トンマッコルへようこそ

シネマスクエアとうきゅう ★★★☆

■トンマッコルでさえ理想郷と思えぬ人がいた!?

朝鮮戦争下の1950年に、南の兵士に北の兵士、それに連合軍の兵士が、トンマッコルという山奥の村で鉢合わせすることになる。村の名前が最初から「トン¬=子供のように、マッコル=純粋な村」というのが気に入らない(昔からそう呼ばれていたという説明がある)が、要するに、争うことを知らない心優しい村人たちの自給自足の豊かな生活の中で、戦争という対極からやってきた兵士たちが、何が本当に大切なのかを知るという寓話である。

南の兵士は脱走兵のピョ・ヒョンチョル(シン・ハギュン)に、彼と偶然出会った衛生兵のムン・サンサン(ソ・ジェギョン)。北の兵士は仲間割れのところを襲撃されて逃れてきたリ・スファ(チョン・ジェヨン)、チャン・ヨンヒ(イム・ハリョン)、ソ・テッキ(リュ・ドックァン)。連合軍の米兵は数日前に飛行機で不時着したというスミス(スティーヴ・テシュラー)。

敵対する彼らが一触即発状態なのに、村人にはそれが理解できず、頭の弱いヨイル(カン・ヘジョン)に至っては、手榴弾のピンを指輪(カラッチ)といって引き抜いてしまう。このあと手榴弾が村の貯蔵庫を爆破して、ポップコーンの雪が降る。

が、私の頭は固くて、すぐにはこの映画の寓話的処理が理解できずに、あれ、これってもしかしてポップコーン、などとすっとぼけていた。でかいイノシシの登場でやっとそのつくりに納得。導入の戦闘場面のリアルさに頭が切り換えられずにいたのだ。ヨイルという恰好の道案内がいて、蝶の舞う場面(これはあとでも出てくる)だってあったというのにね。

イノシシを協力して仕留めるし(村人が食べもしないし埋めない肉を、夜6人で食べる)、村の1年分の食料を台無しにしてしまったことのお詫びにと農作業にも精を出すうちに、6人は次第に打ち解けていくのだが、スミス大尉の捜索とこの地点が敵の補給ルートになっていると思っている連合軍は、手始めに落下傘部隊を送ってくる。

このことがヨイルの死を招き、彼らに村を守ることを決意させることになる。爆撃機の残骸の武器を使って対空砲台に見せかけ、村を爆撃の目標からそらそうというのだ。

架空の村トンマッコルには、朝鮮戦争という国を分断した戦いをしなければならなかった想いが詰まっているのだろうが、この命をかけた戦いにスミスまでを参加させようとしたのには少し無理がなかったか。キム先生の蔵書頼みの英語だってまったく通じなかったわけだから、スミスはかなりの間つんぼ桟敷状態に置かれていたのだし。ま、結果として彼は、連合軍に戻って爆撃をやめさせるという順当な役を割り当てられるのではあるが。

軍服を脱いだ彼らが、村を守るためにはまた武器を取るしかない、というのがやたら悲しくて、とてもこれを皮肉とは受け取れない。天真爛漫なヨイルの死で、すでに村も死んでしまったと解釈してしまったからなのだが。そして、連合軍の飛行機の落とす爆弾があまりにもきれいで(どうしてこれまで美しい映像にしたのだ!)、私にはこの映画をどう評価してよいのかさっぱりわからなくなっていた。「僕たちも連合軍なんですか」「南北連合軍じゃないんですか」という、爆撃機に立ち向かっていく彼らのセリフの複雑さにも、言うべき言葉が見つからない。

ところで、トンマッコルは誰にとっても理想郷かというと、これが意外にもそうではないようなのだ。リと親しくなるドング少年の母親が「ドングの父親が家を出て9年」と言っているのだな。ふうむ。どなることなく村をひとつにまとめている指導力を問われて、村長は「沢山食わせること」と悠然と答えていたが、たとえそうであっても人間というのは一筋縄ではいかないもののようだ。

  

【メモ】

ピョ・ヒョンチョルが脱走兵となったのは、避難民であふれている鉄橋を爆破しろと命令されたことで、これがいつまでも悪夢となって彼を悩ませる。

原題:・ー・エ 妤ャ ・呱ァ賀ウィ  英題:Welcome to Dongmakgol

2005年 132分 シネスコサイズ 韓国 日本語字幕:根本理恵

監督:パク・クァンヒョン 原作: チャン・ジン 脚本:チャン・ジン、パク・クァンヒョン、キム・ジュン 撮影:チェ・サンホ 音楽:久石譲
 
出演:シン・ハギュン(ピョ・ヒョンチョル)、チョン・ジェヨン(リ・スファ)、カン・ヘジョン(ヨイル)、イム・ハリョン(チャン・ヨンヒ)、ソ・ジェギョン(ムン・サンサン)、スティーヴ・テシュラー(スミス)、リュ・ドックァン(ソ・テッキ)、チョン・ジェジン(村長)、チョ・ドッキョン(キム先生)、クォン・オミン(ドング)

マッチポイント

銀座テアトルシネマ ★★★☆

■面白くなるのはマッチポイントになってから

プロテニスプレイヤーとして限界を感じていたクリス・ウィルトン(ジョナサン・リス・マイヤーズ)は会員制のテニスクラブのコーチとして働きだす。そこでトム・ヒューイットという英国の上流階級の若者と親しくなる。オペラファンということを知られてボックス席に誘われたことから、今度はトムの妹クロエ(エミリー・モーティマー)に好かれるという幸運を得る。

上流社会には縁のなかったアイルランド青年のクリスだが、クロエが積極的なことから結婚だけでなく、彼女の父親アレックス(ブライアン・コックス)の会社で働くことにもなってと、話はトントン拍子に進んでいく。が、クリスが本当に惹かれたのは、トムの婚約者であるアメリカ人のノラにだった。

この映画、見所は最後の方に集中している。退屈こそしないが、終盤まではごくありきたりの展開で、アレンらしくないのだ。物語が『罪と罰』にかぶることと、ノラの名前がイプセンの『人形の家』の主人公を連想させるから、そこらあたりに仕掛けがあるのかもしれないが、詳しいことは私にはわからない(あとはオペラだが、こちらの知識はさらにないので)。

『罪と罰』と並んでクリスは『ケンブリッジ版ドストエフスキー入門』も読んでいて、これがさっそくアレックスとの会話に役に立つことになる。クリスの付け焼き刃を解説本で揶揄しているのだから、オペラ好きまでが彼の演出の一部と言いたげだ。テニスをあきらめたのは「勝負の執念がない」はずだったのに、しかしノラとの最初の出会いとなった卓球では「僕は競争心が強い」と、違うことを言っているのだ。アレックスが勧める新部門の役員ポストをまずは断るあたり、すべてに周到な計算が働いていたともとれる。無理して家賃の高いアパートにしたのもそのためだったか。

ノラに対する情熱はクリスに思わぬチャンスをもたらす。ノラは女優志望なのだがなかなか芽が出ず、彼女がバツイチなこともあってトムの母親エレノア(ペネロープ・ウィルトン)からそのことを攻撃される。雨の中を泣きながら歩いているノラをクリスが目にとめ、ふたりは激情の赴くまま関係を持つ。この時点ではノラにはまだトムという存在が確固としてあったため、これだけで終わってしまうのだが……。

この場面の前にも実はノラがオーディションに行くのにクリスが付き合う場面があって、唐突さは避けている。手抜きのない描写は、感情の流れをそこなわず自然なのだが、いささか冗長だ。

冗長と感じるのは、最初に書いたように、浮気の最初の情熱がこじれていくのも、どうしようもなくなって殺害に至るのもありきたりだからだ。この冗長さは、クリスが感じるイライラさに被せているからで、ってそれはどうだろ。クリスの周到さは、ノラという魅力的な女性の前ではもろくも崩れてしまうわけだが、これもいまさらという感じである。

もっともさすがにこのままでは観客を納得させられないと心得ていて、ちょっとしたひねりが用意されている。

ヤク中の突発的犯行と見せかけるべく、クリスはノラのアパートの老女に続いて、指定時間に帰らせたノラを猟銃で殺害する。老女宅には押し入り、ノラは偶然エレベーターを降りたところを見つかって、という筋書きだ。クリスそのままクロエの待つ劇場にタクシーで駆けつけ、苦しいながらもアリバイを確保する。あとで老女宅から奪った薬の瓶やネックレスなどの証拠品は川に投げ捨てる。ここで最後に投げた指輪が、川岸の欄干に当たりこちら側に落ちるのだが、クリスは気付かずに去る。

このスローモーションは冒頭のテニス場面に重なるので、観客はこれが主人公の犯行の動かぬ証拠になるという予測をどうしても立ててしまう。ノラの日記からクリスを追求する刑事も、夢の中にまで事件を見、その筋書きを得意がって説明する。が同僚からは、昨日ヤク中が殺されそいつが老女の指輪を持っていたと告げられ、自説を撤回せざるをえなくなる(これはやられました)。

