リトル・ランナー

早稲田松竹 ★★☆

■悪ガキが奇跡を信じるとき

父が戦死していない14歳のラルフ(アダム・プッシャー)は、母親のエマ・ウォーカー(ショーナ・マクドナルド)と2人暮らしだ。母の入院で施設送りの危機となるが、祖母の手紙を親友のチェスターに偽造してもらってしのぐ。そんなこともへいちゃらな彼はいたって脳天気。性への興味は人一倍だし、校則破りの常習犯として校長のフィッツバトリック神父(ゴードン・ピンセント)に目をつけられている有様だ。

はじめのうちは、少年の性の目覚めが主題かと思われるような内容が続く。が、母が昏睡状態に陥ってからはラルフも、性的好奇心はなくならないようだが、少しは心変わりしたかのようだ。だからって状況は変わらない。看護婦のアリス(ジェニファー・ティリー)からは「医師によれば、奇跡でも起きない限り目覚めることはない」のだと言われてしまう。

ところが、罰で校長に入部させられたクロスカントリー部で、コーチのヒバート神父(キャンベル・スコット)が「君たちがボストンマラソンで優勝したら奇跡だ」と語るのを聞き、ラルフは自分が奇跡を起こせば母を助けられると思い込み、猛練習をはじめる。

奇跡の連鎖反応とは辻褄の合わない話だか、こういう考え方をしてしまう気持ちはわからなくはない。ただ映画は、この奇跡問題をあくまで宗教の奇跡と対比する。そして50年代のカトリック学校という設定だから、フィッツバトリック神父のように厳格で融通のきかない校長がいてもおかしくなさそうなのだ。

校長にとっては「神の僕が奇跡を追い求めるのは神への冒涜」でしかないのだが、宗教のわからない人間にとっては、この映画こそが(校長が考えるような)神への冒涜と揶揄に満ちているようにみえる。でも、だったら映画の章分けに聖人歴を使っているのにはどういう意味があるのだろう(この時点で私などお手上げと思ったものね)。

はじめはチェスターとクレア(タマラ・ホープ)だけがたよりのめちゃくちゃな訓練だったが、アリスはウェイト・トレーニングを取り入れるよう助言してくれるし、ヒバート神父もコーチを買って出てくれることになった。ペース配分ができず散々だった地元(カナダ)のレースにも優勝し、ついにボストンマラソンを走る日がやってくる(途中でラルフが過失から出火し家を失ってしまうエピソードもあった)。

チェスターは実況放送のために放送室を占拠。友達は応援し、クレアは祈る。アリスは母にラジオを聞かせる。偽造手紙を見破ったこともありボストンで走ったら退学と脅かしていた校長までが、ラルフの走りに夢中になる。

ラルフは沿道の人の中に神の姿を見、声援をはっきり聞き、必死に走る(しかし何で神がサンタの姿なんだ。その人にとって一番わかりやすい形で現れてくれたのかしらね。そういえば、彼が走ることを決めたのもサンタによる啓示だった)。まわりのみんなを巻き込み、奇跡を起こそうとするそのことが奇跡に値するということなのだろう。原題がSaint Ralphなのはそれでなのか(だからって納得はしていないが)。優勝できなくても、優勝が奇跡というのなら奇跡は起こらなくても、母は目覚めるのだし。

話はそれるが、次のは最近の私の説。奇跡は、猫が眠るようにありふれて起きる。ただそれに気付くことは少ない。そして、気付くことこそに意味がある。以上。

ところで、この映画ではヒバート神父がカナダ代表の元オリンピック選手だったり、ラルフが準優勝するのは53回ボストンマラソンということだが、どこまでが本当なんだろうか?

 

【メモ】

1953年、カナダ・ハミルトンのカトリック学校。

プールの更衣室事件。ロープ登り事件。

最初の10マイルレースは完走がやっと。

チェスター「ボストンマラソンに出場すれば、校長を最高に怒らせることができる。それに、君なら優勝できるよ」

校長は、ラルフだけでなくヒバートにも修道会からの追放を匂わせる。

ヒバート神父(ニーチェが愛読書?)「どんな選手も、32キロを過ぎると祈り出す」

原題:Saint Ralph

2004年 98分 ビスタサイズ カナダ 日本語字幕:■

監督、脚本:マイケル・マッゴーワン、撮影:ルネ・オーハシ、美術:マシュー・デイヴィス、音楽:アンドリュー・ロッキングトン

出演:アダム・プッシャー(ラルフ・ウォーカー)、キャンベル・スコット(ヒバート神父)、ジェニファー・ティリー(アリス看護婦)、ゴードン・ピンセント(フィッツパトリック神父)、タマラ・ホープ(クレア・コリンズ)、ショーナ・マクドナルド(エマ・ウォーカー)

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