劔岳 点の記

楽天地シネマズ錦糸町シネマ1 ★★★

■「未踏峰」かどうかではなく……

明治四十年に、前人未到の地であった立山剱岳登頂を果たした、日本陸軍参謀本部陸地測量部測量手柴崎芳太郎を主人公に、当時の陸軍内部の事情、日本山岳会との駆け引き、案内人の宇治長次郎や家族との信頼関係などを描く、新田次郎の同名小説を原作としたドラマである。

この狭い日本で、明治も三十九年になって、まだ未踏峰があったという事実にはびっくりするが、この未踏峰制覇に一番やっきだったのが陸軍のお偉いさんたちというのが面白い。日本地図の最後の空白点を埋めるべく、そこに国防という大義名分を振りかざすのだが、何の事はない、実は日本山岳会会員である小島烏水らの剱岳登頂計画を知ったからというあたり、日本がこのあと戦争に突き進んでいった元凶をみる思いがするのだが、もちろんそんな暴論で映画が進むはずもなく、もっと足に地の付いた作品になっている。

初登頂に心が動いたのは当事者たちも同じであったはずだが、しかし柴崎の淡々とした地道な仕事ぶりが変わることがない。剱岳の登頂ルートを探りながらも測量という本来の仕事を黙々とこなしていく。若い生田が焦ること方が当然のような気がするのだが、柴崎の仕事優先の態度は、日本山岳会の小島たちにも競争相手という意識を次第に薄れさせ、最後には尊敬の念を抱かせるまでになっていく。

けれど、苦労の末、やっとこ登ってみれば、そこには先人の残した錫丈があり、すでに昔から入山していたことがわかるだけであった。

この結末は、やっぱりな、という思いをもたらすが、と同時に古田盛作(三年前に引退した柴崎と同じ元測量手で、剱岳に挑むが失敗した経験を持つ)からの手紙にあった「人がどう評価しようとも、何をしたかではなく、何のためにそれをしたかが大切」という言葉の意味を考えずにはいられなくなる(こんなことを言われてしまっては、この映画を評価するのも躊躇われるのであるが……というか、ここにだらだらと書いている映画の感想文、全てが、だもんなぁ。……とりあえず私のことに関しては、この言葉は忘れてしまおう)。

地道な人柄を描くために柴崎を淡泊な人物にしてしまったのだろうが、ドラマとしてはいささか大人しすぎた嫌いがある。陸軍の上層部とやり合えとは言わないが、生田や小島とはやはりもう少し何かがあってもいいはずで、多少の歯がゆさが残る。

しかし、そうするとまた別な映画になってしまうわけで、一々起承転結を用意したり大袈裟な事件を持ってこなくても、生田は、子供の誕生の喜びを素直に口に出来るようになっていたし、小島たちとは、互いの登頂を喜び合う山の仲間になれた(手旗信号で合図し合うのがラストシーンになっている)ことで十分、とする謙虚さがこの映画のスタンスなのだろう。これは、自然の前での小さな人間、という位置関係とも通じるものがありそうだ。

ただ、長次郎が案内人となったことで、立山信仰のある芦峅寺集落で働く息子とは険悪になってしまい、けれど、あとでそのことを詫びる息子から食べ物と手紙が届く場面には違和感を覚えた。手紙でのやり取りは、この他にもあって、当時は手紙の他には通信手段がないのだから、例えば柴崎の妻の葉津よがそうしているのはわかるのだが、長次郎親子にそれをさせてしまうと、何か違うような気がしてしまうのだ。

だいたい長次郎(と彼の妻もなのだが)は明治の山男にしては洗練されすぎていて、まあ、これは日本映画の場合、ほとんどすべての作品に及第点をあげられないのであるが(髪型だけでもそうであることが多い)、黒澤映画に師事し、とリアリズムを学んだことを宣伝などでは強調しているのだから、もっと徹底してほしかったところである。

長年撮影監督として腕をふるってきた木村大作が監督となったことで、CGを一切排除し、空撮までしていないことが話題になっていて、確かにその映像は堂々としていて立派なのだが、相手が自然なだけに一本調子になりがちなのは否めない。嵐の中、行者が修行を積んでいるような、自然と人間が張り合っているような(そんな修行をしていたわけではないのだろうが)場面では、単調であってもそういう懸念はなくなるのだが。

登頂や陸軍内での評価など、実際の経緯については多分原作にあたった方が多くの情報を仕入れられると思うのだが、そして、だから映画では撮影にこだわったのだろう。けれどこういう映画なのだから、それこそCGでも取り入れて解説部分を増やしてくれた方が観客としてはありがたい。そうしてしまうと映画の風格は損なわれてしまいそうだが、登頂ルートについて柴崎たちが、何をどう苦労していたのかはずっとはっきりしただろう。「雪を背負って登り、雪を背負って帰れ」という言い伝えを教えてくれた行者の言葉が、科学的にも裏打ちできたのなら、ドラマの平坦さをも補えたのではないか。

