狩人と猟犬、最後の旅

2006年09月02日 土曜日

銀座テアトルシネマ ★★

■自然を調節しているという思い上がり

監督のニコラス・ヴァニエ自身が冒険家で、ノーマン・ウィンターにカナダで会って彼の生き方に共感して生まれた作品という。主演も本人自身(いくら生活場面が主とはいえよく演技できるものだ)で、だからノンフィクションと言ってもおかしくないほどリアルな作品となっている。

自然を知り尽くした生活者と冒険家の2人が組んだだけあって、画面に映し出される自然の美しさと過酷さには息を呑む。俯瞰の中で、ノーマンが操る犬ぞりはあくまで小さくて自然の中の一部という感じで捉えられている。が、本当に彼らは自分たちを自然の一部と認識しているのだろうか。

これは熊と対峙したノーマンと犬や、彼らが狼に囲まれる場面が演出したものだから言っているのではなく(狼の方はわからないが、カメラワークからしてもそういう気がする)、映画で語られていたノーマンの自然観に疑義を呈したくなったからなのだ。

彼が「自然を崇拝はしない」と言うのは何となくわかるような気がするのだ。すべての恵みは自然がもたらしてくれるとはいえ、その豹変ぶりは十分身に沁みてのことだろうから。が、「俺たちが(狩をすることで)自然を調節している」という発言は、やはり傲慢に思える。彼の生活が、食べるだけ獲物を捕るのではなく、生活必需品を得るために毛皮を売るという、もはや資本主義経済の一部に組み込まれたものだからだ。

当然、この件について私には口を挟む権利はない。それはわかっているのだが、聞き流してしまうことにも抵抗があるのだ。ノーマンの置かれている状況は、例えば「白人が毛皮を先住民に売る」というセリフにあったように、すでにいびつなものになっている(なにしろ「最後の狩人」なのだ)し、先輩格のアレックスでさえ、もう犬ぞりを操れないからとスノーモービルを手放せないわけで、それを踏まえればすべてが50歩100歩ということになってしまう。

が、やはり私には聞き逃せないセリフだったのだ。そして、もしまだそれを言うのであれば、もう少し詳しくそのことについて触れるべきであったと思う。具体的に自然をどう調節しているのか、調節したことになるのか、ということを。

いきなり批判になってしまったので、映画のフィクション部分に話を戻す。

ノーマンは、実生活がそうであるように、狩人としてユーコンに生きてきた男だ。しかし最近、山の急速な開発で獲物は激減し、山での生活に危機感を覚えていた。買い出しでドーソンの町に出たときに、頼りにしていたリーダー犬のナヌークが車にはねられ死んでしまう。ノーマンの落胆は大きく、雑貨屋の主人が同じハスキー犬(生後10ヶ月の雌)をくれるのだが、レース犬の血を引くせいかなかなか仲間になじもうとしない。

彼の妻である原住民のネブラスカは、そんなアパッシュ(彼女が名付け親)を根気よく育てようとするのだが、ノーマンはアパッシュにダメ犬の烙印を押し、肉をやらない場面まである。これはひどい。ここでの流れからは、ただ忘れたということにはならない(つまり意地悪になってしまう)から、ノーマンだって演じたくなかったのではないかと思うのだが。

しかし、事件が起きてアパッシュの評価は急に上がることになる。ノーマンの読み違いもあって犬ぞりが氷の湖に落ち、彼を残して犬たちは去っていくのだが、アパッシュだけは彼を気にして何度も振り返り、彼の声に他の犬を引っ張るように戻ってきてくれたのだった。この場面もかなりリアルで、かじかんだ指が元に戻らず、しばらく彼が悪戦苦闘する模様が描かれる。

冬に備えノーマンとネブラスカが木を切り出し、家を造るシーンは垂涎もので、移動の理由は猟場にふさわしい場所がなくなってのことなのだが、私のような人間は、眺望のいい場所を見つけさえすればあとは自由に家が建てられるのかと、どうしても都合のいいところだけを観てしまう。愛する人とのこの共同作業は、都会人には夢のまた夢だが、ノーマンはいままでにいくつ家を建てたのだろう。

ノーマンは狩人をやめることに踏ん切りが付けられず、アレックスを訪ねるが結論が出せない。そしてアレックスはアレックスで、自分は引退し、罠道をノーマンに譲ることを考えていたのだった。

ラストでネブラスカに「どうして今年だけなのに、あんなに立派な小屋を建てたの」と訊かれるノーマン。彼女だってわかって手伝っていたのにね。

この映画を観るかぎりでは、妻の方がノーマンよりもずっと孤独な生活(表面的なことだが)を強いられている。ノーマンはたまには町に出て憂さをはらすこともあるようだが(飲み友達もいる)、妻はノーマンが狩に出ている時もひたすら待ち続けているのだから。

環境問題に関係して1番気になったのは森林破壊についてで、映画では再三そのことに言及しているのに、映像がないのは何故だろう。そのシーンがあれば、言葉より圧倒的な説得力を持つはずなのに。残念でならない。

【メモ】

ナヌークが車に轢かれてしまうのは、自動車慣れしていなかったからか。

ネブラスカはナノニ族インディアン。

原題:Le Dernier Trappeur/The Last Trapper

2004年 101分 フランス、カナダ、ドイツ、スイス、イタリア シネマスコープ 日本語字幕:林完治

監督:ニコラス・ヴァニエ 脚本:ニコラス・ヴァニエ 撮影:ティエリー・マシャド 演出:ヴァンサン・ステジュー、ピエール・ミショー 音楽:クリシュナ・レヴィ 動物コーディネート:アンドリュー・シンプソン
 
出演:ノーマン・ウィンター(ノーマン・ウィンター)、メイ・ル(ネブラスカ/妻)、アレックス・ヴァン・ビビエ

太陽

2006年09月02日 土曜日

銀座シネパトス1 ★★★☆

■神にさせられてしまった人間

ロシア人監督ソクーロフによる終戦前後の昭和天皇像。上映が危惧されたらしい(天皇問題のタブー視は度がすぎている。上映側の過剰反応もあったのではないか)が、シネパトスは連日盛況で、公開してほぼ1ヶ月後の9月2日の時点でも2スクリーンでの上映にもかかわらず順番待ちの列が長く伸びていた(もっとも入館してみると6、7割の入り。それでもシネパトスにしては大ヒットだろう)。

敗戦濃厚な事態を前にしての御前会議で、天皇(イッセー尾形)は明治天皇の歌(「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」を引き合いにだして平和を説くのだが、これは日米開戦を前にしての話だったはず。こういう部分をみてもこの映画が事実にこだわるよりは、別の部分に焦点を合わせていることがわかる。

実際、その場面を取り上げたことでもわかるように、外国人の手による天皇論としては思いやりのある好意的なもの(排日移民法にまでふれている)で、ハーバート・ビックスの『昭和天皇』(この本の監修者吉田裕が映画の監修者にもなっている)のような容赦のなさ(と書くとヘンか)はない。これほどよく描いてくれている作品なのに上映をためらう空気があることがそもそもおかしいのだ。が、それが今の日本なのだが。

事実関係ならビックスに限らないが、こんな映画を観るよりはいくつも出ている研究書を読めばいいに決まっている。もっともだからといって、本当のことはなかなか見えてこないだろうが。

ソクーロフが描きたかったのは、神にさせられてしまった人間は一体どうふるまっていたのか、ということではないか。だから歴史的意味が大きいと思われる事柄であってもそれは大胆に省略し、神という名の人間の日常(むろん想像なんだが)を追うことに主眼を置いているのだろう。

映画は天皇の食事(フォークとナイフを使った洋食である)の場面からはじまるのだが、このあと沖縄戦の英語のニュースを聞いた天皇が、侍従長(佐野史郎)に「日本人は、私以外の人間はみんな死んでしまうのではないか」と話しかける。肯定も否定も畏れ多いことになってしまうことをさすがに侍従長はこころえているから「お上は天照大神の天孫であり、人間であるとは存じませぬ」と話をそらしてしまう。天皇は「私の体は君と同じ」と言うが、これ以上侍従長を困らせてもいけないと思ったのか、「冗談だ」と矛をおさめる。

