RENT レント
2006年07月01日 土曜日
銀座テアトルシネマ ★★
■歌詞レベルの深みのないミュージカル
場面を限った力強い予告篇(「Seasons of Love」が歌われるシーン)に訴えるものを感じたのだが、楽曲を単純に楽しむという点に絞ればともかく、本篇の中身はさっぱりだった。
「Seasons of Love」で52万5,600分-1年を何で数えるか?(Five hundred twenty-five thousand Six hundred minutes. How do you measure, measure a year?)という問いかけに、歌詞と同じように曖昧にしか答えていないのだ。昼、夕焼け、深夜、飲んだコーヒー、インチ、マイル、笑い、喧嘩(In daylights, in sunsets, in midnights In cups of coffee In inches, in miles, in laughter, in strife.)……なんじゃそりゃ。だいたい欧米の曲の歌詞は単純なものが多い(?)し、そんなことを言ってもはじまらないのだけど、映画にするのであれば、そこはもう少し掘り下げてくれなきゃ。
家賃(Rent)が払えないのに芸術家きどりでいるロジャー(アダム・パスカル)とマーク(アンソニー・ラップ)をはじめてとして、その恋人や仲間が何とも子供っぽい。マークはドキュメンタリー映像作家を目指しているから8ミリ撮影なのだろうが、家賃に優先させている神経がね。もっともこれは後に、フィルムがテレビ局に売れることになるのだが……。
店の迷惑などおかまいなしに騒ぎまくるなんていうのは、はじめにミュージカルシーンありきと考えれば些細なことと見逃せるが、ロジャーとミミ(ロザリオ・ドーソン)の恋の行く末などはなんとも危なっかしい。エイズであることが屈折した心境になっているにしてもね。昔の男ベニー(テイ・ディグス)とよりを戻したり、ドラッグに走ったり……。マークの元を去ってレズ同士で結婚したモーリーン(イディナ・メンゼル)とジョアンヌ(トレイシー・トムス)のカップルもしかり。結婚式でもう喧嘩ではね。
いろいろなことが起こるのだけど、すべてが歌詞レベル。好きになって、別れて、でも忘れられなくて……。場面と楽曲が替わるように上っ面な言葉だけで切り替えられても困るのだ。
少ししゃんとしているのはドラッグクイーンエンジェル(ウィルソン・ジェレマイン・ヘレディア)とコリンズ(ジェシー・L.マーティン)くらいのものか。が、これもエンジェルに金銭的余裕があるからという、うがった見方もできるのだけどね。
物語の設定が89.12.24から90.12.24だから、今から観ると若者の悩みというにはなんとなく古めかしいものがある。またキャストの多くがトニー賞受賞(96年)のオリジナルメンバーということもあるだろうか。舞台ならともかく映画では年齢詐称はちょっときついから、ついやっていることが子供っぽいという感想になってしまうのだ。
でもそういうことではなく、そもそもミュージカルに深刻な話はやはり似合わない気がするのだ。空腹なのに声を張り上げるのはまだしも、生死の場面ではその歌唱力が邪魔くさいものに思えてしまうから。モーリーンのベニーが進める立ち退き計画に対する抗議ライブなどは、よかったものね。
原題:Rent
2005年 135分 アメリカ 日本語版字幕:■
監督:クリス・コロンバス/脚本:スティーヴン・チョボスキー/台本・作詞・作曲:ジョナサン・ラーソン/振付:キース・ヤング
出演:ロザリオ・ドーソン、テイ・ディグス、ジェシー・L・マーティン、イディナ・メンゼル、アダム・パスカル、アンソニー・ラップ、ウィルソン・ジェレマイン・ヘレディア、トレイシー・トムズ、サラ・シルヴァーマン
カサノバ
2006年07月01日 土曜日
銀座テアトルシネマ ★★☆
■カサノバ最後で本気の恋。にしてはどこか軽い作り
稀代のプレイボーイ、あるいは女たらしのカサノバ(肩書きは他に多数というが、この作品もこれ)を題材に、彼の最後の本気の恋を描く。
ジャコモ・カサノバ(ヒース・レジャー)は修道女に手を出したことで捕まってしまうが、総督のお情けで無罪放免となる。ただし教皇庁のマークもあって、両家の子女との結婚が条件だ。
さっそく従者のルポ・サルヴァト(オミッド・ジャリリ)を従えてヴィクトリア・ドナート(ナタリー・ドーマー)に結婚を申し込むが、彼女に片思いの青年ジョバンニ・ブルーニ(チャーリー・コックス)と決闘騒ぎになる。が、決闘相手は実は腕の立つジョバンニの姉フランチェスカ・ブルーニ(シエナ・ミラー)が身代わりで、カサノバは当人と知らずカサノバ批判をする彼女に恋してしまう(よくあることさ)。
そのフランチェスカにも母親アンドレア・ブルーニ(レナ・オリン)が財産目当てで決めた結婚相手ピエトロ・パプリッツィオ(オリヴァー・プラット)がいて、そいつがちょうどヴェネチアへやってくるから大変だ。
加えて、フランチェスカが女性心理を説いて当代人気の覆面作家ベルナルド・グアルディその人だったり(「女性は気球のように、男と家事と言う重い砂袋さえなくなれば、自由に空を飛べるのだ」)、ローマから送り込まれた審問官のプッチ司教(ジェレミー・アイアンズ)とフランチェスカの目をごまかすためにカサノバがパプリッツィオになりすましたりと、話はややこしくなるばかり。
この難問を、最後にはカサノバとフランチェスカ、ジョバンニとヴィクトリア、パプリッツィオにはアンドレアという組み合わせの誕生で解決してしまう。これだけの大騒ぎをまとめてしまう脚本はよく練られているとは思うが、フランチェスカの2度の男装シーンだけでなくパプリッツィオのエステまで、すべてがおちゃらけてしまっているから気球のように軽い。
