ゲド戦記

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★

■不死は生を失うこと

ル=グウィンの『ゲド戦記』映画化。宮崎駿監督の息子、宮崎吾朗が監督になるという時点で、すでに喧々囂々状態になったらしいが、熱心なアニメファンではないので詳しいことは知らない。今だにジブリらしさがどうのこうのという話で持ち切りになっているようだが、原作も未読の私としては単純に映画として判断する以外ない。

で、映画としてはやっぱりダメかも。

かつて龍は風と火を選び自由を求め、人間は大地と海を選んだという。その人間の世界には現れないはずの龍の食い合う姿が目撃される。世界の均衡が弱まって、家畜や乳児の死亡が増え、干ばつが起こり、民が苦しんでいるのを心配する国王。そんな大事な時に17歳の王子アレンは父を殺し、逃げるように旅に出る。行くあてのないアレンは、異変の原因を探すハイタカ(大賢人ゲド)と出会い、農民が土地を捨てた風景の中を共に旅をすることになる。

やがてホートタウンというにぎやかな港街に着くが、ここでは人間も奴隷という商品であり、麻薬がはびこっていた。ハエタカはこの街のはずれにあるテナーという昔なじみの家にアレンと身を寄せるのだが、そこには親に捨てられた少女テルーが同居していた。アレンは彼女に「命を大切にしないヤツは大嫌いだ」と言われてしまう。

この街でハイタカは、世界の均衡が崩れつつある原因がクモという魔法使いの仕業であることを突き止める。クモは永遠の命を手に入れることとハイタカへの復讐心に燃えていて、心に闇を背負ったアレンの力を借りてそれを成し遂げようとしていた。

あらすじならこうやってなんとか追えるのだが、とにかくわからないことが多すぎる。龍? 龍と人間との関係? アレンの父殺しの理由? アレンの影? 魔法で鍛えられた剣? その剣が抜けるようになったのは? 真の名がもつ意味? ハイタカとクモの関係? 生死を分かつ扉? テルーが龍に? だから死なない?

ハイタカの過去やテナーとの関係など、深くは触れないでも推測でとりあえずは十分なものももちろんある。が、とはいえこれだけの疑問がそのままというのではあんまりだ。ましてやファンタジー特有の魔法がときおり顔をのぞかせて、ご都合主義を演出するのだからたまらない。それにこの欠点は、脚本の段階で明らかだったはずなのだ。

しかし、これが不思議なのだが、命の大切さを繰り返すテーマは意外にもくっきりと心に響く。クモが求める永遠の命に、不死は生を失うことだと明確に答えているからということもあるが、ハイタカ、アレン、テナー、テルーの4人が作る疑似家族による共同作業がしっかりと描かれていることも関係しているように思うのだ。生きて死んでいくための基本的なものが、単純な営みの中に沢山あることをあらためて教えてくれるこの描写は、最後の別れの前でも繰り返される。

テルーの歌にアレンが聴き入る場面も心に残る。この歌のあとアレンの気持ちの張りが弛んでテルーに「どうして父を殺してここまで来たのか……ときどき自分が抑えられなくなるほど凶暴に……」と自分の過去を語るのだが、ここは実際そんな気分になる。もっともアレンはそのあと自分の影に怯えて去ってしまうのだが。

それと、テーマが響いてくるのは、やはり原作の力なのだろうか。「疫病は世界の均衡を保とうとするものだが、今起こっていることは、均衡を破ろうとしているもの」「人間は人間ですら支配する力がある」「世界の均衡などとっくに壊れているではないか。永遠の命を手に入れてやる」といった言葉には魅力を感じる。これが原作のものかどうかはわからないのだが。ただ前にも書いたように、筋はわかっても全体像が見えにくいため、これらの言葉が遊離して聞こえてしまう恨みがある。

ところで、どうでもいいことだが親殺しという設定は、宮崎駿と宮崎吾朗との関係を連想させる。偉大で尊敬すべき父に、どうしてもそれと対比してしまう自分の卑小さ。というのは野次馬的推測だが、映画には親殺しをしてまでもという気概などまるでなく、絵柄も含めて(ファンから見たら違うのかも知れないが)すべてが宮崎駿作品を踏襲しているようにみえる。