続いて老僕(つじしんめい)により軍服に着替える場面。年老いた彼にとっても当然天皇は畏れ多い存在で、軍服の釦の多さに手こずり、禿頭に汗が噴き出ることになる。その汗を見ながら、汗の意味を計りかねている(楽しんでいる?)天皇。

まわりの人間がこうでは、天皇が「誰も私を愛してはいない。皇后と皇太子以外は」と嘆くのも無理はない。もっともこのセリフは当時としては日本的ではないような気がするし、西洋の神と違って戦前の天皇が愛の対象だったかどうかもまた別の問題ではある。

最初にふれた御前会議の次は、生物学研究所での天皇の様子だ。ヘイケガニの標本を前にして饒舌な天皇。そして、午睡で見る東京大空襲の悪夢。が、このあとはもうマッカーサー(ロバート・ドーソン)との会見を前にした場面へと飛んでしまう。

最初の会見こそぎこちないものだったが、カメラマンたちによる天皇撮影風景(これは有名なマッカーサーと一緒の写真でなく、庭で天皇ひとりを撮影するもの)などもあって、2度目の会見では、人間として話し行動することを「許されて」、それを楽しんでいるかのような天皇が描かれる。マッカーサーとの話はさすがに息の抜けないものになっているが、マッカーサーが席を外した時にテーブルのローソクを消したり、マッカーサーに葉巻を所望し、多分1度も経験したことのない方法(お互いに口にした葉巻でキスしあうだけのものだが)で火を付けてもらう……。

神でないことを自覚していた天皇だが、自ら宣言しなければ人間になれないことはわかっていたようで、疎開先から戻った皇后(桃井かおり)に「私はやりとげたよ。これで私たちは自由だ」とうれしそうに「人間宣言」の報告をする。ここでのやりとりは、互いに「あ、そう」を連発した楽しく微笑ましいものだ。

「あ、そう」は自分の意見を挟むことが許されず、とりあえず相手を認める手段(仕方のない時も含めて)として天皇が編み出した言葉なのだと思っていたので、こんな使われ方もあるのかとちょっとうれしくなってしまったくらいだ。

しかし、このあと天皇は、自分のした質問で「私の人間宣言を録音した若者」が自決したことを知ることになる。「でも止めたんだろ」と侍従長に訊くのだが、「いえ」という返事がかえってくるだけである。天皇は返す言葉が見つからないのか、皇后の手を引いて皇太子の待つ大広間へと向かう。

大東亜戦争終結ノ詔書の玉音放送の他に、人間宣言の録音があったとは。が、そのことより(最初に書いたように、映画は必ずしも事実に忠実であろうとはしていないから)ここで大切なのは、天皇が自分の人間宣言によって起こりうる事態を予想していたということではないだろうか。

これは、自分の下した決断がまた別の悲劇を起こさざるをえない、つまりはっきり神でない(これはわかってたのでした)ことを悟らざるをえない男の、しかし普通の人間にもなれず自由を手に入れることが出来なかった男の話なのだよ、と駄目押しで言っているのではないか。人間宣言をしても普通の人間になれなかったことは日本人なら誰でも知っていることだが、外国人にとってはこのくらい言い聞かせないとわかりにくいのかもしれない(でないとこの場面はよくわからない)。

しかし私としては、事実からは少し離れた人間としての天皇を考えるにしても、彼自身の運命のことよりも、天皇の目に大東亜戦争がどのように映っていたかが知りたいのだが。この映画の東京大空襲の悪夢が、悪夢ではあっても美しい悪夢であったように、天皇には本当の東京大空襲の姿は見えていなかったのではないか。会見に行く前に空襲の跡が生々しい街の様子が出てくるが、彼がそれを見たのは、もしかしたらその時がはじめてだったのではないか。

そのことで天皇の非をあげつらうつもりはない。でもそうであるのなら、やはり彼は孤独で悲しい人だったのだ。天皇制(象徴天皇制はさらに悪い)は、何より天皇の人間性を抹殺するものだからだ。

最後は雲におおわれた東京(という感じはしないが)を上空から捉えたもので、薄日の中に廃墟の街並が見え、右下には鳩が飛んでいる画面がエンドロールとなる。太陽はまだはっきりとは見えないということだろうか。

ロシア人の脚本に沿って、日本人が日本語で演じるというシステムがどう機能したのかは、あるいは構築していったのか(セリフも特殊用語だし)という興味もあって、語るにこと欠かない映画だが、何より、イッセー尾形の奇跡のような昭和天皇は、やはり感嘆せずにはいられない。

そして、出来ることなら日本人の手でもっと多くの天皇を扱った映画ができることを。

  

【メモ】

私が観た映画は英題表示(The Sun)のもの。

シネパトスのある三原橋は、銀座にしては昭和30年代の雰囲気がまだ残っている所。地球座や名画座時代であれば、防空壕の中というイメージで鑑賞できたはずだが、3年前の改装でずいぶん明るくなってしまった。もっとも地下鉄の騒音は消せるはずもなく、しっかり効果音の一部となっていた。そして、この映画にはそれがぴったりだったようだ。

「皆々を思うが故にこの戦争を止めることができない」

「ローマ法王は何故返事をくれないのかな」「手紙は止まっておりますよ」「ま、よかろう」

「神はこの堕落した世界では、日本語だけでお話しできるのです」

マッカーサーから送られたチョコレート。

極光についての問答。光そのものが疑わしいのです。

「闇に包まれた国民の前に太陽はやってくるだろうか」

原題:The Sun(Solnise/le Soleil)

2005年 115分 ロシア/イタリア/フランス/スイス 配給:スローラーナー サイズ:■ 日本語字幕:田中武人

監督・撮影監督:アレクサンドル・ソクーロフ 脚本:ユーリー・アラボフ 衣装デザイン:リディア・クルコワ 編集:セルゲイ・イワノフ 音楽:アンドレイ・シグレ
 
出演:イッセー尾形(昭和天皇)、佐野史郎(侍従長)、桃井かおり(香淳皇后)、つじしんめい(老僕)、ロバート・ドーソン(マッカーサー将軍)、田村泰二郎(研究所所長)、ゲオルギイ・ピツケラウリ(マッカーサー将軍の副官)、守田比呂也(鈴木貫太郎総理大臣)、西沢利明(米内光政海軍大臣)、六平直政(阿南惟幾陸軍大臣)、戸沢佑介(木戸幸一内大臣)、草薙幸二郎(東郷茂徳外務大臣)、津野哲郎(梅津美治郎陸軍大将)、阿部六郎(豊田貞次郎海軍大将)、灰地順(安倍源基内務大臣)、伊藤幸純(平沼騏一郎枢密院議長)、品川徹(迫水久常書記官長)

UDON

2006年09月03日 日曜日

新宿スカラ座1 ★

■主人公の思いつきに付き合ってはいられない

「ここに夢なんかない、うどんがあるだけや」という四国の香川から、コメディアンでBIGになってやろうとニューヨークへ渡った松井香助(ユースケサンタマリア)だが、現実は甘くなく、すごすごと故郷へ戻ってくるしかなかった。借金だらけの彼は、親友の鈴木庄助(トータス松本)の紹介もあって地元でタウン誌を発行している会社に就職することになる。

映画の語り手は宮川恭子(小西真奈美)で、香助とは偶然道に迷いうどんを啜りあっただけの関係だったが、ライターとして働くタウン誌の職場に、ある日香助がやってくるという寸法。ここで香助たちがはじめた讃岐うどんのコラムが注目を集め、ついに全国的なブームを巻き起こす。

ここまでは予想通りとはいえ、まあまあの展開。映画自体がタウン誌のコラム的構成になっていて、でもグルメに興味のない私でも楽しめた。まあ、讃岐うどんというハードルの低い食べ物だということもあるのだが。製麺所に器持参で、ネギはそこの畑にあるのを、となるとハードルが低すぎて、逆に畏れ多くて注文できなくなりそうだが、とにかくそういう話がこれでもかというくらいあり、評論家の「ブームには聖地が必要」というなるほど発言も挿入されていて、思わずにんまり。

