こわれゆく世界の中で

シャンテシネ2 ★★☆

■インテリの愛は複雑だ。で、これで解決なの

ウィル(ジュード・ロウ)は、ロンドンのキングス・クロス再開発地区のプロジェクトを請け負う建築家で、仕事は順調ながらやや中毒気味。リヴ(ロビン・ライト・ペン)とはもう同棲生活が10年も続いていたが、リヴとその連れ子ビーの絆の強さにいまひとつ踏み込めないでいた。そのことが彼を仕事に没頭させていたのかも。

リヴはスエーデン人の映像作家。ドキュメンタリー賞を受賞していて腕はいいらしいが、ビーが注意欠陥・多動性障害(ADHD)で、そのこともあってかリヴ自身もセラピーを受けている。ウィルにとってはセラピーのことさえ初耳だが、リヴからは「仕事に埋もれ身勝手」と言われてしまう。ウィルは、僕もビーを愛していると言うのだが、言葉は虚しく2人の間を流れていくばかりだ。

そんな時、ウィルが新しくキングス・クロスに開設した事務所が、初日に窃盗に入られてしまう。実は警報機の暗証番号を替えるところを外から盗み見されていて、また被害にあいそうになるのだが、共同経営者のサンディ(マーティン・フリーマン)が事務所に戻ってきたため、泥棒たちは逃げ出す。

いくら治安の悪い地区とはいえ、ということで暗証番号をセットしたエリカに疑惑の目が向けられたり、でもあとでそのエリカとサンディが恋に落ちたり、また事務所を見張っているウィルが、この世で信じられるのはコンドームだけという娼婦と知り合いになって哲学的会話をするなど、物語は枝葉の部分まで丁寧に作られているのだが、とはいえどれもあまり機能しているとはいえない。

夜警でウィルは1人の少年(ラフィ・ガヴロン)のあとをつけることに成功する。彼の身辺を調べるうちに彼の母親のアミラ(ジュリエット・ビノシュ)と知り合い、ウィルは彼女に惹かれていく。ウィルの中にあった家庭での疎外感がアミラに向かわせたのだし、アミラもウィルをいい人と認識していたのだが、息子のミルサドが部屋にあったウィルの名刺を見て、ミルサドは自分のやっていたことが暴かれるとアミラにすべてを打ち明ける。

アミラとミルサドはボスニア内戦でサラエボから逃れてきて、今は服の仕立屋として生計を立てているという設定。ミルサドにロンドンに来なかった父のことを訊かれてサラエボの話は複雑とアミラも答えていた。当人がそうなら日本人にはさらにわかりにくい話なのは当然で、といってすんなりそう書いてしまっては最初から逃げてしまっているだけなのだが、彼らの話に入りにくいのは事実だ。

アミラのとった行動がすごい。ウィルと関係をもってそれを写真に収めミルサドを救う手段としようとする。「弱みにつけ込むなんて、私を利用したのね」と言っておいての行動なのだから決然としている。女友達の部屋を借り証拠写真でも手助けしてもらっていた。ボスニア内戦を生き延びてきただけのしたたかさが垣間見られるのだが、しかしそれだけで関係をもったのでもあるまい。

ここはもう少し踏み込んでもらいたかったところだが、結局ミルサドは別の形で捕まってしまい、物語は表面的には案外平穏なものに収束していくことになる。ウィルがアミラとの関係をリヴに打ち明け、つまりリヴの元に帰って行き、ミルサドを救う形となる。

あくまで誘われたからにしても、ミルサドから窃盗の罪が消えたとは思えない。15歳という十分責任能力のある人間に、これではずいぶん甘い話ではないか。が、ウィルによって「人生を取り戻せた」のも真実だろう(ラストシーンにもそれは表れている)。ミルサドが盗んだウィルのノートパソコンにあった、ビーの映像を見ている場面が入れておいたのは甘いという批判を避ける意味もあったろう。そして、被害者に想いを寄せられる人間であるなら、甘い決断もよしとしなければならないとは思うのだが、ま、これは私が人には厳しい人間ということに尽きるかもしれない。

ウィルとアミラのことがよく整理できないうちに、ビーがウィルの仕事現場で骨折するという事故が起き、このあとリヴがウィルに「あなたを責めないことにし」「悪かった」と言って、前述のウィルの告白に繋がるのだが、この流れもよくわからなかった。

ようするにこれは、いつのまにかお互いを見なくなっている(巻頭にあったウィルのモノローグ)夫婦が、愛を取り戻す話だったのだな。だけど、これを誰にも感情移入出来ないまま観るのは、かなりしんどいのである。最後にリヴが何もなかったように家に帰るのかとウィルを問いつめるくだりは新趣向なんだけど、基本的なところで共感できていないから、装飾が過ぎたように感じてしまうのだ。だって、ウィルとリヴの問題が本当に解決したとは思えないんだもの。

【メモ】

Breaking and Enteringは、壊して侵入する。不法侵入、住居侵入罪を意味する法律用語。

アミラは仕立屋をしているが、時間があると紙に書いたピアノの鍵盤を弾くような教養ある人間として描かれている。

キングスクロスについても何度も語られていたが、これも土地勘がまったくないのでよくわからない。「荒れ果てた地を僕たちが仕上げて、最後に緑をちらす」などというウィルの設計思想も映画で理解するには少々無理がある。

原題:Breaking and Entering

2006年 119分 シネスコサイズ イギリス、アメリカ PG-12 配給:ブエナビスタ・インターナショナル(ジャパン) 日本語字幕:松浦美奈

監督・脚本:アンソニー・ミンゲラ 製作:シドニー・ポラック、アンソニー・ミンゲラ、ティモシー・ブリックネル 製作総指揮:ボブ・ワインスタイン、ハーヴェイ・ワインスタイン、コリン・ヴェインズ 撮影:ブノワ・ドゥローム プロダクションデザイン:アレックス・マクダウェル 衣装デザイン:ナタリー・ウォード 編集:リサ・ガニング 音楽:ガブリエル・ヤレド 、UNDERWORLD

出演:ジュード・ロウ(ウィル)、ジュリエット・ビノシュ(アミラ)、ロビン・ライト・ペン(リヴ)、マーティン・フリーマン(サンディ)、レイ・ウィンストン(ブルーノ刑事)、ヴェラ・ファーミガ(オアーナ)、ラフィ・ガヴロン(ミロ/ミルサド)、ポピー・ロジャース(ビー)、マーク・ベントン、ジュリエット・スティーヴンソン、キャロライン・チケジー、ラド・ラザール

スパイダーマン3

楽天地シネマズ錦糸町-1 ★★☆

■超人がいっぱい

スパイダーマン(トビー・マグワイア)の今回の敵は3人?+自分。

まずはいまだ父親を殺害したと誤解しているハリー・オズボーン(ジェームズ・フランコ)がニュー・ゴブリンとして登場する。しかしどうやってニュー・ゴブリンとなったかは省いてしまっている(ハリーも父親と同じ薬を飲んだとか。だったら彼も邪悪になってしまうけど)。そんなことを一々説明している暇はないのだろうけど、まあ乱暴だ。

次は、サンドマン。ピーターの伯父を殺したフリント・マルコ(トーマス・ヘイデン・チャーチ)が刑務所から脱走してしまうのだが、彼が素粒子実験場に逃げ込んだところでちょうど実験がはじまってしまい、体を砂のように変えられるサンドマンになっちゃう。簡単に超人(怪物)を誕生させちゃうのだな。まあ、そもそもスパイダーマンもそうなのだけど。

最後は宇宙生物。隕石に乗って地球にやってきた紐状の黒い生命体がスパイダーマンに取り憑く。この生命体は寄生生物で、人間にある悪い心に働きかけてくる(宿主の特性を増幅する)らしい。ピーターは前作でメリー・ジェーン・ワトソン=MJ(キルステン・ダンスト)の愛を手に入れたし(今回はどうやって結婚を申し込むかというところからスタートしている)、スパイダーマンもヒーローと認知されていて人気も高く、前作のはじまりとはまったく逆ですべてがうまく行っていて、そこにちょっとした慢心が生まれていた。寄生生物に取り憑かれる隙があったということなのだが、これまたファーストフードよろしく、あっと言う間の出来上がりなのだ。

スパイダーマンのスーツまで赤から黒に変わってしまうというのもよくわからないが、一応ピーターはヒーローであるからして、自分の中にいる悪の魅力に惹かれながらもその悪と戦うという構図。しかし、彼が苦悩の末剥ぎ取った寄生生物は、同僚のカメラマンでピーターに敵愾心を燃やすエディ・ブロック(トファー・グレイス)に乗り移って、スパイダーマンと同等以上の能力(これもわかるようでわからない)になって襲いかかってくる。

それにしても、何故これだけ沢山の敵を登場させなければならないのか。最近のアクション大作は、最初から最後まで見せ場を作ることが義務づけられているのだろうが、今回のように安易に敵の数を増やしては、その誕生の説明からまるで流れ作業のようになっていて、ちっとも訴えかけてこない。こんなことは監督とて承知のはずだろうに、それでも盛り沢山の構成を要求(誰に?)されてしまうんではつらいだろうな。

で、増やしすぎた結果、サンドマンと寄生生物に取り憑かれたエディ(チラシだとヴェノムと称している)が手を組んで、対スパイダーマンとニュー・ゴブリンのハリーというチーム戦にしてしまってはねー。もちろん、そのためにはピーターがハリーに助けを求める(MJのためだ、とも言う)という、この映画の大切なテーマがそこにはあるのだが、ハリーのいままでの思い違いを解く鍵を、オズボーン家の執事の「黙っていましたが、私はすべてを見ていました」にしてしまっては、力が抜けるばかりだ(もう1作での状況は覚えていないので何ともいえないのだが)。

その2対2のバトルも案外あっけない。ハリーの活躍があっての勝利だったが、そのハリーは死んでしまう。ハリーとの和解という切ない場面が、サンドマンの改心も(こういう風に併記してしまうところが問題なのだな)だが、とにかくすべてが駆け足では、どうこういうべき状況以前というしかない。

しかしそうしないことには、MJとの複雑な恋の行方が描けない、つまりその部分もいままでどおりにやろうっていうのだから、もう滅茶苦茶なんである。

スパイダーマンがヒーローとして人気を集めいい気になっているピーターは、舞台が酷評だったMJの気持ちをつい見逃してしまう。スパイダーマンの祝賀パーティーで、事故から救ったグエン・ステイシー(ブライス・ダラス・ハワード)と調子に乗ってキスをするに及んで、MJの気持ちもはなれてしまい、ピーターは伯母のメイ・パーカー(ローズマリー・ハリス)がプロポーズにとくれた婚約指輪を、MJに渡せなくなってしまう。

マルコの脱走のニュースがピーターに知らされるのもこのときで、彼は憎悪をつのらせる。ピーターには慢心だけでなく、こういう部分でも寄生生物に取り憑かれる要因があったってことなのね。

MJがハリーに傾きかけたり(お互い様なのだろうけど、これはそろそろやめてほしい)、またそれをハリーに利用されたりという事件も経て、「復讐」を「赦し」に変えるテーマが伯母の助言という形で語られるというわけだ。

不良もどきのピーターは持ち前のうじうじから解放されたようで、本人はうきうきなのだろうが(笑えたけどね)、でもヒーローでありながら悩めるピーターでいてくれた方が、スパイダーマンファンとしては安心できるのである。

 

【メモ】

まるでエンディングのような導入だが、ここには1、2作のカットが入れてある。

エンドロールで確認し忘れたので吹き替えかどうかはわからないのだが、キルステン・ダンストが酷評(声が最前列までしか届かないというもの)だった舞台で「They Say It’s Wonderful」(題名は?)をけっこう長く歌っていた。

ハリーはスパイダーマンとの死闘で記憶障害になり、ピーターとの間にしばし友情が戻る。

ハリーに記憶が返ってくるのは、MJとキスし、彼女がその事実にあわてて、ご免なさいと言いながら帰ってしまってから(MJはハリーが「高校の時君のために戯曲を書いた」という言葉にまいってしまったようだ)。このあとMJは憎悪の塊となったハリーに脅かされ、ピーターに好きな人が出来たと言わされる。

エディは、偽造写真を使っていたことをピーターにばらされ、会社を解雇されてしまう。

サンドマンは水に流されてしまうが、下水から蘇る。

ピーターはMJとのことを心配して尋ねてきてくれた叔母に指輪を返すが、叔母はそれを置いて帰っていく(助言をする場面)。

サンドマンの改心は娘の存在故で、そういえば最初から弁解じみたことを言っていた。とはいえ、これでピーターがマルコを赦してしまうのは、ちょっと説明が先走った感じだ。ピーターからの赦しの言葉を得て、サンドマンは砂となって消えていく。

〈070622 追記〉CINEMA TOPICS ONLINEにサム・ライミ監督の言葉があった。これはわかりやすい。でもだったらよけい、3は死んでしまうハリーを中心に話を進めるべきだった。そうすえばサンドマンやヴェノムはいらなくなって……これじゃ迫力ないと企画で却下されてしまうのかな。

http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=6210

シリーズ3作のメガホンをとるサム・ライミは言う。「『スパイダーマン』は、ピーターの成長の物語だ」。スパイダーマンとしての”運命”を受け入れた『スパイダーマン』。スパイダーマンとして生きる運命に”苦悩” した『スパイダーマン2』。そして『スパイダーマン3』では、ピーターの”決意”が描かれる。たとえ、どんなに自分が傷つこうとも、正しい心を、愛を取り戻すために、自らの心の闇の化身とも言うべきブラック・スパイダーマンと闘う。まさに「自分」への挑戦である。更にサム・ライミはこうコメントする。「『スパイダーマン』の物語の中心はピーター、MJ、ハリーの3人のドラマだ」。

原題:Spider-Man 3

2007年 139分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:菊池浩司 配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント

監督:サム・ライミ 製作:ローラ・ジスキン、アヴィ・アラッド、グラント・カーティス 製作総指揮:スタン・リー、ジョセフ・カラッシオロ、ケヴィン・フェイグ 原作:スタン・リー、スティーヴ・ディッコ 原案:サム・ライミ、アイヴァン・ライミ 脚本: サム・ライミ、アイヴァン・ライミ、アルヴィン・サージェント 撮影:ビル・ポープ プロダクションデザイン:ニール・スピサック、J・マイケル・リーヴァ 衣装デザイン:ジェームズ・アシェソン 編集:ボブ・ムラウスキー 音楽:クリストファー・ヤング テーマ曲:ダニー・エルフマン

出演:トビー・マグワイア(ピーター・パーカー/スパイダーマン)、キルステン・ダンスト(メリー・ジェーン・ワトソン)、ジェームズ・フランコ(ハリー・オズボーン)、トーマス・ヘイデン・チャーチ(フリント・マルコ/サンドマン)、トファー・グレイス(エディ・ブロック/ヴェノム)、ブライス・ダラス・ハワード(グウェン・ステイシー)、ジェームズ・クロムウェル(ジョージ・ステイシー)、ローズマリー・ハリス(メイ・パーカー)、J・K・シモンズ(J・ジョナ・ジェイムソン)、ビル・ナン(ロビー・ロバートソン)、エリザベス・バンクス(ミス・ブラント)、ディラン・ベイカー(カート・コナーズ博士)、テレサ・ラッセル(エマ・マルコ)、クリフ・ロバートソン(ベン・パーカー)、ジョン・パクストン(バーナード/執事)、テッド・ライミ(ホフマン)、ブルース・キャンベル(クラブのフロアマネージャー)、パーラ・ヘイニー=ジャーディン(ペニー・マルコ)、エリヤ・バスキン(ディトコヴィッチ氏)、マゲイナ・トーヴァ(ウルスラ)、ベッキー・アン・ベイカー(ステイシー夫人)、スタン・リー(タイムズ・スクエアの男)

ゲゲゲの鬼太郎

新宿ミラノ1 ★★☆

■『ゲゲゲの鬼太郎』というより『水木しげるの妖怪図鑑』か

妖怪ポスト経由で鬼太郎(ウエンツ瑛士)に届いた手紙は小学生の三浦健太(内田流果)からのものだった。健太の住む団地に妖怪たちが出るようになって住民が困っているという。鬼太郎が調べると、近くで建設中のテーマパーク「あの世ランド」の反対派をおどかすために、ねずみ男がバイトで雇った妖怪たちをけしかけていたのだった。

しかしこれは反対派へのいやがらせにはなっていても、稲荷神社の取り壊しによるお稲荷さんの祟りと喧伝されてしまいそうだから、「あの世ランド」側としては逆効果だと思うのだが。ま、どっちみちこのテーマパークの話はどこかへすっ飛んでしまうから関係ないんだけどね。

鬼太郎に儲け話を潰されたねずみ男は、その稲荷神社でふて寝しようとして奥深い穴に吸い込まれてしまう。そして、そこに封印されていた不思議な光る石を見つける。実はこれは人間と妖怪の邪心が詰まっている妖怪石と呼ばれるもので、修行を積んだ妖怪が持てばとてつもない力を得られるが、心の弱い者には邪悪な心が宿ってしまうのだ。

そんなことを知らないねずみ男は、少しでも金になればと妖怪石を質入れしてしまうのだが、そこに偶然来ていた健太の父(利重剛)は、工場をリストラされて困っていたのと妖怪石の魔力とで、それを盗んでしまう。

父が健太に妖怪石を預けたことで健太に魔の手が伸び、彼の勇気が試される。また、妖怪界では、妖怪石の力を手に入れようとする妖怪空(橋本さとし)の暗躍と、妖怪石の盗難の嫌疑が鬼太郎にかかって大騒動になっていくのだが、話の展開はかなりいい加減なものだ。

ねずみ男に簡単に持ち出されてしまう妖怪石の設定からして安直なのだが、それが健太の父の手に渡ってと、妖怪界を揺るがす大事件にしては狭い狭い世界での話で、でも一応、少年を準ヒーローにしているあたりは(だから世界が小さいのだけど)子供向け映画の基本を押さえている。

ただ死んだ父まで助け出してしまうのはねー(そもそもこの死は唐突でよくわからない。病気で死んだ、って言われてもね)。「健太君の願いが乗り移った」という説明は意味がないし、子供映画にしてもずいぶん馬鹿にしたものではないか。他にも沢山いた死者の行列の中から健太の父だけというのはどうなんだろ。父の釈明も釈明になっていなくて、ここはどうにも釈然としないのだな。

鬼太郎は健太の姉の三浦実花(井上真央)にちょっと惚れてしまい、猫娘(田中麗奈)の気をもませることになるが、これは妖怪界の定め(人間は死んでしまうから惚れてはいけないと言っていた)で、事件が片づいたあと、実花からは鬼太郎の記憶が消えてしまう。

この話もだが、妖怪たちが善と悪とに分かれて戦いながらも、結末はどこまでもユルイ感じで、いかにも水木しげる的世界なのだ。まあ、水木しげるの妖怪たちを配置したのなら、そうならざるを得ないのだろうけど。

それに、1番の見所はその妖怪たちなのだ。大泉洋のねずみ男を筆頭に、そのキャスティングと造型は絶妙で、子供映画ながらこの部分では大人の方が楽しめるだろう。猫娘、子泣き爺、砂かけ婆、大天狗裁判長などのどれにも納得するはずだ。それはまったくのCGでも同じで、石原良純の見上げ入道ならまあ想像はつくが、石井一久のべとべとさんには感心してしまうばかりなのだ。水木しげるの妖怪画というのは、1ページに妖怪の絵と解説があって、図鑑のような趣があったけど、この映画もそれを踏襲した感じで観ることができるというのが面白い。

唯一まるで違うイメージなのがウエンツ瑛士の鬼太郎だが、演技はうまいとは言い難いものの、意外にも違和感はなかった。惜しげもなく髪の毛針を打ち尽くしてしまい、堂々の禿頭を披露しているのだが、あれ、でも片目ではないのね。さすがにそこまではダメか。だからほとんど目玉おやじとは別行動だったのかもね。

 

【メモ】

妖怪石には、滅ぼされた悪しき妖怪の幾千年もの怨念だけでなく、平将門、信長、天草四郎などの人間の邪心までも宿っているという。

父の釈明は「泥棒したっていう気はないんだ。これだけは信じてくれ、間が刺したんだ。
弱い心につけ込まれたんだ」というもの。もちろんこれではあんまりだから「でもやってしまったことはしょうがない」とは言わせているのだが。

映画の中で鬼太郎が何度か言っていたのは、「そんなにしっかりしなくてもいいんじゃない、泣きたい時は泣いちゃえば」とか「悪い人だけじゃないんだから思いっ切り甘えろ」というもの。

2007年 103分 ビスタサイズ 配給:松竹

監督:本木克英 製作:松本輝起・亀山千広 企画:北川淳一・清水賢治 エグゼクティブプロデューサー:榎望 プロデューサー:石塚慶生・上原寿一アソシエイトプロデューサー:伊藤仁吾 原作:水木しげる 脚本:羽原大介 撮影:佐々木原保志 特殊メイク:江川悦子 美術:稲垣尚夫 衣装デザイナー:ひびのこづえ 編集:川瀬功 音楽:中野雄太、TUCKER 音楽プロデューサー:安井輝 主題歌:ウエンツ瑛士『Awaking Emotion 8/5』VFXスーパーバイザー:長谷川靖 アクションコーディネーター:諸鍛冶裕太 照明:牛場賢二 録音:弦巻裕

