重力ピエロ

新宿武蔵野館3 ★★★★

写真1:おっ、また出演者の不祥事か……と思ったが(『今度の日曜日に』の時と同じと思ってしまったのだな)、何のことはない、5.23という公開日を武蔵野館が紙を貼って消しているだけだった(この変則?公開のお陰で観ることができたのだが)。あと、別に「エロ」を強調しているわけではなくて、たまたま……。写真2:元のポスターはこれ。

■親殺しを肯定

泉水と春の兄弟が市内(舞台は仙台)で起きている連続放火事件に興味を持ち、その謎を追う。春が落書き(グラフィティアート)消しの仕事をしているうちに、必ずそのすぐ近くで放火が起きていることに気付き、泉水に相談したのだった。

そしてこの謎が、自分たち家族に刻印されてしまった、ある忌まわしい事件と結びついていることが次第にわかってくる……。

まず、この落書き消しの仕事っていうのが、そもそも怪しいんだが、それには触れていないのがどうもね。バラバラな場所で書かれた落書きなのに(ということは依頼主もバラバラだろうから)、その始末を何で春が全部やっているんだろう、とかね(そりゃ春が手を回せば仕事を取るのは可能にしても、泉水にはそのことも含めて不自然なのがわかってしまいそうなんだもの。ま、最終的には、気づけ!という意味もあるんで、これで正解なのかもしれないが)。

これに限らず、この落書きがあるメッセージを持っていて、それが遺伝子配列を使った暗号だということがわかったりするのだが(泉水は大学院で遺伝子を研究しているのな)、このミステリー部分は、実はいらなかったりもするのだな(え、そんな!)。

この凝ったつくりは、原作(未読)が伊坂幸太郎だからのような気もするが、そしてだからってそれほどうるさくはないのであるが(仕掛けが多い割にはわかりやすい映画だろうか)、泉水を巻き込む必要があったとはいえ、春の凝りようは凡人には理解しづらい面がある。

また、二十四年前のレイプ事件(犯人は高校生だった)で授かってしまったのが春で、その噂話が家族を苦しめ(転居もするのだが、父の正志が公務員ということもあって、噂話圏内からは逃れられなかったのか)小学生の時には泉水と春にもそのことが耳に入っていたという場面(春の疑問に、泉水はとっさにファンタ・グ・レイプと誤魔化す)は、映像になると突出してしまうので、もう少しぼかしておいてもよかった気がする。

けなしてばかりなのに、★四つ評価なのは、この作品には別の魅力があったからで、泉水の兄としての微妙な立場の描き方がその一つ目だ。

なにしろ彼の弟は、カッコがよくて女の子にはもてるし、これはおまけだが絵もうまい。ぼわっとしたイメージの泉水としては、どうしても弟と比較されてしまうから相当ストレスがあったらしいのだが、泉水は(むろん春も)両親の愛情の下、それがけっしてやっかみにはならないように育てられたのだった。とはいえ春の出生の秘密を知っていて、仲のいい兄弟でい続けるのは難しいことだったと思われる。

そしてこの作品は、泉水の目を通して語られる家族の物語であり、そこに春は何よりも不可欠な存在としてあるのである。

二つ目は春が実の父親を殺してしまうことで、これについては「ムチャクチャだな」と泉水に言わせてはいるが、警察に行くという春を泉水は「世の中的には悪いことじゃない」と断言し、そして「実は俺もあいつを殺そうとした」と春に告白するのだった(事実これは実行段階寸前だった)。

最後の場面は父の死後(結局胃癌で死んでしまったのだった)、二人が父の趣味をついで?養蜂作業(蜜の分離)をしているところで終わっている(注1)から、あの泉水の言葉は、春が自首することをおしとどめたようである。つまり作品として、春の行為を正当な殺人として肯定しているのである。そして、どう考えても「ムチャクチャ」なのに、それを受け入れてしまっている自分がいて、これも驚きなのだった。殺人はバットを何度も振り下ろすという、かなり残忍なものだったのに。

確かに春の実父葛城由紀夫の精神構造は不快としかいいようがないもので(好きになれない渡部篤郎だが、この役はうってつけだった)、こいつの言い分を聞かされていると、あまりの身勝手さに怒りが湧いてくる(三十人レイプは葛城の青春の一ページになってしまうし、他のセリフも書くのが躊躇われるようなものばかりなのだ)。正義など、それを振りかざす人間の数だけいるのだろうとは思うが、ここまで極端だと、こちらの正義をぶつける気にもならなくなってしまう。

むろん、だから殺人を犯していいのかといえばすぐには頷けないのであるが、春を責める気になるのも難しい。尊属殺人罪など、とうの昔になくなりはしたが、同じ殺人でも親殺しや子殺しになると、今だに道義的な解釈が余計にプラスされてついてまわることになる。親子関係というのはどうしてもそういう部分から抜けられないのだろう。

あんな奴が実の父親であることがわかったら、一体どんな気持ちがするだろうか。そして遺伝子は、いろいろな部分を葛城から春に正確にコピーしているのである(注2)。だから、春は女性に興味がないみたい、なのではなく、興味を持たないようにしていたのかもしれないではないか。学生時代にクラスのむかつく女をレイプしようとした相手に本気で向かっていったのは、そういうことだったのである。

市内の落書き消しという凝った設定がわかりづらいと最初の方で書いたが、もしかしたらそれは、春にとっては父親(が過去に三十件ものレイプをした場所)の痕跡を消す作業だったのかもしれない。そこに父親を度々呼び出し、春なりに過去に向き合わせようとしたのに、葛城は反省するそぶりすら見せなかったのだろう。

春がこのことを泉水に知らせようとしたのは、自分は臆病で大事な時には兄貴がいないと駄目、だからと言うのだが、これはあまり説得力がない。自分の中にある暴力性に自信が持てない春が、表面的には役に立ちそうもない泉水を側におくことで、抑止力としていたと考えればわかりやすくなるが、どうだろう。

あと映画を観ていて気になったのが、家族四人でサーカスに行った場面で、この時のことが題名になっているので外せなかったのだろうが(注3)、これと「俺たちは最強の家族」という言葉が繰り返される部分は、削除した方がいいと思うのだが。

注1:厳密にはこのあとストーカー女の夏子があらわれ、そして巻頭と同じ「春が二階から落ちてきた」というモノローグに合った場面となる。

注2:「どうして僕だけ絵がうまいの」というセリフはあったが、これが葛城の遺伝かどうかは定かではない。アルコールに弱いのは共通している。

注3:「家族の愛は重力を超える」はポスターの惹句だが、そう言ってたかどうかは忘れてしまった。楽しくしてれば地球の重力だって消せる、だったか。空中ブランコをしているピエロが落ちそうになるのを心配する子供たちに、大丈夫よ、と母親が言ってくれるのだ。

  

2009年 119分 ビスタサイズ 配給:アスミック・エース

監督:森淳一 プロデューサー:荒木美也子、守屋圭一郎 エグゼクティブプロデューサー:豊島雅郎 企画:相沢友子 原作:伊坂幸太郎『重力ピエロ』 脚本:相沢友子 撮影:林淳一郎 美術:花谷秀文 編集:三條知生 音楽:渡辺善太郎 音楽プロデューサー:安井輝 主題歌:S.R.S『Sometimes』 VFXスーパーバイザー:立石勝 スクリプター:皆川悦子 照明:中村裕樹 装飾:山下順弘 録音:藤本賢一 助監督:安達耕平

出演:加瀬亮(奥野泉水/大学院生)、岡田将生(奥野春/泉水の弟)、小日向文世(奥野正志/泉水の父、元公務員)、吉高由里子(夏子/春の元?ストーカー)、岡田義徳(山内/泉水の友人、大学院生)、渡部篤郎(葛城由紀夫/春の実父、デリヘル業)、鈴木京香(奥野梨江子/泉水の母)

幸せのセラピー

新宿武蔵野館2 ★★

■メタボマスオをセラピーすると

『幸せのセラピー』という邦題に、甘い恋愛映画を思い浮かべていたからだけど、あからさまな内容には驚いてしまった(なのにチケット売り場では『幸せのレシピ』と言ってしまった私。それはもう観たじゃないのねぇ)。

銀行頭取の娘ジェスと結婚したビルは、一族で固められた銀行の主要ポストにはいるものの、すべてのことは義父や義弟に従う習慣にどっぷり漬かっていて、嫌いな鴨狩りにも行きたくないとは言えず、行けば行ったで犬の代わりに獲物を拾いに行くのが関の山。ストレスでチョコバーが手放せず、鏡を見ればそこには冴えない顔があるだけだ。メタボだし、老いを感じずにはいられない。