カサノバは好き勝手にやっているだけでヴェネチアの自由の象徴という感じはしないし、プッチ司教も馬鹿にされて当然のような描き方。いくらコメディとはいってもねー。パプリッツィオなど怒ってしかるべきなのに、フランチェスカの母親をあてがわれて(失礼)喜色満面(いや、もちろん相性はあるでしょうが)でいいのかって……。
女たらしはこれで打ち止めにし(なにしろ「生涯ただ一人の男性だけを愛する」フランチェスカが相手なのだ)、女遊びに目覚めたジョバンニにカサノバ役は譲ったという珍説での締めくくり。だからヴィクトリアも尻軽女のように描かれていたのか。可哀想な登場人物が多いのよね。
【メモ】
ジャコモ・カサノバ(1725-1798)。自伝『我が生涯の物語』。
プッチ司教「ヴェネチアの自由もバチカンの風向き次第だぞ」
原題:Casanova
2005年 112分 アメリカ サイズ■ 日本語版字幕:古田由紀子
監督:ラッセ・ハルストレム 製作:ベッツィ・ビアーズ、マーク・ゴードン、レスリー・ホールラン 製作総指揮:スー・アームストロング、ゲイリー・レヴィンソン、アダム・メリムズ 原案:キンバリー・シミ、マイケル・クリストファー 脚本:ジェフリー・ハッチャー、キンバリー・シミ 撮影:オリヴァー・ステイプルトン プロダクションデザイン:デヴィッド・グロップマン 衣装デザイン:ジェニー・ビーヴァン 編集:アンドリュー・モンドシェイン 音楽:アレクサンドル・デプラ
出演:ヒース・レジャー(ジャコモ・カサノバ)、シエナ・ミラー(フランチェスカ・ブルーニ)、ジェレミー・アイアンズ(プッチ司教)、オリヴァー・プラット(ピエトロ・パプリッツィオ)、レナ・オリン(アンドレア・ブルーニ)、オミッド・ジャリリ(ルポ・サルヴァト)、チャーリー・コックス(ジョバンニ・ブルーニ)、ナタリー・ドーマー(ヴィクトリア・ドナート)、スティーヴン・グリーフ、ケン・ストット、ヘレン・マックロリー、リー・ローソン、ティム・マキナニー、フィル・デイヴィス
グッドナイト&グッドラック
2006年07月01日 土曜日
シャンテシネ2 ★★★☆
■テレビに矜恃のあった時代
ジョセフ・マッカーシー上院議員による赤狩りはいくつか映画にもなっているし、最低限のことは知っているつもりでいたが、マッカーシー批判の口火を切ったのが、この映画に描かれるエド・マローがホストを勤めていたドキュメンタリー番組の「See it Now」だったということは初耳。じゃないかも。なにしろ私の記憶力はぼろぼろだから。が、番組の内容にまで言及したものに接したのは、間違いなく初めてだ。
最近では珍しいモノクロ画面に、舞台となるのがほとんどCBS(3大テレビ・ネットワークの1つ)の局内という、一見、まったく地味な映画。せいぜい出来てジャズの歌を度々流すことくらいだから。
カメラが制作室を飛び交い緊迫した画面を演出することもあるが、観客が緊張するのは、静かに正面切ってエド・マロー(デヴィッド・ストラザーン)を捉えるシーンだ。今からだと考えにくいが、この静かに語りかけるスタイルが、テレビで放映される内容そのものなのである。当時のテレビが録画ではなくリアルタイムの進行であることが緊張感を高める一因にもなっているのだが、こういう番組製作の興味も含めて実にスリリングな画面に仕上がっている。
監督でもあるジョージ・クルーニーは、フレッド・フレンドリーというプロデューサー役。マローと共に3000ドルの宣伝費を自分たちで負担してまで番組を放映しようとする。が、彼も地味な役柄だ。声高になるでなく、信念に基づいて粛々と事を進めていく。『シリアナ』への出演といい、クルーニーは、ブッシュ政権下のアメリカに相当危機感を持っているとみた。テレビで、アメリカは自国の自由をないがしろにしていては世界の自由の旗手にはなれない、というようなことをマローは言う。
もっともマッカーシー議員側の報復は、彼を当時の映像ですべてをまかなったこともあって、冷静なマローたちの敵としては見劣りがしてしまう。というか、映画を観ていて実はその程度のものだったのかもしれない、という気にすっかりなってしまったのだ。50年以上という時の流れがあるにしろ、マッカーシーが熱弁をふるう実写はどう見ても異様にしか思えない。それなのに、あれだけ猛威をふるっていたのだ……。
CBS会長のペイリーとの対決(いたって紳士的なものだが、こちらの方が裏がありそうで怖かった)やキャスター仲間の自殺(事情を知らないこともありわかりにくい)などを織り込みながら、しかし事態は、ニューヨーク・タイムズ紙の援護などもあって、急速に終息へと向かう。
このあたりが物足りないのは、先に触れたように、マッカーシズムが実体としては大したものではなかったということがあるだろう。問題なのは、そういう風潮に押し流されたり片棒を担いでしまうことで、だからこそマローたちのようであらねばならぬとクルーニーは警鐘を鳴らしているのだ。
勝利(とは位置づけていなかったかもしれないが)は手中にしたものの、娯楽番組には勝てず、テレビの中でのマローの地位は下がっていく。締めくくりは彼のテレビ論で、使うものの自覚が必要なテレビはただの箱だと、もうおなじみになった淡々とした口調で言う。ただの箱論はPCについても散々言われてきたことで、マローのは製作者側への警告もしくは自戒と思われるが、出典はもしかしてこれだったとか。
話はそれるが、この映画でのタバコの消費量たるや、ものすごいものがあった。番組内でさえマローが吸っていたのは、スポンサーがタバコ会社だからというわけでもなさそうだ。「この部屋すら恐怖に支配されている」というセリフがあったが、タバコの煙にも支配されてたもの。タバコのCMをまるごと映していたのはもちろん批判だろうけど、あー煙ったい。
ということで、「グッドナイト、グッドラック」。私が言うと様になりませんが。