が、ブームには終わりがある、と。発行部数を誇ったタウン誌も廃刊が決まり、仲間もそれぞれの道を探すことになる。

ブームの終わりにまで触れようとしているのか、これは並の成功物語というのでもないのだな、と思っていると……。話は一転、香助と実家の製麺所の頑固親父(木場勝己)との確執に移る。

香助にはニューヨークで失敗した弱みもあるし、その時の自分の借金を父が代わりに返してしまったことが面白くない。しかしこれはそんなに怒るようなことだろうか。父の返済で借金が消えたと思うことが甘いのであって、返済相手が代わったと思わなければ。とりあえずは父に感謝すべきだろう。母(の写真は笠置シズ子か?)の死因も父が原因と思っていて、これは姉(鈴木京香)にたしなめられる。

そんな状況の中、香助は意を決して、はじめて自分の気持ちを父に話し、製麺所を「継いでやってもいい。だから教えてくれないか」とまで言う(照れなのかもしれないが傲慢発言だ)。が、まさにその時、父は仕事場で倒れ、あっけなく死んでしまう。

このあと香助は、恭子や父のやり方を盗みしていたという義兄(小日向文世)の助けを借りて、父のうどんの味を出そうと奮戦するのだが、姉は「今さら勝手なことを」と、いい顔をしない。

カレンダーに付けた四十九日の印を、休業とは知らずに来た客が勘違いして、新規オープンの日と思い込むなんていう嘘っぽい話を織り込みながら、香助たちの試行錯誤は続き、ついに開店の日(!)を迎えることになる。

姉が同意しなかったのも無理はない、このあとこれが結末となるのだが、香助はまたニューヨークへ旅立つのだ。しかし、これはないだろう。死んでしまったとはいえ、父親に跡を継いでもいいとはっきり宣言したのだから。

前半のカタログ的部分はいいとしても、ドラマ部分は弱くダレを感じたのだが、原因は主人公に魅力がないからに他ならい。結末もそうだが、その時々の思いつきで行動しているようにしか見えないのだ。タウン誌の社員になったのも、讃岐うどんを取り上げたことも。それがたまたま成功してしまった場合はいいにしてもねー。そういえば恭子にも「俺、恭子ちゃんにはこの町にいてほしい」と言っておきながら、自分はまたニューヨークへ行くって?

このニューヨーク行きの結末は本当に腹が立つ。自分の実力のなさをいやと言うほど味わって帰国したのではなかったのか。親父のうどんの味を復活させたことと芸人になるというのはまったく違う話と思うのだが。やっぱりタクシー料金を先輩のくせして踏み倒すようなヤツなんだ、と虚しく納得。どういうつもりでこんなラストにしたのか監督に訊いてみたくなる。

義兄のように、心から麺が打ちたくて、それでもなかなか言い出せずにいる人間まで用意しているというのにさ。この映画では彼が1番いい感じなのだ。

で、さすがにこのままというわけにはいかないのだろう、くくりになるおまけが付く。恭子は念願の、それも『UDON』という本を出版。「これが彼女と彼の物語です」って。続いてニューヨークに彼女が着いて、香助が「キャプテンUDON」になって街角の大きなスクリーンに映っているという場面。お、成功したんだ。

でもなんか、つまらん。成功したんだから文句ないでしょ、みたいで。それに、どこが彼女と彼の物語だったのかな。タウン誌の取材や編集に一緒にうどん作り……でも、気持ちの部分は描かれてなかったよね。

  

【メモ】

香川県=日本で一番小さな県。

タイトルはUDONのNとうどんのんを1つの文字で表したもの。The Endもdとおわりのおを同じようにまとめたもの。The Endは無理があるが、最初のはなかなかだ。

ブームで忙しくなった店が、客の回転をよくするため、麺を細くして茹でる時間を減らしたという辛口批評も。すべてが讃岐うどんヨイショでもないのね。

宇高連絡船のうどんはおいしくないが、挨拶代わりのうどんなのだ(タウン誌編集長のミミタコ話)。

父親の死因は急性心筋梗塞。

香助は仏間で寝てしまい、幽霊になった父親と対面する。

うどん作りなのに恭子は長い髪を束ねもしない。

香助の妄想(最後は違うか)「キャプテンUDON」も2度ほど登場。

2006年 134分 シネスコサイズ

監督:本広克行 脚本:戸田山雅司 撮影:佐光朗 美術:相馬直樹 編集:田口拓也 音楽:渡辺俊幸

出演:ユースケ・サンタマリア(松井香助)、小西真奈美(宮川恭子)、トータス松本(鈴木庄介)、鈴木京香(姉・藤元万里)、升毅(大谷昌徳)、片桐仁(三島憲治郎)、要潤(青木和哉)、小日向文世(義兄・藤元良一)、木場勝己(父・松井拓富)、江守徹(評論家・綾部哲人)、二宮さよ子(馬渕嘉代)、明星真由美(淳子)、森崎博之(牧野)、中野英樹(中西)、永野宗典(水原宗典)、池松壮亮(水沢翔太)、ムロツヨシ(石松)、与座嘉秋(新美)、川岡大次郎 (小泉)

スーパーマン リターンズ

2006年09月03日 日曜日

新宿ミラノ1 ★★★☆

■問題を複雑にしすぎた5年

びっくりなのは、この映画が昔の4作の続編だということで、厳密には『スーパーマン』(1978)と『スーパーマン II 冒険篇』(1981)の最初の2作品の続きという位置づけになるらしい。最初の作品しか観ていないので、何故3、4作を無視するのかはわからないが、そうまでして25年後に続篇にすることはないだろうというのが正直な気持ち。

ま、いいんだけどね。ただ『冒険篇』の5年後ということは、舞台は今から20年前ってことになってしまうんだけどなー。

何故5年もの間不在にしていたかというあたりの説明が手抜きでわかりにくい(居場所探しって?)のだが、とにかくスーパーマン(ブランドン・ラウス)は地球に戻ってくる。

が、スーパーマンはどうでも、クラーク・ケントの5年ぶりの職場復帰は難しそうだ。でも、これは不可欠の要素だし、ロイス・レイン(ケイト・ボスワース)との絡みもなくすわけにはいかず、で、同僚のジミー・オルセン(サム・ハンティントン)がうまい具合に取りはからってくれて、とここは主要人物紹介も兼ねているからスムーズなのな。

その肝心のロイスだが、旦那になる予定のリチャード・ホワイト(ジェームズ・マースデン)という相手(編集長の甥なのだと)がいるだけでなく、子供までが……。ロイス念願のピューリッツァ賞は、スーパーマン不要論で授賞というあてつけがましさ(内容はスーパーマンに頼ってないで自立せよってなものらしいが)。

茫然としているクラークに、ロイスが取材で乗り込んでいる飛行機で、取り付けられたスペースシャトルが切り離せないまま着火(飛行機から発射されるようになっている)してしまうというニュースが飛び込んでくる。

この空中シーンは圧巻だ。事故機内部の描写(ロイスは痛い役)もふくめて、演出、編集ともに冴えわたったもので、スーパーマンの復活を十分すぎるほど印象付けてくれる。満員の観客が試合観戦中の野球場に、事故機を無事着陸させるという華々しいおまけまであって、野球場の観客ならずともこれには拍手せずにはいられない。

ただ全体としてみると、この場面が素晴らしすぎることが、皮肉にも後半の見せ場を霞ませてしまったことは否めない。ジョー=エル(昔の映像を編集したマーロン・ブランド)が息子に残したクリスタルの遺産を、レックス・ルーサー(ケヴィン・スペイシー)が利用して大西洋に新大陸をつくる(アメリカ大陸は沈没する)という、奇想天外で、だから現実味のないこけおどし的イメージが、恐怖感を生まないまま見せ物観戦的感覚で終わってしまうことになる。

第1作ではスーパーマンが地球を回転させて時間を戻すという禁じ手を使ってしまっていて、これは続篇を拒否しているようなもので、だから続篇でなく新シリーズにしてほしかったのだが、まあ、それは置いておくにしても、スーパーマンがスーパーすぎるからといって対抗策をエスカレートさせると、話が子供じみてしまうという見本だろうか。でもそうではなくって、最初の飛行機事故のような単純なものでも、見せ方次第では十分面白くなるはずなのだ。