追い打ちをかけるように発覚したジェスの浮気だが、ビルはジェスが浮気するのも無理からぬと自分でも思ったのか(ある意味偉い?)、浮気現場を撮影したビデオを証拠にジェスに詰め寄るが、何故か怒りの対象は浮気相手のテレビレポーターに向かう(は?)。

まず、これがわからない。ジェスを怒れないのは長年のマスオさん生活よるものにしても、ジェスに「捨てられたらどうしよう」はないだろう。まあ、そういう自分を、メンター制度(OBのところで社会体験をする制度)で知り合ったマセガキ学生と、彼の年上の恋人未満のルーシーの協力で変えていくという話なので、どうしてもビルが情けない人物像になってしまうのは致し方ないのだが、そうではなく、ビルの思考回路が私にはよく理解出来ないのだった。

もしかしたらそれは、彼が負けず嫌いだからなのだろうか。銀行の業務に逆らうようにドーナツ屋のフランチャイズオーナーになろうと努力を重ねていたのも、分散投資の見本を示したかっただけなのか(ちょいスケールがねぇ)、最後の方ではジェスも反省して、このフランチャイズに乗り気になってくれたというのに、ビルはやりたいことではなかったと言ってしまう。単に脱メタボ指向になったのでそう言っただけのようにも見えるが、彼にとっては一人でやり遂げることに意味があったのかもしれない。

執拗に挟まれるプールでのトレーニング映像が、彼の負けず嫌いを語っているのだが、この彼の性格は、彼のことをねじ曲げているように思えてならないのだ。だからって、ビルの選んだ新しい人生を、別に邪魔しようというのではないのだけれど。この際、リセットすべきなのかもしれない。出来る人は大いにやった方がいいと思う。

ただしマセガキ学生との友情関係については、私のようなじじいにとっては、彼がとんでもないヤツにしか見えない。金もふんだんに使える恵まれたお坊ちゃんで、って、もういいか、どうでも。

宣伝ポスターからだと、ジェシカ・アルバはまるでアーロン・エッカートの相手役のような印象を受けるが、マセガキ学生にナンパされるただのランジェリーショップ店員にすぎない。マセガキ学生を諭すようなことも言っていたが、ジェスの嫉妬心を煽る役を買って出たり、なんだか面白くもない役所だった。

そういえば脱メタボに取り組み始めたビルが、カッコよく見せるためなのだろう、体毛を剃る場面があった。胸毛に、あとの方では腕や足の毛まで。アジア圏ならそんな気もするが、アメリカやヨーロッパでは男の体毛はセックスシンボル的役割を果たしていると思っていたが、昨今ではそうでもないのかしら。けどこの場面まで、こう丁寧に見せられちゃってはねぇ。

まとまりのないヘタクソな話なのだが、至る所に本音やら本性は出ていたか。まあ、薦めないけど。

原題: Meet Bill

2007年 97分 アメリカ ビスタサイズ 配給:アートポート 日本語字幕:高内朝子 PG-12

監督メリッサ・ウォーラック、バーニー・ゴールドマン 製作:ジョン・ペノッティ、フィッシャー・スティーヴンス、マシュー・ローランド 製作総指揮:ティム・ウィリアムズ、アーロン・エッカート 脚本:メリッサ・ウォーラック 撮影:ピーター・ライオンズ・コリスター  プロダクションデザイン:ブルース・カーティス 衣装デザイン:マリ=アン・セオ 編集:グレッグ・ヘイデン、ニック・ムーア 音楽:エド・シェアマー 音楽監修:デイヴ・ジョーダン、ジョジョ・ヴィラヌエヴァ

出演:アーロン・エッカート(ビル)、ローガン・ラーマン(生徒)、エリザベス・バンクス(ジェス/ビルの妻)、ジェシカ・アルバ(ルーシー/ランジェリーショップ店員)、ティモシー・オリファント(チップ・ジョンソン/テレビレポーター、ジェスの浮気相手)、ホームズ・オズボーン(ジョン・ジャコビー/ジェスの父、銀行頭取)、リード・ダイアモンド、トッド・ルイーソ、クリステン・ウィグ、ジェイソン・サダイキス

少年メリケンサック

楽天地シネマズ錦糸町-2 ★★★★

■『デトロイト・メタル・シティ 序章』(なわけないが)

メイプルレコード契約社員の栗田かんなは、ネットの動画で「少年メリケンサック」という生きのいいバンドを見つける。かんな自身はパンクなど嫌いだったが、彼らのまき散らす怪しい魅力に血が騒ぎ、何故だか成功を確信する。

83年生まれだから25歳、なんとかギリギリ新人セーフ、と勝手に判断して社長に掛け合い、契約交渉に乗り出すが、ネットにあった83年という文字は、誕生年などではなく、解散コンサートの年だった、つまりメンバーはもう50も過ぎたオヤジたちだったのだ。

筋はくだらなくかつ強引、メンバーがバラバラになっているだけでなく、腕は錆び付いているし(もともとうまくなさそうだ)、兄弟で反目し合っているアキオとハルオが何かにつけ意地の張り合いをするし(これには深ーいわけがあった)、とりあえず結束するだけでも大変な状況。が、ネットのアクセス数は鰻登り。パンクへの肩入れのある社長が全国ツアーまで組んでしまい、かんなは後に引けなくなってしまう、ってことでコメディのお膳立ては揃いまして……ちゅーか、結末で再結成の舞台が成功すればいいだけだから、あとはどうにでもなれ状態で、いいようにやってるだけのような気もしなくはないのだけど、まあ、それが楽しいというか……。

とはいえ、マトモに考えていくと無理なところはいっぱいあって、そもそも契約社員が新人発掘のような仕事を任せられるのかとも思うし、ボーカルのジミーのよれよれ度ぶりを見てしまったら、再結成など考えられっこないはずなのだ(いや、かんなもそう思ったんだったっけ)。ジミーのよれよれぶりは、どうやら昔の「少年メリケンサック」時代の大乱闘に起因しているらしく、でも、実は歩けなかったり呂律が回らないのは嘘だった(?)というような場面も入っていて、何が何だかわからなかったりする(障害者手当のちょろまかしか)。

作り手としては「農薬飲ませろ」が「ニューヨークマラソン」に聞こえてくれればしめたもので、この強引さが妙なテンションとなって映画を引っぱっていくのだが、その合間に昔のグループサウンズの映像(ちゃんとしたエピソードでもある)をぬけぬけと入れて、平気で水を差したりもする。かんな同様パンクなど特に好きじゃない私だが、こんなグループサウンズ映像を観せられると、グループサウンズのキモさが際立って(あーそうだった、って感じなんだもの)、パンクがマトモに、は見えないが、まだマシかも、とは思ってしまう。

さらに、かんなの恋人マー君(歌手志望なんである)の、グループサウンズに通じる綺麗なだけの虫酸の走る歌も、大いに水を差す。マー君の正体にかんなも気づいて(中年オヤジたちに気づかされて)、そいでマー君も浮気なんかしちゃうから、悪い人じゃないって書いてやろうと思っていたけど、やっぱりダメ人間だったのね。

で、最後にそのマー君は「少年メリケンサック」に引きずり込まれちゃう、って、えー何だぁ! もしかしてマー君って『デトロイト・メタル・シティ』の崇一(松山ケンイチ)だったとか。じゃあ何だ『少年メリケンサック』の実体は『デトロイト・メタル・シティ 序章』なのか、ってなわけはないのだけど。

馬鹿げた連想はともかく、マー君を引き込んでしまうのは、兄弟二人が腕を折っての代役ってこともあるのだけれど、だからアキオがのたまわっていた「嘘を上回る奇跡を起こ」したのかどうかはわからないのだが、でも無理矢理の二人羽織ギターまで飛び出して、「結末で再結成の舞台が成功すればいいだけだから」と安直な感動オチを予想をしてしまった私は、降参するしかないのだった。うん、降参(でも奇跡はないよ)。

それにしても宮崎あおいはすごかった。泣けるし、笑えるのは知ってたけど、啖呵も切れるのね。こんなハイテンションな芝居をして無理がないんだから。佐藤浩市もよかった。歳をとったらこうなるんだって卑猥なセリフをまき散らしては見事に居直ってた。前は苦手だったが、この人のことがだんだん好きになってきた気がする(ちょいやば)。

  

2008年 125分 ビスタサイズ 配給:東映

監督・脚本:宮藤官九郎 アニメーション監督:西見祥示郎 プロデューサー:岡田真、服部紹男 エグゼクティブプロデューサー:黒澤満 アソシエイトプロデューサー:長坂まき子 撮影:田中一成 美術:小泉博康 衣裳:伊賀大介 編集:掛須秀一 音楽:向井秀徳 音楽プロデューサー:津島玄一 スクリプター:長坂由起子 スタイリスト:伊賀大介 プロデューサー補:植竹良 メインテーマ:銀杏BOYZ『ニューヨーク・マラソン』 ラインプロデューサー:望月政雄 擬斗:二家本辰巳 照明:吉角荘介 装飾:肥沼和男 録音:林大輔 助監督:高橋正弥

