筆子・その愛-天使のピアノ

テアトル新宿 ★☆

■石井筆子入門映画

男爵渡邉清(加藤剛)の長女として育った筆子(常盤貴子)は、ヨーロッパ留学の経験もあり、鹿鳴館の華といわれるような充足した青春を過ごす。教育者として女性の地位向上に力を注ぐが、男どもは今の国に必要なのは軍隊といって憚らない富国強兵の時代だった。

高級官吏小鹿島果(細見大輔)と結婚し子を授かるが、さち子は知的障害者だった(子供は3人だが、2人は虚弱でまもなく死んだという)。「たとえ白痴だとしても恥と思わない」と言ってくれるような夫の果だったが35歳で亡くなってしまう。

石井亮一(市川笑也)が主宰していた滝乃川学園にさち子を預けたことで、次第に彼の人格に惹かれるようになり、周囲の反対を押し切って再婚。ここから2人3脚の知的障害者事業がはじまることになる。

石井筆子を知る入門映画として観るのであれば、これでもいいのかもしれない(詳しくないのでどこまでが事実なのかはわからない)が、映画としてははなはだ面白くないデキである。筆子を生涯に渡って支えることになる渡邉家の使用人サト(渡辺梓)や、後に改心する人買いの男(小倉一郎)などを配したり、石井亮一との結婚騒動(古い考えの父親とサトとの対決も)などでアクセントをつけてはいるが、所詮網羅的で、年譜を追っているだけという印象だ。

辛口になるが、常盤貴子の演技も冴えない。面白くないことがあると(この時は亮一と衝突して)鰹節を削ってストレスを発散させるのだが、この場面くらいしか見せ場がなかった。ついでながら、ヘタなズームの目立つ撮影も平凡だ。

副題の天使のピアノにしても、最初と最後には出てくるが、劇中では筆子の結婚祝いという説明があるだけで、特別な挿話が用意されているわけではないので意味不明になっている。

当時の知的障害者に対する一般認識は、隔離するか放置するかで、縛られたり座敷牢に入れられて一生を過ごすということも普通だったようだ。映画でもそのことに触れていて、さらに「一家のやっかいものだが、女は年が経てば……」と踏み込んでみせるが、それもそこまで。実際の知的障害者の出演もあるが、その扱いも中途半端な気がしてしまうのは、考え過ぎか。

亮一の死後(1937年没)、高齢ながら学園長になった筆子だが、1944年に82歳で没するまで、晩年は何かと不遇の時期を過ごしたようだ。戦時下では、戦地に行き英霊になって帰ってきた園児もいたし、そのくせ「知恵遅れには配給は回せない」と圧力がかかり何人もの餓死者が出たというのだが、1番描いてほしかったこの部分が駆け足だったのは残念でならない。

【メモ】

石井筆子(1865年5月10日~1944年1月24日)。

真杉章文『天使のピアノ 石井筆子の生涯』(2000年ISBN:4-944237-02-2)という書籍があるが、原作ではないらしい。

何故か同じ2006年に『無名(むみょう)の人 石井筆子の生涯』(監督:宮崎信恵)という映画も作られている。こちらはドキュメンタリーのようだ(プロデューサー:山崎定人、撮影:上村四四六、音楽:十河陽一、朗読:吉永小百合、ナレーション:神山繁、出演:酒井万里子、オフィシャル・サイトhttp://www.peace-create.bz-office.net/mumyo_index.htm)。

2006年 119分 ビスタサイズ

監督・製作総指揮:山田火砂子 プロデューサー:井上真紀子、国枝秀美 脚本:高田宏治 撮影:伊藤嘉宏 美術監督:木村威夫 編集:岩谷和行 音楽:渡辺俊幸 照明:渡辺雄二 題字:小倉一郎 録音:沼田和夫 特別協力:社会福祉法人 滝乃川学園

出演:常盤貴子(石井筆子)、市川笑也(石井亮一)、加藤剛(渡邉清)、渡辺梓(藤間サト)、細見大輔(小鹿島果)、星奈優里、凛華せら、アーサー・ホーランド、平泉成、小倉一郎、磯村みどり、堀内正美、有薗芳記、山田隆夫、石濱朗、絵沢萠子、頭師佳孝、鳩笛真希、相生千恵子、高村尚枝、谷田歩、大島明美、田島寧子、石井めぐみ、和泉ちぬ、南原健朗、本間健太郎、板倉光隆、真柄佳奈子、須貝真己子、小林美幸、星和利、草薙仁、山崎之也、市原悦子(ナレーション)

ディパーテッド

新宿ミラノ2 ★★★

■描くべき部分を間違えたことで生まれたわかりやすさ

元になった『インファナル・アフェア』はこんなにわかりやすい映画だったか、というのが1番の感想。向こうは3部作で、観た時期も飛び飛びだったということもあるが、マフィアに潜入する警察と警察に潜入するマフィアという入り組んだ物語も順を追って説明されると、そうはわかりにくいものでないことがわかる。

しかしそれにしても失敗したなと思ったのは、『インファナル・アフェア』を観直しておくべきだったということだ。『ディパーテッド』を独立した作品と思えばなんでもないことだが、でも『インファナル・アフェア』を観てしまっているのだから、それは無理なことなのだ。しかもその観た時期がなんとも中途半端なのである。記憶力の悪い私でもまだうっすらながらイメージできる部分がいくつかあって、どうしても比較しながら観てしまうことになった。といってきちんと対比できるほどではないから、どうにもやっかいな状況が生まれてしまったのだった。

というわけで、曖昧なまま書いてしまうが、違っているかもしれないので、そのつもりで(そんなのありかよ)。

まず、刑事のビリー・コスティガン(レオナルド・ディカプリオ)がフランク・コステロ(ジャック・ニコルソン)にいかにして信用されるようになるか、という部分。ここは意外な丁寧さで描かれていた。だからわかりやすくもある(それになにしろ話を知ってるんだもんね)のだが、逆に『インファナル・アフェア』の時はまだ全体像が見えていないこともあり、それも作用したのだろう、緊迫感は比較にならないくらい強かった。

ビリーを描くことでコステロの描写も手厚いものとなる。この下品でいかがわしい人物は、なるほどジャック・ニコルソンならではと思わせるが、しかしこれまた彼だと毒をばらまきすぎているような気がしなくもない。それにコステロが全面に出過ぎるせいで、家内工業的規模のマフィア組織にしか見えないといううらみもある(マイクロチップを中国のマフィアに流すのだからすごい取引はしているのだけどね)。

この2人に比べると、コステロに可愛がられ警察学校に入り込むコリン・サリバン(マット・デイモン)は、今回は損な役回りのではないか。ビリーには悪人揃いの家系を断ち切るために警官になろうとしたいきさつもあるから、悪に手を染めなければならない苦悩は計り知れないものがあったと思われる。が、コリンの場合はどうか。日蔭の存在から警察という日向の部分で活躍することで、案外そのことの方に生きやすさを感じていただろうに、彼の葛藤というよりは割り切り(そう、悪なのだ)が、そうは伝わってこないのだ。そういえばコステロのコリンに対する疑惑も薄かったような(本当はビリーよりこちらの方がずっと面白い部分なのだが)。

女性精神科医のマドリン(ヴェラ・ファーミガ)もビリーとコリンの2人に絡むことで重要度は増したものの、かえってわざとらしいものになってしまったし、ビリーの存在を知っている人物がクイーナン警部(マーティン・シーン)とディグナム(マーク・ウォールバーグ)で、辞表を出して姿を消していたディグナムが最後に現れてコリンに立ちはだかるのは、配役からして当然の流れとはいえ、どうなんだろ。おいしい役なのかもしれないが、なんだかな、なんである。ということは、脚本改変部分は成功していない(ような気がする)ことになるが。

 

原題:The Departed

2006年 152分 シネスコサイズ アメリカ R-15 日本語版字幕:栗原とみ子

監督:マーティン・スコセッシ 製作:マーティン・スコセッシ、ブラッド・ピット、ブラッド・グレイ、グレアム・キング 製作総指揮:G・マック・ブラウン、ダグ・デイヴィソン、クリスティン・ホーン、ロイ・リー、ジャンニ・ヌナリ 脚本:ウィリアム・モナハン オリジナル脚本:アラン・マック、フェリックス・チョン 撮影:ミヒャエル・バルハウス プロダクションデザイン:クリスティ・ズィー 衣装デザイン:サンディ・パウエル 編集:セルマ・スクーンメイカー 音楽:ハワード・ショア
 
出演:レオナルド・ディカプリオ(ビリー・コスティガン)、マット・デイモン(コリン・サリバン)、ジャック・ニコルソン(フランク・コステロ)、マーク・ウォールバーグ(ディグナム)、マーティン・シーン(クイーナン)、レイ・ウィンストン(ミスター・フレンチ)、ヴェラ・ファーミガ(マドリン)、アレック・ボールドウィン(エラービー)、アンソニー・アンダーソン(ブラウン)、ケヴィン・コリガン、ジェームズ・バッジ・デール、デヴィッド・パトリック・オハラ、マーク・ロルストン、ロバート・ウォールバーグ、クリステン・ダルトン、J・C・マッケンジー

どろろ

楽天地シネマズ錦糸町-1 ★★☆

■醍醐景光にとっての天下取りとは

戦乱の世に野望を滾らせた醍醐景光(中井貴一)は、生まれてくる子供の48ヶ所の体と引き換えに魔物から権力を得る。ただの肉塊として生まれた赤ん坊は川に流されるが、呪師の寿海(原田芳雄)に拾われる。左手に妖刀を備えた作り物の体を与えられた赤ん坊は、百鬼丸(妻夫木聡)として成人する。

寿海が死、百鬼丸は魔物を倒せば自分の体を取り戻すことを知って旅に出るのだが、全部を取り戻すとなると48もの魔物を倒さねばならない。この魔物対決が映画の見所の1つになっている。百鬼丸に仕込まれた妖刀に目をつけた泥棒のどろろ(柴咲コウ)が、百鬼丸につけまっとってという流れだから、題名も『どろろ』よりは『百鬼丸』の方がふさわしい気がするが、手塚治虫の原作も読んだことがないので、そこらへんの事情はよくわからない。

色数を絞ったり彩度を上げたりした画面の上で、これでもかと繰り広げられるバトルの数々は、CGや着ぐるみが安っぽいながら、なにしろ相手は魔物だから造型も自由自在だし、意外にも楽しい仕上がりとなっている。

ただ、このことで百鬼丸とどろろが絆を深めていったり、体を取り戻すごとに百鬼丸が人間らしくなっていく部分は、描き込み不足の感が否めない。体は偽物(戦で死んだ子供たちの体で作られている)ながら、寿海から愛情をそそがれ、しっかりとした考えを持つ青年に育った百鬼丸は、人間の体を取り戻すことの意味をわかっているはずだ。事実、不死身だった体は、少しずつ痛みを感じるようになる。魔力を失うだけでなく、死さえ身近になってくるのである。しかし残念ながら、百鬼丸に当然生じているだろう心の葛藤は伝わってこない。父とは違う道を選んでいるこの過程こそが、後半のドラマを結実させるはずなのに。

どころか、映画は父だけでなく母の百合(原田美枝子)や弟の多宝丸(瑛太)を登場させて、焦点をどんどん曖昧にしてしまう。彼らに微妙な立場の違いや心境を吐露させて厚みを持たせたつもりなのかもしれないが、逆に家族だけの話のようになってしまって、スケール感までが失われてしまうのだ。

魔物に我が子の体を売り渡した父までが最後には改心して、結局家族はみんないい人でしたになってしまっては、腰砕けもいいところだ。しかも彼はちょっと前に、百合まで迷うことなく斬り捨てているのだ。それで改心したといわれてもねー。魔物対決の過程では庶民の生活の悲惨さにだって触れていたのに、全然納得できないよ。だいたい天下取りのための魔力を手に入れたはずなのに、20年経ってもそれは果たされず(天下統一は目と鼻の先とは言っていたが)って、よくわからんぞ。

私が理解できないのに、百鬼丸が納得してしまうのもどうかと思うが、どろろにとっても醍醐景光は親の敵だったはずで、そのどろろまでが敵討ちをあきらめてしまう。多宝丸は父が死んだあとは百鬼丸に継いでもらいたいなどと言うし、揃いも揃って物わかりがよくなってしまうのでは臍を曲げたくなる。

最後に「残り二十四体」と百鬼丸の体を持っている魔物の数が表示されるのは(まだ、そんなにあったのね)、続篇を予告しているわけで、だったら醍醐景光と百鬼丸との話は、一気にカタを付けるのではなく、じっくり後篇まで持ち越してもよかったのではないか。