クリスも夢の中でノラと老女と対峙する。しかし、戦争の巻き添え死を引き合いに出しての弁明はどうか。逮捕されても罪をつぐなえるかどうかはわからないという言い逃れは、クリスの罪を認めないわけではなく、皮肉を言いたいだけなのだろうが、まったくの蛇足だ。運のいいクリスに、最後まで運の悪いノラ(老女についてまでは言及できないが)という簡単な対比ではないのだよ、ということだろうか。

そうか。ということは、刑事が日記を読んでいながらノラの妊娠に触れてこなかったのは、妊娠がノラのでっち上げだった可能性もある。となるとノラもただの悲劇のヒロインではなく、したたかに生きた上での運命のいたずら、といいたいのか。「私は特別な女なの。絶対後悔させない」って言ってたものなー。

 

【メモ】

クロエは美術に関心があり、クリスとの初デートはサーチ・ギャラリーだった。

エレノアはノラだけでなく、はじめのうちはクリスにも懐疑的。

ノラに会いたくて、乗り気でないクロエを説得して無理矢理映画になだれ込むクリス。映画の題名を訊きだして、それなら観たいと言っていた。映画は『モーター・サイクル・ダイアリーズ』。ノラは頭痛で来なかった。

トムはノラとの婚約を解消する。母に屈したし、出会い(ヴィクトリア)もあったからと。

ヴィクトリアはすぐ妊娠し、トムとの結婚式となる。一方クロエはなかなか妊娠しない。

仕事漬けだからか、クリスは秘書に自分が高所恐怖症のようなことを匂わす(アスピリンを2錠くれ)。職場も家(でもここは迷路になりそうだと、絶賛していたのにね)もでは、慣れない上流社会同様、足が地に着かない気分なのかも。

クロエと待ち合わせた美術館でノラを見つけ、強引に電話番号を訊き出すクリス。

株で損をしたクリスに、アレックスは娘にも君にも苦労させたくないので援助すると言う。

クリスはノラから妊娠したと伝えられる。今度(若い時とトムとの間にも。つまり3度目)は産むと言う。

猟銃はアレックスのもの。テニスラケットのケースに隠して持ち出す。

クロエと観る約束をしたミュージカルの舞台は『白衣の女』。

原題:Match point

2005年 124分 ビスタサイズ イギリス、アメリカ、ルクセンブルグ PG-12 日本語字幕:古田由紀子

監督・脚本:ウディ・アレン 撮影:レミ・アデファラシン 衣装デザイン:ジル・テイラー 編集:アリサ・レプセルター
 
出演:ジョナサン・リス・マイヤーズ(クリス・ウィルトン)、スカーレット・ヨハンソン (ノラ・ライス)、エミリー・モーティマー(クロエ・ヒューイット)、マシュー・グード(トム・ヒューイット)、ブライアン・コックス(アレックス・ヒューイット)、ペネロープ・ウィルトン(エレノア・ヒューイット)、ユエン・ブレムナー、ジェームズ・ネスビット、マーガレット・タイザック

DEATH NOTE デスノート the Last name

上野東急 ★★★☆

■せっかくのデスノートのアイデアが……

前作の面白さそのままに、今回も突っ走ってくれた。ごまかされているところがありそうな気もするが、1度くらい観ただけではそれはわからない。が、何度も観たくなること自体、十分評価に値する。

と、褒めておいて文句を書く……。

前作で予告のように登場していたアイドルの弥海砂(戸田恵梨香)にデスノートが降ってくる。彼女はキラ信者で(この説明はちゃんとしている)、夜神月との連係プレーが始まる。さすがにこれにはLも苦戦、という新展開になるのだが、このデスノートはリュークではなく、レムという別の死神によって海砂にもたらされる。

デスノートが2冊になったことで、ゲームとしての面白さは格段にあがったものの(月がこの2冊を使いこなすのが見物)、ということは世界には他にもデスノートが存在し、それがいつ何かの拍子に出てくるのではないかという危惧が、どこまでもついてまわることになった。このことで、せっかくのデスノートのアイディアが半減してしまったのは残念だ。

リュークを黒い死神、レムを白い死神(レムの方は感心できない造型だ)という対称的なイメージで作りあげたのだから、少なくとも死神は2人のみで、レムもリュークが月というあまりに面白いデスノート使いを見つけたことで、海砂(を月につながる存在として考えるならば)のところにやって来たことにでもしておけば、まだどうにかなったのではないか。前編を観た時に私は世界が狭くなってしまったことを惜しんだが、夜神月が死神にとっても得難い存在なのだということが印象付けられれば、これはこれでアリだと思えるからだ。

しかもこの白い死神のレムは、海砂に取り憑いたのも情ならば、自分の命を縮めてしまうのも情からと、まったく死神らしくないときてる。それに、レムはLとワタリの名前をデスノートに書いた、ってことは、死神はデスノートを使えるのね。うーむ。これも困ったよね。デスノートの存在自体を希薄にしてしまうもの。

あとこれはもうどうでもいいことだが、海砂の監禁に続いて月もLの監視下に置かれることになるのだが、2人の扱いに差があるのは何故か。海砂の方は身動き出来ないように縛り付けられているのに月は自由に動ける。これって逆では。単なる観客サービスにしてもおかしくないだろうか。

最後の、死をもって相手を制するというやり方は、そこだけを取り出してみると少しカッコよすぎるが、今までのやり取りを通して、Lにとっては月に勝つことが目的となっていても驚くにはあたらないと考えることにした。月や海砂にも目は行き届いているが、強いて言えば後編はLと夜神総一郎の映画だったかも。

とにかく面白い映画だった。原作もぜひ読んでみたいものである。

 

2006年 140分 ビスタサイズ

監督:金子修介 脚本:大石哲也 原作:大場つぐみ『DEATH NOTE』小畑健(作画) 撮影:高瀬比呂志、及川一 編集:矢船陽介 音楽:川井憲次

出演:藤原竜也(夜神月)、松山ケンイチ(L/竜崎)、鹿賀丈史(夜神総一郎)、戸田恵梨香(弥海砂)、片瀬那奈(高田清美)、マギー(出目川裕志)、上原さくら(西山冴子)、青山草太(松田刑事)、中村育二(宇生田刑事)、奥田達士(相沢啓二)、清水伸(模木刑事)、小松みゆき(佐波刑事)、前田愛(吉野綾子)、板尾創路(日々間数彦)、満島ひかり(夜神粧裕)、五大路子(夜神幸子)、津川雅彦(佐伯警察庁長官)、藤村俊二(ワタリ)、中村獅童(リューク:声のみ)、池畑慎之介(レム:声のみ)

サンキュー・スモーキング

シャンテシネ1 ★★★☆

■洒落た映画だが、映画自体が詭弁じみている

ニック・ネイラー(アーロン・エッカート)は、タバコ研究所の広報マン。すでに悪役の座が決定的なタバコを擁護する立場にあるから、嫌われ者を自覚している。TVの討論会では、15歳の癌患者を悲劇の主人公にしようとする論者を敵(味方などいるはずもない)に回して、タバコ業界は彼が少しでも長生きして喫煙してくれることを願っているが、保健厚生省は医療費が少なくてすむよう彼の死を願っているなどと言って論敵や視聴者を煙に巻く。

映画は、最後まですべてこんな調子。それを面白がれれば退屈することはない。といって喋りだけの平坦さとは無縁。テンポよく次々とメリハリのある場面が飛び出してくる。

ニックはタバコのイメージアップに、映画の中で大物スターにタバコを吸わせることを考えつく。上司のBR (J・K・シモンズ)はニックの案を自分の発案にしてしまうようなふざけた野郎だが、フィルター発案者でタバコ業界の最後の大物と言われるキャプテン(ロバート・デュヴァル)はちゃんとニックのことを買っていて、ロスに行って日本かぶれのスーパー・エージェントであるジェフ・マゴール(ロブ・ロウ)と交渉するように命じる。

キャプテンについての紹介は「1952年、朝鮮で中国人を撃っていた」というものだし、マゴールの仕事のめり込みぶりは度外れていて、ニックがいつ眠るのかと問うと日曜と答える。現代物は無理だがSF映画で吸わせるのならなんとかなると仕事の話も速い。

とにかく、登場人物は癖のあるヤツらばかりだし、それでいてほとんど実在の人物なのかと思わせる(だからこそ心配にもなってくる)あたり、大したデキという他ない。ニックが賄賂を持って出かけた初代マルボロマンだというローン・ラッチ(サム・エリオット)には「ベトコンを撃つのが好きだったが、職業にはしなかった」と言わせてしまうのだから。

ラッチとの駆け引きは見ものだ。相手はなにしろ銃を片時も手放さないし、クールが好きでマルボロは吸わなかったとぬけぬけと言うようなヤツ。癌と知って株主総会に出たという彼に、ニックはバッグ一杯の金を見せながら、告訴となければこの金は受け取れなくなり、寄付するしかなくなるとおどす。