出演:宮崎あおい(栗田かんな)、佐藤浩市(アキオ/少年メリケンサックBa.)、木村祐一(ハルオ/Gt.)、勝地涼(マサル/かんなの恋人)、ユースケ・サンタマリア
(時田/メイプルレコード社長)、田口トモロヲ(ジミー/Vo.)三宅弘城(ヤング/Dr.)、ピエール瀧(金子欣二)、峯田和伸[銀杏BOYZ](青春時代のジミー)、佐藤智仁(青春時代のアキオ)、波岡一喜(青春時代のハルオ)、石田法嗣(青春時代のヤング)、田辺誠一(TELYA)、哀川翔(かんなの父)、烏丸せつこ(美保)、犬塚弘(作並厳)、中村敦夫(TV局の司会者)、広岡由里子、池津祥子、児玉絹世、水崎綾女、細川徹、銀杏BOYZ[我孫子真哉、チン中村、村井守](少年アラモード)、SAKEROCK[星野源、田中馨、伊藤大地、浜野謙太]

幸せのレシピ

新宿ミラノ1 ★★☆

■子供や恋はレシピ通りというわけには……

腕に自信アリの、マンハッタンの高級レストランの女料理長ケイト(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)は、交通事故で姉を失い、生き延びた九歳の姪のゾーイ(アビゲイル・ブレスリン)をひきとることになる。この状況とどう向き合うか、というのが一つ目の問題。

子供に一流料理を作ってどうすんだと言いたくなるような女だから、ゾーイとの関係もそんなには簡単にいかないし、そのためにちょいと職場を離れていたら経営者のポーラ(パトリシア・クラークソン)がイタリアかぶれの陽気なニック(アーロン・エッカート)という男を副料理長として雇ってしまって、二つ目の問題も。

ドイツ映画『マーサの幸せレシピ』(2001)のリメイクだということは観てから知ったが、もともと毒っ気とはまったく縁のない映画なのだろう。だから難題であっても安心してハッピーエンドを待てばいいだけで、それも悪くはないのだが、もの足りなさは否めない。

ポーラがちょっと欲を出す程度で、他はもう全部いい人で固めていて、そのことも幸福感を演出しているのだが、自信過剰のケイトが一番問題のような気がしてしまう。早起きして市場にまで出向く完璧主義者だから手強いのだな。ということは、原題の『No Reservations』は、ケイトに「素直に」とでも言っているのかしら。

客がまずいと言ったらまずいのに、それがわからないとなると怖い。味覚の趣向についてあれこれ言うことがそもそもおかしいと、私が思っているからなのだが、料理ではなく他のことに置き換えて考えることにした(これなら納得できる)。

ニックがどこまでもいい人というのがなかなか信じられないケイトなのだが、それ以前に調理場でオペラを流してパヴァロッティ気取りでいられたら、やっぱりいらついてしまうかも。ニック自身がケイトのファンを自認しているのだから恋もすぐその先なのだが、なによりゾーイが彼の料理ならちゃんと食べてくれるという、ケイトにとっては泣きたくなる展開。

キャサリン・ゼタ=ジョーンズの抑えた演技は好感が持てるし、アーロン・エッカートも終始楽しそうで、しかもそれほど押しつけがましくないのがいい。ボブ・バラバンは『レディ・イン・ザ・ウォーター』では映画評論家だったが、ここでは精神科医。蘊蓄たれ男が適役と思われているのか。ポーラが欲を出したと書いてしまったけど、ケイトに精神科医行きをすすめたのは彼女でした。

そういえばケイトはその精神科医に「何故セラピーを受けろと言われたかわかるかね」と問われて「いいえ」と答えていたっけ。

 

原題:No Reservations

2007年 104分 シネスコサイズ 配給:ワーナー 日本語字幕:古田由紀子

監督:スコット・ヒックス 製作:ケリー・ヘイセン、セルヒオ・アゲーロ 製作総指揮:スーザン・カートソニス、ブルース・バーマン 脚本:キャロル・フックス オリジナル脚本:サンドラ・ネットルベック 撮影:スチュアート・ドライバーグ プロダクションデザイン:バーバラ・リング 衣装デザイン:メリッサ・トス 編集:ピップ・カーメル 音楽:フィリップ・グラス

出演:キャサリン・ゼタ=ジョーンズ(ケイト・アームストロング)、アーロン・エッカート(ニック・パーマー)、アビゲイル・ブレスリン(ゾーイ)、パトリシア・クラークソン(ポーラ)、ボブ・バラバン(精神科医)、ブライアン・F・オバーン、ジェニー・ウェイド、セリア・ウェストン、ジョン・マクマーティン

シュレック3 日本語吹替版

新宿ミラノ3 ★★☆

■昔々、誰かが僕たちをこんなにした

1、2作目を観ていないので、比較も出来なければ話の流れもわかっていないのだが、シュレックはどうやら2作目の活躍(?)で王様代行の地位を、このおとぎの国で得ていたらしい。もっともシュレックが王様代行としてふさわしいかどうかは本人が1番よく知っていることで、何しろシュレックは怪物らしいんだが、そしてこれは多分3作目だからなのだろうが、せいぜい見た目が緑でごっつくて息が臭いくらいでしかなくって、そう、すでに人気者なのだった。

とにかくシュレックが何者なのかも、ドンキーと長靴をはいた猫が何で彼の部下となっているのかもわかってなく、怪物なのにヒーローで、結婚したフィオナ姫(シュレックと同じ怪物なのに蛙国王が父!?)までいるんだ?と、一々ひっかかっていてはどうしようもない。

だから楽しめなかったかというとそんなことはないのだが、残念なことにシュレックにそれほど親近感が持てぬまま終わってしまったのは事実。

蛙国王ハロルドの死(死の場面で笑いをとってしまうんだからねー)で、いよいよ王位に就くしかなくなったシュレックは、フィオナ姫の従弟のアーサーという王位継承者の存在をハロルド王から聞いたことで、アーサー探しの船旅に出、ある町の高校でアーサーを見つけだす。

このアーサー、円卓の騎士(アーサー王伝説)からの命名らしく、ライバル(恋敵でなくいじめっ子)はランスロットで、かつて魔法を教えてくれていたのがマーリンというヘンな元教師(魔術師という設定は正しいが、彼には別の場所で会う)。ただ、円卓の騎士の話は名前だけの借用で、話が関連してくるでもなく、アーサーはまぬけな臆病ものでしかない。

一方、シュレックが王になっては面白くないチャーミング王子は、おとぎ話で悪役や嫌われ者になっている白雪姫の魔女やシンデレラの継母にフック船長などにくすぶっている不当な扱いや不満をすくい取り、シュレックがいないのを狙いすましたように反旗をひるがえす。

チャーミング王子が自分勝手で狡賢いヤツでなければ、彼らの想い(昔々、誰かが僕たちをこんなにした)に応えるこの発想は捨てたものではないのだが、自分が注目されたいがために、所詮はおだてて利用しようとしているだけというのがねー。てっきり子供向けだから単純な設定にしておいたのだろうと思ったのだが、白雪姫やシンデレラたちをちょっと鼻持ちならないキャラクターにしたりと、手のこんだところもみせる。で、髪長姫にはチャーミング王子に協力するという裏切りまでさせているのだ。

ただそのチャーミング王子は、巨大劇場での自己満足演目に浸りきってしまう幼稚さだから、シュレックが旅から戻ると一気にその企ても崩れ去るのみ。おとぎの国の悪役たちも、アーサーが王らしい訓示を垂れれば(シュレックの受け売りなんだけどね)、武器を捨ててしまうのだから、あっけないったらありゃしないのである。

映画全体にあるこの生温さは、怪物として機能する必要がなくなってしまったシュレックにありそうなのだが、なにしろ1、2作を観ていないのでいい加減な感想しか書けないのは最初に断った通り。CGは見事だし、ほとんどお馴染み顔ぶれが繰り出すギャグも1作目から観ていたらもっと楽しめたと思うのだが、とにかくシュレックのヒーローとしての際立った魅力がこの3には感じられないのだ。王様になることを恐れたり、生まれてくる赤ん坊の悪夢を見ていたというような印象ばかりではね。

 

