消されたヘッドライン

TOHOシネマズ錦糸町スクリーン6 ★★★

■テレビじゃないんだから、じゃなかったの

よくできたサスペンスドラマと感心していたら、英BBC製作のテレビミニシリーズ『ステート・オブ・プレイ 陰謀の構図』(NHK BS2で放映されたらしい)を、舞台をアメリカにリメイクしたものだという。なるほど、よく練り込まれた脚本だ。が、ミニとはいえテレビシリーズを映画にまとめた弊害も出てしまっている。

弊害は大げさにしても、贅沢に配したキャストがもったいないくらいに、それぞれの挿話が詰め込みすぎな(というか観ている方にとってはあっさりすぎな)感じがしてしまうのだ。映画の出来が悪いというのではなく(一番悪い部分は最後だろうか)、もっともっと人物の相関図の中に入っていきたくなるのである。

女性スタッフのソニア・ベーカーが死んだという知らせに、スティーヴン・コリンズ議員が大事な公聴会で涙を見せるという出だしには、あんまりな気がしてしまったが、これと別の殺人事件が繋がっていることに気づいたワシントン・グローブ紙の記者であるカル・マカフリーが、ベテランらしい記者魂で調査を進めていく流れは、見応えがある。

カルが長髪のむさくるしいデブ男で、ちっとも颯爽としていないのもいい。『グラディエータ-』の戦士が九年でこうも変わってしまうものなのか。これがラッセル・クロウの役作りであるのならいいんだが。

新聞社の内部事情が面白い。紙媒体の新聞はもう売上増は見込めず、ウェブ版の女性新進記者デラ・フライが重用されているような雰囲気だったりするのだが、このデラが新米ながらなかなかで、カルと仕事を通して信頼関係を築いていくサブストーリーも上出来。また女編集局長のキャメロン・リンは立場上、カルの記事にいろいろな意味での圧力をかけざるを得なくなるのだが、ここらへんの匙加減もうまいものだ。

コリンズ議員に話を戻すと、彼はカルとは大学時代からの親友で、あの涙はやはりスティーヴンの不倫の証なのだった。マスコミに追われたスティーヴンは、行き場を失ってカルの家にやってくるのだが、カルにしてみればスティーヴンは情報源でもあり、しかし、それ以上にスティーヴンの妻アンにカルが惚れていたことがあり、それはお互い単純に昔のこととは割り切れずにいるようなのだ。

スティーヴンに、アンに対する愛情がもうなくなっているからいいようなものの(って書くとまずいかしら。愛情がないにしては「友達なのに俺の妻と寝た」などとも言っていた。これは相当昔の話ではないかと思うのだが?)、でもカルが、スティーヴンを助け君(アン)を守りたい、と言った時などのアンの反応にはあまり惹かれるものがなかったので、私としては少々ほっとしたのも事実。そんなだから、カルはアンにも「私はただの情報源」などと言われてしまう。

事件を追うことで、カルは自分の生き方も問われることになるのだが、そこに深入りしている暇がないのは惜しい。最初に書いたように、映画の出来がいいので、もっとこういった部分を覗きたくなってしまうのだ。現実の世界だと、人間関係は曖昧なままであることが多いのだが、小説や映画では、読者や観客はそういう部分こそを知りたいのだから。

と考えると、最後に明らかにされるコリンズ議員の企みは、やはりひねりすぎだろうか。ソニアにはいろいろ事情があって、最初こそスパイとして送り込まれたものの、スティーヴンを愛して、そして妊娠もしていては、もうそれで十分じゃないかという気になってしまったのだったが。

軍事産業の陰謀という構図が浮かんできたところで、テレビじゃないんだから、と映画の中でも言わせていたが、この結末はエンタメ指向の何物でもなく、テレビじゃないんだから、とさらに派手にしてしまったのだろうか。テレビ版にすでにあったにしても削除すべきだし(映画の方はただでさえ尺が短いのだから)、なくて加えたのなら問題だろう。

