ルイーズに訪れた恋は…

2006年09月17日 日曜日

銀座テアトルシネマ ★★

■露悪的すぎて恋愛気分になれない

39歳のルイーズ(ローラ・リニー)は、コロンビア大学芸術学部の入学選考部の部長。同じ大学の教授であるピーター(ガブリエル・バーン)とは離婚したばかりだが、友人関係は続いていた。そんな彼女が1通の願書を目にしたことから……。

いきなりのこの進展は承服しかねる。願書のF・スコット・ファインスタウトという名前が20年前に車の事故で死んだ恋人と同じというだけで、個人面接の場までつくってしまうのはともかく、現れた青年(トファー・グレイス)は容姿まで似ているというのだから(名前の件はあとで本名ではなく、家ではフランだと言っていたが、これって?)。

ルイーズの気持ちはわからなくはない。こんなことが起きたら、誰だって若い頃まで時間を巻き戻してしまいそうだ。ましてやスコットの描く絵は素晴らしく(静かな日常を描いた暖かみのある作品)、そのことでも驚嘆せずにいられないとしたら。そして彼もルイーズを15歳も年上などというものさしで計るような人間ではないから、ふたりは簡単に恋に落ちてしまったのだろう。

でも、だからっていきなりルイーズ主導のセックス(「アレ持ってる? つけて」)になるのはどうか。いや、このくらいは今だと普通なのかもしれないのだが、性急にしか思えない私には、出だしから居心地の悪いものになった。

ルイーズの学生時代からの友達ミッシー(マーシャ・ゲイ・ハーデン)からは「あなたは男と寝ると声が変わる」といきなり見透かされてしまうのだが、実は彼女とは昔の恋人を争奪しあった仲だということがあとになってわかる。ミッシーがかけた電話に、ルイーズの不在でスコットが代わりに出たことから、彼の存在がバレてこれでひと騒動。

もう1つの騒動は、ピーターの自分はセックス中毒だったという告白。結婚中に数え切れないほどの相手がいただけでなく、10人ほどの男たちとも寝たというのだ。ルイーズとはセックスレスだったというのに。そしてこの告白が、ルイーズの弟サミー(ポール・ラッド)による矯正プログラムであることもルイーズの癇に障ったようだ。

ルイーズはなじめない弟とすぐ衝突してしまうのだが、母エリー(ロイス・スミス)は彼を当然のように受け入れている。その母にピーターのセックス中毒のことをこぼすルイーズだが、スコットとのことがあったあとだから、そうは共感できない。

39歳に思春期のような恋をさせろとは言わないが、こう露悪的な話ばかりが続いては、年下男性との恋を応援する気持ちにはなれない。最後には、元夫、友人、家族との間にあった棘が消えるというハッピーエンドが待っているのだが。

ルイーズは、スコットに中年になった自分を想像させるゲームをさせたり(残酷だとスコットも言ってはいたが、想像は出来ても決して実感できないのが若さというものではないだろうか)、結局彼にも昔の恋人の話を聞かせることになるのだが、そういう話がうまく噛み合ってこないから説得力がないまま終わってしまう。

ローラ・リニーは『愛についてのキンゼイ・レポート』もそうだったが、こういう際どい役が好きなんだろうか?

 

【メモ】

ルイーズのスコットに課したゲームは、彼を裸にして鏡の前に立たせ、40歳になっても芽のでない絵描きを想像させるもの。評価されないから叔父の中古車販売を手伝うほかなく、太って髪も薄くなってきている男。そしてジョギングでもしたらと妻に言われてしまうのだ。

原題:P.S.

2004年 100分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:栗原とみ子

監督・脚本:ディラン・キッド 原作:ヘレン・シュルマン 撮影:ホアキン・バカ=アセイ 編集:ケイト・サンフォード 音楽:クレイグ・ウェドレン
 
出演:ローラ・リニー(ルイーズ・ハリントン)、トファー・グレイス(スコット・ファインスタウト)、ガブリエル・バーン(ピーター)、 マーシャ・ゲイ・ハーデン(ミッシー)、 ポール・ラッド(サミー)、ロイス・スミス(エリー)

キンキーブーツ

2006年09月18日 月曜日

シャンテシネ1 ★★★

■食傷気味の再生話ながらデキはいい

チャーリー・プライス(ジョエル・エドガートン)はノーサンプトンにある伝統ある靴工場の跡取り息子。靴を愛する父親に幼少時から靴に関する教えを叩き込まれたというのに、心そこにあらずで、婚約者ニコラ(ジャミマ・ルーパー)の転勤が決まったロンドンで、一緒に新居を物色するつもりでいた。が、ロンドンに着いたばかりの彼に届いたのは父親の訃報だった。従業員たちは当然のように彼をプライス社の4代目とみなし、めでたくというよりは仕方なく社長に就任する。そんな彼が発見したのは大量の在庫。父親が従業員を解雇するに忍びず、倒産寸前にもかかわらず靴を作り続けていたらしいのだ。