【メモ】

最近の日本語吹替版ではあたりまえのようだが、タイトルやエンドロールも日本語表記のもの。アニメなんだから私なぞ日本語吹替版で十分(むしろこの方が楽しめるかも)。

原題:Shrek the Third

2007年 93分 シネスコサイズ アメリカ 配給:アスミック・エースエンタテインメント、角川エンタテインメント

監督:クリス・ミラー 共同監督:ロマン・ヒュイ 製作:アーロン・ワーナー 製作総指揮:アンドリュー・アダムソン、ジョン・H・ウィリアムズ 原作:ウィリアム・スタイグ 原案:アンドリュー・アダムソン 脚本:ピーター・S・シーマン、ジェフリー・プライス、クリス・ミラー、アーロン・ワーナー 音楽:ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ

声の出演(日本語吹替版):濱田雅功(シュレック)、藤原紀香(フィオナ姫)、山寺宏一(ドンキー)、竹中直人(長ぐつをはいた猫)、橘慶太(アーサー)、大沢あかね(白雪姫)、星野亜希(シンデレラ)、光浦靖子(髪長姫〈オアシズ〉)、大久保佳代子(眠れる森の美女〈オアシズ〉)

しゃべれども しゃべれども

新宿武蔵野館1 ★★★★

■落語の味わい、ながら本気度満点

この映画を文章で説明してもあまり面白くなりそうもないのだが、しかし目的はまず自分のための忘備録なのであるからして、やはり粗筋くらいは書いておくか(書き出せばなんとかなるだろう)。

二つ目で今昔亭三つ葉という名をもらっている外山達也(国分太一)が、師匠の小三文(伊東四朗)に弟子入りしたのは18の時だから、もうすでに10年以上が経っている。達也は古典落語にこだわり、常に着物を着る、根っからの落語好き。なのに、どう喋ったらいいかがなかなか掴めずにいた。そんな彼が、よりによっておかしな3人を相手に話し方教室を開くことになるという、まるで落語の題材のような映画だ。

まずは、村林優(森永悠希)という大阪からの転校小学生。言葉の問題でいじめにあっているらしい。心配になって達也に相談してきたのが彼の叔母の実川郁子(占部房子)。彼女は達也の祖母春子(八千草薫)のお茶の生徒で、優が落語を覚えれば人気者になって問題解決と思ったらしい(これが彼女らしさなのかも)。達也は郁子に秘かに想いを寄せていたのだが、展開の糸口も見せてくれないうちに「来年結婚することにした」という郁子の宣言を達也は聞かされることになる(はい、残念でした)。

2人目は十河五月(香里奈)という若い女性。小三文が講師となったカルチャースクールの話し方教室を中途退席した失礼なヤツ。達也は「師匠はいつもあんなもん」と弁護するのだが、五月は「本気でしゃべってない」から「つまらない」と手厳しい。2人の掛け合いが、実際に自分がその内の1人だったらとてもこうはいかないと思うのだが、ギリギリのところで繋がっていて面白い。

五月のように、こうぶっきらぼうに話されてはたまったものではないし、だから話し方教室はぜひとも必要と思わせるのだが、しかし彼女の口から出る言葉は常に本音だから、達也も正面からぶつかっていったのだろう。事実、何故か一緒に行くことになったほおずき市でも、楽しかったと正直な感想を述べていた(達也は郁子の気持ちをこの時はまだ知らない。五月の方は、男にフラれた話を達也にしたところだった)。

3人目は元野球選手の湯河原太一(松重豊)。現役時代は「代打の湯河原」として湧かせたらしいが、話し下手であがり症だから解説者としての前途は暗澹たるもので、教室の噂を聞きつけて飛び込みでやってきたのだった。

3人が教室で一緒になる設定は、強引といえば強引。だけど、この取り合わせの妙は捨てがたいものがある。優は小学生ながら、口は達者でお調子乗り。湯河原太一とは相性が悪く険悪ムードが漂うが、でも優のいじめっ子宮田との野球対決に湯河原が一役買ってという流れにはちゃんと2人の本気度が感じられる。結局、アドバイスはもらったものの宮田には三振で負けてしまうのだが、このあと優の失踪騒動(達也の部屋にいただけだった)では、達也が優に手を出してしまうことになる。

こんなだから、教室の発表会の開催はあやしくなる。達也にも、師匠から一門会があるという話があって、集中しなければならない事情があった。なにしろ達也はあろうことか師匠の十八番である『火焔太鼓』をやると決めてしまったのだ。これを決める少し前に達也が「俺、師匠の噺が好きです」と師匠に言う素晴らしい場面がある。この達也の真っ直ぐな気持ちには泣けてしまう。

クライマックスというほどのものなどないのだが、結局達也(ここは三つ葉と書くべきか)は体調を崩していたことも幸いしたのか、一門会で自分なりの『火焔太鼓』をものにする。そして、教室の発表会も無事行われることとなった。

優は『饅頭こわい』で宮田から笑いを取り、姿をなかなか見せずに心配させた五月も、演目を変え達也と同じ『火焔太鼓』を披露する。教室には何しにきていたのかわからないような湯河原だったが、彼も来年からはコーチをやることになったという。不器用な彼ら(優は最初から器用だったけどね)だったが、五月の言ったとおり「みんな、本気でなんとかしたいって思って」いて、本当になんとかしたのだった。

最後は達也を追いかけるようにして五月が水上バスに乗り込んできて、言わないと一生後悔する気がすると、ほおずきがうれしかったことを告げる。いらないと言い張っていたほおずきを、達也が買って五月の家に届けてやっていたのだ。2人が結ばれる結末は予想どおりにしても、ここまではっきりとした意思表示を五月が見せるとは思いもしなかった。ということは『饅頭こわい』を『火焔太鼓』にしたのにも、同様の意味があったということか。ずっと練習していた『饅頭こわい』ではなく、達也が悩み苦しんでいた『火焔太鼓』を五月も一緒になって演じたかったのだ。

一方的に五月に攻勢をかけられてしまっては、達也が心配になるが、『火焔太鼓』を30点評価にして「『饅頭こわい』はどこに行った」と切り返すあたり、さすがにそれはわかっていたらしい。で、「ウチにくるか、祖母さんがいるけどな」となる。

もっとも、そこまでわかっているなら、達也がもう少し気をきかせてやってもよかったような。じゃないか、五月が自分で意思表示することが1番大切なことだと、達也にはわかっていたのだよね(そういうことにしておこう)。

しかしくだらないことだが、達也が豊島区の家を出ると、次には江東区の水上バスに乗っているというのがどうもね。深川図書館や水上バスが出てくる風景は、私にとっては日常の延長線のものだからそれだけでうれしいのだが、だからよけい気になってしまうのである。

  

2007年 109分 ビスタサイズ 配給:アスミック・エース

監督:平山秀幸 プロデューサー:渡辺敦、小川真司 エグゼクティブプロデューサー:豊島雅郎、藤島ジュリーK.、奥田誠治、田島一昌、渡辺純一、大月昇 原作:佐藤多佳子『しゃべれども しゃべれども』 脚本:奥寺佐渡子 撮影:藤澤順一 美術:中山慎 編集:洲崎千恵子 音楽:安川午朗 音楽プロデューサー:安井輝 主題歌:ゆず『明日天気になぁれ』 照明:上田なりゆき 装飾:松本良二 録音:小松将人 助監督:城本俊治 落語監修・指導:柳家三三、古今亭菊志ん

出演:国分太一(外山達也/今昔亭三つ葉)、香里奈(十河五月)、森永悠希(村林優)、松重豊(湯河原太一)、八千草薫(外山春子)、伊東四朗(今昔亭小三文)、占部房子(実川郁子)、外波山文明(末広亭の師匠)、建蔵(今昔亭六文)、日向とめ吉(今昔亭三角)、青木和代(八重子)、下元史朗(十河巌)、水木薫(十河みどり)三田村周三

女帝[エンペラー]

有楽座 ★★☆

■様式美が恨めしい

『ハムレット』を基に、唐王朝崩壊後の五代十国時代の中国に移し替えた作品ということだが、話自体にかなり手を入れていることもあって、印象はまったく違うものとなった。

皇太子ウールアン(ダニエル・ウー)の妻だったのに、どうしてか彼の父の王妃となっていたワン(チャン・ツィイー)は、王の謎の死で、今度は新帝となった王の弟リー(グォ・ヨウ)のものとなる。ウールアンからすると、父と叔父に妻を取られるという図である。

「そちを手に入れたから国も霞んで見える」とリーに言わせるほどのワンではあるが(傾国の美女ってやつね)、この設定はいただけない。チャン・ツィイーを主役にするための『ハムレット』の改変だが、恋人だったウールアンを救うためにワンがリーの妻になるというのがはじまりでは、観客はもう最初からどうにでもなれという心境になる。話をいたずらに込み入らせるばかりで、気持ちの整理がつかなくなると思うのだが。