また、西洋登山術を取り入れた当時としては最新の日本山岳会の装備や岩壁登攀方法などの解説もあれば、映画ならではの(原作以上の)情報が得られたと思うのだが、木村大作はそんな映画を撮るつもりはなかったんだろうな。

 

2008年 139分 シネスコサイズ 配給:東映

監督・撮影:木村大作 製作:坂上順、亀山千広 プロデューサー:菊池淳夫、長坂勉、角田朝雄、松崎薫、稲葉直人 原作:新田次郎『劔岳 点の記』 脚本:木村大作、菊池淳夫、宮村敏正 美術:福澤勝広、若松孝市 衣装:宮本まさ江 編集:板垣恵一 音楽プロデューサー:津島玄一 音楽監督:池辺晋一郎 音響効果:佐々木英世 監督補佐:宮村敏正 企画協力:藤原正広、藤原正彦 照明:川辺隆之 装飾:佐原敦史 録音:斉藤禎一、石寺健一 助監督:濱龍也

出演:浅野忠信(柴崎芳太郎/陸軍参謀本部陸地測量部測量手)、香川照之(宇治長次郎/測量隊案内人)、松田龍平(生田信/陸軍参謀本部陸地測量部測夫)、モロ師岡(木山竹吉/陸軍参謀本部陸地測量部測夫)、螢雪次朗(宮本金作/測量隊案内人)、仁科貴(岩本鶴次郎)、蟹江一平(山口久右衛門)、仲村トオル(小鳥烏水/日本山岳会)、小市慢太郎(岡野金治郎/日本山岳会)、安藤彰則(林雄一/日本山岳会)、橋本一郎(吉田清三郎/日本山岳会)、本田大輔(木内光明/日本山岳会)、宮崎あおい(柴崎葉津よ/柴崎芳太郎の妻)、小澤征悦(玉井要人/日本陸軍大尉)、新井浩文(牛山明/富山日報記者)、鈴木砂羽(宇治佐和/宇治長次郎の妻)、笹野高史(大久保徳昭/日本陸軍少将)、石橋蓮司(岡田佐吉/立山温泉の宿の主人)、冨岡弘、田中要次、谷口高史、藤原美子、タモト清嵐、原寛太郎、藤原彦次郎、藤原謙三郎、前田優次、市山貴章、國村隼(矢口誠一郎/日本陸軍中佐)、井川比佐志(佐伯永丸/芦峅寺の総代)、夏八木勲(行者)、役所広司(古田盛作/元陸軍参謀本部陸地測量部測量手)

罪とか罰とか

テアトル新宿 ★★★☆

■さかさまなのは全部のページ

まず、どうでもいいことかもしれないが、『罪とか罰とか』って題名。これが『罪と罰』だったら、それはドストエフスキーということではなくて、って、こう書くまで気がつかなかったのだけど、無理矢理恩田春樹をラスコーリニコフにしてしまえば円城寺アヤメはソーニャ的とも言えなくはないが、って言えない。

書くことが整理できてないんで、いきなり脱線してしまった。(気を取り直して)『罪と罰』だと、『罪と罰』だ、『罪と罰』である、『罪と罰』でしょ、みたく断定になるが、『罪とか罰とか』だと、『罪とか罰とか』だったり、『罪とか罰とか』かもしれない、って曖昧になっちゃう。って、ならない? 私的にはそんな気がしちゃってるんで。

えー、のっけからぐだぐだになってますが、要するによくわからない映画だったのね。めちゃくちゃ面白かったけど……でも、終わってみたら?で。

(もいちど気を取り直して)だってこの映画を真面目に論じたら馬鹿をみそうなんだもん。ギャグ繋ぎで出来ているんで、あらすじを書いたら笑われちゃうかなぁ。でも実のところそうでもなくて、物語は時間軸こそいじってはいるが、ものの見事に全部がどこかで繋がっていて、練りに練った脚本だったのね、と最後にはわかるのだが、とはいえ、あらすじを書いて果たして意味があるかどうかは、なのだな。

ですが、それは面倒なだけ、と見透かされてしまうのは癪なので、ちょっとだけ書くと、まず冒頭で、加瀬という46歳の男が朝起きてからの行動を、やけに細かくナレーション入りで延々と語りだす。これは忘れてはならぬと、頭の中で復誦していると、女が空から降ってきて、加瀬はトラックにはねられて、「加瀬の人生は終わり、このドラマは始まる」って。で、本当に加瀬はほぼ忘れ去られてしまって、そりゃないでしょうなのさ。