優柔不断で頼りない(はずの)チャーリーが出来ることは、とりあえず15人を解雇することだった(すげー優柔不断)。解雇対象のローレン(サラ=ジェーン・ポッツ)の捨てぜりふ(他の会社は乗馬靴や登山靴などでニッチ市場を開発している)で、彼はロンドンの問屋を回った時に出会ったクラブのカリスマスターでドラッグクイーンのローラ(キウェテル・イジョフォー)のことを思い出す。

食傷気味の再生話だが、組み立てがうまいので楽しめる。よく練られた脚本なのは、あらすじにしないでそのまま書いていきたくなるほど。まあ、お約束ということもあるからだが、冒頭からの一連の流れもスムーズでわかりやすい。そこに、田舎と都会、保守的な住民(従業員)と過激なローラ、ついでにニコラとローレン(割り切り型とこだわり型というよりは、チャーリーにとっては自分をどう評価してくれているかということもある)という対比までが、巧みに織り込まれているというわけだ。

チャーリーが思いついた打開策は、女性用のブーツを履くしかないドラッグクイーンたちのためのセクシーブーツを新商品として開発し、ミラノの国際見本市へ打って出るというもの。が、技術力はあってもブーツとなると……。待ちきれずノーサンプトンに乗り込んできたローラだが、試作品では物足りず、「チャーリー坊や、あんたが作るのはブーツではなく、2本の長い筒状のSEXなの!」と叫ぶ(このセリフはよくわからん)。これでヒールの高いキンキーブーツ(kinkyは変態の意)が誕生する道が開けるのだが、ここからは従業員とのやり取りが見ものとなる。

専属デザイナーになったローラのトイレ立てこもり事件に、従業員ドン(ニック・フロスト)との腕相撲試合(ローラは元ボクサー)などを挟んで、ローラの父親との確執や、世間とのギャップが語ってしまう手際の良さ。ドラッグクイーンの実態に踏み込むと別な映画になってしまうからあくまで表面的なものだが、チャーリーが父と対比されてきたことにもからめて自然にみせる。

やりすぎなのは見本市を直前に控えてのチャーリーとローラの喧嘩で、成り行きとはいえ、派手なドラッグクイーン姿のローラを差別するのはどうか。レストランという人目がある場所だからというのは、ここまで来てだから、言い訳にならないよ。最後にもう一山という演出なのだろうが、チャーリーだけでなく、従業員たちとの信頼も勝ち得たローラという積み重ねをパーにしてしまうことになるから、これは減点だ。チャーリーがキンキーブーツを履いて舞台に上がるというおちゃらけた演出は許せるんだけどね。

キンキーブーツでの一発逆転劇は、嘘臭いが実話に基づく。だからというわけではないと思うが、巻頭の靴の生産ラインを追う場面だけでなく、随所に靴の製造工程が出てきてリアルだ。これが話の突飛さとのバランスを保っているといってもいい。靴工場を眺めているだけでも楽しめるのだ。2階の社長室からは工場が見渡せるようになっていて、指示を出すためのマイクがあるのだが、これが2回も活躍してました。もちろん実話でなくデッチ上げでしょうが。

 

【メモ】

靴工場のモデルは、靴メーカーのブルックス [W.J. Brookes]。

経営の悪化は、近年の安い輸入品(ポーランドの名前が出ていた)攻勢による。

腕相撲試合で、ドンはローラの心遣いを知り偏見を捨てる。

父親も実は工場の売却を考えていたという話をニコラ(不動産業)から聞かされショックを受けるチャーリー。が、これで吹っ切れたのか、今までの生産ラインをストップしてキンキーブーツ1本でいく腹を決める。

従業員のメル(リンダ・バセット)はチャーリーの方針が理解できず、やっつけ仕事を指摘されたこともあって定時に帰ってしまう。が、チャーリーが工場や財産を抵当に入れて見本市に賭けていることがわかって、チャーリーはみんなが黙々と働いている姿を目にすることになる。

原題:Kinky Boots

2005年 107分 アメリカ/イギリス サイズ:■ 日本語字幕:森本務

監督:ジュリアン・ジャロルド 脚本:ジェフ・ディーン、ティム・ファース 撮影:エイジル・ブリルド 編集:エマ・E・ヒコックス 音楽:エイドリアン・ジョンストン
 
出演:ジョエル・エドガートン(チャーリー・プライス)、キウェテル・イジョフォー(ローラ)、サラ=ジェーン・ポッツ(ローレン)、ジャミマ・ルーパー(ニコラ)、リンダ・バセット(メル)、ニック・フロスト(ドン)、ユアン・フーパー(ジョージ)、ロバート・パフ(ハロルド・プライス)

