アンダーワールド
2006年04月20日 木曜日
TOHOシネマズ錦糸町-7 ★★★
■スタイリッシュバンパイア誕生
ヴァンパイアとライカン(狼男)が数百年に渡る死闘を繰り広げてきたというヘンテコリンかつどうでもいいような設定で、はじまったとたんの説明で不安になる。
ライカンの首領ルシアンを倒してからヴァンパイア族の勝利は目前に迫っていたが、女戦士のセリーン(ケイト・ベッキンセイル)はライカン族を追っていて、彼らがマイケル(スコット・スピードマン)という医師(彼は普通の人間)を狙っていることに疑問を抱く。
設定が奇抜だし人間との接点はマイケルだけなんだが、話(込み入っているので省略)は予想以上にしっかりしたものだった。ヴァンパイアものは、SFというよりファンタジーになってしまうのだが、その懸念もいつのまにか忘れていた。
映像に力があることが大きい。主体は銃撃戦だから、凡庸なもので終わってもおかしくないのに、それを含めてけっこう緊張させられるシーンが多いからだろう。
細部にも凝っていて、銃撃戦とはいっても対ヴァンパイアには紫外線弾(吸血鬼は日光に弱いからね)で、狼男には硝酸銀(が体内で溶け出して復活できなくなる)弾なんだって。うはは。
でもそれにしては、種族間の戦争というよりはやくざの抗争程度にしか見えない(人間社会に隠れて存在する同士だから仕方ないのだけど)のと、狼男のように激しく変身するのならともかく、ヴァンパイアの方は、眠りを妨げられた指導者ビクター(ビル・ナイ)にしてもヴァンパイアらしからぬというか、映画の中では特別な意味付けがされていないというのはマイナスだ。
まあそれは、ラストですでに次回作を激しく予告しているので、それを待てということか。
私の中では評価の低かったケイト・ベッキンセイルだが、このセリーン役はぴったりだ。
原題:Underworld
2003年 121分 アメリカ ●サイズ 配給:ギャガ=ヒューマックス PG-12 日本語字幕:●
監督:レン・ワイズマン 製作:ゲイリー・ルチェッシ、トム・ローゼンバーグ、リチャード・S・ライト 製作総指揮:ロバート・ベルナッキ、ジェームズ・マクウェイド、スキップ・ウィリアムソン、テリー・A・マッケイ、ヘンリー・ウィンタースターン 原案:レン・ワイズマン、ケヴィン・グレイヴォー、ダニー・マクブライド 脚本:ダニー・マクブライド 撮影:トニー・ピアース=ロバーツ 美術:ブルトン・ジョーンズ 編集:マーティン・ハンター 音楽:ポール・ハスリンジャー 衣裳デザイン:ウェンディ・パートリッジ
出演:ケイト・ベッキンセイル(セリーン)、スコット・スピードマン(マイケル・コーヴィン)、シェーン・ブローリー(クレイヴン)、マイケル・シーン(ルシアン)、ビル・ナイ(ビクター)、アーウィン・レダー(シング)、ソフィア・マイルズ(エリカ)、ロビー・ギー(カーン)、ウェントワース・ミラー(Dr.アダム)、ケヴィン・グレイヴォー(レイズ)、リック・セトロン
美しき運命の傷痕
2006年04月22日 土曜日
銀座テアトルシネマ ★★★★
■愛に見放された三姉妹とその母
長女のソフィ(エマニュエル・ベアール)は夫(ジャック・ガンブラン)の浮気に見境のない行動にでてしまうが、離婚を決意する。恋をすることもなく療養所に通って母(キャロル・ブーケ)の世話をしている次女のセリーヌ(カリン・ヴィアール)だが、謎の男につきまとわれる。三女のアンヌ(マリー・ジラン)は不倫相手の大学教授(ジャック・ペラン)に別れを告げられ激しく動揺するが、相手は死んでしまう。
愛に見放されたこの三姉妹の苦悩を、映画は幼い時に父親を失ったトラウマに結びつける。ソフィの行動は夫=父親を失うことへの恐れ、セリーヌは事件の目撃者であるが故の男性不信、アンヌは父親への思慕だろうか。
謎の男の告白で、父親が自殺に至った事件の真相が判明する。疎遠になっていた三姉妹が集まり、母親に誤解だったことを告げるのだが、彼女は「自分は後悔していない」と言う。
ここでやっと巻頭のタイトルバックが、カッコウの託卵の様子を克明に写した映像だった理由がわかる。つまり三姉妹は母の不倫の子だったのだ。
そういえば、先に孵化したカッコウは、残りの卵を巣の外に落とすのだが、自分も転落してしまう。そこにちょうど刑務所から出てきた父親が通りかかり、転落した雛を巣に戻すのが映画のはじまりだった。彼は託卵が成就する手助けをする運命にあったということになる。この場合、自殺こそが手助けだったとしたらずいぶんな話だ。
少なくとも三姉妹にとっては霧が晴れ、再生の道が開けたと思うのだが、母親の後悔していないという一言をどう受け止めるかという問題は残る。観客には不倫の子だということはわかっても、彼女たちは知らないのだし。そう考えていくと、だんだん怖くなってくる。
クシシュトフ・キエシロフスキの遺稿をダニス・タノヴィッチ監督が映画化したというこの作品は、映像も意味深で仕掛けが多い。思わせぶりな展開もどうかと思う。そのぶん間の悪い車掌などを登場させてバランスをとってはいるが、話の基調がこんなだからとても好きにはなれない。
それはたとえば、アンヌが、教授の娘(親友なのだ)に恋の相手を悟らせようとするのだが、そして彼女の父親を独占したいという気持ちがそうさせたのだと理解できても、彼女の行為を弁護する気になれないのと同じだ。
アンヌが受ける口頭試問のテーマが、たまたま夫の愛した子を殺す「王女メディア」だったのにはドキリとするが、教授は試験場に姿を現さずアンヌの妊娠も確定ではないようだから、これはソフィを連想させようとしているのか。いずれにしても、少しばかりうっとうしい。
でも、それはそうなんだが、十分面白い映画であることは間違いない。しっかり筋を頭にたたき込んだら、もう一度今度はあら探しをするつもりで観てみたい作品だ。
原題:L’ Enffr
2005年 102分 サイズ■ フランス、イタリア、ベルギー、日本 日本語字幕:■
監督:ダニス・タノヴィッチ 製作:マルク・バシェ、マリオン・ヘンセル、セドミール・コラール、定井勇二、ロザンナ・セレーニ 原案:クシシュトフ・キエシロフスキー、クシシュトフ・ピエシェヴィッチ 脚本:クシシュトフ・ピエシェヴィッチ 脚色:ダニス・タノヴィッチ 撮影:ローラン・ダイヤン プロダクションデザイン:アリーヌ・ボネット 編集:フランチェスカ・カルヴェリ 音楽:ダスコ・セグヴィッチ
出演:エマニュエル・ベアール(ソフィ)、カリン・ヴィアール(セリーヌ)、マリー・ジラン(アンヌ)、キャロル・ブーケ(母)、ジャック・ペラン(フレデリック)、ジャック・ガンブラン(ピエール)、ジャン・ロシュフォール(ルイ)、ミキ・マノイロヴィッチ(父)、ギョーム・カネ(セバスチャン)、マリアム・ダボ(ジュリー)、ガエル・ボナ(ジョセフィーヌ)、ドミニク・レイモン(ミシェル)
アンダーワールド エボリューション
2006年04月30日 日曜日
TOHOシネマズ錦糸町-8 ★★★☆
■続篇の進化は予算以上
物語は前作のすぐあとを引き継いだ展開になっているから、この間観たばかりの私には非常に好都合。公開時期でいうと2年半ほど空いたことになるが、監督も同じだから作品の感触は変わらない。なにより前作同様の迫力の画面には圧倒される。
前作はセリーン(ケイト・ベッキンセール)の自分探し話だったが、ここでもそれは同じで、ヴァンパイア族とライカン族の誕生までが明らかにされるのだが、その鍵を握っているのも彼女だったのだ。
前提だけでも特殊なのに相変わらず凝った話で、咀嚼している余裕がないのが難点だ。この2作で3作分はゆうにある。詰め込みすぎなんだが、血を飲むことで記憶まで取り込んでしまうというアイデアもあって、画面上でのテンポは申し分ない。
もっとも元祖不死者のコルヴィナス卿(デレク・ジャコビ)の扱いなどは、唐突な感じがしなくもない。彼が重要な役回りを担ったことで、異端者の親子愛や兄弟愛という側面まで出てくるのだが、個人的には人間にはありえないような異端者としての価値観でもみせてもらいたいところだ。
アクションシーンで大活躍のマイケル(スコット・スピードマン)だが、それにしては存在感が薄い。それじゃああんまりだからってセリーンとの恋もあるのかもしれないが、この作品にベッドシーンはいらないよねー。監督はケイトと結婚したら見せびらかしたくなっちゃったとか? 変身した者同士のベッドシーンを用意するくらいのこだわりがあればまた別なんだけどね。
ヴァンパイア族の始祖マーカス(トニー・カラン)は前作の敵ビクター以上の肉体を持つ。さらにマーカスの兄弟で、凶暴さ故に牢獄に監禁されていた最初のライカンであるウィリアムまでが甦る。セリーンもマイケルもさらなる混血を経て、力を得る(ここらへん適当に納得するしかないのな)ので、戦いは壮絶なものになる。
銃弾を浴びても致命傷にならない馬鹿馬鹿しさが、逆に意外なほど面白いアクションシーンになっている。残酷なシーンが次から次ぎに出てくるのだが、ヘンな暗さがないのは救いだ。
墜落したヘリコプターがらみのアクション(これはアイデアもいい)など、予算面でもスケールアップもされているみたいなのに、とっておき?のウィリアムスまで殺してしまったら次回作はどうなるんだ!って、今度は予告していないから、お終い? だったら、ちょっと残念だ。
原題:Underworld Evolution
2006年 106分 アメリカ ●サイズ 配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント R-15 日本語字幕:●
監督:レン・ワイズマン 製作:ゲイリー・ルチェッシ、トム・ローゼンバーグ、リチャード・ライト 製作総指揮:デヴィッド・コートスワース、ダニー・マクブライド、ジェームズ・マクウェイド、スキップ・ウィリアムソン 原案:レン・ワイズマン、ダニー・マクブライド 脚本:ダニー・マクブライド 撮影:サイモン・ダガン プロダクションデザイン:パトリック・タトポロス 衣装デザイン:ウェンディ・パートリッジ 編集:ニコラス・デ・トス 音楽:マルコ・ベルトラミ
出演:ケイト・ベッキンセイル(セリーン)、スコット・スピードマン(マイケル)、トニー・カラン(マーカス)、ビル・ナイ(ビクター)、シェーン・ブローリー(クレイヴン)、デレク・ジャコビ、スティーヴン・マッキントッシュ、マイケル・シーン、ソフィア・マイルズ(エリカ)、ジータ・ゴロッグ、リック・セトロン
RENT レント
2006年07月01日 土曜日
銀座テアトルシネマ ★★
■歌詞レベルの深みのないミュージカル
場面を限った力強い予告篇(「Seasons of Love」が歌われるシーン)に訴えるものを感じたのだが、楽曲を単純に楽しむという点に絞ればともかく、本篇の中身はさっぱりだった。
「Seasons of Love」で52万5,600分-1年を何で数えるか?(Five hundred twenty-five thousand Six hundred minutes. How do you measure, measure a year?)という問いかけに、歌詞と同じように曖昧にしか答えていないのだ。昼、夕焼け、深夜、飲んだコーヒー、インチ、マイル、笑い、喧嘩(In daylights, in sunsets, in midnights In cups of coffee In inches, in miles, in laughter, in strife.)……なんじゃそりゃ。だいたい欧米の曲の歌詞は単純なものが多い(?)し、そんなことを言ってもはじまらないのだけど、映画にするのであれば、そこはもう少し掘り下げてくれなきゃ。
家賃(Rent)が払えないのに芸術家きどりでいるロジャー(アダム・パスカル)とマーク(アンソニー・ラップ)をはじめてとして、その恋人や仲間が何とも子供っぽい。マークはドキュメンタリー映像作家を目指しているから8ミリ撮影なのだろうが、家賃に優先させている神経がね。もっともこれは後に、フィルムがテレビ局に売れることになるのだが……。
店の迷惑などおかまいなしに騒ぎまくるなんていうのは、はじめにミュージカルシーンありきと考えれば些細なことと見逃せるが、ロジャーとミミ(ロザリオ・ドーソン)の恋の行く末などはなんとも危なっかしい。エイズであることが屈折した心境になっているにしてもね。昔の男ベニー(テイ・ディグス)とよりを戻したり、ドラッグに走ったり……。マークの元を去ってレズ同士で結婚したモーリーン(イディナ・メンゼル)とジョアンヌ(トレイシー・トムス)のカップルもしかり。結婚式でもう喧嘩ではね。
いろいろなことが起こるのだけど、すべてが歌詞レベル。好きになって、別れて、でも忘れられなくて……。場面と楽曲が替わるように上っ面な言葉だけで切り替えられても困るのだ。
少ししゃんとしているのはドラッグクイーンエンジェル(ウィルソン・ジェレマイン・ヘレディア)とコリンズ(ジェシー・L.マーティン)くらいのものか。が、これもエンジェルに金銭的余裕があるからという、うがった見方もできるのだけどね。
物語の設定が89.12.24から90.12.24だから、今から観ると若者の悩みというにはなんとなく古めかしいものがある。またキャストの多くがトニー賞受賞(96年)のオリジナルメンバーということもあるだろうか。舞台ならともかく映画では年齢詐称はちょっときついから、ついやっていることが子供っぽいという感想になってしまうのだ。
でもそういうことではなく、そもそもミュージカルに深刻な話はやはり似合わない気がするのだ。空腹なのに声を張り上げるのはまだしも、生死の場面ではその歌唱力が邪魔くさいものに思えてしまうから。モーリーンのベニーが進める立ち退き計画に対する抗議ライブなどは、よかったものね。
原題:Rent
2005年 135分 アメリカ 日本語版字幕:■
監督:クリス・コロンバス/脚本:スティーヴン・チョボスキー/台本・作詞・作曲:ジョナサン・ラーソン/振付:キース・ヤング
出演:ロザリオ・ドーソン、テイ・ディグス、ジェシー・L・マーティン、イディナ・メンゼル、アダム・パスカル、アンソニー・ラップ、ウィルソン・ジェレマイン・ヘレディア、トレイシー・トムズ、サラ・シルヴァーマン
カサノバ
2006年07月01日 土曜日
銀座テアトルシネマ ★★☆
■カサノバ最後で本気の恋。にしてはどこか軽い作り
稀代のプレイボーイ、あるいは女たらしのカサノバ(肩書きは他に多数というが、この作品もこれ)を題材に、彼の最後の本気の恋を描く。
ジャコモ・カサノバ(ヒース・レジャー)は修道女に手を出したことで捕まってしまうが、総督のお情けで無罪放免となる。ただし教皇庁のマークもあって、両家の子女との結婚が条件だ。
さっそく従者のルポ・サルヴァト(オミッド・ジャリリ)を従えてヴィクトリア・ドナート(ナタリー・ドーマー)に結婚を申し込むが、彼女に片思いの青年ジョバンニ・ブルーニ(チャーリー・コックス)と決闘騒ぎになる。が、決闘相手は実は腕の立つジョバンニの姉フランチェスカ・ブルーニ(シエナ・ミラー)が身代わりで、カサノバは当人と知らずカサノバ批判をする彼女に恋してしまう(よくあることさ)。
そのフランチェスカにも母親アンドレア・ブルーニ(レナ・オリン)が財産目当てで決めた結婚相手ピエトロ・パプリッツィオ(オリヴァー・プラット)がいて、そいつがちょうどヴェネチアへやってくるから大変だ。
加えて、フランチェスカが女性心理を説いて当代人気の覆面作家ベルナルド・グアルディその人だったり(「女性は気球のように、男と家事と言う重い砂袋さえなくなれば、自由に空を飛べるのだ」)、ローマから送り込まれた審問官のプッチ司教(ジェレミー・アイアンズ)とフランチェスカの目をごまかすためにカサノバがパプリッツィオになりすましたりと、話はややこしくなるばかり。
この難問を、最後にはカサノバとフランチェスカ、ジョバンニとヴィクトリア、パプリッツィオにはアンドレアという組み合わせの誕生で解決してしまう。これだけの大騒ぎをまとめてしまう脚本はよく練られているとは思うが、フランチェスカの2度の男装シーンだけでなくパプリッツィオのエステまで、すべてがおちゃらけてしまっているから気球のように軽い。
カサノバは好き勝手にやっているだけでヴェネチアの自由の象徴という感じはしないし、プッチ司教も馬鹿にされて当然のような描き方。いくらコメディとはいってもねー。パプリッツィオなど怒ってしかるべきなのに、フランチェスカの母親をあてがわれて(失礼)喜色満面(いや、もちろん相性はあるでしょうが)でいいのかって……。
女たらしはこれで打ち止めにし(なにしろ「生涯ただ一人の男性だけを愛する」フランチェスカが相手なのだ)、女遊びに目覚めたジョバンニにカサノバ役は譲ったという珍説での締めくくり。だからヴィクトリアも尻軽女のように描かれていたのか。可哀想な登場人物が多いのよね。
【メモ】
ジャコモ・カサノバ(1725-1798)。自伝『我が生涯の物語』。
プッチ司教「ヴェネチアの自由もバチカンの風向き次第だぞ」
原題:Casanova
2005年 112分 アメリカ サイズ■ 日本語版字幕:古田由紀子
監督:ラッセ・ハルストレム 製作:ベッツィ・ビアーズ、マーク・ゴードン、レスリー・ホールラン 製作総指揮:スー・アームストロング、ゲイリー・レヴィンソン、アダム・メリムズ 原案:キンバリー・シミ、マイケル・クリストファー 脚本:ジェフリー・ハッチャー、キンバリー・シミ 撮影:オリヴァー・ステイプルトン プロダクションデザイン:デヴィッド・グロップマン 衣装デザイン:ジェニー・ビーヴァン 編集:アンドリュー・モンドシェイン 音楽:アレクサンドル・デプラ
出演:ヒース・レジャー(ジャコモ・カサノバ)、シエナ・ミラー(フランチェスカ・ブルーニ)、ジェレミー・アイアンズ(プッチ司教)、オリヴァー・プラット(ピエトロ・パプリッツィオ)、レナ・オリン(アンドレア・ブルーニ)、オミッド・ジャリリ(ルポ・サルヴァト)、チャーリー・コックス(ジョバンニ・ブルーニ)、ナタリー・ドーマー(ヴィクトリア・ドナート)、スティーヴン・グリーフ、ケン・ストット、ヘレン・マックロリー、リー・ローソン、ティム・マキナニー、フィル・デイヴィス
グッドナイト&グッドラック
2006年07月01日 土曜日
シャンテシネ2 ★★★☆
■テレビに矜恃のあった時代
ジョセフ・マッカーシー上院議員による赤狩りはいくつか映画にもなっているし、最低限のことは知っているつもりでいたが、マッカーシー批判の口火を切ったのが、この映画に描かれるエド・マローがホストを勤めていたドキュメンタリー番組の「See it Now」だったということは初耳。じゃないかも。なにしろ私の記憶力はぼろぼろだから。が、番組の内容にまで言及したものに接したのは、間違いなく初めてだ。
最近では珍しいモノクロ画面に、舞台となるのがほとんどCBS(3大テレビ・ネットワークの1つ)の局内という、一見、まったく地味な映画。せいぜい出来てジャズの歌を度々流すことくらいだから。
カメラが制作室を飛び交い緊迫した画面を演出することもあるが、観客が緊張するのは、静かに正面切ってエド・マロー(デヴィッド・ストラザーン)を捉えるシーンだ。今からだと考えにくいが、この静かに語りかけるスタイルが、テレビで放映される内容そのものなのである。当時のテレビが録画ではなくリアルタイムの進行であることが緊張感を高める一因にもなっているのだが、こういう番組製作の興味も含めて実にスリリングな画面に仕上がっている。
監督でもあるジョージ・クルーニーは、フレッド・フレンドリーというプロデューサー役。マローと共に3000ドルの宣伝費を自分たちで負担してまで番組を放映しようとする。が、彼も地味な役柄だ。声高になるでなく、信念に基づいて粛々と事を進めていく。『シリアナ』への出演といい、クルーニーは、ブッシュ政権下のアメリカに相当危機感を持っているとみた。テレビで、アメリカは自国の自由をないがしろにしていては世界の自由の旗手にはなれない、というようなことをマローは言う。
もっともマッカーシー議員側の報復は、彼を当時の映像ですべてをまかなったこともあって、冷静なマローたちの敵としては見劣りがしてしまう。というか、映画を観ていて実はその程度のものだったのかもしれない、という気にすっかりなってしまったのだ。50年以上という時の流れがあるにしろ、マッカーシーが熱弁をふるう実写はどう見ても異様にしか思えない。それなのに、あれだけ猛威をふるっていたのだ……。
CBS会長のペイリーとの対決(いたって紳士的なものだが、こちらの方が裏がありそうで怖かった)やキャスター仲間の自殺(事情を知らないこともありわかりにくい)などを織り込みながら、しかし事態は、ニューヨーク・タイムズ紙の援護などもあって、急速に終息へと向かう。
このあたりが物足りないのは、先に触れたように、マッカーシズムが実体としては大したものではなかったということがあるだろう。問題なのは、そういう風潮に押し流されたり片棒を担いでしまうことで、だからこそマローたちのようであらねばならぬとクルーニーは警鐘を鳴らしているのだ。
勝利(とは位置づけていなかったかもしれないが)は手中にしたものの、娯楽番組には勝てず、テレビの中でのマローの地位は下がっていく。締めくくりは彼のテレビ論で、使うものの自覚が必要なテレビはただの箱だと、もうおなじみになった淡々とした口調で言う。ただの箱論はPCについても散々言われてきたことで、マローのは製作者側への警告もしくは自戒と思われるが、出典はもしかしてこれだったとか。
話はそれるが、この映画でのタバコの消費量たるや、ものすごいものがあった。番組内でさえマローが吸っていたのは、スポンサーがタバコ会社だからというわけでもなさそうだ。「この部屋すら恐怖に支配されている」というセリフがあったが、タバコの煙にも支配されてたもの。タバコのCMをまるごと映していたのはもちろん批判だろうけど、あー煙ったい。
ということで、「グッドナイト、グッドラック」。私が言うと様になりませんが。
原題:Good Night, and Good Luck
2005年 93分 アメリカ 日本語版字幕:■
監督:ジョージ・クルーニー 脚本:ジョージ・クルーニー、グラント・ヘスロヴ
出演:デヴィッド・ストラザーン、ジョージ・クルーニー、ロバート・ダウニー・Jr、パトリシア・クラークソン、レイ・ワイズ、フランク・ランジェラ、ジェフ・ダニエルズ
不撓不屈
2006年07月02日 日曜日
上野東急 ★★☆
■もやもやの残る飯塚事件
高杉良の同名の原作の映画化。この手の作品は、時間があるのなら原作を読んだ方がずっと面白そうだ。森川時久の名前は私には懐かしいものだったが、演出も古色蒼然としたもの。もっともこの映画の場合には、あながち間違った選択とは言い切れないだろう。それが、内容的にも昭和30年代という時代にも合致したものに見えたからだ。
ここで描かれる「飯塚事件」というのは、って何も知らなかったのだが映画によれば、税理士の飯塚毅(滝田栄)が経営基盤の脆弱な顧客の中小企業に勧めていた「別段賞与」や日当について、国税局との見解の相違があり、行き過ぎた国税局の嫌がらせの末、7年にもわたる裁判(税理士法違反で事務所の職員が4人も逮捕起訴される)闘争となった事件を指す。
国税局のふるまいにはあきれるばかりだが、中小企業が大企業に伍していくためには合法的節税に精励すべきという飯塚の主張にも、手放しで賛同できなかった。身近に脱税して当然と言って憚らない人間を何人も見てきた(あくどい税理士もいた)からだが、飯塚のすべきことはそういう言いがかりを付けられそうなことを推奨するよりは(合法ならどんな節税でもいいのだろうか)、税理士としてまぎらわしい税制を正すことではなかったかと思うのだ(専門外なので難しいつっこみはご勘弁。訊いてみたいことはいくつもあるが)。
映画にも飯塚の顧客が内緒で不正していたことが明るみ出てしまう話があり、飯塚は取引を中止するという「正しい」選択をするのだが、私にはどこまでももやもやが残った。が、映画からはそれることなので、これ以上は深く触れないでおく。
衆議院大蔵委員会税制小委員会であれだけ追求されながら、国税局に対してはどのようなお咎めがあった(なかった?)のかがはっきりしないので、映画としての爽快感には欠ける。自分の正しさが裁判で証明されただけで十分という飯塚の姿勢もこの展開も、事実を踏まえる必要があったにしても歯痒いばかりだ。
社会党の岡本代議士(田山涼成)はあれだけ怒ってたのに、矛先をおさめちゃったんでしょうか。いかにも政治家(おさめてしまったことも含めて)という感じの熱演だったのにね。永田議員の偽メール事件の轍を踏まないよう(って逆だけど)飯塚の妻(松坂慶子)が持ってきた情報の信憑性は確かめると、ちゃんと言ってましたがな。
滝田栄がさえないのは、愚直な人間を演じることの難しさか。助言されたこととはいえホテルに身を隠してしまうというのもねー。堂々としてないじゃん。この映画でよかったのは、顧客の1人であるエド山口や「良識ある」国税庁職員の中村梅雀でしょうか。
気になったのは、国会を映した映像に高層ビルがあったことで、セットやバスにいくらこだわっても、こういうことをするとせっかくの雰囲気が台無しになってしまう。CGには抵抗があるのかもしれないが、どちらがいいかは明白だ。
監督が森川時久で、国税庁告発というこの内容。けれどエンドロールには協賛企業の名前も連なっているのは、やはり時代かしらね。
【メモ】
一円の取りすぎた税金もなく、一円の取り足らざる税金もなからしむべし」(飯塚の事務所に掛かっていた言葉)
2006年 119分 角川ヘラルド映画
監督:森川時久 製作・企画:綾部昌徳 原作:高杉良『不撓不屈』 脚本:竹山洋 撮影:長沼六男 美術:金田克美 音楽:服部克久
出演:滝田栄(飯塚毅)、松坂慶子(飯塚るな子)、夏八木勲(法学博士・各務)、三田村邦彦(関東信越国税局直税部長・竹内)、中村梅雀(国税庁職員・重田)、田山涼成(岡本代議士)、北村和夫(植木住職)
バルトの楽園
2006年07月08日 土曜日
109シネマズ木場シアター4 ★★
■ヘタクソな演出に美談もかすむ
1914年、第一次大戦に参戦した日本は、青島攻略で捕虜にしたドイツ兵4700人を日本に強制連行。1917年には全国で12ヵ所あった収容所が6ヵ所に統合されることになり、徳島県鳴門市にある板東俘虜収容所には久留米からの捕虜が移送されてくる。
ここの所長だった松江豊寿(松平健)の、温情ある捕虜の扱いを描いたのがこの映画。戦時下の美談(もっとも日本としてはそれほどの危機感はなかったのではないか)で、だから感動話。楽器の演奏、新聞の発行、パンを焼きお菓子を作る、およそ俘虜収容所というイメージからは遠いことが行われていて、捕虜たちが地元の学生たちに器械体操や演奏を教えるといった交流もあったという。
この話の概略は知っている人も多いだろう。私もユーハイムの創業については耳にしたことがあり、同様の話は映画にもあった。が、簡単に調べてみると細部ではかなり違っている(http://www.juchheim.co.jp/group/baumkuchen/index.html)。もちろんそんなことは大した問題ではないのだが、脚色してのこのデキに少々がっかりだったのである。
一々あげつらっても仕方ないが、例えばハインリッヒ少将(ブルーノ・ガンツ)の自殺シーンなど決定的な演出ミスだろう。あれでは自殺でなく狂言になってしまう。影に気付いて飛び込んだ兵隊に取り押さえられて腕を撃ってしまうというのならわかるのだが。
だいたいこの将校の書き込みはひどく、尊大にしかみえない。皇帝への忠信と人一倍のプライドはあったようだが、他の捕虜とは違う部屋を与えられて、あとは一体何をしていたのだろう。
それに比べると松江豊寿については手厚く、会津藩出身故の明治政府の冷遇などを父(三船史郎だ!)のエピソードに絡めて語っていた。軍部による俘虜収容所の評価は度々出てきたが、この時代の日本の国際社会における位置などの説明はもっとあってもよかったのではないか。
俘虜収容所の群像劇という面もあるので、故郷の母に手紙を書く若い水兵ヘルマン・ラーケ(コスティア・ウルマン)に新聞の取材をさせカメラ撮影させる線でまとめていこうとしたのだろうが、中途半端だから収まりが悪い。ただ彼とマツ(中山忍)のほのかな恋は、折り鶴が染料に落ちる出色のシーンがあって忘れがたい。折り鶴に綴られた文字はマツには読むことが出来ない文字なのだ。しかしそれすらも染料によって消えていってしまうのである。
1918年の第一次世界犬戦終結で解放が決まった捕虜たちは、感謝の気持ちを込めて『交響曲第九番 歓喜の歌』を演奏する。日本における「第九」の初演ということらしいが、このクライマックスがまた唐突。話の1つ1つはくっきりしているのに、流れがないのは最後まで変わらない。
さらに演奏の最中に、松江にもハインリッヒにも席を立たせるという失礼なことまでさせる。演奏にかぶせてフィナーレを演出したいのはわかるけどねぇ。最後の最後はカラヤンの演奏まで持ってきて、ぶち壊しもいいとこだ。貧弱な楽器に、たぶん一部には演奏者も。それでも心を打たれたのではなかったのかな。
【メモ】
楽園は「らくえん」ではなく「がくえん」と読ませる。バルトはドイツ語で髭の意。
板東俘虜収容所は3億円を投じて徳島県鳴門市に忠実に再現されたもの。
ハインリッヒ少将「我々は捕虜であって野蛮人ではない」。でもその前に松江に「君にこの音楽がわかるかね」というくだりがあって、君たちは野蛮人だと言っているみたいなのだが。
ユーハイムの創始者がいたのは広島県似島で、広島物産陳列館(現在の原爆ドーム)で開かれたドイツ作品展示即売会に、バウムクーヘンを出品した(1920年)とある。
予算の削減を強いられた松江は、捕虜達に伐採仕事をさせ、経費を補充。
この映画のパン屋職人(オリバー・ブーツ)は、最後は戦友の娘(大後寿々花)を引き取って日本に永住することを決める。彼は脱走名人?なのだが、市原悦子に助けられ収容所に帰ってくるエピソードも。
大後寿々花は青いコンタクトであいの子役に。彼女の父親は神戸で働いていたドイツ人で、志願して戦争に出たが戦場で日本人と戦うことを拒み、戦死してしまう。
國村隼と泉谷しげるがなかなか。板東英二は声がうわずっていたがこういう人はいる。平田満の演技の方が気になった。
2006年 134分 東映
監督:出目昌伸 製作:鶴田尚正、冨木田道臣、早河洋、塚本勲、滝鼻卓雄、渡部世一 プロデューサー:野口正敏、妹尾啓太、冨永理生子、ミヒャエル・シュヴァルツ 製作総指揮:岡田裕介、宮川日斤也 企画:土屋武雄、中村仁、遠藤茂行、亀山慶二 脚本:古田求 撮影:原一民 特撮監督:佛田洋 美術:重田重盛 美術監督:西岡善信 編集:只野信也 音楽:池辺晋一郎 音響効果:柴崎憲治 照明:安藤清人 助監督:宮村敏正
出演: 松平健(松江豊寿)、ブルーノ・ガンツ(クルト・ハインリッヒ)、高島礼子(松江歌子)、阿部寛(伊東光康)、國村隼(高木繁)、大後寿々花(志を)、中山忍(マツ)、中島ひろ子(たみ)、タモト清嵐(林豊少年)、佐藤勇輝(幼い頃の松江)、三船史郎(松江の父)、 オリヴァー・ブーツ(カルル・バウム)、コスティア・ウルマン(ヘルマン・ラーケ)、 イゾルデ・バルト(マレーネ・ラーケ)、徳井優(広瀬町長)、板東英二(南郷巌)、大杉漣(黒田校長)、泉谷しげる(多田少将)、勝野洋(島田中佐)、平田満(宇松/馬丁)、市原悦子(すゑ)
リトル・ダンサー
2006年07月09日 日曜日
早稲田松竹 ★★★★
■ビリーはとにかく踊ることが好き
女の子のものと思われがちなバレエに夢中になってしまう11歳の男の子に、それとは不似合いな炭坑不況下(1984年)のイングランドのダーハムという町を背景にした、でも話は、定番ともいえる夢の成功物語。
ボクシング教室には気乗りしないが、同じフロアに引っ越してきたバレエ教室なら見ているうちに踊りだしてしまうビリー(ジェイミー・ベル)。ウィルキンソン先生(ジュリー・ウォルターズ)も彼の素質に、バレエへの情熱を取り戻したかのようだ。
話は単純だが、場面や会話の積み重ね方には唸らされる。初レッスン後にウィルキンソン先生に「楽しかった?」と声をかけられるのだが、ビリーが答えないでいると「どうぞお好きに」と言ってさっさと車で帰ってしまう。先生のビリーに対する距離感はなかなかで、この2人の関係が最後までいい感じなのだ。
ビリーのバレエ教室通いが始まるが、男はボクシングかサッカーと思っている父親(ゲイリー・ルイス)には内緒だ。それがばれてしまった時の問答。「何故いけない」「わかっているはずだ」「ききたい」父親は答えずビリーを殴る。当然すぎて説明できない父親を、さもありなんという感じで簡潔にみせる。
ビリーの父と兄トニー(ジェイミー・ドレイヴン)は炭坑夫で、肉体労働という環境もあるのかもしれない。兄は労組の中心的人物で、炭坑はストの真っ最中。労働者と警官隊が睨み合う風景が日常となっている。収入が途絶えた状況で、わずかとはいえボクシング教室のお金がバレエ教室に使われていたのではねー(クリスマスには父が母のピアノを薪にしてしまうシーンも出てくる)。
父にばれたあとのビリーの怒りのダンスシーンは圧巻だ。感情のおもむくままにステップを踏み、町中に飛び出していく。背後の左手に白い船がゆく坂道で踊るビリーや、ストと対比した画面がきいている。
ビリーは女の子趣味でバレエが好きなのではなく、純粋に踊りが好きなのだ。彼の親友にゲイのマイケル(スチュアート・ウェルズ=なんとも可愛らしい)を配することで、この説明もあっさりやってのける。18歳のビリー宛に手紙を残していた、死んだ母親の説明もこうだ。「素晴らしい人だったのね」「普通の母親だよ」
クリスマスの夜に再び父と対峙したビリーのダンス(このダンスシーンも見ものだ)に、父はスト破りを決意する。ロイヤル・バレエ学校のオーディション費用を工面する方法が他にみつけられないのだ。仲間がピケを張る中、のろのろ進むバスの中にいる父親。まるで晒し者を連行するかのようだ。
これは仲間の募金と祖母(ジーン・ヘイウッド)の力でなんとか切り抜け、オーディションへ。緊張。歓喜。続いて家族や先生、マイケルとの別れ、そしてラストの大人になって成功したビリー(アダム・クーパー)の公演シーンまでと続くのだが、実はこのまとめて書いた部分にはあまり感心できなかった。
オーディションで踊っている時の気分を尋ねられたビリーの答えが、なんだか長ったらしくて弁解じみて聞こえてしまったのだ。ありったけの感情を込めて踊りまくっていたビリーが、あがって力を出し切れなかったにしても、バレエに無関心で何もわからない父にスト破りを決心させた力を「踊り出すと何もかも忘れて、自分が消えます。まるで自分が鳥になったみたいに……」というようなありきたりの言葉で置き換えてしまうなんて。バレエ学校の先生たちはどこを見ているんだろう。
祖母との別れのシーンはよいけれど、兄とのそれはやはりやや長い。家のそばにいつもいた小さな女の子とのあっさりした別れ程度で十分なのに。オーディションシーンにがっかりしたものだから、そのあとからは点が辛くなってしまったようだ。
【メモ】
祖母はボケだして物忘れはひどいし、迷子になってしまったり。でも最初からビリーの味方。自身もダンサーになれたのに、というのが口癖。母がアステアのファンで、映画を観た晩は一緒に踊ったというような話もしていた。
最初のオーディションは兄の逮捕で、ウィルキンソン先生との待ち合わせ場所に行けなくなる。
原題:Billy Elliot
2000年 111分 ヴィスタ イギリス 日本語字幕:戸田奈津子
監督:スティーヴン・ダルドリー、脚本:リー・ホール、撮影:ブライアン・テュファーノ、音楽:スティーヴン・ウォーベック
出演:ジェイミー・ベル、ジュリー・ウォルターズ、ゲイリー・ルイス、ジェイミー・ドレイヴン、ジーン・ヘイウッド、スチュアート・ウェルズ、アダム・クーパー
リトル・ランナー
2006年07月09日 日曜日
早稲田松竹 ★★☆
■悪ガキが奇跡を信じるとき
父が戦死していない14歳のラルフ(アダム・プッシャー)は、母親のエマ・ウォーカー(ショーナ・マクドナルド)と2人暮らしだ。母の入院で施設送りの危機となるが、祖母の手紙を親友のチェスターに偽造してもらってしのぐ。そんなこともへいちゃらな彼はいたって脳天気。性への興味は人一倍だし、校則破りの常習犯として校長のフィッツバトリック神父(ゴードン・ピンセント)に目をつけられている有様だ。
はじめのうちは、少年の性の目覚めが主題かと思われるような内容が続く。が、母が昏睡状態に陥ってからはラルフも、性的好奇心はなくならないようだが、少しは心変わりしたかのようだ。だからって状況は変わらない。看護婦のアリス(ジェニファー・ティリー)からは「医師によれば、奇跡でも起きない限り目覚めることはない」のだと言われてしまう。
ところが、罰で校長に入部させられたクロスカントリー部で、コーチのヒバート神父(キャンベル・スコット)が「君たちがボストンマラソンで優勝したら奇跡だ」と語るのを聞き、ラルフは自分が奇跡を起こせば母を助けられると思い込み、猛練習をはじめる。
奇跡の連鎖反応とは辻褄の合わない話だか、こういう考え方をしてしまう気持ちはわからなくはない。ただ映画は、この奇跡問題をあくまで宗教の奇跡と対比する。そして50年代のカトリック学校という設定だから、フィッツバトリック神父のように厳格で融通のきかない校長がいてもおかしくなさそうなのだ。
校長にとっては「神の僕が奇跡を追い求めるのは神への冒涜」でしかないのだが、宗教のわからない人間にとっては、この映画こそが(校長が考えるような)神への冒涜と揶揄に満ちているようにみえる。でも、だったら映画の章分けに聖人歴を使っているのにはどういう意味があるのだろう(この時点で私などお手上げと思ったものね)。
はじめはチェスターとクレア(タマラ・ホープ)だけがたよりのめちゃくちゃな訓練だったが、アリスはウェイト・トレーニングを取り入れるよう助言してくれるし、ヒバート神父もコーチを買って出てくれることになった。ペース配分ができず散々だった地元(カナダ)のレースにも優勝し、ついにボストンマラソンを走る日がやってくる(途中でラルフが過失から出火し家を失ってしまうエピソードもあった)。
チェスターは実況放送のために放送室を占拠。友達は応援し、クレアは祈る。アリスは母にラジオを聞かせる。偽造手紙を見破ったこともありボストンで走ったら退学と脅かしていた校長までが、ラルフの走りに夢中になる。
ラルフは沿道の人の中に神の姿を見、声援をはっきり聞き、必死に走る(しかし何で神がサンタの姿なんだ。その人にとって一番わかりやすい形で現れてくれたのかしらね。そういえば、彼が走ることを決めたのもサンタによる啓示だった)。まわりのみんなを巻き込み、奇跡を起こそうとするそのことが奇跡に値するということなのだろう。原題がSaint Ralphなのはそれでなのか(だからって納得はしていないが)。優勝できなくても、優勝が奇跡というのなら奇跡は起こらなくても、母は目覚めるのだし。
話はそれるが、次のは最近の私の説。奇跡は、猫が眠るようにありふれて起きる。ただそれに気付くことは少ない。そして、気付くことこそに意味がある。以上。
ところで、この映画ではヒバート神父がカナダ代表の元オリンピック選手だったり、ラルフが準優勝するのは53回ボストンマラソンということだが、どこまでが本当なんだろうか?
【メモ】
1953年、カナダ・ハミルトンのカトリック学校。
プールの更衣室事件。ロープ登り事件。
最初の10マイルレースは完走がやっと。
チェスター「ボストンマラソンに出場すれば、校長を最高に怒らせることができる。それに、君なら優勝できるよ」
校長は、ラルフだけでなくヒバートにも修道会からの追放を匂わせる。
ヒバート神父(ニーチェが愛読書?)「どんな選手も、32キロを過ぎると祈り出す」
原題:Saint Ralph
2004年 98分 ビスタサイズ カナダ 日本語字幕:■
監督、脚本:マイケル・マッゴーワン、撮影:ルネ・オーハシ、美術:マシュー・デイヴィス、音楽:アンドリュー・ロッキングトン
出演:アダム・プッシャー(ラルフ・ウォーカー)、キャンベル・スコット(ヒバート神父)、ジェニファー・ティリー(アリス看護婦)、ゴードン・ピンセント(フィッツパトリック神父)、タマラ・ホープ(クレア・コリンズ)、ショーナ・マクドナルド(エマ・ウォーカー)
ローズ・イン・タイドランド
2006年07月15日 土曜日
新宿武蔵野館2 ★★☆
■R-15指定の子供映画
10歳の少女ジェライザ=ローズ(ジョデル・フェルランド)が見て感じた世界をそのまま映像化したような作品。
もっともそのままかどうかはすこぶる怪しい。彼女が生きている世界がそもそも現実味に乏しいのだ。それに彼女が画面に映し出されるということは、厳密には位置関係なども違うことになる。だから、その時は現実と解釈した方がわかりやすいのだが、そこらへんは曖昧だ。
両親共ヤク中で、母親(ジェニファー・ティリー)がクスリの過剰摂取で死んでしまうと、父(ジェフ・ブリッジス)はテキサスにあるすでに亡くなった祖母の家へローズを連れて行く。そこは草原の中の廃屋寸前の一軒家で、父もクスリの力で「バケーション」に行くと言ってそれっきりになってしまう。なんとこのあとのジェフ・ブリッジスは、死体役を続けることになる。
ローズは父の死を認識するでもなく、家の中や黄金色に輝く草原で独り遊びを続ける。焼け焦げてひっくり返ったスクールバスを見つけ、たまに通る列車に狂喜する。学校にも行っていないローズの友達はバービー人形の頭4つだけで、別段それを苦とも思っていないようなのだが(リスとも話が出来ちゃうから?)、やがて近所に住むデル(ジャネット・マクティア)とディケンズ(ブレンダン・フレッチャー)の姉弟に出会う。
デルは黒ずくめで蜂に片目さされたという薄気味悪い女性で、ローズは最初幽霊女と思い込む。弟のディケンズは知的障害者で、この隣人たちとの交流もかなりきわどいものだ(子供が主役なのにR15指定だものね)。デルは性的行為と引き換えに食料品を男から手に入れているし、ローズはディケンズとキス遊びに興じ「結婚」する。
悪意としか思えない設定、そしてそこは死と腐臭に満ちているというのに、ローズには本当にそれらが見えていないのだろうか。だとしたらあまりに幼い。いくら社会性の乏しい環境で育ったにしても、これでは精神年齢からしたら5歳程度ではないか。いくら彼女の想像力が、大好きな『不思議の国のアリス』の影響を受けているにしてもだ。
最後は、死の集大成のような列車の脱線事故が起きる。列車はディケンズのモンスターシャーク退治(あのスクールバスはモンスターシャークにやられたらしい)にあえなく脱線してしまったのだ。この炎に包まれた光景は大がかりなもので、これがまた不思議な雰囲気を醸し出している。ローズはその事故現場を歩いていて1人の女性に乗客と間違えられ、拾われるような形となる。
この列車事故が本当であれば、ローズにとっては不幸中の幸いか。この大惨事すらも幻想というのなら、彼女の願望でもあるだろうから、いくら幻想の世界に遊んでいてもローズはやはりちっとも救われてなどいなかったということになる。
少女の想像世界の映像化は、草原に海を出現させるなど、たしかに良く出来てはいるが、それにしても長い。半分程度で十分と思ったのは私の趣味に合わなかったこともある。きっちり解読したなら何か見えてくるのかもしれないが、くたびれてしまったというのが正直なところだ。
【メモ】
tideland 【名】 干潟、低い海岸地帯 この干潟という言葉に、陸地と海(現実と夢)の境界線というような意味をもたせているのだろうか。
父親は元ロックスター。彼は昔を懐かしんで、母親のことを「グンヒルド王妃」と呼んでいるが、美貌は過去のもので下腹もたるんでいる。ローズは足をもんであげている。母親はメタドンによるショック死。
当然のように父親にクスリを持ってきて注射の手伝いをするローズ。死んだ父親の膝の上でローズが目覚めるシーンも。父親にお祖母ちゃんのかつらをつける。次の日?には死体は悪臭を放ち、ローズはおならをしたと言う。
うさぎの穴に落ちるローズは、ほぼアリスのイメージ)。草原の海の中を行くローズ。ウェットスーツ姿のディケンズ。
水平線の傾いた絵(映像)。これは何度も出てくる。
原題:Tideland
2005年 117分 スコープサイズ イギリス/カナダ R15 日本語字幕:■
監督:テリー・ギリアム、脚本:テリー・ギリアム、トニー・グリゾーニ、原作:ミッチ・カリン、撮影:ニコラ・ペッコリーニ、音楽:マイケル・ダナ、ジェフ・ダナ
出演:ジョデル・フェルランド(ジェライザ=ローズ)、ジェフ・ブリッジス(父親ノア)、ジェニファー・ティリー(母親グンヒルド王妃)、ジャネット・マクティア(デル)、ブレンダン・フレッチャー(ディケンズ)
ブレイブ ストーリー
2006年07月17日 月曜日
新宿ミラノ2 ★☆
■何をやってもいいわけがない
宣伝も派手だったし、たまたま宮部みゆきの小説を続けて読んだこともあって期待してしまったが、恐ろしくつまらない作品だった。なにしろ展開が速すぎるのだ。長篇の映画化だから仕方がない面はあるにしても、緩急はつけないと。最初から最後までせっつかれていては物語に乗れない。
両親の離婚と母がそのショックで倒れてしまうという危機に直面した小学5年生のワタル。
謎の転校生ミツルの言葉に誘われるように、幽霊ビルの階段の上にある運命を変えるという扉を開く。そこはヴィジョン(幻界)と呼ばれる異世界で、ワタルは5つの宝玉を見つけ、女神のいる運命の塔を目指して旅に出る。という少年の成長物語。
宝玉の話もありきたり(どこぞのスタンプカードみたいに最初の1個はすでにあったりするのね)なら、途中、仲間ができていくくだりも定番ともいえるものだ。それはかまわないのだが、多分そこに至る過程をごっそり省略してしまっているから、キ・キーマやカッツ、それにミーナたちは、キャラクターとしての存在感も薄いし、なによりワタルとの連帯感が感じられないときてる。ミツルに至っては関係も一方的で、2人はとても友達とは思えない。
これでは「オレのためだけに生き」て、どこかで間違ったというミツルと、「願い事のためだったら何をやってもいいのかな?」と迷い、最後にはもう1人の自分と決着をつけ、運命を受け入れることになるワタルという対比が台無しだ。
せっかくのこのテーマを台無しにしているのは、ラストの描き方にもある。ワタルの運命は変わらないのに(離婚の成立、母は元気に)、ミツルの運命は変わっている(妹は生きている)のはどう解釈すればいいのだろう。一応子供向け映画でもあるのだから、ここはもっと単純でよかったのではないか。
そういえばイルダ帝国ってなんだったんだろ? 魔の力が解き放たれて戦争とかしてたよな。私には最後まで関係ない世界の話で、ワタルのようにヴィジョンを救わなきゃとは思えなかったのね。
【メモ】
雨粒がでかすぎ(雨を上からとらえたシーン)。
お試しの洞窟での「蛙は帰る」とんちはいただけない。
体力平均、勇気最低、総合評価35点で「見習い勇者」。
ドラゴンの子供の扱い。ネジオオカミ。ハイランダーになるワタル。
2005年 111分 アニメ
監督:千明孝一 、アニメーション制作:GONZO 、脚本:大河内一楼 、原作:宮部みゆき『ブレイブ・ストーリー』 、撮影:吉岡宏夫 、編集:瀬山武司 、音楽:Juno Reactor
声の出演:松たか子(三谷亘/ワタル)、大泉洋(キ・キーマ)、常盤貴子(カッツ)、ウエンツ瑛士(芦川美鶴/ミツル)、今井美樹(運命の女神)、田中好子(三谷邦子)、高橋克実(三谷明)、堤下敦[インパルス](犬ハイランダー)、板倉俊之[インパルス](若い司教)、虻川美穂子[北陽](小村克美/カッちゃん)、伊藤さおり[北陽](小川)、柴田理恵(ユナ婆)、伊東四朗(ラウ導師)、石田太郎(ダイモン司教)、樹木希林(オンバ)
ゆれる
2006年07月17日 月曜日
新宿武蔵野館1 ★★★★☆
■みんな吊り橋を渡りたいらしい
「なんで兄ちゃんあの吊り橋渡ったの」という早川猛(たける=オダギリジョー〉のセリフは予告篇にも登場するのであるが、観終わったあとも暫くはこの意味がはっきりしないままだった。
でも何のことはない、吊り橋を渡って(田舎を捨て)東京でカメラマンという華やかな仕事をしている(まあ成功しているようだ)弟の猛と、吊り橋を渡れずに(田舎にとどまって)いる兄の稔(香川照之)と単純に考えればよかったのだ。
実家で頑固な父親(伊武雅刀)とガソリンスタンドを経営している稔は、温厚で優しい性格で、だからいろいろなしがらみの中にいる。田舎町という閉塞的な環境で折り合いをつけながら生活していることは、母の一周忌の場面であきらかだ。服装のことも気にせず(少しはしてたか)久しぶりに帰った法事の場でさっそく父と衝突してしまう猛とは好対照で、稔はふたりの取りなしにやっきとなる。
今はガソリンスタンドで働く川端智恵子(真木よう子)は、猛と昔付き合いがあり、その日も法事のあとスタンドに寄った猛の送っていくという口実のままに、結局は彼をアパートに上げ関係を持ってしまう。他人行儀でいようとしていたのに、猛の「(兄貴と)ふたり息が合ってるね、嫉妬しちゃったよ俺」という悪魔のような囁きに応えてしまうのだ。実は彼女も、昔猛と一緒に東京に出ようとしたことがあったのに、「吊り橋を渡ることができなかった」のだ。
翌日は3人で近くの渓谷に遊びに行くことになっていて、ここの吊り橋で問題の事故が起きる。
先に吊り橋を渡った猛を探しに行くかのように智恵子が渡り始めると、背後から追ってきた稔がしがみつく。稔はゆれる吊り橋が怖いのだが、智恵子にはそれがわからない。いや、知っていたのかもしれないが、猛が見ている可能性のあるところで抱きつかれたくないという気持ちも働いたのではないか。
この吊り橋を渡る、渡ろうとする関係性はあまりに図式的ではあるが(なのに最初に書いたように暫くの間わからなかったのだが)、そこで起きる智恵子の転落が過失なのか故意なのかという興味へ映画は突き進んでゆく。猛は現場を見ているのに、観客にはその場面はあかされない。だから裁判を通して、場面が二転三転すると観客もそれに引きずられ、真実がどこにあるのかと考えさせられるというわけだ。
話をまとめると、事実は次のようになるだろうか。
稔は智恵子と結婚を考えていた。彼はそれを言い出せないでいたが、彼女も周囲もそう思っていてくれたはずだ。が、猛の帰省で状況は一変する。あの晩、猛が智恵子と酒を飲んだと嘘をついたことで稔にはすべてがわかってしまったのだ(稔が背中をまるめるように洗濯物をたたんでいた場面は印象深い)。
智恵子の心も川原では、すでに東京に行って猛と新しい人生を始めていた。なのに猛ははぐらかすようにその場から去り、吊り橋を渡って行ってしまう。ふたりのことはおかまいなしに、花の写真を撮ることに夢中になっているのは東京での生活を暗示しているかのようだ。
稔にとって智恵子が猛を追うことはたまらないことだったろう。智恵子は希望の光だったのだから。稔だって吊り橋を渡って、猛のように生きていきたかったのだから。拘置所で猛に向かって、仕事は単調で女にもてず家に帰れば炊事洗濯に親父の講釈を聞き、とぶちまけるのも当然だ。それでもやはり智恵子が死んでしまったことでは、自責の念に駆られたはずである。
そして稔は、自分が吊り橋を渡れないばかりか(猛には何故渡ったと言われるが)、引き返す場所さえもないことを悟って判決を受け入れるのだ。もしかしたら猛が裁判に熱心で、弁護士の伯父(蟹江敬三)を担ぎ出したことにもいらついたのではないか。
次第に、猛にとっては知らない兄が姿を現してくる。人を信じないのがお前だとか自分が人殺しの弟になるのがいやなだけとまで言われて、彼も兄が智恵子を突き落としたと証言してしまう。自分の兄貴を取り戻すために。しかしその兄貴とは、自分にとって都合のいい兄ではなかったか。「兄のことだけは信じられたし、繋がっていた」と言うけれど、彼には何も見えていなかったのだ。
法事で見つけた母の8ミリフィルムを、何故か7年後に見ている猛。そこには、幼い猛が怖がる稔の手を引いて吊り橋を渡ろうとしている映像が残こされていた。
刑期を終えた稔をやっと見つけた猛が、道の向こう側から大声で呼びかける。猛に気付いて、とりあえず稔は笑ってしまうのだ。たぶん昔からの癖で。笑顔はやって来たバスに隠れてしまう。稔はバスに乗ったのだろうか、残ったのだろうか。
猛としては兄を今度こそ本当の意味で取り戻そうとしているのだろうけどね。この時点では「最後まで僕が奪い、兄が奪われた」と認識しているわけだから。でも、どうなんだろ。私が稔ならもうそんなことには関わりたくない気がする。兄弟というものがよくわかっていないし、必要性も感じていない私としては、少々食いつきにくい最後だ。
結末は観る人によっていくらでもつけられるだろう。強いて言うならその部分と、映像的な面白味に乏しいこと(これは全体にいえる)が惜しまれる。あとは智恵子が忘れ去られてしまったことが、悲しくて可哀想だ。彼女の母親も言っていた。「智恵子は殺されるような子だったのかな」と。
【メモ】
巻頭の東京の事務所での猛。冷蔵庫は開けっ放しで平気だし、女性の存在も。
渓谷は蓮美渓谷(架空の場所?)。
智恵子の母親は再婚(アパート暮らしだが、智恵子も居場所がない?)。
「怖いよ、あの人もう気付いているんじゃないかな」(智恵子のセリフ)。
猛に小遣いを渡す稔。
水を流しながら動くホース。
8ミリ撮影が趣味だった母が残したフィルムの日付はS55.9.8。
2006年 119分 1:1.85(ビスタサイズ)
原案・監督・脚本:西川美和、撮影:高瀬比呂志 、編集:宮島竜治 、美術:三ツ松けいこ 、音楽:カリフラワーズ
出演:オダギリジョー(早川猛)、香川照之(早川稔)、伊武雅刀(早川勇)、新井浩文(岡島洋平)、真木よう子(川端智恵子)、蟹江敬三(早川修/弁護士)、木村祐一(検察官)、ピエール瀧(船木警部補)、田口トモロヲ(裁判官)
機械じかけの小児病棟
2006年07月17日 月曜日
シネマスクエアとうきゅう ★★☆
■意外と凝ったホラーだが
老朽化のため閉鎖間近のイギリス、ワイト島にあるマーシー・フォールズ小児病院に、看護婦の欠員があってエイミー(キャリスタ・フロックハート)が派遣されてくる。そこは忌まわしい過去が封印された病院だった……。
同僚の看護婦ヘレン(エレナ・アナヤ)や看護婦長フォルダー(ジェマ・ジョーンズ)を微妙なところ(敵か味方か)に置いて、エイミーの活躍にロバート医師(リチャード・ロクスバーグ)の協力で、昔の惨劇が明かされていく。なんでもフォルダーがこの病院に来たばかりの頃、看護婦が女の子を骨折させていた事件があったというのだ(もっともこれがわかるのは最後の方)。入院患者の子供たちが2階(ある事件で閉鎖されていた)の物音に怯え、その中で霊感の強いマギーという子が、全身に金属の矯正器具を付けたシャーロットという女の霊が出ていると言っていたのは本当だったのだ。
最初に病院から搬送されようとしたサイモンという男の子の骨折シーンは、その霊の仕業だったというわけか。でも何故。それにあれはいかにもレントゲンを撮ることで骨折が引き起こされたような映像だったが? 医師自身が骨折箇所が増えていることに疑問を呈しているのだが、説明がヘタでなんともまぎらわしい。
前任の看護婦スーザンの死については、彼女が相談していたという霊媒者姉妹をエイミーに訪問させて、「死期が近づいている者にのみ霊が見え」「彼ら(霊)は愛するもののそばにいようとする」と解説させる。そして、これがちゃんとした伏線になっていたのだけど、なんとなく霊媒者まで出してきたことで、うさんくさくなって、ちょっと馬鹿にしてしまっていたのね。
エイミーとロバートが必死になって事件のカルテを見つけようとするあたりからは急展開。シャーロットが実は看護婦で、マンディ・フィリップスというのが患者である少女の名前だったことが判明する。シャーロットはマンディを虐待し、退院させたくないために彼女の骨を折っては退院を延期させていたというのだ。うわわわ、サイモンの骨折もこれだったのだ。事件が明るみにでて有罪となった彼女はマンディを殺害し(可能?)、自分に矯正器具を付け(これがわからん)自殺し、幽霊となって出ていたのだと。
よくできた話とは思うが、全体の見せ方があまりうまいとはいえない。矯正器具を付けた幽霊が、それこそ矯正器具で固定されているようで全然怖くないし、途中で映画を幽霊ものと思ってしまって興味を半減してしまったということもある。ま、これは私が悪いのだけれど。ここまで脚本に凝っているとは思わなかったのね。最後になって急に盛り上がられてもなーという感じ。ロバート医師も中途半端だったかなぁ。
【メモ】
閉鎖が決まった病院は、入院患者や医療機器の移送がはじまっていたのだが移送の最終日に大規模な鉄道事故が発生する。患者たちを移す予定だった近隣の病院は負傷者があふれ、病院の閉鎖はしばらく延期されることになる。
エイミーも2階の物音や異変に気付き、エレベーターに閉じ込められたりもする。
エイミーはスーザンの自宅を訪ねるが、彼女はその前日に運転する車がスリップ事故を起こして死亡していた。
続いて、病院の従業員ロイの不審死(窓に飛び込む)。
エイミーにも自分のミスで患者を死なせているという過去がある。
死期が迫っていたスーザン、マギーには霊の姿が見える。そして、エイミーにも……。
原題:Fragile
2005年 102分 シネマスコープ スペイン 日本語字幕:関美冬
監督:ジャウマ・バラゲロ 脚本:ジャウマ・バラゲロ、ホルディ・ガルセラン 撮影:シャビ・ヒメネス 音楽:ロケ・バニョス
出演:キャリスタ・フロックハート(エイミー)、リチャード・ロクスバーグ(ロバート)、エレナ・アナヤ(ヘレン)、ジェマ・ジョーンズ(フォルダー)、ヤスミン・マーフィ(マギー)、コリン・マクファーレン 、マイケル・ペニングトン
幸せのポートレート
2006年07月22日 土曜日
シャンテシネ3 ★★☆
■あー大変、疲れちゃうよ
ニューヨークのキャリア・ウーマン、メレディス(サラ・ジェシカ・パーカー)が、恋人のエヴェレット(ダーモット・マローニー)に連れられて、クリスマス休暇を過ごすためにストーン家にやってくる。
結婚相手の家族とうまくやっていけるかどうかは、現代のアメリカ女性にとっても大問題のようだ。仕事のようにはいかないとわかってか、家に入る前からメレディスは緊張気味。で、これがえらく難問だったとさ。
メレディスに対するストーン家の反応は過剰で、あまりにも意地悪すぎ。1度会ったことのある次女のエイミー(レイチェル・マクアダムス)が吹き込んだメレディス評のせいかもしれないし、母親のシビル(ダイアン・キートン)などは癌が再発したという事情があるのだけど、それを差し引いたにしてもいただけない。すべてがオープンで、エイミーの初体験相手の名前が飛び出すような気取らないストーン家と、スーツで身を固め、妹のジュリー(クレア・デインズ)との電話にもプライバシーだからと人払いをせずにはいられないメレディスは、火と油にしてもだ。
異色なのはエヴェレットもで、だからメレディスを相手に選んだのだろうか(もっともこの点については違う展開になるのだが)。シビルによれば、彼は理想家で完璧を目指しすぎるらしい。で、本当に求めているものに気付いていないと最後までメレディスとの結婚に反対するのだが、この理屈はよくわからない。
メレディスは応援のつもりで呼び寄せたジュリーが人気をさらって裏目になるし、さらに3男のサッド(タイロン・ジョルダーノ)に話題が及んで、とんだ侮辱発言を開陳してしまう。サッドは聾者でゲイ。彼の相手で黒人のパトリック(ブライアン・ホワイト)も家族の一員になりきっている。「親なら誰も子が障害を持つことを望まない」と言うメレディスに「自分の子がみんなゲイであればと願ったわ。女の子に取られないから」とサッドたちに気遣いをみせるシビルだが、そのことには気付かないメレディスは、自分の発言を取り繕うとして失言を重ね、父親のケリー(クレイグ・T・ネルソン)に「もう沢山だ」とまで言われてしまうのだ。
これでメレディスの評価が下がるというのなら仕方ないのだけどねー。もっとも次男のベン(ルーク・ウィルソン)はメレディスにはじめから好意的だったから一方的に怒ることなく、慰め役にまわることになる。
で、結局メレディスとベン、エヴェレットとジュリー、さらにはメレディスのおかげエイミーに初体験の相手という組み合わせが誕生するのだが、さすがに少しやりすぎだし理屈(じゃないけどね)からいっても飲み込みにくい。脚本は、人物の交通整理はよくできているのに肉付けがまずいのではないか。
メレディスは意外にもストーン家に近い面があり、で、それはなるほどと思えるのだが、ジュリーについてはもう少し何かがほしいところだ。最初からストーン家に受け入れられるのは、メレディスの逆バージョンと受け取ればいいのかもしれないのだけどね。
それに比べるとメレディスはエヴェレットに「プロポーズはしていない」とみんなの前で言われてしまうし、本当に散々な役。さすがに可哀想になってくるが、でもだからって共感するまでには至らない。出演者は多いんだけど、つまるところ彼らと違って、寄り添うべき人物が見つからなかったのだ。
末期癌の話も途中ですっ飛んでしまったけど、でもまあそれは最後に次の年のクリスマスシーンがあって、シビルの姿がそこにはなく、という終わり方になっていた。
邦題はメレディスがクリスマスプレゼントにストーン家の人たちに贈った額入りの写真からつけている。エヴェレットの机にあったものだと言っていた。シビルのお腹にエイミー(メレディスはエヴェレットと思っていた)がいた時のもので、この写真は最後にまた出てくる。
【メモ】
タイトルデザインは、書体もデザインもそれぞれ違うクリスマスカードで綴られる(雪や船の部分は動きがついている)。