もっとも今回は、ケヴィン・スペイシーには悪いが(存在感もあってよかったけどね)、1番の興味はロイスとの関係だ。5年も不在では(一言もなしに去ったというではないか)、新しい恋人ができてもロイスに罪はない(アメリカ社会ではよけい普通だろうから)。そうはいってもそれをそのままにスーパーマンと空を散歩するシーンをもってこられても、あまりに複雑な気分で、1作目の時のような空を飛ぶ楽しさは味わえないままだった。

リチャード・ホワイトがいいヤツだけに、これはロイスというよりはスーパーマンにもっとしっかりしてほしいところだ。なのに透視力や聴力を使ったストーカーまがいのことまでしているのではね。ロイスがこれを知って、まだ好きでいられるかしら。

私の妻は、ロイスは男を見る目があるという。なるほどリチャードの立派さは際だってるものな。が、ロイスはクラークを見ても何も感じないのだから、そうともいえない(私としては、できれば1作目で、ロイスにはスーパーマンではなくクラークに恋してほしかったのだが)。子供まで作っておいてそれはないような。これについてはスーパーマンにも一言いっておきたい。そんな関係になっていながら、まだクラークの正体を明かしていないなんて。ストーカー行為とともにこれは重大な裏切りだ、と。

ロイスの子供がスーパーマンとの間に出来た子だということがあとで判明して、なんだ、それを教えてくれていたら空の散歩ももっと楽しめたのに、とやっと胸をなでおろす。が、観客には説明できたかもしれないが、ロイスやリチャードに対しては?

それにしても5年の不在は問題を複雑にしすぎたとしかいいようがない。ルーサーの仮釈放もスーパーマンが証言に立たなかったからだっていうし。

子供にもスーパーマン的能力があることがわかって(ピアノを動かして悪人をやっつけたのは正当防衛だが、殺人をおかしたとなると)、しかしクリプトンナイトには平気……。こりゃ、スーパーマンの敵は、数作後は自分の子かぁ。むろん妄想。映画は父親から子供に静かに語りかけるという終わり方だったものね。あ、問題は山積みのままですよ。

今回、スーパーマンはクリプトンナイトをルーサーにいいように使われて、かなり痛めつけられる。リンチ状態。この演出はブライアン・シンガー好み? で、無敵なはずのスーパーマンが人間(ロイスとリチャード)に助けられるというわけだ。ロイスの「あなたを必要としている人がいる」(あれ、自分の著書を否定しちゃったぞ)という言葉にも勇気づけられて……。

でも途中でもふれたが、何しろ最後のスーパーマンの活躍は、岩盤を持ち上げて宇宙に持って行ってしまうというとんでもないものなのだが、もうハラハラもドキドキもないのよね。

  

【メモ】

クラークが投げたボールがあまりに遠くへ飛んでいってしまったため、犬が悲しそうな声を出すといういい場面がある。

ジョー=エルはすでに死んでいるとはいえ、息子以外の者に秘密を教えるのか。というか、あのクリスタルはそんなぼろいシステムなんだ。

ロイスは電力事故の調査にこだわってルーサーの船(老女を騙して遺産相続したもの)にたどり着くのだが、子供と一緒に軟禁されてしまう。

ロイスの子供の能力についてはピアノを動かしただけで、まだ謎。普段は気弱そうな男の子に見えるし。クリプトンナイトに平気なのは人間とのハーフだから?

注射針を受け付けないスーパーマンには医師団も困惑。入院にかけつけた人々の中にはマーサ・ケントの姿も。

エンドロールに「クリストファー・リーヴ夫妻に捧ぐ」と出る。

おまけ映像は、燃料切れで無人島に着陸したルーサーと愛人。「何も食べ物がない」というセリフのあとの視線は、愛人が抱きかかえている犬にむけられる。

原題:Superman Returns

2006年 154分 アメリカ サイズ:■ 日本語字幕:■

監督:ブライアン・シンガー 原案:ブライアン・シンガー、マイケル・ドハティ、ダン・ハリス 脚本:マイケル・ドハティ、ダン・ハリス 撮影:ニュートン・トーマス・サイジェル キャラクター原案:ジェリー・シーゲル、ジョー・シャスター 音楽:ジョン・オットマン テーマ音楽:ジョン・ウィリアムズ

出演:ブランドン・ラウス(スーパーマン/クラーク・ケント/カル=エル)、ケイト・ボスワース(ロイス・レイン)、ケヴィン・スペイシー(レックス・ルーサー)、ジェームズ・マースデン(リチャード・ホワイト/ロイスの婚約者)、フランク・ランジェラ(ペリー・ホワイト/「デイリー・プラネット」編集長)、サム・ハンティントン(ジミー・オルセン/ケントの同僚)、エヴァ・マリー・セイント(マーサ・ケント)、パーカー・ポージー(キティ・コワルスキー/ルーサーの愛人)、カル・ペン(スタン・フォード)、ステファン・ベンダー、マーロン・ブランド(ジョー、エル:アーカイヴ映像)

ラフ ROUGH

2006年09月09日 土曜日

テアトルダイヤ ★☆

■原作と比べたくはないが、ラフすぎる

家の和菓子屋が祖父の代からの商売敵という、大和圭介(速水もこみち)と二ノ宮亜美(長澤まさみ)の因縁の2人が、スポーツ特待生として栄泉高校の上鷺寮で出会うことになる。圭介は競泳、亜美は高飛び込みの選手。同じ寮とプールで毎日のように顔を合わせる中、反目から気になる存在へ。が、圭介には家の問題よりもずっと手強い仲西弘樹(阿部力)という相手が立ちふさがっていた。日本記録保持者で、昔から圭介のあこがれだった仲西は、亜美がおにいちゃんと慕う婚約者でもあったのだ。

『タッチ』に続くあだち充原作の映画化。話は単純だが、単行本で12巻となると、エピソードも多く、まとめるのはやはり大変だったのだろう。2人が実は幼なじみだった、という鍵を握るじいさんを脚本は抹殺している。それはともかく、2人の過去をペンダントにまつわる話だけで説明しているのは唐突で、映画だけという人にはわかりにくそうだ。

という感じでかたっぱしから原作と比較してしまうが、まあ仕方ない。でも『タッチ』もそうだったが、切り詰めながら寮長(渡辺えり子)の話などは増やしているし、伝統ある上鷺寮のデートも、原作にはあっても、ふくらませたもの。「歌謡喫茶チロルでまったり」(今時ないだろ)や次の映画館も閉館で、これはエンドロールの映像だから本編には関係ないにしてもその映画館には『海の若大将』のポスターが貼ってあったりするのだ。

一体この映画の時代設定は? ケータイも出てこないし、圭介はカセット(これは祖父の思い出とか言っていた)の愛用者。原作はもう20年以上も前になるのだから、これで正解なのだが、水泳大会は水着も含めて現代だし、伝統デート行事場面はおふざけにしてもねー。

それにここは亜美が圭介のよさを知る場面でもあるのに、それがないのでは惹かれ合っていくという過程がうやむやになってしまうではないか。

でも時代設定よりまずいのは、年月の移り変わりで、中3から高3までがまったく印象付けられずに進んでいってしまうことだ。映画でこの時期の移り変わりを描写するのは、俳優のことを考えただけでも大変なのはわかる。が、3度の日本選手権だけで年を意識させるしかないのは、あまりに芸がないだろうと用意した雪の場面などが、かえって浮いてしまっているのだ。青いプールが舞台だから、どうしても夏のイメージになってしまうのは仕方がないのだけどね。が、そのプールの描写は悪くない。清涼感を出すことにも一役かっている。

とはいえ、やはり圭介の成長物語なのだから、そこはどうにかしないと。海での人工呼吸事件のショックに続いて、仲西の交通事故。亜美は事故を自分のせいにしてその介護にかかりっきり。ライバルが不在の日本選手権では優勝するものの、目標を失った圭介は同級の緒方(石田卓也)から弱点を指摘されてしまう。この流れがうまく表現できていない気がするのだ。まあ、筋を知っている私に緊張感が欠けているということもあるかも。

そして、残念なのが仲西で、彼は亜美が尊敬してきたお兄ちゃんのようには描かれていない。選手生命が危ういほどの事故から快復したのはすごいことででも、リハビリ中の亜美への八つ当たりはフォローしておかないと。「事故はお前のせいじゃないと言うために、だから負けられない」だけじゃ弱くないかしらん。あだち充のマンガは、なによりフォローのマンガだからね。

速水もこみちの背が高すぎて、仲西が見劣りするのもマイナスだ。亜美の救助に向かう海の場面で、圭介が完全に飛び込んでから仲西がスタートするというのもダメ。ここは少し遅れくらいにしておきたかった。でないと仲西だけでなく、負けてしまった圭介にも気の毒というものだ。

最後の日本選手権のラストもマンガでは含みを持たせた終わり方だったのに、ここでははっきり圭介の勝利にしている。結果のでる前に亜美は思いを伝えたのだから、やはり蛇足かなー。出番の少なかった小柳かおり(市川由衣)にきっかけをつくらせていた(「ふたりはもう迷ってなんかいないのに」)のはよかったけどね。

あー、やっぱり原作との比較感想になっちゃったぃ!