出演:ウエンツ瑛士(ゲゲゲの鬼太郎)、内田流果(三浦健太)、井上真央(三浦実花/健太の姉)、田中麗奈(猫娘)、大泉洋(ねずみ男)、間寛平(子泣き爺)、利重剛(三浦晴彦/健太の父)、橋本さとし(空狐)、YOU(ろくろ首)、小雪(天狐)、神戸浩(百々爺)、中村獅童(大天狗裁判長)、谷啓(モノワスレ)、室井滋(砂かけ婆)、西田敏行(輪入道)
 
声の出演:田の中勇(目玉おやじ)、柳沢慎吾(一反木綿)、伊集院光(ぬり壁)、石原良純 (見上げ入道)、立川志の輔(化け草履)、デーブ・スペクター(傘化け)、きたろう(ぬっぺふほふ)、石井一久(べとべとさん)、安田顕(天狗ポリス)

神童

新宿武蔵野館2 ★★☆

■好きなだけじゃダメな世界

天才少女と知り合ってしまった音大受験浪人生の悲しい(?)日々……。

ピアノを演奏することが大好きな菊名和音(松山ケンイチ)は音大目指して毎日猛レッスンに励んでいる。受験に失敗したらピアノはあきらめて家業の八百屋を継がねばならないのだ。

そんな時に知りあった成瀬うた(成海璃子)は13歳ながら言葉を覚える前に楽譜が読めたという天才少女。なにしろ和音がピアノを弾くと近所からの苦情になるが、うたが弾くと八百屋の売り上げがあがるってんだから(ひぇー、普通人もそんなに耳がいいんだ。私にはなーんもわからないんだけどねー)。

そんなうただが、母親の美香(手塚理美)には唯一の望み(借金返済の)だから、レッスン中心の生活で、突き指予防で体育は見学だし、訓練の一環で左手で箸を使うよう厳命されたりしているから、「ピアノは大嫌い」という発言になるのだろう。

その一方で事実にしても天才と持ち上げられているせいか、和音にため口なのはともかく、高慢ともいえる言動が目立つ。理由はともあれ、こんなでは和音の気持ちがうたに傾くとは思えない。というのもどうやらうたは和音のことが好きらしいのだ(これについては後で書く)。

うたは和音のために秘密の練習場(うたが以前住んでいた家)を提供してくれたり、ま、このあと相原こずえ(三浦友理枝)とのことで和音とはちょっとトラブったりもするのだけど、受験の日には応援に行って、何やら霊力を授けてしまったというか、うたが和音に乗り移ったとでもいうか、和音の神懸かり的な演奏は、彼をピアノ課に主席で入学させてしまうのである(ありえねー。でもこの場面はいい)。が、和音にとってはこれが仇になって小宮山教授からも見放されてしまう(「好きなだけじゃダメなんだよ、ここでは」と言われてしまうのだ)。

またうたの方も、母親との軋轢は変わらぬまま、自分の耳の病気を疑うようになっていた。うたの父親光一郎(西島秀俊)が、やはり難聴で自殺したらしいのだ。音大の御子柴教授(串田和美)が昔光一郎と交流があってそのことがわかるのだが、しかしここからは、難解では決してないものの、意味もなくわかりにくくしているとしか思えない流れになっている。

昔光一郎に連れられていったピアノの墓場から1台のピアノを救い出した幼少時の思い出が挿入され、うたも父と同じ難聴に悩まされているような場面があるのに、それはどうでもよくなってしまうし、うたの演奏がちょうど来日していたリヒテンシュタインの耳にとまって、これが彼の不調で、うたに彼による指名の代役がまわってくるのだ。

この演奏会で、うたは自分からピアノを弾きたい気持ちになる。そしてここが、一応クライマックスになっているのだが、それではあんまりと思ったのか、うたがピアノの墓場(倉庫)に出かけて行く場面がそのあとにある。

夜歩き牛丼を食べ電車に乗り線路を歩くこの行程には、うたの同級生の池山(岡田慶太)が付いて行くのだが、彼は見つけた倉庫に窓から入る踏み台になる役でしかない(ひでー)。倉庫の中でうたはあるピアノを見つけるが、指をおろせないでいる。と、彼女の横に何故か和音が来て、ピアノを弾き始めるのだ。

「聞こえる?」「聞こえたよ、ヘタクソ」という会話で、2人の楽しそうな連弾となる。

この場面は素敵なのだが、もうエンドロールだ。うたが心から楽しそうにピアノに向き合っているというのがわかる場面なのだが(捨てられていたピアノが息を吹き返すという意味もあるのだろうか)、「大丈夫だよ、私は音楽だから」という、さすが天才というセリフはすでに演奏会の場面で使ってしまっていて、でもここはそういうことではなく、ただただ楽しんでいるということが大切なんだろうなー、と。

しかしそれにしてもちょっとばかり乱暴ではないか。倉庫のピアノの蓋が何故みんな開いているとか、和音はどうしてここに来たのかというような瑣末なこともだが、うたの耳の病気の説明もあれっきりではね(うたが気にしすぎていただけなのか)。それに、和音については途中で置き去りにしたままだったではないか。

この置き去りはいただけない。うたの再生には和音の存在が必要だったはずなのに、その説明を省いてしまっているようにみえてしまうからだ。うたと和音の関係が、恋人でも家族でもなく、友達というのともちょっと違うような、でもどこかで惹かれ合うんだろうな。この関係は、最後の連弾のように素敵なのだから、もう少しうまくまとめてほしくなる。

和音はうたよりずっと年上だから、すでに相原こずえが好きだったし(振られてたけどね)、音大に入ってからは加茂川香音(貫地谷しほり)という彼女もできて、年相応のことはやっているようだ。うたにそういう意味での関心を示さないのは、うたが和音にとってはまだ幼いからなのか。とはいえ寝ているところに急にうたが来た時はどうだったんだろ。和音も映画も、さらりとかわしているからよくわからない。けど、そういう関係が成立するギリギリの年にしたんだろうね。

耳の肥えた人ならいざしらず、私にとっては音楽の場面はすべてが素晴らしかった。和音のヘタクソらしいピアノも。

  

2006年 120分 ビスタサイズ 配給:ビターズ・エンド

監督:萩生田宏治 プロデューサー:根岸洋之、定井勇二 原作:さそうあきら『神童』 脚本:向井康介 撮影:池内義浩 美術:林田裕至 編集:菊井貴繁 音楽:ハトリ・ミホ 音楽プロデューサー:北原京子 効果:菊池信之 照明:舟橋正生 録音:菊池信之
 
出演:成海璃子(成瀬うた)、松山ケンイチ(菊名和音/ワオ)、手塚理美(成瀬美香)、甲本雅裕(長崎和夫)、西島秀俊(成瀬光一郎)、貫地谷しほり(加茂川香音)、串田和美(御子柴教授)、浅野和之(小宮山教授)、キムラ緑子(菊名正子)、岡田慶太(池山晋)、佐藤和也(森本)、安藤玉恵(三島キク子)、柳英里沙(女子中学生)、賀来賢人(清水賢司)、相築あきこ(体育教師)、頭師佳孝(井上)、竹本泰蔵(指揮者)、モーガン・フィッシャー (リヒテンシュタイン)、三浦友理枝(相原こずえ)、吉田日出子(桂教授)、柄本明(菊名久)

あかね空

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★☆

■本当に永吉と正吉は瓜二つだったのね

京都で修行を積んだ豆腐職人の永吉(内野聖陽)は江戸の深川で「京や」という店を開くが、京風の柔らかな豆腐が売れたのは開店の日だけだった。永吉がやって来たその日から彼のことが気になる同じ長屋のおふみ(中谷美紀)は、落ち込む永吉を励ます。そしてもう1人、永吉の豆腐を毎日買い続けてくれる女がいた。

女は永吉とは同業者である相州屋清兵衛(石橋蓮司)の女房おしの(岩下志麻)だった。相州屋夫婦は子供の正吉が20年前に永代橋で迷子になったきりで、おしのは永吉に成長した正吉の姿を重ねていたのだ。ちょっと苦しい説明ではあるが、ま、それだけおしのの正吉に対する思いが強かったということか。

毎日作った豆腐を無駄にしてしまうのはもったいないと永代寺に喜捨することを考え(もちろん宣伝の意味もそこにはあった)、永代寺に豆腐を納めている相州屋に永吉とおふみは許しを請いに出かける。勝手にしろと突き放す清兵衛だったが、後にこれはおしのの願いと弁解しながらも、永代寺に京やの豆腐を買ってくれるようたのみにいく。清兵衛は彼なりに正吉のことに責任を感じていて、死ぬ間際にはおしのにそのことを詫びていた。

こうして京やの基礎が出来、永吉とおふみの祝言となる(泉谷しげるがいい感じだ)。京やのことをと面白く思わない平田屋(中村梅雀)という同業者が「今のうちに始末しておきたい」と、担ぎ売りの嘉次郎(勝村政信)にもちかけるが、気持ちのいい彼は京やの豆腐の味を評価するし、悪意のある行動にはならない。また京やの実力もさっぱりだったので大事には至らずにすんだようだ。他に出てくる人も、みな人情に厚い人たちばかりといった感じで、前半は締めくくられる。

後半はそこから一気に18年後の、浅間山の噴火に江戸中が大騒ぎしている不穏な空気の漂う中に飛ぶ。永吉とおふみには長男栄太郎(武田航平)、次男悟郎(細田よしひこ)、長女おきみ(柳生みゆ)という3人の子がいるし、店は相州屋があった家作を引き継いで(永代寺から借りて)繁盛していたが、外回りを任されていた栄太郎が、寄合の集まりで顔見知りとなった平田屋の罠にはまって、一家の絆は崩れていく。

小説がどうなっているのかは知らないし、平田屋の動向については語り損ねた感じもするが、この時間のくくり方は場面転換としてはうまいものだ。

おふみが賭場に出入りするようになった栄太郎を庇うのは、彼に火傷をおわせてしまった過去も一因になっているようだが、このことで夫婦仲に亀裂が入るし(中谷美紀の怒りっぷりはすごかった)、運悪く永吉は侍の乗る馬に撥ねられて命を落としてしまう。

栄太郎の賭場の借金を肩代わりした平田屋は、栄太郎が清算したはずの証文を手に、賭場を仕切っている数珠持ちの傳蔵親分(内野聖陽)を伴って、ちょうど焼香に帰った栄太郎が弟妹とで揉めている京やに乗り込んでくる。

傳蔵の仕組んだ最後のオチで京やは救われるのだが、これが少々もの足らないのはともかく、傳蔵に平田屋を裏切らせるに至った部分が、描かれていないことはないがあまりに弱い。が、内野聖陽による2役は、おしのが永吉を正吉と思い込んだことを印象付けるなかなかのアイディアだ(傳蔵は正吉だったことを再三匂わせているわけだから)。

平野屋が悪者なのは間違いないが、浅間山の噴火の影響で江戸の豆腐屋が困っているのに京やだけが値上げしないというところでは、永吉の「値上げをしないのが信用」という言葉が単調なものにしか聞こえない。寄合の席で栄太郎が居心地が悪くなるわけだ。もっともその後の栄太郎の行動は、甘ったれた弁解の余地のないものでしかないのだが。

栄太郎が賭場で金を使い込み、その取り立てに傳蔵がきて、おふみが33両を返し(臍繰りか)、さらに金を持ち出そうとした栄太郎にそれを与えている(これで栄太郎は勘当となる)し、永代寺から借りていた家作を買わないかという話にも応じようとしていた。そんなに金を貯め込めるのだったら、値上げをしないことより、それ以前にもっと安く売るのが本筋ではないかと思ってしまう。

豆腐を作る過程をきちんと映像にしているのはいいが、CGは意識してなのかもしれないが全体に明るすぎだし、「明けない夜がないように、つらいことや悲しいことも、あかね色の朝が包んでくれる」という広告のコピーに結びつけた最後のあかね空も取って付けたみたいだった。

そしてそれ以上に落ち着かなかったのが人物描写におけるズーミングで、どれも少し急ぎすぎなのだ。カメラワークはそうは気にしていないが、時たま(今回のように)相性の悪いものに出くわすと、それだけで集中できなくなることがあって、重要さを認識させられる。

 

【メモ】

気丈なおふみの口癖は「平気、平気やで」。

「上方から来たのは下りもんといってありがたがられる」のだと、平田屋は京やの店開きを警戒する。

傳蔵の手首のあざ。

2006年 120分 ビスタサイズ 配給:角川ヘラルド映画
 
監督:浜本正機 エグゼクティブプロデューサー:稲葉正治 プロデューサー:永井正夫、石黒美和 企画:篠田正浩、長岡彰夫、堀田尚平 原作:山本一力『あかね空』 脚本:浜本正機、篠田正浩 撮影:鈴木達夫 美術:川口直次 編集:川島章正 音楽:岩代太郎 照明:水野研一 整音:瀬川徹夫 録音:藤丸和徳
 
出演:内野聖陽(永吉、傳蔵)、中谷美紀(おふみ)、石橋蓮司(清兵衛)、岩下志麻(おしの)、中村梅雀(平田屋)、勝村政信(嘉次郎)、泉谷しげる(源治/おふみの父)、角替和枝(おみつ/おふみの母)、武田航平(栄太郎)、細田よしひこ(悟郎)、 柳生みゆ(おきみ)、小池榮(西周/永代寺住職)、六平直政(卯之吉)、村杉蝉之介(役者)、吉満涼太(着流し)、伊藤高史(スリ)、鴻上尚史(常陸屋)、津村鷹志(上州屋)、石井愃一(武蔵屋)、東貴博〈Take2〉(瓦版屋)

ナイト ミュージアム

シネセゾン渋谷 ★★☆

■オモチャのチャチャチャin博物館

ラリー・デリー(ベン・スティラー)は、離婚したエリカ(キム・レイヴァー)との間にもうけた10歳になるニッキー(ジェイク・チェリー)という息子がいる。エリカの再婚話はともかく、その相手(株のトレーダーなのな)にニッキーがなついているらしく、いや、そんなことより転職ばかりで現在も失業中の自分にあきれられてしまって、さすがに危機感をつのらせる。とにかく新しい仕事を探すしかないと職業訓練所を訪れた彼は、自然史博物館の警備の仕事に就くことになる……。

設定は違うものの『ジュマンジ』『ザスーラ』と似た作品。ゲームが博物館になっただけで、夜になると動き出す博物館の展示物が朝には戻っているというある種のお約束の上に成立しているのも、家族の絆を取り戻すというテーマが潜んでいるのも、まったく同じだ。

子供向け映画という方針がはっきりしているから、いきなり恐ろしいテラノサウルス(骨格標本なんだけどね)に襲われるもののそれは勘違いで、相手はまったく犬レベル。骨を投げて遊んでほしかっただけだったりする。

そもそもラリーと入れ替わりに退職するというセシル(ディック・ヴァン・ダイク)、ガス(ミッキー・ルーニー)、レジナルド(ビル・コッブス)の先輩老警備員たちから渡されたマニュアルを、いたずら好きのサルに鍵束と一緒に持ち去られたというのがのがいけなかったのだが……。

博物館だから展示物が所狭しと置いてあるわけで、つまり限られた空間に限られた人物で少し先は他の展示物の領域だったりするから、動きだしてもお互いに適当に調和をとっていたり我関せずというのがおっかしい。もっとも西部開拓史とローマ帝国のジオラマでは双方ともが領土の拡大をはかっていて、大乱闘になったりもする。このミニチュアのアイディアでは、ラリーがガリバーのように小人たちに磔にされ、鉄道に轢かれたり、ローマ軍の矢を沢山浴びせられてしまったするのが、なかなか愉快だ。

もちろんこれだけでは映画としては芸がないので、3人の先輩老警備員たちがアクメンラーの石板を持ち出そうとするのを、全員で阻止するというクライマックスが用意されている。この石板がなくなると、これによって毎晩息を吹き込まれていた展示物の、唯一の楽しみが奪われてしまうのだ。

ここで1番活躍するのがルーズベルト大統領(ロビン・ウィリアムズ)だろうと思っていると、彼は硝子の中に展示されているアメリカ先住民のサカジャウィア(ミズオ・ペック)に片想いをしていたという役回り。「私もただの蝋人形でルーズベルトじゃない。女に告白もできん」と言うのだ(蝋人形でよかったよ、というような傷を負う)。え、何。それにしちゃ他の展示物はかなり役に成りきっているんじゃないか。いや、でもこれが正しい解釈なんだろうけどねぇ(考え出すと複雑なことになりそうだから、やめておこう)。

ミニチュア(ジオラマ)のカーボーイとオクタヴィウスの大活躍もあって石板は無事戻ってくるし、ラリーは学芸員レベッカ(カーラ・グギーノ)の論文の手助けや、もちろんニッキーにもいいところを見せられて(ニッキーとその友達が見ている前でクビを言いわたされたラリーは汚名返上とニッキーを博物館に連れてきていた)、しかも博物館外での石板争奪戦の痕跡が博物館の宣伝にもなってラリーにはお咎めがないばかりか……と予定通りの結末を迎える。

老警備員たちもラリーの温情で床掃除だけの罰と、まあ、すべてが善意による大団円なのは、どこまでも健全な子供映画ってことなのだろう。

余談だが、アメリカ自然博物館だけあって日本人には馴染みの薄い人物が出てくる。サカジャウィアもだが、彼女を通訳として西部開拓史時代にアメリカを探検したメリウェザー・ルイスとウィリアム・クラーク。しかし調べてみるとサカジャウィアは人妻ではないの(http://sitting.hp.infoseek.co.jp/sakaja.htm)。ルーズベルト、まずいよ、それは。あ、だから違う人格の蝋人形って言ってたんだっけ。

  

【メモ】

ラリーに仕事を斡旋する職業紹介員を演じるアン・メアラはベン・スティラーの実母。

原題:Night at the Museum

2006年 108分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:戸田奈津子

監督:ショーン・レヴィ 製作:ショーン・レヴィ、クリス・コロンバス、マイケル・バーナサン 製作総指揮:マーク・A・ラドクリフ 原作:ミラン・トレンク 原案・脚本:ロバート・ベン・ガラント、トーマス・レノン 撮影:ギレルモ・ナヴァロ プロダクションデザイン:クロード・パレ 衣装デザイン:レネー・エイプリル 編集:ドン・ジマーマン 音楽:アラン・シルヴェストリ
 
出演:ベン・スティラー(ラリー・デリー)、カーラ・グギーノ(レベッカ)、ディック・ヴァン・ダイク(セシル)、ミッキー・ルーニー(ガス)、ビル・コッブス(レジナルド)、ジェイク・チェリー(ニック・デリー)、ロビン・ウィリアムズ(セオドア・ルーズベルト)、ミズオ・ペック(サカジャウィア)、ラミ・マレック(アクメンラ)、リッキー・ジャーヴェイス(マクフィー博士)、アン・メアラ(デビー)、キム・レイヴァー(エリカ・デリー)、スティーヴ・クーガン、ポール・ラッド、オーウェン・ウィルソン(クレジットなし)

13/ザメッティ

シネセゾン渋谷 ★★☆

■ランプが点灯したら引き金を引け!