メレディスが「結婚前なのにエヴェレットの部屋には泊まれない」と、エイミーの部屋を借りることになるのだが、エイミーはこれも気に入らない。ここでシビルは、メレディスに「あなたと寝たくないのね」とまで。
辛辣な言葉の数々。「礼儀がどうだろうとあんな女は願い下げ」「エヴェレットは自分のことがわかっていない」さすがにエヴェレットも反論する。「僕へのいやがらせか」「父さんにも失望した」これはだいぶ経ってからのセリフだが「母さんはみんなの人生をやっかいにした」とも(このあと指輪を渡されて「指輪はあなた次第」と)。
エヴェレットは、昔シビルから結婚相手をみつけて来たら祖母の指輪をあげると言われていた。このクリスマス休暇はその目的もあった。
ベンはメレディスに会ってその晩すぐ夢に見る。「君は小さな女の子で雪かきをしている。俺は雪なんだ。君がすくう」というもの。
この指輪をエヴェレットがジュリーにはめて取れなくなる騒動も。
原題:The Family Stone
2005年 103分 アメリカ 日本語字幕:松浦美奈
監督・脚本:トーマス・ベズーチャ 撮影:ジョナサン・ブラウン 編集:ジェフリー・フォード 音楽:マイケル・ジアッキノ
出演:サラ・ジェシカ・パーカー(メレディス・モートン)、ダーモット・マローニー(エヴェレット・ストーン)、ルーク・ウィルソン(ベン・ストーン)、ダイアン・キートン(シビル・ストーン)、クレア・デインズ(ジュリー・モートン)、レイチェル・マクアダムス(エイミー・ストーン)、クレイグ・T・ネルソン(ケリー・ストーン)、タイロン・ジョルダーノ(サッド・ストーン)、ブライアン・ホワイト(パトリック・トーマス)、エリザベス・リーサー(スザンナ・ストーン・トゥルースデイル)、ポール・シュナイダー(ブラッド・スティーヴンソン)、ジェイミー・ケイラー(ジョン・トゥルースデイル)、サヴァンナ・ステーリン(エリザベス・トゥルースデイル)
DEATH NOTE デスノート 前編
2006年07月23日 日曜日
新宿ミラノ3 ★★★★☆
■デスノートというアイディアの勝利
原作の力なのだろうが、とてつもない面白さだ。マンガ10巻で1400万部というのもうなずける。
「このノートに名前を書かれた人間は死ぬ」という「DEATH NOTE」を手に入れた夜神月(やがみらいと=藤原竜也)。法律を学び警察官僚を目指す正義感の強い彼が、神の力(この場合は死神だが)を手に入れたことで、どんどん傲慢になっていく。
デスノートを手に入れる前の彼がどんな人物なのかはいまひとつわからないのだが、司法試験一発合格という頭脳を持っているのであれば、ラスコリーニコフになっても不思議はない。しかもはじめのうちは服役中の凶悪犯や法の網からくぐり抜けたと思われる人物を始末していくわけだから、法による正義の限界を感じていた彼にとっては大義名分とカタルシスの両方が得られていたというわけだ。
もっともいくら処刑されるのが凶悪犯とはいえ、警察としてはキラ(いつしか巷ではそう呼ばれるようになっていて、信者までが現れる人気者となっていた)の行動を見逃すわけにはいかない。犯罪の大量死が世界中をターゲットにしていることから各国の警察やFBIも動きだし、インターポールは天才的頭脳を持つ探偵L(松山ケンイチ)を警視庁に送り込んでくる。
犯人が日本にいることが特定される理由も、もちろんLによって示されるのだが、Lが日本人(だよな。松山ケンイチは適役)ということもあって、急に世界が狭くなってしまう。些細なことなのだが、あまりに話が面白いので、日本に限定してしまうことが惜しく感じられたのだ。
Lの登場によって、キラ(月)との駆け引きは、天才対天才という側面を持ち、壮絶な頭脳戦となっていく。この設定は面白いに決まっているが、内容がともなわないといけないわけで、だからそういう意味でもすごいのだ(アラはあるけどね。でも着想とたたみかけるようなテンポで、観ているときはゾクゾクものなのだ)。
しかしこのことで、キラは自分を守るためにデスノートを使うようになってしまう。FBI捜査官レイ(細川茂樹)に、彼の婚約者でやはり元FBI捜査官の南空ナオミ(瀬戸朝香)と次々と手を下していくことになる。
ここまでくると本当にキラ(月)が犯罪のない理想社会を作り出そうとしているのかどうかはわからなくなっている。すでに彼にとってはLに勝つことが(自分の身を守ること以上かもしれない)最大の目的になっているように見えるからだ。
前編でのハイライトは、キラ(月)が幼なじみ秋野詩織(香椎由宇)までも手にかけてしまうことだ。流れとしては必然ながら、ここでも彼は冷酷なままなのだ。果たしていいことなのかどうか。彼の心理描写に時間を割いてもいいと思う反面、極力説明を排除した方がこの場合には合っていそうに思えるのだ。
ついでに言うと、芝居はCGの死神も含めて全員が大げさで、映画自体の雰囲気をテレビドラマ並のチャチなものにしている。でもそれがかえっていい。なにしろデスノートの存在が架空なのだから、リアリティはこの際不要。でないと警察があそこまでハッキングされっぱなしということなどもおかしいわけで、そういう部分の枝葉の説明に終始しだしたら、とたんにつまらなくなってしまうだろうから。
ということは、デスノートの存在につきるのかもね。そこには詳細なルールのようなことまで書かれていて、死因だけでなく死に至る行動までを決めることができるのだ。これをどのように操るかというのも見所で、Lとの攻防はまさにゲームのような面白さをみせる。キラ(月)はページの一部だけをちぎって使ったりもするのだ。
デスノートに触れた者だけにしか見えないという死神は、フルCGでいかにもという姿形なのだが、この存在感もなかなかだった。死神が何故デスノートを自分で使わないのか(使えないのか?)は不思議なのだが、彼の行動をみていると納得がいく。彼はあくまで傍観者を装い、デスノートを手にした者の意志に任せているのだ。が、夜神月に拾わせるようにし向けたのも間違いなさそうだ。死神の勘で、月が自分の意に叶った人物であることを見抜いていたのだろう。
となると次は弥海砂(あまねみさ=戸田恵梨香)をどう扱うかだが、前編ではほとんど明らかにならず(前編だけだと彼女は話をわかりにくくしているだけだ)、キラ(月)の運命と共に後編を待つしかない。それにしても10月までお預けとはねー。
【メモ】
南空ナオミが月を追いつめる。月の手が動きペンに伸びるが、南空ナオミは偽名を名乗っていた。
ポテトチップスの袋のトリック。隠しカメラの段階ではLが敗北するが、あとのシーンでは月の前に、Lは袋を持って登場する。
詩織の死。「キス、人前でしちゃった」
2006年 126分 ビスタサイズ
監督:金子修介、脚本:大石哲也、原作:大場つぐみ『DEATH NOTE』小畑健(作画)、撮影:高瀬比呂志、及川一、編集:矢船陽介、音楽:川井憲次
出演:藤原竜也(夜神月)、松山ケンイチ(L/竜崎)、瀬戸朝香(南空ナオミ)、香椎由宇(秋野詩織)、鹿賀丈史(夜神総一郎)、細川茂樹(FBI捜査官レイ)、藤村俊二(ワタリ)、戸田恵梨香(弥海砂)、青山草太(松田刑事)、中村育二(宇生田刑事)、奥田達士(相沢啓二)、清水伸(模木刑事)、小松みゆき(佐波刑事)、中原丈雄(松原)、顔田顔彦(渋井丸拓男)、皆川猿時(忍田奇一郎)、満島ひかり(夜神粧裕)、五大路子(夜神幸子)、津川雅彦(佐伯警察庁長官)、中村獅堂(死神リューク:声のみ)
ある子供
2006年07月29日 土曜日
早稲田松竹 ★★★☆
■子供が親になりまして……
20歳のブリュノはいい加減なヤツだ。まだ小学生か中学生くらいのスティーヴたちを使って盗みを働いてのその日暮らし。18歳のソニアが妊娠して入院すれば、同居していた彼女のアパートは貸してしまうし(映画は出産してアパートにソニアが帰ってくる場面から始まる。この導入部はよく考えられている)、生まれてきた子供にも関心がなさそうだ(わかるけどね)。彼女にも「(入院中に)見舞いにも来てくれないし」となじられていた。
一体ソニアはブリュノのどこを好きになったのだろう。ふたりが子犬のようにじゃれあう姿はあまりに無邪気すぎて、うらやましく思う反面、やはり子供の親としては心もとなくて心配になるばかりだ。
それでもソニアには子供を産んだ母親としての自覚がはっきりと芽生えているから救われる。ブリュノにはちゃんとした職に就いて欲しいのだが、ブリュノは「クズ共とは働けない」とどこまでもお気楽で、職安の列にも並びたがらない。
ソニアが代わりに列に並び、子供の乳母車をブリュノがひくことになるのだが、ひとりになった途端、盗品の売りさばき先(闇ルート)で子供が高く売れる話を思い出し、それこそ思いつきのように話をまとめ、売ってしまう。ここはあれよあれよという間に話が進み、すぐにお膳立てされた場所で子供とお金が交換されていく。
映画は、前編ドキュメンタリーのような作りで、だからこの場面は怖い。『息子のまなざし』と手法は似ているがカメラの位置は多少引き気味で、多少は余裕をもって画面を追えるからあそこまでの息苦しさはないのだが、淡々と取引が進行することが緊迫感を生み出すのは同じだ。
悪びれた様子もなくお金を見せるブリュノにソニアは卒倒し、病院に運び込まれる騒ぎとなる。
ブリュノにソニアの反応が予想できなかったのにはあきれるが、なるほど「ある子供」とはやはり彼のことだったのだ。靴の泥で壁を汚し、その印がどのくらい高くまでつけられるかというひとり遊びに興じていたが、あれはまぎれもなく彼の、そのままの姿だったわけだ。20歳にしてはあまりに幼くて、後になって警官に「俺の子じゃない」とか「浮気したいからムショに送る気だ」とソニアを非難する嘘の言い逃れをしたり、一転ソニアに泣きつき金をせびるあたりでは、観ているのがつらくなるほどだ。
話が前後するが、ソニアに訴えられるかもしれないと思ったブリュノは売ったばかりの子供を引き取ることにする。売った時と同じような手順がここでまた繰り返されるのだが、普通の劇映画のような省略や緩急をつけた演出ではないから、ある部分ではいらつくような流れになるのだが、それがまた心理的な効果を増幅し静かな怖さを呼び戻す。
子供の買い戻しはあっさりできたものの、ブリュノは儲け損なった闇ルートの一味に身ぐるみはがれ、多額の借金を負うことになる。そして、スティーヴを使ってのひったくり。そして、金は奪ったもののこれが失敗してブリュノはムショ送りとなる。
ブリュノはやることは子供で何の考えもないのだが、ある部分では憎めないところがあるのも確かだ。言われれば子供の認知もするし、仲間うちでのルール(盗みの配分)もきっちり守っている。自分のせいで冷たい川に入ったスティーヴを必死で介抱するし、スティーヴが捕まれば自分が首謀者であると名乗り出る(もっともこれには闇ルートからの追求には逃れられそうもないということもあるだろう)。
ソニアはブリュノのそういった部分を好きになったのだろう。だから最後は彼女が服務中のブリュノに面会するという感動的な場面になる。ここではじめてブリュノは息子のジミーの名を自分から口にする。
だけどねー、意地悪な見方をすればここでもブリュノはまだまだ子供なのではないか。若年層の失業率が20%というベルギーの状況をふまえての映画ということでは意味があるのかもしれないが、ブリュノがまだ善悪を知らない子供として描かれている、つまりは最初から救いはあったという観点からいうと、すごく甘い映画にしかみえないのだ。
【メモ】
育児センターの職員が、子供の様子を見にくる。
先のことなど何も考えず、余ったお金でソニアに自分とお揃いの皮ジャンを買う。
じゃれ合うのはソニアからも。飲みかけの飲料をブリュノにふりかけて、追い駆けっこを始めるふたり。
「子供は売った。またできるさ」。このセリフのあとにソニアが卒倒するのだが、卒倒場面は『息子のまなざし』でも出てきた。卒倒好きなのね。でもこちらの方が自然だ。
ブリュノが子供を取り戻して病院に戻るとソニアは警察を呼んでいた。ここで浮気発言になるのだが、子供は(自分の)母親に預けていた、という嘘もつく。このあと母親に口裏を合わせてもらいに母のアパートを訪ねるのだが、母は見知らぬ男と一緒にいる。
往来の激しい車道を主人公たちは何度か横断する。単純だがこれが不安感を煽る。子供を抱いて渡る場面では実際はらはらしてしまった。
最後はまた無音のエンドロール。
原題:L’Enfant2005年 95分 ビスタサイズ ベルギー、フランス PG-12 日本語字幕:寺尾次郎
監督・脚本:リュック&ジャン=ピエール・ダルデンヌ 撮影監督:アラン・マルコァン、カメラマン:ブノワ・デルヴォー カメラ・アシスタント:イシャム・アラウィエ 録音:ジャン=ピエール・デュレ 編集:マリー=エレーヌ・ドゾ 美術:イゴール・ガブリエル
出演:ジェレミー・レニエ(ブリュノ)、デボラ・フランソワ(ソニア)、ジェレミー・スガール(スティーヴ)、ファブリツィオ・ロンジョーネ(若いチンピラ)、オリヴィエ・グルメ(私服の刑事)、ステファーヌ・ビソ(盗品を買う女)、ミレーユ・バイ(ブリュノの母)
息子のまなざし
2006年07月29日 土曜日
早稲田松竹 ★★★★
■息苦しい距離感が、許しを突き抜ける
オリヴィエ(オリビエ・グルメ)が木工を教えている職業訓練所に、フランシス(モルガン・マリンヌ)という少年が入所してくる。前半(といってもわずか4日ほどの話なのだが)は彼が何者で、オリヴィエが何故異常なほど彼に興味を示すのかという点に絞られる。
カメラは最初から最後まで手持ちで、ほとんどオリヴィエの頭に近い位置にあり、彼だけしか映さないわけではないが、彼と行動を共にする。つまり映し出される映像はオリヴィエのバストショットか、背後から彼を追いかけるものとなる。部屋から部屋に移動し、階段を一緒に駆け下りたりする。カメラが車の中にいてオリヴィエを追えなくなって途切れるようなこともあるが(彼がカメラから遠ざかることで視界が開けたりする)、また次のシーンでは定位置に戻っているのだ。
情報はかなり限定されているといっていいだろう。なのに物語の進行に差し支えがないのは驚きだ。会話と狭い範囲の視覚で事足りてしまうのだから。
普段、人に近づくことはあってもここまで執拗に見続けることはしないだろう。そんな失礼なことはしやしないからだし、この映画のカメラだって別にオリヴィエ以外の誰かの目線というわけではなく、単純に対象を追ったものと考えればいいのだが、やはりこの距離感は息苦しい。この息苦しさは何なのだろう。対象に近づくことで底知れぬ感情が渦を巻いていることを意識せざるをえないからだろうか。が、近づいたからといって何を考えているのかは当然わからない。
フランシスは木工課を望んでいたらしいが、手一杯とオリヴィエは断ってしまう。が翌日になると、何故かフランシスのことが気になってしかたがない彼は、溶接課にまで出向きフランシスを引き取ることにする。
この謎は、オリヴィエの別れた妻マガリとの会話であっさり明かされる。彼らの子供はフランシスに殺されたというのだ。マガリはオリヴィエに犯人がいる訓練校を辞めるように言うが、彼は取り合わない。実は前日にマガリはオリヴィエに再婚と子供が産まれることを知らせに来たのだが、この日のやりとりを見ていると、彼らがうまく行かなくなったのは、子供が殺された事件が影を落としているのだと思えてくる。
オリヴィエはこのあともフランシスの後をつけたり、鍵を一時的に盗み出してフランシスの借りている部屋に入りこんだりする。ベッドに横たわって、こんな異常なことまでして、彼は一体何を考えているのか。何をしようとしているのか。
訓練校からの帰えりにフランシスを車に乗せ、それをマガリに見られて「何をする気、狂気の沙汰よ」と詰め寄られるが、彼女に対する答えからでは、オリヴィエにも自分の行動は説明できないようなのだ。
次の日の土曜、彼は車でフランシスを連れて木材の仕入に向かう。製材所は休みで誰もいないが、そこはオリヴィエの弟が経営者で、彼は鍵を持っているのだ。製材所で木材の種類や用途をフランシスに教え、フランシスもノートを見ながら熱心に耳を傾ける。
ここまでの過程で、彼はフランシスに、起こした過去の事件の経緯をしつこくたずねていたのだが、ついに「お前が絞め殺したのは俺の息子だ」と言ってしまう。逃げるフランシス。怖がらなくていいと言いながら追いかけ、捕まえるとフランシスの首に手をかける。
結局何事もなかったように手を離し、森から車に戻り木材を車に積み込みはじめるオリヴィエ。そこにフランシスが現れ、一緒にロープがけの手伝いをはじめる。
最後の共同作業は、和解であり、未来の共同作業さえ示しているかに見える。オリヴィエはいつからこんな聖人君子になったのか。マガリとの会話ではフランシスの受け入れを匂わせていたから不思議ではないし、復讐(首に手をまわしたとはいえ、そこまで考えていたわけではないだろう)がまったく反対の形に転化してしまうことだってないとはいえないが、それ以前に、ここまで興味を持ってフランシスに接触するということが私にはやはり不可解だ。
私にはこの共同作業は、まずあるべき「許し」という地点を突き抜けてしまっているように思うのだ。許すということ自体が大変だと思われるのに。が、おかしなことに突き抜けてしまったことで、逆にそういうこともあるかもしれないという感想も持てたのだが。
ただそれでも、4日間という設定は少し早急ではなかったか。だからってこのカメラにこれ以上振り回されるのは無理なのだが。つまりこの表現方法故の4日間だったのかもしれない。
特異なカメラではあるが、もちろんフランシス側の気持ちもオリヴィエを通して描かれてはいた。睡眠薬を飲まないと眠れない毎日。11歳で事件を起こし、5年間少年院に。母親には嫌われ、父の居場所も知らないという。目測で正確な距離を言い当てるオリヴィエを尊敬し、何かと面倒を見てくれる彼に後見人になってほしいとたのむ。振り返りたくないだろう事件のことも、後見人になるなら知る権利があると言われて、告白するに至る。サッカーゲームに興じ、オリヴィエに勝って少年院でも無敵だったとはしゃぐ……。
原題はたんに「息子」だが、邦題だと自分たちの息子のまなざしがすべてを見ているというような感じもする。オリヴィエは、息子を殺したフランシスに、自分の息子を重ねているのだろうか。まさか。
無音のエンドロールで息苦しさからは突然解き放たれるが、言葉にならないものはいつまでも消えることがない。
【メモ】
オリヴィエは自宅に帰ると、椅子を使った腹筋をしている。
マガリ「再婚するの」。オリヴィエ「よかった」。マ「あなたは誰かいないの」。オ「ああ」。マ「それと子供が産まれるの」。
マガリを下まで追いかけて。オ「何故今日来たんだ」。マ「休みだから」。オ「何故今日なんだ」。マ「診断が出たから」。最後は怒ったように訊いていた。
オリヴィエが無断欠勤の少年を訪ねるシーンも。面倒見がいいのだろう。教えることが好きだとも言っていた。
フランシスとの握手は拒否してたし、製材所行きの途中で立ち寄った食堂での勘定はワリカンだった。
原題:Le Fils
2002年 103分 ベルギー/フランス 日本語字幕:寺尾次郎
監督・脚本:ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック=ピエール・ダルデンヌ 撮影監督:アラン・マルコァン キャメラ:ブノワ・デルヴォー 録音:ジャン=ピエール・デュレ 編集:マリー=エレーヌ・ドゾ 美術:イゴール・ガブリエル
出演:オリビエ・グルメ(オリヴィエ)、モルガン・マリンヌ(フランシス)、イザベラ・スパール(マガリ)、レミー・ルノー(フィリポ)、ナッシム・ハッサイーニ(オマール)、クヴァン・ルロワ(ラウル)、フェリシャン・ピッツェール(スティーヴ)、アネット・クロッセ(職業訓練所所長)
M:i:III
2006年07月30日 日曜日
TOHOシネマズ錦糸町-8 ★★★☆
■感情剥き出し男対冷眼冷徹冷酷男
娯楽アクション超大作の名に恥じぬデキで、目一杯楽しめる。トム・クルーズが爆風で車に叩きつけられる場面など、予告篇でいやというほど観ているのに、流れの中で観てまた感心してしまったくらいだ。
スパイは卒業して教官となり、ジュリア(ミシェル・モナハン)との結婚も控えているイーサン・ハント(トム・クルーズ)だが、教え子リンジー(ケリー・ラッセル)の救出に乗り出したことで、とんでもない事件に巻き込まれていく。教え子の死。黒幕デイヴィアン(フィリップ・シーモア・ホフマン)の捕獲に、彼の逃亡。その瞬間、魔の手はジュリアに伸びる。彼女が捕らえられたことで、ハントには「ラビットフット」という謎の兵器を取り戻すという新たなミッション(脅迫)が与えられることになってしまう。
ハラハラドキドキのまま突っ走るが、さすがに最後の方では息切れしたのか、あれっという感じの終わり方に。で、冷静になって考えるとやはりアラが見えてくる。十分楽しんでおいてアラ探しちゅーのもなんだけど。
まずどうしても気になってしまうのが、一番の大仕掛けである橋の上の場面。デイヴィアンの救出に、小型ジェットやヘリがロケット弾で攻撃してくるのはさすが国際的な武器商人と思わせるが、しかし米国内でこんなことが可能なのか。
ここまで派手に暴れて米軍がこれを見落としたのなら、それは裏(それも相当上層部とのつながりでないと)があるってことになるし、それを考えないハントも能なしになってしまう。でもこれでIMFの組織内の裏切りがわかってしまうのでは、それもへんてこだ。そのために組織内裏切り(これも最近では鼻に付いてきたものな)にはもうひとひねりが用意されているのだろうけどね。でもやっぱりこれとは関係ないよね。
次はお得意のマスクのトリックで、今回はマスク製造器まで登場させているのは楽しくていいのだが、このトリックをデイヴィアンがハントを痛めつけるのに使う(冒頭の場面)っていうのはどうなんだろう。IMFだけでなく悪役までがこれを自在に使えるのでは、もうどんな話でも作れそうだ。それに付け加えるならば、デイヴィアンがハントの結婚相手のジュリアに身代わりを立てる必要はなにもないはずだ。
そのジュリアだが、はじめて銃を持たされてあの活躍はねぇ。ハントが頭に埋め込まれた爆弾の回路を電気ショックで切り、ショック死した彼を蘇生させるという荒技までやってのける(彼女は看護士なんでした)。まあ、大甘でこれも見逃して、でも最後にIMFの本部で組織の連中と彼女が打ちとけているというのは? 「スパイ大作戦」はあくまで謎の組織が、その指令テープまで一々消去していたと記憶していましたが。こんなにオープンな組織だったとは。だったらいっそジュリアも仲間だったというオチにすれば……ってそれじゃああんまりか。
最初に最後があれれと書いたのは、この他にハントが仲間と別れ、武器も携帯1つになっていくのに合わせるかのように(でも最後までチームプレーは強調されていた)、デイヴィアン側も人数が手薄になっていくことで、自分の救出劇にあれだけの物量をぶつけてきたデイヴィアンとはとても思えないのだな。
ベルリン、ヴァチカン、ヴァージニアと快調に飛ばしてきて、上海篇は少しふざけすぎなのよ。ビルに野球のピッチングマシーンでボールを投げるのも、ハントの走りも。この走りは正当派故にその挙動がかえっておかしいのだ(ジャンプもオリンピック選手のようだった)。あと、これははじめの方のパーティ場面に戻るが、ハントが唇を読んじゃって。ありゃ、怖いよ。会話への割り込みも含めて、あんなことしてるようじゃ結婚解消と思うが。で(また最後に)、最後に愛は勝つじゃあ、って笑っちゃ悪いか。
この『M:i:III』では、ハントが特に感情剥き出しでスパイらしくないのが見物(そこが欠点でもあり面白さでもあるのだが)。何しろミッションはリンジーやジュリアがらみで、つまりなにより彼自身のミッションに他ならない。だからその延長線上で、デイヴィアンに対する怒りが爆発し、飛行機の中での度を超した脅かしとなる。が、デイヴィアンはまったく動ぜず、逆にハントの運命を予言する。
このデイヴィアンの造形もなかなかだが、裏切り上司マスグレーブ(ビリー・クラダップ)の言い分がふるっていた。彼も国益と民主主義のために働いているらしいのだ。武器商人を泳がせることでテロ国家を攻撃する口実を作ると言うのだけど、屁理屈もここまでくると……って案外現実に近いか。米国が今やっていることだものね。
ところでこの映画で私が一番心を惹かれたのは、ハントとリンジーの関係だ。リンジーがハントにお礼をいう映像には胸が熱くなった。けれど、ああいう場面を見ると同僚のヴィング・レイムス(ルーサー)ではないが、「寝たのか?」と聞きたくなってしまう。ハントの答えは「彼女は妹のようだった」というもの。いや、そうでしょうとも。だってジュリアと結婚しようとしているんだから。でもね。教え子は女性でなくてもよかったような? でないと私のような下品な人間は、あらぬことを考えてしまいますがな。
【メモ】
「ラビットフット」とは一体何? 正体を明かさなくても十分物語は成り立つし、そういう演出もありなんだが。でも例えば生物兵器よ、と言われたら……あ、そう、で終わりか。
これも演出方法の問題だが、上海のビルに潜入したと思ったらハントは「ラビットフット」をもう手にしていた。侵入が今までは見せ場だったのにね。
ローレンス・フィッシュバーンは、最初の疑惑の上司ブラッセル役。堂々としていてさすがだ。
原題: Mission: Impossible III
2006年 126分 アメリカ 日本語字幕:戸田奈津子
監督:J・J・エイブラムス、脚本:J・J・エイブラムス、アレックス・カーツマン、ロベルト・オーチー、原作:ブルース・ゲラー、撮影:ダニエル・ミンデル、音楽:マイケル・ジアッキノ、テーマ音楽:ラロ・シフリン
出演:トム・クルーズ(イーサン・ハント)、フィリップ・シーモア・ホフマン(オーウェン・デイヴィアン)、ミシェル・モナハン(ジュリア)、ケリー・ラッセル(リンジー)、ヴィング・レイムス(ルーサー)、ローレンス・フィッシュバーン(ブラッセル)、サイモン・ペッグ(ベンジー)、ビリー・クラダップ(マスグレーブ)、マギー・Q(ゼーン)、ジョナサン・リス=マイヤーズ(デクラン)
日本沈没
2006年07月30日 日曜日
2006/7/30 TOHOシネマズ錦糸町-3 ★★☆
■日本半分沈没
なにしろ日本沈没である。日本が沈没するとなると1億2千万の全日本人(外人もいるけど、おおまかね)に、否が応でも劇的なドラマが訪れるわけである。つまりこの映画の登場人物は、選ばれし人物ということになる。
であるのに映画はいきなり、ハイパーレスキュー隊員である阿部玲子(柴咲コウ)によるアクロバチックな、少女(倉木美咲=福田麻由子)救出劇を用意する。女性隊員という設定もだが、あとの場面で彼女は長髪をなびかせたりするのだ。
のっけから細かいことに難癖を付けて申し訳ないが、なにしろ日本が沈没してしまうのだから、やはりここは相当マジで行きたいと思うのだ。
彼女と潜水艇のパイロットである小野寺俊夫(草彅剛)の恋愛話を、日本政府の対応に対極させる形にしたのは決して間違いではないし、「自分だけが幸せにはなれない」という彼女に突き動かされるように、最後は彼にも「俺にも守りたい人がいます」「奇跡を起こせます。起こしてみせます」とまで言わせるというのは悪くはない。
が、骨組みはよくても肉付け部分に難がある。神出鬼没の小野寺というご都合主義にはまだ目をつぶれるが、最初に書いた玲子の造型などが話を台無しにしている。ふたりのラブシーンでの妙な引き延ばしは『LIMIT OF LOVE 海猿』に比べれば、ずっと抑えてはあるのだが……。
次は、これはどうしてもはずせない田所博士(豊川悦司)だが、日本沈没の兆候発見者であるにもかかわらず、アメリカのすっぱ抜き?があってか、最初から迷走気味。これでは型破りな科学者というよりは、冷静さを欠いた行動ばかりが目立つただのマッドサイエンティストではないか。
政府の対応は、これまたあまりに心もとない。いい加減な連中を適当に配したのはわかるが、しかし山本首相(石坂浩二)は、髪型からしても小泉首相を意識しているのだろう。だからだね、中国訪問を前に、「どれだけ(日本人を)受け入れてもらえるか」と鷹森文部科学大臣(大地真央)に悩みをうち明けるのは。交渉難航は必然だものなー。
山本首相は続けて、未曾有の国難を前に「何もせず、愛する者と一緒に滅んだ方がいい」という特殊な意見が違う分野から出ていることについて、「こういう考え方が日本人なのかも」しれず、自分の考えもこれに近いと語る。しかし、この考え方のどこが日本人的なのだろう。本気でこのセリフを喋らせているなら問題ではないか。日本人は果たして特殊な民族だろうか。そう思い込みたいだけじゃないのか。
山本首相の死後(訪問に出かけた首相専用機が阿蘇山の噴火に巻き込まれるというお粗末な設定)、危機管理担当大臣にも任命されていた鷹森大臣が、元夫でもある田所博士の助言(これも訊くのが遅いんだよね)により、世界中の掘削船を導入して、プレート内部に爆薬を仕掛けるという最後の賭けに出るのだが、他の奴らは何をしているんだ! まあ、映画だから仕方ないのだけどね。
このあとの話の盛り上げ方も低レベル。各国の掘削船で何カ所にも爆薬を仕掛けながら、最終的には強力な爆薬を深海潜水艇から直接操らなければならないなんて。しかも最新の潜水艇は結城(及川光博)もろとも失われ、小野寺は博物館に展示されているすでにお払い箱となった旧式の潜水艇に乗り込むことになるのだ。掘削船だけじゃなく、潜水艇も借りろよ。
爆薬(N2爆弾の起爆装置?)すら予備がなくて、結城が落としてしまったものを拾うって! 日本が沈没しつつあるっていうのに、プレートのそばに落としたものが見つけられるわけがないでしょ! 小野寺の「特攻」を演出したかったのかもしれないが、あまりにひどい。そもそもアイディアは『アルマゲドン』だしね。
というわけで、日本はなんとか沈没をまぬがれるのでした。ずたずたに分断された島だらけの国となって残るのね。ありゃりゃ、ということは日本人がユダヤ人のような放浪の民族になったらどうなるか、という原作の壮大な意図はどこへ行ってしまったのだろう。
特撮はなかなかだし、なにしろ日本(半分)沈没なわけだから、どんな話をもってきても考えさせられることが多いわけで、それだけでも意味があると思うのだが、逆に自分に引きつけた物語を見つけようとすると、どうしても点は辛くなってしまうだろう。
こうなったら、毎年『日本沈没』の別バージョンを創り続けるか、もしくはマクロ的な、それこそ特撮に特化し個人の感情など徹底的に排除した、つまり蟻のような人間しか出てこない『日本沈没』というのは、いかがでしょう。観たいな、これ。いや、ホント。
【メモ】
旧作の『日本沈没』は東宝の製作と配給で、1973年12月29日に正月映画として公開された。小松左京の原作も1973年、光文社のカッパノベルスから上下2巻の同時刊行。
玲子が倉木美咲を救出する方法もどうかと思うが、美咲を引き取るのもおかしい。玲子は骨折で仕事を休むが?
「沈没することが明らかになった以上、唯一の救いは数10年後に起きることが今予測できたことだ」と、最初のうちはまだ余裕もあったのだが……。
「こうなってしまった以上何が大切ですか」「私は心だと思う」
デラミネーション。
鷹森大臣と田所博士は20年前に離婚。
仏像の運び出し場面。賄賂代わりに、国宝を手みやげ。
「命よりも大事な場合もあるの。人を好きだって気持ちは」小野寺俊夫に彼の母が言う。
「日本はアメリカに見捨てられた」というセリフは、アメリカを信用していない者にとっても唐突だ。これだけの大異変となると近隣諸国に及ぼす影響も大きいわけで、すべてのことが日本政府の決断と平行して国連がらみで進行していくのではないだろうか。
避難民が山の方へ向かうのはわかるが、富士山に向かって行く?
最新の潜水艇は「わだつみ6500」。展示品になっていたのは「わだつみ2000」。
最後の爆発時に、海上にはまだ船(掘削船だよね)が多数いたようだが?
2006年 135分 配給:東宝
監督:樋口真嗣 脚本:加藤正人 原作:小松左京 撮影監督:河津太郎 編集:奥田浩史 音楽:岩代太郎 特技統括/監督補:尾上克郎 特技監督:神谷誠 撮影協力:防衛庁、東京消防庁、JAMSTEC(独立行政法人 海洋開発研究機構)
出演:草彅剛 (小野寺俊夫 潜水艇パイロット)、柴咲コウ(阿部玲子 ハイパーレスキュー隊員)、及川光博(結城慎司 潜水艇パイロット)、石坂浩二(山本尚之 内閣総理大臣)、豊川悦司(田所雄介 地球生命学博士)、大地真央(鷹森沙織 文部科学兼危機管理担当大臣)、福田麻由子(倉木美咲)、吉田日出子(田野倉珠江 玲子の叔母)、國村隼(野崎亨介 内閣官房長官)、長山藍子(小野寺俊夫の母)、和久井映見(小野寺俊夫の姉)、六平直政、ピエール瀧、柄本明、福井晴敏、庵野秀明
ジョルジュ・バタイユ ママン
2006年08月06日 日曜日
銀座テアトルシネマ ☆
■私のふしだらなさまでを愛しなさい
理解できないだけでなく、気分の悪くなった映画。なのであまり書く気がしない。
背景からしてよく飲み込めなかったのだが、適当に判断すると、次のようなことだろうか。母親を独り占めにしたいと思っていたピエール(17歳?)は、その母のいるカナリア諸島へ。そこは彼には退屈な島で、母親にもかまってもらえない(世話をしてくれる住み込み夫婦がいる)。
が、フランスに戻った父親が事故死したことが契機になったのか、母親は自分についてピエールに語り出す。「私はふしだらな女」で「雌犬」。そして「本当に私を愛しているのなら、私のふしだらなさまでを愛しなさい」と。
このあと彼女は、父親の書斎の鍵をピエールに渡したり(父親の性のコレクションを見せることが狙い? 事実ピエールはここで自慰をする)、自分の愛人でもある女性をピエールの性の相手として斡旋したりする。
というようなことが、エスカレートしながら(SMやら倒錯やらも)繰り返されるのだが、彼女が一体何をしたいのかが皆目わからないのだ。欲望の怖さを知れば、パパや私を許せるというようなセリフもあったが、それだと、ただ自分を許して欲しいだけということになってしまう。
性の形は多種多様で、自分の趣味ではないからといって切って捨てる気はないが、私にはすべてが、金持ちの時間を持て余したたわごとでしにしかみえなかった。それに息子だからといって自分の趣味(それも性愛の)を押しつけることはないだろう。
父親にしてもはじめの方で自分の「流されてしまった」生き方を後悔しながら、ピエールには「お前が生まれて私の若さは消えた、ママも同じだ」と言う。親にこんなことを言われてもねー。
最悪なのは、最後に母親の死体の横でするピエールの自慰だ。ここで、タートルズの「ハッピー・トゥギャザー」をバックに流す感覚もよくわからない。
この映画は「死」と「エロス」を根源的なテーマとするバタイユの思想を知らなければ何も理解できないのかも知れない。が、そもそも映画という素材を選んだのだから、きどった言葉をあちこちに散りばめるような、つまり言葉によりかかることは最小限にすべきだったのだ。
そして、愛と性を赤裸々に描きだすことが、その意味を問い直すことになるかといえば、それもそんな単純なものでもないだろう。扇情的なだけのアダルトビデオの方がよっぽど好ましく思えてきた。
【メモ】
巻頭は、母親の浮気からの帰りを父親が待っている場面。
アンシーは母に頼まれて自分に近づいたのではないかと、ピエールは彼女を問いつめる。
息子の前から姿を消す母。欲望が枯れると息子に会いたいと言う。
原題:Ma mere
2004年 110分 フランス ヨーロピアンビスタサイズ R18 日本語字幕:■
監督・脚本:クリストフ・オノレ 原作:ジョルジュ・バタイユ(『わが母』) 撮影:エレーヌ・ルバール
出演:イザベル・ユペール(母ヘレン)、 ルイ・ガレル(息子ピエール)、フィリップ・デュクロ(父)、エマ・ドゥ・コーヌ(恋人)、ジョアンナ・プレイス(母の愛人?)、ジャン=バティスト・モンタギュ、ドミニク・レイモン、オリヴィエ・ラブルダン
トリック 劇場版2
2006年08月06日 日曜日
2006/8/6 銀座テアトルシネマ ★★★
■自虐陶酔片平なぎさショー
仲間由紀恵と阿部寛主演の人気テレビドラマを映画化(しかも2作目)したものなので、テレビも観なければ1作目の映画も知らない私には取っ付きにくいかと心配したが、そこらへんのサービスは心得ていて、まったく問題なく観ることができた(見落としもあるだろうし、劇中に散りばめられた山ほどの小ネタも相当見逃していると思われるが)。
というか、その程度の作品。いかにもテレビ的というか、どこから参加しても一応は楽しめてしまうという造りになっている。そして、くだらない話になるが、タダのテレビだったらともかく、1800円の正規料金で観たら腹が立ってしまうということも。
いや、しかし私はこういうハチャメチャな作品は好きだなー、ふざけすぎと思う人も多いだろうけどね、って、え、はい、私? うん、タダ観。はは。
自称「売れっ子」奇術師の山田奈緒子(仲間由紀恵)だが、花やしきでの興行もクビになって家賃滞納をどうするかが目下の悩み。そこに物理学者の上田次郎(阿部寛)が、おいしい話(とも思えないのだが)を持ってくる。肩書きこそすごいが、上田が山田に頼り切りなのは、どうやらお約束のようだ。
勘違いで、上田に事件解決を依頼してきたのは富毛村の青沼(平岡祐太)という青年で、10年前に神隠しにあった幼なじみの美沙子(堀北真希)を筐神佐和子(片平なぎさ)から取り戻してほしいというもの。で、「よろしくね」教団じゃなかった「ゆーとぴあ」教団のある筺神島に乗り込んで行く。
筋はあってなきがごとし、というかどうでもいい感じ。連れ去られたというが、美佐子は筐神佐和子の実子だし(それより何故捨てたんだ?)、確かに筺神島の島民を騙す形でそこに居座ってしまったのだが、特別この教団が悪いことをしている様子もない。
奥行きのない部屋に閉じ込めて生活させていたというよくわからない話も出てくるが、佐和子は美佐子に自分の跡を継がせたくて、霊能力の素質がないものかと悩んでいたわけだし(ということは全部がインチキというのでもないのかや)、美佐子の方も昔のことを思い出し母親を受け入れる気になったというのに、佐和子は「私は汚れた人間です」と、最後は自虐陶酔路線を突っ走る。片平なぎさショーだな、こりゃ。
一応トリックとその種明かしも見せ場になっているようだが、すべて予想の範囲内のもの(それにこれは明かされた時点で陳腐化してしまうしね)。だから苦しいのはわかるのだけどね。山田の立場もなくなるわけで。それに、別のシリーズになってしまうか。
でも私としては、そんなことより、自著がブックオフに出回っていることを喜ぶ上田や、北平山市を北ヒマラヤ市と思い込んでいた山田里見(野際陽子)というお馬鹿映画であってくれることの方が喜ばしい。ただし、貧乳と巨根(両方とも変換しない。ATOKは品性があるのね)はやめた方がいいような(『トリック』は下ネタもウリらしいが)。
最後は河川敷で、ふたりの不器用なロマンス(以前?)が繰り広げられるが、あれ、山田と上田の乗っていない車が動いている!? と思ったらその横に大きく「完」の字が……。
【メモ】
巻頭ではヒトラーを悩ましたというイギリスの手品師ジャスパー・マスケリンを簡潔に紹介。でもそれだけ、なんだが。
筐神島は九十九里浜のかなり沖合にある(ってここは何もないところだが)。「リゾート開発に失敗し捨てられたホテルを我々(教団)が接収」したという。
山の頂上にある巨大な岩(張りぼてっぽく見える)は佐和子ひとりが1晩で海岸から持ち上げたもの。これで島民の支持を得る。トリックはこんなものにしても、その時使った袋はすぐ回収するでしょ、普通。
美佐子の「素敵な殿方」は上田なの。このシーンの他、頭が大きくなったり、腕が伸びたりするCGも。
美佐子が捨てられてから長野の富毛村(不毛村)で起きるようになった災いというは?
長野県での平成の大合併による選挙。これに山田里見が出馬。落選。対抗馬は島田洋七や志茂田景樹らだったが、誰が当選したのだったか?
2006年 111分
監督:堤幸彦 脚本:蒔田光治 撮影:斑目重友 美術:稲垣尚夫 編集:伊藤伸行 音楽:辻陽
出演:仲間由紀恵 (山田奈緒子)、阿部寛 (上田次郎)、片平なぎさ (筐神佐和子)、堀北真希 (西田美沙子)、野際陽子 (山田里見)、平岡祐太 (青沼和彦)、綿引勝彦 (赤松丑寅)、上田耕一 (佐伯周平)、生瀬勝久 (矢部謙三)
ハチミツとクローバー
2006年08月15日 火曜日
シネマスクエアとうきゅう ★★★
■あきらめなければいい
浜美大に通う竹本祐太(櫻井翔)は、教師である花本修司(堺雅人)の研究室で花本の従兄弟の娘という花本はぐみ(蒼井優)に出会い、一目惚れ状態となる。そこにちょうど寮では隣部屋で8年生の森田忍(伊勢谷友介)が帰国してくる。はぐみの才能を、「俺以外に、久々いい」と絶賛する森田。ふたりはすぐに特別な世界を共有してしまうのだった。
一方、山田あゆみ(関めぐみ)が想いを募らせる真山巧(加瀬亮)は、バイト先の年上の女性原田理花(西田尚美)にこれまた片想い。山田も真山も、相手の気持ちを知ることになるが、でも自分の想いをかえることはできない。
要するに、美大生のそれぞれの恋模様が綴られていくわけだが、どれもがほぼ片想いで、さらにその段階で止まっていることが、ありえない健全さのままで映画を進行させていくことになる。真山の行動がストーカーまがいで、自分でも警察に捕まって取り調べを受けるという妄想から逃れられないでいるという、お遊び的な映像も入るが、実際キスシーンですら、森田がはぐに一方的にする場面があるだけで、しかもそれも遠景にとどめているという控えめさなのだ。
原作が少女コミックということもあるのだろうが、でもこの健全さは微笑ましいし、清涼感すらある。山田が真山におぶってもらいながら、好き、大好きという場面の切なさは痛いくらいだ。関めぐみは『8月のクリスマス』でも不思議な魅力を見せてくれたが、ここでの彼女は本当に可愛らしい。
その清涼感も、竹本のように海に向かって「青春サイコー」とやられては、恥ずかしくなるばかりだが、これは森田の「俺サイコー」と対比させている部分なので目をつぶるほかなさそうだ。竹本は雰囲気からしても美大生には見えないし、ここまでくると普通の大学であってもつまらないヤツになってしまいそうなのだ。それに比べると森田に与えられた天賦の才能は、彼の奔放さや傲慢さまでも身方にしてしまうのだから、竹本の挫折感は想像するにあまりある。
もっともこの芸術家としての天才部分は、映画で描くとなると、やはりやっかいなのだろう。森田のスケッチブックはそれなりの迫力があるが、はぐの絵はキャンパスの大きさに完全に負けてしまっている。森田とはぐの合作場面の絵も子供の遊びでしかない。才能を掛け合わせたからといって傑作が誕生するわけではないのだから、これは当然なような気もするし、そしてつまりふたりには恋が成立しないという暗示のようでもある。そう思うと、森田のキスにはぐが逃げたのもうなずける。
竹本のような普通の人間を主人公にするのは大変で、それが途中までこの映画の弱さになっている。が、はぐのスランプに、彼は自分が彼女にできることは何かを真剣に考え、彼女を支えられるのは森田さんだけと、彼に詰め寄るのだ。「その時僕が彼女にできるのはそれだけだった」というモノローグには、片想いとは別の深い悲しみが満ちている。
そこから逃げ出す竹本だが、しかし旅先(説明不足)のお寺で修復作業をしている男(中村獅童)から、これからの生きていく指標を見いだすのだ。竹本らしさが生かせる道を。真山もクビになったバイト先に再挑戦するし、この映画の主題はどうやらあきらめないことらしい。そういえば、映画の途中にも「あきらめるにはどうしたらいい」という問いに「あきらめなければいいじゃない」というセリフが用意されていた。
【メモ】
エミリー・ディッキンソン「草原をつくるにはハチミツとクローバーが必要だ」。
竹本(浜美大建築科3年生)、はぐみ(油絵科1年生)、森田(彫刻科8年生)、真山(建築科4年生)、山田(陶芸科3年生)。
竹本の趣味は、お城のプラモデル造り。
森田の彫刻(制作過程で)に、1週間前の方がよかったというはぐ。森田も悪びれずにばれたか、と答える。
真山は原田デザイン事務所をクビになる。理由は「僕があなたを好きだから」。
「いいかげんに負けることを覚えないと、これからの人生苦労しますよ」。竹本も森田にこんなことが言えるのだ。
森田の彫刻には500万円の値が付く。「ギャラリーが値段を付ける。だから俺は全然悪くねぇ」。それを燃やす森田のセリフ「今燃えているのは作品じゃない、札束だ」。
最後、森田「俺は国を出る」。
2006年 116分
監督:高田雅博 脚本:河原雅彦、高田雅博 原作:羽海野チカ 撮影:長谷川圭二 音楽:菅野よう子 美術:中村桃子
出演:櫻井翔(竹本祐太)、伊勢谷友介(森田忍)、蒼井優(花本はぐみ)、加瀬亮(真山巧)、関めぐみ(山田あゆみ)、堺雅人(花本修司)、西田尚美(原田理花)、銀粉蝶(幸田先生)、中村獅童(修復士)、利重剛(喫茶店マスター)、田辺誠一(原田)
森のリトル・ギャング
2006年08月15日 火曜日
新宿ミラノ3 ★★
■人間って可愛くない
動物たちが冬眠から目覚めると、森の大部分は人間によってニュータウンになっていた。食料が少なくなって困っている動物たちの前に、流れ者のアライグマRJが現れ、人間の町にはおいしいものが沢山あると誘惑する。彼らのリーダーである亀のヴァーンは、慎重な性格もあって、なかなか乗り気になれない。が、世間知らずでお人好しな仲間たちは、RJに教えられたスナック菓子の味覚が忘れられず、ヴァーンよりRJの甘言に夢中になってしまう。
こうしてRJの指揮のもと、人間からの食料横取り作戦が開始されることになるのだが、実はRJは、横暴な熊のヴィンセントが貯め込んでいたスナック菓子に手をつけたことでそのすべてを台無しにしてしまい、ヴィンセントに1週間で食料を取り戻すという無茶な約束をさせられていたのだ。つまり、横取り作戦成功のあかつきには、それをRJが横取りしてヴィンセントに献上するという筋書きが隠されていたのだった。
このあとは、あの手この手を使った動物対人間の攻防がテンポよく展開されるので、あれよあれよという間に幕となるのだが、話の大筋に意外性がない。子供向けのアニメだし、「家族(この場合は仲間という意味だが)こそがグッドライフの1歩」というわかりやすいテーマでまとめるほかないのだろうが、攻防戦と動物のキャラクターが見所というのではつまらない。
唯一面白かったのは、人間をあくまで醜悪に描いていたことだ。害獣駆除会社の男や町の役員のヒステリックな女グラディスは最初から悪役扱いと決めていたのだろうが、子供やクッキー販売員の女の子までが可愛くないのは、あくまで動物目線の故か。そして、RJによる人間寸評が鋭い。曰く「人間は足が弱っている」「もっと食うために運動している」。が、これもそこまでだ。
ただ、動物たちのやっていることも、人間たちに生活圏を奪われたという大義名分はあるにしても、ようするに盗みでしかないわけで、子供向けアニメとしてはこのままでは手落ちではないか。
柵に囲まれて生活圏を大幅に制限させられている様は、意図したことではないにしても、イスラエルが築いたパレスチナ人居住区との分離壁を連想させる。が、とてもそんな大それた問題には踏み込むつもりはないのだろう。なにしろ、恰好のテーマとなるはずの環境破壊にさえ、ほとんど触れようとさえしないのだから。
【メモ】
炭酸飲料でメチャ元気になるリスのハミー。死んだふりが得意なオポッサムのオジーに娘のヘザー。強力な武器を持ち、人間の飼い猫に、猫になりすまして色仕掛けにでるスカンクのステラ。3つ子がやんちゃなベニーとルーのハリネズミ夫婦。
原題:Over the Hedge
2006年 84分 アメリカ サイズ:■ 日本語字幕:■
監督:ティム・ジョンソン、キャリー・カークパトリック 脚本:レン・ブラム、ローン・キャメロン、デヴィッド・ホセルトン、キャリー・カークパトリック 原作:マイケル・フライ、T・ルイス 音楽:ルパート・グレグソン=ウィリアムズ
声の出演:ブルース・ウィリス(RJ)、ギャリー・シャンドリング(ヴァーン)、スティーヴ・カレル(ハミー)、ワンダ・サイクス(ステラ)、アヴリル・ラヴィーン(ヘザー)、ウィリアム・シャトナー(オジー)、ユージン・レヴィ(ルー)、キャサリン・オハラ(ペニー)、ニック・ノルティ(ヴィンセント)、トーマス・ヘイデン・チャーチ(ドウェイン)、アリソン・ジャネイ(グラディス)
愛と死の間(はざま)で
2006年08月16日 水曜日
シャンテシネ1 ★
■ファン御用達映画なので、あら探しはほどほどに
交通事故現場でユンサム(チャーリー・ヤン)という女性の救急活動にあたった救急隊員のコウ(アンディ・ラウ)は、彼女に何か特別なものを感じる。彼女が心臓移植を受けていることを聞いた彼は、彼女の主治医であるホー医師(アンソニー・ウォン)を問いつめ、彼女の心臓が彼の妻チーチン(シャーリーン・チョイ)のものだったことを知る。
コウには、最愛の妻チーチンを交通事故でなくすという過去があった。映画は普通に順序立てた流れだから、優秀な外科医だったはずの彼が救急隊として現れて面くらうことになるのだが、ここはちゃんとした説明がほしいところだ。チーチンのイメージショットの過剰さに比べると、あまりに手抜きではないか。もちろんその映像の中には彼の妻への想いという部分もあるし、医師を辞めたのも、失意と妻が望むような時間を共有出来なかったことへの後悔、いや罪の意識すらあったことは想像に難くない。
妻の心がユンサムの中で生きていることを感じたコウは、彼女を追い求めずにはいられない。が、夫とは別居中(ユンサムの夫に対する思いやりの別居)のユンサムは、重い病をかかえていた。
ここまでの展開は許せる。偶然は多いにしても、まあ普通だろう。だが、ユンサムの夫のデレクがコウと瓜二つ(アンディ・ラウの二役)という設定は、あまりに受け入れがたい。コウがユンサムの夫になりすまし、ユンサムも自分の元から去った夫が戻ってきたと思い込む。って、いくら瓜二つでも夫婦なんだからすぐばれるでしょうに。
映画の後半で、映写ミスでピントが合わない状態(字幕は読める)になったこともあって、この先は上の空状態。ちゅーか、こんな映画の内容に、集中しろっていう方が無理だよね。
話の作り方はとにかくくだらなすぎで、例えば妻の死後、コウが時間と規則に忠実になったことを表現するのに、目の前の交通事故を、指示された仕事ではないからと無視して帰還しようとする場面まであるのだ。さすがに思い直して引っ返し、これがユンサムとの出会いになるのだが、いくらなんでもこんな発想はないだろう。
臓器移植についてはなかなか興味深い報告があって、ユンサムのなかにチーチンの心が生きているというのは、似た事例もいくつか報告されているようだし、それを支持している学者もいるが、話が杜撰だからそこまで踏み込むまでには至っていない。
きっと、アンディの(制作者でもある)アンディによる(主演)アンディのための(自己満足かや)の映画なんでしょう。
【メモ】
コウは自身が元医師で、妻の心臓移植にも同意したはずなのに、移植相手の身元を明かさないというルールを破る。
妻が死んだあともコウは妻の両親と同居している。
宣伝コピー「妻は生きている彼女の中で。一人で逝かせてしまったから、せめて残された時間は彼女の“心”のそばにいてあげたい」
原題:再説一次我愛●(●は人偏+尓) 英題:All About Love
2005年 102分 香港 ビスタサイズ 日本語字幕:■
監督・脚本:ダニエル・ユー[余國偉]、リー・コンロッ[李公樂] 撮影:ジェイソン・クワン 音楽:ジャッキー・チャン、マルコ・ワン
出演:アンディ・ラウ[劉徳華](コウ、デレク)、チャーリー・ヤン[楊采](ユンサム)、シャーリーン・チョイ[蔡卓妍](チーチン)、アンソニー・ウォン[黄秋生](ホー医師)、ラム・シュー[林雪](救急隊の同僚)、ホイ・シウホン[許紹雄](救急隊上司/チーチンの父)、ジジ・ウォン[黄淑儀](チーチンの母)
ディセント
2006年08月18日 金曜日
シネセゾン渋谷 ★★★
■出てこなくても怖かったのに
渓流下りを仲間の女性たちと楽しんだサラ(シャウナ・マクドナルド)だが、帰路の交通事故で、夫と娘を1度になくしてしまう(これがかなりショッキングな映像なのだ)。
1年後、立ち直ったことを証明する意味も込めて(仲間からは励ましの気持ちで)、サラはジュノ(ナタリー・メンドーサ)が計画した洞窟探検に参加する。メンバーは、冒険仲間のレベッカ(サスキア・マルダー)とサム(マイアンナ・バリング)の姉妹にベス(アレックス・リード)、そしてジュノが連れてきたホリー(ノラ=ジェーン・ヌーン)。アパラチア山脈の奥深くに大きく口を開けて、その洞窟は6人の女たちを待っていた。
まず、素人には単純にケイビング映画として楽しめる。彼女たちの手慣れた動作が安心感を与えてくれるのだろう、いっときホラー映画であることを忘れ、洞窟の持つ神秘的な美しさに感嘆の声を上げていた。広告のコピーのようにとても地下3000メートルまでもぐったとは思えないのだが、それでも洞窟場面はどれもが、恐怖仕立てになってからも、臨場感のある素晴らしいものだ。
人ひとりがやっとくぐり抜けられる場所が長く続き、精神状態の安定していないサラが身動きできなくなり錯乱状態に。ベスの助けで窮地を脱するが、その時落盤が起き、帰り道を完全にふさがれてしまう。このことで、ここは未踏の洞窟であり、このケイビングが功名心と冒険心の固まりのジュノによって仕組まれたものだったことが判明する。役所への申請もしていないから、救助隊も望めないというわけだ。
奈落の底を真下に、装備が不十分(崩落で一部を失ってしまう)なままで天井を伝わって向こう側へ渡ったり、1番元気なホリーの骨折など、ますます出口からは遠ざかるような状況の中、映画はとんでもない展開をみせる。
本当に息が詰まりそうな閉塞感の中で女同士の確執が爆発、とはせず(むろんそういう要素もふんだんにある)、凶暴な肉食地底人を登場させたのことには文句は言うまい。いや、私的にはそういうのが好きだから、結構歓迎なのだ。が、地底人が出てこなくても今まで十分恐ろしかったことが、よけい不満をそれに持っていきたくなってしまうのだ。
地底人は人間が退化して目が見えなくなっているという設定のようだから、おのずと造型も決まってこよう。で、それはまあまあだ。が、その分嗅覚や聴覚が発達していなければ地底の中で素早く動き回ることもできないし、地上から獲物を捕ってくることもできないわけで(生息数からいって相当量の食物が必要になる)、となると息をひそめて横たわっている上を地底人が気付かずに通って行く場面などでは、怖さの演出が裏目になってしまっている。ここは確信的に獲物に気付き、確実に仕留める場面を用意してほしかった。その方が恐怖感は倍増したはずである。
そして、彼らは意外にも弱かった! 女性たちが冒険マニアで少しは鍛えているにしても、地の利もある地底人と互角以上に戦えてしまっては興醒めだ。ジュノが誤って仲間に重症を負わせてしまい、見捨ててしまうという場面も入れなくてはならないから、そう簡単に殺されてしまっては人数が足らなくなってしまうのかもしれないが、もう少し地底人についての考察を製作者は深めるべきではなかったか。
そうすることで、伏線として置いた壁画(これは地底人の目が退化する前に描いたものなのだろうか)や人間の残した矢印(残っていたハーケンは100年前のものという説明もあった)をもっと活かすことができたはずなのだ。
ともあれサラは、地底人だけでなくジュノとの確執にもケリを付け、ひとりだけになりながらも何とか地上にたどり着く。彼女のその凄惨な形相。無我夢中で車に乗り、がむしゃらに飛ばし、舗装道路に出る。木を積んだトラックが横切っていったあと、サラは嘔吐し、このあと何故か娘の5歳の誕生日の光景を見る。そして……。
絶望感だけが残るラストシーンだが、しかしここは、結局はジュノとふたりで出てくることになったという話にした方が、凄味があったのではないか。
【メモ】
行くはずだったのはボアム洞窟。前日には「手すりが付いているかもしれない」と笑って話していた。しかし計画はジュノに任せっきりだとしても、好きでこういうことをしているのだから他にひとりくらいは場所の確認や地図にあたっている人間がいそうなものなのだが。
洞窟は未踏にしては、入口がかなり大きなもので、現代のアメリカでは無理な設定なのでは。
ジュノに功名心があったにせよ、そして仲間は騙したにしても役所への申請はしておいてもおかしくないだろうし、未踏であるなら最初のあの狭い通路を行く決断をしたのは、リーダーとしてはやはり疑問。
医学生のサムは、ホリーの飛び出した骨を戻して治療。
ジュノはサラに「昔の友情を取り戻したくて……この洞窟にはあなたの名前を付けようと思って……」と言い訳をする。
原題:The Descent
2005年 99分 イギリス シネマスコープ R-15 日本語字幕:松浦美奈
監督・脚本:ニール・マーシャル 撮影:サム・マッカーディ 編集:ジョン・ハリス 音楽:デヴィッド・ジュリアン
出演:シャウナ・マクドナルド(サラ)、ナタリー・メンドーサ(ジュノ)、アレックス・リード(ベス)、サスキア・マルダー(レベッカ)、マイアンナ・バリング(サム)、ノラ=ジェーン・ヌーン(ホリー)、オリヴァー・ミルバーン(サラの夫ポール)、モリー・カイル(サラの娘ジェシー)、レスリー・シンプソン、クレイグ・コンウェイ
時をかける少女
2006年08月18日 金曜日
テアトル新宿 ★★★☆
■リセットで大切なものがなくなって
3度目の映画化らしいが、この作品は原作を踏まえたオリジナルストーリーで『時をかける少女2』という位置づけのようだ。というのもそもそものヒロイン芳山和子が、この映画のヒロインである紺野真琴の叔母という設定だからだ。
真琴は東京の下町に住むごくごく普通の高校2年生。クラスメートの間宮千昭と津田功介とめちゃ仲がよくて、3人で野球の真似事をする毎日。って普通じゃないような。男友達が1番の親友なのは真琴のさっぱりした性格と、友達から恋に発展する過程に絶好の設定と思ったのだろうが、今時の高校生という感じが私にはしないんだけど。
ま、それはともかく、真琴は夏休み前の踏切事故で自分にタイムリープの能力があることを知る(能力を手に入れたのは学校の理科室なのだが、まだこの時にはそのことはわかっていない)。そしてその力を真琴はおもちゃで遊ぶように使ってしまう。自分の都合の悪いことが起きると、その少し前に戻ってリセットしてしまうわけだ。
真琴の安易な発想が『サマータイムマシン・ブルース』(05)的なのには笑ってしまうが、この小さなタイムリープの繰り返しは、私たちが何気なく過ごしてしまう日常に、多くの反省点が潜んでいるということを教えてくれる。反省点と言うと大げさだが、見落としていることが多いのは確かで、真面目くさってやり直しを続ける真琴に馬鹿笑いしながらも、そんなことを感じていたのだ。
であるからして、見落としたことが沢山あるにしても、くれぐれもプリンを取り戻すようなことには使わないように。そう、真琴も「いい目をみている自分」がいることで「悪い目をみている人」が出来てしまうことに気が付くのだ。
そんなタイムリープ乱用中の真琴に、千昭から告白されるという思わぬ展開がやってくる。狼狽のあまりタイムリープで告白自体をなかったことにしてしまうのだが、そこ(新たに現れた過去)では今度、千昭に同級生の早川友梨が告白し、千昭もまんざらではない様子なのだ。好きだと言われたばかりの真琴は複雑な気分だ。ボランティア部の下級生藤谷果穂からは功介に対する相談まで受けて……。
リセットで大切なものをなくしてしまったことに思い至る真琴だが、実はタイムリープも限界に近づいていて(体にチャージして使用する)、どうやら腕に出てくるサインが本当なら、あと1度しか使えないらしいのだ。
このあと千昭が未来人で、和子叔母さんが修復している絵を見にここ(現在)にやってきたことなど、いろいろな謎が解き明かされていく。千昭にも残されたタイムリープはあと1度で、でもそれは自分の帰還にではなく、功介と果穂を助けるために使われることになる。そして真琴に残された1度のタイムリープは……。
千昭との別れは必然であるようだが、でも自分勝手な私はそう潔くはなれない。「未来で待ってる」「うん、すぐに行く。走って行く」でいいのかよ、って。いいラストなんだけどね。
で、やっぱり気になってしまうのは、「魔女おばさん」(真琴がそう呼んでいる)の和子だろう。博物館で絵画の修復の仕事をしている30代後半の未婚の女性という設定だと、まだ何かを待っているということになるが(ということは真琴も?)。
それにしては、真琴から相談を受けても落ち着いたものだ。タイムリープを「年頃の女の子にはよくあること」にしてしまうし、「よかった。たいしたことには使っていないみたいだから」と野放しにしていても平然としている。真琴を信頼しているにしても、この達観はどこから来ているのだろう。落ち着いてる場合じゃないよ。だって自分のことにも使えるかもしれないし、とにかくもっといろいろ聞き出したくなるが、ほじくり出してしまっては収拾がつかなくなってしまって、やはりまずいのかも。ここは単なる原作や前作へのリスペクトとわきまえておくべきなのだろう。
タイムマシンものはどうしても謎がつきまとって、これをやりだすとキリがないが、この映画で描かれるタイムリープは、過去に戻っても自分と遭遇することはない。つまりそこにいるのは未来の記憶を持った(その分だけ余計に生きた)自分のようだ。うーむ。これは考え出すと困ったことになるのだが、ということは真琴も千昭も互いにタイムリープしていると、どんどん違う世界を作り出していって、結局は自分の概念の中にしか住めない狭量な世界観の持ち主ってことになってしまうんでは。ま、いっか。
【メモ】
学校の黒板にあった文字。Time waits from no one.