だからいけないとは言わないけどさ、でもアレンの親殺しはあまりに重くて、彼の更生物語というわりきりは、私には受け入れがたいものがある。命の大切さを本当にアレンが知ったのなら、最後に「僕はつぐないのために国へ帰るよ」とテルーに言ったりできるだろうか、と思ってしまうのだ。親殺しをしておいて、それじゃああまりに健全でちょっと立派すぎでしょう。「あなたはつぐないをするために国へ帰らなければ。私も一緒に行くから」とテルーにうながされるのならね。って、まあ、これは別の意味で甘いんだけどさ。

  
2006年 115分 サイズ:■

監督:宮崎吾朗 プロデューサー:鈴木敏夫 原作:アーシュラ・K・ル=グウィン『ゲド戦記』シリーズ 原案:宮崎駿『シュナの旅』 脚本:宮崎吾朗、丹羽圭子 美術監督:武重洋二 音楽:寺嶋民哉 主題歌・挿入歌:手嶌葵 デジタル作画監督:片塰満則 映像演出:奥井敦 効果:笠松広司 作画演出:山下明彦 作画監督:稲村武志 制作:スタジオジブリ

声の出演:岡田准一(アレン)、手嶌葵(テルー)、菅原文太(ゲド)、風吹ジュン(テナー)、田中裕子(クモ)、香川照之(ウサギ)、小林薫(国王)、夏川結衣(王妃)、内藤剛志(ハジア売り)、倍賞美津子(女主人)

グエムル -漢江(ハンガン)の怪物-

ヒューマックスシネマ4 ★★★★

■こいつは人間をぱくぱく食いやがる

謎の巨大生物に娘をさらわれた一家が、あてにならない政府に見切りをつけ怪物に立ち向かうという話。細部はボロボロながら映画的魅力に溢れた傑作。

ソウルを流れる漢江の河川敷で売店を営む父パク・ヒボン(ピョン・ヒボン)と長男のカンドゥ(ソン・ガンホ)は、長女ナムジュ(ペ・ドゥナ)のアーチェリーの試合をカンドゥの中学生の娘ヒョンソ(コ・アソン)と一緒にテレビで見ながら店番をしていた。川原では人々がのんびりくつろいでいたが、すぐそばのジャムシル大橋の下に、見たこともない奇妙で大きな生き物がぶら下がっていて、人だかりが出来はじめていた。

と、突然、それがくるりと回転して水に入ったかと思うと、すぐ岸に上がってきて猛然と見物客に襲いかかり、ぱくぱく(まさにこんな感じ)と食べ出したのだ。混乱する人々と一緒になって逃げまどう中、カンドゥは握っていたヒョンソの手を放してしまう。必死でヒョンソを探すカンドゥだが、怪物はヒョンソを尻尾で捉え、対岸(中州?)に連れて行き飲み込み、川の中へと姿を消す。

2000年に米軍基地がホルマリンを漢江に流したことや、それからだいぶたって釣り人が川の中でヘンな生き物を見たという予告映像はあったのだが、カンドゥが客のスルメの足を1本くすねてしまうというような、岸辺ののんびりした場面が続いていたので、こちらも弛緩していたようだ。だから、この、まだ形も大きさもその獰猛さもわからぬ(もちろんそういう情報は人間が次々に餌食になることで、どんどんわかってくる。出し惜しみなどせず、真っ昼間に少なくとも外観だけは一気に見せてしまうという新趣向だ)怪物の大暴れシーンには、すっかり度肝を抜かれてしまったのだった。

怪物の造型(ナマズに強力な前足が付いたような外形。もしかしてあれは後ろ足か)も見事なら、それを捉えたカメラの距離感が絶妙だ。怪獣の驚異的なスピードばかりを強調するのでなく、足をすべらせるところを挿入するのも忘れない。このリアルさがすごい迫力になっているのだ。巨大怪獣を遠くに置いて、逃げる人々を十把一絡げに映すという旧来の日本型怪獣映画ではなく、怪物に今にも食われてしまいそうな位置にいることの臨場感。細かく書くとキリがないので少しでとどめておくが、あっけにとられて逃げることを一瞬忘れている人を配したりと、逃げる人間の描写も手がこんでいる。