青年が謎のチケットに導かれるように行った先は……というミステリー仕立ての物語だが、謎解きというほどのものはないし、展開も順を追った単純なものだ。大方の人間は観る前に、内容はともかく集団ロシアンルーレットがあるということは知っているから、それについての驚きがあるわけでもない。が、何も知らない青年が狂気の場に放り込まれ、しかし後戻りは出来ずにゲームが進んでいく中で、観客のほとんどは完全に青年と一体になり、青年と同じ恐怖を味わうことになる。

ただ、残念なのは、それだけの映画でしかないということだろうか。

青年はグルジア移民の22歳のセバスチャン(ギオルギ・バブルアニ)で、屋根修理の仕事中に依頼主のジャン=フランソワ・ゴドン(フィリップ・パッソン)が大金が手に入る話をしているのを耳にする。が、その金儲けの連絡の手紙をまっていたゴドンは薬物中毒で死んでしまう。ロシアンルーレットの恐怖に耐えられず、参加者の多くはモルヒネを打っていたという話があとで出てくるが、しかしゴドンの薬物中毒がそうかどうかはわからない。生き残りであるならすでに大金を手にしていそうなものだが、妻や友人との会話からはとてもそういう状況には見えない。

ゴドンの急死で、セバスチャンが内容もわからない手紙を盗み、その中にあったホテルの領収証とパリ行きの指定券(しか入っていない)に誘われるように列車に乗り込みホテルに向かったのは何故か。仕事は中止になるし、今までの賃金すらすんなりとは払ってもらえそうもなさそうなので、セバスチャンも金に困っていることは確かなのだが、1番はやはり単なる好奇心ではないか。この状況でこの行動にでる人間はいくらでもいそうだからだ。

映画はすべてセバスチャンの目線になっていることもあって、肝腎なことはわからず終いのことが多い。しかし矛盾することを言うようだが、この説明はもう少しだけなら削ぎ落とした方がよかったような気もする。どこと言われても困るし、淡々とした流れだって決して悪くないとは思うのだが、この内容なら1時間くらいに収めるべきだろう。

警察が追っていることは主催者も気付いているらしく、ひとつ前の駅で降ろさせたり、駅のロッカーに指示書をおいたり、車を乗り継がせて、セバスチャンを郊外にある館に連れていく。そこにはアラン(フレッド・ユリス)という男が待っていてゴドンでないことを不思議がる。異様な雰囲気にさすがに身の危険を感じたセバスチャンは帰ろうとするが、許されるはずもない。

ここからやたらリアルで緊張を強いられた集団ロシアンルーレット場面に入っていくのだが、後になって考えてみると意外に雑なゲームのような気もしてくる。

優勝者にも85万ユーロの金が出るのだから、単純にお金の問題だけではなく(中には切実そうな者もいたが)命を賭けたショーを見たいという気持ちがかなり強そうなのだ。金持ちの暇つぶしなのか。参加者が13人なのはたまたまで、トルコでは42人だったという。

最初は1発から始まりゲームが進むと弾数を増やしているが、ショーという意味だけなら、それでは進行が速すぎないか。そして、それなのに4人残った後はくじで、2人の対決にさせているのもわからない。最後の2人での勝負など、2人とも死んでしまうことだってありそうなのだが(だから予備として、2人を残したのか)。

ロシアンルーレットをやっている当人たちにとっては、最初のうちは自分が相手を殺すことよりも相手から殺されないことが重要になる。といったってこれもすべて運次第で、だからフライングもそうは意味がないし、恐怖でなかなか引き金を引けずにいたセバスチャンが撃たれずに残ることにもなる。が、ここで本当に恐怖を味わったのはセバスチャンの前にいた男なのだが。

セバスチャンは、いままでに3度このゲームを勝ち抜いてきた(理由が明かされないのであればこんな設定にしない方がいい)というジャッキー(オーレリアン・ルコワン)との戦いにも勝利(というよりただ運がよかっただけなのだが)し、賞金を手にする。

解放されたセバスチャンは賞金を家族に郵送し電話するが、ホームで警察に捕まり尋問を受ける。警察はゴドンの代わりに行ったが拒否されたというセバスチャンの言葉など信じてはいなかったが、金も持っていないし、彼がそこにあった車のナンバーを供述したことで放免となる。が、悪運もここまで。駅でジャッキーの弟に見つかり殺されてしまう。

このオチは安易だ。もうひとひねりがないと、集団ロシアンルーレットだけ、といつまでも言われてしまうだろう。

【メモ】

予告篇では、集団ロシアンルーレット場面で画面が暗くなるので、てっきりランプが消えるのが合図になって行われるのだと思い込んでいて、それだと別の方向に撃ったりしゃがんでしまったりしないかといらぬ心配をしていたが、まったくの思い違いだった。そりゃそうだよね。

監督自身の手によるハリウッドでのリメイクが決定している。

原題:13 Tzameti [グルジア語で数字の13]

2005年 93分 シネスコサイズ モノクロ フランス、グルジア R-15 日本語字幕:■

監督・脚本・制作:ゲラ・バブルアニ 撮影:タリエル・メリアヴァ 編集:ノエミー・モロー 音楽:イースト
 
出演:ギオルギ・バブルアニ(セバスチャン)、パスカル・ボンガール(闇のゲーム進行役)、 オーレリアン・ルコワン(ジャッキー)、フィリップ・パッソン(ジャン=フランソワ・ゴドン)、オルガ・ルグラン(クリスティーヌ・ゴドン/ゴドンの妻)、フレッド・ユリス(アラン)、ニコラス・ピグノン、ヴァニア・ヴィレール、クリストフ・ヴァンデヴェルデ、オーグスタン・ルグラン、ジョー・プレスティア、ジャック・ラフォリー、セルジュ・シャンボン、ディディエ・フェラーリ、ゲラ・バブルアニ

ホリデイ

109シネマズ木場シアター5 ★★☆

■何故かエピソードが噛み合わない

恋に行き詰まった女性が、憂さ晴らしにと、ネットで流行の家交換(ホーム・エクスチェンジ)をし、2週間のクリスマス休暇に「別世界」を手にする。日本では発想すら難しそうな家交換だが、家具付き賃貸物件が一般的という欧米ではそれほど違和感はないのかも(それにしてもね)。

ロンドンで新聞社の編集の仕事をしているアイリス(ケイト・ウィンスレット)は、3年も想い続けているジャスパー(ルーファス・シーウェル)の仕事場での婚約発表(つまり相手も職場の人間)に、目の前が真っ暗になって……。

ロサンジェルスで映画の予告篇製作会社を経営するアマンダ(キャメロン・ディアス)は、仕事中毒故か恋人のイーサン(エドワード・バーンズ)とはしばらくセックスレス状態。だからってイーサンの浮気を許せるはずもなく……。

アイリスはプール付きの大邸宅にびっくりで大喜びだが、アマンダはロンドンの田舎のお伽話に出てくるような1軒屋には6時間で飽きてしまい、帰国を考え出す始末(雑誌ではなく本が読みたいと言ってたのだから、うってつけなのにね)。が、アイリスの兄グラハム(ジュード・ロウ)の突然の出現で、たちまち恋に落ちてしまう。

2週間ながら新天地でのそれぞれの生活+多分新しい恋は、家交換のアイディアが示された時点で誰もが先を読める展開で、だからこちらのワクワク度が先に高まってしまうからなのか、そうは盛り上がってくれなし、アイリスとグラハムの熱愛ぶりに煽られて、かえって腰が引けてしまったりもする。

謎だらけでやきもきさせられたグラハムには、ソフィとオリビアという2人の娘(子役がいい)がいて、家に押しかけたアマンダは4人で楽しい時を過ごす。三銃士のイメージは重なるし、オリビアの「女の人が来たのは初めて、うれしいな」というグラハムへの応援にもなるセリフには本当にうれしくなるし、グラハム演じるナプキンマンの微笑ましいこと。

アマンダとアイリスの電話中にグラハムからもかかってきて、アイリスが中継役になるアイディアもいいし、2人は最初こそいきなりセックスになってしまったものの、途中からはキスそのものを楽しんでいるようで好感が持てる(あれ、腰が引けてたって書いたのに)。

そういう工夫は沢山あるのに、何でなんだろ。

一方のアイリスもただ豪邸を楽しんでいるだけでなく、アマンダの元カレの友達で作曲家のマイルズ(ジャック・ブラック)と知り合いになる。マイルズはやはり浮気されての失恋病男で、アイリスと同じように「便利でいい人」なのがミソ。だからこちらは2人共、元の恋人に決着を付けてからやっと恋が始まる。2人共恋人に復縁を迫られるあたりも似ているのだな(ジャスパーはわざわざロンドンからやってくるのだ)。

アイリスはまた、たまたま知り合った90歳の元脚本家アーサー(イーライ・ウォラック)にも、君が主演女優だと励まされる。実はこの老脚本家がらみの挿話は、アイリスが家にこもっていた彼に手を貸して、祝賀会に出かけていくようになる場面があるように、時間もそれなりに使っているのだが、何故か機能しているとはいえない。その証拠に、アーサーが祝賀会の壇上で話しているのに、アイリスとマイルズでお喋りしてしまう場面があるのだけど、これはないでしょう。

マイルズには、いつものジャック・ブラック調で映画ネタをふんだんに語らせたり(『卒業』ではビデオ屋で、ダスティン・ホフマンに「顔がバレたか」と言わせるわかりやすいカメオシーンまである)、アマンダには映画の予告篇のように自己分析してしまう場面が何度かあったりと、先にも書いたように細かな工夫が多い。

極めつけは、15歳で親が離婚したことから強くならねばと頑張って泣けなくなっていたアマンダが、泣き虫のグラハムと大泣きすることだろうか。でもね。

この噛み合わなさは何故なのか。結末が読めていたから。切実さが伝わらないから。ふむ。
よくわからんのだが、とにかくそういう印象のまま終わってしまったのだな。基本的には女性の目線での願望映画だから私には合わなかったのかも。

2週間が終わったらどうするのかって問題が残るとは思うのだけど、最後は4人共(子供たちも)ロンドンで楽しそうにしていました。ここから先は、考えてもしょーがないしょーがない。

【メモ】

グラハムは妻とは2年前に死別。謎だったのは、週末に子供を預けて独身男のように振る舞っていたからで、携帯に違う2人の女性の名前を見たアマンダは余計勘違いしてしまう。

三銃士のように暮らしていたというアマンダのセリフが、子供たちによってなぞられる。

映画ネタは『炎のランナー』『ミッション』など。他にリンジー・ローハンとジェームズ・フランコの映画の予告篇(これは架空か)も。それと元脚本家の机にはオスカー像が見えた。

原題:The Holiday

2006年 135分 ビスタサイズ アメリカ 日本語字幕:古田由紀子

監督・脚本:ナンシー・マイヤーズ 製作:ナンシー・マイヤーズ、ブルース・A・ブロック 製作総指揮:スザンヌ・ファーウェル 撮影:ディーン・カンディ 美術:ジョン・ハットマン 衣装デザイン:マーリーン・スチュワート 編集:ジョー・ハッシング 音楽:ハンス・ジマー
 
出演:キャメロン・ディアス(アマンダ)、ケイト・ウィンスレット(アイリス)、ジュード・ロウ(グラハム)、ジャック・ブラック(マイルズ)、イーライ・ウォラック(アーサー)、エドワード・バーンズ(イーサン)、ルーファス・シーウェル(ジャスパー)、ミフィ・イングルフィールド(ソフィ/グラハムの長女)、エマ・プリチャード(オリビア/グラハムの次女)、シャニン・ソサモン(マギー)、サラ・パリッシュ(ハンナ)、ビル・メイシー(アーニー)、シェリー・バーマン(ノーマン)、キャスリン・ハーン(ブリストル)

ドレスデン、運命の日

シャンテシネ3 ★★☆

ポスターに書かれた監督のサイン(シャンテシネ3)

■空爆と平行して描かれるドラマが稚拙

1945年2月の連合国によるドレスデン大空襲(映画に描かれる13日の2波の空爆は英空軍のもの)を背景に、ドイツの若い看護師のアンナ(フェリシタス・ヴォール)と、英空軍パイロット、ロバート(ジョン・ライト)との恋を描く。

が、この恋は少し強引か。父カール(ハイナー・ラウターバッハ)の病院で働くアンナには、外科部長のアレクサンダー(ベンヤミン・サドラー)という婚約者がいて、アンナがアレクサンダーを好きでたまらない、というシーンがいくつかあるし、アンナはアレクサンダーにプロポーズの儀式?までさせているのだ。

これはロバートとの間に芽生える恋を強調する意味があったのかもしれないが、あとの説明がうまくないから逆効果になっている。アンナと同様に逃亡兵をかくまった女性がゲシュタポによって銃殺される事件で、アレクサンダーへの見方が変わったり、上昇志向にならざるを得なかった彼の叫びもなくはないのだが。

出撃したロバートは墜落されてパラシュートで脱出するが、気付いた住民の銃弾で腹部に傷を負ってしまう。山中から出て病院に潜むが、アンナに発見され、彼女の手当を受けることになる。

ロバートの母はドイツ人で、アクセントはともかく言葉に不自由はないという設定。でないと話にならないわけだからそれはいいのだが、できれば流れの中で納得させてほしいものだ。また、空爆の後のアンナとロバートの再会をはじめとして、偶然の介在する部分が多すぎるのも話をちゃちなものにしている。

一方、ドレスデン大空襲の模様は、連合国(イギリスか)の作戦室の場面からソ連との駆け引きなどを織り込んで、かなりリアルなものになっている。単純に飛び立っていく爆撃機などの映像に、当時のニュースを被せるだけでなく、撮影班が映したものだと思わせるようにそれらしく編集した映像まで入れた凝りようなのだ。

市街地の映像も丹念だ。まだ被害を受けていない時期の市電が走っているような場面をさり気なく積み重ねておいて、クライマックスへともっていく。2波にわたる爆撃、そして瓦礫と化した街を、時間をふんだんに使って再現している。

そこで右往左往するしかない主人公や市井の人々が痛ましい。防空壕に入れてもらえないユダヤ人や、爆撃に絶えた防空壕の中で死を覚悟して祈り続ける人々。そして、一酸化炭素中毒で死んでいく人々などを克明に描いていて迫力のあるものにしている。

映画の最後は、空襲で廃墟のままになっていた聖母教会が2005年に再建されたセレモニーシーンである。フェリシタス・ヴォールがここに出てくることで、映画がこれに連動して企画されたのだとわかる(多分ね)。ドイツ人にとって聖母教会の再建は相当感慨深いものがあるのだろう。

無差別爆撃という連合国側の戦争犯罪(よくわからんが)も指摘される題材を選んだからではないだろうが、医療物資が不足する中、家族をスイスに逃がすためとはいえ父がモルヒネを隠し(この一部始終を潜んでいたロバートが見てしまいアンナにバレることになる)、ナチスの幹部と裏取引をしていることや、ナチスの高官の秘書をしているアンナの妹のふるまい、アンナの友人の夫をユダヤ人にして、ユダヤ人自身に仲間に収容所へ行く通知を配らせていることなどもあまさず描いて、ドイツとしての反省も忘れていない。

そういうのはあまりに自明のことで、描かないわけにはいかないのかもしれないが、でもだからよけい、アンナには英空軍パイロットを救わせて恋(くらいならまだしも子供まで)をさせるのではなく、普通のドイツ人女性として戦争に生きた苦悩こそを描くべきだったと思うのだが。

原題:Dresden2006年 150分 ビスタサイズ ドイツ 日本語字幕:■

監督:ローランド・ズゾ・リヒター 製作:ニコ・ホフマン、サーシャ・シュヴィンゲル、ニコラス・クラエマー 脚本:シュテファン・コルディッツ 撮影:ホリー・フィンク 音楽:ハラルド・クローサー、トーマス・ワンカー

出演:フェリシタス・ヴォール(アンナ)、ジョン・ライト(ロバート)、ベンヤミン・サドラー(アレクサンダー)、ハイナー・ラウターバッハ(カール)、カタリーナ・マイネッケ、マリー・ボイマー、カイ・ヴィージンガー、ユルゲン・ハインリッヒ、ズザーヌ・ボアマン、ヴォルフガング・シュトゥンフ

蟲師

新宿ミラノ2 ★★☆

■面白い映像のようには見えてこない蟲

大友克洋には2003年に『スチームボーイ』があったが、実写となると『ワールド・アパートメント・ホラー』以来で、実に15年ぶりになるという。自作ではなく、わざわざ漆原友紀の作品を借りてというあたりに、余計期待してしまったのだが、原作を知らない者にはついていくのがやっとの、ちょっとやっかいな作品だった。

物語はかなり変わったもので、説明が難しいのだが、公式サイトには次のように書かれている。

100年前、日本には「蟲」と呼ばれる妖しき生き物がいた。それは精霊でも幽霊でも物の怪でもない、生命そのものであり、時に人間にとりつき、不可解な自然現象を引き起こす。蟲の命の源をさぐりながら、謎を紐解き、人々を癒す能力を持つ者は「蟲師」と呼ばれた。

白髪で、左が義眼ギンコ(オダギリジョー)もその蟲師のひとり。何故旅をしているのかよくわからないのだが、旅先で耳を患っている3人を治してお代をもらっていたから、それで生計を立てているのだろうか。庄屋の夫人(りりい)にその腕をかわれ、彼女の孫で4本の角が生えてしまった真火(守山玲愛)を診るギンコ。

この一連の治療は導入部といったところで、蟲や蟲師の説明を兼ねているのだが、とはいえ説明はさっぱりだ。「阿」だか「吽」とかいう音を食う蟲は、普通は森に住んでいるが、雪は音を吸収するので村に降りてきたらしいと言われてもねー。巻き貝のような蟲が触手を伸ばす映像には不思議な感覚が詰まっていて、普通の人間には本来見えないものの具現化ではかなり成功しているのだが、架空の話であるし、だから映画の中の人間はその存在を認めているようなのだが、普通の人間としてはやはり納得のいく説明がほしいのだ。

庄屋をあとにしたギンコは、虹郎(大森南朋)と知り合う。彼は、幼い頃、父親と一緒に見た虹蛇という蟲を捕まえようとしていた。と言われてもはぁと言うしかないのだが、2人のところに、文字で蟲封じをしている淡幽(蒼井優)の身体に異変が起きているという知らせが入る。

ギンコが淡幽を助ける場面は、淡幽が巻物に封じた文字が滲みだす部分など、不可思議な雰囲気がよく出た素晴らしいものになっている。ただ何度も言うように、いくら説明されてもちっとも頭に入ってこないのだ。

淡幽の乳母のたま(李麗仙)によると、ぬいという蟲師(江角マキコ)の話を淡幽が記録していて急に体調を崩したという。その巻物を調べるギンコだが、ぬいの語ったヨキ(稲田英幸)という少年の部分を読んでいると、ギンコの体からもトコヤミという蟲があらわれる。理解出来ていないからうまく説明できないのだが、とにかくギンコはたまと虹郎の手を借りて淡幽をなんとか元に戻すのだが、自身が蟲に憑かれて倒れてしまう。そして今度は、救われた淡幽がギンコのために、彼に取り憑いた蟲(文字)を巻物に戻す作業をはじめる。

ギンコは意識を取り戻すが、まるで生気を失っていた。虹郎はギンコを連れ、身体に効くという命の源の光酒を求めて旅に出る。とはいうもののギンコは次第に快復していくし、「たまたま歩く方角が一緒なだけ」だからなのか、2人の関係が何かを明かすというようにはなっていない(多分)。虹郎は橋大工になる夢を語り、ギンコは淡幽に対する仄かな恋心を打ち明けるが、虹蛇らしきものを見たことで(捕まえて持って帰ると言ってたのに)、唐突な(観客にとっては)別れがやってくる。この時虹郎は、いつかギンコが淡幽を伴って自分の里を訪ねてくる、というようなことを叫ぶのだが。

ギンコはこのあとぬいに会い、自分の正体がヨキであることを知り(なんだよね?)、石のようになったぬいに薬をかけるのだが、これで彼女がどうなったのか。淡幽の病気もヨキの話からであるならトコヤミが原因で、それがギンコに取ってかわったようにみえた(代わるというよりはギンコの中のトコヤミが反応したのだろうか)のだが、この最後はさらにわからない。

魅力的な映像に比べ、話の方のこの不親切さあんまりだ。だから勝手に解釈しまうが、ぬいもギンコも片目が見えないのは銀蠱という池の底に棲む眼のない魚のような蠱のせいで、しかし淡幽が取り憑かれたのはトコヤミではなかったか(彼女もギンコのことを想っているからかも)と思うのだが、でもそうだとしても何だというのか。

ただ、蟲という存在を敵対するものとしてでなく、そこにもとからあるものとして位置づけているのは面白かった。だから蟲師の治療行為(というのかどうか)も、蟲を殺すのではなく、憑かれた者の体内から逃がすのである。

あと近代化によって我々が失ってしまったものという意味では、渡辺京二の『江戸という幻景』を読んだ時のことを、少しだが思い出したことを付け加えておく。

  

2006年 131分 ビスタサイズ

監督:大友克洋 プロデューサー:小椋悟 エグゼクティブプロデューサー:パーク・サンミン、二宮清隆、泉英次 原作:漆原友紀 脚本:大友克洋、村井さだゆき 撮影:柴主高秀 水中撮影:さのてつろう 特殊メイク:中田彰輝 美術:池谷仙克 造型:中田彰輝 衣裳:千代田圭介 編集:上野聡一 音楽:配島邦明 VFXスーパーバイザー:古賀信明 ヘアメイク:豊川京子 衣裳デザイン:おおさわ千春 音響効果:北田雅也 照明:長田達也 装飾:大坂和美 録音:小原善哉 助監督:佐藤英明
 
出演:オダギリジョー(ギンコ)、江角マキコ(ぬい)、大森南朋(虹郎)、蒼井優(淡幽)、
りりィ(庄屋夫人)、李麗仙(たま)、クノ真季子(真火の母)、守山玲愛(真火)、稲田英幸(ヨキ)、沼田爆

ラッキーナンバー7

シネパトス3 ★★☆

■見事に騙されるが、後味は悪い

豪華キャストながらヒットした感じがないままシネパトスで上映されていては、ハズシ映画と誰もが思うだろう。が、映画は意外にも練り込まれた脚本で、娯楽作として十分楽しめるデキだ(R-15はちょっともったいなかったのではないか)。とはいえ全貌がわかってしまうと、手放しで喝采を送るわけにはいかなくなってしまう。

失業、家にシロアリ、彼女の浮気、と不運続きのスレヴン(ジョシュ・ハートネット)は、友達のニックを訪ねてニューヨークにやってくる。隣に住むリンジー(ルーシー・リュー)と知り合って互いに惹かれあうものの、失踪中のニックと間違われてギャングの親玉ボス(モーガン・フリーマン)に拉致されてしまう。

話の展開は不穏(そういえば巻頭に殺人もあったっけ)なのに、リンジーとのやりとりなどはコメディタッチだから気楽なものだ。ボスの前に連れて来られるまでずっとタオル1枚のままのスレヴンだから間抜けもいいところで、これは観客を油断させる企みか。巻き込まれ型は『北北西に進路を取れ』(中に出てくる)そのものだし、会話に『007』を絡めたりと、映画ファンへの配慮も忘れない。けど、こうやって洒落たつくりを装っているのは、ほいほいと人が殺されていくからなのかしらん。

ボスからは借金が返せないなら敵対するギャングの親玉ラビ(ベン・キングズレー)の息子を殺せ(息子が殺されたことの復讐)と脅かされ、スレヴンは承諾せざるを得ない。ところがニックはラビにも借金があったらしく、スレヴンは、今度はラビに拉致されてしまうのである。