ワンが妻から義理の母になったことで、ウールアンは呉越で隠棲し、ただ歌と舞踏の修行に打ち込んでいたらしいのだが、兄を殺害(死の真相)したリーは、魔の手をウールアンにも差し向ける。

ウールアンの修行の地で繰り広げられる、舞踏集団とリーの送り込んだ暗殺団とのアクション場面は、舞踏集団の白面に白装束の舞が戦闘場面とは思えぬ優美さを演出するのだが、しかしやはりそれは舞踏にすぎないのか、暗殺団の手によって次々と命を落としていく様は、その美しさが恨めしくなるほどだ。彼らが積んできた修行の結果のその舞は、ほとんど何の役にも立たないのである。そして、それは皮肉なことにこの映画を象徴しているかのようである。

衣装や宮殿の豪華さを背景に、ワイヤーを多用した様式化された映像は、最近では多少鼻についてはきたものの息を呑むような仕上がりになっている。が、肝腎のドラマが最後まで機能していないのだ。

都に戻ったウールアンはワンに再会したのに「父上のお悔やみを言うべきか、母上にはお祝いを言うべきか」などと皮肉をいう始末。ウールアンにしてみればワンの行動が自分の安全と引き換えになっているなどとはとても思えない(現に暗殺されそうになった)から当然なのだが、でもここまで言ってしまうとちょっとという気になる(ここで演じられるワンとウールアンの舞踏?も物語と切り離して見る分には素晴らしいのだけどね)。

王妃の即位式でのウールアンの当てつけがましい先帝暗殺劇に、拍手を贈る裏でまたもウールアンの暗殺をもくろむリー(しかしここはそのまま人質交換要員として送り出してしまった方がよかったのではないか)。ワンはウールアンの許嫁チンニー(ジョウ・シュン。これがオフィーリアになるんだろうか)の兄イン・シュン将軍(ホァン・シャオミン)に、暗殺の阻止とリーへの偽りの報告をさせ、自らは毒薬を手に入れ、夜宴の席でリーの盃に注ぐ。

これがチンニーの死を招くことになってしまうのだが、真相を知ったリーは「そちが注いでくれた酒だ。飲まぬわけにはいくまい」と自ら毒杯を仰ぐ。ここもワンへのリーの想いがここまでになっていたことを表す場面なのだが、そういう気持ちに入り込むことより、ここに至るお膳立ての方ばかりに目が行ってしまうのだ。リーがワンの復讐心に気付かなかったのは不思議でもあるが、しかしそう思いなおしてみるとワンの復讐心がきちっと描かれていなかった気もしてくる。

といってワンに復讐心ではなく権力欲があったとも思えないのだが、チンニー、リー、ウールアン、イン将軍と、あれよあれよという間に登場人物がどんどん死んでいって、女帝陛下ワンが誕生することになる。これはワンが望んでいたものではなかったはずだが、欲望の色である茜色が好きで「私だけがこの色に燃えて輝く」などと言わしているところをみると、案外そうでもなかったのか。

しかしそのワンも、その言葉を口にしたとたん、やはり誰かに殺されてしまうのである。映画は額に血管の浮き出たワンの表情を捉えるが、殺した者を明かすことなく終映となる。しかし、ここのカットだけ長くして彼女の気持ちを汲み取れと言われてもなー。それに、チャン・ツィイーは今回ちょっと見慣れぬ化粧(時代考証の結果?)ということもあって、この最後の場面はともかく、表情とかよくわからなかったのね。

 

原題:夜宴 英題:The Banquet

2006年 131分 シネスコサイズ 中国、香港 PG-12 日本語字幕:水野衛子 字幕監修:中島丈博 配給:ギャガ・コミュニケーションズ

監督・脚本:フォン・シャオガン[馮小剛] アクション監督:ユエン・ウーピン[袁和平] 撮影:レイモンド・ラム 美術・衣装デザイン:ティミー・イップ[葉錦添] 音楽:タン・ドゥン[譚盾]

出演:チャン・ツィイー[章子怡](ワン)、ダニエル・ウー[呉彦祖](ウールアン)、グォ・ヨウ[葛優](リー)、ジョウ・シュン[周迅](チンニー)、ホァン・シャオミン(イン・シュン将軍)、リー・ビンビン、マー・チンウー、チン・ハイルー

神童

新宿武蔵野館2 ★★☆

■好きなだけじゃダメな世界

天才少女と知り合ってしまった音大受験浪人生の悲しい(?)日々……。

ピアノを演奏することが大好きな菊名和音(松山ケンイチ)は音大目指して毎日猛レッスンに励んでいる。受験に失敗したらピアノはあきらめて家業の八百屋を継がねばならないのだ。

そんな時に知りあった成瀬うた(成海璃子)は13歳ながら言葉を覚える前に楽譜が読めたという天才少女。なにしろ和音がピアノを弾くと近所からの苦情になるが、うたが弾くと八百屋の売り上げがあがるってんだから(ひぇー、普通人もそんなに耳がいいんだ。私にはなーんもわからないんだけどねー)。

そんなうただが、母親の美香(手塚理美)には唯一の望み(借金返済の)だから、レッスン中心の生活で、突き指予防で体育は見学だし、訓練の一環で左手で箸を使うよう厳命されたりしているから、「ピアノは大嫌い」という発言になるのだろう。

その一方で事実にしても天才と持ち上げられているせいか、和音にため口なのはともかく、高慢ともいえる言動が目立つ。理由はともあれ、こんなでは和音の気持ちがうたに傾くとは思えない。というのもどうやらうたは和音のことが好きらしいのだ(これについては後で書く)。

うたは和音のために秘密の練習場(うたが以前住んでいた家)を提供してくれたり、ま、このあと相原こずえ(三浦友理枝)とのことで和音とはちょっとトラブったりもするのだけど、受験の日には応援に行って、何やら霊力を授けてしまったというか、うたが和音に乗り移ったとでもいうか、和音の神懸かり的な演奏は、彼をピアノ課に主席で入学させてしまうのである(ありえねー。でもこの場面はいい)。が、和音にとってはこれが仇になって小宮山教授からも見放されてしまう(「好きなだけじゃダメなんだよ、ここでは」と言われてしまうのだ)。

またうたの方も、母親との軋轢は変わらぬまま、自分の耳の病気を疑うようになっていた。うたの父親光一郎(西島秀俊)が、やはり難聴で自殺したらしいのだ。音大の御子柴教授(串田和美)が昔光一郎と交流があってそのことがわかるのだが、しかしここからは、難解では決してないものの、意味もなくわかりにくくしているとしか思えない流れになっている。

昔光一郎に連れられていったピアノの墓場から1台のピアノを救い出した幼少時の思い出が挿入され、うたも父と同じ難聴に悩まされているような場面があるのに、それはどうでもよくなってしまうし、うたの演奏がちょうど来日していたリヒテンシュタインの耳にとまって、これが彼の不調で、うたに彼による指名の代役がまわってくるのだ。

この演奏会で、うたは自分からピアノを弾きたい気持ちになる。そしてここが、一応クライマックスになっているのだが、それではあんまりと思ったのか、うたがピアノの墓場(倉庫)に出かけて行く場面がそのあとにある。

夜歩き牛丼を食べ電車に乗り線路を歩くこの行程には、うたの同級生の池山(岡田慶太)が付いて行くのだが、彼は見つけた倉庫に窓から入る踏み台になる役でしかない(ひでー)。倉庫の中でうたはあるピアノを見つけるが、指をおろせないでいる。と、彼女の横に何故か和音が来て、ピアノを弾き始めるのだ。

「聞こえる?」「聞こえたよ、ヘタクソ」という会話で、2人の楽しそうな連弾となる。

この場面は素敵なのだが、もうエンドロールだ。うたが心から楽しそうにピアノに向き合っているというのがわかる場面なのだが(捨てられていたピアノが息を吹き返すという意味もあるのだろうか)、「大丈夫だよ、私は音楽だから」という、さすが天才というセリフはすでに演奏会の場面で使ってしまっていて、でもここはそういうことではなく、ただただ楽しんでいるということが大切なんだろうなー、と。

しかしそれにしてもちょっとばかり乱暴ではないか。倉庫のピアノの蓋が何故みんな開いているとか、和音はどうしてここに来たのかというような瑣末なこともだが、うたの耳の病気の説明もあれっきりではね(うたが気にしすぎていただけなのか)。それに、和音については途中で置き去りにしたままだったではないか。

この置き去りはいただけない。うたの再生には和音の存在が必要だったはずなのに、その説明を省いてしまっているようにみえてしまうからだ。うたと和音の関係が、恋人でも家族でもなく、友達というのともちょっと違うような、でもどこかで惹かれ合うんだろうな。この関係は、最後の連弾のように素敵なのだから、もう少しうまくまとめてほしくなる。