ところで、『消されたヘッドライン』という邦題はインチキで、せいぜい「消されかかった」だった。

原題:State of Play

2009年 127分 アメリカ、イギリス シネスコサイズ 配給:東宝東和 日本語字幕:松浦美奈

監督:ケヴィン・マクドナルド 製作:アンドリュー・ハウプトマン、ティム・ビーヴァン、エリック・フェルナー 製作総指揮:ポール・アボット、ライザ・チェイシン、デブラ・ヘイワード、E・ベネット・ウォルシュ 脚本:マシュー・マイケル・カーナハン、トニー・ギルロイ、ビリー・レイ オリジナル脚本:ポール・アボット 撮影:ロドリゴ・プリエト プロダクションデザイン:マーク・フリードバーグ 衣装デザイン:ジャクリーン・ウェスト 編集:ジャスティン・ライト 音楽:アレックス・ヘッフェス

出演:ラッセル・クロウ(カル・マカフリー/新聞記者)、ベン・アフレック(スティーヴン・コリンズ/国会議員)、レイチェル・マクアダムス(デラ・フライ/ウェブ版記者)、ヘレン・ミレン(キャメロン・リン/編集局長)、ジェイソン・ベイトマン(ドミニク・フォイ)、ロビン・ライト・ペン(アン・コリンズ/コリンズの妻)、ジェフ・ダニエルズ(ジョージ・ファーガス)、マリア・セイヤー(ソニア・ベーカー)、ヴィオラ・デイヴィス、ハリー・J・レニックス、ジョシュ・モステル、マイケル・ウェストン、バリー・シャバカ・ヘンリー、デヴィッド・ハーバー、ウェンディ・マッケナ、セイラ・ロード、ラデル・プレストン

劇場版 カンナさん大成功です!

新宿ミラノ2 ★☆

■全身整形で美醜問題にケリ、とまではいかず

化粧嫌いで整形などもっての外と思っていたので、初対面の人に、プチ整形など当然という話をやけに明るい口調で直接聞かされたときは、開いた口をどう閉じたものか思案に窮したことがあった(一家でそうなのだと。もう5年以上も前の話だ)。化粧をすることで自分が楽になったとは、ある女性がテレビで話していたことだが、ことほど左様に美醜問題というのは、改めて言うまでもなく、理不尽で罪の重い難しいものなのである。

人は見かけではないのは正論でも、別の基準が存在するのは周知のことで、だからって私のように、化粧は嫌いといいつつ、可愛い人(基準にかなりの振幅があるのでまだ救われるのだが)がやっぱり好きなんて、たとえ悪意なく言ったにしても、いや、悪意がないのだとしたら余計奥の深い、許されがたい問題発言なんだろう。

容姿という、今のところは個性の一部と認識されているものから解放されるためには(お互いその方がいいに決まってるもの)、日々衣服をまとうのと同じように、それが自由に選択でき、TPOに合わせた顔で出かけるようになってもいいのではないか。

前置きが長くなったが、この映画の主人公の神無月カンナは、いきなり「全身整形美人」として画面に登場する。容姿による過去の長いいじめられっ子人生が、カンナにそんなには暗い影を落としていないのは、過去については回想形式で人形アニメ処理(デジタルハリウッドだから)になっていることもあるが、でも一番は、やはり整形美人化効果が、カンナをして明るい過去形で語らせてしまうからではないか。

むろんもともとカンナには行動力があって、一目惚れした男に好意をもたれたい程度ではとどまっていられないからこそ、整形に踏み切って(500万近い金を注ぎ込んで)までその男をゲットしようと考えたのだろう。男の勤めるアパレル会社の受付嬢としてちゃっかり入社してしまうあたりの、カンナのどこまでも前向きな、でもお馬鹿としかえいない性格は、原作のマンガ(未読)を踏襲しているにしても、結果として、整形をどう考えるかという問題を置き去りにしてしまう。

こんなだから物語の流れだって、いい加減なものだ。ただ、お気楽な中にもハウツー本のような教えや美人の条件とやらが挿入されていて、これもマンガからの拝借としたら、マンガがヒットした理由も多少は頷けるというものだ。

天然美人集団の隅田川菜々子がライバル出現を思わせるが、彼女はあっさりいい人で、これは肩すかしだし、カリスマ女社長橘れい子がカンナの全身整形(カンナの出世を妬んだ社員によってカンナの過去が明かされてしまう)まで商品にしようとするしたたかさも、どうってことのない幕切れで終わってしまう。大いにもの足らないのだが、全体の薄っぺら感が逆に、マンガのページをめくるのに似た軽快さとなっていて、文句を付ける気にならない。