不幸が不幸を呼ぶような展開は、実はスレヴンと、狂言回しのようにここに至るまでちらちら登場していた殺し屋グッドキャット(ブルース・ウィリス)とで仕組んだものだった。20年前にスレヴンの両親を殺したボスとラビに対する復讐だったのである(しかしここまで手の込んだことをするかしらね)。

この流れはもしかしたら大筋では読めてしまう人もいるだろう。が、それがわかっても楽しめるだけの工夫が随所にある。語り口もスマートだし、いったんは謎解きを兼ねてもう1度観たい気分になる。が、席を立つ頃には、この結末の後味の悪さにげんなりしてしまうのだからややこしい。

グッドキャットは何故殺すはずだったヘンリーを助け、育てたのだろうか。それも復讐をするための殺し屋として。これもかなりの疑問ではあるが、それはおいておくとしても、復讐のために20年を生きてきたヘンリーのことを考えずにこの映画を観ろといわれてもそれは無理だろう。何故20年待つ必要があったかということもあるし、どんでん返しの説明より、映画はこのことの方を説明すべきだったのだ。

それにこれはもう蛇足のようなものだが、ヘンリーの父親が八百長競馬の情報に踊らされたのだって、ただ欲をかいただけだったわけで……。

いつもつかみどころのないジョシュ・ハートネットが、今回はいい感じだったし、ルーシー・リューもイメチェンで可愛い女になっていて、だから2人のことは偶然とはいえ必然のようでもあって、最後は恋愛映画のような終わり方になる。なにしろこれは想定外なわけだから。グッドキャットもヘンリーに父親の時計を渡していたから、これで父親役はお終いにするつもりなのだろう。このラストで少しは救われるといいたいところだが、なにしろ無神経に人を殺しすぎてしまってるのよね(リンジーのような死なないからくりがあるわけでなし)。

原題:Lucky Number slevin

2006年 111分 シネスコサイズ R-15 日本語版字幕:岡田壮平

監督:ポール・マクギガン 製作:クリストファー・エバーツ、アンディ・グロッシュ、キア・ジャム、ロバート・S・クラヴィス、タイラー・ミッチェル、アンソニー・ルーレン、クリス・ロバーツ 製作総指揮:ジェーンバークレイ、ドン・カーモディ、A・J・ディックス、シャロン・ハレル、エリ・クライン、アンドレアス・シュミット、ビル・シヴリー 脚本:ジェイソン・スマイロヴィック 撮影:ピーター・ソーヴァ 編集:アンドリュー・ヒューム 音楽:J・ラルフ

出演:ジョシュ・ハートネット(スレヴン、ヘンリー)、ブルース・ウィリス(グッドキャット)、ルーシー・リュー(リンジー)、モーガン・フリーマン(ボス)、ベン・キングズレー(ラビ)、スタンリー・トゥッチ(ブリコウスキー)、ピーター・アウターブリッジ、マイケル・ルーベンフェルド、ケヴィン・チャンバーリン、ドリアン・ミシック、ミケルティ・ウィリアムソン、サム・ジェーガー、ダニー・アイエロ、ロバート・フォスター

どろろ

楽天地シネマズ錦糸町-1 ★★☆

■醍醐景光にとっての天下取りとは

戦乱の世に野望を滾らせた醍醐景光(中井貴一)は、生まれてくる子供の48ヶ所の体と引き換えに魔物から権力を得る。ただの肉塊として生まれた赤ん坊は川に流されるが、呪師の寿海(原田芳雄)に拾われる。左手に妖刀を備えた作り物の体を与えられた赤ん坊は、百鬼丸(妻夫木聡)として成人する。

寿海が死、百鬼丸は魔物を倒せば自分の体を取り戻すことを知って旅に出るのだが、全部を取り戻すとなると48もの魔物を倒さねばならない。この魔物対決が映画の見所の1つになっている。百鬼丸に仕込まれた妖刀に目をつけた泥棒のどろろ(柴咲コウ)が、百鬼丸につけまっとってという流れだから、題名も『どろろ』よりは『百鬼丸』の方がふさわしい気がするが、手塚治虫の原作も読んだことがないので、そこらへんの事情はよくわからない。

色数を絞ったり彩度を上げたりした画面の上で、これでもかと繰り広げられるバトルの数々は、CGや着ぐるみが安っぽいながら、なにしろ相手は魔物だから造型も自由自在だし、意外にも楽しい仕上がりとなっている。

ただ、このことで百鬼丸とどろろが絆を深めていったり、体を取り戻すごとに百鬼丸が人間らしくなっていく部分は、描き込み不足の感が否めない。体は偽物(戦で死んだ子供たちの体で作られている)ながら、寿海から愛情をそそがれ、しっかりとした考えを持つ青年に育った百鬼丸は、人間の体を取り戻すことの意味をわかっているはずだ。事実、不死身だった体は、少しずつ痛みを感じるようになる。魔力を失うだけでなく、死さえ身近になってくるのである。しかし残念ながら、百鬼丸に当然生じているだろう心の葛藤は伝わってこない。父とは違う道を選んでいるこの過程こそが、後半のドラマを結実させるはずなのに。

どころか、映画は父だけでなく母の百合(原田美枝子)や弟の多宝丸(瑛太)を登場させて、焦点をどんどん曖昧にしてしまう。彼らに微妙な立場の違いや心境を吐露させて厚みを持たせたつもりなのかもしれないが、逆に家族だけの話のようになってしまって、スケール感までが失われてしまうのだ。

魔物に我が子の体を売り渡した父までが最後には改心して、結局家族はみんないい人でしたになってしまっては、腰砕けもいいところだ。しかも彼はちょっと前に、百合まで迷うことなく斬り捨てているのだ。それで改心したといわれてもねー。魔物対決の過程では庶民の生活の悲惨さにだって触れていたのに、全然納得できないよ。だいたい天下取りのための魔力を手に入れたはずなのに、20年経ってもそれは果たされず(天下統一は目と鼻の先とは言っていたが)って、よくわからんぞ。

私が理解できないのに、百鬼丸が納得してしまうのもどうかと思うが、どろろにとっても醍醐景光は親の敵だったはずで、そのどろろまでが敵討ちをあきらめてしまう。多宝丸は父が死んだあとは百鬼丸に継いでもらいたいなどと言うし、揃いも揃って物わかりがよくなってしまうのでは臍を曲げたくなる。

最後に「残り二十四体」と百鬼丸の体を持っている魔物の数が表示されるのは(まだ、そんなにあったのね)、続篇を予告しているわけで、だったら醍醐景光と百鬼丸との話は、一気にカタを付けるのではなく、じっくり後篇まで持ち越してもよかったのではないか。

「オレはまだ女にはなんないぞ」「ああ、望むところだ」というどろろと百鬼丸のやりとりが終わり近くにあったが、このふたりの関係がうまく描ければ、後篇は意外と魅力ある映画に仕上がる予感がするのだが。

  

【メモ】

制作費は20億円だから邦画としてはけっこうお金を使っている。

舞台は戦国時代から江戸時代の風俗をベースに多国籍的な要素を織り込んだもので、醍醐景光の城などは空中楼閣の工場とでもいった趣。またニュージーランドロケによる風景を背景にしていたりもするが、これは違和感がありすぎた。

2007年 138分 ビスタサイズ

監督:塩田明彦 アクション監督:チン・シウトン アクション指導:下村勇二 プロデューサー:平野隆 原作:手塚治虫 脚本:NAKA雅MURA、塩田明彦 撮影:柴主高秀 美術監督:丸尾知行 編集:深野俊英 音楽:安川午朗、福岡ユタカ 音楽プロデューサー:桑波田景信 VFXディレクター:鹿住朗生  VFXプロデューサー:浅野秀二 コンセプトデザイン:正子公也 スクリプター:杉山昌子 衣裳デザイン:黒澤和子 共同プロデューサー:下田淳行 照明:豊見山明長 特殊造型:百武朋 録音:井家眞紀夫 助監督:李相國
 
出演:妻夫木聡(百鬼丸)、柴咲コウ(どろろ)、中井貴一(醍醐景光)、瑛太(多宝丸)、中村嘉葎雄(琵琶法師)、原田芳雄(寿海)、原田美枝子(百合)、杉本哲太(鯖目)、土屋アンナ(鯖目の奥方)、麻生久美子(お自夜)、菅田俊(火袋)、劇団ひとり(チンピラ)、きたろう(占い師)、寺門ジモン(飯屋の親父)、山谷初男(和尚)、でんでん、春木みさよ、インスタントジョンソン

エレクション

2007/01/28 テアトル新宿 ★★☆

■静かな男が豹変する時……

5万人もの構成員を擁する和連勝会という香港最大の裏組織では、2年に1度行われる幹部会議での次期会長選挙が近づいていた。候補者は、年長者からの人望が厚いロク(サイモン・ヤム)に、強引に勢力を広げてきたディー(レオン・カーファイ)。選挙とはいえ裏工作はすさまじく、単なる穏健派と武闘派という枠を超えた闘いになっていた。

過半数を抑えていたはずのディーだったが、なりふり構わぬ賄賂などを長老幹部のタン(ウォン・ティンラム)に指摘され、ロクに破れてしまう。納得できないディーは、自分の意に添わない者を報復し、前会長のチョイガイには会長職の象徴である竜頭棍をロクに渡さないよう脅す。

ここからはこの竜頭棍をめぐっての争奪戦が始まるのだが、冷静に考えれば、じゃあ一体選挙はなんだったのだ、と思ってしまう。一連の不穏な動きに警察が口をくわえているはずもなく、ディーやロクを含めた和連勝会の幹部たちは次々に逮捕されてしまうが、すでに竜頭棍の争奪戦は部下たちによる争いになっていた。映画のかなりの時間を占める広州(チョイガイの命で竜頭棍は本土に渡っていた)から香港に至るこの争いは、登場人物が入り乱れて少しわかりにくいのだが、下部組織ではお互いに敵か味方かの区別さえ定かでないという馬鹿らしい状況は演出できていた。

これだけの争いを繰り広げながら、結局は手打ちのようなことになって、何とも重々しい儀式が執り行われるのだが、竜頭棍といい、この儀式といい、まったく理解不能。常に組織のまとめ役を意識しているロクや、最終的に竜頭棍を手に入れた頭脳的なジミー(ルイス・クー)が幹部への道を約束されたことで儀式を利用するのはまだしも、「新和連勝会」を立ち上げて宣戦布告までしたディーが神妙な顔つきをしてその場にいるのである。

ロクから次の会長選での支持を約束されたディーは、ロクと肩を並べるようにしてしばらくは我が世を謳歌していたが、調子に乗って「俺たちも会長を2人にしねえか」とロクにもちかけたことで、ロクの本性が剥きだしとなる恐ろしい結末を迎えることになる。

ロクの豹変ぶりは、いままでの彼の性格からは想像しにくいだけに恐怖度が高い。しかも殺しの手口は銃などではなく、一緒に釣りに行った先にころがっていた何ということもない大きな石で、しかしその行為の執拗さは狂気を思わせるものだ。ディーに必要以上にハイテンションな演技をさせていたのはこのラストシーンのためだったか。あれだけ暴れまくっていた(しかしそうはいってもやはり幼稚でしかない)男のあまりにあっけない最期。ロクはディーの妻も同じように殺して埋めてしまうのだが、その一部始終を彼の子供が見ているという、なんとも居心地の悪い場面まで用意されている。

ラストに限らずヒリヒリするような痛みを伴う映画ではあるが、意味のない竜頭棍の争奪戦や儀式が、それをぶち壊していないか。意味のないことを繰り返していることに批判の矛先があるのかもしれないが、私には興味のない世界でしかなかった。

【メモ】

中国黒社会の源流が少林寺にあるというようなことがいわれていたが、その真偽はわからない。ただ「漢民族の名の下に……」という部分は本当らしい。HPには「組織の歴史は17世紀にさかのぼる。満州族の清王朝支配を打倒し、漢民族王朝を復活するために、血の誓いを交わして結ばれた秘密結社として発足」とある。

原題:黒社會 英題:Election

2005年 101分 シネスコサイズ 香港 R-15 日本語版字幕:■

監督:ジョニー・トー[杜(王其)峰] 製作:デニス・ロー[羅守耀]、チャールズ・ヒョン[向華強]、ジョニー・トー 脚本:ヤウ・ナイホイ[游乃海]、イップ・ティンシン[葉天成] 撮影監督:チェン・チュウキョン[鄭兆強] 音楽:ルオ・ダーヨウ[羅大佑] 編集:パトリック・タム[譚家明] 衣装:スタンレー・チョン[張世傑] 美術監督:トニー・ユー[余興華] スチール:岡崎裕武

出演:サイモン・ヤム[任達華](ロク)、レオン・カーフェイ[梁家輝](ディー)、ルイス・クー[古天樂](ジミー)、ニック・チョン[張家輝](フェイ)、チョン・シウファイ[張兆輝](ソー)、ラム・シュー[林雪](ダイタウ)、ラム・カートン[林家棟](トンクン)、ウォン・ティンラム[王天林](タン)、タム・ビンマン[譚(火丙)文](チュン)、マギー・シュー[邵美(王其)](ディー夫人)、デヴィッド・チャン[姜大衛](ホイ警視)

悪夢探偵

2007/01/20 シネセゾン渋谷 ★★☆

■現代は死にたい病なのか。悪夢探偵、がどーもねー

密室のベッドで自分自身を切り刻んで死んだと思われる事件が続いて起き、そしてどちらも死の直前に、ケータイから「0」(ゼロ)と表示される相手に発信していたことがわかる。キャリア組から現場志願で担当になったばかりの霧島慶子(hitomi)は、関谷刑事(大杉漣)に嫌味を言われながらも、パートナーとなった若宮刑事(安藤政信)と捜査を開始する。ゼロによる暗示が自殺を招いた可能性があるため、ゼロとのコンタクトは危険かもしれず、また被害者が悪夢を見ていたようだという証言から、「悪夢探偵」である影沼京一(松田龍平)にも協力を求めることになる(非科学的とか弁解してたけど、こりゃないよね)。

それ以前に、この悪夢探偵という言葉には苦笑(いや、いい意味でだったのだけど)。勝手に、達観した人物が超能力で夢に入り込んで、この間観たばかりの『パプリカ』と同じようなことでもするのかと思っていた(アニメと実写という違いはあるが、それにしてもまったく正反対の色調だ)。

が影沼は、他人の夢を共有する特殊能力こそ持っているが、そのことには怯えている。他人の夢に入るということは、人間の隠された本性や嫌な部分と対峙しなければならず、依頼者と自分に傷が残るかららしいのだが、だから悪夢探偵という言葉がまったく似つかわしくない人物。どころか自殺願望まで。だけど「人の夢の中で死ぬのだけはごめんだ」と(これはなんだ?)。だから霧島の依頼にも「いやだ、いやだ」とだだっ子のように耳を貸そうとしない。

捜査が進展しないことで若宮刑事はゼロに発信してしまう。このときケータイの向こうから「今、タッチしました」という声が入ってすぐ切れてしまうのだが、これは怖い。若宮刑事が危険にさらされることを知った悪夢探偵はしかたなく、若宮刑事の夢の中に入りゼロとの接触を試みる。

あとになって、霧島の問いに心(夢)の中に入っていけるのは共感ではないかとゼロが答える場面があり、なるほどと思う(とはいえこの説明だけではな)のだが、これで前向きで明るいキャラの若宮(破壊願望故の自殺願望?)もエリートの霧島も自殺願望があることになってはうんざりする。それだけ現代人の心の闇が深いということなのだろう。そして、自分でもそのことを簡単には否定できないにせよ、だ。

もう1つこの共感には、被害者の「一緒に死んでほしい」という気持ちがあることも見逃せない。被害者が本当に(繋がりを確認できる)死を望んでいたのだとしたら、これは犯罪なのだろうか、ということもあるのだが、映画はそこにとどまって考える余裕などは与えてくれない。

ゼロが具現化されてからは、もうとんでもないことになって、映像の洪水状態の中で、悪夢探偵の過去のトラウマが語られ、ゼロからは「平和ボケしたヤツらに真実を教えられるのはオレとお前だけ」とかなんとか。真実って? 「一緒に遊ぼうぜ」とも言っていたが、これは自殺騒動を一緒になってやろうということなのか。このあたりで完全に付いていけなくなっていた私にはわけがわからない。

悪夢探偵を救ったのは霧島の「私と生きて」という声。ここからはあっさり解決にむかい、ケータイを離さず何人かと話をしていた危篤状態にいた患者がゼロだった、と。で、最後は霧島と悪夢探偵の、恥ずかしくない程度に抑えた交流というか、霧島が掴み取った希望のようなものが語られる。

ふうむ。設定はマンガにしても、心の闇の部分はありふれた自殺願望というわかりやすさで提示していたし、「タッチした」と忍び込まれてしまう場面や、街にいる人間が激しく首を振ったり、ケータイがぐちゃりと曲がる映像など、恐怖感もちりばめられているというのに、この感想を書いているほどには、観ている時には感心できなかったのだ。

巻頭に悪魔探偵が、彼の父の恩師だという大石(原田芳雄)の夢から帰ってきた場面が悪夢探偵の紹介フィルムのようにあって、腕が布団の中に引っ込む映像など、ここまではゾクゾクしていたんだが。とはいえ、大石の「恩にきるぞ、悪夢探偵」というセリフには苦笑するしかなかったのだけどね。

 

2006年 106分 ビスタサイズ PG-12

監督・脚本・美術・編集:塚本晋也 プロデューサー:塚本晋也、川原伸一、武部由実子 エグゼクティブプロデューサー:牛山拓二 撮影:塚本晋也、志田貴之 音楽:石川忠 VFX:GONZO REVOLUTION エンディングテーマ:フジファブリック『蒼い鳥』 音響効果:北田雅也 特殊造形:織田尚 助監督:川原伸一、黒木久勝
 
出演:松田龍平(影沼京一/悪夢探偵)、hitomi(霧島慶子)、安藤政信(若宮刑事)、大杉漣(関谷刑事)、原田芳雄(大石恵三)、塚本晋也(ゼロ)

あるいは裏切りという名の犬

銀座テアトルシネマ ★★☆

■実話が元にしては話が強引

パリ警視庁(原題はここの住所:オルフェーヴル河岸36番地)で次期長官と目されるレオ・ヴリンクス(ダニエル・オートゥイユ)とドニ・クラン(ジェラール・ドパルデュー)の2人の警視。昇進の決まったロベール・マンシーニ長官(アンドレ・デュソリエ)の気持ちは、上昇志向の強いクランではなく、仲間からの信頼が厚いヴリンクスにより傾いていた。

折しも多発していた現金輸送車強奪事件の指揮官に長官はヴリンクスを任命するが、ヴリンクスとは別にこの事件を追っていたクランは、ヴリンクスの下で動くしかないことを承知で、長官に捜査に加えてもらうよう直訴する。

シリアン(ロシュディ・ゼム)からヴリンクスが得た情報により犯人のアジトを取り囲んだ警官隊だったが、手柄を立てようとしたのかクランが突然単独行動に出(これは?だし彼自身が標的になりかねない危険なもの)、そのため激しい銃撃戦となる。定年間近だったヴリンクスの相棒エディ・ヴァランス(ダニエル・デュヴァル)が殉職し、犯人は部下のエヴ(カトリーヌ・マルシャル)を盾にして逃亡してしまう。

クランの行動は糾弾され、調査委員会にかけられる。一方ヴリンクスは犯人逮捕にこぎつけるが、シリアンの情報提供の際に彼の殺人を見逃した(これがシリアンの交換条件だった)ことをクランから調査部に密告され、共犯容疑で逮捕されてしまう。特別外泊中のシリアン(獄中の身)の、刑務所に送った相手への報復殺人があざやかすぎるのはともかく、そのそばにいたヴリンクスを目撃していた娼婦が出てきて(かなり?)、クランに情報提供(これも?かな)となると、都合がよすぎないだろうか。

クランは調査委員会で無罪になり2人の立場は逆転する。ヴリンクスとの面会も許されない妻のカミーユ(ヴァレリア・ゴリノ)はシリアンに呼び出されるが、家を盗聴していたクランらに追跡される。カミーユの密告を疑ったシリアンは無謀な逃走をし、車は横転してしまう。クランはかつて彼も愛していたはずのカミーユに銃弾を撃ち込む。

このクランの行動は謎ではないが、承認できない。少し前にカミーユから拒絶される場面はあるが、といってここまでするだろうか。状況からいっても必然性がないし自分が危なくなるだけだから、単純にクランの愛情が怨みに転化したと解釈していいのだろうが、話をつまらなくしてしまった(それにカミューユはすでに息絶えていたようにも見えた)。それともクランの人間性をより貶めるためのものだろうか。手錠のままカミーユの葬儀の場にいるヴリンクスに、クランはシリアンが彼女を撃ったとわざわざ告げているから、そうなのかもしれない。このセリフはヴリンクスにかえって疑念を抱かせるだろうから。

ヴリンクスは7年後に出所し、カミーユの死の真相を探り始め、パリ警視庁長官となっているクランに行き着く。

物語としてはこんなところだが、あらすじを書きながら?マークを付けていったように展開が少々強引(付け加えるなら、クランは調査委員会で無罪にはなったが、しかし長官にはなれないのでは)なのと、やはりクランのカミーユ殺害が納得できなかったことで、最後まで映画に入り込めなかった。肩入れしやすいヴリンクスにそって観ればいいのかもしれないが、ラストの決着の付け方もよくわからなかったから、それもできず。ま、私の趣味ではない作品ということになるのかも。