タバコ悪者論者の急進派の一味に襲われ、ニコチンパッチを体中に貼られて解放される事件が起きて入院すれば、すかさず「ニコチンパッチは人を殺します。タバコが命を救ってくれた」(よくわからんが、タバコが免疫を作ってくれていたということなのか?)と切り返していたニックだが、親しくなっていた女性新聞記者のヘザー・ホロウェイ(ケイト・ホームズ)に仲間のことから映画界への働きかけから、口封じ、子供のことまですべてを記事で暴露され、会社をクビになる。誘拐で彼への同情はチャラになり、頼みのキャプテンは「今朝」死んだときかされる。

落ち込むニックを救ったのは息子ジョーイ(キャメロン・ブライト)の「パパは情報操作の王」という言葉。でもこれはどうなんだろ。ジョーイは父親を尊敬しているという設定にはなっているが、とはいえ、子供に屁理屈王と言われてしまったのではねー。

ニックは離婚していて、ジョーイには週末にしか会えないのだが、でもまあ子供思いで、学校にも行って仕事の話をするし、仕事先にもジョーイを連れ回す(マルボロマンとの交渉ではジョーイが役に立つ)。詭弁家ではあるが、子供にはきちんと向き合おうとしている。題材と切り口は奇抜ながら、実は父子の信頼関係の物語なのである。

立ち直りの速さはさすが情報操作王で、暴露記事には反省の姿勢を見せつつ、記者と性交渉を持つと最悪だが、紳士として相手の名前は伏せると反撃も忘れない。その勢いでタバコ小委員会に出席し、タバコに髑髏マークを付けようとしている宿敵のフィニスター上院議員(ウィリアム・H・メイシー)を徹底的にやりこめる。

無職なのだからもはや「ローンの返済のため」というのではないわけで、これは情報操作王としての意地なのだろうか。タバコはパーキンソン病の発症を遅らせると軽くパンチを出し、タバコが無害だと思う人なんていないのに何故今さら髑髏マークなのかと言い放つ。死因の1位はコレステロールなんだから髑髏マークはチーズにだって必要だし、飛行機や自動車にも付いてないじゃないかと。

ただ、この屁理屈と論旨のすり替えはいただけないし、またかという気持ちにもなる。というわけで、このあとの子供にもタバコを吸わせるのかという質問には、18歳になって彼が吸いたければ買って吸わせると、子供の自主性を強調していた。最初の方でもニックはジョーイの宿題に、自分で考えろと言っていたし、これについては異論はないのだけどね。

この活躍でニックは復職を要請される。が、それは断わって、自分でネイラー戦略研究所を立ち上げる。父親の血を引いたジョーイはディペードチャンピオンになって目出度し目出度し、ってそうなのか。言い負かしさえすればいいってものでははずだし、そんなことは製作者もわかっているみたいなのだが、だからってディベート社会そのものまでは否定していないようだ。

この映画を製作するとなると、どうしてもタバコ擁護派のポーズを取らざるを得ないわけで、だからこそそのために周到に映画の中ではタバコを吸う場面を1度も登場させていない(劇中のフィルムにはあるが)のだろう。そうはいってもこの終わり方ではやきもきせざるを得ない。ニックは最後に、誰にでも才能があるのだからそれを活かせばいいのだとも言う。それはそうなんだが、この割り切りも私には疑問に思える。

書きそびれたが、ニックの広報マン仲間で、アルコール業界のポリー(マリア・ベロ)と銃業界のボビー(デヴィッド・コークナー)の3人が飲んでいる場面がちょくちょくと入る。これがまたいいアクセント代わりになっている。3人は「Marchant of Death(死の商人)」の頭文字をとって「モッズ(MOD)特捜隊」(昔のテレビ番組)と名乗り、日頃のうっぷん晴らしや互いを挑発し合ったりしているのだが、これがちょっとうらやましくなる関係なのだ。

【メモ】

タイトルはタバコのパッケージを模したもの。

「専門家みたいに言うヤツがいたら、誰が言ったのかと訊け」「自分で考えろ」

「君は息子の母親とやっている男だ」

ジョーイもかなり口が達者で、父親についてカリフォルニアに行くことを母親に反対されると「破れた結婚の不満を僕にぶつけるの?」と言い返していた。 

「あの子はあなたを神と思っているの」

「何故秘密を話したの? ママは、パパは女に弱いからって」

原題:Thank You for Smoking

2006年 93分 サイズ■ アメリカ 日本語字幕:松浦美奈

監督・脚本:ジェイソン・ライトマン 原作:クリストファー・バックリー『ニコチン・ウォーズ』 撮影:ジェームズ・ウィテカー 美術:スティーヴ・サクラド 衣装:ダニー・グリッカー 編集:デーナ・E・グローバーマン 音楽:ロルフ・ケント
 
出演:アーロン・エッカート(ニック・ネイラー)、マリア・ベロ(ポリー・ベイリー)、デヴィッド・コークナー(ボビー・ジェイ・ブリス)、キャメロン・ブライト(ジョーイ・ネイラー)、ロブ・ロウ(ジェフ・マゴール)、アダム・ブロディ(ジャック・バイン)、サム・エリオット(ローン・ラッチ)、ケイト・ホームズ(ヘザー・ホロウェイ)、ウィリアム・H・メイシー(フィニスター上院議員)、J・K・シモンズ(BR)、ロバート・デュヴァル(ザ・キャプテン)、キム・ディケンズ、コニー・レイ、トッド・ルイーソ

カポーティ

シャンテシネ2 ★★★☆

■死刑囚の死は、作家の死でもあった

トルーマン・カポーティが『冷血』(原題:In Cold Blood)を執筆した過程を描く。

1959年にカンザス州で「裕福な農場主と家族3人が殺される」という事件が起きる。新聞の記事に興味を持ったカポーティ(フィリップ・シーモア・ホフマン)は、さっそくザ・ニューヨーカー紙の編集者ウィリアム・ショーン(ボブ・バラバン)に許可をとり、幼馴染みの作家ネル・ハーパー・リー(キャサリン・キーナー)を「調査助手」(とボディガードができるのは君だけ)に、カンザスへと向かう。

ハーパー・リーは『アラバマ物語』(原題:To Kill a Mockingbird)の原作者として有名だが、このカポーティの取材に協力していたようだ。カポーティは乗り込んだ列車で、客席係から有名人としての賛辞をもらうが、それがお金を払って仕組まれたセリフだということが彼女にはすぐばれてしまう。これは映画の最後でも彼女に電話で手厳しいことを言われることに繋がっている。

かように全篇、手練れの職人芸といった趣があるが、初監督作品の由。構成は鮮やかだが、抑制はききすぎるくらいにきいているから展開は淡々としたものだ。人物のアップを重ねながら、時折引いた画面を提示して観る者を熱くさせない。凝った作りながらドキュメンタリーを観ているような気分なのだ。カポーティ本人の喋り方や歩き方に特徴がありすぎるのか、ホフマンの演技が過剰なのかはわからないが、それすらもうるさく感じさせない。

ニューヨークの社交界では、有名人であるだけでなくそのお喋りに人気があるカポーティだが、カンザスではただのうさんくさい同性愛者。そんな状況も織り込みながら、彼は捕まった容疑者のふたりのうちのペリー・スミス(クリフトン・コリンズ・Jr)に興味を持ち、接触に成功する。

生い立ちなどからスミスに自分自身の姿を見たというカポーティだが、それが詭弁のように聞こえてしまう。取材のためなら賄賂は使うし、発見者のローラにも巧妙に近づき、スミスからは「いつまでも世間が君を怪物と呼ぶのを望まない」と言って彼の日記をせしめる。カポーティにとっては、作品は社交界の人気者でいるためにどうしても必要なもので、スミスは「金脈」なのだ。だから、犯行の話を訊いていないうちに死刑になるのは困るが、訊きだしたあとに何度も延期されると死刑という結末が書けず本が完成しない、という理屈になる。

『アラバマ物語』の完成試写でハーパー・リーに会っても「彼らが僕を苦しめる。控訴が認められたらノイローゼだ。そうならないように祈るだけ」と言うばかりで、彼女に映画の感想を訊かれても答えず去る。「正直言って騒ぐほどのデキじゃない」って、ひどいよなー。

その前の、捜査官のアルヴィン・デューイ(クリス・クーパー)に、カポーティが本の題名を『冷血』に決めたと伝えるくだりでは、デューイに冷血とは犯行のことか、それとも君のことかと切り替えされるが、この映画はカポーティに意地悪だ。

いや、そうでもないか。スミスに、姉が彼を毛嫌いしていたことは隠して写真を渡すなど、作品のためという部分はあるにせよ、心遣いをみせてもいるし、最後の面会から死刑執行に至っては、カポーティにも良心があることで、彼が壊れていくことを印象づけているから。

それにしても出版のために死刑を願った相手に、死刑の直前にからかわれ慰められたら、やはり正気ではいられなくなるだろう。ここから死刑執行場面までは本当に長くて、観客までが苦痛を強いられる。絞首刑に立ち会ったあとカポーティは、ハーパー・リーに「恐ろしい体験だった」と電話で報告する。「救うために何も出来なかった」と続けるが、彼女から返ってきたのは「救いたくなかったのよ」という言葉だった。