ではあるのだけれど、自然体のまま(カンナと同じ境遇だったのに)カンナと一緒にデザインを認められ成功してしまう(これまた安直な筋立て)カバコの方が受け入れやすいのはどうしたことか。これではせっかくカンナを主人公にした意味が……ここは何が何でもカンナに優位性を!って、ま、どうでもいいのだけれど。

ところで、カンナの目を通した画面が、昔の8ミリ映像なのは何故か。整形したら、世界はあんなふうに薄暗い色褪せたものになってしまうとでもいいたいのか。それとも、お気楽なお馬鹿キャラに見えたカンナだが、まだ過去にいじめられていた時の抑圧されて屈折したものの見方が消えずにいたということなのだろうか。明快な説明がつけられないのであれば、下手な細工はやめた方がいいのだが。

蛇足になるが、全身整形による「完全美人」として選ばれた山田優に、私はまるで心が動かされなかったのである。美醜問題は、ことほど左様に難しい……。

 

2008年 110分 ビスタサイズ 配給:ゴーシネマ

監督:井上晃一 プロデューサー:木村元子 原作:鈴木由美子 脚本:松田裕子 撮影:百束尚浩 美術:木村文洋 編集:井上晃一 音楽監督:田中茂昭 主題歌:Honey L Days『君のフレーズ』 エンディングテーマ:山田優『My All』

出演:山田優(神無月カンナ)、山崎静代(伊集院ありさ=カバコ)、中別府葵(隅田川菜々子)、永田彬(蓮台寺浩介)、佐藤仁美(森泉彩花)、柏原崇(綾小路篤)、浅野ゆう子(橘れい子)

ゲゲゲの鬼太郎

新宿ミラノ1 ★★☆

■『ゲゲゲの鬼太郎』というより『水木しげるの妖怪図鑑』か

妖怪ポスト経由で鬼太郎(ウエンツ瑛士)に届いた手紙は小学生の三浦健太(内田流果)からのものだった。健太の住む団地に妖怪たちが出るようになって住民が困っているという。鬼太郎が調べると、近くで建設中のテーマパーク「あの世ランド」の反対派をおどかすために、ねずみ男がバイトで雇った妖怪たちをけしかけていたのだった。

しかしこれは反対派へのいやがらせにはなっていても、稲荷神社の取り壊しによるお稲荷さんの祟りと喧伝されてしまいそうだから、「あの世ランド」側としては逆効果だと思うのだが。ま、どっちみちこのテーマパークの話はどこかへすっ飛んでしまうから関係ないんだけどね。

鬼太郎に儲け話を潰されたねずみ男は、その稲荷神社でふて寝しようとして奥深い穴に吸い込まれてしまう。そして、そこに封印されていた不思議な光る石を見つける。実はこれは人間と妖怪の邪心が詰まっている妖怪石と呼ばれるもので、修行を積んだ妖怪が持てばとてつもない力を得られるが、心の弱い者には邪悪な心が宿ってしまうのだ。

そんなことを知らないねずみ男は、少しでも金になればと妖怪石を質入れしてしまうのだが、そこに偶然来ていた健太の父(利重剛)は、工場をリストラされて困っていたのと妖怪石の魔力とで、それを盗んでしまう。

父が健太に妖怪石を預けたことで健太に魔の手が伸び、彼の勇気が試される。また、妖怪界では、妖怪石の力を手に入れようとする妖怪空(橋本さとし)の暗躍と、妖怪石の盗難の嫌疑が鬼太郎にかかって大騒動になっていくのだが、話の展開はかなりいい加減なものだ。

ねずみ男に簡単に持ち出されてしまう妖怪石の設定からして安直なのだが、それが健太の父の手に渡ってと、妖怪界を揺るがす大事件にしては狭い狭い世界での話で、でも一応、少年を準ヒーローにしているあたりは(だから世界が小さいのだけど)子供向け映画の基本を押さえている。