ただ展開はいささか強引だ。韓国政府は、怪物には感染者を死に至らしめるウィルスがいる(宿主)として、パク一家や川岸にいた人たちに隔離政策をとる。治療をうけるカンドゥの携帯に、死んだはずのヒョンソから助けを求める電話が入る。怪物はいっぺんに食べていたのではなく、人間がコンクリで造った巨大な溝のような場所を巣にしていて、そこに戻っては口から捕獲した獲物を吐き出して保管していたのだ(あとで大量の骨だけを吐き出す場面もある)。一命をとりとめたヒョンソは、死体となった人の携帯を使って連絡してきたのだが、携帯の状態が悪く状況がはっきりしないまま切れてしまう。

ヒョンソが生きているという話に誰も耳を貸そうとしないため、ナムジュと次男のナミル(パク・ヘイル)が戻ったパク一家のヒョンソ奪還作戦が開始されるのだが、政府や医師たちのたよりなさったらない。米軍の言いなりなのは似たような事情がある日本人としては複雑な心境だが、そのことより政府に怪獣をまったくやっつける気がないのだからどうかしている。

途中でウィルスはなかったというふざけたオチがつくのに、米軍とWHOがヘンな機械を投入してワクチンガスをばらまくというのもわけがわからない。それにこれも怪物でなく、ウィルスを壊滅させるのが目的って、おかしくないか!

怪物がいるというのに付近ではワクチンガスに反対する反米デモは起こるし、すべてがハチャメチャといった感じである。VFXは自前にこだわらずにハリウッドに委託したというが、それでいてこの反米ぶり(米軍人ドナルド下士官がカンドゥと一緒に怪物に立ち向かうという活躍はあったが)は、設定はいい加減でも態度ははっきりしている。

パク一家は全財産をはたいてヤクザか地下組織のようなところから武器を調達。カンドゥは捕まって一旦は連れ戻されてしまうのだが、細切れに寝る体質のため麻酔は効かないし、手術(脳からウィルスを検出しようとしただけ?)をされても一向に平気というこれまた馬鹿げた設定で、またしてもそこから逃げ出すことに成功する。

ヒョンソは溝にある狭い排水口に身を隠していたが、怪物の吐き出した新しい獲物の中に生きた少年を発見し、彼を助ける決意をする。この時のヒョンソの決意の眼差しがよく、画面を引き締めるが、怪物にはすべてがお見通しだったという憎らしい場面があって、それは成就できずに終わる。弾薬が尽きていたことで迎えるヒボンの死もそうだが、ポン・ジュノはきっとへそ曲がりで、予定調和路線にはことごとく反旗を翻したいのだろう。

クライマックスではナムジュの弓にナミルの火炎瓶も加わっての死闘になる。怪物が何故かワクチンガスにひるむ場面もあるが、最後まで軍隊は姿を見せないし、一貫して反政府に反米。ホームレスやデモ隊は協力者で、そもそもパク一家は下層民という位置付けだから、怪物映画という部分を捨てたら(そりゃないか)昔なら革命高揚映画といった趣さえある。

ともかく怪物は葬り去った。ヒボンの死だけでなく、目的だったヒョンソも救えなかったにしても。これも普通の物語の常識を破っている。けど、カンドゥは少年を得るではないか。映画は、ダメ家族の愛と結束を描きながら、血縁を超えた新しい愛の形を当たり前のように受け入れているのである。カタルシスからは遠いものになったが、ポン・ジュノはこの素晴らしいメッセージを選んだのだ。

最後に、カンドゥと少年が食事をしている売店が、夜の雪の中に映し出される。2人の打ち解けた会話のあとのそれは、街灯と売店の明かりで、暖かみのある絵になった。雪が静かに降ったまま終わりになるかにみえたが、最後の最後に聞こえたのは、まさか怪物の咆哮ではあるまいね。

形に囚われず、勢いのままに描いたようなこの映画にはびっくりさせられたが、こうやって書き出してみると、あきれるような筋立てばかりで笑ってしまうほかない。いや、でもホントに面白くて興奮した。そして最後が気になる……。