【メモ】

幕開きは「君といつまでも」。

「あなたたちはラフ。これから何本も下書きを繰り返していくの。未完成こそあなたたちの武器」というセリフは教師から寮長のものになった。

「人殺し」のセリフは生身の人間が言うと、どっきりだ。

閉館の映画館名は「かもめ座」か。「うちわもめ座」だったりして。

「覚えているのは私だけ」「昔よく泣かされた。でもその子に急に会いたくなって、やっぱりまた泣いた」2人が昔を回想する場面でのセリフ。

エンドロール後の映像は第6回東宝シンデレラ用のもので、寮長の娘が入学する場面。「お母さん、見てこの制服」「あんたが1番似合うね。若い頃の私にそっくり!」。

2006年 106分 サイズ:■

監督:大谷健太郎 原作:あだち充 脚本:金子ありさ 撮影:北信康 美術:都築雄二 編集:今井剛 音楽:服部隆之
 
出演:長澤まさみ(二ノ宮亜美)、速水もこみち(大和圭介)、阿部力(仲西弘樹)、石田卓也(緒方剛)、高橋真唯(木下理恵子)、黒瀬真奈美(東海林緑)、市川由衣(小柳かおり)、八嶋智人、田丸麻紀、徳井優、松重豊、渡辺えり子

グエムル -漢江(ハンガン)の怪物-

2006年09月09日 土曜日

ヒューマックスシネマ4 ★★★★

■こいつは人間をぱくぱく食いやがる

謎の巨大生物に娘をさらわれた一家が、あてにならない政府に見切りをつけ怪物に立ち向かうという話。細部はボロボロながら映画的魅力に溢れた傑作。

ソウルを流れる漢江の河川敷で売店を営む父パク・ヒボン(ピョン・ヒボン)と長男のカンドゥ(ソン・ガンホ)は、長女ナムジュ(ペ・ドゥナ)のアーチェリーの試合をカンドゥの中学生の娘ヒョンソ(コ・アソン)と一緒にテレビで見ながら店番をしていた。川原では人々がのんびりくつろいでいたが、すぐそばのジャムシル大橋の下に、見たこともない奇妙で大きな生き物がぶら下がっていて、人だかりが出来はじめていた。

と、突然、それがくるりと回転して水に入ったかと思うと、すぐ岸に上がってきて猛然と見物客に襲いかかり、ぱくぱく(まさにこんな感じ)と食べ出したのだ。混乱する人々と一緒になって逃げまどう中、カンドゥは握っていたヒョンソの手を放してしまう。必死でヒョンソを探すカンドゥだが、怪物はヒョンソを尻尾で捉え、対岸(中州?)に連れて行き飲み込み、川の中へと姿を消す。

2000年に米軍基地がホルマリンを漢江に流したことや、それからだいぶたって釣り人が川の中でヘンな生き物を見たという予告映像はあったのだが、カンドゥが客のスルメの足を1本くすねてしまうというような、岸辺ののんびりした場面が続いていたので、こちらも弛緩していたようだ。だから、この、まだ形も大きさもその獰猛さもわからぬ(もちろんそういう情報は人間が次々に餌食になることで、どんどんわかってくる。出し惜しみなどせず、真っ昼間に少なくとも外観だけは一気に見せてしまうという新趣向だ)怪物の大暴れシーンには、すっかり度肝を抜かれてしまったのだった。

怪物の造型(ナマズに強力な前足が付いたような外形。もしかしてあれは後ろ足か)も見事なら、それを捉えたカメラの距離感が絶妙だ。怪獣の驚異的なスピードばかりを強調するのでなく、足をすべらせるところを挿入するのも忘れない。このリアルさがすごい迫力になっているのだ。巨大怪獣を遠くに置いて、逃げる人々を十把一絡げに映すという旧来の日本型怪獣映画ではなく、怪物に今にも食われてしまいそうな位置にいることの臨場感。細かく書くとキリがないので少しでとどめておくが、あっけにとられて逃げることを一瞬忘れている人を配したりと、逃げる人間の描写も手がこんでいる。

ただ展開はいささか強引だ。韓国政府は、怪物には感染者を死に至らしめるウィルスがいる(宿主)として、パク一家や川岸にいた人たちに隔離政策をとる。治療をうけるカンドゥの携帯に、死んだはずのヒョンソから助けを求める電話が入る。怪物はいっぺんに食べていたのではなく、人間がコンクリで造った巨大な溝のような場所を巣にしていて、そこに戻っては口から捕獲した獲物を吐き出して保管していたのだ(あとで大量の骨だけを吐き出す場面もある)。一命をとりとめたヒョンソは、死体となった人の携帯を使って連絡してきたのだが、携帯の状態が悪く状況がはっきりしないまま切れてしまう。

ヒョンソが生きているという話に誰も耳を貸そうとしないため、ナムジュと次男のナミル(パク・ヘイル)が戻ったパク一家のヒョンソ奪還作戦が開始されるのだが、政府や医師たちのたよりなさったらない。米軍の言いなりなのは似たような事情がある日本人としては複雑な心境だが、そのことより政府に怪獣をまったくやっつける気がないのだからどうかしている。

途中でウィルスはなかったというふざけたオチがつくのに、米軍とWHOがヘンな機械を投入してワクチンガスをばらまくというのもわけがわからない。それにこれも怪物でなく、ウィルスを壊滅させるのが目的って、おかしくないか!

怪物がいるというのに付近ではワクチンガスに反対する反米デモは起こるし、すべてがハチャメチャといった感じである。VFXは自前にこだわらずにハリウッドに委託したというが、それでいてこの反米ぶり(米軍人ドナルド下士官がカンドゥと一緒に怪物に立ち向かうという活躍はあったが)は、設定はいい加減でも態度ははっきりしている。

パク一家は全財産をはたいてヤクザか地下組織のようなところから武器を調達。カンドゥは捕まって一旦は連れ戻されてしまうのだが、細切れに寝る体質のため麻酔は効かないし、手術(脳からウィルスを検出しようとしただけ?)をされても一向に平気というこれまた馬鹿げた設定で、またしてもそこから逃げ出すことに成功する。

ヒョンソは溝にある狭い排水口に身を隠していたが、怪物の吐き出した新しい獲物の中に生きた少年を発見し、彼を助ける決意をする。この時のヒョンソの決意の眼差しがよく、画面を引き締めるが、怪物にはすべてがお見通しだったという憎らしい場面があって、それは成就できずに終わる。弾薬が尽きていたことで迎えるヒボンの死もそうだが、ポン・ジュノはきっとへそ曲がりで、予定調和路線にはことごとく反旗を翻したいのだろう。

クライマックスではナムジュの弓にナミルの火炎瓶も加わっての死闘になる。怪物が何故かワクチンガスにひるむ場面もあるが、最後まで軍隊は姿を見せないし、一貫して反政府に反米。ホームレスやデモ隊は協力者で、そもそもパク一家は下層民という位置付けだから、怪物映画という部分を捨てたら(そりゃないか)昔なら革命高揚映画といった趣さえある。

ともかく怪物は葬り去った。ヒボンの死だけでなく、目的だったヒョンソも救えなかったにしても。これも普通の物語の常識を破っている。けど、カンドゥは少年を得るではないか。映画は、ダメ家族の愛と結束を描きながら、血縁を超えた新しい愛の形を当たり前のように受け入れているのである。カタルシスからは遠いものになったが、ポン・ジュノはこの素晴らしいメッセージを選んだのだ。

