インスタント沼

テアトル新宿 ★★★☆

写真1:麻生久美子着用の「沈丁花ハナメの衣装」+「まねきねこ」。写真2:監督、出演者のサイン。写真3:監督からのメッセージ(いずれもテアトル新宿にて)。

■見えない物が見える!

目に見える物しか信じられない沈丁花ハナメだが、担当雑誌が危機になったことで、心霊スポット紹介など、意に染まぬ仕事をさせられることになり、どころか結局雑誌は廃刊(部長は休刊と言っていたが)が決まり、男にもフラれた彼女は出版社を辞めてしまう(編集長?だったのにね)。

そんなジリ貧人生、どころか底なし沼人生真っ只中のハナメが、昔の母の手紙で、聞いていなかった自分の父親の存在を知る。真相を確かめるべく母のところに行くが、彼女は河童を捕まえようとして池に落ち、意識不明のまま入院してしまっていた。現実主義者のハナメに対して母には河童や妖精が見えるのだった(そう言われてもなぁ。ここらへんではまだ全然映画にのれてなかったからね、いい加減にしろよ三木聡、などと言っていた)。

というわけで、父親は一体……という興味がハナメならずとも湧いてくるのだが、「沈丁花ノブロウ」は電球商会なる骨董品屋を営む、「電球」と呼ばれる怪しいオヤジで、そう簡単には正体がわかりそうもない、というかそれは買いかぶりにしても、ハナメに何かをもたらしたのは確かで、そこに出入りするパンクロッカー(姿だけ?)のガス(電気屋なのにね)たちとの奇妙な交流が始まる(電球には自分が娘であるということは隠したままになってしまい、あとで悔いていた)。

くだらない話なんだけど、これが楽しいのだ。「ツタンカーメンの占いマシーン」やテンションを上げるための「水道の蛇口」(をひねる。もったいないので私にはできないのだが、ここではとりあえず水を無駄にはしていなかった。ま、あとで、ホントかどうか大量の土砂に大量の水をまいてたから、やっぱりもったいないんだが)に、何でもない「曲がった釘」とか。

いつしかハナメは骨董品にはまって、骨董品屋の才能があるかも、とこれは電球におだてられて、なけなしの貯金百万円で骨董品屋を開いてしまう。が、そううまくいくはずもなく、でもここで電球の秘法?「水道の蛇口」に力づけられて、黒にこだわった骨董品屋に変えて久々の成功を手にすることが……。

ところが電球は急に店を辞めると言い出し、ハナメには沈丁花家に代々伝わる蔵の鍵を百万円で売りつけてとんずらしてしまう。蔵から出てきたのは大量の土砂で、けど、ハナメのどういう思考回路がそう結論づけたのか、あの土砂はインスタント沼で、水を注げば沼になるのだ、って。はぁ? いやもう、すっかり目に見えない物が見える思考回路になっちゃってるじゃないのよ。

まあこのあたりごり押しもいいところなんだけど、でもガスが最後までハナメに付き合ってくれて(ぶーたれてたが)、案外親切なヤツだってことがわかったり、で、びっくり仰天の龍まで出てきちゃってさぁ……。うん、見えない物が見えない私も見たよ、龍(当たり前か。映画館で寝なかった人は全員見られます!)。寝たっきりだった母親も「龍に助けてもらった」と、目を覚ます。なんだよ、やっぱり死んだフリだったのかよ(って、違うか)。

まあ、そんないい加減でそんなにうまくいくものか、とは思うのだが(龍の件は別にしても)、馬鹿馬鹿しい展開の先の、この幸福感は捨てがたいものがある。「しょうもない日常を洗い流すのだぁ」というハナメの宣言は、私のような変人向きへのエールにもなってくれているのだった。

フラれた男を違う角度(頭上)から見ると、彼の頭は禿げていて(「あっ、河童だ!」)、つまりハナメは、しっかり見えなかったものも見えるようになっていた(ってたまたま上から見下ろすところにいただけなんだが)というオチが愉快だ。

  

2009年 120分 ビスタサイズ 配給:アンプラグド、角川映画

監督・脚本:三木聡 撮影:木村信也 美術:磯見俊裕 編集:高橋信之 音楽:坂口修 主題歌:YUKI『ミス・イエスタデイ』 コスチュームデザイン:勝俣淳子、山瀬公子(ハナメ・コスチュームデザイン) 照明:金子康博 録音:小宮元 助監督:中里洋一

出演:麻生久美子(沈丁花ハナメ)、風間杜夫(電球、沈丁花ノブロウ/ハナメの父)、加瀬亮(ガス)、松坂慶子(沈丁花翠/ハナメの母)、相田翔子(飯山和歌子)、笹野高史(西大立目/出版社部長)、ふせえり(市ノ瀬千)、白石美帆(立花まどか)、松岡俊介(雨夜風太)、温水洋一(サラリーマン)、宮藤官九郎(椹木/刑事)、渡辺哲(隈部/刑事)、村松利史(東/リサイクル業者)、松重豊(川端/リサイクル業者)、森下能幸(大谷/リサイクル業者)、岩松了(亀坂/泰安貿易社長)