【メモ】

2000年2月9日。ヨンサン米軍基地の遺体安置質。ホルマリンを漢江に流すように命ずる軍医?(「漢江はとても広い。心を広く持とう」)。2002年6月。釣り人がヘンな生き物をカップですくう(「突然変異かな」)が、逃げられてしまう。2002年10月。「お前ら見たか。大きくて、黒いものが水の中に……」。(映画ではこんな説明だ)

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2000/07/14/20000714000012.html
事件については日にちまでしっかり同じ。はっきりとした抗議映画だということがわかる。それにしても不法投棄した本人が、韓国で有罪判決を受けながら米国に帰国してしまったとはねー。

ヒョンソだけが何故食われずにいたのかという疑問もあるが、ヒョンソが逃げようとしていることを察知した怪物が、ヒョンソを優しく捕まえてそっと下ろすという場面が、それを説明しているようにも思える。この怪物にキングコングのような心があるとは到底思えないのだが……。

最後の食事の場面で、壁にはパク一家が指名手配された時の写真が額に入って飾られている。カンドゥは金髪はやめたようだ。

原題:・エ・シ(怪物) 英題:The Host

2006年 120分 ビスタサイズ 韓国 日本語字幕:根本理恵

監督:ポン・ジュノ 原案:ポン・ジュノ 脚本:ポン・ジュノ、ハ・ジョンウォン、パク・チョルヒョン 撮影:キム・ヒョング 視覚効果:オーファネージ 美術:リュ・ソンヒ 編集: キム・サンミン 音楽: イ・ビョンウ VFXスーパーバイザー:ケヴィン・ラファティ

出演:ソン・ガンホ(パク・カンドゥ)、ピョン・ヒボン(パク・ヒボン)、パク・ヘイル(パク・ナミル)、ペ・ドゥナ(パク・ナムジュ)、コ・アソン(パク・ヒョンソ)、イ・ジェウン(セジン)、イ・ドンホ(セジュ)、ヨン・ジェムン(ホームレスの男)、キム・レハ(黄色い服の男)、パク・ノシク(影/私立探偵)、イム・ピルソン(ナミルの同級生)

狩人と猟犬、最後の旅

銀座テアトルシネマ ★★

■自然を調節しているという思い上がり

監督のニコラス・ヴァニエ自身が冒険家で、ノーマン・ウィンターにカナダで会って彼の生き方に共感して生まれた作品という。主演も本人自身(いくら生活場面が主とはいえよく演技できるものだ)で、だからノンフィクションと言ってもおかしくないほどリアルな作品となっている。

自然を知り尽くした生活者と冒険家の2人が組んだだけあって、画面に映し出される自然の美しさと過酷さには息を呑む。俯瞰の中で、ノーマンが操る犬ぞりはあくまで小さくて自然の中の一部という感じで捉えられている。が、本当に彼らは自分たちを自然の一部と認識しているのだろうか。

これは熊と対峙したノーマンと犬や、彼らが狼に囲まれる場面が演出したものだから言っているのではなく(狼の方はわからないが、カメラワークからしてもそういう気がする)、映画で語られていたノーマンの自然観に疑義を呈したくなったからなのだ。

彼が「自然を崇拝はしない」と言うのは何となくわかるような気がするのだ。すべての恵みは自然がもたらしてくれるとはいえ、その豹変ぶりは十分身に沁みてのことだろうから。が、「俺たちが(狩をすることで)自然を調節している」という発言は、やはり傲慢に思える。彼の生活が、食べるだけ獲物を捕るのではなく、生活必需品を得るために毛皮を売るという、もはや資本主義経済の一部に組み込まれたものだからだ。

当然、この件について私には口を挟む権利はない。それはわかっているのだが、聞き流してしまうことにも抵抗があるのだ。ノーマンの置かれている状況は、例えば「白人が毛皮を先住民に売る」というセリフにあったように、すでにいびつなものになっている(なにしろ「最後の狩人」なのだ)し、先輩格のアレックスでさえ、もう犬ぞりを操れないからとスノーモービルを手放せないわけで、それを踏まえればすべてが50歩100歩ということになってしまう。