津田功介は幼なじみで、医学部志望の秀才。千昭は春からの転校生。
「真琴、俺と付き合えば。俺、そんなに顔も悪くないだろ」(千昭)。
「世界が終わろうとした時に、どうしてこんな絵が描けたのかしらね」(修復した絵を前にして和子が言う)。
絵は千昭によると、この時代だけにあるという。絵が失われてしまうような希望のない未来。
「お前、タイムリープしていない?」千昭は、真琴のタイムリープに気付く。何故? これは不可能なのでは。千昭の説明だとタイムリープの存在を明かしてはいけないことになっているが?
腕に表れるサイン。90。50。01。
「人が大事なことをはなしているのに、なかったことにしちゃったの」と千昭の告白をリセットしてしまったことを後悔する真琴。
「(絵が)千昭の時代に残っているように、なんとかしてみる」(真琴)。
2006年 100分 配給:角川ヘラルド映画 製作会社:角川書店、マッドハウス
監督:細田守 脚本:奥寺佐渡子 原作:筒井康隆『時をかける少女』 美術監督:山本二三 音楽:吉田潔 キャラクターデザイン:貞本義行 制作:マッドハウス
声の出演:仲里依紗(紺野真琴)、 石田卓也(間宮千昭)、板倉光隆(津田功介)、 原沙知絵(芳山和子)、谷村美月(藤谷果穂)、 垣内彩未(早川友梨)、 関戸優希(紺野美雪)
パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト
2006年08月18日 金曜日
新宿ミラノ1 ★★☆
■目まぐるしいし、遊びすぎ
情けないが、前作(2003)の記憶はもうすでにほとんどない。海賊+ファンタジー的要素のイメージが残っているだけ。自分の好みとしないところが残っているということは、つまりそんなに評価できなかったのだろう。結論から言ってしまうと、今回も似たようなものかも。が、ファンタジー部分で前回ほどの抵抗は感じなかった。骸骨海賊よりは半魚人の方がいいかなという程度なのだけど。
ウィル(オーランド・ブルーム)とエリザベス(キーラ・ナイトレイ)は、結婚式の直前にジャック(ジョニー・デップ)を逃した罪で投獄されてしまう。提督がウィルに示した放免の条件は、ジャックの持つ羅針盤を手に入れることだった。これで3人が出会うお膳立ては完了。だって、ほらね、エリザベスは脱獄してウィルのあとを追ったもの。
そのジャックだが、前作で海賊バルボッサ(ジェフリー・ラッシュ)との死闘のすえブラックパール号には戻れたものの、幽霊船フライング・ダッチマン号の船長デイヴィ・ジョーンズ(ビル・ナイ)と契約した13年の支払期限が迫っていた。ジャックはブラックパール号を手に入れるため自分の魂を負債にしていたのだ。
この幽霊デイヴィ・ジョーンズとの約束もだけど、彼の心臓が入った宝箱(デッドマンズ・チェスト)やジャックの不思議な羅針盤、さらにはこれまたジャックとの関係も怪しげな女霊媒師?ティア・ダルマ(ナオミ・ハリス)なども現れて、いくらでも設定自由ときてるから、逆にどうしても本気で観る気になれない。ましてや最後になって、この作品が次回作への橋渡し的位置にあることがわかっては、力が抜けざるを得ないというしかない。
そうはいってもさすがに夏の本命作ということで、見せ場は山とある。前作から3年も経つのに主要配役はすべて確保してだから、力の入れ具合もわかるというものだ。
デイヴィ・ジョーンズの操るクラーケンという大ダコの怪物はド迫力(でかすぎて全体像も見えないのだ)だし、デイヴィ・ジョーンズのタコ足あごひげの動きにもつい見とれてしまう。ただ、人食い人種族から逃げ出すところや、外れてころがる水車の上での3つ巴の剣戟などは、それ自体はよく出来ていても大筋には関係ない余興で、だから観客も例えば宝箱の鍵の争奪戦という目的を忘れかねない話の拡散ぶりなのだ。また笑いの要素もそうで、それがこの映画の持ち味にしても、全体に遊びすぎだろう。
ウィルの父親ビル・ターナーまで登場(バルボッサの怒りを買って靴紐を砲弾に縛られて海中に沈められていた)して、話はますますややこしくなるばかり。ウィルは鍛冶屋見習いだったはずだが、父親は元海賊なんだ(私が忘れているだけなら、ごめん)。詰め込みすぎだから、ジャックの手に表れる黒丸の意味も忘れていて、なんだよせっかくのラブシーンなのに、となってしまう。
それにしてもウィルと式直前までになりながら、ジャックにも惹かれてしまうエリザベスっていうのもねー。ウィルは今回活躍場面も少なかったし、ジャックとエリザベスのキスシーンまで見せられちゃうわで、同情申し上げますです。
あと、デイヴィ・ジョーンズが、海で死んだすべての男の魂を牛耳っている(海で命を落とし適切に埋葬されなかった者が、命は尽きているのに死ぬことは出来ずに彼の船員にされてしまう)のであれば、前作の海賊バルボッサたちとはどういう関係にあるのだろう。
演出で気になったのは、クラーケンの出現にジャックがブラックパール号から早々に逃げ出してしまう部分。こんな簡単に捨ててしまうものを、自分の魂と引き換えにしてたのかよ。まあジャックは、ちゃんと引き返してくるんだけど、でもあの場面では相当ボートを漕いでいたんだけどねー。
帰ってきたジャックはクラーケンとの闘いで姿を消す。で、このあとは3作目を乞うご期待、だって。はぁ、さいですか。
【メモ】
自分の魂でなければ、100人分が必要。
ジャックに「いざとなったらあなたは正しいことをする」とエリザベス。
「(デイヴィ・ジョーンズが近づけないように)陸を持ち歩きなさい」とビンに土を入れる。
エンドロールのあとの映像は、犬が酋長の椅子に座っている場面。やっぱり捕まっちゃったんだ。んで、ジャックの代わりに食べられちゃうのだな。
原題:Pirates of the Caribbean: Dead Man’s Chest
2006 151分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:■
監督:ゴア・ヴァービンスキー 制作:ジェリー・ブラッカイマー 脚本:テッド・エリオット、テリー・ロッシオ 撮影:ダリウス・ウォルスキー 編集:スティーヴン・E・リフキン、クレイグ・ウッド 音楽:ハンス・ジマー
出演:ジョニー・デップ(ジャック・スパロウ)、オーランド・ブルーム(ウィル・ターナー)、キーラ・ナイトレイ(エリザベス・スワン)、ビル・ナイ(デイヴィ・ジョーンズ)、ステラン・スカルスガルド(“ブーツストラップ”・ビル・ターナー)、ジャック・ダヴェンポート(ノリントン)、ケヴィン・マクナリー(ギブス)、ナオミ・ハリス(ティア・ダルマ)、ジョナサン・プライス(スワン総督)、マッケンジー・クルック(ラジェッティ)、トム・ホランダー(ベケット卿)、リー・アレンバーグ(ピンテル)、ジェフリー・ラッシュ(バルボッサ)
深海 Blue Cha-Cha
2006年08月26日 土曜日
新宿武蔵野館2 ★★
■頭の中のスイッチを切れない女の物語
刑期を終え刑務所から出たアユー(ターシー・スー)だが、行くあてもなく、入所時に慕っていたアン姉さん(ルー・イーチン)を訪ねるほかない。アンはアユーを自分の家に住まわせ、自分の経営するクラブで働かせることにする。
「頭の中のスイッチを切れない」という心の病を持つアユーは、アンに「会うのはいいけど、好きになってはいけない」と釘をさされるが、羽振りのいい常連客のチェン(レオン・ダイ)に誘われるとすぐ夢中になり、度を超した愛情で相手を縛ろうとしてトラブルを起こしてしまう。
アンは上客を失うが、アユーには新しい仕事(電子基板の検査)を世話し、就職祝いだといってケータイまでプレゼントする。
次のアユーの恋人は仕事場の上司のシャオハオ(リー・ウェイ)だ。はじめのうちこそアユーは誘われてもシャオハオを無視していたが、彼の積極的な行動と甘いメールで、ひとたび関係を持ち一緒に住んでもいいという言葉を引き出すと、次の日にはアンと喧嘩するように彼のアパートに引っ越してきてしまう。
が、アユーは無意識のうちに相手を過剰な関係に引きずり込み、破局はあっけなく訪れる。シャオハオはチェンのような暴力男でもないし真面目な青年なのだが、世界には2人しかいないと思い込んでしまうようなアユーの気持ちは到底理解できない。アンからアユーの思いもよらぬ過去(夫を殺して服役)を明かされたこともあるが、それ以前にシャオハオにはアンとやっていけないことがわかっていたはずだ。
アユーという女の悲しさが出せればこの映画は成功したはずだ。が、残念なことにいやな女とまでは言わないが、私にはやっぱりうっとおしい女にしか見えない。アユーの心の病は薬が必要なほどだからと説明されても、それは変わらない。
変わらないのはアユーの陰の部分を見てしまっているからで、それを知らなければアユーに惹かれ、彼女を振り向かせようとしてしまうのかもしれない。そして振り向かせてしまったら、興味が半減してしまういやな男になってしまうのだろうか。
といって、映画にどう手を入れればよいのか、それは見当もつかないのだが。愛することで自制心を失い壊れてしいく女を魅力的に描くことは難しいのかもしれない。が、せっかくの題材を生かせなかったことは惜しまれる。
再びアンの元で生活をはじめるアユー。2人はある朝、旅回りの人形劇団の爆竹に起こされる。人形つかいに興味を示すアユー。そばで見守るアンに、弟も病気で自分の殻にこもるのだとそこにいる兄が話しかける。
もっとも、この出会いが再生につながるという安易な終わり方にはさすがにしていない。旅回り故の別れがすぐにやってきて、あとには「海は広大ですべてを癒す」という取って付けたような言葉が残るだけである。
こういう終わり方はとんでもなくずるいのだが、この映画の場合は、海というイメージの先にほのかにアンの存在が見えるので、ただごまかしているというわけでもなさそうだ。自分の美貌は去って久しい中年女で、クラブを経営しているとはいっても景気がよくないのか家賃を心配し、タバコと宝くじを楽しみにしているアン。掃除もしないで遊んでばかりのアユーに文句を言い、家出にも本気で怒ったくせに、でも何事もなかったかのようにまたアユーを受け入れているアン。
アユーとアンが抱き合いながら人形劇団の船を見送るシーンに、だからもっと素直に女性たちの深い愛情を感じればいいのかもしれないのだが、でもやっぱりそういう気分にはなれなかった。
これは些細なことなのだが、エンドロールの前半は、岸壁に残された人形劇の舞台で、でもいくら何でも舞台を忘れて去っていくことはあり得ないだろう。映像としては恰好がついても、これはいただけない。映画に入っていけなかったのは、こういう映像優先の姿勢が全体に見え隠れしていたせいもありそうだ。
【メモ】
鼓山フェリー乗り場
「僕を信じてくれ、すべてうまくいくから。シャオハオ」(アユーに送られてきたメール)。
「人生が思い通りに行かない時には、チャチャを踊ろう」(アン)。
英題:Blue Cha Cha
2005年 108分 ヴィスタ(1:1.85) 台湾 日本語字幕:■
監督:チェン・ウェンタン/鄭文堂 脚本:チェン・ウェンタン/鄭文堂、チェン・チンフォン/鄭瀞芬 撮影:リン・チェンイン/林正英 編集:レイ・チェンチン/雷震卿 音楽:シンシン・リー/李欣芸
出演:ターシー・スー[蘇慧倫](アユー[阿玉])、ルー・イーチン[陸奕静](アン[安姐])、リー・ウェイ[李威](シャオハオ[小豪])、レオン・ダイ[戴立忍](チェン[陳桑])
ユナイテッド93
2006年08月26日 土曜日
新宿武蔵野館1 ★★★
■比較できないということにおいて等価なもの
結末を観客全員が知っている映画は他にもあるだろうが、この作品の場合は事件としての結末であり、同時多発テロ時にハイジャックされた4機のうち1機が、目的を果たせずペンシルヴェニア州に墜落したという、およそ劇映画の題材としてはふさわしくないと思われるものだ。確かにその時の乗客の携帯電話などから、英雄的行為があったのではないかということは報道されていたが、だからといってそれが映画になるとは思ってもいなかった。
結末を知っていることが、大きな意味を持つことは、映画がはじまってすぐ感じることだ。緊張を持続させられるのも、逆に、何も知らない乗客としてそこにいたならばという想像を働かせることができるのも、事件を知っていればこそだからで、そして、そういういくつもの視点(乗員、乗客、テロリスト、管制官……)を可能にしたつくりに映画はなっているのだ。
しかし、この映画の飛行機内(+テロリストたちの出発前の光景)の出来事はまったくの想像にすぎない。わかりきったことなのだが、あたかも事実を積み上げてつくったかのような映像が提出されているので、一応ことわりを入れておかねばという意識が働いたまでで、とはいえ、この方法は成功しているといっていいだろう。
乗客の英雄的行為は、製作者の願望でもあるだろう。が、そこで選ばれたのはヒーローではなく、生きたいと願った乗客の等価な気持ちだった。機内で自分たちの運命を知って一旦は茫然とする彼らだが、パイロットの死を知ってからは、まるで了解事項のように役割分担が決まり、操縦桿を奪還するという目的に向かって、生きたいと願う、その部分においては等価な気持ちが発露されることになる。
一方で、映画はテロリストの行動を丁寧に追うことも忘れない。そして何とも虚しくなるのは、テロリストの祈りと乗客の祈りが、それぞれの神に向けられることだ。祈りにどれだけの差があるのだろう。比べることが出来ないということにおいて、これまた等価といってしまっていいのではないか。ここまで言ってしまうと、製作者や被害者の家族などからは反発を食らうかもしれないのだが。
映画は事実を装った想像が重要部分を占めるが、地上部分については可能な限り事実を再現したはずである。93便が飛び立ったニューアーク空港管制塔や連邦航空管制センター、それに軍関係者の混乱ぶりが生々しい。特に目の前で世界貿易センタービルの惨状を見せつけられた空港管制塔の職員たちの驚き。この映像を目にしたのは私自身も久しいが、何度観ても釘付けになる。
空港管制塔の表示板が繰り返し映される場面からも目が離せない。アメリカ上空に4200機もの航空機が飛んでいるという事実にも驚くが、それをどの程度正確に把握して運行しているのだろうか。そのあたりの興味も尽きないが、93便の離陸が30分ほど遅れたことが結果として、乗客に世界貿易センタービルの情報を伝え、そのことが彼らを蜂起させ、ホワイトハウスは災難から免れたようだ。
そういう細部については忘れていたが、そのこととは別に、どうしても問題になるのは国防という部分で、映画もそのことについては手厳しい。
『M:i:III』で、アメリカ国内であれだけ乱暴なことをしでかしたら、アメリカ軍が黙っていないだろうと安直な脚本を批判的に書いてしまったが、ここで再現されたことが事実なら、あの部分を批判したのは間違いだったことになる。それだけ現場と上層部との距離は遠く、また現場と直結していたにしても、指揮官が自らの責任においてどれだけの裁量を揮えるのかという、初歩的で難しい問題がどこまでもついてまわるのだろう。
こういう映画を採点するのは気が引けるが、とりあえずということで。
原題:Flight 93
2006年 111分 アメリカ 日本語字幕:戸田奈津子
監督・脚本: ポール・グリーングラス 撮影: バリー・アクロイド 編集: クレア・ダグラス、リチャード・ピアソン、クリストファー・ラウズ 音楽: ジョン・パウエル
佐賀のがばいばあちゃん
2006年08月27日 日曜日
楽天地シネマズ錦糸町-3 ★
■辛い話は昼にせよ(収穫はこれのみ)
漫才コンビ“B&B”の島田洋七による同名の自伝的小説の映画化。「がばい」は佐賀弁ですごいの意。
明広(池田壮磨→池田晃信→鈴木祐真)は原爆症で父を亡くし、兄と共に居酒屋で働く母(工藤夕貴)に育てられていたが、泣き虫で母の足手まといになることが多かった。伯母の真佐子(浅田美代子)が見かねてのことか母が頼んだのか、新しい服を着せられ新しい靴を履かされたうれしい日に、騙されるように真佐子に連れられて佐賀の祖母のもとにやってくる。
着いたとたん挨拶もそこそこに、しかも夜だというのに次の日からの飯炊き係を言い渡される明広。こうして2人の生活がはじまることになるのだが、ようするに昭和30年代の佐賀を舞台にしたばあちゃんと少年の話で、映画は昔流行った『おばあちゃんの知恵袋』の貧乏生活篇的様相を帯びる。
夫の死後7人の子を育てたというがばいばあちゃん語録を列記すると、「川はうちのスーパーマーケット」(上流にある市場で捨てられたくず野菜や盆流しの供物が流れずに引っかかるように工夫してある)、「この世の中、拾うものはあっても捨てるものはない」(外出時には道に磁石をたらすことを忘れない)、「悲しい話は夜するな、どんない辛い話でも昼したら大したことない」、「今のうち貧乏をしとけ、金持ちになったら大変よ、よかもん食べたり、旅行へ行ったり、忙しか」などとなる。
貧乏についても「暗い貧乏と明るい貧乏」があって「うちは明るい貧乏」なのだと説く。まあ、たしかに。もっともばあちゃんの家は門構えも立派なら垣根も堂々たるもので、台所は敷地内の「スーパーマーケット」小川を渡った先にあるのだ。こんな広い家に住んでいて貧乏とはね。今とは違う価値観の中に放り込まれて、それは頭ではわかるのだが貧乏を実感できない恨みは残る。
明広が剣道をやりたいと言えば、竹刀や防具にお金がかかるといい、明広が柔道に格下げ?しても柔道着がいるからだめで、ばあちゃんから許しが出るのは走ることだった。それも靴が磨り減るから素足にしろ、全力疾走は腹が減るからダメ、とこんな調子の話が続く。
ただ明広が中学の野球部でキャプテンになったことを知って、スパイクを買いに行く話はどうか。夜、閉店しているスポーツ用品店をたたき起こし、店の親父に1番高いのが2500円と言われて1万円にならんかと詰め寄る。必要なものにはお金を惜しまないところを見せたかったのだろうが、この演出は白ける。
他にも先生たちとの弁当交換話や、マラソン大会での母との再会などがあるが、ばあちゃん語録からそういう話に格上げされたものはどれも出来が悪い。この積み重ねが、最後の中学を卒業し母の所へ帰ることになる明広とばあちゃんの別れの場面を、薄めてしまったのではないか。
母との再会(何と長い年月! それも1度も会っていないのだ)では、明広の兄が何故来ないのか(単純に金がなかったのかもしれないが)、そして明広を兄と差別したことの後ろめたさを、母に語らせてもよかったのではないかと思うのだが。
しかし、この映画の1番の難点は、吉行和子ががばいばあちゃんのイメージにそぐわないことではないだろうか。そして大人の明広も、本人の島田洋七ではなく、何で三宅裕司なんだろう。本人でないのなら、この大人の視線部分は不要だろう。とんでもない事件が起きるわけではないので、演出が平坦になることを避けたのかもしれないが、意味があるとは思えない。
【メモ】
明広の弁当が貧弱なのは有名らしく、先生が今日は腹具合が悪いからと明広に腹に負担のかからない弁当と交換してくれと言うのだが、これが何人も……。不思議がる明広に、ばあちゃんは「人に気付かれないのが、本当の優しさ、親切」と解説する。
「明広、行くな」最後に残されたばあちゃんは、号泣しながら叫ぶ。
2006年 104分 サイズ:■
監督:倉内均 脚本:山元清多、島田洋七 原作:島田洋七『佐賀のがばいばあちん』 撮影:三好保彦 美術:内藤政市 編集:阿部亙英 音楽:坂田晃一
出演:吉行和子(ばあちゃん)、工藤夕貴(岩永明広の母)、浅田美代子(真佐子)、鈴木祐真(中学生の明広)、池田晃信(小学校高学年の明広)、池田壮磨(小学校低学年の明広)、穂積ぺぺ(小2担任教師)、吉守京太(警官)、石川あずみ(看護婦)、緒形拳(豆腐屋)、三宅裕司(大人の明広)、島田紳助(スポーツ店主)、島田洋八、山本太郎(中野先生)
僕の、世界の中心は、君だ。
2006年08月27日 日曜日
楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★
■ヘンな設定はなくなっているが
細かいことはもう忘れたが、あり得ない偶然の連続にうんざりだった『世界の中心で、愛をさけぶ』。あんな馬鹿げた話をわざわざリメイクするって? 不純な興味で観ることにしたのだが、とても同じ話とは思えず、狐につままれたような気分だった(確かに同じだという部分も、だんだん思い出してはきたけどね)。
婚約者の失踪もなければ、婚約者と主人公の初恋のつながりもない。そりゃそうだ、婚約者そのものがこの映画には出てこないのだから。さすがにリメイクだ、あのどうしようもない設定をきれいさっぱり取っ払ってしまったのね。が、そうなると難病ものという陳腐きわまりないメロドラマだけが残ってしまうことになるが……。
10年ぶりのテミョン高校の同窓会に出席したスホ(チャ・テヒョン)は、いまだに初恋の人の思い出を引きずっていて、仲間からも半分は親愛の気持ちからとはいえ、からかわれてしまう。そして、物語は10年前に飛ぶ……。
マドンナ的存在のスウン(ソン・ヘギョ)がまさか自分のような平凡な男に、というスホのとまどいが微笑ましい。これは男にとっては究極の設定かも。が、仲間のはからいで島へふたりきりで旅行、ファーストキス、そして突然の発病、と続く展開はあまりにもありきたり。
難病だからといってめちゃめちゃ暗くなるわけでもないし、日本版のようにヘンな小細工(病気を装ったラジオの投稿など)がないのはいいが、だからといってこれだと物足りない。その反動か、快復の見込みがなくなったスウンを台風で欠航になっているというのに島に連れて行こうとする場面の強引さは何なのだろう。スウンは苦しがっているし、で、ここは観ているのが辛くなってしまったぞ。
スウンが撒いた種が一面の花を咲かせるラストも、日記の存在を際だたせるほどにはなっていない。まあ、これは初恋的味付けということで。
しかし、この終わり方では結局初恋の想いがそのまま残って、ようするに巻頭の同窓会からただ過去に戻ってお終いということになり、構成上からも回想した意味がなくなってしまう。今どんなふうに生きているのかというようなことでもいいと思うのだが、何故何も付け加えないのだろう。現在のシーンがなければ、主人公だってもっと若い人を使えただろうに。
ところでこの映画には、葬儀屋をしているスホの祖父(イ・スンジェ)の初恋の話もあって、これが挿話というよりはサイドストーリーに近い扱いとなっている。祖父の場合は、初恋の人の娘からその人の想いを知って感謝する(「ありがとう。君も僕を覚えていてくれて」)のだが、これも扱いの大きさの割には意味があるとは思えなかった。
余談になってしまうが、祖父がこの話をはじめるきっかけが妙ちくりんだ。学校に危篤(ただ具合が悪いだったか?)の電話が入ってスホがあわてて戻るのだが、祖父はぴんぴんしていて「ビールを飲みながら話がしたかっただけ」などと言うのだ。本人がそんなことのために電話? そりゃないでしょ。
【メモ】
スウンは、ポケベルのボイスメッセージでスホに想いを告げる。ポケベルは映画ではピッピと言われていた。
名前の漢字を訊くのは、日本版では違和感があるが、韓国はハングル表記が普通だからぴったりのような。
貧血姫(スホがスウンに付けた呼び名)。
無菌室に隔離されたりはするが、病気そのものの映像としては、抜けた髪の毛をスウンが手にしている場面がある程度。
エンディングは『瞳をとじて』(作詞・作曲:平井堅、歌:チャ・テヒョン)。
(06/9/8追記) 気が付かなかったが「竹島」が写っている(撮影された?)ことがネットで問題になっているようだが?? 映画では旅行で行った島は「アンゲ島」(架空の島)だし、ロケ地も巨済島(コジェド)なのにね。
原題:甯誤梠・シ・俯ウエ(波浪注意) 英題:My Girl & I2005年 97分 韓国 シネマスコープ 日本語字幕:根本理恵
監督:チョン・ユンス 脚本:ファン・ソング 撮影:パク・ヒジュ 音楽:イ・ドンジュン
出演:チャ・テヒョン(スホ)、ソン・ヘギョ(スウン)、イ・スンジェ(キム・マングム/スホの祖父)、キム・ヘスク(スホの母親)、ハン・ミョング(スウンの父親)、パク・ヒョジュン(ソンジン)、キム・ヨンジュン(ヒソン)、ソン・チャンウィ(ジョング)、キム・シニョン(民宿のおばあさん
東京フレンズ The Movie
2006年08月29日 火曜日
TOHOシネマズ錦糸町-7 ★★
■1番最初に描いた夢などとっくに忘れてしまった身としては
題名にThe Movieとあるのは先行してDVD作品があるかららしいのだが、もちろんそれは未見。最初の方で、それまでのバンドの経緯などが少し駆け足気味だったり涼子(真木よう子)の場合結婚が決まっていたりするのは、映画用にダイジェストにしたのだろう。ほかの部分でも続編扱いのようなところがあった。
高知から上京してきた玲(大塚愛)が、東京でバイトをしながら自分の夢をかなえていくという話。他の女の子3人も同じ居酒屋のバイト仲間(1人はアメリカにいたから違うのかも)で、玲が音楽なら、芝居に結婚に絵と、結婚(これも雰囲気からすると玉の輿願望だったような)はともかく、じいさん視線で見るとどれもハードルが高く少々浮ついたもの。
もっともそれを言ってしまったらおしまいか。何度も繰り返される「1番最初に描いた夢をあなたは覚えてる?」というセリフがこの映画の言いたいことらしいから。そう言われてしまうと、夢を具象化することすら出来なかった身としてはぐうの音も出ないのだが。
4人の中で話のメインになっている玲だが、彼女にとっては夢が描けなかったのは田舎にいた過去のことであり、バンドが成功の道を駆け上がりつつある今、あの頃よりはずっと幸せなのだと言う。そんな玲だが、「お前の声が好き」と自分のことを認めてくれた隆司(瑛太)のことがいつまでも忘れられない。彼は自分の詩で歌いたいとバンドを去り、そのあともトラブルを起こして姿を消したままだったのだ。
隆司が消えたのは、移籍したメジャーデビュー目前だった「フラワーチャイルズ」というバンドで、メンバーが暴行事件を起こしたことによる。が、これはあとでわかることなのだが、そもそもは「サバイバルカンパニー」が玲のバンドになってしまうことを恐れていたからのようだ。
このあと真希(小林麻央)の情報で、ニューヨークに渡った玲は隆司を見つけ、彼に自分の気持ちをやっと伝える。思いっ切り予定通りの展開だよ。しかも街で見かけただけという曖昧な情報(旅行だったらどうするんや)だけで土地勘もない(真希も手伝ってはくれたが)イーストビレッジを歩き回って探し出してしまうんだからねぇ。そして東京からはライブの予定が迫っているというファクスが。どうする!
というわけで、甘ーい時間を楽しんだあと、ひと通りの悶着があって(隆司の生き方はそう簡単には決められないものね)、でも結末はとりあえずは玲1人で日本に帰るという、これはいい意味で裏切ってくれたわけだけど、言っていないことがあったからと空港で「アイ、ラブ、ユーッ!」と大声で叫けばれては、じいさんとしてはついていけないのだな。しかも「日本語で言ってよ」と返してたけど、あれは私にもわかるくらいの正真正銘の日本語ではなかったかと。
最後はライブシーン。これはさすがに様になっていて、挽回しようとしてか3曲フルで流していた。
他の子たちにも簡単にふれておくと、ひろの(松本莉緒)は先輩にふられて新しい劇団に移る。ここで詐欺事件に巻き込まれ、先輩を見返してやろうとした公演はあえなくオジャンとなってしまう。が、その過程で人に頼らず自分自身で生きていく足がかりを見つける。涼子は結婚生活の現実に直面し、真希は実はニューヨークでは絵は1枚も売れてはおらず、同居の彼、小橋亨(佐々木蔵之介)がハードゲイだったという新事実も……。
こうやってながめてみると、そうは甘い話にはなっていないのだけど、何か違和感が。たぶん夢について必要以上に言葉で語りすぎているからではないだろうか。最後のライブシーンになっても、まだ「あなたのために」とか「隆司が見つけてくれた夢だから」とか言ってたもんなー。
【メモ】
バイトの居酒屋は「夢の蔵」。
「結婚式も新婚旅行もなし……じゃあ何のための結婚?」(涼子)。
ニューヨーク行きは、涼子が新婚旅行(1人で行く?)のチケットを玲に譲ってくれて実現する。HISのチケット。宣伝はもう少しさらっと見せんか!
再会した隆司は記憶喪失になったとか馬鹿なことを言う。言うだけでなく、行動も。
2006年 115分 サイズ:■
監督:永山耕三 脚本:衛藤凛 撮影:猪本雅三 美術:磯見俊裕 音楽:佐藤準
出演:大塚愛(岩槻玲)、松本莉緒(羽山ひろの)、真木よう子(藤木涼子)、小林麻央(我孫子真希)、瑛太(新谷隆司)、平岡祐太(田中秀俊)、伊藤高史(奥田孝之)、中村俊太(永瀬充男)、佐藤隆太(里見健一)、佐々木蔵之介(小橋亨)、北村一輝(笹川敬太郎)、勝村政信(笹川和夫)、古田新太(和田岳志)
狩人と猟犬、最後の旅
2006年09月02日 土曜日
銀座テアトルシネマ ★★
■自然を調節しているという思い上がり
監督のニコラス・ヴァニエ自身が冒険家で、ノーマン・ウィンターにカナダで会って彼の生き方に共感して生まれた作品という。主演も本人自身(いくら生活場面が主とはいえよく演技できるものだ)で、だからノンフィクションと言ってもおかしくないほどリアルな作品となっている。
自然を知り尽くした生活者と冒険家の2人が組んだだけあって、画面に映し出される自然の美しさと過酷さには息を呑む。俯瞰の中で、ノーマンが操る犬ぞりはあくまで小さくて自然の中の一部という感じで捉えられている。が、本当に彼らは自分たちを自然の一部と認識しているのだろうか。
これは熊と対峙したノーマンと犬や、彼らが狼に囲まれる場面が演出したものだから言っているのではなく(狼の方はわからないが、カメラワークからしてもそういう気がする)、映画で語られていたノーマンの自然観に疑義を呈したくなったからなのだ。
彼が「自然を崇拝はしない」と言うのは何となくわかるような気がするのだ。すべての恵みは自然がもたらしてくれるとはいえ、その豹変ぶりは十分身に沁みてのことだろうから。が、「俺たちが(狩をすることで)自然を調節している」という発言は、やはり傲慢に思える。彼の生活が、食べるだけ獲物を捕るのではなく、生活必需品を得るために毛皮を売るという、もはや資本主義経済の一部に組み込まれたものだからだ。
当然、この件について私には口を挟む権利はない。それはわかっているのだが、聞き流してしまうことにも抵抗があるのだ。ノーマンの置かれている状況は、例えば「白人が毛皮を先住民に売る」というセリフにあったように、すでにいびつなものになっている(なにしろ「最後の狩人」なのだ)し、先輩格のアレックスでさえ、もう犬ぞりを操れないからとスノーモービルを手放せないわけで、それを踏まえればすべてが50歩100歩ということになってしまう。
が、やはり私には聞き逃せないセリフだったのだ。そして、もしまだそれを言うのであれば、もう少し詳しくそのことについて触れるべきであったと思う。具体的に自然をどう調節しているのか、調節したことになるのか、ということを。
いきなり批判になってしまったので、映画のフィクション部分に話を戻す。
ノーマンは、実生活がそうであるように、狩人としてユーコンに生きてきた男だ。しかし最近、山の急速な開発で獲物は激減し、山での生活に危機感を覚えていた。買い出しでドーソンの町に出たときに、頼りにしていたリーダー犬のナヌークが車にはねられ死んでしまう。ノーマンの落胆は大きく、雑貨屋の主人が同じハスキー犬(生後10ヶ月の雌)をくれるのだが、レース犬の血を引くせいかなかなか仲間になじもうとしない。
彼の妻である原住民のネブラスカは、そんなアパッシュ(彼女が名付け親)を根気よく育てようとするのだが、ノーマンはアパッシュにダメ犬の烙印を押し、肉をやらない場面まである。これはひどい。ここでの流れからは、ただ忘れたということにはならない(つまり意地悪になってしまう)から、ノーマンだって演じたくなかったのではないかと思うのだが。
しかし、事件が起きてアパッシュの評価は急に上がることになる。ノーマンの読み違いもあって犬ぞりが氷の湖に落ち、彼を残して犬たちは去っていくのだが、アパッシュだけは彼を気にして何度も振り返り、彼の声に他の犬を引っ張るように戻ってきてくれたのだった。この場面もかなりリアルで、かじかんだ指が元に戻らず、しばらく彼が悪戦苦闘する模様が描かれる。
冬に備えノーマンとネブラスカが木を切り出し、家を造るシーンは垂涎もので、移動の理由は猟場にふさわしい場所がなくなってのことなのだが、私のような人間は、眺望のいい場所を見つけさえすればあとは自由に家が建てられるのかと、どうしても都合のいいところだけを観てしまう。愛する人とのこの共同作業は、都会人には夢のまた夢だが、ノーマンはいままでにいくつ家を建てたのだろう。
ノーマンは狩人をやめることに踏ん切りが付けられず、アレックスを訪ねるが結論が出せない。そしてアレックスはアレックスで、自分は引退し、罠道をノーマンに譲ることを考えていたのだった。
ラストでネブラスカに「どうして今年だけなのに、あんなに立派な小屋を建てたの」と訊かれるノーマン。彼女だってわかって手伝っていたのにね。
この映画を観るかぎりでは、妻の方がノーマンよりもずっと孤独な生活(表面的なことだが)を強いられている。ノーマンはたまには町に出て憂さをはらすこともあるようだが(飲み友達もいる)、妻はノーマンが狩に出ている時もひたすら待ち続けているのだから。
環境問題に関係して1番気になったのは森林破壊についてで、映画では再三そのことに言及しているのに、映像がないのは何故だろう。そのシーンがあれば、言葉より圧倒的な説得力を持つはずなのに。残念でならない。
【メモ】
ナヌークが車に轢かれてしまうのは、自動車慣れしていなかったからか。
ネブラスカはナノニ族インディアン。
原題:Le Dernier Trappeur/The Last Trapper
2004年 101分 フランス、カナダ、ドイツ、スイス、イタリア シネマスコープ 日本語字幕:林完治
監督:ニコラス・ヴァニエ 脚本:ニコラス・ヴァニエ 撮影:ティエリー・マシャド 演出:ヴァンサン・ステジュー、ピエール・ミショー 音楽:クリシュナ・レヴィ 動物コーディネート:アンドリュー・シンプソン
出演:ノーマン・ウィンター(ノーマン・ウィンター)、メイ・ル(ネブラスカ/妻)、アレックス・ヴァン・ビビエ
太陽
2006年09月02日 土曜日
銀座シネパトス1 ★★★☆
■神にさせられてしまった人間
ロシア人監督ソクーロフによる終戦前後の昭和天皇像。上映が危惧されたらしい(天皇問題のタブー視は度がすぎている。上映側の過剰反応もあったのではないか)が、シネパトスは連日盛況で、公開してほぼ1ヶ月後の9月2日の時点でも2スクリーンでの上映にもかかわらず順番待ちの列が長く伸びていた(もっとも入館してみると6、7割の入り。それでもシネパトスにしては大ヒットだろう)。
敗戦濃厚な事態を前にしての御前会議で、天皇(イッセー尾形)は明治天皇の歌(「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」を引き合いにだして平和を説くのだが、これは日米開戦を前にしての話だったはず。こういう部分をみてもこの映画が事実にこだわるよりは、別の部分に焦点を合わせていることがわかる。
実際、その場面を取り上げたことでもわかるように、外国人の手による天皇論としては思いやりのある好意的なもの(排日移民法にまでふれている)で、ハーバート・ビックスの『昭和天皇』(この本の監修者吉田裕が映画の監修者にもなっている)のような容赦のなさ(と書くとヘンか)はない。これほどよく描いてくれている作品なのに上映をためらう空気があることがそもそもおかしいのだ。が、それが今の日本なのだが。
事実関係ならビックスに限らないが、こんな映画を観るよりはいくつも出ている研究書を読めばいいに決まっている。もっともだからといって、本当のことはなかなか見えてこないだろうが。
ソクーロフが描きたかったのは、神にさせられてしまった人間は一体どうふるまっていたのか、ということではないか。だから歴史的意味が大きいと思われる事柄であってもそれは大胆に省略し、神という名の人間の日常(むろん想像なんだが)を追うことに主眼を置いているのだろう。
映画は天皇の食事(フォークとナイフを使った洋食である)の場面からはじまるのだが、このあと沖縄戦の英語のニュースを聞いた天皇が、侍従長(佐野史郎)に「日本人は、私以外の人間はみんな死んでしまうのではないか」と話しかける。肯定も否定も畏れ多いことになってしまうことをさすがに侍従長はこころえているから「お上は天照大神の天孫であり、人間であるとは存じませぬ」と話をそらしてしまう。天皇は「私の体は君と同じ」と言うが、これ以上侍従長を困らせてもいけないと思ったのか、「冗談だ」と矛をおさめる。
続いて老僕(つじしんめい)により軍服に着替える場面。年老いた彼にとっても当然天皇は畏れ多い存在で、軍服の釦の多さに手こずり、禿頭に汗が噴き出ることになる。その汗を見ながら、汗の意味を計りかねている(楽しんでいる?)天皇。
まわりの人間がこうでは、天皇が「誰も私を愛してはいない。皇后と皇太子以外は」と嘆くのも無理はない。もっともこのセリフは当時としては日本的ではないような気がするし、西洋の神と違って戦前の天皇が愛の対象だったかどうかもまた別の問題ではある。
最初にふれた御前会議の次は、生物学研究所での天皇の様子だ。ヘイケガニの標本を前にして饒舌な天皇。そして、午睡で見る東京大空襲の悪夢。が、このあとはもうマッカーサー(ロバート・ドーソン)との会見を前にした場面へと飛んでしまう。
最初の会見こそぎこちないものだったが、カメラマンたちによる天皇撮影風景(これは有名なマッカーサーと一緒の写真でなく、庭で天皇ひとりを撮影するもの)などもあって、2度目の会見では、人間として話し行動することを「許されて」、それを楽しんでいるかのような天皇が描かれる。マッカーサーとの話はさすがに息の抜けないものになっているが、マッカーサーが席を外した時にテーブルのローソクを消したり、マッカーサーに葉巻を所望し、多分1度も経験したことのない方法(お互いに口にした葉巻でキスしあうだけのものだが)で火を付けてもらう……。
神でないことを自覚していた天皇だが、自ら宣言しなければ人間になれないことはわかっていたようで、疎開先から戻った皇后(桃井かおり)に「私はやりとげたよ。これで私たちは自由だ」とうれしそうに「人間宣言」の報告をする。ここでのやりとりは、互いに「あ、そう」を連発した楽しく微笑ましいものだ。
「あ、そう」は自分の意見を挟むことが許されず、とりあえず相手を認める手段(仕方のない時も含めて)として天皇が編み出した言葉なのだと思っていたので、こんな使われ方もあるのかとちょっとうれしくなってしまったくらいだ。
しかし、このあと天皇は、自分のした質問で「私の人間宣言を録音した若者」が自決したことを知ることになる。「でも止めたんだろ」と侍従長に訊くのだが、「いえ」という返事がかえってくるだけである。天皇は返す言葉が見つからないのか、皇后の手を引いて皇太子の待つ大広間へと向かう。
大東亜戦争終結ノ詔書の玉音放送の他に、人間宣言の録音があったとは。が、そのことより(最初に書いたように、映画は必ずしも事実に忠実であろうとはしていないから)ここで大切なのは、天皇が自分の人間宣言によって起こりうる事態を予想していたということではないだろうか。
これは、自分の下した決断がまた別の悲劇を起こさざるをえない、つまりはっきり神でない(これはわかってたのでした)ことを悟らざるをえない男の、しかし普通の人間にもなれず自由を手に入れることが出来なかった男の話なのだよ、と駄目押しで言っているのではないか。人間宣言をしても普通の人間になれなかったことは日本人なら誰でも知っていることだが、外国人にとってはこのくらい言い聞かせないとわかりにくいのかもしれない(でないとこの場面はよくわからない)。
しかし私としては、事実からは少し離れた人間としての天皇を考えるにしても、彼自身の運命のことよりも、天皇の目に大東亜戦争がどのように映っていたかが知りたいのだが。この映画の東京大空襲の悪夢が、悪夢ではあっても美しい悪夢であったように、天皇には本当の東京大空襲の姿は見えていなかったのではないか。会見に行く前に空襲の跡が生々しい街の様子が出てくるが、彼がそれを見たのは、もしかしたらその時がはじめてだったのではないか。
そのことで天皇の非をあげつらうつもりはない。でもそうであるのなら、やはり彼は孤独で悲しい人だったのだ。天皇制(象徴天皇制はさらに悪い)は、何より天皇の人間性を抹殺するものだからだ。
最後は雲におおわれた東京(という感じはしないが)を上空から捉えたもので、薄日の中に廃墟の街並が見え、右下には鳩が飛んでいる画面がエンドロールとなる。太陽はまだはっきりとは見えないということだろうか。
ロシア人の脚本に沿って、日本人が日本語で演じるというシステムがどう機能したのかは、あるいは構築していったのか(セリフも特殊用語だし)という興味もあって、語るにこと欠かない映画だが、何より、イッセー尾形の奇跡のような昭和天皇は、やはり感嘆せずにはいられない。
そして、出来ることなら日本人の手でもっと多くの天皇を扱った映画ができることを。
【メモ】
私が観た映画は英題表示(The Sun)のもの。
シネパトスのある三原橋は、銀座にしては昭和30年代の雰囲気がまだ残っている所。地球座や名画座時代であれば、防空壕の中というイメージで鑑賞できたはずだが、3年前の改装でずいぶん明るくなってしまった。もっとも地下鉄の騒音は消せるはずもなく、しっかり効果音の一部となっていた。そして、この映画にはそれがぴったりだったようだ。
「皆々を思うが故にこの戦争を止めることができない」
「ローマ法王は何故返事をくれないのかな」「手紙は止まっておりますよ」「ま、よかろう」
「神はこの堕落した世界では、日本語だけでお話しできるのです」
マッカーサーから送られたチョコレート。
極光についての問答。光そのものが疑わしいのです。
「闇に包まれた国民の前に太陽はやってくるだろうか」
原題:The Sun(Solnise/le Soleil)
2005年 115分 ロシア/イタリア/フランス/スイス 配給:スローラーナー サイズ:■ 日本語字幕:田中武人
監督・撮影監督:アレクサンドル・ソクーロフ 脚本:ユーリー・アラボフ 衣装デザイン:リディア・クルコワ 編集:セルゲイ・イワノフ 音楽:アンドレイ・シグレ
出演:イッセー尾形(昭和天皇)、佐野史郎(侍従長)、桃井かおり(香淳皇后)、つじしんめい(老僕)、ロバート・ドーソン(マッカーサー将軍)、田村泰二郎(研究所所長)、ゲオルギイ・ピツケラウリ(マッカーサー将軍の副官)、守田比呂也(鈴木貫太郎総理大臣)、西沢利明(米内光政海軍大臣)、六平直政(阿南惟幾陸軍大臣)、戸沢佑介(木戸幸一内大臣)、草薙幸二郎(東郷茂徳外務大臣)、津野哲郎(梅津美治郎陸軍大将)、阿部六郎(豊田貞次郎海軍大将)、灰地順(安倍源基内務大臣)、伊藤幸純(平沼騏一郎枢密院議長)、品川徹(迫水久常書記官長)
UDON
2006年09月03日 日曜日
新宿スカラ座1 ★
■主人公の思いつきに付き合ってはいられない
「ここに夢なんかない、うどんがあるだけや」という四国の香川から、コメディアンでBIGになってやろうとニューヨークへ渡った松井香助(ユースケサンタマリア)だが、現実は甘くなく、すごすごと故郷へ戻ってくるしかなかった。借金だらけの彼は、親友の鈴木庄助(トータス松本)の紹介もあって地元でタウン誌を発行している会社に就職することになる。
映画の語り手は宮川恭子(小西真奈美)で、香助とは偶然道に迷いうどんを啜りあっただけの関係だったが、ライターとして働くタウン誌の職場に、ある日香助がやってくるという寸法。ここで香助たちがはじめた讃岐うどんのコラムが注目を集め、ついに全国的なブームを巻き起こす。
ここまでは予想通りとはいえ、まあまあの展開。映画自体がタウン誌のコラム的構成になっていて、でもグルメに興味のない私でも楽しめた。まあ、讃岐うどんというハードルの低い食べ物だということもあるのだが。製麺所に器持参で、ネギはそこの畑にあるのを、となるとハードルが低すぎて、逆に畏れ多くて注文できなくなりそうだが、とにかくそういう話がこれでもかというくらいあり、評論家の「ブームには聖地が必要」というなるほど発言も挿入されていて、思わずにんまり。
が、ブームには終わりがある、と。発行部数を誇ったタウン誌も廃刊が決まり、仲間もそれぞれの道を探すことになる。
ブームの終わりにまで触れようとしているのか、これは並の成功物語というのでもないのだな、と思っていると……。話は一転、香助と実家の製麺所の頑固親父(木場勝己)との確執に移る。
香助にはニューヨークで失敗した弱みもあるし、その時の自分の借金を父が代わりに返してしまったことが面白くない。しかしこれはそんなに怒るようなことだろうか。父の返済で借金が消えたと思うことが甘いのであって、返済相手が代わったと思わなければ。とりあえずは父に感謝すべきだろう。母(の写真は笠置シズ子か?)の死因も父が原因と思っていて、これは姉(鈴木京香)にたしなめられる。
そんな状況の中、香助は意を決して、はじめて自分の気持ちを父に話し、製麺所を「継いでやってもいい。だから教えてくれないか」とまで言う(照れなのかもしれないが傲慢発言だ)。が、まさにその時、父は仕事場で倒れ、あっけなく死んでしまう。
このあと香助は、恭子や父のやり方を盗みしていたという義兄(小日向文世)の助けを借りて、父のうどんの味を出そうと奮戦するのだが、姉は「今さら勝手なことを」と、いい顔をしない。
カレンダーに付けた四十九日の印を、休業とは知らずに来た客が勘違いして、新規オープンの日と思い込むなんていう嘘っぽい話を織り込みながら、香助たちの試行錯誤は続き、ついに開店の日(!)を迎えることになる。
姉が同意しなかったのも無理はない、このあとこれが結末となるのだが、香助はまたニューヨークへ旅立つのだ。しかし、これはないだろう。死んでしまったとはいえ、父親に跡を継いでもいいとはっきり宣言したのだから。
前半のカタログ的部分はいいとしても、ドラマ部分は弱くダレを感じたのだが、原因は主人公に魅力がないからに他ならい。結末もそうだが、その時々の思いつきで行動しているようにしか見えないのだ。タウン誌の社員になったのも、讃岐うどんを取り上げたことも。それがたまたま成功してしまった場合はいいにしてもねー。そういえば恭子にも「俺、恭子ちゃんにはこの町にいてほしい」と言っておきながら、自分はまたニューヨークへ行くって?
このニューヨーク行きの結末は本当に腹が立つ。自分の実力のなさをいやと言うほど味わって帰国したのではなかったのか。親父のうどんの味を復活させたことと芸人になるというのはまったく違う話と思うのだが。やっぱりタクシー料金を先輩のくせして踏み倒すようなヤツなんだ、と虚しく納得。どういうつもりでこんなラストにしたのか監督に訊いてみたくなる。
義兄のように、心から麺が打ちたくて、それでもなかなか言い出せずにいる人間まで用意しているというのにさ。この映画では彼が1番いい感じなのだ。
で、さすがにこのままというわけにはいかないのだろう、くくりになるおまけが付く。恭子は念願の、それも『UDON』という本を出版。「これが彼女と彼の物語です」って。続いてニューヨークに彼女が着いて、香助が「キャプテンUDON」になって街角の大きなスクリーンに映っているという場面。お、成功したんだ。
でもなんか、つまらん。成功したんだから文句ないでしょ、みたいで。それに、どこが彼女と彼の物語だったのかな。タウン誌の取材や編集に一緒にうどん作り……でも、気持ちの部分は描かれてなかったよね。
【メモ】
香川県=日本で一番小さな県。
タイトルはUDONのNとうどんのんを1つの文字で表したもの。The Endもdとおわりのおを同じようにまとめたもの。The Endは無理があるが、最初のはなかなかだ。
ブームで忙しくなった店が、客の回転をよくするため、麺を細くして茹でる時間を減らしたという辛口批評も。すべてが讃岐うどんヨイショでもないのね。
宇高連絡船のうどんはおいしくないが、挨拶代わりのうどんなのだ(タウン誌編集長のミミタコ話)。
父親の死因は急性心筋梗塞。
香助は仏間で寝てしまい、幽霊になった父親と対面する。
うどん作りなのに恭子は長い髪を束ねもしない。
香助の妄想(最後は違うか)「キャプテンUDON」も2度ほど登場。
2006年 134分 シネスコサイズ
監督:本広克行 脚本:戸田山雅司 撮影:佐光朗 美術:相馬直樹 編集:田口拓也 音楽:渡辺俊幸
出演:ユースケ・サンタマリア(松井香助)、小西真奈美(宮川恭子)、トータス松本(鈴木庄介)、鈴木京香(姉・藤元万里)、升毅(大谷昌徳)、片桐仁(三島憲治郎)、要潤(青木和哉)、小日向文世(義兄・藤元良一)、木場勝己(父・松井拓富)、江守徹(評論家・綾部哲人)、二宮さよ子(馬渕嘉代)、明星真由美(淳子)、森崎博之(牧野)、中野英樹(中西)、永野宗典(水原宗典)、池松壮亮(水沢翔太)、ムロツヨシ(石松)、与座嘉秋(新美)、川岡大次郎 (小泉)
スーパーマン リターンズ
2006年09月03日 日曜日
新宿ミラノ1 ★★★☆
■問題を複雑にしすぎた5年
びっくりなのは、この映画が昔の4作の続編だということで、厳密には『スーパーマン』(1978)と『スーパーマン II 冒険篇』(1981)の最初の2作品の続きという位置づけになるらしい。最初の作品しか観ていないので、何故3、4作を無視するのかはわからないが、そうまでして25年後に続篇にすることはないだろうというのが正直な気持ち。
ま、いいんだけどね。ただ『冒険篇』の5年後ということは、舞台は今から20年前ってことになってしまうんだけどなー。
何故5年もの間不在にしていたかというあたりの説明が手抜きでわかりにくい(居場所探しって?)のだが、とにかくスーパーマン(ブランドン・ラウス)は地球に戻ってくる。
が、スーパーマンはどうでも、クラーク・ケントの5年ぶりの職場復帰は難しそうだ。でも、これは不可欠の要素だし、ロイス・レイン(ケイト・ボスワース)との絡みもなくすわけにはいかず、で、同僚のジミー・オルセン(サム・ハンティントン)がうまい具合に取りはからってくれて、とここは主要人物紹介も兼ねているからスムーズなのな。
その肝心のロイスだが、旦那になる予定のリチャード・ホワイト(ジェームズ・マースデン)という相手(編集長の甥なのだと)がいるだけでなく、子供までが……。ロイス念願のピューリッツァ賞は、スーパーマン不要論で授賞というあてつけがましさ(内容はスーパーマンに頼ってないで自立せよってなものらしいが)。
茫然としているクラークに、ロイスが取材で乗り込んでいる飛行機で、取り付けられたスペースシャトルが切り離せないまま着火(飛行機から発射されるようになっている)してしまうというニュースが飛び込んでくる。
この空中シーンは圧巻だ。事故機内部の描写(ロイスは痛い役)もふくめて、演出、編集ともに冴えわたったもので、スーパーマンの復活を十分すぎるほど印象付けてくれる。満員の観客が試合観戦中の野球場に、事故機を無事着陸させるという華々しいおまけまであって、野球場の観客ならずともこれには拍手せずにはいられない。
ただ全体としてみると、この場面が素晴らしすぎることが、皮肉にも後半の見せ場を霞ませてしまったことは否めない。ジョー=エル(昔の映像を編集したマーロン・ブランド)が息子に残したクリスタルの遺産を、レックス・ルーサー(ケヴィン・スペイシー)が利用して大西洋に新大陸をつくる(アメリカ大陸は沈没する)という、奇想天外で、だから現実味のないこけおどし的イメージが、恐怖感を生まないまま見せ物観戦的感覚で終わってしまうことになる。
第1作ではスーパーマンが地球を回転させて時間を戻すという禁じ手を使ってしまっていて、これは続篇を拒否しているようなもので、だから続篇でなく新シリーズにしてほしかったのだが、まあ、それは置いておくにしても、スーパーマンがスーパーすぎるからといって対抗策をエスカレートさせると、話が子供じみてしまうという見本だろうか。でもそうではなくって、最初の飛行機事故のような単純なものでも、見せ方次第では十分面白くなるはずなのだ。
もっとも今回は、ケヴィン・スペイシーには悪いが(存在感もあってよかったけどね)、1番の興味はロイスとの関係だ。5年も不在では(一言もなしに去ったというではないか)、新しい恋人ができてもロイスに罪はない(アメリカ社会ではよけい普通だろうから)。そうはいってもそれをそのままにスーパーマンと空を散歩するシーンをもってこられても、あまりに複雑な気分で、1作目の時のような空を飛ぶ楽しさは味わえないままだった。
リチャード・ホワイトがいいヤツだけに、これはロイスというよりはスーパーマンにもっとしっかりしてほしいところだ。なのに透視力や聴力を使ったストーカーまがいのことまでしているのではね。ロイスがこれを知って、まだ好きでいられるかしら。
私の妻は、ロイスは男を見る目があるという。なるほどリチャードの立派さは際だってるものな。が、ロイスはクラークを見ても何も感じないのだから、そうともいえない(私としては、できれば1作目で、ロイスにはスーパーマンではなくクラークに恋してほしかったのだが)。子供まで作っておいてそれはないような。これについてはスーパーマンにも一言いっておきたい。そんな関係になっていながら、まだクラークの正体を明かしていないなんて。ストーカー行為とともにこれは重大な裏切りだ、と。
ロイスの子供がスーパーマンとの間に出来た子だということがあとで判明して、なんだ、それを教えてくれていたら空の散歩ももっと楽しめたのに、とやっと胸をなでおろす。が、観客には説明できたかもしれないが、ロイスやリチャードに対しては?
それにしても5年の不在は問題を複雑にしすぎたとしかいいようがない。ルーサーの仮釈放もスーパーマンが証言に立たなかったからだっていうし。
子供にもスーパーマン的能力があることがわかって(ピアノを動かして悪人をやっつけたのは正当防衛だが、殺人をおかしたとなると)、しかしクリプトンナイトには平気……。こりゃ、スーパーマンの敵は、数作後は自分の子かぁ。むろん妄想。映画は父親から子供に静かに語りかけるという終わり方だったものね。あ、問題は山積みのままですよ。
今回、スーパーマンはクリプトンナイトをルーサーにいいように使われて、かなり痛めつけられる。リンチ状態。この演出はブライアン・シンガー好み? で、無敵なはずのスーパーマンが人間(ロイスとリチャード)に助けられるというわけだ。ロイスの「あなたを必要としている人がいる」(あれ、自分の著書を否定しちゃったぞ)という言葉にも勇気づけられて……。
でも途中でもふれたが、何しろ最後のスーパーマンの活躍は、岩盤を持ち上げて宇宙に持って行ってしまうというとんでもないものなのだが、もうハラハラもドキドキもないのよね。
【メモ】
クラークが投げたボールがあまりに遠くへ飛んでいってしまったため、犬が悲しそうな声を出すといういい場面がある。
ジョー=エルはすでに死んでいるとはいえ、息子以外の者に秘密を教えるのか。というか、あのクリスタルはそんなぼろいシステムなんだ。
ロイスは電力事故の調査にこだわってルーサーの船(老女を騙して遺産相続したもの)にたどり着くのだが、子供と一緒に軟禁されてしまう。
ロイスの子供の能力についてはピアノを動かしただけで、まだ謎。普段は気弱そうな男の子に見えるし。クリプトンナイトに平気なのは人間とのハーフだから?