いのちの戦場 ―アルジェリア1959―

新宿武蔵野館3 ★★★

武蔵野館に展示してあったブノワ・マジメルによる映画の写真展写真7枚とオリジナルポスターの一部(写真がヘタでごめんなさい)

■人殺しの戦場

ブノワ・マジメルが立案、主演したアルジェリア戦争映画。映画の最後に「フランスはアルジェリア戦争を1999年まで公式に認めなかった」という字幕が出る。だからこそ「アメリカがベトナムを描いたようにフランスもアルジェリアを描かねばならない」(これは予告篇にも出てきたブノワ・マジメルの言葉)という。アルジェリア戦争を知らない1974年生まれの彼の想いが伝わってくる、真面目な映画である(注1)。

作戦ミスだか無線連絡の食い違いだかで、同士討ちの末死んでしまった前任者(この夜間戦闘場面で映画の幕があく)の後釜として赴任してきたテニアン中尉は、日常的な戦争という不条理を前にして(そのために失敗も繰り返し)次第に理性を失っていく。

妻子持ちの設計技師が何故志願などしたのだろう。後半に、フランスに一時帰郷したテニアン中尉が、ニュース映画を見ている場面が出てくる。スクリーンには、アルジェリアを語って「平和を保証するのは心の交流」という文言が踊っていた。彼はそのスクリーンの文言に、戦場から離れた本国にいて、戦争の何たるかを知らずに、それこそ踊らされて、ゲリラ戦と化しているアルジェリアの山岳地帯(カビリア地方)まで行ってしまった自分を重ねていたはずである。

軍歴の長い下士官をさしおいて、こうやって赴任してくるのは、どこの国にもあることらしい。テニアンがどこまで中尉としての訓練を受けて来たのかはわからないが、着任早々、フランスとフェラガ=アルジェリア民族解放戦線(FLN)の二重支配下にあるタイダで、多分見せしめなのだろう、井戸に隠れていたアマール少年以外の村人全員が虐殺されるという惨事が起きる。あまりの惨状を前に、部下への言葉が出てこないでいるテニアン中尉に代わって、ドニャック軍曹は「タイダでみたことを忘れるな」と言う(注2)。

タイダのような「立入禁止区域」での戦闘は、毎日がこうした疑心暗鬼の連続で、テニアン中尉は民間人にカモフラージュしたフェラガを見抜けず醜態をさらしてしまうし、常態化している拷問にも耐えられない。そしてまったくいやらしい脚本というしかなのだが、この2つの出来事をあとになってテニアン中尉に同じようにやらせている。女性と少年が怪しいと、彼はもう最初の時のようには深く疑いもせず、間違った射殺命令を出すし(「立入禁止区域」には入った方が悪いので、咎められることはないのだが)止めさせていた拷問にも自ら手を染めてしまう。

ドニャック軍曹が落ち着いて見えるのは、場数を踏んできたことはもちろんだが、部下にもアルジェリア人がいるという複雑な状況下では、割り切るしかないと腹をくくっているからなのだろう。ドニャック軍曹がフェラガから寝返らせたという者もいれば、第二次世界大戦やインドシナで同じフランス兵として戦った者もいる。裏切りが発覚し、しかしその者を「戦友」として許しても、他の者が家族を殺されたから、と撃ち殺してしまう場面がある。植民地支配による長年のねじれた関係が、すべてを一層ややこしくしているのである。

もっともそのドニャック軍曹にしてからが、最後には、軍隊から脱走してしまうのだ。休暇から戻ったテニアン中尉に「何故戻って来たんです。あんたの居場所はない」と言っていたドニャック軍曹だが、すでにその時点でこれは、テニアン中尉にというよりは、自分に言い聞かせていた言葉だったのではないか。

テニアン中尉が軍隊に戻ったのは、自分の家に居場所がないことを知ったからだろう。民間人まで殺してしまった自分の姿を、彼が家族に見せられるはずがない(声をかければ届くところにいたというのに)。狂人の一歩手前にいて、しかし皮肉なことに家族との関係では、自分とのことを正確に把握していたことになる(注3)。拷問場面では、テニアン中尉は狂ってしまったかに見えたが、そうではなかったのだ。ニュース映画の「心の交流」が戦地のどこにあるのかと、正気の心が別のところから問いかけていたのである。

死んだ仲間が撮影したフィルムをクリスマスイブにみんなで観て、最初ははしゃいでいたもののだんだんみんなの声が小さくなって、しまいには泣き出してしまう、というしょうもない(他に何て言えばいいんだ)場面がある。悪趣味な演出に違いないのだが、戦争映画なんて真面目に撮ったら、すべてが悪趣味になってしまいそうだ。