原題:Good Night, and Good Luck
2005年 93分 アメリカ 日本語版字幕:■
監督:ジョージ・クルーニー 脚本:ジョージ・クルーニー、グラント・ヘスロヴ
出演:デヴィッド・ストラザーン、ジョージ・クルーニー、ロバート・ダウニー・Jr、パトリシア・クラークソン、レイ・ワイズ、フランク・ランジェラ、ジェフ・ダニエルズ
不撓不屈
2006年07月02日 日曜日
上野東急 ★★☆
■もやもやの残る飯塚事件
高杉良の同名の原作の映画化。この手の作品は、時間があるのなら原作を読んだ方がずっと面白そうだ。森川時久の名前は私には懐かしいものだったが、演出も古色蒼然としたもの。もっともこの映画の場合には、あながち間違った選択とは言い切れないだろう。それが、内容的にも昭和30年代という時代にも合致したものに見えたからだ。
ここで描かれる「飯塚事件」というのは、って何も知らなかったのだが映画によれば、税理士の飯塚毅(滝田栄)が経営基盤の脆弱な顧客の中小企業に勧めていた「別段賞与」や日当について、国税局との見解の相違があり、行き過ぎた国税局の嫌がらせの末、7年にもわたる裁判(税理士法違反で事務所の職員が4人も逮捕起訴される)闘争となった事件を指す。
国税局のふるまいにはあきれるばかりだが、中小企業が大企業に伍していくためには合法的節税に精励すべきという飯塚の主張にも、手放しで賛同できなかった。身近に脱税して当然と言って憚らない人間を何人も見てきた(あくどい税理士もいた)からだが、飯塚のすべきことはそういう言いがかりを付けられそうなことを推奨するよりは(合法ならどんな節税でもいいのだろうか)、税理士としてまぎらわしい税制を正すことではなかったかと思うのだ(専門外なので難しいつっこみはご勘弁。訊いてみたいことはいくつもあるが)。
映画にも飯塚の顧客が内緒で不正していたことが明るみ出てしまう話があり、飯塚は取引を中止するという「正しい」選択をするのだが、私にはどこまでももやもやが残った。が、映画からはそれることなので、これ以上は深く触れないでおく。
衆議院大蔵委員会税制小委員会であれだけ追求されながら、国税局に対してはどのようなお咎めがあった(なかった?)のかがはっきりしないので、映画としての爽快感には欠ける。自分の正しさが裁判で証明されただけで十分という飯塚の姿勢もこの展開も、事実を踏まえる必要があったにしても歯痒いばかりだ。
社会党の岡本代議士(田山涼成)はあれだけ怒ってたのに、矛先をおさめちゃったんでしょうか。いかにも政治家(おさめてしまったことも含めて)という感じの熱演だったのにね。永田議員の偽メール事件の轍を踏まないよう(って逆だけど)飯塚の妻(松坂慶子)が持ってきた情報の信憑性は確かめると、ちゃんと言ってましたがな。
滝田栄がさえないのは、愚直な人間を演じることの難しさか。助言されたこととはいえホテルに身を隠してしまうというのもねー。堂々としてないじゃん。この映画でよかったのは、顧客の1人であるエド山口や「良識ある」国税庁職員の中村梅雀でしょうか。
気になったのは、国会を映した映像に高層ビルがあったことで、セットやバスにいくらこだわっても、こういうことをするとせっかくの雰囲気が台無しになってしまう。CGには抵抗があるのかもしれないが、どちらがいいかは明白だ。
監督が森川時久で、国税庁告発というこの内容。けれどエンドロールには協賛企業の名前も連なっているのは、やはり時代かしらね。
【メモ】
一円の取りすぎた税金もなく、一円の取り足らざる税金もなからしむべし」(飯塚の事務所に掛かっていた言葉)
2006年 119分 角川ヘラルド映画
監督:森川時久 製作・企画:綾部昌徳 原作:高杉良『不撓不屈』 脚本:竹山洋 撮影:長沼六男 美術:金田克美 音楽:服部克久
出演:滝田栄(飯塚毅)、松坂慶子(飯塚るな子)、夏八木勲(法学博士・各務)、三田村邦彦(関東信越国税局直税部長・竹内)、中村梅雀(国税庁職員・重田)、田山涼成(岡本代議士)、北村和夫(植木住職)
バルトの楽園
2006年07月08日 土曜日
109シネマズ木場シアター4 ★★
■ヘタクソな演出に美談もかすむ
1914年、第一次大戦に参戦した日本は、青島攻略で捕虜にしたドイツ兵4700人を日本に強制連行。1917年には全国で12ヵ所あった収容所が6ヵ所に統合されることになり、徳島県鳴門市にある板東俘虜収容所には久留米からの捕虜が移送されてくる。
ここの所長だった松江豊寿(松平健)の、温情ある捕虜の扱いを描いたのがこの映画。戦時下の美談(もっとも日本としてはそれほどの危機感はなかったのではないか)で、だから感動話。楽器の演奏、新聞の発行、パンを焼きお菓子を作る、およそ俘虜収容所というイメージからは遠いことが行われていて、捕虜たちが地元の学生たちに器械体操や演奏を教えるといった交流もあったという。
この話の概略は知っている人も多いだろう。私もユーハイムの創業については耳にしたことがあり、同様の話は映画にもあった。が、簡単に調べてみると細部ではかなり違っている(http://www.juchheim.co.jp/group/baumkuchen/index.html)。もちろんそんなことは大した問題ではないのだが、脚色してのこのデキに少々がっかりだったのである。
一々あげつらっても仕方ないが、例えばハインリッヒ少将(ブルーノ・ガンツ)の自殺シーンなど決定的な演出ミスだろう。あれでは自殺でなく狂言になってしまう。影に気付いて飛び込んだ兵隊に取り押さえられて腕を撃ってしまうというのならわかるのだが。
だいたいこの将校の書き込みはひどく、尊大にしかみえない。皇帝への忠信と人一倍のプライドはあったようだが、他の捕虜とは違う部屋を与えられて、あとは一体何をしていたのだろう。