イルマーレ

2006年09月23日 土曜日

新宿ミラノ1 ★★☆

■郵便箱タイムマシン

湖畔に建つ硝子張りの一軒家。ケイト(サンドラ・ブロック)はシカゴの病院への勤務が決まり、引っ越しのため次の住人にミスがあった時の郵便物の転送を依頼する手紙を郵便箱に残す。「入口にある犬の足跡と屋根裏の箱は私が越してくる前からありました」と書き添えて。

手紙を受け取った新しい住人アレックス(キアヌ・リーヴス)は玄関を見るが、足跡はどこにもない。それに彼が越してきたのは、長い間空き家になっていた埃の積もった家なのだ。しかしアレックスが家の外でペンキ塗りをしていると、どこからともなく犬がやって来て……。

姿が見えないのに郵便受けの印が動き、入れた手紙が消え、また新しい手紙が……。噛み合わない内容のやり取りが進んで、ケイトは2006年の、そしてアレックスは2004年の同じ日に生きているということがわかる。

ネタ切れのせいか、近年、変則タイムマシン物語が映画にも小説にも溢れているが、これもその1つ。しかも同名の韓国映画からのリメイクというからアイデア不足は深刻なのかも。この郵便箱タイムマシン映画は、2年という、ケイトにとってはまだ記憶に新しい過去、そして2年経てば手紙のやり取りをはじめた(という記憶を持つ)相手に会えるアレックス(でもこれは違うような)という、なかなか興味深い設定だ。

このことを考え出すと混乱してしまうのだが、とりあえず先に進むと、この奇妙な手紙のやり取りで、2人は恋に落ちる。恋に理由などいらないが、とはいえ手紙だけが接点となるとさすがにもう少し説明してもらいたくなる。「僕たちほど打ち解け合い、好みが同じで、心が通じ合うふたりはいない」と言われただけではねー。

なにしろケイトにはモーガン(ディラン・ウォルシュ)という相手がいて、当人はケイトと結婚する気満々だし、アレックス自身は気乗り薄ながら似たような状況のアンナ(ショーレ・アグダシュルー)がいるからだ。

手紙というまだるっこしい方法は、画面では時空を超えた会話で表現されているので話は早いが(画面処理もすっきりしている)、手紙の持つ特性は活かされることはなく、だからこの恋をよけい性急に感じてしまったのかもしれない。

もっともそれなりにふたりの事情も語られてはいる。アレックスが越してきた家は、彼の父親サイモン(クリストファー・プラマー)が設計したもので、そこは家を出て行ってしまった母がいる、幸せだった時代の思い出の場所というわけだ。父の設計事務所にいるのは弟で、自分は普通の住宅建築に関わっているだけなのだが、わざわざここに越してきたということで彼の探しているものがわかる。

ケイトの場合は恋人や仕事で、でもこれはアレックスが絡んでくるからさらに複雑で微妙だ。現在のアレックスとは、思い出した過去(あー混乱する)で、ふたりはキスまでしているのだから。

いつまでも無視しているわけにもいかないので郵便箱タイムマシンに触れるが、やはりその箱だけの限定版にしておくべきでなかったか。季節はずれの雪のためにマフラーを送ったり、忘れ物を取りに行かせたりする程度であれば微笑ましくて、整合性もなんとかは保っていられそうだが、木まで植えさせて、無かったものを出現させてしまうのはどうだろう。

だけど、この映画では交通事故を無いものにしてしまわなければならいわけで、だからそんな瑣末なことを言ってもはじまらないのだが。でもあえて言わせてもらうと、ケイトが事故にあったアレックスに気付かなかったのはあんまりではないか。一瞬とはいえキスまでした相手なのだから(顔がぐしゃぐしゃになっていたという残酷な話ではないようだし)。

禁じ手に踏み込んで、それが成功しているならともかく、このラストはちょっと残念だ。だってアレックスには継続している意識が、ケイトでは改竄されたか別の次元でのことになってしまうわけだから(って、ホントかい)。いっそ新聞の株式覧でも郵便箱に入れて、大金持ちになって迎えに来てもらえばいいのにね。

それに、犬がふたりを渡り歩いたことやあの家をケイトが借りた時の状況はどうだったのだろう(もしかしたら聞き逃したのかもしれないが)。犬の名前をケイトがアレックスに教えて、その名を呼ばれた犬が寄っていくのも逆のような気がするが、細かいところはもう1度観てみないとわからない。