ただ死んだ父まで助け出してしまうのはねー(そもそもこの死は唐突でよくわからない。病気で死んだ、って言われてもね)。「健太君の願いが乗り移った」という説明は意味がないし、子供映画にしてもずいぶん馬鹿にしたものではないか。他にも沢山いた死者の行列の中から健太の父だけというのはどうなんだろ。父の釈明も釈明になっていなくて、ここはどうにも釈然としないのだな。

鬼太郎は健太の姉の三浦実花(井上真央)にちょっと惚れてしまい、猫娘(田中麗奈)の気をもませることになるが、これは妖怪界の定め(人間は死んでしまうから惚れてはいけないと言っていた)で、事件が片づいたあと、実花からは鬼太郎の記憶が消えてしまう。

この話もだが、妖怪たちが善と悪とに分かれて戦いながらも、結末はどこまでもユルイ感じで、いかにも水木しげる的世界なのだ。まあ、水木しげるの妖怪たちを配置したのなら、そうならざるを得ないのだろうけど。

それに、1番の見所はその妖怪たちなのだ。大泉洋のねずみ男を筆頭に、そのキャスティングと造型は絶妙で、子供映画ながらこの部分では大人の方が楽しめるだろう。猫娘、子泣き爺、砂かけ婆、大天狗裁判長などのどれにも納得するはずだ。それはまったくのCGでも同じで、石原良純の見上げ入道ならまあ想像はつくが、石井一久のべとべとさんには感心してしまうばかりなのだ。水木しげるの妖怪画というのは、1ページに妖怪の絵と解説があって、図鑑のような趣があったけど、この映画もそれを踏襲した感じで観ることができるというのが面白い。

唯一まるで違うイメージなのがウエンツ瑛士の鬼太郎だが、演技はうまいとは言い難いものの、意外にも違和感はなかった。惜しげもなく髪の毛針を打ち尽くしてしまい、堂々の禿頭を披露しているのだが、あれ、でも片目ではないのね。さすがにそこまではダメか。だからほとんど目玉おやじとは別行動だったのかもね。

 

【メモ】

妖怪石には、滅ぼされた悪しき妖怪の幾千年もの怨念だけでなく、平将門、信長、天草四郎などの人間の邪心までも宿っているという。

父の釈明は「泥棒したっていう気はないんだ。これだけは信じてくれ、間が刺したんだ。
弱い心につけ込まれたんだ」というもの。もちろんこれではあんまりだから「でもやってしまったことはしょうがない」とは言わせているのだが。

映画の中で鬼太郎が何度か言っていたのは、「そんなにしっかりしなくてもいいんじゃない、泣きたい時は泣いちゃえば」とか「悪い人だけじゃないんだから思いっ切り甘えろ」というもの。

2007年 103分 ビスタサイズ 配給:松竹

監督:本木克英 製作:松本輝起・亀山千広 企画:北川淳一・清水賢治 エグゼクティブプロデューサー:榎望 プロデューサー:石塚慶生・上原寿一アソシエイトプロデューサー:伊藤仁吾 原作:水木しげる 脚本:羽原大介 撮影:佐々木原保志 特殊メイク:江川悦子 美術:稲垣尚夫 衣装デザイナー:ひびのこづえ 編集:川瀬功 音楽:中野雄太、TUCKER 音楽プロデューサー:安井輝 主題歌:ウエンツ瑛士『Awaking Emotion 8/5』VFXスーパーバイザー:長谷川靖 アクションコーディネーター:諸鍛冶裕太 照明:牛場賢二 録音:弦巻裕

出演:ウエンツ瑛士(ゲゲゲの鬼太郎)、内田流果(三浦健太)、井上真央(三浦実花/健太の姉)、田中麗奈(猫娘)、大泉洋(ねずみ男)、間寛平(子泣き爺)、利重剛(三浦晴彦/健太の父)、橋本さとし(空狐)、YOU(ろくろ首)、小雪(天狐)、神戸浩(百々爺)、中村獅童(大天狗裁判長)、谷啓(モノワスレ)、室井滋(砂かけ婆)、西田敏行(輪入道)
 