晩年はアルコールと薬物中毒に苦しみ、『冷血』以後は長篇をものにすることができなかったカポーティという作家の死を、映画はここに結びつけていた。

 

【メモ】

フィリップ・シーモア・ホフマンは、この演技でアカデミー主演俳優賞を受賞。

カポーティは、恋人である作家のジャック・ダンフィーにも、スミスとヒコックに弁護士をつけることでは「自分のためだろ」と冷たく言われてしまう。

『冷血』は前半しか書かれていないうちに、朗読会で抜粋部分が発表される。晴れ晴れとした顔のカポーティ。

そのことを知ったスミスに本の題名のことで詰め寄られる。あれは朗読の主催者が勝手に決めたことだし、事件の夜のことを訊けずに題名など決められないと嘘をつくカポーティ。

結末が書きたいのに書けないといいながら離乳食にウイスキーを入れて食べるカポーティ。この離乳食は、スミスがひと月ほど食事をとろうとしなかった時に、カポーティが差し入れていたのと同じものだ。

原題:Capote

2005年 114分 サイズ:■ アメリカ 日本語字幕:松崎広幸

監督:ベネット・ミラー 原作:ジェラルド・クラーク 脚本:ダン・ファターマン 撮影:アダム・キンメル 編集:クリストファー・テレフセン 音楽:マイケル・ダナ

出演:フィリップ・シーモア・ホフマン(トルーマン・カポーティ)、キャサリン・キーナー(ネル・ハーパー・リー 女流作家)、クリフトン・コリンズ・Jr(ペリー・スミス 犯人)、クリス・クーパー(アルヴィン・デューイ 捜査官)、ブルース・グリーンウッド(ジャック・ダンフィー 作家・カポーティの恋人)、ボブ・バラバン(ウィリアム・ショーン ザ・ニューヨーカー紙編集者)、エイミー・ライアン(マリー デューイの妻)、 マーク・ペルグリノ (リチャード・ヒコック もうひとりの犯人)、アリー・ミケルソン(ローラ 事件発見者)、マーシャル・ベル

スーパーマン リターンズ

新宿ミラノ1 ★★★☆

■問題を複雑にしすぎた5年

びっくりなのは、この映画が昔の4作の続編だということで、厳密には『スーパーマン』(1978)と『スーパーマン II 冒険篇』(1981)の最初の2作品の続きという位置づけになるらしい。最初の作品しか観ていないので、何故3、4作を無視するのかはわからないが、そうまでして25年後に続篇にすることはないだろうというのが正直な気持ち。

ま、いいんだけどね。ただ『冒険篇』の5年後ということは、舞台は今から20年前ってことになってしまうんだけどなー。

何故5年もの間不在にしていたかというあたりの説明が手抜きでわかりにくい(居場所探しって?)のだが、とにかくスーパーマン(ブランドン・ラウス)は地球に戻ってくる。

が、スーパーマンはどうでも、クラーク・ケントの5年ぶりの職場復帰は難しそうだ。でも、これは不可欠の要素だし、ロイス・レイン(ケイト・ボスワース)との絡みもなくすわけにはいかず、で、同僚のジミー・オルセン(サム・ハンティントン)がうまい具合に取りはからってくれて、とここは主要人物紹介も兼ねているからスムーズなのな。

その肝心のロイスだが、旦那になる予定のリチャード・ホワイト(ジェームズ・マースデン)という相手(編集長の甥なのだと)がいるだけでなく、子供までが……。ロイス念願のピューリッツァ賞は、スーパーマン不要論で授賞というあてつけがましさ(内容はスーパーマンに頼ってないで自立せよってなものらしいが)。

茫然としているクラークに、ロイスが取材で乗り込んでいる飛行機で、取り付けられたスペースシャトルが切り離せないまま着火(飛行機から発射されるようになっている)してしまうというニュースが飛び込んでくる。

この空中シーンは圧巻だ。事故機内部の描写(ロイスは痛い役)もふくめて、演出、編集ともに冴えわたったもので、スーパーマンの復活を十分すぎるほど印象付けてくれる。満員の観客が試合観戦中の野球場に、事故機を無事着陸させるという華々しいおまけまであって、野球場の観客ならずともこれには拍手せずにはいられない。

ただ全体としてみると、この場面が素晴らしすぎることが、皮肉にも後半の見せ場を霞ませてしまったことは否めない。ジョー=エル(昔の映像を編集したマーロン・ブランド)が息子に残したクリスタルの遺産を、レックス・ルーサー(ケヴィン・スペイシー)が利用して大西洋に新大陸をつくる(アメリカ大陸は沈没する)という、奇想天外で、だから現実味のないこけおどし的イメージが、恐怖感を生まないまま見せ物観戦的感覚で終わってしまうことになる。

第1作ではスーパーマンが地球を回転させて時間を戻すという禁じ手を使ってしまっていて、これは続篇を拒否しているようなもので、だから続篇でなく新シリーズにしてほしかったのだが、まあ、それは置いておくにしても、スーパーマンがスーパーすぎるからといって対抗策をエスカレートさせると、話が子供じみてしまうという見本だろうか。でもそうではなくって、最初の飛行機事故のような単純なものでも、見せ方次第では十分面白くなるはずなのだ。

もっとも今回は、ケヴィン・スペイシーには悪いが(存在感もあってよかったけどね)、1番の興味はロイスとの関係だ。5年も不在では(一言もなしに去ったというではないか)、新しい恋人ができてもロイスに罪はない(アメリカ社会ではよけい普通だろうから)。そうはいってもそれをそのままにスーパーマンと空を散歩するシーンをもってこられても、あまりに複雑な気分で、1作目の時のような空を飛ぶ楽しさは味わえないままだった。

リチャード・ホワイトがいいヤツだけに、これはロイスというよりはスーパーマンにもっとしっかりしてほしいところだ。なのに透視力や聴力を使ったストーカーまがいのことまでしているのではね。ロイスがこれを知って、まだ好きでいられるかしら。

私の妻は、ロイスは男を見る目があるという。なるほどリチャードの立派さは際だってるものな。が、ロイスはクラークを見ても何も感じないのだから、そうともいえない(私としては、できれば1作目で、ロイスにはスーパーマンではなくクラークに恋してほしかったのだが)。子供まで作っておいてそれはないような。これについてはスーパーマンにも一言いっておきたい。そんな関係になっていながら、まだクラークの正体を明かしていないなんて。ストーカー行為とともにこれは重大な裏切りだ、と。

ロイスの子供がスーパーマンとの間に出来た子だということがあとで判明して、なんだ、それを教えてくれていたら空の散歩ももっと楽しめたのに、とやっと胸をなでおろす。が、観客には説明できたかもしれないが、ロイスやリチャードに対しては?

それにしても5年の不在は問題を複雑にしすぎたとしかいいようがない。ルーサーの仮釈放もスーパーマンが証言に立たなかったからだっていうし。

子供にもスーパーマン的能力があることがわかって(ピアノを動かして悪人をやっつけたのは正当防衛だが、殺人をおかしたとなると)、しかしクリプトンナイトには平気……。こりゃ、スーパーマンの敵は、数作後は自分の子かぁ。むろん妄想。映画は父親から子供に静かに語りかけるという終わり方だったものね。あ、問題は山積みのままですよ。

今回、スーパーマンはクリプトンナイトをルーサーにいいように使われて、かなり痛めつけられる。リンチ状態。この演出はブライアン・シンガー好み? で、無敵なはずのスーパーマンが人間(ロイスとリチャード)に助けられるというわけだ。ロイスの「あなたを必要としている人がいる」(あれ、自分の著書を否定しちゃったぞ)という言葉にも勇気づけられて……。

でも途中でもふれたが、何しろ最後のスーパーマンの活躍は、岩盤を持ち上げて宇宙に持って行ってしまうというとんでもないものなのだが、もうハラハラもドキドキもないのよね。

  

【メモ】

クラークが投げたボールがあまりに遠くへ飛んでいってしまったため、犬が悲しそうな声を出すといういい場面がある。

ジョー=エルはすでに死んでいるとはいえ、息子以外の者に秘密を教えるのか。というか、あのクリスタルはそんなぼろいシステムなんだ。

ロイスは電力事故の調査にこだわってルーサーの船(老女を騙して遺産相続したもの)にたどり着くのだが、子供と一緒に軟禁されてしまう。

ロイスの子供の能力についてはピアノを動かしただけで、まだ謎。普段は気弱そうな男の子に見えるし。クリプトンナイトに平気なのは人間とのハーフだから?