次の日の朝、テニアン中尉はドニャック軍曹の居場所を尋ねていた(すぐ後の彼のモノローグで、彼はこの日脱走したのだという)。彼を探していてのことかどうか、テニアン中尉は山肌に猪の姿を目にする。そして、双眼鏡で何かを見て笑ったその時、撃たれて絶命してしまう。静かで清々しいくらいの景色と笑顔は、せめてもの餞か。けれど、やがて現れた敵兵の中には、あのアマール少年の姿があった。

拷問を止めさせたり、息子の絵を飾っていたテニアン中尉に親近感を持ったアマール少年だが、テニアン中尉が自分を見失ってからは失望し、軍から抜け出してしまったのだった。もっともこれには、アマール少年の兄がフェラガだったという事情もあるようなのだが。

何とも重苦しい映画である。戦っている当人たちが「インドシナとここはまともじゃない」「チュニジアとモロッコは独立を認めたのに。この戦争はFLNが正しい」などと言っているのだ。テニアン中尉は純粋で真面目な人間だったにしても(ドニャック軍曹に言わせると理想主義者で、だから「中尉が死んだのは幸運」ということになる)、どこまで自分の置かれている立場を理解していたのだろうか。

注1:アルジェリア戦争を扱った映画といえば『アルジェの戦い』(1966、日本公開1967)が有名だが、観ていない。あれはイタリア映画だったはずだが、キネ旬データベース(http://www.walkerplus.com/movie/kinejun/index.cgi?ctl=each&id=13792)では制作国がフランス、アルジェリアとなっている。これは完全な誤記だろう。

注2:しかしこれはどっちもどっちで、フランス空軍が禁止爆弾のナパーム弾(特殊爆弾と称していた)を使用し、一面黒こげの死体だらけにしてしまう場面がある。近代兵器に分があるのは当然で、アルジェリア戦争の死傷者数は、最後に出てくる数字でも15倍以上の差があった。

注3:沢山の手紙を未開封のままにしていたのは、家族を目の前にして声をかけられなかったのと同じ理由だろう。

原題:L’ennemi Intime

2007年 112分 シネスコサイズ フランス 配給:ツイン 日本語字幕:齋藤敦子

監督:フローラン・シリ 脚本:パトリック・ロットマン 撮影:ジョヴァンニ・フィオーレ・コルテラッチ 美術:ウィリアム・アベロ 音楽:アレクサンドル・デスプラ

出演:ブノワ・マジメル(テリアン中尉)、アルベール・デュポンテル(ドニャック軍曹)、オーレリアン・ルコワン(ヴェルス少佐)、モハメッド・フラッグ(捕虜)、マルク・バルベ(ベルトー大尉/フランス軍情報将校)、エリック・サヴァン(拷問官)、ヴァンサン・ロティエ(ルフラン)、ルネ・タザイール(サイード/フランス軍兵士、アルジェリア人)、アブデルハフィド・メタルシ(ラシード/ドニャックの部下、アルジェリア人)

インビジブル2

シネパトス2 ★★

■透明だから見せ場も作れない、てか

ライズナー研究所の開いたパーティで起きた不思議な殺人事件を担当していたフランク・ターナー刑事(ピーター・ファシネリ)とリサ・マルチネス刑事(サラ・ディーキンス)だが、国防総省の介入で捜査をはずされ、代わりに女性科学者マギー・ダルトン博士(ローラ・レーガン)の警護を命じられる。

マギーは犯人の次の標的らしいのだが、フランクたちには肝腎なことは何も知らされない。半年前に研究所を解雇されている当のマギーも、守秘義務を盾に口を開こうとしない。張り込み中に、姿の見えぬ犯人はリサを殺害。そこへ何故か突入してきた特殊部隊。犯人はマギーに襲いかかるが、混乱の中、なんとかフランクに助けられ車に乗り込む。

あらすじだと緊迫感がありそうだが、映画は平凡な仕上がり。姿の見えぬ犯人=透明人間の怖さがほとんど出ていないのだ。目に見えないのだから、描きようがないのかもしれないが、だったら映画なんか作るな、と言いたくなる。ビデオカメラにうっすらと影が映ることで恐怖を予感させたり、透明人間を映像として捕捉するカメラ(ナイトビジョン搭載ビデオ)も出てくるが、どれもあまり機能していない。透明人間対透明人間の雨の中の決闘という、考え抜いただろう今回最大の見せ場も、不発。さらに言えば、雑踏で透明人間がフランクたちを追いかけるのはまったく無理がある(考えればわかることなのに!)。

やっとのことで犯人を振りきって逃げ込んだ警察でも、マギーを軍に引き渡すように言われるし、特殊部隊の突入にも不信感を抱いていたフランクは、またマギーと共にそこから逃げ出す。そして、マギーの口からもついに真相が……。