「オレはまだ女にはなんないぞ」「ああ、望むところだ」というどろろと百鬼丸のやりとりが終わり近くにあったが、このふたりの関係がうまく描ければ、後篇は意外と魅力ある映画に仕上がる予感がするのだが。

  

【メモ】

制作費は20億円だから邦画としてはけっこうお金を使っている。

舞台は戦国時代から江戸時代の風俗をベースに多国籍的な要素を織り込んだもので、醍醐景光の城などは空中楼閣の工場とでもいった趣。またニュージーランドロケによる風景を背景にしていたりもするが、これは違和感がありすぎた。

2007年 138分 ビスタサイズ

監督:塩田明彦 アクション監督:チン・シウトン アクション指導:下村勇二 プロデューサー:平野隆 原作:手塚治虫 脚本:NAKA雅MURA、塩田明彦 撮影:柴主高秀 美術監督:丸尾知行 編集:深野俊英 音楽:安川午朗、福岡ユタカ 音楽プロデューサー:桑波田景信 VFXディレクター:鹿住朗生  VFXプロデューサー:浅野秀二 コンセプトデザイン:正子公也 スクリプター:杉山昌子 衣裳デザイン:黒澤和子 共同プロデューサー:下田淳行 照明:豊見山明長 特殊造型:百武朋 録音:井家眞紀夫 助監督:李相國
 
出演:妻夫木聡(百鬼丸)、柴咲コウ(どろろ)、中井貴一(醍醐景光)、瑛太(多宝丸)、中村嘉葎雄(琵琶法師)、原田芳雄(寿海)、原田美枝子(百合)、杉本哲太(鯖目)、土屋アンナ(鯖目の奥方)、麻生久美子(お自夜)、菅田俊(火袋)、劇団ひとり(チンピラ)、きたろう(占い師)、寺門ジモン(飯屋の親父)、山谷初男(和尚)、でんでん、春木みさよ、インスタントジョンソン

鉄コン筋クリート

新宿ミラノ3 ★★☆

■絵はユニークだが、話が古くさい

カラスに先導されるように巻頭展開する宝町の風景に、わくわくさせられる。カラスの目線になった自在なカメラワークもだが、アドバルーンが舞う空に路面電車という昭和30年代の既視感ある風景に、東南アジアや中東的な建物の混在した不思議で異質な空間が画面いっぱいに映しだされては、目が釘付けにならざるをえない。

この宝町を、まるで鳥人のように電柱のてっぺんやビルを飛び回るクロとシロ。キャラクターの造型も魅力的(ただし誇張されすぎているからバランスは悪い)だが、この身体能力はまったくの謎。単純に違う世界の話なのだよ、ということなのだろうか。

ネコと呼ばれるこの2人の少年は宝町をしきっていて、それでも大人のヤクザたちとは一線を画しているのだろうと思って観ていたのだが、やっていることはかつあげやかっぱらいであって、何も変わらない。親を知らないという事情があればこれは生きていくための知恵ということになるのだろうが、このあとのヤクザとの絡みを考えると、もっともっと2人を魅力的にしておく必要がある。

旧来型のヤクザであるネズミや木村とならかろうじて成立しそうな空間も、子供の城というレジャーランドをひっさげて乗り込んできた新勢力の蛇が入ってくると、そうはいかなくなる。組長が蛇と組もうとすることで、配下のネズミや木村の立場も微妙に変わってくる。ネズミを追っていた刑事の藤村と部下の沢田(彼は東大卒なのだ)も動き出して、宝町は風雲急を告げるのだが、再開発で古き良きものが失われるという情緒的な構図は、昔の東映やくざ映画でもいやというくらい繰り返されてきた古くさいものでしかない。

だからこその、無垢な心を持つシロという存在のはずではないか。が、私にはシロは、ただ泣き叫んでいるだけのうるさい子供であって、最後までクロが持っていないネジを持っているようには見えなかったのである。これはシロのセリフで、つまりシロが自覚していることなのである。そういう意味では、シロはやはり特別な存在なのだとは思うのだが……。

たぶん2人に共感できずにいたことが、ずーっとあとを曳いてしまったと思われる。クロとシロはそのまま現実と理想、闇と光という二元論に通じ、要するに互いに補完し合っているといいたいのだろう。しかし、最後に用意された場面がえらく観念的かつ大げさなもの(クロは自身に潜んでいるイタチという暗黒面と対峙する)で、しらっとするしかなかったのだ。

題名の『鉄コン筋クリート』は意味不明(乞解説)ながら実に収まりのいい言葉になっている。しかし映画の方は、この言葉のようには古いヤクザ映画を換骨奪胎するには至っていない。手持ちカメラを意識した映像や背景などのビジュアル部分が素晴らしいだけに、なんだか肩すかしを食わされた感じだ。

  

【メモ】

もちもーち。こちら地球星、日本国、シロ隊員。おーとー、どーじょー。

2006年 111分 サイズ■ アニメ

監督:マイケル・アリアス アニメーション制作:STUDIO4℃ 動画監督:梶谷睦子 演出:安藤裕章 プロデューサー:田中栄子、鎌形英一、豊島雅郎、植田文郎 エグゼクティブプロデューサー:北川直樹、椎名保、亀井修、田中栄子 原作:松本大洋『鉄コン筋クリート』 脚本:アンソニー・ワイントラーブ デザイン:久保まさひこ(車輌デザイン) 美術監督:木村真二 編集:武宮むつみ 音楽:Plaid 主題歌:ASIAN KUNG-FU GENERATION『或る街の群青』 CGI監督:坂本拓馬 キャラクターデザイン:西見祥示郎 サウンドデザイン:ミッチ・オシアス 作画監督:久保まさひこ、浦谷千恵 色彩設計:伊東美由樹 総作画監督:西見祥示郎
 
声の出演:二宮和也(クロ)、蒼井優(シロ)、伊勢谷友介(木村)、田中泯(ネズミ/鈴木)、本木雅弘(蛇)、宮藤官九郎(沢田刑事)、西村知道(藤村刑事)、大森南朋(チョコラ)、岡田義徳(バニラ)、森三中(小僧)、納谷六朗(じっちゃ)、麦人(組長)

旅の贈りもの-0:00発

シネセゾン渋谷 ★☆

■あの頃町に若者がいないのは

大阪駅を午前0:00に出発する行き先不明の列車。これに乗り込んだ何かしらの問題を抱えた人たちが、山陰の小さな漁村の風町駅に着き、そこの風景や住人と接するうちに、次第に元気をもらい生きる希望を見つけるという話。

乗客は、年下の恋人に浮気されたキャリアウーマンの由香(櫻井淳子)、自殺願望の女子高生華子(多岐川華子)、リストラを妻に言い出せず、居場所を失った会社員の若林(大平シロー)など。一応各種用意しましたという感じにはなっているが、ここから先の工夫がない。

架空の風町は「あの頃町」と言われているように、都会人が無くしてしまった温かさの残る町という設定。レトロな映画館などがある懐かしい町並みの中に、お節介でやさしい人たちが楽しそうに暮らしている。ファンタジーにふさわしい理想の町といいたいところだが、風町には若者の姿がひとりも見えないのは何故か。

風町は、若者が逃げ出してしまった町なのではないか。そんな意地悪な疑問が浮かんだ。自分たちの問題も解決できていないのに、旅人にあれこれお節介をやいていていいのだろうかと。青年医師ちょんちょ先生(徳永英明)の存在で、このことはしばらく気付かずに観ていたのだが、実は彼も都会から流れてきたよそ者で「ぼくだって君たちと同じ旅人だよ。まだ旅の途中」なのだと言っていた。

それに子供もいない。だから祖父に預けられている翔太少年は友達もいなくて、華子を追い回した(直接の理由は逆上がりを教えて欲しくてだが)のか。

この、逆上がりができるようになったら翔太のパパが帰ってくるという話は、何のひねりもないひどいものだ。若林の自殺場面はヘタクソでかったるいし、最後にまた車掌が登場してきて「皆様、大切なものは見つかりましたでしょうか」というくくりにもうんざりした。

鉄道ファン向け映画という側面も意識して作っているのだと思っていたが、「鉄ちゃん」は途中で姿を消してしまってと(帰っただけだが)、これも制作側が持て余してしまったのだろうか。

 

【メモ】

EF58-150(イゴマル)の牽引するミステリートレイン。「行き先は不明です。お帰りは1ヶ月以内にお好きな列車で」。列車は何故か1駅(玉造温泉)だけ止まる。料金は9800円。

「何か大切なものを見つける旅になりますように」と車掌の挨拶がある。

風町で降りたのは20人くらいか。

「乙女座」という映画館がある。風町は海辺などのインフラが整っていて、それも内容に合わないような。

華子は若林に、決心したら一緒に死のうというメールを送る。葉子はネットで自殺者の募集を知り、同行するはずだったが約束の時間に遅れてしまう。

タレントになりたくて、そのあげくがイメクラ嬢のセーラちゃん。

2006年 109分 ビスタサイズ

監督:原田昌樹 原案:竹山昌利 脚本:篠原高志 撮影:佐々木原保志 編集:石島一秀 音楽:浅倉大介 主題歌:中森明菜『いい日旅立ち』 照明:安河内央之 挿入歌:徳永英明『Happiness』
 
出演:櫻井淳子(由香)、多岐川華子(華子)、徳永英明(越智太一/ちょんちょ先生)、大平シロー(若林)、大滝秀治(真鍋善作・元郵便局長)、黒坂真美(ミチル)、樫山文枝(本城多恵)、梅津栄(本城喜助)、石丸謙二郎(車掌)、石坂ミキ、小倉智昭、細川俊之(網干)、正司歌江(浜川裕子・翔太の祖母)

トゥモロー・ワールド

新宿武蔵野館2 ★★★★

■この未体験映像は映画の力を見せつけてくれる

人類に子供が生まれなくなってすでに18年もたっているという2027年が舞台。

手に届きそうな未来ながら、そこに描かれる世界は想像以上に殺伐としている。至るところでテロが起き、不法移民であふれている。だからか、イギリスは完全な警察国家となり果て、反政府組織や移民の弾圧にやっきとなっている。世界各地のニュースは飛び込んでくるものの(映画のはじまりはアイドルだった世界一若い青年が殺されたというニュース)、社会的秩序がかろうじて保たれているのは、ここイギリスだけらしい。

ただこの未来については、これ以上は詳しく語られない。2008年にインフルエンザが猛威をふるったというようなことはあとの会話に出てくるが、それが原因のすべてだったとは思えない。だからそういう意味ではものすごく不満。だいたい子供が生まれない世界で、難民があふれかえったりするのか。よく言われるのは、労働力不足であり活力の低下だが、少子化社会とはまた違う側面をみせるのだろうか。

政府が自殺剤と抗鬱剤を配給している(ハッパは禁止)というのもよくわからない。テロにしても、主人公セオ・ファロン(クライヴ・オーウェン)の古くからの友人で自由人の象徴のような形で登場するジャスパー・パルマー(マイケル・ケイン)によると、政府の自作自演と言うし。政府にとっては、自暴自棄になっている人間など生かしておいても仕方ないということか。

一方で、あとでたっぷり描かれる銃撃戦や暴動に走る人間たちの、これは狂気であって活気とは違うのかもしれないが、すさんだ行動エネルギーはどこからくるのだろう。子供の生まれない社会(つまり未来のない社会ということになるのだろうか)のことなど考えたこともないから、活力の低下にしても、社会という概念が崩壊していては、そんなに悠長ではいられないのかもしれない、と書いているそばからこちらの思考も定まらない。

エネルギー省の官僚であるセオは、元妻のジュリアン・テイラー(ジュリアン・ムーア)が率いるフィッシュ(FISH)という反政府組織に拉致される。妊娠した(こと自体がすでに驚異なのだ)黒人女性のキー(クレア=ホープ・アシティー)をヒューマンプロジェクトなる組織に引き渡すためには、どうしても通行証を持つ彼が必要なのだという。そのヒューマンプロジェクトなのだが、アゾレス諸島にコミュニティがある人権団体とはいうものの、その存在すら確証できていないようなのだ。

そして、その20年ぶりに会ったジュリアンは、フィッシュ内の内ゲバであっけなくも殺されてしまう。セオはキーとの逃亡を余儀なくされ、ジャスパーを巻き込み(彼も殺される)、不法移民の中に紛れ(通行証は役に立ったのか)、言葉も通じないイスラム系の女性に助けられ、キーの出産に立ち会い、政府軍と反政府組織の銃弾の飛び交う中を駆けめぐり、あやふやな情報をたよりにボートに乗り、海にこぎ出す。すると、霧深い海の向こうから約束どおりトゥモロー号は姿を現す。が、銃弾を浴びたセオの命は消えようとしていた。