注射針を受け付けないスーパーマンには医師団も困惑。入院にかけつけた人々の中にはマーサ・ケントの姿も。

エンドロールに「クリストファー・リーヴ夫妻に捧ぐ」と出る。

おまけ映像は、燃料切れで無人島に着陸したルーサーと愛人。「何も食べ物がない」というセリフのあとの視線は、愛人が抱きかかえている犬にむけられる。

原題:Superman Returns

2006年 154分 アメリカ サイズ:■ 日本語字幕:■

監督:ブライアン・シンガー 原案:ブライアン・シンガー、マイケル・ドハティ、ダン・ハリス 脚本:マイケル・ドハティ、ダン・ハリス 撮影:ニュートン・トーマス・サイジェル キャラクター原案:ジェリー・シーゲル、ジョー・シャスター 音楽:ジョン・オットマン テーマ音楽:ジョン・ウィリアムズ

出演:ブランドン・ラウス(スーパーマン/クラーク・ケント/カル=エル)、ケイト・ボスワース(ロイス・レイン)、ケヴィン・スペイシー(レックス・ルーサー)、ジェームズ・マースデン(リチャード・ホワイト/ロイスの婚約者)、フランク・ランジェラ(ペリー・ホワイト/「デイリー・プラネット」編集長)、サム・ハンティントン(ジミー・オルセン/ケントの同僚)、エヴァ・マリー・セイント(マーサ・ケント)、パーカー・ポージー(キティ・コワルスキー/ルーサーの愛人)、カル・ペン(スタン・フォード)、ステファン・ベンダー、マーロン・ブランド(ジョー、エル:アーカイヴ映像)

太陽

銀座シネパトス1 ★★★☆

■神にさせられてしまった人間

ロシア人監督ソクーロフによる終戦前後の昭和天皇像。上映が危惧されたらしい(天皇問題のタブー視は度がすぎている。上映側の過剰反応もあったのではないか)が、シネパトスは連日盛況で、公開してほぼ1ヶ月後の9月2日の時点でも2スクリーンでの上映にもかかわらず順番待ちの列が長く伸びていた(もっとも入館してみると6、7割の入り。それでもシネパトスにしては大ヒットだろう)。

敗戦濃厚な事態を前にしての御前会議で、天皇(イッセー尾形)は明治天皇の歌(「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」を引き合いにだして平和を説くのだが、これは日米開戦を前にしての話だったはず。こういう部分をみてもこの映画が事実にこだわるよりは、別の部分に焦点を合わせていることがわかる。

実際、その場面を取り上げたことでもわかるように、外国人の手による天皇論としては思いやりのある好意的なもの(排日移民法にまでふれている)で、ハーバート・ビックスの『昭和天皇』(この本の監修者吉田裕が映画の監修者にもなっている)のような容赦のなさ(と書くとヘンか)はない。これほどよく描いてくれている作品なのに上映をためらう空気があることがそもそもおかしいのだ。が、それが今の日本なのだが。

事実関係ならビックスに限らないが、こんな映画を観るよりはいくつも出ている研究書を読めばいいに決まっている。もっともだからといって、本当のことはなかなか見えてこないだろうが。

ソクーロフが描きたかったのは、神にさせられてしまった人間は一体どうふるまっていたのか、ということではないか。だから歴史的意味が大きいと思われる事柄であってもそれは大胆に省略し、神という名の人間の日常(むろん想像なんだが)を追うことに主眼を置いているのだろう。

映画は天皇の食事(フォークとナイフを使った洋食である)の場面からはじまるのだが、このあと沖縄戦の英語のニュースを聞いた天皇が、侍従長(佐野史郎)に「日本人は、私以外の人間はみんな死んでしまうのではないか」と話しかける。肯定も否定も畏れ多いことになってしまうことをさすがに侍従長はこころえているから「お上は天照大神の天孫であり、人間であるとは存じませぬ」と話をそらしてしまう。天皇は「私の体は君と同じ」と言うが、これ以上侍従長を困らせてもいけないと思ったのか、「冗談だ」と矛をおさめる。

続いて老僕(つじしんめい)により軍服に着替える場面。年老いた彼にとっても当然天皇は畏れ多い存在で、軍服の釦の多さに手こずり、禿頭に汗が噴き出ることになる。その汗を見ながら、汗の意味を計りかねている(楽しんでいる?)天皇。

まわりの人間がこうでは、天皇が「誰も私を愛してはいない。皇后と皇太子以外は」と嘆くのも無理はない。もっともこのセリフは当時としては日本的ではないような気がするし、西洋の神と違って戦前の天皇が愛の対象だったかどうかもまた別の問題ではある。

最初にふれた御前会議の次は、生物学研究所での天皇の様子だ。ヘイケガニの標本を前にして饒舌な天皇。そして、午睡で見る東京大空襲の悪夢。が、このあとはもうマッカーサー(ロバート・ドーソン)との会見を前にした場面へと飛んでしまう。

最初の会見こそぎこちないものだったが、カメラマンたちによる天皇撮影風景(これは有名なマッカーサーと一緒の写真でなく、庭で天皇ひとりを撮影するもの)などもあって、2度目の会見では、人間として話し行動することを「許されて」、それを楽しんでいるかのような天皇が描かれる。マッカーサーとの話はさすがに息の抜けないものになっているが、マッカーサーが席を外した時にテーブルのローソクを消したり、マッカーサーに葉巻を所望し、多分1度も経験したことのない方法(お互いに口にした葉巻でキスしあうだけのものだが)で火を付けてもらう……。

神でないことを自覚していた天皇だが、自ら宣言しなければ人間になれないことはわかっていたようで、疎開先から戻った皇后(桃井かおり)に「私はやりとげたよ。これで私たちは自由だ」とうれしそうに「人間宣言」の報告をする。ここでのやりとりは、互いに「あ、そう」を連発した楽しく微笑ましいものだ。

「あ、そう」は自分の意見を挟むことが許されず、とりあえず相手を認める手段(仕方のない時も含めて)として天皇が編み出した言葉なのだと思っていたので、こんな使われ方もあるのかとちょっとうれしくなってしまったくらいだ。

しかし、このあと天皇は、自分のした質問で「私の人間宣言を録音した若者」が自決したことを知ることになる。「でも止めたんだろ」と侍従長に訊くのだが、「いえ」という返事がかえってくるだけである。天皇は返す言葉が見つからないのか、皇后の手を引いて皇太子の待つ大広間へと向かう。

大東亜戦争終結ノ詔書の玉音放送の他に、人間宣言の録音があったとは。が、そのことより(最初に書いたように、映画は必ずしも事実に忠実であろうとはしていないから)ここで大切なのは、天皇が自分の人間宣言によって起こりうる事態を予想していたということではないだろうか。

これは、自分の下した決断がまた別の悲劇を起こさざるをえない、つまりはっきり神でない(これはわかってたのでした)ことを悟らざるをえない男の、しかし普通の人間にもなれず自由を手に入れることが出来なかった男の話なのだよ、と駄目押しで言っているのではないか。人間宣言をしても普通の人間になれなかったことは日本人なら誰でも知っていることだが、外国人にとってはこのくらい言い聞かせないとわかりにくいのかもしれない(でないとこの場面はよくわからない)。

しかし私としては、事実からは少し離れた人間としての天皇を考えるにしても、彼自身の運命のことよりも、天皇の目に大東亜戦争がどのように映っていたかが知りたいのだが。この映画の東京大空襲の悪夢が、悪夢ではあっても美しい悪夢であったように、天皇には本当の東京大空襲の姿は見えていなかったのではないか。会見に行く前に空襲の跡が生々しい街の様子が出てくるが、彼がそれを見たのは、もしかしたらその時がはじめてだったのではないか。

そのことで天皇の非をあげつらうつもりはない。でもそうであるのなら、やはり彼は孤独で悲しい人だったのだ。天皇制(象徴天皇制はさらに悪い)は、何より天皇の人間性を抹殺するものだからだ。

最後は雲におおわれた東京(という感じはしないが)を上空から捉えたもので、薄日の中に廃墟の街並が見え、右下には鳩が飛んでいる画面がエンドロールとなる。太陽はまだはっきりとは見えないということだろうか。

ロシア人の脚本に沿って、日本人が日本語で演じるというシステムがどう機能したのかは、あるいは構築していったのか(セリフも特殊用語だし)という興味もあって、語るにこと欠かない映画だが、何より、イッセー尾形の奇跡のような昭和天皇は、やはり感嘆せずにはいられない。

そして、出来ることなら日本人の手でもっと多くの天皇を扱った映画ができることを。

  

【メモ】

私が観た映画は英題表示(The Sun)のもの。

シネパトスのある三原橋は、銀座にしては昭和30年代の雰囲気がまだ残っている所。地球座や名画座時代であれば、防空壕の中というイメージで鑑賞できたはずだが、3年前の改装でずいぶん明るくなってしまった。もっとも地下鉄の騒音は消せるはずもなく、しっかり効果音の一部となっていた。そして、この映画にはそれがぴったりだったようだ。

「皆々を思うが故にこの戦争を止めることができない」

「ローマ法王は何故返事をくれないのかな」「手紙は止まっておりますよ」「ま、よかろう」

「神はこの堕落した世界では、日本語だけでお話しできるのです」

マッカーサーから送られたチョコレート。

極光についての問答。光そのものが疑わしいのです。

「闇に包まれた国民の前に太陽はやってくるだろうか」

原題:The Sun(Solnise/le Soleil)