5年前の惨事(2000年公開の第1作)によって中断していた研究は、「見えない戦士」に期待を寄せる国防総省の援助のもと、ライズナー博士(デヴィッド・マキルレース)によって引き継がれていた。しかし透明化には、次第に細胞が損傷しついには死に至るという副作用があった。その緩和剤を完成させたのがマギー。だが、被験者となった特殊部隊員のマイケル・グリフィン(クリスチャン・スレイター)には、何故か緩和剤は投与されなかったらしい。そしてマギーには、解雇は緩和剤で死亡したためと説明されていたのだった。

国防総省が自ら出動して警察の動きを封じながら、しかしそれにしては悪玉の陰謀はスケールの小さいものだし、ひねりもない(ひねりすぎが流行った反動?)ものだ。とはいえ、兵器としてではなく、政敵の抹殺が目的というのは案外単純で正しい使い方かもしれない。ただし、このあたりの説明もあっさりしたものだ。

この政敵暗殺計画を語ったのは、第2号被験者というティモシー・ローレンス。彼はすでに瀕死の状態にあり、しかも可視化のだいぶ進んでいるおぞましい姿で登場する。この他にもマギーの妹ヘザー(ジェシカ・ハーモン)に魔の手を伸ばさせたり、なんとか平坦さを避けようとしているが、全体に人間関係に無頓着で深みがないから、用意した状況が生きてこない。フランクといい関係に見えたリサは、簡単にマギーの身代わりになって早々に退場させてしまうし、そのあと、フランクがマギーと近しい雰囲気になっていくあたりもまったくの書き込み不足。

一番怖くて面白い場面は、フランクが追いつめられて透明人間の薬を自分に打つところか。で、このあとグリフィンと対決し彼を殺戮するのだが、これがシャベルで刺し殺すという残忍なもの。今回は製作総指揮ながらポール・ヴァーホーヴェンらしさもうかがえる。

それにしても、グリフィンはどこまでが暴走だったのだろうか。透明人間より制御不能人間部分に重みをおいた方が、数段面白い作品になったはずだ。続編を暗示して終わった(次作はフランクの暴走か!)が、もう観ないかも。

クリスチャン・スレイター(最近活躍してないよね)は、ほとんど顔を見せることがなかったが、透明人間場面のギャラはもらえるのだろうか。

原題:Hollow Man 2

2006年 91分 サイズ■ アメリカ 日本語字幕:加藤リツ子

監督:クラウディオ・ファエ 製作:デヴィッド・ランカスター、ヴィッキー・ソーサラン 製作総指揮:ルーシー・フィッシャー、ポール・ヴァーホーヴェン、ダグラス・ウィック、レイチェル・シェーン キャラクター創造:ゲイリー・スコット・トンプソン、アンドリュー・W・マーロウ 原案:ゲイリー・スコット・トンプソン 脚本:ジョエル・ソワソン 撮影:ピーター・ウンストーフ 視覚効果スーパーバイザー:ベン・グロスマン プロダクションデザイン:ブレンタン・ハロン 編集:ネイサン・イースターリング 音楽:マーカス・トランプ
 
出演:ピーター・ファシネリ(フランク・ターナー刑事)、ローラ・レーガン(マギー・ダルトン博士)、クリスチャン・スレイター(マイケル・グリフィン)、デヴィッド・マキルレース(ライズナー博士)、ウィリアム・マクドナルド(ビショップ大佐)、サラ・ディーキンス(リサ・マルチネス刑事)、ジェシカ・ハーモン(ヘザー・ダルトン)、ソーニャ・サロマ

無花果の顔

シネマスクウェアとうきゅう ☆

■わかりたくもない桃井ワールド

部下のやった手抜き工事を直す工務店勤めの父親(石倉三郎)。近所のようだったのに、わざわざウイークリーマンションまで借りて、しかも配管は複雑でも大した工事とは思えないのだが、こっそりやる必要があるからなのか、夜間だけ。でも、バレるでしょ。マンションの窓越しに見える女(渡辺真起子)が気になって仕方がなかったが、工事が終わってしまえばそれっきりである。「おとうさんが帰ってくるとうるさくていいわ」と、それなりにウキウキの母(桃井かおり)。でもその父に突然の死がやってきて……。

葬式で様子のおかしい母であったが、物書きになった娘(山田花子)と東京タワーの見えるマンションで暮らしだす。時間経過がよくわからないのだが、勤めだした居酒屋の店長(高橋克実)にプロポーズされてあっさり再婚し、新居に越していく。何故かそこに、前の家にあった無花果の木を植え(家はまだ処分していなかったのか)、前夫の遺品を埋める。娘は不倫のようなことをしていたようだが、子供を生む。