筋としてはたったこれだけだから、まったくの説明不足としかいいようがないのだが、途中いくつかある長回しの映像が、とてつもない臨場感を生み、観客を翻弄する。まるでセオの隣にいて一緒に行動しているような錯覚を味わうことになる。冒頭のテロシーンもそうだが、ジュリアンの衝撃の死から「その場にいるという感覚」は一気に加速し、セオが逃げるためとはいえ石で追っ手を傷つけるところなど、すでにセオと同化していて、善悪の判断がどうこうとかいうことではなく、ただただ必死になっている自分をそこに見ることになる。

最後の市街戦における長回しはさらに圧巻で、これは文章で説明してもしかたないだろう。カメラに付いた血糊が途中で拭き取られていたから、少しは切られていたのかもしれないが、そんなくだらないことに神経を使ってさえ、緊張感が途絶えないのだから驚く。

銃撃をしていた兵士たちが、赤ん坊の泣き声を耳にして、しばらくの間戦闘態勢を解き、赤ん坊に見入る場面も忘れがたい。この前後の場面はあまりに濃密で、だからそれが奇跡のような効果を生んでいる(赤ん坊の存在自体がここでは奇跡なのだから、この説明はおかしいのだが)。

セオは死んでしまうし、トゥモロー号が本当にキーと赤ん坊を救ってくれるのかは心許ないし、最初に書いたように背景の説明不足は否めないし、と、どうにも中途半端な映画なのだが、でも例えば、自分は今生きている世界のことをどれほど知っているだろうか。この映画で描かれる収容所や市街戦は、まるで関係のない世界だろうか。そう自問し始めると、テレビのニュースで見ている風景に、この映画の風景が重なってくるのだ。これは近未来SFというよりは、限りなく今に近いのではないかと。ただその場所に自分がいないだけで。

この感覚は、セオと一緒になって市街戦の中をくぐり抜けたからだろう。そして、我々が今を把握できていないかのようにその世界観は語られることがないのだが、それを補ってあまりあるくらいに、市街戦や風景の細部(セオの乗る電車の窓にある防御用の格子、至るところにある隔離のための金網、廃液のようなものが流れ遠景の工場からは煙の出ている郊外、荒廃した学校に現れる鹿など)がものすごくリアルなのだ。

 

【メモ】

なぜ黒人女性のキーは妊娠できたのか?(この説明もない)

セオはジュリアンとの間に出来た子供を事故で失っている。

ジャスパーは、元フォト・ジャーナリスト。郊外の隠れ家でマリファナの栽培をし、ヒッピーのような生活をしている。

原題:Children of Men

2006年 114分 ビスタサイズ アメリカ、イギリス 日本語字幕:戸田奈津子

監督:アルフォンソ・キュアロン 原作:P・D・ジェイムズ『人類の子供たち』 脚本:アルフォンソ・キュアロン、ティモシー・J・セクストン 撮影:エマニュエル・ルベツキ 衣装デザイン:ジェイニー・ティーマイム 編集:アルフォンソ・キュアロン、アレックス・ロドリゲス 音楽:ジョン・タヴナー
 
出演:クライヴ・オーウェン(セオ・ファロン)、ジュリアン・ムーア(ジュリアン・テイラー)、マイケル・ケイン(ジャスパー・パルマー)、キウェテル・イジョフォー(ルーク)、チャーリー・ハナム(パトリック)、クレア=ホープ・アシティー(キー)、パム・フェリス(ミリアム)、ダニー・ヒューストン(ナイジェル)、ピーター・ミュラン(シド)、ワーナ・ペリーア、ポール・シャーマ、ジャセック・コーマン

父親たちの星条旗

新宿ミラノ1 ★★★☆

■英雄はやはり必要だったらしい

問題となる硫黄島の摺鉢山頂上にアメリカ兵たちが星条旗を掲げている写真だが、何故この写真が英雄を演出することになったのだろう。当時はまだ多くの人が写真=真実と思い込んでいたにしても、旗を掲揚したということだけで英雄とするには、誰しも問題と思うだろうから。いや、むろん彼らはただの象徴にすぎず、だから彼らにとってそのことがよけい悲劇になったのだが。

写真には6人が写っているが、生き残ったのは3人である。硫黄島の戦いが、アメリカにとってもいかに大変なものだったかがわかるというものだ。生き残りの3人がアメリカに帰り、英雄という名の戦時国債募集の宣伝要員となって国から利用されるというのが映画のあらましである。

アメリカにとっては第二次世界大戦など海の向こうの戦争でもあるし、厭戦気分でも広がっていたのだろうか。国債の目標が140億ドルで、「達成できなければ戦争は今月で終わり」などといった人ごとのようなセリフまで出てくる。またはじまりの方でもこの写真について「1枚の写真が勝敗を決定することも」と言っていたから、戦意高揚効果の絶大さは本当だったようだ。

英雄であることを受け入れるのには戸惑いを感じつつも優越感に浸れるのはレイニー・ギャグノン(ジェシー・ブラッドフォード)。臆面もなく駆けつけてきた彼の恋人はこの点では彼以上だから、このふたりはお似合いなのだろうが、アイラ・ヘイズ(アダム・ビーチ)や衛生兵だったジョン・ブラッドリー(ライアン・フィリップ)にとって、この戦時国債の売り出しキャンペーン巡礼は、重要性は認識していても戦争の悲惨な体験を呼び起こすものでしかない。この時点ではそれはまだほんの少し前のことなのだ。

派手なイベントや、戦場を知らない人間とのどうしようもない温度差も彼らを苦しめる。ヘイズにはインディアンという立場もついてまわるから一層複雑だ。「まさかりで戦った方が受けるぞ」と言われる一方で「戦争のおかげで白人も我々を見直すでしょう」と講演する悲しさ。ブラッドリーのようには割り切れないヘイズは、酒に溺れ次第に崩壊していく。

このお祭り騒ぎの行程に、これでもかというくらいに戦闘場面が挿入される。だから実を言うと映画の最初の方は、その関係が読みとれず少し苦痛でもあったのだが、これが彼らのその時の心象風景なのだと、次第に、納得できるようになる。

小さな硫黄島に、その面積以上になるのではないかと思うほどの大船団が押し寄せる。凄まじい艦砲射撃と空爆(それでも10日の予定が3日に短縮されたという)に、アメリカが硫黄島に賭けた意気込みのすごさを感じるのだが、映画でもこの場面には圧倒される。中でも船団の横を駆け抜けていく戦闘機の場面は臨場感たっぷりである。艦隊の動きを遠景でとらえた時、あまりにも規則正しすぎることがCGを思わせてしまうのだが、これは本当だったのだろうか。

上陸後しばらくなりを潜めていた日本の守備隊が反撃に転じると、そこは一瞬にして地獄と化す。死体を轢いて進む上陸用舟艇や、これはもっとあとの場面だが、味方を誤射していく戦闘機の描写もあった。次作では日本側の硫黄島を描くからか、山にある砲台とアメリカ兵が近づくのを待ち受ける塹壕からの視点以外はすべてアメリカ側からという徹底ぶりだが、ならばその2つもいらなかった気がする。

もっとも、戦いの進展具合には興味がないようで、そのあたりは曖昧なのだが、摺鉢山頂上での星条旗の掲揚が実は2度あり、写真も2度目のものだったことはきちんと描かれる。ある大尉が最初の旗を欲しがり別の物と替えるよう命令するのだが、これが後々やらせ疑惑となる。他にも新聞でその写真を見て、自分の息子と確信した母親の話などもあるが、しかし最初にも書いたように、これがそれほど意味のあることとは思えないので、どうにもしっくりこないところがある(そうはいっても、ハーバート・ビックスの『昭和天皇』にもこれについての記述があるから、この写真の持つ意味は相当大きかったのだろう)。

彩度を落とした映像による冷静な視線は評価できるが、戦いの現場と帰国後の場面が激しく交差するところに、現在の時間軸まで入れたのは疑問だ。映画というメディアを考えると、そのことが、かえって現在の部分を弱めてしまった気がするからだ。原作者であるジェームズ・ブラッドリーは、戦争のことも旗のことも一切話さなかったというジョン・ブラッドリーの息子で、父親の死後取材していく過程で、父親との対話を重ねたに違いないが、しかしそれは本にまかせてしまっておいてもよかったのではないだろうか。

『硫黄島からの手紙』の予告篇が映画のあとにあるという知らせが最初にあるが、これはアメリカで上映された時にもついているのだろうか? アメリカ人は『硫黄島からの手紙』をちゃんと観てくれるのだろうか? そうなんだけど、この、映画の後の予告篇は、邪魔くさいだけだった。

 

【メモ】

この写真を撮ったのはAP通信のジョー・ローゼンソール(1945.2.23)でピューリツァー賞を授賞。

原題:Flags of Our Fathers

2006年 132分 シネスコ アメリカ 日本語字幕:戸田奈津子

監督:クリント・イーストウッド 原作:ジェームズ・ブラッドリー、ロン・パワーズ 脚本:ポール・ハギス、ウィリアム・ブロイルズ・Jr 撮影:トム・スターン 美術:ヘンリー・バムステッド 衣装:デボラ・ホッパー 編集:ジョエル・コックス 音楽:クリント・イーストウッド
 
出演:ライアン・フィリップ(ジョン・“ドク”・ブラッドリー)、ジェシー・ブラッドフォード(レイニー・ギャグノン)、アダム・ビーチ(アイラ・ヘイズ)、ジェイミー・ベル(ラルフ・“イギー”・イグナトウスキー)、 バリー・ペッパー(マイク・ストランク)、ポール・ウォーカー(ハンク・ハンセン)、ジョン・ベンジャミン・ヒッキー(キース・ビーチ)、ジョン・スラッテリー(バド・ガーバー)

トンマッコルへようこそ

シネマスクエアとうきゅう ★★★☆

■トンマッコルでさえ理想郷と思えぬ人がいた!?

朝鮮戦争下の1950年に、南の兵士に北の兵士、それに連合軍の兵士が、トンマッコルという山奥の村で鉢合わせすることになる。村の名前が最初から「トン¬=子供のように、マッコル=純粋な村」というのが気に入らない(昔からそう呼ばれていたという説明がある)が、要するに、争うことを知らない心優しい村人たちの自給自足の豊かな生活の中で、戦争という対極からやってきた兵士たちが、何が本当に大切なのかを知るという寓話である。

南の兵士は脱走兵のピョ・ヒョンチョル(シン・ハギュン)に、彼と偶然出会った衛生兵のムン・サンサン(ソ・ジェギョン)。北の兵士は仲間割れのところを襲撃されて逃れてきたリ・スファ(チョン・ジェヨン)、チャン・ヨンヒ(イム・ハリョン)、ソ・テッキ(リュ・ドックァン)。連合軍の米兵は数日前に飛行機で不時着したというスミス(スティーヴ・テシュラー)。

敵対する彼らが一触即発状態なのに、村人にはそれが理解できず、頭の弱いヨイル(カン・ヘジョン)に至っては、手榴弾のピンを指輪(カラッチ)といって引き抜いてしまう。このあと手榴弾が村の貯蔵庫を爆破して、ポップコーンの雪が降る。

が、私の頭は固くて、すぐにはこの映画の寓話的処理が理解できずに、あれ、これってもしかしてポップコーン、などとすっとぼけていた。でかいイノシシの登場でやっとそのつくりに納得。導入の戦闘場面のリアルさに頭が切り換えられずにいたのだ。ヨイルという恰好の道案内がいて、蝶の舞う場面(これはあとでも出てくる)だってあったというのにね。

イノシシを協力して仕留めるし(村人が食べもしないし埋めない肉を、夜6人で食べる)、村の1年分の食料を台無しにしてしまったことのお詫びにと農作業にも精を出すうちに、6人は次第に打ち解けていくのだが、スミス大尉の捜索とこの地点が敵の補給ルートになっていると思っている連合軍は、手始めに落下傘部隊を送ってくる。

このことがヨイルの死を招き、彼らに村を守ることを決意させることになる。爆撃機の残骸の武器を使って対空砲台に見せかけ、村を爆撃の目標からそらそうというのだ。

架空の村トンマッコルには、朝鮮戦争という国を分断した戦いをしなければならなかった想いが詰まっているのだろうが、この命をかけた戦いにスミスまでを参加させようとしたのには少し無理がなかったか。キム先生の蔵書頼みの英語だってまったく通じなかったわけだから、スミスはかなりの間つんぼ桟敷状態に置かれていたのだし。ま、結果として彼は、連合軍に戻って爆撃をやめさせるという順当な役を割り当てられるのではあるが。