それに比べると松江豊寿については手厚く、会津藩出身故の明治政府の冷遇などを父(三船史郎だ!)のエピソードに絡めて語っていた。軍部による俘虜収容所の評価は度々出てきたが、この時代の日本の国際社会における位置などの説明はもっとあってもよかったのではないか。
俘虜収容所の群像劇という面もあるので、故郷の母に手紙を書く若い水兵ヘルマン・ラーケ(コスティア・ウルマン)に新聞の取材をさせカメラ撮影させる線でまとめていこうとしたのだろうが、中途半端だから収まりが悪い。ただ彼とマツ(中山忍)のほのかな恋は、折り鶴が染料に落ちる出色のシーンがあって忘れがたい。折り鶴に綴られた文字はマツには読むことが出来ない文字なのだ。しかしそれすらも染料によって消えていってしまうのである。
1918年の第一次世界犬戦終結で解放が決まった捕虜たちは、感謝の気持ちを込めて『交響曲第九番 歓喜の歌』を演奏する。日本における「第九」の初演ということらしいが、このクライマックスがまた唐突。話の1つ1つはくっきりしているのに、流れがないのは最後まで変わらない。
さらに演奏の最中に、松江にもハインリッヒにも席を立たせるという失礼なことまでさせる。演奏にかぶせてフィナーレを演出したいのはわかるけどねぇ。最後の最後はカラヤンの演奏まで持ってきて、ぶち壊しもいいとこだ。貧弱な楽器に、たぶん一部には演奏者も。それでも心を打たれたのではなかったのかな。
【メモ】
楽園は「らくえん」ではなく「がくえん」と読ませる。バルトはドイツ語で髭の意。
板東俘虜収容所は3億円を投じて徳島県鳴門市に忠実に再現されたもの。
ハインリッヒ少将「我々は捕虜であって野蛮人ではない」。でもその前に松江に「君にこの音楽がわかるかね」というくだりがあって、君たちは野蛮人だと言っているみたいなのだが。
ユーハイムの創始者がいたのは広島県似島で、広島物産陳列館(現在の原爆ドーム)で開かれたドイツ作品展示即売会に、バウムクーヘンを出品した(1920年)とある。
予算の削減を強いられた松江は、捕虜達に伐採仕事をさせ、経費を補充。
この映画のパン屋職人(オリバー・ブーツ)は、最後は戦友の娘(大後寿々花)を引き取って日本に永住することを決める。彼は脱走名人?なのだが、市原悦子に助けられ収容所に帰ってくるエピソードも。
大後寿々花は青いコンタクトであいの子役に。彼女の父親は神戸で働いていたドイツ人で、志願して戦争に出たが戦場で日本人と戦うことを拒み、戦死してしまう。
國村隼と泉谷しげるがなかなか。板東英二は声がうわずっていたがこういう人はいる。平田満の演技の方が気になった。
2006年 134分 東映
監督:出目昌伸 製作:鶴田尚正、冨木田道臣、早河洋、塚本勲、滝鼻卓雄、渡部世一 プロデューサー:野口正敏、妹尾啓太、冨永理生子、ミヒャエル・シュヴァルツ 製作総指揮:岡田裕介、宮川日斤也 企画:土屋武雄、中村仁、遠藤茂行、亀山慶二 脚本:古田求 撮影:原一民 特撮監督:佛田洋 美術:重田重盛 美術監督:西岡善信 編集:只野信也 音楽:池辺晋一郎 音響効果:柴崎憲治 照明:安藤清人 助監督:宮村敏正
出演: 松平健(松江豊寿)、ブルーノ・ガンツ(クルト・ハインリッヒ)、高島礼子(松江歌子)、阿部寛(伊東光康)、國村隼(高木繁)、大後寿々花(志を)、中山忍(マツ)、中島ひろ子(たみ)、タモト清嵐(林豊少年)、佐藤勇輝(幼い頃の松江)、三船史郎(松江の父)、 オリヴァー・ブーツ(カルル・バウム)、コスティア・ウルマン(ヘルマン・ラーケ)、 イゾルデ・バルト(マレーネ・ラーケ)、徳井優(広瀬町長)、板東英二(南郷巌)、大杉漣(黒田校長)、泉谷しげる(多田少将)、勝野洋(島田中佐)、平田満(宇松/馬丁)、市原悦子(すゑ)
リトル・ダンサー
2006年07月09日 日曜日
早稲田松竹 ★★★★
■ビリーはとにかく踊ることが好き
女の子のものと思われがちなバレエに夢中になってしまう11歳の男の子に、それとは不似合いな炭坑不況下(1984年)のイングランドのダーハムという町を背景にした、でも話は、定番ともいえる夢の成功物語。
ボクシング教室には気乗りしないが、同じフロアに引っ越してきたバレエ教室なら見ているうちに踊りだしてしまうビリー(ジェイミー・ベル)。ウィルキンソン先生(ジュリー・ウォルターズ)も彼の素質に、バレエへの情熱を取り戻したかのようだ。
話は単純だが、場面や会話の積み重ね方には唸らされる。初レッスン後にウィルキンソン先生に「楽しかった?」と声をかけられるのだが、ビリーが答えないでいると「どうぞお好きに」と言ってさっさと車で帰ってしまう。先生のビリーに対する距離感はなかなかで、この2人の関係が最後までいい感じなのだ。
ビリーのバレエ教室通いが始まるが、男はボクシングかサッカーと思っている父親(ゲイリー・ルイス)には内緒だ。それがばれてしまった時の問答。「何故いけない」「わかっているはずだ」「ききたい」父親は答えずビリーを殴る。当然すぎて説明できない父親を、さもありなんという感じで簡潔にみせる。
ビリーの父と兄トニー(ジェイミー・ドレイヴン)は炭坑夫で、肉体労働という環境もあるのかもしれない。兄は労組の中心的人物で、炭坑はストの真っ最中。労働者と警官隊が睨み合う風景が日常となっている。収入が途絶えた状況で、わずかとはいえボクシング教室のお金がバレエ教室に使われていたのではねー(クリスマスには父が母のピアノを薪にしてしまうシーンも出てくる)。
父にばれたあとのビリーの怒りのダンスシーンは圧巻だ。感情のおもむくままにステップを踏み、町中に飛び出していく。背後の左手に白い船がゆく坂道で踊るビリーや、ストと対比した画面がきいている。
ビリーは女の子趣味でバレエが好きなのではなく、純粋に踊りが好きなのだ。彼の親友にゲイのマイケル(スチュアート・ウェルズ=なんとも可愛らしい)を配することで、この説明もあっさりやってのける。18歳のビリー宛に手紙を残していた、死んだ母親の説明もこうだ。「素晴らしい人だったのね」「普通の母親だよ」