待ち合わせたレストラン「イルマーレ」にアレックスが現れないシーンは切ないが、私はそのことより、有名レストランだからすぐの予約は難しいのだけれども、さすがに2年先の予約(彼女の明日はアレックスには2年と1日になる)は大丈夫というのが面白かった。

それにしても『スピード』での共演からはすでに12年。バスの中という狭い空間から今回は絶対?会えない空間での恋。このふたりが燃え上がるのは異常な状況下にある時だけとかね。ともかくふたりとももうしっかり大人で、建築家のアレックスの指示によるシカゴめぐりなどのような落ち着いた感じの場面はいいのだが、バタバタするタイムマシン話に絡ませるのならもっと若い人をもってきてもよかったかも。

【メモ】

ノースラシーン通り1620番地。アレックスには高級マンションの建築予定地。ケイトには新居。

この犬はケイトのチェスの相手もするのだ。

『イルマーレ』はイタリア語で「海辺の家」で、この映画ではレストランの名前になっている。邦題は韓国映画からそのまま持ってきたようだが、この映画だと原題の方がすっきりする。

原題:The Lake House

2006年 98分 アメリカ シネマスコープ 日本語字幕:松浦美奈

監督:アレハンドロ・アグレスティ 脚本:デヴィッド・オーバーン 撮影:アラー・キヴィロ 編集:アレハンドロ・ブロデルソン、リンジー・クリングマン 音楽:レイチェル・ポートマン
 
出演:キアヌ・リーヴス(アレックス・ワイラー)、サンドラ・ブロック(ケイト・フォースター)、ショーレ・アグダシュルー(アンナ)、クリストファー・プラマー(サイモン・ワイラー)、 ディラン・ウォルシュ(モーガン)、エボン・モス=バクラック(ヘンリー・ワイラー)、ヴィレケ・ファン・アメローイ(ケイトの母)

靴に恋する人魚

2006年09月23日 土曜日

2006/9/23 新宿武蔵野館2 ★★

■可愛らしくまとめただけではね

「昔々、ドドという女の子がいました。みんなに愛される女の子でした」というナレーションではじまるおとぎ話、なのかな。カラフルな色づかいの小物や街並みにはじまって、登場人物や設定までもが絵本のような作りになっている。

生まれつき足が不自由だったドドは、『人魚姫』の絵本を読んでもらうと、自分も足が治ったら声を取られてしまうのではないかと心配でしかたがありませんでした。ところがある日、ドドは足の手術を受け、自由に歩けるようになります。大人になったドド(ビビアン・スー)は出版社に勤め、気難しいイラストレーターから作品をもらってくるのが仕事(電話番とかもね)。そしてなにより靴を買うことが好きな女性に成長したのでした。そんなドドは歯科医王子様のスマイリーと出会い結婚。新居でふたりはいつまでも幸せに暮らしましたとさ。

じゃなくって「このお話はここからが本当の始まりです」だと。といったっておとぎ話仕立ての作風が変わるわけではないが。ドドの靴を買う病気がエスカレートして、置き場所はなくなるし、靴が蛙に見えてきたスマイリーからは、とうとう靴を買わない努力をしてみたらと言われてしまう。ふたりで野鳥観察に出かけたりして気を紛らわしせていたドドだが、やっぱり我慢できなくなって……。

巻頭に出てきた「幸せとは、黒い羊と白い羊を手にいれること」という言葉は、単純にこのことだったのだろうか。靴を得ることでまた足を失い(マンホールに転落)、王子様を得たのに、その王子様は目のピントが合わなくなる病気になってしまう。

教訓めいた苦い話が、靴屋の前にいる女の子(マッチ売りの少女)に靴をあげることでほぼ解決してしまうのは、おとぎ話だからに他ならない。さすがに今度ばかりはドドの足は戻らないけどね。でもそのかわり、ドドには赤ちゃんが授かって、やっぱりめでたしめでたし。

馬鹿らしい話だが、最後まで可愛らしくまとめたのはお手柄。プレゼントの箱を受け取った人が中身を確かめるようと箱を振るギャグ(ケーキや子猫だったりする。これは何度も出てくる)や、画面処理もポップで楽しい。変人イラストレーターとの交流や靴屋(魔女なの?)の扱いなども考えてある。

でもやっぱり私にはちょっとつらかったなー。ビビアン・スー(もう31歳なのだと。それでこの役というのはある意味立派)やダンカン・チョウのファンならこれで十分なんだろうけどね。