和音はうたよりずっと年上だから、すでに相原こずえが好きだったし(振られてたけどね)、音大に入ってからは加茂川香音(貫地谷しほり)という彼女もできて、年相応のことはやっているようだ。うたにそういう意味での関心を示さないのは、うたが和音にとってはまだ幼いからなのか。とはいえ寝ているところに急にうたが来た時はどうだったんだろ。和音も映画も、さらりとかわしているからよくわからない。けど、そういう関係が成立するギリギリの年にしたんだろうね。

耳の肥えた人ならいざしらず、私にとっては音楽の場面はすべてが素晴らしかった。和音のヘタクソらしいピアノも。

  

2006年 120分 ビスタサイズ 配給:ビターズ・エンド

監督:萩生田宏治 プロデューサー:根岸洋之、定井勇二 原作:さそうあきら『神童』 脚本:向井康介 撮影:池内義浩 美術:林田裕至 編集:菊井貴繁 音楽:ハトリ・ミホ 音楽プロデューサー:北原京子 効果:菊池信之 照明:舟橋正生 録音:菊池信之
 
出演:成海璃子(成瀬うた)、松山ケンイチ(菊名和音/ワオ)、手塚理美(成瀬美香)、甲本雅裕(長崎和夫)、西島秀俊(成瀬光一郎)、貫地谷しほり(加茂川香音)、串田和美(御子柴教授)、浅野和之(小宮山教授)、キムラ緑子(菊名正子)、岡田慶太(池山晋)、佐藤和也(森本)、安藤玉恵(三島キク子)、柳英里沙(女子中学生)、賀来賢人(清水賢司)、相築あきこ(体育教師)、頭師佳孝(井上)、竹本泰蔵(指揮者)、モーガン・フィッシャー (リヒテンシュタイン)、三浦友理枝(相原こずえ)、吉田日出子(桂教授)、柄本明(菊名久)

上海の伯爵夫人

新宿武蔵野館2 ★★☆

■夢のバーが絵に描いた餅ではね

1936年の上海。アメリカ人のトッド・ジャクソン(レイフ・ファインズ)は元外交官。かつてヴェルサイユ条約で中国の危機を救った英雄と賞賛を受け、国際連盟最後の希望などともてはやされた過去を持つが、テロ爆破事件で愛する家族と視力を奪われ、今は商社で顧問のようなことをしている。人生に見切りを付けたかのような彼の楽しみは上海のバー巡りで、自分で店を持つのが夢となっていた。

ソフィア・ベリンスカヤ(ナターシャ・リチャードソン)は、ロシアから亡命してきた元伯爵夫人。娘のカーチャ(マデリーン・ダリー)だけでなく一族4人を養うため夜クラブで働いている。同じ服を着て店に出るなと注意されるような貧乏生活ぶりで、時には娼婦であることを要求されるのだろう。それ故彼女への視線は冷たいもので、義姉グルーシェンカに至っては、ソフィアが娘のカーチャに近づくことさえ好ましく思わないでいる。仕事を終えて家に帰ってきても寝る場所すらなく、みんなが起き出してやっと空いたベッドでゆっくり眠ることができるという毎日を生きている。

ソフィアはある日、初顔のジャクソンが店で危うく身ぐるみ剥がれそうになることを察すると、自分の客に見せかけて彼を救う。

競馬で思わぬ大金を手にしたジャクソンは、念願のバーをオープンするのだが、そこの顔にと知り合ったソフィアを迎え入れる。バーの名前は「白い伯爵夫人」、ジャクソンはソフィアに理想の女性像を見いだしたらしい。

雇用関係が結ばれたもの、プライベートなことにまでは踏み込むことなく、たまたまカーチャを連れたソフィアとジャクソンが出会ってと、ラブロマンスにしてはもどかしい展開。ふたりのこれまでの背景を考えればこれが自然とは思うが、といって背景がそう語られるわけではない。ジャクソンと死んでしまった娘との「結婚して子供が産まれてもずっと一緒」という約束は出てくるが、これがあまりうまい挿話になっていないし、ソフィアも生活の悲惨さは描かれていたが(むろんジャクソンの所で働きだしたことで少しは改善されるのだが)、ロシアのことはすでに過去でしかないということなのだろう。

もっともサラとピョートルなどはまだ昔のことが忘れられなくて、フランス大使館へ着飾って出かけるのであるが(悲しくも滑稽な場面だ)、これが思わぬ人との再開となり、香港へ抜け出す手がかりを掴んで帰ってくる。香港行きには大金が必要で、それを工面出来そうなのはソフィアしかいないのだが、脱出計画にはソフィアは含まれておらず、彼女もそれが娘のためと納得せざるをえない。

そしてこれがラストの日本軍の上海侵攻(第二次上海事変)の中での、ジャクソンとソフィアによる娘奪還場面という見せ場になるのだが、これがどうにも盛り上がらない。結局カーチャはソフィアと行動を共にすることになって、グルーシェンカが悲嘆にくれることになるのだが、ああグルーシェンカは本当にカーチャのことを彼女なりに愛していたのだとわかって、なぜかほっとしたことが収穫といえば収穫だったか。

せっかくの時代背景が添え物にすぎなくなってしまっていることもあるが、なによりジャクソンの作った夢のバーのイメージがしっかり伝わってこないのが残念だ。「世界を遮断しているような」重い扉の中に、彼は何を求めたのだろう。質のいい用心棒をやとい、緊張感のある世界を作りあげて、どうしたかったのか。日本人マツダ(真田広之)とはそのことで意気投合したようだが、結局は立場の違う人間でしかなく、最低限の儀礼を示すだけの間柄で終わってしまう。

視力を失うように活躍の場を失った(娘のことで気力がなくなったのだろうが)元外交官が、競馬で儲けてミニチュアの外交の場を得ようとしたのだとしたら、お粗末というしかないではないか。

原題:The White Countess

2005年 136分 ヴィスタサイズ イギリス/アメリカ/ドイツ/中国 日本語字幕:松浦奈美

監督:ジェームズ・アイヴォリー 脚本:カズオ・イシグロ 撮影:クリストファー・ドイル 衣装デザイン:ジョン・ブライト 編集:ジョン・デヴィッド・アレン 音楽:リチャード・ロビンズ
 
出演:レイフ・ファインズ(トッド・ジャクソン)、 ナターシャ・リチャードソン(ソフィア・ベリンスカヤ)、 ヴァネッサ・レッドグレーヴ(ソフィアの叔母サラ)、 真田広之(マツダ)、リン・レッドグレーヴ(義母オルガ)、アラン・コーデュナー(サミュエル)、マデリーン・ダリー(娘カーチャ)、マデリーン・ポッター(義姉グルーシェンカ)、ジョン・ウッド(叔父ピョートル・ベリンスカヤ公爵)、イン・ダ、リー・ペイス、リョン・ワン

幸福(しあわせ)のスイッチ

テアトル新宿 ★★★

■過剰なふてくされと怒鳴りがそれほど気にならなくなって……

東京に出て新米イラストレーターとして働きだした怜(上野樹里)だが、思い通りの仕事をやらせてもらえず、勢いで辞めてしまう。「やっちゃったと思いながらも振り向けない」性格なのだ。そこへ故郷から、姉の瞳(本上まなみ)が倒れたという切符入りの速達が届く。

田辺(和歌山県)の田舎に戻るとそれは、怜とソリの合わない頑固親父(沢田研二)の骨折では帰らないだろうしパンチが弱いとふんだ妹の香(中村静香)の嘘で、でもまあ身重の瞳とまだ学生の香では実際家業の電器屋「イナデン」の切り盛りは難しく、とりあえず失業中の怜が手伝うということになってしまう。

このあとはたいした事件が起きるわけでもなく、もうすべてが予告篇どおりの展開といっていい。雷で修理の依頼が多くなると病院を抜け出してきた父と夜仕事に出かけても、それ以上の問題になることはない。あの予告篇では観るのをためらっても仕方ないと思うが、といってどうすりゃいいんだというくらいの内容。平凡な材料ほど料理するのは大変なはずだが、それは端的な説明と間の取り方の確かさで、あっさりクリアしてのける。

巻頭の職場でのトラブルで、怜は同僚で彼氏の耕太(笠原秀幸)ともギクシャクしてしまうのだが、ここでは「彼氏には頼りたくない、ってか元カレ?」というセリフがあって耕太との距離感がすとんとわかる。助っ人として現れた裕也(林剛史)には、中学時代の文化祭キス事件という、これまたわかりやすい説明が用意されている。