注射針を受け付けないスーパーマンには医師団も困惑。入院にかけつけた人々の中にはマーサ・ケントの姿も。
エンドロールに「クリストファー・リーヴ夫妻に捧ぐ」と出る。
おまけ映像は、燃料切れで無人島に着陸したルーサーと愛人。「何も食べ物がない」というセリフのあとの視線は、愛人が抱きかかえている犬にむけられる。
原題:Superman Returns
2006年 154分 アメリカ サイズ:■ 日本語字幕:■
監督:ブライアン・シンガー 原案:ブライアン・シンガー、マイケル・ドハティ、ダン・ハリス 脚本:マイケル・ドハティ、ダン・ハリス 撮影:ニュートン・トーマス・サイジェル キャラクター原案:ジェリー・シーゲル、ジョー・シャスター 音楽:ジョン・オットマン テーマ音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:ブランドン・ラウス(スーパーマン/クラーク・ケント/カル=エル)、ケイト・ボスワース(ロイス・レイン)、ケヴィン・スペイシー(レックス・ルーサー)、ジェームズ・マースデン(リチャード・ホワイト/ロイスの婚約者)、フランク・ランジェラ(ペリー・ホワイト/「デイリー・プラネット」編集長)、サム・ハンティントン(ジミー・オルセン/ケントの同僚)、エヴァ・マリー・セイント(マーサ・ケント)、パーカー・ポージー(キティ・コワルスキー/ルーサーの愛人)、カル・ペン(スタン・フォード)、ステファン・ベンダー、マーロン・ブランド(ジョー、エル:アーカイヴ映像)
ラフ ROUGH
2006年09月09日 土曜日
テアトルダイヤ ★☆
■原作と比べたくはないが、ラフすぎる
家の和菓子屋が祖父の代からの商売敵という、大和圭介(速水もこみち)と二ノ宮亜美(長澤まさみ)の因縁の2人が、スポーツ特待生として栄泉高校の上鷺寮で出会うことになる。圭介は競泳、亜美は高飛び込みの選手。同じ寮とプールで毎日のように顔を合わせる中、反目から気になる存在へ。が、圭介には家の問題よりもずっと手強い仲西弘樹(阿部力)という相手が立ちふさがっていた。日本記録保持者で、昔から圭介のあこがれだった仲西は、亜美がおにいちゃんと慕う婚約者でもあったのだ。
『タッチ』に続くあだち充原作の映画化。話は単純だが、単行本で12巻となると、エピソードも多く、まとめるのはやはり大変だったのだろう。2人が実は幼なじみだった、という鍵を握るじいさんを脚本は抹殺している。それはともかく、2人の過去をペンダントにまつわる話だけで説明しているのは唐突で、映画だけという人にはわかりにくそうだ。
という感じでかたっぱしから原作と比較してしまうが、まあ仕方ない。でも『タッチ』もそうだったが、切り詰めながら寮長(渡辺えり子)の話などは増やしているし、伝統ある上鷺寮のデートも、原作にはあっても、ふくらませたもの。「歌謡喫茶チロルでまったり」(今時ないだろ)や次の映画館も閉館で、これはエンドロールの映像だから本編には関係ないにしてもその映画館には『海の若大将』のポスターが貼ってあったりするのだ。
一体この映画の時代設定は? ケータイも出てこないし、圭介はカセット(これは祖父の思い出とか言っていた)の愛用者。原作はもう20年以上も前になるのだから、これで正解なのだが、水泳大会は水着も含めて現代だし、伝統デート行事場面はおふざけにしてもねー。
それにここは亜美が圭介のよさを知る場面でもあるのに、それがないのでは惹かれ合っていくという過程がうやむやになってしまうではないか。
でも時代設定よりまずいのは、年月の移り変わりで、中3から高3までがまったく印象付けられずに進んでいってしまうことだ。映画でこの時期の移り変わりを描写するのは、俳優のことを考えただけでも大変なのはわかる。が、3度の日本選手権だけで年を意識させるしかないのは、あまりに芸がないだろうと用意した雪の場面などが、かえって浮いてしまっているのだ。青いプールが舞台だから、どうしても夏のイメージになってしまうのは仕方がないのだけどね。が、そのプールの描写は悪くない。清涼感を出すことにも一役かっている。
とはいえ、やはり圭介の成長物語なのだから、そこはどうにかしないと。海での人工呼吸事件のショックに続いて、仲西の交通事故。亜美は事故を自分のせいにしてその介護にかかりっきり。ライバルが不在の日本選手権では優勝するものの、目標を失った圭介は同級の緒方(石田卓也)から弱点を指摘されてしまう。この流れがうまく表現できていない気がするのだ。まあ、筋を知っている私に緊張感が欠けているということもあるかも。
そして、残念なのが仲西で、彼は亜美が尊敬してきたお兄ちゃんのようには描かれていない。選手生命が危ういほどの事故から快復したのはすごいことででも、リハビリ中の亜美への八つ当たりはフォローしておかないと。「事故はお前のせいじゃないと言うために、だから負けられない」だけじゃ弱くないかしらん。あだち充のマンガは、なによりフォローのマンガだからね。
速水もこみちの背が高すぎて、仲西が見劣りするのもマイナスだ。亜美の救助に向かう海の場面で、圭介が完全に飛び込んでから仲西がスタートするというのもダメ。ここは少し遅れくらいにしておきたかった。でないと仲西だけでなく、負けてしまった圭介にも気の毒というものだ。
最後の日本選手権のラストもマンガでは含みを持たせた終わり方だったのに、ここでははっきり圭介の勝利にしている。結果のでる前に亜美は思いを伝えたのだから、やはり蛇足かなー。出番の少なかった小柳かおり(市川由衣)にきっかけをつくらせていた(「ふたりはもう迷ってなんかいないのに」)のはよかったけどね。
あー、やっぱり原作との比較感想になっちゃったぃ!
【メモ】
幕開きは「君といつまでも」。
「あなたたちはラフ。これから何本も下書きを繰り返していくの。未完成こそあなたたちの武器」というセリフは教師から寮長のものになった。
「人殺し」のセリフは生身の人間が言うと、どっきりだ。
閉館の映画館名は「かもめ座」か。「うちわもめ座」だったりして。
「覚えているのは私だけ」「昔よく泣かされた。でもその子に急に会いたくなって、やっぱりまた泣いた」2人が昔を回想する場面でのセリフ。
エンドロール後の映像は第6回東宝シンデレラ用のもので、寮長の娘が入学する場面。「お母さん、見てこの制服」「あんたが1番似合うね。若い頃の私にそっくり!」。
2006年 106分 サイズ:■
監督:大谷健太郎 原作:あだち充 脚本:金子ありさ 撮影:北信康 美術:都築雄二 編集:今井剛 音楽:服部隆之
出演:長澤まさみ(二ノ宮亜美)、速水もこみち(大和圭介)、阿部力(仲西弘樹)、石田卓也(緒方剛)、高橋真唯(木下理恵子)、黒瀬真奈美(東海林緑)、市川由衣(小柳かおり)、八嶋智人、田丸麻紀、徳井優、松重豊、渡辺えり子
グエムル -漢江(ハンガン)の怪物-
2006年09月09日 土曜日
ヒューマックスシネマ4 ★★★★
■こいつは人間をぱくぱく食いやがる
謎の巨大生物に娘をさらわれた一家が、あてにならない政府に見切りをつけ怪物に立ち向かうという話。細部はボロボロながら映画的魅力に溢れた傑作。
ソウルを流れる漢江の河川敷で売店を営む父パク・ヒボン(ピョン・ヒボン)と長男のカンドゥ(ソン・ガンホ)は、長女ナムジュ(ペ・ドゥナ)のアーチェリーの試合をカンドゥの中学生の娘ヒョンソ(コ・アソン)と一緒にテレビで見ながら店番をしていた。川原では人々がのんびりくつろいでいたが、すぐそばのジャムシル大橋の下に、見たこともない奇妙で大きな生き物がぶら下がっていて、人だかりが出来はじめていた。
と、突然、それがくるりと回転して水に入ったかと思うと、すぐ岸に上がってきて猛然と見物客に襲いかかり、ぱくぱく(まさにこんな感じ)と食べ出したのだ。混乱する人々と一緒になって逃げまどう中、カンドゥは握っていたヒョンソの手を放してしまう。必死でヒョンソを探すカンドゥだが、怪物はヒョンソを尻尾で捉え、対岸(中州?)に連れて行き飲み込み、川の中へと姿を消す。
2000年に米軍基地がホルマリンを漢江に流したことや、それからだいぶたって釣り人が川の中でヘンな生き物を見たという予告映像はあったのだが、カンドゥが客のスルメの足を1本くすねてしまうというような、岸辺ののんびりした場面が続いていたので、こちらも弛緩していたようだ。だから、この、まだ形も大きさもその獰猛さもわからぬ(もちろんそういう情報は人間が次々に餌食になることで、どんどんわかってくる。出し惜しみなどせず、真っ昼間に少なくとも外観だけは一気に見せてしまうという新趣向だ)怪物の大暴れシーンには、すっかり度肝を抜かれてしまったのだった。
怪物の造型(ナマズに強力な前足が付いたような外形。もしかしてあれは後ろ足か)も見事なら、それを捉えたカメラの距離感が絶妙だ。怪獣の驚異的なスピードばかりを強調するのでなく、足をすべらせるところを挿入するのも忘れない。このリアルさがすごい迫力になっているのだ。巨大怪獣を遠くに置いて、逃げる人々を十把一絡げに映すという旧来の日本型怪獣映画ではなく、怪物に今にも食われてしまいそうな位置にいることの臨場感。細かく書くとキリがないので少しでとどめておくが、あっけにとられて逃げることを一瞬忘れている人を配したりと、逃げる人間の描写も手がこんでいる。
ただ展開はいささか強引だ。韓国政府は、怪物には感染者を死に至らしめるウィルスがいる(宿主)として、パク一家や川岸にいた人たちに隔離政策をとる。治療をうけるカンドゥの携帯に、死んだはずのヒョンソから助けを求める電話が入る。怪物はいっぺんに食べていたのではなく、人間がコンクリで造った巨大な溝のような場所を巣にしていて、そこに戻っては口から捕獲した獲物を吐き出して保管していたのだ(あとで大量の骨だけを吐き出す場面もある)。一命をとりとめたヒョンソは、死体となった人の携帯を使って連絡してきたのだが、携帯の状態が悪く状況がはっきりしないまま切れてしまう。
ヒョンソが生きているという話に誰も耳を貸そうとしないため、ナムジュと次男のナミル(パク・ヘイル)が戻ったパク一家のヒョンソ奪還作戦が開始されるのだが、政府や医師たちのたよりなさったらない。米軍の言いなりなのは似たような事情がある日本人としては複雑な心境だが、そのことより政府に怪獣をまったくやっつける気がないのだからどうかしている。
途中でウィルスはなかったというふざけたオチがつくのに、米軍とWHOがヘンな機械を投入してワクチンガスをばらまくというのもわけがわからない。それにこれも怪物でなく、ウィルスを壊滅させるのが目的って、おかしくないか!
怪物がいるというのに付近ではワクチンガスに反対する反米デモは起こるし、すべてがハチャメチャといった感じである。VFXは自前にこだわらずにハリウッドに委託したというが、それでいてこの反米ぶり(米軍人ドナルド下士官がカンドゥと一緒に怪物に立ち向かうという活躍はあったが)は、設定はいい加減でも態度ははっきりしている。
パク一家は全財産をはたいてヤクザか地下組織のようなところから武器を調達。カンドゥは捕まって一旦は連れ戻されてしまうのだが、細切れに寝る体質のため麻酔は効かないし、手術(脳からウィルスを検出しようとしただけ?)をされても一向に平気というこれまた馬鹿げた設定で、またしてもそこから逃げ出すことに成功する。
ヒョンソは溝にある狭い排水口に身を隠していたが、怪物の吐き出した新しい獲物の中に生きた少年を発見し、彼を助ける決意をする。この時のヒョンソの決意の眼差しがよく、画面を引き締めるが、怪物にはすべてがお見通しだったという憎らしい場面があって、それは成就できずに終わる。弾薬が尽きていたことで迎えるヒボンの死もそうだが、ポン・ジュノはきっとへそ曲がりで、予定調和路線にはことごとく反旗を翻したいのだろう。
クライマックスではナムジュの弓にナミルの火炎瓶も加わっての死闘になる。怪物が何故かワクチンガスにひるむ場面もあるが、最後まで軍隊は姿を見せないし、一貫して反政府に反米。ホームレスやデモ隊は協力者で、そもそもパク一家は下層民という位置付けだから、怪物映画という部分を捨てたら(そりゃないか)昔なら革命高揚映画といった趣さえある。
ともかく怪物は葬り去った。ヒボンの死だけでなく、目的だったヒョンソも救えなかったにしても。これも普通の物語の常識を破っている。けど、カンドゥは少年を得るではないか。映画は、ダメ家族の愛と結束を描きながら、血縁を超えた新しい愛の形を当たり前のように受け入れているのである。カタルシスからは遠いものになったが、ポン・ジュノはこの素晴らしいメッセージを選んだのだ。
最後に、カンドゥと少年が食事をしている売店が、夜の雪の中に映し出される。2人の打ち解けた会話のあとのそれは、街灯と売店の明かりで、暖かみのある絵になった。雪が静かに降ったまま終わりになるかにみえたが、最後の最後に聞こえたのは、まさか怪物の咆哮ではあるまいね。
形に囚われず、勢いのままに描いたようなこの映画にはびっくりさせられたが、こうやって書き出してみると、あきれるような筋立てばかりで笑ってしまうほかない。いや、でもホントに面白くて興奮した。そして最後が気になる……。
【メモ】
2000年2月9日。ヨンサン米軍基地の遺体安置質。ホルマリンを漢江に流すように命ずる軍医?(「漢江はとても広い。心を広く持とう」)。2002年6月。釣り人がヘンな生き物をカップですくう(「突然変異かな」)が、逃げられてしまう。2002年10月。「お前ら見たか。大きくて、黒いものが水の中に……」。(映画ではこんな説明だ)
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2000/07/14/20000714000012.html
事件については日にちまでしっかり同じ。はっきりとした抗議映画だということがわかる。それにしても不法投棄した本人が、韓国で有罪判決を受けながら米国に帰国してしまったとはねー。
ヒョンソだけが何故食われずにいたのかという疑問もあるが、ヒョンソが逃げようとしていることを察知した怪物が、ヒョンソを優しく捕まえてそっと下ろすという場面が、それを説明しているようにも思える。この怪物にキングコングのような心があるとは到底思えないのだが……。
最後の食事の場面で、壁にはパク一家が指名手配された時の写真が額に入って飾られている。カンドゥは金髪はやめたようだ。
原題:・エ・シ(怪物) 英題:The Host
2006年 120分 ビスタサイズ 韓国 日本語字幕:根本理恵
監督:ポン・ジュノ 原案:ポン・ジュノ 脚本:ポン・ジュノ、ハ・ジョンウォン、パク・チョルヒョン 撮影:キム・ヒョング 視覚効果:オーファネージ 美術:リュ・ソンヒ 編集: キム・サンミン 音楽: イ・ビョンウ VFXスーパーバイザー:ケヴィン・ラファティ
出演:ソン・ガンホ(パク・カンドゥ)、ピョン・ヒボン(パク・ヒボン)、パク・ヘイル(パク・ナミル)、ペ・ドゥナ(パク・ナムジュ)、コ・アソン(パク・ヒョンソ)、イ・ジェウン(セジン)、イ・ドンホ(セジュ)、ヨン・ジェムン(ホームレスの男)、キム・レハ(黄色い服の男)、パク・ノシク(影/私立探偵)、イム・ピルソン(ナミルの同級生)
マイアミ・バイス
2006年09月10日 日曜日
TOHOシネマズ錦糸町-6 ★★☆
■恋は17歳の時からの唯一の世界をも奪う
80年代の同名TVシリーズの映画化。マイケル・マンはTVシリーズの製作総指揮を務めていたという。
ソニー・クロケット(コリン・ファレル)とリカルド・タブス(ジェイミー・フォックス)は、マイアミ警察特捜課(バイス)の刑事だが、彼らの使っている情報屋が家族を殺されたことで自殺してしまうという事件が起きる。囮捜査をしていたFBIの潜入捜査官も殺されたことから、合衆国司法機関による合同捜査に情報漏洩の疑いがもたれる。FBIのフジマ(キアラン・ハインズ)から、合同捜査とは無関係な郡警察に潜入捜査の打診が入り、上司のカステロ(バリー・シャバカ・ヘンリー)は反対するが、ふたりはその任務を引き受ける。
潜入までの経緯を一気に説明するのだが、これがわかりづらい。TVを観ていない者には、クロケットとタブスの関係すらよくわかっていないというのに。潜入捜査で相棒になるくらいだから、相当信頼関係がないとやっていけないと思うのだ。だからふたりのエピソードはもっとあってもいいと思うのだが。タイプの違うふたりという設定を、女性との接し方だけで強調されてもなーという感じ。特にクロケットの方は、まあ刑事としては優秀なのかもしれないが、どうもこれといった特徴がないという印象だ。
なのに黒幕のボスモントーヤ(ルイス・トサル)の女イザベラ(コン・リー)と恋に落ちてしまうのだから……って別に妬いているわけではないが。
ボスの女と書いたが、彼女に言わせると「私はビジネスウーマン」なのだそうだ。とはいえモントーヤの命令は絶対だから、その相手もしないわけにはいかない。しかもその場面の直前に、イザベラはモントーヤに、クロケットとはハバナで寝たと報告しているのだ。イザベラと同格かそれより上の地位と思われるホセ・イエロ(ジョン・オーティス)にも何やらイザベラに対する複雑な感情があるようで、クロケットとイザベラのダンスシーンにただならぬものを感じて涙目になる場面があるのだが(イエロはこの時点でクロケットとタブスを相当疑っている)、それ以上のことはわからず仕舞いだ。
このあたりをもう少し丁寧に描けばかなり面白いものが出来そうなのに、映画はクロケットとイザベラのベッドシーンを長々と見せるのだけだから能がない。そのイザベラの描き方も中途半端で、中国系なのにハバナに親戚があると言っていたからその説明もしてほしいし(簡単な説明でもあれば逆に組織の大きさを強調できそうではないか)、「私は17歳の時からの唯一の世界を失うのよ」というセリフだってもっと効果のあるものにできたはずなのだ。
最後の大がかりな銃撃戦では女捜査官ジーナ(エリザベス・ロドリゲス)の活躍ぶりが際だっているから、マイケル・マンは女性を描くのが苦手というのではなく、恋物語が苦手なのだろう。
都合で潜入捜査の模様を後回しにしてしまったが、これはじっくり見せてくれて、緊張させられた。お互いの探り合いにはじまって、腕試しの運びから、だんだんと大掛かりな運びへ。相手はさすがに用心深く少しずつしか仕事をくれない。ここでは観ている方までじりじりとした気分にさせられる。が、駆け引きの間に入る運びの場面では、船や飛行機を使った爽快さも挟んでと、うまい演出だ。
ただ、情報屋を殺った相手は始末するものの、結局モントーヤは逃がしてしまうし(イグアスの滝のアジトも空っぽ)、内部から情報を流していた犯人も特定できないままだから、不満が残る。どころか、タブスの恋人トルーディ(ナオミ・ハリス)が誘拐されてしまうような不完全な潜入のやり方って甘くないだろうか(恋人が割れてしまうくらいなら本人の素性などわけないだろう)。このことでトルーディは大怪我を負ってしまうし、クロケットはイザベラをハバナへ逃がして助けたつもりになっているが、敵の組織力や規模を考えたらお気楽すぎる。
事件を完全に解決しなかったのは、もしかしたらヒット次第では続編というのが頭にあるのかもしれないが、それはともかくとしても、今の状況はクロケットとタブスの潜入捜査前よりも悪くなっているとしか思えないのだが……。
『マイアミ・バイス』は、とにかく夜の場面の多い映画だった。高速ボートが疾走する場面まで夜だったりする。高感度カメラを使用しているらしいが、それほど粗い感じはなく、明かりに彩られた夜景は艶めかしい殺気をはらんでいた。
【メモ】
マイアミは観光地のイメージだが、この映画では中南米と北米を結ぶ密輸の中継地として国際犯罪組織の温床になっているという面が強調されている。
クロケットだけでなくタブスのベッドシーンもちゃんとある。
ふたりは高速ボートやジェット機の操縦まで何でもこなす。007並のスーパーデカなのだ。
タブスはトルーディの件については相当反省していたが、となると続編は無し?
原題:Miami Vice
2006年 132分 アメリカ シネマスコープ 日本語字幕:菊池浩司
監督・脚本:マイケル・マン オリジナル脚本:アンソニー・ヤーコヴィック 撮影:ディオン・ビーブ 編集:ウィリアム・ゴールデンバーグ、ポール・ルベル 音楽:ジョン・マーフィ
出演:コリン・ファレル(ソニー・クロケット)、ジェイミー・フォックス(リカルド・タブス)、コン・リー(イザベラ)、ナオミ・ハリス(トルーディ・ジョプリン)、エリザベス・ロドリゲス(ジーナ)、ジョン・オーティス(ホセ・イエロ)、ルイス・トサル(モントーヤ)、バリー・シャバカ・ヘンリー(マーティン・カステロ)、 ジャスティン・セロー(ラリー・ジート)、ドメニク・ランバルドッツィ(スタン・スワイテク)、キアラン・ハインズ(フジマ)、ジョン・ホークス(アロンゾ)、エディ・マーサン(ニコラス)
ゲド戦記
2006年09月10日 日曜日
楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★
■不死は生を失うこと
ル=グウィンの『ゲド戦記』映画化。宮崎駿監督の息子、宮崎吾朗が監督になるという時点で、すでに喧々囂々状態になったらしいが、熱心なアニメファンではないので詳しいことは知らない。今だにジブリらしさがどうのこうのという話で持ち切りになっているようだが、原作も未読の私としては単純に映画として判断する以外ない。
で、映画としてはやっぱりダメかも。
かつて龍は風と火を選び自由を求め、人間は大地と海を選んだという。その人間の世界には現れないはずの龍の食い合う姿が目撃される。世界の均衡が弱まって、家畜や乳児の死亡が増え、干ばつが起こり、民が苦しんでいるのを心配する国王。そんな大事な時に17歳の王子アレンは父を殺し、逃げるように旅に出る。行くあてのないアレンは、異変の原因を探すハイタカ(大賢人ゲド)と出会い、農民が土地を捨てた風景の中を共に旅をすることになる。
やがてホートタウンというにぎやかな港街に着くが、ここでは人間も奴隷という商品であり、麻薬がはびこっていた。ハエタカはこの街のはずれにあるテナーという昔なじみの家にアレンと身を寄せるのだが、そこには親に捨てられた少女テルーが同居していた。アレンは彼女に「命を大切にしないヤツは大嫌いだ」と言われてしまう。
この街でハイタカは、世界の均衡が崩れつつある原因がクモという魔法使いの仕業であることを突き止める。クモは永遠の命を手に入れることとハイタカへの復讐心に燃えていて、心に闇を背負ったアレンの力を借りてそれを成し遂げようとしていた。
あらすじならこうやってなんとか追えるのだが、とにかくわからないことが多すぎる。龍? 龍と人間との関係? アレンの父殺しの理由? アレンの影? 魔法で鍛えられた剣? その剣が抜けるようになったのは? 真の名がもつ意味? ハイタカとクモの関係? 生死を分かつ扉? テルーが龍に? だから死なない?
ハイタカの過去やテナーとの関係など、深くは触れないでも推測でとりあえずは十分なものももちろんある。が、とはいえこれだけの疑問がそのままというのではあんまりだ。ましてやファンタジー特有の魔法がときおり顔をのぞかせて、ご都合主義を演出するのだからたまらない。それにこの欠点は、脚本の段階で明らかだったはずなのだ。
しかし、これが不思議なのだが、命の大切さを繰り返すテーマは意外にもくっきりと心に響く。クモが求める永遠の命に、不死は生を失うことだと明確に答えているからということもあるが、ハイタカ、アレン、テナー、テルーの4人が作る疑似家族による共同作業がしっかりと描かれていることも関係しているように思うのだ。生きて死んでいくための基本的なものが、単純な営みの中に沢山あることをあらためて教えてくれるこの描写は、最後の別れの前でも繰り返される。
テルーの歌にアレンが聴き入る場面も心に残る。この歌のあとアレンの気持ちの張りが弛んでテルーに「どうして父を殺してここまで来たのか……ときどき自分が抑えられなくなるほど凶暴に……」と自分の過去を語るのだが、ここは実際そんな気分になる。もっともアレンはそのあと自分の影に怯えて去ってしまうのだが。
それと、テーマが響いてくるのは、やはり原作の力なのだろうか。「疫病は世界の均衡を保とうとするものだが、今起こっていることは、均衡を破ろうとしているもの」「人間は人間ですら支配する力がある」「世界の均衡などとっくに壊れているではないか。永遠の命を手に入れてやる」といった言葉には魅力を感じる。これが原作のものかどうかはわからないのだが。ただ前にも書いたように、筋はわかっても全体像が見えにくいため、これらの言葉が遊離して聞こえてしまう恨みがある。
ところで、どうでもいいことだが親殺しという設定は、宮崎駿と宮崎吾朗との関係を連想させる。偉大で尊敬すべき父に、どうしてもそれと対比してしまう自分の卑小さ。というのは野次馬的推測だが、映画には親殺しをしてまでもという気概などまるでなく、絵柄も含めて(ファンから見たら違うのかも知れないが)すべてが宮崎駿作品を踏襲しているようにみえる。
だからいけないとは言わないけどさ、でもアレンの親殺しはあまりに重くて、彼の更生物語というわりきりは、私には受け入れがたいものがある。命の大切さを本当にアレンが知ったのなら、最後に「僕はつぐないのために国へ帰るよ」とテルーに言ったりできるだろうか、と思ってしまうのだ。親殺しをしておいて、それじゃああまりに健全でちょっと立派すぎでしょう。「あなたはつぐないをするために国へ帰らなければ。私も一緒に行くから」とテルーにうながされるのならね。って、まあ、これは別の意味で甘いんだけどさ。
2006年 115分 サイズ:■
監督:宮崎吾朗 プロデューサー:鈴木敏夫 原作:アーシュラ・K・ル=グウィン『ゲド戦記』シリーズ 原案:宮崎駿『シュナの旅』 脚本:宮崎吾朗、丹羽圭子 美術監督:武重洋二 音楽:寺嶋民哉 主題歌・挿入歌:手嶌葵 デジタル作画監督:片塰満則 映像演出:奥井敦 効果:笠松広司 作画演出:山下明彦 作画監督:稲村武志 制作:スタジオジブリ
声の出演:岡田准一(アレン)、手嶌葵(テルー)、菅原文太(ゲド)、風吹ジュン(テナー)、田中裕子(クモ)、香川照之(ウサギ)、小林薫(国王)、夏川結衣(王妃)、内藤剛志(ハジア売り)、倍賞美津子(女主人)
バックダンサーズ!
2006年09月16日 土曜日
2006/9/16 新宿ミラノ2 ★★
■くどいのは過剰な言葉だけじゃなくて
『東京フレンズ The Movie』に続いての永山耕三作品(公開時期が重なるが、本作品が第1作)は、少女たちの夢を描いていることもあって雰囲気は似ている。が、4人のダンスがしたいという想いが同じだからか、こちらの方がまとまりはいい(ヘンな設定もないしね)。
クラブ通いがばれて高校を退学になったよしか(hiro)と美羽(平山あや)だが、同じダンス好きの樹里(長谷部優)に誘われてストリート(ムーンダンスクラブ)で踊り始める。樹里のスカウトで、よしかと美羽も巴(ソニン)と愛子(サエコ)を入れたバックダンサーとしてデビュー。あっという間に樹里がアイドルとして人気を集めたから「ジュリ&バックダンサーズ」は人気絶頂となる。
が、樹里は恋愛に走って突然の引退宣言。単なる付属物だった4人は事務所にとってもお荷物的存在で、担当も茶野(田中圭)という新米マネージャーに格下げに。それぞれ事情を抱えた4人は、目的を見失ってバラバラになりかける。
茶野は彼のもう1つの担当である時代遅れのロックバンド『スチール・クレイジー』との共同ライブを企画するが、所詮は旅回りにすぎず、樹里が帰ってくるまでの場繋ぎなのがみえみえ。でもそんな中、よしかとスチクレの48歳のボーカル丈太郎は、彼の昔の曲で盛り上がり(丈太郎の住まいであるトレーラーハウスで歌う場面はいい感じだ)なにやら怪しい雰囲気に……と、これは親子だったというオチがあって、同行していたよしかに気のあるDJケン(北村有起哉)は胸をなで下ろす。
美羽と茶野がいい雰囲気になったり(雪の中のキスシーン)、巴が実は子持ちで、ダンスシーンを見た子供に励まされるというようなことがあって、少しは頑張る気分になってきた4人だが、ライバルの後輩ユニットが売れてきた事務所からは、あっさり解散を言い渡されてしまう。
またしても窮地の4人。仲間内の不満も爆発する。よしかと美羽の喧嘩から仲直りまではなかなかの見せ場だ。それぞれの道を行くかにみえたが、ムーンダンスクラブになんとなく集まってきて「このままじゃくやしい」と茶野やDJケンまでけしかけてダンスコンテストというゲリラライブ企画が実現することになる。
喧嘩から仲直りの見せ場もそうだが、美羽と茶野が惹かれあうのも「最後まで面倒を見る」という言葉に美羽が小さい時に飼っていたウサギを持ち出すなど、沢山ある挿話はどれも丁寧でそこそこまとまっているのだが、全部がそこまでという印象なのは何故だろう。
例えば「かっこよくなりたいから」というのは、4人にとっててらいも背伸びもしていない言葉だとおもうのだが、それが何度も繰り返されるとくどくなる。「面倒をみる」「先が見えない」「上がり」「くやしい」という言葉についても同じ。過剰な言葉が映画を台無しにしているのだ。
2010年の冬に始まって、2002年の秋から2006年の冬、そしてまた2010年という構成もあまり意味があるとも思えない。成功物語なのは前提とはいえ、最初から4人が伝説の存在になっていることをわざわざ示す必要はないだろう。で、最後にまた最初の場面が繰り返されると、言葉の反復だけでないくどさを味合わされた気分なのだ。
【メモ】
駐車場の空き地がムーンダンスクラブ。
「恋愛に走って本当に戻って来なかったのは山口百恵だけ」
鈴木丈太郎のロックグループの名前は『スチール・クレイジー』。これは映画『スティル・クレイジー』(98)のもじりか。
幻の名曲があり次のアルバムもできていたのだが、かみさんが出ていって封印。
よしかの母親の花屋は、大森銀座でロケ。丈太郎は花屋に花を持って元女房を訪ねてくる。
「何でも自分のせいにしてうじうじしているあんたが嫌い」と美羽をなじるhiroだが、ムーンダンスクラブで美羽を見つけると「私、美羽のために戻ったんじゃないんだよ。私が美羽といたかったから戻ったんだよ。美羽、ここにいてくれてありがとう」と言う。
物語だけでなく映画のスポンサーでもあるのか、サマンサタバサの社長(本人かどうかは?)が登場。
2006年 117分 ビスタサイズ
監督:永山耕三 脚本:永山耕三、衛藤凛 撮影:小倉和彦 美術:稲垣尚夫 編集:宮島竜治 音楽:Sin 音楽プロデューサー:永山耕三 ダンス監修:松澤いずみ/IZUMI
出演:hiro(佐伯よしか)、平山あや(新井美羽)、ソニン(大澤巴)、サエコ(永倉愛子)、田中圭(茶野明)、北村有起哉(DJケン)陣内孝則(鈴木丈太郎)、長谷部優(長部樹里)、 つのだ☆ひろ(ロジャー)、甲本雅裕(高橋修)、鈴木一真(セイジ)、舞(如月真由)、梶原善(磯部元)、浅野和之(小西部長)、木村佳乃(美浜礼子)、真木蔵人(テル)、豊原功補(滝川)、石野真子(佐伯なおみ)
LOFT ロフト
2006年09月16日 土曜日
テアトル新宿 ★
■全部が妄想って、そりゃないよね
春名礼子(中谷美紀)は芥川賞作家だが、編集者の木島(西島秀俊)からは通俗的な恋愛小説を要求されている。が、スランプ中だし体調も思わしくない。泥のようなものを吐くが医者はなんともないと言うし、自分でも幻覚かなどと達観している。引っ越しでもして気分転換を図ろうかと思っていると木島に相談すると、彼はぴったりの場所を探してきた。
使われることがあるのかと思われる不思議な建物がそばにあるだけの、緑の中の静かな屋敷。すっかり気分がよくなった礼子だが、前の住人が残していった荷物の中に小説らしい原稿を見つけ、建物に不審な人物が出入りしているのを見る。
調べてみると、建物は相模大学の研修所で、男は吉岡誠(豊川悦司)という大学教授だった。彼は沼から引き上げた1000年前のミイラを、何故か研修所に持ち込んでいて、研究生が研修所を使う2、3日の間、礼子にそのミイラを預かってほしいと言ってくる。
木島の礼子に対するストーカーまがいの行動から、水上亜矢(安達祐実)という、やはり作家志望の女性がここに住んでいたことが判明(木島に弄ばれたらしい)するのだが、このあたりから少しずつ混乱が始まって、何がなんだかわからなくなってくる。礼子と吉岡の恋もえらく唐突な感じで、吉岡は亜矢を殺したと言っているのに、そのあとあっさり礼子と吉岡が絶対的関係になっているのでは(この芝居は大げさだ)、感情移入以前の段階でついていけなくなってしまう。
亜矢を殺した原因も「ちょっとした混乱が……彼女はよくわからないやり方ですっと僕の中に入ってきた」そして「僕の科学者としての立場を突き崩した」ので、口を塞ごうとして……というもの。こういうことはあるだろう。でもここでの説明にはなっていないと思うのだ。
だいたい礼子が最初に泥を吐くことからしてずるい。ミイラを預かってからそういう現象が起きるのならまだわかるのだが。私がずるいと思うのが間違いというのなら、礼子とミイラの関係だけでも説明してほしいものだ。そう思うと、どこもごまかしで満ちているような気がしてならない。ミイラと亜矢の幽霊という2本立てがそうだし。夢の映像は2ヶ所だったと思うが、それだってはっきり断っていないのが他にもあるのだとしたら……。
わかりにくい映画だからと切って捨てるつもりはないが、少なくともわかりたくなるように仕向けるのが監督の仕事のはずだ。もう1度観れば少しは氷解するのかもしれないが、その気が起きないのでは話にならない。
編集者と女流作家に絞って、出てきた原稿から秘密が解き明かされていくというような、ありがちではあるけれど、そんな単純な話の方がずっと怖かったと思うのだ。画面に集中出来ないこともあって、嘘くさいミイラにメスを突き刺す豊川悦司が気の毒になってくる。最後もしかり。「全部妄想だったのか」と大げさに言わせておいて『太陽がいっぱい』と同じどんでん返し……これはコメディだったのか、と突っ込みたくなってしまうのだな。
でもくどいのだが、亜矢のことでミイラに取り憑かれた吉岡というのならまだわかる。でも礼子の方はねー(実は最初は吉岡のことの方がわからなかったのだが)。あと、これはそのこととは関係ないが、礼子と吉岡の救う立場が最初と最後では逆転しているというのが面白い。
【メモ】
袋に入っていた原稿の題名は『愛しい人』。これは原稿用紙に書かれたものだが、礼子はワープロで書く。礼子はこの『愛しい人』を流用していたが? そういえば完成した原稿を、木島は傑作に決まっているからまだ読んでいないとか言っていた。
大学のものなのか、大きな消却施設がある。
建物と男に興味を持った礼子は、昭和初期のミイラの記録映画の存在を知り、教育映画社の村上(加藤晴彦)を友人の野々村めぐみ(鈴木砂羽)と共に訪ねる。
映っていたのはミドリ沼のミイラをコマ落としで撮った短い(実際は3日?)もの。「何を監視していたんだろう」。結局この件はこれっきり。
腐敗を止めるために泥を飲む?
亜矢の件は捜索願が出ていて、めぐみは殺人事件だと思うと礼子に報告する。
エンドロールは部分的に字がずれるもの(FLASH的に)。
2005年 115分 サイズ:■
監督・脚本:黒沢清 撮影:芦澤明子 美術:松本知恵 編集:大永昌弘 音楽:ゲイリー芦屋 VFXスーパーバイザー:浅野秀二
出演:中谷美紀(春名礼子)、豊川悦司(吉岡誠)、西島秀俊(木島幸一)、安達祐実 (水上亜矢)、鈴木砂羽(野々村めぐみ)、加藤晴彦(村上)、大杉漣(日野)
ルイーズに訪れた恋は…
2006年09月17日 日曜日
銀座テアトルシネマ ★★
■露悪的すぎて恋愛気分になれない
39歳のルイーズ(ローラ・リニー)は、コロンビア大学芸術学部の入学選考部の部長。同じ大学の教授であるピーター(ガブリエル・バーン)とは離婚したばかりだが、友人関係は続いていた。そんな彼女が1通の願書を目にしたことから……。
いきなりのこの進展は承服しかねる。願書のF・スコット・ファインスタウトという名前が20年前に車の事故で死んだ恋人と同じというだけで、個人面接の場までつくってしまうのはともかく、現れた青年(トファー・グレイス)は容姿まで似ているというのだから(名前の件はあとで本名ではなく、家ではフランだと言っていたが、これって?)。
ルイーズの気持ちはわからなくはない。こんなことが起きたら、誰だって若い頃まで時間を巻き戻してしまいそうだ。ましてやスコットの描く絵は素晴らしく(静かな日常を描いた暖かみのある作品)、そのことでも驚嘆せずにいられないとしたら。そして彼もルイーズを15歳も年上などというものさしで計るような人間ではないから、ふたりは簡単に恋に落ちてしまったのだろう。
でも、だからっていきなりルイーズ主導のセックス(「アレ持ってる? つけて」)になるのはどうか。いや、このくらいは今だと普通なのかもしれないのだが、性急にしか思えない私には、出だしから居心地の悪いものになった。
ルイーズの学生時代からの友達ミッシー(マーシャ・ゲイ・ハーデン)からは「あなたは男と寝ると声が変わる」といきなり見透かされてしまうのだが、実は彼女とは昔の恋人を争奪しあった仲だということがあとになってわかる。ミッシーがかけた電話に、ルイーズの不在でスコットが代わりに出たことから、彼の存在がバレてこれでひと騒動。
もう1つの騒動は、ピーターの自分はセックス中毒だったという告白。結婚中に数え切れないほどの相手がいただけでなく、10人ほどの男たちとも寝たというのだ。ルイーズとはセックスレスだったというのに。そしてこの告白が、ルイーズの弟サミー(ポール・ラッド)による矯正プログラムであることもルイーズの癇に障ったようだ。
ルイーズはなじめない弟とすぐ衝突してしまうのだが、母エリー(ロイス・スミス)は彼を当然のように受け入れている。その母にピーターのセックス中毒のことをこぼすルイーズだが、スコットとのことがあったあとだから、そうは共感できない。
39歳に思春期のような恋をさせろとは言わないが、こう露悪的な話ばかりが続いては、年下男性との恋を応援する気持ちにはなれない。最後には、元夫、友人、家族との間にあった棘が消えるというハッピーエンドが待っているのだが。
ルイーズは、スコットに中年になった自分を想像させるゲームをさせたり(残酷だとスコットも言ってはいたが、想像は出来ても決して実感できないのが若さというものではないだろうか)、結局彼にも昔の恋人の話を聞かせることになるのだが、そういう話がうまく噛み合ってこないから説得力がないまま終わってしまう。
ローラ・リニーは『愛についてのキンゼイ・レポート』もそうだったが、こういう際どい役が好きなんだろうか?
【メモ】
ルイーズのスコットに課したゲームは、彼を裸にして鏡の前に立たせ、40歳になっても芽のでない絵描きを想像させるもの。評価されないから叔父の中古車販売を手伝うほかなく、太って髪も薄くなってきている男。そしてジョギングでもしたらと妻に言われてしまうのだ。
原題:P.S.
2004年 100分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:栗原とみ子
監督・脚本:ディラン・キッド 原作:ヘレン・シュルマン 撮影:ホアキン・バカ=アセイ 編集:ケイト・サンフォード 音楽:クレイグ・ウェドレン
出演:ローラ・リニー(ルイーズ・ハリントン)、トファー・グレイス(スコット・ファインスタウト)、ガブリエル・バーン(ピーター)、 マーシャ・ゲイ・ハーデン(ミッシー)、 ポール・ラッド(サミー)、ロイス・スミス(エリー)
キンキーブーツ
2006年09月18日 月曜日
シャンテシネ1 ★★★
■食傷気味の再生話ながらデキはいい
チャーリー・プライス(ジョエル・エドガートン)はノーサンプトンにある伝統ある靴工場の跡取り息子。靴を愛する父親に幼少時から靴に関する教えを叩き込まれたというのに、心そこにあらずで、婚約者ニコラ(ジャミマ・ルーパー)の転勤が決まったロンドンで、一緒に新居を物色するつもりでいた。が、ロンドンに着いたばかりの彼に届いたのは父親の訃報だった。従業員たちは当然のように彼をプライス社の4代目とみなし、めでたくというよりは仕方なく社長に就任する。そんな彼が発見したのは大量の在庫。父親が従業員を解雇するに忍びず、倒産寸前にもかかわらず靴を作り続けていたらしいのだ。
優柔不断で頼りない(はずの)チャーリーが出来ることは、とりあえず15人を解雇することだった(すげー優柔不断)。解雇対象のローレン(サラ=ジェーン・ポッツ)の捨てぜりふ(他の会社は乗馬靴や登山靴などでニッチ市場を開発している)で、彼はロンドンの問屋を回った時に出会ったクラブのカリスマスターでドラッグクイーンのローラ(キウェテル・イジョフォー)のことを思い出す。
食傷気味の再生話だが、組み立てがうまいので楽しめる。よく練られた脚本なのは、あらすじにしないでそのまま書いていきたくなるほど。まあ、お約束ということもあるからだが、冒頭からの一連の流れもスムーズでわかりやすい。そこに、田舎と都会、保守的な住民(従業員)と過激なローラ、ついでにニコラとローレン(割り切り型とこだわり型というよりは、チャーリーにとっては自分をどう評価してくれているかということもある)という対比までが、巧みに織り込まれているというわけだ。
チャーリーが思いついた打開策は、女性用のブーツを履くしかないドラッグクイーンたちのためのセクシーブーツを新商品として開発し、ミラノの国際見本市へ打って出るというもの。が、技術力はあってもブーツとなると……。待ちきれずノーサンプトンに乗り込んできたローラだが、試作品では物足りず、「チャーリー坊や、あんたが作るのはブーツではなく、2本の長い筒状のSEXなの!」と叫ぶ(このセリフはよくわからん)。これでヒールの高いキンキーブーツ(kinkyは変態の意)が誕生する道が開けるのだが、ここからは従業員とのやり取りが見ものとなる。
専属デザイナーになったローラのトイレ立てこもり事件に、従業員ドン(ニック・フロスト)との腕相撲試合(ローラは元ボクサー)などを挟んで、ローラの父親との確執や、世間とのギャップが語ってしまう手際の良さ。ドラッグクイーンの実態に踏み込むと別な映画になってしまうからあくまで表面的なものだが、チャーリーが父と対比されてきたことにもからめて自然にみせる。
やりすぎなのは見本市を直前に控えてのチャーリーとローラの喧嘩で、成り行きとはいえ、派手なドラッグクイーン姿のローラを差別するのはどうか。レストランという人目がある場所だからというのは、ここまで来てだから、言い訳にならないよ。最後にもう一山という演出なのだろうが、チャーリーだけでなく、従業員たちとの信頼も勝ち得たローラという積み重ねをパーにしてしまうことになるから、これは減点だ。チャーリーがキンキーブーツを履いて舞台に上がるというおちゃらけた演出は許せるんだけどね。
キンキーブーツでの一発逆転劇は、嘘臭いが実話に基づく。だからというわけではないと思うが、巻頭の靴の生産ラインを追う場面だけでなく、随所に靴の製造工程が出てきてリアルだ。これが話の突飛さとのバランスを保っているといってもいい。靴工場を眺めているだけでも楽しめるのだ。2階の社長室からは工場が見渡せるようになっていて、指示を出すためのマイクがあるのだが、これが2回も活躍してました。もちろん実話でなくデッチ上げでしょうが。
【メモ】
靴工場のモデルは、靴メーカーのブルックス [W.J. Brookes]。
経営の悪化は、近年の安い輸入品(ポーランドの名前が出ていた)攻勢による。
腕相撲試合で、ドンはローラの心遣いを知り偏見を捨てる。
父親も実は工場の売却を考えていたという話をニコラ(不動産業)から聞かされショックを受けるチャーリー。が、これで吹っ切れたのか、今までの生産ラインをストップしてキンキーブーツ1本でいく腹を決める。
従業員のメル(リンダ・バセット)はチャーリーの方針が理解できず、やっつけ仕事を指摘されたこともあって定時に帰ってしまう。が、チャーリーが工場や財産を抵当に入れて見本市に賭けていることがわかって、チャーリーはみんなが黙々と働いている姿を目にすることになる。
原題:Kinky Boots
2005年 107分 アメリカ/イギリス サイズ:■ 日本語字幕:森本務
監督:ジュリアン・ジャロルド 脚本:ジェフ・ディーン、ティム・ファース 撮影:エイジル・ブリルド 編集:エマ・E・ヒコックス 音楽:エイドリアン・ジョンストン
出演:ジョエル・エドガートン(チャーリー・プライス)、キウェテル・イジョフォー(ローラ)、サラ=ジェーン・ポッツ(ローレン)、ジャミマ・ルーパー(ニコラ)、リンダ・バセット(メル)、ニック・フロスト(ドン)、ユアン・フーパー(ジョージ)、ロバート・パフ(ハロルド・プライス)
イルマーレ
2006年09月23日 土曜日
新宿ミラノ1 ★★☆
■郵便箱タイムマシン
湖畔に建つ硝子張りの一軒家。ケイト(サンドラ・ブロック)はシカゴの病院への勤務が決まり、引っ越しのため次の住人にミスがあった時の郵便物の転送を依頼する手紙を郵便箱に残す。「入口にある犬の足跡と屋根裏の箱は私が越してくる前からありました」と書き添えて。
手紙を受け取った新しい住人アレックス(キアヌ・リーヴス)は玄関を見るが、足跡はどこにもない。それに彼が越してきたのは、長い間空き家になっていた埃の積もった家なのだ。しかしアレックスが家の外でペンキ塗りをしていると、どこからともなく犬がやって来て……。
姿が見えないのに郵便受けの印が動き、入れた手紙が消え、また新しい手紙が……。噛み合わない内容のやり取りが進んで、ケイトは2006年の、そしてアレックスは2004年の同じ日に生きているということがわかる。
ネタ切れのせいか、近年、変則タイムマシン物語が映画にも小説にも溢れているが、これもその1つ。しかも同名の韓国映画からのリメイクというからアイデア不足は深刻なのかも。この郵便箱タイムマシン映画は、2年という、ケイトにとってはまだ記憶に新しい過去、そして2年経てば手紙のやり取りをはじめた(という記憶を持つ)相手に会えるアレックス(でもこれは違うような)という、なかなか興味深い設定だ。
このことを考え出すと混乱してしまうのだが、とりあえず先に進むと、この奇妙な手紙のやり取りで、2人は恋に落ちる。恋に理由などいらないが、とはいえ手紙だけが接点となるとさすがにもう少し説明してもらいたくなる。「僕たちほど打ち解け合い、好みが同じで、心が通じ合うふたりはいない」と言われただけではねー。
なにしろケイトにはモーガン(ディラン・ウォルシュ)という相手がいて、当人はケイトと結婚する気満々だし、アレックス自身は気乗り薄ながら似たような状況のアンナ(ショーレ・アグダシュルー)がいるからだ。
手紙というまだるっこしい方法は、画面では時空を超えた会話で表現されているので話は早いが(画面処理もすっきりしている)、手紙の持つ特性は活かされることはなく、だからこの恋をよけい性急に感じてしまったのかもしれない。
もっともそれなりにふたりの事情も語られてはいる。アレックスが越してきた家は、彼の父親サイモン(クリストファー・プラマー)が設計したもので、そこは家を出て行ってしまった母がいる、幸せだった時代の思い出の場所というわけだ。父の設計事務所にいるのは弟で、自分は普通の住宅建築に関わっているだけなのだが、わざわざここに越してきたということで彼の探しているものがわかる。
ケイトの場合は恋人や仕事で、でもこれはアレックスが絡んでくるからさらに複雑で微妙だ。現在のアレックスとは、思い出した過去(あー混乱する)で、ふたりはキスまでしているのだから。
いつまでも無視しているわけにもいかないので郵便箱タイムマシンに触れるが、やはりその箱だけの限定版にしておくべきでなかったか。季節はずれの雪のためにマフラーを送ったり、忘れ物を取りに行かせたりする程度であれば微笑ましくて、整合性もなんとかは保っていられそうだが、木まで植えさせて、無かったものを出現させてしまうのはどうだろう。
だけど、この映画では交通事故を無いものにしてしまわなければならいわけで、だからそんな瑣末なことを言ってもはじまらないのだが。でもあえて言わせてもらうと、ケイトが事故にあったアレックスに気付かなかったのはあんまりではないか。一瞬とはいえキスまでした相手なのだから(顔がぐしゃぐしゃになっていたという残酷な話ではないようだし)。
禁じ手に踏み込んで、それが成功しているならともかく、このラストはちょっと残念だ。だってアレックスには継続している意識が、ケイトでは改竄されたか別の次元でのことになってしまうわけだから(って、ホントかい)。いっそ新聞の株式覧でも郵便箱に入れて、大金持ちになって迎えに来てもらえばいいのにね。
それに、犬がふたりを渡り歩いたことやあの家をケイトが借りた時の状況はどうだったのだろう(もしかしたら聞き逃したのかもしれないが)。犬の名前をケイトがアレックスに教えて、その名を呼ばれた犬が寄っていくのも逆のような気がするが、細かいところはもう1度観てみないとわからない。
待ち合わせたレストラン「イルマーレ」にアレックスが現れないシーンは切ないが、私はそのことより、有名レストランだからすぐの予約は難しいのだけれども、さすがに2年先の予約(彼女の明日はアレックスには2年と1日になる)は大丈夫というのが面白かった。
それにしても『スピード』での共演からはすでに12年。バスの中という狭い空間から今回は絶対?会えない空間での恋。このふたりが燃え上がるのは異常な状況下にある時だけとかね。ともかくふたりとももうしっかり大人で、建築家のアレックスの指示によるシカゴめぐりなどのような落ち着いた感じの場面はいいのだが、バタバタするタイムマシン話に絡ませるのならもっと若い人をもってきてもよかったかも。
【メモ】
ノースラシーン通り1620番地。アレックスには高級マンションの建築予定地。ケイトには新居。
この犬はケイトのチェスの相手もするのだ。
『イルマーレ』はイタリア語で「海辺の家」で、この映画ではレストランの名前になっている。邦題は韓国映画からそのまま持ってきたようだが、この映画だと原題の方がすっきりする。
原題:The Lake House
2006年 98分 アメリカ シネマスコープ 日本語字幕:松浦美奈
監督:アレハンドロ・アグレスティ 脚本:デヴィッド・オーバーン 撮影:アラー・キヴィロ 編集:アレハンドロ・ブロデルソン、リンジー・クリングマン 音楽:レイチェル・ポートマン
出演:キアヌ・リーヴス(アレックス・ワイラー)、サンドラ・ブロック(ケイト・フォースター)、ショーレ・アグダシュルー(アンナ)、クリストファー・プラマー(サイモン・ワイラー)、 ディラン・ウォルシュ(モーガン)、エボン・モス=バクラック(ヘンリー・ワイラー)、ヴィレケ・ファン・アメローイ(ケイトの母)
靴に恋する人魚
2006年09月23日 土曜日
2006/9/23 新宿武蔵野館2 ★★
■可愛らしくまとめただけではね
「昔々、ドドという女の子がいました。みんなに愛される女の子でした」というナレーションではじまるおとぎ話、なのかな。カラフルな色づかいの小物や街並みにはじまって、登場人物や設定までもが絵本のような作りになっている。
生まれつき足が不自由だったドドは、『人魚姫』の絵本を読んでもらうと、自分も足が治ったら声を取られてしまうのではないかと心配でしかたがありませんでした。ところがある日、ドドは足の手術を受け、自由に歩けるようになります。大人になったドド(ビビアン・スー)は出版社に勤め、気難しいイラストレーターから作品をもらってくるのが仕事(電話番とかもね)。そしてなにより靴を買うことが好きな女性に成長したのでした。そんなドドは歯科医王子様のスマイリーと出会い結婚。新居でふたりはいつまでも幸せに暮らしましたとさ。
じゃなくって「このお話はここからが本当の始まりです」だと。といったっておとぎ話仕立ての作風が変わるわけではないが。ドドの靴を買う病気がエスカレートして、置き場所はなくなるし、靴が蛙に見えてきたスマイリーからは、とうとう靴を買わない努力をしてみたらと言われてしまう。ふたりで野鳥観察に出かけたりして気を紛らわしせていたドドだが、やっぱり我慢できなくなって……。
巻頭に出てきた「幸せとは、黒い羊と白い羊を手にいれること」という言葉は、単純にこのことだったのだろうか。靴を得ることでまた足を失い(マンホールに転落)、王子様を得たのに、その王子様は目のピントが合わなくなる病気になってしまう。
教訓めいた苦い話が、靴屋の前にいる女の子(マッチ売りの少女)に靴をあげることでほぼ解決してしまうのは、おとぎ話だからに他ならない。さすがに今度ばかりはドドの足は戻らないけどね。でもそのかわり、ドドには赤ちゃんが授かって、やっぱりめでたしめでたし。
馬鹿らしい話だが、最後まで可愛らしくまとめたのはお手柄。プレゼントの箱を受け取った人が中身を確かめるようと箱を振るギャグ(ケーキや子猫だったりする。これは何度も出てくる)や、画面処理もポップで楽しい。変人イラストレーターとの交流や靴屋(魔女なの?)の扱いなども考えてある。
でもやっぱり私にはちょっとつらかったなー。ビビアン・スー(もう31歳なのだと。それでこの役というのはある意味立派)やダンカン・チョウのファンならこれで十分なんだろうけどね。
【メモ】
プレゼントした人間がガクッとくるケーキ振りギャグには、4ヶ月の赤ちゃんの写真が入った箱を振る場面もあった。
英題:The Shoe Fairy
2005年 95分 台湾 サイズ■ 日本語字幕:牧野琴子
監督・脚本:ロビン・リー 撮影:チン・ディンチャン 音楽:ダニー・リャン
ナレーション:アンディ・ラウ 出演:ビビアン・スー[徐若迹пn(ドド)、ダンカン・チョウ[周群達](スマイリー)、タン・ナ(魔女)、チュウ・ユェシン (ジャック社長)、ラン・ウェンピン(ビッグ・キャット)
蟻の兵隊
2006年09月24日 日曜日
イメージフォーラム シアター1 ★★★★
■「殺人現場」への旅
敗戦後も中国に残り軍閥に合流して国共内戦を戦い、捕虜になっていた奥村和一が帰国できたのは1954(昭和29)年の30歳の時。軍命によって戦ったのに、軍籍を抹消された彼に軍人恩給が支給されることはなかった。残留兵の生き残り仲間と裁判を起こすが、敗訴を重ねる。自分たちは勝手に中国に残ったのではなく、そこには保身に走った澄田軍司令官と軍閥との間に密約があったというのが奥村たちの主張だ。
奥村は宮崎元中佐を訪ねる。宮崎は将兵の残留という不穏な動きを察知して澄田軍司令官にその中止を迫ったことがあるのだが(平成4年にテレビ放送されたらしく、それが少しだけ映る)、10年以上も前に脳梗塞で倒れ、現在は寝たきり状態が続いている。宮崎を前に「悔しくて眠れない」ので中国に行き「密約の文書を探しだします」と奥村が言うと、宮崎は絞り出すような声を上げ何度も激しく反応する。何もわからないはずと言っていた宮崎の家族もびっくりした様子だ。
中国に渡る奥村。「天皇に忠誠を誓ったのであって、(軍閥の)閻錫山の雇い兵として戦ったんじゃない」という彼は、太原山西省公文書館に出向き、職員が持ち出してきた資料を開いて、これが何よりの証拠だと指差す。そして「この資料を出したのに、(裁判で)一切無視された」と言う。宮崎に「密約の文書を探しだ」すと言った場面のあとなので、これはまずいだろう。私など早くも、何だ、新資料の発見ではなく映画用の再確認の旅なのか、とがっかりしてしまったくらいだから。がこのあとすぐに、この中国への旅が奥村に別の問題を突きつけていたことを知ることになる。
軍司令官の保身の犠牲になった奥村だが、自身も上官の命令とはいえ、初年兵の教育のため民間人を殺害(肝試しと称していた)した過去があったのだ。奥さんにも話すことがなかったその事実に向き合うことを、自分に科していたようだ。旅の目的地の1つとして指定した「殺人現場」の寧武の街を見下ろす斜面に立ち、当時の模様を詳しく(彼の決意のほどがわかる)語る彼の姿。観客という別世界から眺めていたからいいようなものの、そうでなければ視線を落としていただろう。
ついで処刑の前日に留置場から脱走したという中国人の家族を訪ねる場面。故人の息子が、処刑されたのは日本軍が守る炭坑の警備員で、共産党軍の攻撃に抵抗せずに逃げ出して捕まったのだと話すと、急に奥村の顔色が変わり、彼らの行動は理解できないし処刑されて当然ではないかと「日本兵となって追求」(本人の言葉)してしまう。「自分の中に軍隊教育として受けていたものが残っている」と恥じる奥村。
輪姦された当時16歳という中国人老女の話にもいたたまれなくなるが、日本兵の鬼畜の限りを綴った、自分たちが書いた文章がそこ(中国)には残っているのだからたまらない。この文章のコピーは持ち帰られ、奥村の仲間たちにも突きつけられる。「もう平気でやったんですよ。人を殺したのに記憶がない。日常茶飯事だったんだね」とは仲間の金子の言葉だが、奥村は恨まれたのではないか。
自分たちの犯した罪を暴いてまでも、悔しい気持ちをどうにかしたい。それが奥村たちの気持ちなのだろう。だが、高齢な彼らの仲間は裁判中にも死んで数が少なくなり、この映画に登場する村山も映画の公開を待たずに死んだという。彼らには時間がないのだ。最後の時間との競争だという言葉はあまりに重い。
巻頭では靖国神社がどういうところなのかも知らない女の子と奥村の、さもありなんという対話が収録されていたが、最後の方では、やはり靖国神社で熱弁をふるう小野田元少尉に「小野田さんは戦争美化ですか」と詰め寄る場面も。奥村が電話をしても、また訪ねて行っても、昔のことだからと口を閉ざして何も語ろうとしない老人。簡単に対比されてはこれらの人の立場がないかもしれないが、彼らと大差のない自分を考えないではいられなくなる。
途中、判決文に署名捺印しない裁判官の話があり、これにもびっくりした。理由が「差し支えのため」という訳のわからないものだからだ。奥村が電話で確かめると、転勤で物理的に書けないという返事。だったらそう書けばいいのに。書けないんだろうね。署名捺印のない判決文がそもそも有効なのかどうなのか、そんなことは私にはわからないが、こんなんでちゃんとした裁判ができているのかと心配だ。
【メモ】
日本軍山西省残留問題:
終戦時に中国の山西省にいた陸軍第1軍の将兵59,000人のうちの約2,600人は、武装解除を受けることなく(ポツダム宣言に違反)国民党系の閻錫山の軍閥に合流し、3年半の間、共産党軍相手に戦いを続け、約550人が戦死、700人以上が捕虜となったという。
元残留兵たちから、軍命で戦ったのだから当然復員までの軍籍は認められるべきで、軍人恩給や戦死者遺族への扶助料も支払われるべきだという声があがるが、この運動が具体的な形になったのは90年代になってからのことだった。さらに実際の裁判にまで進んだのは2001年5月。原告は元日本兵13名。この時点で最小年の奥村和一は77歳、ほとんどが80歳以上だった。
双方の見解ははっきり別れていて、元残留兵たちは、当時国民政府から戦犯指名を受けていた北支派遣軍第1軍司令官・澄田●四郎(すみたらいしろう[●は貝へん+來])が責任追及を恐れて閻錫山と密約を交わし「祖国復興」を名目に残留を画策したと主張する。
一方、政府の見解は勝手に志願し傭兵になったのだから、その間の軍籍は認められず、政府に責任はないというもの。
裁判で原告は負け続けるが、2005年、元残留兵らは軍人恩給の支給を求めて最高裁に上告。が、9月に棄却される。
(2006.10.6追記)澄田軍司令官は、第25代日本銀行総裁(1984-1989)澄田智の父親にあたる。
2005年 101分 ヴィスタサイズ
監督:池谷薫 撮影:福居正治、外山泰三 録音:高津祐介 編集:田山晃一 音楽:内池秀和
出演:奥村和一(わいち)、金子傳、村山隼人、劉面煥、宮崎舜市
日本以外全部沈没
2006年09月24日 日曜日
シネセゾン渋谷 ★☆
■思いつきで、映画も沈没
言わずもがな『日本沈没』のパロディ映画。なの? 筒井康隆の『日本以外全部沈没』は小松左京の『日本沈没』のパロディだが、この映画『日本以外全部沈没』は、筒井康隆作品の映画化ではあるけれど、2度目の映画化である東宝の『日本沈没』(2006)のパロディかというと断じてそうではなく、ようするに便乗映画のたぐい。
2011年にアメリカ大陸が1週間で沈んだあと、中国大陸、ユーラシア……と日本以外の国が次々と沈んでいった。3年後、「クラブ・ミルト」には、各国の首脳が集まり日本の安泉首相(村野武範)におべっかをつかっていた……。いやー、やっぱり威張っちゃうんだろうね、日本人。うはは。