【メモ】

プレゼントした人間がガクッとくるケーキ振りギャグには、4ヶ月の赤ちゃんの写真が入った箱を振る場面もあった。

英題:The Shoe Fairy

2005年 95分 台湾 サイズ■ 日本語字幕:牧野琴子

監督・脚本:ロビン・リー 撮影:チン・ディンチャン 音楽:ダニー・リャン

ナレーション:アンディ・ラウ 出演:ビビアン・スー[徐若迹пn(ドド)、ダンカン・チョウ[周群達](スマイリー)、タン・ナ(魔女)、チュウ・ユェシン (ジャック社長)、ラン・ウェンピン(ビッグ・キャット)

蟻の兵隊

2006年09月24日 日曜日

イメージフォーラム シアター1 ★★★★

■「殺人現場」への旅

敗戦後も中国に残り軍閥に合流して国共内戦を戦い、捕虜になっていた奥村和一が帰国できたのは1954(昭和29)年の30歳の時。軍命によって戦ったのに、軍籍を抹消された彼に軍人恩給が支給されることはなかった。残留兵の生き残り仲間と裁判を起こすが、敗訴を重ねる。自分たちは勝手に中国に残ったのではなく、そこには保身に走った澄田軍司令官と軍閥との間に密約があったというのが奥村たちの主張だ。

奥村は宮崎元中佐を訪ねる。宮崎は将兵の残留という不穏な動きを察知して澄田軍司令官にその中止を迫ったことがあるのだが(平成4年にテレビ放送されたらしく、それが少しだけ映る)、10年以上も前に脳梗塞で倒れ、現在は寝たきり状態が続いている。宮崎を前に「悔しくて眠れない」ので中国に行き「密約の文書を探しだします」と奥村が言うと、宮崎は絞り出すような声を上げ何度も激しく反応する。何もわからないはずと言っていた宮崎の家族もびっくりした様子だ。

中国に渡る奥村。「天皇に忠誠を誓ったのであって、(軍閥の)閻錫山の雇い兵として戦ったんじゃない」という彼は、太原山西省公文書館に出向き、職員が持ち出してきた資料を開いて、これが何よりの証拠だと指差す。そして「この資料を出したのに、(裁判で)一切無視された」と言う。宮崎に「密約の文書を探しだ」すと言った場面のあとなので、これはまずいだろう。私など早くも、何だ、新資料の発見ではなく映画用の再確認の旅なのか、とがっかりしてしまったくらいだから。がこのあとすぐに、この中国への旅が奥村に別の問題を突きつけていたことを知ることになる。

軍司令官の保身の犠牲になった奥村だが、自身も上官の命令とはいえ、初年兵の教育のため民間人を殺害(肝試しと称していた)した過去があったのだ。奥さんにも話すことがなかったその事実に向き合うことを、自分に科していたようだ。旅の目的地の1つとして指定した「殺人現場」の寧武の街を見下ろす斜面に立ち、当時の模様を詳しく(彼の決意のほどがわかる)語る彼の姿。観客という別世界から眺めていたからいいようなものの、そうでなければ視線を落としていただろう。

ついで処刑の前日に留置場から脱走したという中国人の家族を訪ねる場面。故人の息子が、処刑されたのは日本軍が守る炭坑の警備員で、共産党軍の攻撃に抵抗せずに逃げ出して捕まったのだと話すと、急に奥村の顔色が変わり、彼らの行動は理解できないし処刑されて当然ではないかと「日本兵となって追求」(本人の言葉)してしまう。「自分の中に軍隊教育として受けていたものが残っている」と恥じる奥村。

輪姦された当時16歳という中国人老女の話にもいたたまれなくなるが、日本兵の鬼畜の限りを綴った、自分たちが書いた文章がそこ(中国)には残っているのだからたまらない。この文章のコピーは持ち帰られ、奥村の仲間たちにも突きつけられる。「もう平気でやったんですよ。人を殺したのに記憶がない。日常茶飯事だったんだね」とは仲間の金子の言葉だが、奥村は恨まれたのではないか。

自分たちの犯した罪を暴いてまでも、悔しい気持ちをどうにかしたい。それが奥村たちの気持ちなのだろう。だが、高齢な彼らの仲間は裁判中にも死んで数が少なくなり、この映画に登場する村山も映画の公開を待たずに死んだという。彼らには時間がないのだ。最後の時間との競争だという言葉はあまりに重い。

巻頭では靖国神社がどういうところなのかも知らない女の子と奥村の、さもありなんという対話が収録されていたが、最後の方では、やはり靖国神社で熱弁をふるう小野田元少尉に「小野田さんは戦争美化ですか」と詰め寄る場面も。奥村が電話をしても、また訪ねて行っても、昔のことだからと口を閉ざして何も語ろうとしない老人。簡単に対比されてはこれらの人の立場がないかもしれないが、彼らと大差のない自分を考えないではいられなくなる。