最後に、カンドゥと少年が食事をしている売店が、夜の雪の中に映し出される。2人の打ち解けた会話のあとのそれは、街灯と売店の明かりで、暖かみのある絵になった。雪が静かに降ったまま終わりになるかにみえたが、最後の最後に聞こえたのは、まさか怪物の咆哮ではあるまいね。

形に囚われず、勢いのままに描いたようなこの映画にはびっくりさせられたが、こうやって書き出してみると、あきれるような筋立てばかりで笑ってしまうほかない。いや、でもホントに面白くて興奮した。そして最後が気になる……。

【メモ】

2000年2月9日。ヨンサン米軍基地の遺体安置質。ホルマリンを漢江に流すように命ずる軍医?(「漢江はとても広い。心を広く持とう」)。2002年6月。釣り人がヘンな生き物をカップですくう(「突然変異かな」)が、逃げられてしまう。2002年10月。「お前ら見たか。大きくて、黒いものが水の中に……」。(映画ではこんな説明だ)

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2000/07/14/20000714000012.html
事件については日にちまでしっかり同じ。はっきりとした抗議映画だということがわかる。それにしても不法投棄した本人が、韓国で有罪判決を受けながら米国に帰国してしまったとはねー。

ヒョンソだけが何故食われずにいたのかという疑問もあるが、ヒョンソが逃げようとしていることを察知した怪物が、ヒョンソを優しく捕まえてそっと下ろすという場面が、それを説明しているようにも思える。この怪物にキングコングのような心があるとは到底思えないのだが……。

最後の食事の場面で、壁にはパク一家が指名手配された時の写真が額に入って飾られている。カンドゥは金髪はやめたようだ。

原題:・エ・シ(怪物) 英題:The Host

2006年 120分 ビスタサイズ 韓国 日本語字幕:根本理恵

監督:ポン・ジュノ 原案:ポン・ジュノ 脚本:ポン・ジュノ、ハ・ジョンウォン、パク・チョルヒョン 撮影:キム・ヒョング 視覚効果:オーファネージ 美術:リュ・ソンヒ 編集: キム・サンミン 音楽: イ・ビョンウ VFXスーパーバイザー:ケヴィン・ラファティ

出演:ソン・ガンホ(パク・カンドゥ)、ピョン・ヒボン(パク・ヒボン)、パク・ヘイル(パク・ナミル)、ペ・ドゥナ(パク・ナムジュ)、コ・アソン(パク・ヒョンソ)、イ・ジェウン(セジン)、イ・ドンホ(セジュ)、ヨン・ジェムン(ホームレスの男)、キム・レハ(黄色い服の男)、パク・ノシク(影/私立探偵)、イム・ピルソン(ナミルの同級生)

マイアミ・バイス

2006年09月10日 日曜日

TOHOシネマズ錦糸町-6 ★★☆

■恋は17歳の時からの唯一の世界をも奪う

80年代の同名TVシリーズの映画化。マイケル・マンはTVシリーズの製作総指揮を務めていたという。

ソニー・クロケット(コリン・ファレル)とリカルド・タブス(ジェイミー・フォックス)は、マイアミ警察特捜課(バイス)の刑事だが、彼らの使っている情報屋が家族を殺されたことで自殺してしまうという事件が起きる。囮捜査をしていたFBIの潜入捜査官も殺されたことから、合衆国司法機関による合同捜査に情報漏洩の疑いがもたれる。FBIのフジマ(キアラン・ハインズ)から、合同捜査とは無関係な郡警察に潜入捜査の打診が入り、上司のカステロ(バリー・シャバカ・ヘンリー)は反対するが、ふたりはその任務を引き受ける。

潜入までの経緯を一気に説明するのだが、これがわかりづらい。TVを観ていない者には、クロケットとタブスの関係すらよくわかっていないというのに。潜入捜査で相棒になるくらいだから、相当信頼関係がないとやっていけないと思うのだ。だからふたりのエピソードはもっとあってもいいと思うのだが。タイプの違うふたりという設定を、女性との接し方だけで強調されてもなーという感じ。特にクロケットの方は、まあ刑事としては優秀なのかもしれないが、どうもこれといった特徴がないという印象だ。

なのに黒幕のボスモントーヤ(ルイス・トサル)の女イザベラ(コン・リー)と恋に落ちてしまうのだから……って別に妬いているわけではないが。

ボスの女と書いたが、彼女に言わせると「私はビジネスウーマン」なのだそうだ。とはいえモントーヤの命令は絶対だから、その相手もしないわけにはいかない。しかもその場面の直前に、イザベラはモントーヤに、クロケットとはハバナで寝たと報告しているのだ。イザベラと同格かそれより上の地位と思われるホセ・イエロ(ジョン・オーティス)にも何やらイザベラに対する複雑な感情があるようで、クロケットとイザベラのダンスシーンにただならぬものを感じて涙目になる場面があるのだが(イエロはこの時点でクロケットとタブスを相当疑っている)、それ以上のことはわからず仕舞いだ。

このあたりをもう少し丁寧に描けばかなり面白いものが出来そうなのに、映画はクロケットとイザベラのベッドシーンを長々と見せるのだけだから能がない。そのイザベラの描き方も中途半端で、中国系なのにハバナに親戚があると言っていたからその説明もしてほしいし(簡単な説明でもあれば逆に組織の大きさを強調できそうではないか)、「私は17歳の時からの唯一の世界を失うのよ」というセリフだってもっと効果のあるものにできたはずなのだ。

最後の大がかりな銃撃戦では女捜査官ジーナ(エリザベス・ロドリゲス)の活躍ぶりが際だっているから、マイケル・マンは女性を描くのが苦手というのではなく、恋物語が苦手なのだろう。

都合で潜入捜査の模様を後回しにしてしまったが、これはじっくり見せてくれて、緊張させられた。お互いの探り合いにはじまって、腕試しの運びから、だんだんと大掛かりな運びへ。相手はさすがに用心深く少しずつしか仕事をくれない。ここでは観ている方までじりじりとした気分にさせられる。が、駆け引きの間に入る運びの場面では、船や飛行機を使った爽快さも挟んでと、うまい演出だ。

ただ、情報屋を殺った相手は始末するものの、結局モントーヤは逃がしてしまうし(イグアスの滝のアジトも空っぽ)、内部から情報を流していた犯人も特定できないままだから、不満が残る。どころか、タブスの恋人トルーディ(ナオミ・ハリス)が誘拐されてしまうような不完全な潜入のやり方って甘くないだろうか(恋人が割れてしまうくらいなら本人の素性などわけないだろう)。このことでトルーディは大怪我を負ってしまうし、クロケットはイザベラをハバナへ逃がして助けたつもりになっているが、敵の組織力や規模を考えたらお気楽すぎる。

事件を完全に解決しなかったのは、もしかしたらヒット次第では続編というのが頭にあるのかもしれないが、それはともかくとしても、今の状況はクロケットとタブスの潜入捜査前よりも悪くなっているとしか思えないのだが……。

『マイアミ・バイス』は、とにかく夜の場面の多い映画だった。高速ボートが疾走する場面まで夜だったりする。高感度カメラを使用しているらしいが、それほど粗い感じはなく、明かりに彩られた夜景は艶めかしい殺気をはらんでいた。

  

【メモ】

マイアミは観光地のイメージだが、この映画では中南米と北米を結ぶ密輸の中継地として国際犯罪組織の温床になっているという面が強調されている。

クロケットだけでなくタブスのベッドシーンもちゃんとある。

ふたりは高速ボートやジェット機の操縦まで何でもこなす。007並のスーパーデカなのだ。

タブスはトルーディの件については相当反省していたが、となると続編は無し?