声の出演:田の中勇(目玉おやじ)、柳沢慎吾(一反木綿)、伊集院光(ぬり壁)、石原良純 (見上げ入道)、立川志の輔(化け草履)、デーブ・スペクター(傘化け)、きたろう(ぬっぺふほふ)、石井一久(べとべとさん)、安田顕(天狗ポリス)

敬愛なるベートーヴェン

シャンテシネ1 ★★★★☆

■天才同士の魂のふれ合いは至福の時間となる

導入の、馬車の中からアンナ・ホルツ(ダイアン・クルーガー)の見る光景が、彼女の中に音楽が満ち溢れていることを描いて秀逸。音楽学校の生徒である彼女は、シュレンマー(ラルフ・ライアック)に呼ばれ、ベートーヴェン(エド・ハリス)のコピスト(楽譜の清書をする写譜師)として彼のアトリエに行くことになる。

1番優秀な生徒を寄こすようにと依頼したものの、女性がやってきてびっくりしたのがシュレンマーなら、当のベートーヴェンに至っては激怒。アンナがシュレンマーのところでやった写譜を見て、さっそく写し間違いを指摘する。が、あなたならここは長調にしないはずだから……とアンナも1歩も引かない。

音楽のことがからっきしわからないので、このやりとりは黙って聞いているしかないのだが、それでもニヤリとしてしまう場面だ。ベートーヴェンがアンナの言い分を呑んでしまうのは、自分の作曲ミスを認めたことになるではないか(彼女はベートーヴェンをたてて、ミスではなく彼の仕掛けた罠と言っていたが)。

女性蔑視のはなはだしいベートーヴェンだが(これは彼だけではない。つまりそういう時代だった)、才能もあり、卑下することも動じることもないアンナとなれば、受け入れざるを得ない。しかも彼には、新しい交響曲の発表会があと4日に迫っているという事情があった。こうしてアンナは、下宿先である叔母のいる修道院からベートーヴェンのアトリエに通うことになる。

シュレンマーが「野獣」と称していたように、ベートーヴェンはすべてにだらしなく、粗野で、しかも下品。彼を金づるとしか考えていない甥のカール(ジョー・アンダーソン)にだけは甘いという、ある意味では最低の男。そんな彼だが、神の啓示を受けているからこそ自分の中には音が溢れているのだし、だから神は私から聴覚を奪った、のだとこともなげに言っていた。

今ならセクハラで問題になりそうなことをされながらも、アンナは「尊敬する」ベートーヴェンの作品の写譜に夢中になり、そうして第九初演の日がやってくる。婚約者のマルティン(マシュー・グード)と一緒に演奏を楽しむつもりでいたアンナだが、シュレンマーから自分の代わりに、指揮者のベートーヴェンに演奏の入りとテンポの合図を送るようたのまれる。

この第九の場面は、映画の構成としては異例の長さではあるが、ここに集中して聴き入ってしまうとやはりもの足らない。だからといってノーカットでやるとなると別の映画になってしまうので、この分量は妥当なところだろうか。

第九の成功というクライマックスが途中に来てしまうので、映画としてのおさまりはよくないのだが、このあとの話が重要なのは言うまでもない。

晩年のベートーヴェンには写譜師が3人いて、そのうちの2人のことは名前などもわかっているそうだ。残りの1人をアンナという架空の女性にしたのがこの作品なのである。そして、さらに彼女を音楽の天才に仕立て上げ、ベートーヴェンという天才との、魂のふれ合いという至福の時間を作り上げている。それは神に愛された男(思い込みにしても)と、そんな彼とも対等に渡りあえる女の、おもいっきり羨ましい関係だ。

そうはいってもそんな単純なものでないのは当然で、作曲家をめざすアンナが譜面をベートーヴェンに見せれば、「おならの曲」と軽くあしらわれてしまうし、ベートーヴェンにしても難解な大フーガ(弦楽四重奏曲第13番)が聴衆の理解を得られず、大公にまで「思っていたよりも耳が悪いんだな」と言われてしまう。

アンナに非礼を詫びることになるベートーヴェンだが、彼女の作品を共同作業で完成させようとしながら、自分を真似ている(「私になろうとしている」)ことには苦言を呈する。