途中、判決文に署名捺印しない裁判官の話があり、これにもびっくりした。理由が「差し支えのため」という訳のわからないものだからだ。奥村が電話で確かめると、転勤で物理的に書けないという返事。だったらそう書けばいいのに。書けないんだろうね。署名捺印のない判決文がそもそも有効なのかどうなのか、そんなことは私にはわからないが、こんなんでちゃんとした裁判ができているのかと心配だ。

  

【メモ】

日本軍山西省残留問題:

終戦時に中国の山西省にいた陸軍第1軍の将兵59,000人のうちの約2,600人は、武装解除を受けることなく(ポツダム宣言に違反)国民党系の閻錫山の軍閥に合流し、3年半の間、共産党軍相手に戦いを続け、約550人が戦死、700人以上が捕虜となったという。

元残留兵たちから、軍命で戦ったのだから当然復員までの軍籍は認められるべきで、軍人恩給や戦死者遺族への扶助料も支払われるべきだという声があがるが、この運動が具体的な形になったのは90年代になってからのことだった。さらに実際の裁判にまで進んだのは2001年5月。原告は元日本兵13名。この時点で最小年の奥村和一は77歳、ほとんどが80歳以上だった。

双方の見解ははっきり別れていて、元残留兵たちは、当時国民政府から戦犯指名を受けていた北支派遣軍第1軍司令官・澄田●四郎(すみたらいしろう[●は貝へん+來])が責任追及を恐れて閻錫山と密約を交わし「祖国復興」を名目に残留を画策したと主張する。

一方、政府の見解は勝手に志願し傭兵になったのだから、その間の軍籍は認められず、政府に責任はないというもの。

裁判で原告は負け続けるが、2005年、元残留兵らは軍人恩給の支給を求めて最高裁に上告。が、9月に棄却される。

(2006.10.6追記)澄田軍司令官は、第25代日本銀行総裁(1984-1989)澄田智の父親にあたる。

2005年 101分 ヴィスタサイズ

監督:池谷薫 撮影:福居正治、外山泰三 録音:高津祐介 編集:田山晃一 音楽:内池秀和

出演:奥村和一(わいち)、金子傳、村山隼人、劉面煥、宮崎舜市

日本以外全部沈没

2006年09月24日 日曜日

シネセゾン渋谷 ★☆

■思いつきで、映画も沈没

言わずもがな『日本沈没』のパロディ映画。なの? 筒井康隆の『日本以外全部沈没』は小松左京の『日本沈没』のパロディだが、この映画『日本以外全部沈没』は、筒井康隆作品の映画化ではあるけれど、2度目の映画化である東宝の『日本沈没』(2006)のパロディかというと断じてそうではなく、ようするに便乗映画のたぐい。

2011年にアメリカ大陸が1週間で沈んだあと、中国大陸、ユーラシア……と日本以外の国が次々と沈んでいった。3年後、「クラブ・ミルト」には、各国の首脳が集まり日本の安泉首相(村野武範)におべっかをつかっていた……。いやー、やっぱり威張っちゃうんだろうね、日本人。うはは。

グラミー賞歌手が落ちぶれてそこで歌っている場面に思わず笑ってしまったが、この好調な出だしは全部原作のアイデアだった。あわてて読んだ原作は、舞台もこのクラブに限定された話(全集だと11ページの短篇)で、映画はそこで話される会話を膨らませてクラブ以外の場面も用意しているのだが、ところがそれがまったく腑抜けたもの。

たとえば日本は、外国からの難民で溢れているはずなのに(原作だと人口が5億になっているし、クラブさえ満員でトム・ジョーンズは入場を断られているのだ)、映し出される光景はどれもが人影がまばらだから、説得力がまるでない。予算がないのはわかるが、見せ方があまりにもヘタクソでいやになる。挿入されるCG(というよりアニメか)にしても合成がひどいとかいう問題ではなく、アイデア自体が幼稚なのだ。

これが大学の映研作品というなら拍手喝采してしまうところだが、TV版の『日本沈没』と1973年の映画版で主演した村野武範と藤岡弘まで引っ張り出してきているのだから文句もつけたくなる。