細かいことだが、最初にある警官による警視庁の看板強奪も何故挿入したのかが不明。まさかお茶目な警官像ということはないだろう。とすると、警官といったってやっているのはこんなものさ、とでも? あと、音楽が少しうるさすぎたのだけど。

 

【メモ】

ヴリンクス警視はBRI(探索出動班)所属、クラン警視はBRB(強盗鎮圧班)所属。

原題:36 Quai des Orfevres

2006年 110分 シネスコサイズ フランス 日本語字幕:■

監督:オリヴィエ・マルシャル 製作:フランク・ショロ、シリル・コルボー=ジュスタン、ジャン=バティスト・デュポン 製作総指揮:ユグー・ダルモワ 脚本:オリヴィエ・マルシャル、フランク・マンクーゾ、ジュリアン・ラプノー 共同脚本:ドミニク・ロワゾー 撮影:ドゥニ・ルーダン 編集:ユグー・ダルモワ 音楽:アクセル・ルノワール、エルワン・クルモルヴァン
 
出演:ダニエル・オートゥイユ(レオ・ヴリンクス)、ジェラール・ドパルデュー(ドニ・クラン)、アンドレ・デュソリエ(ロベール・マンシーニ)、ヴァレリア・ゴリノ(カミーユ・ヴリンクス)、ロシュディ・ゼム(ユゴー・シリアン)、ダニエル・デュヴァル(エディ・ヴァランス)、ミレーヌ・ドモンジョ(マヌー・ベルリネール)、フランシス・ルノー(ティティ)、カトリーヌ・マルシャル(エヴ)、ソレーヌ・ビアシュ(11歳のローラ)、オーロル・オートゥイユ(17歳のローラ)、オリヴィエ・マルシャル(クリスト)、アラン・フィグラルツ(フランシス・オルン)

王の男

TOHOシネマズ錦糸町-8 ★★☆

■着想は悪くないが、主人公に焦点が合わせづらい

旅芸人のチャンセン(カム・ウソン)は、彼とは幼なじみで女形のコンギル(イ・ジュンギ)と共に、1番大きな舞台を開こうと漢陽(ハニャン/ソウル)の都にやってくる。さっそく大道芸人のユッカプ(ユ・ヘジン)とその弟分であるチルトゥク(チョン・ソギョン)とパルボク(イ・スンフン)に、芸の格の違いを見せつけて仲間に引きこむ。

かなり下品でどうかと思う内容のものも出てくるが、次々と繰り広げられる大道芸や仮面劇には目を奪われる。時間をとってじっくり見せてくれるのもいい。カム・ウソンが特訓したという綱渡りも素晴らしい。

チャンセンは、時の王である燕山君(チョン・ジニョン)が妓生(芸者)だったノクス(カン・ソンヨン)を愛妾として宮廷においていることを聞くと、それをネタにした劇を思いつき、たちまち人気ものとなっていく。

しかしすぐ重臣チョソン(チャン・ハンソン)の耳に入るところとなり、チャンセンたちは捕まってしまう。王の侮辱は死刑なのだが、王を笑わせられたら罪は免ぜられるべきというイチかバチかのチャンセンの主張が通って、なんとか(コンギルにも助けられ)燕山君を笑わせることに成功する。どころか、重臣たちの反対をよそに「芸人たちをそばにおき、気が向いたら楽しもう」と王が言い出したことから、宮廷お抱えの身となってしまう。

燕山君(1476-1506)は李氏朝鮮第10代国王で、日本人には馴染みが薄いが韓国では暴君として知られている。第9代国王成宗の長男として生まれるが、臣下によるクーデター(映画ではこの場面が幕となる)で失脚。廟号、尊号、諡号がないのは、廃王となったためである。「父王の法に縛られる俺は本当に王なのか」というセリフからわかるように、燕山君に関しては、遊蕩癖はあるにせよまだ普通の王であるところからはじめて(最初のうちは重臣たちも王に意見をしている)、次第に暴君になっていく様が的確に描かれている。

宮廷内でチャンセンたちは、王と重臣たちとの権力闘争(というには一方的だが)に巻き込まれていく。賄賂暴露劇では、法務大臣が罷免され財産が没収される。これは王の為を思ったチョソンの策略だったが、チャンセンは嫌気がさし宮廷を去る決意をする。が、王の寵愛を受けるようになっていたコンギルは王の孤独に触れたのだろう、去る前にある劇をすることをチャンセンに提案する。その劇というのが、王の母(そもそも本人に問題があったようだ)が祖母らの策略で父の命によって服毒させられた王の幼い頃の事件で、なんとこれは、当の祖母の前で演じられることになる。

芸人たちの演じる劇に、歴史的事実を配した構成が巧みだ。なのに、いつまでも視点が定まらないのでは、落ち着けない。話が宮廷内の権力闘争では、芸人たちの立場はどうしても添え物にならざるをえない。燕山君の突出したキャラクターのお陰にしても、チョン・ジニョンは存在感がたっぷり。それに比べるとカム・ウソンは抑えた演技。どこまでも地味なのはいたしかたないところか。

コンギルは暴君のトラウマに同情したのだろうが、王と人形劇をして遊ぶ描写くらいではもの足りない。それもあってコンギルが宮廷に残ると言い出してからの終盤は、チャンセンの気持ちが、もちろんコンギルを守るためなのだろうが、あまりはっきりせず、目を焼かれてしまうのはぐずぐずしているからだと、手厳しい見方をしてしまう。

そもそもチャンセンとコンギルはどういう関係だったのか。漢陽に出てくる前、ふたりはある旅芸人の一座を抜け出したのだった。座長が土地の有力者に美しいコンギルを夜伽させようとし、それに逆らったチャンセンに同性愛の匂いは感じられなかったが、断定はできない。

最後にある、生まれ変わっても芸人になってふたりで芸をみせよう、というセリフがチャンセンの思いなのはわかるが(このあと跳ねて宙に舞ったところで画面は止まりアップになる)、しかし、うまくこのセリフに集約できたとは思えない。王を横取りされたノクスの嫉妬やチョソンの自殺も絡めながら映画は結末を迎えるのだが、まとめきれなくなってしまった感じがするのである。

  

英題:The King and the Clown

2006年 122分 ビスタサイズ 韓国 日本語字幕:根本理恵

監督:イ・ジュンイク 製作総指揮:キム・インス 原作:キム・テウン(演劇『爾』) 脚本:チェ・ソクファン 撮影:チ・ギルン 衣装:シム・ヒョンソップ 音楽:イ・ビョンウ アートディレクター:カン・スンヨン
 
出演:カム・ウソン(チャンセン[長生])、イ・ジュンギ(コンギル[迴刹g])、チョン・ジニョン(ヨンサングン[燕山君])、カン・ソンヨン(ノクス[緑水])、チャン・ハンソン(チョソン)、ユ・ヘジン(ユッカプ)、チョン・ソギョン(チルトゥク)、イ・スンフン(パルボク)

鉄コン筋クリート

新宿ミラノ3 ★★☆

■絵はユニークだが、話が古くさい

カラスに先導されるように巻頭展開する宝町の風景に、わくわくさせられる。カラスの目線になった自在なカメラワークもだが、アドバルーンが舞う空に路面電車という昭和30年代の既視感ある風景に、東南アジアや中東的な建物の混在した不思議で異質な空間が画面いっぱいに映しだされては、目が釘付けにならざるをえない。

この宝町を、まるで鳥人のように電柱のてっぺんやビルを飛び回るクロとシロ。キャラクターの造型も魅力的(ただし誇張されすぎているからバランスは悪い)だが、この身体能力はまったくの謎。単純に違う世界の話なのだよ、ということなのだろうか。

ネコと呼ばれるこの2人の少年は宝町をしきっていて、それでも大人のヤクザたちとは一線を画しているのだろうと思って観ていたのだが、やっていることはかつあげやかっぱらいであって、何も変わらない。親を知らないという事情があればこれは生きていくための知恵ということになるのだろうが、このあとのヤクザとの絡みを考えると、もっともっと2人を魅力的にしておく必要がある。

旧来型のヤクザであるネズミや木村とならかろうじて成立しそうな空間も、子供の城というレジャーランドをひっさげて乗り込んできた新勢力の蛇が入ってくると、そうはいかなくなる。組長が蛇と組もうとすることで、配下のネズミや木村の立場も微妙に変わってくる。ネズミを追っていた刑事の藤村と部下の沢田(彼は東大卒なのだ)も動き出して、宝町は風雲急を告げるのだが、再開発で古き良きものが失われるという情緒的な構図は、昔の東映やくざ映画でもいやというくらい繰り返されてきた古くさいものでしかない。

だからこその、無垢な心を持つシロという存在のはずではないか。が、私にはシロは、ただ泣き叫んでいるだけのうるさい子供であって、最後までクロが持っていないネジを持っているようには見えなかったのである。これはシロのセリフで、つまりシロが自覚していることなのである。そういう意味では、シロはやはり特別な存在なのだとは思うのだが……。

たぶん2人に共感できずにいたことが、ずーっとあとを曳いてしまったと思われる。クロとシロはそのまま現実と理想、闇と光という二元論に通じ、要するに互いに補完し合っているといいたいのだろう。しかし、最後に用意された場面がえらく観念的かつ大げさなもの(クロは自身に潜んでいるイタチという暗黒面と対峙する)で、しらっとするしかなかったのだ。

題名の『鉄コン筋クリート』は意味不明(乞解説)ながら実に収まりのいい言葉になっている。しかし映画の方は、この言葉のようには古いヤクザ映画を換骨奪胎するには至っていない。手持ちカメラを意識した映像や背景などのビジュアル部分が素晴らしいだけに、なんだか肩すかしを食わされた感じだ。

  

【メモ】

もちもーち。こちら地球星、日本国、シロ隊員。おーとー、どーじょー。

2006年 111分 サイズ■ アニメ

監督:マイケル・アリアス アニメーション制作:STUDIO4℃ 動画監督:梶谷睦子 演出:安藤裕章 プロデューサー:田中栄子、鎌形英一、豊島雅郎、植田文郎 エグゼクティブプロデューサー:北川直樹、椎名保、亀井修、田中栄子 原作:松本大洋『鉄コン筋クリート』 脚本:アンソニー・ワイントラーブ デザイン:久保まさひこ(車輌デザイン) 美術監督:木村真二 編集:武宮むつみ 音楽:Plaid 主題歌:ASIAN KUNG-FU GENERATION『或る街の群青』 CGI監督:坂本拓馬 キャラクターデザイン:西見祥示郎 サウンドデザイン:ミッチ・オシアス 作画監督:久保まさひこ、浦谷千恵 色彩設計:伊東美由樹 総作画監督:西見祥示郎
 
声の出演:二宮和也(クロ)、蒼井優(シロ)、伊勢谷友介(木村)、田中泯(ネズミ/鈴木)、本木雅弘(蛇)、宮藤官九郎(沢田刑事)、西村知道(藤村刑事)、大森南朋(チョコラ)、岡田義徳(バニラ)、森三中(小僧)、納谷六朗(じっちゃ)、麦人(組長)

氷の微笑2

楽天地シネマズ錦糸町-2 ★★☆

■きっと手玉に取られそう

『氷の微笑』の続編だが、すでにあれから14年もたつという。あのキャサリン・トラメル(シャロン・ストーン)が、前作と似たようなことを繰り広げるのだが、彼女が「危険中毒」というなら、14年間もおとなしくしていられたとはとても思えない。

舞台をアメリカからイギリスに移したのは、そこらへんを考慮してのことか。もっとも人気犯罪小説家なのだからアメリカもイギリスも関係なさそうだが。ただシャロン・ストーンが14年も続編を我慢できたのだから、それは可能か。失礼とは思うが、キャサリンのイメージをシャロンに置き換えるのはそう難しくないのだな(失礼どころか褒め言葉だよね)。

シャロンの自信はたいしたものだが、それができるのだから脱帽だ。観客は実年齢を知っているのだし。もっとも最初の車の疾走場面から、あんなにフェロモンをばらまかれたのでは、かえって引いてしまう。快楽優先主義者という設定なのだからこの演出は仕方がないのかもしれないが、観客サービスになっていない気がして心配になる。

思わせぶりな映画といってしまえばそれまでだが、話は十分楽しめる。ただし、今回の相手はマイケル・ダグラスに比べるといささか頼りない。デヴィッド・モリッシー演じるマイケル・グラス(何なのだ、この役名は!)は、犯罪心理学者で精神科医。ロイ・ウォッシュバーン刑事(デヴィッド・シューリス)からキャサリンの精神鑑定を依頼され、はじめのうちこそ自信満々でいたが、途中からはキャサリンに翻弄されっぱなしで、ただただひたすら転落していく。

犯人がキャサリンかウォッシュバーン刑事か、などと迷いだしているうちはともかく、いつのまにか昇進(というのとはちょっと違うのだろうか)話は立ち消え、最後には思いもよらぬ場所にいるマイケル・グラス。

キャサリンみたいのに捕まったら、きっと私もこうだろうなと思ってしまったものね。おー、こわ。

原題:Basic Instinct 2

2006年 118分 シネマスコープ アメリカ R-18 日本語字幕:小寺陽子

監督:マイケル・ケイトン=ジョーンズ 脚本:レオラ・バリッシュ、ヘンリー・ビーン 撮影:ギュラ・パドス プロダクションデザイン:ノーマン・ガーウッド 衣装デザイン:ベアトリス・アルナ・パッツアー 音楽:ジョン・マーフィ テーマ曲:ジェリー・ゴールドスミス
 
出演:シャロン・ストーン(キャサリン・トラメル)、デヴィッド・モリッシー(マイケル・グラス)、シャーロット・ランプリング(ミレーナ・ガードッシュ)、デヴィッド・シューリス(ロイ・ウォッシュバーン刑事)、ヒュー・ダンシー(アダム)、インディラ・ヴァルマ(デニース)

上海の伯爵夫人

新宿武蔵野館2 ★★☆

■夢のバーが絵に描いた餅ではね

1936年の上海。アメリカ人のトッド・ジャクソン(レイフ・ファインズ)は元外交官。かつてヴェルサイユ条約で中国の危機を救った英雄と賞賛を受け、国際連盟最後の希望などともてはやされた過去を持つが、テロ爆破事件で愛する家族と視力を奪われ、今は商社で顧問のようなことをしている。人生に見切りを付けたかのような彼の楽しみは上海のバー巡りで、自分で店を持つのが夢となっていた。

ソフィア・ベリンスカヤ(ナターシャ・リチャードソン)は、ロシアから亡命してきた元伯爵夫人。娘のカーチャ(マデリーン・ダリー)だけでなく一族4人を養うため夜クラブで働いている。同じ服を着て店に出るなと注意されるような貧乏生活ぶりで、時には娼婦であることを要求されるのだろう。それ故彼女への視線は冷たいもので、義姉グルーシェンカに至っては、ソフィアが娘のカーチャに近づくことさえ好ましく思わないでいる。仕事を終えて家に帰ってきても寝る場所すらなく、みんなが起き出してやっと空いたベッドでゆっくり眠ることができるという毎日を生きている。

ソフィアはある日、初顔のジャクソンが店で危うく身ぐるみ剥がれそうになることを察すると、自分の客に見せかけて彼を救う。

競馬で思わぬ大金を手にしたジャクソンは、念願のバーをオープンするのだが、そこの顔にと知り合ったソフィアを迎え入れる。バーの名前は「白い伯爵夫人」、ジャクソンはソフィアに理想の女性像を見いだしたらしい。

雇用関係が結ばれたもの、プライベートなことにまでは踏み込むことなく、たまたまカーチャを連れたソフィアとジャクソンが出会ってと、ラブロマンスにしてはもどかしい展開。ふたりのこれまでの背景を考えればこれが自然とは思うが、といって背景がそう語られるわけではない。ジャクソンと死んでしまった娘との「結婚して子供が産まれてもずっと一緒」という約束は出てくるが、これがあまりうまい挿話になっていないし、ソフィアも生活の悲惨さは描かれていたが(むろんジャクソンの所で働きだしたことで少しは改善されるのだが)、ロシアのことはすでに過去でしかないということなのだろう。

もっともサラとピョートルなどはまだ昔のことが忘れられなくて、フランス大使館へ着飾って出かけるのであるが(悲しくも滑稽な場面だ)、これが思わぬ人との再開となり、香港へ抜け出す手がかりを掴んで帰ってくる。香港行きには大金が必要で、それを工面出来そうなのはソフィアしかいないのだが、脱出計画にはソフィアは含まれておらず、彼女もそれが娘のためと納得せざるをえない。

そしてこれがラストの日本軍の上海侵攻(第二次上海事変)の中での、ジャクソンとソフィアによる娘奪還場面という見せ場になるのだが、これがどうにも盛り上がらない。結局カーチャはソフィアと行動を共にすることになって、グルーシェンカが悲嘆にくれることになるのだが、ああグルーシェンカは本当にカーチャのことを彼女なりに愛していたのだとわかって、なぜかほっとしたことが収穫といえば収穫だったか。

せっかくの時代背景が添え物にすぎなくなってしまっていることもあるが、なによりジャクソンの作った夢のバーのイメージがしっかり伝わってこないのが残念だ。「世界を遮断しているような」重い扉の中に、彼は何を求めたのだろう。質のいい用心棒をやとい、緊張感のある世界を作りあげて、どうしたかったのか。日本人マツダ(真田広之)とはそのことで意気投合したようだが、結局は立場の違う人間でしかなく、最低限の儀礼を示すだけの間柄で終わってしまう。

視力を失うように活躍の場を失った(娘のことで気力がなくなったのだろうが)元外交官が、競馬で儲けてミニチュアの外交の場を得ようとしたのだとしたら、お粗末というしかないではないか。

原題:The White Countess

2005年 136分 ヴィスタサイズ イギリス/アメリカ/ドイツ/中国 日本語字幕:松浦奈美

監督:ジェームズ・アイヴォリー 脚本:カズオ・イシグロ 撮影:クリストファー・ドイル 衣装デザイン:ジョン・ブライト 編集:ジョン・デヴィッド・アレン 音楽:リチャード・ロビンズ
 
出演:レイフ・ファインズ(トッド・ジャクソン)、 ナターシャ・リチャードソン(ソフィア・ベリンスカヤ)、 ヴァネッサ・レッドグレーヴ(ソフィアの叔母サラ)、 真田広之(マツダ)、リン・レッドグレーヴ(義母オルガ)、アラン・コーデュナー(サミュエル)、マデリーン・ダリー(娘カーチャ)、マデリーン・ポッター(義姉グルーシェンカ)、ジョン・ウッド(叔父ピョートル・ベリンスカヤ公爵)、イン・ダ、リー・ペイス、リョン・ワン

地下鉄(メトロ)に乗って

楽天地シネマズ錦糸町-3 ★★☆

■和解話は甘いし、不倫の決着は相手任せ!? で、それ以前に話がいい加減

小さな下着会社で営業の仕事をしている長谷部真次(堤真一)は、実は財界の大物小沼佐吉(大沢たかお)の次男だ。強欲で家族を顧みない父とは長い間縁切り状態でいたが、父の会社を次いでいる弟(三男)から、父が倒れたという知らせがケータイの留守電に入っていた。

無視するように長谷部は帰路につくが、地下鉄のホームで恩師の野平先生(田中泯)に会う。先生は老いていたが、長谷部のことはよく覚えてくれていて、今日が若くして死んだ兄(長男)の命日という話にもなる。

いつの間にかホームには人影がなくなっていて、先生は地下鉄なら当分来ないので私はここで待つと怪しげなことを言う。急ぐのでと先生と別れる長谷部だが、今度はその死んだはずの兄を見かける。思わずあとを追い地上へ出てみると、そこは実家のそばの新中野で、東京オリンピックの開催に湧く昭和39年10月5日だった。

だけどさー、永田町(赤坂見附)だったのに新中野って? エスカレーターが止まっているところがあるかと思うと動いているところもあって、それに長谷部は改札をすり抜けて行ってしまうのだが、こういう細かな部分も含めて、この流れは掴みづらい。

とにかく長谷部は過去に戻り、まず兄の事故死を止めようとするがそれは叶わず、しかしそのあとは若き日の父親と何度が接触し、思ってもいなかった父の知られざる面を知ることになる。闇市で体を張って生き、夢を追いかけていた父。戦渦のただ中の満州で、最後まで民間人を見捨てず守ろうとした父。更に遡って、銀座線車内での初々しい出征姿の父。

父との精神的な和解の物語なのはわかるが、似たような状況にある私には納得できない話だ。人間いいところを見つけようとすれば、誰にも少しくらいはあるからだ。愛情を持って育てられても、ある部分でどうしても許せないことをされたら……という場合だってあるだろう。

そしてここで見る限り、小沼佐吉はせっかく持っていた資質をどんどんねじ曲げていった男にしか見えないのだ。現に最初の昭和39年の長男の通夜ではもう妻を殴っているではないか。闇市時代から愛人のお時(常盤貴子)はかかせない存在だったし、裏社会に足を踏み入れてもいたようだ。現代でも贈収賄事件の尋問の最中だというし、都合が悪いとすぐ入院してしまうようなヤツなのだ。そういう見方だってできるのだから「あなたの子供で幸せでした」という結論にはそう簡単には結びつけられないのである。