女が降ってきた(突き落とされたのだ)そのアパートの隣部屋では3人組がスタンガンコントを、これまたけっこう時間を使ってやってみせる。コンビニ強盗を計画しているっていうんだが、結果は見え見え。

んで、このあとやっと崖っぷちアイドル(これは映画の宣伝文句にある言葉)の円城寺アヤメ主人公様がコンビニで雑誌をチェックしている場面になる(この前にも登場はしてたんだが)。アヤメとは同級生で、スカウトされたのも一緒だった耳川モモは表紙を飾っているというのに、掲載ページのアヤメは印刷がさかさま! 思わずその雑誌を万引きして(なんでや?)逮捕されてしまうアヤメ。

このあたりの撒き餌部分は多少もたもたかなぁ。だからか、こっちもどうやって映画に入り込んでいったらいいのかまだ迷っていて(最初の加瀬の部分でもやられていたので)、時間がかかってしまったが、いつの間にかそんなことは忘れてしまって、だからもうここから先は完全に乗せられてたかしらね。

アヤメは万引きの罪の帳消しに、見越婆(みこしば)警察署の一日署長にさせられてしまう。一日署長はきっかり日付が変わるまでで、長期署長も可。むしろ署員はそれを希望してるし、かつ一日署長の指示待ち状態。そこの強制捜査班の恩田春樹刑事はアヤメの元カレで殺人鬼(女を突き落としたのもこいつ)。春樹は自首しなきゃと思ってはいるが、副署長にはとっくに見抜かれていて、お前だけコレにしとくってわけにいかないから、と取り合ってもらえない。お前だけって見越婆警察署は全員が犯罪者なの? 春樹の正体というか殺人癖はアヤメも昔から知っていて(注1)、もう何がなんだか展開。で、そこに「殺したら(撃たれたら)射殺してやる」回路標準装着者のいる三人組によるコンビニ襲撃事件が発生する。

ここまですべてをありえない展開にしてしまうと、いくらブラックジョークといえど、いろいろ困るのではないかと余計なお世話危惧をしなくもなかったが、見越婆警察署の内部が自白室や測量室(別に高級測量室というのもあったが?)のある古びた病院だか魔窟のようになっていたことで、私はあっさり了解することにしましたよ。なーんだ、これは異世界なんだって。

ところがその異世界でアヤメは、いろいろなことに違和感を抱いていて、でも昔は殺人鬼の春樹と平気で付き合っていたわけだし、耳川モモとも対等だったはずなのに、なんでアヤメだけが、と考えてみると、これはですね、アヤメがグラビア雑誌に反対に印刷されてしまったことで、異世界の住人とは妙にズレた感覚が身についてしまったのではないかと?

異世界にあってそれは危機なのだが、一日署長を体験したことで、アヤメは自信を取り戻し、すっかり元に戻って、つまり全部がさかさまのページとなって(注2)、彼らの異世界の調和は保たれたのでありました。

と、勝手な屁理屈で謎解きしてみたが、これは全然当たってないかも。だって春樹に対するアヤメのことだけを取ってもそう簡単には説明がつかないもの。いや、そうでもないのかな。万引きという初歩的犯罪が認められての一日署長だし、迷宮のような見越婆警察署の署長室にたどり着いても、誰もがなりたがる権力者たる署長は本当に不在。「春樹も自首とか考えないで前向きに」と言っといての逮捕、は完全に「春樹の味方」に戻ったよな、アヤメ(当時は自首していい人になってはいけないということがアヤメにはわかっていたのだ)。ね、やっぱりすべてが逆転してるもの。

でもまぁ、単に面白かったってことでいいのかもね。私のは屁理屈にしても、理屈拒否の為の異世界設定は当たってるんじゃないかな。真面目に考えたり論じたりするべからず映画というのが正しそうだから。
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注1:昔のアヤメは、春樹が自首すると言っても見つからなければわからないと、副署長と同じ見解だった。当初の春樹はだからずっとマトモだった。が、すぐ殺人は「ボーリングより簡単」になってしまう。

注2:コンビニに居合わせたため、耳川モモと一緒に強盗の人質となっていた風間マネージャーが「他のページがさかさまなの!」と言っていたが、こういうことを言ってはいけない。私の『罪とか罰とか』における異世界理論が崩れてしまうではないの。

 