意外にも原作に登場しない日本の首相が「ニッポン音頭」にのって終始にこやかなのは当然。田所博士(寺田農)の学説発表がそれらしい舞台なのは奮発。イスラエルのシャザール大統領のアラブ相手の乱入が、金正日率いる武装ゲリラになっているのは順当。脅かしにも動ぜずGAT(超法規的措置で生まれた外国人アタックチーム)長官(藤岡弘)の自爆で国会議事堂が吹っ飛ぶのはチャチ。停電のローソクの明かりが「世界が沈むそのちょっと前にはじめて平和が訪れる瞬間だった」かどうかは疑問。それより何でこんなところにウクライナ民話『てぶくろ』が出てくるんだ、ってもうどうでもいい気分。以上、書いてる私もかなりの手抜きだ。

それにしても原作だと、ニクソン、毛沢東、周恩来、蒋介石、朴正熙、シナトラ、エリザベス・テイラー、オードリー・ヘップバーン、ソフィア・ローレン、アラン・ドロン、カポーティ、メイラー、ボーボワール、リヒテルにケンプといった錚々たるメンバー。そっくりさん俳優がシュワルツネッガーやウィリスあたりしか見つからなかったというより、今の時代には絶対的な存在感のある政治家や俳優がいないということなのかも。

 

【メモ】

URLにある画像は、尖閣諸島、竹島、北方領土をわざわざ表示しているが、これも多分思いつきの範囲だろう。ま、それでいいのかもしれないが。

付け加えられてドラマ部分は、おれ(小橋賢児)のアメリカ人妻とオスカー俳優との恋。あと、おれの親友古賀の家庭風景など。

怪獣やヒーローが外国人エキストラを踏みつぶす『電エース』が人気を博す。この映像もあるが、ひどい。

2006年 98分 ヴィスタサイズ

監督・脚本:河崎実 原典:小松左京 原作:筒井康隆 監修:実相寺昭雄 脚本:右田昌万、河崎実 撮影監督:須賀隆 音楽:石井雅子 特撮監督:佛田洋

出演:小橋賢児(おれ)、柏原収史(古賀)、松尾政寿(後藤)、土肥美緒(古賀の妻)、ブレイク・クロフォード(ジェリー・クルージング/オスカー俳優)、キラ・ライチェブスカヤ(エリザベス・クリフト/人気女優、ジェリーの妻)、デルチャ・ミハエラ・ガブリエラ(キャサリン/おれの妻)、寺田農(田所博士)、村野武範(安泉首相)、藤岡弘(石山防衛庁長官)、イジリー岡田、つぶやきシロー(大家)、ジーコ内山(某国の独裁者)、松尾貴史(外人予報士・森田良純)、デーブ・スペクター(本人/日本語学校経営者)、筒井康隆(特別出演)、黒田アーサー、中田博久

黒い雪

2006年09月26日 火曜日

松竹試写室(東劇ビル3階) ★★☆

■今となってはこの過激な抵抗は苦笑もの

「美の変革者 武智鉄二全集」と称して10月末からイメージフォーラムで全10作品を一挙上映する企画の試写にI氏の好意で出かけてきた。武智作品は「黒い雪裁判」等で、学生の頃大いに騒がれたものだが、観る機会はないままだった。

いきなりタイトルなのは昔の映画だから当然だが、ここの背景は黒人に組み敷かれている娼婦で、何故かふたりともほとんど動かないままだ。重苦しいほどの長さはそのまま当時の日本の状況を演出したものだろう。

娼婦は見られていることがわかっているらしく、手を伸ばし影絵を作る。ふたりの行為を隣の部屋から覗き見しているのが次郎(花ノ本寿)で、彼の母はこの売春宿を経営している。叔母が新しい若い娘民子を母のところに連れてきていて、あけすけな話をさんざんする(この猥談は飛行機の騒音に消されて肝心なことが聞けなくなっているのが効果的だ)。駐留軍のボスの情婦である叔母は、近々PXからの横流しがあるので、またうまい商売ができると楽しげだ。

次郎は、この叔母から横領で得た金を巻き上げる計画を共産党員らしき男と立てる。党員からはドスを渡される。このドスで黒人兵を殺し、彼からピストルを奪うが、これは次郎の自発的な行為のようだ。

家(売春宿)に戻ると、MINAになった民子の初仕事なのか、彼女の泣いている声が漏れてくる。母は変態爺のミスターグレン様だからと、それでもまんざらでない様子だ。

次郎は前から気になっていた個人タクシー運転手の娘静江(紅千登世)に声をかけ、映画館にさそう。どうでもいい話だが、西部劇が上映されているこの映画館の傾斜のきつさは昨今のシネコン並である。ここで静江の悶える場面になるのだが、これが大げさでわざとらしいもの。場内が明るくなって次郎の肩に頭をのせている場面があるし、その前にも次郎がピストルを出し、「これピストルだよ」と言う隠喩もあるから、次郎にペッティングされてのことと解釈するのが普通だろう。がやはり、演技力の問題は別にしても不自然だ。