原題:Miami Vice

2006年 132分 アメリカ シネマスコープ 日本語字幕:菊池浩司

監督・脚本:マイケル・マン オリジナル脚本:アンソニー・ヤーコヴィック 撮影:ディオン・ビーブ 編集:ウィリアム・ゴールデンバーグ、ポール・ルベル 音楽:ジョン・マーフィ
 
出演:コリン・ファレル(ソニー・クロケット)、ジェイミー・フォックス(リカルド・タブス)、コン・リー(イザベラ)、ナオミ・ハリス(トルーディ・ジョプリン)、エリザベス・ロドリゲス(ジーナ)、ジョン・オーティス(ホセ・イエロ)、ルイス・トサル(モントーヤ)、バリー・シャバカ・ヘンリー(マーティン・カステロ)、 ジャスティン・セロー(ラリー・ジート)、ドメニク・ランバルドッツィ(スタン・スワイテク)、キアラン・ハインズ(フジマ)、ジョン・ホークス(アロンゾ)、エディ・マーサン(ニコラス)

ゲド戦記

2006年09月10日 日曜日

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★

■不死は生を失うこと

ル=グウィンの『ゲド戦記』映画化。宮崎駿監督の息子、宮崎吾朗が監督になるという時点で、すでに喧々囂々状態になったらしいが、熱心なアニメファンではないので詳しいことは知らない。今だにジブリらしさがどうのこうのという話で持ち切りになっているようだが、原作も未読の私としては単純に映画として判断する以外ない。

で、映画としてはやっぱりダメかも。

かつて龍は風と火を選び自由を求め、人間は大地と海を選んだという。その人間の世界には現れないはずの龍の食い合う姿が目撃される。世界の均衡が弱まって、家畜や乳児の死亡が増え、干ばつが起こり、民が苦しんでいるのを心配する国王。そんな大事な時に17歳の王子アレンは父を殺し、逃げるように旅に出る。行くあてのないアレンは、異変の原因を探すハイタカ(大賢人ゲド)と出会い、農民が土地を捨てた風景の中を共に旅をすることになる。

やがてホートタウンというにぎやかな港街に着くが、ここでは人間も奴隷という商品であり、麻薬がはびこっていた。ハエタカはこの街のはずれにあるテナーという昔なじみの家にアレンと身を寄せるのだが、そこには親に捨てられた少女テルーが同居していた。アレンは彼女に「命を大切にしないヤツは大嫌いだ」と言われてしまう。

この街でハイタカは、世界の均衡が崩れつつある原因がクモという魔法使いの仕業であることを突き止める。クモは永遠の命を手に入れることとハイタカへの復讐心に燃えていて、心に闇を背負ったアレンの力を借りてそれを成し遂げようとしていた。

あらすじならこうやってなんとか追えるのだが、とにかくわからないことが多すぎる。龍? 龍と人間との関係? アレンの父殺しの理由? アレンの影? 魔法で鍛えられた剣? その剣が抜けるようになったのは? 真の名がもつ意味? ハイタカとクモの関係? 生死を分かつ扉? テルーが龍に? だから死なない?

ハイタカの過去やテナーとの関係など、深くは触れないでも推測でとりあえずは十分なものももちろんある。が、とはいえこれだけの疑問がそのままというのではあんまりだ。ましてやファンタジー特有の魔法がときおり顔をのぞかせて、ご都合主義を演出するのだからたまらない。それにこの欠点は、脚本の段階で明らかだったはずなのだ。

しかし、これが不思議なのだが、命の大切さを繰り返すテーマは意外にもくっきりと心に響く。クモが求める永遠の命に、不死は生を失うことだと明確に答えているからということもあるが、ハイタカ、アレン、テナー、テルーの4人が作る疑似家族による共同作業がしっかりと描かれていることも関係しているように思うのだ。生きて死んでいくための基本的なものが、単純な営みの中に沢山あることをあらためて教えてくれるこの描写は、最後の別れの前でも繰り返される。

テルーの歌にアレンが聴き入る場面も心に残る。この歌のあとアレンの気持ちの張りが弛んでテルーに「どうして父を殺してここまで来たのか……ときどき自分が抑えられなくなるほど凶暴に……」と自分の過去を語るのだが、ここは実際そんな気分になる。もっともアレンはそのあと自分の影に怯えて去ってしまうのだが。

それと、テーマが響いてくるのは、やはり原作の力なのだろうか。「疫病は世界の均衡を保とうとするものだが、今起こっていることは、均衡を破ろうとしているもの」「人間は人間ですら支配する力がある」「世界の均衡などとっくに壊れているではないか。永遠の命を手に入れてやる」といった言葉には魅力を感じる。これが原作のものかどうかはわからないのだが。ただ前にも書いたように、筋はわかっても全体像が見えにくいため、これらの言葉が遊離して聞こえてしまう恨みがある。

ところで、どうでもいいことだが親殺しという設定は、宮崎駿と宮崎吾朗との関係を連想させる。偉大で尊敬すべき父に、どうしてもそれと対比してしまう自分の卑小さ。というのは野次馬的推測だが、映画には親殺しをしてまでもという気概などまるでなく、絵柄も含めて(ファンから見たら違うのかも知れないが)すべてが宮崎駿作品を踏襲しているようにみえる。

だからいけないとは言わないけどさ、でもアレンの親殺しはあまりに重くて、彼の更生物語というわりきりは、私には受け入れがたいものがある。命の大切さを本当にアレンが知ったのなら、最後に「僕はつぐないのために国へ帰るよ」とテルーに言ったりできるだろうか、と思ってしまうのだ。親殺しをしておいて、それじゃああまりに健全でちょっと立派すぎでしょう。「あなたはつぐないをするために国へ帰らなければ。私も一緒に行くから」とテルーにうながされるのならね。って、まあ、これは別の意味で甘いんだけどさ。

  
2006年 115分 サイズ:■

監督:宮崎吾朗 プロデューサー:鈴木敏夫 原作:アーシュラ・K・ル=グウィン『ゲド戦記』シリーズ 原案:宮崎駿『シュナの旅』 脚本:宮崎吾朗、丹羽圭子 美術監督:武重洋二 音楽:寺嶋民哉 主題歌・挿入歌:手嶌葵 デジタル作画監督:片塰満則 映像演出:奥井敦 効果:笠松広司 作画演出:山下明彦 作画監督:稲村武志 制作:スタジオジブリ

声の出演:岡田准一(アレン)、手嶌葵(テルー)、菅原文太(ゲド)、風吹ジュン(テナー)、田中裕子(クモ)、香川照之(ウサギ)、小林薫(国王)、夏川結衣(王妃)、内藤剛志(ハジア売り)、倍賞美津子(女主人)

バックダンサーズ!

2006年09月16日 土曜日

2006/9/16 新宿ミラノ2 ★★

■くどいのは過剰な言葉だけじゃなくて

『東京フレンズ The Movie』に続いての永山耕三作品(公開時期が重なるが、本作品が第1作)は、少女たちの夢を描いていることもあって雰囲気は似ている。が、4人のダンスがしたいという想いが同じだからか、こちらの方がまとまりはいい(ヘンな設定もないしね)。

クラブ通いがばれて高校を退学になったよしか(hiro)と美羽(平山あや)だが、同じダンス好きの樹里(長谷部優)に誘われてストリート(ムーンダンスクラブ)で踊り始める。樹里のスカウトで、よしかと美羽も巴(ソニン)と愛子(サエコ)を入れたバックダンサーとしてデビュー。あっという間に樹里がアイドルとして人気を集めたから「ジュリ&バックダンサーズ」は人気絶頂となる。

が、樹里は恋愛に走って突然の引退宣言。単なる付属物だった4人は事務所にとってもお荷物的存在で、担当も茶野(田中圭)という新米マネージャーに格下げに。それぞれ事情を抱えた4人は、目的を見失ってバラバラになりかける。

茶野は彼のもう1つの担当である時代遅れのロックバンド『スチール・クレイジー』との共同ライブを企画するが、所詮は旅回りにすぎず、樹里が帰ってくるまでの場繋ぎなのがみえみえ。でもそんな中、よしかとスチクレの48歳のボーカル丈太郎は、彼の昔の曲で盛り上がり(丈太郎の住まいであるトレーラーハウスで歌う場面はいい感じだ)なにやら怪しい雰囲気に……と、これは親子だったというオチがあって、同行していたよしかに気のあるDJケン(北村有起哉)は胸をなで下ろす。