軍服を脱いだ彼らが、村を守るためにはまた武器を取るしかない、というのがやたら悲しくて、とてもこれを皮肉とは受け取れない。天真爛漫なヨイルの死で、すでに村も死んでしまったと解釈してしまったからなのだが。そして、連合軍の飛行機の落とす爆弾があまりにもきれいで(どうしてこれまで美しい映像にしたのだ!)、私にはこの映画をどう評価してよいのかさっぱりわからなくなっていた。「僕たちも連合軍なんですか」「南北連合軍じゃないんですか」という、爆撃機に立ち向かっていく彼らのセリフの複雑さにも、言うべき言葉が見つからない。

ところで、トンマッコルは誰にとっても理想郷かというと、これが意外にもそうではないようなのだ。リと親しくなるドング少年の母親が「ドングの父親が家を出て9年」と言っているのだな。ふうむ。どなることなく村をひとつにまとめている指導力を問われて、村長は「沢山食わせること」と悠然と答えていたが、たとえそうであっても人間というのは一筋縄ではいかないもののようだ。

  

【メモ】

ピョ・ヒョンチョルが脱走兵となったのは、避難民であふれている鉄橋を爆破しろと命令されたことで、これがいつまでも悪夢となって彼を悩ませる。

原題:・ー・エ 妤ャ ・呱ァ賀ウィ  英題:Welcome to Dongmakgol

2005年 132分 シネスコサイズ 韓国 日本語字幕:根本理恵

監督:パク・クァンヒョン 原作: チャン・ジン 脚本:チャン・ジン、パク・クァンヒョン、キム・ジュン 撮影:チェ・サンホ 音楽:久石譲
 
出演:シン・ハギュン(ピョ・ヒョンチョル)、チョン・ジェヨン(リ・スファ)、カン・ヘジョン(ヨイル)、イム・ハリョン(チャン・ヨンヒ)、ソ・ジェギョン(ムン・サンサン)、スティーヴ・テシュラー(スミス)、リュ・ドックァン(ソ・テッキ)、チョン・ジェジン(村長)、チョ・ドッキョン(キム先生)、クォン・オミン(ドング)

手紙

新宿ミラノ1 ★★★★

■傾聴に値する

弟(武島直貴=山田孝之)の学費のために強盗殺人事件を犯してしまう兄(剛志=玉山鉄二)。刑務所の中の兄とは手紙のやり取りが続くが、加害者の家族というレッテルを貼られた直貴には、次第に剛志の寄こす(待っている)手紙がうっとおしいものになってくる。

映画(原作)は、殺人犯の弟という立場を、これでもかといわんばかりに追求する。親代わりの兄がいなくなり、大学進学をあきらめたのは当然としても、仕事場も住んでいる所も転々としなければならない生活を描いていく。

直貴は中学の同級生の祐輔(尾上寛之)とお笑いの世界を目指しているのだが、これがやっと注目され出すと、どこで嗅ぎつけたのか2チャンネルで恰好の餌食になってしまう。朝美(吹石一恵)という恋人が出来れば、彼女がお嬢様ということもあって、父親の中条(風間杜夫)にも許嫁らしきヘンな男からも、嫌味なセリフをたっぷり聞かされることになる。このやりすぎの場面には笑ってしまったが、わかりやすい。祐輔のためにコンビを解消した直貴は、家電量販店で働き出す。販売員として実績を上げたつもりでいると、倉庫への異動がまっていた。

これでは前向きな考えなど出来なくなるはずだ。「兄貴がいる限り俺の人生はハズレ」で「差別のない国へ行きたい」と、誰しも考えるだろう。

しかし映画は、家電量販店の会長の平野(杉浦直樹)に、その差別を当然と語らせる。犯罪と無縁で暮らしたいと思うのは誰もが思うことで、犯罪者の家族という犯罪に近い立場の人間を避けようとするのは自己防衛本能のようなものだ、と。兄さんはそこまで考えなくてはならず、君の苦しみもひっくるめて君の兄さんの罪だと言うのだ。

そして直貴には、差別がない場所を探すのではなくここで生きていくのだ、とこんこんと説く。自分はある人からの手紙で君のことを見に来たのだが、君はもうはじめているではないか。心の繋がった人がいるのだから……と。

このメッセージは傾聴に値する。不思議なことに、中条が彼のやり方で朝美を守ろうとした時のセリフも、いやらしさに満ちていながら、それはそれで納得させるもがあった。この映画に説得力があるのは、こうしたセリフが浮いていないからだろう。

見知らぬ女性からの手紙で、みかんをぶらさげて倉庫にふらりとあらわれた平野もそれらしく見える。そして加害者の家族が受ける不当な差別を、声高に騒ぐことなく当然としたことで、本当にそのことを考える契機にさせるのだ。

由美子(沢尻エリカ)がその見知らぬ女性で、直貴がリサイクル工場で働いていた時以来の知り合いだ。映画だからどうしても可愛い人を配役に当ててしまうので、しっかり者で気持ちの優しい彼女が直貴に一目惚れで、でも直貴の方は何故か彼女に冷たいというのが解せない。朝美とはすぐ意気投合したのに。って、こういうことはよくあるにしてもさ。

はじめの方で直貴の心境を擁護したが、第三者的立場からだと甘く見える。由美子という理解者だけでなく、朝美も最後までいい加減な気持ちで直貴と接していたのではなかったのだから。そう思うと、直貴の本心を確かめたくて(嘘をつかれていたのは確かなのに)ひったくりに会い転倒し、生涯消えぬ傷を残して別れざるをえなくなった朝美という存在も気の毒というほかない。とにかく直貴は、少なくともそういう意味では恵まれているのだ。祐輔という友達だっているし(むろん、これは直貴の魅力によるのだろうが)。

そうして、直貴は由美子が自分に代わって剛志に手紙を出していたことを知り、「これからは、俺がお前を守る」と由美子に言う。単純な私は、なーるほど、これでハッピーエンドになるのね、と思ってしまったが、まだ先があった。

直貴と由美子は結婚しふたりには3歳くらいの子供がいる。社宅に噂が広がり、今度は子供が無視の対象になってしまう。由美子は頑張れると言うが、直貴はこのことで剛志に「兄貴を捨てる」という内容の手紙を4年ぶりで出す。

このあと、被害者の家族を直貴が訪ねる場面もある。いくら謝られても無念さが消えないと言う緒方(吹越満)だが、直貴に剛志からの「私がいるだけで緒方さんや弟に罪を犯し続けている」ことがわかったという手紙を見せ、もうこれで終わりにしようと言う。

こうしてやっと、直貴は祐輔と一緒に刑務所で慰問公演をするエンドシーンになるというわけだ。もっともこのシーンは、私にとってもうそれほどの意味はなくなっていた。直貴の子供にまでいわれのない差別にさらされることと、緒方という人間の示した剛志の手紙による理解を描いたことで、もう十分と思ったからだが、映画としての区切りは必要なのだろう(シーン自体のデキはすごくいい)。

と思ったのは映画を観ていてのこと。でもよく考えてみると、この時点ではまだ子供の問題も解決されていないわけで、直貴にとってはこの公演は、本当に剛志とは縁を切るためのものだったのかもしれないと思えてくる(考えすぎか)。

かけ合い漫才はちゃんとしたものだ。お笑い芸人を目指していたときの直貴が暗すぎて、この設定には危惧しっぱなしだったが、危惧で終わってしまったのだからたいしたものだ。

気になったのは、由美子の手紙を知ったあとも直貴は返事を書いていなかったことだ。由美子からも逃げずに書いてやってと言われたというのに、やはり理屈ではなく直貴には剛志を許す(というのとも違うか)気持ちにまでは至らなかったのだろう。と思うと、直貴が6年目にして緒方を訪ねる気になったのは、どんな心境の変化があったのか。

それと、最後の子供の差別が解消される場面がうまくない。子供には大人の理論が通じないという、ただそれだけのことなのかもしれないが、ここは今までと同じように律儀な説明で締めくくってもらいたかった。

  

【メモ】

運送会社で腰を悪くした剛志は、直貴の学費欲しさに盗みに入るが、帰宅した老女ともみ合いになり、誤って殺害してしまう。

由美子はリサイクル工場では食堂で働いていたが、直貴のお笑いに賭ける情熱をみて、美容学校へ行く決心をする。

リサイクル工場では剛志の手紙の住所から、そこが刑務所だと言い当てる人物が登場する。彼も昔服役していたのだ。

家電量販店はケーズデンキという実名で登場する。移動の厳しさが出てきた時はよく決心したと思ったが、それは平野によって帳消しにされ、あまりあるものをもたらす。そりゃそうか。

2006年 121分 ビスタサイズ

監督:生野慈朗 原作:東野圭吾 脚本: 安倍照雄、清水友佳子 撮影:藤石修 美術:山崎輝 編集:川島章正 音楽:佐藤直紀 音楽プロデューサー:志田博英 主題歌:高橋瞳『コ・モ・レ・ビ』 照明:磯野雅宏 挿入歌:小田和正『言葉にできない』 録音:北村峰晴 監督補:川原圭敬
 
出演:山田孝之(武島直貴)、玉山鉄二(武島剛志)、沢尻エリカ(白石由美子)、吹石一恵 (中条朝美)、尾上寛之(寺尾祐輔)、田中要次(倉田)、山下徹大、石井苗子、原実那、松澤一之、螢雪次朗、小林すすむ、松浦佐知子、山田スミ子、鷲尾真知子、高田敏江、吹越満(緒方忠夫)、風間杜夫(中条)、杉浦直樹(平野)

DEATH NOTE デスノート the Last name

上野東急 ★★★☆

■せっかくのデスノートのアイデアが……

前作の面白さそのままに、今回も突っ走ってくれた。ごまかされているところがありそうな気もするが、1度くらい観ただけではそれはわからない。が、何度も観たくなること自体、十分評価に値する。

と、褒めておいて文句を書く……。

前作で予告のように登場していたアイドルの弥海砂(戸田恵梨香)にデスノートが降ってくる。彼女はキラ信者で(この説明はちゃんとしている)、夜神月との連係プレーが始まる。さすがにこれにはLも苦戦、という新展開になるのだが、このデスノートはリュークではなく、レムという別の死神によって海砂にもたらされる。

デスノートが2冊になったことで、ゲームとしての面白さは格段にあがったものの(月がこの2冊を使いこなすのが見物)、ということは世界には他にもデスノートが存在し、それがいつ何かの拍子に出てくるのではないかという危惧が、どこまでもついてまわることになった。このことで、せっかくのデスノートのアイディアが半減してしまったのは残念だ。

リュークを黒い死神、レムを白い死神(レムの方は感心できない造型だ)という対称的なイメージで作りあげたのだから、少なくとも死神は2人のみで、レムもリュークが月というあまりに面白いデスノート使いを見つけたことで、海砂(を月につながる存在として考えるならば)のところにやって来たことにでもしておけば、まだどうにかなったのではないか。前編を観た時に私は世界が狭くなってしまったことを惜しんだが、夜神月が死神にとっても得難い存在なのだということが印象付けられれば、これはこれでアリだと思えるからだ。

しかもこの白い死神のレムは、海砂に取り憑いたのも情ならば、自分の命を縮めてしまうのも情からと、まったく死神らしくないときてる。それに、レムはLとワタリの名前をデスノートに書いた、ってことは、死神はデスノートを使えるのね。うーむ。これも困ったよね。デスノートの存在自体を希薄にしてしまうもの。

あとこれはもうどうでもいいことだが、海砂の監禁に続いて月もLの監視下に置かれることになるのだが、2人の扱いに差があるのは何故か。海砂の方は身動き出来ないように縛り付けられているのに月は自由に動ける。これって逆では。単なる観客サービスにしてもおかしくないだろうか。

最後の、死をもって相手を制するというやり方は、そこだけを取り出してみると少しカッコよすぎるが、今までのやり取りを通して、Lにとっては月に勝つことが目的となっていても驚くにはあたらないと考えることにした。月や海砂にも目は行き届いているが、強いて言えば後編はLと夜神総一郎の映画だったかも。

とにかく面白い映画だった。原作もぜひ読んでみたいものである。

 