大っ嫌いな家業(でもイナデンマークを考えたのは怜なのだ)をいやいや手伝ううちに、修理マニアで外面の天才(怜評)の父親の、家族思いの面にも気付かされていくという寸法なのだが、うわーっ、予告篇もだけど、こうやって書いていても私にはちょっと勘弁という気分になる。怜ならずともこれではふてくされたくもなるというものだ。って怜のふてくされとは意味が違うか。

怜が父親に反発するのは、仕事優先で母の病気の発見が遅れて死んでしまったことと浮気疑惑による。画面に母が登場することはないが、多分怜は母親を慕っていたのだろう。病気発見の遅れについては、洗脳されている瞳と香(母もと言っていた)は思いすごしというが、浮気疑惑はふたりにも予想外で、酒場のママ(深浦加奈子)のところへ怜と香とで押しかけることになる。

が、店を始めた頃に母親とお客さんを回ったのが一番楽しくてしんどかったと父が話していた、とママにははぐらかされてしまう。香の結論は「あの人お父さんのこと好きやな、それにきっとお父さんも」だ。報告を受けた瞳は「だから浮気しても、もうええってこと」で、香は「もてん父親よりは」だが、怜は「ええのー、それで」と外面の天才に丸め込まれたとまだふてくされている。

この意地っ張りな性格は、実は父親譲りらしく、父親のお客様第一主義は、怜のイラストへのこだわりにも通じるところがありそうだ。再就職もままならず、売り物のビデオカメラを壊したことで怒鳴られるとすねて1日さぼり、父にそれは「わいの血か」と見透かされてしまう。

冷静にみても怜は可愛くないし、子供っぽすぎるのだが、いやまー、こういう気持ちはわからなくもない。瞳が大人なのはともかく、香にまで明るくふるまわれてはねー。そう思うと、やはり怒鳴り散らしてばかりの父親に近いのかも。ふてくされと怒鳴りがこんなに過剰なのに、意外に画面に溶け込んでいては、やられましたと言うしかない。

ああそうだ。怜は東京に戻り、彼氏の取りなしもあってか、ちゃんと頭を下げて復職させてもらったのでした。

ついでながら、野村のおばあちゃん(怜が最初に受けた依頼は修理ではなく、家具の移動だった)が嫁と折り合いが悪かったのは、耳が遠くて、とくに嫁の声が聞き取りにくかったらしい。これに気付いた怜は補聴器の販売に成功。あとで父からもいい仕事をしたな、と褒められる。

補聴器をはじめて付けた時の描写もなかなか。鳥の囀りを10年ぶりで聞いたというおばあちゃん。猫の鳴き声、農作業中にくしゃみする人がぽんぽんと挿入される。

 

2006年 105分 ビスタサイズ

監督・原案・脚本:安田真奈 撮影:中村夏葉 美術:古谷美樹 編集:藤沢和貴 音楽:原夕輝 主題歌:ベベチオ『幸福のスイッチ』 照明:平良昌才 録音:甲斐匡
 
出演:上野樹里(次女・稲田怜)、沢田研二(父・稲田誠一郎)、本上まなみ(長女・稲田瞳)、中村静香(三女・稲田香)、林剛史(怜の中学時代の同級生・鈴木裕也)、笠原秀幸(怜の彼氏・牧村耕太)、石坂ちなみ(涼子)、新屋英子(野村おばあちゃん)、深浦加奈子(橘優子)、田中要次(澄川)、芦屋小雁(木山)

深海 Blue Cha-Cha

新宿武蔵野館2 ★★

■頭の中のスイッチを切れない女の物語

刑期を終え刑務所から出たアユー(ターシー・スー)だが、行くあてもなく、入所時に慕っていたアン姉さん(ルー・イーチン)を訪ねるほかない。アンはアユーを自分の家に住まわせ、自分の経営するクラブで働かせることにする。

「頭の中のスイッチを切れない」という心の病を持つアユーは、アンに「会うのはいいけど、好きになってはいけない」と釘をさされるが、羽振りのいい常連客のチェン(レオン・ダイ)に誘われるとすぐ夢中になり、度を超した愛情で相手を縛ろうとしてトラブルを起こしてしまう。

アンは上客を失うが、アユーには新しい仕事(電子基板の検査)を世話し、就職祝いだといってケータイまでプレゼントする。

次のアユーの恋人は仕事場の上司のシャオハオ(リー・ウェイ)だ。はじめのうちこそアユーは誘われてもシャオハオを無視していたが、彼の積極的な行動と甘いメールで、ひとたび関係を持ち一緒に住んでもいいという言葉を引き出すと、次の日にはアンと喧嘩するように彼のアパートに引っ越してきてしまう。

が、アユーは無意識のうちに相手を過剰な関係に引きずり込み、破局はあっけなく訪れる。シャオハオはチェンのような暴力男でもないし真面目な青年なのだが、世界には2人しかいないと思い込んでしまうようなアユーの気持ちは到底理解できない。アンからアユーの思いもよらぬ過去(夫を殺して服役)を明かされたこともあるが、それ以前にシャオハオにはアンとやっていけないことがわかっていたはずだ。

アユーという女の悲しさが出せればこの映画は成功したはずだ。が、残念なことにいやな女とまでは言わないが、私にはやっぱりうっとおしい女にしか見えない。アユーの心の病は薬が必要なほどだからと説明されても、それは変わらない。

変わらないのはアユーの陰の部分を見てしまっているからで、それを知らなければアユーに惹かれ、彼女を振り向かせようとしてしまうのかもしれない。そして振り向かせてしまったら、興味が半減してしまういやな男になってしまうのだろうか。

といって、映画にどう手を入れればよいのか、それは見当もつかないのだが。愛することで自制心を失い壊れてしいく女を魅力的に描くことは難しいのかもしれない。が、せっかくの題材を生かせなかったことは惜しまれる。

再びアンの元で生活をはじめるアユー。2人はある朝、旅回りの人形劇団の爆竹に起こされる。人形つかいに興味を示すアユー。そばで見守るアンに、弟も病気で自分の殻にこもるのだとそこにいる兄が話しかける。

もっとも、この出会いが再生につながるという安易な終わり方にはさすがにしていない。旅回り故の別れがすぐにやってきて、あとには「海は広大ですべてを癒す」という取って付けたような言葉が残るだけである。

こういう終わり方はとんでもなくずるいのだが、この映画の場合は、海というイメージの先にほのかにアンの存在が見えるので、ただごまかしているというわけでもなさそうだ。自分の美貌は去って久しい中年女で、クラブを経営しているとはいっても景気がよくないのか家賃を心配し、タバコと宝くじを楽しみにしているアン。掃除もしないで遊んでばかりのアユーに文句を言い、家出にも本気で怒ったくせに、でも何事もなかったかのようにまたアユーを受け入れているアン。

アユーとアンが抱き合いながら人形劇団の船を見送るシーンに、だからもっと素直に女性たちの深い愛情を感じればいいのかもしれないのだが、でもやっぱりそういう気分にはなれなかった。

これは些細なことなのだが、エンドロールの前半は、岸壁に残された人形劇の舞台で、でもいくら何でも舞台を忘れて去っていくことはあり得ないだろう。映像としては恰好がついても、これはいただけない。映画に入っていけなかったのは、こういう映像優先の姿勢が全体に見え隠れしていたせいもありそうだ。

 

【メモ】

鼓山フェリー乗り場

「僕を信じてくれ、すべてうまくいくから。シャオハオ」(アユーに送られてきたメール)。

「人生が思い通りに行かない時には、チャチャを踊ろう」(アン)。

英題:Blue Cha Cha

2005年 108分 ヴィスタ(1:1.85) 台湾 日本語字幕:■

監督:チェン・ウェンタン/鄭文堂 脚本:チェン・ウェンタン/鄭文堂、チェン・チンフォン/鄭瀞芬 撮影:リン・チェンイン/林正英 編集:レイ・チェンチン/雷震卿 音楽:シンシン・リー/李欣芸
 
出演:ターシー・スー[蘇慧倫](アユー[阿玉])、ルー・イーチン[陸奕静](アン[安姐])、リー・ウェイ[李威](シャオハオ[小豪])、レオン・ダイ[戴立忍](チェン[陳桑])

ジョルジュ・バタイユ ママン

銀座テアトルシネマ ☆

■私のふしだらなさまでを愛しなさい

理解できないだけでなく、気分の悪くなった映画。なのであまり書く気がしない。

背景からしてよく飲み込めなかったのだが、適当に判断すると、次のようなことだろうか。母親を独り占めにしたいと思っていたピエール(17歳?)は、その母のいるカナリア諸島へ。そこは彼には退屈な島で、母親にもかまってもらえない(世話をしてくれる住み込み夫婦がいる)。

