下博昭 音楽:椎名林檎 音楽スーパーバイザー:安井輝 スクリプター:小泉篤美 スタイリスト: 伊賀大介、杉山優子 音響効果: 小島彩 照明:熊谷秀夫 装飾: 相田敏春 録音: 松本昇和 助監督:山本透
出演:土屋アンナ(きよ葉/日暮)、安藤政信(清次)、椎名桔平(倉之助)、成宮寛貴(惣次郎)、木村佳乃(高尾)、菅野美穂(粧ひ)、永瀬正敏(光信)、石橋蓮司(楼主)、夏木マリ(女将)、市川左團次(ご隠居)、美波(若菊)、山本浩司(大工)、遠藤憲一(坂口)、小池彩夢(少女時代のきよ葉)、山口愛(しげじ)、小泉今日子(お蘭)、蜷川みほ(桃花)、近野成美(雪路)、星野晶子(遣手)、翁華栄(番頭)、津田寛治(粧ひの客)、長塚圭史(きよ葉の客)、SABU(床紅葉の客)、丸山智己(日暮の客)、小栗旬(花屋)、会田誠、庵野秀明、忌野清志郎、大森南朋、ゴリ〈ガレッジセール〉、 古厩智之、村松利史、渋川清彦
ドレスデン、運命の日
2007年04月21日 土曜日
シャンテシネ3 ★★☆
■空爆と平行して描かれるドラマが稚拙
1945年2月の連合国によるドレスデン大空襲(映画に描かれる13日の2波の空爆は英空軍のもの)を背景に、ドイツの若い看護師のアンナ(フェリシタス・ヴォール)と、英空軍パイロット、ロバート(ジョン・ライト)との恋を描く。
が、この恋は少し強引か。父カール(ハイナー・ラウターバッハ)の病院で働くアンナには、外科部長のアレクサンダー(ベンヤミン・サドラー)という婚約者がいて、アンナがアレクサンダーを好きでたまらない、というシーンがいくつかあるし、アンナはアレクサンダーにプロポーズの儀式?までさせているのだ。
これはロバートとの間に芽生える恋を強調する意味があったのかもしれないが、あとの説明がうまくないから逆効果になっている。アンナと同様に逃亡兵をかくまった女性がゲシュタポによって銃殺される事件で、アレクサンダーへの見方が変わったり、上昇志向にならざるを得なかった彼の叫びもなくはないのだが。
出撃したロバートは墜落されてパラシュートで脱出するが、気付いた住民の銃弾で腹部に傷を負ってしまう。山中から出て病院に潜むが、アンナに発見され、彼女の手当を受けることになる。
ロバートの母はドイツ人で、アクセントはともかく言葉に不自由はないという設定。でないと話にならないわけだからそれはいいのだが、できれば流れの中で納得させてほしいものだ。また、空爆の後のアンナとロバートの再会をはじめとして、偶然の介在する部分が多すぎるのも話をちゃちなものにしている。
一方、ドレスデン大空襲の模様は、連合国(イギリスか)の作戦室の場面からソ連との駆け引きなどを織り込んで、かなりリアルなものになっている。単純に飛び立っていく爆撃機などの映像に、当時のニュースを被せるだけでなく、撮影班が映したものだと思わせるようにそれらしく編集した映像まで入れた凝りようなのだ。
市街地の映像も丹念だ。まだ被害を受けていない時期の市電が走っているような場面をさり気なく積み重ねておいて、クライマックスへともっていく。2波にわたる爆撃、そして瓦礫と化した街を、時間をふんだんに使って再現している。
そこで右往左往するしかない主人公や市井の人々が痛ましい。防空壕に入れてもらえないユダヤ人や、爆撃に絶えた防空壕の中で死を覚悟して祈り続ける人々。そして、一酸化炭素中毒で死んでいく人々などを克明に描いていて迫力のあるものにしている。
映画の最後は、空襲で廃墟のままになっていた聖母教会が2005年に再建されたセレモニーシーンである。フェリシタス・ヴォールがここに出てくることで、映画がこれに連動して企画されたのだとわかる(多分ね)。ドイツ人にとって聖母教会の再建は相当感慨深いものがあるのだろう。
無差別爆撃という連合国側の戦争犯罪(よくわからんが)も指摘される題材を選んだからではないだろうが、医療物資が不足する中、家族をスイスに逃がすためとはいえ父がモルヒネを隠し(この一部始終を潜んでいたロバートが見てしまいアンナにバレることになる)、ナチスの幹部と裏取引をしていることや、ナチスの高官の秘書をしているアンナの妹のふるまい、アンナの友人の夫をユダヤ人にして、ユダヤ人自身に仲間に収容所へ行く通知を配らせていることなどもあまさず描いて、ドイツとしての反省も忘れていない。
そういうのはあまりに自明のことで、描かないわけにはいかないのかもしれないが、でもだからよけい、アンナには英空軍パイロットを救わせて恋(くらいならまだしも子供まで)をさせるのではなく、普通のドイツ人女性として戦争に生きた苦悩こそを描くべきだったと思うのだが。
原題:Dresden2006年 150分 ビスタサイズ ドイツ 日本語字幕:■
監督:ローランド・ズゾ・リヒター 製作:ニコ・ホフマン、サーシャ・シュヴィンゲル、ニコラス・クラエマー 脚本:シュテファン・コルディッツ 撮影:ホリー・フィンク 音楽:ハラルド・クローサー、トーマス・ワンカー
出演:フェリシタス・ヴォール(アンナ)、ジョン・ライト(ロバート)、ベンヤミン・サドラー(アレクサンダー)、ハイナー・ラウターバッハ(カール)、カタリーナ・マイネッケ、マリー・ボイマー、カイ・ヴィージンガー、ユルゲン・ハインリッヒ、ズザーヌ・ボアマン、ヴォルフガング・シュトゥンフ
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