2006年 140分 ビスタサイズ

監督:金子修介 脚本:大石哲也 原作:大場つぐみ『DEATH NOTE』小畑健(作画) 撮影:高瀬比呂志、及川一 編集:矢船陽介 音楽:川井憲次

出演:藤原竜也(夜神月)、松山ケンイチ(L/竜崎)、鹿賀丈史(夜神総一郎)、戸田恵梨香(弥海砂)、片瀬那奈(高田清美)、マギー(出目川裕志)、上原さくら(西山冴子)、青山草太(松田刑事)、中村育二(宇生田刑事)、奥田達士(相沢啓二)、清水伸(模木刑事)、小松みゆき(佐波刑事)、前田愛(吉野綾子)、板尾創路(日々間数彦)、満島ひかり(夜神粧裕)、五大路子(夜神幸子)、津川雅彦(佐伯警察庁長官)、藤村俊二(ワタリ)、中村獅童(リューク:声のみ)、池畑慎之介(レム:声のみ)

トリスタンとイゾルデ

新宿武蔵野館1 ★★★★☆

■丁寧なつくりの重厚なドラマが楽しめる(苦しめられる)

(↓ほとんど粗筋ばかりなので読まない方がいいかも)

ローマ軍が撤退したあと、強大なアイルランド王に対抗する連合を打ち立てられないイギリスは、暗黒時代が続いていた。トリスタン(ジェームズ・フランコ)は幼い時に両親をアイルランド軍に殺され、命の恩人であるコーンウォールの領主マーク(ルーファス・シーウェル)のもとで成長する。トリスタンは自分の立てた作戦で、アイルランド王の片腕であるモーホルトを仕留めるが、自身も傷つき、毒薬のため死んだと思われて船葬で海に流される。

アイルランドに流れ着いたトリスタンを見つけたのはアイルランド王の娘イゾルデ(ソフィア・マイルズ)で、解毒の方法に詳しい彼女によって彼は一命を救われる。彼女の献身的な看病のうち、ふたりは恋に落ち海岸の小屋で結ばれる。

トリスタンを最初に発見したのがイゾルデというあたりに多少無理はあるものの(イギリスと敵対しているのに海岸線の防備はどうなっているのだ)、よく練られた脚本で、導入部から無理なく物語に入っていくことができる。歴史的な背景もわかりやすく説明してある。

船葬が発見されてしまったため、イゾルデの正体を知ることもなく、一旦はイギリスに戻るトリスタン。死んだと思っていたマーク王は、我がことのように喜ぶ。一方アイルランド王はモーホルトを失った(実は王との間で、イゾルデを妻にする約束が出来ていたのだが)ことから体勢を立て直す意味もあって、イゾルデと領地を餌にイギリスの領主たちに最強戦士を決める試合を開催するという知らせを出す。

褒美に釣られて半数の領主が参加するなか、自分の愛した女性がイゾルデであることを知らないトリスタンは、マーク王に「自分が名代になって出場して勝ち、イギリスの盟主と目されているあなたがアイルランド王女を妻に迎えることになれば、血を流さずに平和がもたらされる」と説く。

筋ばかり追ってしまっているが、これが巧妙なのだ。イゾルデをモーホルトから守ったのがトリスタンならば、そのイゾルデを親代わりであるマーク王に嫁がせたのもトリスタンということになるからだ。

王女争奪戦でのトリスタンの活躍はなかなかだ。仕組まれたインチキ試合に勝ち上がっていくトリスタンをカメラは魅力的に追う。恋愛劇の側面が強調されているが、この試合だけでなく、森での戦いや、城攻めの場面などどれも正攻法ながら迫力がある。また、俯瞰で捉えた城の内部や夜の挙式など、静の部分の美しさにも魅せられる。

「ここが忠義のない世界だったら私と結婚してくれた?」「そんな世界などない」「初夜がつらいわ」人目を忍んで交わされるトリスタンとイゾルデの会話が切ない。というか、
マーク王と睦まじくしているイゾルデを、地獄にいるトリスタンは「妻を演じるのに少しは苦労するかと」となじってしまう。

そしてマーク王の立派さが、さらに悲劇を際だたせる。トリスタンにとってマーク王は忠義以上に尊敬の対象(王としての資質のみならず、トリスタンを救う時に右手まで失っている)だし、イゾルデもトリスタンと知り合っていなければマーク王の愛を受け入れていたはず(優しくて憎めない人)なのだ。なのに、初恋の情熱故か、イゾルデはトリスタンに「愛に生きる」ことを宣言させてしまう。

密会を重ねる当のトリスタンに、マーク王はイゾルデの素行調査を依頼する。いや、詳しく書くのはもうやめるが(書くだけでもつらい話だ)、とにかく、この隙をつくようにアイルランド王と裏切り者が動きだし、マーク王は事実に直面する。が、イゾルデからトリスタンが瀕死の時に知り合ったことを訊いて、何も言わずふたりを解放しようとする。

しかし、トリスタンは「愛が国を滅ぼしたと伝えられる」と言ってマーク王のために戦うことを選ぶ。マーク王の寛容さに応えずにはいられなかったのだろうが、結局は彼には死が待っていた。「生は死より尊い。だが愛はもっと尊い」「ふたりの愛は国を滅ぼさなかった」という、ここだけ聞いたらおちゃらかしたくなるような結末なのだが、素直にしんみりできる。

アイルランド王の、娘を将棋の駒の1つとしか考えていない酷薄さや、トリスタンと同い年で、彼の存在故に常に2番手に甘んずるしかなかったマーク王の甥の悲しさなども、きちんと描かれていた。これでイギリスの部族間の抗争がもう少し深く捉えられていたら言うことがないのだが。

私の書いた文章からだと重たくるしい映画というイメージしか残りそうもないが、例えばトリスタンを人肌で温めようとするイゾルデが乳母にも裸になるように言うと、乳母は嬉々として「男と抱き合うのは15年ぶりよ」と言う。このあとトリスタンの正体を知って乳母が「イギリス人ですよ」と窘めると、イゾルデは「捕虜にしたの」と答えるのだ。まだ恋のはじめのはじめ、楽しい予感に満ちたひととき……。

 

原題:Tristan + Isolde

2006年 125分 サイズ■ アメリカ 日本語字幕:古田由紀子

監督:ケヴィン・レイノルズ 脚本:ディーン・ジョーガリス 撮影:アルトゥール・ラインハルト 編集:ピーター・ボイル 音楽:アン・ダッドリー
 
出演:ジェームズ・フランコ(トリスタン)、ソフィア・マイルズ(イゾルデ)、ルーファス・シーウェル(マーク)、 デヴィッド・パトリック・オハラ、マーク・ストロング、ヘンリー・カヴィル、ブロナー・ギャラガー、ロナン・ヴィバート、ルーシー・ラッセル

出口のない海

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★☆

■不完全兵器「回天」のもたらした悲劇

4隻の人間魚雷回天と搭乗員の並木(市川海老蔵)たちを積んだ伊号潜水艦は敵駆逐艦に見つかり猛烈な爆雷攻撃を受けるが、潜水艦乗りの神様と呼ばれる艦長の鹿島(香川照之)によって窮地を脱する。

いきなりのこの場面は単調さを排除した演出で、それはわかるのだが、しかしここからはじめるのなら、後半の唐突な伊藤整備士(塩谷瞬)のモノローグは最初からでもよかったのではないか。伊藤整備士と会うのは山口の光基地だから、並木の明治大学時代の話や志願の経緯などはそのままでは語れないが、それは並木から聞いたことにすれば何とかなりそうだからだ。ラストでは現在の年老いた伊藤を登場させているのだが、これはさらに意味がないように思われる。ただただ無駄死にという最後の印象を散漫にしてしまっただけではないか。

最初にラストシーンに触れてしまったが、映画は回天の出撃場面の合間に何度か回想の入る構成になっている。甲子園の優勝投手ながら大学では肩を痛め、それでも野球への情熱は失わずに魔球の完成を目指していた並木。長距離の選手だった同級の北(伊勢谷友介)。北の志願に続くように自分も戦争に行くことを決意する並木。秘密兵器の搭乗者になるかどうかの選択。訓練の模様。家族や恋人・美奈子(上野樹里)との最後の別れ。

美奈子の扱いが平凡なのは不満だが、他の挿話がつまらないというのではない。ただ、何となくこれが戦時中の日本なんだろうか、という雰囲気が全体を支配しているのだ。出だしの爆雷攻撃を受ける場面では、上官が「大丈夫か」などと声をかけるところがある。軍神になるかもしれない人間を粗末にはできなかったのか。そういえば並木の海軍志願の理由は「何となく海軍の方が人間扱いしてくれそう」というものだったが、当時の学生に、海軍>陸軍というイメージはあったのか。それはともかく、いい人ばかりというのがねー。

他にも描かれる場面が、並木たちの行きつけの喫茶店の「ボレロ」であったり、野球の試合だったりで、戦争とはほど遠い感じのものが多いことがある。戦況も含めて何もかも理解しているような父(三浦友和)も、楽天的な母(古手川祐子)も、兄の恋の行方に心を痛める妹(尾高杏奈)も、そして当の並木まで栄養状態は良好のようだし、なにより海老蔵の明るいキャラクターがそういう印象を持たせてしまったかも(もっと若い人でなくては)。戦時イコールすべてが暗いというわけではないだろうが、空襲シーンも1度だけだし、何事もいたってのんびりしているようしか見えないのだ。

「敵を見たことがあるか」という父親との問答は、戦争や国家の捉え方として映画が言いたかったことかもしれないが、これまた少しカッコよすぎないだろうか。これはあとで出てくる並木の「俺は回天を伝えるために死のうと思う」というセリフにも繋がると思うのだが、これがどうしても今(現代)という視点からの後解釈のように聞こえてしまうのだ。こんなことを語らせなくても、回天の悲劇性はいくらでも伝えられるのと思うのだが。

回天が不完全兵器だったことは歴史的事実だから、この映画でもそれは避けていない。1度ならず2度までも故障で出撃できなかった北の苦しみは、死ねなかったというまったく馬鹿げたものなのだが、彼の家が小作であることや当時の状況を提示されて、特攻という異常な心境に軍神という付属物が乗るのに何の不思議もないと知るに至る。

そして、並木も何のことはない、敵艦を前に「ここまで無事に連れてきてくださってありがとう。皆さんの無事を祈ります」という別れの挨拶まですませながら回天の故障で発進できずに、基地へと戻ることになる。伊藤整備士は「私の整備不良のせい」と言っていたが、事実は、そもそも部品の精度すらまともでなかったらしい。並木も、死を決意しながらの帰還という北の気持ちを味わうことになるわけだ。このあと戦艦大和の出撃(特攻)に遭遇し艦内が湧く場面があるのだが、並木は何を考えていたのだろうか。

並木は8月15日の訓練中に、回天が海底に突き刺さり、脱出不可能な構造のためあえなく死亡。9月の枕崎台風は、その回天を浮かび上がらせる。進駐軍のもとでハッチが開けられ、並木の死体と死ぬまでに書きつづった手帳が見つかる。

最初に書いた最後の場面へ行く前に、この家族や恋人に宛てた手帳が読み上げられていくのだが、そんな情緒的なことをするのなら(しかも長い)、回天の実際の戦果がいかに低くかったことを知らしむべきではなかったか。

そういう意味では回天の訓練場面を丁寧に描いていたのは評価できる。模型を使って操縦方法を叩き込まれるところや、海に出ての実地訓練の困難さをみていると、これで本当に戦えるのだろうかという疑問がわくのだが、そのことをもっと追求しなかったのは何故なのだろう。

また回天への乗り込みは、資料を読むと一旦浮上しなければならないなど、機動性に富んだものではなかったようだ。映画はこのことにも触れていない(伊藤が野球のボールを並木に渡す時は下からだったが、ということは潜水艦から直接乗り込んだとか?)。こんな中途半端なドラマにしてしまうくらいなら、こぼれ落ちた多くの事実を付け加えることを最優先してほしかった。

なお、敵輸送船を撃沈する場面で、いくら制空権と制海権を握っていたとはいえ、アメリカ軍が1隻だけで行動するようなことがあったのだろうか。次の発見では敵船団は5隻で、これならわかるのだが。

 

【メモ】

人間魚雷「回天」とは、重量 8.3 t、全長 14.75 m、直径 1 m、推進器は 93式魚雷を援用。航続距離 78 マイル/12ノット、乗員1名、弾頭 1500 kg。約400基生産された。連合国の対潜水艦技術は優れており、騒音を発し、操縦性も悪い日本の大型潜水艦が、米軍艦船を襲撃するのは、自殺行為だった。「回天」の技術的故障、三次元操縦の困難さも相まって、戦果は艦船2隻撃沈と少ない。(http://www.geocities.jp/torikai007/1945/kaiten.html)

「BOLEROボレロ」のマスターは、名前のことで文句を付けられたらラヴェルはドイツ人と答えればいいと言っていたが?