2005年 115分 ロシア/イタリア/フランス/スイス 配給:スローラーナー サイズ:■ 日本語字幕:田中武人

監督・撮影監督:アレクサンドル・ソクーロフ 脚本:ユーリー・アラボフ 衣装デザイン:リディア・クルコワ 編集:セルゲイ・イワノフ 音楽:アンドレイ・シグレ
 
出演:イッセー尾形(昭和天皇)、佐野史郎(侍従長)、桃井かおり(香淳皇后)、つじしんめい(老僕)、ロバート・ドーソン(マッカーサー将軍)、田村泰二郎(研究所所長)、ゲオルギイ・ピツケラウリ(マッカーサー将軍の副官)、守田比呂也(鈴木貫太郎総理大臣)、西沢利明(米内光政海軍大臣)、六平直政(阿南惟幾陸軍大臣)、戸沢佑介(木戸幸一内大臣)、草薙幸二郎(東郷茂徳外務大臣)、津野哲郎(梅津美治郎陸軍大将)、阿部六郎(豊田貞次郎海軍大将)、灰地順(安倍源基内務大臣)、伊藤幸純(平沼騏一郎枢密院議長)、品川徹(迫水久常書記官長)

時をかける少女

テアトル新宿 ★★★☆

■リセットで大切なものがなくなって

3度目の映画化らしいが、この作品は原作を踏まえたオリジナルストーリーで『時をかける少女2』という位置づけのようだ。というのもそもそものヒロイン芳山和子が、この映画のヒロインである紺野真琴の叔母という設定だからだ。

真琴は東京の下町に住むごくごく普通の高校2年生。クラスメートの間宮千昭と津田功介とめちゃ仲がよくて、3人で野球の真似事をする毎日。って普通じゃないような。男友達が1番の親友なのは真琴のさっぱりした性格と、友達から恋に発展する過程に絶好の設定と思ったのだろうが、今時の高校生という感じが私にはしないんだけど。

ま、それはともかく、真琴は夏休み前の踏切事故で自分にタイムリープの能力があることを知る(能力を手に入れたのは学校の理科室なのだが、まだこの時にはそのことはわかっていない)。そしてその力を真琴はおもちゃで遊ぶように使ってしまう。自分の都合の悪いことが起きると、その少し前に戻ってリセットしてしまうわけだ。

真琴の安易な発想が『サマータイムマシン・ブルース』(05)的なのには笑ってしまうが、この小さなタイムリープの繰り返しは、私たちが何気なく過ごしてしまう日常に、多くの反省点が潜んでいるということを教えてくれる。反省点と言うと大げさだが、見落としていることが多いのは確かで、真面目くさってやり直しを続ける真琴に馬鹿笑いしながらも、そんなことを感じていたのだ。

であるからして、見落としたことが沢山あるにしても、くれぐれもプリンを取り戻すようなことには使わないように。そう、真琴も「いい目をみている自分」がいることで「悪い目をみている人」が出来てしまうことに気が付くのだ。

そんなタイムリープ乱用中の真琴に、千昭から告白されるという思わぬ展開がやってくる。狼狽のあまりタイムリープで告白自体をなかったことにしてしまうのだが、そこ(新たに現れた過去)では今度、千昭に同級生の早川友梨が告白し、千昭もまんざらではない様子なのだ。好きだと言われたばかりの真琴は複雑な気分だ。ボランティア部の下級生藤谷果穂からは功介に対する相談まで受けて……。

リセットで大切なものをなくしてしまったことに思い至る真琴だが、実はタイムリープも限界に近づいていて(体にチャージして使用する)、どうやら腕に出てくるサインが本当なら、あと1度しか使えないらしいのだ。

このあと千昭が未来人で、和子叔母さんが修復している絵を見にここ(現在)にやってきたことなど、いろいろな謎が解き明かされていく。千昭にも残されたタイムリープはあと1度で、でもそれは自分の帰還にではなく、功介と果穂を助けるために使われることになる。そして真琴に残された1度のタイムリープは……。

千昭との別れは必然であるようだが、でも自分勝手な私はそう潔くはなれない。「未来で待ってる」「うん、すぐに行く。走って行く」でいいのかよ、って。いいラストなんだけどね。

で、やっぱり気になってしまうのは、「魔女おばさん」(真琴がそう呼んでいる)の和子だろう。博物館で絵画の修復の仕事をしている30代後半の未婚の女性という設定だと、まだ何かを待っているということになるが(ということは真琴も?)。

それにしては、真琴から相談を受けても落ち着いたものだ。タイムリープを「年頃の女の子にはよくあること」にしてしまうし、「よかった。たいしたことには使っていないみたいだから」と野放しにしていても平然としている。真琴を信頼しているにしても、この達観はどこから来ているのだろう。落ち着いてる場合じゃないよ。だって自分のことにも使えるかもしれないし、とにかくもっといろいろ聞き出したくなるが、ほじくり出してしまっては収拾がつかなくなってしまって、やはりまずいのかも。ここは単なる原作や前作へのリスペクトとわきまえておくべきなのだろう。

タイムマシンものはどうしても謎がつきまとって、これをやりだすとキリがないが、この映画で描かれるタイムリープは、過去に戻っても自分と遭遇することはない。つまりそこにいるのは未来の記憶を持った(その分だけ余計に生きた)自分のようだ。うーむ。これは考え出すと困ったことになるのだが、ということは真琴も千昭も互いにタイムリープしていると、どんどん違う世界を作り出していって、結局は自分の概念の中にしか住めない狭量な世界観の持ち主ってことになってしまうんでは。ま、いっか。

   

【メモ】

学校の黒板にあった文字。Time waits from no one.

津田功介は幼なじみで、医学部志望の秀才。千昭は春からの転校生。

「真琴、俺と付き合えば。俺、そんなに顔も悪くないだろ」(千昭)。

「世界が終わろうとした時に、どうしてこんな絵が描けたのかしらね」(修復した絵を前にして和子が言う)。

絵は千昭によると、この時代だけにあるという。絵が失われてしまうような希望のない未来。

「お前、タイムリープしていない?」千昭は、真琴のタイムリープに気付く。何故? これは不可能なのでは。千昭の説明だとタイムリープの存在を明かしてはいけないことになっているが?

腕に表れるサイン。90。50。01。

「人が大事なことをはなしているのに、なかったことにしちゃったの」と千昭の告白をリセットしてしまったことを後悔する真琴。

「(絵が)千昭の時代に残っているように、なんとかしてみる」(真琴)。

2006年 100分 配給:角川ヘラルド映画 製作会社:角川書店、マッドハウス

監督:細田守 脚本:奥寺佐渡子 原作:筒井康隆『時をかける少女』 美術監督:山本二三 音楽:吉田潔 キャラクターデザイン:貞本義行 制作:マッドハウス

声の出演:仲里依紗(紺野真琴)、 石田卓也(間宮千昭)、板倉光隆(津田功介)、 原沙知絵(芳山和子)、谷村美月(藤谷果穂)、 垣内彩未(早川友梨)、 関戸優希(紺野美雪)

M:i:III

TOHOシネマズ錦糸町-8 ★★★☆

■感情剥き出し男対冷眼冷徹冷酷男

娯楽アクション超大作の名に恥じぬデキで、目一杯楽しめる。トム・クルーズが爆風で車に叩きつけられる場面など、予告篇でいやというほど観ているのに、流れの中で観てまた感心してしまったくらいだ。

スパイは卒業して教官となり、ジュリア(ミシェル・モナハン)との結婚も控えているイーサン・ハント(トム・クルーズ)だが、教え子リンジー(ケリー・ラッセル)の救出に乗り出したことで、とんでもない事件に巻き込まれていく。教え子の死。黒幕デイヴィアン(フィリップ・シーモア・ホフマン)の捕獲に、彼の逃亡。その瞬間、魔の手はジュリアに伸びる。彼女が捕らえられたことで、ハントには「ラビットフット」という謎の兵器を取り戻すという新たなミッション(脅迫)が与えられることになってしまう。

ハラハラドキドキのまま突っ走るが、さすがに最後の方では息切れしたのか、あれっという感じの終わり方に。で、冷静になって考えるとやはりアラが見えてくる。十分楽しんでおいてアラ探しちゅーのもなんだけど。

まずどうしても気になってしまうのが、一番の大仕掛けである橋の上の場面。デイヴィアンの救出に、小型ジェットやヘリがロケット弾で攻撃してくるのはさすが国際的な武器商人と思わせるが、しかし米国内でこんなことが可能なのか。

ここまで派手に暴れて米軍がこれを見落としたのなら、それは裏(それも相当上層部とのつながりでないと)があるってことになるし、それを考えないハントも能なしになってしまう。でもこれでIMFの組織内の裏切りがわかってしまうのでは、それもへんてこだ。そのために組織内裏切り(これも最近では鼻に付いてきたものな)にはもうひとひねりが用意されているのだろうけどね。でもやっぱりこれとは関係ないよね。

次はお得意のマスクのトリックで、今回はマスク製造器まで登場させているのは楽しくていいのだが、このトリックをデイヴィアンがハントを痛めつけるのに使う(冒頭の場面)っていうのはどうなんだろう。IMFだけでなく悪役までがこれを自在に使えるのでは、もうどんな話でも作れそうだ。それに付け加えるならば、デイヴィアンがハントの結婚相手のジュリアに身代わりを立てる必要はなにもないはずだ。