2008年 110分 ビスタサイズ 配給:東京テアトル

監督・脚本:ケラリーノ・サンドロヴィッチ 企画:榎本憲男 撮影:釘宮慎治 美術:五辻圭 音楽:安田芙充央 主題歌:Sowelu『MATERIAL WORLD』 照明:田辺浩 装飾:龍田哲児 録音:尾崎聡

出演:成海璃子(円城寺アヤメ)、永山絢斗(恩田春樹/見越婆署刑事)、段田安則(加瀬吾郎/コンビニの客)、犬山イヌコ(風間涼子/マネージャー)、山崎一(常住/コンビニ強盗)、奥菜恵(マリィ/コンビニ強盗)、大倉孝二(立木/コンビニ強盗)、安藤サクラ(耳川モモ)、市川由衣(コンビニバイト)、徳井優(コンビニ店長)、佐藤江梨子(春樹に殺される女)、六角精児(巡査部長)、みのすけ(警官)、緋田康人、入江雅人、田中要次(芸能プロ社長)、高橋ひとみ、大鷹明良(トラック運転手)、麻生久美子(助手席の女)、石田卓也、串田和美(海藤副署長)、広岡由里子

憑神

2007/07/30 109シネマズ木場シアター7 ★☆

■のらりくらりと生き延びてきたカスが人類(映画とは関係のない結論)

よく知りもしないでこんなことを書くのもどうかと思うのだが、私は浅田次郎にあまりいいイメージを持っていない。たしかに『ラブ・レター』には泣かされたが、あの作品が入っている短篇集の『鉄道員(ぽっぽや)』には同じような設定の話が同居していて、読者である私の方が、居心地が悪くなってしまったのである(こういうのは書き手にこそ感じてほしい、つまりやってほしくないことなのだが)。

で、そのあとは小説も読むことなく、でも映画の『地下鉄(メトロ)に乗って』で、やっぱりなという印象を持ってしまったので(映画で原作を判断してはいけないよね)、この作品も多分に色眼鏡で見てしまっている可能性がある。だって、今度は神様が取り憑く話っていうんではねー。

下級武士(御徒士)の別所彦四郎(妻夫木聡)は、配下の者が城中で喧嘩をしたことから婿養子先の井上家を追い出され、無役となって兄の左兵衛(佐々木蔵之介)のところに居候をしている。妻の八重(笛木優子)や息子の市太郎にも会えないばかりか、左兵衛はいい加減な性格だからまだしも兄嫁の千代(鈴木砂羽)には気をつかいと、人のよい彦四郎は身の置き場のない生活をしていた。

母のイト(夏木マリ)が見かねて、わずかな金を持たせてくれたので町に出ると、昌平坂学問所で一緒だった榎本武揚と再会する。屋台の蕎麦屋の甚平(香川照之)に、榎本が出世したのは向島の三囲(みめぐり)稲荷にお参りしたからだと言われるが、彦四郎はとりあわない。帰り道、酒に酔った彦四郎が川岸の葦原の中に迷い込むと、そこに三囲(みめぐり)稲荷ならぬ三巡(みめぐり)稲荷があるではないか。つい「なにとぞよろしゅう」とお願いしてしまう彦四郎だったが、こともあろうにこれが災いの神だったという話(やっぱり腰が引けるよな)。

で、最初にやってきたのが、伊勢屋という呉服屋とは名ばかりの貧乏神(西田敏行)。これ以上貧乏にはなりようがないと安心していた彦四郎だが、左兵衛が家名を金で売ると言い出すのをきいて、貧乏神の実力を知ることになる(眉唾話に左兵衛が騙されていたのだ)。この災難は宿替えという秘法で、貧乏神が彦四郎から彼を陥れた井上家の当主軍兵衛に乗り移って一件落着となる(井上家の没落で、彦四郎は妻子を心配しなければならなくなってしまうのだが)。

次に現れたのは、九頭龍為五郎という相撲取りの疫病神(赤井英和)。長年の手抜き癖が問題となって左兵衛がお役変えとなり、彦四郎に出番が回ってくるのだが、疫病神に祟られて全身から力が抜け、榎本と勝に新しい世のために力を貸してほしいと言われてもうなずくのが精一杯という有様。だが、これも結局は疫病神が左兵衛に宿替えしてくれることになる。

神様たちが彦四郎に惚れて考えを少しだけだが変えてしまうのも見所にしているらしい。でもそうかなー、なんかこういうのにわざとらしさを感じてしまうのだが。井上家の使用人で彦四郎の味方である小文吾(佐藤隆太)が、幼い頃から修験者の修行を積んでいて、呪文で貧乏神を苦しめるあたりの都合のよさ。宿替えは10年だか100年に1度の秘法だったはずなのに2神ともそれを使ってしまうんだから、何とも安っぽい展開ではないか。