北「俺が走るのをやめたのは走る道がないからだ」

上野樹里は出番も少ないが、まあまあといったところ。並木の母のワンピースを着る場面はサービスでも、これまた戦時という雰囲気を遠ざける。

美奈子「日本は負けているの」 並木「決して勝利に次ぐ勝利ではないってことさ」 

明大の仲間だった小畑は特攻作戦には不参加の道を選ぶが、輸送船が沈没し形見のグローブが並木の家に届けられていた。

手帳には、回天を発進できず、伊藤を殴ったことを「気持ちを見透かされたようだった」と謝っている。

他には、父さんの髭は痛かったとか、美奈子にぼくの見なかった夕日の美しさなどを見てくれというようなもの。

2006年 121分 サイズ■

監督:佐々部清  原作:横山秀夫『出口のない海』 脚本:山田洋次、冨川元文 撮影: 柳島克己 美術:福澤勝広 編集:川瀬功 音楽:加羽沢美濃 主題歌:竹内まりや『返信』

出演:市川海老蔵(並木浩二)、伊勢谷友介(北勝也)、上野樹里(鳴海美奈子)、塩谷瞬(伊藤伸夫)、柏原収史(佐久間安吉)、伊崎充則(沖田寛之)、黒田勇樹(小畑聡)、香川照之(イ号潜水艦艦長・鹿島)、三浦友和(父・並木俊信)、古手川祐子(母・並木光江)、尾高杏奈(妹・並木幸代)、平山広行(剛原力)、永島敏行(馬場大尉)、田中実(戸田航海長)、高橋和也(剣崎大尉)、平泉成(佐藤校長)、嶋尾康史(「ボレロ」のマスター柴田)

太陽

銀座シネパトス1 ★★★☆

■神にさせられてしまった人間

ロシア人監督ソクーロフによる終戦前後の昭和天皇像。上映が危惧されたらしい(天皇問題のタブー視は度がすぎている。上映側の過剰反応もあったのではないか)が、シネパトスは連日盛況で、公開してほぼ1ヶ月後の9月2日の時点でも2スクリーンでの上映にもかかわらず順番待ちの列が長く伸びていた(もっとも入館してみると6、7割の入り。それでもシネパトスにしては大ヒットだろう)。

敗戦濃厚な事態を前にしての御前会議で、天皇(イッセー尾形)は明治天皇の歌(「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」を引き合いにだして平和を説くのだが、これは日米開戦を前にしての話だったはず。こういう部分をみてもこの映画が事実にこだわるよりは、別の部分に焦点を合わせていることがわかる。

実際、その場面を取り上げたことでもわかるように、外国人の手による天皇論としては思いやりのある好意的なもの(排日移民法にまでふれている)で、ハーバート・ビックスの『昭和天皇』(この本の監修者吉田裕が映画の監修者にもなっている)のような容赦のなさ(と書くとヘンか)はない。これほどよく描いてくれている作品なのに上映をためらう空気があることがそもそもおかしいのだ。が、それが今の日本なのだが。

事実関係ならビックスに限らないが、こんな映画を観るよりはいくつも出ている研究書を読めばいいに決まっている。もっともだからといって、本当のことはなかなか見えてこないだろうが。

ソクーロフが描きたかったのは、神にさせられてしまった人間は一体どうふるまっていたのか、ということではないか。だから歴史的意味が大きいと思われる事柄であってもそれは大胆に省略し、神という名の人間の日常(むろん想像なんだが)を追うことに主眼を置いているのだろう。

映画は天皇の食事(フォークとナイフを使った洋食である)の場面からはじまるのだが、このあと沖縄戦の英語のニュースを聞いた天皇が、侍従長(佐野史郎)に「日本人は、私以外の人間はみんな死んでしまうのではないか」と話しかける。肯定も否定も畏れ多いことになってしまうことをさすがに侍従長はこころえているから「お上は天照大神の天孫であり、人間であるとは存じませぬ」と話をそらしてしまう。天皇は「私の体は君と同じ」と言うが、これ以上侍従長を困らせてもいけないと思ったのか、「冗談だ」と矛をおさめる。

続いて老僕(つじしんめい)により軍服に着替える場面。年老いた彼にとっても当然天皇は畏れ多い存在で、軍服の釦の多さに手こずり、禿頭に汗が噴き出ることになる。その汗を見ながら、汗の意味を計りかねている(楽しんでいる?)天皇。

まわりの人間がこうでは、天皇が「誰も私を愛してはいない。皇后と皇太子以外は」と嘆くのも無理はない。もっともこのセリフは当時としては日本的ではないような気がするし、西洋の神と違って戦前の天皇が愛の対象だったかどうかもまた別の問題ではある。

最初にふれた御前会議の次は、生物学研究所での天皇の様子だ。ヘイケガニの標本を前にして饒舌な天皇。そして、午睡で見る東京大空襲の悪夢。が、このあとはもうマッカーサー(ロバート・ドーソン)との会見を前にした場面へと飛んでしまう。

最初の会見こそぎこちないものだったが、カメラマンたちによる天皇撮影風景(これは有名なマッカーサーと一緒の写真でなく、庭で天皇ひとりを撮影するもの)などもあって、2度目の会見では、人間として話し行動することを「許されて」、それを楽しんでいるかのような天皇が描かれる。マッカーサーとの話はさすがに息の抜けないものになっているが、マッカーサーが席を外した時にテーブルのローソクを消したり、マッカーサーに葉巻を所望し、多分1度も経験したことのない方法(お互いに口にした葉巻でキスしあうだけのものだが)で火を付けてもらう……。

神でないことを自覚していた天皇だが、自ら宣言しなければ人間になれないことはわかっていたようで、疎開先から戻った皇后(桃井かおり)に「私はやりとげたよ。これで私たちは自由だ」とうれしそうに「人間宣言」の報告をする。ここでのやりとりは、互いに「あ、そう」を連発した楽しく微笑ましいものだ。

「あ、そう」は自分の意見を挟むことが許されず、とりあえず相手を認める手段(仕方のない時も含めて)として天皇が編み出した言葉なのだと思っていたので、こんな使われ方もあるのかとちょっとうれしくなってしまったくらいだ。

しかし、このあと天皇は、自分のした質問で「私の人間宣言を録音した若者」が自決したことを知ることになる。「でも止めたんだろ」と侍従長に訊くのだが、「いえ」という返事がかえってくるだけである。天皇は返す言葉が見つからないのか、皇后の手を引いて皇太子の待つ大広間へと向かう。

大東亜戦争終結ノ詔書の玉音放送の他に、人間宣言の録音があったとは。が、そのことより(最初に書いたように、映画は必ずしも事実に忠実であろうとはしていないから)ここで大切なのは、天皇が自分の人間宣言によって起こりうる事態を予想していたということではないだろうか。

これは、自分の下した決断がまた別の悲劇を起こさざるをえない、つまりはっきり神でない(これはわかってたのでした)ことを悟らざるをえない男の、しかし普通の人間にもなれず自由を手に入れることが出来なかった男の話なのだよ、と駄目押しで言っているのではないか。人間宣言をしても普通の人間になれなかったことは日本人なら誰でも知っていることだが、外国人にとってはこのくらい言い聞かせないとわかりにくいのかもしれない(でないとこの場面はよくわからない)。

しかし私としては、事実からは少し離れた人間としての天皇を考えるにしても、彼自身の運命のことよりも、天皇の目に大東亜戦争がどのように映っていたかが知りたいのだが。この映画の東京大空襲の悪夢が、悪夢ではあっても美しい悪夢であったように、天皇には本当の東京大空襲の姿は見えていなかったのではないか。会見に行く前に空襲の跡が生々しい街の様子が出てくるが、彼がそれを見たのは、もしかしたらその時がはじめてだったのではないか。

そのことで天皇の非をあげつらうつもりはない。でもそうであるのなら、やはり彼は孤独で悲しい人だったのだ。天皇制(象徴天皇制はさらに悪い)は、何より天皇の人間性を抹殺するものだからだ。

最後は雲におおわれた東京(という感じはしないが)を上空から捉えたもので、薄日の中に廃墟の街並が見え、右下には鳩が飛んでいる画面がエンドロールとなる。太陽はまだはっきりとは見えないということだろうか。

ロシア人の脚本に沿って、日本人が日本語で演じるというシステムがどう機能したのかは、あるいは構築していったのか(セリフも特殊用語だし)という興味もあって、語るにこと欠かない映画だが、何より、イッセー尾形の奇跡のような昭和天皇は、やはり感嘆せずにはいられない。

そして、出来ることなら日本人の手でもっと多くの天皇を扱った映画ができることを。

  

【メモ】

私が観た映画は英題表示(The Sun)のもの。

シネパトスのある三原橋は、銀座にしては昭和30年代の雰囲気がまだ残っている所。地球座や名画座時代であれば、防空壕の中というイメージで鑑賞できたはずだが、3年前の改装でずいぶん明るくなってしまった。もっとも地下鉄の騒音は消せるはずもなく、しっかり効果音の一部となっていた。そして、この映画にはそれがぴったりだったようだ。

「皆々を思うが故にこの戦争を止めることができない」

「ローマ法王は何故返事をくれないのかな」「手紙は止まっておりますよ」「ま、よかろう」

「神はこの堕落した世界では、日本語だけでお話しできるのです」

マッカーサーから送られたチョコレート。

極光についての問答。光そのものが疑わしいのです。

「闇に包まれた国民の前に太陽はやってくるだろうか」

原題:The Sun(Solnise/le Soleil)

2005年 115分 ロシア/イタリア/フランス/スイス 配給:スローラーナー サイズ:■ 日本語字幕:田中武人

監督・撮影監督:アレクサンドル・ソクーロフ 脚本:ユーリー・アラボフ 衣装デザイン:リディア・クルコワ 編集:セルゲイ・イワノフ 音楽:アンドレイ・シグレ
 
出演:イッセー尾形(昭和天皇)、佐野史郎(侍従長)、桃井かおり(香淳皇后)、つじしんめい(老僕)、ロバート・ドーソン(マッカーサー将軍)、田村泰二郎(研究所所長)、ゲオルギイ・ピツケラウリ(マッカーサー将軍の副官)、守田比呂也(鈴木貫太郎総理大臣)、西沢利明(米内光政海軍大臣)、六平直政(阿南惟幾陸軍大臣)、戸沢佑介(木戸幸一内大臣)、草薙幸二郎(東郷茂徳外務大臣)、津野哲郎(梅津美治郎陸軍大将)、阿部六郎(豊田貞次郎海軍大将)、灰地順(安倍源基内務大臣)、伊藤幸純(平沼騏一郎枢密院議長)、品川徹(迫水久常書記官長)

東京フレンズ The Movie

TOHOシネマズ錦糸町-7 ★★

■1番最初に描いた夢などとっくに忘れてしまった身としては

題名にThe Movieとあるのは先行してDVD作品があるかららしいのだが、もちろんそれは未見。最初の方で、それまでのバンドの経緯などが少し駆け足気味だったり涼子(真木よう子)の場合結婚が決まっていたりするのは、映画用にダイジェストにしたのだろう。ほかの部分でも続編扱いのようなところがあった。

高知から上京してきた玲(大塚愛)が、東京でバイトをしながら自分の夢をかなえていくという話。他の女の子3人も同じ居酒屋のバイト仲間(1人はアメリカにいたから違うのかも)で、玲が音楽なら、芝居に結婚に絵と、結婚(これも雰囲気からすると玉の輿願望だったような)はともかく、じいさん視線で見るとどれもハードルが高く少々浮ついたもの。

もっともそれを言ってしまったらおしまいか。何度も繰り返される「1番最初に描いた夢をあなたは覚えてる?」というセリフがこの映画の言いたいことらしいから。そう言われてしまうと、夢を具象化することすら出来なかった身としてはぐうの音も出ないのだが。

4人の中で話のメインになっている玲だが、彼女にとっては夢が描けなかったのは田舎にいた過去のことであり、バンドが成功の道を駆け上がりつつある今、あの頃よりはずっと幸せなのだと言う。そんな玲だが、「お前の声が好き」と自分のことを認めてくれた隆司(瑛太)のことがいつまでも忘れられない。彼は自分の詩で歌いたいとバンドを去り、そのあともトラブルを起こして姿を消したままだったのだ。

隆司が消えたのは、移籍したメジャーデビュー目前だった「フラワーチャイルズ」というバンドで、メンバーが暴行事件を起こしたことによる。が、これはあとでわかることなのだが、そもそもは「サバイバルカンパニー」が玲のバンドになってしまうことを恐れていたからのようだ。

このあと真希(小林麻央)の情報で、ニューヨークに渡った玲は隆司を見つけ、彼に自分の気持ちをやっと伝える。思いっ切り予定通りの展開だよ。しかも街で見かけただけという曖昧な情報(旅行だったらどうするんや)だけで土地勘もない(真希も手伝ってはくれたが)イーストビレッジを歩き回って探し出してしまうんだからねぇ。そして東京からはライブの予定が迫っているというファクスが。どうする!