が、やはり私には聞き逃せないセリフだったのだ。そして、もしまだそれを言うのであれば、もう少し詳しくそのことについて触れるべきであったと思う。具体的に自然をどう調節しているのか、調節したことになるのか、ということを。

いきなり批判になってしまったので、映画のフィクション部分に話を戻す。

ノーマンは、実生活がそうであるように、狩人としてユーコンに生きてきた男だ。しかし最近、山の急速な開発で獲物は激減し、山での生活に危機感を覚えていた。買い出しでドーソンの町に出たときに、頼りにしていたリーダー犬のナヌークが車にはねられ死んでしまう。ノーマンの落胆は大きく、雑貨屋の主人が同じハスキー犬(生後10ヶ月の雌)をくれるのだが、レース犬の血を引くせいかなかなか仲間になじもうとしない。

彼の妻である原住民のネブラスカは、そんなアパッシュ(彼女が名付け親)を根気よく育てようとするのだが、ノーマンはアパッシュにダメ犬の烙印を押し、肉をやらない場面まである。これはひどい。ここでの流れからは、ただ忘れたということにはならない(つまり意地悪になってしまう)から、ノーマンだって演じたくなかったのではないかと思うのだが。

しかし、事件が起きてアパッシュの評価は急に上がることになる。ノーマンの読み違いもあって犬ぞりが氷の湖に落ち、彼を残して犬たちは去っていくのだが、アパッシュだけは彼を気にして何度も振り返り、彼の声に他の犬を引っ張るように戻ってきてくれたのだった。この場面もかなりリアルで、かじかんだ指が元に戻らず、しばらく彼が悪戦苦闘する模様が描かれる。

冬に備えノーマンとネブラスカが木を切り出し、家を造るシーンは垂涎もので、移動の理由は猟場にふさわしい場所がなくなってのことなのだが、私のような人間は、眺望のいい場所を見つけさえすればあとは自由に家が建てられるのかと、どうしても都合のいいところだけを観てしまう。愛する人とのこの共同作業は、都会人には夢のまた夢だが、ノーマンはいままでにいくつ家を建てたのだろう。

ノーマンは狩人をやめることに踏ん切りが付けられず、アレックスを訪ねるが結論が出せない。そしてアレックスはアレックスで、自分は引退し、罠道をノーマンに譲ることを考えていたのだった。

ラストでネブラスカに「どうして今年だけなのに、あんなに立派な小屋を建てたの」と訊かれるノーマン。彼女だってわかって手伝っていたのにね。

この映画を観るかぎりでは、妻の方がノーマンよりもずっと孤独な生活(表面的なことだが)を強いられている。ノーマンはたまには町に出て憂さをはらすこともあるようだが(飲み友達もいる)、妻はノーマンが狩に出ている時もひたすら待ち続けているのだから。

環境問題に関係して1番気になったのは森林破壊についてで、映画では再三そのことに言及しているのに、映像がないのは何故だろう。そのシーンがあれば、言葉より圧倒的な説得力を持つはずなのに。残念でならない。

【メモ】

ナヌークが車に轢かれてしまうのは、自動車慣れしていなかったからか。

ネブラスカはナノニ族インディアン。

原題:Le Dernier Trappeur/The Last Trapper

2004年 101分 フランス、カナダ、ドイツ、スイス、イタリア シネマスコープ 日本語字幕:林完治

監督:ニコラス・ヴァニエ 脚本:ニコラス・ヴァニエ 撮影:ティエリー・マシャド 演出:ヴァンサン・ステジュー、ピエール・ミショー 音楽:クリシュナ・レヴィ 動物コーディネート:アンドリュー・シンプソン
 
出演:ノーマン・ウィンター(ノーマン・ウィンター)、メイ・ル(ネブラスカ/妻)、アレックス・ヴァン・ビビエ

機械じかけの小児病棟

シネマスクエアとうきゅう ★★☆

■意外と凝ったホラーだが

老朽化のため閉鎖間近のイギリス、ワイト島にあるマーシー・フォールズ小児病院に、看護婦の欠員があってエイミー(キャリスタ・フロックハート)が派遣されてくる。そこは忌まわしい過去が封印された病院だった……。