クリスマスの夜に再び父と対峙したビリーのダンス(このダンスシーンも見ものだ)に、父はスト破りを決意する。ロイヤル・バレエ学校のオーディション費用を工面する方法が他にみつけられないのだ。仲間がピケを張る中、のろのろ進むバスの中にいる父親。まるで晒し者を連行するかのようだ。
これは仲間の募金と祖母(ジーン・ヘイウッド)の力でなんとか切り抜け、オーディションへ。緊張。歓喜。続いて家族や先生、マイケルとの別れ、そしてラストの大人になって成功したビリー(アダム・クーパー)の公演シーンまでと続くのだが、実はこのまとめて書いた部分にはあまり感心できなかった。
オーディションで踊っている時の気分を尋ねられたビリーの答えが、なんだか長ったらしくて弁解じみて聞こえてしまったのだ。ありったけの感情を込めて踊りまくっていたビリーが、あがって力を出し切れなかったにしても、バレエに無関心で何もわからない父にスト破りを決心させた力を「踊り出すと何もかも忘れて、自分が消えます。まるで自分が鳥になったみたいに……」というようなありきたりの言葉で置き換えてしまうなんて。バレエ学校の先生たちはどこを見ているんだろう。
祖母との別れのシーンはよいけれど、兄とのそれはやはりやや長い。家のそばにいつもいた小さな女の子とのあっさりした別れ程度で十分なのに。オーディションシーンにがっかりしたものだから、そのあとからは点が辛くなってしまったようだ。
【メモ】
祖母はボケだして物忘れはひどいし、迷子になってしまったり。でも最初からビリーの味方。自身もダンサーになれたのに、というのが口癖。母がアステアのファンで、映画を観た晩は一緒に踊ったというような話もしていた。
最初のオーディションは兄の逮捕で、ウィルキンソン先生との待ち合わせ場所に行けなくなる。
原題:Billy Elliot
2000年 111分 ヴィスタ イギリス 日本語字幕:戸田奈津子
監督:スティーヴン・ダルドリー、脚本:リー・ホール、撮影:ブライアン・テュファーノ、音楽:スティーヴン・ウォーベック
出演:ジェイミー・ベル、ジュリー・ウォルターズ、ゲイリー・ルイス、ジェイミー・ドレイヴン、ジーン・ヘイウッド、スチュアート・ウェルズ、アダム・クーパー
リトル・ランナー
2006年07月09日 日曜日
早稲田松竹 ★★☆
■悪ガキが奇跡を信じるとき
父が戦死していない14歳のラルフ(アダム・プッシャー)は、母親のエマ・ウォーカー(ショーナ・マクドナルド)と2人暮らしだ。母の入院で施設送りの危機となるが、祖母の手紙を親友のチェスターに偽造してもらってしのぐ。そんなこともへいちゃらな彼はいたって脳天気。性への興味は人一倍だし、校則破りの常習犯として校長のフィッツバトリック神父(ゴードン・ピンセント)に目をつけられている有様だ。
はじめのうちは、少年の性の目覚めが主題かと思われるような内容が続く。が、母が昏睡状態に陥ってからはラルフも、性的好奇心はなくならないようだが、少しは心変わりしたかのようだ。だからって状況は変わらない。看護婦のアリス(ジェニファー・ティリー)からは「医師によれば、奇跡でも起きない限り目覚めることはない」のだと言われてしまう。
ところが、罰で校長に入部させられたクロスカントリー部で、コーチのヒバート神父(キャンベル・スコット)が「君たちがボストンマラソンで優勝したら奇跡だ」と語るのを聞き、ラルフは自分が奇跡を起こせば母を助けられると思い込み、猛練習をはじめる。
奇跡の連鎖反応とは辻褄の合わない話だか、こういう考え方をしてしまう気持ちはわからなくはない。ただ映画は、この奇跡問題をあくまで宗教の奇跡と対比する。そして50年代のカトリック学校という設定だから、フィッツバトリック神父のように厳格で融通のきかない校長がいてもおかしくなさそうなのだ。
校長にとっては「神の僕が奇跡を追い求めるのは神への冒涜」でしかないのだが、宗教のわからない人間にとっては、この映画こそが(校長が考えるような)神への冒涜と揶揄に満ちているようにみえる。でも、だったら映画の章分けに聖人歴を使っているのにはどういう意味があるのだろう(この時点で私などお手上げと思ったものね)。
はじめはチェスターとクレア(タマラ・ホープ)だけがたよりのめちゃくちゃな訓練だったが、アリスはウェイト・トレーニングを取り入れるよう助言してくれるし、ヒバート神父もコーチを買って出てくれることになった。ペース配分ができず散々だった地元(カナダ)のレースにも優勝し、ついにボストンマラソンを走る日がやってくる(途中でラルフが過失から出火し家を失ってしまうエピソードもあった)。
チェスターは実況放送のために放送室を占拠。友達は応援し、クレアは祈る。アリスは母にラジオを聞かせる。偽造手紙を見破ったこともありボストンで走ったら退学と脅かしていた校長までが、ラルフの走りに夢中になる。
ラルフは沿道の人の中に神の姿を見、声援をはっきり聞き、必死に走る(しかし何で神がサンタの姿なんだ。その人にとって一番わかりやすい形で現れてくれたのかしらね。そういえば、彼が走ることを決めたのもサンタによる啓示だった)。まわりのみんなを巻き込み、奇跡を起こそうとするそのことが奇跡に値するということなのだろう。原題がSaint Ralphなのはそれでなのか(だからって納得はしていないが)。優勝できなくても、優勝が奇跡というのなら奇跡は起こらなくても、母は目覚めるのだし。
話はそれるが、次のは最近の私の説。奇跡は、猫が眠るようにありふれて起きる。ただそれに気付くことは少ない。そして、気付くことこそに意味がある。以上。
ところで、この映画ではヒバート神父がカナダ代表の元オリンピック選手だったり、ラルフが準優勝するのは53回ボストンマラソンということだが、どこまでが本当なんだろうか?