家族のあり方、それも主として母(妻)の置かれている立場を描いたと思われる。しかし、何が言いたいのかはさっぱりわからない。

例えば最初の食事の場面から家族がだんだんと消えていき、無花果の木に残されたカメラに向き合う母という構図で、彼女の見えない孤独を提示していたのかもしれないのだが、しかしこの場面を削ったり入れ替えたりしても、全体としてそうは影響がなさそうだ。そして、他にもそう思える場面がいくつもあるのだ。映画というのは単純に時間から判断しても相当凝縮された空間のはずで、本来削除できない場面で構成されるべきものと考えると、これはまずいだろう。

題名、演技、撮影、照明、小道具と、何から何まで思わせぶりだから退屈することはないが、それでも最後にはうんざりしてくる。人工的な色彩だろうが、ヘンな撮り方をしようが、わざと不思議な寝方や死体の置き方をさせようが、それはかまわない。でも、納得させてほしいのだ。すべてがひとりよがりの域を出ていないのでは話にならない。

興味の対象が違うだけとは思うが、普通の映画のつくりをしていないことは逃げにもなるから致命傷になる。わかりやすい映画だけがいいとは言わないが、少なくともわからない部分を解き明かしたくなるようには創ってもらいたいと思うのだ。

 

2006年 94分 サイズ■

監督・原作・脚本:桃井かおり 製作:菊野善衛、川原洋一 エグゼクティブプロデューサー:桑田瑞松、植田奈保子 統括プロデューサー:日下部哲 協力プロデューサー:原和政 撮影:釘宮慎治 美術:安宅紀史 美術監督:木村威夫 衣装デザイン:伊藤佐智子 編集:大島ともよ 音楽プロデューサー:Kaz Utsunomiya VFXスーパーバイザー:鹿角剛司 スーパーバイザー:久保貴洋英 照明:中村裕樹 録音:高橋義照 助監督:蘆田完 アートディレクション:伊藤佐智子
 
出演:桃井かおり(母)、山田花子(娘)、石倉三郎(父)、高橋克実(新しい父親)、岩松了(男)、光石研(母の弟)、渡辺真起子(隣の女)、HIROYUKI(弟)

イカとクジラ

新宿武蔵野館 ★★★★

■この家の子だったらたまらない

1988年のブルックリン、パークスロープ。バークマン家のウォルト(ジェシー・アイゼンバーグ)とフランク(オーウェン・クライン)の兄弟は、家族会議の場で両親のバーナード(ジェフ・ダニエルズ)とジョーン(ローラ・リニー)から2人の離婚を伝えられる。「ママと私は……」と切り出したところでフランクが泣き出してしまうところをみると、薄々は気付いていたようだ。それでも12歳のフランク(ウォルトは16歳)にとってはいざ現実となるとやはり悲しいのだろう。こうして共同親権のもと、親の間を行き来する子供たちの生活がはじまる。

冒頭の家族テニスは妙なものだったが、その謎はすぐに解ける。テニスは、バーナード=ウォルト組にジョーン=フランク組の対戦。このダブルスは組み合わせからして力の差がありありなのに、バーナードはジョーンの弱点のバックを突けとウォルトにアドバイス。こりゃ、嫌われるよバーナード(終わってからコートの横でもめてたっけ)。

共に作家ながら、過去の栄光にしがみついているだけのバーナード(だからか大学講師である)に比べ、ジョーンは『ニューヨーカー』誌にデビューと、今や立場が逆転。家を出たバーナードが借りたのはボロ家だし、金に細かいことを言うのもうなずける。

バーナードは自分の価値観を押しつけ気味だしなーと思っていると、ジョーンもその反動なのか、ひどい浮気癖があって、しかもこの家族はインテリだからかなのかはわからないが、それを子供たちにまで白状してしまい「この家はぼくたちがいるのにまるで売春宿だ」などと言われてしまう始末。現にジョーンは、さっそくテニスコーチのアイヴァン(ウィリアム・ボールドウィン=おや、懐かしいこと)を家に入れて暮らしはじめる。バーナードの方も教え子のリリー(アンナ・パキン)に部屋を提供したりして、なんだか怪しいものだ(あとでウォルトも彼女に惹かれてしまう)。

子供たちも壊れていったのか、それともそもそもおかしかったのか、ウォルトはピンク・フロイドのパクリを自作と称して平然としているし、中身も読まずに本の感想文を書いたりと、世の中を斜めに見る傾向があるのだが、多くはバーナードの受け売り(女の子との付き合い方までも)。ようするにバーナードの味方(フランクは母親っ子)で、ジョーンにも「パパが落ち目だから、いい家族を壊すの」と訊いていた。ふうむ、ウォルトにとっては一応はいい家族だったのか。フランクの壊れ方はさらにぶっとんでいて、家ではビールは飲むし、図書館では自慰行為を繰り返すしで、ついには学校から呼び出しがくる。