同僚の看護婦ヘレン(エレナ・アナヤ)や看護婦長フォルダー(ジェマ・ジョーンズ)を微妙なところ(敵か味方か)に置いて、エイミーの活躍にロバート医師(リチャード・ロクスバーグ)の協力で、昔の惨劇が明かされていく。なんでもフォルダーがこの病院に来たばかりの頃、看護婦が女の子を骨折させていた事件があったというのだ(もっともこれがわかるのは最後の方)。入院患者の子供たちが2階(ある事件で閉鎖されていた)の物音に怯え、その中で霊感の強いマギーという子が、全身に金属の矯正器具を付けたシャーロットという女の霊が出ていると言っていたのは本当だったのだ。

最初に病院から搬送されようとしたサイモンという男の子の骨折シーンは、その霊の仕業だったというわけか。でも何故。それにあれはいかにもレントゲンを撮ることで骨折が引き起こされたような映像だったが? 医師自身が骨折箇所が増えていることに疑問を呈しているのだが、説明がヘタでなんともまぎらわしい。

前任の看護婦スーザンの死については、彼女が相談していたという霊媒者姉妹をエイミーに訪問させて、「死期が近づいている者にのみ霊が見え」「彼ら(霊)は愛するもののそばにいようとする」と解説させる。そして、これがちゃんとした伏線になっていたのだけど、なんとなく霊媒者まで出してきたことで、うさんくさくなって、ちょっと馬鹿にしてしまっていたのね。

エイミーとロバートが必死になって事件のカルテを見つけようとするあたりからは急展開。シャーロットが実は看護婦で、マンディ・フィリップスというのが患者である少女の名前だったことが判明する。シャーロットはマンディを虐待し、退院させたくないために彼女の骨を折っては退院を延期させていたというのだ。うわわわ、サイモンの骨折もこれだったのだ。事件が明るみにでて有罪となった彼女はマンディを殺害し(可能?)、自分に矯正器具を付け(これがわからん)自殺し、幽霊となって出ていたのだと。

よくできた話とは思うが、全体の見せ方があまりうまいとはいえない。矯正器具を付けた幽霊が、それこそ矯正器具で固定されているようで全然怖くないし、途中で映画を幽霊ものと思ってしまって興味を半減してしまったということもある。ま、これは私が悪いのだけれど。ここまで脚本に凝っているとは思わなかったのね。最後になって急に盛り上がられてもなーという感じ。ロバート医師も中途半端だったかなぁ。

【メモ】

閉鎖が決まった病院は、入院患者や医療機器の移送がはじまっていたのだが移送の最終日に大規模な鉄道事故が発生する。患者たちを移す予定だった近隣の病院は負傷者があふれ、病院の閉鎖はしばらく延期されることになる。

エイミーも2階の物音や異変に気付き、エレベーターに閉じ込められたりもする。

エイミーはスーザンの自宅を訪ねるが、彼女はその前日に運転する車がスリップ事故を起こして死亡していた。

続いて、病院の従業員ロイの不審死(窓に飛び込む)。

エイミーにも自分のミスで患者を死なせているという過去がある。

死期が迫っていたスーザン、マギーには霊の姿が見える。そして、エイミーにも……。

原題:Fragile

2005年 102分 シネマスコープ スペイン 日本語字幕:関美冬

監督:ジャウマ・バラゲロ 脚本:ジャウマ・バラゲロ、ホルディ・ガルセラン 撮影:シャビ・ヒメネス 音楽:ロケ・バニョス

出演:キャリスタ・フロックハート(エイミー)、リチャード・ロクスバーグ(ロバート)、エレナ・アナヤ(ヘレン)、ジェマ・ジョーンズ(フォルダー)、ヤスミン・マーフィ(マギー)、コリン・マクファーレン 、マイケル・ペニングトン

グッドナイト&グッドラック 

シャンテシネ2 ★★★☆

■テレビに矜恃のあった時代

ジョセフ・マッカーシー上院議員による赤狩りはいくつか映画にもなっているし、最低限のことは知っているつもりでいたが、マッカーシー批判の口火を切ったのが、この映画に描かれるエド・マローがホストを勤めていたドキュメンタリー番組の「See it Now」だったということは初耳。じゃないかも。なにしろ私の記憶力はぼろぼろだから。が、番組の内容にまで言及したものに接したのは、間違いなく初めてだ。