そのジュリアだが、はじめて銃を持たされてあの活躍はねぇ。ハントが頭に埋め込まれた爆弾の回路を電気ショックで切り、ショック死した彼を蘇生させるという荒技までやってのける(彼女は看護士なんでした)。まあ、大甘でこれも見逃して、でも最後にIMFの本部で組織の連中と彼女が打ちとけているというのは? 「スパイ大作戦」はあくまで謎の組織が、その指令テープまで一々消去していたと記憶していましたが。こんなにオープンな組織だったとは。だったらいっそジュリアも仲間だったというオチにすれば……ってそれじゃああんまりか。

最初に最後があれれと書いたのは、この他にハントが仲間と別れ、武器も携帯1つになっていくのに合わせるかのように(でも最後までチームプレーは強調されていた)、デイヴィアン側も人数が手薄になっていくことで、自分の救出劇にあれだけの物量をぶつけてきたデイヴィアンとはとても思えないのだな。

ベルリン、ヴァチカン、ヴァージニアと快調に飛ばしてきて、上海篇は少しふざけすぎなのよ。ビルに野球のピッチングマシーンでボールを投げるのも、ハントの走りも。この走りは正当派故にその挙動がかえっておかしいのだ(ジャンプもオリンピック選手のようだった)。あと、これははじめの方のパーティ場面に戻るが、ハントが唇を読んじゃって。ありゃ、怖いよ。会話への割り込みも含めて、あんなことしてるようじゃ結婚解消と思うが。で(また最後に)、最後に愛は勝つじゃあ、って笑っちゃ悪いか。

この『M:i:III』では、ハントが特に感情剥き出しでスパイらしくないのが見物(そこが欠点でもあり面白さでもあるのだが)。何しろミッションはリンジーやジュリアがらみで、つまりなにより彼自身のミッションに他ならない。だからその延長線上で、デイヴィアンに対する怒りが爆発し、飛行機の中での度を超した脅かしとなる。が、デイヴィアンはまったく動ぜず、逆にハントの運命を予言する。

このデイヴィアンの造形もなかなかだが、裏切り上司マスグレーブ(ビリー・クラダップ)の言い分がふるっていた。彼も国益と民主主義のために働いているらしいのだ。武器商人を泳がせることでテロ国家を攻撃する口実を作ると言うのだけど、屁理屈もここまでくると……って案外現実に近いか。米国が今やっていることだものね。

ところでこの映画で私が一番心を惹かれたのは、ハントとリンジーの関係だ。リンジーがハントにお礼をいう映像には胸が熱くなった。けれど、ああいう場面を見ると同僚のヴィング・レイムス(ルーサー)ではないが、「寝たのか?」と聞きたくなってしまう。ハントの答えは「彼女は妹のようだった」というもの。いや、そうでしょうとも。だってジュリアと結婚しようとしているんだから。でもね。教え子は女性でなくてもよかったような?  でないと私のような下品な人間は、あらぬことを考えてしまいますがな。

 

【メモ】

「ラビットフット」とは一体何? 正体を明かさなくても十分物語は成り立つし、そういう演出もありなんだが。でも例えば生物兵器よ、と言われたら……あ、そう、で終わりか。

これも演出方法の問題だが、上海のビルに潜入したと思ったらハントは「ラビットフット」をもう手にしていた。侵入が今までは見せ場だったのにね。

ローレンス・フィッシュバーンは、最初の疑惑の上司ブラッセル役。堂々としていてさすがだ。

原題: Mission: Impossible III

2006年 126分 アメリカ 日本語字幕:戸田奈津子

監督:J・J・エイブラムス、脚本:J・J・エイブラムス、アレックス・カーツマン、ロベルト・オーチー、原作:ブルース・ゲラー、撮影:ダニエル・ミンデル、音楽:マイケル・ジアッキノ、テーマ音楽:ラロ・シフリン

出演:トム・クルーズ(イーサン・ハント)、フィリップ・シーモア・ホフマン(オーウェン・デイヴィアン)、ミシェル・モナハン(ジュリア)、ケリー・ラッセル(リンジー)、ヴィング・レイムス(ルーサー)、ローレンス・フィッシュバーン(ブラッセル)、サイモン・ペッグ(ベンジー)、ビリー・クラダップ(マスグレーブ)、マギー・Q(ゼーン)、ジョナサン・リス=マイヤーズ(デクラン)

ある子供

早稲田松竹 ★★★☆

■子供が親になりまして……

20歳のブリュノはいい加減なヤツだ。まだ小学生か中学生くらいのスティーヴたちを使って盗みを働いてのその日暮らし。18歳のソニアが妊娠して入院すれば、同居していた彼女のアパートは貸してしまうし(映画は出産してアパートにソニアが帰ってくる場面から始まる。この導入部はよく考えられている)、生まれてきた子供にも関心がなさそうだ(わかるけどね)。彼女にも「(入院中に)見舞いにも来てくれないし」となじられていた。

一体ソニアはブリュノのどこを好きになったのだろう。ふたりが子犬のようにじゃれあう姿はあまりに無邪気すぎて、うらやましく思う反面、やはり子供の親としては心もとなくて心配になるばかりだ。

それでもソニアには子供を産んだ母親としての自覚がはっきりと芽生えているから救われる。ブリュノにはちゃんとした職に就いて欲しいのだが、ブリュノは「クズ共とは働けない」とどこまでもお気楽で、職安の列にも並びたがらない。

ソニアが代わりに列に並び、子供の乳母車をブリュノがひくことになるのだが、ひとりになった途端、盗品の売りさばき先(闇ルート)で子供が高く売れる話を思い出し、それこそ思いつきのように話をまとめ、売ってしまう。ここはあれよあれよという間に話が進み、すぐにお膳立てされた場所で子供とお金が交換されていく。

映画は、前編ドキュメンタリーのような作りで、だからこの場面は怖い。『息子のまなざし』と手法は似ているがカメラの位置は多少引き気味で、多少は余裕をもって画面を追えるからあそこまでの息苦しさはないのだが、淡々と取引が進行することが緊迫感を生み出すのは同じだ。

悪びれた様子もなくお金を見せるブリュノにソニアは卒倒し、病院に運び込まれる騒ぎとなる。

ブリュノにソニアの反応が予想できなかったのにはあきれるが、なるほど「ある子供」とはやはり彼のことだったのだ。靴の泥で壁を汚し、その印がどのくらい高くまでつけられるかというひとり遊びに興じていたが、あれはまぎれもなく彼の、そのままの姿だったわけだ。20歳にしてはあまりに幼くて、後になって警官に「俺の子じゃない」とか「浮気したいからムショに送る気だ」とソニアを非難する嘘の言い逃れをしたり、一転ソニアに泣きつき金をせびるあたりでは、観ているのがつらくなるほどだ。

話が前後するが、ソニアに訴えられるかもしれないと思ったブリュノは売ったばかりの子供を引き取ることにする。売った時と同じような手順がここでまた繰り返されるのだが、普通の劇映画のような省略や緩急をつけた演出ではないから、ある部分ではいらつくような流れになるのだが、それがまた心理的な効果を増幅し静かな怖さを呼び戻す。

子供の買い戻しはあっさりできたものの、ブリュノは儲け損なった闇ルートの一味に身ぐるみはがれ、多額の借金を負うことになる。そして、スティーヴを使ってのひったくり。そして、金は奪ったもののこれが失敗してブリュノはムショ送りとなる。

ブリュノはやることは子供で何の考えもないのだが、ある部分では憎めないところがあるのも確かだ。言われれば子供の認知もするし、仲間うちでのルール(盗みの配分)もきっちり守っている。自分のせいで冷たい川に入ったスティーヴを必死で介抱するし、スティーヴが捕まれば自分が首謀者であると名乗り出る(もっともこれには闇ルートからの追求には逃れられそうもないということもあるだろう)。

ソニアはブリュノのそういった部分を好きになったのだろう。だから最後は彼女が服務中のブリュノに面会するという感動的な場面になる。ここではじめてブリュノは息子のジミーの名を自分から口にする。

だけどねー、意地悪な見方をすればここでもブリュノはまだまだ子供なのではないか。若年層の失業率が20%というベルギーの状況をふまえての映画ということでは意味があるのかもしれないが、ブリュノがまだ善悪を知らない子供として描かれている、つまりは最初から救いはあったという観点からいうと、すごく甘い映画にしかみえないのだ。

【メモ】

育児センターの職員が、子供の様子を見にくる。

先のことなど何も考えず、余ったお金でソニアに自分とお揃いの皮ジャンを買う。

じゃれ合うのはソニアからも。飲みかけの飲料をブリュノにふりかけて、追い駆けっこを始めるふたり。

「子供は売った。またできるさ」。このセリフのあとにソニアが卒倒するのだが、卒倒場面は『息子のまなざし』でも出てきた。卒倒好きなのね。でもこちらの方が自然だ。

ブリュノが子供を取り戻して病院に戻るとソニアは警察を呼んでいた。ここで浮気発言になるのだが、子供は(自分の)母親に預けていた、という嘘もつく。このあと母親に口裏を合わせてもらいに母のアパートを訪ねるのだが、母は見知らぬ男と一緒にいる。