死神(森迫永依)をおつやという可愛い女の子にしたのにも作為を感じてしまう。おつやは子供の姿でありながら、彦四郎の命を市太郎に狙わせるという冷酷な演出に出る。自分で手をくだしちゃいけないからと言い訳をさせていたが、それにしても、こんなことをされたというのに、このおつやにも彦四郎はあくまで優しく接する。彦四郎が本当にいいヤツだということをいいたいのだろうし、だからこそ3神もらしからぬ行動を取ることになるのだが。

結局、彦四郎は死を受け入れる心境になるのだが、これがあまり説得力がないのだ。というより宿替え(おつやは1度しか使えないと言ってた気がするが、使っていないよね?)のことも含めて、誤魔化されてしまったような。終わった時点でもうよくわからなくなっていたから。彦四郎は最低の上様である徳川慶喜(妻夫木聡)に会い、彼と瓜二つであることを確認し(これもねー。影武者が別所家の仕事ではあったことはいってたが)、当人から「しばらく代わりをやってくれ」と言われて、その気になるような場面はあるのだが、どうにもさっぱりなのだ。

彦四郎は、犬死にだけはしたくないと言っていたのに、上野の山に立て籠もった人たちの心の拠り所になれればと考えたのか。やはり上野の山に馳せ参じようとした市太郎と左兵衛の息子の世之介に、そこに行っても何の意味もなく、新しい世の中を作るために残らなくてはならないと諭す。この矛盾は対子供においては納得できるが、彦四郎自身への説明にはなっていただろうか。

また彦四郎に、死神に会って生きる意味を知り、神にはできぬが人は志のために死ぬことができる、とおつやに語らせていることも話をややこしくしている。そーか、彦四郎にとってはやはり影武者としての家業をまっとうすることが、武士の本懐なのか、と。なんだかね。死ぬことによって輝きを増すとかさ、もう語りすぎなんだよね。

おつやも神様稼業がいやになり、相対死をするつもりで彦四郎の心の中に入り込む。とはいえ、彦四郎は官軍の砲弾で命を散らすが、神様は死なないのだった。で、急に画面は現代に。何故かここに原作者の浅田次郎がいて、おつやの「おじちゃん(彦四郎)はすごく輝いていたんだよ」というセリフが被さって終わりとなる。これはもちろん憶測だが、降旗康男もあまりの臆面のなさにまとめきれず、全部を浅田次郎に振ってしまったのではないか(ま、ここにのこのこ出てくる浅田次郎も浅田次郎なんだけど)。でないとこの最後はちょっと説明がつかない。

こんな結論では、疫病神に取り憑かれてものらりくらりと生き延びてしまう左兵衛に、決して輝いてなどいないけれど、そうして肩入れだって別にしたくもないけれど、人間というのはもしかしたら、こういういい加減な人種だけが生き延びてきてしまったのかもしれないと、と思ってしまったのだった(うん、そうに違いない)。

  

2007年 107分 ビスタサイズ 配給:東映

監督:降旗康男 プロデューサー:妹尾啓太、鈴木俊明、長坂勉、平野隆 協力プロデューサー:古川一博 企画:坂上順、堀義貴、信国一朗 原作:浅田次郎『憑神』 脚本:降旗康男、小久保利己、土屋保文 撮影監督:木村大作 美術:松宮敏之 編集:園井弘一 音楽:めいなCo. 主題歌:米米CLUB『御利益』 照明:杉本崇 録音:松陰信彦 助監督:宮村敏正

出演:妻夫木聡(別所彦四郎/徳川慶喜)、夏木マリ(別所イト)、佐々木蔵之介(別所左兵衛)、鈴木砂羽(別所千代)、香川照之(甚平)、西田敏行(伊勢屋/貧乏神)、赤井英和(九頭龍/疫病神)森迫永依(おつや/死神)、笛木優子(井上八重)、佐藤隆太(小文吾)、上田耕一、鈴木ヒロミツ、本田大輔、徳井優、大石吾朗、石橋蓮司、江口洋介(勝海舟)

ツォツィ

銀座シネパトス3 ★★★☆

■品位について考えたこと、ある?