というわけで、甘ーい時間を楽しんだあと、ひと通りの悶着があって(隆司の生き方はそう簡単には決められないものね)、でも結末はとりあえずは玲1人で日本に帰るという、これはいい意味で裏切ってくれたわけだけど、言っていないことがあったからと空港で「アイ、ラブ、ユーッ!」と大声で叫けばれては、じいさんとしてはついていけないのだな。しかも「日本語で言ってよ」と返してたけど、あれは私にもわかるくらいの正真正銘の日本語ではなかったかと。

最後はライブシーン。これはさすがに様になっていて、挽回しようとしてか3曲フルで流していた。

他の子たちにも簡単にふれておくと、ひろの(松本莉緒)は先輩にふられて新しい劇団に移る。ここで詐欺事件に巻き込まれ、先輩を見返してやろうとした公演はあえなくオジャンとなってしまう。が、その過程で人に頼らず自分自身で生きていく足がかりを見つける。涼子は結婚生活の現実に直面し、真希は実はニューヨークでは絵は1枚も売れてはおらず、同居の彼、小橋亨(佐々木蔵之介)がハードゲイだったという新事実も……。

こうやってながめてみると、そうは甘い話にはなっていないのだけど、何か違和感が。たぶん夢について必要以上に言葉で語りすぎているからではないだろうか。最後のライブシーンになっても、まだ「あなたのために」とか「隆司が見つけてくれた夢だから」とか言ってたもんなー。

  

【メモ】

バイトの居酒屋は「夢の蔵」。

「結婚式も新婚旅行もなし……じゃあ何のための結婚?」(涼子)。

ニューヨーク行きは、涼子が新婚旅行(1人で行く?)のチケットを玲に譲ってくれて実現する。HISのチケット。宣伝はもう少しさらっと見せんか!

再会した隆司は記憶喪失になったとか馬鹿なことを言う。言うだけでなく、行動も。

2006年 115分 サイズ:■

監督:永山耕三 脚本:衛藤凛 撮影:猪本雅三 美術:磯見俊裕 音楽:佐藤準
 
出演:大塚愛(岩槻玲)、松本莉緒(羽山ひろの)、真木よう子(藤木涼子)、小林麻央(我孫子真希)、瑛太(新谷隆司)、平岡祐太(田中秀俊)、伊藤高史(奥田孝之)、中村俊太(永瀬充男)、佐藤隆太(里見健一)、佐々木蔵之介(小橋亨)、北村一輝(笹川敬太郎)、勝村政信(笹川和夫)、古田新太(和田岳志)

時をかける少女

テアトル新宿 ★★★☆

■リセットで大切なものがなくなって

3度目の映画化らしいが、この作品は原作を踏まえたオリジナルストーリーで『時をかける少女2』という位置づけのようだ。というのもそもそものヒロイン芳山和子が、この映画のヒロインである紺野真琴の叔母という設定だからだ。

真琴は東京の下町に住むごくごく普通の高校2年生。クラスメートの間宮千昭と津田功介とめちゃ仲がよくて、3人で野球の真似事をする毎日。って普通じゃないような。男友達が1番の親友なのは真琴のさっぱりした性格と、友達から恋に発展する過程に絶好の設定と思ったのだろうが、今時の高校生という感じが私にはしないんだけど。

ま、それはともかく、真琴は夏休み前の踏切事故で自分にタイムリープの能力があることを知る(能力を手に入れたのは学校の理科室なのだが、まだこの時にはそのことはわかっていない)。そしてその力を真琴はおもちゃで遊ぶように使ってしまう。自分の都合の悪いことが起きると、その少し前に戻ってリセットしてしまうわけだ。

真琴の安易な発想が『サマータイムマシン・ブルース』(05)的なのには笑ってしまうが、この小さなタイムリープの繰り返しは、私たちが何気なく過ごしてしまう日常に、多くの反省点が潜んでいるということを教えてくれる。反省点と言うと大げさだが、見落としていることが多いのは確かで、真面目くさってやり直しを続ける真琴に馬鹿笑いしながらも、そんなことを感じていたのだ。

であるからして、見落としたことが沢山あるにしても、くれぐれもプリンを取り戻すようなことには使わないように。そう、真琴も「いい目をみている自分」がいることで「悪い目をみている人」が出来てしまうことに気が付くのだ。

そんなタイムリープ乱用中の真琴に、千昭から告白されるという思わぬ展開がやってくる。狼狽のあまりタイムリープで告白自体をなかったことにしてしまうのだが、そこ(新たに現れた過去)では今度、千昭に同級生の早川友梨が告白し、千昭もまんざらではない様子なのだ。好きだと言われたばかりの真琴は複雑な気分だ。ボランティア部の下級生藤谷果穂からは功介に対する相談まで受けて……。

リセットで大切なものをなくしてしまったことに思い至る真琴だが、実はタイムリープも限界に近づいていて(体にチャージして使用する)、どうやら腕に出てくるサインが本当なら、あと1度しか使えないらしいのだ。

このあと千昭が未来人で、和子叔母さんが修復している絵を見にここ(現在)にやってきたことなど、いろいろな謎が解き明かされていく。千昭にも残されたタイムリープはあと1度で、でもそれは自分の帰還にではなく、功介と果穂を助けるために使われることになる。そして真琴に残された1度のタイムリープは……。

千昭との別れは必然であるようだが、でも自分勝手な私はそう潔くはなれない。「未来で待ってる」「うん、すぐに行く。走って行く」でいいのかよ、って。いいラストなんだけどね。

で、やっぱり気になってしまうのは、「魔女おばさん」(真琴がそう呼んでいる)の和子だろう。博物館で絵画の修復の仕事をしている30代後半の未婚の女性という設定だと、まだ何かを待っているということになるが(ということは真琴も?)。

それにしては、真琴から相談を受けても落ち着いたものだ。タイムリープを「年頃の女の子にはよくあること」にしてしまうし、「よかった。たいしたことには使っていないみたいだから」と野放しにしていても平然としている。真琴を信頼しているにしても、この達観はどこから来ているのだろう。落ち着いてる場合じゃないよ。だって自分のことにも使えるかもしれないし、とにかくもっといろいろ聞き出したくなるが、ほじくり出してしまっては収拾がつかなくなってしまって、やはりまずいのかも。ここは単なる原作や前作へのリスペクトとわきまえておくべきなのだろう。

タイムマシンものはどうしても謎がつきまとって、これをやりだすとキリがないが、この映画で描かれるタイムリープは、過去に戻っても自分と遭遇することはない。つまりそこにいるのは未来の記憶を持った(その分だけ余計に生きた)自分のようだ。うーむ。これは考え出すと困ったことになるのだが、ということは真琴も千昭も互いにタイムリープしていると、どんどん違う世界を作り出していって、結局は自分の概念の中にしか住めない狭量な世界観の持ち主ってことになってしまうんでは。ま、いっか。

   

【メモ】

学校の黒板にあった文字。Time waits from no one.

津田功介は幼なじみで、医学部志望の秀才。千昭は春からの転校生。

「真琴、俺と付き合えば。俺、そんなに顔も悪くないだろ」(千昭)。

「世界が終わろうとした時に、どうしてこんな絵が描けたのかしらね」(修復した絵を前にして和子が言う)。

絵は千昭によると、この時代だけにあるという。絵が失われてしまうような希望のない未来。

「お前、タイムリープしていない?」千昭は、真琴のタイムリープに気付く。何故? これは不可能なのでは。千昭の説明だとタイムリープの存在を明かしてはいけないことになっているが?

腕に表れるサイン。90。50。01。

「人が大事なことをはなしているのに、なかったことにしちゃったの」と千昭の告白をリセットしてしまったことを後悔する真琴。

「(絵が)千昭の時代に残っているように、なんとかしてみる」(真琴)。

2006年 100分 配給:角川ヘラルド映画 製作会社:角川書店、マッドハウス

監督:細田守 脚本:奥寺佐渡子 原作:筒井康隆『時をかける少女』 美術監督:山本二三 音楽:吉田潔 キャラクターデザイン:貞本義行 制作:マッドハウス

声の出演:仲里依紗(紺野真琴)、 石田卓也(間宮千昭)、板倉光隆(津田功介)、 原沙知絵(芳山和子)、谷村美月(藤谷果穂)、 垣内彩未(早川友梨)、 関戸優希(紺野美雪)

ディセント

シネセゾン渋谷 ★★★

■出てこなくても怖かったのに

渓流下りを仲間の女性たちと楽しんだサラ(シャウナ・マクドナルド)だが、帰路の交通事故で、夫と娘を1度になくしてしまう(これがかなりショッキングな映像なのだ)。

1年後、立ち直ったことを証明する意味も込めて(仲間からは励ましの気持ちで)、サラはジュノ(ナタリー・メンドーサ)が計画した洞窟探検に参加する。メンバーは、冒険仲間のレベッカ(サスキア・マルダー)とサム(マイアンナ・バリング)の姉妹にベス(アレックス・リード)、そしてジュノが連れてきたホリー(ノラ=ジェーン・ヌーン)。アパラチア山脈の奥深くに大きく口を開けて、その洞窟は6人の女たちを待っていた。

まず、素人には単純にケイビング映画として楽しめる。彼女たちの手慣れた動作が安心感を与えてくれるのだろう、いっときホラー映画であることを忘れ、洞窟の持つ神秘的な美しさに感嘆の声を上げていた。広告のコピーのようにとても地下3000メートルまでもぐったとは思えないのだが、それでも洞窟場面はどれもが、恐怖仕立てになってからも、臨場感のある素晴らしいものだ。

人ひとりがやっとくぐり抜けられる場所が長く続き、精神状態の安定していないサラが身動きできなくなり錯乱状態に。ベスの助けで窮地を脱するが、その時落盤が起き、帰り道を完全にふさがれてしまう。このことで、ここは未踏の洞窟であり、このケイビングが功名心と冒険心の固まりのジュノによって仕組まれたものだったことが判明する。役所への申請もしていないから、救助隊も望めないというわけだ。

奈落の底を真下に、装備が不十分(崩落で一部を失ってしまう)なままで天井を伝わって向こう側へ渡ったり、1番元気なホリーの骨折など、ますます出口からは遠ざかるような状況の中、映画はとんでもない展開をみせる。

本当に息が詰まりそうな閉塞感の中で女同士の確執が爆発、とはせず(むろんそういう要素もふんだんにある)、凶暴な肉食地底人を登場させたのことには文句は言うまい。いや、私的にはそういうのが好きだから、結構歓迎なのだ。が、地底人が出てこなくても今まで十分恐ろしかったことが、よけい不満をそれに持っていきたくなってしまうのだ。

地底人は人間が退化して目が見えなくなっているという設定のようだから、おのずと造型も決まってこよう。で、それはまあまあだ。が、その分嗅覚や聴覚が発達していなければ地底の中で素早く動き回ることもできないし、地上から獲物を捕ってくることもできないわけで(生息数からいって相当量の食物が必要になる)、となると息をひそめて横たわっている上を地底人が気付かずに通って行く場面などでは、怖さの演出が裏目になってしまっている。ここは確信的に獲物に気付き、確実に仕留める場面を用意してほしかった。その方が恐怖感は倍増したはずである。

そして、彼らは意外にも弱かった! 女性たちが冒険マニアで少しは鍛えているにしても、地の利もある地底人と互角以上に戦えてしまっては興醒めだ。ジュノが誤って仲間に重症を負わせてしまい、見捨ててしまうという場面も入れなくてはならないから、そう簡単に殺されてしまっては人数が足らなくなってしまうのかもしれないが、もう少し地底人についての考察を製作者は深めるべきではなかったか。

そうすることで、伏線として置いた壁画(これは地底人の目が退化する前に描いたものなのだろうか)や人間の残した矢印(残っていたハーケンは100年前のものという説明もあった)をもっと活かすことができたはずなのだ。