最近では珍しいモノクロ画面に、舞台となるのがほとんどCBS(3大テレビ・ネットワークの1つ)の局内という、一見、まったく地味な映画。せいぜい出来てジャズの歌を度々流すことくらいだから。

カメラが制作室を飛び交い緊迫した画面を演出することもあるが、観客が緊張するのは、静かに正面切ってエド・マロー(デヴィッド・ストラザーン)を捉えるシーンだ。今からだと考えにくいが、この静かに語りかけるスタイルが、テレビで放映される内容そのものなのである。当時のテレビが録画ではなくリアルタイムの進行であることが緊張感を高める一因にもなっているのだが、こういう番組製作の興味も含めて実にスリリングな画面に仕上がっている。

監督でもあるジョージ・クルーニーは、フレッド・フレンドリーというプロデューサー役。マローと共に3000ドルの宣伝費を自分たちで負担してまで番組を放映しようとする。が、彼も地味な役柄だ。声高になるでなく、信念に基づいて粛々と事を進めていく。『シリアナ』への出演といい、クルーニーは、ブッシュ政権下のアメリカに相当危機感を持っているとみた。テレビで、アメリカは自国の自由をないがしろにしていては世界の自由の旗手にはなれない、というようなことをマローは言う。

もっともマッカーシー議員側の報復は、彼を当時の映像ですべてをまかなったこともあって、冷静なマローたちの敵としては見劣りがしてしまう。というか、映画を観ていて実はその程度のものだったのかもしれない、という気にすっかりなってしまったのだ。50年以上という時の流れがあるにしろ、マッカーシーが熱弁をふるう実写はどう見ても異様にしか思えない。それなのに、あれだけ猛威をふるっていたのだ……。

CBS会長のペイリーとの対決(いたって紳士的なものだが、こちらの方が裏がありそうで怖かった)やキャスター仲間の自殺(事情を知らないこともありわかりにくい)などを織り込みながら、しかし事態は、ニューヨーク・タイムズ紙の援護などもあって、急速に終息へと向かう。

このあたりが物足りないのは、先に触れたように、マッカーシズムが実体としては大したものではなかったということがあるだろう。問題なのは、そういう風潮に押し流されたり片棒を担いでしまうことで、だからこそマローたちのようであらねばならぬとクルーニーは警鐘を鳴らしているのだ。

勝利(とは位置づけていなかったかもしれないが)は手中にしたものの、娯楽番組には勝てず、テレビの中でのマローの地位は下がっていく。締めくくりは彼のテレビ論で、使うものの自覚が必要なテレビはただの箱だと、もうおなじみになった淡々とした口調で言う。ただの箱論はPCについても散々言われてきたことで、マローのは製作者側への警告もしくは自戒と思われるが、出典はもしかしてこれだったとか。

話はそれるが、この映画でのタバコの消費量たるや、ものすごいものがあった。番組内でさえマローが吸っていたのは、スポンサーがタバコ会社だからというわけでもなさそうだ。「この部屋すら恐怖に支配されている」というセリフがあったが、タバコの煙にも支配されてたもの。タバコのCMをまるごと映していたのはもちろん批判だろうけど、あー煙ったい。

ということで、「グッドナイト、グッドラック」。私が言うと様になりませんが。

  

原題:Good Night, and Good Luck

2005年 93分 アメリカ 日本語版字幕:■

監督:ジョージ・クルーニー 脚本:ジョージ・クルーニー、グラント・ヘスロヴ

出演:デヴィッド・ストラザーン、ジョージ・クルーニー、ロバート・ダウニー・Jr、パトリシア・クラークソン、レイ・ワイズ、フランク・ランジェラ、ジェフ・ダニエルズ

カサノバ

銀座テアトルシネマ ★★☆

■カサノバ最後で本気の恋。にしてはどこか軽い作り

稀代のプレイボーイ、あるいは女たらしのカサノバ(肩書きは他に多数というが、この作品もこれ)を題材に、彼の最後の本気の恋を描く。

ジャコモ・カサノバ(ヒース・レジャー)は修道女に手を出したことで捕まってしまうが、総督のお情けで無罪放免となる。ただし教皇庁のマークもあって、両家の子女との結婚が条件だ。