が、こうした作業を通して、ベートーヴェンとアンナはますます絆を深めていく。可哀想なのが才能のない建築家(の卵)のマルティンで、橋のコンペのために仕上げた作品をベートーヴェンに壊されてしまう。お坊ちゃんで遊び半分のマルティンの作品がベートーヴェンに評価されないのはともかく、アンナがこの時にはこのことをもうそんなには意に介していないのだから、同情してしまう。

いくら腹に据えかねたにしても、マルティンの作った模型の橋を壊すベートーヴェンは大人げない。もしかしたら、彼はアンナとの間にすでに出来つつある至福の関係より、もっと下品に、男と女の関係を望んでいたのかもしれないとも思わなくもないのだが、これはこの映画を貶めることになるのかも。でないと最期までアンナに音楽を伝えようとしていた病床のベートーヴェンとアンナの場面が台無しになってしまう(それはわかってるんだけどね、私が下品なだけか)。

お終いは、アンナが草原を歩む場面である。ここは彼女の独り立ちを意味しているようにもとれるが、しかし、彼女の姿は画面からすっと消えてしまう。彼女のこれからこそが見たいのに。けれど、アンナという架空の人物の幕引きにはふさわしいだろうか。

 

【メモ】

アンナに、ベートーヴェンがいない日は静か、と彼の隣の部屋に住む老女が言う。引っ越せばと言うアンナに、ベートーヴェンの音楽を誰よりも早く聞ける、と自慢げに答える。

甥のカールはベートーヴェンにピアニストになるように期待されていたが、すでに自分の才能のなさを自覚していた。甥の才能も見抜けないのでは、溺愛といわれてもしかたがない。勝手にベートーヴェンの部屋に入り込み金をくすねてしまうようなカールだが、第九の初演の日には姿を現し、感激している場面がちゃんと入っている。

原題:Copying Beethoven

2006年 104分 シネスコサイズ イギリス/ハンガリー 日本語字幕:古田由紀子 字幕監修:平野昭 字幕アドバイザー:佐渡裕

監督:アニエスカ・ホランド 脚本:スティーヴン・J・リヴェル、クリストファー・ウィルキンソン 撮影:アシュレイ・ロウ プロダクションデザイン:キャロライン・エイミーズ 衣装デザイン:ジェイニー・ティーマイム 編集:アレックス・マッキー
 
出演:エド・ハリス(ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン)、ダイアン・クルーガー(アンナ・ホルツ)、マシュー・グード(ルティン・バウアー)、ジョー・アンダーソン(カール・ヴァン・ベートーヴェン)、ラルフ・ライアック(ウェンツェル・シュレンマー)、ビル・スチュワート(ルディー)、ニコラス・ジョーンズ、フィリーダ・ロウ

ゲド戦記

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★

■不死は生を失うこと

ル=グウィンの『ゲド戦記』映画化。宮崎駿監督の息子、宮崎吾朗が監督になるという時点で、すでに喧々囂々状態になったらしいが、熱心なアニメファンではないので詳しいことは知らない。今だにジブリらしさがどうのこうのという話で持ち切りになっているようだが、原作も未読の私としては単純に映画として判断する以外ない。

で、映画としてはやっぱりダメかも。

かつて龍は風と火を選び自由を求め、人間は大地と海を選んだという。その人間の世界には現れないはずの龍の食い合う姿が目撃される。世界の均衡が弱まって、家畜や乳児の死亡が増え、干ばつが起こり、民が苦しんでいるのを心配する国王。そんな大事な時に17歳の王子アレンは父を殺し、逃げるように旅に出る。行くあてのないアレンは、異変の原因を探すハイタカ(大賢人ゲド)と出会い、農民が土地を捨てた風景の中を共に旅をすることになる。

やがてホートタウンというにぎやかな港街に着くが、ここでは人間も奴隷という商品であり、麻薬がはびこっていた。ハエタカはこの街のはずれにあるテナーという昔なじみの家にアレンと身を寄せるのだが、そこには親に捨てられた少女テルーが同居していた。アレンは彼女に「命を大切にしないヤツは大嫌いだ」と言われてしまう。

この街でハイタカは、世界の均衡が崩れつつある原因がクモという魔法使いの仕業であることを突き止める。クモは永遠の命を手に入れることとハイタカへの復讐心に燃えていて、心に闇を背負ったアレンの力を借りてそれを成し遂げようとしていた。

あらすじならこうやってなんとか追えるのだが、とにかくわからないことが多すぎる。龍? 龍と人間との関係? アレンの父殺しの理由? アレンの影? 魔法で鍛えられた剣? その剣が抜けるようになったのは? 真の名がもつ意味? ハイタカとクモの関係? 生死を分かつ扉? テルーが龍に? だから死なない?