悲惨だし異常でしかないのだが、語り口にとぼけた味わいがあって、そうは深刻にならない。面白く観ていられるのはこちらの覗き趣味を充たしてくれることもあるからなのだが、これが監督で脚本も書いたノア・バームバックの自伝的な作品ときくと、どういう心境で創ったのかと複雑な気分にもなる。

「パパは高尚で売れないだけ」とあくまで父親の味方のウォルトだが、しかし彼の大切にしている思い出は「小さい頃は博物館のイカとクジラが怖かったが、ママと一緒だと平気だった。楽しかった」というもの。この部分こそが自伝的なものだと思いたい。

最後は過労で倒れたバーナードを見舞っているウォルトが、思い出したように博物館に行き、巨大なイカを食べようとしているクジラの模型?を見る。彼が何を感じたのかは不明だし、この場面をタイトルにした真意もわからない。が、何か自分なりの方法をウォルトは見つけるはずだと、予感したくなる終わり方だった。

(2007/04/02追記)朝日新聞の朝刊の科学欄に「死闘見えてきた マッコウクジラVS.ダイオウイカ」という記事があった。まだまだ生態は不明な部分が多いらしいが、両者は「ライバル関係にあるらしい」。なるほど。要するに結婚というのは異種格闘技のようなもの、というタイトルなのね。

 

【メモ】

オーウェン・クラインはケヴィン・クラインの息子(フィービー・ケイツとの子なの?)。

原題:The Squid and The Whale

2005年 81分 ビスタサイズ アメリカ PG-12 日本語字幕:太田直子

監督・脚本:ノア・バームバック 撮影:ロバート・イェーマン プロダクションデザイン:アン・ロス 衣装デザイン:エイミー・ウェストコット 編集:ティム・ストリート 音楽:ブリッタ・フィリップス、ディーン・ウェアハム
 
出演:ジェフ・ダニエルズ(バーナード・バークマン)、ローラ・リニー(ジョーン・バークマン)、ジェシー・アイゼンバーグ(ウォルト・バークマン)、オーウェン・クライン(フランク・バークマン)、ウィリアム・ボールドウィン(アイヴァン)、アンナ・パキン(リリー)、ケン・レオン、ヘイリー・ファイファー

硫黄島からの手紙

新宿ミラノ1 ★★★

■外国人スタッフによる日本映画

この作品が第二次世界大戦における硫黄島の戦いを描いた2部作で、アメリカ側の視点である『父親たちの星条旗』と対をなす日本側の視点を持つ作品であることは当然わかってはいたが、タイトルまでが日本語で出てきたのには驚いた(向こうの公開時ではどうなのだろう)。ついでながら『父親たちの星条旗』は特異な作品だから、この作品と合わせ鏡になることはない。つまり、こちらは表面的には普通の作品となっている。

スタッフはすべてアメリカ人(日系の脚本家などはいるが)ながら、俳優はともかくとしてセリフまでが日本語というのは、これまでのアメリカ映画から考えると画期的だ(『SAYURI』にはそういう面が少しあった)。どこの国の話でも英語のまま作ってしまう無頓着さにあきれていたからだが、しかし例えば日本の映画会社が日露戦争や日中戦争などを、相手国の視点で、しかも劇映画(興行としては少なくとも赤字であってはならない)で撮ろうとすれば、それが相当困難だという結論にすぐ達するはずである。

そして、内容的にも日本人の心情をかなり代弁してくれているという、心憎いものとなっている(日本のマーケットがあるからという発想もあったか)。多用された回想部分はクリント・イーストウッド監督らしからぬ情緒的なものが多いので、日本人が作ったといわれても違和感がないくらいなのだ。

気になる部分をしいて上げるなら、アメリカ留学経験のある栗林忠道中将(渡辺謙)とロサンゼルスオリンピック馬術競技金メダリストの西竹一中佐(伊原剛志)が共に西洋かぶれだということぐらいか。もちろんそんなふうには描かれていない。少し意地悪く言ってみただけだ。敵を知る人間が日本にもいたというところか。逆に、ほとんどの兵は敵を知らずに戦っていたのだと、映画は繰り返していた。

そして、だからこそ最後に天皇陛下万歳と叫びながら玉砕する栗林中将の姿に、複雑な思いが交錯することになる。ただ、西中佐が馬を連れて硫黄島にやって来ているというのは、どうもね。馬が可哀想だし、他に運ぶべきものがあったのでは、と思ってしまうからだ。

そうはいっても栗林中将を中心とした守備隊の上層部の視点だけでなく、西郷(二宮和也)や清水(加瀬亮)といった一兵卒に目が向けられているのは、映画を2部作としてアメリカ側と日本側から描いたのと同じ配慮だろう。とくに西郷にはかなりの時間を割いていて、彼が着任早々の栗林の体罰禁止令によって救われ、2度、3度と接点を持って最後の場面に至るあたりは映画的なお約束となっている。映画は2005年に硫黄島で大量の手紙が発見される場面ではじまるが、映画の中では手紙を書くのは西郷と栗林の2人で、そういう意味でも2人が主役ということになるだろうか。