美羽と茶野がいい雰囲気になったり(雪の中のキスシーン)、巴が実は子持ちで、ダンスシーンを見た子供に励まされるというようなことがあって、少しは頑張る気分になってきた4人だが、ライバルの後輩ユニットが売れてきた事務所からは、あっさり解散を言い渡されてしまう。

またしても窮地の4人。仲間内の不満も爆発する。よしかと美羽の喧嘩から仲直りまではなかなかの見せ場だ。それぞれの道を行くかにみえたが、ムーンダンスクラブになんとなく集まってきて「このままじゃくやしい」と茶野やDJケンまでけしかけてダンスコンテストというゲリラライブ企画が実現することになる。

喧嘩から仲直りの見せ場もそうだが、美羽と茶野が惹かれあうのも「最後まで面倒を見る」という言葉に美羽が小さい時に飼っていたウサギを持ち出すなど、沢山ある挿話はどれも丁寧でそこそこまとまっているのだが、全部がそこまでという印象なのは何故だろう。

例えば「かっこよくなりたいから」というのは、4人にとっててらいも背伸びもしていない言葉だとおもうのだが、それが何度も繰り返されるとくどくなる。「面倒をみる」「先が見えない」「上がり」「くやしい」という言葉についても同じ。過剰な言葉が映画を台無しにしているのだ。

2010年の冬に始まって、2002年の秋から2006年の冬、そしてまた2010年という構成もあまり意味があるとも思えない。成功物語なのは前提とはいえ、最初から4人が伝説の存在になっていることをわざわざ示す必要はないだろう。で、最後にまた最初の場面が繰り返されると、言葉の反復だけでないくどさを味合わされた気分なのだ。

  

【メモ】

駐車場の空き地がムーンダンスクラブ。

「恋愛に走って本当に戻って来なかったのは山口百恵だけ」

鈴木丈太郎のロックグループの名前は『スチール・クレイジー』。これは映画『スティル・クレイジー』(98)のもじりか。

幻の名曲があり次のアルバムもできていたのだが、かみさんが出ていって封印。

よしかの母親の花屋は、大森銀座でロケ。丈太郎は花屋に花を持って元女房を訪ねてくる。

「何でも自分のせいにしてうじうじしているあんたが嫌い」と美羽をなじるhiroだが、ムーンダンスクラブで美羽を見つけると「私、美羽のために戻ったんじゃないんだよ。私が美羽といたかったから戻ったんだよ。美羽、ここにいてくれてありがとう」と言う。

物語だけでなく映画のスポンサーでもあるのか、サマンサタバサの社長(本人かどうかは?)が登場。

2006年 117分 ビスタサイズ

監督:永山耕三 脚本:永山耕三、衛藤凛 撮影:小倉和彦  美術:稲垣尚夫 編集:宮島竜治 音楽:Sin 音楽プロデューサー:永山耕三 ダンス監修:松澤いずみ/IZUMI
 
出演:hiro(佐伯よしか)、平山あや(新井美羽)、ソニン(大澤巴)、サエコ(永倉愛子)、田中圭(茶野明)、北村有起哉(DJケン)陣内孝則(鈴木丈太郎)、長谷部優(長部樹里)、 つのだ☆ひろ(ロジャー)、甲本雅裕(高橋修)、鈴木一真(セイジ)、舞(如月真由)、梶原善(磯部元)、浅野和之(小西部長)、木村佳乃(美浜礼子)、真木蔵人(テル)、豊原功補(滝川)、石野真子(佐伯なおみ)

LOFT ロフト

2006年09月16日 土曜日

テアトル新宿 ★

■全部が妄想って、そりゃないよね

春名礼子(中谷美紀)は芥川賞作家だが、編集者の木島(西島秀俊)からは通俗的な恋愛小説を要求されている。が、スランプ中だし体調も思わしくない。泥のようなものを吐くが医者はなんともないと言うし、自分でも幻覚かなどと達観している。引っ越しでもして気分転換を図ろうかと思っていると木島に相談すると、彼はぴったりの場所を探してきた。

使われることがあるのかと思われる不思議な建物がそばにあるだけの、緑の中の静かな屋敷。すっかり気分がよくなった礼子だが、前の住人が残していった荷物の中に小説らしい原稿を見つけ、建物に不審な人物が出入りしているのを見る。

調べてみると、建物は相模大学の研修所で、男は吉岡誠(豊川悦司)という大学教授だった。彼は沼から引き上げた1000年前のミイラを、何故か研修所に持ち込んでいて、研究生が研修所を使う2、3日の間、礼子にそのミイラを預かってほしいと言ってくる。

木島の礼子に対するストーカーまがいの行動から、水上亜矢(安達祐実)という、やはり作家志望の女性がここに住んでいたことが判明(木島に弄ばれたらしい)するのだが、このあたりから少しずつ混乱が始まって、何がなんだかわからなくなってくる。礼子と吉岡の恋もえらく唐突な感じで、吉岡は亜矢を殺したと言っているのに、そのあとあっさり礼子と吉岡が絶対的関係になっているのでは(この芝居は大げさだ)、感情移入以前の段階でついていけなくなってしまう。

亜矢を殺した原因も「ちょっとした混乱が……彼女はよくわからないやり方ですっと僕の中に入ってきた」そして「僕の科学者としての立場を突き崩した」ので、口を塞ごうとして……というもの。こういうことはあるだろう。でもここでの説明にはなっていないと思うのだ。

だいたい礼子が最初に泥を吐くことからしてずるい。ミイラを預かってからそういう現象が起きるのならまだわかるのだが。私がずるいと思うのが間違いというのなら、礼子とミイラの関係だけでも説明してほしいものだ。そう思うと、どこもごまかしで満ちているような気がしてならない。ミイラと亜矢の幽霊という2本立てがそうだし。夢の映像は2ヶ所だったと思うが、それだってはっきり断っていないのが他にもあるのだとしたら……。

わかりにくい映画だからと切って捨てるつもりはないが、少なくともわかりたくなるように仕向けるのが監督の仕事のはずだ。もう1度観れば少しは氷解するのかもしれないが、その気が起きないのでは話にならない。

編集者と女流作家に絞って、出てきた原稿から秘密が解き明かされていくというような、ありがちではあるけれど、そんな単純な話の方がずっと怖かったと思うのだ。画面に集中出来ないこともあって、嘘くさいミイラにメスを突き刺す豊川悦司が気の毒になってくる。最後もしかり。「全部妄想だったのか」と大げさに言わせておいて『太陽がいっぱい』と同じどんでん返し……これはコメディだったのか、と突っ込みたくなってしまうのだな。

でもくどいのだが、亜矢のことでミイラに取り憑かれた吉岡というのならまだわかる。でも礼子の方はねー(実は最初は吉岡のことの方がわからなかったのだが)。あと、これはそのこととは関係ないが、礼子と吉岡の救う立場が最初と最後では逆転しているというのが面白い。

【メモ】

袋に入っていた原稿の題名は『愛しい人』。これは原稿用紙に書かれたものだが、礼子はワープロで書く。礼子はこの『愛しい人』を流用していたが? そういえば完成した原稿を、木島は傑作に決まっているからまだ読んでいないとか言っていた。

大学のものなのか、大きな消却施設がある。

建物と男に興味を持った礼子は、昭和初期のミイラの記録映画の存在を知り、教育映画社の村上(加藤晴彦)を友人の野々村めぐみ(鈴木砂羽)と共に訪ねる。

映っていたのはミドリ沼のミイラをコマ落としで撮った短い(実際は3日?)もの。「何を監視していたんだろう」。結局この件はこれっきり。

腐敗を止めるために泥を飲む?

亜矢の件は捜索願が出ていて、めぐみは殺人事件だと思うと礼子に報告する。

エンドロールは部分的に字がずれるもの(FLASH的に)。

2005年 115分 サイズ:■

監督・脚本:黒沢清 撮影:芦澤明子 美術:松本知恵 編集:大永昌弘 音楽:ゲイリー芦屋 VFXスーパーバイザー:浅野秀二

出演:中谷美紀(春名礼子)、豊川悦司(吉岡誠)、西島秀俊(木島幸一)、安達祐実 (水上亜矢)、鈴木砂羽(野々村めぐみ)、加藤晴彦(村上)、大杉漣(日野)

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