グラミー賞歌手が落ちぶれてそこで歌っている場面に思わず笑ってしまったが、この好調な出だしは全部原作のアイデアだった。あわてて読んだ原作は、舞台もこのクラブに限定された話(全集だと11ページの短篇)で、映画はそこで話される会話を膨らませてクラブ以外の場面も用意しているのだが、ところがそれがまったく腑抜けたもの。
たとえば日本は、外国からの難民で溢れているはずなのに(原作だと人口が5億になっているし、クラブさえ満員でトム・ジョーンズは入場を断られているのだ)、映し出される光景はどれもが人影がまばらだから、説得力がまるでない。予算がないのはわかるが、見せ方があまりにもヘタクソでいやになる。挿入されるCG(というよりアニメか)にしても合成がひどいとかいう問題ではなく、アイデア自体が幼稚なのだ。
これが大学の映研作品というなら拍手喝采してしまうところだが、TV版の『日本沈没』と1973年の映画版で主演した村野武範と藤岡弘まで引っ張り出してきているのだから文句もつけたくなる。
意外にも原作に登場しない日本の首相が「ニッポン音頭」にのって終始にこやかなのは当然。田所博士(寺田農)の学説発表がそれらしい舞台なのは奮発。イスラエルのシャザール大統領のアラブ相手の乱入が、金正日率いる武装ゲリラになっているのは順当。脅かしにも動ぜずGAT(超法規的措置で生まれた外国人アタックチーム)長官(藤岡弘)の自爆で国会議事堂が吹っ飛ぶのはチャチ。停電のローソクの明かりが「世界が沈むそのちょっと前にはじめて平和が訪れる瞬間だった」かどうかは疑問。それより何でこんなところにウクライナ民話『てぶくろ』が出てくるんだ、ってもうどうでもいい気分。以上、書いてる私もかなりの手抜きだ。
それにしても原作だと、ニクソン、毛沢東、周恩来、蒋介石、朴正熙、シナトラ、エリザベス・テイラー、オードリー・ヘップバーン、ソフィア・ローレン、アラン・ドロン、カポーティ、メイラー、ボーボワール、リヒテルにケンプといった錚々たるメンバー。そっくりさん俳優がシュワルツネッガーやウィリスあたりしか見つからなかったというより、今の時代には絶対的な存在感のある政治家や俳優がいないということなのかも。
【メモ】
URLにある画像は、尖閣諸島、竹島、北方領土をわざわざ表示しているが、これも多分思いつきの範囲だろう。ま、それでいいのかもしれないが。
付け加えられてドラマ部分は、おれ(小橋賢児)のアメリカ人妻とオスカー俳優との恋。あと、おれの親友古賀の家庭風景など。
怪獣やヒーローが外国人エキストラを踏みつぶす『電エース』が人気を博す。この映像もあるが、ひどい。
2006年 98分 ヴィスタサイズ
監督・脚本:河崎実 原典:小松左京 原作:筒井康隆 監修:実相寺昭雄 脚本:右田昌万、河崎実 撮影監督:須賀隆 音楽:石井雅子 特撮監督:佛田洋
出演:小橋賢児(おれ)、柏原収史(古賀)、松尾政寿(後藤)、土肥美緒(古賀の妻)、ブレイク・クロフォード(ジェリー・クルージング/オスカー俳優)、キラ・ライチェブスカヤ(エリザベス・クリフト/人気女優、ジェリーの妻)、デルチャ・ミハエラ・ガブリエラ(キャサリン/おれの妻)、寺田農(田所博士)、村野武範(安泉首相)、藤岡弘(石山防衛庁長官)、イジリー岡田、つぶやきシロー(大家)、ジーコ内山(某国の独裁者)、松尾貴史(外人予報士・森田良純)、デーブ・スペクター(本人/日本語学校経営者)、筒井康隆(特別出演)、黒田アーサー、中田博久
黒い雪
2006年09月26日 火曜日
松竹試写室(東劇ビル3階) ★★☆
■今となってはこの過激な抵抗は苦笑もの
「美の変革者 武智鉄二全集」と称して10月末からイメージフォーラムで全10作品を一挙上映する企画の試写にI氏の好意で出かけてきた。武智作品は「黒い雪裁判」等で、学生の頃大いに騒がれたものだが、観る機会はないままだった。
いきなりタイトルなのは昔の映画だから当然だが、ここの背景は黒人に組み敷かれている娼婦で、何故かふたりともほとんど動かないままだ。重苦しいほどの長さはそのまま当時の日本の状況を演出したものだろう。
娼婦は見られていることがわかっているらしく、手を伸ばし影絵を作る。ふたりの行為を隣の部屋から覗き見しているのが次郎(花ノ本寿)で、彼の母はこの売春宿を経営している。叔母が新しい若い娘民子を母のところに連れてきていて、あけすけな話をさんざんする(この猥談は飛行機の騒音に消されて肝心なことが聞けなくなっているのが効果的だ)。駐留軍のボスの情婦である叔母は、近々PXからの横流しがあるので、またうまい商売ができると楽しげだ。
次郎は、この叔母から横領で得た金を巻き上げる計画を共産党員らしき男と立てる。党員からはドスを渡される。このドスで黒人兵を殺し、彼からピストルを奪うが、これは次郎の自発的な行為のようだ。
家(売春宿)に戻ると、MINAになった民子の初仕事なのか、彼女の泣いている声が漏れてくる。母は変態爺のミスターグレン様だからと、それでもまんざらでない様子だ。
次郎は前から気になっていた個人タクシー運転手の娘静江(紅千登世)に声をかけ、映画館にさそう。どうでもいい話だが、西部劇が上映されているこの映画館の傾斜のきつさは昨今のシネコン並である。ここで静江の悶える場面になるのだが、これが大げさでわざとらしいもの。場内が明るくなって次郎の肩に頭をのせている場面があるし、その前にも次郎がピストルを出し、「これピストルだよ」と言う隠喩もあるから、次郎にペッティングされてのことと解釈するのが普通だろう。がやはり、演技力の問題は別にしても不自然だ。
母と女の子たちの歌舞伎見物の日、次郎は静江を家に呼び出しベッドに横たえて明かりを消す。次郎はすぐ帰ってくると言い残し部屋を出るのだが、外には党員の男が裸になって待っている。男に処女の女の子を世話すると話していたのは、静江のことだったのだ。男が消え、次郎がドア越しにいると、梅毒で商売も出来ず歌舞伎にも行けなかった女が出て来て、次郎を抱くようにする。しかし、それにしても静江を男に引き渡した次郎の気持ちがわからない。
明かりがついて相手が次郎でないことを知った静江はショックで、裸のまま部屋を飛び出し、基地の金網の横を全裸で走る有名な場面となる。車が対抗して何台も通りすぎていくところを、100メートル以上も走ったのではないかと思われるが、さすがにここの撮影は難しかったのか、暗いし望遠で撮っているということもあってピンボケ気味である。基地の中からは警告の車も追走してくる。緊張感が高まる中、静江は倒れ体は泥まみれになってしまう。
プレスシートには「ジェット機の衝撃波によって地上に打ち倒されてしまう。まるで弱小民族の運命を象徴するかのように」と書かれているのだが、何が衝撃波なのだろう。映画の中で、それこそ耳を塞ぎたくなるほどうるさい爆音だが、基地周辺の住民である静江にとってこんなものが衝撃波とは思えない。「弱小民族の運命」は監督の解釈なのかもしれないし、そういう読み解きはいくらでも可能だろうが、それ以前に演出としてもあまりに稚拙ではないか。それに、この静江の行動を反米の抗議行動と見立てるのは筋違いだろう。
次郎は党員の男ともうひとりの3人で、叔母から2万ドルを奪う。男達は叔母を犯す。叔母は、畜生と同じだからと次郎を拒否するが、結局は悶えたことで次郎に射殺される。次郎はMINAに山のようなプレゼントを抱えて帰るが、両替からあっさり足がつき駐留軍に捕えられてしまう。
堀田が静江を連れて次郎の面会に来る。「娘がどうしても会いたいと言ってきかないものだから」なのに、この場面で喋り続けるのは堀田ひとりである。これがまたどうにもおかしいのだ。笑ってしまってはいけないのかもしれないが、満州から引き上げて妻と息子が死んだことにはじまって自分の人生の悔恨を語ったあと、「この娘には人間の魂を教え込んだ」からって「そうなるべき当然の帰結。さあ、今日はふたりの結婚式」となっては、ちょっと待ってくれと言いたくなる。
口をきかない次郎と静江の気持ちは一応映像で説明してあるが、でも静江は次郎を何故許せるのか。それに堀田は、次郎の黒人兵殺害現場まで目撃しているのだ。反米というお題目が成り立つのなら殺人は支持するし、静江を提供することも厭わないというのだろうか。いくら何でももう少し具体的な説明があってもよさそうなものだ。
ふたりが帰ったあと、次郎は決心したかのように供述をはじめるが、叔母がマロー(駐留軍のボス)の愛人であり横流しがあったことに触れると、担当官は猛烈に怒りだし次郎の供述を認めようとしない。
このあと雪の日、他の囚人たちと一緒にどこかへ行くような場面(プレスシートだと、殺人罪で起訴された次郎は日本の警察に引渡されるという説明だが、映画ではよくわからなかった)で、画面にはソラリゼーション処理された黒い雪が表現される。
最後の「きっと他に悪いヤツが……基地なんかなければいいんだ」という次郎の母のセリフが、また白々しい。原潜寄港反対運動の学生たちに塩をまいて、「反対なんてとんでもない」と言っていたというのに。
米軍基地周辺を描くことで、当時の日本の状況(ある部分ではほとんど変わっていないようにも思えるが)はいやがおうにも浮かび上がってくるし、タイトルや騒音の使い方には工夫がある。
しかし、次郎の考えていることや行動はどうしても理解できなかった。黒人兵の殺害、静江の扱い、叔母殺し……。「不浄の金は我々同士のために使うのが一番だ」という党員の男を信じたのなら、無駄な買い物などできないはずだし、叔母が憎いのなら母親だってその対象になるべきだろう。それなのにあの最後のセリフで収まりをつけようなんて、いい加減にもほどがあるではないか。
1964年 89分 白黒 ワイド 製作:第三プロダクション
監督・脚本:武智鉄二 撮影:倉田武雄 美術:大森実 録音:田中安治 照明:大住慶次郎 音楽:湯浅譲二、八木正生
出演:花ノ本寿(次郎)、紅千登世(堀田静江)、美川陽一郎、村田知栄子(母)、松井康子、内田高子、滝まり子
もしも昨日が選べたら
2006年10月01日 日曜日
新宿武蔵野館2 ★★
■「万能リモコン」の性能をとっくりとご覧くだされたく
建築士のマイケル・ニューマン(アダム・サンドラー)は、妻ドナ(ケイト・ベッキンセイル)に7歳の息子ベン(ジョゼフ・キャスタノン)と5歳の娘サマンサ(テイタム・マッキャン)の4人家族。仕事優先主義が高じて家にあるリモコンの見分けもつかなくなっていた彼は、寝具&入浴用品専門店(の売場の奧にある部屋)にいたモーティ(クリストファー・ウォーケン)という男から新製品だという「万能リモコン」をもらう。
まるで『ドラえもん』の実写版のような映画。テーマは4人家族という設定時点でわかる通り家族愛で、「万能リモコン」のアイディアがすべてだから、話の内容はいたって単純。なのに下ネタ満載というのは? ファミリー映画というわけでもないのね。
その「万能リモコン」の性能だが、「人生の」一時停止や早送り、巻き戻しまで出来てしまうというもの。ただギャグとしては、吠える犬を「音量調整」するような、簡単な機能が笑える。色調整や音声切り替えなどももちろんあって、マイケルは自分の顔を緑色にして「超人ハルク!」などとふざけたりも。
巻き戻しは過去の場面を客観的に見られるというもので、決して過去に戻ってやり直しが出来るわけではないのがミソ。だから邦題の『もしも昨日が選べたら』というのはあくまでも願望と後悔であって、原題のリモコンのスイッチを入れるという意味の『Click』の方が、誤解は少なかったと思われる。両親のマイケル生産現場にも行っていたから、つまり自分が存在していない時空にも飛べるのだが、仕事人間のマイケルは歴史家になる気などないので、これはあまり使い道がなかったようだ。
問題は早送り。早送りにすると、その間はマイケルのダミーが煩わしいことを代行してくれるのだという。ドナとの口論にはじまって、夫婦生活や交通渋滞、食事やシャワーと早送りを使い放題のマイケル。チャプター機能で、行きたい場所と場面が選べるときては、もうこのリモコンが手放せない。
ところがリモコンには学習機能があって、マイケルがその弊害に気付いて少し使用を控えようとしても、勝手に早送りにしてしまうのだった。しかもこのリモコンは返品不可で、それどころか体にくっついて離れてもくれないのだ! モーティは自らを「死の天使」(なんじゃ?)と呼んでいたが(途中でも何度が登場する)、マイケルには学習機能のことは黙っていたし、まあ悪魔なのかも。
というわけで、あっという間にマイケルは年をとっていく。子供たちは大きくなり、社長の椅子は手に入れたものの、不摂生が祟ってひどい肥満に。さらに時間が進んだ時には、彼には理由はわからないのだがドナとは別れているし、癌でもう死期が迫っているのだった。
望み通りになったとはいえ、あまりにも空虚な結末に、本当に大切だったのは家族だったと気付く。マイケルのダミーが父親のテッド(ヘンリー・ウィンクラー)を冷たくあしらうが、それでもテッドは「愛している」と言う。この場面を何度も巻き戻しては食い入るように見るマイケル、という場面など泣かせどころなのだろうが、そのつもりでやられてもねー。
最悪なのは、ここまでやっておいての夢オチ。そういえば「寝具」&入浴用品専門店だったっけ。しかしなー。「善人は報いられるべきだ」というモーティの言葉が〆だけど、ということはやっぱり彼は天使なのか? クリストファー・ウォーケンが天使なんて、私ゃ認めんぞ。それにどう「善人」って判断したのさ。あの結末で悔やめば救われるのか。甘い甘い。ってだから天使だったって? へーい。
くだらない映画なんだけど、細部はよくできていて、年寄りマイケルやドナのメイクは見ものだし、マイケルのデブぶりにはギョッとさせられた。肥満が治ったあとの皮膚あまり状態もよくできていた。未来の病院や車などにも神経が行き届いていて、だから下ネタ夢オチコメディにしてしまってはもったいないではないか。
【メモ】
ダスティン・ホフマンの息子とジャック・ニコルソンの娘がマイケルの息子と娘、ってホントか?(あとで聞いたんだが、もう顔が思い出せないのだな)
原題:Click
2006年 107分 サイズ:■ アメリカ 日本語字幕:藤沢睦美 翻訳協力:パックン
監督:フランク・コラチ 脚本:スティーヴ・コーレン、マーク・オキーフ 撮影:ディーン・セムラー 特殊メイク:リック・ベイカー 編集:ジェフ・ガーソン 音楽:ルパート・グレグソン=ウィリアムズ
出演:アダム・サンドラー(マイケル・ニューマン)、ケイト・ベッキンセイル(ドナ・ニューマン/妻)、クリストファー・ウォーケン(モーティ/死の天使)、デヴィッド・ハッセルホフ(エイマー/建築事務所社長)、ヘンリー・ウィンクラー(テッド・ニューマン/マイケルの父)、ジュリー・カヴナー(トゥルーディ・ニューマン/マイケルの母)、ショーン・アスティン(ビル)、ジョセフ・キャスタノン(ベン・ニューマン)、テイタム・マッキャン(サマンサ・ニューマン)、キャメロン・モナハン(ジェニファー・クーリッジ)、ロブ・シュナイダー(クレジットなし)
記憶の棘
2006年10月01日 日曜日
新宿武蔵野館3 ★★★★☆
■転生なんてどうでもいい。アナと少年が愛し合っていたのなら
アナ(ニコール・キッドマン)が最愛の夫ショーンをジョギング中の心臓発作で亡くしたのは10年前。夫への想いを断ち切れずにいたアナだが、自分の心が開くのを待ち続けてくれたジョセフ(ダニー・ヒューストン)の愛を受け入れ、その婚約発表パーティがアナの豪華なアパートで開かれようとしていた。ショーンの友人だったクリフォード(ピーター・ストーメア)とその妻クララ(アン・ヘッシュ)もやって来るが、クララはプレゼントのリボンを忘れたといって外に飛び出していく。公園の林にプレゼントを埋めるクララ。それを見ている少年(キャメロン・ブライト)。クララは別のプレゼントを買う……。
次は、アナの母エレノア(ローレン・バコール)の誕生日パーティが開かれているアパート(パーティ続きだが、なにしろ金持ちだからね)。そこに突然見知らぬ少年が現れ、アナとふたりだけで話したいと申し出、「僕はショーン、君の夫だ」と告げる。あきれて最初こそ相手にしないアナだったが、何度か接していくうちに本当に夫の生まれ変わりかもしれないと思い始め、次第にそれは確信へと変わっていった。
カメラが巻頭から素晴らしいが、アナの動揺を捕らえた劇場の場面は特筆ものだ。少年への説得がうまくいかず、劇場の開演に遅れてしまうジョセフとアナだが、少年の倒れた所を目にしてしまったアナの気持ちの揺れは大きくなるばかりだ。引いたカメラが整然とオペラを鑑賞している客席を映しているところにふたりが現れる。指定席にたどり着くには、まるで波紋が広がるように何人もの客を立たせることになる。狭い客席の前を進む時にはカメラはかなりふたりに近づき、着席した時にはアナのアップになっている。そして、ここからが長いのだ。ジョセフが2度ほどアナに耳打ちするが、アナには多分何も聞こえていない。アナにも見えていなかったようにオペラの舞台は最後まで映ることなく、場面は観客がその長さに耐えられなくなったのを見計らったように突然切り替わる。
こんな調子で書いていくとキリがないのではしょるが、少年がふたりしか知らないことまで答えるに及んでアナの心は乱れに乱れ、夫への愛が再燃し、少年をアパートに泊めたりもする。無視されたジョセフが大人げない怒りを爆発させる(きっかけは少年が椅子を蹴るという子供っぽいいたずら)が、すでにこの時にはアナには少年しか見えなくなっていた。
ところが、死んだショーンが実は浮気をしていて、少年の知っていた秘密の謎が、クララが埋めたプレゼントの手紙を掘り出して仕入れたものによることがわかる。クララによると、この手紙はアナがショーンに送ったもので、それをショーンは封も切らずにクララに渡していたのだという。「ショーンが本当に愛していたのは私。だからもしあなたが生まれ変わりなら、真っ先に私の元に来るはず。だからあなたはショーンではない」というクララに、少年の心は簡単に崩れてしまう。
そしてアナは、何と、今回のことは私のせいではないとジョセフに復縁を懇願する。少年からは2度と迷惑はかけないし、たまに精神科の医師に診てもらっているのだという手紙が届く(この場面は学校の個人写真の撮影風景。このカットがまた素晴らしい)。ラストはアナとジョセフの結婚式だが、海岸にはウエディングドレスを着たままのアナが取り乱している姿がある。ジョセフがアナに近づき、なだめるようにアナを連れて行く……。
1番はじめにショーンの講義のセリフで転生は否定されるのだが、すぐその当人の死を見せ、そのまま出産の場面に繋いでいるのは、転生をイメージさせていることになるのではないか。原題もBirthだし。こうやって周到に主題を提示しての逆転劇はあんまりという気もするが、しかしだからといってあっさり転生でした、というのはさすがにためらわれたということか。
表面的にせよ転生を否定する結論を取っているので、その可能性を考えてみたが、これだと少年が何故そんなことを言い出したのかがまるでわからなくなる。いくらアナに好意を感じたといっても、家族との決別も含めて10歳の少年がそこまで手の込んだことをやるだろうか。
逆に生まれ変わりだという根拠ならいくつか見つけることが出来る。婚約パーティに現れたクララの後を追った(つまりクララを知っていた。これは偶然ということもあるかも)。クリフォードのことも知っていた。ショーンの死亡場所を知っていた。そしてなにより手紙からの知識では(アナのことは同じアパートだから知っていたにしても)ショーンが死んだということまではわからないはずなのだ。
確かにクララの言い分は気になるが、ショーンがジョセフに妻を取られることに嫉妬した(あるいは許せない)というのはどうだろう。これはエレノアが彼を嫌っていたということからの、ショーンの性格が悪かったという私の勝手な推論だが。また、転生はしたものの全部の記憶が残ったというわけではないという説明もちょっとずるいが成り立たなくはない。これなら純粋にアナを愛している少年がクララの暴露発言にショックを受けて(自分が将来するべき裏切りを予想するというのは無理だとしても、単純に混乱はするだろう)、結末にあるような学校生活をするしかないという説明にはなる。
あとはクララの発言が全部嘘だということも考えられる。もっともこれだと手紙の入手方法や、暴露する意味がまったくわからなくなる(嘘でない場合でもショーンが死んで10年もしてこの発言は?)し、もしそうだというのなら映画としてもなんらかのヒントを用意しておく必要があるだろう。
こんなふうにどこまでも疑問が残ってしまうようでは、映画としては上出来とはいえないのだが、といって簡単に却下する気にはなれない映画なのだ。
手紙の封も切らずそれを愛人に渡すショーンも不遜でいやなヤツだが、封を切らなくてもわかるような手紙しか書けなかったアナという部分はなかったか。ショーンの不倫を見抜けなかったというのもね。少年の出現であれだけ心が動かされたというのに、復縁の許しを請うだろうか。それも私が悪いのではない、って最低でしょ。その時、なかなか返事をしないジョセフもものすごくいやなのだけど、それよりラストシーンをみると、もうアナは狂気の1歩手前なのかもと思ってしまう。
つい沢山書いてしまったが、実は転生かどうかということよりも、アナと少年は本当に惹かれあったのか、ということが問題にされるべきなのだ。そしてアナと少年はやはりちゃんと愛し合った、のだと思う。夫だと言われても、秘密を知っていても、それだけでは愛せるはずなどないということぐらい、誰だって知っていることではないか。
【メモ】
「もし妻のアナが亡くなり、その翌日窓辺に小鳥が飛んできて僕を見つめ、こう言ったら?『ショーン、アナよ。戻って来たの』僕はどうするか? きっとその鳥を信じ一緒に暮らすだろう」(巻頭のショーンの講演でのセリフ)
少年はアナに結婚は間違っているという手紙を渡す。
アナがそのことをジョセフに言わなかったのはたまたま、それとも……。
アナと同じアパートの202号室(コンテ家)が少年の家。ジョゼフは事情を話し、少年にアナに近づかないと約束させようとするが、少年は言うことをきかない。このあとオペラに出かけ、少年が倒れる。
電話でアナに「公園のあの場所で君を待っている」と告げる少年。あの場所とはショーンが息を引き取った場所だった。
少年はアナの義兄のボブに会うことを希望し、彼のテストを受ける。
原題:Birth
2004年 100分 サイズ:■ アメリカ 日本語字幕:■
監督:ジョナサン・グレイザー 脚本:ジョナサン・グレイザー、ジャン=クロード・カリエール、マイロ・アディカ 撮影:ハリス・サヴィデス 編集:サム・スニード、クラウス・ウェーリッシュ 音楽:アレクサンドル・デプラ
出演:ニコール・キッドマン(アナ)、キャメロン・ブライト(ショーン少年)、ダニー・ヒューストン(ジョゼフ/婚約者)、ローレン・バコール(エレノア/母)、アリソン・エリオット(ローラ/姉)、アーリス・ハワード(ボブ/姉の夫)、アン・ヘッシュ(クララ クリフォードの妻)、ピーター・ストーメア(クリフォード/ショーンの親友)、テッド・レヴィン(コンテ/少年の父)、カーラ・セイモア(少年の母)、マイロ・アディカ(ジミー/ドアマン)
レディ・イン・ザ・ウォーター
2006年10月08日 日曜日
新宿ミラノ1 ★★★
■アパートは世界なんだ。シャマランでなく、あの映画評論家に作ってもらいたかった
物語だけをたどってみると、そのくだらなさにうんざりしてしまうのだが、真剣に見てしまったのは何故か。でっちあげおとぎ話なのにね。
アパートの管理人をしているクリーブランド・ヒープ(ポール・ジアマッティ)の前にストーリー(ブライス・ダラス・ハワード)と名乗る女性が現れる。彼女は水の精で、素晴らしき未来をもたらす能力を秘めた若者に、その直感を与える使命を持って人間の世界にやってきたのだが、いまだ目的を果たせず、恐ろしい緑の狼に追われて、自分の世界にも戻れずにアパートの中庭のプールに身を潜めていたのだという。
いきなり、何だこりゃというような話になる。突飛だからか、巻頭に子供の絵みたいなもので、水の精の解説をしてくれてはいたが。そればかりか、韓国人系住人に伝わるおとぎ話までもってきて、しかもその通りに物語が展開していくんだから開いた口がふさがらない。
ヒープは、ストーリーの話が韓国人老婆の語るおとぎ話に符合することや、彼女と一緒だと吃音にならないこと、そして緑の狼を見るに及んで、ストーリーの話を信じ、アパートの住人と協力して彼女が無事元の世界に戻れるようにしようとする。
当然、ファンタジーらしい鍵がいくつもちりばめられていて、記号論者、守護者、職人、治癒者という、いわば世界を救う勇者探しがまずは急務となる。勇者たちが勇者であることを自覚していないのはお約束で、ヒープもストーリーを救ったことから自分を守護者と勘違いするくだりがある。もっとも記号論者がクロスワードパズル好きの親子だったように、この役割分担に特別の意味があるわけではなく、それは実際パズルのようなもので、その謎解き(よくわからんのだ)よりは、アパートの住人たちの中に勇者がいるということが大切なようだ。
ヒープは管理人という特技?を活かして協力者を捜し出す。選ばれし者たちの中には、彼にとっては厄介者だった若者のグループがいたりする。アパートには様々な人種がいるし、このアパートは小さいながら世界そのものを表しているのだろう。と考えると、これだけ壮大なテーマに、怪物まで引っ張り出しながら、アパートから1歩も出ないで映画が成立しているわけがわかろうというものだ。
それぞれはバラバラで孤独なようだけど、みんな繋がっているし、困っている人を差しのべることが、世界を救うことになる。きっと、こういうことが言いたいのではないだろうか。それに、これって当たってるよね。
ただ、その仕上げに重なるようにヒープの過去の重石まで解放されるあたりは、もうこれは好みの問題なのだが、まるで集団治癒の1場面みたいで感心できないし、緑の狼が猿のようなものに退治されるのも(もう少しマシなのを用意しろよな)、巨大な鷲につかまってストーリーが去る場面(あれっ、水の世界に戻るんじゃ)も、つまらなくて拍子抜けするばかりである。
要するに、立ち上がる、そのことが重要な訳だから、あとは韓国人老婆の語るおとぎ話通りでも問題ないのだろう(というかストーリーが物語をたずさえてやってきたと解釈すればいいわけだ)。でも、このおとぎ話にすでに結末があったということは、世界はすでに救われていることにならないだろうか。そうでないのなら、若者の著作によってみんなが目覚め、世界が救済されるのだという結末は避けるべきだった。
それにしても、あの映画評論家(ボブ・バラバン)は気の毒でした。読みが外れて、緑の狼の餌食とは(唯一の犠牲者じゃん)。シャマランにとっては、高慢な自説で好き勝手に映画を切り捨てるようなヤツは許し難いのかもしれないが、私は憧れちゃうな。あの映画評論家のような確固たる自説が持てるのであれば、世間に裏切られようとも、怪物の餌食になろうとも、さ。
【メモ】
体の右側だけを鍛えている若者(何だーコイツは)が守護者だった。
原題:Lady in the Water
2006年 110分 サイズ:■ アメリカ 日本語字幕:古田由紀子
監督・脚本:M・ナイト・シャマラン 撮影:クリストファー・ドイル 編集:バーバラ・タリヴァー 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
出演:ポール・ジアマッティ(クリーブランド・ヒープ)、ブライス・ダラス・ハワード(ストーリー)、フレディ・ロドリゲス(ジェフリー・ライト)、ボブ・バラバン(映画評論家)、サリタ・チョウドリー、ビル・アーウィン、ジャレッド・ハリス、M・ナイト・シャマラン、シンディ・チャン、メアリー・ベス・ハート、ノア・グレイ=ケイビー、ジョセフ・D・ライトマン
カポーティ
2006年10月09日 月曜日
シャンテシネ2 ★★★☆
■死刑囚の死は、作家の死でもあった
トルーマン・カポーティが『冷血』(原題:In Cold Blood)を執筆した過程を描く。
1959年にカンザス州で「裕福な農場主と家族3人が殺される」という事件が起きる。新聞の記事に興味を持ったカポーティ(フィリップ・シーモア・ホフマン)は、さっそくザ・ニューヨーカー紙の編集者ウィリアム・ショーン(ボブ・バラバン)に許可をとり、幼馴染みの作家ネル・ハーパー・リー(キャサリン・キーナー)を「調査助手」(とボディガードができるのは君だけ)に、カンザスへと向かう。
ハーパー・リーは『アラバマ物語』(原題:To Kill a Mockingbird)の原作者として有名だが、このカポーティの取材に協力していたようだ。カポーティは乗り込んだ列車で、客席係から有名人としての賛辞をもらうが、それがお金を払って仕組まれたセリフだということが彼女にはすぐばれてしまう。これは映画の最後でも彼女に電話で手厳しいことを言われることに繋がっている。
かように全篇、手練れの職人芸といった趣があるが、初監督作品の由。構成は鮮やかだが、抑制はききすぎるくらいにきいているから展開は淡々としたものだ。人物のアップを重ねながら、時折引いた画面を提示して観る者を熱くさせない。凝った作りながらドキュメンタリーを観ているような気分なのだ。カポーティ本人の喋り方や歩き方に特徴がありすぎるのか、ホフマンの演技が過剰なのかはわからないが、それすらもうるさく感じさせない。
ニューヨークの社交界では、有名人であるだけでなくそのお喋りに人気があるカポーティだが、カンザスではただのうさんくさい同性愛者。そんな状況も織り込みながら、彼は捕まった容疑者のふたりのうちのペリー・スミス(クリフトン・コリンズ・Jr)に興味を持ち、接触に成功する。
生い立ちなどからスミスに自分自身の姿を見たというカポーティだが、それが詭弁のように聞こえてしまう。取材のためなら賄賂は使うし、発見者のローラにも巧妙に近づき、スミスからは「いつまでも世間が君を怪物と呼ぶのを望まない」と言って彼の日記をせしめる。カポーティにとっては、作品は社交界の人気者でいるためにどうしても必要なもので、スミスは「金脈」なのだ。だから、犯行の話を訊いていないうちに死刑になるのは困るが、訊きだしたあとに何度も延期されると死刑という結末が書けず本が完成しない、という理屈になる。
『アラバマ物語』の完成試写でハーパー・リーに会っても「彼らが僕を苦しめる。控訴が認められたらノイローゼだ。そうならないように祈るだけ」と言うばかりで、彼女に映画の感想を訊かれても答えず去る。「正直言って騒ぐほどのデキじゃない」って、ひどいよなー。
その前の、捜査官のアルヴィン・デューイ(クリス・クーパー)に、カポーティが本の題名を『冷血』に決めたと伝えるくだりでは、デューイに冷血とは犯行のことか、それとも君のことかと切り替えされるが、この映画はカポーティに意地悪だ。
いや、そうでもないか。スミスに、姉が彼を毛嫌いしていたことは隠して写真を渡すなど、作品のためという部分はあるにせよ、心遣いをみせてもいるし、最後の面会から死刑執行に至っては、カポーティにも良心があることで、彼が壊れていくことを印象づけているから。
それにしても出版のために死刑を願った相手に、死刑の直前にからかわれ慰められたら、やはり正気ではいられなくなるだろう。ここから死刑執行場面までは本当に長くて、観客までが苦痛を強いられる。絞首刑に立ち会ったあとカポーティは、ハーパー・リーに「恐ろしい体験だった」と電話で報告する。「救うために何も出来なかった」と続けるが、彼女から返ってきたのは「救いたくなかったのよ」という言葉だった。
晩年はアルコールと薬物中毒に苦しみ、『冷血』以後は長篇をものにすることができなかったカポーティという作家の死を、映画はここに結びつけていた。
【メモ】
フィリップ・シーモア・ホフマンは、この演技でアカデミー主演俳優賞を受賞。
カポーティは、恋人である作家のジャック・ダンフィーにも、スミスとヒコックに弁護士をつけることでは「自分のためだろ」と冷たく言われてしまう。
『冷血』は前半しか書かれていないうちに、朗読会で抜粋部分が発表される。晴れ晴れとした顔のカポーティ。
そのことを知ったスミスに本の題名のことで詰め寄られる。あれは朗読の主催者が勝手に決めたことだし、事件の夜のことを訊けずに題名など決められないと嘘をつくカポーティ。
結末が書きたいのに書けないといいながら離乳食にウイスキーを入れて食べるカポーティ。この離乳食は、スミスがひと月ほど食事をとろうとしなかった時に、カポーティが差し入れていたのと同じものだ。
原題:Capote
2005年 114分 サイズ:■ アメリカ 日本語字幕:松崎広幸
監督:ベネット・ミラー 原作:ジェラルド・クラーク 脚本:ダン・ファターマン 撮影:アダム・キンメル 編集:クリストファー・テレフセン 音楽:マイケル・ダナ
出演:フィリップ・シーモア・ホフマン(トルーマン・カポーティ)、キャサリン・キーナー(ネル・ハーパー・リー 女流作家)、クリフトン・コリンズ・Jr(ペリー・スミス 犯人)、クリス・クーパー(アルヴィン・デューイ 捜査官)、ブルース・グリーンウッド(ジャック・ダンフィー 作家・カポーティの恋人)、ボブ・バラバン(ウィリアム・ショーン ザ・ニューヨーカー紙編集者)、エイミー・ライアン(マリー デューイの妻)、 マーク・ペルグリノ (リチャード・ヒコック もうひとりの犯人)、アリー・ミケルソン(ローラ 事件発見者)、マーシャル・ベル
ワールド・トレード・センター
2006年10月14日 土曜日
楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★
■救助する側からされる側になってしまったふたり
9.11米国同時多発テロで崩れ去った世界貿易センタービル(WTC)。その瓦礫の中から生還した2人の港湾警察官の実話の映画化。
2001年9月11日3:29。ジョン・マクローリン巡査部長(ニコラス・ケイジ)は多分いつものように起きてシャワーをし、家族を確認して職場へと出かける。ありふれた業務の中で「ドン」という異様な音が響く。旅客機の大きな影がビルを横切る映像が直前にあって、それだけで息苦しくなる。WTCの北棟に旅客機が激突するという大惨事の報告を受けて、マクローリンを班長とした救助チームが結成され、現場へ急行する。
救助とはいえ、現場にいる人間にすらも状況がわからない有様で、全員がビルを見上げるばかり。あまりの惨状に、ビル内に入ることを志願したのは新米警官のウィル・ヒメノ(マイケル・ペーニャ)を含む3人だけで、マクローリンは彼らを引き連れ酸素ボンベを取りに行くが、搬送中にビルは崩壊をはじめる。当人たちはビルが崩壊しているとは思ってもいないわけで、救助されたあとに「ここのビルは」と瓦礫の山を見て尋ねる場面がある。
3秒ほど真っ黒になったあと、画面は少しずつ明るくなり、アップになったマクローリンの目が動く。マクローリンとヒメノのふたりは、ビルに乗り込んでほとんど何もしないうちに動けなくなってしまったのだ。他にペズーロが奇跡的に埋まらず元気にいたのだが、次の崩落が彼を襲い、悲嘆にくれた彼は自殺してしまう。
ふたりは、なにしろ体を少しも動かすことが出来ないときているから、お間抜けなことに痛みに耐えながら眠らないように互いを励まし合うことしかできない。しかし、これが逆に実話ということを実感させてくれる。救助する側からされる側になってしまったふたりは、およそヒーローらしからぬヒーローとして記憶されることになるだろう。
ドラマ部分が希薄だから、ふたりの家族(とくに妻)の話をもってきたのは当然としても、これまた劇映画としてみてしまうのはいささか具合が悪いような。まあ、そんなことをとやかく言うのは気が引けるのだけど。そして私などは、映画としてこんなにもプライベートなことを公開してしまっていいのだろうか(向こうではふたりはどんな扱いなのかしらね)などと、関係ないことばかり考えてしまったというわけだ。
この挿話で気になったのはマクローリンの息子が、母親(マリア・ベロ)が現場に向かおうともしないことに苛立って「ママは平気なの」と彼女をなじる場面。これはつらいだろうな、と。
ともかくオリバー・ストーンで9.11だからもっと激しい主張があるのかと思っていたが、政治的な意図は極力排除されていて、でも逆に、せっかく9.11をテーマにしたことの意味が薄くなってしまったという不満が残る。
むろん、それらしきところはあって、ブッシュがこの国は戦争に突入したという映像を入れた意味や、何かに突き動かされるように救助をし続けた元海兵隊員(マイケル・シャノン)……。彼は最後に「志願してイラクで戦った」と字幕があって、それは事実を述べたにすぎないのだろうが。
では、瓦礫の中で見たイエスはどうだろう。人は見たいものを見るというのが、私のそっけない意見だが、言葉でなくイエスを映像化したとなると、9.11の宗教戦争という側面を都合よく解釈しているような気がしてしまうのだが、それは杞憂だろうか。
【メモ】
瓦礫の中での会話に『G.I.ジェーン』(1997)が出てくる。デミ・ムーアが「痛みは友達。生きてる証拠」だと言うのだと。
救助されて、口から土砂を吸い取る場面がリアルだ。
映画は2年後の「マクローリンとヒメノ感謝の集い」の場面も描かれる。身重だったヒメノの妻から生まれた子供が駆け寄ってきてヒメノが抱き上げる。
ビルの崩落で亡くなった人は3000名近く(2749名?)で、国籍は87におよんだ。救助されたのは20人でマクローリンとヒメノは18、19番目だった(というような字幕が出る)。
原題:World Trade Center
2006年 129分 ビスタ アメリカ 日本語字幕:■
監督:オリバー・ストーン 脚本:アンドレア・バーロフ 原案:ジョン&ドナ・マクローリン、ウィル&アリソン・ヒメノ 撮影:シーマス・マッガーヴェイ 編集:デヴィッド・ブレナー、ジュリー・モンロー 音楽:クレイグ・アームストロング
出演:ニコラス・ケイジ(ジョン・マクローリン)、マイケル・ペーニャ(ウィル・ヒメノ)、マリア・ベロ(ドナ・マクローリン)、マギー・ギレンホール(アリソン・ヒメノ)、ジェイ・ヘルナンデス(ドミニク・ペズーロ)、スティーヴン・ドーフ(スコット・ストラウス)、マイケル・シャノン(デイブ・カーンズ)、アルマンド・リスコ(アントニオ・ロドリゲス)、ニック・ダミチ、ダニー・ヌッチ、フランク・ホエーリー
フラガール
2006年10月15日 日曜日
シネマスクエアとうきゅう ★★★
■「常磐ハワイアンセンター」誕生秘話
常磐ハワイアンセンターは今でもスパリゾートハワイアンズとして健在なのだと。私の世代だと常磐ハワイアンセンターは超有名だ。行ったことはないが、東北にハワイを作るという奇抜さに加え、その垢抜けなさを話題にしていた記憶がある。
その日本のテーマパーク(もちろんこんな言葉などなかったし、規模としてはどうなんだろう)の草分け的存在(初となると明治村だろうか)であるリゾート施設がオープンしたのが、昭和41(1966)年1月で、そこでの呼び物がフラダンスだったというのだから、なんとも驚きだ。そして、これが石炭産業の斜陽化からの脱却という苦肉の策で、温泉としてはもともとあったものの、坑内から湧出しているものを利用してのものだということもはじめて知った。
炭鉱の娘の紀美子(蒼井優)は、「ここから抜け出すチャンス」という早苗(徳永えり)に誘われてフラダンサーに応募する。父を落盤事故で失い、母(富司純子)と兄(豊川悦司)も炭坑で働いている紀美子の将来は決まっていたようなものだったが……。
ど素人の踊り子候補者たちに、訳ありのダンス教師の平山まどか(松雪泰子)。不況産業なのはわかっていても炭坑にしがみ付くしかない者と、ハワイアンセンターに就職した元炭鉱夫たちを配して、しかし映画は、すべてが予定調和に向かって進む。早苗が志半ばにして夕張に越して行かなければならなくなるのは例外で、幸せなことにハワイアンセンターをきっかけにした全員の再生物語になっているというわけだ。
もちろんリストラや落盤事故の悲哀も背景に描かれているし、紀美子の兄のことなどは、こと仕事に関していえば、まあテキトーに忘れ去られているのではあるが、なにしろ炭坑そのものがとっくの昔になくなってしまっていて、だからうやむやになっていてもいたしかたない面はある。それに痛みは当然だったにせよ、ハワイアンセンターは成功し、リストラの受け皿としてもそれなりに機能したのだから。
紀美子だったりまどかだったりと、多少視点が定まらないうらみはあるが、ひとつひとつの話はうまくまとまっていて、オープン日のフラダンスシーンに結実している。「オレの人生オレのもんだ」と家族に啖呵を切った紀美子が、正座の痺れで立ち去れなくなったりするような笑いは心得たものだし、早苗に暴力をふるう父親に怒ってまどかが男湯に乗り込んでいくというびっくり場面も上出来だ。
ただし、別れの場面や泣きの演出になるとこれが毎回のように冗長で、昔のこの地方の国鉄なら電車の発車を待っていてくれたのかもしれないが、こちらとしては、そうは付き合っていれない気分になる。
ほとんど知らなかった松雪泰子が根性のあるところを見せてくれた。センターの吉本部長役の岸部一徳もいい。「(ヤマの男たちは)野獣です。山の獣(けだもの)です。実は私も半年前までは獣でした」というセリフからしておいしいのだが、最後の方でもはや「よそものの先生」ではなくなったまどかに「先生、いい女になったな」というあたり、ちゃんと見る目があることをうかがわせる。富司純子はセリフに力がありすぎだ。
画面に再現された炭坑町(炭坑長屋?)やボタ山の遠景にも見とれたし、昨今あまり聞くことがなかった福島弁が新鮮だった。
【メモ】
フラにはダンスという意味も含まれているので、フラダンスという言い方をやめて「フラ」に統一しようとしているらしいが、フラダンスと日本語で発音しているもの(つまりは日本語なのだ)を無理矢理変える意味があるのだろうか。
画面上のタイトルは『HURA GIRL』。
この時点(映画の説明)で、全体の4割、2000人の人員削減が目標。社運を賭けたハワイアンセンターは、18億円を投じても雇用は500人。
ダンサー募集に人は集まったものの、フラダンスの映像を見て「オラ、ケツ振れねぇ」「ヘソ丸見えでねえか」とストリップと混同して逃げ出してしまい、最初に残ったのは3人(早苗と紀美子に子持ちの初子)のみ。それと会社の役に立って欲しいと男親が連れてきた小百合が「厳しい予選を勝ち残った者」(吉本部長がまどかにした説明)となる。
東京からきた平山まどかは、フラダンスはハワイ仕込みでSKD(松竹歌劇団)で踊っていたというふれこみだが、それは本当らしく、「SKDではエイトピーセス(何これ?)だったの」というセリフも。「自分は特別だと思っていたのに、笑っちゃうよね」というのがそのあとに続く。
宣伝キャラバンツアーではまだまだ半人前。ドサ回り(ドサからドサへ、だが)までやっていたのね。
紀美子の母は婦人会の会長で、最初は紀美子のフラダンスに猛反対していたが、娘の練習風景を見て「あんなふうに踊って人様に喜んでもらってもええんじゃないかって」と思うようになり、寒さで椰子の木が枯れそうだと聞くと「ストーブ貸してくんちゃい」とリヤカーを引いて家々をまわって歩く。
まどかはしつこくヤクザに付きまとわれるが、紀美子の兄が借用書を破ってしまう。
2006年 120分 (ビスタ)
監督:李相日(リ・サンイル) 脚本:李相日、羽原大介 撮影:山本英夫 美術:種田陽平 編集:今井剛 音楽:ジェイク・シマブクロ
出演:松雪泰子(平山まどか)、蒼井優(谷川紀美子)、豊川悦司(谷川洋二朗)、富司純子(谷川千代)、岸部一徳(吉本紀夫)、徳永えり(早苗)、山崎静代(熊野小百合)、池津祥子(初子)、三宅弘城、寺島進、志賀勝、高橋克実
16ブロック
2006年10月15日 日曜日
新宿ミラノ1 ★★☆
■ヨレヨレ男の大奮戦記
ニューヨーク市警のジャック・モーズリー刑事(ブルース・ウィリス)は、夜勤明けというのにエディ・バンカー(モス・デフ)という黒人青年の証人を護送する任務を押し付けられる。裁判所までは16ブロックで、車なら15分もあれば終わるという仕事ではあったのだが。
まずブルース・ウィリスの老けっぷりに驚かされる。夜勤明けで体調がすぐれない設定もあるのだろうが、なんでも捜査中の事故で足を悪くし、捜査の一線を退いてからは酒浸りの日々らしい。「人生長すぎると思う」というセリフが当然と思えるメイクで、腹までたるんで見えるではないか。
この日も渋滞にまきこまれると、もう我慢できずに酒を買いに行く始末(向こうでは飲酒運転の規制はどうなってんだ?)。で、その隙をついたかのようにエディが襲われる。ジャックは間一髪でエディを救い、仲間に援護を要請するが、駆けつけてきたフランク刑事(デヴィッド・モース)からは、刑事たち(6人が関与しているらしい)にとって不利な証言をしようとしているエディを引き渡すように言われる。「お前もこれで主役組に復活できる」という餌までちらつかされて。
はじまったばかりで、警察内部に巣くった悪(しかもフランクは20年もジャックの相棒だったという)を相手にしなければならないことがわかってしまうのだが(ただし最後まで事件の真相は明かされない)、この警察を敵にまわして10時までに裁判所へたどり着けるのか、という話の絞り方は正解だろう。時間設定がほぼリアルタイムという工夫もあるが、こちらは意外と活かしきれていない。
16ブロックというのは東京なら、港区の愛宕警察署から霞ヶ関の裁判所という距離感だろうか。ただし、映し出される街並みはもっとごちゃごちゃしていて、実際の場所を知っていればさらに楽しめたと思われる。途中で裁判所に連絡して「あと7ブロックだ」と言うし、人出も多く迷路のような古いビルに逃げ込んだりする場面もあるが、裁判所にどのくらい近づいたのかということまでは残念ながら伝わってこない。ケータイを探知していた時ならモニターに地図を表示することもできるが、それ以外は所轄区域のことだからわざとらしくなってしまうのだろう。
エディは武器の不法所持でムショにいたような軽薄なヤツで、しかもうるさいくらいに喋りっぱなし(これを底抜けの明るさと取れるならいいのだが)。これに寡黙なジャックの組み合わせは表面的にも定番だが、今度こそ改心してケーキ屋になるという、ジャックならずとも信じられないような夢を本当に大事にしていることがわかって、というあたりも定番だ。命を賭けてお互いに相手を守ろうとするし、ジャックも最後にはこのことが契機となって自分自身を清算しようとする。
定番ながらそこにいくまでのアイディアはよく、なかでも車を捨てジャックが妹のダイアン(ジェナ・スターン)のアパートに忍び込んで武器を調達する場面ではニヤリとさせられた。エディと同じように、誰しも妹ではなくジャックの妻と勘違いしてしまうからだ。便座の位置で男がいるとわかる場面では、まんまと余計な同情までさせられてしまうというわけだ。
このあともバスに立てこもったり、人質解放に紛らわせてエディを逃がしたり(これは彼が戻ってきてしまう)、テープレコーダーを手に入れたり、と伏線をばらまきながら単調になることを巧みに避けている。
ただし、バスからの脱出と救急車はもう1台あったというすり替えは、基本的に同じ種類の騙しだから感心できない。それに比べたら罪は軽いが、バスから解放された人質から情報収集しようとしない警察(結果としては情報は入るが)というのもおかしい。
人は変われるというのがテーマとしてあって、このことが最後にジャックはエディを解放し(エディの犯罪記録も抹消させる)、今度は自分が証人になる道(2年の刑期が待っていた)を選ぶのだけど、個人的な趣味からいうと、ここら辺の演出はやり過ぎという感じがしなくもない。
【メモ】
乗っ取ったバスは、タイヤを撃たれて止まってしまう。ジャックは乗員に窓を新聞紙でふさがせ、人質の数は31人を約40人と水増しして報告する。
「毎日が誕生日が俺のモットー」(エディ)。今日が誕生日と言ったのは、バスの中の子供を怖がらせないようにしてのことで、あとで里親を転々としていて誕生日は知らないとジャックに言う。
ケーキのレシピを貼ったノートをもっているエディ。
「バリーホワイト(エンドロールに彼の音楽が使われている)もチャックベリーも強盗をしたけど改心した」(エディ)。
タイヤを壊されたままバスを発車させる。狭い路地に突っ込んで立ち往生となる。
最後にジャックを殺さないフランクというのはどう考えれば。悪党もさすがに元同僚は自分の手で始末したくなかったのか?
「オレも一味だったが、6年前は勇気がなかった」(ジャック)。
原題:16 Blocks
2006年 101分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:小寺陽子
監督:リチャード・ドナー 脚本:リチャード・ウェンク 撮影:グレン・マクファーソン 編集:スティーヴ・ミルコヴィッチ 音楽:クラウス・バデルト
出演:ブルース・ウィリス(ジャック・モーズリー)、モス・デフ(エディ・バンカー)、デヴィッド・モース(フランク・ニュージェント)、ジェナ・スターン(ダイアン・モーズリー)、ケイシー・サンダー、シルク・コザート、デヴィッド・ザヤス
Sad Movie サッド・ムービー
2006年10月17日 火曜日
中野サンプラザホール(試写会) ★★☆
■ビデオの遺書という泣き狙いで、すべてが台無し
4組の男女の別れ(1組は母親と小学生の息子)を描いた作品。
消防士のジヌ(チョン・ウソン)は今日こそスジョン(イム・スジョン)にプロポーズをしようと思いながらも、その機会を逸している。テレビ局でニュースの手話通訳として活躍するスジョンだが、ジヌの職業が危険なことに心を痛めていて、ある日の火災ニュースから、ついにジヌにあたってしまう。
スジョンの妹のスウン(シン・ミナ)は昔の火事で顔に大きな火傷の跡が残り、耳が聞こえない(彼女を助けたのがジヌなのだ)。白雪姫の着ぐるみを着て遊園地でバイトをしている彼女が興味を持ったのが、園内で似顔絵を描いているハンサムな青年サンギュ(イ・ギウ)。着ぐるみを脱いで彼と対面する勇気がでないでいる彼女に、仲間(7人の小人)たちはデートをセッティングする。
ボクシングのスパーリング役のバイトでその日暮らしのようなハソク(チャ・テヒョン)は、付き合って3年になるスッキョン(ソン・テヨン)がいるが、彼女もスーパーのレジ打ちで、こんなことをしていても先が見えないと別れ話を切り出されてしまう。チャンスをくれと食い下がるハソクだが、見通しなど何もない。が、ひょんなことからネットで「別れの代行」業という珍商売をやることを思い立つと、これが意外にも繁盛しだす。
ジュヨン(ヨム・ジョンア)は仕事に追われ、小学2年生の一人息子フィチャン(ヨ・ジング)の相手がなかなか出来ずにいた。車の運転中に具合の悪くなった彼女は、事故を起こして入院するが、そこで癌に冒されていることを知る。息子は入院したママが小言を言わなくなるし、会いたいときにいつでも会えるからと病気を歓迎していたが……。
洒落た画面構成だし、話の組み立ても手慣れたものだ。4組の話が交錯して進むものの、混乱することはまったくない。が、4組の別れを用意した意図が見えることはなく、かえってひとつひとつの「別れ」を散漫にしてしまっている。
4つの話に関連性がないわけではない。姉妹つながりの他に、フィチャンがママの癌を知って、ハソクの別れの代行業に別れたくないという依頼をするというつながりもあるが(小学生だからちょっと無理はあるけどね)、全体をまとめるものが何か欲しい。
でもそんなことより、ジヌの残したビデオテープが、映画全体を台無しにしてしまっているのだ。ジヌは、結局火災に巻き込まれて死んでしまうのだが、現場にスジョン宛の遺書を入れたビデオテープを残していた。これは内容もだが、それ以前に、こんなことをしている時間があるなら逃げる手段を考えろと言いたくなる。脱出不可能で火災は免れても有毒ガスで死ぬしかないというのなら、その説明を入れるくらいわけないと思うのだが。火災がひどけりゃビデオだって焼けちゃうでしょう。わかってたから撮影したって。あ、そう。でもわざわざマスクを外すことはないよね。それにカメラが途中で引いていたような(ありえねー)。
泣き狙いのこの場面で一気に駄作の仲間入り。せっかく洒落た感じでまとめていたのにねー。もちろん他にも気になることがないわけではなく、例えば、フィチャンの描いたママの絵はいかにもというもので、ここはセリフまでがつまらない(「今までママの顔をうまく描けなかったのはママが綺麗すぎたから」)。別れの代行の依頼がスッキョンからきてしまうというのも読めてしまっていたが、でもビデオ場面ほどの失点ではない。
それに、スウンの恋物語は、唯一出会いからはじまるせいもあってとっても可愛らしいものだ。「お姉さんは愛してるって言えるじゃないの」と声を絞り出して泣いたこともあった彼女だが、ついに着ぐるみを脱ぐ時がやってくる。はじめこそメイクと照明でごまかしていた彼女だが、素顔でもう1度描いてとサンギュに言う場面には、結構グッときてしまった。でもこの恋は、サンギュの留学でおしまいらしい。
ジュヨンとフィチャンの話だけは恋物語ではないし、病死という安直な設定なのだが、フィチャンがママの日記を見つけて、その内容に喜んだりがっかりしたりする場面は楽しめる。望まない子というパパが悪者になるのは当然(この前にも「押し倒した」「悪い人」という記述がある)で、「私より賢い子に」と願うママの株は上がるが、すぐあとに「女の子でありますように」と書いてあるのでガックシとなる。
ママに「僕が代わりに病気になってあげたい」と言って叱られてしまうフィチャンだが、「赤ちゃんに同じことを言っていたのに」と不服そうになるのが(なにしろ日記を読んじゃってるからね)、可愛くて悲しい。
こんな感じの挿話をもっと用意できれば、印象もずいぶん変わったはずだ。別れや悲しさにこだわってそればかり強調したら、かえってダメになってしまうことくらいわかりそうなものだが。
原題:Sad Movie
2005年 109分 シネマスコープ 韓国 日本語字幕:根本理恵
監督:クォン・ジョングァン 原案:オム・ジュヨン 脚本:ファン・ソング 製作:パク・ソンフン 編集:キム・サンボム 音楽:ジョ・ドンイク
出演:チョン・ウソン(ジヌ)、イム・スジョン(スジョン)、シン・ミナ(スウン)、チャ・テヒョン(ハソク)、ヨム・ジョンア(ジュヨン)、ソン・テヨン(スッキョン)、イ・ギウ(サンギュ)、ヨ・ジング(フィチャン)
出口のない海
2006年10月21日 土曜日
楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★☆
■不完全兵器「回天」のもたらした悲劇
4隻の人間魚雷回天と搭乗員の並木(市川海老蔵)たちを積んだ伊号潜水艦は敵駆逐艦に見つかり猛烈な爆雷攻撃を受けるが、潜水艦乗りの神様と呼ばれる艦長の鹿島(香川照之)によって窮地を脱する。
いきなりのこの場面は単調さを排除した演出で、それはわかるのだが、しかしここからはじめるのなら、後半の唐突な伊藤整備士(塩谷瞬)のモノローグは最初からでもよかったのではないか。伊藤整備士と会うのは山口の光基地だから、並木の明治大学時代の話や志願の経緯などはそのままでは語れないが、それは並木から聞いたことにすれば何とかなりそうだからだ。ラストでは現在の年老いた伊藤を登場させているのだが、これはさらに意味がないように思われる。ただただ無駄死にという最後の印象を散漫にしてしまっただけではないか。
最初にラストシーンに触れてしまったが、映画は回天の出撃場面の合間に何度か回想の入る構成になっている。甲子園の優勝投手ながら大学では肩を痛め、それでも野球への情熱は失わずに魔球の完成を目指していた並木。長距離の選手だった同級の北(伊勢谷友介)。北の志願に続くように自分も戦争に行くことを決意する並木。秘密兵器の搭乗者になるかどうかの選択。訓練の模様。家族や恋人・美奈子(上野樹里)との最後の別れ。
美奈子の扱いが平凡なのは不満だが、他の挿話がつまらないというのではない。ただ、何となくこれが戦時中の日本なんだろうか、という雰囲気が全体を支配しているのだ。出だしの爆雷攻撃を受ける場面では、上官が「大丈夫か」などと声をかけるところがある。軍神になるかもしれない人間を粗末にはできなかったのか。そういえば並木の海軍志願の理由は「何となく海軍の方が人間扱いしてくれそう」というものだったが、当時の学生に、海軍>陸軍というイメージはあったのか。それはともかく、いい人ばかりというのがねー。
他にも描かれる場面が、並木たちの行きつけの喫茶店の「ボレロ」であったり、野球の試合だったりで、戦争とはほど遠い感じのものが多いことがある。戦況も含めて何もかも理解しているような父(三浦友和)も、楽天的な母(古手川祐子)も、兄の恋の行方に心を痛める妹(尾高杏奈)も、そして当の並木まで栄養状態は良好のようだし、なにより海老蔵の明るいキャラクターがそういう印象を持たせてしまったかも(もっと若い人でなくては)。戦時イコールすべてが暗いというわけではないだろうが、空襲シーンも1度だけだし、何事もいたってのんびりしているようしか見えないのだ。
「敵を見たことがあるか」という父親との問答は、戦争や国家の捉え方として映画が言いたかったことかもしれないが、これまた少しカッコよすぎないだろうか。これはあとで出てくる並木の「俺は回天を伝えるために死のうと思う」というセリフにも繋がると思うのだが、これがどうしても今(現代)という視点からの後解釈のように聞こえてしまうのだ。こんなことを語らせなくても、回天の悲劇性はいくらでも伝えられるのと思うのだが。
回天が不完全兵器だったことは歴史的事実だから、この映画でもそれは避けていない。1度ならず2度までも故障で出撃できなかった北の苦しみは、死ねなかったというまったく馬鹿げたものなのだが、彼の家が小作であることや当時の状況を提示されて、特攻という異常な心境に軍神という付属物が乗るのに何の不思議もないと知るに至る。
そして、並木も何のことはない、敵艦を前に「ここまで無事に連れてきてくださってありがとう。皆さんの無事を祈ります」という別れの挨拶まですませながら回天の故障で発進できずに、基地へと戻ることになる。伊藤整備士は「私の整備不良のせい」と言っていたが、事実は、そもそも部品の精度すらまともでなかったらしい。並木も、死を決意しながらの帰還という北の気持ちを味わうことになるわけだ。このあと戦艦大和の出撃(特攻)に遭遇し艦内が湧く場面があるのだが、並木は何を考えていたのだろうか。
並木は8月15日の訓練中に、回天が海底に突き刺さり、脱出不可能な構造のためあえなく死亡。9月の枕崎台風は、その回天を浮かび上がらせる。進駐軍のもとでハッチが開けられ、並木の死体と死ぬまでに書きつづった手帳が見つかる。
最初に書いた最後の場面へ行く前に、この家族や恋人に宛てた手帳が読み上げられていくのだが、そんな情緒的なことをするのなら(しかも長い)、回天の実際の戦果がいかに低くかったことを知らしむべきではなかったか。
そういう意味では回天の訓練場面を丁寧に描いていたのは評価できる。模型を使って操縦方法を叩き込まれるところや、海に出ての実地訓練の困難さをみていると、これで本当に戦えるのだろうかという疑問がわくのだが、そのことをもっと追求しなかったのは何故なのだろう。
また回天への乗り込みは、資料を読むと一旦浮上しなければならないなど、機動性に富んだものではなかったようだ。映画はこのことにも触れていない(伊藤が野球のボールを並木に渡す時は下からだったが、ということは潜水艦から直接乗り込んだとか?)。こんな中途半端なドラマにしてしまうくらいなら、こぼれ落ちた多くの事実を付け加えることを最優先してほしかった。
なお、敵輸送船を撃沈する場面で、いくら制空権と制海権を握っていたとはいえ、アメリカ軍が1隻だけで行動するようなことがあったのだろうか。次の発見では敵船団は5隻で、これならわかるのだが。
【メモ】
人間魚雷「回天」とは、重量 8.3 t、全長 14.75 m、直径 1 m、推進器は 93式魚雷を援用。航続距離 78 マイル/12ノット、乗員1名、弾頭 1500 kg。約400基生産された。連合国の対潜水艦技術は優れており、騒音を発し、操縦性も悪い日本の大型潜水艦が、米軍艦船を襲撃するのは、自殺行為だった。「回天」の技術的故障、三次元操縦の困難さも相まって、戦果は艦船2隻撃沈と少ない。(http://www.geocities.jp/torikai007/1945/kaiten.html)
「BOLEROボレロ」のマスターは、名前のことで文句を付けられたらラヴェルはドイツ人と答えればいいと言っていたが?