もちろん一兵卒の西郷に劇的なことなどできるはずもなく、穴掘りに不満をぶつけ、内地に残してきた身重の妻に思いを馳せる場面にしかならないが、絶望という地獄の中で生き続けようとする彼の姿(見方を変えると自決も出来ず、投降も辞さない愛国心のない頼りない男ということになる)をなにより描きたかったのだろう。

対して栗林は、着任早々旧来の精神論的体制を合理的なものに改め、戦法も水際に陣地を築くというやり方から島中に地下壕を張り巡らせるという方法をとるなど、指揮官故に見せ場も多い。もっとも無意味な突撃や自決も禁じたため、西中佐のような理解者も現れるが、古参将兵からは反発を買うことになる。

伊藤中尉(中村獅童)がその代表格で、アメリカの腰巾着で腰抜けと栗林を評し、奪われた摺鉢山を奪還するのだと、命令を無視して逸脱した行動に出る。が、無謀なだけの精神論でそれが果たせるはずもなく、最後はひとり死に場所を求めてさまようのだが、ここらあたりから自分が何をしているのかわからなくなっていく。

おもしろいことに映画の描き方としてもここは少しわかりにくくなっている(これは嫌味)のだが、西郷と同じところに配属されてきた元憲兵の清水の運命と考えあわせると、ここにも戦争(に限らないが)というものの理不尽さをみることができるだろう。捕虜を殺してしまう米兵、自決が強要される場面や西中佐が米兵の手紙を読む挿話など、すべてがその理不尽さに行き着く。

しかし実をいうと、2部作としての意義は認めるものの、私には凡庸で退屈な部分も多い映画だった。そして『父親たちの星条旗』と同じく、この作品でも(つまり両方の作品を観ても)硫黄島の戦いの全貌がわからないという不満が残った。もちろんこれはイーストウッドと私の興味の差ではあるが、できれば情緒的な挿話は少し減らしてでも、客観的事実を配すべきではなかったか。そのことによって日本兵のおかれていた立場の馬鹿馬鹿しさが際だったはずだし、画面にも緊迫感が生まれたと思うからだ。

 

【メモ】

「家族のためにここで戦うことを誓ったのに、家族がいるからためらう」(西郷のセリフ)

原題:Letters from Iwo Jima

2006年 141分 シネスコ アメリカ

監督:クリント・イーストウッド 製作:クリント・イーストウッド、スティーヴン・スピルバーグ、ロバート・ロレンツ 製作総指揮:ポール・ハギス 原作:栗林忠道(著)、吉田津由子(編)『「玉砕総指揮官」の絵手紙』 原案:アイリス・ヤマシタ、ポール・ハギス 脚本:アイリス・ヤマシタ 撮影:トム・スターン 美術:ヘンリー・バムステッド、ジェームズ・J・ムラカミ 衣装デザイン:デボラ・ホッパー 編集:ジョエル・コックス、ゲイリー・D・ローチ 音楽:カイル・イーストウッド、マイケル・スティーヴンス
 
出演:渡辺謙(栗林忠道中将)、二宮和也(西郷)、伊原剛志(バロン西/西竹一中佐)、加瀬亮(清水)、松崎悠希(野崎)、中村獅童(伊藤中尉)、裕木奈江(花子)

イルマーレ

新宿ミラノ1 ★★☆

■郵便箱タイムマシン

湖畔に建つ硝子張りの一軒家。ケイト(サンドラ・ブロック)はシカゴの病院への勤務が決まり、引っ越しのため次の住人にミスがあった時の郵便物の転送を依頼する手紙を郵便箱に残す。「入口にある犬の足跡と屋根裏の箱は私が越してくる前からありました」と書き添えて。

手紙を受け取った新しい住人アレックス(キアヌ・リーヴス)は玄関を見るが、足跡はどこにもない。それに彼が越してきたのは、長い間空き家になっていた埃の積もった家なのだ。しかしアレックスが家の外でペンキ塗りをしていると、どこからともなく犬がやって来て……。

姿が見えないのに郵便受けの印が動き、入れた手紙が消え、また新しい手紙が……。噛み合わない内容のやり取りが進んで、ケイトは2006年の、そしてアレックスは2004年の同じ日に生きているということがわかる。

ネタ切れのせいか、近年、変則タイムマシン物語が映画にも小説にも溢れているが、これもその1つ。しかも同名の韓国映画からのリメイクというからアイデア不足は深刻なのかも。この郵便箱タイムマシン映画は、2年という、ケイトにとってはまだ記憶に新しい過去、そして2年経てば手紙のやり取りをはじめた(という記憶を持つ)相手に会えるアレックス(でもこれは違うような)という、なかなか興味深い設定だ。