ともあれサラは、地底人だけでなくジュノとの確執にもケリを付け、ひとりだけになりながらも何とか地上にたどり着く。彼女のその凄惨な形相。無我夢中で車に乗り、がむしゃらに飛ばし、舗装道路に出る。木を積んだトラックが横切っていったあと、サラは嘔吐し、このあと何故か娘の5歳の誕生日の光景を見る。そして……。

絶望感だけが残るラストシーンだが、しかしここは、結局はジュノとふたりで出てくることになったという話にした方が、凄味があったのではないか。

【メモ】

行くはずだったのはボアム洞窟。前日には「手すりが付いているかもしれない」と笑って話していた。しかし計画はジュノに任せっきりだとしても、好きでこういうことをしているのだから他にひとりくらいは場所の確認や地図にあたっている人間がいそうなものなのだが。

洞窟は未踏にしては、入口がかなり大きなもので、現代のアメリカでは無理な設定なのでは。

ジュノに功名心があったにせよ、そして仲間は騙したにしても役所への申請はしておいてもおかしくないだろうし、未踏であるなら最初のあの狭い通路を行く決断をしたのは、リーダーとしてはやはり疑問。

医学生のサムは、ホリーの飛び出した骨を戻して治療。

ジュノはサラに「昔の友情を取り戻したくて……この洞窟にはあなたの名前を付けようと思って……」と言い訳をする。

原題:The Descent

2005年 99分 イギリス シネマスコープ R-15 日本語字幕:松浦美奈

監督・脚本:ニール・マーシャル 撮影:サム・マッカーディ 編集:ジョン・ハリス 音楽:デヴィッド・ジュリアン

出演:シャウナ・マクドナルド(サラ)、ナタリー・メンドーサ(ジュノ)、アレックス・リード(ベス)、サスキア・マルダー(レベッカ)、マイアンナ・バリング(サム)、ノラ=ジェーン・ヌーン(ホリー)、オリヴァー・ミルバーン(サラの夫ポール)、モリー・カイル(サラの娘ジェシー)、レスリー・シンプソン、クレイグ・コンウェイ

トリック 劇場版2

2006/8/6 銀座テアトルシネマ ★★★

■自虐陶酔片平なぎさショー

仲間由紀恵と阿部寛主演の人気テレビドラマを映画化(しかも2作目)したものなので、テレビも観なければ1作目の映画も知らない私には取っ付きにくいかと心配したが、そこらへんのサービスは心得ていて、まったく問題なく観ることができた(見落としもあるだろうし、劇中に散りばめられた山ほどの小ネタも相当見逃していると思われるが)。

というか、その程度の作品。いかにもテレビ的というか、どこから参加しても一応は楽しめてしまうという造りになっている。そして、くだらない話になるが、タダのテレビだったらともかく、1800円の正規料金で観たら腹が立ってしまうということも。

いや、しかし私はこういうハチャメチャな作品は好きだなー、ふざけすぎと思う人も多いだろうけどね、って、え、はい、私? うん、タダ観。はは。

自称「売れっ子」奇術師の山田奈緒子(仲間由紀恵)だが、花やしきでの興行もクビになって家賃滞納をどうするかが目下の悩み。そこに物理学者の上田次郎(阿部寛)が、おいしい話(とも思えないのだが)を持ってくる。肩書きこそすごいが、上田が山田に頼り切りなのは、どうやらお約束のようだ。

勘違いで、上田に事件解決を依頼してきたのは富毛村の青沼(平岡祐太)という青年で、10年前に神隠しにあった幼なじみの美沙子(堀北真希)を筐神佐和子(片平なぎさ)から取り戻してほしいというもの。で、「よろしくね」教団じゃなかった「ゆーとぴあ」教団のある筺神島に乗り込んで行く。

筋はあってなきがごとし、というかどうでもいい感じ。連れ去られたというが、美佐子は筐神佐和子の実子だし(それより何故捨てたんだ?)、確かに筺神島の島民を騙す形でそこに居座ってしまったのだが、特別この教団が悪いことをしている様子もない。

奥行きのない部屋に閉じ込めて生活させていたというよくわからない話も出てくるが、佐和子は美佐子に自分の跡を継がせたくて、霊能力の素質がないものかと悩んでいたわけだし(ということは全部がインチキというのでもないのかや)、美佐子の方も昔のことを思い出し母親を受け入れる気になったというのに、佐和子は「私は汚れた人間です」と、最後は自虐陶酔路線を突っ走る。片平なぎさショーだな、こりゃ。

一応トリックとその種明かしも見せ場になっているようだが、すべて予想の範囲内のもの(それにこれは明かされた時点で陳腐化してしまうしね)。だから苦しいのはわかるのだけどね。山田の立場もなくなるわけで。それに、別のシリーズになってしまうか。

でも私としては、そんなことより、自著がブックオフに出回っていることを喜ぶ上田や、北平山市を北ヒマラヤ市と思い込んでいた山田里見(野際陽子)というお馬鹿映画であってくれることの方が喜ばしい。ただし、貧乳と巨根(両方とも変換しない。ATOKは品性があるのね)はやめた方がいいような(『トリック』は下ネタもウリらしいが)。

最後は河川敷で、ふたりの不器用なロマンス(以前?)が繰り広げられるが、あれ、山田と上田の乗っていない車が動いている!? と思ったらその横に大きく「完」の字が……。

  

【メモ】

巻頭ではヒトラーを悩ましたというイギリスの手品師ジャスパー・マスケリンを簡潔に紹介。でもそれだけ、なんだが。

筐神島は九十九里浜のかなり沖合にある(ってここは何もないところだが)。「リゾート開発に失敗し捨てられたホテルを我々(教団)が接収」したという。

山の頂上にある巨大な岩(張りぼてっぽく見える)は佐和子ひとりが1晩で海岸から持ち上げたもの。これで島民の支持を得る。トリックはこんなものにしても、その時使った袋はすぐ回収するでしょ、普通。

美佐子の「素敵な殿方」は上田なの。このシーンの他、頭が大きくなったり、腕が伸びたりするCGも。

美佐子が捨てられてから長野の富毛村(不毛村)で起きるようになった災いというは?

長野県での平成の大合併による選挙。これに山田里見が出馬。落選。対抗馬は島田洋七や志茂田景樹らだったが、誰が当選したのだったか?

2006年 111分

監督:堤幸彦 脚本:蒔田光治 撮影:斑目重友 美術:稲垣尚夫 編集:伊藤伸行 音楽:辻陽

出演:仲間由紀恵 (山田奈緒子)、阿部寛 (上田次郎)、片平なぎさ (筐神佐和子)、堀北真希 (西田美沙子)、野際陽子 (山田里見)、平岡祐太 (青沼和彦)、綿引勝彦 (赤松丑寅)、上田耕一 (佐伯周平)、生瀬勝久 (矢部謙三)

DEATH NOTE デスノート 前編

新宿ミラノ3 ★★★★☆

■デスノートというアイディアの勝利

原作の力なのだろうが、とてつもない面白さだ。マンガ10巻で1400万部というのもうなずける。

「このノートに名前を書かれた人間は死ぬ」という「DEATH NOTE」を手に入れた夜神月(やがみらいと=藤原竜也)。法律を学び警察官僚を目指す正義感の強い彼が、神の力(この場合は死神だが)を手に入れたことで、どんどん傲慢になっていく。

デスノートを手に入れる前の彼がどんな人物なのかはいまひとつわからないのだが、司法試験一発合格という頭脳を持っているのであれば、ラスコリーニコフになっても不思議はない。しかもはじめのうちは服役中の凶悪犯や法の網からくぐり抜けたと思われる人物を始末していくわけだから、法による正義の限界を感じていた彼にとっては大義名分とカタルシスの両方が得られていたというわけだ。

もっともいくら処刑されるのが凶悪犯とはいえ、警察としてはキラ(いつしか巷ではそう呼ばれるようになっていて、信者までが現れる人気者となっていた)の行動を見逃すわけにはいかない。犯罪の大量死が世界中をターゲットにしていることから各国の警察やFBIも動きだし、インターポールは天才的頭脳を持つ探偵L(松山ケンイチ)を警視庁に送り込んでくる。

犯人が日本にいることが特定される理由も、もちろんLによって示されるのだが、Lが日本人(だよな。松山ケンイチは適役)ということもあって、急に世界が狭くなってしまう。些細なことなのだが、あまりに話が面白いので、日本に限定してしまうことが惜しく感じられたのだ。

Lの登場によって、キラ(月)との駆け引きは、天才対天才という側面を持ち、壮絶な頭脳戦となっていく。この設定は面白いに決まっているが、内容がともなわないといけないわけで、だからそういう意味でもすごいのだ(アラはあるけどね。でも着想とたたみかけるようなテンポで、観ているときはゾクゾクものなのだ)。

しかしこのことで、キラは自分を守るためにデスノートを使うようになってしまう。FBI捜査官レイ(細川茂樹)に、彼の婚約者でやはり元FBI捜査官の南空ナオミ(瀬戸朝香)と次々と手を下していくことになる。

ここまでくると本当にキラ(月)が犯罪のない理想社会を作り出そうとしているのかどうかはわからなくなっている。すでに彼にとってはLに勝つことが(自分の身を守ること以上かもしれない)最大の目的になっているように見えるからだ。

前編でのハイライトは、キラ(月)が幼なじみ秋野詩織(香椎由宇)までも手にかけてしまうことだ。流れとしては必然ながら、ここでも彼は冷酷なままなのだ。果たしていいことなのかどうか。彼の心理描写に時間を割いてもいいと思う反面、極力説明を排除した方がこの場合には合っていそうに思えるのだ。

ついでに言うと、芝居はCGの死神も含めて全員が大げさで、映画自体の雰囲気をテレビドラマ並のチャチなものにしている。でもそれがかえっていい。なにしろデスノートの存在が架空なのだから、リアリティはこの際不要。でないと警察があそこまでハッキングされっぱなしということなどもおかしいわけで、そういう部分の枝葉の説明に終始しだしたら、とたんにつまらなくなってしまうだろうから。

ということは、デスノートの存在につきるのかもね。そこには詳細なルールのようなことまで書かれていて、死因だけでなく死に至る行動までを決めることができるのだ。これをどのように操るかというのも見所で、Lとの攻防はまさにゲームのような面白さをみせる。キラ(月)はページの一部だけをちぎって使ったりもするのだ。

デスノートに触れた者だけにしか見えないという死神は、フルCGでいかにもという姿形なのだが、この存在感もなかなかだった。死神が何故デスノートを自分で使わないのか(使えないのか?)は不思議なのだが、彼の行動をみていると納得がいく。彼はあくまで傍観者を装い、デスノートを手にした者の意志に任せているのだ。が、夜神月に拾わせるようにし向けたのも間違いなさそうだ。死神の勘で、月が自分の意に叶った人物であることを見抜いていたのだろう。

となると次は弥海砂(あまねみさ=戸田恵梨香)をどう扱うかだが、前編ではほとんど明らかにならず(前編だけだと彼女は話をわかりにくくしているだけだ)、キラ(月)の運命と共に後編を待つしかない。それにしても10月までお預けとはねー。

  

【メモ】

南空ナオミが月を追いつめる。月の手が動きペンに伸びるが、南空ナオミは偽名を名乗っていた。

ポテトチップスの袋のトリック。隠しカメラの段階ではLが敗北するが、あとのシーンでは月の前に、Lは袋を持って登場する。

詩織の死。「キス、人前でしちゃった」

2006年 126分 ビスタサイズ

監督:金子修介、脚本:大石哲也、原作:大場つぐみ『DEATH NOTE』小畑健(作画)、撮影:高瀬比呂志、及川一、編集:矢船陽介、音楽:川井憲次

出演:藤原竜也(夜神月)、松山ケンイチ(L/竜崎)、瀬戸朝香(南空ナオミ)、香椎由宇(秋野詩織)、鹿賀丈史(夜神総一郎)、細川茂樹(FBI捜査官レイ)、藤村俊二(ワタリ)、戸田恵梨香(弥海砂)、青山草太(松田刑事)、中村育二(宇生田刑事)、奥田達士(相沢啓二)、清水伸(模木刑事)、小松みゆき(佐波刑事)、中原丈雄(松原)、顔田顔彦(渋井丸拓男)、皆川猿時(忍田奇一郎)、満島ひかり(夜神粧裕)、五大路子(夜神幸子)、津川雅彦(佐伯警察庁長官)、中村獅堂(死神リューク:声のみ)