【メモ】
1953年、カナダ・ハミルトンのカトリック学校。
プールの更衣室事件。ロープ登り事件。
最初の10マイルレースは完走がやっと。
チェスター「ボストンマラソンに出場すれば、校長を最高に怒らせることができる。それに、君なら優勝できるよ」
校長は、ラルフだけでなくヒバートにも修道会からの追放を匂わせる。
ヒバート神父(ニーチェが愛読書?)「どんな選手も、32キロを過ぎると祈り出す」
原題:Saint Ralph
2004年 98分 ビスタサイズ カナダ 日本語字幕:■
監督、脚本:マイケル・マッゴーワン、撮影:ルネ・オーハシ、美術:マシュー・デイヴィス、音楽:アンドリュー・ロッキングトン
出演:アダム・プッシャー(ラルフ・ウォーカー)、キャンベル・スコット(ヒバート神父)、ジェニファー・ティリー(アリス看護婦)、ゴードン・ピンセント(フィッツパトリック神父)、タマラ・ホープ(クレア・コリンズ)、ショーナ・マクドナルド(エマ・ウォーカー)
ローズ・イン・タイドランド
2006年07月15日 土曜日
新宿武蔵野館2 ★★☆
■R-15指定の子供映画
10歳の少女ジェライザ=ローズ(ジョデル・フェルランド)が見て感じた世界をそのまま映像化したような作品。
もっともそのままかどうかはすこぶる怪しい。彼女が生きている世界がそもそも現実味に乏しいのだ。それに彼女が画面に映し出されるということは、厳密には位置関係なども違うことになる。だから、その時は現実と解釈した方がわかりやすいのだが、そこらへんは曖昧だ。
両親共ヤク中で、母親(ジェニファー・ティリー)がクスリの過剰摂取で死んでしまうと、父(ジェフ・ブリッジス)はテキサスにあるすでに亡くなった祖母の家へローズを連れて行く。そこは草原の中の廃屋寸前の一軒家で、父もクスリの力で「バケーション」に行くと言ってそれっきりになってしまう。なんとこのあとのジェフ・ブリッジスは、死体役を続けることになる。
ローズは父の死を認識するでもなく、家の中や黄金色に輝く草原で独り遊びを続ける。焼け焦げてひっくり返ったスクールバスを見つけ、たまに通る列車に狂喜する。学校にも行っていないローズの友達はバービー人形の頭4つだけで、別段それを苦とも思っていないようなのだが(リスとも話が出来ちゃうから?)、やがて近所に住むデル(ジャネット・マクティア)とディケンズ(ブレンダン・フレッチャー)の姉弟に出会う。
デルは黒ずくめで蜂に片目さされたという薄気味悪い女性で、ローズは最初幽霊女と思い込む。弟のディケンズは知的障害者で、この隣人たちとの交流もかなりきわどいものだ(子供が主役なのにR15指定だものね)。デルは性的行為と引き換えに食料品を男から手に入れているし、ローズはディケンズとキス遊びに興じ「結婚」する。
悪意としか思えない設定、そしてそこは死と腐臭に満ちているというのに、ローズには本当にそれらが見えていないのだろうか。だとしたらあまりに幼い。いくら社会性の乏しい環境で育ったにしても、これでは精神年齢からしたら5歳程度ではないか。いくら彼女の想像力が、大好きな『不思議の国のアリス』の影響を受けているにしてもだ。
最後は、死の集大成のような列車の脱線事故が起きる。列車はディケンズのモンスターシャーク退治(あのスクールバスはモンスターシャークにやられたらしい)にあえなく脱線してしまったのだ。この炎に包まれた光景は大がかりなもので、これがまた不思議な雰囲気を醸し出している。ローズはその事故現場を歩いていて1人の女性に乗客と間違えられ、拾われるような形となる。
この列車事故が本当であれば、ローズにとっては不幸中の幸いか。この大惨事すらも幻想というのなら、彼女の願望でもあるだろうから、いくら幻想の世界に遊んでいてもローズはやはりちっとも救われてなどいなかったということになる。
少女の想像世界の映像化は、草原に海を出現させるなど、たしかに良く出来てはいるが、それにしても長い。半分程度で十分と思ったのは私の趣味に合わなかったこともある。きっちり解読したなら何か見えてくるのかもしれないが、くたびれてしまったというのが正直なところだ。
【メモ】
tideland 【名】 干潟、低い海岸地帯 この干潟という言葉に、陸地と海(現実と夢)の境界線というような意味をもたせているのだろうか。
父親は元ロックスター。彼は昔を懐かしんで、母親のことを「グンヒルド王妃」と呼んでいるが、美貌は過去のもので下腹もたるんでいる。ローズは足をもんであげている。母親はメタドンによるショック死。
当然のように父親にクスリを持ってきて注射の手伝いをするローズ。死んだ父親の膝の上でローズが目覚めるシーンも。父親にお祖母ちゃんのかつらをつける。次の日?には死体は悪臭を放ち、ローズはおならをしたと言う。
うさぎの穴に落ちるローズは、ほぼアリスのイメージ)。草原の海の中を行くローズ。ウェットスーツ姿のディケンズ。
水平線の傾いた絵(映像)。これは何度も出てくる。