このことを考え出すと混乱してしまうのだが、とりあえず先に進むと、この奇妙な手紙のやり取りで、2人は恋に落ちる。恋に理由などいらないが、とはいえ手紙だけが接点となるとさすがにもう少し説明してもらいたくなる。「僕たちほど打ち解け合い、好みが同じで、心が通じ合うふたりはいない」と言われただけではねー。

なにしろケイトにはモーガン(ディラン・ウォルシュ)という相手がいて、当人はケイトと結婚する気満々だし、アレックス自身は気乗り薄ながら似たような状況のアンナ(ショーレ・アグダシュルー)がいるからだ。

手紙というまだるっこしい方法は、画面では時空を超えた会話で表現されているので話は早いが(画面処理もすっきりしている)、手紙の持つ特性は活かされることはなく、だからこの恋をよけい性急に感じてしまったのかもしれない。

もっともそれなりにふたりの事情も語られてはいる。アレックスが越してきた家は、彼の父親サイモン(クリストファー・プラマー)が設計したもので、そこは家を出て行ってしまった母がいる、幸せだった時代の思い出の場所というわけだ。父の設計事務所にいるのは弟で、自分は普通の住宅建築に関わっているだけなのだが、わざわざここに越してきたということで彼の探しているものがわかる。

ケイトの場合は恋人や仕事で、でもこれはアレックスが絡んでくるからさらに複雑で微妙だ。現在のアレックスとは、思い出した過去(あー混乱する)で、ふたりはキスまでしているのだから。

いつまでも無視しているわけにもいかないので郵便箱タイムマシンに触れるが、やはりその箱だけの限定版にしておくべきでなかったか。季節はずれの雪のためにマフラーを送ったり、忘れ物を取りに行かせたりする程度であれば微笑ましくて、整合性もなんとかは保っていられそうだが、木まで植えさせて、無かったものを出現させてしまうのはどうだろう。

だけど、この映画では交通事故を無いものにしてしまわなければならいわけで、だからそんな瑣末なことを言ってもはじまらないのだが。でもあえて言わせてもらうと、ケイトが事故にあったアレックスに気付かなかったのはあんまりではないか。一瞬とはいえキスまでした相手なのだから(顔がぐしゃぐしゃになっていたという残酷な話ではないようだし)。

禁じ手に踏み込んで、それが成功しているならともかく、このラストはちょっと残念だ。だってアレックスには継続している意識が、ケイトでは改竄されたか別の次元でのことになってしまうわけだから(って、ホントかい)。いっそ新聞の株式覧でも郵便箱に入れて、大金持ちになって迎えに来てもらえばいいのにね。

それに、犬がふたりを渡り歩いたことやあの家をケイトが借りた時の状況はどうだったのだろう(もしかしたら聞き逃したのかもしれないが)。犬の名前をケイトがアレックスに教えて、その名を呼ばれた犬が寄っていくのも逆のような気がするが、細かいところはもう1度観てみないとわからない。

待ち合わせたレストラン「イルマーレ」にアレックスが現れないシーンは切ないが、私はそのことより、有名レストランだからすぐの予約は難しいのだけれども、さすがに2年先の予約(彼女の明日はアレックスには2年と1日になる)は大丈夫というのが面白かった。

それにしても『スピード』での共演からはすでに12年。バスの中という狭い空間から今回は絶対?会えない空間での恋。このふたりが燃え上がるのは異常な状況下にある時だけとかね。ともかくふたりとももうしっかり大人で、建築家のアレックスの指示によるシカゴめぐりなどのような落ち着いた感じの場面はいいのだが、バタバタするタイムマシン話に絡ませるのならもっと若い人をもってきてもよかったかも。

【メモ】

ノースラシーン通り1620番地。アレックスには高級マンションの建築予定地。ケイトには新居。

この犬はケイトのチェスの相手もするのだ。

『イルマーレ』はイタリア語で「海辺の家」で、この映画ではレストランの名前になっている。邦題は韓国映画からそのまま持ってきたようだが、この映画だと原題の方がすっきりする。

原題:The Lake House

2006年 98分 アメリカ シネマスコープ 日本語字幕:松浦美奈

監督:アレハンドロ・アグレスティ 脚本:デヴィッド・オーバーン 撮影:アラー・キヴィロ 編集:アレハンドロ・ブロデルソン、リンジー・クリングマン 音楽:レイチェル・ポートマン
 
出演:キアヌ・リーヴス(アレックス・ワイラー)、サンドラ・ブロック(ケイト・フォースター)、ショーレ・アグダシュルー(アンナ)、クリストファー・プラマー(サイモン・ワイラー)、 ディラン・ウォルシュ(モーガン)、エボン・モス=バクラック(ヘンリー・ワイラー)、ヴィレケ・ファン・アメローイ(ケイトの母)