北「俺が走るのをやめたのは走る道がないからだ」
上野樹里は出番も少ないが、まあまあといったところ。並木の母のワンピースを着る場面はサービスでも、これまた戦時という雰囲気を遠ざける。
美奈子「日本は負けているの」 並木「決して勝利に次ぐ勝利ではないってことさ」
明大の仲間だった小畑は特攻作戦には不参加の道を選ぶが、輸送船が沈没し形見のグローブが並木の家に届けられていた。
手帳には、回天を発進できず、伊藤を殴ったことを「気持ちを見透かされたようだった」と謝っている。
他には、父さんの髭は痛かったとか、美奈子にぼくの見なかった夕日の美しさなどを見てくれというようなもの。
2006年 121分 サイズ■
監督:佐々部清 原作:横山秀夫『出口のない海』 脚本:山田洋次、冨川元文 撮影: 柳島克己 美術:福澤勝広 編集:川瀬功 音楽:加羽沢美濃 主題歌:竹内まりや『返信』
出演:市川海老蔵(並木浩二)、伊勢谷友介(北勝也)、上野樹里(鳴海美奈子)、塩谷瞬(伊藤伸夫)、柏原収史(佐久間安吉)、伊崎充則(沖田寛之)、黒田勇樹(小畑聡)、香川照之(イ号潜水艦艦長・鹿島)、三浦友和(父・並木俊信)、古手川祐子(母・並木光江)、尾高杏奈(妹・並木幸代)、平山広行(剛原力)、永島敏行(馬場大尉)、田中実(戸田航海長)、高橋和也(剣崎大尉)、平泉成(佐藤校長)、嶋尾康史(「ボレロ」のマスター柴田)
地下鉄(メトロ)に乗って
2006年10月21日 土曜日
楽天地シネマズ錦糸町-3 ★★☆
■和解話は甘いし、不倫の決着は相手任せ!? で、それ以前に話がいい加減
小さな下着会社で営業の仕事をしている長谷部真次(堤真一)は、実は財界の大物小沼佐吉(大沢たかお)の次男だ。強欲で家族を顧みない父とは長い間縁切り状態でいたが、父の会社を次いでいる弟(三男)から、父が倒れたという知らせがケータイの留守電に入っていた。
無視するように長谷部は帰路につくが、地下鉄のホームで恩師の野平先生(田中泯)に会う。先生は老いていたが、長谷部のことはよく覚えてくれていて、今日が若くして死んだ兄(長男)の命日という話にもなる。
いつの間にかホームには人影がなくなっていて、先生は地下鉄なら当分来ないので私はここで待つと怪しげなことを言う。急ぐのでと先生と別れる長谷部だが、今度はその死んだはずの兄を見かける。思わずあとを追い地上へ出てみると、そこは実家のそばの新中野で、東京オリンピックの開催に湧く昭和39年10月5日だった。
だけどさー、永田町(赤坂見附)だったのに新中野って? エスカレーターが止まっているところがあるかと思うと動いているところもあって、それに長谷部は改札をすり抜けて行ってしまうのだが、こういう細かな部分も含めて、この流れは掴みづらい。
とにかく長谷部は過去に戻り、まず兄の事故死を止めようとするがそれは叶わず、しかしそのあとは若き日の父親と何度が接触し、思ってもいなかった父の知られざる面を知ることになる。闇市で体を張って生き、夢を追いかけていた父。戦渦のただ中の満州で、最後まで民間人を見捨てず守ろうとした父。更に遡って、銀座線車内での初々しい出征姿の父。
父との精神的な和解の物語なのはわかるが、似たような状況にある私には納得できない話だ。人間いいところを見つけようとすれば、誰にも少しくらいはあるからだ。愛情を持って育てられても、ある部分でどうしても許せないことをされたら……という場合だってあるだろう。
そしてここで見る限り、小沼佐吉はせっかく持っていた資質をどんどんねじ曲げていった男にしか見えないのだ。現に最初の昭和39年の長男の通夜ではもう妻を殴っているではないか。闇市時代から愛人のお時(常盤貴子)はかかせない存在だったし、裏社会に足を踏み入れてもいたようだ。現代でも贈収賄事件の尋問の最中だというし、都合が悪いとすぐ入院してしまうようなヤツなのだ。そういう見方だってできるのだから「あなたの子供で幸せでした」という結論にはそう簡単には結びつけられないのである。
結局、これは父に似ていると言われてきた主人公の見たかった夢、と考えれば話は簡単になる。そう思えばタイムスリップが、最初こそ地下鉄が出入り口になっていたものの、途中からは自由自在のようだったことにも納得がいく(いかないか)。ただ、となると、今度は地下鉄が轟音と共に爆走するイメージをタイムスリップに結びつけられなくなってしまうから、少なくともこのイメージの挿入は最初の時だけにしておくべきだった(地下鉄の移動がタイムスリップなら、着いた先のホームからもう時代が変わっている必要がある。そうか、だから兄を見つけたのだろう。でもだったら他の描写も統一しなくては)。
もっともこの主人公の夢説は、不倫相手の軽部みち子(岡本綾)が、闇市にやはりタイムスリップしていたという仰天事実によって説得力を失ってしまう。つまりこのタイムスリップは主人公の心象風景では決してなく、本当のタイムスリップだと? いや、だからそれだとあまりにも都合がよすぎるというかさ。まあ、これは原作者浅田次郎の罪のような気がするが。彼の小説の設定の安易さには辟易してしまうことがあるからねー。
みち子が過去に出現したことで、物語は父との和解とは別の側面を持つに至る。彼女のタイムスリップは仰天事実への扉にすぎず、彼女が長谷部の異母妹だったことに運命の真意はあったようだ。みち子はこのことを知って驚き、禁断の愛に苦悩するが、長谷部には事情を明かさずに去る決意をする(指輪をはずし長谷部の服にもどす)。彼女は生い立ちからして薄幸で、不倫という辛い立場にいたのだが、過去にタイムスリップしたことで、自分も父母に望まれて生まれてきたのだと知る。しかしせっかくその大切な事実を得ながら彼女はそれで十分満足し、親殺しのパラドックスならぬ胎児殺しでもって自分を抹殺する道を選んでしまうのだ。
なんともすごい結末だ。みち子はお時に好きな人の幸せと、子供の幸せのどっちが幸せかとちゃんと問うてはいたが、でもだからといって、とても納得できるものではない。ある意味ではすべて長谷部に都合のいい(もちろんみち子は失うが)ように話が進んだだけではないか。こうなっては1度引っ込めた主人公の夢説をまたぞろ持ち出したくなるではないか。
意識してはいなくてもやはり長谷部には父親に似たどこか薄情なところがあるということだろうか。子供とキャッチボールをし、服に指輪を見つける場面が最後にあるが、ただそれだけなのか。
終盤間際に野平先生がまた現れて「また会えたね。ここにおれば君に会えそうな気がしておったが。この年になればあせる必要はない。思った場所に自在に連れてってくれる」と長谷部に言う。うーむ、やはり野平先生は、水先案内人だったか。彼がまた出現したことで、長谷部の時間旅行は終わったのだ。もっともこの演出はあまり効果的なものではなかったが。
なお、これは映画の中身には関係ないことだが、少なくとも物語の設定は小説の発表時期にまで戻すべきだった。長谷部やみち子の年齢が10歳ほどだが若いことで、気になって仕方のないところが沢山あった。たった10年ではあるが、営団地下鉄から東京メトロになってしまった今となっては、いくら東京メトロ全面協力のもとであっても、ロケには相当手を加える必要があったのだろうけどね。
【メモ】
3人でキャッチボール マーブルチョコの広告看板 新中野 鍋屋横町
オデヲン座の看板は、左から『肉体の門』『キューポラのある街』『上を向いて歩こう』。この3本立ては実際のもの? 新中野のオデヲン座を知らないので何とも言えないが、3番館にしてもこの組み合わせはひどくないか。
20歳の小沼佐吉「本当に帰ってこれたら、この千人針を作ってくれた人と結婚して……」。
当時の銀座線の車内はこんなに静かとは思えないが?
BAR AMOUR オムライス 小沼家の墓 会社を作ったきっかけ(スーツケースを持った男、絹の下着)
長谷部の上司はいわくありげに『罪と罰』(それもかなり古い本)を読んでいたが?
2006年 121分 サイズ■
監督:篠原哲雄 原作:浅田次郎『地下鉄に乗って』 脚本:石黒尚美 脚本協力:長谷川康夫 撮影:上野彰吾 視覚効果:松本肇 美術:金田克美 編集:キム・サンミン 音楽:小林武史 主題歌:Salyu
出演:堤真一(長谷部真次)、岡本綾(軽部みち子)、大沢たかお(小沼佐吉)、常盤貴子(お時)、田中泯(野平啓吾)、笹野高史(岡村)、北条隆博(小沼昭一)、吉行和子(長谷部民枝)
アタゴオルは猫の森
2006年10月22日 日曜日
新宿武蔵野館3 ★★
■「秩序」対「紅鮪」?
ますむらひろしの原作を知らない者にはタイトルからしてよくわからない。猫の森といいながら人間もいて、でも猫だって擬人化されたもので、その関係や違いがわからないのだ。まあ単純に、アタゴオルという所は動物も人間も対等でいられる楽園とでも解釈しておけばいいのだろうか。
で、そこの年に1度の祭りの日に、ヒデヨシというおさがわせデブ猫が、好き勝手に暴れ回る幕開きとなる。ここはそれなりのインパクトがある。がヒデヨシが、欲望(食欲)に忠実であるという部分を強調するあまり、自分だけ楽しければいいただのわがまま猫にしか見えず、次第に乗れなくなってくる(少し長いこともある)。
祭りを荒らし回ったヒデヨシは棺桶のようなものを見つけ、開けるなと言われるのもかまわずその蓋を開けてしまう(なにしろ言うことを聞かないヤツなのだ)。封印を解かれて現れた植物の女王というピレアが言うには、何でもかつては知性ある植物が世界を支配していたのだと。そして、やおら「あなたがたへ贈り物があります」と言うのだが……。
ピレアは、アタゴオルを秩序ある安らぎの世界に変えるのだと説く。ピレアのもとにいると、世界は歌に満ちて、気持ちよくなって、歌わずにはいられなくなる。生き物たちは片っ端から花(植物)に変えられていくのだが、抗う理由が見つからない。ふうむ、アタゴオルは楽園ではなかったか(人間+猫は欲が深いからねー。それともヒデヨシのような迷惑なヤツがいるからとか)。
しかし、これには当然裏があって、植物に変えることでピレアは自分の言いなりにしたいわけだ。つまりは自分のすることを邪魔されたくないらしい(あれ、ヒデヨシじゃん)。若さを得るために生き玉?を食べる目的もあるらしいのだ。そして、「この星が私そのものになって、私の種子がこの星を被い、無数の私が芽吹く」ようにするというのだ。ただ描写としては手抜きで「根っこがからみついてジャングルが息苦しそう」と言われるくらいでは、何が悪いのかが判然としない。蝉男やギルバルス(何なんだ、こいつらは)がテキトーに解釈してるだけで。
とにかくピレアは悪いヤツなのだ。そして彼女を封印できるのは、植物の王であるヒデコだけなのだと。そのヒデコだが、ピレアが封印を解かれたとき同時に現れていて、何故かヒデコは父親にヒデヨシを選んでいたのだった。しかしこの説明はくだならい。植物女王ピレアは最初から魔力を使い放題なのに、植物王ヒデコは力強く成長するためには父親が必要って、もっとうまいでっち上げを考えてくれないと。紅鮪一筋で好き勝手し放題のヒデヨシだが、何故かヒデコには愛を感じて、ちゃーんと父親たらんとする。これも何だかなー。
ということで対決です(ムリヤリだ)。
「父親ってうまいのか」と馬鹿なことを言っていたヒデヨシなのに、急に人格が変わったように「俺たちはとことん生きるために生まれてきたのよ」とか「この父上にまかせなさい」と、ピレアに立ち向かっていく。大地と直結したヒデヨシの途方もない生命力は、負けはしないがやっつけることもかなわず、ピレアを封印すると自身も消えてしまうヒデコに頼るしかなかった(つまりどこまでもピレアとヒデコは一体なわけだ)。
最後はまた蝉男の解説があるし、「完全じゃないから面白い。完全じゃないから素敵」とかやたら説教じみているのが気になる。完全……の部分は、秩序ある安らぎの世界への当てつけなんだろうけど、でもだったら最後のダンスは全員同じではなく、バラバラにしないとまずいんじゃ。はずしてる爺さん猫はいたけどね。って、そうか、ちゃんと異質な(完全でない)部分にも焦点を当てているってか。
構図や色使いは素晴らしいのだが表情はいまひとつ。これは全員に言えることだが、ヒデヨシに至っては最初から最後まで細目で通してしまっている。猫の擬人化は、マンガならごまかせることがアニメだとむずかしいわけで(バイオリンの弦に指がかかっていなかったりする)、しかもこれは3DCG。ま、これについては何も知らないに等しいからうかつには語れないのだが、でもとにかく猫である必然性はないよね。
筋もひどいが、やっぱり基本からきちんと考えるべきだろう。キャラクターだけの魅力で作っちゃいかんのだな。
【メモ】
びしょびしょ君(ヒデヨシはピレアをこう呼ぶ)
音楽で最高の幸せ。満腹の幸せ。みんなの幸せを壊すヒデヨシ
「オッサン、あんたが父上か」「その父親ってのはうまいのか」
すべての生命力はこの星と繋がっている
カガヤキヒコノミヤ(ヒデコ)
「こんなに心がやすらぐのなら花になるのも」「花になったら腹一杯食べられない」
2006年 81分 スコープサイズ アニメ
監督:西久保瑞穂 原作:ますむらひろし『アタゴオル外伝 ギルドマ』 脚本:小林弘利 音楽:高橋哲也 音楽プロデューサー:安井輝 音楽監督:石井竜也 CGディレクター:毛利陽一 CGプロデューサー:豊嶋勇作 キャラクターデザイン原案:福島敦子 音響監督:鶴岡陽太 色彩設計:遊佐久美子 制作:デジタル・フロンティア 美術デザイン:黒田聡
声の出演:山寺宏一(ヒデヨシ)、夏木マリ(ピレア)、小桜エツ子(ヒデコ/輝彦宮)、平山あや(ツミキ姫)、内田朝陽(テンプラ)、田辺誠一(ギルバルス)、谷啓(蝉男)、石井竜也(MCタツヤ)、谷山浩子(テマリ)、佐野史郎(竜駒)、牟田悌三
トリスタンとイゾルデ
2006年10月22日 日曜日
新宿武蔵野館1 ★★★★☆
■丁寧なつくりの重厚なドラマが楽しめる(苦しめられる)
(↓ほとんど粗筋ばかりなので読まない方がいいかも)
ローマ軍が撤退したあと、強大なアイルランド王に対抗する連合を打ち立てられないイギリスは、暗黒時代が続いていた。トリスタン(ジェームズ・フランコ)は幼い時に両親をアイルランド軍に殺され、命の恩人であるコーンウォールの領主マーク(ルーファス・シーウェル)のもとで成長する。トリスタンは自分の立てた作戦で、アイルランド王の片腕であるモーホルトを仕留めるが、自身も傷つき、毒薬のため死んだと思われて船葬で海に流される。
アイルランドに流れ着いたトリスタンを見つけたのはアイルランド王の娘イゾルデ(ソフィア・マイルズ)で、解毒の方法に詳しい彼女によって彼は一命を救われる。彼女の献身的な看病のうち、ふたりは恋に落ち海岸の小屋で結ばれる。
トリスタンを最初に発見したのがイゾルデというあたりに多少無理はあるものの(イギリスと敵対しているのに海岸線の防備はどうなっているのだ)、よく練られた脚本で、導入部から無理なく物語に入っていくことができる。歴史的な背景もわかりやすく説明してある。
船葬が発見されてしまったため、イゾルデの正体を知ることもなく、一旦はイギリスに戻るトリスタン。死んだと思っていたマーク王は、我がことのように喜ぶ。一方アイルランド王はモーホルトを失った(実は王との間で、イゾルデを妻にする約束が出来ていたのだが)ことから体勢を立て直す意味もあって、イゾルデと領地を餌にイギリスの領主たちに最強戦士を決める試合を開催するという知らせを出す。
褒美に釣られて半数の領主が参加するなか、自分の愛した女性がイゾルデであることを知らないトリスタンは、マーク王に「自分が名代になって出場して勝ち、イギリスの盟主と目されているあなたがアイルランド王女を妻に迎えることになれば、血を流さずに平和がもたらされる」と説く。
筋ばかり追ってしまっているが、これが巧妙なのだ。イゾルデをモーホルトから守ったのがトリスタンならば、そのイゾルデを親代わりであるマーク王に嫁がせたのもトリスタンということになるからだ。
王女争奪戦でのトリスタンの活躍はなかなかだ。仕組まれたインチキ試合に勝ち上がっていくトリスタンをカメラは魅力的に追う。恋愛劇の側面が強調されているが、この試合だけでなく、森での戦いや、城攻めの場面などどれも正攻法ながら迫力がある。また、俯瞰で捉えた城の内部や夜の挙式など、静の部分の美しさにも魅せられる。
「ここが忠義のない世界だったら私と結婚してくれた?」「そんな世界などない」「初夜がつらいわ」人目を忍んで交わされるトリスタンとイゾルデの会話が切ない。というか、
マーク王と睦まじくしているイゾルデを、地獄にいるトリスタンは「妻を演じるのに少しは苦労するかと」となじってしまう。
そしてマーク王の立派さが、さらに悲劇を際だたせる。トリスタンにとってマーク王は忠義以上に尊敬の対象(王としての資質のみならず、トリスタンを救う時に右手まで失っている)だし、イゾルデもトリスタンと知り合っていなければマーク王の愛を受け入れていたはず(優しくて憎めない人)なのだ。なのに、初恋の情熱故か、イゾルデはトリスタンに「愛に生きる」ことを宣言させてしまう。
密会を重ねる当のトリスタンに、マーク王はイゾルデの素行調査を依頼する。いや、詳しく書くのはもうやめるが(書くだけでもつらい話だ)、とにかく、この隙をつくようにアイルランド王と裏切り者が動きだし、マーク王は事実に直面する。が、イゾルデからトリスタンが瀕死の時に知り合ったことを訊いて、何も言わずふたりを解放しようとする。
しかし、トリスタンは「愛が国を滅ぼしたと伝えられる」と言ってマーク王のために戦うことを選ぶ。マーク王の寛容さに応えずにはいられなかったのだろうが、結局は彼には死が待っていた。「生は死より尊い。だが愛はもっと尊い」「ふたりの愛は国を滅ぼさなかった」という、ここだけ聞いたらおちゃらかしたくなるような結末なのだが、素直にしんみりできる。
アイルランド王の、娘を将棋の駒の1つとしか考えていない酷薄さや、トリスタンと同い年で、彼の存在故に常に2番手に甘んずるしかなかったマーク王の甥の悲しさなども、きちんと描かれていた。これでイギリスの部族間の抗争がもう少し深く捉えられていたら言うことがないのだが。
私の書いた文章からだと重たくるしい映画というイメージしか残りそうもないが、例えばトリスタンを人肌で温めようとするイゾルデが乳母にも裸になるように言うと、乳母は嬉々として「男と抱き合うのは15年ぶりよ」と言う。このあとトリスタンの正体を知って乳母が「イギリス人ですよ」と窘めると、イゾルデは「捕虜にしたの」と答えるのだ。まだ恋のはじめのはじめ、楽しい予感に満ちたひととき……。
原題:Tristan + Isolde
2006年 125分 サイズ■ アメリカ 日本語字幕:古田由紀子
監督:ケヴィン・レイノルズ 脚本:ディーン・ジョーガリス 撮影:アルトゥール・ラインハルト 編集:ピーター・ボイル 音楽:アン・ダッドリー
出演:ジェームズ・フランコ(トリスタン)、ソフィア・マイルズ(イゾルデ)、ルーファス・シーウェル(マーク)、 デヴィッド・パトリック・オハラ、マーク・ストロング、ヘンリー・カヴィル、ブロナー・ギャラガー、ロナン・ヴィバート、ルーシー・ラッセル
サンキュー・スモーキング
2006年10月28日 土曜日
シャンテシネ1 ★★★☆
■洒落た映画だが、映画自体が詭弁じみている
ニック・ネイラー(アーロン・エッカート)は、タバコ研究所の広報マン。すでに悪役の座が決定的なタバコを擁護する立場にあるから、嫌われ者を自覚している。TVの討論会では、15歳の癌患者を悲劇の主人公にしようとする論者を敵(味方などいるはずもない)に回して、タバコ業界は彼が少しでも長生きして喫煙してくれることを願っているが、保健厚生省は医療費が少なくてすむよう彼の死を願っているなどと言って論敵や視聴者を煙に巻く。
映画は、最後まですべてこんな調子。それを面白がれれば退屈することはない。といって喋りだけの平坦さとは無縁。テンポよく次々とメリハリのある場面が飛び出してくる。
ニックはタバコのイメージアップに、映画の中で大物スターにタバコを吸わせることを考えつく。上司のBR (J・K・シモンズ)はニックの案を自分の発案にしてしまうようなふざけた野郎だが、フィルター発案者でタバコ業界の最後の大物と言われるキャプテン(ロバート・デュヴァル)はちゃんとニックのことを買っていて、ロスに行って日本かぶれのスーパー・エージェントであるジェフ・マゴール(ロブ・ロウ)と交渉するように命じる。
キャプテンについての紹介は「1952年、朝鮮で中国人を撃っていた」というものだし、マゴールの仕事のめり込みぶりは度外れていて、ニックがいつ眠るのかと問うと日曜と答える。現代物は無理だがSF映画で吸わせるのならなんとかなると仕事の話も速い。
とにかく、登場人物は癖のあるヤツらばかりだし、それでいてほとんど実在の人物なのかと思わせる(だからこそ心配にもなってくる)あたり、大したデキという他ない。ニックが賄賂を持って出かけた初代マルボロマンだというローン・ラッチ(サム・エリオット)には「ベトコンを撃つのが好きだったが、職業にはしなかった」と言わせてしまうのだから。
ラッチとの駆け引きは見ものだ。相手はなにしろ銃を片時も手放さないし、クールが好きでマルボロは吸わなかったとぬけぬけと言うようなヤツ。癌と知って株主総会に出たという彼に、ニックはバッグ一杯の金を見せながら、告訴となければこの金は受け取れなくなり、寄付するしかなくなるとおどす。
タバコ悪者論者の急進派の一味に襲われ、ニコチンパッチを体中に貼られて解放される事件が起きて入院すれば、すかさず「ニコチンパッチは人を殺します。タバコが命を救ってくれた」(よくわからんが、タバコが免疫を作ってくれていたということなのか?)と切り返していたニックだが、親しくなっていた女性新聞記者のヘザー・ホロウェイ(ケイト・ホームズ)に仲間のことから映画界への働きかけから、口封じ、子供のことまですべてを記事で暴露され、会社をクビになる。誘拐で彼への同情はチャラになり、頼みのキャプテンは「今朝」死んだときかされる。
落ち込むニックを救ったのは息子ジョーイ(キャメロン・ブライト)の「パパは情報操作の王」という言葉。でもこれはどうなんだろ。ジョーイは父親を尊敬しているという設定にはなっているが、とはいえ、子供に屁理屈王と言われてしまったのではねー。
ニックは離婚していて、ジョーイには週末にしか会えないのだが、でもまあ子供思いで、学校にも行って仕事の話をするし、仕事先にもジョーイを連れ回す(マルボロマンとの交渉ではジョーイが役に立つ)。詭弁家ではあるが、子供にはきちんと向き合おうとしている。題材と切り口は奇抜ながら、実は父子の信頼関係の物語なのである。
立ち直りの速さはさすが情報操作王で、暴露記事には反省の姿勢を見せつつ、記者と性交渉を持つと最悪だが、紳士として相手の名前は伏せると反撃も忘れない。その勢いでタバコ小委員会に出席し、タバコに髑髏マークを付けようとしている宿敵のフィニスター上院議員(ウィリアム・H・メイシー)を徹底的にやりこめる。
無職なのだからもはや「ローンの返済のため」というのではないわけで、これは情報操作王としての意地なのだろうか。タバコはパーキンソン病の発症を遅らせると軽くパンチを出し、タバコが無害だと思う人なんていないのに何故今さら髑髏マークなのかと言い放つ。死因の1位はコレステロールなんだから髑髏マークはチーズにだって必要だし、飛行機や自動車にも付いてないじゃないかと。
ただ、この屁理屈と論旨のすり替えはいただけないし、またかという気持ちにもなる。というわけで、このあとの子供にもタバコを吸わせるのかという質問には、18歳になって彼が吸いたければ買って吸わせると、子供の自主性を強調していた。最初の方でもニックはジョーイの宿題に、自分で考えろと言っていたし、これについては異論はないのだけどね。
この活躍でニックは復職を要請される。が、それは断わって、自分でネイラー戦略研究所を立ち上げる。父親の血を引いたジョーイはディペードチャンピオンになって目出度し目出度し、ってそうなのか。言い負かしさえすればいいってものでははずだし、そんなことは製作者もわかっているみたいなのだが、だからってディベート社会そのものまでは否定していないようだ。
この映画を製作するとなると、どうしてもタバコ擁護派のポーズを取らざるを得ないわけで、だからこそそのために周到に映画の中ではタバコを吸う場面を1度も登場させていない(劇中のフィルムにはあるが)のだろう。そうはいってもこの終わり方ではやきもきせざるを得ない。ニックは最後に、誰にでも才能があるのだからそれを活かせばいいのだとも言う。それはそうなんだが、この割り切りも私には疑問に思える。
書きそびれたが、ニックの広報マン仲間で、アルコール業界のポリー(マリア・ベロ)と銃業界のボビー(デヴィッド・コークナー)の3人が飲んでいる場面がちょくちょくと入る。これがまたいいアクセント代わりになっている。3人は「Marchant of Death(死の商人)」の頭文字をとって「モッズ(MOD)特捜隊」(昔のテレビ番組)と名乗り、日頃のうっぷん晴らしや互いを挑発し合ったりしているのだが、これがちょっとうらやましくなる関係なのだ。
【メモ】
タイトルはタバコのパッケージを模したもの。
「専門家みたいに言うヤツがいたら、誰が言ったのかと訊け」「自分で考えろ」
「君は息子の母親とやっている男だ」
ジョーイもかなり口が達者で、父親についてカリフォルニアに行くことを母親に反対されると「破れた結婚の不満を僕にぶつけるの?」と言い返していた。
「あの子はあなたを神と思っているの」
「何故秘密を話したの? ママは、パパは女に弱いからって」
原題:Thank You for Smoking
2006年 93分 サイズ■ アメリカ 日本語字幕:松浦美奈
監督・脚本:ジェイソン・ライトマン 原作:クリストファー・バックリー『ニコチン・ウォーズ』 撮影:ジェームズ・ウィテカー 美術:スティーヴ・サクラド 衣装:ダニー・グリッカー 編集:デーナ・E・グローバーマン 音楽:ロルフ・ケント
出演:アーロン・エッカート(ニック・ネイラー)、マリア・ベロ(ポリー・ベイリー)、デヴィッド・コークナー(ボビー・ジェイ・ブリス)、キャメロン・ブライト(ジョーイ・ネイラー)、ロブ・ロウ(ジェフ・マゴール)、アダム・ブロディ(ジャック・バイン)、サム・エリオット(ローン・ラッチ)、ケイト・ホームズ(ヘザー・ホロウェイ)、ウィリアム・H・メイシー(フィニスター上院議員)、J・K・シモンズ(BR)、ロバート・デュヴァル(ザ・キャプテン)、キム・ディケンズ、コニー・レイ、トッド・ルイーソ
幸福(しあわせ)のスイッチ
2006年11月03日 金曜日
テアトル新宿 ★★★
■過剰なふてくされと怒鳴りがそれほど気にならなくなって……
東京に出て新米イラストレーターとして働きだした怜(上野樹里)だが、思い通りの仕事をやらせてもらえず、勢いで辞めてしまう。「やっちゃったと思いながらも振り向けない」性格なのだ。そこへ故郷から、姉の瞳(本上まなみ)が倒れたという切符入りの速達が届く。
田辺(和歌山県)の田舎に戻るとそれは、怜とソリの合わない頑固親父(沢田研二)の骨折では帰らないだろうしパンチが弱いとふんだ妹の香(中村静香)の嘘で、でもまあ身重の瞳とまだ学生の香では実際家業の電器屋「イナデン」の切り盛りは難しく、とりあえず失業中の怜が手伝うということになってしまう。
このあとはたいした事件が起きるわけでもなく、もうすべてが予告篇どおりの展開といっていい。雷で修理の依頼が多くなると病院を抜け出してきた父と夜仕事に出かけても、それ以上の問題になることはない。あの予告篇では観るのをためらっても仕方ないと思うが、といってどうすりゃいいんだというくらいの内容。平凡な材料ほど料理するのは大変なはずだが、それは端的な説明と間の取り方の確かさで、あっさりクリアしてのける。
巻頭の職場でのトラブルで、怜は同僚で彼氏の耕太(笠原秀幸)ともギクシャクしてしまうのだが、ここでは「彼氏には頼りたくない、ってか元カレ?」というセリフがあって耕太との距離感がすとんとわかる。助っ人として現れた裕也(林剛史)には、中学時代の文化祭キス事件という、これまたわかりやすい説明が用意されている。
大っ嫌いな家業(でもイナデンマークを考えたのは怜なのだ)をいやいや手伝ううちに、修理マニアで外面の天才(怜評)の父親の、家族思いの面にも気付かされていくという寸法なのだが、うわーっ、予告篇もだけど、こうやって書いていても私にはちょっと勘弁という気分になる。怜ならずともこれではふてくされたくもなるというものだ。って怜のふてくされとは意味が違うか。
怜が父親に反発するのは、仕事優先で母の病気の発見が遅れて死んでしまったことと浮気疑惑による。画面に母が登場することはないが、多分怜は母親を慕っていたのだろう。病気発見の遅れについては、洗脳されている瞳と香(母もと言っていた)は思いすごしというが、浮気疑惑はふたりにも予想外で、酒場のママ(深浦加奈子)のところへ怜と香とで押しかけることになる。
が、店を始めた頃に母親とお客さんを回ったのが一番楽しくてしんどかったと父が話していた、とママにははぐらかされてしまう。香の結論は「あの人お父さんのこと好きやな、それにきっとお父さんも」だ。報告を受けた瞳は「だから浮気しても、もうええってこと」で、香は「もてん父親よりは」だが、怜は「ええのー、それで」と外面の天才に丸め込まれたとまだふてくされている。
この意地っ張りな性格は、実は父親譲りらしく、父親のお客様第一主義は、怜のイラストへのこだわりにも通じるところがありそうだ。再就職もままならず、売り物のビデオカメラを壊したことで怒鳴られるとすねて1日さぼり、父にそれは「わいの血か」と見透かされてしまう。
冷静にみても怜は可愛くないし、子供っぽすぎるのだが、いやまー、こういう気持ちはわからなくもない。瞳が大人なのはともかく、香にまで明るくふるまわれてはねー。そう思うと、やはり怒鳴り散らしてばかりの父親に近いのかも。ふてくされと怒鳴りがこんなに過剰なのに、意外に画面に溶け込んでいては、やられましたと言うしかない。
ああそうだ。怜は東京に戻り、彼氏の取りなしもあってか、ちゃんと頭を下げて復職させてもらったのでした。
ついでながら、野村のおばあちゃん(怜が最初に受けた依頼は修理ではなく、家具の移動だった)が嫁と折り合いが悪かったのは、耳が遠くて、とくに嫁の声が聞き取りにくかったらしい。これに気付いた怜は補聴器の販売に成功。あとで父からもいい仕事をしたな、と褒められる。
補聴器をはじめて付けた時の描写もなかなか。鳥の囀りを10年ぶりで聞いたというおばあちゃん。猫の鳴き声、農作業中にくしゃみする人がぽんぽんと挿入される。
2006年 105分 ビスタサイズ
監督・原案・脚本:安田真奈 撮影:中村夏葉 美術:古谷美樹 編集:藤沢和貴 音楽:原夕輝 主題歌:ベベチオ『幸福のスイッチ』 照明:平良昌才 録音:甲斐匡
出演:上野樹里(次女・稲田怜)、沢田研二(父・稲田誠一郎)、本上まなみ(長女・稲田瞳)、中村静香(三女・稲田香)、林剛史(怜の中学時代の同級生・鈴木裕也)、笠原秀幸(怜の彼氏・牧村耕太)、石坂ちなみ(涼子)、新屋英子(野村おばあちゃん)、深浦加奈子(橘優子)、田中要次(澄川)、芦屋小雁(木山)
上海の伯爵夫人
2006年11月03日 金曜日
新宿武蔵野館2 ★★☆
■夢のバーが絵に描いた餅ではね
1936年の上海。アメリカ人のトッド・ジャクソン(レイフ・ファインズ)は元外交官。かつてヴェルサイユ条約で中国の危機を救った英雄と賞賛を受け、国際連盟最後の希望などともてはやされた過去を持つが、テロ爆破事件で愛する家族と視力を奪われ、今は商社で顧問のようなことをしている。人生に見切りを付けたかのような彼の楽しみは上海のバー巡りで、自分で店を持つのが夢となっていた。
ソフィア・ベリンスカヤ(ナターシャ・リチャードソン)は、ロシアから亡命してきた元伯爵夫人。娘のカーチャ(マデリーン・ダリー)だけでなく一族4人を養うため夜クラブで働いている。同じ服を着て店に出るなと注意されるような貧乏生活ぶりで、時には娼婦であることを要求されるのだろう。それ故彼女への視線は冷たいもので、義姉グルーシェンカに至っては、ソフィアが娘のカーチャに近づくことさえ好ましく思わないでいる。仕事を終えて家に帰ってきても寝る場所すらなく、みんなが起き出してやっと空いたベッドでゆっくり眠ることができるという毎日を生きている。
ソフィアはある日、初顔のジャクソンが店で危うく身ぐるみ剥がれそうになることを察すると、自分の客に見せかけて彼を救う。
競馬で思わぬ大金を手にしたジャクソンは、念願のバーをオープンするのだが、そこの顔にと知り合ったソフィアを迎え入れる。バーの名前は「白い伯爵夫人」、ジャクソンはソフィアに理想の女性像を見いだしたらしい。
雇用関係が結ばれたもの、プライベートなことにまでは踏み込むことなく、たまたまカーチャを連れたソフィアとジャクソンが出会ってと、ラブロマンスにしてはもどかしい展開。ふたりのこれまでの背景を考えればこれが自然とは思うが、といって背景がそう語られるわけではない。ジャクソンと死んでしまった娘との「結婚して子供が産まれてもずっと一緒」という約束は出てくるが、これがあまりうまい挿話になっていないし、ソフィアも生活の悲惨さは描かれていたが(むろんジャクソンの所で働きだしたことで少しは改善されるのだが)、ロシアのことはすでに過去でしかないということなのだろう。
もっともサラとピョートルなどはまだ昔のことが忘れられなくて、フランス大使館へ着飾って出かけるのであるが(悲しくも滑稽な場面だ)、これが思わぬ人との再開となり、香港へ抜け出す手がかりを掴んで帰ってくる。香港行きには大金が必要で、それを工面出来そうなのはソフィアしかいないのだが、脱出計画にはソフィアは含まれておらず、彼女もそれが娘のためと納得せざるをえない。
そしてこれがラストの日本軍の上海侵攻(第二次上海事変)の中での、ジャクソンとソフィアによる娘奪還場面という見せ場になるのだが、これがどうにも盛り上がらない。結局カーチャはソフィアと行動を共にすることになって、グルーシェンカが悲嘆にくれることになるのだが、ああグルーシェンカは本当にカーチャのことを彼女なりに愛していたのだとわかって、なぜかほっとしたことが収穫といえば収穫だったか。
せっかくの時代背景が添え物にすぎなくなってしまっていることもあるが、なによりジャクソンの作った夢のバーのイメージがしっかり伝わってこないのが残念だ。「世界を遮断しているような」重い扉の中に、彼は何を求めたのだろう。質のいい用心棒をやとい、緊張感のある世界を作りあげて、どうしたかったのか。日本人マツダ(真田広之)とはそのことで意気投合したようだが、結局は立場の違う人間でしかなく、最低限の儀礼を示すだけの間柄で終わってしまう。
視力を失うように活躍の場を失った(娘のことで気力がなくなったのだろうが)元外交官が、競馬で儲けてミニチュアの外交の場を得ようとしたのだとしたら、お粗末というしかないではないか。
原題:The White Countess
2005年 136分 ヴィスタサイズ イギリス/アメリカ/ドイツ/中国 日本語字幕:松浦奈美
監督:ジェームズ・アイヴォリー 脚本:カズオ・イシグロ 撮影:クリストファー・ドイル 衣装デザイン:ジョン・ブライト 編集:ジョン・デヴィッド・アレン 音楽:リチャード・ロビンズ
出演:レイフ・ファインズ(トッド・ジャクソン)、 ナターシャ・リチャードソン(ソフィア・ベリンスカヤ)、 ヴァネッサ・レッドグレーヴ(ソフィアの叔母サラ)、 真田広之(マツダ)、リン・レッドグレーヴ(義母オルガ)、アラン・コーデュナー(サミュエル)、マデリーン・ダリー(娘カーチャ)、マデリーン・ポッター(義姉グルーシェンカ)、ジョン・ウッド(叔父ピョートル・ベリンスカヤ公爵)、イン・ダ、リー・ペイス、リョン・ワン
浮世絵残酷物語
2006年11月04日 土曜日
イメージフォーラムシアター2 ★☆
■『黒い雪』にはあった映画的センスがすっかり消えている
浮世絵師の宮川長春(小山源吉)は、幕府お抱え絵師である狩野春賀(小林重四郎)の使いである賀慶(茂山千之丞)から、日光東照宮の絵の補修作業の依頼を受ける。卑しい町絵師と長春を見下す狩野春賀だが、技倆では到底かなわず、長春にたのむほかなかったのだ。長春は「狩野様のお言いつけとあれば」と、狩野を立て仕事を引き受ける。
一門で日光に出向いての1年にもわたる大仕事の上、極彩色の牡丹が完成する。堀田相模守の検分の席で恥をかいた狩野春賀は、腹いせからか堀田から預かっている賃金を払おうとしない。長春が高価な絵の具代だけでもなんとかしてほしいとやってくると、狩野の門弟たちは彼をいたぶり、絵師の命である指を折っただけでなく瀕死の状態のままごみために放置する。
帰らない父を見つけ事の次第を知った娘のお京(刈名珠理)は長吉に兄に知らせるように言うと、自分は勝重と春賀たちのいる宿に掛けあいにいくが、門弟たちになぶりものにされ、殺されてしまう。兄たちがやってきて、結局殴り込みのようなことになる。多くの血が流れ、兄は「俺ひとりの仕業だぞ」と言って切腹するが、門弟の一笑(稲妻竜二)は三宅島へ流されることになる。
この狩野と宮川の争いで漁夫の利を得たのは佐倉藩の老中の堀田相模守で、一笑を島流しにしたのは、生き証人を残しておく訳にはいかないと言っていたから、最初から堀田の計りごとだったのかもしれない。
最後はまるでやくざ映画の殴り込みだが、武智鉄二にしては、筋はまあまだろうか。ただ彼には映画的センスはないし、単純な話の流れすらきちんと語れない人のようだ(3作品を観ただけの暴論)。
例えば、春賀は長春に絵の補修を依頼しておきながら、完成した作品を堀田相模守の前でミミズのような筆さばきとけなすのだが、これがどうにもわからない。依頼したのは自分たちには無理だったからで、長春をおとしめることではなかったはずだ。それにこれは堀田が絵を見事だと褒めたあとのことなのだ。これがさらにねじれて狩野一門の長春殺害(この時点では死んではいなかったが)へと進むのだが、この過程がいかにも安直だから春賀はただの馬鹿としか思えない。
どうも武智鉄二という人は、自分の言いたいことが言えれば、筋も演技もおかまいなしで、あとは映画会社の要望でエロを適当にまぶして(こっちの方が大切とか)映画を作っていたような感じがする(全12作品と作品数こそ多くないが、それなりにヒットさせ話題も提供したらしいが)。
もっともこの作品では、狩野の絵が唐の真似事だということにかこつけて、民族主義的主張をしているくらいだから、さしたる迫力もないのだが。日本で生まれ育ったものこそ大切と、自説を通して滅んでいく宮川長春に武智鉄二が自分を投影しているのだとしたら、本質を見ているようで見ていないのも長春であるから、面白いことになる。
長春は日光の仕事の前に、堀田から枕絵の依頼を受けていて、これは輿入れをいやがっている娘の香織に美しい枕絵を見せて考えを変えさせようということらしい(はぁ)のだが、長春はなかなか思い通りのイメージが描けず悩んでいた。絵のために息子夫婦の行為を盗み見るのだが「まことがない」って、どういう意味なんだ。
そのうち長春は、娘のお京に自分が求めていた品格を見いだすのだが、モデルのお京が偽物の演技しか出来ないことがわかると、たまたま居合わせた弟子の勝重にお京を抱けと命じる。一笑に想いを寄せていたお京だが、「臆したのか。芸道の心に背くのか」と長春に言われた勝重に、力で組み敷かれてしまう。
「真こそが人の心を打つのだ」はごもっともだが、「お京のおかげで会心の作が」と喜んでいる長春は異常だろう。そして完成した枕絵を見た香織に「男女の交わりがこのように尊いものだとは思ってもいませんでした。私は恐れず、恥じらわず縁づくことが出来るようになりました」と言わせてしまうのはギャグだろう。無理矢理が尊いんだから。
肝腎の一笑がそこにいないのは、彼は吉原の紫山と恋仲で、実は若師匠(兄)の計らいで日光に行く用意で忙しいというのに、しばしの別れに出向いていたのだ。この紫山が今市まで一笑を追ってきて、という話もあったのだけど、書いているうちにもうどうでもよくなってきた。
【メモ】
兄は絵師としての才能はないらしいが、一笑が花魁の紫山に会いたがって気もそぞろでいると、便宜をはからってやる。それを知ったお京には叱られてしまうのだが。
お京が勝重に抱かれたあとにイメージ画像が挿入されるが、これがどうってことのないもの。
一笑はお京のことなどおかまいもなく(当然だが)、紫山と「俺も帰りたくないが、師匠のある身だ。一生の別れでもあるまいに」などと睦言を交わす。
賀慶が郭で「廊下鳶は御法度ですよ」と言われる場面がある。
最後は島流しの風景で、一笑の「俺はこれからの長い生涯を三宅島で絵筆も持たず、再び恋することもなく……」というようなセリフが入あり、舟が出ていって終わりとなる。
1968年 84分 シネスコサイズ
監督・脚本:武智鉄二 製作:沖山貞雄、長島豊次郎 原案:羽黒童介 撮影:深見征四郎 美術:長倉しげる 音楽:芝祐久
出演:刈名珠理(お京)、辰己典子(紫山=しざん/お玉)、小山源吉(宮川長春)、宇佐見淳也(堀田相模守正亮)、小林重四郎(狩野春賀)、稲妻竜二(一笑=いっしょう)、茂山千之丞(賀慶)、矢田部賢(長助)、直木いさ(お栄)、河出瑠璃子(お喜多)、大月清子(香織)、紅千登世(お藤の方)
華魁
2006年11月04日 土曜日
イメージフォーラムシアター2 ★☆
■思いつくままといった筋。喜劇として観るにも無理がある
明治中期の長崎の遊廓が舞台だからか、客には外人の顔も見える。華魁の揚羽太夫(親王塚貴子)は、絵草紙売りの喜助(真柴さとし)といい仲で、八兵衛(殿山泰司)のような客にはつれない。まー殿山泰司だからねー、って失礼だ。でも久しぶりに観たけれど、この人は何をやっても三文役者。芝居しているように見えないのだな。他の出演者も揃ってひどいんだけどねー。
この遊郭に彫物師の清吉(伊藤高)という男が、究極の肌を求めて流れて来る。美代野(夕崎碧)の背中に惚れ込んだ清吉は、美代野にクロロホルムをかがせると店には居続けだと言って3日間も籠もりっきりになり、全身に蜘蛛の刺青をしてしまう。
知らぬ間に刺青を彫られた美代野だが「これがあたしの背中かい、なんて綺麗な」と、怒るでもない。「色あげ」と称して湯殿に連れて行かれ湯をかけられ、痛みにのたうちまわるが、苦しみを忘れたいから抱いてくれなどと言う。
一方の清吉は、湯殿で菖蒲太夫の肌を見るや、俺がほんとに求めていたのはこの肌なんだと、もう心変わり。理想の肌が見つからなくて長崎まで来たはずなのに、これでは手当たり次第ではないか。もちろん脚本がいい加減なのだが、思いつきで話をつくっていったとしか思えない展開なのだ。
美代野は刺青が評判となり地獄太夫として売り出すが、北斎の絵草紙で捕まりそうになった喜助は、菖蒲太夫とアメリカに逃亡する計画を立てる。が、密航の段階で現れた清吉に喜助は殺され、菖蒲太夫も膝に怪我をする。そのまま貨物船に乗せられる菖蒲太夫だが、行き先はアメリカではなく横浜で、アメリカ人の船員にチャブ屋に売り飛ばされそうになる。が、膝の傷に喜助の顔が現れると、船員は悪魔だと叫んで逃げ出してしまう。
どこに行っても体を売るしかないと最初からあきらめているのか、膝の喜助に「いつもお前と一緒だとみんな逃げてしまうだろ。どうやって生きていけるだろ。姿を消して」「私の体は切り売りしても人の女房にはなりません」とたのんで消えてもらう。
客のひとり、ニューヨークの富豪の息子ジョージ・モーガン(アレン・ケラー)は菖蒲太夫に一目惚れし、結婚を迫る。逡巡していた菖蒲太夫だが、結局は結婚を承諾する。が、「この瞬間から私はあなたの妻」と菖蒲太夫が言った(誓いを破った)ことで、今度は彼女のカントに喜助が現れる。それがジョージのペニスに噛みついたことから、神父を呼んでの悪魔払いの儀式となる。
役に立たないと神父には、呼んでおきながら異教徒だからダメと言い、喜助には「私はあなたを愛しています。あなたが魔性になって、私が死んでそっちへ行くまであの世で待っていてください」と言いきかせる菖蒲太夫。
これで、また消えてしまう喜助もどうかと思うのだが、とにかく筋はあってなきがごとし。性描写が適当に散りばめられれば、何でもよかったとしか思えない。その性描写もハードコア大作とはいうものの、えらく退屈だ。郭の場面で5組の部屋を順番に覗いてみせたり、巻末にも浮世絵にそった場面を用意したりしているが、なにしろ主演の親王塚貴子の大根ぶりが度を超していて、よくこれで商売になったものだと呆れるばかりだから、とてもそんな気分になれない。
武智鉄二は武智歌舞伎(知らん)でも名を売っていたから、背景としてはぴったりだったのだろうが、だからといってそれが活かされていたとは到底思えない。武智らしさがあったとすれば、ジョージをはじめて遊郭に連れてきた友人のエドに「心配するな、治外法権だから何をしても罪にならない」というセリフを言わせていることくらいだろうか。
公開20年後だから笑っていられるが、新作でこれを観せられたら腹が立ったと思う。
【メモ】
彫物師の清吉役の伊藤高は伊藤雄之助の息子とか。しかし彼もヘタだ。
揚羽太夫に「客は傷ついた心の傷を菩薩の私に求めてくる」と言い聞かせられて、「今から菖蒲は生まれ変わります。増長していました」と反省する場面がある。
遺手のお辰(桜むつ子)が「えーお披露目でござい。あんたーじごくだえはー。えーお披露目でござい」と口上?を述べながら先導していく。「じごくだえはー」と聞こえるが地獄太夫と言っているのだろう。
密航場面では荷物の中での放尿シーン(これは観客サービスのつもり?)があり、またそれをあたまからかぶってしまうところも。
このあと喜助の人面疽が現れる。この合成画像も20年前とはいえ、えらく雑なもので、喜助は額を真っ二つに割られた顔になっている。この時は菖蒲太夫も「あたしを見捨てないでアメリカまでついてきてくれたのかい。もうずーっと一緒だものね」と喜んでいたのだが。
1983年 103分 シネスコサイズ
監督・脚本:武智鉄二 原作:谷崎潤一郎 撮影:高田昭 美術:長倉稠 編集:内田純子 音楽:宮下伸 助監督:荒井俊昭 主題歌:徳原みつる
出演:親王塚貴子(菖蒲太夫)、夕崎碧(美代野/地獄太夫)、明日香浄子(山吹)、宮原昭子(千代春)、真柴さとし(喜助)、川口小枝(揚羽太夫)、伊藤高(清吉)、梓こずえ(鳴門)、アレン・ケラー(ジョージ)、桜むつ子(お辰)、殿山泰司(八兵衛)
DEATH NOTE デスノート the Last name
2006年11月05日 日曜日
上野東急 ★★★☆
■せっかくのデスノートのアイデアが……
前作の面白さそのままに、今回も突っ走ってくれた。ごまかされているところがありそうな気もするが、1度くらい観ただけではそれはわからない。が、何度も観たくなること自体、十分評価に値する。
と、褒めておいて文句を書く……。
前作で予告のように登場していたアイドルの弥海砂(戸田恵梨香)にデスノートが降ってくる。彼女はキラ信者で(この説明はちゃんとしている)、夜神月との連係プレーが始まる。さすがにこれにはLも苦戦、という新展開になるのだが、このデスノートはリュークではなく、レムという別の死神によって海砂にもたらされる。
デスノートが2冊になったことで、ゲームとしての面白さは格段にあがったものの(月がこの2冊を使いこなすのが見物)、ということは世界には他にもデスノートが存在し、それがいつ何かの拍子に出てくるのではないかという危惧が、どこまでもついてまわることになった。このことで、せっかくのデスノートのアイディアが半減してしまったのは残念だ。
リュークを黒い死神、レムを白い死神(レムの方は感心できない造型だ)という対称的なイメージで作りあげたのだから、少なくとも死神は2人のみで、レムもリュークが月というあまりに面白いデスノート使いを見つけたことで、海砂(を月につながる存在として考えるならば)のところにやって来たことにでもしておけば、まだどうにかなったのではないか。前編を観た時に私は世界が狭くなってしまったことを惜しんだが、夜神月が死神にとっても得難い存在なのだということが印象付けられれば、これはこれでアリだと思えるからだ。
しかもこの白い死神のレムは、海砂に取り憑いたのも情ならば、自分の命を縮めてしまうのも情からと、まったく死神らしくないときてる。それに、レムはLとワタリの名前をデスノートに書いた、ってことは、死神はデスノートを使えるのね。うーむ。これも困ったよね。デスノートの存在自体を希薄にしてしまうもの。
あとこれはもうどうでもいいことだが、海砂の監禁に続いて月もLの監視下に置かれることになるのだが、2人の扱いに差があるのは何故か。海砂の方は身動き出来ないように縛り付けられているのに月は自由に動ける。これって逆では。単なる観客サービスにしてもおかしくないだろうか。
最後の、死をもって相手を制するというやり方は、そこだけを取り出してみると少しカッコよすぎるが、今までのやり取りを通して、Lにとっては月に勝つことが目的となっていても驚くにはあたらないと考えることにした。月や海砂にも目は行き届いているが、強いて言えば後編はLと夜神総一郎の映画だったかも。
とにかく面白い映画だった。原作もぜひ読んでみたいものである。
2006年 140分 ビスタサイズ
監督:金子修介 脚本:大石哲也 原作:大場つぐみ『DEATH NOTE』小畑健(作画) 撮影:高瀬比呂志、及川一 編集:矢船陽介 音楽:川井憲次
出演:藤原竜也(夜神月)、松山ケンイチ(L/竜崎)、鹿賀丈史(夜神総一郎)、戸田恵梨香(弥海砂)、片瀬那奈(高田清美)、マギー(出目川裕志)、上原さくら(西山冴子)、青山草太(松田刑事)、中村育二(宇生田刑事)、奥田達士(相沢啓二)、清水伸(模木刑事)、小松みゆき(佐波刑事)、前田愛(吉野綾子)、板尾創路(日々間数彦)、満島ひかり(夜神粧裕)、五大路子(夜神幸子)、津川雅彦(佐伯警察庁長官)、藤村俊二(ワタリ)、中村獅童(リューク:声のみ)、池畑慎之介(レム:声のみ)
ナチョ・リブレ 覆面の神様
2006年11月11日 土曜日
銀座テアトルシネマ ★
■脚本がダメ。コメディにもなってない
修道院で孤児として育てられたデブダメ男のナチョ(ジャック・ブラック)は、今は料理番になっている。お金のない修道院では子供たちに満足なものが食べさせられない。ま、それはそうなんだが、ナチョには料理の才覚はなさそうだし、しかも配膳からしてだらしなくて、とても食料を大切にしているようには見えない。食べ物を粗末にする笑いは嫌いなのだが、このナチョは他の点でも愛すべきダメ男などではなく、ただのいい加減な迷惑男にしかみえないのである。
いや、もちろんそんなふうには作ってはいないのだけどね。でもまあ生きている人を死人に見立ててしまうし、教会のチップスは奪われてしまうしで、まともにできることが何もないときてる。コメディに目くじらたてるなと言われそうだが、それ以前の問題ではないか。ナチョもさすがにそれは自覚(!?)して、運命は自分で切り開くと言って修道院をあとにする。
ナチョはまずチップスを撒き餌にして、チップス泥棒のヤセ(エクトル・ヒメネス)を捕まえる。すばしっこい彼を相棒にして、あこがれのメキシカンプロレス(ルチャ・リブレ。メキシコではプロレスが盛んらしい)の選手になろうというのだ。町でルチャドール(レスラー)募集の張り紙を見ていたナチョには、賞金200ペソという目算があったのだ。で、特訓がはじまるのだが、これが蜂の巣を投げたり牛を相手にしたりの、しかも予告篇で全部公開済みのくだらないもの。もう他に見せるべきものがないというのがねー。
プロレスラーになったとはいえ、即席の2人組が通用するはずもなく、でも負けたのにギャラだけはもらえて大満足。で、なんでかわからないのだが、ナチョは修道院に戻っていてサラダを出したりしているのだ。子供思いというのを強調したのだろうが、出て行った意味がないではないか。プロレスは修道院からは目の敵にされているので、こんな2重生活は許されっこないというのに。3人がかりの脚本で、このユルさはなんなのだ。
新任のシスター・エンカルナシオン(アナ・デ・ラ・レゲラ)との恋物語をはさむ必要があったのだろうけどね。ナチョの最初のシスターの口説き文句は「今夜一緒にトーストをかじりませんか」というもので、この少し後にふたりがそうしてる場面があって、ま、この映画ではこれが1番笑える場面だった。
人気はでるが負けているばかりでは仕方がないと、ナチョとヤセはそれなりにいろいろ考える。ヤセの紹介でナチョはヘンな男の言うままに、崖の上にある鷲の卵を飲むのだが、しかしヤセは科学しか信じない男のはずだったのに。この脚本のいい加減さにはあきれるばかりで、もうこうなると、これはからかわれているとしか思えない。
勝つにはプロに学ぶしかないと、人気レスラーのラムセスのいるパーティ開場へもぐりこむ。ところが憧れていたラムセスは、子供たちのためのサインすらしないようなひどいヤツで、このことでナチョは、勝者がラムセスと対戦できるバトルロイヤルに挑戦することを決意する。
バトルロイヤルだから運もあるのだが、ナチョは所詮2位どまり。が、これも2位のミレンシオの悪さにヤセが車で彼の足を轢いて出場できなくさせてしまうという幸運?があって、ついにラムセスとの対戦することになる。
筋肉もりもりのラムセスに、ぶよぶよのナチョだから、勝ち目はないのだが、感動?のプランチャ(ロープから場外の相手に向かって体を預けていく飛び技)まで飛び出して何故か勝利。賞金の1万ペソを手にしたナチョはその金でバスを買い、子供たちを遠足に連れていく。シスターともいい感じで、はいおしまい。
実話をヒントにしたというのは、それはおそらく暴風神父と呼ばれたフライ・トルメンタのことのようで、彼の話はそのまま映画にした方がずっと面白そうだが、しかしそれはすでに映画になっているらしいのだ。だからこれはコメディなのか。それにしてもなー。
ジャック・ブラックは『スクール・オブ・ロック』と『キング・コング』で感心していたから、余計がっかりだった。歌の場面では彼らしさが出ていたし、プロレス場面でも最後までぶよぶよではあったが、体当たりの演技を見せてくれたんだけどさ。
【メモ】
ヤセは科学だけを信じていて、洗礼も受けていない。これはナチョが洗面器に水を入れて洗礼?させてしまうのだが。
「ぜひ彼女にこの逞しい体を見せたい」「これが俺の勝負服」
シスターも、虚栄心のための戦いだからプロレスはいけないと言っていたのに、いつ「俺たちが独身主義でないなら結婚しよう」というナチョの手紙をそっと枕の下に置くような心境になったのだ。荒野の修行?で?