母と女の子たちの歌舞伎見物の日、次郎は静江を家に呼び出しベッドに横たえて明かりを消す。次郎はすぐ帰ってくると言い残し部屋を出るのだが、外には党員の男が裸になって待っている。男に処女の女の子を世話すると話していたのは、静江のことだったのだ。男が消え、次郎がドア越しにいると、梅毒で商売も出来ず歌舞伎にも行けなかった女が出て来て、次郎を抱くようにする。しかし、それにしても静江を男に引き渡した次郎の気持ちがわからない。

明かりがついて相手が次郎でないことを知った静江はショックで、裸のまま部屋を飛び出し、基地の金網の横を全裸で走る有名な場面となる。車が対抗して何台も通りすぎていくところを、100メートル以上も走ったのではないかと思われるが、さすがにここの撮影は難しかったのか、暗いし望遠で撮っているということもあってピンボケ気味である。基地の中からは警告の車も追走してくる。緊張感が高まる中、静江は倒れ体は泥まみれになってしまう。

プレスシートには「ジェット機の衝撃波によって地上に打ち倒されてしまう。まるで弱小民族の運命を象徴するかのように」と書かれているのだが、何が衝撃波なのだろう。映画の中で、それこそ耳を塞ぎたくなるほどうるさい爆音だが、基地周辺の住民である静江にとってこんなものが衝撃波とは思えない。「弱小民族の運命」は監督の解釈なのかもしれないし、そういう読み解きはいくらでも可能だろうが、それ以前に演出としてもあまりに稚拙ではないか。それに、この静江の行動を反米の抗議行動と見立てるのは筋違いだろう。

次郎は党員の男ともうひとりの3人で、叔母から2万ドルを奪う。男達は叔母を犯す。叔母は、畜生と同じだからと次郎を拒否するが、結局は悶えたことで次郎に射殺される。次郎はMINAに山のようなプレゼントを抱えて帰るが、両替からあっさり足がつき駐留軍に捕えられてしまう。

堀田が静江を連れて次郎の面会に来る。「娘がどうしても会いたいと言ってきかないものだから」なのに、この場面で喋り続けるのは堀田ひとりである。これがまたどうにもおかしいのだ。笑ってしまってはいけないのかもしれないが、満州から引き上げて妻と息子が死んだことにはじまって自分の人生の悔恨を語ったあと、「この娘には人間の魂を教え込んだ」からって「そうなるべき当然の帰結。さあ、今日はふたりの結婚式」となっては、ちょっと待ってくれと言いたくなる。

口をきかない次郎と静江の気持ちは一応映像で説明してあるが、でも静江は次郎を何故許せるのか。それに堀田は、次郎の黒人兵殺害現場まで目撃しているのだ。反米というお題目が成り立つのなら殺人は支持するし、静江を提供することも厭わないというのだろうか。いくら何でももう少し具体的な説明があってもよさそうなものだ。

ふたりが帰ったあと、次郎は決心したかのように供述をはじめるが、叔母がマロー(駐留軍のボス)の愛人であり横流しがあったことに触れると、担当官は猛烈に怒りだし次郎の供述を認めようとしない。

このあと雪の日、他の囚人たちと一緒にどこかへ行くような場面(プレスシートだと、殺人罪で起訴された次郎は日本の警察に引渡されるという説明だが、映画ではよくわからなかった)で、画面にはソラリゼーション処理された黒い雪が表現される。

最後の「きっと他に悪いヤツが……基地なんかなければいいんだ」という次郎の母のセリフが、また白々しい。原潜寄港反対運動の学生たちに塩をまいて、「反対なんてとんでもない」と言っていたというのに。

米軍基地周辺を描くことで、当時の日本の状況(ある部分ではほとんど変わっていないようにも思えるが)はいやがおうにも浮かび上がってくるし、タイトルや騒音の使い方には工夫がある。

しかし、次郎の考えていることや行動はどうしても理解できなかった。黒人兵の殺害、静江の扱い、叔母殺し……。「不浄の金は我々同士のために使うのが一番だ」という党員の男を信じたのなら、無駄な買い物などできないはずだし、叔母が憎いのなら母親だってその対象になるべきだろう。それなのにあの最後のセリフで収まりをつけようなんて、いい加減にもほどがあるではないか。

1964年 89分 白黒 ワイド 製作:第三プロダクション

監督・脚本:武智鉄二 撮影:倉田武雄 美術:大森実 録音:田中安治 照明:大住慶次郎 音楽:湯浅譲二、八木正生

出演:花ノ本寿(次郎)、紅千登世(堀田静江)、美川陽一郎、村田知栄子(母)、松井康子、内田高子、滝まり子

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