ツォツィ(=不良)と呼ばれる青年(プレスリー・チュエニヤハエ)が、盗んだ車の中に赤ん坊を発見したことで、自分の生い立ちを思い出し、生まれ変わるきっかけを得るという話。

この雑な粗筋(自分で書いておいてね)で判断すると、引いてしまいそうな内容なのだが、主人公を含めた対象との距離のとりかたに節度があって、観るものを惹きつける。

それと何より、この映画が南アフリカから発信されたということに意味がある。このところアフリカを題材にした映画が、ブームとはいかないまでもずいぶん入ってくるようになったが、その多くはハリウッドや他国の制作であり(日本に入ってこないだけかもしれないが、輸入するにたる作品が少ないという見方もできそうだ)、むろんそのことが内容の真摯さを左右するものとはいわないが、話題性やもの珍しさからであるのは否めまい。

しかしこれは、私が書いても説得力に欠けるが、同じ南アフリカを撮っても、やはり地に足の着いたものとなっている。ツォツィが暮らすのは、ヨハネスブルクの旧黒人居住区ソウェトのスラム街という。ここから見える高層ビルが、もうこれだけで、アパルトヘイトが撤廃されても変わらなかったことがあると、雄弁に物語っているではないか。ツォツィが仲間のボストン(モツスィ・マッハーノ)、ブッチャー(ゼンゾ・ンゴーベ)、アープ(ケネス・ンコースィ)とで「仕事」をしている地下鉄の駅も、彼らの目線になってみると、ずいぶん違った風景に見えるはずである。

財布を奪った相手にブッチャーがアイスピックを突き刺したことに、先生と呼ばれるボストンは吐くほどのショックを受けていた。品位がないと当たり散らしていた矛先は、やがてリーダー格のツォツィに向けられる。ボストンがそこで「おまえは捨て犬か」と言った言葉に、ツォツィは何故か反応して、急にボストンを滅茶苦茶に殴りつける。

ここに出てくる品位という言葉は、あとにある別の場面でも繰り返される。ツォツィは無学だから品位を知らない。品位というのは自分への敬意なのだと。そこまで考えたら確かにかつあげなどできなくなるだろう。であれば何故、ボストンはツォツィたちと連んでかつあげの場にいたのか。そんなことをしているからボストンは本当の先生になりそこねたのか。そうかもしれないが、品位が自分への敬意だということを忘れていたからこそ吐き、当たり散らし、自分を傷つけていたのだろう。ここは映画を観ている時には気付きにくいところだが、品位ついて語られた言葉を思い出しさえすれば、すんなり納得することができる。

あと、ツォツィが反応した「犬」だが、これも地下鉄のパーク駅で物乞いをしているモーリス(ジェリー・モフケン)とのやり取りに出てくる。ツォツィは車椅子生活の彼(すごい存在感なのだ)からも金を巻き上げようとする。若く、力を誇示できる立場にいるツォツィの問いかけは単純で、鉱山の事故で犬みたいになったのに何故生き続けるのか、だが、モーリスの答えも太陽の暖かさを感じていたいという単純なもの。そして、ツォツィはこのモーリスの生への執着に、金を拾えと言って立ち去ってしまう。

のちに映像として入るツォツィの昔の記憶の断片で、彼の母がエイズだったらしいこと、母の近くにいて父にしかられたこと、可愛がっていた犬が父に虐待されたことがわかる。

そういった経緯をたどって(多分母と犬は死に、父からは逃げだし)、土管を住処にして生活してきたツォツィに、品位について考えろというのも酷な話ではないか。私のまわりを見渡してもそんな人はいそうもないしねー(いや、もちろん私もだけど)。

しかしそうであっても、ツォツィは赤ん坊を残したままにはしておけなかったのだ。赤ん坊を紙袋に入れ、コンデンスミルクを与える雑さ加減は、ツォツィがまともな家庭生活の中で育たなかった証拠ではないか。

コンデンスミルクでは赤ん坊の口のまわりに蟻がたかってしまったからか、ツォツィはミリアム(テリー・フェト)という寡婦に狙いを定め、彼女の家に押し入る。彼女が赤ん坊に乳を含ませる映像ももちろんだが、赤ん坊がツォツィの子ではないことを察したのか「この子を私にちょうだい」という時の、彼女のただただ真っ直ぐな視線にはこちらまでがたじろいでしまう。名前を訊かれたツォツィが、デイビッドと本名で答えてしまうくらいなのだ。

ミリアムの夫が仕事に出たまま帰らなかったということにも、南アフリカの日常の過酷さをみることが出来るが、ツォツィもミリアムの言葉には何かを感じたのだろう。むろん、いままでは何も感じなかったはずの、もしかしたら自分が傷つけてきた相手にもあったであろう家族や生活のことを……。

ツォツィは、ミリアム(とボストン)にお金を払う必要を感じるのだが、しかし彼が思いついたのは、盗んだBMW(ここに赤ん坊がいた)の持ち主の家にブッチャーとアープとで強盗に入ることだった。