結局、これは父に似ていると言われてきた主人公の見たかった夢、と考えれば話は簡単になる。そう思えばタイムスリップが、最初こそ地下鉄が出入り口になっていたものの、途中からは自由自在のようだったことにも納得がいく(いかないか)。ただ、となると、今度は地下鉄が轟音と共に爆走するイメージをタイムスリップに結びつけられなくなってしまうから、少なくともこのイメージの挿入は最初の時だけにしておくべきだった(地下鉄の移動がタイムスリップなら、着いた先のホームからもう時代が変わっている必要がある。そうか、だから兄を見つけたのだろう。でもだったら他の描写も統一しなくては)。

もっともこの主人公の夢説は、不倫相手の軽部みち子(岡本綾)が、闇市にやはりタイムスリップしていたという仰天事実によって説得力を失ってしまう。つまりこのタイムスリップは主人公の心象風景では決してなく、本当のタイムスリップだと? いや、だからそれだとあまりにも都合がよすぎるというかさ。まあ、これは原作者浅田次郎の罪のような気がするが。彼の小説の設定の安易さには辟易してしまうことがあるからねー。

みち子が過去に出現したことで、物語は父との和解とは別の側面を持つに至る。彼女のタイムスリップは仰天事実への扉にすぎず、彼女が長谷部の異母妹だったことに運命の真意はあったようだ。みち子はこのことを知って驚き、禁断の愛に苦悩するが、長谷部には事情を明かさずに去る決意をする(指輪をはずし長谷部の服にもどす)。彼女は生い立ちからして薄幸で、不倫という辛い立場にいたのだが、過去にタイムスリップしたことで、自分も父母に望まれて生まれてきたのだと知る。しかしせっかくその大切な事実を得ながら彼女はそれで十分満足し、親殺しのパラドックスならぬ胎児殺しでもって自分を抹殺する道を選んでしまうのだ。

なんともすごい結末だ。みち子はお時に好きな人の幸せと、子供の幸せのどっちが幸せかとちゃんと問うてはいたが、でもだからといって、とても納得できるものではない。ある意味ではすべて長谷部に都合のいい(もちろんみち子は失うが)ように話が進んだだけではないか。こうなっては1度引っ込めた主人公の夢説をまたぞろ持ち出したくなるではないか。

意識してはいなくてもやはり長谷部には父親に似たどこか薄情なところがあるということだろうか。子供とキャッチボールをし、服に指輪を見つける場面が最後にあるが、ただそれだけなのか。

終盤間際に野平先生がまた現れて「また会えたね。ここにおれば君に会えそうな気がしておったが。この年になればあせる必要はない。思った場所に自在に連れてってくれる」と長谷部に言う。うーむ、やはり野平先生は、水先案内人だったか。彼がまた出現したことで、長谷部の時間旅行は終わったのだ。もっともこの演出はあまり効果的なものではなかったが。

なお、これは映画の中身には関係ないことだが、少なくとも物語の設定は小説の発表時期にまで戻すべきだった。長谷部やみち子の年齢が10歳ほどだが若いことで、気になって仕方のないところが沢山あった。たった10年ではあるが、営団地下鉄から東京メトロになってしまった今となっては、いくら東京メトロ全面協力のもとであっても、ロケには相当手を加える必要があったのだろうけどね。

 

【メモ】

3人でキャッチボール マーブルチョコの広告看板 新中野 鍋屋横町

オデヲン座の看板は、左から『肉体の門』『キューポラのある街』『上を向いて歩こう』。この3本立ては実際のもの? 新中野のオデヲン座を知らないので何とも言えないが、3番館にしてもこの組み合わせはひどくないか。

20歳の小沼佐吉「本当に帰ってこれたら、この千人針を作ってくれた人と結婚して……」。
当時の銀座線の車内はこんなに静かとは思えないが?

BAR AMOUR オムライス 小沼家の墓 会社を作ったきっかけ(スーツケースを持った男、絹の下着)

長谷部の上司はいわくありげに『罪と罰』(それもかなり古い本)を読んでいたが?

2006年 121分 サイズ■

監督:篠原哲雄 原作:浅田次郎『地下鉄に乗って』 脚本:石黒尚美 脚本協力:長谷川康夫 撮影:上野彰吾 視覚効果:松本肇 美術:金田克美 編集:キム・サンミン 音楽:小林武史 主題歌:Salyu

出演:堤真一(長谷部真次)、岡本綾(軽部みち子)、大沢たかお(小沼佐吉)、常盤貴子(お時)、田中泯(野平啓吾)、笹野高史(岡村)、北条隆博(小沼昭一)、吉行和子(長谷部民枝)

出口のない海

楽天地シネマズ錦糸町-4 ★★☆

■不完全兵器「回天」のもたらした悲劇

4隻の人間魚雷回天と搭乗員の並木(市川海老蔵)たちを積んだ伊号潜水艦は敵駆逐艦に見つかり猛烈な爆雷攻撃を受けるが、潜水艦乗りの神様と呼ばれる艦長の鹿島(香川照之)によって窮地を脱する。

いきなりのこの場面は単調さを排除した演出で、それはわかるのだが、しかしここからはじめるのなら、後半の唐突な伊藤整備士(塩谷瞬)のモノローグは最初からでもよかったのではないか。伊藤整備士と会うのは山口の光基地だから、並木の明治大学時代の話や志願の経緯などはそのままでは語れないが、それは並木から聞いたことにすれば何とかなりそうだからだ。ラストでは現在の年老いた伊藤を登場させているのだが、これはさらに意味がないように思われる。ただただ無駄死にという最後の印象を散漫にしてしまっただけではないか。

最初にラストシーンに触れてしまったが、映画は回天の出撃場面の合間に何度か回想の入る構成になっている。甲子園の優勝投手ながら大学では肩を痛め、それでも野球への情熱は失わずに魔球の完成を目指していた並木。長距離の選手だった同級の北(伊勢谷友介)。北の志願に続くように自分も戦争に行くことを決意する並木。秘密兵器の搭乗者になるかどうかの選択。訓練の模様。家族や恋人・美奈子(上野樹里)との最後の別れ。

美奈子の扱いが平凡なのは不満だが、他の挿話がつまらないというのではない。ただ、何となくこれが戦時中の日本なんだろうか、という雰囲気が全体を支配しているのだ。出だしの爆雷攻撃を受ける場面では、上官が「大丈夫か」などと声をかけるところがある。軍神になるかもしれない人間を粗末にはできなかったのか。そういえば並木の海軍志願の理由は「何となく海軍の方が人間扱いしてくれそう」というものだったが、当時の学生に、海軍>陸軍というイメージはあったのか。それはともかく、いい人ばかりというのがねー。

他にも描かれる場面が、並木たちの行きつけの喫茶店の「ボレロ」であったり、野球の試合だったりで、戦争とはほど遠い感じのものが多いことがある。戦況も含めて何もかも理解しているような父(三浦友和)も、楽天的な母(古手川祐子)も、兄の恋の行方に心を痛める妹(尾高杏奈)も、そして当の並木まで栄養状態は良好のようだし、なにより海老蔵の明るいキャラクターがそういう印象を持たせてしまったかも(もっと若い人でなくては)。戦時イコールすべてが暗いというわけではないだろうが、空襲シーンも1度だけだし、何事もいたってのんびりしているようしか見えないのだ。

「敵を見たことがあるか」という父親との問答は、戦争や国家の捉え方として映画が言いたかったことかもしれないが、これまた少しカッコよすぎないだろうか。これはあとで出てくる並木の「俺は回天を伝えるために死のうと思う」というセリフにも繋がると思うのだが、これがどうしても今(現代)という視点からの後解釈のように聞こえてしまうのだ。こんなことを語らせなくても、回天の悲劇性はいくらでも伝えられるのと思うのだが。

回天が不完全兵器だったことは歴史的事実だから、この映画でもそれは避けていない。1度ならず2度までも故障で出撃できなかった北の苦しみは、死ねなかったというまったく馬鹿げたものなのだが、彼の家が小作であることや当時の状況を提示されて、特攻という異常な心境に軍神という付属物が乗るのに何の不思議もないと知るに至る。

そして、並木も何のことはない、敵艦を前に「ここまで無事に連れてきてくださってありがとう。皆さんの無事を祈ります」という別れの挨拶まですませながら回天の故障で発進できずに、基地へと戻ることになる。伊藤整備士は「私の整備不良のせい」と言っていたが、事実は、そもそも部品の精度すらまともでなかったらしい。並木も、死を決意しながらの帰還という北の気持ちを味わうことになるわけだ。このあと戦艦大和の出撃(特攻)に遭遇し艦内が湧く場面があるのだが、並木は何を考えていたのだろうか。

並木は8月15日の訓練中に、回天が海底に突き刺さり、脱出不可能な構造のためあえなく死亡。9月の枕崎台風は、その回天を浮かび上がらせる。進駐軍のもとでハッチが開けられ、並木の死体と死ぬまでに書きつづった手帳が見つかる。

最初に書いた最後の場面へ行く前に、この家族や恋人に宛てた手帳が読み上げられていくのだが、そんな情緒的なことをするのなら(しかも長い)、回天の実際の戦果がいかに低くかったことを知らしむべきではなかったか。

そういう意味では回天の訓練場面を丁寧に描いていたのは評価できる。模型を使って操縦方法を叩き込まれるところや、海に出ての実地訓練の困難さをみていると、これで本当に戦えるのだろうかという疑問がわくのだが、そのことをもっと追求しなかったのは何故なのだろう。

また回天への乗り込みは、資料を読むと一旦浮上しなければならないなど、機動性に富んだものではなかったようだ。映画はこのことにも触れていない(伊藤が野球のボールを並木に渡す時は下からだったが、ということは潜水艦から直接乗り込んだとか?)。こんな中途半端なドラマにしてしまうくらいなら、こぼれ落ちた多くの事実を付け加えることを最優先してほしかった。

なお、敵輸送船を撃沈する場面で、いくら制空権と制海権を握っていたとはいえ、アメリカ軍が1隻だけで行動するようなことがあったのだろうか。次の発見では敵船団は5隻で、これならわかるのだが。

 

【メモ】

人間魚雷「回天」とは、重量 8.3 t、全長 14.75 m、直径 1 m、推進器は 93式魚雷を援用。航続距離 78 マイル/12ノット、乗員1名、弾頭 1500 kg。約400基生産された。連合国の対潜水艦技術は優れており、騒音を発し、操縦性も悪い日本の大型潜水艦が、米軍艦船を襲撃するのは、自殺行為だった。「回天」の技術的故障、三次元操縦の困難さも相まって、戦果は艦船2隻撃沈と少ない。(http://www.geocities.jp/torikai007/1945/kaiten.html)

「BOLEROボレロ」のマスターは、名前のことで文句を付けられたらラヴェルはドイツ人と答えればいいと言っていたが?

北「俺が走るのをやめたのは走る道がないからだ」

上野樹里は出番も少ないが、まあまあといったところ。並木の母のワンピースを着る場面はサービスでも、これまた戦時という雰囲気を遠ざける。

美奈子「日本は負けているの」 並木「決して勝利に次ぐ勝利ではないってことさ」 

明大の仲間だった小畑は特攻作戦には不参加の道を選ぶが、輸送船が沈没し形見のグローブが並木の家に届けられていた。

手帳には、回天を発進できず、伊藤を殴ったことを「気持ちを見透かされたようだった」と謝っている。

他には、父さんの髭は痛かったとか、美奈子にぼくの見なかった夕日の美しさなどを見てくれというようなもの。

2006年 121分 サイズ■

監督:佐々部清  原作:横山秀夫『出口のない海』 脚本:山田洋次、冨川元文 撮影: 柳島克己 美術:福澤勝広 編集:川瀬功 音楽:加羽沢美濃 主題歌:竹内まりや『返信』

出演:市川海老蔵(並木浩二)、伊勢谷友介(北勝也)、上野樹里(鳴海美奈子)、塩谷瞬(伊藤伸夫)、柏原収史(佐久間安吉)、伊崎充則(沖田寛之)、黒田勇樹(小畑聡)、香川照之(イ号潜水艦艦長・鹿島)、三浦友和(父・並木俊信)、古手川祐子(母・並木光江)、尾高杏奈(妹・並木幸代)、平山広行(剛原力)、永島敏行(馬場大尉)、田中実(戸田航海長)、高橋和也(剣崎大尉)、平泉成(佐藤校長)、嶋尾康史(「ボレロ」のマスター柴田)

Sad Movie サッド・ムービー

中野サンプラザホール(試写会) ★★☆

■ビデオの遺書という泣き狙いで、すべてが台無し

4組の男女の別れ(1組は母親と小学生の息子)を描いた作品。

消防士のジヌ(チョン・ウソン)は今日こそスジョン(イム・スジョン)にプロポーズをしようと思いながらも、その機会を逸している。テレビ局でニュースの手話通訳として活躍するスジョンだが、ジヌの職業が危険なことに心を痛めていて、ある日の火災ニュースから、ついにジヌにあたってしまう。

スジョンの妹のスウン(シン・ミナ)は昔の火事で顔に大きな火傷の跡が残り、耳が聞こえない(彼女を助けたのがジヌなのだ)。白雪姫の着ぐるみを着て遊園地でバイトをしている彼女が興味を持ったのが、園内で似顔絵を描いているハンサムな青年サンギュ(イ・ギウ)。着ぐるみを脱いで彼と対面する勇気がでないでいる彼女に、仲間(7人の小人)たちはデートをセッティングする。

ボクシングのスパーリング役のバイトでその日暮らしのようなハソク(チャ・テヒョン)は、付き合って3年になるスッキョン(ソン・テヨン)がいるが、彼女もスーパーのレジ打ちで、こんなことをしていても先が見えないと別れ話を切り出されてしまう。チャンスをくれと食い下がるハソクだが、見通しなど何もない。が、ひょんなことからネットで「別れの代行」業という珍商売をやることを思い立つと、これが意外にも繁盛しだす。

ジュヨン(ヨム・ジョンア)は仕事に追われ、小学2年生の一人息子フィチャン(ヨ・ジング)の相手がなかなか出来ずにいた。車の運転中に具合の悪くなった彼女は、事故を起こして入院するが、そこで癌に冒されていることを知る。息子は入院したママが小言を言わなくなるし、会いたいときにいつでも会えるからと病気を歓迎していたが……。

洒落た画面構成だし、話の組み立ても手慣れたものだ。4組の話が交錯して進むものの、混乱することはまったくない。が、4組の別れを用意した意図が見えることはなく、かえってひとつひとつの「別れ」を散漫にしてしまっている。

4つの話に関連性がないわけではない。姉妹つながりの他に、フィチャンがママの癌を知って、ハソクの別れの代行業に別れたくないという依頼をするというつながりもあるが(小学生だからちょっと無理はあるけどね)、全体をまとめるものが何か欲しい。

でもそんなことより、ジヌの残したビデオテープが、映画全体を台無しにしてしまっているのだ。ジヌは、結局火災に巻き込まれて死んでしまうのだが、現場にスジョン宛の遺書を入れたビデオテープを残していた。これは内容もだが、それ以前に、こんなことをしている時間があるなら逃げる手段を考えろと言いたくなる。脱出不可能で火災は免れても有毒ガスで死ぬしかないというのなら、その説明を入れるくらいわけないと思うのだが。火災がひどけりゃビデオだって焼けちゃうでしょう。わかってたから撮影したって。あ、そう。でもわざわざマスクを外すことはないよね。それにカメラが途中で引いていたような(ありえねー)。

泣き狙いのこの場面で一気に駄作の仲間入り。せっかく洒落た感じでまとめていたのにねー。もちろん他にも気になることがないわけではなく、例えば、フィチャンの描いたママの絵はいかにもというもので、ここはセリフまでがつまらない(「今までママの顔をうまく描けなかったのはママが綺麗すぎたから」)。別れの代行の依頼がスッキョンからきてしまうというのも読めてしまっていたが、でもビデオ場面ほどの失点ではない。

それに、スウンの恋物語は、唯一出会いからはじまるせいもあってとっても可愛らしいものだ。「お姉さんは愛してるって言えるじゃないの」と声を絞り出して泣いたこともあった彼女だが、ついに着ぐるみを脱ぐ時がやってくる。はじめこそメイクと照明でごまかしていた彼女だが、素顔でもう1度描いてとサンギュに言う場面には、結構グッときてしまった。でもこの恋は、サンギュの留学でおしまいらしい。

ジュヨンとフィチャンの話だけは恋物語ではないし、病死という安直な設定なのだが、フィチャンがママの日記を見つけて、その内容に喜んだりがっかりしたりする場面は楽しめる。望まない子というパパが悪者になるのは当然(この前にも「押し倒した」「悪い人」という記述がある)で、「私より賢い子に」と願うママの株は上がるが、すぐあとに「女の子でありますように」と書いてあるのでガックシとなる。

ママに「僕が代わりに病気になってあげたい」と言って叱られてしまうフィチャンだが、「赤ちゃんに同じことを言っていたのに」と不服そうになるのが(なにしろ日記を読んじゃってるからね)、可愛くて悲しい。

こんな感じの挿話をもっと用意できれば、印象もずいぶん変わったはずだ。別れや悲しさにこだわってそればかり強調したら、かえってダメになってしまうことくらいわかりそうなものだが。

    

原題:Sad Movie

2005年 109分 シネマスコープ 韓国 日本語字幕:根本理恵

監督:クォン・ジョングァン 原案:オム・ジュヨン 脚本:ファン・ソング 製作:パク・ソンフン 編集:キム・サンボム 音楽:ジョ・ドンイク 

出演:チョン・ウソン(ジヌ)、イム・スジョン(スジョン)、シン・ミナ(スウン)、チャ・テヒョン(ハソク)、ヨム・ジョンア(ジュヨン)、ソン・テヨン(スッキョン)、イ・ギウ(サンギュ)、ヨ・ジング(フィチャン)

16ブロック

新宿ミラノ1 ★★☆

■ヨレヨレ男の大奮戦記

ニューヨーク市警のジャック・モーズリー刑事(ブルース・ウィリス)は、夜勤明けというのにエディ・バンカー(モス・デフ)という黒人青年の証人を護送する任務を押し付けられる。裁判所までは16ブロックで、車なら15分もあれば終わるという仕事ではあったのだが。

まずブルース・ウィリスの老けっぷりに驚かされる。夜勤明けで体調がすぐれない設定もあるのだろうが、なんでも捜査中の事故で足を悪くし、捜査の一線を退いてからは酒浸りの日々らしい。「人生長すぎると思う」というセリフが当然と思えるメイクで、腹までたるんで見えるではないか。

この日も渋滞にまきこまれると、もう我慢できずに酒を買いに行く始末(向こうでは飲酒運転の規制はどうなってんだ?)。で、その隙をついたかのようにエディが襲われる。ジャックは間一髪でエディを救い、仲間に援護を要請するが、駆けつけてきたフランク刑事(デヴィッド・モース)からは、刑事たち(6人が関与しているらしい)にとって不利な証言をしようとしているエディを引き渡すように言われる。「お前もこれで主役組に復活できる」という餌までちらつかされて。

はじまったばかりで、警察内部に巣くった悪(しかもフランクは20年もジャックの相棒だったという)を相手にしなければならないことがわかってしまうのだが(ただし最後まで事件の真相は明かされない)、この警察を敵にまわして10時までに裁判所へたどり着けるのか、という話の絞り方は正解だろう。時間設定がほぼリアルタイムという工夫もあるが、こちらは意外と活かしきれていない。

16ブロックというのは東京なら、港区の愛宕警察署から霞ヶ関の裁判所という距離感だろうか。ただし、映し出される街並みはもっとごちゃごちゃしていて、実際の場所を知っていればさらに楽しめたと思われる。途中で裁判所に連絡して「あと7ブロックだ」と言うし、人出も多く迷路のような古いビルに逃げ込んだりする場面もあるが、裁判所にどのくらい近づいたのかということまでは残念ながら伝わってこない。ケータイを探知していた時ならモニターに地図を表示することもできるが、それ以外は所轄区域のことだからわざとらしくなってしまうのだろう。

エディは武器の不法所持でムショにいたような軽薄なヤツで、しかもうるさいくらいに喋りっぱなし(これを底抜けの明るさと取れるならいいのだが)。これに寡黙なジャックの組み合わせは表面的にも定番だが、今度こそ改心してケーキ屋になるという、ジャックならずとも信じられないような夢を本当に大事にしていることがわかって、というあたりも定番だ。命を賭けてお互いに相手を守ろうとするし、ジャックも最後にはこのことが契機となって自分自身を清算しようとする。

定番ながらそこにいくまでのアイディアはよく、なかでも車を捨てジャックが妹のダイアン(ジェナ・スターン)のアパートに忍び込んで武器を調達する場面ではニヤリとさせられた。エディと同じように、誰しも妹ではなくジャックの妻と勘違いしてしまうからだ。便座の位置で男がいるとわかる場面では、まんまと余計な同情までさせられてしまうというわけだ。

このあともバスに立てこもったり、人質解放に紛らわせてエディを逃がしたり(これは彼が戻ってきてしまう)、テープレコーダーを手に入れたり、と伏線をばらまきながら単調になることを巧みに避けている。

ただし、バスからの脱出と救急車はもう1台あったというすり替えは、基本的に同じ種類の騙しだから感心できない。それに比べたら罪は軽いが、バスから解放された人質から情報収集しようとしない警察(結果としては情報は入るが)というのもおかしい。

人は変われるというのがテーマとしてあって、このことが最後にジャックはエディを解放し(エディの犯罪記録も抹消させる)、今度は自分が証人になる道(2年の刑期が待っていた)を選ぶのだけど、個人的な趣味からいうと、ここら辺の演出はやり過ぎという感じがしなくもない。

【メモ】

乗っ取ったバスは、タイヤを撃たれて止まってしまう。ジャックは乗員に窓を新聞紙でふさがせ、人質の数は31人を約40人と水増しして報告する。

「毎日が誕生日が俺のモットー」(エディ)。今日が誕生日と言ったのは、バスの中の子供を怖がらせないようにしてのことで、あとで里親を転々としていて誕生日は知らないとジャックに言う。

ケーキのレシピを貼ったノートをもっているエディ。

「バリーホワイト(エンドロールに彼の音楽が使われている)もチャックベリーも強盗をしたけど改心した」(エディ)。

タイヤを壊されたままバスを発車させる。狭い路地に突っ込んで立ち往生となる。

最後にジャックを殺さないフランクというのはどう考えれば。悪党もさすがに元同僚は自分の手で始末したくなかったのか?