が、フランスに戻った父親が事故死したことが契機になったのか、母親は自分についてピエールに語り出す。「私はふしだらな女」で「雌犬」。そして「本当に私を愛しているのなら、私のふしだらなさまでを愛しなさい」と。

このあと彼女は、父親の書斎の鍵をピエールに渡したり(父親の性のコレクションを見せることが狙い? 事実ピエールはここで自慰をする)、自分の愛人でもある女性をピエールの性の相手として斡旋したりする。

というようなことが、エスカレートしながら(SMやら倒錯やらも)繰り返されるのだが、彼女が一体何をしたいのかが皆目わからないのだ。欲望の怖さを知れば、パパや私を許せるというようなセリフもあったが、それだと、ただ自分を許して欲しいだけということになってしまう。

性の形は多種多様で、自分の趣味ではないからといって切って捨てる気はないが、私にはすべてが、金持ちの時間を持て余したたわごとでしにしかみえなかった。それに息子だからといって自分の趣味(それも性愛の)を押しつけることはないだろう。

父親にしてもはじめの方で自分の「流されてしまった」生き方を後悔しながら、ピエールには「お前が生まれて私の若さは消えた、ママも同じだ」と言う。親にこんなことを言われてもねー。

最悪なのは、最後に母親の死体の横でするピエールの自慰だ。ここで、タートルズの「ハッピー・トゥギャザー」をバックに流す感覚もよくわからない。

この映画は「死」と「エロス」を根源的なテーマとするバタイユの思想を知らなければ何も理解できないのかも知れない。が、そもそも映画という素材を選んだのだから、きどった言葉をあちこちに散りばめるような、つまり言葉によりかかることは最小限にすべきだったのだ。

そして、愛と性を赤裸々に描きだすことが、その意味を問い直すことになるかといえば、それもそんな単純なものでもないだろう。扇情的なだけのアダルトビデオの方がよっぽど好ましく思えてきた。

【メモ】

巻頭は、母親の浮気からの帰りを父親が待っている場面。

アンシーは母に頼まれて自分に近づいたのではないかと、ピエールは彼女を問いつめる。

息子の前から姿を消す母。欲望が枯れると息子に会いたいと言う。

原題:Ma mere

2004年 110分 フランス ヨーロピアンビスタサイズ R18 日本語字幕:■

監督・脚本:クリストフ・オノレ 原作:ジョルジュ・バタイユ(『わが母』) 撮影:エレーヌ・ルバール

出演:イザベル・ユペール(母ヘレン)、 ルイ・ガレル(息子ピエール)、フィリップ・デュクロ(父)、エマ・ドゥ・コーヌ(恋人)、ジョアンナ・プレイス(母の愛人?)、ジャン=バティスト・モンタギュ、ドミニク・レイモン、オリヴィエ・ラブルダン

幸せのポートレート

シャンテシネ3 ★★☆

■あー大変、疲れちゃうよ

ニューヨークのキャリア・ウーマン、メレディス(サラ・ジェシカ・パーカー)が、恋人のエヴェレット(ダーモット・マローニー)に連れられて、クリスマス休暇を過ごすためにストーン家にやってくる。

結婚相手の家族とうまくやっていけるかどうかは、現代のアメリカ女性にとっても大問題のようだ。仕事のようにはいかないとわかってか、家に入る前からメレディスは緊張気味。で、これがえらく難問だったとさ。

メレディスに対するストーン家の反応は過剰で、あまりにも意地悪すぎ。1度会ったことのある次女のエイミー(レイチェル・マクアダムス)が吹き込んだメレディス評のせいかもしれないし、母親のシビル(ダイアン・キートン)などは癌が再発したという事情があるのだけど、それを差し引いたにしてもいただけない。すべてがオープンで、エイミーの初体験相手の名前が飛び出すような気取らないストーン家と、スーツで身を固め、妹のジュリー(クレア・デインズ)との電話にもプライバシーだからと人払いをせずにはいられないメレディスは、火と油にしてもだ。

異色なのはエヴェレットもで、だからメレディスを相手に選んだのだろうか(もっともこの点については違う展開になるのだが)。シビルによれば、彼は理想家で完璧を目指しすぎるらしい。で、本当に求めているものに気付いていないと最後までメレディスとの結婚に反対するのだが、この理屈はよくわからない。

メレディスは応援のつもりで呼び寄せたジュリーが人気をさらって裏目になるし、さらに3男のサッド(タイロン・ジョルダーノ)に話題が及んで、とんだ侮辱発言を開陳してしまう。サッドは聾者でゲイ。彼の相手で黒人のパトリック(ブライアン・ホワイト)も家族の一員になりきっている。「親なら誰も子が障害を持つことを望まない」と言うメレディスに「自分の子がみんなゲイであればと願ったわ。女の子に取られないから」とサッドたちに気遣いをみせるシビルだが、そのことには気付かないメレディスは、自分の発言を取り繕うとして失言を重ね、父親のケリー(クレイグ・T・ネルソン)に「もう沢山だ」とまで言われてしまうのだ。

これでメレディスの評価が下がるというのなら仕方ないのだけどねー。もっとも次男のベン(ルーク・ウィルソン)はメレディスにはじめから好意的だったから一方的に怒ることなく、慰め役にまわることになる。

で、結局メレディスとベン、エヴェレットとジュリー、さらにはメレディスのおかげエイミーに初体験の相手という組み合わせが誕生するのだが、さすがに少しやりすぎだし理屈(じゃないけどね)からいっても飲み込みにくい。脚本は、人物の交通整理はよくできているのに肉付けがまずいのではないか。

メレディスは意外にもストーン家に近い面があり、で、それはなるほどと思えるのだが、ジュリーについてはもう少し何かがほしいところだ。最初からストーン家に受け入れられるのは、メレディスの逆バージョンと受け取ればいいのかもしれないのだけどね。

それに比べるとメレディスはエヴェレットに「プロポーズはしていない」とみんなの前で言われてしまうし、本当に散々な役。さすがに可哀想になってくるが、でもだからって共感するまでには至らない。出演者は多いんだけど、つまるところ彼らと違って、寄り添うべき人物が見つからなかったのだ。

末期癌の話も途中ですっ飛んでしまったけど、でもまあそれは最後に次の年のクリスマスシーンがあって、シビルの姿がそこにはなく、という終わり方になっていた。

邦題はメレディスがクリスマスプレゼントにストーン家の人たちに贈った額入りの写真からつけている。エヴェレットの机にあったものだと言っていた。シビルのお腹にエイミー(メレディスはエヴェレットと思っていた)がいた時のもので、この写真は最後にまた出てくる。

 

【メモ】

タイトルデザインは、書体もデザインもそれぞれ違うクリスマスカードで綴られる(雪や船の部分は動きがついている)。

メレディスが「結婚前なのにエヴェレットの部屋には泊まれない」と、エイミーの部屋を借りることになるのだが、エイミーはこれも気に入らない。ここでシビルは、メレディスに「あなたと寝たくないのね」とまで。

辛辣な言葉の数々。「礼儀がどうだろうとあんな女は願い下げ」「エヴェレットは自分のことがわかっていない」さすがにエヴェレットも反論する。「僕へのいやがらせか」「父さんにも失望した」これはだいぶ経ってからのセリフだが「母さんはみんなの人生をやっかいにした」とも(このあと指輪を渡されて「指輪はあなた次第」と)。

エヴェレットは、昔シビルから結婚相手をみつけて来たら祖母の指輪をあげると言われていた。このクリスマス休暇はその目的もあった。

ベンはメレディスに会ってその晩すぐ夢に見る。「君は小さな女の子で雪かきをしている。俺は雪なんだ。君がすくう」というもの。

この指輪をエヴェレットがジュリーにはめて取れなくなる騒動も。

原題:The Family Stone

2005年 103分 アメリカ 日本語字幕:松浦美奈

監督・脚本:トーマス・ベズーチャ 撮影:ジョナサン・ブラウン 編集:ジェフリー・フォード 音楽:マイケル・ジアッキノ

出演:サラ・ジェシカ・パーカー(メレディス・モートン)、ダーモット・マローニー(エヴェレット・ストーン)、ルーク・ウィルソン(ベン・ストーン)、ダイアン・キートン(シビル・ストーン)、クレア・デインズ(ジュリー・モートン)、レイチェル・マクアダムス(エイミー・ストーン)、クレイグ・T・ネルソン(ケリー・ストーン)、タイロン・ジョルダーノ(サッド・ストーン)、ブライアン・ホワイト(パトリック・トーマス)、エリザベス・リーサー(スザンナ・ストーン・トゥルースデイル)、ポール・シュナイダー(ブラッド・スティーヴンソン)、ジェイミー・ケイラー(ジョン・トゥルースデイル)、サヴァンナ・ステーリン(エリザベス・トゥルースデイル)