シスターもサンチョと一緒に、ラムセス戦を観に来る。
原題:Nacho Libre
2006年 92分 アメリカ 日本語字幕:■
監督:ジャレッド・ヘス 製作:ジャック・ブラック、デヴィッド・クローワンズ、ジュリア・ピスター、マイク・ホワイト 脚本:ジャレッド・ヘス、ジェルーシャ・ヘス、マイク・ホワイト 撮影:ハビエル・ペレス・グロベット 衣装デザイン:グラシエラ・マゾン 編集:ビリー・ウェバー
出演:ジャック・ブラック(イグナシオ/ナチョ)、エクトル・ヒメネス(スティーブン/ヤセ)、アナ・デ・ラ・レゲラ(シスター・エンカルナシオン)、リチャード・モントーヤ(ギレルモ)、ピーター・ストーメア(ジプシー・エンペラー)、セサール・ゴンサレス(ラムセス)、ダリウス・ロセ(チャンチョ)、モイセス・アリアス(フラン・パブロ)
マッチポイント
2006年11月11日 土曜日
銀座テアトルシネマ ★★★☆
■面白くなるのはマッチポイントになってから
プロテニスプレイヤーとして限界を感じていたクリス・ウィルトン(ジョナサン・リス・マイヤーズ)は会員制のテニスクラブのコーチとして働きだす。そこでトム・ヒューイットという英国の上流階級の若者と親しくなる。オペラファンということを知られてボックス席に誘われたことから、今度はトムの妹クロエ(エミリー・モーティマー)に好かれるという幸運を得る。
上流社会には縁のなかったアイルランド青年のクリスだが、クロエが積極的なことから結婚だけでなく、彼女の父親アレックス(ブライアン・コックス)の会社で働くことにもなってと、話はトントン拍子に進んでいく。が、クリスが本当に惹かれたのは、トムの婚約者であるアメリカ人のノラにだった。
この映画、見所は最後の方に集中している。退屈こそしないが、終盤まではごくありきたりの展開で、アレンらしくないのだ。物語が『罪と罰』にかぶることと、ノラの名前がイプセンの『人形の家』の主人公を連想させるから、そこらあたりに仕掛けがあるのかもしれないが、詳しいことは私にはわからない(あとはオペラだが、こちらの知識はさらにないので)。
『罪と罰』と並んでクリスは『ケンブリッジ版ドストエフスキー入門』も読んでいて、これがさっそくアレックスとの会話に役に立つことになる。クリスの付け焼き刃を解説本で揶揄しているのだから、オペラ好きまでが彼の演出の一部と言いたげだ。テニスをあきらめたのは「勝負の執念がない」はずだったのに、しかしノラとの最初の出会いとなった卓球では「僕は競争心が強い」と、違うことを言っているのだ。アレックスが勧める新部門の役員ポストをまずは断るあたり、すべてに周到な計算が働いていたともとれる。無理して家賃の高いアパートにしたのもそのためだったか。
ノラに対する情熱はクリスに思わぬチャンスをもたらす。ノラは女優志望なのだがなかなか芽が出ず、彼女がバツイチなこともあってトムの母親エレノア(ペネロープ・ウィルトン)からそのことを攻撃される。雨の中を泣きながら歩いているノラをクリスが目にとめ、ふたりは激情の赴くまま関係を持つ。この時点ではノラにはまだトムという存在が確固としてあったため、これだけで終わってしまうのだが……。
この場面の前にも実はノラがオーディションに行くのにクリスが付き合う場面があって、唐突さは避けている。手抜きのない描写は、感情の流れをそこなわず自然なのだが、いささか冗長だ。
冗長と感じるのは、最初に書いたように、浮気の最初の情熱がこじれていくのも、どうしようもなくなって殺害に至るのもありきたりだからだ。この冗長さは、クリスが感じるイライラさに被せているからで、ってそれはどうだろ。クリスの周到さは、ノラという魅力的な女性の前ではもろくも崩れてしまうわけだが、これもいまさらという感じである。
もっともさすがにこのままでは観客を納得させられないと心得ていて、ちょっとしたひねりが用意されている。
ヤク中の突発的犯行と見せかけるべく、クリスはノラのアパートの老女に続いて、指定時間に帰らせたノラを猟銃で殺害する。老女宅には押し入り、ノラは偶然エレベーターを降りたところを見つかって、という筋書きだ。クリスそのままクロエの待つ劇場にタクシーで駆けつけ、苦しいながらもアリバイを確保する。あとで老女宅から奪った薬の瓶やネックレスなどの証拠品は川に投げ捨てる。ここで最後に投げた指輪が、川岸の欄干に当たりこちら側に落ちるのだが、クリスは気付かずに去る。
このスローモーションは冒頭のテニス場面に重なるので、観客はこれが主人公の犯行の動かぬ証拠になるという予測をどうしても立ててしまう。ノラの日記からクリスを追求する刑事も、夢の中にまで事件を見、その筋書きを得意がって説明する。が同僚からは、昨日ヤク中が殺されそいつが老女の指輪を持っていたと告げられ、自説を撤回せざるをえなくなる(これはやられました)。
クリスも夢の中でノラと老女と対峙する。しかし、戦争の巻き添え死を引き合いに出しての弁明はどうか。逮捕されても罪をつぐなえるかどうかはわからないという言い逃れは、クリスの罪を認めないわけではなく、皮肉を言いたいだけなのだろうが、まったくの蛇足だ。運のいいクリスに、最後まで運の悪いノラ(老女についてまでは言及できないが)という簡単な対比ではないのだよ、ということだろうか。
そうか。ということは、刑事が日記を読んでいながらノラの妊娠に触れてこなかったのは、妊娠がノラのでっち上げだった可能性もある。となるとノラもただの悲劇のヒロインではなく、したたかに生きた上での運命のいたずら、といいたいのか。「私は特別な女なの。絶対後悔させない」って言ってたものなー。
【メモ】
クロエは美術に関心があり、クリスとの初デートはサーチ・ギャラリーだった。
エレノアはノラだけでなく、はじめのうちはクリスにも懐疑的。
ノラに会いたくて、乗り気でないクロエを説得して無理矢理映画になだれ込むクリス。映画の題名を訊きだして、それなら観たいと言っていた。映画は『モーター・サイクル・ダイアリーズ』。ノラは頭痛で来なかった。
トムはノラとの婚約を解消する。母に屈したし、出会い(ヴィクトリア)もあったからと。
ヴィクトリアはすぐ妊娠し、トムとの結婚式となる。一方クロエはなかなか妊娠しない。
仕事漬けだからか、クリスは秘書に自分が高所恐怖症のようなことを匂わす(アスピリンを2錠くれ)。職場も家(でもここは迷路になりそうだと、絶賛していたのにね)もでは、慣れない上流社会同様、足が地に着かない気分なのかも。
クロエと待ち合わせた美術館でノラを見つけ、強引に電話番号を訊き出すクリス。
株で損をしたクリスに、アレックスは娘にも君にも苦労させたくないので援助すると言う。
クリスはノラから妊娠したと伝えられる。今度(若い時とトムとの間にも。つまり3度目)は産むと言う。
猟銃はアレックスのもの。テニスラケットのケースに隠して持ち出す。
クロエと観る約束をしたミュージカルの舞台は『白衣の女』。
原題:Match point
2005年 124分 ビスタサイズ イギリス、アメリカ、ルクセンブルグ PG-12 日本語字幕:古田由紀子
監督・脚本:ウディ・アレン 撮影:レミ・アデファラシン 衣装デザイン:ジル・テイラー 編集:アリサ・レプセルター
出演:ジョナサン・リス・マイヤーズ(クリス・ウィルトン)、スカーレット・ヨハンソン (ノラ・ライス)、エミリー・モーティマー(クロエ・ヒューイット)、マシュー・グード(トム・ヒューイット)、ブライアン・コックス(アレックス・ヒューイット)、ペネロープ・ウィルトン(エレノア・ヒューイット)、ユエン・ブレムナー、ジェームズ・ネスビット、マーガレット・タイザック
手紙
2006年11月18日 土曜日
新宿ミラノ1 ★★★★
■傾聴に値する
弟(武島直貴=山田孝之)の学費のために強盗殺人事件を犯してしまう兄(剛志=玉山鉄二)。刑務所の中の兄とは手紙のやり取りが続くが、加害者の家族というレッテルを貼られた直貴には、次第に剛志の寄こす(待っている)手紙がうっとおしいものになってくる。
映画(原作)は、殺人犯の弟という立場を、これでもかといわんばかりに追求する。親代わりの兄がいなくなり、大学進学をあきらめたのは当然としても、仕事場も住んでいる所も転々としなければならない生活を描いていく。
直貴は中学の同級生の祐輔(尾上寛之)とお笑いの世界を目指しているのだが、これがやっと注目され出すと、どこで嗅ぎつけたのか2チャンネルで恰好の餌食になってしまう。朝美(吹石一恵)という恋人が出来れば、彼女がお嬢様ということもあって、父親の中条(風間杜夫)にも許嫁らしきヘンな男からも、嫌味なセリフをたっぷり聞かされることになる。このやりすぎの場面には笑ってしまったが、わかりやすい。祐輔のためにコンビを解消した直貴は、家電量販店で働き出す。販売員として実績を上げたつもりでいると、倉庫への異動がまっていた。
これでは前向きな考えなど出来なくなるはずだ。「兄貴がいる限り俺の人生はハズレ」で「差別のない国へ行きたい」と、誰しも考えるだろう。
しかし映画は、家電量販店の会長の平野(杉浦直樹)に、その差別を当然と語らせる。犯罪と無縁で暮らしたいと思うのは誰もが思うことで、犯罪者の家族という犯罪に近い立場の人間を避けようとするのは自己防衛本能のようなものだ、と。兄さんはそこまで考えなくてはならず、君の苦しみもひっくるめて君の兄さんの罪だと言うのだ。
そして直貴には、差別がない場所を探すのではなくここで生きていくのだ、とこんこんと説く。自分はある人からの手紙で君のことを見に来たのだが、君はもうはじめているではないか。心の繋がった人がいるのだから……と。
このメッセージは傾聴に値する。不思議なことに、中条が彼のやり方で朝美を守ろうとした時のセリフも、いやらしさに満ちていながら、それはそれで納得させるもがあった。この映画に説得力があるのは、こうしたセリフが浮いていないからだろう。
見知らぬ女性からの手紙で、みかんをぶらさげて倉庫にふらりとあらわれた平野もそれらしく見える。そして加害者の家族が受ける不当な差別を、声高に騒ぐことなく当然としたことで、本当にそのことを考える契機にさせるのだ。
由美子(沢尻エリカ)がその見知らぬ女性で、直貴がリサイクル工場で働いていた時以来の知り合いだ。映画だからどうしても可愛い人を配役に当ててしまうので、しっかり者で気持ちの優しい彼女が直貴に一目惚れで、でも直貴の方は何故か彼女に冷たいというのが解せない。朝美とはすぐ意気投合したのに。って、こういうことはよくあるにしてもさ。
はじめの方で直貴の心境を擁護したが、第三者的立場からだと甘く見える。由美子という理解者だけでなく、朝美も最後までいい加減な気持ちで直貴と接していたのではなかったのだから。そう思うと、直貴の本心を確かめたくて(嘘をつかれていたのは確かなのに)ひったくりに会い転倒し、生涯消えぬ傷を残して別れざるをえなくなった朝美という存在も気の毒というほかない。とにかく直貴は、少なくともそういう意味では恵まれているのだ。祐輔という友達だっているし(むろん、これは直貴の魅力によるのだろうが)。
そうして、直貴は由美子が自分に代わって剛志に手紙を出していたことを知り、「これからは、俺がお前を守る」と由美子に言う。単純な私は、なーるほど、これでハッピーエンドになるのね、と思ってしまったが、まだ先があった。
直貴と由美子は結婚しふたりには3歳くらいの子供がいる。社宅に噂が広がり、今度は子供が無視の対象になってしまう。由美子は頑張れると言うが、直貴はこのことで剛志に「兄貴を捨てる」という内容の手紙を4年ぶりで出す。
このあと、被害者の家族を直貴が訪ねる場面もある。いくら謝られても無念さが消えないと言う緒方(吹越満)だが、直貴に剛志からの「私がいるだけで緒方さんや弟に罪を犯し続けている」ことがわかったという手紙を見せ、もうこれで終わりにしようと言う。
こうしてやっと、直貴は祐輔と一緒に刑務所で慰問公演をするエンドシーンになるというわけだ。もっともこのシーンは、私にとってもうそれほどの意味はなくなっていた。直貴の子供にまでいわれのない差別にさらされることと、緒方という人間の示した剛志の手紙による理解を描いたことで、もう十分と思ったからだが、映画としての区切りは必要なのだろう(シーン自体のデキはすごくいい)。
と思ったのは映画を観ていてのこと。でもよく考えてみると、この時点ではまだ子供の問題も解決されていないわけで、直貴にとってはこの公演は、本当に剛志とは縁を切るためのものだったのかもしれないと思えてくる(考えすぎか)。
かけ合い漫才はちゃんとしたものだ。お笑い芸人を目指していたときの直貴が暗すぎて、この設定には危惧しっぱなしだったが、危惧で終わってしまったのだからたいしたものだ。
気になったのは、由美子の手紙を知ったあとも直貴は返事を書いていなかったことだ。由美子からも逃げずに書いてやってと言われたというのに、やはり理屈ではなく直貴には剛志を許す(というのとも違うか)気持ちにまでは至らなかったのだろう。と思うと、直貴が6年目にして緒方を訪ねる気になったのは、どんな心境の変化があったのか。
それと、最後の子供の差別が解消される場面がうまくない。子供には大人の理論が通じないという、ただそれだけのことなのかもしれないが、ここは今までと同じように律儀な説明で締めくくってもらいたかった。
【メモ】
運送会社で腰を悪くした剛志は、直貴の学費欲しさに盗みに入るが、帰宅した老女ともみ合いになり、誤って殺害してしまう。
由美子はリサイクル工場では食堂で働いていたが、直貴のお笑いに賭ける情熱をみて、美容学校へ行く決心をする。
リサイクル工場では剛志の手紙の住所から、そこが刑務所だと言い当てる人物が登場する。彼も昔服役していたのだ。
家電量販店はケーズデンキという実名で登場する。移動の厳しさが出てきた時はよく決心したと思ったが、それは平野によって帳消しにされ、あまりあるものをもたらす。そりゃそうか。
2006年 121分 ビスタサイズ
監督:生野慈朗 原作:東野圭吾 脚本: 安倍照雄、清水友佳子 撮影:藤石修 美術:山崎輝 編集:川島章正 音楽:佐藤直紀 音楽プロデューサー:志田博英 主題歌:高橋瞳『コ・モ・レ・ビ』 照明:磯野雅宏 挿入歌:小田和正『言葉にできない』 録音:北村峰晴 監督補:川原圭敬
出演:山田孝之(武島直貴)、玉山鉄二(武島剛志)、沢尻エリカ(白石由美子)、吹石一恵 (中条朝美)、尾上寛之(寺尾祐輔)、田中要次(倉田)、山下徹大、石井苗子、原実那、松澤一之、螢雪次朗、小林すすむ、松浦佐知子、山田スミ子、鷲尾真知子、高田敏江、吹越満(緒方忠夫)、風間杜夫(中条)、杉浦直樹(平野)
トンマッコルへようこそ
2006年11月18日 土曜日
シネマスクエアとうきゅう ★★★☆
■トンマッコルでさえ理想郷と思えぬ人がいた!?
朝鮮戦争下の1950年に、南の兵士に北の兵士、それに連合軍の兵士が、トンマッコルという山奥の村で鉢合わせすることになる。村の名前が最初から「トン¬=子供のように、マッコル=純粋な村」というのが気に入らない(昔からそう呼ばれていたという説明がある)が、要するに、争うことを知らない心優しい村人たちの自給自足の豊かな生活の中で、戦争という対極からやってきた兵士たちが、何が本当に大切なのかを知るという寓話である。
南の兵士は脱走兵のピョ・ヒョンチョル(シン・ハギュン)に、彼と偶然出会った衛生兵のムン・サンサン(ソ・ジェギョン)。北の兵士は仲間割れのところを襲撃されて逃れてきたリ・スファ(チョン・ジェヨン)、チャン・ヨンヒ(イム・ハリョン)、ソ・テッキ(リュ・ドックァン)。連合軍の米兵は数日前に飛行機で不時着したというスミス(スティーヴ・テシュラー)。
敵対する彼らが一触即発状態なのに、村人にはそれが理解できず、頭の弱いヨイル(カン・ヘジョン)に至っては、手榴弾のピンを指輪(カラッチ)といって引き抜いてしまう。このあと手榴弾が村の貯蔵庫を爆破して、ポップコーンの雪が降る。
が、私の頭は固くて、すぐにはこの映画の寓話的処理が理解できずに、あれ、これってもしかしてポップコーン、などとすっとぼけていた。でかいイノシシの登場でやっとそのつくりに納得。導入の戦闘場面のリアルさに頭が切り換えられずにいたのだ。ヨイルという恰好の道案内がいて、蝶の舞う場面(これはあとでも出てくる)だってあったというのにね。
イノシシを協力して仕留めるし(村人が食べもしないし埋めない肉を、夜6人で食べる)、村の1年分の食料を台無しにしてしまったことのお詫びにと農作業にも精を出すうちに、6人は次第に打ち解けていくのだが、スミス大尉の捜索とこの地点が敵の補給ルートになっていると思っている連合軍は、手始めに落下傘部隊を送ってくる。
このことがヨイルの死を招き、彼らに村を守ることを決意させることになる。爆撃機の残骸の武器を使って対空砲台に見せかけ、村を爆撃の目標からそらそうというのだ。
架空の村トンマッコルには、朝鮮戦争という国を分断した戦いをしなければならなかった想いが詰まっているのだろうが、この命をかけた戦いにスミスまでを参加させようとしたのには少し無理がなかったか。キム先生の蔵書頼みの英語だってまったく通じなかったわけだから、スミスはかなりの間つんぼ桟敷状態に置かれていたのだし。ま、結果として彼は、連合軍に戻って爆撃をやめさせるという順当な役を割り当てられるのではあるが。
軍服を脱いだ彼らが、村を守るためにはまた武器を取るしかない、というのがやたら悲しくて、とてもこれを皮肉とは受け取れない。天真爛漫なヨイルの死で、すでに村も死んでしまったと解釈してしまったからなのだが。そして、連合軍の飛行機の落とす爆弾があまりにもきれいで(どうしてこれまで美しい映像にしたのだ!)、私にはこの映画をどう評価してよいのかさっぱりわからなくなっていた。「僕たちも連合軍なんですか」「南北連合軍じゃないんですか」という、爆撃機に立ち向かっていく彼らのセリフの複雑さにも、言うべき言葉が見つからない。
ところで、トンマッコルは誰にとっても理想郷かというと、これが意外にもそうではないようなのだ。リと親しくなるドング少年の母親が「ドングの父親が家を出て9年」と言っているのだな。ふうむ。どなることなく村をひとつにまとめている指導力を問われて、村長は「沢山食わせること」と悠然と答えていたが、たとえそうであっても人間というのは一筋縄ではいかないもののようだ。
【メモ】
ピョ・ヒョンチョルが脱走兵となったのは、避難民であふれている鉄橋を爆破しろと命令されたことで、これがいつまでも悪夢となって彼を悩ませる。
原題:・ー・エ 妤ャ ・呱ァ賀ウィ 英題:Welcome to Dongmakgol
2005年 132分 シネスコサイズ 韓国 日本語字幕:根本理恵
監督:パク・クァンヒョン 原作: チャン・ジン 脚本:チャン・ジン、パク・クァンヒョン、キム・ジュン 撮影:チェ・サンホ 音楽:久石譲
出演:シン・ハギュン(ピョ・ヒョンチョル)、チョン・ジェヨン(リ・スファ)、カン・ヘジョン(ヨイル)、イム・ハリョン(チャン・ヨンヒ)、ソ・ジェギョン(ムン・サンサン)、スティーヴ・テシュラー(スミス)、リュ・ドックァン(ソ・テッキ)、チョン・ジェジン(村長)、チョ・ドッキョン(キム先生)、クォン・オミン(ドング)
虹の女神 Rainbow Song
2006年11月19日 日曜日
テアトルダイヤ ★★★★☆
■成就しない恋を追体験させるなんて意地悪だ
あらかじめ運命が提示される映画はままあるが、はじまってすぐにある、ヒロイン佐藤あおい(上野樹里)の事故死のニュースは、職場にいる岸田智也(市原隼人)に感情を反芻させる間を与えず、彼をそのまま葬式の場面へと連れ込む。この念押しが、映画が進むにつれてじわじわと効いてきて、何とも切ない気持ちになる。
そういう構成上の効果もだが、切ないのは映画が自分の学生時代をやたら思い出させるからだ。あおいと同じような8ミリの自主制作に少しだが関わった経験があり、恋についてもあおいのようにうまく想いが伝えられずにいたからだろうか。そして、自分のしたいことや進路についてまったく何も決められずにいるあたりは岸田である。もっとも彼のように、ストーカーになるほどの実行力は持ち合わせていなかったから、さらにひどかったのかもしれない。
と考えていくと違うことの方が多いのだが、にもかかわらず自分に近づけて観ることができるのが、この映画の魅力だろう。
横道にそれたが、切なさはあおいが学生時代に作った『The End of the World』という8ミリ作品の内容に重なることで増幅される。8つ(これまで8ミリにかけているわけじゃないよね)の章立てのある映画(本編)は、あおいの葬式から学生時代にもどり、また葬式に戻ってくるという構成となっていて、葬式のあとで仲間が観るという形でこの8ミリの全編が映写されるのだ。
その『The End of the World』は、巨大隕石が地球を襲った20XX年の最後の7日間を描いた物語で、いかにも映研のサークルが撮りそうな作品(脚本もあおい)だ。あおいの父親(小日向文世)が、へたくそな演技の坊主役で登場するのが実にそれっぽい。地球最後の日が迫っているのに恋人のマコトと離ればなれのヒロインが、やっとマコトに会い抱き合って長いキスをかわすのだが、実はそれは幻想で、ヒロインはひとり病院で息をひきとっていく。「終わったのは私だけだった」というナレーションが、あおいの死という現実に重なり、うらめしくなる。
このマコトを岸田が演じているのだが、門外漢の彼が何故準主役に抜擢されたのかを考えると興味深い。岸田があおいと知り合ったのは、彼があおいの友達(鈴木亜美)にストーカー行為をしてで、あおいは恋の対象ではなかった。そのあとも岸田は8ミリ映画の最初のヒロイン役だった今日子(酒井若菜)に恋心を抱き、しかもあおいに背中を押してもらったりするのだが、あおいの方はどうやらかなり早い段階(ふたりで手を握りっぱなしにして虹に見とれていた時か)から岸田のことが好きだったようなのだ。
『The End of the World』での長いキスシーンを今日子が拒むことは、今日子の性格をあおいが読んでいてのことで、代わりにあおい自身がヒロインになり岸田のキスの相手になることは、賭ではあるが、最初からのあおいのもくろみ(希望)だったのではないか。
そんなあおいを前にして、岸田は本当に鈍感なヤツだったのだろうか。あおいに「女を感じない」と言ったのは言いすぎだが、あれには照れもあったと思われる。デートカフェの取材の帰りには、あおいからは猛烈な反発を食らってしまうが、岸田は冗談交じりながらも結婚という言葉まで口にしているのだ。
岸田はあおいに負い目を感じていたのだと思う。女の尻ばかり追っていたし、まともな就職もできず、唯一あおいに映画の道を進むように言ったことくらいしか貢献していないようで。だからあおいが日本を離れてアメリカで映画の勉強をすることを聞いても、行くなとは言えず「日本にいればいいじゃん」と曖昧な返事で誤魔化すしかない。あおいは「日本なんだ。そばじゃないんだ」と彼女にしてみれば精一杯の発言(これは仕事より恋を取るという決断以上に、岸田への告白なのだから)をするのだが、岸田はあおいの気持ちに気づきながらも「(あおいに紹介された仕事を)辞めようと思ったけど続けてみる。だからお前も頑張れ」と言うしかなかったのだ。
もっともこの解釈は、違うと言われてしまいそうだ。押しかけの年上女(34歳)千鶴(相田翔子)との長目のエピソードがあるし、8ミリの上映、さらにはあおいの妹かな(蒼井優)から手渡された遺品の中に、岸田が代筆を頼んだ今日子へのラブレター(これは下書き? それとも手紙は出さなかったのか)がでてくるからだ。ラブレターの中にあおいの本心が残されていて、これを読んであおいの気持ちにやっと岸田が気付くというのが、妥当なところだろうか。
千鶴との関係を通して、岸田が主体性のない自分に気付くというのはそうなのだが(でないとこのエピソードは冗長ととられてしまう)、8ミリに関してはすでに学生時代にあおいと一緒に観ている(これもすごいことだよね)のだし、だから少なくともあおいの渡米前には、十分あおいの気持ちには気付いていたはずなのだ。
好き同士であっても、次の段階に行けないことはあるだろう。ましてやあおいはアメリカに行ってしまってどんなことを考えていたのか。岸田からの虹の写真のメールを見てどう思ったのか。でもなにしろ、死んでしまうんだものねー。
次から次へといろいろなことを考えてしまうのは、映画がよくできている証拠だろう。ただ、ふたりのことは何もかもお見通しで見守っていたかのようなかなについては、役割を重くしすぎた感がある。
途中にある、あおいとかなと岸田の夜祭りのエピソードは楽しいものだが、最後のラブレターになると、かなが盲目では困ることになるからだ。事故のためアメリカに行く場面でも、岸田に姉のために同行して欲しいと言わせているから、彼女の存在は監督にとってはどうしても必要だったのだろうが(父親でもいいはずだ)、盲目は彼女の神秘性を際だたせても、説明としては苦しくなってしまった。
【メモ】
岸田はストーカーだが、彼に言わせると、最初はサユミの方がストーカーだったらしい。3回デートして、あっさりふられたのだと。しかしそのあとバイト先の斡旋と移籍金として1万円を用意するというあたりは、ある意味なかなかではないか。
1万円札の指輪は、そのやりとりでうまれたもの。
あおいの上司である樋口(佐々木蔵之介)が、自分の煽りを真に受けてアメリカ行きを決心したあおいに驚く場面がいい。樋口の愛すべき上司ぶりはうれしくなる。
その樋口があおいの部屋にあるZC1000を見つけて服部(尾上寛之)と交わすオタク談義がたまらない。ZC1000にコダクローム40を入れる(シングル8のマガジンに詰め替える)とはねー。ただ時代が違うとはいえZC1000を学生の身分で使えるんだろうか。才能が漲っていて、小川伸介超えたかも、のあおいなのだから(死んだ人間への賛辞にしてもさ)、飯を切り詰めてでもそのくらいのことはしていたのかも。そういえば映画には「コダック娘」という名前の章もあった。
2006年 118分 サイズ■
監督:熊澤尚人 プロデューサー:橋田寿宏 プロデュース:岩井俊二 原案:桜井亜美脚本:桜井亜美、齊藤美如、網野酸 撮影:角田真一、藤井昌之 美術川村泰代 音楽:山下宏明 主題歌:種ともこ『The Rainbow Song ~虹の女神~』 CG:小林淳夫 VE:さとうまなぶ スタイリスト:浜井貴子 照明:佐々木英二 装飾:松田光畝 録音:高橋誠
出演:市原隼人(岸田智也)、上野樹里(佐藤あおい)、蒼井優(佐藤かな)、相田翔子(森川千鶴)、小日向文世(佐藤安二郎)、佐々木蔵之介(樋口慎祐)、酒井若菜(麻倉今日子)、鈴木亜美(久保サユミ)、尾上寛之(服部次郎)、田中圭(尾形学人)、田島令子、田山涼成、鷲尾真知子、ピエール瀧、マギー、半海一晃、山中聡、眞島秀和、三浦アキフミ、青木崇高、川口覚、郭智博、武発史郎、佐藤佐吉、坂田聡、坂上みき、東洋、内藤聡子、大橋未歩
雨音にきみを想う
2006年11月25日 土曜日
新宿武蔵野館3 ★☆
■チョッカンはそんなにいいヤツだろうか
ウィンイン(フィオナ・シッ)は、同居の兄フェン(チャン・コッキョン)が全身麻痺で、彼の介護だけでなく姪のシウヤウ(チャン・チンユー)の世話をしながら縫製の仕事をしている。その仕事もミスを咎められ(美人なんだから外で働けばと嫌味まで言われ)賃金を下げられてしまう。そして自身も兄と同じ遺伝性の病気(動脈炎。体温低下で血管が収縮してしまう)にいつならないとも限らないという、まさに悲劇のヒロイン。眉間の皺が痛々しい。
チョッカン(ディラン・クォ)は路地で迷子になったシウヤウと出会い、少女を家に送り届けたことで、そんなウィンインと知り合うことになる。フェンはチョッカンに何かを感じたのか、彼が帰ったあとウィンインに「明日お茶を買ってこい」と言う。そしてチョッカンは数日後、フェンに職場にあったからと電動車椅子を持ってやってくる。
実はチョッカンの家は金持ちなのだが、家族の愛情を知らずに育ち、今では絶縁状態らしい。ウィンインたちの家族愛、もっといえばシウヤウに対するウィンインに、母親の愛をみて惹かれたのかも知れない。
そんなチョッカンだが、一匹狼と言えば聞こえはいいが、ヤクザのフー兄貴(サミュエル・パン)から目を付けられるほど腕のいい泥棒でしかない。当然ウィンインに身を明かすことなどできるわけもなく(表向きはバイクショップを経営)、しかしあっけなくバレてしまうと、こうやって生きてきたのだから今さら無理と、平然としたものなのだ。
しかもそのバレ方からして、ウィンインがちょっと見ていたクマのぬいぐるみを盗んできてしまうような、罪悪感のかけらもない程度の低いものなのだ。このあと少しして、ふたりのキスシーンになるのだが、ウィンインの「頼っていいのか迷う」理由が、チョッカンが真っ当でないことではなくて、「もしあなたに何かあったら」と、すでにチョッカンを好きになってしまっているのでは、恋の当事者にとっては障害でも何でもないのかもしれないが、観ている方としてはついていけなくなる。
チョッカンは盗みが生業ながら優しい男という位置づけなのだろうが、それにしては夜中に物音を立てる(ウィンインの家の2階を借りて倉庫にする)し、電気はつけっぱなしで、ウィンインの評価だってそう高くはなかったはずなのだ……。いや、これは違うか。もうこの時点ではウィンインはチョッカンのことが気になって仕方がなかったのだろう。
物語は、逃げた妻にもどる気持ちがないことを知ったフェンの自殺(これはちょっとあんまりだ)という、さらに悲劇的な状況をはさんだあと、チョッカンとヤクザの対決へと進む。ウィンインもそれに巻き込まれ、冷たい雨にも打たれてしまう。が、彼女には最後になってある贈り物が……。でもこれだってね、最初のクマのぬいぐるみと本質的には何も変わっていないではないかと。ま、彼女の涙はそのことを含めてなのかもしれないのだけどさ。
【メモ】
動脈炎という言葉もあったが、体温低下で血管が収縮してしまうという設定だ。
舞台は香港だが、ウィンインたちは広州出で、チョッカンは台湾出身という設定。ウィンインはフェン(発病前はバイオリニストだった)に広州に帰ろうと言うが、逃げた女房から金を取り戻してからでないと帰れないとフェンは答えていた。
原題:摯愛
英題:Embrace Your Shadow
2005年 102分 ビスタサイズ 香港 日本語字幕:鈴木真理子
監督・脚本:ジョー・マ
出演:ディラン・クォ(チョッカン)、フィオナ・シッ(ウィンイン)、チャン・コッキョン[張國強](フェン)、チャン・チンユー[張清宇](シウヤウ)、サミュエル・パン(フー)
ウィンター・ソング
2006年11月25日 土曜日
新宿武蔵野館2 ★★
■錯覚関係ミュージカル
予告篇は観ていたが、まさかミュージカル(劇中劇がミュージカル映画)とはね……まあ、そんなことはどうでもいいのだが。香港製ミュージカルということがわかって危惧しなかったといえばウソになるが、その部分では堂々たる仕上がりになっている。ダンスシーンのカットが細切れなのが気になったが、ここは状況をかえた場面の繋ぎでなんとか逃げている。
物語は劇中劇に重ねるように、俳優であるリン・ジェントン(金城武)とスン・ナー(ジョウ・シュン)に、彼女の現在の恋人である映画監督ニエ・ウェン(ジャッキー・チュン)を交えた愛憎劇という趣向だ。
そこにリンとスンの10年前の過去の映像が入り込んでくるのだが、筋立てが単純なのでそうは混乱しない。劇中劇はサーカス団と設定こそ違うが、そこで踊り歌われる歌などはそっくりそのまま3人の心境に置き換えればいいという寸法だ。が、気になるところがいくつもあって、すんなり感情移入するには至らなかった。
まず、チ・ジニ演じるところの案内役(天使と書いてあるよ)の位置づけがよくわからない。「私はカットされたシーンを集めている。それが必要になった時、戻してあげるために。今もあるシーンを戻すためにここに来た」というのだが、彼はリンにとっては天使なのだが、スンやニエにとっては混乱の元でしかない。だから天使、と言われてもねぇ。結末の悲劇も当然と考えているのだろうか。
こんな案内役もいるし、流れからしても主役は金城武のリンであるはずなのに、タイトルや劇中歌の歌詞(お前は俺を愛してる。たぶん愛してるはず)を聴いていると、本当の主役はジャッキー・チュンのニエではないかと思えてくるのだが、これはまずいだろう。
もっともそのニエは、途中までスンが女優としてあるのは自分あってこそと思っているような男だし、最後は「男は自分を裏切った女は許さないものだが、復讐はしない。愛とはそういうものだ」と勝手に自己完結してしまう。そんなだから、ラストでは自分の死までも演出してしまうのだろう。
スンは、過去のある時点はともかく、野心に生きる道を選んだ女だ。偽装結婚もしてきたし、ニエ監督専門というレッテルを貼られようとも、トップ女優でいたいのだ。引き返す気などないのである。「過去は思い出さないためにある」から、回顧録はいやと言っていたのだ。なのに、ラストではそれは出版しちゃってるし。まあこれはリンとのことがあって考えがかわったということなのだろうけどさ。そして、ここを評価できればいいのだが、どうにもしっくりこないのだな。
それに比べると愛に生きてきたリンは、確かに一途ではあるが(これを「たぶん愛」と呼ぶのは簡単だが、となると何でもかんでも「たぶん愛」ということになってしまう)、それ故にやることがどうにも怪しいのだ。俳優として成功してからは、昔の思い出の場所を買い取り、そこに行く度にカセットに心情を吹き込んでいたなんて、度がすぎているとしか言いようがないではないか。
こんなに3人がバラバラなのに、愛といわれてもねー。「たぶん愛」じゃないよ、これ。錯覚だもん。
度々挿入されるプールのイメージもよくわからないままだった(ついでながら青島の塩水湖の話も不明)。
【メモ】
リンは10年前に、香港から北京へ映画監督になるためにやって来るが果たせず、香港で大スターになる。
スンは歯ぎしり女。
プロデューサーが難色を示すにもかかわらず、ニエ監督は団長役を自分で演じることにする。
原題:如果・愛
英題:Perhaps Love
2005年 109分 ビスタサイズ 香港 日本語字幕:水野衛子
監督:ピーター・チャン 製作:アンドレ・モーガン、ピーター・チャン 撮影:ピーター・パウ 編集:ヴェンダース・リー、コン・チールン 音楽:ピーター・カム、レオン・コー
出演:金城武(リン・ジェントン[林見東])、ジョウ・シュン[周迅](スン・ナー[孫納]、ジャッキー・チュン[張學友](ニエ・ウェン[聶文])、チ・ジニ[池珍熙](天使)
待合室-Notebook of Life-
2006年11月26日 日曜日
銀座テアトルシネマ ★☆
■生きていればいいことがある?
朝日新聞に載った記事を元にして作った映画らしいが、記事の記憶はまったくない。興味のあるものでもどんどん忘れていくから、この手の話はまず覚えていない。いわゆるいい話というやつである。新聞にも多分そういう趣旨で載ったと思われる。
東北の小繋(こつなぎ)という無人駅の待合室に置かれたノートに、旅人や近所の人が雑感や悩みなど書き残こしていて、こういうノートはよく見かけるが記事になったのは、駅前にある売店の女主人が、それに丁寧に返事を書いていたということにあるようだ。そのノートには「命のノート」という名前が付けられていて、もうそれだけで私には重苦しいのだが、これはそのノートを始めに置いていった人の命名らしい。
女主人の「おばちゃん」役が富司純子で、彼女が40年前に遠野から小繋に嫁いできた若い時を寺島しのぶが演じている。娘時代をもってきたのは映画としての骨格が足らなかったかったのと、母娘初共演という話題性狙いだろう。もっとも実の親子ながらふたりは、顔立ちも演技の質もあまり似ていないから、別に同じ人物でなくてもよかったような気がする。タイムマシンものではないのだから、母と娘は正確には共演しないのだし。
おばちゃんの現在(老いた母親の話も)と過去に混じるように、ノートに死をほのめかして去る妻と娘を失った男、おばちゃんを取材に来たフリーの女性ライター、同じ町の「鞍馬天狗」と名乗る女房を大切にしてやれなかったという男の挿話などが語られる。どれも心温まる話なのだろうが、全体として突き抜けるようなものはひとつもない。まあ、そういう映画ではないのだが。
唯一批判的なのが若い晶子(あきこ)で、彼女の「生きていればいいことがあるってホントなの」という問いかけはあまりに当然で、ひねくれ者としては少女のこの批判に肩入れしたくなる。もちろんこれはあとに用意されている、晶子と死をほのめかしていた旅人の会話で打ち消されるのだが、説明調ではあるし、こういう問題には答えなど無いから歯切れは悪い。
おばちゃんにしても昔幼い娘を失い、実直な旦那には先立たれるという悲しい過去の出来事に、現在は年老いた遠野にいる母が気がかりで、自身は不自由な足を庇いながら仕事をする毎日、と書き並べれば暗い部分ばかりが目につく。映画が浮ついていないからだろうが、観ていてもっと単純に暖かくなるような話にしてほしくなってしまったのである。
【メモ】
ホームページには、「フランスのトムソン社製のフィルムストリームカメラ『VIPER』によってHD非圧縮フルデジタルシネマとして完成。最先端のデジタルシネマ技術は驚くべき映像美を可能にしている」とある。言われてみないとわかならないのね。そんなに目の覚めるような美しさだったかしらん。
いわて銀河鉄道
昭和39年春 夫は元教師、おばちゃんは看護婦だった
2005年 107分 サイズ■
監督・脚本:板倉真琴 撮影:丸池納 美術:鈴木昭男 音楽:荻野清子 主題歌:綾戸智絵『Notebook of Life』 照明:赤津淳一 録音:長島慎介
出演:富司純子(夏井和代)、寺島しのぶ(夏井和代)、ダンカン(夏井志郎)、あき竹城(山本澄江)、斉藤洋介(山本康夫)、市川実和子(堀江由香)、利重剛(塚本浩一)、楯真由子(木本晶子)、桜井センリ(小堀善一郎)、風見章子(浅沼ノブ)、仁科貴(梶野謙造)
氷の微笑2
2006年11月28日 火曜日
楽天地シネマズ錦糸町-2 ★★☆
■きっと手玉に取られそう
『氷の微笑』の続編だが、すでにあれから14年もたつという。あのキャサリン・トラメル(シャロン・ストーン)が、前作と似たようなことを繰り広げるのだが、彼女が「危険中毒」というなら、14年間もおとなしくしていられたとはとても思えない。
舞台をアメリカからイギリスに移したのは、そこらへんを考慮してのことか。もっとも人気犯罪小説家なのだからアメリカもイギリスも関係なさそうだが。ただシャロン・ストーンが14年も続編を我慢できたのだから、それは可能か。失礼とは思うが、キャサリンのイメージをシャロンに置き換えるのはそう難しくないのだな(失礼どころか褒め言葉だよね)。
シャロンの自信はたいしたものだが、それができるのだから脱帽だ。観客は実年齢を知っているのだし。もっとも最初の車の疾走場面から、あんなにフェロモンをばらまかれたのでは、かえって引いてしまう。快楽優先主義者という設定なのだからこの演出は仕方がないのかもしれないが、観客サービスになっていない気がして心配になる。
思わせぶりな映画といってしまえばそれまでだが、話は十分楽しめる。ただし、今回の相手はマイケル・ダグラスに比べるといささか頼りない。デヴィッド・モリッシー演じるマイケル・グラス(何なのだ、この役名は!)は、犯罪心理学者で精神科医。ロイ・ウォッシュバーン刑事(デヴィッド・シューリス)からキャサリンの精神鑑定を依頼され、はじめのうちこそ自信満々でいたが、途中からはキャサリンに翻弄されっぱなしで、ただただひたすら転落していく。
犯人がキャサリンかウォッシュバーン刑事か、などと迷いだしているうちはともかく、いつのまにか昇進(というのとはちょっと違うのだろうか)話は立ち消え、最後には思いもよらぬ場所にいるマイケル・グラス。
キャサリンみたいのに捕まったら、きっと私もこうだろうなと思ってしまったものね。おー、こわ。
原題:Basic Instinct 2
2006年 118分 シネマスコープ アメリカ R-18 日本語字幕:小寺陽子
監督:マイケル・ケイトン=ジョーンズ 脚本:レオラ・バリッシュ、ヘンリー・ビーン 撮影:ギュラ・パドス プロダクションデザイン:ノーマン・ガーウッド 衣装デザイン:ベアトリス・アルナ・パッツアー 音楽:ジョン・マーフィ テーマ曲:ジェリー・ゴールドスミス
出演:シャロン・ストーン(キャサリン・トラメル)、デヴィッド・モリッシー(マイケル・グラス)、シャーロット・ランプリング(ミレーナ・ガードッシュ)、デヴィッド・シューリス(ロイ・ウォッシュバーン刑事)、ヒュー・ダンシー(アダム)、インディラ・ヴァルマ(デニース)
父親たちの星条旗
2006年11月29日 水曜日
新宿ミラノ1 ★★★☆
■英雄はやはり必要だったらしい
問題となる硫黄島の摺鉢山頂上にアメリカ兵たちが星条旗を掲げている写真だが、何故この写真が英雄を演出することになったのだろう。当時はまだ多くの人が写真=真実と思い込んでいたにしても、旗を掲揚したということだけで英雄とするには、誰しも問題と思うだろうから。いや、むろん彼らはただの象徴にすぎず、だから彼らにとってそのことがよけい悲劇になったのだが。
写真には6人が写っているが、生き残ったのは3人である。硫黄島の戦いが、アメリカにとってもいかに大変なものだったかがわかるというものだ。生き残りの3人がアメリカに帰り、英雄という名の戦時国債募集の宣伝要員となって国から利用されるというのが映画のあらましである。
アメリカにとっては第二次世界大戦など海の向こうの戦争でもあるし、厭戦気分でも広がっていたのだろうか。国債の目標が140億ドルで、「達成できなければ戦争は今月で終わり」などといった人ごとのようなセリフまで出てくる。またはじまりの方でもこの写真について「1枚の写真が勝敗を決定することも」と言っていたから、戦意高揚効果の絶大さは本当だったようだ。
英雄であることを受け入れるのには戸惑いを感じつつも優越感に浸れるのはレイニー・ギャグノン(ジェシー・ブラッドフォード)。臆面もなく駆けつけてきた彼の恋人はこの点では彼以上だから、このふたりはお似合いなのだろうが、アイラ・ヘイズ(アダム・ビーチ)や衛生兵だったジョン・ブラッドリー(ライアン・フィリップ)にとって、この戦時国債の売り出しキャンペーン巡礼は、重要性は認識していても戦争の悲惨な体験を呼び起こすものでしかない。この時点ではそれはまだほんの少し前のことなのだ。
派手なイベントや、戦場を知らない人間とのどうしようもない温度差も彼らを苦しめる。ヘイズにはインディアンという立場もついてまわるから一層複雑だ。「まさかりで戦った方が受けるぞ」と言われる一方で「戦争のおかげで白人も我々を見直すでしょう」と講演する悲しさ。ブラッドリーのようには割り切れないヘイズは、酒に溺れ次第に崩壊していく。
このお祭り騒ぎの行程に、これでもかというくらいに戦闘場面が挿入される。だから実を言うと映画の最初の方は、その関係が読みとれず少し苦痛でもあったのだが、これが彼らのその時の心象風景なのだと、次第に、納得できるようになる。
小さな硫黄島に、その面積以上になるのではないかと思うほどの大船団が押し寄せる。凄まじい艦砲射撃と空爆(それでも10日の予定が3日に短縮されたという)に、アメリカが硫黄島に賭けた意気込みのすごさを感じるのだが、映画でもこの場面には圧倒される。中でも船団の横を駆け抜けていく戦闘機の場面は臨場感たっぷりである。艦隊の動きを遠景でとらえた時、あまりにも規則正しすぎることがCGを思わせてしまうのだが、これは本当だったのだろうか。
上陸後しばらくなりを潜めていた日本の守備隊が反撃に転じると、そこは一瞬にして地獄と化す。死体を轢いて進む上陸用舟艇や、これはもっとあとの場面だが、味方を誤射していく戦闘機の描写もあった。次作では日本側の硫黄島を描くからか、山にある砲台とアメリカ兵が近づくのを待ち受ける塹壕からの視点以外はすべてアメリカ側からという徹底ぶりだが、ならばその2つもいらなかった気がする。
もっとも、戦いの進展具合には興味がないようで、そのあたりは曖昧なのだが、摺鉢山頂上での星条旗の掲揚が実は2度あり、写真も2度目のものだったことはきちんと描かれる。ある大尉が最初の旗を欲しがり別の物と替えるよう命令するのだが、これが後々やらせ疑惑となる。他にも新聞でその写真を見て、自分の息子と確信した母親の話などもあるが、しかし最初にも書いたように、これがそれほど意味のあることとは思えないので、どうにもしっくりこないところがある(そうはいっても、ハーバート・ビックスの『昭和天皇』にもこれについての記述があるから、この写真の持つ意味は相当大きかったのだろう)。
彩度を落とした映像による冷静な視線は評価できるが、戦いの現場と帰国後の場面が激しく交差するところに、現在の時間軸まで入れたのは疑問だ。映画というメディアを考えると、そのことが、かえって現在の部分を弱めてしまった気がするからだ。原作者であるジェームズ・ブラッドリーは、戦争のことも旗のことも一切話さなかったというジョン・ブラッドリーの息子で、父親の死後取材していく過程で、父親との対話を重ねたに違いないが、しかしそれは本にまかせてしまっておいてもよかったのではないだろうか。
『硫黄島からの手紙』の予告篇が映画のあとにあるという知らせが最初にあるが、これはアメリカで上映された時にもついているのだろうか? アメリカ人は『硫黄島からの手紙』をちゃんと観てくれるのだろうか? そうなんだけど、この、映画の後の予告篇は、邪魔くさいだけだった。
【メモ】
この写真を撮ったのはAP通信のジョー・ローゼンソール(1945.2.23)でピューリツァー賞を授賞。
原題:Flags of Our Fathers
2006年 132分 シネスコ アメリカ 日本語字幕:戸田奈津子
監督:クリント・イーストウッド 原作:ジェームズ・ブラッドリー、ロン・パワーズ 脚本:ポール・ハギス、ウィリアム・ブロイルズ・Jr 撮影:トム・スターン 美術:ヘンリー・バムステッド 衣装:デボラ・ホッパー 編集:ジョエル・コックス 音楽:クリント・イーストウッド
出演:ライアン・フィリップ(ジョン・“ドク”・ブラッドリー)、ジェシー・ブラッドフォード(レイニー・ギャグノン)、アダム・ビーチ(アイラ・ヘイズ)、ジェイミー・ベル(ラルフ・“イギー”・イグナトウスキー)、 バリー・ペッパー(マイク・ストランク)、ポール・ウォーカー(ハンク・ハンセン)、ジョン・ベンジャミン・ヒッキー(キース・ビーチ)、ジョン・スラッテリー(バド・ガーバー)
トゥモロー・ワールド
2006年11月29日 水曜日
新宿武蔵野館2 ★★★★
■この未体験映像は映画の力を見せつけてくれる
人類に子供が生まれなくなってすでに18年もたっているという2027年が舞台。
手に届きそうな未来ながら、そこに描かれる世界は想像以上に殺伐としている。至るところでテロが起き、不法移民であふれている。だからか、イギリスは完全な警察国家となり果て、反政府組織や移民の弾圧にやっきとなっている。世界各地のニュースは飛び込んでくるものの(映画のはじまりはアイドルだった世界一若い青年が殺されたというニュース)、社会的秩序がかろうじて保たれているのは、ここイギリスだけらしい。
ただこの未来については、これ以上は詳しく語られない。2008年にインフルエンザが猛威をふるったというようなことはあとの会話に出てくるが、それが原因のすべてだったとは思えない。だからそういう意味ではものすごく不満。だいたい子供が生まれない世界で、難民があふれかえったりするのか。よく言われるのは、労働力不足であり活力の低下だが、少子化社会とはまた違う側面をみせるのだろうか。
政府が自殺剤と抗鬱剤を配給している(ハッパは禁止)というのもよくわからない。テロにしても、主人公セオ・ファロン(クライヴ・オーウェン)の古くからの友人で自由人の象徴のような形で登場するジャスパー・パルマー(マイケル・ケイン)によると、政府の自作自演と言うし。政府にとっては、自暴自棄になっている人間など生かしておいても仕方ないということか。
一方で、あとでたっぷり描かれる銃撃戦や暴動に走る人間たちの、これは狂気であって活気とは違うのかもしれないが、すさんだ行動エネルギーはどこからくるのだろう。子供の生まれない社会(つまり未来のない社会ということになるのだろうか)のことなど考えたこともないから、活力の低下にしても、社会という概念が崩壊していては、そんなに悠長ではいられないのかもしれない、と書いているそばからこちらの思考も定まらない。
エネルギー省の官僚であるセオは、元妻のジュリアン・テイラー(ジュリアン・ムーア)が率いるフィッシュ(FISH)という反政府組織に拉致される。妊娠した(こと自体がすでに驚異なのだ)黒人女性のキー(クレア=ホープ・アシティー)をヒューマンプロジェクトなる組織に引き渡すためには、どうしても通行証を持つ彼が必要なのだという。そのヒューマンプロジェクトなのだが、アゾレス諸島にコミュニティがある人権団体とはいうものの、その存在すら確証できていないようなのだ。
そして、その20年ぶりに会ったジュリアンは、フィッシュ内の内ゲバであっけなくも殺されてしまう。セオはキーとの逃亡を余儀なくされ、ジャスパーを巻き込み(彼も殺される)、不法移民の中に紛れ(通行証は役に立ったのか)、言葉も通じないイスラム系の女性に助けられ、キーの出産に立ち会い、政府軍と反政府組織の銃弾の飛び交う中を駆けめぐり、あやふやな情報をたよりにボートに乗り、海にこぎ出す。すると、霧深い海の向こうから約束どおりトゥモロー号は姿を現す。が、銃弾を浴びたセオの命は消えようとしていた。
筋としてはたったこれだけだから、まったくの説明不足としかいいようがないのだが、途中いくつかある長回しの映像が、とてつもない臨場感を生み、観客を翻弄する。まるでセオの隣にいて一緒に行動しているような錯覚を味わうことになる。冒頭のテロシーンもそうだが、ジュリアンの衝撃の死から「その場にいるという感覚」は一気に加速し、セオが逃げるためとはいえ石で追っ手を傷つけるところなど、すでにセオと同化していて、善悪の判断がどうこうとかいうことではなく、ただただ必死になっている自分をそこに見ることになる。
最後の市街戦における長回しはさらに圧巻で、これは文章で説明してもしかたないだろう。カメラに付いた血糊が途中で拭き取られていたから、少しは切られていたのかもしれないが、そんなくだらないことに神経を使ってさえ、緊張感が途絶えないのだから驚く。
銃撃をしていた兵士たちが、赤ん坊の泣き声を耳にして、しばらくの間戦闘態勢を解き、赤ん坊に見入る場面も忘れがたい。この前後の場面はあまりに濃密で、だからそれが奇跡のような効果を生んでいる(赤ん坊の存在自体がここでは奇跡なのだから、この説明はおかしいのだが)。
セオは死んでしまうし、トゥモロー号が本当にキーと赤ん坊を救ってくれるのかは心許ないし、最初に書いたように背景の説明不足は否めないし、と、どうにも中途半端な映画なのだが、でも例えば、自分は今生きている世界のことをどれほど知っているだろうか。この映画で描かれる収容所や市街戦は、まるで関係のない世界だろうか。そう自問し始めると、テレビのニュースで見ている風景に、この映画の風景が重なってくるのだ。これは近未来SFというよりは、限りなく今に近いのではないかと。ただその場所に自分がいないだけで。
この感覚は、セオと一緒になって市街戦の中をくぐり抜けたからだろう。そして、我々が今を把握できていないかのようにその世界観は語られることがないのだが、それを補ってあまりあるくらいに、市街戦や風景の細部(セオの乗る電車の窓にある防御用の格子、至るところにある隔離のための金網、廃液のようなものが流れ遠景の工場からは煙の出ている郊外、荒廃した学校に現れる鹿など)がものすごくリアルなのだ。
【メモ】
なぜ黒人女性のキーは妊娠できたのか?(この説明もない)
セオはジュリアンとの間に出来た子供を事故で失っている。
ジャスパーは、元フォト・ジャーナリスト。郊外の隠れ家でマリファナの栽培をし、ヒッピーのような生活をしている。
原題:Children of Men
2006年 114分 ビスタサイズ アメリカ、イギリス 日本語字幕:戸田奈津子
監督:アルフォンソ・キュアロン 原作:P・D・ジェイムズ『人類の子供たち』 脚本:アルフォンソ・キュアロン、ティモシー・J・セクストン 撮影:エマニュエル・ルベツキ 衣装デザイン:ジェイニー・ティーマイム 編集:アルフォンソ・キュアロン、アレックス・ロドリゲス 音楽:ジョン・タヴナー
出演:クライヴ・オーウェン(セオ・ファロン)、ジュリアン・ムーア(ジュリアン・テイラー)、マイケル・ケイン(ジャスパー・パルマー)、キウェテル・イジョフォー(ルーク)、チャーリー・ハナム(パトリック)、クレア=ホープ・アシティー(キー)、パム・フェリス(ミリアム)、ダニー・ヒューストン(ナイジェル)、ピーター・ミュラン(シド)、ワーナ・ペリーア、ポール・シャーマ、ジャセック・コーマン
旅の贈りもの-0:00発
2006年12月02日 土曜日
シネセゾン渋谷 ★☆
■あの頃町に若者がいないのは
大阪駅を午前0:00に出発する行き先不明の列車。これに乗り込んだ何かしらの問題を抱えた人たちが、山陰の小さな漁村の風町駅に着き、そこの風景や住人と接するうちに、次第に元気をもらい生きる希望を見つけるという話。
乗客は、年下の恋人に浮気されたキャリアウーマンの由香(櫻井淳子)、自殺願望の女子高生華子(多岐川華子)、リストラを妻に言い出せず、居場所を失った会社員の若林(大平シロー)など。一応各種用意しましたという感じにはなっているが、ここから先の工夫がない。
架空の風町は「あの頃町」と言われているように、都会人が無くしてしまった温かさの残る町という設定。レトロな映画館などがある懐かしい町並みの中に、お節介でやさしい人たちが楽しそうに暮らしている。ファンタジーにふさわしい理想の町といいたいところだが、風町には若者の姿がひとりも見えないのは何故か。
風町は、若者が逃げ出してしまった町なのではないか。そんな意地悪な疑問が浮かんだ。自分たちの問題も解決できていないのに、旅人にあれこれお節介をやいていていいのだろうかと。青年医師ちょんちょ先生(徳永英明)の存在で、このことはしばらく気付かずに観ていたのだが、実は彼も都会から流れてきたよそ者で「ぼくだって君たちと同じ旅人だよ。まだ旅の途中」なのだと言っていた。
それに子供もいない。だから祖父に預けられている翔太少年は友達もいなくて、華子を追い回した(直接の理由は逆上がりを教えて欲しくてだが)のか。
この、逆上がりができるようになったら翔太のパパが帰ってくるという話は、何のひねりもないひどいものだ。若林の自殺場面はヘタクソでかったるいし、最後にまた車掌が登場してきて「皆様、大切なものは見つかりましたでしょうか」というくくりにもうんざりした。
鉄道ファン向け映画という側面も意識して作っているのだと思っていたが、「鉄ちゃん」は途中で姿を消してしまってと(帰っただけだが)、これも制作側が持て余してしまったのだろうか。
【メモ】
EF58-150(イゴマル)の牽引するミステリートレイン。「行き先は不明です。お帰りは1ヶ月以内にお好きな列車で」。列車は何故か1駅(玉造温泉)だけ止まる。料金は9800円。
「何か大切なものを見つける旅になりますように」と車掌の挨拶がある。
風町で降りたのは20人くらいか。
「乙女座」という映画館がある。風町は海辺などのインフラが整っていて、それも内容に合わないような。
華子は若林に、決心したら一緒に死のうというメールを送る。葉子はネットで自殺者の募集を知り、同行するはずだったが約束の時間に遅れてしまう。
タレントになりたくて、そのあげくがイメクラ嬢のセーラちゃん。
2006年 109分 ビスタサイズ
監督:原田昌樹 原案:竹山昌利 脚本:篠原高志 撮影:佐々木原保志 編集:石島一秀 音楽:浅倉大介 主題歌:中森明菜『いい日旅立ち』 照明:安河内央之 挿入歌:徳永英明『Happiness』
出演:櫻井淳子(由香)、多岐川華子(華子)、徳永英明(越智太一/ちょんちょ先生)、大平シロー(若林)、大滝秀治(真鍋善作・元郵便局長)、黒坂真美(ミチル)、樫山文枝(本城多恵)、梅津栄(本城喜助)、石丸謙二郎(車掌)、石坂ミキ、小倉智昭、細川俊之(網干)、正司歌江(浜川裕子・翔太の祖母)
007 カジノ・ロワイヤル
2006年12月03日 日曜日
新宿ミラノ1 ★★★☆
■生身だから、恋もすれば、死にかけたりもする
ダニエル・クレイグのイメージが、今までのボンドとあまりにかけ離れているので、どうしてもそこに目がいってしまうが、映画自体も、まさに一新という内容になっている。好都合なことに、フレミングの原作がパロディ映画にはなったものの1つだけ残っていて、どこまでが原作に忠実かは別として(意味ないものね)、宣伝も「ジェームズ・ボンドが007になるまでの物語」(正確にはそれは少しで、最初の任務が軸。00要員になる最後の昇格条件は2つの殺害)と、新シリーズ誕生を鮮やかに印象づけている。
手始めはマダガスカルの工事現場での爆弾犯追跡劇。この追いかけっこがなかなかで、しかも相手(セバスチャン・フォーカン)の逃げ方のほうが格好いいときてる。ボンドはなんとか頭を使ってカバーするのだが、物は壊すし、自分の体は思いっ切りぶつけるし、と何とも荒削りだ。今までのボンドだと、スーツを着たままそれこそ汗ひとつかかずにやり遂げてしまうイメージが定着しているが、こちらは生身が売り物(筋肉見せまくり)のようだ。でありながら、もちろん超人的なんだけど。
悪役は、ル・シッフル(マッツ・ミケルセン)という投資家で、世界中のテロリストの活動資金を支えている張本人が彼という設定だ。マネーロンダリングはもちろん、テロで空売りを仕掛けた株価を暴落させようとする。ボンドのマイアミ空港での活躍で、その目論見(航空機の爆破)が阻止されると、損失を取り戻すべくモンテネグロのカジノ・ロワイヤルで大勝負に出ようとする。
ちょっと安直な筋立てだが、ル・シッフルもさすがに追いつめられたってことか。ここでアクションは休憩となって、情報を掴んだボンドもそこに乗り込み、カジノ対決となる。安直なのは英国諜報機関(MI6)もだよね。ギャンブルでテロ資金を巻き上げてしまおうって? しかもその席にはCIA(ジェフリー・ライト)もいて、こいつはポーカーが下手だってんだから笑ってしまう。でもまあ、この場面は時間をきっちりとっているだけの駆け引きが楽しめる。
ボンドは、つまり国家予算を賭金にしているわけで(おいおい)、英国財務省からはお目付役としてヴェスパー・リンド(エヴァ・グリーン)が同行する。彼女がボンドの恋の相手で、ボンドは愛に生きる決心をし、なんとMI6に辞表まで提出する。彼女との絡みでは、初めて殺しの場面を目にし、ショックで着衣のままシャワー室に座り込んでしまっている彼女に、ボンドが寄り添うようにして慰める場面も用意されていて、007映画らしからぬ繊細な配慮も見せる。もっとも、私的には恋の部分でのときめきには至らず、逆に減点対象にしてしまったのだけど。
カジノでもル・シッフルに勝つボンドだが(取られちゃったらどうするつもりだったのだ)、ヴェスパーを誘拐され、自身もル・シッフルの手に落ちてしまい、ここで全裸拷問場面となる。が、そのル・シッフルもテロ組織に消されて、と話は急展開。さらにはヴェスパーへの疑惑に、彼女の死、組織内の裏切り、と続くのだが、涙腺異常で目から血を流すル・シッフルがいなくなってしまってからは、アクションも含めて意外と盛り上がらない。頑張ってヴェネチアで古い建物を倒壊させているが、これも外している。
ということで、恋とはおさらばし、めでたくボンド誕生となる。で、最後になっていつもの決めゼリフの「My name is Bond, James Bond.」がやっと飛び出すという趣向だ。
クレイグボンドは新鮮だが、感情むき出し路線だと『M:i:III』があった。そういえば、トム・クルーズが蘇生したように、毒を盛られたボンドがAED(自動体外式除細動器)を使って危機を脱するあたりも似ていなくもない。もっともアイディア兵器の使用はぐっと少なく、アストン・マーチンから出てきたのはこのAEDくらいで、だからQも登場しない。子供だましという感じはないが、これはこれでさみしかったりする。
M(ジュディ・デンチ)との信頼が次第に築かれていくところなどもあるが、今回観るかぎりでは、逆にボンドである必要があったのか、とも。まあ、そう言いつつこんなことをだらだらと書けるのも、007のブランド力があってこそなのだが。
【メモ】
ニューボンドは6代目。シリーズとしては21作目。
冒頭の追いかけっこで得たケータイ情報から、ボンドは大胆にもMの自宅に侵入し、Mのパソコンを使って単独捜査までやらかす。
原題:Casino Royale
2006年 144分 スコープサイズ アメリカ、イギリス 日本語字幕:■
監督:マーティン・キャンベル 原作:イアン・フレミング『007 カジノ・ロワイヤル』 脚本:ニール・パーヴィス、ロバート・ウェイド、ポール・ハギス 撮影:フィル・メヒュー プロダクションデザイン:ピーター・ラモント 衣装デザイン:リンディ・ヘミング 編集:スチュアート・ベアード 音楽:デヴィッド・アーノルド テーマ曲:モンティ・ノーマン(ジェームズ・ボンドのテーマ) 主題歌:クリス・コーネル