往来の激しい車道を主人公たちは何度か横断する。単純だがこれが不安感を煽る。子供を抱いて渡る場面では実際はらはらしてしまった。

最後はまた無音のエンドロール。

原題:L’Enfant2005年 95分 ビスタサイズ ベルギー、フランス PG-12 日本語字幕:寺尾次郎

監督・脚本:リュック&ジャン=ピエール・ダルデンヌ 撮影監督:アラン・マルコァン、カメラマン:ブノワ・デルヴォー カメラ・アシスタント:イシャム・アラウィエ 録音:ジャン=ピエール・デュレ 編集:マリー=エレーヌ・ドゾ 美術:イゴール・ガブリエル

出演:ジェレミー・レニエ(ブリュノ)、デボラ・フランソワ(ソニア)、ジェレミー・スガール(スティーヴ)、ファブリツィオ・ロンジョーネ(若いチンピラ)、オリヴィエ・グルメ(私服の刑事)、ステファーヌ・ビソ(盗品を買う女)、ミレーユ・バイ(ブリュノの母)

グッドナイト&グッドラック 

シャンテシネ2 ★★★☆

■テレビに矜恃のあった時代

ジョセフ・マッカーシー上院議員による赤狩りはいくつか映画にもなっているし、最低限のことは知っているつもりでいたが、マッカーシー批判の口火を切ったのが、この映画に描かれるエド・マローがホストを勤めていたドキュメンタリー番組の「See it Now」だったということは初耳。じゃないかも。なにしろ私の記憶力はぼろぼろだから。が、番組の内容にまで言及したものに接したのは、間違いなく初めてだ。

最近では珍しいモノクロ画面に、舞台となるのがほとんどCBS(3大テレビ・ネットワークの1つ)の局内という、一見、まったく地味な映画。せいぜい出来てジャズの歌を度々流すことくらいだから。

カメラが制作室を飛び交い緊迫した画面を演出することもあるが、観客が緊張するのは、静かに正面切ってエド・マロー(デヴィッド・ストラザーン)を捉えるシーンだ。今からだと考えにくいが、この静かに語りかけるスタイルが、テレビで放映される内容そのものなのである。当時のテレビが録画ではなくリアルタイムの進行であることが緊張感を高める一因にもなっているのだが、こういう番組製作の興味も含めて実にスリリングな画面に仕上がっている。

監督でもあるジョージ・クルーニーは、フレッド・フレンドリーというプロデューサー役。マローと共に3000ドルの宣伝費を自分たちで負担してまで番組を放映しようとする。が、彼も地味な役柄だ。声高になるでなく、信念に基づいて粛々と事を進めていく。『シリアナ』への出演といい、クルーニーは、ブッシュ政権下のアメリカに相当危機感を持っているとみた。テレビで、アメリカは自国の自由をないがしろにしていては世界の自由の旗手にはなれない、というようなことをマローは言う。

もっともマッカーシー議員側の報復は、彼を当時の映像ですべてをまかなったこともあって、冷静なマローたちの敵としては見劣りがしてしまう。というか、映画を観ていて実はその程度のものだったのかもしれない、という気にすっかりなってしまったのだ。50年以上という時の流れがあるにしろ、マッカーシーが熱弁をふるう実写はどう見ても異様にしか思えない。それなのに、あれだけ猛威をふるっていたのだ……。

CBS会長のペイリーとの対決(いたって紳士的なものだが、こちらの方が裏がありそうで怖かった)やキャスター仲間の自殺(事情を知らないこともありわかりにくい)などを織り込みながら、しかし事態は、ニューヨーク・タイムズ紙の援護などもあって、急速に終息へと向かう。

このあたりが物足りないのは、先に触れたように、マッカーシズムが実体としては大したものではなかったということがあるだろう。問題なのは、そういう風潮に押し流されたり片棒を担いでしまうことで、だからこそマローたちのようであらねばならぬとクルーニーは警鐘を鳴らしているのだ。

勝利(とは位置づけていなかったかもしれないが)は手中にしたものの、娯楽番組には勝てず、テレビの中でのマローの地位は下がっていく。締めくくりは彼のテレビ論で、使うものの自覚が必要なテレビはただの箱だと、もうおなじみになった淡々とした口調で言う。ただの箱論はPCについても散々言われてきたことで、マローのは製作者側への警告もしくは自戒と思われるが、出典はもしかしてこれだったとか。

話はそれるが、この映画でのタバコの消費量たるや、ものすごいものがあった。番組内でさえマローが吸っていたのは、スポンサーがタバコ会社だからというわけでもなさそうだ。「この部屋すら恐怖に支配されている」というセリフがあったが、タバコの煙にも支配されてたもの。タバコのCMをまるごと映していたのはもちろん批判だろうけど、あー煙ったい。

ということで、「グッドナイト、グッドラック」。私が言うと様になりませんが。

  

原題:Good Night, and Good Luck

2005年 93分 アメリカ 日本語版字幕:■

監督:ジョージ・クルーニー 脚本:ジョージ・クルーニー、グラント・ヘスロヴ

出演:デヴィッド・ストラザーン、ジョージ・クルーニー、ロバート・ダウニー・Jr、パトリシア・クラークソン、レイ・ワイズ、フランク・ランジェラ、ジェフ・ダニエルズ

アンダーワールド エボリューション

TOHOシネマズ錦糸町-8 ★★★☆

■続篇の進化は予算以上

物語は前作のすぐあとを引き継いだ展開になっているから、この間観たばかりの私には非常に好都合。公開時期でいうと2年半ほど空いたことになるが、監督も同じだから作品の感触は変わらない。なにより前作同様の迫力の画面には圧倒される。

前作はセリーン(ケイト・ベッキンセール)の自分探し話だったが、ここでもそれは同じで、ヴァンパイア族とライカン族の誕生までが明らかにされるのだが、その鍵を握っているのも彼女だったのだ。

前提だけでも特殊なのに相変わらず凝った話で、咀嚼している余裕がないのが難点だ。この2作で3作分はゆうにある。詰め込みすぎなんだが、血を飲むことで記憶まで取り込んでしまうというアイデアもあって、画面上でのテンポは申し分ない。

もっとも元祖不死者のコルヴィナス卿(デレク・ジャコビ)の扱いなどは、唐突な感じがしなくもない。彼が重要な役回りを担ったことで、異端者の親子愛や兄弟愛という側面まで出てくるのだが、個人的には人間にはありえないような異端者としての価値観でもみせてもらいたいところだ。

アクションシーンで大活躍のマイケル(スコット・スピードマン)だが、それにしては存在感が薄い。それじゃああんまりだからってセリーンとの恋もあるのかもしれないが、この作品にベッドシーンはいらないよねー。監督はケイトと結婚したら見せびらかしたくなっちゃったとか? 変身した者同士のベッドシーンを用意するくらいのこだわりがあればまた別なんだけどね。

ヴァンパイア族の始祖マーカス(トニー・カラン)は前作の敵ビクター以上の肉体を持つ。さらにマーカスの兄弟で、凶暴さ故に牢獄に監禁されていた最初のライカンであるウィリアムまでが甦る。セリーンもマイケルもさらなる混血を経て、力を得る(ここらへん適当に納得するしかないのな)ので、戦いは壮絶なものになる。

銃弾を浴びても致命傷にならない馬鹿馬鹿しさが、逆に意外なほど面白いアクションシーンになっている。残酷なシーンが次から次ぎに出てくるのだが、ヘンな暗さがないのは救いだ。

墜落したヘリコプターがらみのアクション(これはアイデアもいい)など、予算面でもスケールアップもされているみたいなのに、とっておき?のウィリアムスまで殺してしまったら次回作はどうなるんだ!って、今度は予告していないから、お終い? だったら、ちょっと残念だ。

原題:Underworld Evolution

2006年 106分 アメリカ ●サイズ 配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント R-15 日本語字幕:●

監督:レン・ワイズマン 製作:ゲイリー・ルチェッシ、トム・ローゼンバーグ、リチャード・ライト 製作総指揮:デヴィッド・コートスワース、ダニー・マクブライド、ジェームズ・マクウェイド、スキップ・ウィリアムソン 原案:レン・ワイズマン、ダニー・マクブライド 脚本:ダニー・マクブライド 撮影:サイモン・ダガン プロダクションデザイン:パトリック・タトポロス 衣装デザイン:ウェンディ・パートリッジ 編集:ニコラス・デ・トス 音楽:マルコ・ベルトラミ

出演:ケイト・ベッキンセイル(セリーン)、スコット・スピードマン(マイケル)、トニー・カラン(マーカス)、ビル・ナイ(ビクター)、シェーン・ブローリー(クレイヴン)、デレク・ジャコビ、スティーヴン・マッキントッシュ、マイケル・シーン、ソフィア・マイルズ(エリカ)、ジータ・ゴロッグ、リック・セトロン