豪邸でツォツィが見たのは、赤ん坊が愛されていることを物語る部屋だった。わざわざこの場面を入れたのは多分そう言いたいのだと思うのだが、でもどうだろう。綺麗な部屋よりミリアムが作っていた飾りにツォツィは心を動かされていたはずだから。それにこれだけの格差を見せつけられたら、憎悪をつのらせても不思議はない気もするが、綺麗な部屋にツォツィはこの家の持ち主である富裕黒人の良心を見たのだろうか。映画は品位を持って終わっていた。

品位とは自分への敬意、ずいぶん大切なことを教わってしまったものである。

もっとも、細かくみていくと、ツォツィは最初にBMWを女性から奪った時にその女性に銃弾を浴びせ彼女を歩けなくさせてしまっているし、ブッチャーを結果的に殺害してしまっているから、彼の負うべき罪は相当重いものになるはずだ。また富裕黒人を良心の人にしたことについても甘さを感じなくもない。けど、赤ん坊を返してツォツィが投降したことに希望をみるのが品位、なんだろう(むにゃむにゃ)。

 

【メモ】

2006年アカデミー賞外国語映画賞

原題:Tsotsi

2005年 95分 シネスコサイズ 南アフリカ、イギリス R-15 日本語字幕:田中武人 配給:日活、インターフィルム

監督・脚本:ギャヴィン・フッド 製作:ピーター・フダコウスキ 製作総指揮:サム・ベンベ、ロビー・リトル、ダグ・マンコフ、バジル・フォード、ジョセフ・ドゥ・モレー、アラン・ホーデン、ルパート・ライウッド プロダクション・デザイン:エミリア・ウィーバインド 原作:アソル・フガード『ツォツィ』 撮影:ランス・ギューワー 編集:メーガン・ギル 音楽:マーク・キリアン、ポール・ヘプカー

出演:プレスリー・チュエニヤハエ(ツォツィ/デヴィッド)、テリー・フェト(ミリアム)、ケネス・ンコースィ(アープ)、モツスィ・マッハーノ(ボストン/先生)、ゼンゾ・ンゴーベ(ブッチャー)、ZOLA(フェラ)、ジェリー・モフケン(モーリス/物乞い)

机のなかみ

テアトル新宿 ★★★

■映画に見透かされた気分になる

家庭教師をしてぐーたら暮らしている馬場元(あべこうじ)は、新しく教え子になった女子高生の望月望(鈴木美生)の可愛らしさに舞い上がってしまう。勉強そっちのけで、望に彼氏の有無や好きな男のタイプを訊いたりも。気持ちが暴走してしまって、次の家庭教師先で教え子の藤巻凛(坂本爽)に「俺、恋に落ちるかも」などと言う始末。藤巻の部屋にギターがあるのを見つけると、それを借りて俄練習に励み、望の好きな「ギターの弾ける人」になろうとする。

望への質問に、好きな戦国大名は?と訊いてしまうのは、お笑い芸人あべこうじをそのまま持ってきたのだろうが、演技という目で見るとなんとももの足りない(ちなみに望の答えは長宗我部で、馬場は俺もなんて言う)。ただ彼のこの空気の読めない感じが、後半になってなるほどとうなずかせることになるのだから面白い。

望の志望は、何故か彼女の学力では高望みの向陽大だが、秘かに期するところがあるのか成績も上がってくる。ところが馬場の方には別の興味しかないから、図書館に行く口実でバッティングセンターに連れて行っていいところを見せようとしたりと、いい加減なものだ。望も「私、魅力ないですか」とか「彼女がいる人を好きになるのっていけないことですかね」と馬場の気を引くようなことを時たま言ってはどきまぎさせる。そうはいっても望の父親の栄一郎(内藤トモヤ)は目を光らせているし、イミシン発言の割には望が馬場の話には乗ってこないから、思ってるようには進展しないのだが。

馬場には棚橋美沙(踊子あり)という同棲相手がいて、一緒に買い物をしているところを望に見られてしまう(彼女がいる人という発言はこの場面のあとなのだ)。「古くからお付き合いのある棚橋さん」などと望に紹介してしまったものだから、棚橋は大むくれとなる。

この棚橋のキャラクターが傑出している。トイレのドアを開けっぱなしで紙をとってくれと言うのにはじまって、女性であることをやめてしまったかの言動には馬場もたじたじである(というかそもそも彼はちょっと優柔不断なのだな)。ところが、馬場が本当に望に恋していることを知ると、ふざけるなといいながら泣き出してしまうのだ。この、踊子あり(扱いにくい名前だなー)にはびっくりで、他の役もみてみたくなった。違うキャラでも光ってみえるのなら賞賛ものだ。