さっそく従者のルポ・サルヴァト(オミッド・ジャリリ)を従えてヴィクトリア・ドナート(ナタリー・ドーマー)に結婚を申し込むが、彼女に片思いの青年ジョバンニ・ブルーニ(チャーリー・コックス)と決闘騒ぎになる。が、決闘相手は実は腕の立つジョバンニの姉フランチェスカ・ブルーニ(シエナ・ミラー)が身代わりで、カサノバは当人と知らずカサノバ批判をする彼女に恋してしまう(よくあることさ)。

そのフランチェスカにも母親アンドレア・ブルーニ(レナ・オリン)が財産目当てで決めた結婚相手ピエトロ・パプリッツィオ(オリヴァー・プラット)がいて、そいつがちょうどヴェネチアへやってくるから大変だ。

加えて、フランチェスカが女性心理を説いて当代人気の覆面作家ベルナルド・グアルディその人だったり(「女性は気球のように、男と家事と言う重い砂袋さえなくなれば、自由に空を飛べるのだ」)、ローマから送り込まれた審問官のプッチ司教(ジェレミー・アイアンズ)とフランチェスカの目をごまかすためにカサノバがパプリッツィオになりすましたりと、話はややこしくなるばかり。

この難問を、最後にはカサノバとフランチェスカ、ジョバンニとヴィクトリア、パプリッツィオにはアンドレアという組み合わせの誕生で解決してしまう。これだけの大騒ぎをまとめてしまう脚本はよく練られているとは思うが、フランチェスカの2度の男装シーンだけでなくパプリッツィオのエステまで、すべてがおちゃらけてしまっているから気球のように軽い。

カサノバは好き勝手にやっているだけでヴェネチアの自由の象徴という感じはしないし、プッチ司教も馬鹿にされて当然のような描き方。いくらコメディとはいってもねー。パプリッツィオなど怒ってしかるべきなのに、フランチェスカの母親をあてがわれて(失礼)喜色満面(いや、もちろん相性はあるでしょうが)でいいのかって……。

女たらしはこれで打ち止めにし(なにしろ「生涯ただ一人の男性だけを愛する」フランチェスカが相手なのだ)、女遊びに目覚めたジョバンニにカサノバ役は譲ったという珍説での締めくくり。だからヴィクトリアも尻軽女のように描かれていたのか。可哀想な登場人物が多いのよね。

 

【メモ】

ジャコモ・カサノバ(1725-1798)。自伝『我が生涯の物語』。

プッチ司教「ヴェネチアの自由もバチカンの風向き次第だぞ」

原題:Casanova

2005年 112分 アメリカ サイズ■ 日本語版字幕:古田由紀子

監督:ラッセ・ハルストレム 製作:ベッツィ・ビアーズ、マーク・ゴードン、レスリー・ホールラン 製作総指揮:スー・アームストロング、ゲイリー・レヴィンソン、アダム・メリムズ 原案:キンバリー・シミ、マイケル・クリストファー 脚本:ジェフリー・ハッチャー、キンバリー・シミ 撮影:オリヴァー・ステイプルトン プロダクションデザイン:デヴィッド・グロップマン 衣装デザイン:ジェニー・ビーヴァン 編集:アンドリュー・モンドシェイン 音楽:アレクサンドル・デプラ
 
出演:ヒース・レジャー(ジャコモ・カサノバ)、シエナ・ミラー(フランチェスカ・ブルーニ)、ジェレミー・アイアンズ(プッチ司教)、オリヴァー・プラット(ピエトロ・パプリッツィオ)、レナ・オリン(アンドレア・ブルーニ)、オミッド・ジャリリ(ルポ・サルヴァト)、チャーリー・コックス(ジョバンニ・ブルーニ)、ナタリー・ドーマー(ヴィクトリア・ドナート)、スティーヴン・グリーフ、ケン・ストット、ヘレン・マックロリー、リー・ローソン、ティム・マキナニー、フィル・デイヴィス