原題:Tideland
2005年 117分 スコープサイズ イギリス/カナダ R15 日本語字幕:■
監督:テリー・ギリアム、脚本:テリー・ギリアム、トニー・グリゾーニ、原作:ミッチ・カリン、撮影:ニコラ・ペッコリーニ、音楽:マイケル・ダナ、ジェフ・ダナ
出演:ジョデル・フェルランド(ジェライザ=ローズ)、ジェフ・ブリッジス(父親ノア)、ジェニファー・ティリー(母親グンヒルド王妃)、ジャネット・マクティア(デル)、ブレンダン・フレッチャー(ディケンズ)
ブレイブ ストーリー
2006年07月17日 月曜日
新宿ミラノ2 ★☆
■何をやってもいいわけがない
宣伝も派手だったし、たまたま宮部みゆきの小説を続けて読んだこともあって期待してしまったが、恐ろしくつまらない作品だった。なにしろ展開が速すぎるのだ。長篇の映画化だから仕方がない面はあるにしても、緩急はつけないと。最初から最後までせっつかれていては物語に乗れない。
両親の離婚と母がそのショックで倒れてしまうという危機に直面した小学5年生のワタル。
謎の転校生ミツルの言葉に誘われるように、幽霊ビルの階段の上にある運命を変えるという扉を開く。そこはヴィジョン(幻界)と呼ばれる異世界で、ワタルは5つの宝玉を見つけ、女神のいる運命の塔を目指して旅に出る。という少年の成長物語。
宝玉の話もありきたり(どこぞのスタンプカードみたいに最初の1個はすでにあったりするのね)なら、途中、仲間ができていくくだりも定番ともいえるものだ。それはかまわないのだが、多分そこに至る過程をごっそり省略してしまっているから、キ・キーマやカッツ、それにミーナたちは、キャラクターとしての存在感も薄いし、なによりワタルとの連帯感が感じられないときてる。ミツルに至っては関係も一方的で、2人はとても友達とは思えない。
これでは「オレのためだけに生き」て、どこかで間違ったというミツルと、「願い事のためだったら何をやってもいいのかな?」と迷い、最後にはもう1人の自分と決着をつけ、運命を受け入れることになるワタルという対比が台無しだ。
せっかくのこのテーマを台無しにしているのは、ラストの描き方にもある。ワタルの運命は変わらないのに(離婚の成立、母は元気に)、ミツルの運命は変わっている(妹は生きている)のはどう解釈すればいいのだろう。一応子供向け映画でもあるのだから、ここはもっと単純でよかったのではないか。
そういえばイルダ帝国ってなんだったんだろ? 魔の力が解き放たれて戦争とかしてたよな。私には最後まで関係ない世界の話で、ワタルのようにヴィジョンを救わなきゃとは思えなかったのね。
【メモ】
雨粒がでかすぎ(雨を上からとらえたシーン)。
お試しの洞窟での「蛙は帰る」とんちはいただけない。
体力平均、勇気最低、総合評価35点で「見習い勇者」。
ドラゴンの子供の扱い。ネジオオカミ。ハイランダーになるワタル。
2005年 111分 アニメ
監督:千明孝一 、アニメーション制作:GONZO 、脚本:大河内一楼 、原作:宮部みゆき『ブレイブ・ストーリー』 、撮影:吉岡宏夫 、編集:瀬山武司 、音楽:Juno Reactor
声の出演:松たか子(三谷亘/ワタル)、大泉洋(キ・キーマ)、常盤貴子(カッツ)、ウエンツ瑛士(芦川美鶴/ミツル)、今井美樹(運命の女神)、田中好子(三谷邦子)、高橋克実(三谷明)、堤下敦[インパルス](犬ハイランダー)、板倉俊之[インパルス](若い司教)、虻川美穂子[北陽](小村克美/カッちゃん)、伊藤さおり[北陽](小川)、柴田理恵(ユナ婆)、伊東四朗(ラウ導師)、石田太郎(ダイモン司教)、樹木希林(オンバ)
ゆれる
2006年07月17日 月曜日
新宿武蔵野館1 ★★★★☆
■みんな吊り橋を渡りたいらしい
「なんで兄ちゃんあの吊り橋渡ったの」という早川猛(たける=オダギリジョー〉のセリフは予告篇にも登場するのであるが、観終わったあとも暫くはこの意味がはっきりしないままだった。
でも何のことはない、吊り橋を渡って(田舎を捨て)東京でカメラマンという華やかな仕事をしている(まあ成功しているようだ)弟の猛と、吊り橋を渡れずに(田舎にとどまって)いる兄の稔(香川照之)と単純に考えればよかったのだ。
実家で頑固な父親(伊武雅刀)とガソリンスタンドを経営している稔は、温厚で優しい性格で、だからいろいろなしがらみの中にいる。田舎町という閉塞的な環境で折り合いをつけながら生活していることは、母の一周忌の場面であきらかだ。服装のことも気にせず(少しはしてたか)久しぶりに帰った法事の場でさっそく父と衝突してしまう猛とは好対照で、稔はふたりの取りなしにやっきとなる。
今はガソリンスタンドで働く川端智恵子(真木よう子)は、猛と昔付き合いがあり、その日も法事のあとスタンドに寄った猛の送っていくという口実のままに、結局は彼をアパートに上げ関係を持ってしまう。他人行儀でいようとしていたのに、猛の「(兄貴と)ふたり息が合ってるね、嫉妬しちゃったよ俺」という悪魔のような囁きに応えてしまうのだ。実は彼女も、昔猛と一緒に東京に出ようとしたことがあったのに、「吊り橋を渡ることができなかった」のだ。