合格を確信していた馬場と望だが、望は大学に落ちてしまう。馬場は1人で喋って慰めていたが、泣き出した望に何を勘違いしたのか肩を抱き、服を脱がせ始める。何故かされるままになっている望。帰ってきた父親がドアを開けて入ってきたのは、馬場がちょうど望の下着を剥ぎ取ったところだった。

ここでフィルムがぶれ、テストパターンのようになって、「机のなかみ」というタイトルがまたあらわれる。今までのは馬場の目線だったが、ここからは望の目線で、同じ物語がまったく違った意味合いで、はじめからなぞられていくことになる。

で、後半のを観ると、何のことはない、望が好きなのは馬場などではなく(って、そんなことはもちろんわかってたが)、やはり馬場の教え子(このことは望は知らない)の藤巻なのだった。そして、彼は親友多恵(清浦夏実)の恋人でもあったのだ。

多恵のあけすけで下品(本人がそう言っていた)な話や、望の自慰場面(最初の方でボールペンを気にしていたのはこのせいだったのね)もあって、1幕目以上に本音丸出しの挿話が続くことになる(馬場の下心だったら想像が付くが、女子高生の方はねー)。

そうはいっても、映像的にはあくまでPG-12。言葉ほどにはそんなにいやらしいわけじゃない。でもとにかく、あの1幕目の問題場面に向かって進んでいくのだが、そこに至るまでに、その場面を補足する、藤巻を巡る女の駆け引きと父親の溺愛ぶりが描かれる。

父については、一緒にお風呂に入るのを楽しみにしていて、それを望が断れないでいるといったものだが、駆け引きの方は少し複雑だ。望の本心を知っている多恵は、いちゃいちゃ場面を訊かせたり、藤巻との仲が壊れそうなことを仄めかしたり、あげちゃおうか発言をしたり、そのくせ藤巻のライブには嘘を付いて望を行けなくさせたりしていたのだ。

そうして合格発表日(合格した藤巻と多恵が抱き合って喜んでいるのを望は茫然として見ていた)の夜のあの場面を迎えるのだ。しかも父と藤巻と多恵が揃って、馬場と望のいる部屋に入ってきて……というわけだったのだ。で、この修羅場が何とも恥ずかしい。それは多分私にも下心があるからなんだろうけど(しかしなんだって、こーやって弁解しなきゃいけないんだ)。

ただこのあとにある、望と大学に入った藤巻との対話はよくわからなかった。だいたいあのあとにこういう場が成り立つというのが、不自然と思うのだが、とにかく望は藤巻の態度を問い質していた。藤巻のはっきりしない、ようするに多恵と望の両方から好かれているのだからそのままでいたいという何ともずるい考えを、望は本人の口から確認するのだが、しかしこのあと「藤巻君はそのままでいいの、私が勝手に頑張るだけだから」になってしまっては、何もわからなくなる。いや、こういうことはありそうではあるが。

これだったら、別れることになった棚橋と、洗濯機をどちらが持っていくかという話しているうちに「ごめんね、俺、ミーちゃんのこと大好きなのに浮気して……」と言って棚橋とよりを戻してしまう馬場の方がまだマシのような。ま、だからって馬場がもうよそ見をしないかというと、それはまったくあてにならないのであって、そもそももう望のことは諦めるしかない現実があるからだし、あー、やだ、この映画、もう感想文書きたくないよ。

【メモ】

馬場は望の父から再三「くれぐれも間違いのないように」と釘を刺されるのだが、これってすごいことだよね。

馬場の趣味?はバッティングセンター通い。そこで1番ホームランを打っているというのが自慢のようだ。

棚橋は見かけはあんなだが、うまいカレーを作る。そのカレーを馬場は無断で、自作のものとして望月家に持っいってしまう(この日は望月家もカレーだった)。

修羅場で望にひっぱたかれた多恵は、その理由がわからない。

本当の最後は、1人でバッティングセンターに来た望がホームランを打ち、景品のタオルをもらう場面。

2006年 104分 ビスタサイズ PG-12 配給:アムモ 配給協力:トライネット・エンタテインメント

監督:吉田恵輔 製作:古屋文明、小田泰之 プロデューサー:片山武志、木村俊樹 脚本:吉田恵輔、仁志原了 撮影:山田真也 助監督:立岡直人 音楽:神尾憲一 エンディング曲:クラムボン「THE NEW SONG」
 
出演:あべこうじ(馬場元)、鈴木美生(望月望)、坂本爽(藤巻凛)、清浦夏実(多恵)、踊子あり(棚橋美沙/馬場の同棲相手)、内藤トモヤ(望月栄一郎/望の父)、峯山健治、野木太郎、比嘉愛、三島ゆたか