出演:ダニエル・クレイグ(ジェームズ・ボンド)、エヴァ・グリーン(ヴェスパー・リンド)、マッツ・ミケルセン(ル・シッフル)、ジュディ・デンチ(M)、ジェフリー・ライト (フェリックス・レイター)、ジャンカルロ・ジャンニーニ(マティス)、サイモン・アブカリアン(アレックス・ディミトリオス)、カテリーナ・ムリーノ(ソランジュ)、イワナ・ミルセヴィッチ(ヴァレンカ)、セバスチャン・フォーカン(モロカ)、イェスパー・クリステンセン(ミスター・ホワイト )、クラウディオ・サンタマリア、イザック・ド・バンコレ
めぐみ-引き裂かれた家族の30年
2006年12月09日 土曜日
銀座テアトルシネマ ★★★
■まだ、何も終わっていない……
北朝鮮による拉致問題のことを考えると陰鬱になるばかりだ。実は、拉致被害者や肉親を奪われた家族について、なんとか絞り出して書いてはみたのだが、どれも言葉が上滑りしているものばかり。というわけで、それは割愛し(というほど大それたことは書いてないか)、いきなり注文めいたことを書くことにする。
外国人監督(アメリカ在住のジャーナリスト夫妻)によるこの映画が、どの程度の反響を呼んでいるのかは知らないが、拉致を世界に知らしめるものとしての意味は、とてつもなく大きいものがあるはずだ。そのことは大いに評価したい。
ただ、映画をひとつの作品としてみると物足りなさが残る。普通の日本人なら、かなりの部分はすでに新聞やテレビ等で知っていることだからだ。私の今回の新知識としては、大きなものでは、当時産経新聞記者(拉致事件をいち早く取り上げた)だった阿部雅美の証言と、テレビの小川宏ショーでの映像(1979年。ワイドショーでの取り上げられ方自体が「家出人捜索」となっている)くらいだろうか。
これは多分この映画が、日本人以外の観客を対象にして撮られたからだろう。しかしたとえば、世論も政府の対応もはじめのうちは冷たかったというあたりや、運動(家族会などの)は一枚岩だったのか、などの掘り起こしがあれば、もっと興味深いものになったと思われる。が、それをやりだすと、拉致問題を知らない人用の入門映画としては混乱してしまうだろうか。
映画は、創作部分はイメージ映像程度にとどめ、ドキュメンタリーとしても抑えた作りになっている。「政治的な問題でなく、人間的な物語として描きたかった」と監督が言っているように、北朝鮮糾弾というふうでもない。もっとも拉致という事実さえ描けば、それだけで北朝鮮の犯罪は明らかなのだから、この姿勢は成功している。
印象的に使われていたのが、画面に流れる歌だ。めぐみさんの友人(だったか?)の、もの悲しい歌声が耳に残るし、テープに残る小学生だっためぐみさん自身の歌声にもはっとさせられた。「慣れし故郷を放たれて、胸に楽土求めたり」(「流浪の民」シューマン作曲、石倉小三郎訳詩)という歌詞が、偶然とはいえあまりに皮肉だからだ。
川辺でよりそうようにして仲睦まじくみえる横田夫妻のほか、場面は少ないながら「本に書いてあることを自分が見聞きしたように語ってはいけない」と妻に意見する夫や、信仰についての考え方の相違も垣間見られて、覗き趣味人間としてはそのあたりをより知りたくなるが、映画が節度を忘れていないのは当然だ。
それにしても駅頭で暴言を吐きながら署名活動の板を叩くようにして去る人を見るのは悲しい。闘うべき敵は多いのだなと実感させられる。そんな中での横田夫妻の努力と執念には、こちらが励まされた気分になってくる。そして、どうしたらあんなに毅然としていられるのかとも。
横田夫妻にとっては、まだ何も終わっていないのだ。
【メモ】
めぐみさんが失踪したのは1977年11月15日の朝。
産経新聞の記事は1980年1月7日。「アベック3組謎の蒸発」という見出しで、外国諜報機関関与の疑いを報道。
(2007.1.11追記) この映画は8日に国連本部で上映され、在米カナダ人クリス・シェリダン監督夫妻の質疑応答があった。
原題:Abduction: The Megumi Yokota Story
2006年 90分 ビスタサイズ アメリカ
監督・製作:クリス・シェリダン、パティ・キム 製作総指揮:ジェーン・カンピオン 脚本:クリス・シェリダン、パティ・キム 撮影:クリス・シェリダン 編集:クリス・シェリダン
出演:横田滋、横田早紀江、増元照明、阿部雅美(元産経新聞記者)、アン・ミョンジン/安明進(元北朝鮮工作員)
武士の一分
2006年12月10日 日曜日
新宿ジョイシネマ1 ★★★
■武士の一分とは何か
最初に毒味役についての説明が字幕で出る。「鬼役」という別名があることは知らなかったが、このあと丁寧なくらいに毒味場面が進行するから、説明はまったく不要だ。言葉としても推測可能と思うのだが。対して「一分」がわかる現代人はどれほどいるだろうか。新明解国語辞典には「一人前の存在として傷つけられてはならない、最小限の威厳」とある。広辞苑では「一人の分際。一身の面目、または職責」だ。ふーん。あ、よくわかっていないことがバレてしまったか。いや、何となくは知ってたのだけどさ。
東北の小藩で三十石の下級武士である三村新之丞(木村拓哉)は、毒味役に退屈しきっていたが、その毒味の場で毒にあたって失明してしまう。この時代に失明することがいかに大変なことか。新之丞は命を絶とうとするが、妻の加世(檀れい)に、死ねば自分もあとを追う、と言われては思いとどまるしかない。実入りは減っても「隠居して、道場を作って子供に剣を教えたい」などと、中間の徳平(笹野高史)に話していたのに。
親戚連中が集まっての善後策は、全員が面倒を見たくないだけだから、ろくな話にならない。叔母の以寧(桃井かおり)も、失明という事実が判明するまではただの口うるさいおっせかいと片付けられたのだが。
誰かの口添えで少しでも家禄をもらえるようにするしかないという無策な結論に、加世はつい先日声をかけてもらった島田藤弥(坂東三津五郎)を思い出し、屋敷を訪ねる。藩では上級職(番頭)の島田は、加世には嫁入りする前から想いを寄せていて、チャンスとばかりに加世を手篭めにしてしまう。
物語の進行は静かだ。時間軸が前後することもほとんどない(加世の回顧場面くらいか)。新之丞の暮らしぶり、加世との仲睦まじいやり取り、父の代から仕える徳平とにある信頼関係と、事件が起きる前、そこにあるのは平和ボケともいえる風景である。なのに5人も毒味役がいて大仰なことよ、と思ったがこれは食材によって割り当てが違うことによる。
もっとも新之丞が毒にあたったことで、城内は戒厳令が布かれたかと思うほどの大騒ぎとなる。赤粒貝という危険な食材を時期もわきまえずに使ったことがわかって一件落着と思いきや、上司の樋口作之助(小林稔侍)の切腹というおまけがつく。居眠りばかりしていて、年をとったと新之丞たちにささかれるような樋口ではあったが、一角の武士だったのだ。
毒にあたった場面での新之丞の行動が不可解だ。毒味役ならば異変に気付いた段階ですぐ申し出なければならないはずなのに、大丈夫などと言っているのである。新之丞は何恰好をつけているのか。他に説明もなくこれで終わってしまうのだが、どう考えてもおかしい。事実、藩主は食事を口にする寸前だったのだ。これだと、家名存続、三十石の家禄はそのままで生涯養生に精を出せという「思いもかけぬご沙汰」には繋がらないではないか。
ねぎらいの言葉があるということで新之丞は久々に登城し、廊下のある庭で藩主を待つ。この場面がいい。藪蚊の大群と闘いながら、同僚(上役か)と2人で座して延々と待つのだが、やっと現れた藩主は新之丞たちを目に止めるでもなく「御意」と言い残しただけですたすたと消えてしまうのである。この歯牙にもかけぬ振る舞いに、馬鹿殿様と観客にも思わせておいて、あとで、新之丞の事故は職務上のこと故、と見るべき所はちゃんと見ていたのだよ、という演出だ。
そう、「思いもかけぬご沙汰」は島田の口添えからではなく、藩主の意思だったのである。このこととは別に、以寧の告げ口から加世の行動(島田にあのあとも2度も呼び出されていた)に疑念を抱いた新之丞は、徳平に加世を尾行させる。詰問した加世からすべてが語られるが、俺の知っている加世は死んだと離縁(新之丞はまだこの時、口添えではなく、藩主直々の裁可であったことは知らない)、島田との果たし合いへと進んでいく。
いくら新之丞が剣の達人といっても今や盲目。しかも相手は藩の師範でもある。師匠の木部孫八郎(緒形拳)の道場で執念の稽古にも励むが、勝ち目があるとはとても思えない。新之丞のただならぬ気迫を感じ取った木部は、事情によっては加勢を、と申し出るが、新之丞は「勘弁してくんねぇ、武士の一分としか」と答えるのみ。
期待を高めておいて、しかし、決闘場面はつまらないものだった。がっかりである。腕を切られた島田は、事情を誰にもうち明けることなく切腹。「あの人にも武士の一分があったのか」となるのだが、そう言われてもねぇ。
新之丞の武士の一分も、理由はともかくようするに私憤にすぎず、だからといって助太刀を断ったことだけをいっているとも思えない。島田に至っては事情など証せるはずもなく、しかしあの傷のまま何も語らないではすまないだろうから、生き恥をさらすよりはまし程度であって、それが果たして武士の一分といえるようなものなのか。武士の一分が、潔い死に方というのなら(違うか)この場合は説明がつくが、それだと「必死すなわち生くるなり」で島田にむかっていった新之丞は?と何もわからなくなる。もはや武家社会そのものが面倒で、現代人には理解不能なものともいえるのだが。
このあとは徳平のはからいで身を隠していた加世が、芋がらの煮物を作ったことで、新之丞の知るところとなり……という結末を迎える。
いい映画なのに、タイトルにこだわったことでアラが目立ってしまった気がするのだ。加世にしても徳平に尾行されているのを知っていたのなら、何故その時点で白状してしまわなかったのか。それと新之丞の行動は、加世を大切に思ってというよりは、自分本位な気がしなくもない。これでも江戸時代の男にしては上出来なのだろうが。
2006年 121分 ビスタサイズ
監督:山田洋次 原作:藤沢周平『盲目剣谺返し』 脚本:山田洋次、平松恵美子、山本一郎 撮影:長沼六男 美術:出川三男 衣裳:黒澤和子 編集:石井巌 音楽:冨田勲 音楽プロデューサー:小野寺重之 スチール:金田正 監督助手:花輪金一 照明:中須岳士 装飾:小池直実 録音:岸田和美
出演:木村拓哉(三村新之丞)、檀れい(三村加世)、笹野高史(徳平)、坂東三津五郎(島田藤弥)、岡本信人(波多野東吾)、左時枝(滝川つね)、綾田俊樹(滝川勘十郎)、桃井かおり(波多野以寧)、緒形拳(木部孫八郎)、赤塚真人(山崎兵太)、近藤公園(加賀山嘉右衛門)、歌澤寅右衛門(藩主)、大地康雄(玄斎)、小林稔侍(樋口作之助)
パプリカ
2006年12月10日 日曜日
テアトル新宿 ★★★☆
■現実を浸食する夢、と言われてもねぇ
DCミニは、精神医療研究所の巨漢天才科学者の時田浩作が開発した、他人の夢に入り込んで精神治療を行う器具だ。頭部に装着したもの同士が夢を共有できるというもので、完成すれば覚醒したまま夢に入っていけるようになるらしいが、うかつにもこれが悪用されることまでは考えていなかったようだ。
時田の同僚でサイコ・セラピストの千葉敦子は、そのDCミニを使って「パプリカ」という仮の姿になり、刑事の粉川利美を治療していた。粉川は所長の島寅太郎とは学生時代からの友人で、まだDCミニが極秘段階ながら、その治験者となっていたのだ。
そして、まだアクセス権も設定していないDCミニ3機が盗まれるという事件が起きる。実はここの理事長乾精次郎は、DCミニは夢を支配する思い上がりと、開発には反対の立場。理事長に知られないうちになんとかしなければと、島、時田、千葉の3人が協議をはじめるが、それをあざ笑うかのように何者かが島に入り込み、島は思いもよらぬ行動を取り始める。
島はもちろん覚醒しているしDCミニは装着していない。いきなり前提を覆す展開だが、これについては少しあとに千葉が氷室の夢に侵入されたことで、DCミニにあるアナフィラキシー効果がそういうことも可能にするかもしれない、と時田に言わせて一件落着。ようするに何でもありにしてしまっているのだが、そう思う間もなく、夢と現実が入り交じった世界が次々と現れる。開発者すら予測がつかない、ということもサスペンス的要素としてあるのだろうが、これはちとズルイではないか。
島の夢の分析から、時田の助手の氷室を割り出したり、千葉がパプリカになって島を救うのは流れからして当然にしても、アナフィラキシー効果は何故パプリカには出ないのだろう。それも含め、ここからの展開は急だし、現実が夢に浸食されだすこともあって、話に振り回されるばかりだ。氷室の自殺未遂で警察が動きだし、粉川刑事が担当になって、彼の夢だか過去にまで話が及ぶからややこしいことこの上ない。
そのくせ話はえらくこぢんまりしていて、犯人探しは理事長に行き着く。しかし、理事長はDCミニを毛嫌いしていたのでは。いや、だから「生まれ変わった」と言ってたのか。自分が夢や死の世界も自在にできるようになり、新しい秩序が私の足下からはじまると思い込んでしまったって。でも、だったら、この部分はもっときっちり描いてくれないと。
もっともそうはいっても夢を具現化したイメージはすごい。わけのわからないパレードの映像だけでも一見の価値がある。これは、アニメでなくては表現できないものだ。ただ私の場合、夢の映像って対象以外はほとんど見えていないことが多い。すべてが鮮明な夢というのを見たことがないので、そういう意味では違和感があった。
それと、ここには恐怖感がないのだ。だから大きな穴を前に「繋がっちゃったんですよ、あっちの世界とね」と言われても、そうですか、と他人事な感じ。言葉として理解しただけで。確かに夢が去って、イメージの残骸は消えてしまうものの廃墟は残る場面では、なるほどとは思うのだが。
だから結局何が言いたかったのかな、と。映画への偏愛(犯人を検挙できないことと並んで粉川刑事のトラウマとなっていたもの)と、科学オタクへの応援歌だったり? だって最後に千葉が時田に恋していたっていうのがわかるのがねー。「機械に囲まれてマスターベーションに耽っていなさい」なんて言っていたっていうのにさ。それが急に「時田君を放っておけない」なんて。母性愛みたいなもの? まあ、どっちにしろ、時田もだけど現実の方の千葉も、私にはあまり魅力的ではなかったのだな。
ただ夢の中のパプリカが、冷たい印象(才色兼備と言わないといけないのかなぁ)のする現実の千葉とは違って、孫悟空やティンカーベルのイメージになって楽しげに振る舞っているのは面白かった。治療している当の千葉が、夢の中では自分自身が解放されていたのだろうか。
「抑圧されない意識が表出するという意味ではネットも夢も似てる」という指摘があったが、本当に夢に現れるのは抑圧されない意識なのだろうか。それに、だとしても夢にそれほどの重要性があるのか、とも。
2006年 90分 アニメ ビスタサイズ
監督:今敏 アニメーション制作:マッドハウス 原作:筒井康隆『パプリカ』 脚本:水上清資、今敏 キャラクターデザイン・作画監督:安藤雅司 撮影監督:加藤道哉 美術監督:池信孝 編集:瀬山武司 音楽:平沢進 音響監督:三間雅文 色彩設計:橋本賢 制作プロデューサー:豊田智紀
声の出演:林原めぐみ(パプリカ/千葉敦子)、古谷徹(時田浩作)、江守徹(乾精次郎)、 堀勝之祐(島寅太郎)、大塚明夫(粉川利美)、山寺宏一(小山内守雄)、田中秀幸(あいつ)、こおろぎさとみ(日本人形)、阪口大助(氷室啓)、岩田光央(津村保志)、愛河里花子(柿本信枝)、太田真一郎(レポーター)、ふくまつ進紗(奇術師)、川瀬晶子(ウェイトレス)、泉久実子(アナウンス)、勝杏里(研究員)、宮下栄治(所員)、三戸耕三(ピエロ)、筒井康隆(玖珂)、今敏(陣内)
硫黄島からの手紙
2006年12月16日 土曜日
新宿ミラノ1 ★★★
■外国人スタッフによる日本映画
この作品が第二次世界大戦における硫黄島の戦いを描いた2部作で、アメリカ側の視点である『父親たちの星条旗』と対をなす日本側の視点を持つ作品であることは当然わかってはいたが、タイトルまでが日本語で出てきたのには驚いた(向こうの公開時ではどうなのだろう)。ついでながら『父親たちの星条旗』は特異な作品だから、この作品と合わせ鏡になることはない。つまり、こちらは表面的には普通の作品となっている。
スタッフはすべてアメリカ人(日系の脚本家などはいるが)ながら、俳優はともかくとしてセリフまでが日本語というのは、これまでのアメリカ映画から考えると画期的だ(『SAYURI』にはそういう面が少しあった)。どこの国の話でも英語のまま作ってしまう無頓着さにあきれていたからだが、しかし例えば日本の映画会社が日露戦争や日中戦争などを、相手国の視点で、しかも劇映画(興行としては少なくとも赤字であってはならない)で撮ろうとすれば、それが相当困難だという結論にすぐ達するはずである。
そして、内容的にも日本人の心情をかなり代弁してくれているという、心憎いものとなっている(日本のマーケットがあるからという発想もあったか)。多用された回想部分はクリント・イーストウッド監督らしからぬ情緒的なものが多いので、日本人が作ったといわれても違和感がないくらいなのだ。
気になる部分をしいて上げるなら、アメリカ留学経験のある栗林忠道中将(渡辺謙)とロサンゼルスオリンピック馬術競技金メダリストの西竹一中佐(伊原剛志)が共に西洋かぶれだということぐらいか。もちろんそんなふうには描かれていない。少し意地悪く言ってみただけだ。敵を知る人間が日本にもいたというところか。逆に、ほとんどの兵は敵を知らずに戦っていたのだと、映画は繰り返していた。
そして、だからこそ最後に天皇陛下万歳と叫びながら玉砕する栗林中将の姿に、複雑な思いが交錯することになる。ただ、西中佐が馬を連れて硫黄島にやって来ているというのは、どうもね。馬が可哀想だし、他に運ぶべきものがあったのでは、と思ってしまうからだ。
そうはいっても栗林中将を中心とした守備隊の上層部の視点だけでなく、西郷(二宮和也)や清水(加瀬亮)といった一兵卒に目が向けられているのは、映画を2部作としてアメリカ側と日本側から描いたのと同じ配慮だろう。とくに西郷にはかなりの時間を割いていて、彼が着任早々の栗林の体罰禁止令によって救われ、2度、3度と接点を持って最後の場面に至るあたりは映画的なお約束となっている。映画は2005年に硫黄島で大量の手紙が発見される場面ではじまるが、映画の中では手紙を書くのは西郷と栗林の2人で、そういう意味でも2人が主役ということになるだろうか。
もちろん一兵卒の西郷に劇的なことなどできるはずもなく、穴掘りに不満をぶつけ、内地に残してきた身重の妻に思いを馳せる場面にしかならないが、絶望という地獄の中で生き続けようとする彼の姿(見方を変えると自決も出来ず、投降も辞さない愛国心のない頼りない男ということになる)をなにより描きたかったのだろう。
対して栗林は、着任早々旧来の精神論的体制を合理的なものに改め、戦法も水際に陣地を築くというやり方から島中に地下壕を張り巡らせるという方法をとるなど、指揮官故に見せ場も多い。もっとも無意味な突撃や自決も禁じたため、西中佐のような理解者も現れるが、古参将兵からは反発を買うことになる。
伊藤中尉(中村獅童)がその代表格で、アメリカの腰巾着で腰抜けと栗林を評し、奪われた摺鉢山を奪還するのだと、命令を無視して逸脱した行動に出る。が、無謀なだけの精神論でそれが果たせるはずもなく、最後はひとり死に場所を求めてさまようのだが、ここらあたりから自分が何をしているのかわからなくなっていく。
おもしろいことに映画の描き方としてもここは少しわかりにくくなっている(これは嫌味)のだが、西郷と同じところに配属されてきた元憲兵の清水の運命と考えあわせると、ここにも戦争(に限らないが)というものの理不尽さをみることができるだろう。捕虜を殺してしまう米兵、自決が強要される場面や西中佐が米兵の手紙を読む挿話など、すべてがその理不尽さに行き着く。
しかし実をいうと、2部作としての意義は認めるものの、私には凡庸で退屈な部分も多い映画だった。そして『父親たちの星条旗』と同じく、この作品でも(つまり両方の作品を観ても)硫黄島の戦いの全貌がわからないという不満が残った。もちろんこれはイーストウッドと私の興味の差ではあるが、できれば情緒的な挿話は少し減らしてでも、客観的事実を配すべきではなかったか。そのことによって日本兵のおかれていた立場の馬鹿馬鹿しさが際だったはずだし、画面にも緊迫感が生まれたと思うからだ。
【メモ】
「家族のためにここで戦うことを誓ったのに、家族がいるからためらう」(西郷のセリフ)
原題:Letters from Iwo Jima
2006年 141分 シネスコ アメリカ
監督:クリント・イーストウッド 製作:クリント・イーストウッド、スティーヴン・スピルバーグ、ロバート・ロレンツ 製作総指揮:ポール・ハギス 原作:栗林忠道(著)、吉田津由子(編)『「玉砕総指揮官」の絵手紙』 原案:アイリス・ヤマシタ、ポール・ハギス 脚本:アイリス・ヤマシタ 撮影:トム・スターン 美術:ヘンリー・バムステッド、ジェームズ・J・ムラカミ 衣装デザイン:デボラ・ホッパー 編集:ジョエル・コックス、ゲイリー・D・ローチ 音楽:カイル・イーストウッド、マイケル・スティーヴンス
出演:渡辺謙(栗林忠道中将)、二宮和也(西郷)、伊原剛志(バロン西/西竹一中佐)、加瀬亮(清水)、松崎悠希(野崎)、中村獅童(伊藤中尉)、裕木奈江(花子)
イカとクジラ
2006年12月16日 土曜日
新宿武蔵野館 ★★★★
■この家の子だったらたまらない
1988年のブルックリン、パークスロープ。バークマン家のウォルト(ジェシー・アイゼンバーグ)とフランク(オーウェン・クライン)の兄弟は、家族会議の場で両親のバーナード(ジェフ・ダニエルズ)とジョーン(ローラ・リニー)から2人の離婚を伝えられる。「ママと私は……」と切り出したところでフランクが泣き出してしまうところをみると、薄々は気付いていたようだ。それでも12歳のフランク(ウォルトは16歳)にとってはいざ現実となるとやはり悲しいのだろう。こうして共同親権のもと、親の間を行き来する子供たちの生活がはじまる。
冒頭の家族テニスは妙なものだったが、その謎はすぐに解ける。テニスは、バーナード=ウォルト組にジョーン=フランク組の対戦。このダブルスは組み合わせからして力の差がありありなのに、バーナードはジョーンの弱点のバックを突けとウォルトにアドバイス。こりゃ、嫌われるよバーナード(終わってからコートの横でもめてたっけ)。
共に作家ながら、過去の栄光にしがみついているだけのバーナード(だからか大学講師である)に比べ、ジョーンは『ニューヨーカー』誌にデビューと、今や立場が逆転。家を出たバーナードが借りたのはボロ家だし、金に細かいことを言うのもうなずける。
バーナードは自分の価値観を押しつけ気味だしなーと思っていると、ジョーンもその反動なのか、ひどい浮気癖があって、しかもこの家族はインテリだからかなのかはわからないが、それを子供たちにまで白状してしまい「この家はぼくたちがいるのにまるで売春宿だ」などと言われてしまう始末。現にジョーンは、さっそくテニスコーチのアイヴァン(ウィリアム・ボールドウィン=おや、懐かしいこと)を家に入れて暮らしはじめる。バーナードの方も教え子のリリー(アンナ・パキン)に部屋を提供したりして、なんだか怪しいものだ(あとでウォルトも彼女に惹かれてしまう)。
子供たちも壊れていったのか、それともそもそもおかしかったのか、ウォルトはピンク・フロイドのパクリを自作と称して平然としているし、中身も読まずに本の感想文を書いたりと、世の中を斜めに見る傾向があるのだが、多くはバーナードの受け売り(女の子との付き合い方までも)。ようするにバーナードの味方(フランクは母親っ子)で、ジョーンにも「パパが落ち目だから、いい家族を壊すの」と訊いていた。ふうむ、ウォルトにとっては一応はいい家族だったのか。フランクの壊れ方はさらにぶっとんでいて、家ではビールは飲むし、図書館では自慰行為を繰り返すしで、ついには学校から呼び出しがくる。
悲惨だし異常でしかないのだが、語り口にとぼけた味わいがあって、そうは深刻にならない。面白く観ていられるのはこちらの覗き趣味を充たしてくれることもあるからなのだが、これが監督で脚本も書いたノア・バームバックの自伝的な作品ときくと、どういう心境で創ったのかと複雑な気分にもなる。
「パパは高尚で売れないだけ」とあくまで父親の味方のウォルトだが、しかし彼の大切にしている思い出は「小さい頃は博物館のイカとクジラが怖かったが、ママと一緒だと平気だった。楽しかった」というもの。この部分こそが自伝的なものだと思いたい。
最後は過労で倒れたバーナードを見舞っているウォルトが、思い出したように博物館に行き、巨大なイカを食べようとしているクジラの模型?を見る。彼が何を感じたのかは不明だし、この場面をタイトルにした真意もわからない。が、何か自分なりの方法をウォルトは見つけるはずだと、予感したくなる終わり方だった。
(2007/04/02追記)朝日新聞の朝刊の科学欄に「死闘見えてきた マッコウクジラVS.ダイオウイカ」という記事があった。まだまだ生態は不明な部分が多いらしいが、両者は「ライバル関係にあるらしい」。なるほど。要するに結婚というのは異種格闘技のようなもの、というタイトルなのね。
【メモ】
オーウェン・クラインはケヴィン・クラインの息子(フィービー・ケイツとの子なの?)。
原題:The Squid and The Whale
2005年 81分 ビスタサイズ アメリカ PG-12 日本語字幕:太田直子
監督・脚本:ノア・バームバック 撮影:ロバート・イェーマン プロダクションデザイン:アン・ロス 衣装デザイン:エイミー・ウェストコット 編集:ティム・ストリート 音楽:ブリッタ・フィリップス、ディーン・ウェアハム
出演:ジェフ・ダニエルズ(バーナード・バークマン)、ローラ・リニー(ジョーン・バークマン)、ジェシー・アイゼンバーグ(ウォルト・バークマン)、オーウェン・クライン(フランク・バークマン)、ウィリアム・ボールドウィン(アイヴァン)、アンナ・パキン(リリー)、ケン・レオン、ヘイリー・ファイファー
スキャナー・ダークリー
2006年12月17日 日曜日
シネセゾン渋谷 ★★★
■ロトスコープアニメ=ドラッグの世界?
まず驚くのが実写映像を加工してアニメにしていることで、キアヌ・リーヴスがちゃんとキアヌ・リーヴスに見えることだ(すでに予告篇で圧倒させられていたが)。珍しくも買ったプログラムを読むと、この技術はロトスコープと呼ばれるもので、これには相当手間暇をかけているらしい。
よくわからないのだが、このアニメを作るには実写が必要で、ってことは実写版が存在する!? 確かに巻頭のチャールズ・フレック(ロリー・コクレイン)の体を虫が這い回る場面などはアニメ向きといえなくもないが、でも他の部分でかかる作業をここに振り向ければCGでもかなりのものができたのではないか。あとはスクランブル・スーツの表現だが、これも同じことが言えそうだ。
そして、このロトスコープによって出来た映像はアメリカン・コミックスの質感を思わせる。私にとってアメコミは、たまに見ると総体としては新鮮なものだが、個々のキャラクターとなるとすべてが似た質感で無個性にしか見えない。ロトスコープも同じで、最初のうちこそその効果は絶大だが、次第に疲れてしまっていた。単独に1枚1枚の絵として見ているぶんにはいいんだけどね。
はじめから焦点が合ったり合っていない部分のある普通の映像の方が(もちろん全体に合っているものもあるが)、目線の移動に合わせて焦点も自然に合わせてしまう人間の目よりは不自然なのに、感覚的には自然なのは面白い。焦点が映画の意思であるということを体験的に覚えてしまっているのだろうし、単純に慣れてしまっているからだろうか。これは普通のアニメとの比較でもいえることだが、ロトスコープだとそれがより顕著になるようなのだ。
映画の舞台は、麻薬の蔓延した「現在から7年後」のカリフォルニア州アナハイム。なかでも猛威をふるっているのが、依存性が強く、常用が進むと右脳が左脳を補おうとして認知障害を起こす「物質D」で、政府はこの撲滅に躍起となっていた。
ボブ・アークター(キアヌ・リーヴス)は、覆面麻薬捜査官として自ら物質Dを服用、彼の自宅は今やジャンキーたちの巣と化すまでになっていた。覆面捜査官は署内や上司にも正体を知られてはならず、刻々と顔や声のパターンが変化するスクランブル・スーツなるものを身につけ、アークターはフレッドというコード名で呼ばれていた。つまり彼にとっても上司が誰なのかがわからないというのがミソとなっている。
アークターは、巻頭に登場したフレック(すでに物質Dにかなり犯されていて、しばしば虫の幻覚に襲われる)、ジム・バリス(ロバート・ダウニー・Jr.)、アーニー・ラックマン(ウディ・ハレルソン)のジャンキー共同生活者を監視。さらに恋人関係になった売人のドナ(ウィノナ・ライダー)に大量に物質Dを注文し、密売ルートを探ろうとするが、アークターを疑ったバリスのたれ込みもあって、アークターは自分を監視するように上司から命令されてしまう。
究極の監視社会を象徴するような光景だが、アークターは結局物質Dにやられ、果てはニュー・パスと呼ばれる更生施設に送られることになる。その過程で、アークターの上司がなんとドナであり、ニュー・パスが更生施設どころか物質Dの栽培農場だということが判明する。
これは一体どういうことなのだろう。ホロスキャナーといわれる常時監視盗聴システムで24時間休むことなく監視された映像を分析しているにもかかわらず、覆面捜査官まで送り込む異常さに、この設定はちょっとあんまりだと思ったものだが、ドナの正体がわかってみると、5人の監視対象のうち2人までもが覆面捜査官ということになってしまうではないか。
アークターが物質Dによる症状がどこまで出ているかというテストを受けさせられることや、ニュー・パスの正体も含めて、登場人物は、結局政府の自作自演物語に踊らされているだけというオチなのだろうか。そして、数人で相互監視をする社会がすでに成立しているのかもしれない。が、その目的などが明示されることはない。情報を知っているのは食物連鎖の上の者だけ、などというセリフはあるが、それ以上のことは何もわからない。
この構図は確かに怖いのだが、ロトスコープアニメの映像が現実に似て現実でないのと同様に、現実離れしすぎていて実感をともなわない。アークターではないが、監視が幻想かもしれないと思い出すと、映画全体がドラッグの世界ということもなってくる。そうか、そのためのロトスコープアニメとか。いや、まさかね。
映画の最後には「これは行いを過度に罰せられた者たちの物語。以下のものに愛をささげる」という字幕のあとに何名もの名前が続く。そして「彼らは最高の仲間だった。ただ遊び方を間違えただけ。……フィリップ・K・ディック」。原作はディックの実体験が生んだ作品とのことだ。しかしそれにしては、ここに出てくるジャンキーたちは簡単に仲間を売ったりするし、自分勝手な御託を並べているだけで、愛すべき存在には見えないた。紅一点のドナにしても、恋人のアークターが肌に触れるのも拒否していた(コカイン中毒によるものらしいのだが)し、「あなたはいい人よ。貧乏くじをひいただけ」というセリフにしても、冷たい感じがしてならなかったのだが。
原題:A Scanner Darkly
2006年 100分 ビスタサイズ アメリカ R-15 日本語字幕:野口尊子
監督・脚本:リチャード・リンクレイター 製作:アン・ウォーカー=マクベイ、トミー・パロッタ、パーマー・ウェスト、ジョナ・スミス、アーウィン・ストフ 製作総指揮:ジョージ・クルーニー、ジョン・スロス、スティーヴン・ソダーバーグ、ベン・コスグローヴ、ジェニファー・フォックス 原作:フィリップ・K・ディック『暗闇のスキャナー』 撮影:シェーン・F・ケリー プロダクションデザイン:ブルース・カーティス 衣装デザイン:カリ・パーキンス 編集:サンドラ・エイデアー アニメーション:ボブ・サビストン 音楽:グレアム・レイノルズ
出演:キアヌ・リーヴス(ボブ・アークター/フレッド)、ロバート・ダウニー・Jr(ジム・バリス)、ウディ・ハレルソン(アーニー・ラックマン)、ウィノナ・ライダー(ドナ・ホーソーン)、ロリー・コクレイン(チャールズ・フレック)
無花果の顔
2006年12月24日 日曜日
シネマスクウェアとうきゅう ☆
■わかりたくもない桃井ワールド
部下のやった手抜き工事を直す工務店勤めの父親(石倉三郎)。近所のようだったのに、わざわざウイークリーマンションまで借りて、しかも配管は複雑でも大した工事とは思えないのだが、こっそりやる必要があるからなのか、夜間だけ。でも、バレるでしょ。マンションの窓越しに見える女(渡辺真起子)が気になって仕方がなかったが、工事が終わってしまえばそれっきりである。「おとうさんが帰ってくるとうるさくていいわ」と、それなりにウキウキの母(桃井かおり)。でもその父に突然の死がやってきて……。
葬式で様子のおかしい母であったが、物書きになった娘(山田花子)と東京タワーの見えるマンションで暮らしだす。時間経過がよくわからないのだが、勤めだした居酒屋の店長(高橋克実)にプロポーズされてあっさり再婚し、新居に越していく。何故かそこに、前の家にあった無花果の木を植え(家はまだ処分していなかったのか)、前夫の遺品を埋める。娘は不倫のようなことをしていたようだが、子供を生む。
家族のあり方、それも主として母(妻)の置かれている立場を描いたと思われる。しかし、何が言いたいのかはさっぱりわからない。
例えば最初の食事の場面から家族がだんだんと消えていき、無花果の木に残されたカメラに向き合う母という構図で、彼女の見えない孤独を提示していたのかもしれないのだが、しかしこの場面を削ったり入れ替えたりしても、全体としてそうは影響がなさそうだ。そして、他にもそう思える場面がいくつもあるのだ。映画というのは単純に時間から判断しても相当凝縮された空間のはずで、本来削除できない場面で構成されるべきものと考えると、これはまずいだろう。
題名、演技、撮影、照明、小道具と、何から何まで思わせぶりだから退屈することはないが、それでも最後にはうんざりしてくる。人工的な色彩だろうが、ヘンな撮り方をしようが、わざと不思議な寝方や死体の置き方をさせようが、それはかまわない。でも、納得させてほしいのだ。すべてがひとりよがりの域を出ていないのでは話にならない。
興味の対象が違うだけとは思うが、普通の映画のつくりをしていないことは逃げにもなるから致命傷になる。わかりやすい映画だけがいいとは言わないが、少なくともわからない部分を解き明かしたくなるようには創ってもらいたいと思うのだ。
2006年 94分 サイズ■
監督・原作・脚本:桃井かおり 製作:菊野善衛、川原洋一 エグゼクティブプロデューサー:桑田瑞松、植田奈保子 統括プロデューサー:日下部哲 協力プロデューサー:原和政 撮影:釘宮慎治 美術:安宅紀史 美術監督:木村威夫 衣装デザイン:伊藤佐智子 編集:大島ともよ 音楽プロデューサー:Kaz Utsunomiya VFXスーパーバイザー:鹿角剛司 スーパーバイザー:久保貴洋英 照明:中村裕樹 録音:高橋義照 助監督:蘆田完 アートディレクション:伊藤佐智子
出演:桃井かおり(母)、山田花子(娘)、石倉三郎(父)、高橋克実(新しい父親)、岩松了(男)、光石研(母の弟)、渡辺真起子(隣の女)、HIROYUKI(弟)
鉄コン筋クリート
2006年12月29日 金曜日
新宿ミラノ3 ★★☆
■絵はユニークだが、話が古くさい
カラスに先導されるように巻頭展開する宝町の風景に、わくわくさせられる。カラスの目線になった自在なカメラワークもだが、アドバルーンが舞う空に路面電車という昭和30年代の既視感ある風景に、東南アジアや中東的な建物の混在した不思議で異質な空間が画面いっぱいに映しだされては、目が釘付けにならざるをえない。
この宝町を、まるで鳥人のように電柱のてっぺんやビルを飛び回るクロとシロ。キャラクターの造型も魅力的(ただし誇張されすぎているからバランスは悪い)だが、この身体能力はまったくの謎。単純に違う世界の話なのだよ、ということなのだろうか。
ネコと呼ばれるこの2人の少年は宝町をしきっていて、それでも大人のヤクザたちとは一線を画しているのだろうと思って観ていたのだが、やっていることはかつあげやかっぱらいであって、何も変わらない。親を知らないという事情があればこれは生きていくための知恵ということになるのだろうが、このあとのヤクザとの絡みを考えると、もっともっと2人を魅力的にしておく必要がある。
旧来型のヤクザであるネズミや木村とならかろうじて成立しそうな空間も、子供の城というレジャーランドをひっさげて乗り込んできた新勢力の蛇が入ってくると、そうはいかなくなる。組長が蛇と組もうとすることで、配下のネズミや木村の立場も微妙に変わってくる。ネズミを追っていた刑事の藤村と部下の沢田(彼は東大卒なのだ)も動き出して、宝町は風雲急を告げるのだが、再開発で古き良きものが失われるという情緒的な構図は、昔の東映やくざ映画でもいやというくらい繰り返されてきた古くさいものでしかない。
だからこその、無垢な心を持つシロという存在のはずではないか。が、私にはシロは、ただ泣き叫んでいるだけのうるさい子供であって、最後までクロが持っていないネジを持っているようには見えなかったのである。これはシロのセリフで、つまりシロが自覚していることなのである。そういう意味では、シロはやはり特別な存在なのだとは思うのだが……。
たぶん2人に共感できずにいたことが、ずーっとあとを曳いてしまったと思われる。クロとシロはそのまま現実と理想、闇と光という二元論に通じ、要するに互いに補完し合っているといいたいのだろう。しかし、最後に用意された場面がえらく観念的かつ大げさなもの(クロは自身に潜んでいるイタチという暗黒面と対峙する)で、しらっとするしかなかったのだ。
題名の『鉄コン筋クリート』は意味不明(乞解説)ながら実に収まりのいい言葉になっている。しかし映画の方は、この言葉のようには古いヤクザ映画を換骨奪胎するには至っていない。手持ちカメラを意識した映像や背景などのビジュアル部分が素晴らしいだけに、なんだか肩すかしを食わされた感じだ。
【メモ】
もちもーち。こちら地球星、日本国、シロ隊員。おーとー、どーじょー。
2006年 111分 サイズ■ アニメ
監督:マイケル・アリアス アニメーション制作:STUDIO4℃ 動画監督:梶谷睦子 演出:安藤裕章 プロデューサー:田中栄子、鎌形英一、豊島雅郎、植田文郎 エグゼクティブプロデューサー:北川直樹、椎名保、亀井修、田中栄子 原作:松本大洋『鉄コン筋クリート』 脚本:アンソニー・ワイントラーブ デザイン:久保まさひこ(車輌デザイン) 美術監督:木村真二 編集:武宮むつみ 音楽:Plaid 主題歌:ASIAN KUNG-FU GENERATION『或る街の群青』 CGI監督:坂本拓馬 キャラクターデザイン:西見祥示郎 サウンドデザイン:ミッチ・オシアス 作画監督:久保まさひこ、浦谷千恵 色彩設計:伊東美由樹 総作画監督:西見祥示郎
声の出演:二宮和也(クロ)、蒼井優(シロ)、伊勢谷友介(木村)、田中泯(ネズミ/鈴木)、本木雅弘(蛇)、宮藤官九郎(沢田刑事)、西村知道(藤村刑事)、大森南朋(チョコラ)、岡田義徳(バニラ)、森三中(小僧)、納谷六朗(じっちゃ)、麦人(組長)
プラダを着た悪魔
2006年12月29日 金曜日
新宿武蔵野館3 ★★★☆
■ファッションセンスはあるのかもしれないが
ジャーナリスト志望のアンディ(アン・ハサウェイ)は、何故か一流ファッション誌「ランウエイ」のカリスマ編集長ミランダ(メリル・ストリープ)のセカンドアシスタントに採用される。大学では学生ジャーナリズム大賞もとった優秀なアンディだが、ファッションには興味がないし(どころか見下してもいた)、「ランウエイ」など読んだことがなく、世間では憧れの人であるミランダのことも知らないという有様。話を面白くしているのだろうが、ここまでやるとアンディがお粗末な人になってしまっている。
腰掛け仕事のつもりでいたアンディだが、ミランダの容赦のない要求に振り回され、ジャーナリストとはほど遠い雑用の毎日を送ることになる。が、次第にプロとしての自覚が出て、という話はありがちながら、わかりやすくて面白い。
ミランダの悪魔ぶりとアンディの対応。冷ややかな目の周囲と思いきや、案外心遣いのある先輩たち。アンディの負けん気は、当然仕事か私生活かという問題にもなるし、仕事絡みで一夜のアバンチュールまで。ミランダの意外な素顔に、思いがけない内紛劇。1つ1つに目新しさはないものの、次から次にやってくる難題が、観ている者には心地よいテンポになっている。
だからアンディと同じような、ファッションに興味のない人間も十分楽しめる。が、サンプル品(でもブランド品)で着飾ったアンディより、おばあちゃんのお古を着ているアンディの方が可愛く見えてしまう私などには、車が横切ったり建物に隠れたりする度に、違う服で現れるアンディという演出は効果がない(それに着飾っただけで変わってしまうのだったら安直だ)。
そんな街角ファッションショーはどうでもいいが、ミランダが毛皮などをアンディの机に毎度のように乱暴に置いていくのは気になってしかたがない。ミランダがただの悪魔ではなく、部下の資質ややる気などを試し、そして育てようとしていることを伝えたいのだろう。それはわかるのだが、細かい部分で文句付けたいところがあっては、悪魔の本領を発揮する前に品格を問われてしまうことになる。
自分の(双子の)子供にハリーポッターの新作を誰よりも先に(出版前に)読ませたい、という難題をアンディに課すのは公私混同でしかないし、なによりミランダには食べ物に対するセンスが欠けている。職場にステーキやスタバのコーヒーを持ち込ませて、果たしておいしいだろうか。予定が変わって、あの冷めたステーキは食べずにすんだようだが、頭に来たアンディがそれをごみ箱行きにしてしまうのは、食べ物を粗末にするアメリカ人をいやというほど見せつけられているからもう驚きはしないが、やはりがっかりだ。
アンディの私生活部分がありきたりなのもどうか。ネイト(エイドリアン・グレニアー)との関係がもう少しばかり愛おしいものに描けていればと思うのだが、それをしてしまうとクリスチャン(サイモン・ベイカー)とパリで寝てしまうのが難しくなってしまうとかね。クリスチャンに誘われて、「あなたのことはよく知らないし……異国だし……言い訳が品切れよ」と言っていたが、こういうセリフはネイトと一緒の場面にこそ使ってほしい。それにしてもこういう女性のふるまいを、ごんな普通の映画でもさらっと描く時代になったのか、とこれはじいさんのつまらぬ感想。
また、アンディにミランダとの決別を選ばせたのは、サクセスストーリーとしてはどうなのだろう(仕事を投げ出すことは負けになってしまうという意味で)。ま、これがないとミランダがアンディのことをミラー紙にファクスで推薦していてくれていたという、悪魔らしからぬ「美談」が付けられないのだけどね。
文句が先行してしまったが、離婚話でアンディにミランダの弱気な部分を見せておいて(仕事に取り憑かれた猛女と書かれるのはいいが、娘のことは……と気にしていた)、最後に危機をしたたかに乗り切る展開は鮮やかだ。アンディの心配をよそにちゃんと手を打っていたとは、さすが悪魔。一枚上手だ。ただ、とまた文句になってしまうが、ナイジェル(スタンリー・トゥッチ)の昇進話とこの最後のからくりの繋がりは少々わかりづらかった。
先輩アシスタントのエミリー(エミリー・ブラント)の挿話もよく考えられたもので納得がいく。ミランダがナイジェルにした仕打ちをアンディがなじると、あなたもエミリーにもうやったじゃない、と切り返される場面では、仕事の奥深さ、厳しさというものまで教えてくれるのである。
【メモ】
見間違いかもしれないが、久々にスクリーンプロセス処理を観たような。
原題:The Devil Wears Prada
2006年 110分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:松浦美奈
監督:デヴィッド・フランケル 製作:ウェンディ・フィネルマン 製作総指揮:ジョセフ・M・カラッシオロ・Jr、カーラ・ハッケン、カレン・ローゼンフェルト 原作: ローレン・ワイズバーガー『プラダを着た悪魔』 脚本:アライン・ブロッシュ・マッケンナ 撮影:フロリアン・バルハウス プロダクションデザイン:ジェス・ゴンコール 衣装デザイン:パトリシア・フィールド 編集:マーク・リヴォルシー 音楽:セオドア・シャピロ
出演:アン・ハサウェイ(アンドレア・サックス)、メリル・ストリープ(ミランダ・プリーストリー)、エミリー・ブラント(エミリー)、スタンリー・トゥッチ(ナイジェル)、エイドリアン・グレニアー(ネイト)、トレイシー・トムズ(リリー)、サイモン・ベイカー(クリスチャン・トンプソン)、リッチ・ソマー(ダグ)、ダニエル・サンジャタ(ジェームズ・ホルト)、レベッカ・メイダー、デヴィッド・マーシャル・グラント、ジェームズ・ノートン、ジゼル・ブンチェン、ハイジ・クラム
インビジブル2
2006年12月30日 土曜日
シネパトス2 ★★
■透明だから見せ場も作れない、てか
ライズナー研究所の開いたパーティで起きた不思議な殺人事件を担当していたフランク・ターナー刑事(ピーター・ファシネリ)とリサ・マルチネス刑事(サラ・ディーキンス)だが、国防総省の介入で捜査をはずされ、代わりに女性科学者マギー・ダルトン博士(ローラ・レーガン)の警護を命じられる。
マギーは犯人の次の標的らしいのだが、フランクたちには肝腎なことは何も知らされない。半年前に研究所を解雇されている当のマギーも、守秘義務を盾に口を開こうとしない。張り込み中に、姿の見えぬ犯人はリサを殺害。そこへ何故か突入してきた特殊部隊。犯人はマギーに襲いかかるが、混乱の中、なんとかフランクに助けられ車に乗り込む。
あらすじだと緊迫感がありそうだが、映画は平凡な仕上がり。姿の見えぬ犯人=透明人間の怖さがほとんど出ていないのだ。目に見えないのだから、描きようがないのかもしれないが、だったら映画なんか作るな、と言いたくなる。ビデオカメラにうっすらと影が映ることで恐怖を予感させたり、透明人間を映像として捕捉するカメラ(ナイトビジョン搭載ビデオ)も出てくるが、どれもあまり機能していない。透明人間対透明人間の雨の中の決闘という、考え抜いただろう今回最大の見せ場も、不発。さらに言えば、雑踏で透明人間がフランクたちを追いかけるのはまったく無理がある(考えればわかることなのに!)。
やっとのことで犯人を振りきって逃げ込んだ警察でも、マギーを軍に引き渡すように言われるし、特殊部隊の突入にも不信感を抱いていたフランクは、またマギーと共にそこから逃げ出す。そして、マギーの口からもついに真相が……。
5年前の惨事(2000年公開の第1作)によって中断していた研究は、「見えない戦士」に期待を寄せる国防総省の援助のもと、ライズナー博士(デヴィッド・マキルレース)によって引き継がれていた。しかし透明化には、次第に細胞が損傷しついには死に至るという副作用があった。その緩和剤を完成させたのがマギー。だが、被験者となった特殊部隊員のマイケル・グリフィン(クリスチャン・スレイター)には、何故か緩和剤は投与されなかったらしい。そしてマギーには、解雇は緩和剤で死亡したためと説明されていたのだった。
国防総省が自ら出動して警察の動きを封じながら、しかしそれにしては悪玉の陰謀はスケールの小さいものだし、ひねりもない(ひねりすぎが流行った反動?)ものだ。とはいえ、兵器としてではなく、政敵の抹殺が目的というのは案外単純で正しい使い方かもしれない。ただし、このあたりの説明もあっさりしたものだ。
この政敵暗殺計画を語ったのは、第2号被験者というティモシー・ローレンス。彼はすでに瀕死の状態にあり、しかも可視化のだいぶ進んでいるおぞましい姿で登場する。この他にもマギーの妹ヘザー(ジェシカ・ハーモン)に魔の手を伸ばさせたり、なんとか平坦さを避けようとしているが、全体に人間関係に無頓着で深みがないから、用意した状況が生きてこない。フランクといい関係に見えたリサは、簡単にマギーの身代わりになって早々に退場させてしまうし、そのあと、フランクがマギーと近しい雰囲気になっていくあたりもまったくの書き込み不足。
一番怖くて面白い場面は、フランクが追いつめられて透明人間の薬を自分に打つところか。で、このあとグリフィンと対決し彼を殺戮するのだが、これがシャベルで刺し殺すという残忍なもの。今回は製作総指揮ながらポール・ヴァーホーヴェンらしさもうかがえる。
それにしても、グリフィンはどこまでが暴走だったのだろうか。透明人間より制御不能人間部分に重みをおいた方が、数段面白い作品になったはずだ。続編を暗示して終わった(次作はフランクの暴走か!)が、もう観ないかも。
クリスチャン・スレイター(最近活躍してないよね)は、ほとんど顔を見せることがなかったが、透明人間場面のギャラはもらえるのだろうか。
原題:Hollow Man 2
2006年 91分 サイズ■ アメリカ 日本語字幕:加藤リツ子
監督:クラウディオ・ファエ 製作:デヴィッド・ランカスター、ヴィッキー・ソーサラン 製作総指揮:ルーシー・フィッシャー、ポール・ヴァーホーヴェン、ダグラス・ウィック、レイチェル・シェーン キャラクター創造:ゲイリー・スコット・トンプソン、アンドリュー・W・マーロウ 原案:ゲイリー・スコット・トンプソン 脚本:ジョエル・ソワソン 撮影:ピーター・ウンストーフ 視覚効果スーパーバイザー:ベン・グロスマン プロダクションデザイン:ブレンタン・ハロン 編集:ネイサン・イースターリング 音楽:マーカス・トランプ
出演:ピーター・ファシネリ(フランク・ターナー刑事)、ローラ・レーガン(マギー・ダルトン博士)、クリスチャン・スレイター(マイケル・グリフィン)、デヴィッド・マキルレース(ライズナー博士)、ウィリアム・マクドナルド(ビショップ大佐)、サラ・ディーキンス(リサ・マルチネス刑事)、ジェシカ・ハーモン(ヘザー・ダルトン)、ソーニャ・サロマ
敬愛なるベートーヴェン
2006年12月30日 土曜日
シャンテシネ1 ★★★★☆
■天才同士の魂のふれ合いは至福の時間となる
導入の、馬車の中からアンナ・ホルツ(ダイアン・クルーガー)の見る光景が、彼女の中に音楽が満ち溢れていることを描いて秀逸。音楽学校の生徒である彼女は、シュレンマー(ラルフ・ライアック)に呼ばれ、ベートーヴェンのコピスト(楽譜の清書をする写譜師)として彼のアトリエ(エド・ハリス)に行くことになる。
1番優秀な生徒を寄こすようにと依頼したものの、女性がやってきてびっくりしたのがシュレンマーなら、当のベートーヴェンは激怒。アンナがシュレンマーのところでやった写譜を見て、さっそく写し間違いを指摘する。が、あなたならここは長調にしないはずだから……とアンナも1歩も引かない。
音楽のことがからっきしわからないので、このやりとりは黙って聞いているしかないのだが、それでもニヤリとしてしまう場面だ。ベートーヴェンがアンナの言い分を呑んでしまうのは、自分の作曲ミスを認めたことになるではないか(彼女はベートーヴェンをたてて、ミスではなく彼の仕掛けた罠と言っていたが)。
女性蔑視のはなはだしいベートーヴェンだが(これは彼だけではない。つまりそういう時代だった)、才能もあり、卑下することも動じることもないアンナとなれば、受け入れざるを得ない。しかも彼には、新しい交響曲の発表会があと4日に迫っているという事情があった。こうしてアンナは、下宿先である叔母のいる修道院からベートーヴェンのアトリエに通うことになる。
シュレンマーが「野獣」と称していたように、ベートーヴェンはすべてにだらしなく、粗野で、しかも下品。彼を金づるとしか考えていない甥のカール(ジョー・アンダーソン)にだけは甘いという、ある意味では最低の男。そんな彼だが、神の啓示を受けているからこそ自分の中には音が溢れているのだし、だから神は私から聴覚を奪った、のだとこともなげに言っていた。
今ならセクハラで問題になりそうなことをされながらも、アンナは「尊敬する」ベートーヴェンの作品の写譜に夢中になり、第九初演の日がやってくる。婚約者のマルティン(マシュー・グード)と一緒に演奏を楽しもうとしていたアンナだが、シュレンマーから自分の代わりに、指揮者のベートーヴェンに演奏の入りとテンポの合図を送るようたのまれる。
この第九の場面は、映画の構成としては異例の長さではあるが、ここに集中して聴き入ってしまうとやはりもの足らない。だからといってノーカットでやるとなると別の映画になってしまうので、この分量は妥当なところだろうか。
第九の成功というクライマックスが途中に来てしまうので、映画としてのおさまりはよくないのだが、このあとの話が重要なのは言うまでもない。
晩年のベートーヴェンには写譜師が3人いて、そのうちの2人のことは名前などもわかっているそうだ。残りの1人をアンナという架空の女性にしたのがこの作品なのである。そして、さらに彼女を音楽の天才に仕立て上げ、ベートーヴェンという天才との、魂のふれ合いという至福の時間を作り上げている。それは神に愛された(思い込みにしても)男と、そんな彼とも対等に渡りあえる女の、おもいっきり羨ましい関係だ。
そうはいってもそんな単純なものでないのは当然で、作曲家をめざすアンナは譜面をベートーヴェンに見せるが、「おならの曲」と軽くあしらわれてしまうし、ベートーヴェンにしても難解な大フーガ(弦楽四重奏曲第13番)が聴衆の理解を得られず、大公にまで「思っていたよりも耳が悪いんだな」と言われてしまう。
アンナに非礼を詫びたベートーヴェンだが、彼女の作品を共同作業で完成させようとしながら、自分を真似ている(「私になろうとしている」)ことに苦言を呈する。
が、こうした作業を通して、ベートーヴェンとアンナはますます絆を深めていく。可哀想なのが才能のない建築家(の卵)のマルティンで、橋のコンペのために仕上げた作品をベートーヴェンに壊されてしまう。お坊ちゃんで遊び半分のマルティンの作品がベートーヴェンに評価されないのはともかく、アンナがこの時にはそのことをもうそんなには意に介していないのだから、同情してしまう。
いくら腹に据えかねたにしても、マルティンの作った模型の橋を壊すベートーヴェンは大人げない。もしかしたら、彼はアンナとの間にすでに出来つつある至福の関係より、もっと下品に、男と女の関係を望んでいたのかもしれないと思うのだが、これは作品を貶めることになるだろうか。でないと病床のベートーヴェンとアンナの場面(最期までアンナに音楽を伝えようとしていた)が台無しになってしまうから。
お終いは、アンナが草原を歩む場面である。彼女の独り立ちを意味しているようにもとれるが、しかし、彼女の姿は画面からすっと消えてしまう。彼女のこれからこそが見たいのに。けれど、架空の人物の幕引きにはふさわしいだろうか。
【メモ】
アンナに、ベートーヴェンがいない日は静か、と彼の隣の部屋に住む老女が言う。引っ越せばと言うアンナに、ベートーヴェンの音楽を誰よりも早く聞ける、と自慢げに答える。
甥のカールはベートーヴェンにピアニストになるように期待されていたが、すでに自分の才能のなさを自覚していた。甥の才能も見抜けないのでは、溺愛といわれてもしかたがない。勝手にベートーヴェンの部屋に入り込み金をくすねてしまうようなカールだが、第九の初演の日には姿を現し、感激している場面がちゃんと入っている。
原題:Copying Beethoven
2006年 104分 シネスコサイズ イギリス/ハンガリー 日本語字幕:古田由紀子 字幕監修:平野昭 字幕アドバイザー:佐渡裕
監督:アニエスカ・ホランド 脚本:スティーヴン・J・リヴェル、クリストファー・ウィルキンソン 撮影:アシュレイ・ロウ プロダクションデザイン:キャロライン・エイミーズ 衣装デザイン:ジェイニー・ティーマイム 編集:アレックス・マッキー
出演:エド・ハリス(ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン)、ダイアン・クルーガー(アンナ・ホルツ)、マシュー・グード(ルティン・バウアー)、ジョー・アンダーソン(カール・ヴァン・ベートーヴェン)、ラルフ・ライアック(ウェンツェル・シュレンマー)、ビル・スチュワート(ルディー)、ニコラス・ジョーンズ、フィリーダ・ロウ
王の男
2006年12月31日 日曜日
TOHOシネマズ錦糸町-8 ★★☆
■着想は悪くないが、主人公に焦点が合わせづらい
旅芸人のチャンセン(カム・ウソン)は、彼とは幼なじみで女形のコンギル(イ・ジュンギ)と共に、1番大きな舞台を開こうと漢陽(ハニャン/ソウル)の都にやってくる。さっそく大道芸人のユッカプ(ユ・ヘジン)とその弟分であるチルトゥク(チョン・ソギョン)とパルボク(イ・スンフン)に、芸の格の違いを見せつけて仲間に引きこむ。
かなり下品でどうかと思う内容のものも出てくるが、次々と繰り広げられる大道芸や仮面劇には目を奪われる。時間をとってじっくり見せてくれるのもいい。カム・ウソンが特訓したという綱渡りも素晴らしい。
チャンセンは、時の王である燕山君(チョン・ジニョン)が妓生(芸者)だったノクス(カン・ソンヨン)を愛妾として宮廷においていることを聞くと、それをネタにした劇を思いつき、たちまち人気ものとなっていく。
しかしすぐ重臣チョソン(チャン・ハンソン)の耳に入るところとなり、チャンセンたちは捕まってしまう。王の侮辱は死刑なのだが、王を笑わせられたら罪は免ぜられるべきというイチかバチかのチャンセンの主張が通って、なんとか(コンギルにも助けられ)燕山君を笑わせることに成功する。どころか、重臣たちの反対をよそに「芸人たちをそばにおき、気が向いたら楽しもう」と王が言い出したことから、宮廷お抱えの身となってしまう。
燕山君(1476-1506)は李氏朝鮮第10代国王で、日本人には馴染みが薄いが韓国では暴君として知られている。第9代国王成宗の長男として生まれるが、臣下によるクーデター(映画ではこの場面が幕となる)で失脚。廟号、尊号、諡号がないのは、廃王となったためである。「父王の法に縛られる俺は本当に王なのか」というセリフからわかるように、燕山君に関しては、遊蕩癖はあるにせよまだ普通の王であるところからはじめて(最初のうちは重臣たちも王に意見をしている)、次第に暴君になっていく様が的確に描かれている。
宮廷内でチャンセンたちは、王と重臣たちとの権力闘争(というには一方的だが)に巻き込まれていく。賄賂暴露劇では、法務大臣が罷免され財産が没収される。これは王の為を思ったチョソンの策略だったが、チャンセンは嫌気がさし宮廷を去る決意をする。が、王の寵愛を受けるようになっていたコンギルは王の孤独に触れたのだろう、去る前にある劇をすることをチャンセンに提案する。その劇というのが、王の母(そもそも本人に問題があったようだ)が祖母らの策略で父の命によって服毒させられた王の幼い頃の事件で、なんとこれは、当の祖母の前で演じられることになる。
芸人たちの演じる劇に、歴史的事実を配した構成が巧みだ。なのに、いつまでも視点が定まらないのでは、落ち着けない。話が宮廷内の権力闘争では、芸人たちの立場はどうしても添え物にならざるをえない。燕山君の突出したキャラクターのお陰にしても、チョン・ジニョンは存在感がたっぷり。それに比べるとカム・ウソンは抑えた演技。どこまでも地味なのはいたしかたないところか。
コンギルは暴君のトラウマに同情したのだろうが、王と人形劇をして遊ぶ描写くらいではもの足りない。それもあってコンギルが宮廷に残ると言い出してからの終盤は、チャンセンの気持ちが、もちろんコンギルを守るためなのだろうが、あまりはっきりせず、目を焼かれてしまうのはぐずぐずしているからだと、手厳しい見方をしてしまう。
そもそもチャンセンとコンギルはどういう関係だったのか。漢陽に出てくる前、ふたりはある旅芸人の一座を抜け出したのだった。座長が土地の有力者に美しいコンギルを夜伽させようとし、それに逆らったチャンセンに同性愛の匂いは感じられなかったが、断定はできない。
最後にある、生まれ変わっても芸人になってふたりで芸をみせよう、というセリフがチャンセンの思いなのはわかるが(このあと跳ねて宙に舞ったところで画面は止まりアップになる)、しかし、うまくこのセリフに集約できたとは思えない。王を横取りされたノクスの嫉妬やチョソンの自殺も絡めながら映画は結末を迎えるのだが、まとめきれなくなってしまった感じがするのである。
英題:The King and the Clown
2006年 122分 ビスタサイズ 韓国 日本語字幕:根本理恵
監督:イ・ジュンイク 製作総指揮:キム・インス 原作:キム・テウン(演劇『爾』) 脚本:チェ・ソクファン 撮影:チ・ギルン 衣装:シム・ヒョンソップ 音楽:イ・ビョンウ アートディレクター:カン・スンヨン
出演:カム・ウソン(チャンセン[長生])、イ・ジュンギ(コンギル[迴刹g])、チョン・ジニョン(ヨンサングン[燕山君])、カン・ソンヨン(ノクス[緑水])、チャン・ハンソン(チョソン)、ユ・ヘジン(ユッカプ)、チョン・ソギョン(チルトゥク)、イ・スンフン(パルボク)