「オレも一味だったが、6年前は勇気がなかった」(ジャック)。

原題:16 Blocks

2006年 101分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:小寺陽子

監督:リチャード・ドナー 脚本:リチャード・ウェンク 撮影:グレン・マクファーソン 編集:スティーヴ・ミルコヴィッチ 音楽:クラウス・バデルト
 
出演:ブルース・ウィリス(ジャック・モーズリー)、モス・デフ(エディ・バンカー)、デヴィッド・モース(フランク・ニュージェント)、ジェナ・スターン(ダイアン・モーズリー)、ケイシー・サンダー、シルク・コザート、デヴィッド・ザヤス

黒い雪

松竹試写室(東劇ビル3階) ★★☆

■今となってはこの過激な抵抗は苦笑もの

「美の変革者 武智鉄二全集」と称して10月末からイメージフォーラムで全10作品を一挙上映する企画の試写にI氏の好意で出かけてきた。武智作品は「黒い雪裁判」等で、学生の頃大いに騒がれたものだが、観る機会はないままだった。

いきなりタイトルなのは昔の映画だから当然だが、ここの背景は黒人に組み敷かれている娼婦で、何故かふたりともほとんど動かないままだ。重苦しいほどの長さはそのまま当時の日本の状況を演出したものだろう。

娼婦は見られていることがわかっているらしく、手を伸ばし影絵を作る。ふたりの行為を隣の部屋から覗き見しているのが次郎(花ノ本寿)で、彼の母はこの売春宿を経営している。叔母が新しい若い娘民子を母のところに連れてきていて、あけすけな話をさんざんする(この猥談は飛行機の騒音に消されて肝心なことが聞けなくなっているのが効果的だ)。駐留軍のボスの情婦である叔母は、近々PXからの横流しがあるので、またうまい商売ができると楽しげだ。

次郎は、この叔母から横領で得た金を巻き上げる計画を共産党員らしき男と立てる。党員からはドスを渡される。このドスで黒人兵を殺し、彼からピストルを奪うが、これは次郎の自発的な行為のようだ。

家(売春宿)に戻ると、MINAになった民子の初仕事なのか、彼女の泣いている声が漏れてくる。母は変態爺のミスターグレン様だからと、それでもまんざらでない様子だ。

次郎は前から気になっていた個人タクシー運転手の娘静江(紅千登世)に声をかけ、映画館にさそう。どうでもいい話だが、西部劇が上映されているこの映画館の傾斜のきつさは昨今のシネコン並である。ここで静江の悶える場面になるのだが、これが大げさでわざとらしいもの。場内が明るくなって次郎の肩に頭をのせている場面があるし、その前にも次郎がピストルを出し、「これピストルだよ」と言う隠喩もあるから、次郎にペッティングされてのことと解釈するのが普通だろう。がやはり、演技力の問題は別にしても不自然だ。

母と女の子たちの歌舞伎見物の日、次郎は静江を家に呼び出しベッドに横たえて明かりを消す。次郎はすぐ帰ってくると言い残し部屋を出るのだが、外には党員の男が裸になって待っている。男に処女の女の子を世話すると話していたのは、静江のことだったのだ。男が消え、次郎がドア越しにいると、梅毒で商売も出来ず歌舞伎にも行けなかった女が出て来て、次郎を抱くようにする。しかし、それにしても静江を男に引き渡した次郎の気持ちがわからない。

明かりがついて相手が次郎でないことを知った静江はショックで、裸のまま部屋を飛び出し、基地の金網の横を全裸で走る有名な場面となる。車が対抗して何台も通りすぎていくところを、100メートル以上も走ったのではないかと思われるが、さすがにここの撮影は難しかったのか、暗いし望遠で撮っているということもあってピンボケ気味である。基地の中からは警告の車も追走してくる。緊張感が高まる中、静江は倒れ体は泥まみれになってしまう。

プレスシートには「ジェット機の衝撃波によって地上に打ち倒されてしまう。まるで弱小民族の運命を象徴するかのように」と書かれているのだが、何が衝撃波なのだろう。映画の中で、それこそ耳を塞ぎたくなるほどうるさい爆音だが、基地周辺の住民である静江にとってこんなものが衝撃波とは思えない。「弱小民族の運命」は監督の解釈なのかもしれないし、そういう読み解きはいくらでも可能だろうが、それ以前に演出としてもあまりに稚拙ではないか。それに、この静江の行動を反米の抗議行動と見立てるのは筋違いだろう。

次郎は党員の男ともうひとりの3人で、叔母から2万ドルを奪う。男達は叔母を犯す。叔母は、畜生と同じだからと次郎を拒否するが、結局は悶えたことで次郎に射殺される。次郎はMINAに山のようなプレゼントを抱えて帰るが、両替からあっさり足がつき駐留軍に捕えられてしまう。

堀田が静江を連れて次郎の面会に来る。「娘がどうしても会いたいと言ってきかないものだから」なのに、この場面で喋り続けるのは堀田ひとりである。これがまたどうにもおかしいのだ。笑ってしまってはいけないのかもしれないが、満州から引き上げて妻と息子が死んだことにはじまって自分の人生の悔恨を語ったあと、「この娘には人間の魂を教え込んだ」からって「そうなるべき当然の帰結。さあ、今日はふたりの結婚式」となっては、ちょっと待ってくれと言いたくなる。

口をきかない次郎と静江の気持ちは一応映像で説明してあるが、でも静江は次郎を何故許せるのか。それに堀田は、次郎の黒人兵殺害現場まで目撃しているのだ。反米というお題目が成り立つのなら殺人は支持するし、静江を提供することも厭わないというのだろうか。いくら何でももう少し具体的な説明があってもよさそうなものだ。

ふたりが帰ったあと、次郎は決心したかのように供述をはじめるが、叔母がマロー(駐留軍のボス)の愛人であり横流しがあったことに触れると、担当官は猛烈に怒りだし次郎の供述を認めようとしない。

このあと雪の日、他の囚人たちと一緒にどこかへ行くような場面(プレスシートだと、殺人罪で起訴された次郎は日本の警察に引渡されるという説明だが、映画ではよくわからなかった)で、画面にはソラリゼーション処理された黒い雪が表現される。

最後の「きっと他に悪いヤツが……基地なんかなければいいんだ」という次郎の母のセリフが、また白々しい。原潜寄港反対運動の学生たちに塩をまいて、「反対なんてとんでもない」と言っていたというのに。

米軍基地周辺を描くことで、当時の日本の状況(ある部分ではほとんど変わっていないようにも思えるが)はいやがおうにも浮かび上がってくるし、タイトルや騒音の使い方には工夫がある。

しかし、次郎の考えていることや行動はどうしても理解できなかった。黒人兵の殺害、静江の扱い、叔母殺し……。「不浄の金は我々同士のために使うのが一番だ」という党員の男を信じたのなら、無駄な買い物などできないはずだし、叔母が憎いのなら母親だってその対象になるべきだろう。それなのにあの最後のセリフで収まりをつけようなんて、いい加減にもほどがあるではないか。

1964年 89分 白黒 ワイド 製作:第三プロダクション

監督・脚本:武智鉄二 撮影:倉田武雄 美術:大森実 録音:田中安治 照明:大住慶次郎 音楽:湯浅譲二、八木正生

出演:花ノ本寿(次郎)、紅千登世(堀田静江)、美川陽一郎、村田知栄子(母)、松井康子、内田高子、滝まり子

イルマーレ

新宿ミラノ1 ★★☆

■郵便箱タイムマシン

湖畔に建つ硝子張りの一軒家。ケイト(サンドラ・ブロック)はシカゴの病院への勤務が決まり、引っ越しのため次の住人にミスがあった時の郵便物の転送を依頼する手紙を郵便箱に残す。「入口にある犬の足跡と屋根裏の箱は私が越してくる前からありました」と書き添えて。

手紙を受け取った新しい住人アレックス(キアヌ・リーヴス)は玄関を見るが、足跡はどこにもない。それに彼が越してきたのは、長い間空き家になっていた埃の積もった家なのだ。しかしアレックスが家の外でペンキ塗りをしていると、どこからともなく犬がやって来て……。

姿が見えないのに郵便受けの印が動き、入れた手紙が消え、また新しい手紙が……。噛み合わない内容のやり取りが進んで、ケイトは2006年の、そしてアレックスは2004年の同じ日に生きているということがわかる。

ネタ切れのせいか、近年、変則タイムマシン物語が映画にも小説にも溢れているが、これもその1つ。しかも同名の韓国映画からのリメイクというからアイデア不足は深刻なのかも。この郵便箱タイムマシン映画は、2年という、ケイトにとってはまだ記憶に新しい過去、そして2年経てば手紙のやり取りをはじめた(という記憶を持つ)相手に会えるアレックス(でもこれは違うような)という、なかなか興味深い設定だ。

このことを考え出すと混乱してしまうのだが、とりあえず先に進むと、この奇妙な手紙のやり取りで、2人は恋に落ちる。恋に理由などいらないが、とはいえ手紙だけが接点となるとさすがにもう少し説明してもらいたくなる。「僕たちほど打ち解け合い、好みが同じで、心が通じ合うふたりはいない」と言われただけではねー。

なにしろケイトにはモーガン(ディラン・ウォルシュ)という相手がいて、当人はケイトと結婚する気満々だし、アレックス自身は気乗り薄ながら似たような状況のアンナ(ショーレ・アグダシュルー)がいるからだ。

手紙というまだるっこしい方法は、画面では時空を超えた会話で表現されているので話は早いが(画面処理もすっきりしている)、手紙の持つ特性は活かされることはなく、だからこの恋をよけい性急に感じてしまったのかもしれない。

もっともそれなりにふたりの事情も語られてはいる。アレックスが越してきた家は、彼の父親サイモン(クリストファー・プラマー)が設計したもので、そこは家を出て行ってしまった母がいる、幸せだった時代の思い出の場所というわけだ。父の設計事務所にいるのは弟で、自分は普通の住宅建築に関わっているだけなのだが、わざわざここに越してきたということで彼の探しているものがわかる。

ケイトの場合は恋人や仕事で、でもこれはアレックスが絡んでくるからさらに複雑で微妙だ。現在のアレックスとは、思い出した過去(あー混乱する)で、ふたりはキスまでしているのだから。

いつまでも無視しているわけにもいかないので郵便箱タイムマシンに触れるが、やはりその箱だけの限定版にしておくべきでなかったか。季節はずれの雪のためにマフラーを送ったり、忘れ物を取りに行かせたりする程度であれば微笑ましくて、整合性もなんとかは保っていられそうだが、木まで植えさせて、無かったものを出現させてしまうのはどうだろう。

だけど、この映画では交通事故を無いものにしてしまわなければならいわけで、だからそんな瑣末なことを言ってもはじまらないのだが。でもあえて言わせてもらうと、ケイトが事故にあったアレックスに気付かなかったのはあんまりではないか。一瞬とはいえキスまでした相手なのだから(顔がぐしゃぐしゃになっていたという残酷な話ではないようだし)。

禁じ手に踏み込んで、それが成功しているならともかく、このラストはちょっと残念だ。だってアレックスには継続している意識が、ケイトでは改竄されたか別の次元でのことになってしまうわけだから(って、ホントかい)。いっそ新聞の株式覧でも郵便箱に入れて、大金持ちになって迎えに来てもらえばいいのにね。

それに、犬がふたりを渡り歩いたことやあの家をケイトが借りた時の状況はどうだったのだろう(もしかしたら聞き逃したのかもしれないが)。犬の名前をケイトがアレックスに教えて、その名を呼ばれた犬が寄っていくのも逆のような気がするが、細かいところはもう1度観てみないとわからない。

待ち合わせたレストラン「イルマーレ」にアレックスが現れないシーンは切ないが、私はそのことより、有名レストランだからすぐの予約は難しいのだけれども、さすがに2年先の予約(彼女の明日はアレックスには2年と1日になる)は大丈夫というのが面白かった。

それにしても『スピード』での共演からはすでに12年。バスの中という狭い空間から今回は絶対?会えない空間での恋。このふたりが燃え上がるのは異常な状況下にある時だけとかね。ともかくふたりとももうしっかり大人で、建築家のアレックスの指示によるシカゴめぐりなどのような落ち着いた感じの場面はいいのだが、バタバタするタイムマシン話に絡ませるのならもっと若い人をもってきてもよかったかも。

【メモ】

ノースラシーン通り1620番地。アレックスには高級マンションの建築予定地。ケイトには新居。

この犬はケイトのチェスの相手もするのだ。

『イルマーレ』はイタリア語で「海辺の家」で、この映画ではレストランの名前になっている。邦題は韓国映画からそのまま持ってきたようだが、この映画だと原題の方がすっきりする。

原題:The Lake House

2006年 98分 アメリカ シネマスコープ 日本語字幕:松浦美奈

監督:アレハンドロ・アグレスティ 脚本:デヴィッド・オーバーン 撮影:アラー・キヴィロ 編集:アレハンドロ・ブロデルソン、リンジー・クリングマン 音楽:レイチェル・ポートマン
 
出演:キアヌ・リーヴス(アレックス・ワイラー)、サンドラ・ブロック(ケイト・フォースター)、ショーレ・アグダシュルー(アンナ)、クリストファー・プラマー(サイモン・ワイラー)、 ディラン・ウォルシュ(モーガン)、エボン・モス=バクラック(ヘンリー・ワイラー)、ヴィレケ・ファン・アメローイ(ケイトの母)

マイアミ・バイス

TOHOシネマズ錦糸町-6 ★★☆

■恋は17歳の時からの唯一の世界をも奪う

80年代の同名TVシリーズの映画化。マイケル・マンはTVシリーズの製作総指揮を務めていたという。

ソニー・クロケット(コリン・ファレル)とリカルド・タブス(ジェイミー・フォックス)は、マイアミ警察特捜課(バイス)の刑事だが、彼らの使っている情報屋が家族を殺されたことで自殺してしまうという事件が起きる。囮捜査をしていたFBIの潜入捜査官も殺されたことから、合衆国司法機関による合同捜査に情報漏洩の疑いがもたれる。FBIのフジマ(キアラン・ハインズ)から、合同捜査とは無関係な郡警察に潜入捜査の打診が入り、上司のカステロ(バリー・シャバカ・ヘンリー)は反対するが、ふたりはその任務を引き受ける。

潜入までの経緯を一気に説明するのだが、これがわかりづらい。TVを観ていない者には、クロケットとタブスの関係すらよくわかっていないというのに。潜入捜査で相棒になるくらいだから、相当信頼関係がないとやっていけないと思うのだ。だからふたりのエピソードはもっとあってもいいと思うのだが。タイプの違うふたりという設定を、女性との接し方だけで強調されてもなーという感じ。特にクロケットの方は、まあ刑事としては優秀なのかもしれないが、どうもこれといった特徴がないという印象だ。

なのに黒幕のボスモントーヤ(ルイス・トサル)の女イザベラ(コン・リー)と恋に落ちてしまうのだから……って別に妬いているわけではないが。

ボスの女と書いたが、彼女に言わせると「私はビジネスウーマン」なのだそうだ。とはいえモントーヤの命令は絶対だから、その相手もしないわけにはいかない。しかもその場面の直前に、イザベラはモントーヤに、クロケットとはハバナで寝たと報告しているのだ。イザベラと同格かそれより上の地位と思われるホセ・イエロ(ジョン・オーティス)にも何やらイザベラに対する複雑な感情があるようで、クロケットとイザベラのダンスシーンにただならぬものを感じて涙目になる場面があるのだが(イエロはこの時点でクロケットとタブスを相当疑っている)、それ以上のことはわからず仕舞いだ。

このあたりをもう少し丁寧に描けばかなり面白いものが出来そうなのに、映画はクロケットとイザベラのベッドシーンを長々と見せるのだけだから能がない。そのイザベラの描き方も中途半端で、中国系なのにハバナに親戚があると言っていたからその説明もしてほしいし(簡単な説明でもあれば逆に組織の大きさを強調できそうではないか)、「私は17歳の時からの唯一の世界を失うのよ」というセリフだってもっと効果のあるものにできたはずなのだ。

最後の大がかりな銃撃戦では女捜査官ジーナ(エリザベス・ロドリゲス)の活躍ぶりが際だっているから、マイケル・マンは女性を描くのが苦手というのではなく、恋物語が苦手なのだろう。

都合で潜入捜査の模様を後回しにしてしまったが、これはじっくり見せてくれて、緊張させられた。お互いの探り合いにはじまって、腕試しの運びから、だんだんと大掛かりな運びへ。相手はさすがに用心深く少しずつしか仕事をくれない。ここでは観ている方までじりじりとした気分にさせられる。が、駆け引きの間に入る運びの場面では、船や飛行機を使った爽快さも挟んでと、うまい演出だ。

ただ、情報屋を殺った相手は始末するものの、結局モントーヤは逃がしてしまうし(イグアスの滝のアジトも空っぽ)、内部から情報を流していた犯人も特定できないままだから、不満が残る。どころか、タブスの恋人トルーディ(ナオミ・ハリス)が誘拐されてしまうような不完全な潜入のやり方って甘くないだろうか(恋人が割れてしまうくらいなら本人の素性などわけないだろう)。このことでトルーディは大怪我を負ってしまうし、クロケットはイザベラをハバナへ逃がして助けたつもりになっているが、敵の組織力や規模を考えたらお気楽すぎる。

事件を完全に解決しなかったのは、もしかしたらヒット次第では続編というのが頭にあるのかもしれないが、それはともかくとしても、今の状況はクロケットとタブスの潜入捜査前よりも悪くなっているとしか思えないのだが……。

『マイアミ・バイス』は、とにかく夜の場面の多い映画だった。高速ボートが疾走する場面まで夜だったりする。高感度カメラを使用しているらしいが、それほど粗い感じはなく、明かりに彩られた夜景は艶めかしい殺気をはらんでいた。

  

【メモ】

マイアミは観光地のイメージだが、この映画では中南米と北米を結ぶ密輸の中継地として国際犯罪組織の温床になっているという面が強調されている。

クロケットだけでなくタブスのベッドシーンもちゃんとある。

ふたりは高速ボートやジェット機の操縦まで何でもこなす。007並のスーパーデカなのだ。

タブスはトルーディの件については相当反省していたが、となると続編は無し?