ハイタカの過去やテナーとの関係など、深くは触れないでも推測でとりあえずは十分なものももちろんある。が、とはいえこれだけの疑問がそのままというのではあんまりだ。ましてやファンタジー特有の魔法がときおり顔をのぞかせて、ご都合主義を演出するのだからたまらない。それにこの欠点は、脚本の段階で明らかだったはずなのだ。

しかし、これが不思議なのだが、命の大切さを繰り返すテーマは意外にもくっきりと心に響く。クモが求める永遠の命に、不死は生を失うことだと明確に答えているからということもあるが、ハイタカ、アレン、テナー、テルーの4人が作る疑似家族による共同作業がしっかりと描かれていることも関係しているように思うのだ。生きて死んでいくための基本的なものが、単純な営みの中に沢山あることをあらためて教えてくれるこの描写は、最後の別れの前でも繰り返される。

テルーの歌にアレンが聴き入る場面も心に残る。この歌のあとアレンの気持ちの張りが弛んでテルーに「どうして父を殺してここまで来たのか……ときどき自分が抑えられなくなるほど凶暴に……」と自分の過去を語るのだが、ここは実際そんな気分になる。もっともアレンはそのあと自分の影に怯えて去ってしまうのだが。

それと、テーマが響いてくるのは、やはり原作の力なのだろうか。「疫病は世界の均衡を保とうとするものだが、今起こっていることは、均衡を破ろうとしているもの」「人間は人間ですら支配する力がある」「世界の均衡などとっくに壊れているではないか。永遠の命を手に入れてやる」といった言葉には魅力を感じる。これが原作のものかどうかはわからないのだが。ただ前にも書いたように、筋はわかっても全体像が見えにくいため、これらの言葉が遊離して聞こえてしまう恨みがある。

ところで、どうでもいいことだが親殺しという設定は、宮崎駿と宮崎吾朗との関係を連想させる。偉大で尊敬すべき父に、どうしてもそれと対比してしまう自分の卑小さ。というのは野次馬的推測だが、映画には親殺しをしてまでもという気概などまるでなく、絵柄も含めて(ファンから見たら違うのかも知れないが)すべてが宮崎駿作品を踏襲しているようにみえる。

だからいけないとは言わないけどさ、でもアレンの親殺しはあまりに重くて、彼の更生物語というわりきりは、私には受け入れがたいものがある。命の大切さを本当にアレンが知ったのなら、最後に「僕はつぐないのために国へ帰るよ」とテルーに言ったりできるだろうか、と思ってしまうのだ。親殺しをしておいて、それじゃああまりに健全でちょっと立派すぎでしょう。「あなたはつぐないをするために国へ帰らなければ。私も一緒に行くから」とテルーにうながされるのならね。って、まあ、これは別の意味で甘いんだけどさ。

  
2006年 115分 サイズ:■

監督:宮崎吾朗 プロデューサー:鈴木敏夫 原作:アーシュラ・K・ル=グウィン『ゲド戦記』シリーズ 原案:宮崎駿『シュナの旅』 脚本:宮崎吾朗、丹羽圭子 美術監督:武重洋二 音楽:寺嶋民哉 主題歌・挿入歌:手嶌葵 デジタル作画監督:片塰満則 映像演出:奥井敦 効果:笠松広司 作画演出:山下明彦 作画監督:稲村武志 制作:スタジオジブリ

声の出演:岡田准一(アレン)、手嶌葵(テルー)、菅原文太(ゲド)、風吹ジュン(テナー)、田中裕子(クモ)、香川照之(ウサギ)、小林薫(国王)、夏川結衣(王妃)、内藤剛志(ハジア売り)、倍賞美津子(女主人)