翌日は3人で近くの渓谷に遊びに行くことになっていて、ここの吊り橋で問題の事故が起きる。
先に吊り橋を渡った猛を探しに行くかのように智恵子が渡り始めると、背後から追ってきた稔がしがみつく。稔はゆれる吊り橋が怖いのだが、智恵子にはそれがわからない。いや、知っていたのかもしれないが、猛が見ている可能性のあるところで抱きつかれたくないという気持ちも働いたのではないか。
この吊り橋を渡る、渡ろうとする関係性はあまりに図式的ではあるが(なのに最初に書いたように暫くの間わからなかったのだが)、そこで起きる智恵子の転落が過失なのか故意なのかという興味へ映画は突き進んでゆく。猛は現場を見ているのに、観客にはその場面はあかされない。だから裁判を通して、場面が二転三転すると観客もそれに引きずられ、真実がどこにあるのかと考えさせられるというわけだ。
話をまとめると、事実は次のようになるだろうか。
稔は智恵子と結婚を考えていた。彼はそれを言い出せないでいたが、彼女も周囲もそう思っていてくれたはずだ。が、猛の帰省で状況は一変する。あの晩、猛が智恵子と酒を飲んだと嘘をついたことで稔にはすべてがわかってしまったのだ(稔が背中をまるめるように洗濯物をたたんでいた場面は印象深い)。
智恵子の心も川原では、すでに東京に行って猛と新しい人生を始めていた。なのに猛ははぐらかすようにその場から去り、吊り橋を渡って行ってしまう。ふたりのことはおかまいなしに、花の写真を撮ることに夢中になっているのは東京での生活を暗示しているかのようだ。
稔にとって智恵子が猛を追うことはたまらないことだったろう。智恵子は希望の光だったのだから。稔だって吊り橋を渡って、猛のように生きていきたかったのだから。拘置所で猛に向かって、仕事は単調で女にもてず家に帰れば炊事洗濯に親父の講釈を聞き、とぶちまけるのも当然だ。それでもやはり智恵子が死んでしまったことでは、自責の念に駆られたはずである。
そして稔は、自分が吊り橋を渡れないばかりか(猛には何故渡ったと言われるが)、引き返す場所さえもないことを悟って判決を受け入れるのだ。もしかしたら猛が裁判に熱心で、弁護士の伯父(蟹江敬三)を担ぎ出したことにもいらついたのではないか。
次第に、猛にとっては知らない兄が姿を現してくる。人を信じないのがお前だとか自分が人殺しの弟になるのがいやなだけとまで言われて、彼も兄が智恵子を突き落としたと証言してしまう。自分の兄貴を取り戻すために。しかしその兄貴とは、自分にとって都合のいい兄ではなかったか。「兄のことだけは信じられたし、繋がっていた」と言うけれど、彼には何も見えていなかったのだ。
法事で見つけた母の8ミリフィルムを、何故か7年後に見ている猛。そこには、幼い猛が怖がる稔の手を引いて吊り橋を渡ろうとしている映像が残こされていた。
刑期を終えた稔をやっと見つけた猛が、道の向こう側から大声で呼びかける。猛に気付いて、とりあえず稔は笑ってしまうのだ。たぶん昔からの癖で。笑顔はやって来たバスに隠れてしまう。稔はバスに乗ったのだろうか、残ったのだろうか。
猛としては兄を今度こそ本当の意味で取り戻そうとしているのだろうけどね。この時点では「最後まで僕が奪い、兄が奪われた」と認識しているわけだから。でも、どうなんだろ。私が稔ならもうそんなことには関わりたくない気がする。兄弟というものがよくわかっていないし、必要性も感じていない私としては、少々食いつきにくい最後だ。
結末は観る人によっていくらでもつけられるだろう。強いて言うならその部分と、映像的な面白味に乏しいこと(これは全体にいえる)が惜しまれる。あとは智恵子が忘れ去られてしまったことが、悲しくて可哀想だ。彼女の母親も言っていた。「智恵子は殺されるような子だったのかな」と。
【メモ】
巻頭の東京の事務所での猛。冷蔵庫は開けっ放しで平気だし、女性の存在も。
渓谷は蓮美渓谷(架空の場所?)。
智恵子の母親は再婚(アパート暮らしだが、智恵子も居場所がない?)。
「怖いよ、あの人もう気付いているんじゃないかな」(智恵子のセリフ)。
猛に小遣いを渡す稔。
水を流しながら動くホース。
8ミリ撮影が趣味だった母が残したフィルムの日付はS55.9.8。
2006年 119分 1:1.85(ビスタサイズ)
原案・監督・脚本:西川美和、撮影:高瀬比呂志 、編集:宮島竜治 、美術:三ツ松けいこ 、音楽:カリフラワーズ
出演:オダギリジョー(早川猛)、香川照之(早川稔)、伊武雅刀(早川勇)、新井浩文(岡島洋平)、真木よう子(川端智恵子)、蟹江敬三(早川修/弁護士)、木村祐一(検察官)、ピエール瀧(船木警部補)、田口トモロヲ(裁判官)
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