原題:Miami Vice

2006年 132分 アメリカ シネマスコープ 日本語字幕:菊池浩司

監督・脚本:マイケル・マン オリジナル脚本:アンソニー・ヤーコヴィック 撮影:ディオン・ビーブ 編集:ウィリアム・ゴールデンバーグ、ポール・ルベル 音楽:ジョン・マーフィ
 
出演:コリン・ファレル(ソニー・クロケット)、ジェイミー・フォックス(リカルド・タブス)、コン・リー(イザベラ)、ナオミ・ハリス(トルーディ・ジョプリン)、エリザベス・ロドリゲス(ジーナ)、ジョン・オーティス(ホセ・イエロ)、ルイス・トサル(モントーヤ)、バリー・シャバカ・ヘンリー(マーティン・カステロ)、 ジャスティン・セロー(ラリー・ジート)、ドメニク・ランバルドッツィ(スタン・スワイテク)、キアラン・ハインズ(フジマ)、ジョン・ホークス(アロンゾ)、エディ・マーサン(ニコラス)

パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト

新宿ミラノ1 ★★☆

■目まぐるしいし、遊びすぎ

情けないが、前作(2003)の記憶はもうすでにほとんどない。海賊+ファンタジー的要素のイメージが残っているだけ。自分の好みとしないところが残っているということは、つまりそんなに評価できなかったのだろう。結論から言ってしまうと、今回も似たようなものかも。が、ファンタジー部分で前回ほどの抵抗は感じなかった。骸骨海賊よりは半魚人の方がいいかなという程度なのだけど。

ウィル(オーランド・ブルーム)とエリザベス(キーラ・ナイトレイ)は、結婚式の直前にジャック(ジョニー・デップ)を逃した罪で投獄されてしまう。提督がウィルに示した放免の条件は、ジャックの持つ羅針盤を手に入れることだった。これで3人が出会うお膳立ては完了。だって、ほらね、エリザベスは脱獄してウィルのあとを追ったもの。

そのジャックだが、前作で海賊バルボッサ(ジェフリー・ラッシュ)との死闘のすえブラックパール号には戻れたものの、幽霊船フライング・ダッチマン号の船長デイヴィ・ジョーンズ(ビル・ナイ)と契約した13年の支払期限が迫っていた。ジャックはブラックパール号を手に入れるため自分の魂を負債にしていたのだ。

この幽霊デイヴィ・ジョーンズとの約束もだけど、彼の心臓が入った宝箱(デッドマンズ・チェスト)やジャックの不思議な羅針盤、さらにはこれまたジャックとの関係も怪しげな女霊媒師?ティア・ダルマ(ナオミ・ハリス)なども現れて、いくらでも設定自由ときてるから、逆にどうしても本気で観る気になれない。ましてや最後になって、この作品が次回作への橋渡し的位置にあることがわかっては、力が抜けざるを得ないというしかない。

そうはいってもさすがに夏の本命作ということで、見せ場は山とある。前作から3年も経つのに主要配役はすべて確保してだから、力の入れ具合もわかるというものだ。

デイヴィ・ジョーンズの操るクラーケンという大ダコの怪物はド迫力(でかすぎて全体像も見えないのだ)だし、デイヴィ・ジョーンズのタコ足あごひげの動きにもつい見とれてしまう。ただ、人食い人種族から逃げ出すところや、外れてころがる水車の上での3つ巴の剣戟などは、それ自体はよく出来ていても大筋には関係ない余興で、だから観客も例えば宝箱の鍵の争奪戦という目的を忘れかねない話の拡散ぶりなのだ。また笑いの要素もそうで、それがこの映画の持ち味にしても、全体に遊びすぎだろう。

ウィルの父親ビル・ターナーまで登場(バルボッサの怒りを買って靴紐を砲弾に縛られて海中に沈められていた)して、話はますますややこしくなるばかり。ウィルは鍛冶屋見習いだったはずだが、父親は元海賊なんだ(私が忘れているだけなら、ごめん)。詰め込みすぎだから、ジャックの手に表れる黒丸の意味も忘れていて、なんだよせっかくのラブシーンなのに、となってしまう。

それにしてもウィルと式直前までになりながら、ジャックにも惹かれてしまうエリザベスっていうのもねー。ウィルは今回活躍場面も少なかったし、ジャックとエリザベスのキスシーンまで見せられちゃうわで、同情申し上げますです。

あと、デイヴィ・ジョーンズが、海で死んだすべての男の魂を牛耳っている(海で命を落とし適切に埋葬されなかった者が、命は尽きているのに死ぬことは出来ずに彼の船員にされてしまう)のであれば、前作の海賊バルボッサたちとはどういう関係にあるのだろう。

演出で気になったのは、クラーケンの出現にジャックがブラックパール号から早々に逃げ出してしまう部分。こんな簡単に捨ててしまうものを、自分の魂と引き換えにしてたのかよ。まあジャックは、ちゃんと引き返してくるんだけど、でもあの場面では相当ボートを漕いでいたんだけどねー。

帰ってきたジャックはクラーケンとの闘いで姿を消す。で、このあとは3作目を乞うご期待、だって。はぁ、さいですか。

 

【メモ】

自分の魂でなければ、100人分が必要。

ジャックに「いざとなったらあなたは正しいことをする」とエリザベス。

「(デイヴィ・ジョーンズが近づけないように)陸を持ち歩きなさい」とビンに土を入れる。

エンドロールのあとの映像は、犬が酋長の椅子に座っている場面。やっぱり捕まっちゃったんだ。んで、ジャックの代わりに食べられちゃうのだな。

原題:Pirates of the Caribbean: Dead Man’s Chest

2006 151分 シネスコサイズ アメリカ 日本語字幕:■

監督:ゴア・ヴァービンスキー 制作:ジェリー・ブラッカイマー 脚本:テッド・エリオット、テリー・ロッシオ 撮影:ダリウス・ウォルスキー 編集:スティーヴン・E・リフキン、クレイグ・ウッド 音楽:ハンス・ジマー

出演:ジョニー・デップ(ジャック・スパロウ)、オーランド・ブルーム(ウィル・ターナー)、キーラ・ナイトレイ(エリザベス・スワン)、ビル・ナイ(デイヴィ・ジョーンズ)、ステラン・スカルスガルド(“ブーツストラップ”・ビル・ターナー)、ジャック・ダヴェンポート(ノリントン)、ケヴィン・マクナリー(ギブス)、ナオミ・ハリス(ティア・ダルマ)、ジョナサン・プライス(スワン総督)、マッケンジー・クルック(ラジェッティ)、トム・ホランダー(ベケット卿)、リー・アレンバーグ(ピンテル)、ジェフリー・ラッシュ(バルボッサ)

日本沈没

2006/7/30 TOHOシネマズ錦糸町-3 ★★☆

■日本半分沈没

なにしろ日本沈没である。日本が沈没するとなると1億2千万の全日本人(外人もいるけど、おおまかね)に、否が応でも劇的なドラマが訪れるわけである。つまりこの映画の登場人物は、選ばれし人物ということになる。

であるのに映画はいきなり、ハイパーレスキュー隊員である阿部玲子(柴咲コウ)によるアクロバチックな、少女(倉木美咲=福田麻由子)救出劇を用意する。女性隊員という設定もだが、あとの場面で彼女は長髪をなびかせたりするのだ。

のっけから細かいことに難癖を付けて申し訳ないが、なにしろ日本が沈没してしまうのだから、やはりここは相当マジで行きたいと思うのだ。

彼女と潜水艇のパイロットである小野寺俊夫(草彅剛)の恋愛話を、日本政府の対応に対極させる形にしたのは決して間違いではないし、「自分だけが幸せにはなれない」という彼女に突き動かされるように、最後は彼にも「俺にも守りたい人がいます」「奇跡を起こせます。起こしてみせます」とまで言わせるというのは悪くはない。

が、骨組みはよくても肉付け部分に難がある。神出鬼没の小野寺というご都合主義にはまだ目をつぶれるが、最初に書いた玲子の造型などが話を台無しにしている。ふたりのラブシーンでの妙な引き延ばしは『LIMIT OF LOVE 海猿』に比べれば、ずっと抑えてはあるのだが……。

次は、これはどうしてもはずせない田所博士(豊川悦司)だが、日本沈没の兆候発見者であるにもかかわらず、アメリカのすっぱ抜き?があってか、最初から迷走気味。これでは型破りな科学者というよりは、冷静さを欠いた行動ばかりが目立つただのマッドサイエンティストではないか。

政府の対応は、これまたあまりに心もとない。いい加減な連中を適当に配したのはわかるが、しかし山本首相(石坂浩二)は、髪型からしても小泉首相を意識しているのだろう。だからだね、中国訪問を前に、「どれだけ(日本人を)受け入れてもらえるか」と鷹森文部科学大臣(大地真央)に悩みをうち明けるのは。交渉難航は必然だものなー。

山本首相は続けて、未曾有の国難を前に「何もせず、愛する者と一緒に滅んだ方がいい」という特殊な意見が違う分野から出ていることについて、「こういう考え方が日本人なのかも」しれず、自分の考えもこれに近いと語る。しかし、この考え方のどこが日本人的なのだろう。本気でこのセリフを喋らせているなら問題ではないか。日本人は果たして特殊な民族だろうか。そう思い込みたいだけじゃないのか。

山本首相の死後(訪問に出かけた首相専用機が阿蘇山の噴火に巻き込まれるというお粗末な設定)、危機管理担当大臣にも任命されていた鷹森大臣が、元夫でもある田所博士の助言(これも訊くのが遅いんだよね)により、世界中の掘削船を導入して、プレート内部に爆薬を仕掛けるという最後の賭けに出るのだが、他の奴らは何をしているんだ! まあ、映画だから仕方ないのだけどね。

このあとの話の盛り上げ方も低レベル。各国の掘削船で何カ所にも爆薬を仕掛けながら、最終的には強力な爆薬を深海潜水艇から直接操らなければならないなんて。しかも最新の潜水艇は結城(及川光博)もろとも失われ、小野寺は博物館に展示されているすでにお払い箱となった旧式の潜水艇に乗り込むことになるのだ。掘削船だけじゃなく、潜水艇も借りろよ。

爆薬(N2爆弾の起爆装置?)すら予備がなくて、結城が落としてしまったものを拾うって! 日本が沈没しつつあるっていうのに、プレートのそばに落としたものが見つけられるわけがないでしょ! 小野寺の「特攻」を演出したかったのかもしれないが、あまりにひどい。そもそもアイディアは『アルマゲドン』だしね。

というわけで、日本はなんとか沈没をまぬがれるのでした。ずたずたに分断された島だらけの国となって残るのね。ありゃりゃ、ということは日本人がユダヤ人のような放浪の民族になったらどうなるか、という原作の壮大な意図はどこへ行ってしまったのだろう。

特撮はなかなかだし、なにしろ日本(半分)沈没なわけだから、どんな話をもってきても考えさせられることが多いわけで、それだけでも意味があると思うのだが、逆に自分に引きつけた物語を見つけようとすると、どうしても点は辛くなってしまうだろう。

こうなったら、毎年『日本沈没』の別バージョンを創り続けるか、もしくはマクロ的な、それこそ特撮に特化し個人の感情など徹底的に排除した、つまり蟻のような人間しか出てこない『日本沈没』というのは、いかがでしょう。観たいな、これ。いや、ホント。

 

【メモ】

旧作の『日本沈没』は東宝の製作と配給で、1973年12月29日に正月映画として公開された。小松左京の原作も1973年、光文社のカッパノベルスから上下2巻の同時刊行。

玲子が倉木美咲を救出する方法もどうかと思うが、美咲を引き取るのもおかしい。玲子は骨折で仕事を休むが?

「沈没することが明らかになった以上、唯一の救いは数10年後に起きることが今予測できたことだ」と、最初のうちはまだ余裕もあったのだが……。

「こうなってしまった以上何が大切ですか」「私は心だと思う」

デラミネーション。

鷹森大臣と田所博士は20年前に離婚。

仏像の運び出し場面。賄賂代わりに、国宝を手みやげ。

「命よりも大事な場合もあるの。人を好きだって気持ちは」小野寺俊夫に彼の母が言う。

「日本はアメリカに見捨てられた」というセリフは、アメリカを信用していない者にとっても唐突だ。これだけの大異変となると近隣諸国に及ぼす影響も大きいわけで、すべてのことが日本政府の決断と平行して国連がらみで進行していくのではないだろうか。

避難民が山の方へ向かうのはわかるが、富士山に向かって行く?

最新の潜水艇は「わだつみ6500」。展示品になっていたのは「わだつみ2000」。

最後の爆発時に、海上にはまだ船(掘削船だよね)が多数いたようだが?

2006年 135分 配給:東宝 

監督:樋口真嗣 脚本:加藤正人 原作:小松左京 撮影監督:河津太郎 編集:奥田浩史 音楽:岩代太郎 特技統括/監督補:尾上克郎 特技監督:神谷誠 撮影協力:防衛庁、東京消防庁、JAMSTEC(独立行政法人 海洋開発研究機構)

出演:草彅剛 (小野寺俊夫 潜水艇パイロット)、柴咲コウ(阿部玲子 ハイパーレスキュー隊員)、及川光博(結城慎司 潜水艇パイロット)、石坂浩二(山本尚之 内閣総理大臣)、豊川悦司(田所雄介 地球生命学博士)、大地真央(鷹森沙織 文部科学兼危機管理担当大臣)、福田麻由子(倉木美咲)、吉田日出子(田野倉珠江 玲子の叔母)、國村隼(野崎亨介 内閣官房長官)、長山藍子(小野寺俊夫の母)、和久井映見(小野寺俊夫の姉)、六平直政、ピエール瀧、柄本明、福井晴敏、庵野秀明

幸せのポートレート

シャンテシネ3 ★★☆

■あー大変、疲れちゃうよ

ニューヨークのキャリア・ウーマン、メレディス(サラ・ジェシカ・パーカー)が、恋人のエヴェレット(ダーモット・マローニー)に連れられて、クリスマス休暇を過ごすためにストーン家にやってくる。

結婚相手の家族とうまくやっていけるかどうかは、現代のアメリカ女性にとっても大問題のようだ。仕事のようにはいかないとわかってか、家に入る前からメレディスは緊張気味。で、これがえらく難問だったとさ。

メレディスに対するストーン家の反応は過剰で、あまりにも意地悪すぎ。1度会ったことのある次女のエイミー(レイチェル・マクアダムス)が吹き込んだメレディス評のせいかもしれないし、母親のシビル(ダイアン・キートン)などは癌が再発したという事情があるのだけど、それを差し引いたにしてもいただけない。すべてがオープンで、エイミーの初体験相手の名前が飛び出すような気取らないストーン家と、スーツで身を固め、妹のジュリー(クレア・デインズ)との電話にもプライバシーだからと人払いをせずにはいられないメレディスは、火と油にしてもだ。

異色なのはエヴェレットもで、だからメレディスを相手に選んだのだろうか(もっともこの点については違う展開になるのだが)。シビルによれば、彼は理想家で完璧を目指しすぎるらしい。で、本当に求めているものに気付いていないと最後までメレディスとの結婚に反対するのだが、この理屈はよくわからない。

メレディスは応援のつもりで呼び寄せたジュリーが人気をさらって裏目になるし、さらに3男のサッド(タイロン・ジョルダーノ)に話題が及んで、とんだ侮辱発言を開陳してしまう。サッドは聾者でゲイ。彼の相手で黒人のパトリック(ブライアン・ホワイト)も家族の一員になりきっている。「親なら誰も子が障害を持つことを望まない」と言うメレディスに「自分の子がみんなゲイであればと願ったわ。女の子に取られないから」とサッドたちに気遣いをみせるシビルだが、そのことには気付かないメレディスは、自分の発言を取り繕うとして失言を重ね、父親のケリー(クレイグ・T・ネルソン)に「もう沢山だ」とまで言われてしまうのだ。

これでメレディスの評価が下がるというのなら仕方ないのだけどねー。もっとも次男のベン(ルーク・ウィルソン)はメレディスにはじめから好意的だったから一方的に怒ることなく、慰め役にまわることになる。

で、結局メレディスとベン、エヴェレットとジュリー、さらにはメレディスのおかげエイミーに初体験の相手という組み合わせが誕生するのだが、さすがに少しやりすぎだし理屈(じゃないけどね)からいっても飲み込みにくい。脚本は、人物の交通整理はよくできているのに肉付けがまずいのではないか。

メレディスは意外にもストーン家に近い面があり、で、それはなるほどと思えるのだが、ジュリーについてはもう少し何かがほしいところだ。最初からストーン家に受け入れられるのは、メレディスの逆バージョンと受け取ればいいのかもしれないのだけどね。

それに比べるとメレディスはエヴェレットに「プロポーズはしていない」とみんなの前で言われてしまうし、本当に散々な役。さすがに可哀想になってくるが、でもだからって共感するまでには至らない。出演者は多いんだけど、つまるところ彼らと違って、寄り添うべき人物が見つからなかったのだ。

末期癌の話も途中ですっ飛んでしまったけど、でもまあそれは最後に次の年のクリスマスシーンがあって、シビルの姿がそこにはなく、という終わり方になっていた。

邦題はメレディスがクリスマスプレゼントにストーン家の人たちに贈った額入りの写真からつけている。エヴェレットの机にあったものだと言っていた。シビルのお腹にエイミー(メレディスはエヴェレットと思っていた)がいた時のもので、この写真は最後にまた出てくる。

 

【メモ】

タイトルデザインは、書体もデザインもそれぞれ違うクリスマスカードで綴られる(雪や船の部分は動きがついている)。

メレディスが「結婚前なのにエヴェレットの部屋には泊まれない」と、エイミーの部屋を借りることになるのだが、エイミーはこれも気に入らない。ここでシビルは、メレディスに「あなたと寝たくないのね」とまで。

辛辣な言葉の数々。「礼儀がどうだろうとあんな女は願い下げ」「エヴェレットは自分のことがわかっていない」さすがにエヴェレットも反論する。「僕へのいやがらせか」「父さんにも失望した」これはだいぶ経ってからのセリフだが「母さんはみんなの人生をやっかいにした」とも(このあと指輪を渡されて「指輪はあなた次第」と)。

エヴェレットは、昔シビルから結婚相手をみつけて来たら祖母の指輪をあげると言われていた。このクリスマス休暇はその目的もあった。

ベンはメレディスに会ってその晩すぐ夢に見る。「君は小さな女の子で雪かきをしている。俺は雪なんだ。君がすくう」というもの。

この指輪をエヴェレットがジュリーにはめて取れなくなる騒動も。

原題:The Family Stone

2005年 103分 アメリカ 日本語字幕:松浦美奈

監督・脚本:トーマス・ベズーチャ 撮影:ジョナサン・ブラウン 編集:ジェフリー・フォード 音楽:マイケル・ジアッキノ

出演:サラ・ジェシカ・パーカー(メレディス・モートン)、ダーモット・マローニー(エヴェレット・ストーン)、ルーク・ウィルソン(ベン・ストーン)、ダイアン・キートン(シビル・ストーン)、クレア・デインズ(ジュリー・モートン)、レイチェル・マクアダムス(エイミー・ストーン)、クレイグ・T・ネルソン(ケリー・ストーン)、タイロン・ジョルダーノ(サッド・ストーン)、ブライアン・ホワイト(パトリック・トーマス)、エリザベス・リーサー(スザンナ・ストーン・トゥルースデイル)、ポール・シュナイダー(ブラッド・スティーヴンソン)、ジェイミー・ケイラー(ジョン・トゥルースデイル)、サヴァンナ・ステーリン(エリザベス・トゥルースデイル)

機械じかけの小児病棟

シネマスクエアとうきゅう ★★☆

■意外と凝ったホラーだが

老朽化のため閉鎖間近のイギリス、ワイト島にあるマーシー・フォールズ小児病院に、看護婦の欠員があってエイミー(キャリスタ・フロックハート)が派遣されてくる。そこは忌まわしい過去が封印された病院だった……。

同僚の看護婦ヘレン(エレナ・アナヤ)や看護婦長フォルダー(ジェマ・ジョーンズ)を微妙なところ(敵か味方か)に置いて、エイミーの活躍にロバート医師(リチャード・ロクスバーグ)の協力で、昔の惨劇が明かされていく。なんでもフォルダーがこの病院に来たばかりの頃、看護婦が女の子を骨折させていた事件があったというのだ(もっともこれがわかるのは最後の方)。入院患者の子供たちが2階(ある事件で閉鎖されていた)の物音に怯え、その中で霊感の強いマギーという子が、全身に金属の矯正器具を付けたシャーロットという女の霊が出ていると言っていたのは本当だったのだ。

最初に病院から搬送されようとしたサイモンという男の子の骨折シーンは、その霊の仕業だったというわけか。でも何故。それにあれはいかにもレントゲンを撮ることで骨折が引き起こされたような映像だったが? 医師自身が骨折箇所が増えていることに疑問を呈しているのだが、説明がヘタでなんともまぎらわしい。

前任の看護婦スーザンの死については、彼女が相談していたという霊媒者姉妹をエイミーに訪問させて、「死期が近づいている者にのみ霊が見え」「彼ら(霊)は愛するもののそばにいようとする」と解説させる。そして、これがちゃんとした伏線になっていたのだけど、なんとなく霊媒者まで出してきたことで、うさんくさくなって、ちょっと馬鹿にしてしまっていたのね。

エイミーとロバートが必死になって事件のカルテを見つけようとするあたりからは急展開。シャーロットが実は看護婦で、マンディ・フィリップスというのが患者である少女の名前だったことが判明する。シャーロットはマンディを虐待し、退院させたくないために彼女の骨を折っては退院を延期させていたというのだ。うわわわ、サイモンの骨折もこれだったのだ。事件が明るみにでて有罪となった彼女はマンディを殺害し(可能?)、自分に矯正器具を付け(これがわからん)自殺し、幽霊となって出ていたのだと。

よくできた話とは思うが、全体の見せ方があまりうまいとはいえない。矯正器具を付けた幽霊が、それこそ矯正器具で固定されているようで全然怖くないし、途中で映画を幽霊ものと思ってしまって興味を半減してしまったということもある。ま、これは私が悪いのだけれど。ここまで脚本に凝っているとは思わなかったのね。最後になって急に盛り上がられてもなーという感じ。ロバート医師も中途半端だったかなぁ。

【メモ】

閉鎖が決まった病院は、入院患者や医療機器の移送がはじまっていたのだが移送の最終日に大規模な鉄道事故が発生する。患者たちを移す予定だった近隣の病院は負傷者があふれ、病院の閉鎖はしばらく延期されることになる。

エイミーも2階の物音や異変に気付き、エレベーターに閉じ込められたりもする。

エイミーはスーザンの自宅を訪ねるが、彼女はその前日に運転する車がスリップ事故を起こして死亡していた。

続いて、病院の従業員ロイの不審死(窓に飛び込む)。

エイミーにも自分のミスで患者を死なせているという過去がある。

死期が迫っていたスーザン、マギーには霊の姿が見える。そして、エイミーにも……。

原題:Fragile

2005年 102分 シネマスコープ スペイン 日本語字幕:関美冬

監督:ジャウマ・バラゲロ 脚本:ジャウマ・バラゲロ、ホルディ・ガルセラン 撮影:シャビ・ヒメネス 音楽:ロケ・バニョス

出演:キャリスタ・フロックハート(エイミー)、リチャード・ロクスバーグ(ロバート)、エレナ・アナヤ(ヘレン)、ジェマ・ジョーンズ(フォルダー)、ヤスミン・マーフィ(マギー)、コリン・マクファーレン 、マイケル・ペニングトン